玄朝秘史  第三部 第四十回  1.観望 「朱里ちゃん、雛里ちゃん、ちょっといいかな」  間近でそう呼びかけられるまで、二人の少女は盤上のやりとりに夢中になっていて、周囲のことが見えていなかった。 「はわ、はわわっ!」 「あわわ……」  顔をあげてみれば、桃色の髪を揺らす彼女たちの主。 「いま、忙しい?」  桃香は二人が一心不乱に動かしていた卓上の木の駒を見て訊ねかける。それは白眉攻めの部隊の動きを示すもののはずだ。 「い、いえ。これは確認のためのものですから」 「大筋はもう決まっていますから、問題はありません……」  蜀の誇る二つの頭脳は時にあり得ないような奇想を生み出す。実際の敵ならば――まさに彼女らに匹敵するほどの策を描き出す人間がいないが故に――出来ないようなことまで考えついてしまうのだ。その、おそらくは仮想に過ぎない戦術の鮮やかさについつい気持ちを入れすぎていた二人は、ばつが悪そうに答えた。 「そう? じゃあ、少しいいかな」 「はい、もちろんです」  そうして、三人は桃香の天幕へと移動する。桃香は総大将といえども象徴的な部分が強いので城中にいてもいいのだが、なるべく兵の側でその苦労を分かち合いたいと、陣中に天幕を用意させてあるのだった。武陵自体、町の規模が小さく、城に留まれば周囲に気を遣わせるという理由もあった。 「あのね、翠ちゃんから手紙が届いたんだ」  三国の地図が広げられた卓を真ん中にして三人が落ち着いた所で、桃香が話し始める。 「翠さんからですか」 「うん。桔梗さんが送り直してくれて」  出兵の事情を知らない翠の手紙はもちろん成都に宛てたものだ。それを桔梗が封も開けずに荊州にいる桃香へと転送したのは、翠からの手紙というものがいまどんな意味を持つか理解しているからだろう。 「日付は一月くらい前かな。涼州はほとんど平定し終えたって」 「そうですか。北伐は順調のようですね」 「さすがは翠さんですね」  そこで桃香は一つ息を吸い、調子を整える。 「ねえ、朱里ちゃん、雛里ちゃん」  彼女は己の軍師たちの顔をしっかり見据えながら前に乗り出した。 「この乱が終わって北伐も終わったなら、三国の大乱が終わった時とはまた違った新しい時代……新しい治世が始まると思うの。違うかな」  二人は主君の言葉に籠もった熱っぽさに驚いたような顔をしていたが、すぐに穏やかな笑顔と共に頷いて見せた。 「ええ、その通りでしょう」 「そうだよね。だからね、それをいま話しておかないといけないと思って」  これにも二人の少女は頷く。桃香の熱が移ったかのような勢いのある動きだった。 「すばらしいお考えかと」  朱里の言葉に嘘も、ましてや阿りもあるはずはない。だが、内心、己の主の成長に驚嘆しているのも確かだ。それは、おそらく黙ったままの雛里も同じだったろう。 「私は二人ほど頭も良くないし、先も見えないけれど、これだけはわかるの。今回の……白眉のようなことを起こさないためにも、私たちがやるべきことは、いろんな人たち……私たちの影響が及ぶ土地に住む人たちの声を聞くことだって。そして、それを喜びの声や安堵の声に変えていくことだと思うんだ」  自身の中にある思いを表現しようと懸命に言葉を選び、彼女は続ける。 「ただ、私にはそれを実際にどうやっていくべきか、その……展望っていうのかな。そこまではわからないんだ。だから、二人に訊きたいの」  朱里と雛里はその言葉にしっかりと頷き返す。それを確認して、桃香は安堵した表情で、なにかを思い出そうとするかのように視線をさまよわせた。 「それとね、私たちのほうが民の声を聞き入れるだけじゃなくて、私たちがなにをしているかっていうのも、みんなにわかるような形が作れたらなって思ってるんだ。もちろん、細々としたことまで全部明らかにしようっていうんじゃなくて……安心できる環境をね、つくってあげたいと思うんだ。そう、結局の所、私は、みんなが本当に安心して暮らせる国をつくりたいんだと思う。それこそ、のーんびりしていられる国をね」  私がのんびりしすぎてると怒られちゃうけどね、と付け加えて、えへへ、と桃香は笑った。  その様子に、朱里と雛里、二人の少女は顔を見合わせる。表情に浮かばぬまでも、その眼に浮かんでいるものは共通している。己の成すべき事を成せる時と場所にいられる幸運な者たちが宿す喜びと決意がそこにある。 「桃香様のお考えはわかりました。それでは、私たちが考える今後のこの大陸の動きについてお話ししましょう」 「実は、私たちも、そのあたりについては色々と考え、意見を交わしていましたから……」  朱里が口火を切り、雛里が補足する。その様子に桃香はうんと嬉しそうに頷いた。この二人なら、きっとそうしているだろうと思っていたのだが、図に当たったらしい。 「現在、大陸では大きな動きとして北伐と白眉が起こっています。前者は魏の主導による意図的なもの。後者は民の間から起きた偶発的なもの。いずれも巨大なうねりであり、それが終息すれば新たな秩序が築かれることは明白です」 「しかしながら、両者を比べた時、より重要なのは北伐の影響です……」 「そうなの?」  小首を傾げる桃香に対し、朱里と雛里は滔々と説明してみせる。 「白眉に関してはまずは鎮圧することが重要でその先に関しては各国から明確な道が示されていないというのもあるのですが……。それを考慮せずとも、かつての黄巾ほどの影響はないのではないかと考えます」 「理由はいくつかありますが、最も大きいのは、かつての黄巾は功名の場であったのに対し、白眉に対しているのは既に功成り名を遂げた者たちだということです……」  雛里の言葉に桃香は思わず昔のことを思い出す。たしかに黄巾と、それに続く反董卓連合こそが彼女たち自身、そして、群雄たちの飛躍の時であった。それに対して、今回の白眉鎮圧は魏、呉、蜀、三国の統率された軍が中心。自ずと影響は異なるのかもしれない。 「白眉鎮圧の功罪は三国の首脳部……つまりは私たちに跳ね返る、いわば内政問題です。大きな出来事ではありますが三国の枠組みを崩すものではありません。一方で、北伐は……」  朱里はちらと地図に視線をやってから、顔を引き締める。 「三国の、そして、この大陸全土の枠組みを再編するものです。先程話の出た涼州、そして、おそらくは幽州も、三国に一段落ちる形とはいえ国としての体裁を取り始めるでしょう。三国は、五国へと変わっていきます」 「白眉の件については幽州だけはある意味例外です。北伐と白眉討伐が一体化した結果、幽州における白蓮さん……郷土に帰ってきた英雄の名は飛躍的に高まることでしょう。その威名は異民族たる烏桓にも鳴り響き、北東に巨大な勢力を築かせることになる……。翠さんに関しても構造は同じですが……」  代わる代わる説明してくれる二人の言葉を、桃香はなんとか理解しようとする。彼女たちによれば、北伐の終了により涼州と幽州は、名目上はどうあれ実質的には国としての形を取ると共に周辺異民族を巻き込んで領土を拡大し、いわば漢の両翼とも言える存在になるのだという。  そこから得られるのは、その土地の恵みに限らない。両国から繋がる西方や東方海域などの様々な方面との交易から生み出される富がそれぞれの国に、そして最終的には三国にももたらされることになる。 「そもそも、北伐にはいくつもの狙いがありました。漢土に仇成す異民族を恭順させて辺境を安定させること、涼州を平定することで不安定だった西方経営の地盤を固めること、三国の大乱が収まったことで行き場を無くして燻っていた各軍を程よく利用すること。