恋姫†無双小劇場 「小さくなったら?」  とある日の昼下がり、北郷一刀は今日も今日とて警邏にかり出されていた。  異常はないか通りの左右に目を配りつつのんびりと歩く。  道行く人が挨拶をし、それに返答する。  そんなささいなことも平穏な日常を一刀に感じさせる。 「ん、今日も良い天気で素晴らしいねぇ……こんな日は仕事なんて」 「もう少しやる気を出していただけませんか、ご主人様」  背後から聞こえた声にダラダラと冷や汗を流しつつ、一刀は振り返る。  そこには静かな笑みを浮かべる修羅がいた。 「げぇっ、関羽!」 「それはどういう意味ですか?」 「いえ、なんでもありませんです。はい」 「いいですか、我々がこうして街を見回っているからこそ……」  柳眉を逆立てくどくどと長ったらしい説教を始める愛紗。  一刀はひたすらへこへこと彼女に謝り続ける。  二人はそんなやり取りをしながらも足を止めることも周囲への警戒を怠ることもなかった。  これもまた二人にとっては日常だからである。  延々とお小言を聞かされた一刀の笑みはすっかり苦いものとなっていた。 「わ、悪かったよ。ちゃんとやるから」 「まったく。お願いしますよ、ご主人様」  腰に手を当て溜め息を零す愛紗に一刀は乾いた笑みしか出ない。  それからは愛紗の監視の下、一刀は警邏に励み続け、気がつけばすっかり日も暮れる時間となっていた。 「さて、そろそろ我らは戻りましょうか」 「ん、そうだな」  一刀は頷き返すと愛紗と並び通りを歩いていく。  夕日を受けた二人の影は仲良く同じ速度で動いている。 「あ、貂蝉が空を飛んでる」 「え? やはり、妖の類でしたか!」  愛紗は疑うことなく青龍偃月刀を構えて空を睨み付けた。  一刀はその隙にこっそりと彼女を置いてその場から立ち去ってしまう。  そのまま、裏路地を通り近道をして目的地へと出る。  そこには表に出ている店と違い、人もいない地味な露店があった。  漢女魂と書かれた書。青銅のランプ。燭台に蝋燭。木材、藁や化粧箱。  書物や日常品など、あらゆるものが並ぶ中、一刀は一際異彩を放つ首飾りに眼を止める。  装飾自体はさほどないため一見質素な印象を与える。しかし、中央に付けられた宝石は良く磨かれており淡い光を放っているようにも見える。 「親父、これ幾らだ?」  店主から値段を聞いてみると思ったほど高くはなかった。  首飾りを気に入った一刀はそれを購入すると、元来た道を戻っていく。  先ほどの通りでは一刀を見失った愛紗がきょろきょろと周囲を賢明に探していた。  その背後からそっと歩み寄ると、一刀は彼女の肩に手を置く。 「お待たせ」 「っ!? ご主人様。一体どこへ行かれていたのですか?」 「いや、ちょっと買物をね」 「それならば、一言くらいあってもよいのではないですか? それとも、私には言えないようなものだったのですか?」  ジト目で睨んでくる愛紗に一刀は苦笑しつつ先ほど買ったばかりの首飾りを手渡す。  愛紗は驚いた表情で首飾りと一刀を交互に見る。 「え? これは、えっと。その、どういうことでしょう?」 「日頃、国のために頑張ってくれてるお礼、かな」 「よろしいのですか? 私だけ……」 「他のみんなには秘密な」  口元に指を添えると一刀は悪戯っぽく笑う。  愛紗は夕暮れに染まり赤みを帯びた顔をますます紅潮させて微笑む。 「折角ですから、ご主人様の前でこれを――」  それ以上、愛紗の言葉が続くことはなかった。  何故なら武神、関雲長としての仕事が彼女に舞い込んだからだった。  結局、この日愛紗が首飾りをつけるところを一刀は見ることができなかった。  †  一刀が愛紗に首飾りを渡した翌日、主がいない静かな部屋。  その扉がゆっくりと開かれ、ひょっこりと少女が顔を覗かせる。 「どうやら、まだご主人様は戻っておられぬようだな」  愛紗はほっと胸をなで下ろすと周囲に人がいないことを確認した上でこっそりと中へ忍び込む。  綺麗に整頓された棚、埃一つない机に清潔感を保つ寝台。 「月もすっかり侍女が板についているようだな」  家事の手腕に感心していた愛紗だが、すぐにぶるぶると首を振る。 「て、そんなことを考えている場合ではなかったな」  目的を思い出した愛紗は懐から質素だが美しく装飾された首飾りを取り出す。  何度も迷いながらも一刀に付けたところを見て貰いたくてここに来たのだ。  愛紗は服装を改めて正すと、部屋に置かれた鏡を見ながら首飾りを付けてみる。 「ふむ……似合っているだろうか」  様々な角度から見てみるが、余り自信が持てない。 「ご主人様に笑われたりしないだろうか……」  不安に顔を顰める愛紗だったが、すぐにそれどころではなくなった。  首飾りが淡い光を放ち始めたのだ。  青白い光が波打つ。  徐々に範囲の広がる光はゆっくりと胸元から愛紗を覆い始める。 「な、なんだこれは。