「無じる真√N65」  曹操軍、本陣の幕舎。  夏侯淵が去った後、今度は郭嘉、程昱が呼び寄せられていた。  曹操は先ほどからじっと眺めていた地図を見つめたまま、二人の足音を聞き取り声だけで迎え入れる。 「よくきたわね、二人とも」 「何か御用とのことですが、一体?」 「やはり、秋蘭さまのことと何か関係があるのでしょうかー?」  凛然とした郭嘉と、綽然とした様子の程昱やってくる。 「そうよ。これを見てちょうだい」  そう言って、曹操は広げられている地図を指し示す。  所々に印を入れてあり、二人の軍師はその意図をすぐに察した。 「なるほど、ここに記されている地点が西涼軍が奇襲に用いた渡河場所ということですか?」 「正解よ、稟。……とは言うものの、私がこれまでの西涼軍の動きから予測したものなのだけれどね」 「いえいえ、お見事ですよぉー。ただ、風としては……ぐぅ」  ゆらゆらと動いていた風だったが、ただ単に船をこいでいただけだったようだ。 「肝心な所で寝るな、風!」 「おおっ!? いけませんねぇー。どうも、この辺りの季候は風の眠気を誘いやすいようなのですよ」 「尚更寝ないでくださいよ」  郭嘉は溜め息混じりにそう言うと、ずれてしまった眼鏡を直す。  そんなお叱りの言葉も何のそのといった様子でのんびりとした構えの程昱に曹操は訊ねる。 「それじゃあ、風。今度は深慮せずに素直に場所を示して貰えるかしら?」 「深慮とは何の事やら?」 「いいのよ。さあ、それよりも答えてちょうだい」 「ふぅむ、この辺りも怪しいのではと風は思ったんですねぇ」  曹操が記したのとはまた違う一点に程昱がその細くて簡単に折れてしまいそうな指を置いた。  郭嘉はそれとはまた違う一点へと手を乗せて曹操を見る。 「私はこちらも注意点と見るべきかと愚考しておりました」 「ふふ、流石ね二人とも。しかし、やはりその二点か」  実は曹操も二人が指し示した点を特別視していた。  いくつか候補の場所はあれど、改めて西涼軍の動きと照らし合わせるとしっくりこなかったのだ。  そんな中でも程昱と郭嘉が明示した箇所は曹操自身も有力候補として見ていた。 「華琳さま?」  どうやら思わず笑みを零してしまったらしく、郭嘉が訝しげな顔をしている。 (やはり、我が頭脳として働くに値する軍師たちね)  曹操は内心ではずばりと指摘した二人に喜びつつも、表情には出さず二人へと確認を取る。 「正直に言ってみなさい。他の地点よりも、それぞれが指した地こそが注目すべき箇所だと思ったのでしょう?」 「そうですねぇ、風としてもこの二点は……ぐぅ」 「だから、寝ない!」  郭嘉の手袋越しのツッコミによって程昱がびくんと撥ね大きな鼻提灯がパチンと割れる。 「はっ、やはり身体が冷えると眠くなってしまいます」  瞳は開かれているのに間延びした喋りは程昱にはまだ眠気が残っているのではという疑いを場にいる者たちへ持たせる。  そんな疑惑の眼差しも気にせず程昱は口元に手を添えて「寒いです」と呟いているが、その瞳は軍師色に光っている。  幕舎の表から吹き込む風が少々冷たいのは確かで曹操も些かそれを感じていた。 「どうにもいけませんねぇ。ええと、確か……そうそう、地点の重要度でした。風の考えは華琳さまの思われているとおりですよ」 「そう。稟はどうなの?」 「……愚問ですね。無論、重要と思ったからこそ進言したまでです」 「もう一つの理由は?」 「は? なんのことですか?」  怪訝な表情を浮かべる郭嘉に曹操は妖艶な笑みを浮かべて答える。 「風に先を越されたと思い慌てていたからからではなくて?」 「ええ、そうです。……って、違います、そ、そのようなことは断じて!」 「おやー、違うのですか?」  小首を傾げて訊ねる程昱の様子は確信めいたものの存在を感じさせる。  灯りに照らされた顔で互いを見る軍師二人。  何とも言い難い思い空気が漂い始める。 「何が言いたいのですか、風」 「いえ、ただ先ほど秋蘭さまのことでやたらと気にしている稟ちゃんを見かけたものでして」 「み、見ていたのですか?」 「いえー、〝偶々〟ですよ?」  程昱がそう答えると、郭嘉は言葉を失ってしまう。そのこめかみにはぴくぴくと青筋が立っている。 「風、その辺りにしておきなさい。それと、稟」 「なんでしょう?」 「春蘭たちにすぐに出陣の準備をさせなさい」 「は!」 「それと、風が言っていたこと……後で訊かせてもらおうかしらね」 「なっ!? そのような申し出受けられません、お断りさせていただく!」  泡を食ったように一蹴する郭嘉に曹操は口元を綻ばせる。 「ふふ、冗談よ……今のところは」 「人が悪い御方だ」  疲れた様に溜め息を吐くと、郭嘉はこめかみを押さえながら幕舎を後にしていった。  