いずれも三国共に益のあることですが……」 「しかし、やはり最も得をするのは魏ということに……」 「まあ、華琳さんが始めたことだから、そうなるんだろうねえ」  涼州の安定と、西方交易の本格化は蜀にとっても利点であるし、東方の海上交易は呉にとって有益なものとなるだろう。しかし、漢の中央部を押さえている魏にとってはそれ以上に利益となることは間違いない。ましてや、幽州、涼州ともに魏の属国となるのだから。 「北伐に関しては魏が最も力を注ぎ込んでいますし、当然とも言えますが……」 「我が国の発言力が下がる可能性はやはり……」 「そっかー……」  三国とはいえ、その中では魏が頭一つ抜けている。そもそも大陸の覇者であるからには当たり前のことではあるが、それがさらに強大化するとなれば、桃香としても心穏やかではいられない。 「とはいえ、五国の体制でも、内を充実させ、外と積極的に交易を行い、関係を進展させていけばそれほどの問題は起きないと思います。先程桃香様が仰ったような、民の意見を吸い上げ、また、こちらの成すことを知らせていくようなことを通じて国力の根本を豊かにすることも可能かと思います」 「これまで通りやれば大丈夫ってことかな?」 「いえ、そういうわけでもありません。これまで述べてきたとおり、今回の騒乱が終わることで、いくつかの問題が生じます。たとえば、白眉の平定に関しても、実際の戦だけではなく、そこからの復興が……」  朱里と雛里はそこから問題点と解決策を挙げていく。  問題点としては二つ。  一つは他国との関係。これは交易にしろ人的交流にしろ、迅速で的確な判断が求められる。  もう一つは国内の問題。今後白眉のような騒乱が起きないよう、民の不平不満をきちんと感じ取れるような対策を立てると共に、白眉による被害の回復、人心の安定に努めなければならない。  これに対する解決策は、共通するものだった。  すなわち、出先機関の増強。 「簡単に言いますと、私が現在いるような漢中の府を、ここ荊州や南方――南蛮との境あたりにつくります」 「呉も荊州経営を穏さんに任せているように、我々も荊州府、南蛮府を設置し、それぞれの地方の経営や、各々が接している国との折衝を委任するんです」  ふんふん、と桃香は熱心に聞き入っている。そこで朱里は少々思わしげに顔を歪めた。 「ただし、これは人選と、権限の策定が非常に難しいところです」 「人選かー」 「はい。たとえば漢中に私、成都に雛里ちゃん、荊州に紫苑さん、南蛮に桔梗さんと配置すると、洛陽――魏への大使を誰にするか悩ましいんです」  呉との関係は荊州で主に話し合えばいい。新たに出来る幽州及び西方への経路を確保するのは漢中で行えばいい。しかし、対外的に最も大事な魏へ誰を宛てるか、それが難しいところだった。朱里か雛里のどちらかが行ければ一番いいのだが、この二人が国外に長く出ているのは危うくもあった。  都たる成都と、魏、涼、荊の三方向を睨む漢中からこの二人を離すことは難しいというのもある。 「ふうん……」  桃香は腕を組み考えていたが、そのうちに明るい顔つきになった。なにか悪戯っぽい表情なのが、妙に気になる朱里であった。 「でも悪くないね。今度みんなで話し合ってみようよ。それこそ桔梗さんたちの意見も聞きたいし」 「ええ、そうですね」 「うん。二人と話してよかったなー。やっぱりきちんと考えていてくれるんだねー」  うんうんと強く頷いて二人を褒める桃香。その言葉に二人は顔をうつむかせる。一人は照れくさそうに顔を赤らめ、一人はわずかにその表情を曇らせて。 「ただひとつ」 「え?」 「雛里ちゃん?」  雛里がぽつりと呟いた言葉は、桃香も朱里も予期していないものであった。 「ただ一つだけ、なにもかもを変えてしまう、恐ろしい未来があります」  二人と視線を合わさぬまま、小さな声で彼女は続ける。 「あるかどうかはわかりません。けれど、もし、それがあるとしたなら、我々はいくつもの決断を迫られるでしょう」  そこで彼女は顔をあげ、まっすぐに桃香のことを見つめた。この恥ずかしがり屋の少女がやるにしてはあまりに決然としたその仕草に、桃香は視線に射貫かれたように体を強張らせる。 「桃香様にもその時の心づもりをしておいていただきたいと……思います」 「な、なにかな?」  そうして、その少女はゆっくりと己の予測を口にするのだった。 「なにもかもが変わります。華琳さんが帝を名乗る決心をすることで」  と。  2.閲兵  兵が駆ける。長槍を構え、汗を流して、彼らは指定された場所へたどり着くまで精一杯に駆ける。  持ち場についたところで、反転の命がかかる。それに応じて集団は再び駆け始めた。  兵の動きは一糸乱れぬとまではいかぬものの、命に従おうという意気に溢れている。わずかに乱れている呼吸もいずれは整えられ、全体が一個の生き物のように動くようになるだろう。  そう思わせるだけのものがあった。 「悪くないね?」  兵の群れの様子を少し離れた場所から眺める三人のうち、青年が訊ねるように呟く。それに肩をすくめるのは白い着物の女性。その動きに、衣に縫い付けられた美しい刺繍が動き、陽に煌めいた。 「元々我が軍でも主力ですからな。それが関雲長に率いられるとなれば、悪いはずもありますまい。ぎこちなさも戦場につけば雲散しましょう」 「ふむ」  一刀は星の評価を聞いた後で、黙ったままの黒衣の人物に目をやる。 「焔耶はどう思う?」 「訓練自体はいいのではないか? 問題は我らの目が無くなった時かもな」  愛紗の号令に従って訓練を繰り返す兵たちを眺めやり、焔耶は警戒するように返した。 「我らの感覚と、兵や民たちでは自ずと異なるからな」 「星と焔耶、二人の蜀の将が見ていないところでは怠けたりするってこと?」 「そこまで本気で心配しているわけでもないが、しかし……」  硬い表情で言う焔耶に対し、それを聞く星の方は艶やかに笑うばかり。 「そう心配するものでもあるまいよ。噂や伝聞でしか相手を知らぬ民とは違うのだ。兵は愛紗を知っている。共に戦い、共に生き残ったのだ。そして、いま、愛紗に指揮されて、彼らは思っていようさ。ああ、関雲長はなにも変わっておらぬと」 「……そうかもしれんな」  焔耶が少し考えてから深く頷く。星の言うことも尤もであった。元来彼らは愛紗の部下だった者たちだ。再びその指揮下に入れば、体感が問題を解決してくれるだろう。  それまで主力を動かせないのは問題ではあるが、そこは小競り合いなどを担当してもらって早めに一体感を得てもらうしかあるまい。 「ともかく、愛紗に最善を尽くしてもらうしかないわけでな」  にやりと意地の悪い笑みを浮かべる星に、今度は焔耶が肩をすくめる。その様子を見ていた一刀が声をかけた。 「じゃあ、次に向かおうか?」  そうして彼らは汗を流す兵と、それを叱咤する愛紗の姿を眺めながら歩き始める。 「そうそう。これはまだ内意ですが、桃香様は鈴々への罰を黥刑(げいけい)と決めたようで」 「黥刑?」  耳慣れぬ言葉に一刀が眉をはね上げる。 「知りませんかな。膚に刺青を入れる刑罰ですよ」 「あ、聞いたことあるな。えーと、英布? なんかそんな人が顔に刺青を入れてて、黥布って名乗ったとか……」 「なんでそんなことばかり知ってるんだか。お前、天の国の人間ではないのか?」  呆れたような焔耶に対して、いや、そのあたりは漫画で……。とは言えぬ一刀であった。 「この罰則、仰るとおり、元来は秦やさらに古い時代のものです。国が漢となってからはなくなっていたものなのですよ。まあ、最近はこれらの肉刑も復活していると言うことですが、公式にはないことになっております。