玄朝秘史  第三部 第四十四回  1.帰還  冀州に出張っていた白眉討伐軍の洛陽への帰還は実に素早いものであった。  曹操の親征であること、冀州における決戦が短時間で鮮やかに終わったこと、荊州の連合軍とは異なり魏軍としての一体感があったこと、都との距離が近いこと、全て考え合わせても異例の早さである。なにしろ、荊州の三国の軍が陣払いをした二日後には、華琳たち中枢指揮官たちの姿は洛陽の城門の前にあったのだから。 「あやー、これはこれは」  馬に揺られ、こっくりこっくり船を漕いでいた風が、なにに刺激されたか、あるいは最初から狸寝入りだったか、ぱちりと目を開け、眼前に迫る門を見上げてそんな声をあげた。  膨大な数の捕虜を得、それを管理するために兵士の大半を河水南岸に置いてきたこともあって、彼女たちについている兵の数は少ない。しかし、華琳の側近く仕える兵である。精鋭の名に恥じぬつわものたちだ。その兵たちの間にも緊張が走っている。彼らもまた風と同じものを見ているために。  すなわち、洛陽の大門に残る真新しい焦げ痕を。 「急がせて正解だったようですね」  くいと眼鏡を持ち上げてその瞳を隠すのは稟。冀州で着ていた美しい衣装をいまは脱ぎ、普段の姿に戻っていた。 「私の予想よりは随分おとなしいけれどね。はじめて私たちが入洛した時なんて……もうひどい有様だったものよ」  ひょこひょこと頭巾の猫耳を動かしながらすました顔で言うのは桂花。稟はその台詞に苦笑した。 「それは反董卓連合の後の事でしょう。いまとは時代が違いすぎませんか」 「あら、私はただ……」  軍師たちのじゃれるような言い合いに、涼やかな声が割り入る。 「はいはい。そのあたりにしておきなさい。上に立つ者の口数が多すぎても人は不安に思うものよ」  主の言葉に、稟は一礼して黙し、桂花も慌てたように口を引き結ぶ。華琳はその様子に笑みをこぼしながら、傍らの少女に目をやった。 「季衣。宮城までの道を確保なさい。騒がれるのは避けておきたいわ」 「はーい、わっかりましたー!」  親衛隊長でもある赤毛の少女は、部下を連れて駆け出す。その背中を眺めつつ、金髪の女性は小さく首を傾げた。 「あら、季衣ったら、服が……? 大きくなっているのね」  目を細め、少女の成長を喜んだ後で、彼女はその進む先を見つめる。門から覗く洛陽の町並みは、見慣れたものではなかった。兵がそこここに立ち、各所で崩れた家や建物の修復に走り回っている者が多数見受けられる。 「ふうん」  大陸の覇者たる王は、再び目を細めた。先程とは明らかに違う感情を乗せて。 「失火?」 「はい。失火です。そういうことにしております」  洛陽の守将、怜悧な美貌を持つ智将、夏侯淵は主の前で跪き、そう返した。 「たしかにだいぶ燃えていたようだけど」  炊き出しの列を整理する声や大工たちの鎚音が響く城下を抜け、宮城に至った一同は、さらに驚かされることになった。  宮中の建物は三つに一つが焼け焦げている有様であった。全焼したものこそないものの、屋根の一部が落ちていたり、門が焼失していたりした。 「最初から説明してもらいましょう。ほら、秋蘭も座って」  華琳が促して、三軍師と秋蘭は彼女を囲んで卓に着く。季衣は兵と捕虜の受け入れのために兵営に向かっていた。 「事前にそちらにも早馬を走らせましたが、白眉は冀州、洛陽、荊州でのほぼ同時期の蜂起を決行したようです。ここ洛陽では宮中及び城下にて一斉に白眉がわき出しました」  秋蘭の言葉に、四人の女性たちはそれぞれに了解の仕草をする。ここまでは既に連絡が来ている話だ。 「白眉たちの狙いに関しましては、どれも陽動であり、どれも主要攻撃先であったと我々は見ております。城下でも宮中でもかなりの数の白眉が動き回っておりました」 「戦力の集中もできないあたりが愚かよね」 「集中してもとりまとめる人がいませんからねー。大きくなって動かせなくなるでは、天和ちゃんたちの二の舞ですしー」  軍師たちの会話に苦笑しつつ、秋蘭は話を続ける。 「発生時、私は宮中におりましたが、町の方では同時に多数の場所で騒ぎを起こすことで兵が集まることを防ごうとしたようです。しかし、警備隊の連携能力の高さにより、その目論見は阻まれ、逆に一つ一つ撃破することが可能でした。彼らの活躍は称賛に値します」 「そう。警備隊の面々には私からも労いの言葉をかけておくことにしましょう。それにしても秋蘭が宮中にいたというのに、なぜこんなにも被害が大きいのかしら? 手こずるような相手だったの?」  訊ねる華琳の声音に、責めるような調子は微塵もない。ただ、本当に不思議がっているような風情であった。そのことは秋蘭もわかっていたが、それでも身をすくめずにはいられない。 「は……。私はまず兵を集めて帝を確保、その後襲撃されている各部署を解放しようとしたのですが……。天宝舎もまた襲われておりまして」  その名を口にした途端、桂花が猫耳を蠢かし、稟が表情を隠すように眼鏡に手をやった。二人をなだめるように華琳が手をあげ、再び秋蘭を促した。 「もちろん、無事だったんでしょうね」 「はい、それは。冥琳と紫苑がいてくれましたので、防備は完璧でした。ただ、その後、天宝舎付近を片付けた私と合流した冥琳が、その、大張り切りでして」 「冥琳さん、ああ見えて熱血ですからねえ。