ご主人様は一体どこで……こんなものを買ったのだ!」  悲鳴にも似たツッコミを最後に、愛紗は一瞬で強さを増した光に包まれてしまった。  †  自分の部屋で異変が起きているとは知らぬまま、一刀は自室へと帰ってきた。  政務に励み疲弊した脳が栄養を求めている。  その要望を代弁する腹の虫に渇をいれつつ一刀は扉を開ける。 「今日の昼は何にするか……いや、まずは財布だ財布」  様々な料理を思い浮かべつつ部屋の中を見た一刀は眼を丸くする。  緑と白を基調とした龍を連想させる服、紅色のネクタイ、紺色のスカート。  一刀はそれらが乱雑に折り重なった山を手に取ると、中から一枚の布地が落下する。  それを拾い上げた一刀はかっと眼を見開く。 「こ、これは!」  可愛らしくフリルで装飾された薄青の三角形。  鼻息を荒くする一刀の手にあるそれは紛う事なき女性用下着だった。 「どういうことだ? ……あ、そうか!」  まだほんのりと温もりの残る下着を強く握りしめると、一刀は立ち上がる。  寝台には確かな膨らみが存在している。  一刀は何度か失敗しながらも唾を飲み込むと一歩一歩近づく。 「愛紗も随分と攻め気じゃないか。くくく」  鼻の下を果てしなく伸ばしながら一刀は襲いかからんとばかりに寝台へ向かって飛び込む。 「あーいしゃー!」  膨らみを覆う布を取り去る。中からは白くきめ細やかな肌が表れる。  側頭部で結われた黒髪。  荒野のように平らな胸、全体的に丸みを帯びた身体の線。 「えっと……誰?」  一刀は眼を点にしたまま、寝台で健やかに眠る幼女を見つめる。  予想外のことに停止しかけた思考を何度か再起動作させると一刀は首を捻る。  どうしたものだろうかと、迷っていると幼女があくびを噛み殺しながら眼を覚ます。  彼女は部屋中を見回した後、一刀の顔で視線を止めると首を傾げる。 「お兄ちゃん……誰?」 「え? いや、俺はこの部屋を使用してる北郷一刀って者だけど……君はどこの誰なのかな?」 「えっと、あいしゃ?」 「愛紗……だって?」 「多分」 「もしかして、何も覚えてないの?」  一刀が問いかけると、幼女は表情を曇らせながらこくりと頷く。  頬を掻きつつ一刀はどうしたものかと悩む。 「記憶がないのかぁ。でも、愛紗って……」  幼女を見る。愛紗とくらべて外見の年齢も違うし体型も異なる。  髪も結っているのは愛紗同様だが、長さは璃々と同じくらいで、まとまっている部分もあまり長めではない。 「まさか、な」  やはり自分の思い過ごしだろうと一刀は自分の想像を鼻で笑い、柳行李型の保存箱から一着のメイド服を取り出す。  璃々にねだられ服屋に作らせた特注品の予備だった。 「取りあえず、これを着るといいよ」 「え……?」  綺麗に折りたたまれたメイド服を差し出すと、幼女は自分の身体を見て小さく悲鳴を上げた。 「な、なんで私はだかなんです?」 「いや、俺も知らないよ。取りあえず、服」 「あ、ありがとうございます……」  顔を真っ赤に染めながらも幼女は器用にメイド服を着ていく。  一応背中を向けている一刀は布擦れの音がする度に耳をぴくりと動かす。 「あの……終わりました」 「服はぴったりだったみたいだね。それにしても、君は一体誰なんだろうな……あの愛紗だとは思えないし」  一刀は自分の知る愛紗の姿を頭に思い描く。  鋭角さを感じるハリのある胸、きゅっとしまったくびれ、肉付きのよい臀部。  どう考えても目の前の幼女とは違う。 「うぅん、他にわかることはないかな?」 「これ……凄く大切なものだった気がするんです」  舌足らずな発音でそう言うと、チビ愛紗は床に転がっている青龍偃月刀を拾い上げた。  自身と比べても数倍はあろう青龍偃月刀を事そうに抱きかかえるチビ愛紗だが、その重みを受けて足がふらつく。  彼女は何とか耐えるように踏ん張ったが、床に落ちていた服を踏んでしまう。 「え? きゃあっ!」 「危ない!」  態勢を崩し身体の重心がずれた幼女の身体を一刀は間一髪のところで抱きかかえる。 「あ、ありがとうございます」 「どういたしまし……て」  チビ愛紗の身体を急に抱えた上に青龍偃月刀の重みも加わり一刀の腰から下半身へ電流のような痛みが走る。  一刀はそれに堪えながらも彼女を安心させようとひくひくと笑みを浮かべる。  暫く呆然と一刀を見て射たチビ愛紗がくすくすと笑い始めた。  一刀も何だかおかしくなってきて笑い始めていると、小さな叩く音と共に扉が開かれた。 「ご主人様、少々お訪ねした事案があるのですが……はわわ!」 「……どうしたの朱里ちゃ――あわわー」 「ん? 二人ともどうしたんだ?」  ぴしりと岩のように硬直した二人に一刀とチビ愛紗は首を傾げる。  二人の軍師はふるふると小刻みに揺れながら後退していく。 「ご、ご主人様に隠し子がいらっしゃったなんて……」 「ど、どうしよう朱里ちゃん。