玄朝秘史  第三部 第三十九回  1.衛護  空気が軋み、音をあげるようであった。  絡み合った刃は寸毫も動こうとしない。それは力がかかっていないからではなく、四者の力が絶妙な均衡を保っているため。  駆けつけるのが間に合わなかった武将たちもじりじりと動きつつ間合いをはかっていることが、その場の空気をさらに張り詰めたものにしている。  唯一得物を抜かずに鈴々の背後に回り込もうとしている星と、その星をも警戒しながら大円盤を構える流琉。その両者はいずれも大きな動きに移る機を窺っていた。  動けなかった者――朱里と張三姉妹は全員が顔を青くして身をすくませていた。中でも朱里はひときわ強く衝撃を受けている様子であった。  そんな中、ようやく気づいたように一刀ははっとした顔で己の頭上に屋根のようにかかっている四本の武器を見上げた。  鋼の刃がびりびりと震えているのを見て、そこに込められた力のすさまじさを彼は知る。  視線を落としてみれば、彼の前に回り込んだ明命の肩越しに、憤怒の表情で蛇矛を握る少女の姿が見える。一刀には、その怒りに歪んだ顔がまるで泣き顔のように見えた。 「武器を下ろそうよ、張将軍」  思わず、彼はそう語りかけていた。彼を囲む春蘭、愛紗、明命が揃って表情を変える。しかし、彼女たちの構える武器が動くことはなかった。それは、鈴々が彼の言うことなど聞いてもいないことを意味している。 「武器を持ちだして殴り合ってちゃ、どうしようもないだろう? せめて話し合うほうがいいよ」  返事はない。なおも言葉をかけようとした時、明命が鋭く言った。 「それよりも一刀様。お早くお下がりを」 「いや、でも……」  二人の会話を遮るように、隻眼の将が獰猛な笑いをあげる。 「おい、愛紗よ。こやつ、少しこらしめてやってもよいのだろうな?」 「莫迦を言うな春蘭。仕置きをすると言うなら、この私の役」 「いやいやいや。だから、そういう物騒なことはやめてだな」  自分を挟むように立つ二人が剣呑に言い交わすのを、一刀は慌てて止めようとする。とはいえ、彼としても、殺意を吹き付けてくる少女が退かない限りどうにもならないことはよくわかっていた。 「な、なにやってるの?」  驚愕の叫びが、その場を切り裂く。その声に、一刀は胸をなで下ろし、鈴々もまた目線をやらずにはいられなかった。 「お、お姉ちゃん……」  そこにあったのは、焔耶に付き添われ、天幕へと足を踏み入れた桃香の姿。彼女はただでさえ大きな目を限界まで大きく見開いていた。 「さ、ここまで」  力が抜けた丈八蛇矛を、横合いからつかみ取ったのは星。それに応じて春蘭たちが得物を引く。一刀の体は駆け寄ってきた流琉と、刀を収めた後さらに身を寄せた明命に挟まれるようになってしまった。 「え? え? え? なんなの? なにがあったの?」  混乱した桃香は、天幕内の皆の顔を見回す。その訊ねかけるような視線を受けて、赤毛の少女の顔はくしゃりと歪んだ。ぽろぽろと涙を流し始めた鈴々は、猛烈な勢いで駆け出し、捕まえようとした焔耶の手をすり抜けて、天幕の外へ消えていく。 「おい、鈴々!」  慌ててそれを追おうとする愛紗。彼女と同じく、幾人かが走り出そうとしていた。  だが、それらの動きは次に入ってきた人影により出鼻をくじかれる。 「なに? 着いた早々また大騒ぎ? いい加減になさいよ、まったく」  不機嫌そうに呟くのは翡翠色の髪を揺らす女性。旅装も解かぬままの詠は、当然のように一刀をねめつけ鼻を鳴らすのだった。  到着が遅れていた詠が現れたという格好の理由が生じたため、その日の会合は翌日に繰り延べられた。  それは、きっと、誰にとっても必要とされる時間であったろう。 「あの……流琉さんに明命さん? そんなにぴったりとくっつかなくともいいんじゃないでしょうか?」  そして、一刀はといえば、自室で明命と流琉にしがみつかんばかりにされているのだった。 「いえ! 何かあってはいけませんから!」  周囲に目を配り続ける明命の声は、ひたすらに真面目だ。 「いや、でも、扉の前には愛紗もいるし……」  もちろん、部屋の前で頑張っている愛紗にしても、他の誰にしても、この期に及んで鈴々がなにかをするとは考えていないだろう。ただ、不測の事態を恐れているのだ。 「……もし、兄様が傷ついたりしたら、華琳様に怒られてしまいますし……。その、私も嫌です。それは、明命さんや呉の側も同じだと……思うんですよ?」 「はい! その通りです! ですから、詠さんが戻るまではこうしているのです!」  そう言われてしまうと、一刀としても何とも言えない。それに、明命の長い髪が腕にかかる感触も、流琉の柔らかな体が触れてくる感覚も、なによりも間近にある二人の温もりも、実に心地いいものだ。ことさら文句を言うものでもない。 「まあ、そうだね。詠を待つか」 「はいっ」  二人の元気な声に、思わず微笑む一刀。 「それにしても一刀様は襲われすぎです」 「う。ま、まあ、ね」 「華琳様も狙われたりしますが、兄様の場合派手すぎです。そういうのって普通表に出る前に消えちゃうものなんですけど」  首をひねる流琉。そういえば、流琉も明命も親衛隊を率いる将だったと一刀は意識する。 「一刀様のための護衛隊のようなものをつくるべきでは?」 「以前は凪さんたちがいましたし、最近だと華雄さんや恋さんがいてくれたので、問題はなかったんですけど……」 「今回は愛紗さんがいましたけど、それがかえって刺激してしまったと」 「そうですね。そのあたり……うーん」  二人は申し訳なさそうな一刀を他所に議論を進めていく。結局の所、流琉も明命も一刀が心配で仕方ないのだ。そう思うと、彼としても熱心に論じている二人をあえて止めようとは思えなかった。  しかし、考えてみれば、昔はどこに行くにもたいていは三羽烏がついてきていたものだ。それがいまや三人共に兵を率いて各地に出陣している。それはもちろん一刀も同様だ。  思えば遠くへ来たもんだ。思わずそんな言葉を思い浮かべておかしな気分になる。  沙和は華琳たちと無事合流できたろうか。凪は北方で孤立したりしていないだろうか。真桜は……長城建設に飽きて変形機能とかつけてないといいけどな。などと、彼の思考は大陸各所に飛び始める。 「兄様? 聞いてますか?」  だから、流琉に顔を覗き込まれるようにして訊ねかけられた時、こう答えるしかなかった。 「え? あ、ごめん」  彼女は小さくため息を吐いて呆れる。 「もうそんなんだから……。兄様自ら白眉相手に大立ち回りとかしないでくださいねって話です。いまは私たちもいるんですから」 「ああ、あの時は、その……。焔耶だって、しっかり守ってくれたんだぜ?」 「そんなことはわかってますよぅ」  江陵までの道中の話だろうと当たりをつけて答えると、流琉は拗ねたように口をとがらせた。 「でも、一刀様」 「はい?」  口を挟んできた明命の口調に、わずかになじるような色が乗っていることに一刀は驚きながら聞き返す。 