まあ、孫呉の方々はみんな、そなんですけど」  風が言葉を濁す秋蘭の意図を見て取って、呆れたように笑う。 「とはいえ、助かったのも事実です。近衛に混じっていた白眉に対して、私が信頼できる兵の数は限られておりましたから。兵ではなく火を使う冥琳の策は有用でしたし、私も承諾いたしました」  たとえどれだけの叛乱であろうと、時間をかければ魏側が有利になるのは間違いなかった。しかし、混乱を長引かせるのは得策ではない。それらを判断した上で、秋蘭は冥琳のやり方を受け入れたのだった。 「かの周公謹の火攻めか。私も見てみたかったわね」  華琳は愉快そうに笑う。その優雅な動きに連れて金の髪が揺れる。しかし、彼女はすぐに酷薄な笑顔になった。 「白眉は子供たちを狙った報いを受けたということね。いいでしょう。多少の被害は容認するとしましょう。なにより建物はなおせるものだしね。でも、どれほどのものかは把握しておきたいわね。まとめてもらえるかしら」 「それでしたら、すでにここに」  華琳の声に秋蘭は被害状況と復旧作業の工程をまとめた紙の束を差し出す。彼女は満足げにそれを受け取った。 「いずれにせよ、城下は警備隊の、宮中は秋蘭たちの尽力によって鎮圧された。ただし、宮中の出来事は影響を考えて失火として処理している、と。そういうことでいいのかしら?」  紙の上の文字を追いつつ、華琳は丸まった髪に指を絡める。黄金の絹糸のような髪がきらきらと光を反射した。 「はい。呉、蜀両大使にも一応話は通してあります」 「そう。紫苑と諸葛瑾には後で会うことにしましょう。ああ、そうそう、桂花に稟」 「はっ」 「なんでしょうか、華琳様」  主の思考を邪魔しないように黙っている軍師たち三人はいずれも真剣な顔で華琳の姿を見つめていたが、その中でも桂花、稟の表情はかなり険しいものであった。その二人が名を呼ばれて硬質の声で返す。 「あなたたちは天宝舎に行って、冥琳から直に話を聞いてきてちょうだい。火を使う術を好みはしないけど、参考にはなるでしょう。ああ、叱責ではないから、気をつけるように。それと」  彼女はそこで悪戯っぽく笑った。 「阿喜と木犀によろしくね」 「はい!」  二人は声を揃えて返事をし、そそくさと部屋を出て行く。その様子がおかしかったのか、風は含み笑いを漏らしていた。 「どうしたの、風」 「いえいえー、やっぱり子供の顔を早く見たいのだなあ、と思いましてー。当たり前のことなんですけど、なんだかおかしくてですね」 「それはそうよ、母親ですもの。私だって阿喜たちのことは可愛く思うし、会いたいわよ? ねえ、秋蘭。満天星は元気?」 「はい、それはもう」  自慢の娘のことを訊ねられ、秋蘭の頬に思わず笑みが乗る。華琳も風も、その様子に笑みを深くした。 「さて、それはいいとして……。本物の近衛の中にも相当数の白眉が紛れ込んでいた上に、外から引き込まれて、装備を与えられた者も多数いた、か……」 「実行者は白眉さんとしても、さて、誰が絵図を描いたのでしょうねえ」  報告を読み終えた華琳が椅子の背に深くもたれかかるのに、風がくふふとわざとらしい笑いを漏らした。 「あなたはどう思うのかしら、風」 「そんな畏れ多いこと口に出せませんよぉ」 「それでは言っているも同然ではないか」  まるで畏れ多いとは思っていない口調のほのめかしに、秋蘭が苦笑する。 「そのあたりでしょうね。そもそも白眉が近衛を仲間にすることが出来たということが、その証左でしょう」  近衛に影響力があるのは誰か、それを考えれば自ずと答えは出る。魏の人間でなければ、この宮廷にいる人間は、漢王朝に従っているのだから。 「しかし、自らを餌にしてまですることでしょうか?」  その人物の名を口にすることなく、彼女たちは会話を続けた。 「どちらにせよ傀儡。ならば、華琳様より扱いやすそうな白眉さんを、と思ったのかもしれませんよー」 「当人がどこまで把握していたかはわからないわね。ただ、いずれにせよ、その周辺は……」  華琳はそこまで言って肩をすくめた。しばらくの沈黙の後で、風は平静な声で訊ねかける。 「どういたしますかねー」 「あなたに任せるわ、風。厳しすぎるくらいの対処でいいわよ」 「わかりましたー」  頷いて何ごとか書き付けている風を見ながら、華琳は小さくため息を吐く。なにか重大なことを諦めたような深い嗟嘆の色を帯びていた。 「それにしても事ここに至って、このような企みしかできないとは。白眉を引き込んで、それで結局、なにができたというのかしら」  彼女は目を瞑り、眉間を拳で押さえつつ、冷めた声音で言う。その疲れ切った調子に、風と秋蘭は思わず顔を見合わせるほどだった。 「いかに私に押さえつけられているとはいえ、少しは気概を持って動いて欲しいものだわ。この大陸を征した者の末でしょうに」 「そこは……しかたないとも思いますが……」 「それだけの気概や志があったなら、華琳様がここまで頑張る必要はなかったと思いますしねー」  華琳の愚痴のような呟きに、慰めなのか、あるいは諦めなのか、判断しづらい言葉をかける二人。  華琳はしばらくそのまぶたを閉じたまま何ごとか考えていたようだったが、ふっと笑みを漏らした。 「どうやら、少し疲れているみたい。ゆっくりお風呂にでも入ってくるわ。続きは夜にしましょう。