「無じる真√N-拠点イベント39」  現在、北郷一刀は公孫賛軍の領土内にあるとある村へと来ていた。  広大な領土の中でも住民が密集し村落としても十分なところである。  村の中も本拠や拠点地と比較すると及ばぬ所はあるが、それでも人で溢れかえっている。  彼がこの村に来ているのには理由があった。  共に行動している集団に関係のある仕事である。その中の一人の少女が声を掛けてくる。 「なあアニキ、この後はどうするんだ?」 「それはもう少し先に行ってから話すよ」  文醜の質問に答えた一刀に瞳を輝かせ興味津々といった様子の少女から質問が投げかけられる。 「一刀、今度はここなんだよね?」  街を見渡している鴇色髪の少女に、一刀は先日賈駆から訊かされた報告を思い出しながら答える。 「ああ、そうだよ。最近、余所の州から流れてきたことで人口が増加してきてるらしい。そういうわけだから、多分新規の層獲得の足がかりになるかもしれないぞ」  一刀の返答に別の少女が、肩口で切りそろえられた薄紫色の髪を手で抑えながら続いて喋る。 「最近は、あちこちで動きが起きているから。その影響でより安全面が高そうな地への移住を考える人たちが出てくるのも可笑しくはないわ」 「人和の言う通り。そういった方面では白蓮が治めるこの土地も候補に挙がりやすいらしい」 「君主には正直なところ頼りなく思えるところも時々あるけど、それでも周囲がよく支えているもの。当然のことだと思う」  ゆっくりと流れる風が、額を出すように切りそろえられた張梁の前髪を揺らす。  一刀も彼女の言うことはもっともだと内心同意していた。  公孫賛軍は、この広大な面積を誇る領土に住む民たちに、なんとか平穏無事な生活を与えてきた。 (俺が元々いた世界じゃ、それが普通のことだったんだけどな)  これもまたこの世界と一刀のいた世界の大きな違いの一つだった。 「誰しも、安全で平和な生活を送りたいと願うでしょ? ともなればそれに適した土地に人が集まってくるのも自然の道理」 「ああ、そうだな」  淡々と語る張梁の言葉に頷きながらも一刀は別の意味でも納得していた。 (この時代では住んでいた地を離れる際に枷となるものが俺のいた時代よりは少ないもんな)  元々生活していた世界とこの正解は環境が大いに異なる。それを一刀は再認識していた。  村を見回してはしゃぐ姉を呆れ半分な様子で見ていた少女が結わえた秘色色の髪を手で払いながら一刀の方へ顔を向ける。 「そんなことよりさぁ、新しい層の取り込みも今回の狙いなんでしょ? それなら、やっぱり、ちぃの魅力にめろめろになる割合がきっと一番多いはずよね」  今回の一刀の仕事。それは、この少女たちと共に行動することだった。  即ち、興行を手伝いと世話役である。  そのために、一刀はこうして現地まで足を運んでいた。 「えぇ、そうかなぁ? ちーちゃんが魅力的なのは確かだけど、わたしだって人和ちゃんだって負けてないと思うよぉ?」  むふぅ、と自信満々に鼻を鳴らす張宝に長女である張角が眉尻を下げて抗議する。  もっとも、甘ったるい間延びした口調では今一迫力に欠けているのは否めない。 「今、天和がいいこといった」 「一刀さん?」  張梁はそれまで姉二人のやり取りをどこか距離を置いた感じで眺めていたが、唐突に重々しく首を頷かせた一刀の顔をそっとのぞき込んだ。  一刀は真剣な表情を浮かべると、張角と張宝、二人の肩へと手を置いて両者の顔を交互に見る。 「天和、地和、人和。三人ともそれぞれの魅力ってものがあるんだよ。少なくとも一緒にいる俺にはそれがよくわかるぞ」  そう告げてふっと笑う一刀に二人の少女は白い眼を向ける。 「急に真面目な顔になって、何言ってるの?」 「なんかぁ、女たらしが言いそうな台詞だよね、それって」 「あ、あのなぁ……人が折角仲裁したっていうのに」  あんまりな言われように一刀は肩をふるわせる。 「一刀さんの言葉選びが適切じゃなかった、それだけじゃないの?」 「れ、人和まで」  末女にとどめを刺された一刀はがっくりと項垂れる。 「あ、いつの間にか……中央まで来てたのか」  村の中でも恐らく中心地と思われる所に出たことに漸く一刀は気がついた。  改めて周囲を見れば、通り過ぎる者たちは皆一刀たち……いや、三姉妹を興味深そうに見ている。中には歩みを止め注視している者たちも出始めている。  野次馬が増えすぎることを懸念し、一刀は急ぎ気味に今後についての説明をする。 「取りあえず、公演は明日からの予定だ。後、宿泊場所はとってあるから三人は案内に従って先に向かっててくれ。俺はちょっと会場を見てくる。それじゃあ、二人とも頼む」 「ああ、任せとけって」 「わかりました。では、案内しますので三人とも付いてきてくださいね」  文醜と顔良の案内で宿へと向かう三姉妹の背を見送っていると、不意に一刀の肩にぽんと手が置かれる。  振り返ると、共に行動している貂蝉が強面に微笑みを浮かべ頬を染めて熱い眼差しを一刀に送っていた。 「うふふ。ご主人様のお言葉、素敵だったわよ。もう、わたしったら、ビンビンきちゃってるわぁん!」 「お前には言ってないんだよ!」  †  村落から少し離れた広原を一刀と貂蝉は訪れていた。  そこには既に広々とした客席が作られて、そのどこからも見やすい位置に舞台ができていた。  これまでの層に新しい層を取り込むための興行ということで、会場設営に励む者たちは皆、普段以上に気合いが入っている。 「いい出来じゃないか。これなら、公演の方も楽しみだ」 「おっ、大アニキ。来てたのか! なんだ? 公演を見に来たのか?」 