「お話を聞いた後、焔耶さんにも確認してみたんですが、事情は諸々あったとはいえ、その時の一刀様はかなり無謀だったと評していました。ご自重いただけないでしょうか」 「……はい」  実際の所、自分でも無茶だったと思っていることなので、反論のしようがない一刀であった。  そんなこんなで過ごしている所に、愛紗と詠が入ってくる。 「あー、疲れた」  入ってきた途端、そんな風に吐き捨てる詠に、一刀が頭を下げる。 「悪い。着いた早々」 「別に体力とかは問題ないんだけどね。場の空気が悪くて。昔のよしみもあるし、行ってきたけど」 「蜀の方はどのような?」  明命が訊ねると、詠は肩をすくめた後で、お手上げとばかりに手を上げてひらひらとさせた。 「もう、みんな沈みまくり。誰か死んだんじゃないかって勢いね」  それを聞いた愛紗の顔も暗く陰る。彼女はなにか言おうとして、しかし、声として形にすることはなく、口をつぐんでしまった。その様子を眼鏡越しに見つめつつ、詠は続ける。 「ともかく、いまは桃香が鈴々と二人きりで話しているみたい。鈴々の部屋に籠もりきりだわ。まあ、あの様子ならこの後なにかあるってことはないでしょ」 「そうか……」  眉を曇らせ、思案する一刀をしばし見てから、詠はその部屋の面々を見回す。 「ところで、情報は封鎖してるの?」 「あの大天幕の中での話し合いは、そもそも各国の重鎮しか知る必要のないことだから、そのように手配したが……」  一刀と共に諸事を仕切った愛紗がちらと明命を見る。 「場所柄、機密保持に関しては、私の部下を使いましたので、そこには自信があります! 一切漏れていないはずですし、一般兵になにか疑念を抱かれるような懼れはないかと。今度も、噂などに気を配るよう命じてあります」 「そう。まあ、とりあえずはそれでいいわね」 「うん。明命にはそのままお願いできるかな。桃香たちがどうするか決定するまでは、迂闊に広まって欲しくない。その後、公にするかどうかは、それこそ蜀の決めることだからね」 「はい。穏様にもそのように言われておりますので」  皆の間に共通の認識が広まったと見た詠がさらに口を開いて話を進めようとしたところで、一つの声が遠慮がちに割って入った。 「あの。詠さんも着いたばっかりですし、もしよろければ食事でも摂りながらゆっくり話しませんか?」  そう提案したのはもちろん流琉。そして、彼女の発言で自分たちの空腹に気づかされた皆は、一も二もなく賛成したのであった。  2.討議  流琉の手によって運ばれてきたのは、彼女自身が朝も早くから用意していた宴席料理であった。今日の会議のために作っていたものの一部だ。 「明日の分はまた作りますし、残してももったいないですから」  と流琉がなんだか申し訳なさそうに言っていたが、それに対する答えは皆の見事な食べっぷりで明確に示されていた。 「あー、やっと人心地ついたわ」  目も楽しませてくれる色とりどりの料理に舌鼓を打った後、野菜たっぷりの羹を飲み終えて、詠が満足げにのびをする。その頃には他の面々もおおかた満腹になっていた。 「それにしても遅かったけれど、なんかあった?」  詠の到着は当初の予想より五日から十日も遅いものであった。長沙についたという報せは先に着いていたというのに、である。 「白眉の群れを避けながらだったからね。あいつら動きに意図がないから、予想しきれなくて困るわ」 「戦闘に巻き込まれたりはなかったんだね」 「ないない。ボクはあんたみたいにお節介じゃないから」  一刀の重ねての確認に、詠はぱたぱたと手を振ってみせる。多少、事情を聞いているらしい彼女の言い様に笑いが起こった。 「南の方は、実際どうでしたか?」 「明命がいるからって褒める訳じゃないけど、長沙の防備はさすがのものね。呉にとって重要拠点だから当たり前かもしれないけど。東では山越がまだ暴れているようだけど、小蓮がどうにかできる範囲だと思うわ。南は長沙から交州まで問題がないと言っていいんじゃないかしら」  流琉の問いに答えるのを聞きながら、愛紗が思わしげに腕を組む。 「あの、ご主人様」 「ん?」 「詠も着いたことですし、明日の予行というわけでもないですが、状況把握をやりなおしておくというのはどうでしょう?」  彼女の提案に、一刀は考える。実際、全員の意思と情報の統一をはかるため、会議では荊州とその周辺情勢に関しての解説――というよりは確認も行われるはずであった。詠があらたに南方の情報をもたらしてくれるとなれば、それはより詳しいものになるだろう。  再度話し合う意味はあった。なにより、いまの一刀たち、特に愛紗にはなにか集中させてくれるものが必要かもしれない。 「うん。そうだね、じゃあ……」 「では、私が地図を用意してきますです!」  言い終える前に明命が元気よく立ち上がり、そういうことになった。 「さて、それじゃあ」  壁に掛けられた大きな地図を前に、一刀は口を開く。手頃な棒で地図を示しながら、彼は説明していく。 「白眉全体で言うと、現状、北方は華琳率いる魏軍が冀州で、白蓮が幽州で対策に出ている。こちらは、正直遠方でわからないことも多いんだが、なにしろ華琳だからな。なんとでもしているだろう。幽州については……詠?」 「呉から派遣されている軍船に、いまは思春が指揮官として参戦しているはずよ。白蓮たちが海際まで追い詰められるかどうかってのもあるけど、思春なら陸上戦も心配ないし、大勢に影響はないでしょう。呉からの補給がある限り、白蓮が負けることはあり得ないわ」  実際のその手筈を整えた詠がたいしたことでもなさそうに言う。その様子に、一刀は嬉しげに頷いた。彼女がそんな態度をとるということは本当になにも憂慮するべきことはないということだ。 「じゃあ、そういうわけで、北は順調だと思っていいだろう。南だけれど、益州は安定しているらしい。ありがたい限りだ。ここが乱れると、蜀の協力がまるで得られなくなる。同じように呉の本拠である揚州だけど……」 「山越が騒いでいる以外は問題ないです!」 「部外者のボクから見ても、揚州は動揺していなかったわ。建業のあたりはいつも通りだし……。そうね、きっと山越が暴れているおかげなのかも」 「というと?」  愛紗がよくわからないという風に訊ねてくるのに、詠はしばし明命を見つめ、真っ直ぐに大きな瞳に見返されながら口を開く。 「呉では……いいえ、江南全体では、山越と里人との関係というものは、色々と根深いものなのよ。対立だけじゃないわ。平和的な交流の面でもね。愛憎両面、種々の感情が入り乱れているわ。つまり、彼らは山越というものをずっと昔から知っているの」  そこで詠は言葉を選ぶように小首を傾げる。 「そうね。もし揚州で山越が動かず、白眉だけが起きていたら、多少は乱れていたかもしれないわ。でも、山越が動けば、それは『おなじみ』のものでしかないのよ。庶人はごく近くで事が起きない限り、気にもしないわ。もし白眉に同調したい輩がいても、揚州での動きは、結局の所山越に呑み込まれてしまうでしょう。