皆にもそのように言っておいて」 「わかりましたー」 「どうぞ、ごゆっくり」  覇王が金髪を揺らし、湯を浴びに立ち去っていく背を、風と秋蘭は見送る。その小さな背中に似合わぬほど重い物を、この大陸全てを、彼女たちの主は背負っている。そのことを二人は改めて心に刻んでいた。  2.北方  城の中を、かつかつと音を鳴らして一人の女性が行く。彼女の膚にはいくつもの戦傷が刻まれる。束ねた髪を振りながら、凪は一つの部屋に行き着いた。 「白蓮さま。早馬が参りました。沙和の軍はあと五日ほどで合流できるようです」  扉を開けて入りざま、用件を告げる。書類に埋もれるような部屋の奥で、地図を眺めていた女性が顔をあげた。赤い髪をかきあげて立ち上がるのは、この城の主、白馬長史だ。 「そうか。ありがたいな。沙和が来てくれるのは助かる」  凪を座らせ、茶を淹れるために湯を沸かしながら、白蓮は安心したようにため息を吐いた。凪は生真面目な顔で頷く。 「そうですね。戦況自体は我が方に有利ですが、やはり、将の数が足りませんでしたから……」  呉の水軍、白馬義従を中心とした幽州の軍、烏桓の騎馬勢、さらには凪の率いる魏軍まで加わって、幽州での戦は討伐軍側有利の状況で推移していた。しかし、大きく広がった戦場を指揮する将の数が不足しているのも事実であった。  白蓮がもともと幽州を治める群雄であり、管理能力にも長けているからこそなんとか状況を保っていたが、苦労しているのも事実である。手助けしてくれる人物が現れるなら大歓迎であった。 「かといって思春を引き留めるわけにもいかなかったしなあ。いや、引き留めても聞き入れてくれたかどうか怪しいけどさ」  呉の水軍を率いるために派遣されていた思春は既に本国に帰還していた。彼女が親衛隊長を務める女王が子供を産むというのだから、帰さないわけにもいかないだろう。 「そうですね。我が国で華琳様が御子様を生まれるという時期に春蘭さまを引き留めるようなものでしょうから……」  二人はその言葉に視線を交わす。 「無理だな」 「はい、無理ですね」  あっさりと結論づけて、二人は白蓮の淹れた茶を楽しむ。既に寒さが押し寄せてきているこの時期、城の中とはいえ温かい茶は体によく染みた。 「ま、呉の連中もよくやってくれてるから構わないんだが、やはり、各国の兵が入り乱れると色々なあ」 「沙和は規律を引き締めることにかけてはかなりの実力者ですから、頼っていいものかと。当人が少しさぼり気味ですが……私が見ておりますので」 「ああ、まあ、あんまり無闇と厳しくなくてもいいから、戦が続けられるようにな」  ぐっと拳を握って宣言する凪に、白蓮はあははと笑いかける。自分もそれなりに真面目な方だと思っていた白蓮であったが、凪の几帳面さには勝てない。彼女が上手くやってくれるというのだから、安心して任せていいだろう。 「はい。そういえば、冀州では決戦があったようですね」 「ああ、そうみたいだな。ここらの戦もぱーっと決まればいいんだが……そうもいかないよなあ」 「現状、かなり散らばっていますからね。いまから集まるのは難しいでしょう。これから冬に入りますし……」  烏桓の土地ではすでに冬支度が進められ、軍に合流していない部族の者たちは冬営地に移動している。さらに、幽州の白眉は凪の言葉通り、各地に離散している。そのような状況で、大規模な軍勢が一箇所にまとまるような決戦が起きるとは思われなかった。  必然、幽州での白眉討伐は、小規模な集団を各地で叩いていく根気の要る戦にならざるを得なかった。それも、冬が本格化するここ一ヶ月ほどで終わらせなければならないだろう。 「うん。そこはしかたないよな。それより」 「はい?」 「北伐のほうはどうなんだろう?」  白蓮の問いかけに、凪は杯を置き、腕を組んで考え込む。 「北方は霞さまが張り付いていますし、動いたという話も聞きません。現状、鮮卑は外部に攻めるほどの余力はないものかと」 「烏桓がこちらについたし、鮮卑の南下は少なくとも春までは考えなくていいかもしれないな」  うんうんと白蓮は凪の意見に同意する。彼女自身も既に想定していることではあるのだが、やはり、誰かと話して自分の読みが間違っていないことを確認しておきたかった。 「涼州は……なにしろあの面々ですし、そう間違いはないかと思いますが、多少の遅れはあるかもしれませんね……」 「そうだな。補給の問題があるから、遅れについてはしかたないだろう。なんにしても、冬が来るから、そろそろ戻っている頃かな」  さすがに恋や雪蓮たちがいる軍が無様な結果となるわけがない。そう確信している二人であった。ただ、予定通り行っていないことはありえるだろう。  凪は茶杯に再び手を伸ばし、その器の表面から伝わる温もりになにか難しい顔になった。 「こちらも本格的に寒くなる前になんとかしたいですね」 「ああ、そうしないと……」  この地の冬の厳しさについて白蓮は身をもって知っている。軍を動かすなど以ての外だ。そうなる前に、決着をつけなければならなかった。 「ま、こっちは物資だけはたんまりあるから、自滅を待ってもいいんだが……それもなあ」 「少々残酷すぎますからね……」  元々呉からの物資を華北全土に補給する受け入れ口として、白蓮が幽州に拠点を構える予定であった。事実、呉からの物資は続々送られてきている。