これは、大変なことだよ」  震える声で顔を見合わせると朱里と雛里は部屋から転がるように出て行ってしまった。  しばし呆然としていた一刀だったが、我に返ると二人を追いかけようと思い立つ。 「愛紗……ちゃん。ちょっと、ここで待っててくれるかな」 「ええ、構いませんよぉ」  口角を吊り上げてこくりと頷くチビ愛紗。どうやらほんの僅かな時間だったが一刀には慣れたようだ。  ほっと胸をなで下ろすと一刀は彼女の頭を乱雑に撫でて部屋を出ようとする。  だが、扉は一刀が近づくのに合わせたかのように勢いよく開かれた。 「ご主人様! 変な噂を聞いたんだけど――なっ!?」 「ありゃあ。これは、衝撃の事実って感じだねぇ」  現れたのは先程の二人ではなかった。  太めの眉がお揃いの翠と蒲公英だった。  口元に手を当てて唖然としている蒲公英。  一方で、翠はチビ愛紗と一刀を交互に指さしてあわあわと口を開け閉めした後、柳眉を逆立てると踵を返す。 「ご、ご……ご主人様の子作り魔ー!」 「ちょっ、人聞きの悪いことを叫びながら行くな!」  駿馬のごとき速さで走り去っていく翠の背中に手を伸ばしながら一刀はガクリと項垂れる。  一刀が額を手で覆いながら振り返ると、蒲公英がチビ愛紗をあやしていた。 「うーん、璃々ちゃんを見ても思ったんだけど。子供って可愛いよねぇ」 「ん……まぁ、そうだな」 「それにしても」  眼を細めながらチビ愛紗を見つめていた蒲公英が一刀の方を向く。 「ご主人様ってば、そんなに子供が欲しかったの? それなら、蒲公英に言ってくれればよかったのにー」 「あ、あのなぁ……」  どきりと胸を高鳴らせつつ一刀は頭を掻きながら事情を説明する。  初めはにやついていた蒲公英も徐々に驚きと困惑の混じった表情を浮かべるようになっていた。 「なるほどねぇ。それじゃあ、お姉様の誤解も解いておかないと」 「そうなんだよなぁ。内容が内容だけに気が重いよ」 「ご主人様は愛紗ちゃんと一緒にいてあげて。誤解の方は蒲公英が解いておくから」 「ホントか? それは非常に助かる」 「まっかせといてよ!」  叩いた胸元は少々頼りなさげだが、一刀は蒲公英を信じるしかなかった。  蒲公英が部屋を出て行くと、一刀もチビ愛紗を連れて外へと向かう。  一刀はふと思い立つと、最近彼自身が広めた“メモ”を念のため残そうと筆を執る。すると、チビ愛紗がじっと筆を見つめてきた。 「ん? どうしたんだい?」 「……その、私が書いて差し上げます」 「え? いや別に――。ふぅ、そうだなぁ、それじゃあお願いしようかな」 「はい! お任せ下さい」  ふん、と勢いよく鼻を鳴らすチビ愛紗。  その可愛らしく意気込む姿に眼を細めつつ、一刀は腕まくりをしてきめ細かな白い肌が露わと鳴ったチビ愛紗に筆を渡す。  だが、チビ愛紗は筆を構えたまま硬直してしまう。 「えっと……あの」 「何かな?」 「何を書けばよいのでしょう?」 「ああ、そうか。えっと、愛紗ちゃんと俺が一緒に出かけるってことを書いてくれるかな?」 「ぎょい!」  恭しく頭を下げるとチビ愛紗はさらさらと筆を走らせる。  一刀は記されていく文字を眺めながら口元を引き攣らせていく。 「できました!」 「……お、お見事」  見惚れるほど、とはいかないまでも十分達筆な筆遣いに一刀は内心で大きな敗北感を覚えていた。  †  幼女と青年は繋いだ手を前後しながら和やかに会話をしている。  すれ違う者たちはきっと彼らを親子かはたまた兄妹と見ていることだろう。  そんなことを考えながら歩く一刀に向かって噴煙をまき散らさんばかりの勢いで駆け寄ってくる人影があった。 「か、かかかかか、一刀っ!」 「蓮華? どうしたんだ?」 「ど、どうしたもこうしたも……貴方に隠し子がいて尚且つそっちの趣味があったとか……」  目が泳ぐどころか、メドレーリレーを始めそうな勢いの蓮華の言葉に一刀は頭を抱える。  その仕草を見た蓮華が一層険しい表情を浮かべてチビ愛紗をじろじろと観察する。 「どう考えても孫登より大きいわね。一刀、あなた……私のことを騙してたのね」 「ちょっ、落ち着けって」 「ひどいじゃない……別に子供がいることは仕方ないし、その子に罪はないもの。でも、一言欲しかったわ、ありのままの貴方を愛したかったから」  充血した瞳を潤ませる蓮華。その拳は固く握りしめられたまま小刻みに震えている。  一刀は状況の悪化を自覚し天を仰ぐ。彼はとても泣きたくなった。 「誤解なんだよ、それは」 「本当に?」 「ああ。まず、この子は俺の子供じゃないよ。ちょっと事情があるんだ」 「それじゃあ、ただ仲がよいだけなのね……よかった」  安堵のため息を吐くと蓮華は目元をぬぐう。その口元はようやく曲線を描く。 「まあ、しんだいのうえでハダカをみられましたけど」 「……一刀?」  冷めた表情で蓮華を睨みつけている愛紗の言葉は空気を完全に止めた。  一刀は蓮華の氷のようなまなざしに冷や汗を滝のように流し続ける。 