要は、やつらさえ押さえれば、問題はなくなるの」 「はうあっ! 言われてみればその通りです!」  詠の言葉に、一拍おいて明命が驚いたように叫ぶ。体感としてはわかっていることを、はじめて言葉にして聞いたとき、人はこんな風に反応するのかもしれない。 「山越ならば対処法も経験としてわかっていて、ある意味安心……ということですかね?」  流琉が確認するのに詠と明命は揃って頷いてみせる。 「その山越もシャオたちがあたってくれている。そうなると、南方の東西はそれぞれ安定といっていい状態にある。問題はやっぱり荊州になるな」  言って一刀は改めて地図に向き直った。 「まず、魏軍は北から春蘭が主力を率いて南下した。北西からは俺たちが蜀の漢中駐留の軍と一緒に。現在はどちらも江陵に兵を置いていて、荊州北方の安定に努めている。失策を犯さなければ、これから大規模に白眉が出て来るってこともないはずだ。  一方、西からは蜀の本隊が、桃香と張将軍に率いられて進軍して、武陵に至っている。まだこの周辺には白眉がいるようだが、いずれにせよ武陵と街道は完全に手の内にある。白眉がいるのも益州の州境よりはずいぶん東側だけだしね。  それから、呉の拠点はここ巴丘だが、巴丘から北東方面は以前から呉軍が駐屯していたのと、江水をがっちり押さえているおかげもあって平穏だね。長沙から交州も詠が見てきてくれた様子では大丈夫なようだから……」  そこで一刀は洞庭湖を中心とした楕円を描いてみせた。 「荊州白眉は巴丘から長沙を結ぶ線から、武陵のわずかに西まで……洞庭湖を中心としたこの地域に押し込められつつある」  そこで一刀は穏の策による洞庭湖への白眉誘い込みの話をしてみせた。もちろん詠はその意図をすぐさま理解した。 「白眉にしてみると、そんな隙がある洞庭湖に至れば水路で自在に動けるように見えるわけで、来ないわけがない……か。なにしろ、北上するにせよ、南下するにせよ、あるいは西進、東進どちらでも河川があるんですものね」 「しかし、実際には、江水へはもちろん、湘江、元江への道もふさいでいます!」  湘江、元江はそれぞれ洞庭湖に注ぐ大河だが、大ざっぱに言えば、湘江は南、元江は西に向かう通路となり得る。だが、それらに至る水路は呉水軍が中心となって、常に哨戒の船が出されていた。 「荊州封鎖……白眉の包囲はほぼ成功に近づいているということですね」 「まあ、まだまだ網は粗いけど、第一段階としてはいいんじゃないかな」  愛紗の言葉に一刀が同意すると、流琉が手を挙げる。 「でも、ここからが大変だと思います。そろそろ敵も身動きがとりづらくなってきたと気づく頃ではないでしょうか?」 「それはここから三国の協調でなんとかなるのではないか? そのための会議でもあるし……」 「それはそうですね。指揮系統が一元化されれば、より円滑になると思います!」 「でも、水上戦となると、我が魏はあまり……。陸上でもやりようはあるでしょうか?」 「それはあると思いますよ! 白眉は常に水の上にいるというわけではありませんから、実際には、陸上での掃討がかなり必要なのではないかと……」 「決戦と言えるようなものがあるかどうかだな……。天師道とやらが、果たして……」  そんな風に武将たちの間で議論が進む中、一刀はさりげなく位置を移動して、これも沈黙を守る詠に近づいていった。 「機嫌悪い?」 「は? なにが?」  小声ながら、険のある調子で返されて、一刀はびくりとする。 「いや、ずっと黙っているから」 「莫迦。武人には武人の考えもやり方もあるから、ある程度形になるまでは邪魔しない方がいいのよ。もちろん、変な方に動くようなら口を出すつもりだけど」  詠は愛紗、流琉、明命という三人が話し合うのをじっと見つめ、彼女たちの発言を聞き取るため耳を澄ましている。その真剣な様子を眺め、一刀はそれもそうかと思って、自身も三人の討論に意識を集中させた。  しばらくして、ふと流琉が顔をその二人の方へ向ける。その途端、彼女ははっと何かに気づいたような表情になった。 「あ、あの!」  流れを遮る大声が、皆の注意を惹く。 「もしよろしければ、春蘭さまも交えて話し合ってみませんか?」 「ん? ああ、そうだな。もう戻っているだろうし、春蘭を呼ぶか」  春蘭は、会議が一日ずれたことに伴う命令の変更を行うかどうか、士官たちと話し合いに行っているはずである。実際には春蘭は特に関わらず、腹心たちが動かしてくれるはずだが、最終決定には彼女が必要なのだ。しかし、それももう終わり、体は空いているはずの時分であった。  だが、その発言に流琉が慌てる。 「い、いえ。その、武人だけで一度詰めてみて、何というか……ね。明命さん」 「……はい? あ、ああ! そうですよ。一刀様は詠さんをお部屋にご案内するのはいかがです?」 「そうですね。詠も疲れているでしょうし、ご主人様も話したいことがあるかもしれませんし。まずは我らで話し、それを後ほど検討してもらうほうがいいかもしれませんな」  流琉に振られて、途中で何ごとかに気づいた様子の明命や、苦笑混じりに詠と一刀に目を向けてくる愛紗の様子に不自然なものを感じつつ、一刀はその勢いに押されて頷く。 「まあ、そう言うなら……」  そうして、皆は部屋を出、一刀は詠を連れて彼女に割り当てられた部屋へと歩き始めたのだが……。 「なんだか仲間はずれにされちゃったな」  少々寂しそうにため息を吐くのに、詠は呆れたように額を押さえる。 「……あんた、ほんと救いようのない莫迦ね」 「なんだよー」  拗ねたように言う男に、詠は殊更に小声で呟いた。 「揃って余計な気を回しただけよ。あいつらは」 「あ? え? あー……」  怒ったように顔を赤くする詠を見て、そして、流琉たちの言動を思い出し、ようやくのように納得の声をあげる一刀であった。  3.睡臥 「疲れたろう?」  詠を部屋に案内し、途中で回収してきた荷物を置くと、一刀は改めてそう訊ねた。 「そうでもないわよ。舟と馬車併用だし」  詠はそう答えるが、その彼女自身、部屋に入るなり、椅子に座って靴を放り出し、脚を揉み出している。体に負担が来ていないわけでもないだろう。ただし、疲れ切っていると言うほどでもないというだけだ。 「本当に?」 「大丈夫だって。それよりあんた」 「なに?」  茶を淹れる用意をしていた一刀は、詠が彼のことを、まるでなにか珍しいものでも見るかのような表情で見つめていたことに気づかない。 「今回……なんかあった?」 「んー……。まあ、あったかな」  相変わらず茶器を操りつつ、彼は答える。その声音に何を読み取ったか、詠の表情が鋭いものに変わった。 「聞かせてもらえるかしら」 「長くなるよ」 「いいわよ」  明命から分けてもらった黒豆に湯を注ぎ終えてから、一刀は詠を振り返った。 「本当に長くなるよ? それに、整理がついてるわけじゃない」 「いくらでもつきあうわ」  その返事にびっくりして、一刀はしばらく黙ってしまう。結局、彼は、黒豆茶を淹れ終えて、卓まで持っていってから、こう訊いた。 