問題は白眉の出現でそれを配送する予定の沙和、凪の軍まで幽州に来てしまったことで、実際のところ、物資は幽州でだぶついている。  霞の部隊には補給を続けているのだが、それでも余るのだ。  元々余裕を多めに取って見積もっていることもあるが、烏桓たちが自発的に動いて北方での食糧、物資の消費を効率的に減らしたという効果もあった。有り体に言えば、烏桓の支持が得られたために、無駄に物資をばらまく必要がなくなったというわけだ。  これらの余剰物資――特に食糧を利用すれば、白眉が襲うであろう邑の人々を周囲の作物や家畜ごと城に入れてしまい、結果、困窮するであろう白眉たちを兵糧攻めにすることも可能だ。  だが、それをすれば彼らを飢えさせることになるし、自暴自棄にさせてしまうかもしれない。不測の事態を招かないためには、出来る限り避けたい戦法であった。 「あれも元々は幽州の民だし、あまりひどいことは……な。戦で死ぬのはしかたないにしても……飢え死にはなあ」 「白蓮様……」 「ま、まあ、どうしようもないときもあるけどな」  雰囲気が暗くなりかけるのを打ち消すように、白蓮は殊更明るい声を出す。 「私たちが守るべきは民であり、この土地の平和だ。それを脅かす者は排除する。それは間違いない。それ以上は……まあ、なんとか頑張るしかないな」 「はい、そうですね」  そう、自分たちにはやるべき事がある。なにを考えるにせよ、まずは目の前のことを片付けていかないといけない。白蓮は改めてそう思った。  そこで、彼女はふと気づいた。 「っと、すまん。そろそろ会議の時間じゃないか?」 「そういえば……そうですね。では、いきましょうか」 「ああ」  そうして二人はこの地の有力者や烏桓の大人、そして、軍の部下たちとの会議へと向かうべく立ち上がる。成すべきことはいくつもあり、時間は少なかった。  それでも彼女たちは自分たちに課せられた責務から逃げることなど考えつきもせず、ひたすらに己の力を尽くすのであった。  3.出産  孫呉の王城の奥、蓮華の私室の隣には、政務のための部屋がある。以前からちょっとした用事のために使っていたのだが、女王が身重となってからはこの部屋の使用頻度はかなり上がっていた。  その部屋に、いくつもの木と金属が組み合わされた、なにか大がかりな仕掛けが運び込まれたのは今朝のこと。  懸命にそれらを組み立て、調整し、動きを確認しているのは、片眼鏡の女性。孫呉の軍師の一人、亞莎だ。  そこに大きな甕を持って現れたのは黝い髪の、目つきの鋭い武人。思春は軽々とかついでいた甕を床に置いた。ちゃぷん、と水のはねる音が中から聞こえた。 「おい、水を汲んできたぞ?」 「あ、ありがとうございます! ええと、はい。じゃあ、それをここに」 「うむ」  亞莎に手招きされて、装置の下部についた桶のような部分に水を注ぎ込む思春。彼女は空になった甕を置いてから、各部を確認している亞莎に訊ねかけた。 「で、いつ、蓮華様を呼べばよい?」 「あ、はい。ええと……もう大丈夫だと思います。はい」  自信なさげに言う様子にわずかに苦笑のような表情を浮かべ、思春は蓮華を呼びに行く。隣室から現れた蓮華は、大きなお腹を抱えて、ゆっくりと歩くのも億劫そうであった。二人の手を借りて椅子に腰掛け、正面に据え付けられた装置を見る。 「んー?」  蓮華が不思議そうな声をあげるのも当然であった。その装置は見た目ではなにを目的とするものなのかよくわからない代物であったから。  一見、風呂桶のように見える。というのも、水を張った桶の下部に鉄で覆われた部分がつけられていて、いまも轟々と火が燃えているからだ。もちろん部屋を汚さぬよう、それをさらに覆う板などがあるが、火を燃やし、水を温めるという仕組みは間違いない。しかし、その風呂桶の上にある金属の球体はなんだろう。  球体は、風呂桶から出る二本の金属の筒で両側から支えられている。さらに球体の側面からは何本かの筒が斜めに突き出ているのだ。 「これが、あの車を動かしていた絡繰なの?」  かつて荊州に現れた、煙を吐き、姦しい音をたてる弾を撃ち出す車。それを動かしていた絡繰を研究した結果が今日披露されるはずであった。だが、見た目からはその動作がさっぱりわからず、蓮華は戸惑った声で訊ねるしかない。  一方の亞莎も恐縮した様子で低い声で答える。 「……と思われますが、確実ではありません」 「というと?」 「これは、明命たちが入手した図面を元に再現したものなのですが、どうももともとの図面が教育用というか、概念図というか……。実際に使うものではなく、工兵たちに理解させるためのものだったらしく……」 「実用化されたものまでは盗めなかった、か」 「ぬ、盗むというのは、少々聞こえが……」  思春の言葉に亞莎はあわあわと慌てて顔を覆う。その様子がおかしかったのか、お腹をさすりながら蓮華が笑い声をたてた。 「ふふ。でも、盗んでいるのでしょう? 真桜や華琳に教えて貰ったわけではないのだから」 「と、ともかく動かしますので!」  ごまかすように強く言い、亞莎は桶に蓋をして、装置をいじる。しばらくは何ごとも起こらなかったが、不意に金属球から生えた筒からなにやら音が出始める。しゅーしゅーと音をたてるそれに、思春が疑問を呈した。 「なにやら漏れているのではないか?」 