公にならぬ罪には公にはない罰と、そういうわけで」  飄々と言う星の様子に、一刀はなにか反論しようとして言葉を呑み込む。少し考えた後で、当たり障りのない発言となった。 「でも……刺青って痛くない?」 「当然痛みます。それに、ずっと残るものです。だからこその罰」 「……目立つところだとかわいそうじゃないかな……」  ぽつりと言うのに、ふんと焔耶が鼻を鳴らす。 「本来は額に入れるものだぞ」 「ひ、額? 公にしないんじゃないの!?」 「さすがに額はどうですかな。まあ、首筋あたりでも十分罰となるでしょう」  驚いたように言う彼を宥めるように星が告げる。あるいは上腕あたりかも、と付け加えた所で、ようやくのように驚愕の表情を収める一刀。 「ううむぅ……。でも、なんていうか、よくそれに決めたね、桃香も」 「人ごとのように言うな。桃香様がそれをお決めになったのは、お前が鈴々と話した直後だぞ」 「え、そうなの?」 「その通りです。何ごとか感じられたようで、刑罰とは他人にはわからぬでも当人には伝わるようなものを、と朱里と雛里に相談した結果がこれというわけで」 「ははあ」  経緯を聞いて一刀は大きく首を振る。たしかに人ごとのような態度でいる場合ではない。あの時、なにを感じたか、一刀には定かではなかったが、彼と張将軍とのやりとりがきっかけ、あるいは決定打となったのは間違いないのだろう。 「叱ってやるのも姉の役目。そう仰っていましたな」 「そうか……」  男は歩く先を見つめ、しばし考える。もはや愛紗の部隊は背後にあり、聞こえてくる物音だけがその存在を主張している。人が走り回る音や、それによって鳴る金属音に耳を澄ませつつ、彼は二人に静かに話しかけた。 「たぶん、桃香からも伝えるんだろうけど、当事者の俺からも華琳たちに話してみるよ。桃香の決めたことを拒絶するってわけでもないけど、華琳や桂花たちがどう考えるかってのもあるしね」  両者共、答えはない。ただ、星が感謝するように眼を伏せるのが一刀の印象に残った。  3.総覧 「さて、次の部隊は……緊張するな」  しばらく歩き、再び開けた場所に近づく段になって一刀がそう漏らした。 「おやおや、自らの部隊だというのに」 「だからこそ、だよ」 「まあ、新設の部隊だからな」  焔耶の言うとおり、いまから向かう先にいるのは一刀の直轄部隊とはいえ母衣衆ではない。三国の連携が話し合われた後に各部隊から抽出して作られた新しい部隊なのだ。 「実際の運用は沙和の弟子たちがしっかりやってくれるとは思うんだけどね」  彼らが向かう小高い丘の向こうから、既に訓練の声が聞こえてきている。そこに飛び交う怒号はまさに彼が教え、それを沙和が練り上げた海兵隊式訓練のもの。  だが、わずかにその趣が異なる。 「豚娘どもは、姉妹(しすたぁず)を愛しているか?」 「生涯忠誠! 命かけて! ほわっ! ほわっ! ほわーー!」 「歌を育てるものは?」 「熱き血! 血! 血!」 「おれたちの商売は何だ、お嬢様?」 「殺しだ! 殺せ! 殺せ!」 「お前たちが守るものは?」 「天! 地! 人! ほわーーーーっ!!」  そして、兵たちの叫びに負けぬほどの、澄んだ声がそれに答える。 「あーりがとーーーっ!」 「みんな、がんばってー!」 「大好きーっ」  三つの爽やかな声に押されるように、彼らは走る。怒濤の如く、その声の限りを放ちながら。まさに雪崩のように部隊が動き、一糸乱れぬ挙動で槍を放ち、再び振り上げる。 「なんというか……」  丘の上から、その部隊の動きを眺めやり、焔耶は喉の奥で妙な音を鳴らした。歴戦の将たる彼女をもってしても異様な迫力を感じさせる隊であった。 「まあ、しかし、とてつもない決断ですな。黄巾の賊を再生しようとは」 「いまは賊じゃないさ」  からかうように言う星に答える一刀もまた苦笑を浮かべている。それもそのはず、眼下の部隊こそ、三国の兵士たちの中から元黄巾、それも親衛部隊にいた者たちを中心に募集して作り上げた集団なのだ。  いかに時代が変わったとは言え、黄巾賊であったことを告白することは心情的に厳しい。生まれ変わった数え役萬☆姉妹の信奉者ではなく、それ以前、黄天を奉じて賊として暴れていた己をさらけ出すことは、軍内での立場のみならず、今後の生活にも差し障りかねない。  まして、黄巾の多くを吸収した魏はともかく、呉、蜀ではその障壁ははるかに高かったろう。  しかし、それを押してもなお名乗り出た者たちがいた。戦場で三姉妹を守り、白眉を打ち倒すことを決意した者たちの心は、文句のつけようがないほどに強い。  その数、実に五千を超える。  これを一刀は沙和の薫陶を受けた士官たちに任せた。  歌姫たちへの信仰とも言えるほどの忠烈と、海兵隊式訓練が重なり合った時、そこに生まれるものはなにか。  それこそを、彼らは見ているのだった。  きびきびと動く体。  あふれ出る声と、そこに込められた熱情。  振り下ろされる武器に宿る、とてつもない力。  間近にいるわけでもないというのに、足元から熱気が忍び寄ってくるのではないかと思えるほどの、その勢い。  これこそ白眉中枢を打ち砕くための部隊として一刀が期待を寄せる和了隊であった。  実はこれと同じ考えの、否、さらに尖った部隊が北方で編成されていることを彼らは知らない。稟の発案により組織された、白眉の降兵のみで作り上げられる新たな歌姫の親衛隊。稟と七乃による指示と、美羽による甘い激励に突き動かされ、誰よりも早く敵陣に突入する決死隊。  はからずも南北の討伐軍は似通った戦術をとろうとしていた。それは、相手もまた歌姫に導かれた存在であることを理解しているが故の行動だったろう。  ただし、歌姫の一人が華琳直属の軍師である冀州と、ここ荊州とでは、事情がほんの少し異なっていた。  有り体に言えば、軍の中でも数え役萬☆姉妹好きの最右翼たる彼らが、愛人であると公言された北郷一刀に素直に従うか否か。  そのための一刀の緊張であった。  だが――。 「全体、止まれ!」  彼の姿を見て取った号令者によって発せられた一言で、部隊全員の動きがぴたりと止まる。兵たちの足で巻き上げられた砂塵だけが、空間に白くたゆたった。 「北郷隊長及び将軍方に礼!」  次いで振り下ろされた手の動きに従って、兵たちは膝を突き、武器を持たぬ方の拳を地に打ち付けて礼をとる。大地を打つ拍子があまりに揃って居たためか、空気が破裂するような音がしたほどであった。  その有様に一刀はほっと安堵の息をつく。内心がどうあろうと、これだけ動いてくれれば問題はあるまいと思ったのだ。  だが、そこに近づいてくる三人の女性の姿があった。 「一刀ー、なにか言ってあげて」  ぴょんぴょんと嬉しそうに駆け寄りながら彼に笑いかけるのは、赤い髪をその背に揺らす美しい三姉妹の長女、天和。 「え? 俺が?」 「当たり前でしょー。一刀の隊でしょうにー」  しっかりと足を伸ばした走法で軽々と姉を追い越して一刀の腕に飛びつくようしてくるのは元気いっぱいの地和。 「うん。みんな聞きたいはず」  姉たちの姿にしかたないというような苦笑を浮かべつつ、一刀の方を見た途端、柔らかな笑みになるのは、末妹の人和。 「それもそうか」  焔耶と星が場所をあけ、三姉妹に囲まれるようにして、一刀が前に出る。立ち上がった兵たちの視線が自分に集まってくるのを彼は感じた。数千の瞳が自分を探るように見ていることを。  一つ息を吸い、彼は言葉を紡ぐ。 「諸君」  それは静かな語り口であった。それでも、その声は部隊全員に響き渡った。