「お久しぶりッス!」 「お、お疲れ様なんだな」  なかなか良い体つきをした男性たちが駆け寄ってくる。 「三人の付き人兼お世話役だからな。ちゃんと仕事で来てるんだ……というか、忘れてたのか」 「あはははは、まあまあ、細かいことはいいじゃねぇか」  乾いた笑みで惚けているのは通称アニキ。数え役萬☆姉妹親衛隊を自称する集団の隊長を努めている。  その側近の二人が、小柄なチビと大柄なデク。  一刀は、彼らと二言三言交わすと、会場の設営状況を聞くことにする。 「で、見た感じ大分出来上がってるようだけど。実際のところはどう?」 「へへ。ばっちりだぜ。彼女たちも思いっきり暴れられるぜ」 「そうか。避難経路の確保は?」 「バッチリっすよ」 「当日の警備や観客の捌きの方も大丈夫か?」 「もう慣れてるし、安心して貰っていいんだな」 「そりゃ良かった。それじゃあ、このまま順調に進めていってくれ。ただ、くれぐれも気をつけてな」  そういうと、一刀はアニキたちに別れを告げて会場を一通り見て回る。  大勢の男たちが資材などを運んでいるが、流石はかつて各地を震撼させた賊の一員だっただけはあり、設営係は偉丈夫揃いで誰もが筋肉を躍動させている。 「みんな頑張ってるな……と、俺もやることやらないとな」  刻々と進んでいく会場の準備に満足すると、一刀は安全確認を怠らないよう再度注意した後、村へと戻った。  相変わらず村は人の往来が多く、賑やかだった。  ただ、気のせいか男の率が多いのはやはり彼らの目的が一緒だからなのだろう。 「ま、これも宣伝の効果ってことだな」  先んじて親衛隊を中心として広報を行った結果、周辺の村々からも民が集まってきたのだ。  きっと、今回の興行も盛り上がるはずだと内心でほくそ笑みつつ一刀は村の代表の下を訊ねる。 「ここでいいはずだけど……」  一刀の目の前に立っているのはお世辞にも豪華とはいえないどころか、むしろみずぼらしい外観の屋敷だった。  ぼろぼろと泥がくずれて中の木枠が見えている箇所がある。 「補修もままならないってことか」  もう少し、中心部から離れた地にある村への対処も考えなければと一刀は心に留めておく。  後日考えるべき宿題を頭に入れた一刀は門前にいた使用人らしき人物に声を掛け主人を呼びに行って貰う。  しばらくすると、好々爺といった様子の老人が使用人に連れられてやってくる。 「おお、御遣い様。これはよういらっしゃいましたなぁ」 「どうも、北郷一刀と言います。この度はご協力ありがとうございます。どうやら、今のところこれといった 問題もないようで何よりです」  恭しく出迎えてくれた主人に頭を下げて答えると、一刀は中へと誘われる。  ほどほどに手入れされた中庭を通る際、鶏が喧嘩をしている光景に驚いたりしながら一刀は奥へと進む。  再度門をくぐると、そこにも庭があった。 (意外と中はそれなりのものなんだな)  外観からは予想していなかった敷地の広さに一刀は瞳を瞬かせる。  元はそれなりに格式あるところだったように思える佇まいから一刀は度々起こっている騒乱の爪痕が未だに残っているのかもしれないと感慨深く観察していた。  そうこうしているうちに本邸へと辿り着き、全面吹き抜けの堂へと促される。  一刀はじっくりと庭園を眺めながら主人に言われるがままに腰掛けた。  にこやかな顔の主人が手を鳴らすと、侍女によって一刀の前に料理が並べられる。 「さ、どうぞ。貧しい村ゆえ、それほど大した振る舞いはできませんが」 「いえ。そんなことはありませんよ。いただきます」  一刀はそういうと、箸を伸ばしてよく味わうように料理を口にしていく。  質素さは残るものの美味な品々は、村を見てきた限り相当無理をしていると一刀に思わせるには十分だった。  現に主人はただ微笑んでいるだけで自分の料理をよこさせる素振りがない。  一刀は、刹那の間に色々と考え、箸を置き、主人の顔を見る。 「あの、よかったのですか? このようなことをしていただいて」 「ほっほっほ。これはほんのささやかなお礼ですぞ」 「お礼……ですか?」 「御遣い様はこの村を見て、何やらお考えのご様子ですな。確かに、危惧なされる通りでこの村は今でも富みに満ちた生活とはほど遠い状態です。ですが、それでも荒廃していた頃と比べれば断然まともな生活がおくれるようになっているのですよ」 「……そうなんですか」 「それに、今回の興行。あれの効果もあって余所からも人が流れてきまして。ご覧になったでしょう? あの活気に満ちた村内を」 「ええ、活力に溢れている顔をしていました」 「そうでしょう。それだけじゃありません。地道に作っていただいた運路も有効活用して今では流通に大きな変化も起き始めております。もっとも、初めは何故、整備に力を注いでおられたのかこの老いぼれの矮小な脳では理解できておりませんでしたがな」  主人は自分の額をぺちぺちと叩きながら快活に笑う。一刀には、老人の表情が口にした言葉が嘘偽りでないことを物語っているように感じられた。  それに、一刀自身も興行による開催地の経済効果の高まりと道路整備の有効活用に関する報告を受けていた。  こうして現地の人からの話を聞くことで一刀はようやくそれを実感することができた。 (だけど、凄いよなぁ。戦で良い戦果を上げることや内政にと取り組み善政をしく以外にも国を救う道があるっていうんだから……)  数え役萬☆姉妹を通して知ることは、かつての外史では余り気づくことができなかったことが多い。  歌を歌うことで人々の心を救済するというのは、一刀の想像以上に効果があり、人に生きる希望を与えていた。  