「どうしたの、詠?」 「どうしたの? じゃないわよ。あのね、ボクは軍師なの。月も望む白眉討伐のために動くからには、軍師としてあんたのことを知る義務があるの。そんなこともわからないの?」  柳眉を逆立てて激しい語調で言う女性の眼鏡の奥を見つめて、一刀はわずかに考え、冗談めかした声で訊ね返す。 「義務だけ?」 「……本気で怒るわよ?」  唸るような声で言われて、彼は顔を引き締める。 「悪い」 「いいわ。そんなふざけなきゃいけないってことは、よほどまとまってないみたいね」 「うん……。なんていうかな。経験したことと、考えたことと、きっと、両方話さなきゃいけないんだと思うんだけど、どう伝えればいいか……」  こつこつと卓を叩く一刀に、詠は何でもないように肩をすくめる。 「つきあうって言ってるでしょ?」 「そうは言ってもな……」  それから彼はぐるりと部屋を見回した。巴丘の城の中、一刀に割り当てられているのと、そう変わらない部屋だ。その部屋の具合や調度品を眺めていた彼は、不意になにかを思いついたように立ち上がった。 「どうしたの?」 「なあ、詠」  不思議そうに見上げる女性の手を取り、彼はこう言うのだった。 「昼寝しよう?」 「はあ?」  詠が正気を疑うような声をあげたのも、ある意味当然であった。  詠は疲れているし、一刀は考えがまとまらない。ここは一つ、横になって詠は体を休め、一刀は考えを進めるべきだ、という彼の説得により、二人は布団に入った。もちろん、ただ並んでいるのではなく、彼女は彼の腕の中にある。  自分もたやすく流されるようになったものだ、と詠は思う。  それでも男の腕をはねのけるようなことは出来そうになかった。恥ずかしさよりなによりも、その温もりがあまりに心地好すぎて。  彼の指が自分の髪をくしけずる感触をほんの少しくすぐったく感じながら、彼女は一つまばたきをした。  目を開けた瞬間、自分の体が妙に熱く感じるのを、詠は不思議に思う。そう考える頭もぼんやりとしていて、奇妙な感覚。 「起きた?」  頭の上から声がする。いつの間に彼の指は自分の髪を離れたのだろう。彼女はわずかに寂しく思う。 「え?」 「起きたみたいだね?」  繰り返されて、ようやく理解する。男の姿勢がさっきと違うことも意識される。 「嘘。ボク、寝てた?」 「うん」 「ちょっと?」  時にわずかな間意識を失うことがある。きっと、それをまばたき一回と取り違えたのだろう。彼女はそう思って訊ねるが、男は優しく首を振る。 「いや? ほら、もう夕方だし」  指さされた天井を見れば、窓から入る夕陽に赤く染まっている。先程までの陽の位置とも、まるで違う。明らかな時間経過であった。  そして、自分の体が軽いことにも気づいた。熱いのは、疲れがにじみ出ていった後の火照りのようなものだ。 「寝てたんだ……」  そういえば、ずいぶん昔、子供の頃に似た経験があったような記憶がある。寝床に入って一度目を瞑った途端、朝になっていたことが。それと同じだとしたら、よほど疲れていたのか、あるいはよほど心安らいでいたのか。 「参ったわね……」  自嘲するように呟いたのを、どう聞いたのか。一刀は心配そうに彼女の顔を覗き込んだ。 「大丈夫かい?」 「え? うん。たぶん、絶好調よ」  疲れは、もうどこにも感じられない。思考は眠りの霧を脱しつつある。絶好調という形容は思わず口を出たものだが、けして間違ってはいなかった。 「そ、そう?」  その様子を驚くのは、きっと彼が眠っている彼女をずっと見ていたからだろう。急に元気になれば、それは驚くというものだ。しかし、その一方で、彼の顔つきにも変化が生じている。 「考え、まとまったみたいね?」 「うん。結局、全部話さないと意味がないと思う。だから、洛陽を出てからのことを、全て話すよ」 「うん。わかった」  そうして、一刀は話し始める。洛陽を出て以来、彼の辿ってきた道の一切を。 「辛かった?」  話の中で彼が江陵に着き、巴丘に至るまで、詠は一度も口を挟まなかった。ただ、最後に彼の頬に手をあてながら、そう問うただけだ。 「それは……」  彼は口ごもり、そして、いくばくかの呼吸の後に頬を包み込むようにしている彼女の手の上にさらに手を重ね、頷いた。 「そうだね、辛かったよ」  そう認めた途端、彼の目の端に涙が盛り上がり、そして、一筋流れ落ちた。それを拭うでもなく、けれど、それ以上泣き続けるでもなく、一刀は淡々と言葉を続けようとする。 「じゃあ、次に道中でどんなことを考えたかを……」  それを遮ったのは詠の動き。  頬を抑えられた彼は、簡単に顎の向きを変えられ、彼女の唇が重なるのに適した場所に動かされていた。  柔らかな唇が触れ、そして、間を置くことなく舌が割り入ってくる。その動きは彼の側がするのに比べればはるかにこわごわと遠慮がちであったが、明らかに彼女自身の意思を示していた。  あたたかで柔らかな舌が思いもよらぬ動きで歯茎と唇の間をいじり、ついで、彼の舌と絡み合う。引っ張るような動きで導かれ、彼は彼女のたぎるような熱を持つ口内に舌を差し入れた。脳内に水音がこだまする中で、二人はお互いの熱を貪り合う。 「え、詠?」  唇が離れ、けれど、至近距離で見つめられながら、一刀は驚いたように彼女の名前を呼ぶ。口づけは嬉しいし興奮させられるが、あまりに突然で、その意図が読めなかった。 「ボクじゃ不満?」  なにかを恐れるように言われたせいで、一刀はろくに反応できない。 「え?」 「あんたを慰めるのに、ボクじゃ力不足?」  女というのは狡いものだ。断られるはずがないと、知っている。 「そんなことあるわけないだろう?」  男というのはもっと狡い。女がそうすることを、心の何処かで知っていた。いや、あるいはそう仕向けたと言ってもいい。  時に男女はその立場を変え、お互いに誘惑しあい、求めあう。  いずれにしても、男女というものは、どこまでも共犯者なのだ。  男は彼女の体をかき抱き、口づける。  女は彼の背に強くしがみつき、再び舌を差し入れる。  二人は相手の服を脱がすような手間をかけることすら考えず、ひたすらにお互いを求めた。  4.情交  口づけは一瞬たりとて外れなかった。  息が苦しくなればわずかに口の端をあけたり、唇を離しても舌をからませあったまま、呼吸を続けた。  お互いに下着をずらしただけで繋がり合いながら、彼らは二人共に、相手の舌を放そうとは思いもしなかった。  言葉を交わしてはいけなかった。  確かめてはいけなかった。  飾ってはいけなかった。  余計なものを求めてはいけなかった。  ただただ、二人は繋がり合うことだけを望んだ。  おそらく、それは、色事といえるようなものではなかった。  快楽は普段の方が遥かに高まっただろう。何度も何度も絶頂に押しやられるような交歓ではけしてなかった。  獣のように激しかったわけではない。お互いを殺してしまいそうなほど強烈なまぐわいを経験したこともある二人だが、今日のそれはほど遠い。  