曹操は苦笑しつつ、残っている程昱へと眼を向ける。 「さて、風。貴方には別にやってもらうことがあるわ」 「存知していますよ。華琳さまが仰りたいのは秋蘭さまのことですね」 「そうよ。秋蘭を補佐してあげてくれるかしら?」 「承知しました。ではでは、秋蘭さまの元へ戻るとしましょうかね」 「あら? 秋蘭のところにいたの、あなた」  何となく、本当に何となくだが気になって曹操は訊ねる。 「正確には寝てる風の元に秋蘭さまがきたのですけどね」  そう言ってふっふっふと笑う程昱を見て、曹操は彼女があらかじめ夏侯淵から話を聞くために先回りしていたのではと想像してしまう。 「それでは失礼しますよー」  そう言ってとば口に絶っていた程昱はとことこと幕舎から出ていった。  再び一人になった曹操は地図へと視線を落としてじっと見つめる。 「さて、どうやって惹きつけようかしらね」  そうして暫く思案を巡らせた後、曹操は幕舎から外へと出る。  陣営の中、十万ちかくの兵が既に複数の部隊に別れて整列している。  度重なる敵の襲撃で将兵たちには多少の疲労が見て取れる。しかし、まだまだ意気軒昂であった。  曹操はそれらを確認すると召集をかけ、集まった諸将の前へと歩み出る。  複数の視線が一斉に彼女へと向けられる。 「稟。これから行う動きについて説明を」 「は。まず我々本隊は西涼軍へ対して正面から向かいます」 「ほう、面白い。腕がなるというものだ。なあ、季衣」 「ううん、ボクはちょっと心配かなぁ。向こうの突撃力って結構凄いし」  どこか浮き浮きした様子が見て取れる夏侯惇の言葉に許緒は腕組みして首を捻っている。  郭嘉は許緒の言葉に頷いて一同を見る。 「季衣の言う通りです。とはいえ、騎兵の突撃くらいは対処などいくらでもありますから別段不安事項として取り上げる程ではないでしょう」 「なら、いいんだけど」  許緒がほっと胸をなで下ろす。 「それに、我々がすべきは敵をうち破る事にあらず」 「えっと……どういうことなん?」  李典が組んだ腕に乗り切らないほどの胸がこぼれてしまうのではというくらいの前傾姿勢で訊ねてくる  くりっとした瞳を一層大きくして自分の方を見ている李典に郭嘉は泰然と答える。 「西涼軍は兵数自体はさほど。しかし、一騎の力は相当なものです。よって、まずはその戦力を削ります」 「はいはーい! 削るって言っても、攻めつつ守ってるだけじゃこっちもどんどん減ってしまうと思うのー」  綺麗な手を上げて于禁が意見する。  彼女は戦地であろうとも相変わらず頭の先から爪の先までしっかりと手入れをしているようだ。  茶髪によるフィッシュボーン、機動性と見た目を兼ね備えているという戦装束に常にしている化粧。  これ程までにお洒落をかかさず意識し続けているというのは郭嘉には少し理解できない。 「えー、その点は問題ありません。風」 「………………」  程昱を呼ぶが反応がない。 「風?」 「……………………ぐぅ」 「風ー!」  流れをぶちこわしにするほど豪快に眠りこけている友を郭嘉は怒鳴りつける。 「はいはい、聞いてますよー?」 「なんで訊ねてるんですか……。風、奇襲の説明を頼みます」 「あーはい、わかりました。えっと、秋蘭さまと風が出ます。以上」 「す、すみませんがもう少し説明を……我々はあまりその、頭の出来が……」  銀色の長髪を後ろで編み、髪飾りで留めている少女が申し訳なさそうにそう言うと、李典と于禁が眼を見開く。 「なっ、凪! ウチらを一括りにすんなや」 「そうなの! 真桜ちゃんはともかく、沙和はお馬鹿さんじゃないの」 「どういう意味や、それー」  身内で何やら揉め合う二人を宥める楽進に程昱は糸目でのんびりした様子で声を掛ける。 「いやぁ、今のはちょっとした冗談ですよ。なので、凪ちゃんはお気になさらず」 「は、はあ……」 「要するにですね、秋蘭さまと風で敵の脇腹をくすぐりますので、その間あちらの気を引いて頂ければ十分、ということなんですねー」 「ううむ、守り徹するというのはあまり性に合わぬのだがな」 「春蘭さまはそのままで構いません。あくまで相手に囮だと気付かせないことが重要ですからね」 「えっと、つまり……どういうことだ?」 「ま、ほどほどに攻撃してほどほどに守る。一進一退の様相を成せばよいのです」 「春蘭さまが攻撃、敵が応じたら凪たちで防衛。その繰り返しで問題ないでしょう」 「稟ちゃんの言ったとおりです。その間に、敵さんを風たちでこちょこちょとしてくるということですね」  そう言うと、程昱は曹操の方へと細めた眼を向ける。 「そうね。大筋、風と稟の説明通りよ。各々、役割を忘れずに。いいわね?」 「応!」  陣全体へと複数の大声が木霊していった。  曹操は、床几から腰を上げると陣の先頭へと進んでいく。