常々、一刀はそれを多くの地でこなしている数え役萬☆姉妹に対して畏敬の念を抱いていた。 「そういったわけですから、こうしてそのお礼を御遣い様にさせていただいているのです」 「それは非常に有り難いし嬉しいことです。でも、良い方向へ向かっているときこそ気をつけてください。舞い上がり過ぎると何か手痛いしっぺ返しを受けかねないですから」 「ええ、ええ。十分、心得ましょう」 「それと、俺みたいな者にお金を使うよりは市場を潤す方へ使用してください。その方が、村のためにもなるし、国のためにもなる。ひいては俺も喜ぶ結果となりますから」  そう言うと、一刀は残りの食事を主人に譲り、興行に関するものへと話題を変えていくのだった。  †  一刀が各所を回っている一方で、数え役萬☆姉妹は宿泊所へ向かっていた。  その道中、話題は今回の興行のことに集中していた。  なかでも、三人が大きな話題としていたのは一刀同伴のことだった。  軍において多くの役割を兼任している彼は多忙な日々を送っている。そのため、彼女たちと共に旅回りをすることができなくなっていた。 「最近は特に顕著ね」 「そうよね。仕事があるからだとしても、こっちだって仕事なんだからもう少し考えて欲しいものよね」  いつも通りの涼しげな表情の妹の一言に張宝はうんうんと頷く。  そんな二人を見ながら長女である張角が人差し指を口元に添えながら微笑む。 「うーん、きっと信頼してくれてるんだよ。わたしたちならうまくやれるって」  脳天気なことを言う姉に張宝は頭を抱える。 「はあ。姉さんは単純でいいわね」 「えー、そんなことないよ? これでもいっぱい考えてるよぅ」  ぷりぷりと怒る張角に対して一言も発さぬまま張宝は首を振る。 「でも、本当に久しぶりよね。一刀さんとこうして遠出するって」 「そうだよねぇ。なのに一刀ってばわたしたちほっぽってまた別の仕事いっちゃうし」 「一度お灸を据えた方がいいかもね。召し使いの自覚が足りなすぎるのよ、一刀は」  張宝は腕組みをすると、頭に思い浮かぶ青年の顔を睨み付ける。  だが、そんな彼女を姉と妹は半眼で見てくる。 「もう……ちぃ姉さんたら」 「駄目だよ、ちぃちゃん。一刀さんはわたしたちのために頑張ってくれてるんだから」  咎めるような視線を向けてくる二人に張宝はむっと表情を険しくする。 「そもそも私たちがこうして活動できるのも一刀さんの助力あってなのよ」 「そうそう。ただの世話役ってわけじゃないんだよ?」 「わかってるわよ。だけど、なんか理不尽じゃないの? 二人だって愚痴を口にしてたじゃない」  つんと口先を尖らせると張角は二人を睨む。  張角も張梁も視線を逸らしたまま彼女を見ようともしない。 「はあ、わかった。結局は一刀なのね」 「そ、そんなことは……」 「うん。お姉ちゃんは一刀のこと大好きだもん」  僅かに口元をひくつかせる張梁とは裏腹に、一片の真宵もなく答える姉の表情に張宝は苛立ちを覚える。 「へえ。どの辺が好きなのよ?」 「うーん、優しいところとかかなぁ?」 「……確かに優しいけど。それはちぃたちの世話役なんだし当然でしょ」 「そういうのとは違うのよ、ちぃ姉さん」 「なぁに? 人和にはわかるっていうの?」  張宝はなるべく信じられないと言わんばかりの表情を強調して妹の顔を凝視する。 「少なくとも天和姉さんが言いたいことはわかるわ。同じ事を私が思うかどうかは別だけど」 「ふうん。ねえ、斗詩はどうなの?」  先頭を歩いており、三人の会話が聞こえているであろう女性に声を掛ける。  顔良は肩口で切りそろえた濃藍の髪を揺らしながら眼を丸くして三人の方を振り返る。 「へ? わ、私ですか?」 「そうよ。一刀と仲良いみたいだし、いろいろ思うところはあるんじゃないの?」 「えっと……まあ、優しいですよね?」 「ちぃに聞かないでよ。でも、やっぱりそこなんだ」 「あと、最近また一段と頼りがいが増したかなって」  顎に手を当てて顔良が答えると、後方を歩いている文醜が首を傾げる。 「そうかあ? あたいは相変わらずへっぽこな印象だけどな」 「えー、そうかなぁ? わたしも一刀って結構格好良くなったと思うよぉ」 「ご主人様も色々と努めてるようですし、その効果かもしれませんね」 「何だよ、斗詩ってばアニキの肩を持ったりして……」  文醜のどこか疑いの混じった視線が張宝たちを通過して顔良へと注がれる。  顔良が苦い表情を浮かべるのを見て、張宝はあることを思い出す。 「そういえばメイドの格好をして一刀のところにいったことがあるんでしょ?」 「……そ、それは」 「えー! なにそれ? お姉ちゃんにも教えてよぉ」 「天和姉さん。はしたないわよ」  身を乗り出さんばかりの張角を張梁が嗜める。どちらが姉で妹なのかわかりにくい光景である。 「いやぁ、あれは酷い裏切りだった」  何やら文醜が険しい表情でうんうんと頷いている。 「ぶ、文ちゃん!」 「何々? 親友同士でドロドロな恋愛模様?」 「ち、違います! もう、文ちゃんが変なこと言うから」 「なんだよ……、あたいはあの時マジであの手癖の悪いち●こ主人に美味しくいただかれちゃったのかと思ったんだぞ!」 「え? 一刀ってそんなに女色を好む傾向のある人だっけ?」  眉間に皺を寄せている文醜の言葉に張角が驚駭している。  実のところ、張宝も内心では吃驚していた。  だが、それは彼女と姉だけでなく、他の面々も同様だったらしい。皆、似たり寄ったりな顔をしている。 「いや、ここだけの話だけどな、あたいが見た限りアニキは相当手慣れてると思うぞ。