だが、それは、まさしく情交であった。  三回続けて、彼女の中で果てたところで、詠も一刀も共に意識を失った。 「あーあ、べたべた」  なにとは知れぬお互いの液にまみれた服を脱ぎ、詠は呟く。結局、彼女はどれも床に放り投げて、同じように裸になっていた一刀の腕に抱かれた。直に肌が触れる感触を、二人はじっくりと味わう。 「ねえ」 「ん?」 「あんた、焔耶のこと抱いたでしょ?」  唐突に男の体が震える。ついで、その膚がかっと熱くなるのを感じ取って、詠はため息を吐いた。 「わ、わかる?」 「うん。避けるよう話してたのがばればれ」 「そうかー」  どこでばれるんだろうな、そういうこと、とぶつぶつ呟いている男の肩口を一度ぎゅっとつねって軽く悲鳴をあげさせてから、詠は続ける。 「あんたのこと知ってる人間からすると、そんなことで判断が曇るとは思わないけど、気をつけなさいよ。今回の事で、蜀との関係は微妙になりかねないんだから」 「なるかな?」  彼女の鋭い口調に心配するように一刀は言う。 「桃香たちが公にするとなったら大事(おおごと)ね。魏としても正式に抗議しなきゃいけなくなるし。でも、現状の三国を考えるとそんなことはして欲しくないわね。ボク個人の考えとしてもそうだし、たぶん華琳たちもそう考えると思うわ。ましてこの乱の真っ最中じゃあね」 「闇から闇……かな?」 「たぶん。でも、わからないわ。朱里や雛里、それに桃香自身がどう考えるか……。元々あんたの立場としては、桃香たちが出してきた案に賛成するか、修正するか、拒絶するか、その三つしかできないしね」  ある国の重鎮が他国の人間に手を出そうとしたら、それは大変なことだ。しかしながら、それを直に被害者側が裁くのは難しい。出来るのは、相手の側がやることを容認するかどうかというくらいだろう。 「会議が終わっていれば、指揮系統がはっきりするから……。いえ、それもだめね。そうなったら軍律で裁かなきゃいけなくなって、厳罰になっちゃうし」 「……出来るだけ穏便に、とは頼んでみるよ」 「そうね……」  一刀が言うのにしかたないというように詠は頷く。実際の所、ここで混乱を生じさせるのは得策ではない。どうするにせよ、その影響はできるだけ小さくしなければならないだろう。  彼女は横になった一刀の胸に顎をのせるようにして、彼の顔を覗き込んだ。 「まあ、その件は明日以降でしょう。それより、あんたが道中なにを考えていたか、だっけ? それ、聞かせてもらいましょうか」  興味深げに言ってくるのに、一刀は力強く頷く。魁たちの死や、他の惨い出来事や、あるいは、心を痛めた様々な出来事を思い出す辛さは相変わらずあるが、彼女の膚から伝わる熱とたしかな存在感がそれをわずかに軽減してくれるような気がした。 「うん。そうだな。じゃあ、まず、俺が考えたのは……」  そうして、彼は滔々と話し始めた。焔耶に話したこととそう変わりはなかったが、時間が経ってより深くなった部分や簡潔になった部分もあった。  それを詠はずっと聞いている。いつの間にか、彼女は完全に一刀の体に乗っかってしまっていた。彼の体の脇――脇腹のすぐ横に両肘を突いて頬を支え、枕にのせた一刀の顔と正面から向かい合う。 「……と色々話してきたけど、白眉の原因はこれだけとは俺も思ってないよ。もっと直接的な……税の体系や、暮らしの不満ってのがあるんじゃないかとは思ってる。そこは、調べておかないといけないね」 「さんざん、善政をしいたと主張してきたのに?」 「それは、あくまで比較したらってことであって、華琳の改革だってまだまだ道半ばだ。恩恵を受けられない人だっているさ」 「まあね」  そこで詠は視線を天井に向けて考え込む。彼の話をまとめるように、彼女は言った。 「いろいろと皆、不満もある中で、白眉は性急に変化を求めすぎってこと? その、正義とやらも含めて、だけど」 「そうとも言えるかもしれない」  うんうんと一刀が頷くのに、彼女は結った髪を小さく振って考え考え言う。 「民が正義を求めているっていうのは、あながちわからなくもないわね」  自分の論を元に彼女が考えを組み立てているのがわかり、男は熱心に聞き入った。 「正義って言っても、あんたの言葉の使い方じゃ、ちょっと取り留めもないものみたいになっているけど、実際にはそうでもないのよ。たとえば、普通の市井の人間にとっては、平和な暮らし、暮らしやすい暮らしは『正しいもの』よ」 「うん」 「その正しさを、保障してほしいという意識があっても不思議ではないわ。通常、これまではそれを、漢……市井の人間が意識する限りの天地を支配する存在が担っていたわけだけど、いまはそれがない。なにしろ、魏も呉も蜀も、実力はあっても、ぽっと出の存在に過ぎないんですもの」  そこで詠は三つ編みにした髪を指に巻き付け始める。 「あんたの……なんだっけ、経済圏構想にしたって、そうよ。もし、魏も呉も蜀も、匈奴も鮮卑も烏桓も巻き込んでそれを突き詰めようとしたら、なにがしかの権威の保障は避けられないわ。商人の通行の安全は絶対に確保しなければいけないわけだし。となれば、実効支配はともかく、遠隔の土地でも、街道の保全だけはしておかない。現地の人間にそうしておかないといけないと思わせるほどのなにかがなきゃ。そうじゃないかしら?」 「それはたしかに……」 「ボクもあんたの言うように、現状に足りないものはあると思ってるし、なにかしなければいけないとも思うわ。でも、すぐに答えにたどり着けるものじゃない。ただ、いま話したようなことは一つの指標としては意味があるんじゃないかしら」 「そうだな。考えてみるよ、俺も」  詠も、これからも考えてくれるのだろう。一刀はそう確信しつつ、約束する。たとえ答えが出なくとも、問題意識は持ち続けなければいけないだろう。  それから、彼は枕に深く頭を埋めて声の調子を変えた。 「結局の所、白眉もまた民の一面……なんだろうね。彼らの存在は、きちんと受け止めきらないといけない。そうでないと……。ただ、暴発してるだけと思うような根性じゃあ、国としての未来は閉ざされちゃうかもしれない」  その静かな声に目を丸くして、一転、詠はきつく目を細めた。 「……あんたも少しは考えるようになったと思っていいのかしら。でも、根底にあるものはともかく、実際にいま現れているような連中は、鎮めないといけないわよ」 「それはわかってるさ」 「でも、その前に」  一刀が勢い込んで再び顔をあげようとした所で、詠が切り込む。 「愛紗をどうにかしなさい」 「愛紗を? 張将軍じゃなくて?」 「ええ、愛紗を、よ。今日は平気な顔してたけど、どうせあんなの見かけだけでしょ。あの愛紗のことだから、今頃は一人で悩んでいるに違いないわよ。なにしろ義理の妹にとんでもないことさせちゃったんだからね。でも、彼女にいま崩れられるわけにはいかない。白眉を討つという現実面でも、そして、それこそ鈴々をはじめとするあんたに反感を持つ連中を勢いづけないためにも。