夏侯惇らもその後に続いていく。 「春蘭、貴方と凪が中心となって鶴翼の陣を敷きなさい」 「は!」 「真桜、沙和は左右、両翼を固めること」 「合点!」 「わかったのー」 「季衣と稟は私と共に後方へ残りなさい」 「御意」 「わかりましたー」  曹操の指示に従って各々が配置についていく。 「これより、我らは西涼軍へ正面から戦闘をしかける。覚悟せよ!」 「おおおおぉぉぉー!」  兵たちの声がいくつも重なり合い天を突かんばかり各々の得物を振り上げる。  数十万の大歓声を轟かせ、曹操軍は出陣を開始した。  †  進軍する曹操軍を余所に、夏侯淵と程昱は少々迂回するようにして移動を行っていた。  数百騎の軽騎兵と数千人の歩兵。いわば機動力重視の編成だった。  夏侯淵は馬上の揺れに合わせるように呼吸をする。  これから自分が取る行動如何によって戦局が変わることを理解していた。  既に敵の目は本隊へと向いていることだろう。 「どう攻めるべきだと思う?」  夏侯淵は背中にへばりついている淡黄色のうねうねとした物体に語りかける。  淡黄色の波打った長髪の隙間から軍師服を覗かせた少女が答える。 「そうですね。やはり、まずは韓遂さんを始め各勢力にちくちくっと奇襲を掛けましょうか。ついでに兵站庫も狙うのもよいかもしれません」 「よし、それでいこう。やつらの強みはその勢力ごとの連携にあるというからな、そこをつつけば効果もあるだろう」  そう言うと夏侯淵は全体を振り返り、号令を出す。 「敵の脇腹に奇襲を掛ける。一歩間違えれば懐に入るぞ、気を抜くな!」 「応!」  部下たちの言葉を聞くと、夏侯淵は程昱の指示に従って渭水を渡河する。  既に西涼連合の軍と曹操のいる本隊が衝突しているのか夏侯淵たちの存在に気付いて駆けつけるような軍は一つもなかった。  渡河を終え、予測してあった地点へと近づくと、確かにそこには陣が敷かれていた。  夏侯淵はまず、その一つ目の陣へ向けて一斉射撃を行った。  騎射による数百本の矢によって油断していた敵が混乱する。  そこへ、今度は数千の弓手による集中砲火。  陣にいた西涼軍は抵抗する間もなく、夏侯惇の攻撃を許してしまう。  前方に兵力を集中させていたがために手薄となっていたらしく、本陣は彼女が思っていた以上に容易く落ちようとしていた。  そのとき、陣の中から慌てたように馬に乗って出てくる人影がある。 「おのれ! 曹操軍の別働隊か!」 「我が名は夏侯妙才……悪いが、その頸もらい受けるぞ」  言葉よりも早く矢は放たれ、夏侯淵の方を見て怒気を露わにしていた敵将の頸を貫いた。  敵将は硬直したまま後方へと傾き、そのまま落馬した。  どしゃりという音を残してどこかへ駆けていく馬を余所に夏侯淵は敵将へと近づく。 「敵将、この夏侯淵が討ち取った!」  その宣言におののいた西涼兵が散り散りになるようにして逃げていく。 「逃がすかー!」  自軍の兵士が息巻いて追撃に出ようとするのを夏侯淵は制止する。 「追わなくていい。多少の生き残りがいた方がいいはずだ。そうだろう、風」 「はい。さすが秋蘭さまですね。察しが良くて助かりますよー」 「ふ、程仲徳に言われるとこそばゆいな」  いつもと変わらぬ調子の程昱に微笑を浮かべつつ夏侯淵は支持を下す。 「よし、軍糧の保管に使用されているものも含め倉は全て焼き尽くせ!」  夏侯淵は陣にある倉という倉を一切合切焼き払わせていく。  これで曹操のいる本隊への攻撃に向かっている別の隊が戻ってきても後の祭りとなることだろう。  赤々と燃えゆく炎を見つめながら夏侯淵は程昱へと訊ねる。 「これでまず一勢力に影響を与えたわけだが……風、次はどうする」 「そうですね。恐らく、兵が逃げ延びたのは韓遂さんか馬超さんのいる陣営でしょうから、そちらへ行くとしましょう」 「わかった。補給を終えたらここを蜂起して追撃に出るぞ!」  そう言うと、夏侯淵は程昱を背にひっつけたまま馬の背へと飛び乗る。  自分にしがみついたまま馬に乗る程昱に彼女は苦笑を漏らす。 「随分と器用なことをするな、風」 「………………ぐぅ」 「頼む、戦場で寝るのは勘弁してくれないか?」 「おおっ、すみません。秋蘭さまの温もりについうとうとと」  どこまでが本気か分からぬ発言に力みすぎた夏侯淵の身体がほぐれていく。  流れというものがあるとしたら、今自分を通して曹操軍に向いていると彼女は感じ始めていた。  良い流れをより一層自分たちの方へと引き込むために休憩も取らずに夏侯淵隊は先へと赴くことにした。  †  西涼で少しずつ戦況が動きつつある中、北郷郡は青州の城陽郡を経由して徐州入りを果たしていた。  徐州の地を踏みしめた彼らはそのままの勢いで琅邪郡まで行軍を続けた。  