「いや、それはだな……確かにそうなんだけど、違うんだ」 「どう違うっていうのよ! 一刀の……一刀のロリコンー!」 「ちょっ、どこでそんな単語仕入れたんだ! って、俺しかいないじゃん、俺の馬鹿!」  蓮華はうわぁんと泣きながら走り去っていく。  その如何なる時もぷりぷりと揺れる安産型のお尻を追いかけようとする一刀だったが、それは叶わなかった。 「おい、貴様……どういうつもりだ」 「……あ、あの。取りあえずいきなり現れて人の喉元に刃を宛がうのは止めてくれませんかね? 思春サン」 「それは、貴様の返答次第だ」  思春が僅かに手首を動かすと、喉の辺りから発せられる鈍い光が揺れる。 「こらぁ! お兄ちゃんになにをしゅるのだ!」 「な、何だ? この小娘は」  青龍偃月刀を構えたチビ愛紗が勇ましい目つきで思春を睨み付けている。  思春はそんな幼女を困惑色の強い瞳で見下ろしている。 「いや、だからちょっと訳ありで預かってるだけだよ」 「その割には随分と慕われているようだが?」 「ひぃぃ。ちょ、ちょっと刺さってません? ねえ、刺さってません!? 喉がチクっとした後、熱くなってきたんですけど!」  一段と低くなった思春の声に一刀の全身の毛が逆立つ。  焦りながらも端折りつつも捲し立てるように一刀は事情を説明していく。  すると、刃のごとき思春の殺気も喉元の得物と共に徐々に緩んでいった。 「……ふん。初めからそういえ」  得物を収めつつも鉄面皮っぷりを発揮している思春。  だが、その瞳はどこか安堵が混じっているように見える。 「ん? なんで思春が安心してるんだ?」  無表情を取り繕っていた思春の顔が一瞬で朱に染まった。 「ば、馬鹿なことを! わ、わた私はただ、蓮華さまがだな」 「まあまあ、お姉ちゃん。落ち着いたらどう? ……みっともないですよ」  チビ愛紗は肩を竦めてふっと呆れの混じった笑みを浮かべる。  思春は一瞬で顔の赤みを一層強めると、丸くした瞳を潤ませたまま口元をもごもごとさせる。 「くっ、お、覚えていろ北郷!」  キッと一刀を睨み付けると、思春は刹那の間に姿を消した。  ただ、赤面も限界に達し噴き出した湯気が彼女の道取りを縁取っていた。 「……思い切り逃げ道がバレバレだぞ。それでいいのか、思春」 「ああいうのが、みじゅくものというのですね」 「なかなか、毒舌だな」 「お兄ちゃんをいじめる人なんてしりません!」 「はは、嬉しいことを言ってくれるなぁ」  ぷうっと頬を膨らませ、眉尻を吊り上げたチビ愛紗に一刀は口元を綻ばせる。 (俺の周囲にこれ程までに心強い味方がいただろうか、いや、いない!)  拳を握りしめ感涙に噎び泣きかけている一刀をチビ愛紗は不思議そうに見上げるという変な図が展開していると、 「こんなところで奇行をするのは如何なものかしら?」  髑髏のアクセサリーを身につけた金髪の少女が二人の前で顔を顰めている。 「え? いや、あはは。あ、そうだ! 華琳は何か変な噂聞いたりしてないよな?」 「聞いてるわよ」 「そうか、聞いてるのか。よかった、てっきり聞いてるのかと……え?」  落ち着いた様子を見せる華琳に一刀は何度も眼を瞬かせる。 「耳にしてる割に華琳は普通だな」 「安心しなさい。別にあの程度の話で貴方がどのような人間か推し量るつもりはないわ。だって、貴方が多くの趣向を持っていることくらい既知のことでしょう? 今更、それが増えたところで動揺などしないわ」 「あれ? なんでだろう、目から汗が流れ出てくる……」 「ふん、今更自分の外道ぶりを理解したようね」  華琳の横でずっと敵意剥き出しの目で一刀を睨みつけている桂花が鼻で笑う。  気落ちする一方の一刀を余所に華琳に付き添っていたもう一人の従者である春蘭が首をかしげる。 「あれ? でも、確か北郷に子供がいたと聞いたときは華琳様……もごもご」 「しゅ、春蘭! 余計な事はいわないでちょうだい」  慌てて春蘭の口を手でふさいだ華琳、その頬はなぜか朱に染まっている。 「華琳……今のは?」 「な、なんでもないわ。気のせいよ」 「いや、でも聞こえたぞ。華琳、本当は――」 「気のせいと言ったら気のせいよ」  華琳が強めの声色で否定する。ただ、その赤く染まった耳では説得力はない。 「そうよ! あんた耳腐ってるんじゃないの? それとも妄想しすぎてそっちの人になったのかしら」  主君の言葉に続けとばかりに桂花が熟練の弓箭兵のごとき連射で罵詈雑言を並び立てる。  一刀はその勢いにひるみ口をつぐむ。桂花の辛辣な言葉はますます激しくなる。  だが、そんな桂花にむかって一撃が繰り出される。 「桂花!」 「む、紙一重だったな……にしても、何だこの小娘は!」  己の持つ獲物で間一髪桂花を守った春蘭は、犯人であるチビ愛紗を睨みつける。  チビ愛紗はうーうーとうなりながら桂花を睨みつけている。 