実を言えば発している一刀は地和が妖術で増幅してくれるのを期待しての行為であったが、そんなものを特に必要としないほど彼の声は通った。  それは、彼自身の声の質に加え、しわぶき一つたてない兵たちの訓練度合いにも要因があったろう。 「知っての通り、白眉は天師道という歌姫集団に率いられている。大陸中に天師道の歌を響かせるため、皆が天師道の歌を聴くような世界を作るために活動している。そう、昔の君たちと同じだ。黄巾を被り、天和たちの歌を世に広めるために戦っていた君たちと。だが、はっきり言おう。彼らのやっていることは、間違っている」  一刀は一拍だけ待った。驚愕の呻きも、非難の声も起きない。 「思い出して欲しい。君たちが戦って、果たして、地和たちのパフォーマンスを見る人が増えたか? 人和の声を聞いて安心する人が増えたか? たしかに黄巾の仲間は増えたかもしれないが、それでファンが増えたかといったら、違ったんじゃないか?」  背に、手が掛かる。三つの掌は、明らかに彼を支えてくれるもの。たとえここで彼がなにを言おうと、その全てを肯定すると、彼女たちの温もりが語っていた。 「歌を愛するのはいい。歌姫を愛するのもいい。けれど、歌を求めるのに無辜の民を襲うのは間違いだ。歌姫のファンである証に戦乱を導くのは誤りだ」  彼はしっかりと聞き間違いなど起きないように言葉を発した。その言葉にこもったものの強さに息を呑んだのは聞いている兵たちではなく、焔耶と星のほうであった。彼女たちは彼の話していることがよくわからぬが故に彼の声そのものを確実に捉えていた。 「これを言うと怒る人がいるかもしれないけれど、あえて言わせてもらおう。彼女たちのファンであることにかけては、俺こそがこの大陸一だ」  そこで一刀は笑ってみせた。懐かしむような、悔やむような笑いの意味を知るのは、この場では彼を除けば、三姉妹だけだろう。 「その俺が自信をもって言う。数え役萬☆姉妹のファンである俺たちが成すべき事は、一つ。平和な世を、彼女たちの歌をなんの気負いもなく聴ける世の中をつくることだ。新曲を心待ちに出来る世界を。ライブが巡ってくるのを待てる世界を。そう、それこそ天師道のライブも一緒に開けるような世界をね。それが理想というものじゃないか?」  わずかに起こる笑い。それは嘲りでも侮りでもなく、温かなものを感じさせるものだった。 「さあ、教えてやろうじゃないか。白眉に。間違ったファンたちに。俺たち、数え役萬☆姉妹の『ふぁん』魂を!」  一刀の拳が振り上げられる。  それに従うのは五千を超える拳。  彼と三姉妹に向けられた歓声は、まさに天地を揺るがすほどであった。 「……よくわからんな」  和了隊の訓練を再び士官たちに任せ、一刀と焔耶、星、それに張三姉妹を加えた六人連れとなった一行は陣へと戻る道行きについた。その途上、ぼそりと呟いたのは焔耶。 「なにが?」 「いや……芸人にのぼせ上がる奴らのことだ。どうも、よくわからん」  訊ねかける一刀に、焔耶は振り向いて答える。その表情をどう見たか、一刀と腕を組んでいる地和がにやにやしはじめる。ちなみに、その反対側の腕は天和が握っていた。 「あー、なんだ、やきもちー?」 「阿呆か」  ぷいと前を向いてしまった焔耶に、人和が弁解するように声をかける。 「まあ、武人の方にはどうしても、私たちの芸はそれほど……」 「いや、誤解するな。別に歌や踊りを否定しているわけではないぞ。お前たちのも大したものだと思う」 「それはそうでしょうな」  三人の芸を高く評価する焔耶に皆が驚く中、含み笑いをしつつ星が口を挟んだ。 「なにしろ、焔耶の歌と踊りは玄人はだしですからな。いいものを見分ける眼は当然あることでしょう」 「おい。莫迦。こいつらの前で言うことか!」  星の言葉を慌てて否定することで、余計にそれを裏付けてしまった焔耶は皆の視線が集まっているのを感じたか、顔を真っ赤にして怒ったように腕を振った。 「わ、ワタシのは、まさに余興だ。芸などと言えるものではない!」 「えー。でも、見てみたふべっ」  興味深そうに話にのる一刀の腹に掌底一発。両腕が姉妹によって掴まれているために体を折ることも出来なかった彼は――手加減されているとはいえ――その衝撃を真っ直ぐに受けてげほげほとむせた。 「う、うるさい、莫迦。お前は軍を動かす事をまず考えろ! 歌姫を最前線に出すというなら余計だ!」  三姉妹に背中をさすってもらっている一刀にそう怒鳴りつけ、彼女はひゅっと大きく息を吐き出す。 「ともかく、ワタシはワタシの任務がある。総覧の任はひとまず終わりだろう。ここで失礼するぞ!」  それだけ言ってずんずんと歩み去ってしまう黒衣の将軍。その様子を見て、星は小さく笑った。 「おやおや、からかいすぎたか。では、私もこれにて」  一刀がむせながらも手をあげるのに一礼して彼女もまた去っていく。残された三姉妹のうち地和は、蜀将二人の背を見ながら、憤慨したように呟いた。 「なにあれー」 「案外ちーちゃんの言ってたのが当たってたりして?」 「やきもち? あー、そうなのかな」 「どうなのー、かずとー?」  上の姉妹二人がようやく息の整った男の顔を覗き込む。彼は体を起こしながら、ぱたぱたと手を振った。 「焔耶はそんなので嫉妬したりしないと思うよ」 「つきあってることは否定しないあたり、さすが」  人和の冷静なつっこみにひくりと唇を振るわせ、一刀は急いで次の言葉を吐く。 「まあ、それはともかく」 「あ、無理矢理」 「ともかく」  彼は真剣な顔になって三人を見渡し、頭を下げた。 「焔耶が言ったとおり、三人を矢面に立たせなきゃいけないのは、ちょっと、その……申し訳なく思ってる」  戦場には和了隊だけではなく、張三姉妹そのもの出て行く予定になっている。そうすることで天師道を引きずり出すことが出来ると考えられているからだ。歌姫には歌姫をあてるのが一番というわけだ。  しかし、もちろん危険は存在する。三人も既に了承したことではあったが、一刀は改めて謝意を示しておきたかったのだ。 「んー、でも、ちぃたちも望んだことだし、ねえ」 「そうだよー。挑まれたら、応えないとー」 「……守ってくれるって信じてるから」  三姉妹はそれぞれに明るい声で応じる。  天師道や白眉そのものが数え役萬☆姉妹や黄巾を意識したものとなっているのは確かで、それに対して三人もまた複雑な心境を抱いている。現状ではそれは敵愾心として現れているようだった。その姿勢に、一刀は救われたように感じる。 「ねえ、それより……さ」  艶っぽい流し目が天和から飛ぶ。地和も期待するように眼を輝かせ、人和はほのかに頬を染めていた。 「あー、うん。なるべく早く時間を作るよ。さすがにすぐには……」 「それはわかってるけどさー」 「約束だよー」  へへ、と笑う姉たちを他所に、地和は顔を引き締めて一刀の方を見やる。その視線の強さに彼ははっとした。 「……勝って、ゆっくりしましょう」 「そうだな、勝とう」 「いい加減戦も飽きたからねー。ささっと勝って祝杯をあげるとしますか」 「よーし、がんばろー」  天和の声に唱和して、鬨の声をあげる四人であった。  4.素養  三姉妹を移動舞台へと送り、自分の天幕へと戻った一刀はそこに意外な人物を見いだした。蝶の眼帯をした黒髪の女性と、きつい目つきの眼鏡の女性。 「あれ、春蘭に詠じゃないか。来てたの」  二人共に巴丘にいるはずであった。詠はいずれ一刀と合流予定であったが春蘭は武陵に来る予定はなかったはずだ。 「うむ。