無意識ですら危険だな、うん」 「なんで文ちゃんがそんなこと知ってるの?」 「え!? い、いや……なんでかな。あっははは」  複数の刺すような視線に一斉に貫かれた文醜がバンダナのように青い顔で脂汗を浮かべている。  口笛を吹こうとしている口先からは空気の抜ける擦れた音しかしていない。  あからさまな動揺を見せる文醜に顔良が息を呑む。 「もしかして、文ちゃん! ご主人様と……」 「そんなわけないだろ。だって、あたいは斗詩一筋だ!」 「ちょ、文ちゃん。いやー!」  両腕を上げて襲いかかる文醜は骨をなくしてしまったかのように丹念に顔良の身体中へと纏わり付く。  あくどい笑みを浮かべてじゃれついているようだが、その顔は先ほどから朱に染まったままである。  それを見逃さなかった張宝は地面を見下ろすと小石を蹴飛ばした。 「……なによ。一刀の馬鹿」 「んぅー、斗詩ぃ」 「もう! そろそろ宿泊所に着くから、文ちゃんは買い出しに行ってきて!」  †  村の代表との話を終えた一刀は、再度村の中を見て回っていた。  じっくりと観察してみると、元からいるような商人に混じり旅商人らしき店もちらほらと開かれていた。  皆、ここぞとばかりに商魂たくましく突っ走っているのだろう。  こういった光景からも数え役萬☆姉妹が与える影響の強さが増していることを一刀に知らしめる。  感嘆する一刀の前から見覚えのある顔が近づいてくる。 「ふぁ、ふぁにひー!」 「こんなところで、どうしたんだ」  少女は見ているだけで涎を垂らしてしまいそうなほどの魅惑の湯気が立ち上らせる肉まんを美味しそうに頬張っている。  その様子は濃藍のバンダナで青磁色の髪を上げている彼女の容姿が醸し出す活発さと相まって一刀の瞳には非常に無邪気に映る。  彼女こそ、袁紹の側近が一人、文醜。今回の興行での警備と護衛の担当だった。 「ひふは、はひふぉふぉふぇ――」 「あの、ちょっと何言ってるのかわらないです」  もごもごと口を動かす文醜に一刀は首を捻る。  すると、文醜が口の頬張った肉まんを慌てて飲み込もうとする。だが、喉につまらせかけたのか胸を叩いている。 「けほけほっ」 「おいおい。警備の仕事もあるんだから変なところで倒れたりしないでくれよ?」 「わかってるって……けほっ」 「なんで、数え役萬☆姉妹以外まで世話焼かなきゃならないんだよ」  ぼやきながらも一刀は文醜の背中をさすりつつ、携帯していた水を渡す。  文醜は水の入った容器を追いはぎのごとく一刀から奪い取ると勢いよく飲み干していく。 「ぷはーっ、生き返る」 「……全部飲むなよ」  返して貰った容器からは一滴すらも水が出てこず、一刀はがっくりと落胆する。 「アニキはどうしてこんなとこぶらついてるんだ? ずる休みでもしてんの?」 「違うわ! いつでも俺がサボってると思ったら大間違いだ。ちゃんと仕事するときはしてるんだぞ、俺は」 「ふうん。そのわりには、女とっかえひっかえで遊んでる気もするけどな」 「嫌な言い方しないでくれ、人聞きの悪い」 「でも、事実は事実だろ? 自覚のない女たらしほど酷いものはないぞ」  一々突き刺さる言葉に悶えつつ一刀は文醜に疑いの眼を向ける。 「何か俺に恨みでもあるのか?」 「あたいは忘れない、……メイド姿の斗詩を拝める機会があったのに呼んでくれなかったことを!」 「そんな理由か!」 「そんなだとぉ! あたいにとっては斗詩の全てが全てなんだ! そんなあたいを差し置いて」 「だって、あの時は俺以外はメイドの集いだったし仕方ないだろ」 「なら、あたいだってメイドになってやる! それならいいんだろ」 「そういう問題じゃ――いや、是非お願いします」 「なんで急に頭下げてんだ?」  ツッコミかけた一刀だったが脳裏に電流が走り、即座に誠心誠意を込めて叩頭した。  急な態度の変化に魂消た様子の文醜の手を強引に握りしめ、何度も頭を下げる。  一連の動きを追えた一刀は、表情を一瞬で引き締め、真面目な顔で問いかける。 「さて、それで猪々子はどうしてこんなところで肉まんを頬張っているんだ?」 「……へ? あ、ああ、斗詩に買い出しを頼まれて、その帰りなんだ。アニキも一個食べる?」 「有り難くもらうとするよ。だけど、これだけの量を買い食いする余裕あったのか?」 「え? いや、ま、まぁな」 「ん?」  曖昧に言葉を濁す文醜を訝しむ一刀だったが、肉まんの餡の香ばしさと饅頭皮の温もりに包まれるとどうでもよくなってしまった。  †  一緒に返ってきた二人が宿泊所の中へ入ると、すぐに顔良が出迎えてくれた。  エプロンをした彼女は二人の持つ荷物を受け取るとすぐに踵を返した。 「それじゃあ、明日からの興行が上手くいくように精の付くものを作っちゃいますね」 「ああ、よろしくな」 「ふむ、それじゃあ、あたいが味見役として」 「文ちゃんは際限なく食べるからダーメ」  後に付いていこうとする文醜を振り返ると、顔良はべーっと舌を出して悪戯な笑みを浮かべる。 「ちぇ、なんだよ……」 「日頃の行いをもう少し良くしてくれてたら別だったんだけどね」  すねる文醜に苦笑しつつ、顔良は腰布をひるがえしながら厨房へと消えていった。  フリフリと揺れるお尻を見送った二人はその場を後にして別室へと向かう。  広めに空間が設けられており、数人が共に使用しても何ら支障はなさそうで一室。  そこには既に先客がいた。 「あ、おかえりー」  二人の姿を見つけた張角がぱたぱたと小刻みに足音をさせながら駆け寄ってくる。  張梁も遅れて一刀たちの方へと歩み寄ってくると一言「おかえり」とだけ言って椅子に座ってしまった。 「それで? そっちはどうだったの?」 