「あ、いえ、これでいいのです」 「ふむ」  金属球から漏れる音は次第に大きくなり、さらに筒からは蒸気と思われるものが噴き出し始めた。それにより、球体はゆっくりと回転を始める。 「ふむ。こうして動くのね……」 「はい。理論的にはそう難しくはありません。水が沸騰して……」 「いえ、いいわ、亞莎」  解説しようとする亞莎を、蓮華は手をあげて押しとどめる。 「え?」 「あなたが仕組みをわかっているならそれでいいのよ。私はあなたを信用してるもの」 「は、はひっ」  不思議そうに目を見開く亞莎を安心させるように、蓮華は微笑みかける。その柔らかさと力強さは傍で見ている思春でさえ驚くほどのものだった。  しゅんしゅんと音をたてて回転する球体に目を戻し、近づいてみる思春。予想通り、装置の側はかなりの暑さであった。見れば、亞莎の膚には汗が浮いている。 「それで、これは動力に使えそうか?」 「このような模型ならすぐに作れます。しかし、実用となると……難しいですね。つくづく真桜さんは天才だと思います。図面上ではできるんですが、どうしても強度の問題などが出てきまして……」 「そうか……」 「それに熱の問題もあります。いまの状況では、筒から出て来る熱気で火傷してしまいますし……」  亞莎は火を止め、装置の弁も閉める。しゅうしゅう言う金属球は、まだ白い蒸気を吐き出していたが、回転は遅くなり、いずれ止まるであろう事は予測できた。 「それでも、研究は続けるつもりです」  後始末を終えて、亞莎は改めて蓮華に向かう。その頃には思春も蓮華の横に戻っていた。蓮華は鷹揚に頷く。 「そうね。思う存分やってちょうだい」  ただ、思うのだけれど、と蓮華は付け加え、小首を傾げた。 「いっそ一刀に聞いてみるのがいいんじゃないかしら? あの人、隠したりはしないと思うのだけれど」 「それは……どうなのでしょう……」  亞莎は自信無げに呟く。  実際の所、この技術の基は一刀の知識なのかもしれない。しかし、それを訊いて、果たして本当に教えてくれるものだろうか。  亞莎は考えてみる。  教えてくれるような気もした。  ただし、問題はそれを訊ねるという行為のほうだ。彼は彼女にとっても、蓮華にとっても恋人ではあるが、しかし、同盟国とはいえ他国の人間なのだ。そのあたりを考えると、訊ねるということそのものが、お互いの立場を傷つけてしまうような気がするのだ。 「そもそも重要事かどうかってこともあるけれどね。面白いとは……」 「あの、蓮華様?」  不意に途切れた主君の言葉に、亞莎は全ての思考を放棄して注意を寄せる。蓮華はその美しい顔(かんばせ)に奇妙な表情を張り付けていた。まるで、なにか異物でも噛んでしまったかのような、ちょっとした不快感。 「どう、なさいました?」 「いえ。なんでもないわ。あのね、亞莎……」  再び、言葉はそこで止まる。今度は何か探るような様子になる蓮華。先程感じたものの出所を確かめずにはいられないとでもいうような顔つきであった。 「蓮華様?」 「いえ、ちょっと。それはともかく、技術開発に関しては……」  顔を覗き込むようにする思春に、ぱたぱたと手を振って、しかし、彼女の言葉は三度止まる。  次に出た蓮華の台詞は実に切迫した空気を感じさせるものであった。 「あ……え、えと、し、思春、亞莎?」 「はっ!」 「医者を呼んだ方が……い、いいと思うわ。ええ、医者を呼びなさい」  額に汗しながらの蓮華の言葉に、ようやく事の次第に気づいた思春が、だっと駆け出す。 「た、ただいま呼んで参ります! 亞莎、お前は、蓮華様に着いていろ!」 「ひゃ、はい!」  亞莎が蓮華の小走りで近寄ると同時に、苦しそうに呻き出す蓮華。呉の軍師はそれまで懸命に学んだことを全て忘れ果て、主の顔に浮かぶ汗を拭いてやりながら、大丈夫です、大丈夫ですからと繰り返すしかなかった。  そうして、この日、呉に待望の後継ぎが誕生したのであった。  数日後、江水を通じての急報を受け取ったのは、その手に赤子を抱く女性であった。 「んー、蓮華様のところも無事お生まれですかー」  主君より遅れること三日で出産を終えた穏は、その豊かな胸に娘を抱えながら、亞莎が書いた報告を読んでいた。  彼女の生まれたばかりの娘は、母の温もりに安心しているのか、すっかり眠りに落ちている。 「喜ばしいですね!」  穏の前に立ち、明命はいつも通り張りのある声で言う。その頬が紅潮しているのを見て、穏は微笑んだ。どうやら、連続した慶事に興奮しているらしい。 「ええ。なにしろ、お世継ぎですからねー」 「穏様もよかったです! こちらからも急使を出しましょう!」  明命は鼻息も荒く、ぶんぶんと手を振って主張する。その動きの最中にも長い黒髪の先は地面につかない。あれは無意識に出来ているのだろうか、といつものように考え、結局これもいつものように訊ねたりはしない穏であった。 「いやいやー、そこまでは必要ないですよー。今回来た人が帰るときでいいと思いますよ」 「そうですか?」  急使の一行は全速力で船を漕いできたので、丸一日は休まねばならないだろう。こちらから出すよりは遅れることになる。  しかし、急ぐ必要はないと穏は思っていた。なにしろ、無事生まれたのは変わらぬ事実なのだから。  それに、この娘の父である一刀にはしばらくは伝えられないだろう。陣払いの翌日に巴丘を訪ねてくれた彼は、既に南蛮に向けて旅だった。