なにより、鬱々とされるのはボクとしても見てられないしね」  それだけ一気に言われて、一刀は目を白黒させる。たしかに彼女の言うとおりだ。そこまで気が回らなかったのは、やはり、彼自身が襲われたことで一杯一杯になっている部分があったのだろう。そんな風に彼は自省する。 「いい? 鈴々を短期間でどうにかするなんて無理よ。あれは子供だけど、だからこそ勘は鋭いし、自分におもねるような奴をかぎつけるのにかけてはかなりのものよ。そういうの、わかるでしょう? あんたは季衣たちの兄貴分なんだから」  言われて一刀は考え、軽く頷く。季衣や流琉と一緒にできるわけではないだろうが、しかし、あの年頃の少女がなにを思い、そして、なにを疑うか、それくらいはわかる。侮って対すれば、しっぺ返しを食うのはこちらだろう。 「まあ……そうだな」 「そりゃあ、時間をかけてじっくりわかりあえばなんとかなるかもしれないけど、そんなことやってる暇はないし、余裕もないわ」 「うん。だから、愛紗、か」 「そう。だから、愛紗をしゃんとさせなきゃだめ。そうすることで、あんたのところにいるってのを悪く思う連中も見直す可能性が出て来る。……まあ、そうそううまくいくかどうかは怪しいけど、当の本人が萎れてちゃ、なんの説得力もなくなるでしょ」  別に特別なことをしろってわけじゃないけどね、と詠は最後に付け加えた。 「……ふむ」 「幸い呉はあんたのこと買ってるやつが多いし、魏は当然として、桃香も悪印象ってほどでもなさそうだしね。愛紗さえなんとかすれば、うまくいくと思うわよ」  それを聞いて、わずかに顔を変える男に、詠は首をひねる。その表情の変化はきっと仔細に見ていなければわからなかったろうし、まして、それが負の感情に近いというのは、彼をよく知る人間でなければ気づかなかったろう。しかし、それは紛れもなく嫌悪に近いものであった。  しかも、おそらくは己に向かった。 「なあに?」 「いや、愛紗を元気づけるってのはわかるし、詠も愛紗の友達として言ってくれてるのはわかるんだけどさ……。どうしても、こう、政治に関わっちゃうんだなあって」  息を呑む詠。彼女はぽかんと口を開け、呆然と呟いた。 「いまさら?」 「うん。いまさらなのはわかってるんだけど……」  彼女はなにか言いかけ、しかし、諦めたように首を振った。 「うん。それでいいのかもしれないわね。あんたの感覚のほうが正しいのかもしれない」  奇妙に優しい目つきになって、彼女は言う。普段のきつさはどこにいったのかと思えるような笑顔だった。そのことに、一刀は胸を突かれる。 「でも、やっぱり愛紗を元気づけるのはしてやって。いいえ、元気づけるまでいかなくてもいい。ただ、あんたが側にいて、間違っていないと知らせるだけでも救いになるはず。これはボクの個人的な頼みと思ってもらっていいわ」 「……悪いな、詠」  しばらく経ってからの言葉に、詠は軽く肩をすくめる。 「別に。いつものことよ」 「ひどいなあ」 「本当の事じゃない」  そうして、二人は笑い合い、どちらからともなく、口づけ合うのだった。  5.蜀  時は戻り、ちょうど一刀たちが流琉の料理を食べようとしていた頃。  蜀勢が額を寄せ合い話し合っている部屋に、彼女たちの主が入ってきた。その疲弊しきった様子に、皆が顔を曇らせる。  桃香が皆の視線に気づいて、弱々しいながらも微笑んで部屋の中央の大ぶりな円卓に着いたところで、諸将もまた円卓に向かった。 「鈴々ちゃんは……どうですか?」  お茶を淹れて配り歩く途中、朱里が思い切って訊ねる。真名の通りの髪を持つ女性は軽くその桃色の頭を振って、寂しげに答えた。 「泣き疲れて寝ちゃった」 「そうですか……」 「鈴々ちゃんも、悪いことだっていうのは、わかってるんだよ。だから、ああして……」  義妹を擁護する声は弱々しく、かすれている。桃香の語尾は曖昧に消え、そして、沈黙が落ちた。  桃香の対面、雛里の横に座った朱里は立ち上がり、皆の顔を見回した。 「今回の事で、蜀の立場は明確に悪くなりました」 「あいつは気にせんだろうがな」 「そうだよ。一刀さんはたぶん気にしないと思うよ。もちろん、私も謝るし……」  焔耶が呟き、桃香が追随したのに、星が首を振る。 「あの御仁はそうかもしれん。しかし、周りが許すとは限りませんぞ」 「……その通りです。華琳さんとしても、許せません。なんらかの動きがなければ」  雛里がこくこくと頷いて細い声で言うことで、会話は途切れる。張り詰めた空気の中、視線は主たる桃香に集まった。 「じゃあ……どうするの?」 「公にするわけにはいきません」  桃香の問いかけに、朱里はきっぱりと答える。彼女の体の動きからか、首元の鈴が音を立てた。 「今回の事は……最終的には華琳さんの意向も考えないといけませんが、現実的には無かったことにするしかないかと。謝罪ですむようなことではないので、そうせざるを得ません。けれど……」 「その場に居た将たちの感情の上でも無かったことになるわけではない、か」  朱里の方針を補足するように雛里が言い、消え行く言葉の先を焔耶が引き取る。そこで落ちた重苦しい沈黙こそが、皆が――感情では否定したくとも――その事実を了解していると如実に現していた。  固まりきった空気を振り払うように、再び朱里が身を震わせ、鈴がちりりと鳴る。 「鈴々ちゃん自身のことは、後にするとして、我らがいまどうするかを提言させていただきます」  その凛と張り詰めた声に、皆の顔があがる。そもそも全員が暗くうつむいていたことに気づいて、桃香は恐怖のような感情に襲われた。 「今回、我が国はまずい立場に置かれました。だからこそ、現状を打開するためにも、荊州の白眉討伐において我が国の存在感を示す必要があると考えます」 「存在感って?」 「幸い、我が国は今回、かなりの人材を引き連れて来ています。益州がほぼ治まっているために他国に比べて荊州に注ぎ込める割合が高いこともありますから。そこで、その豊富な人材を用いて功をあげるのです。これは手柄を独り占めというような考えではありません。大陸の安寧のために貢献するという姿勢です。内罰的にとるならば、謝罪のために奮戦すると考えてもらっても構いません」  切々と言う朱里の言葉に、焔耶と星――戦の矢面に立つ二人が首をひねる。 「つまりは、戦働きで、いいところを見せろということか? 将の本分としては間違っていないが、当たり前すぎないか?」 「まあ、戦で魅せろというなら、それはそれで腕が鳴るというものですが、しかし、その程度で、この失地を回復できますかな?」  二人の疑問に朱里は大きく頷く。彼女が答えようとした時、隣の少女が先に口を開きかけ、そして、二人で顔を見合わせる。結局、朱里が譲り、雛里が話し始めた。 「そうです。当たり前のことですから、さして重要と見なされないかも知れません。しかし、考えてみてください。私たちは力なき民を守るため、皆の笑顔を守るために活動してきました。ですから、そうした基本を積み重ねることこそが、大事だと、朱里ちゃんは言っているんです。