「お兄ちゃんをぶじょくするのは私がゆるさない!」 「そうね、桂花の非礼は詫びるわ」 「華琳さま!」  桂花は肩を落とし申し訳なさそうな顔で華琳を見る。  華琳は口元を緩めると、膝を折ってチビ愛紗と視線を合わせる。 「それにしても、貴女すばらしいわ。きっと文武に長けた良き麗人に育つことでしょうね。なんなら、今のうちから私の侍女にでもなってみるかしら?」 「ひいっ!」  顔を青ざめたチビ愛紗が一刀の背に隠れる。  ズボンを掴んだままぶるぶると震えているチビ愛紗を不思議に思いながら一刀は華琳を見る。  気のせいか、彼女のこめかみに青筋が浮かんでいる。 「一刀。貴方、一体この子に何を吹き込んだのかしら?」 「いや、何もしてないから」 「嘘おっしゃい! どうみてもあの反応は普通じゃないわ! あんた華琳さまへの心証が悪くなるよう仕組んだんでしょ!」 「ご、誤解だって、俺は何も説明していないから」 「……行くわよ。二人とも」 「ちょっと、華琳」 「一刀」  一刀の横を通り過ぎたまま振り返らぬまま華琳は語りかける。 「後日、私の元へ来なさい。いいわね」 「……はい」  一刀の顔からみるみる血の気が引いていく。  そんな彼とは対照的に離れていく華琳を見てチビ愛紗が安堵していた。  †  華琳たちと分かれた二人は紫苑の下へと向かった。璃々関係で何か知らないか訊ねようとしていたのだ。  しかし、彼女は暴徒の鎮静に向かったままでまだ戻ってきていないという。  仕方なく、一刀は紫苑が戻ってくるまでの時間をつぶそうと場内をぶらつくことにした。  気がつけば、二人は修練場の近くへと出てきていた。 「今日帰ってくるって話だったけど、まだだったとはな」  さて、どうしたものかと顎に手を当てる一刀。  そのもう片方の手がぐいと引っ張られる。 「ん?」 「あれ……」  チビ愛紗が見ているのは修練場で鍛錬に力を注いでいる鈴々の姿だった。  丈八蛇矛を力強く振り回し、空を切り裂いている。 「興味があるの?」  青龍偃月刀を手放さないところから一刀はそう察したがどうやら正解らしい。  チビ愛紗は大きく首を縦に振っている。  一刀は笑いをかみ殺しながら彼女を連れて鈴々の方へと向かう。 「おーい」 「にゃ? あ、お兄ちゃん!」  突きを放った直後の鈴々が一刀の姿を捉えにぱっと笑う。 「んんー? その子は誰なのだ?」 「えっと、愛紗ちゃんといってね。ちょっと預かってる子供なんだ」 「……ふうん。愛紗と同じ名前なのか」  鈴々は丈八蛇矛を挟み込むようにして頭の後ろで手を組む。 「それで、こんなところに来てどうしたのだ?」 「なんか、この子が興味あるみたいでさ」 「じゃあ、鈴々が稽古をつけてやるのだ!」 「……い、いいんですか?」 「おう! どんとこい、なのだ!」  胸を叩き、頼もしさを強調すると鈴々はチビ愛紗をつれて修練場の中央へと向かう。  チビ愛紗は鈴々の話を真剣に聞いて何度も相づちを打っている。 「よし、それじゃあ構えをとってみるのだ。まずは上段の構え!」 「は、はい!」  腕組みして表情を引き締めた鈴々が声を張り上げると愛紗も緊張した面持ちで構えをとる。 「そう、それでいいのだ。ところで、なんで青龍偃月刀を持っているのだ?」 「え? いえ、大切なものなので」 「ますます愛紗そっくりなのだ」  びっくりした様子で鈴々は眼を丸くする。 「えっと、その……張飛さんが知っている愛紗さんってどんな人なんですか?」 「鈴々のことは鈴々でいいのだ。あ、待って、やっぱり姉者と呼ぶのだ!」 「わかりました。姉者」 「にひひ、よろしい! それで、愛紗だけどとっても凄いやつなのだ。鈴々のことを怒ってるときなんて角や牙が生えてそれはもう恐ろしいのだ」 「ふぇぇ、怖いですねぇ」 「しかし、この鈴々は臆病者ではないからちっとも怖くないのだ!」  むん、と胸を張って自慢をする鈴々にチビ愛紗が尊敬の眼差しを向けている。 「それに、鈴々は知っているのだ。愛紗は本当は優しい鈴々のお姉ちゃんなのだ。ちょっとガンコで堅物だからアレだけど、本当は違うのだ」 「ふふ。鈴々さんは本当にその人の事が好きなんですね」 「余計な事を話しすぎたのだ、さあ続きを始めるのだ。それと、姉者と呼ぶのだ!」  二人のやりとりを離れたところから見守る一刀は非常に暖かい気持ちに満たされていた。 「鈴々も何だかんだで面倒見がいいんだよな」 「さあ、今度は一連の動きをやってみるのだ!」 「はい! いきます」 「にゃあ、以外にやるのだ。基礎の出来、精錬された動きといい本当に見所のあるヤツなのだ」 「ありがとうございます。姉者!」  感嘆の声を上げる鈴々にチビ愛紗が頭を下げる。  それを見ながら一刀は口元をほころばせてにこやかな顔をしていた。 (鈴々、すっかりお姉さん気取りだな) 「まだまだ、稽古は続くのだー!」  †   鈴々によるチビ愛紗の稽古を見守るうちに時間は光のように過ぎ去っていた。  