蜀の軍の様子を見ておきたかったのでな」 「お互いの調子がわかっていないと連携に支障を来すかもと思って、ボクが来るついでに来てもらったのよ。まあ、色々あったわけだし?」  眼鏡の奥からじろりと睨みあげられる。それに対して一刀は苦笑するしかない。 「そうか。じゃあ、いまちょうど愛紗が練兵しているのを見てきて……たぶん、まだやってるかな。見に行く?」 「いや、その必要はない」  一刀が誘うのを、春蘭は面倒そうに断った。 「兵の具合を見るのに、練兵の様子を見ようなどと、まだまだだぞ一刀」 「え? そう」  真面目な顔で叱られて、彼は驚いてしまう。そもそも、軍事のことで春蘭にまともに相手にされたことが少ないのだから、余計だ。 「陣を歩き、膚で感じれば十分だ」 「そこまで本能的にできるかどうかは別として、陣を見ればわかるというのは同意ね」  詠まで頷いているのを見ると、これはどうやら本気らしい、と一刀は判断する。詠の説明によると、天幕の張り方から、陣の構成の仕方から、色々と判断する指標があるのだそうだ。春蘭はそれを経験と感覚だけでやっているということだろうから、まるきり根拠がないというわけではないようだ。 「ただ、改めて蜀軍を率いた感触なんかは愛紗に聞いておきたいのよ」 「それと、お前の調子だな」  そういうわけで既に陣の中を見て回った二人は愛紗や一刀と話すためにここで待っていたのだという。 「じゃあ、お茶でも淹れるよ」  そうして三人は卓について話し始める。まずは和了隊の様子を報告し、数え役萬☆姉妹の話に至り、次いで星たちから聞いた刑罰についての話となった。 「もちろん黥刑の話はあくまで桃香の内意であって、あとは華琳次第というところもあるわけだけど」 「そりゃあそうだけど……墨を入れるなんて、また思い切ったものね」 「うん」  信じられないというように視線をあちらこちらに飛ばしている詠の姿に、一刀は声をひそめて頷く。春蘭は黥刑と聞いてからずっと、ぶすっと不機嫌な顔であった。 「あんまりみっともないものにするとは思わないけれど、やっぱり色々あるよね。女の子の膚だし」  言った途端、一刀は二人が不審そうな目線を向けてくるのに気づいた。 「いや、女の子っていったってだね……」  いつものように女好きの話に持って行かれると感じた彼が先回りしてわたわたと言い訳するのに、さらに顔をしかめる二人。 「なあ、詠」 「うん」 「こやつ、なにを言っている?」 「たぶん、勘違いしているんだと思うわ。あるいは、知らないのかも。なにしろ天の国の人間でしょう?」  目の前に一刀がいるというのに、二人はこそこそするでもなく、なにか珍しいものでも見るかのような表情で言葉を交わしていた。あまりに淡々とした様に、一刀は声をかけることができない。 「そういうものか?」 「そのあたりはあんたたちのほうが詳しいんじゃない?」 「まあ、それもそうか」  なにやら納得している様子の二人に、ようやく彼はおずおずと切り出した。 「あのー」  二つの顔が一刀にむき、詠が口を開こうとしたところで、春蘭が手をあげてそれを制する。彼女がちょいちょいと左の眼帯を指さすことで、詠は承知したようだった。 「なあ、一刀」 「ん」 「私がこの眼を失った時のこと覚えているか? ちょうど詠たちを攻めていた時の事だ」 「それは……覚えているよ」  一刀は思い出す。戦が終わった後、華琳にも会えないと籠もっていた彼女の事を。 「では、お前、私がなぜあれほど騒いだか、わかっていなかったんだな」 「え?」  たしかあの時彼女は華琳に会わせる顔がないと、醜くなった顔をさらせないと主張して、それを華琳に慰められたのではなかったか。  一刀が懸命に思い出している一方で、春蘭はしかめ面で先を続ける。 「いいか、一刀。私はたしかに顔が傷ついたことを悲しんだ。自分の顔はこれでも気に入っているからな。いまから考えるとたいしたことでもないが、片眼が無くなって均整が崩れると考えたのもしかたあるまい。だがなあ、そんなのは些細なことだ」 「え?」 「私は、眼を失ったことそのものを悩んでいたのだ。わかるか? わからんか……」  春蘭の言っていることは同じ事の繰り返しなのではないかと彼が考えているのが表情に出たのだろう。春蘭はしかたないというように首を振った。 「ええとだな、体の一部でも損なうことは、罪なのだ。なにしろ父母から授かったものを壊してしまうわけだからな。コンコンにもとるだろう」 「孝行、ね」 「だからそう言っただろう」  訂正する詠に不思議そうに言う春蘭を見て、一刀はようやく理解する。普段、感覚だけで生きているような彼女が――多少言葉遣いが怪しくても――説明できるほど、それは染みついていることなのだと。  だとすれば。 「あー……。もしかして、儒教の教えで……この世界では常識ってやつなのか? そうか、四肢を欠損したりとか、そういうことだけじゃないんだ?」 「当たり前でしょ。何だって一緒よ。生活の中での傷まで指摘したりしないし、武人だったら刀傷程度は気にする方が珍しいけどね」  詠の言葉に一刀はどこまでが許されて、どこまでが忌避されるのだろうか疑問に思うが、そのあたりは感覚でしかないのかもしれない。一刀としても現代人の常識をこの世界で説いても面白がられこそすれ、感覚として理解できるところまで行きづらいことは経験として知っていた。それから考えれば、この場で細かい感覚まで突き詰めるのは難しいだろう。いずれ試みるにせよ、いまではない。 「ともかく、私は眼を失って沈んでいた。それを華琳様が、我が眼(まなこ)は永久に華琳様と共にあると仰ってくれたからこそなんとかなったのだ。しかし、墨で汚すとなれば、これは意味合いが違うぞ」 「そういうものなのか……」  思っていた以上に大事であることを知り、一刀は顔を青ざめさせる。その様子に詠は大きく嘆息した。 「やっとわかったみたいね」 「うん……。これは……困ったな」 「とはいえ、気にしない子もいるけどね。鈴々もそこまで気にしないんじゃないかしら。ただ、この場合は、鈴々本人よりは……」  そこまで言ったところで、詠の顔が天幕の入り口へと向く。男は不思議そうに首をひねるが、春蘭は小さく肩をすくめるだけだった。 「周りが気にしますな。いわゆる教養人というやつなら余計だ」  入り口の布を押しのけるようにして入ってきたのは、頭の後ろで結った黒髪を長く垂らす一人の武将。すなわち、現在話題になっている少女の義姉たる人物。 「愛紗!?」  名を呼ぶ声に彼女は一礼した。その動作が、普段よりもわずかに固い。 「失礼ながら私にも関係あることと、聞かせてもらいました。鈴々に墨を刻むとか?」 「あ、う、うん」  真っ直ぐに訊ねかけられ、一刀は頷く。しかし、対する愛紗の反応は薄かった。 「そうですか」  それだけを言い、一刀の招きに応じて彼女は卓に着く。それからは軍を率いる将同士の話が始まり、彼女の義妹に関する話は出てこなかった。  そのことが、かえって緊張を生んでいることは皆わかっていたけれど。 「打ち合わせとしてはこんなものかしら。ありがとう、愛紗」  ひとしきり現況を話した後で、詠が一区切りというように言った。すでに春蘭は聞くべき事は聞いたのか、退屈そうにしているくらいであった。一刀も頷き、愛紗もまた肩の力を抜く。 「いや、こちらとしても有益だった。とはいえ、少々疲れました。下がってもよろしいでしょうか、ご主人様?」 「うん。もちろん」  確認する愛紗に一刀は許可を出す。しかし、もちろん、練兵如きで疲れるような関雲長ではないことは、誰もが知っている。  