その……私も、同感です」  隣で提案者の朱里が頷いている。その様子を見て、桃香も笑顔を見せた。その表情に込められた力に、面々は内心驚いていた。無理をしているはずだが、それでも彼女たちの主ははっきりと明るい笑みを浮かべていた。 「そうだね。私たちの本来やるべきことをしっかりとやりきることが、この先に繋がると私も思うよ。きっと、そう。あんまり変なこと考えても、正直無理があるしね」  あははー、と笑う様子に、他の皆にも笑みが広がる。そこに漂う安心の雰囲気に、改めて驚嘆している者もいたし、当然と思う者もいた。しかし、間違いなく、それは桃香を主と仰いだことの意味を改めて思い起こさせるものであった。 「わかりました。我が槍の冴え、改めて三国に響かせてみましょう」 「お任せ下さい、桃香様!」  星と焔耶が自信をもってそう宣言し、そして、場はさらに暖かな空気に包まれるのだった。  朱里が椅子に座り、皆が茶で喉を潤した後で、桃香が切り出す。 「鈴々ちゃん本人に関しては……どうするの?」  そこで、朱里と雛里は顔を見合わせる。これについては、二人で既に結論を出していたようだった。 「私たちとしては……成都に送り返したいと思っています。桔梗さんが見ていれば、おかしなことにもならないでしょう」 「実際の処分に関しては、乱が終わってからとなるかと思います。まずは頭を冷やしてもらわないと……」 「それまでは蟄居か……。あやつにはこたえようが、良い薬かもしれませんな」  痛ましげに、しかし、どうしようもないというように星は頷いた。焔耶は何も言わず、ただ、桃香の顔を見ていた。  その桃香は反対するというほどではなく、ただ疑問があるというように訊ねかける。 「でも……。いま送り返したら、一刀さんと鈴々ちゃん、それに愛紗ちゃんの間のすれ違いって残り続けちゃうんじゃないかな……?」 「それは……」  そこで雛里は唾を飲み込み、ぐいと顎を引く。 「感情の面では、私としてもどうにかしたいと考えます。けれど、いま……。いま、それをやっている余裕は、ありません」 「……そう……」  一言一言を無理矢理のように吐き出す朱里のことを実に悲しそうに見ながら、桃香が漏らす。そこに焔耶が身を乗り出した。 「桃香様。そのあたりは乱が終わってからどうにか我らで支えてやるしかないのではないでしょうか。ここに残しては……その、ひどい言い様かもしれませんが、足を引っ張りかねません。それは桃香様も、鈴々本人も望まぬことではないでしょうか?」 「そっか……うん。そうだね……。もっと時間があればよかったけど……」  蜀の女王はしばし目線をさまよわせる。無意識にだろうか、そこにいるべき誰かを見つけようとするように。  しかし、それはかなわなかったのだろう。彼女は一人で頷いた。 「うん。わかった。ただ、鈴々ちゃんには私から言うよ。それはいいよね?」 「はい。お願いします」  朱里と雛里が深く頭を下げ、それはそういうこととなった。 「ところで、兵はどうする? 元々我らの部隊だったものはこの何日かで再編しなおしたが、鈴々の部隊と元愛紗の部隊に関しては、鈴々が引き続き率いていたろう? あれもワタシと星で分担するか?」  元々朱里たちが到着するまで鈴々は荊州の全軍を率いていたのだ。その配下には様々な部隊があった。その中で、焔耶や星に縁故のある部隊は彼女たちの指揮下にすでに組み入れられていたし、改めて桃香や朱里たちの本陣として集められた者たちもいたが、鈴々自身の部隊にはもちろん再編成は及んでいない。 「それに関してですが、私たちに考えがあります。一任してはいただけないでしょうか?」 「二人に?」 「はい。ただ、実際にどうなるかは……。交渉次第となります」  その言葉に星や焔耶は怪訝な顔をしたが、桃香はひたすらに二人の軍師の顔を見つめるばかりだった。そして、彼女は再び微笑むのだった。 「うん、わかったよ」  そんな言葉と共に。  6.義務  翌日朝早く、朱里と雛里の訪問を受けた一刀は、二人の申し出を聞いて、同席した愛紗と顔を見合わせる他無かった。  ただ一つ思ったのは、詠の助言を受け、愛紗と共にいることにしたことはやはり正解だったと言うことだ。朱里と雛里の提案を一刀だけで受け、愛紗に伝えるという形ではどこかにしこりが残りかねなかった。そう、彼は感じていた。  ともあれ二人は朱里たちの言葉を反芻するように時間を置き、改めて、愛紗が繰り返した。 「私が。この私が、鈴々の部隊を率いるだと?」 「はい」  朱里は即座に頷き、必死とも思える形相で続ける。 「世間的には『急の病で国元に戻った義妹のために、国は違えたといえど義姉妹のよしみで指揮を肩代わりする』ということで押し通します」 「今回のことをひとまず決着をつけるためにも、どうか……」  雛里の言葉にも熱が込められている。その二人の少女軍師の様子に愛紗は絶句していた。 「ふーむ」  一人、一刀だけは穏やかな調子で言葉を紡いでいる。それは意識してのものかもしれなかったが、ともかく落ち着いている様には見えた。 「謝罪の代わりなのかもしれないけど、そんな気にしないでいいんだよ?」 「皆の前で他国の将に切りつけてしまったのは事実ですから……」  雛里が言うのに一刀は笑顔になって、肩をすくめる。 「いやー、でも、俺、春蘭にはいつもたたきのめされてるし、恋には骨折られたし、雪蓮にも失神させられたし、思春にも首とばされかけたし、慣れてるから。実際、誰も傷ついてないしね」 「それもどうなんですか、ご主人様」  さすがに呆れたようにつっこむのは愛紗。朱里たちに比べれば一刀の軽口にも慣れているからこそであった。 「気にしないわけにはいかないんです」 「じゃあ、あれだ。こういうのはどうだろう。俺は天の御遣いで、この世界の習俗に慣れてないだろ? だからうっかり張将軍を真名で呼んでしまったってことで、ちょっと騒ぎになったと……」 「……さすがに、いまさらすぎるでしょう」 「駄目かー……」  そんな愛紗と一刀のやりとりに思わず微笑んでしまう朱里。しかし、彼女は顔を引き締めると、改まった口調で言った。 「一刀さんには感謝します。でも、個人の間ではそれでもいいかもしれませんが、国としては許されません。我が方のためと思ってご承知置き下さいませんか?」  一刀はなおも口を開きかけ、しかし、朱里と雛里の表情を見て、ためらうように違う方へ視線を向け直した。  そこにいたのは、長い髪を後ろに垂らした女性。彼女の拳にわずかに力がこもっているのを見てから、彼は訊ねる。 「……愛紗はどう?」 「運用面での問題はありません。しかし、よろしいのでしょうか?」  一刀は愛紗の視線を受け、腕を組んで考える。その視線が朱里と雛里の心配げな顔に移り、そして、宙に跳ね上がった。その先に、赤毛の少女の幻が浮かび上がったように一刀は思った。 「それが俺のためでもあるし、張将軍の、そして蜀のためでもある……ってことだよね? 朱里、雛里」 「はい。その通りです」  そして、おそらくは、愛紗のためでもある。  