そんな折、一刀は賈駆を連れて徐州にて力を持つ豪族の邸宅を訪れた。  華雄には鄴から連れてきた兵たちを任せ、街の外に陣を張らせ待機させている。  中枢の数人ならば、街中の宿にでもと薦めたのだが華雄はかたくなにそれを拒んだ。 「私にはあいつらを置いてぬくぬくと過ごすことはできん」  はっきりとそう告げた華雄に一刀は彼女が兵たちに好かれる理由を見た気がした。  常に兵と近いところにあり、部下に厳しくある一方で大切にしている。 「華雄なら、あれだけの兵でも手足のように動かせるのも頷けるな」 「昔からああなのよ。あいつは」 「へえ、部下思いなんだな」 「思い入れが強すぎるのも考え物だけどね」  広間に通された一刀と賈駆がそんなことを話していると、主人である男がのっそりとやってくる。 「いやあ、申し訳ない。待たせてしまったかな」  そう言ってもっさりと蓄えた髭をさすりながら胡座を掻く主人に一刀は手を振って答える。 「いえ、そのようなことはありませんよ」 「それはよかった。実は、良い酒がちょうど入ってのう、今し方それを用意するよう侍女に申しつけたところでね」 「それよりも、例の件はどうなったのか説明願えるかしら?」 「詠、何もいきなり」 「ボクたちには時間がないのよ」  キッと睨み付けてくる賈駆に言葉を失うと一刀は目の前の主人に申し訳なさそうに目配せする。  主人は咳払いすると、佇まいを直して頷く。 「この徐州において、貴君らが狙うは郯と下邳でよかったかな?」 「ええ、その通りです」  確認を取るように話す主人に一刀は深々と頷く。主人が事情を把握している辺り、事前に賈駆が行ったという手回しが上手く機能しているようだった。 「一通りの準備は済ましておるよ。しかし、今後はそちらが中心となって動くという話だったはずだが実際それで大丈夫であろうか?」 「問題ないわ、まだやってほしいことがあるとすれば、折り合いを見て依頼していた通りにボクたちをどうにか領主の元へ通してもらうってことくらいね」 「そうか、私としてはそれなりに私兵もおりますので力を貸すべきかと思ったのだが……」 「それは有り難いと思います。でも、こう言ってはなんですが……損になるような事はしないのでは?」  一刀がそう訊ねると、主人は腕組みをして首を鳴らしながら膝に手を当てると、ぐっと顔を前に出して歯を剥き出しにして笑う。 「出資なくして利益は得られない……それだけのことさ」 「損得勘定をした結果の発言というわけね」  賈駆は主人の言葉にもっともらしく頷く。  このことに関しても彼女は予測しており、一刀も聞かされていた。 『曹操軍によって厳法を敷かれ、徐州の豪族たちは強化された取締りの影響を受けている。反感を持っていてもおかしくないわ』  元劉備軍である鳳統よりもたらされたその情報を一刀も公孫賛軍にいたときに知った。  賈駆はそれを元に徐州の豪族は与しやすいと考え、徐州攻めを決めたのだ。もっとも、その一点以外にも考えはあったが、決定的だったのはそこであるというのは間違いなかった。 「では手筈通りということで」 「ええ、よろしく頼むわね」  賈駆がそう答えるのと同時に幼児ほどの大きさの壷を両手で抱えた侍女が入ってくる。それに続いて数人の侍女が姿を現す。その手には料理の乗った四角い足つきの盆を持っている。  侍女たちは重たそうに運び入れてき壷や食事を置くと、そそくさと広間から出て行った。  一刀は置かれた壷の中へと眼を向ける。  見た限り、酒がなみなみと満たされているのが確認できた。 「さ、折角だ。成功を祈願して呑もう」 「そうですね……」  一刀は曖昧に頷きつつ、手渡された酒杯を口元へと運びかけるが、賈駆が口にしていないのを見て止める。  主人は二人が遠慮しているものと勘違いしたのか、ぐいぐいと薦めてくる。 「さあさあ、固くならず。前祝いと思ってくれればよい」  二人はやむを得ず、酒杯を掲げる。主人は満足そうに頷くと音頭を取る。 「では、成功を願って乾杯!」  主人はそう言うやいなや、あっという間に酒を飲み干した。  一刀と賈駆はちょびりとだけ呑み、あとは、共に運ばれてきた食事へと手を伸ばしていく。 「おや、酒はお気に召さなかったかな?」 「いえ。少々苦手なだけですので、お気になさらず」  一刀がそう答えると、主人は渋々薦めようとする手を止めて自分の杯へと酒を注いでいく。  一刀は嘘をついた。賈駆から事前に言われていたのだ。 『酒を振る舞われても呑むんじゃないわよ。徐州の豪族は利に聡いから酔って眠りこけたところを……なんてこともあり得るわ』  慎重に行動を選択しなければならないことは一刀もわかっていたため、その忠告を守っていた。  隣の賈駆も最低限、呑むだけに留め、肉などを口に運んでいる。 