ぴんと背筋を張った彼女が立ち去る様は、まさに凛として美しかったが、なぜか悲しいものを感じさせた。  しばらくは無言が続く。 「あの、さ」  天幕の外に向けてと、春蘭たちの間で視線をさまよわせていた一刀が声をかけると、詠がまるで追い払うようにしっしと手を振った。 「さっさと行きなさいよ、莫迦」 「すまん」  足早に去っていく男の姿を、鼻を鳴らして見送った詠は、春蘭の視線を受けてそちらに顔を向ける。 「どう思う?」 「なんとかなるでしょ。あいつが女相手に動くんだから」 「ははっ」  彼女の物言いに、隻眼の大将軍が呵々大笑する。それを収めてから、春蘭は首を何度か振った。こきこきと関節がこすれる音が漏れる。 「真面目な話、早い内にどうにかしておいてもらわないと困るのだ」 「どうしたの?」 「戦の匂いがする。ここに来て確信した」 「恋みたいなことを……。でも、あんたたちのそういうのって当たるのよねえ……」  詠は腕を組み、眼鏡を押し上げて、少し考える。それから、彼女は翡翠色の髪を振ってこう答えていた。 「わかったわ。こっちはボクが責任を持つ」 「頼んだぞ。私はすぐに流琉と合流することにする」  そうして、春蘭は立ち上がり、まさに突撃せんばかりの勢いで走り去るのであった。  5.愛紗 「……いいかな?」 「……ええ」  陣を見下ろす小高い丘の一つ。急造の見はり台が設置されている脇のあたりに、女の姿はあった。草の上に直に座り込んでいる横を男は指さし、彼女がぼんやりと頷く。  本陣の天幕の中に見つからなかった愛紗を探して歩き回った末のことであった。  膝を抱えるようにして体を丸めている愛紗の横で一刀は後ろに手をつき、空を眺める。午後も遅くなっているが、まだ日差しのおかげで辺りは温かく、風もない。だが、空の上ではかなりの風が吹いているらしく、雲の動きは速かった。  明日は天気が荒れるのだろうか、などと一刀は頭のどこかで考えている。  彼が流れ去る雲の数を十二まで数えたところで、ようやく沈黙が破れる。 「なにかお話があったのではないのですか?」  低い声で訊ねかけられて、彼は腕を組む。そう言われてみると、いまさらなにを言うでもないような気がしてきた一刀であった。 「どうだろうな。ないかも」  さすがにその答えは予想外だったのだろう。眼をまん丸にして愛紗は横にいる男の事を見つめた。  その視線を受け止めながら、彼は申し訳なさそうに訊ねる。 「邪魔?」 「いえ、そうではありませんが……」  愛紗はなんと言っていいのかわからないというように微妙な表情を浮かべた後で、諦めたのか、あるいは他の事に意識が向かったのか、またどこか先の地面を眺めるのに戻った。  会話もなく、さりとてどちらも立ち去るでもなく、時が過ぎる。  時折、なにか思い出したかのように唐突に彼らは二言三言言葉を交わした。 「お仕事はいいのですか?」 「愛紗は?」  とか。 「明日は雨が来ますね」 「泥地での戦いは勘弁だなあ」 「足が取られますし、疲れますからね」  とか。  そうして、どれだけ経ったか。日暮れが迫ろうとするあたりで、愛紗ははじめて笑った。すでに影が濃くなりつつある世界の中、その笑みはまるでそれ自体が光を放っているようだ、と一刀は感じていた。 「ご主人様は恋のようですね」 「あんなかわいくないよ」 「そういう意味ではありません」  途切れるかと思われた会話は、しかし、愛紗によって再び繋がる。 「ご主人様は……」 「ん?」 「ご主人様は、鈴々に対して、なにか疎ましく思うようなことはないのでしょうか?」 「ないね」  あっさりと彼は言い切る。  あまりに当然のことで、悩む必要すらない答えであった。 「しかし、襲われましたよ?」 「俺は華琳のところにいたわけだから、昔は愛紗とも敵対していたよ? 俺の事、憎い?」 「まさか!」  身を震わせる愛紗に、一刀は小さく首を振る。 「じゃあ、わかるだろう」 「しかし、戦乱の時と、同盟している状態での襲撃とでは……」 「同じだよ。感情のほつれなんて」  敵対することで憎しみを募らせる人間もいる。あるいは敵対するからこそ尊敬する相手もいる。対立したからといって、その対象になにを思うかは、実はその相手次第だ。  そのことは、彼女もよくわかっているはずだ。  ただ、不安なのだろう。  そう思って、一刀は殊更に普段通りに告げていた。  そして、愛紗はなにかさらに言葉を加えようとして、ひゅっと息を吸い込んで、それを取りやめたようだった。  そして、再び一刀に笑みを向ける。しかし、それはどこか先程とは違い、暗いものが混じっているように思えた。 「……私は狡いですね」 「へ?」 「鈴々にかこつけて、己のことを訊ねていたのだと、いま気づきました」  彼女は罪を告白するような調子で続ける。 「こうして共にいてくれる……。私が救いの手を求めればすぐに対応できるようにしながらも、無理矢理には踏み込まずに、ただ側にいてくれる。そうしていただくことへの疑問を、義妹への感情として質問していました」 「そっか」  素っ気ないと思えるほどの答え。だが、そこにあるのは許容であり、拒絶ではない。そのことに安心しつつ、愛紗は揃えた膝の上に頬をのせるようにして横にいる彼の事を見つめた。 「私は莫迦ですね」 「なにが?」 「桃香様たちに迷惑をかけない道を、と選んだはずが、結局、さらなる苦境を招いてしまいました」  一刀は声をかけようとして、しかし、愛紗の首がわずかに揺れるのを見て、なにも言わずにおいた。いまさらこの事態に至る道筋を話し合う必要もないと言うことだろうか。 「わかってはいるんです。きっと、別の道を選んだとしても、別の形で後悔していたであろう事は」  ふふっ、と彼女は笑った。もはやその笑みの大半は夕焼けの赤い影に覆われていた。 「それでも落ち込むことはある。そういうものではありませんか?」 「そうだね」  まるでなにか重要な世界の真実を見つけたような重々しさで一刀は肯定する。その様子があまりに様になっていなくて、愛紗は吹き出してしまう。 「おかしな方だ」  彼女は彼をそう評した。 「全部わかっていらっしゃるのに、あえて私に話させている」 「話を聞くくらいしか、俺にできることはないからね」 「あるいは、黙って座っているくらいしか?」 「うん」  愛紗は思う。  果たして、それが出来る人間がどれほどいるか。  いや、そうしてもらいたいと、この自分が望む相手は。 「こいつに軍を任せているのに、こんなことで大丈夫か、と不安にはなりませんか?」  あえてそんなことを訊ねたのは、きっと、動揺から。  隣にいる男の温もりが、夕刻の澄んだ空気の中で急に意識されたから。 「ちょっとだけ、心配かな」  だから、そう答えられた時、彼女の心はまるで身構えることが出来ず、鉄鎚で殴られたかのような衝撃を受けた。  体が小刻みに震える。  指先の感覚がなくなる。  頬が燃え上がり、背筋に氷の芯が入る。  呼吸さえ忘れて、彼女は心臓を締め上げられるような痛みを味わっていた。 「愛紗は頑張り過ぎちゃうから」  そこに降ってきたのは、そんな言葉。 「俺はもちろん、みんないるんだから、気負い過ぎちゃだめだよ?」  ああ、と彼女は思う。  私は本当に莫迦だ。  信頼というものの本質を、どうして、こうも容易く忘れられるのか。そして、自分一人だけが悲劇の主人公のように、思い上がれるのか。  なんて傲慢で、なんて脆い。  美髪公などと称される女の弱さを、自分はよく知っているはずではなかったか。桃香に出会い、その強さを間近で見た時に。  それを補おうと己を律し、刻苦を課していたのではなかったか。  