チビ愛紗の相手をしてくれたお礼も兼ねて鈴々と昼を共にした後、二人は腹ごなしに庭園を歩いていた。 「いい陽気だなぁ……」 「そうですねぇ〜」  間延びした声で同調するチビ愛紗はのほほんとした表情で太陽光を浴びている。  若干、うつらうつらしておりすぐにでも夢の世界へ旅立ちそうである。 「ちょっと歩いたらどこかで休もうか」 「……ふぁい」  あくびを噛み殺しながらこくんと頷くとチビ愛紗は一刀のズボンに捕まる。  非常に危なっかしい足取りに一刀は彼女の身体を抱え上げることにした。  チビ愛紗はぽふっと一刀の肩に顔を埋めると静かになる。 「よほど、鈴々師匠の稽古が効いたんだな」  苦笑を浮かべながら一刀は丁度良い木陰を見つけ、そこに腰掛ける。  そっと自分の腿にチビ愛紗の頭を乗せると、自身も木の幹へ背中を預ける。 「ふあ……俺も寝よう」  満腹感によって来襲した睡魔に流されるようにして一刀は眠りについた。  次に一刀が眼を覚ましたのは明るかった陽射しがすっかり紅くなったころのことだった。  未だチビ愛紗は眠ったままだったが、一刀が起きたのに合わせてゆっくりと瞼を開けていく。  知らぬ間に痺れた腿がチビ愛紗の頭によって刺激されるのを我慢しきった一刀は彼女を連れて夕焼けに染まった庭園を歩く。 「結構、時間経ってたんだな」 「そうですね……ふあ」 「まだ眠い?」  訊ねるとチビ愛紗はふるふると首を振って答える。  一刀はそう良いながらもふらついている少女の肩をそっと抱きかかえる。  そうして歩いているうちに二人は東屋の近くへと辿り着いていた。 「主が何やらとんでもない秘密を隠しておったらしいぞ」 「ほう、それは非常に興味深い……して、どのような秘密なのだ」 「それがな、なんでも――」 「ほう、それは誠か? だとしたら、お館様もやりおるわ」  一刀たちは何やら聞こえてきた声を辿って東屋へと向かう。  そこには、真っ赤な顔をした星と桔梗の姿があった。  桔梗がいたのはちょうど良いと、一刀は紫苑のコトを訪ねようと二人に声をかける。 「あのさ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」 「お、話の主役がきおったぞ」 「主ぃ、折角ですからここにお座りくだされ」  星に促され、一刀が彼女と桔梗の間に腰掛けると、チビ愛紗がとてとてと歩み寄って膝の上にちょこんと座った。  卓の上を見れば、杯に徳利、その他にも酒の入れ物と思しき散乱した容器の群れ。  それらを見渡しながら一刀は二人を半眼で睨む。 「なんだ? 二人して呑んでたのか」 「ええ。今日はたまたま仕事が早く片付きました故、少々」 「少々って量じゃないだろ……」 「余り細かいことに拘るのは男としての器がしれますぞ、お館様」  出来上がった二人はご機嫌な様子でニタニタと笑みを浮かべている。  二人の口元からほんのりと漂う酒の匂いだけで一刀の動機が速まる。 「ところで、主よ。その娘が、例の隠し子ですかな?」 「なっ、それ誰から……」 「翠がぎゃあぎゃあと喚いておりましたぞ。恐らく城中の者に知れ渡っておる頃かと」  桔梗の宣告に一刀はがっくりと肩を落とした。一刀の顎を頭で受けているチビ愛紗が小首を傾げる。 「た、蒲公英。頼むから速く誤解を解いてくれ」 「誤解なのですか?」 「当たり前だ。子供が出来たなら隠すつもりはない」 「ほお、断言なされるか」  顎に手を当てて感嘆のため息を漏らす二人に一刀もため息を零すと、ふわっとチビ愛紗の黒髪がなびく。 「しかし、それならばお館様も人が悪いですなあ」 「そうですぞ。子を授かりたいのならば我々に申しつけてくださればいくらでも……」  艶っぽい笑みを浮かべた星と桔梗は怪しげな色を称えた瞳で一刀を一瞥する。  一刀が色っぽさに見とれる好きに二人のほっそりとした手が彼の股間に伸びる。 「ちょ、何を考えてるんだ二人とも。いや、酔っ払ってるんだったな」 「よいではありませんか、主ぃ」 「それとも、わしのような年寄りに用はないと?」 「だから、そういうことじゃないっての。大体、子供の前で何を……ああもう、酔っ払いはこれだから」  軟体動物のように絡みついてこようとする二人に一刀はたじたじになってしまう。  だが、救いの神は意外と近くにいた。 「お兄ちゃんをこまらせりゅでない!」  すっかり置物のようになっていたチビ愛紗が二人の腕を払いのけた。  一刀の膝から降りた彼女は聖眼中段の構えを取って星と桔梗を威嚇する。 「おやおや、頼もしい親衛隊をお持ちですな」 「これはこれは、すまなかったのう」  チビ愛紗の剣幕におどけた様子で二人は手を引く。 「すなおでよろしい」  腰に手を当ててえへんと胸を張るチビ愛紗。  星と桔梗が先ほどまでとは違う意味で大人色の瞳で頬を綻ばす。  チビ愛紗は満足した様子で再び一刀の膝の上に戻った。 