「ばっちりだ。思いっきりやれるそうだ」 「わーい! 今回も全力で歌っちゃうよ!」  その場でぴょんぴょんと何度も撥ねる張角を微笑ましく思いながら一刀は部屋を見渡す。 「ところで、地和は?」  先程から室内のどこを見ても見当たらない少女の事を訊ねると張梁が肩を竦める。 「疲れたから寝る、だそうよ」 「明日に備えてってことだな。なんだかんだで地和も気合い十分じゃないか」 「そうだといいんだけど……」  顎に手を添えて何か考え込むような表情を見せる張梁に一刀は不安になる。 「なんだ? 体調不良だったりするのか?」 「そうじゃないんだけど、ちぃ姉さん何か雰囲気が変だったというか」 「そういや、アニキの話をしてからなんか不機嫌に、というか苛立ってたというか」 「お、俺ぇ?」  文醜の言葉に周章狼狽しつつ一刀は一同を見る。  皆一様に首を縦に振っていることが事実であることを物語っていた。 「何かしたんじゃないのか?」 「し、してないしてない。俺は何もしてません」 「本当かなぁ?」 「大体、俺は世話役だぞ。世話する相手に手を出したりしないって」 「えぇ! それじゃあ、わたしにも?」  自分を指さして正視してくる張角に一刀は頬を掻きながら眼を反らす。  じりじりと詰め寄る張角。流石に接触すると二つの大きな膨らみが一刀を刺激する。  一刀が表情筋をぴくぴくと痙攣させつつも答えに窮していると、張梁が咳払いをして場を仕切り直す。 「だとしたら、どうしたっていうのかしら。ちぃ姉さん」 「ふふ、きっとご主人様と私たちの両方に理由があったかもしれませんね」  料理を運んできた顔良がにこりと微笑む。  一刀には彼女の言葉の意味もその真意もわからない。ただ一つだけ確かなのは、顔良が料理を並べていくにつれ、一刀を追求する流れが自然と消えていったということ。  一刀は内心で顔良に感謝の念と疑問を抱いていたが、それすらも腹の虫によって消し去られてしまった。 「それじゃあ、食べましょうか」 「いっただきまーす!」  誰かが発したその声を切欠に皆箸を動かし始めた。  一刀も、炒め物をひとつまみして口へと運ぶ。程よく火が通されているからか歯ごたえがよく染み込んだ汁がじゅわっと口腔内へと広がっていく。  そんな中でも張角と張梁の前にだけ特別な皿が置かれていた。 「お二人には多くの方々を元気づけていただきますから。精一杯腕を振るいました」 「うわーい、ありがとうね、斗詩ちゃん。早速いただいちゃおっかな。……ん、おいひい」 「……ホント、凄く美味しい」  張角が幸せそうな笑みを浮かべており、張梁も感じ入っている様子である。  そんな二人を見て、本当に感激したとき、人は言葉を失うと言うが彼女たちにとって今がそれなのだろうと一刀は思った。  確かに、顔良の料理は相当なもので一刀も頬が落ちそうになってばかりだった。  だが、そんな至福の時もすぐに終わりを告げる。  特別品を黙々と頬張っていた張角と張梁の箸が急に止まったのだ。 「うぅ……」 「……く、くぅ」  みるみる青ざめる二人の顔に一刀たちは席を立って駆け寄る。 「ど、どうしたんだ!」 「わ、私……調理失敗してたの? そんな……」  見れば、顔良も口元を手で抑えたまま顔を青白くしてふらついている。  元気づけようと振る舞った料理で逆に倒れたのだ、精神的な衝撃は計り知れないだろう。  そんな彼女を支える文醜が、気まずそうな顔をして一刀を見る。 「あのさ、実はあたい……、買い食いするために裏通りでやってた安売りしてる店で買ってきたんだ」 「もしかして、怪しい店でかった食材が原因だったってことか」 「……多分なそうだと思う。ごめん」 「反省は後だ。猪々子は医者を呼んできてくれ、斗詩は桶に水、それと手ぬぐいもな」  そう言って、二人を促すと一刀は一人を抱えて部屋へと運んでいく。  寝台へと寝かすと、もう一人も同様に運ぶ。 「参ったな……この様子だと明日の公演が……」 「んもう、なにごとぉ? って、姉さんに人和!? どうしたのよ、これ!」  騒ぎに気がついたのだろう、いつの間にか部屋へと入ってきていた張宝が仰天して表情で一刀に詰め寄ってくる。 「地和、悪いけど静かにしてくれないか。二人の身体に響く」 「え、ええ、わかったわ。だけど、一体何があったって言うのよ」 「いや、実は食材に問題があったらしくてな」  一刀は、事の経緯をかいつまんで説明する。 「なるほどね。それで他の二人はどうしたの?」 「頼み事をしてある、多分そろそろ斗詩が戻ってくる頃か」 「ご主人様、持ってきました」  縁に二つの手ぬぐいが掛けてある桶を持った顔良が一刀の元へとやってくる。  一刀は手ぬぐいを良く濡らすと、ぎゅっと絞った後、整えて張角たちの額へ乗せていく。  二人の顔色は真っ白になり、唇も変色し始めている。 「猪々子はまだか……」 「アニキ! 医者を呼んできたぞ!」  猪々子が部屋に駆け込んでくる。その背後にはと思しき男性がいる。 「ご主人様、後は私と文ちゃんに任せてください」 「でも……」 「ご主人様は明日のことをどうするかお考えになってください」 「そうだな。それじゃあ、任せたぞ。行こう、地和」  一刀は、最後に寝台で苦しんでいる二人を一瞥し部屋を後にした。 「すみませんが、二人をお願いします」  医者に二人の事を念入りに頼むと、一刀はそれを広間へと戻り、張宝と向かいあうようにして座る。  張宝は何やら考え込んだまま沈黙を続けている。 「地和、辛いのはわかる。ただ、一応話だけはしよう」 「大丈夫よ。明日からの公演をどうするかだったわよね」 「ああ。