成都で知るか、洛陽で知るか、いずれにせよだいぶ後になるだろう。 「はいー。大丈夫ですよー」 「そうですか……。あ、そうです、穏様。すいません」  明命は唐突に頭を下げた。その様子に穏は目を丸くする。 「明命ちゃん?」  驚いたような声に、明命は顔をあげて説明を始める。 「この間、我々が戦ったのとほぼ同じ日に、洛陽で白眉が蜂起したというのはもうご存じかと思います」 「はいー。聞きましたよー」 「実は、あの後詳しい話が入ってきておりません。どうも……白眉の蜂起に伴って、色々と洛陽の諜報網が混乱しているようで」  申し訳なさそうに言う明命に、ようやく穏は納得する。諜報組織の長として、魏の都であり、漢の帝都である洛陽の情報が入ってこないというのは確かに謝るべきことだと感じるだろう。それで責めるつもりなどあるはずもないが、事実、呉にとって打撃ではある。 「あらら。それは少々困りますねぇ。洛陽の情報は手に入れておきたいですし」 「はい。ですから、一度私が行ってこようかと思いまして。そのお許しをいただきたく」 「ふむふむー」  眠っていた赤ん坊が腕の中で身じろぎするのをあやすように抱きなおしてやり、穏は視線を宙にさまよわせる。 「それは非公式に、ということですよねぇ?」 「はい。そうなります。公式に招かれたときにそのような事をするのは失礼かと思いますので……」  黙ってやるのが礼だとは思わないが、それはそれで一つの信義だと穏は思う。 「華琳さんたちに見つかっちゃう可能性はないですよね?」 「そこはおまかせを」  一応の確認をして、明命の責任感溢れる頷きを受け、彼女は決断する。その柔らかな笑顔の奥で、一瞬だけ怪しく瞳が光った。 「うん。わかりましたー。では、行ってきてください。でも、くれぐれも気をつけてくださいよー?」 「わかりました!」  そして、さらに十日ほど後、明命の姿が一時的に巴丘から消える。その行き先を知っているのは呉の国内でもたった一人であった。  4.託  玉座に座る彼女は一人であった。  目の前に置かれた象棋盤には多数の駒が乱雑に置かれている。そのうちのいくつかを指でつつきながら、黄金の髪を揺らす女性は低く漏らす。 「麒麟は堕落し、竜は自ら地に潜り、朱雀は玄武によりそうと宣した」  ぴん、ぴん、ぴん。  三度指が動き、三つの駒が弾かれた。中央の開けた場所に残るのはたった二つ。その一つを手に取り、それを光に透かすように彼女は持ち上げた。  水晶を削って作られた駒は、室内の灯りを受けて七色に見えた。 「虎が動くつもりならよし、けれど、あれの考えは私にもわからない」  たん、と音をたてて、その駒が置かれる。これまでのように倒されることはなかった。 「残るは玄武」  最後の一つが彼女の指でつまみ上げられる。先程のように目線の高さまで持ち上げることもなく、彼女はそれをいとおしむように掌の中で転がした。 「これもまた、足りない、か……」  惜しむように呟いて、彼女はそれを象棋盤に戻そうとする。そこで、誰も入ってこないはずの部屋の入り口から声がかかった。 「華琳様」  彼女は答えない。それはあってはならない声だからだ。ならば、答える必要もないだろう。 「華琳様」  声はもう一度彼女の名を呼んだ。聞き慣れた側近の声など存在せぬように、彼女は象棋盤の上に指を滑らせる。 「お叱りは後ほど。どうかお聞き下さい」 「なに? 私は邪魔するなと言ったはずだけど。お仕置き目当てだったりしたら、承知しないわよ」  三度目に至って、華琳はようやく反応した。あからさまにほっとした様子で、桂花が部屋に姿を現した。 「華琳様。劉備が参りました」 「桃香が? あの娘ったら洛陽でなにをしているの?」  予想もしていなかった言葉に華琳は額を手で覆い、次いで顔を拭うようにした。その後にはすっかり普段通りの表情に戻っている。 「二人だけで」  それだけ言い捨てて、彼女はつかつかと歩み去る。だが、礼をとっていた桂花は己の横を彼女がすり抜ける際に囁かれた言葉を聞き逃したりはしなかった。 「ありがとうね、桂花」 「やっほー、華琳さん!」 「やっほー、じゃないわよ。あなたたちだけ先行してきたんですってね?」  いつもながら華やかな雰囲気――それは華琳とはまた別種の空気だ――を引き連れて部屋に入ってきた桃香に、華琳は呆れたように言う。  桂花が彼女を呼びに行っている間に稟と風が一体どういうことなのかを桃香とおつきの焔耶から聞き出したために、経緯を承知している華琳であった。  本来なら春蘭たちと共に洛陽に入るはずだった桃香は、さっさと焔耶と二人やってきてしまったらしい。魏軍帰還の連絡も兼ねて、というのが一応の理由だったが、本来なら、彼女の到来を知らせる使者の方が必要なはずだ。  相手の意表を突いて交渉を有利にする戦術とも思えないが、なんにせよ、華琳としてはあきれ顔しか出来ないのであった。 「うん。途中までは春蘭さんたちと一緒だったんだけど、出来るだけ早く着きたくて」  春蘭さんに、狡いって言われちゃった、と桃香は笑って言う。華琳は思わず頭を抱えた。それが部下の態度のせいか、目の前の女性のせいか、彼女自身にもよくわからなかった。 「……で、なんでそんな急いだわけ?」  言われて、桃香は理由を説明する。華琳と桃香が協議して、白眉の終結宣言を出し、そして、愛紗を解放するという一刀が考えた筋書きを。 