「あら、何だか賑やかですわね」 「なにやってるのー?」  やってきたのは紫苑と璃々の親子だった。  紫苑が口元に手を当てて優雅に笑いながら一刀の正面に腰を下ろす。  娘である璃々は一刀を見つけるやいなや駆け寄ってきた。  だが、一刀の膝から飛び降りたチビ愛紗がしゃかしゃかと腕を上下させながらそれを妨害する。  璃々はぴょんぴょんと撥ねながらチビ愛紗に抗議する。 「ねえ、どいてよー! 璃々、ご主人様と遊びたいのー」 「それはきけぬもうしでだな」 「なんで、ねえ、なんでー!」 「だめなものはだめなのだ!」 「むうー!」 「ぬうー!」  璃々とチビ愛紗は共に頬を紫苑の乳房のようにぷっくりと膨らませて睨み合う。  一刀は止めようと腕を伸ばしかけるが紫苑に制される。 「紫苑……?」 「璃々も自分と近い歳でご主人様と親しい子に会うこともありませんから、きっと戸惑っているのでしょう。ご主人様、少し様子を見守ってみてはいただけませんか?」 「紫苑がそう言うなら別にいいけど」  微笑む紫苑に頬を掻きながら答えると、一刀は二人の様子を見ながら手渡された杯を口元で傾ける。 「ご主人様は璃々と遊ぶの!」 「ダメだ! お兄ちゃんは、私といっしょにいると決まっておるのだ!」 「決まってないもん!」 「決まっている!」  それから延々と押し問答を続ける二人。  璃々がこれほどまでに張り合うというのも珍しい光景といえる。  それを肴に大人4人は酒を飲む。 「いいのかな、これで」 「よろしいのですわ。偶にはああやって喧嘩するのが子供ですもの」 「いや、そっちでなくてだな……」  そう言って一刀は先ほどからやいのやいの言っている酔っ払いを見る。 「はっはっは、よい気迫だ。さすがは紫苑の娘だな。いいぞ、もっと言ってやれい」 「ほう、そうくるか。さあ、どうでる……そうだ、それでよい」  星も桔梗もぎゃあぎゃあと口喧嘩する二人に野次を飛ばす。  一刀はズキズキと痛むこめかみを押さえつつ紫苑を見やるが、彼女は頬杖をついて桜色に染まった顔を一刀に向けたままじっとしている。 「うふふ、璃々たちを心配するご主人様は何だか若い父親って感じがしますよ」 「え? そうかな……どうなんだろう」  眼をそらしながら一刀は苦笑する。紫苑もくすくすと笑う。 「やはり、お子を作りたいと思っているという話は誤報ではなかったようですわね」  一刀は思わずむせて酒を吹き出し、咳き込む。  それを見て紫苑があらあらとおかしそうに笑う。そのとき、幼子二人の口論が一段と喧しくなる。  何事かと一刀は眼を向ける。 「えーい、聞かぬか! だから、主様の相手は妾なのじゃ!」 「違うにゃ! 兄は美以と遊ぶのにゃ!」 「なんで、美羽と美以まで加わってるんだぁ!」  いつの間にか小柄な少女二人が口論に参加していた。  倍になったことで意見も交錯し、まとまる見込みはない。 「……もう滅茶苦茶だな」  一刀はどうするんだと視線を送るが、紫苑は頬に手を添えて笑っている。  いっそのこと酒にでも逃げようかと一刀は杯をあおる。  そんな一刀を星と桔梗が肩をすくめながら意味ありげに見る。 「いくら英雄色を好むとはいえ……」 「このような幼子たちすら争わせるとは、色男も行き過ぎるとひどいものだな」  苦笑混じりに白い目で見てくる二人に何か言おうとする一刀だったがそれを遮るようにちび愛紗の声が一際大きくなった。 「ええい! いい加減にせぬか!」 「……愛紗ちゃん?」 「こうして、ぎろんをつづけていてもらちがあかんぞ」 「なら、どうしろというのじゃ」 「それなら、勝負するじょ!」 「璃々だって、負けないもん」 「そうでない。皆であそぶ、これでよいではないか」  そう言うと、チビ愛紗はふっと表情を緩めた。  三人は腕組みをしながらうなずいて明るい笑みを浮かべる。 「しかたないのう。妾はお姉さんだからそれで手を打つのじゃ」 「美以もいぎなしにゃー!」 「璃々もそれでいい」  自分たちだけで結論へとたどり着いた四人を見て一刀は感心していた。  紫苑が子供たちに任せていた理由を察し、彼女の方を見るとにこりと笑い返してくれた。  だが、星や桔梗もだが何故か出立を見送るような瞳をしている。 「主、頑張ってくだされ」 「はっはっは。流石はお館様。しかし、惚れさせた責任もとらねばなりませんな」 「二人とも何を?」 「ごしゅじんさまー」  くいっと服を引っ張られ一刀はそちらを向く。  期待に満ちた表情で四人が一刀を見上げている。 「ああ、そういうことね。わかったよ。何して遊ぼうか?」 「じゃあ、鬼ごっこしたい」 「さんせーい!」 「よーし! 俺が鬼をやるぞ、ほら逃げろー」  があっと両腕をあげて威嚇するクマのような構えをとると幼子たちが四方へ散り散りになる。  一刀は逃げる幼女たちを微笑ましく思いつつ数を数える。 「十九、二十! うっし、行くぞ!」  