「それにしても、そちらの男性は……御夫君ですかな?」 「ぶっ!」  賈駆は大いにむせて口の中に拭くんだものを全て一刀の顔へぶっかけた。  一刀の鼻腔へ酒の良い匂いと、肉の香ばしい香りが漂ってくる。 「げほっげほっ、な、何を言うのよ。こいつは、ボクの主人よ!」 「ですから、夫なのでしょう?」 「その主人じゃ――」 「ほら、あーん。いやあ、可愛い妻を持って幸せですよ」  食い下がろうとする賈駆の口に料理を突っ込むと、一刀は彼女の代わりに主人に対応する。  それでも腕を掴んで訴えかけてくる賈駆を抱き寄せて顔をすり寄せる。 「んぐっ、な、にゃにをしてんのよ!」 「おいおい、恥ずかしがらなくてもいいじゃないか」  そう言うと、一刀は賈駆の頬に口付けをする。それはあくまで本当の目的を隠すためのこと。  一刀は柔らかな頬から口を僅かに離すと耳元へ囁きかける。 「……詠、ここは俺にあわせろ」 「は、はう……」  賈駆はわかったのかわかっていないのか判断しづらい吐息混じりの返事をする。改めて見てみると彼女の顔は赤い。  木賊色の髪と眼鏡の縁がかかった耳元もほんのりと赤らんでいる。 「いやあ、お熱い」  主人が手でぱたぱたと顔を仰ぎながら微笑む。 「あっははは、いやあ、お恥ずかしい」 「いやいや、若いというのはいい。羨ましい限りよ」  それからも主人のひやかしが続くが一刀はそれに対してただただ笑って対処していった。  しばらくすると、盆にのせられた料理もすっかり姿を消して、主人も顔が赤く大分酔いが回った様子となっていた。 「それじゃあ、そろそろ俺たちは仲間の元へ戻ろうと思います」  頃合いと見て、一刀は切り上げる旨を主人へと伝える。  大分時間がたったことで賈駆も元に戻っており、一刀の言葉に頷いている。 「そうね……少し長居しすぎたくらいだわ」 「おや、泊まられてはいかんのか?」  きょとんとした表情を浮かべる主人に一刀は申し訳ないと苦笑を浮かべる。 「仲間だけを外に置き去りにしてはおけませんから」 「左様か。ならば仕方ないな」  残念そうにそう言うと主人はゆっくりと立ち上がる。  一刀たちもそれに倣って腰を上げと、主人は広間を出ようとしてぽんと手を打った。 「そうそう、服と道具も準備ができておる。持っていきなされ」 「ありがとうございます」 「それから書状も書いておいたので、これも共に」 「それは?」 「紹介状のようなものと思ってくれればよい。印もしてあるから通されるだろう」  髯をさすりながら笑う主人から書状を受け取ると一刀は頭を下げる。 「色々とありがとうございます」 「いやいや、徐州を有能な軍師と名高い賈駆殿に治めて貰えるのならこれくらいなんてことはない」 「期待していていなさい、必ず損はさせないわ」  賈駆はそう言うとずんずんと廊下を歩いていく。 「なるほど、そういうことか」  一刀は内心で感嘆の声を上げると、急いで賈駆の後を追った。  二人は見送りとして邸宅の門まで来た豪族に礼を言うと、すっかり暗くなった夜道を歩き出した。 「いやあ、流石だな。舌先だけであれだけ丸め込んでたとは……その頭脳は伊達じゃないな」 「このボクにかかればああいう手合いは簡単に操れるわよ」  一刀の言葉に賈駆は胸を張って自信満々の笑みを浮かべた。しかし、それもすぐに険しいものへと代わり、彼女は一刀を眼鏡越しにじろりと睨み付ける。 「……ところで、あんた何考えてるのよ」 「は?」 「ぼ、ボクの……その、お、おお、夫だなんて」  そう言うと、先ほどのことを思い出したのか賈駆の顔が一瞬で赤一色になる。 「ああ、あれか」 「し、しかも……そのうえ、あ、あーんとか唐突な口付けとか……」  ごにょごにょと呻く賈駆に頬を綻ばせながら一刀は反論をする。 「仕方ないだろ。大体、あの人にとって俺はよく知らない男で重要なのは詠の方だったろ? なのに、俺を主人だなんて言うから誤魔化したんじゃないか」  賈駆はぐさっと胸に言葉の矢が刺さったように仰け反る。 「う……だって、しょうがないじゃない。変な勘違いしてたから訂正しないと」 「だからって、あれはないだろ……それとも、詠は俺と夫婦って思われるのいやなのか?」 「ば、馬鹿ねえ、それはもちろん………………嫌じゃないわよ」  そう言うと、賈駆はぷいっとそっぽを向いてしまった。落ち着かないのか、その細い指は月光を受けて煌めく木賊色のおさげを弄っている。  一刀は、そのあからさまな反応にむくむくと嗜虐心を掻き立てられる。 「ごめん、良く聞こえなかったからもう一度言ってくれ」 「い、嫌よ!」 「えー、じゃあ、やっぱり詠は俺とそういう関係って思われるの迷惑だったんだな」  一刀は自分でも少々態とらしすぎるかと思うほどに深い溜め息を吐く。 