やっぱり中止にした方がいいよな」  唸るようにそう告げるが張宝の瞳はどこか強い意志を秘めている。 「駄目よ。公演はやるわ」 「だけど、二人がいないんじゃな……」 「別にあたし一人だってやれるわよ」 「しかしなぁ……」  熱意に満ちた表情で見つめてくる張宝に一刀は戸惑う。  張宝を強く求めている層もいるはずだが、それが全てではないのだ。  数え役萬☆姉妹というグループとして魅力を感じる者、張角、若しくは張梁を見に来る者だっている。  そういった張宝一人の公演に即していない層のことを考えると難しい。 「お願いだから、ちぃを信じて!」  ちらりと張角たちが寝込んでいる部屋を見る。病魔と闘っているのであろう、二人のうめき声に男の必死な叫びが扉の向こうから漏れ出ている。 「……わかった。だけど、いつもと同じくらいには盛り上げるよう頑張ってくれ」 「もちろん! ちぃの魅力を再認識させてあげるんだから」  再認識の意味がよくわからなかったが一刀は彼女の意志に沿うことを決め、席を立つ。 「地和は明日のために英気を養っていてくれ」 「一刀はどうするの?」 「俺は、今回の件とこちら側の意向を関係者に伝えてくる」  †  姉と妹が倒れた翌日、張宝は自らの仕事を終え、控室でこの一日を振り返っていた。  彼女としても多少の不安はあったがそれを覆すほどの大盛況となった。  一刀との約束通り、会場は普段通りに盛り上がり滞りのない進行を無事終えることができた。 「やっぱり、ちぃの人気は凄いのよ」  一刀が用意しておいてくれたお茶で喉を癒やしながら張宝は一人で満足そうに頷く。  普段ともにいる二人がいないことは不安と鳴ってはいたが持ち前の自信と度胸で乗り切れた。  公演後の余韻が満ちたりている中、張宝はここで行う残りの公演もいけると確信を抱く。  そこへ、一刀がやってくる。 「今日も、結構な手紙が届いているぞ。よくまぁ、書けるな……かなりの情熱を持ってるんだな」 「ちぃの魅力に当てられたら大抵はそうなっちゃうのね」 「今はその自信満ちあふれた言葉が頼もしく感じるよ。あと数日あるけど頼むぞ」 「ええ、ばっちりこなしてみせるわ」  張宝はぐっと拳を握りしめて意気込みを表すと一刀は口角を上げて頷く。  何やら和やかな空気が忠代言い始める中、親衛隊の隊長が入室してきた。 「あ、大アニキ。こりゃ、失礼」 「何か問題でもあった?」 「いや、問題ってわけじゃないんだ。一人頭巾を無くした馬鹿がいてな。予備を取りに来たんだ」 「ああ、この黄色いのか」  そう言うと、一刀は頭巾を隊長へと手渡す。  張宝はそちらには眼を向けず、届いた手紙を読んでいく。 「どうも、お邪魔しました!」  張宝に向かって敬礼をすると、隊長は一目散に退室していった。 「どうしたんだ、地和。そんな気難しそうな顔して」 「……これ」 「ん? なになに……、てんほーちゃんとれんほーちゃんに何かしたんだろ! 彼女たちの復讐をしてやるから覚悟しておけ……なんだこれ!?」  眼を真開く一刀に張宝は呆れた表情で肩を落とす。 「どうせ、いやがらせよ。こういうの昔は稀にあったのよ。誰かの熱狂的応援者が他の誰かにこういう手紙を送ってきてるのよ」 「はぁ−、なるほどねぇ。一応、警戒を強めるか……いや、今度こそ興行を一旦中止すべきか」 「何言ってるのよ、こんな手紙くらいで」 「いや、最後の砦である地和にまで何かあって見ろ。全て終わりだぞ」 「だから、気にするほどの事じゃないって言ってるでしょ!」 「万が一って事があるだろ。地和に何かあってからじゃ遅いだろ!」 「ああ、そういうこと」  張宝は馬鹿にするように一刀を横目で見ると、鼻を鳴らす。 「商品が傷つけば、今後に大きく影響が出るものね。さっきの頭巾みたいに換えが聞くわけでもないしぃ」 「あのなぁ、そうじゃない。地和が大切だから――」 「うるさい! 協力する気がないなら出てって!」 「……わかった。続けたいのなら続ければいいさ」  そう吐き捨てると、逃げ去るように一刀は控室から出て行った。  後に残されたのは非常に嫌な空気だった。 「何よ……なんでわかってくれないのよ」  張宝はただ歌いたかったのだ。歌うことが好きだから、そして何より自分の歌声に魅了され活力を得る人々を見ることが。  他の誰がわかってくれなくとも一刀はわかってくれていると思っていた。しかし、その信頼は裏切られたそれが無性に腹立たしくて、悔しかった。 「一刀のバカー!」  たった一人しかいない控室に張宝の叫びが木霊した。  そして、翌日。  結局、親衛隊を含めた作業員と張宝だけで公演を行うこととなった。  裏方に回っている貂蝉や警備として来場していた顔良、文醜などは顔を覗かせに来たりはしたが、一刀だけはこの日一度も姿を見せることはなかった。  それでも公演を無事に成し遂げ、張宝は昨日同様に控室で疲れた身体を癒やしていた。  だが、その心は一日前とは全く異なっていた。 「何よこの感じ……昨日と何も変わらないはずなのに」  前日同様に上手く出来たはずなのに張宝の心は晴れ渡っていなかった。  雨が降った後のようにじめじめとして心がべたついている。  無性にわき起こる苛立ち。ずっと身体に纏わり付いてる寒気。 「寒い……わね」  自分の肩を抱きしめながら彼女は溜め息を吐く。  火照っているはずなのに身体の熱が感じられない。鼓動も脈動もわからない、ただ寒い。  いつもならあるはずの公演後の充実感もない。  それどころか達成感すら抱くことができなかった。  彼女はこの一日を通して一つの考えを持ち始めていた。