「ははあ。一刀の差し金ってわけ」 「あはは、差し金って。一刀さんとしても、なるべく早くはっきりさせたかったんだと思うよ? 実際、一刀さん、愛紗ちゃんのこと、かなり気にしてると思うし……」 「でしょうね」  華琳は足を組みなおしながら考える。目の前で彼女が淹れた茶を美味しそうに飲んでいる女性の言っていることにも考慮すべきことはいくつもあった。 「終結宣言か……。たしかに、必要かもしれないわね」  華琳も自分の茶杯を引き寄せながら、頷く。その言葉にぱあっと明るくなる桃香の顔。 「ただ、幽州が……さて、どうするかしらね」 「もちろん、今日明日ですぐに出来るわけじゃないってのはわかってるよ? でも、話しておかないと……」 「それはわかるわ」  尤もな話だ。華琳としても、北伐と白眉の二つが終わり、平和が来たことを宣言することの重要性は理解しているし、それを蜀の女王と協議する機会は貴重だとわかっている。大枠では桃香と――そして、一刀と――意見を一にすると言っていいだろう。  ただし、華琳は荊州で戦に集中していたであろう桃香よりも様々な情報を得ているが故にそれらを勘案する必要があった。  そうして思考に沈もうとした華琳は、桃香がなにか微妙な表情をしているのに気づいた。 「なに? 他にもなにか重要な事があるの?」 「うん。もしかしたらこっちのほうが、その蜀と魏の関係では大事かもしれないなって……」 「なによ」  もごもごとはっきりしない声で言うのに、華琳が苛ついたように強く促す。桃香はそれに覚悟を決めたように、普段より遥かに早い口調で話し出した。  それは、鈴々が一刀を襲った顛末であった。 「そんなことがねえ……。原因は愛紗?」 「……うん」 「困ったものね……」  それ以外で一刀がそれほどの怒りを買う理由が見当たらない。華琳は彼という人物を知っているが故にその成り行きを聞かずともほとんど想像出来ていた。 「それでね、その、鈴々ちゃんを公的に罰するというのは難しいと思って、その……」  桃香はさらに言いにくそうに黥刑の話をする。  それを聞いた華琳の反応はただ一言。 「古くさい」  であった。 「……それは……うん」  うつむいてしまった桃香の姿を見て、華琳は小さく首を振る。呆れたようなため息が、その口から漏れた。 「どうせあなたのことだから、そうやって決めるのにもさんざん苦しんだんでしょう。私個人としてはそれを尊重して、無条件に聞き入れてあげたいところだけれど、一方的な言い分だけではやはり判断できないわ。この件に関しては一刀からの意見を聞いてから決めることにする。いいわね?」 「あ、うん。もちろん」  それから華琳は相手が顔をあげたのを確認して腕を組んだ。 「それから、終結宣言に関しても時間が欲しいわね。この場では確約のしようがないもの」 「うん。でも、あんまり長引くのは……」 「わかってるわ。今日中には結論を出しましょう」 「え。そんなに早く?」  あまりに短い時間を提示されて、桃香はびっくりしてしまう。華琳は、しかし、否定するように手を振った。 「宣言を出すのが今日ってわけじゃないわよ? その準備をどうするかをまず決めようって言ってるの」 「ああ、そういうことか。うん、でも、ありがとう」  納得した桃香に、ひとまず体を休めなさい、と華琳が告げ、会談はそこでひとまず終わるはずだった。  風が何か捧げ持って部屋に入ってくることがなければ。 「お二人ともちょっとよろしいですかー?」 「なに?」 「どうしたの?」 「いえ、たまたまなんですが、実は呉王からの急使がやってきましてー」  千客万来ですね、と風は笑う。洛陽には毎日多くの人々がやってきては去っていくが、さすがに蜀の女王と呉王の急使が一度にやってくるのは珍しい出来事であった。 「お二人にお手紙なのですよー」  言われて彼女たちは風が捧げ持つ盆から、書状を受け取る。それは蓮華から華琳、桃香それぞれへ宛てられたものである。  実は桃香への書状に関しては、当初成都に向かおうとしていたのが、彼女が洛陽を目指しているのを知っていた明命たちの指図によって魏への急使に後から追いついたという顛末があった。 「あら、蓮華の子が生まれたようね。孫呉の後継者ね」 「わあ、蓮華さんおめでとうだね!」  風が出て行った後で、二人はそれぞれに書簡を読み、頬をほころばせる。 「ええ。いい報せね。あら、別添えで穏のほうにも生まれたとあるわね。となると、一刀の何人目の子になるのかしら……?」  指折り数えている華琳をにこにこ眺めていた桃香は、男の名前になにか頭の中にひっかかるものを見つけ、それを探って、ようやく懐に収めているものの存在を思い出した。 「あ、そうだった!」 「なにかしら?」 「これこれ」  布に包まれた書簡を引っ張り出し、桃香は華琳にそれを渡す。思ったよりも重いそれに、華琳が眉をひそめる。 「なに?」 「一刀さんからのお手紙。華琳さんに直接渡してくれって言われてたんだ」 「一刀が……? そう……」  そうして、一刀が託した言葉は、桃香を通じて華琳へと伝わった。  5.宣言  空に夕暮れ迫る頃、軍師たち三人は華琳の私室に呼ばれていた。桃香の訪れにより、自分たちを含めて、なんらかの議論は行われるだろうと予期していた三人であったが、まさか華琳の私室に呼ばれるとは意想外であった。 