「も、もう……その、ちょっと嬉しかったわよ」 「そうかそうか、いやあ、凄く嬉しかったのか」 「ち、違っ――わない」  否定しようとする賈駆だったが、一刀の落胆顔に負けて言葉を曲げた。 「よーし、それならいっそのこと今回のことが決着付いたら結婚するか?」 「えっ!?」 「なんてな。流石にそれは悪のりが過ぎるな。ごめんごめん」  謝罪の言葉と共に顔をのぞき込むと、賈駆はぎょっとした様子で硬直していた。 「詠?」 「この……鈍感最低馬鹿男!」  月夜の下、哀れな男の悲鳴が辺りへと響き渡った。  †  城外に張ってある陣へと一刀たちが戻ると、兵たちはみな緊張した面持ちで待機していた。  正規の軍として行動しているわけでもない。それが神経を高ぶらせているのだろう。  山から吹いてくる風がほんの少しだけ肌寒さを感じさせるが、松明の炎がそれを緩和してくれていた。  戻ってきた一刀たちを見つけた華雄が走り寄ってくる。  その肌にはうっすらと汗が滲んでおり、月明かりを受けて輝きを帯びている。 「おお、どうだった!」 「ばっちりよ」 「そうか、それは良かった。こちらも準備は済んでいるからいつでも動けるぞ」  華雄が左手で右肘を支え、右手を顎に手を添えながらそう言った。  一刀は彼女の報告に頷きながら予定を告げる。 「今日は身体を休めてくれ。明日、明け方にでも出よう」 「わかった。兵たちには私の方から伝えておこう」 「心配だから、ボクもついていこうかしら?」 「信用ならんのか……」 「ええ」 「そんないい笑顔で頷くやつがあるか!」  明るい笑みで元気よく頷いた賈駆に華雄が怒声をあげる。  ただ、二人とも楽しんでいるとわかるから一刀は止めようとはしない。 「まあ、華雄だしな」 「そうそう。華雄なんだもの、仕方ないわ」 「き、貴様ら! そこに直れ、叩き斬ってくれる!」  戦斧――金剛爆斧――を手にした華雄がうがーっと喚く。 「自分の不甲斐なさを棚に上げるなんて、ホント情けないわね」 「なんだと!」  一刀は、両手で持った金剛爆斧を今にも振り上げんとしている華雄の様子に予想に反した本気を感じて冷や汗を流す。 「え、詠! そういう強気な発言は俺を楯にせずにしてくれぇ」  必死になって一刀は背後に留まり続ける賈駆に叫ぶ。 「大丈夫よ、あんたは斬られないわよ」 「俺の眼を見て言え!」 「ふん!」  背後に顔を向けていた一刀は頬に風を感じ、ぎこちなく正面に眼を向ける。  両脚の間すれすれに金剛爆斧が突き刺さっていた。 「お、おい……やばいって、完全にやばい!」 「ぼ、ボクしーらないっと!」  そう言うと、賈駆は一目散に天幕へ向けて逃げ去っていった。 「置いていかないでくれぇ!」  必死に手を伸ばすが最早何もかもが遅かった。機を逸した一刀は唾を飲み込み振り返る。  華雄がしたり顔で一刀を見ていた。 「あれ?」 「なんだ、もしかしてあの程度で私が暴れるとでも思ったか?」 「正直、そう思ってた」 「癪だが、詠の言うことも正しいのでな」 「ん? 華雄がどこか抜けてるってこと?」 「違う! ……その、お前には手が出ないって事だ」  華雄はそう言うと、僅かに頬を染めながら咳払いをする。  一刀も悪い気がしなかったので、そのまま受け入れて話を変える。 「ところで、華雄は何かしてたのか?」 「何故、そう思う?」  一刀は不思議がる華雄の露出度が高い服装から覗く白い肌を指さす。 「さっきから汗かいてるのが気になってたから。身体動かしてたんだろ?」 「あ、ああ。少々自己鍛錬をな」  微妙にどもった感じでそう言いながら華雄は汗を拭い、一刀から一歩下がる 「凄いな、常に鍛錬を欠かさないなんて」  一刀は一歩詰め寄る。 「まあな、時間に余裕があるなら自分を鍛えないのはどうにも勿体ないと感じてな。それに、もう霞には負けたくないしな」  華雄は今度は二歩下がる。 「そうか……ところで、なんでさっきから微妙に距離をあけるんだ?」 「いや、その……鍛錬を終えたままだから汗臭いのではないかと思ってな」  上目遣いで様子を窺ってくる華雄に一刀は顔を近づけてすんすんと鼻を鳴らす。 「そんなことはないさ。華雄の良い匂いしかしないよ」 「ば、馬鹿、嗅ぐな! 嗅ぐんじゃなーい!」  華雄が一刀の顔を両手でぐっと押しのける。 「恥ずかしがることないって、アノときだって濃密な匂いが――へぶっ」 「いい加減にしろよ……貴様」  肩を上下させて息を荒げている華雄の瞳は完全に血走っていた。  一刀はぐらりとふらつきながら華雄を恨めしげに見る。 「は、話が違う……俺には手が出ないんじゃないのか……」 「う、うるさい! しつこいお前が悪いんだ」 「なんだよ、俺は先の事考えてるうちに緊張してきたから華雄の匂いで落ち着こうと」 「……この馬鹿ものが」  そう言いながらもすっと前腕を差し出してくる華雄に一刀はくすりと笑うのだった。  †    北郷軍が琅邪郡を発ってから少ししたある日のこと。  二つの人影が下邳へと入城していた。ボロ布を纏い、背には楽器をしょっており一見すれば楽士とわかる。  現在、この楽士たちは下邳を治める領主の元へと向かっていた。  道中、いたって平穏な様子を見せる民を見て痛む心を隠しながら楽士たちは通りを歩いていく。  そうしているうちに彼らは城内でも一際大きく装飾などで華やかさを強調している邸宅へと到着する。  彼らはどっしりと構えた門兵へと声を掛ける。 「あのー、すみません」 「何用か?」  じろりと怪しむ素振りを見せる兵に楽士は手を出す。その手のひらには一通の書状。 「こちらの主人に宴の肴として推挙されまして……」 「ほう、確かに印もあるな」  書状を確認すると、門兵はふんと荒い鼻息を吐き出しながら楽士を通す。  中へ進むと、すぐに侍女がやってきて、二人を案内すると言い出した。  断る理由もないので二人は侍女に従う。  暫く敷地内を歩き、豪勢な門が遠ざかったところで大きい方の楽士がボロ布の頭部を僅かに上げてもう一人へと話しかける。 「上手くいってよかったな」 「そうね。でも、ここからが重要なんだから油断するんじゃないわよ」  賈駆の言葉に一刀は重々承知していると頷く。  彼らは下邳を落とすための手段として楽士に身を扮して邸宅へと忍び込む方法を取りこうして侵入していたのだ。  共に来た兵士の多くは既に城内のそこかしこに配置している。何かあれば邸宅へと押しかけてくるだろう。  とはいえ、その兵も全体の二割程度でしかいない。残りの八割はというと、華雄と共に郯を攻めていた。 「華雄、大丈夫かな?」 「事前の調査の限りだと落城までそう時間もかからないはずよ」 「そうか。合流できるといいんだけどな」 「もしかしたら、既に向かってたりしてね」 「はは、まさかな」  別所で戦っているであろう仲間を思い一刀は空を見上げる。  琅邪郡を出てから二手に分かれた彼らは、華雄が真っ直ぐ郯へ向かったのに対して微妙な遠回りをしながら下邳へと来たのだ。  時間を多く取ることで、華雄が先導して起こった豪族の反乱の報せがここへ届くのを狙ったからである。  郯が窮地に陥ると知ればこの下邳からも十中八九救援が出ると踏んでいたのだ。  そして、その考えは見事的中し、警備が手薄となった城郭へと少ないとはいえ兵たちを忍ばせることに成功した。 「多少の手違いがあってもなんとかなるって考えて気楽に行くべきか……油断しないべきか」 「なに一人でぶつぶつ言ってるのよ。危ない人に見えるじゃないの」  肘で脇腹をつつかれてようやく侍女が白い目で見ていることに気がつき、一刀はボロ布で顔を隠す。 「それにしても、これ邪魔だな」  一刀は背中の瑟を横目で見ながら身体を捻る。 「仕方ないでしょ……一応、楽士として来てるんだから」 「まあな。だけど、詠の格好だけは歓迎だな。何せ舞を踊ると偽るためとはいえ、少しエロ――ぐっ」 「よ、余計な事は口にするな! 気取られたらどうすんのよ!」  憤る賈駆の服装がボロ布からちらりと覗く。  華雄が普段しているような格好同様に胸元しか隠れていない上半身、覗くへそが可愛らしい。  下半身も片側に切れ込みの入った腰布を撒いており、長めだが、時折覗く生足が色っぽい。 「今度、その格好で閨に――ぐっ!?」  言い終える前に一刀の頬に拳がめり込んでいた。 「ず、ずびばぜん」 「少しは緊張感ってものを持ちなさいよ」  怒る賈駆を宥める一刀の内心は緊張でがちがちだった。あくまで巫山戯ることで多少緊張を和らげているだけなのだ。  賈駆もそれをわかった上で普段通りの手厳しい反応をしているのかもしれない。  そんな風に考えると少し気持ちが落ち着いた。 (そうだ、俺には詠がいる。そして、詠は俺が守らなきゃいけないんだ)  しっかりしなくてはと自らを鼓舞して一刀は彼女の隣を悠然と歩く。  通された広間には奇妙な人間が一人座っていた。 「…………」 「え、ええと、どうも」 「どもらない……おほん、とにかくコチラにお目通しを」  一刀の胸を肘で突きながら注意する賈駆も若干表情が引き攣っている。  それは目の前の人物が妙な仮面をしているからだけではない。放たれる雰囲気が異様なのだ。  賈駆から書状を受け取ると、仮面の人物はじっと物静かに書状を見つめる。眼を走らせているかどうかもわからない。  しばらくして書状を折りたたんだ仮面の人物が声を出した。 「用件はわかった。そっちが瑟を弾き、もう一人が踊るというわけだな」 「ええ、そうです」  仮面のせいか籠もっているがその声から目の前の人物が男であることを一刀はなんとか察する事ができた。  