この後、一刀と幼女たちのふれあいは日が沈んだ後まで続いた。  その中で疲労感と急激に回った酒によってへとへとなった人物がいるが、それはまた別の話である。  †  夜も更けた頃、自室にて一刀はチビ愛紗の両肩に手を乗せて見つめていた。  紫苑曰く、この幼女に関して心当たりはないという。  一刀たちはやむを得ず、この日はチビ愛紗を場内に泊めることに決めた。  そんな事情など知らないチビ愛紗がきょとんとした表情を浮かべている。  一刀はなるべく優しく彼女に語りかける。 「あのさ、そろそろ寝る時間だと思うんだけど。どうしようか? 誰のところがいいかな? 紫苑なんかいいと俺は思うけど。璃々ちゃんもいるし」 「……えっとお」  人差し指をぷっくりとした唇にあてがいながらチビ愛紗は首を傾ける。 「それじゃあ、お兄ちゃんと一緒がいいです」 「お、俺と?」 「はい。……だめ、ですか?」  不安そうな瞳を向けられ一刀は慌てて首を横に振る。 「そ、そんなことはないよ。それじゃあ、一緒に寝ようか」 「はい!」  元気よく頷くチビ愛紗に苦笑いを浮かべる一刀。内心では明日になって周囲の女性たちに何を言われるか気が気ではなかった。 「でも、私まだ眠くないんですけど」 「それじゃあ、眠れるように何か読もうか?」 「おねがいします。それじゃあ……これを」  チビ愛紗は棚に置かれていた書物から一つ取り出すと、寝台で横になった。  その手にあったのは、一刀が学ぶところもあるだろうと入手した春秋だった。  うきうきした様子のチビ愛紗を見る一刀の頬を冷や汗が伝う。  彼は、まだこの世界の文字を完全に使いこなしているわけではなかったのだ。 「そ、それじゃないとダメなのかな?」 「い、いけませんでしたか?」  春秋で隠した顔で上目遣いをするチビ愛紗に一刀は吐き出しそうになった溜め息を飲み込み代わりに笑みを浮かべる。 「いいよ。貸してごらん」 「……は、はい」  一刀は春秋を受け取るとチビ愛紗に寄り添うようにして横になり、四苦八苦しながら春秋を読み聞かせていく。  そうしてなんとか読み上げているうちに可愛らしい寝息が立ち始める。 「いつの間にか寝ちゃったんだな。おやすみ、愛紗ちゃん」  気持ち良さそうな寝顔を眺めながらそっと頭を撫でる。  きれいな黒髪は肌触りもよく触っていて飽きなかったが、一刀は手を離す。  そして、白くすべすべした肌に煌めく首飾りを静かに外した。 「つけたままだと危ないからな」  枕元に首飾りを置くと、一刀は灯りを消してゆっくりと瞼を下ろす。  一日の間にいろんなコトがあったからかすぐに睡魔はやってきた。  薄れゆく意識の中、淡い光が起こった気がしたが重くなった瞼は開かず一刀は夢の中へと旅立つのだった。  †  清々しい空気の中、一刀は眼を覚ました。  朝朗を窓越しに見ながらゆっくりと意識を覚醒していく。  何度かパチパチと瞬きし、あくびを噛み殺しながら部屋内を見回す。  昨晩と比べて異なる点があった。 「あの子が……いない?」  一刀は慌てて起きると、自分の横を探すがあの小さく愛らしい姿はなくなっていた。  部屋のどこにもチビ愛紗はいない。  ただ、代わりに机には一切れのメモが置かれていた。  一刀は首を捻りながらもそれに眼を通す。 『昨日は誠に有り難うございます。私は戻るべき所へ戻ることになりました。いえ、正確には元の鞘に収まるだけです。だから、ご心配なさらないでくさい』  見事な達筆でそう綴られていた。  それを見た一刀は、帰る場所を見つけたことを喜ぶ反面、寂しさも覚えていた。  手紙を見つめたまま呆然とした後、着替えると何となく外へと出た。  朝靄がほんのりと漂う中、廊下の先に人影を見つける。  艶やかな黒髪に稟とした佇まい。  それは紛う事なき、美髪公。 「おはようございます、ご主人様。さあ、民の為。今日も一日頑張りましょう」  そう告げて振り返った愛紗の顔は自然な微笑みを称えている。  一日見なかっただけで、少女は一団と柔らかくなっていた。 「愛紗、一体どこに行ってたんだ」 「それは秘密です」 「でも……いや、愛紗が無事だったのならそれでいいかな。それよりどうしたんだ。やけにご機嫌なようだけど」 「いえ、私も色々と学んだのです」  とても柔らかい物腰で対応する愛紗にむずがゆい気持ちになりつつも一刀は訊ねる。 「へえ、何を学んだんだ?」 「申し訳ありません。これは胸の中に秘めさせて頂きます」 「なんだよ。また秘密?」 「ううん……仕方ありませんね。一つだけ」 「お、何だ?」 「最高の贈り物、ありがとうございます。お兄ちゃん」  にっこり微笑むと愛紗はくるりと身を翻し一刀に背を向けたまま走り出す。  その足取りはまるで空を飛ぶ鳥のように軽快なものとなっていた。  遠ざかる愛紗の後ろ姿を口を開けたまま呆然と見送っていた一刀は、やがてボリボリと頭を掻くと、苦笑を浮かべるのだった。