実は自分を支えてくれている大きな存在があるのではと思い始めたのだ。 「そんなわけないじゃない。ちぃがまさか、ね」  これまでも自分の力で人気を勝ち取ってきた、そう彼女は信じている。  張宝は湯飲みを手に取ると中身をぐいと飲み干す。 「……ぬるい」  顔を顰めた張宝は思わず舌打ちしてしまう。  そして、自分が気付かぬうちに苛立っていたことに気がついた。 「何よ……あんなわからずや」  この苛立ちの中心にあるのは一人の人物に対する思いからきている。それが張宝自身にもわかる。  しかし、だからといって今すぐどうにかできるわけでもなかった。  そのことが彼女を一段と苛立たせていた。 「大体、一刀がいなくたってこうして上手くやれてるんだから気にする必要なんて……はぁ」  強気を保とうとしているのに張宝の口からは溜め息が漏れてしまう。 「昔のちぃ……あたしだったらこれくらい何てことなかったのに」  どうしてここまで弱い面を持つようになってしまったのか張宝は不思議に思う。  だが、張宝はすぐにはっと我に返り頭を強めに振る。 「いけないいけない。こんな暗い気持ちじゃ駄目よ。笑顔笑顔」  鏡を見ながら自分の頬を指で吊り上げて笑顔を作る。  彼女にとって舞台とは戦場であり、自分の持てる全てでぶつかる相手でもあった。 「さあ、頑張るわよー!」  †  連日行われる公演も数日が経ち、中盤を迎えていた。  この日の観客席も群衆で埋め尽くされ、まさに満員御礼といった状態だった。  そんな大勢の人でひしめき合う中に彼はいた。  筋骨隆々な相方と共に周囲の観客を鋭い視線で見回している。 「流石にそろそろ動くと思うんだが……」 「そうねぇ。地和ちゃんへの襲撃自体は警備の増強もあって今のところ実行できていないようですものね。いい加減犯人もじれったくなってるはずよ。そうなると、より過激な行動にでるでしょうね」 「そして、その時こそ捕縛する絶好の機会って訳なんだよな」 「ええ、それに成功すればご主人様の苦労も報われるわね」  そう言って微笑む貂蝉から視線を逸らすと一刀は照れ隠しに髪をわしゃわしゃと掻きむしる。  一刀はここ数日の間、別行動を取っていたのだ。  張宝と別れた後、親衛隊に警備の強化をさせ、自身もまた客に紛れて警戒していた。 「地和ちゃんもご主人様が開演前日から何をしてたか知ったら驚くでしょうね」 「言うなよ。下手に地和を傷つけたくはないぞ、俺は」 「わかってるわよん。だけど、ご主人様ってば保護者みたいよ」  くすくすとおかしそうに笑う貂蝉にむっとしながら一刀は舞台上の張宝を見る。  彼女は背一杯舞台上を動き回り、歌声と元気を観客へ届けている。  本来ならば他の二人が担当する箇所も含めている張宝は、それこそ舞台の端から端へと駆け回っている。 「うぉぉぉおおおお! ちーほーちゃーん!」  張宝が曲の間に何か話せば観客も大いに盛り上がる。この反応は張宝がまさに天性の歌芸人であることを一刀に思わせるのに十分だった。 「やっぱり、凄いな。地和は」 「あら、ご主人様の助力もあったからこそでしょ?」 「まさか。俺がしたのは会場に客を呼び寄せるために色々手を打っただけだ」  数え役萬☆姉妹の内、二人の出演が危ぶまれたあの日、張宝の元を後にした一刀は関係者各位との調整だけでなく、情報を取り扱う商人や間者を用いて張宝の独演を特別公演であるように風評操作を行っていた。  その結果、普段は見られない貴重な公演という認識が広がり、集客の問題はなんとか防ぐことに成功し、今に至る。 「わたしとしてはご主人様まで倒れるんじゃないかと思ったわ」 「多分、お前が補佐してくれなかったらそうなってたかもな。まったく、なんでよりのよってお前に度々助けられるかな、俺」 「うふふ、いいのよ。お礼なんて、お礼なんてぇぇぇ!」 「あ、最後の曲が終わった」  腰をぐるぐると振り回している貂蝉を無視して一刀は舞台上の張宝へ注目する。 『今日も来てくれた人はありがとう! 今日初めて来た人はこれからもよろしくねー!』  妖術を通して張宝の声が会場中に響き渡る中でも一刀は場内全体に気を配り続ける。 『これだけみんながよろこんでくれるなんて、ちーほー嬉しいな』  見事な愛嬌ある笑顔を浮かべる張宝に会場はますます熱を上げていく。  一刀は、観客全体が蠢き始めていることに気がついた。 「これは興奮状態だからってだけじゃ説明がつかないな……てことは」  一刀は自分を潰そうとするかのように迫りくる肉の壁を押しのけつつ前方を見る。  警備員も人の雪崩をギリギリで押さえ込んでおり、あと少しで崩れかねない状態となっている。 「ぐ、お、押すな! 変なとこ触んな……って、汗臭っ、うぅ……」 「ぶ、文ちゃんしっかりー!」  見覚えのある顔が眼を回しているがそこから眼を反らし、一刀は再度舞台上へと視線を戻す。  その時だった。  警備の担当をしていた親衛隊の一人が舞台へ駆け上がっていく。  妖術が、男の声を拾い上げる。 『うぉぉおお! これはてんほーちゃんとれんほーちゃんの恨みだぁぁああ!』  遠くからでは正確には見えないが男は刃物らしきものを手にしている。  一刀は隣にいる貂蝉の方を見る。 「貂蝉! 俺を投げろ!」 「了解よん! いっくわよ……うっしゃ、おらぁぁぁぁぁぁああああああああああ!」  貂蝉の咆哮によって十戒のように割れた客席を一刀は弓箭兵の放った矢のように飛んでいく。  唐突のことに反応が遅れた張宝に男が迫る。 「我が悲願、成就せ――」 「はい、歌手に無断で手を触れないで下さいねぇぇえええ!」  間一髪、一刀は体当たり気味に男の背中にぶつかった。  