性別がわかったとはいえ、やはり仮面が気になるわけで、ついつい一刀は凝視してしまう。 「どうした? これが気になるか?」 「え、ええ……」 「ば、馬鹿っ!」  無遠慮な一刀を賈駆が叱咤するが、仮面の男は一定の声量を保ったまま淡々と語る。 「かまわん。これは戦で火計を受けたときに負った火傷を隠しているだけだ」 「そうでしたか」 「それよりも……面白そうだから、早速聴かせて貰おうではないか、その瑟の音とやらを」  仮面の奥から鋭い眼光が向けられているのを感じて一刀は背中に大量の冷や汗を掻いていた。  本能が訴えかけている。何かがおかしいと。  今にして思えば、門兵にしても侍女にしてもどこか違和感があった。 「くく……どうした? 早速楽しませてくれ……本当に弾けるのならな!」  そう叫ぶ仮面の男に一刀と賈駆は言葉をなくし息を呑む。 「いやはや、別の用事があってあのゲイ野郎に曹操軍の……名前はなんだったか? まあいい、木偶と入れ替わりをさせられていたが……まさか、貴様の方から俺の元へ来てくれるとはな」 「な、何を言ってるんだ?」  意味が分からず困惑する一刀たちを見下すような冷笑とも嘲笑とも取れる笑い声を上げながら仮面の男は立ち上がる。  無意識のうちに一刀は賈駆を背にするような体勢を取っていた。 「お前……誰だ?」  この男は、本来ここにいる存在ではなく別人である。  一刀はその考えに達し身構える。  頭の中で警笛のように鳴り響く。気付け気付けと囃し立てる。  心臓がどくどくと早く脈打つ。  唾が上手く飲み込めない。 「ふう……忘れたのか? いや、こいつのせいでわからないのか」  そう言って仮面に触れる男。 「まあいい、どのみち貴様は死ぬ。態々知る必要もあるまい」 「不味い、詠! 俺の背中に隠れてろ」  賈駆と男の間の壁となるように一刀は仁王立ちする。 「さっさと死ね!」  男が素早く手刀を打ち込んでくる。  一刀はそれを背中にしょっていた瑟で受け止めるが、貫かれ破砕する。 「そんなものでこの俺の攻撃が防げるとでも思ったか」 「ぐはっ」  瑟で死角となった下方から放たれた蹴りが一刀の脇腹を抉る。  重みのある一撃にぶわっと油汗が噴き出てくる。  一刀は歯を食いしばって耐えると、瑟の中に隠し持っていた刀を手にして突きを放つ。  刃は男の仮面に刺さり、真ん中からぱっくりと二つに割れた。  仮面の下から見覚えのある顔が現れた。  無造作な栗色の髪。  この世界――外史の人々を……いや、外史自体を嫌悪するような瞳。  そのどちらにも見覚えがある。 「お、お前……そんな馬鹿な」  男は常にへの字を描いている不機嫌そうな口元を更に忌々しげに歪めている。 「貴様ぁ……舐めた真似を」 「お前……左慈!」  それはこの外史へ訪れることができなくなっていたはずの少年だった。  見る間に着物から導士服へと替わっていく姿に本物であると確信し、一刀は目眩を覚えそうになる。 (馬鹿な! 貂蝉が外史に入り込めないようにしたはずじゃなかったのか!)  一刀は内心焦りを感じていた。  目の前に存在にする本来ならばあり得るはずのない現実に彼の動悸は一向に収まらない。 「あ、あいつ……月を……月の両親を……」  左慈を見たまま賈駆が硬直していることに気がつき、一刀は声を掛ける。 「詠、落ち着け! 一旦、引くぞ」 「あいつだけは許せない!」  一刀の呼びかけを無視して賈駆は左慈の方へと向かっていく。 「詠! 待て!」 「ふん、外史の発端でもない木偶ごときに俺の手は汚さん。やれ!」  左慈の声に従うようにして物陰から見覚えのある白装束が現れて矢を射った。  賈駆は気がついていない。 「詠! くそっ、間に合え!」 「あんた! あんたがぁっ! きゃあっ!?」  一刀は咄嗟に彼女に体当たりするようにしてぶつかる。  賈駆の身体が一刀に押されてよろめきながら数歩横へと動く。 「良かった……」  間に合ったことに安堵し、微笑もうとした瞬間、一刀の全身にどすっという衝撃が走る。  ボロ布と一緒に張遼からの借り物である羽織がひらりと舞い落ちる。  あまりの衝撃に目の前がちかちかと点滅し、腹に一撃を受けたかのように呼吸ができなくなる。 「く、くそ……ちくしょう」  一刀は胸元に突き刺さった矢を目にして歯噛みしながらその場に倒れ込んだ。  そんな彼を見下しながら左慈がふん、と鼻で笑う。  賈駆は足下から徐々に震え出し、歯を小刻みにがちがちと噛み合わせている。 「嘘よね……ちょっと、嘘よ……うそよー!」 「くく……ふははは! 勝った! これでこの外史も終わりだ!」  賈駆の悲鳴と左慈の高笑いが室内へと響き渡っていた。