愛紗は体を起こす。 「ん?」  そして、自分を見つめる男の顔を見返した。夕闇の中に沈みゆこうとしているその顔を。  この人は、自分の主ではない。  生きる意味を与えてくれた人とは違う。  それなのに、どうして、桃香と同じ匂いを感じ、同じ安心を感じるのか。 「まあ、俺に出来ることはそれほど多くないかもしれないけれど、出来る限り頑張るからさ。よければ、頼ってよ」  照れくさそうに、けれど、真剣に。  そう告げる男の声が、愛紗には心地好かった。 「他にも……」 「ん?」 「他にも、していただけることは、あります」  いつしか、彼女の手が、地面に置かれた彼の手に重なっている。二本の腕の影は遥か遠くまでのびていた。  そして、宵闇の中、二つの影が交わって一つとなる。  6.危急  ふと彼女が顔をあげ、耳をそばだてたのは、何かの音に気づいたからではない。その逆、それまで聞こえていた騒がしさが途切れたことによるものだった。  振り向いてみれば、かわいらしい服を纏った女性が柔らかな笑みを浮かべている。 「へぅ……。ようやくみんな寝てくれました」 「ああ、昼寝の時間か。すまない。世話を任せきりで」  闇色の仮面をつけた女性は、いたわるように微笑みかける。実際の所、目の前の相手――めいど姿の月が寝かしつけてくれた子らの内二人は彼女の娘たちなのだから。  だが、月は冥琳の詫びに笑みを返すばかり。 「……お茶でもどうですか?」 「ああ……。そうだな、いただくとしよう」  冥琳は断ろうとして寸時考え、結局頷いた。  茶の用意が出来たところで、すやすやと寝ていたり、ばたんばたんと寝返りをうったりする子供たちを見渡せる場所へと二人で移る。 「どうですか?」 「芳しくないな」  おずおずと訊ねるのにきっぱりと返されて、月の表情にも緊張が走る。冥琳はとんとんと指で卓の表面を弾きながら、しばらく何ごとか考えていたようだったが、心配げな月の様子を確認して一つ頷いた。 「そうだな。せっかくだから聞いてもらえるかな? 話すことで考えをまとめられるかもしれない」 「はい。私で役に立つなら、ぜひ」  月は勢い込んで頷く。その反応をおかしいとは冥琳は思わなかった。それだけ事態は緊迫しているのだ。 「では……。最初は知っての通り、密告からだ。尋問が進んで判明したのは、密告者の仲間の居所と、宮中における襲撃場所のいくつか。ここまでは知っていると思う」  襲撃場所として挙げられているのは帝の御座所をはじめ、数カ所。その中には、いま彼女たちが、そして子供たちがいる天宝舎も含まれている。  もちろん、全くの部外者が、宮中の、それも奥向きの構造など知りうるはずもない。なんらかの手引きをする人間が必要となる。秋蘭は明かさないが、密告者本人も近衛の兵の一人なのではないかと冥琳は疑っていた。 「密告者の仲間は三日前、すなわち、我らがはじめて事を知った四日後に捕らえられた。そこから辿っていくはずだったが……」 「うまくいかないのですか?」  冥琳は小さく頷く。実際に彼らの尋問に同席しているわけではないが、秋蘭が手を抜くわけもない。それでも得られた情報はわずかであった。 「なかなか口を割らないというのもある。だが、どうやら彼ら自身、詳細を知らないように思える」 「末端の人たち、ということでしょうか」 「それもあるだろう。しかし、そもそも白眉の組織構造の問題のようでもある」  よくわからないという顔の月に対して、冥琳は丁寧に説明していった。  白眉はそもそも歌姫たちの信奉者からなる。それは上から絶対的な権限をもって作り上げられたものではなく、自然発生的に人間が寄り集まることで出来上がったものだ。  そのために、縦割りのすっきりとした構造ではなく、いくつもの集団が寄り集まった、いわば水の中の泡のようなものになる。泡同士の接点は見つけられても、その中心に至る経路となると実に特定が困難となるのだ。  冀州などで暴れているような大集団となった場合には、これらは自然と整理されていくが、洛陽の内部のように隠れ潜んでいる場合には、孤立化が進んでいく。共通点はあるが、協同しているわけではないのだ。 「はっきり言えば、まともな指揮系統がないのだよ」 「でも、それじゃあ、その……作戦行動自体行えないんじゃないですか?」  仮面の女性は大きく首を振る。その動作に拭いきれない疲れが見えた。 「そこが巧妙なところさ。彼らは、天師道の歌を一種の予言と解釈して動いているのだよ」 「歌を……?」 「たとえば恋人を思う歌詞の中で『逢いたい』とあれば情報連絡のことだし、『燃え上がる思い』とあれば焼き討ちの合図。『空まで届く』とあれば、決起の標、といった具合だ」  つまりは一つ一つの言葉が暗号として働くことになる。これらの歌を、日付やばらまかれている符に書かれた文言と照らし合わせることで命令と判断して動くのだという。  ただし、どの歌をどのように使うかは各集団を通した複雑な経路で伝えられるため、実際の行動間近にならないと詳細はわからない仕組みになっているようだった。 「『ふぁん』なら自ずとわかる、というわけですか。でも、ちょっと危うい……ですね」  月には実にあやふやな話に聞こえた。そのようなことが実際に起こせるのだろうか。ましてや、いまは魏側の策で、偽の符も流されているはずだ。 「それでいいと思っているのだろう。いや、逆に混乱こそが目的かもしれない」 「洛陽で混乱が起きれば、それだけでいいと?」 「ああ。それだけで、白眉にとっては僥倖だろう。洛陽を獲れればよし。もしそうでなくとも動揺させられれば、各地の軍の勢いを減じることが出来る。そうなれば荊州や冀州の大軍団で制覇できると考えているのかもしれん」  月はじっくりと冥琳の言うことを考えてみる。彼女が考えつくようなことは既に冥琳も考えているだろうが、少しでも刺激になればと自分の考えも述べてみた。 「逆に、大軍団で各国の軍をひきつけ、隙の出来た中央を少数で狙う、という可能性もありますね」 「ああ。だから、華琳殿にも一刀殿にも警告の使者は出しておいた。おそらくは洛陽での決起とあわせて大攻勢が起こるだろうとな。問題は、その日取り」  冥琳はそこで首をひねる。 「なにか吉日でも狙っているのだろうと思うが、さて……」 「難しいですね……」 「人がもっといればいいのだろうが、さりとて信用できる相手となると……」  大事なだけに話の出来る人間は限られる。洛陽に残された親衛隊と秋蘭子飼いの部下以外に事を明かすわけにいかないのが現状であった。その中でも親衛隊は狙いとなっている各所の警備に重点配置されていて、探索には出せない。  こんな時こそ、明命がいればいいのに、とついついないものねだりをしてしまう冥琳であった。 「あれ?」  その物音にまず気づいたのは月。立ち上がった彼女はとてとてと歩いて戸を開ける。すると、飛び込んできた影があった。 「わっ」 「こんにちはー、月おねえちゃん」  駆け込んでくる勢いのまま月に抱きついてきた小さな女の子は、にこにこと笑って挨拶する。 「こんにちは、璃々ちゃん」 「こら、飛びついちゃだめでしょ、璃々」  後からついてきた母親が注意するものの、璃々はさらにきゃいきゃいとはしゃいで挨拶を続ける。 「えへへー。こんにちは、冥琳おねえちゃん」 「こんにちは」  みなにこやかに笑う中で、紫苑はその大きな胸を揺らしながら、璃々から解放された月に近づいた。 「月ちゃん、ちょっといいかしら」 「はい?」 