「特赦ですかー」  そこで明かされた蓮華からの書簡の内容に、風ががじがじと飴をかじりつつ反応する。他の二人もそれぞれに考え込んでいた。 「ええ、特赦よ。蓮華曰く――といっても書いているのは亞莎だけど――白眉の終結と北伐の終了、孫呉の跡継ぎの誕生を祝い、漢の丞相として特赦を発してはどうかと提案してきているわ」  国の慶事や瑞兆のあった折に特赦や加爵を行うのはよくあることだ。それは正式に国がその出来事を祝うと決めたという証拠であると共に、民衆への慰撫を兼ねる。いわば、政権側からのご機嫌取りと言ってもいい。  華琳たち魏が洛陽を支配し、実質的に朝廷を支配するようになって以来、そんなことをする必要はないと判断して、特赦も加爵も行われていないが、それ以前には乱発されていた事実がある。なんと、年に何度もそれを発布していた時代すらあるのだ。 「特赦を発しすぎる政権は、それだけ基盤が弱いと見られますが、現状ならばそう問題はないかと考えます」 「呉の慶事を漢全体に、というのは少々強引かとも思いますが、白眉の終結も兼ねてと言うことなら、許容できる範囲でしょうか」 「西涼が立つこともありますし、蓮華さんがそれくらいで喜ぶなら安いものじゃないですかねー」  桂花、稟、風はそれぞれに意見を述べる。華琳はそれに頷いて見せたが、彼女たちの意見自体は既に予想済みであった。数年に一度程度の特赦なら、なにも渋る程のことでもない。  だが、本題はその後にあった。 「面白いのはこの部分。荊州の穏にも諮って決めたとあるの。でも、実は穏には話していないのよ」  華琳は穏の別添えが加えられた経緯を説明する。それは呉の急使を呼び出してわざわざ彼女自身が確認した事実であった。 「そんなことを書くってことは、荊州のことに関して一言あるってことですよねえ」 「つまりはあのいつでもどこでも問題を起こす莫迦と鈴々のことに関して」 「ああ、そういうことですか……」  軍師たちは華琳の言葉に導かれるように思考を回す。その中で、稟が一歩早く結論にたどり着いた。 「魏、呉共同で蜀に恩を売っておけ、と言ってきている、と」  特赦が発せられれば、罰は減じ、あるいは消失する。そして、それは存在していないはずの罪――蜀が隠蔽することにした鈴々の一刀に対する態度――に関しての罰を減じろという華琳からの意思表示になる。  そこまで三軍師が理解したところで、華琳はからからと笑った。 「あの娘も政の機微がわかってきたと喜ぶべきでしょうね。ちょっとあからさまだけど」 「そのあたりは、子供が生まれたばかりで、舞い上がってる部分もあるのではないかとー」 「そうね」  風の物言いに華琳はくすくすと笑い、そして、付け加えた。 「まあ、私もあんな子供の膚に黥だなんて避けたかったところだしね。渡りに船というところよ」 「では、特赦を発するということで」 「ええ。終結宣言と共にね。そのあたり、調整してちょうだい」  華琳の指示が発せられ、軍師たちは事務的な話をひとしきりする。それが一段落した所で、華琳は蓮華の書状をどけ、代わりにそれに何倍もするような紙の束を卓の上に置いた。 「おやおや、書類がいっぱいですねー」 「いえ、これ全部で一つの書状よ」  ほう、と感心したように言ったのは誰だったか。華琳は、微笑みながら、実に嬉しそうにそれを示した。 「これは、一刀からの書状よ」  その言葉に女性たちはそれぞれの反応を示す。あるいは、華琳の態度がそれを誘発したのかもしれない。 「また随分と大作ですね」 「さすがおにーさん、華琳様宛てには情熱的ですね」 「あの口のうまい女好きの、歯の浮くような恋文ですか? 汚らわしい」 「ありゃ、桂花ちゃんにはそんな手紙が届くんですかー」 「なに言ってんのよ、違うわよ!」 「おや、そうですか? 私の所にはいつでも私と阿喜を気遣う手紙が届きますが?」 「そ、それは来るけど、だから……」  華琳は面白がるように彼女たちの反応を見守っていたが、いつまでもじゃれ合いが終わらないと見てぱんぱんと手を叩いた。 「はいはい」  注目が集まったところで彼女は表情を引き締める。 「真面目な話よ」  さっと一陣の風が吹きすぎた。  部屋の中でそんなことはあるはずはないのに、三人は一様にそう感じた。ぴんと背筋が伸び、思わず跪こうとしたところで主自らに止められる。 「とはいえ、たしかに個人的な部分もあるし、あなたたちに読めとは言わないわ。あるいは、あなたたちには別の形で届けられるかもしれないしね」  それでもこれはあなたたちには知らせないといけないことなの、と華琳は言った。その口調があくまでも優しく、そして、穏やかなものであることに皆気づいていた。しかし、それなのにそこに込められた威厳は覇王としてのものなのだ。  それは、華琳の身近に仕える三人にしてもなかなかに出会えない、複雑な華琳の表情であった。 「これはね、一刀の……北郷一刀という人間の宣言なのよ」  そんな三人の感慨を他所に、華琳は言葉を紡ぎ続ける。  そうして、その唇から放たれた言葉は、あるいは彼女が覇王の進軍を開始する時よりもさらに重要な時代の分け目を宣言することとなった。 「この大陸の……いえ、この世界の守護者たらんという、ね」      (玄朝秘史 第三部第四十四回 終/第四十五回に続く)