男を床に倒れ込ませると、一刀はそのままのしかかり腕をがっちりと掴んで組み敷く。  うつぶせになって唸る男に一撃を加えて気絶させると、一刀は携帯している捕縛用の縄で縛り上げる。  そして、唖然としたまま一刀と男を見つめている張宝に近づく。 「大丈夫だったか、地和」 「……か、一刀?」 「ああ、悪かったな。危険な目にあわせちゃって。でも、もう大丈夫だ」  笑顔でそう告げるのと同時に張宝が一刀の胸へと飛び込んだ。  一刀はしっかりと彼女を受け止めると優しく抱きしめる。  張宝は胸に顔を埋めたまま一刀に話しかける。 「バカ……」 「ごめん」 「なんでそんなに優しいのよ……バカ」 「ごめん。地和が大切だから」 「……一刀のバカ」  ゆっくりと顔を上げる張宝、その瞳には宝石がなっており煌めいている。  張宝はその輝かしい眼を閉じると静かに一刀の頬へ口付けした。  一刀が驚くよりも早く、会場が沸騰したかのように轟音と共に揺れた。 「ちーほーちゃんがぁぁぁぁああああ!」 「あ、ありゃあ誰だー!」 「御遣い様じゃしょうがねぇか……」 「畜生、やっぱ大アニキは大アニキだったー!」  よく考えてみれば、舞台上という最も目立つ位置に二人はいた。  一刀は背中に突き刺さる視線に冷や汗が止まらなくなる。 「うふふ、これは大変ねぇ」  いつの間にか舞台上へ降り立っていた貂蝉がにやにやと笑みを浮かべている。  そんな暢気な態度に会わせるかのようにすぐにでも暴動が起こりそうなほど殺気で満ちていた会場が大人しくなり始める。  どうやら観客は貂蝉の奇っ怪な風貌と登場の仕方に呆気にとられているようだった。 「よ、よし……今のうちに逃げ――」 『ねえ、一刀ぉ。ちぃ、思ったんだけど。やっぱり、一刀と二人でやっていきたい』  舞台から姿を消そうとする一刀だったが、その前に思いっきり妖術が拾った張宝の声が観客を再起動させてしまう。 「ど、どういうことだ!」 「ふ、二人でって……こ、婚約か!? 婚約なのかぁぁぁぁああああ!」 「もしかして新手の結婚報告なのか!?」 「ちくしょう、親衛隊は彼女の幸せを願う身。祝福するしか道はないのかぁ!」  張宝の言葉をどう受け取り間違ったのか、会場は混乱の渦に飲み込まれていく。  一刀は自分に殺気を送られていないことから、如何に殆どの人が困惑しているのかを察した。  そして、同時にどう収拾を付けるべきなのか悩み始める。 「ど、どうすんだこれ!」 「ちぃ、しーらないっと」  一刀から離れると張宝はぷいっとそっぽを向いてしまう。  まさに孤立無援。  どこからでもいいから助け船を、そう願う一刀に船がやってくる。 「かーずと! お待たせー!」 「やっと、医者から舞台に上がる許可が下りたわ」  やってきたのは泥舟だった。  もう一刀は笑うことしかできなかった。 「そうか、それは良かったな。あっははは」  嬉しそうに駆け寄ってくる張角によって会場が更に盛り上がりを見せる。ただし、悪い方向に。  事情を察しているだろう張梁も見て見ぬ振りをしている。  そんな二人は食あたりで苦しんでいたときとは打って変わり、健康的な色の肌が証明を受けて煌めいている。 (やっぱり舞台がよく似合うんだな)  状況も考えずにそんな感想を抱く一刀の両脇に張角と張梁が立つ。  どうしたのかと思っていると、彼は二人に腕を抱えられて引っ張られる。 「一刀ぉ、今までごめんね」 「ちぃ姉さんの支援、お疲れ様。大変だったでしょ? 何かお礼するわ、お金はかけられないけど」 「そ、そうか? じゃあ、お言葉に甘えさせて貰おうかな」 「よーし、それじゃあ早速行こっ!」  ぐいぐいと一刀の腕を引っ張る張角。張梁もほんのりと口元を緩ませている。  早足で進む二人に合わせるように一刀も歩調を早める。  そのまま舞台袖へと姿を消しつつ、一刀は舞台の方を見る。 「あ、ちょっと! 待ってよ二人とも」  唐突なことに呆然としていた様子の張宝も、我に返ると一刀たちの後を追ってきた。  その向こうで貂蝉が照明を受け、その筋骨隆々な肉体を惜しげもなく輝かせながら客席に向かって手を振っているのが見える。 「はぁーい、今日の公演はここまでよん。次回からは平常通り、"数え役萬☆姉妹あーんど黒薔薇の君"でお送りするわ! それじゃあ、次の公演でまたお会いしましょうねぇ」  舞台には貂蝉の声に反応して天を流れる雲を霧散させるほどの歓声があがっていた。  そんな中、追いついてきた張宝が空いている一刀の腕に抱きついてくる。  意味ありげにじっと見てくる張宝に苦笑をしつつ、一刀は貂蝉の方を顎で指して訊ねる。 「だ、そうだけど。どうする? まだ、一人公演を続ける?」 「ううん。やっぱり、私たちは三人でなきゃね!」 「そうか……」 「そうよ。だって、何にしても引き立て役は必要だもの」 「ちぃちゃん!」 「あはは、冗段よ冗談」  笑いながら張宝が逃げ出す。その際、彼女は一刀の耳元に囁きを残していった。  そんな張宝をぷうっと頬を膨らませた張角が追いかける。 「もうっ! 怒ったぞー」  すっかり寂しくなった一刀の隣に静かに張梁が寄り添う。  一刀は駆け回る二人の様子を見て頬を緩める。 「やれやれ、すっかり元気だな」 「明日からは一層忙しくなるわ。しっかりね、世話役さん」 「はいはい。それがお仕事ですからね、頑張りますよ」  溜め息混じりにそう答える一刀だったが、その顔には証明が当たったかのような明るい。  笑みの眉開く原因は頭の中で反芻している先ほどの張宝のささやきだった。 『ありがと、一刀。やっぱりちぃの特別ね。ちぃも……一刀の特別にしてよね!』