「詠ちゃんの知り合いの方だと思うのだけど、商人の方に道を訊ねられて、いま、そこまで案内してきたのだけれど」 「詠ちゃんの……? ああ、客胡の方ですね」  紫苑の説明に月は小首を傾げ、ついで思い出したように呟いた。はるか西方――彼女たちの認識では、化外の地とも言える遠方――からやってくる商人を、詠は情報源として活用しているのだった。その内の幾人かは月も面識がある。 「入れてやればいいのではないか?」 「いえ、男の人ですし」  ああ、と冥琳が頷くのに、紫苑は部屋を見回す。眠る子供たちの姿に、その眼が優しく揺れた。 「子供たちのことは、わたくしが見ていますから、どうぞ行ってきて?」 「璃々も! 璃々もみてるー!」  ぴょんぴょんと跳ねながら、元気よく璃々が主張する。その様子に誰もが眼を細めた。 「はい。じゃあ、お願いしますね」 「私もついていこう」  そして、闇色の仮面とめいど姿の二人は連れだって階下に降りていくのだった。 「アア、董白サン。会エテ、ヨカッタ」  待っていたのは、明らかに漢人とは違う顔つきの男性であった。着る服も一風変わったもので、このあたりの人間とはほど遠い。話す言葉にも、どこか慣れてない様子があった。 「すいません、詠ちゃん……賈駆はいないんですけれど、私でわかる話であれば……」 「イエイエ、今回ハ、仕事ノ話デハナイデス」  仕事の話ではないというのに怪訝な顔をする月を、男は身振りで手招いた。 「耳ヲ貸シテ下サイ」  冥琳と月、二人が近寄ると、男は声をひそめる。少し離れた場所にいる兵たちにはけして聞こえぬ声で、彼は告げた。 「少々込み入った話なのですよ」  その言葉にひっかかりはまるでない。生粋の漢人より綺麗な発音で、彼は言葉を紡いでいた。そのことに、月は眼を丸くし、仮面の奥の眼は警戒するように細まった。 「おや、実に流暢な」 「ええ、まあ。しかし、なぜか、漢の人は我々がこのように話すと胡散臭がるといいますか、恐がりましてな。お客様の要望に応えるのも仕事というわけで、あのように片言を通しているわけです」 「商売の知恵というわけだな」  小さく笑いが起きる。三人共に肩の力が抜けたところで、男は彫りの深い顔の奥で瞳を煌めかせた。 「そうなりますね。ところで、普段から意思の疎通は可能な程度に話しているつもりなのですが、私のような者の前では口が軽くなる方というのはいるものでして」  外国の人間――もっと言えば蛮夷だと侮って、口を滑らせる者がいるのだろう。あるいは、奇妙な外見の者には言葉など通じるわけがないと思い込んでいるのかもしれない。 「このところ、おかしなことを度々耳にしていましてね。なにやら、危ないことが近々起こる、と」 「危ないことが、ですか」 「ええ。ですからご注意を。ちなみに、私はこの後、邸に真っ直ぐ戻って扉を塗り固めてしまうつもりですよ」  その言葉に込められた強い警告に、思わず月ははっと息を呑む。冥琳は黙って何ごとか考えているようだった。月はぐっと力を込めてその小さな体を真っ直ぐにする。 「いつ頃かわかりますか?」 「今日、明日にも」  冥琳と月、二つの視線が交わる。彼女たちは一歩下がると男に向けて深々と頭を下げた。 「教えてくださって、ありがとうございます」 「忠告、感謝する」 「イエイエ。オ得意様デスカラネ! デハ、失礼シマスヨ」  殊更に陽気な声をあげ、彼は立ち去っていった。  胡人の商人の姿が視界から消えると、冥琳は手近な兵を手招きした。 「夏侯淵将軍を呼べ。いますぐだ」 「はっ」  返事を待たず、天宝舎の中に月と共に駆け入る。扉を閉めるのは月に任せて、冥琳は階段を駆け上がると、蜀の弓将へ声を放つ。 「紫苑! 諸葛瑾を呼びに行ってくれないか? それから……」  だが、言葉はそこで途切れる。窓から漏れ聞こえてきた音に彼女の意識は引き寄せられ、そして、悔しげに拳が握られた。 「一手遅れた、か」  外から聞こえてくるのは、鋼の打ち合う音と、矢が空を切り裂く音。  事は、既に起こっていた。      (玄朝秘史 第三部第四十回 終/第四十一回に続く) 北郷朝五十皇家列伝 ○東方黄家の項抜粋 『東方黄家は黄蓋に始まる皇家であり、東方八家の一つである。後に東方大陸の南半を支配する員喬帝国の皇帝家となるわけだが、ここでは、その経緯をみてみよう。  東方大陸の植民が始まった時点から、その植民が順調に進んでいる間には、東方大陸に拠点を持つ七家の間に上下関係のようなものは存在しなかった。主と仰ぐのは本土の帝であり、各家は協調しながらも、各々好きなようにやっていた。  実際、それをさせるに十分な土地は存在していたのである。また、ある程度の貢納を求める皇族会議の意向から外れぬ限り、西方本土から特に干渉されることもなかった。  しかし、植民が拡大し、原住民との対立が出始めると、状況は変わってくる。  原住民側との大規模な衝突はそもそも東方植民の面々が最初に接触したクワギュ族(もしくはクワキュートル)との関係性の変化に起因する。  クワギュ族は李家が拠点を築いた上陸地近くに存在していた原住民の部族で、非友好的というわけではなかったが、どうしてもその行動範囲が重なる中で戦闘となることも何度かあった。  しかし、幾度かの戦いの後、両者はより穏当な道を選んだ。彼らはお互いの子弟を預け合い、平和を保とうとした。それは人質の意味が強かったが、しかし、他者の居住地で生活する事はその他者を知ることに繋がる。彼らは次第にお互いを知り、そして、歩み寄り始めた。  この子弟の交換はクワギュ族にとどまらず、周辺のヌーチャヌルス、ハイダなどの諸部族に広まった。それによって、東方植民に参加した諸皇家は東方大陸の習俗や考え方を知り、現地住民は西方大陸、特に中華本土のやり方を学んだ。  この交流が始まって三世代も経つと、お互いに婚姻を結ぶ者も増えてくる。さらに時を経て、クワギュをはじめとした数部族は西方人と一体化し、ついに北郷朝に臣従を誓った。  それは現実的には構成人員の大多数が血縁となり、離れがたい存在となったことを名目的にも認めたに過ぎなかった。しかし、外からは侵略と受け取られた。いや、あるいは彼らは実情を知るからこそ反発したのかもしれない。いつの日か、自分たちも取り込まれて、同化されてしまうのではないかと。  こうして、周辺の、いまだ繋がりの薄い部族が敵対の姿勢を示し始める。  この事態に至り、東方大陸の皇家は指導者を選び出す必要に迫られた。東方植民は八家が中心に動いていたとはいえ、その他の各皇家も存在していたため、即応性を欠いたのである。  当初は戦に強い華家、東方呂家の両家が考えられたが、これは両家当主自らが断った上で、東方の各皇家の代表で会議を持つことを提案する。  この席上、楽家と東方黄家に対して、時の典家の当主が、『共に五彩の玉を持つ』と発言した。これをきっかけに会談の方向性が定まり、それぞれ北方、南方の指導者として選ばれることとなるのである。  この発言は、おそらくは玉璽を持つという意味であろうが、それが果たして比喩的なものなのか、あるいは、東方植民前から太祖太帝、もしくは顕帝により与えられていたのかなど、史学的興味は……(中略)……  いずれにせよ、東方八家は幸運であった。その当時の東方黄家の当主、黄信は傑物として知られており、それは、結果として最も抵抗の激しい南方攻略の指揮を任せるのに十分な才覚であった。なにしろ彼女は黄家の中では初代黄蓋公覆――すなわち、齢七十五にして東方大陸に上陸し、衰えを見せぬ勢いで初期開拓の第一線を走り続けること十五年、九十歳にして大往生を遂げたかの女傑の生まれ変わりと称されており……(後略)』