それに気づいていたとしても、朱里も雛里も、そして、一刀もそれを口にはしなかった。 「うん、よし。俺からも頼む。愛紗。張将軍が軍務を離れなきゃいけない間、どうか、代行してあげてほしい」  一刀にまで頭を下げられてはしかたない。愛紗は慌てて彼の頭をあげさせてから、力強く頷いた。 「わかりました。では、そのように」  その返事にあからさまにほっとする朱里と雛里。そこに、一刀が思い出したように言った。 「ああ、そうだ。一つ、頼みがあるんだ」 「なんでしょう?」  訊ね返した朱里は、その返事に思わず二の句が継げなかった。  彼はこう言ったのだ。 「張将軍と話がしたい」  と。  その日の会議は何ごとも無く終わった。元々一刀と愛紗がかけずり回って調整を続けていたのだから当然だったが、ほとんどの物事は、慎重な検討は行われたものの、問題なく話が通った。  最終的に桃香が三国の総大将として定められ、指揮系統が一本化された。もちろん、実際にはそれは儀礼的なものに過ぎず、桃香により改めて総監軍という役職を与えられた一刀が調整型の指揮官として存在しているのだが。  しかし、至極当たり前ながら、その会議の席上に鈴々の姿はなかった。その欠落を、皆が意識していた。 「鈴々ちゃんがこの時期に暴発しちゃうとはねえ」  会議の後の壮行会を、懐妊を理由にして欠席した穏は自室の寝椅子に体を預けながら、わずかに困ったような表情で呟く。その様子に、机を挟んで立っている明命が頭を下げる。ふわりと長い黒髪が舞った。 「申し訳ありません。もう少し私が気を配っていれば」 「まー、しかたないですよ。最初の接触で我慢出来てたのに、今頃……とは思いませんからねー」  明命は言葉もない。彼女としては、注意しろと言われていたのに、一刀を危険に晒してしまったという負い目があるのだろう。  穏はその様子に何ごとか思うところはありそうであったが、結局温かな笑みを向けるばかりで、なにも言わなかった。代わりに、会議後に桃香自ら知らされたことを繰り返す。 「それで、結局、送り返して結論は先送りでしたねえ」 「そうですね。急の病ということで」 「病気ねぇ……。ちょーっと、朱里ちゃんたち、まだ動揺してるかなぁ」  呉の頭脳たる人物は、しばらくその長い袖をふりふりと振っていたが、なにか思いついたように明命を呼んだ。 「明命ちゃん」 「はいっ!」 「朱里ちゃんに……いや、ちょと待って下さい。うーん、どうですかねー」  穏は自問自答する。明命は彼女の結論が出るまで小首を傾げながら待機していた。 「明命ちゃん、やっぱり、桃香様宛てに言伝を頼めますか?」 「はい!」  明命は紙を取り出したりしない。彼女の任務の性格上、記録を残してはいけないことを重々理解しているのだ。まして、今回は相手の国が公にしていない性質の事柄だ。 「じゃあ、行きますねー。『あの鈴々ちゃんが病気というのは、裏を勘ぐってくれと言うようなものです。ふさわしい理由を見つけておくべきかと』以上ですー」  そうして、その伝言は桃香に届けられ、蜀全体で話し合われることになるのだった。  7.約束  二人きりで話をさせるなど、出来るはずもなかった。  だから、桃香が同席を申し出たのだ。彼女がいれば、いかな鈴々といえどなにをするわけもない。その主張に、蜀側はもちろん、魏側も納得せざるを得なかった。  なにしろ、桃香は、話の間鈴々と手を縛り付けておくと約束したのだ。桃香を引きずる形になってまで、一刀に害をなすとは誰も考えられなかった。  そんなわけで、桃香と鈴々は一刀の前に並んで座っていた。桃香の腿に置かれた彼女の左手に鈴々の右手が重ねられ、革紐でくくりつけられている。  ただし、桃香は目の前の一刀に目を向けているが、妹の方はそっぽを向いたままだ。  その様子に一刀は頭をかいていたが、桃香が注意しても、どうしてもこちらを向いてくれないのに諦めたらしく話を始める。 「俺は別に謝ってもらいにきたわけでも、説教をしにきたわけでもないんだ。そんなことできる柄じゃないから」 「鈴々ちゃん」  桃香が結びつけられている手をぎゅっと握る。しかし、鈴々はふてくされたように虚空を睨みつけるばかり。  だが、さすがに、次の言葉を聞いて、驚いたように一刀の方を見た。 「張将軍。君は正しい」 「はへ?」  気の抜けたような声をあげたのは桃香。慌てて口を閉じ、一刀と、まっすぐに彼を見つめる鈴々を邪魔しないよう身を縮める。 「俺だって姉妹が……あー、いや、それを語る資格はないんだが、えーと」  一刀の発言に、目の前の女性たちは揃って不思議そうな顔をする。彼女たちに苦笑を向けて、彼はこう続けた。 「いや、ごめん。ともかく、君の感覚は正しいと俺は思う。俺だって怒る」  大事な人を盗み取られるようなことをされたら、誰でも怒るだろう。それは当然だと一刀は言っているのだった。しかし、鈴々の顔はさらに怒りで真っ赤になる。それを行った側がそんなことを言ってどうするというのだ。 「だから、俺はああいうことをされても当然だと思ってる。怖かったし、正直二度とごめんだけど……。でも、蜀の人たちは怒るだろうとはわかっているし、受け止めるつもりだよ」  怒気を超えて、殺意さえ含んだ視線が刺さってくることを、男は十分意識していた。こんなことを言われても玩弄されていると思うのが当然だ。しかし、一刀としてはこう告げずにはいられないのだ。  彼は腹に力を込めて、なんとか燕人張飛の視線に耐えようとする。 「ただ、いまは悠長にそんなことやってる場合じゃないんだ。白眉は討たないといけない。いや、白眉全部じゃなくても……そうだね、少なくとも乱は鎮めないといけない」  わかるだろう? と一刀は訊ねかける。返事はないが、しかし、彼が見る限り、目の前の少女は、そこまで否定するようなひねくれ具合ではなさそうだった。 「俺たちが揉めていたら、それだけ乱を治めるのが遅れる。苦しむ人が増える。そんなことは許されないんだ」  だから、と彼は頭を下げた。 「いまは君の怒りにつきあうことは出来ない。本当にごめん」  今度は首筋に彼女の視線が突き刺さるのがわかった。しかし、謝っている彼の姿に戸惑っているような気配を感じたのは、真実だったろうか、あるいは一刀の期待が過ぎたのだろうか。  桃香が声をかけようかどうか迷うほど長々と頭を下げてから、彼は姿勢を戻して、再び赤毛の少女の紫に近い瞳を見つめた。その頭に虎を模した髪飾りが揺れているのを、彼ははじめて意識した。 「でも、約束してほしいんだ。いずれしっかり俺と話し合うと。白眉の乱が全て治まったら、俺はもう一度君と話がしたい」 「話すことなんてないのだ」  それは初めての反応。  ぶっきらぼうで、敵意まみれであろうと、それは対話の最初の一言であった。思わずこみ上げてくる喜びの笑みをなんとか押し殺し、一刀は首を振る。 「いいや、きっとその時には、少しは話を聞く気になってくれていると思うよ?」 「なんで?」 「それは残念ながらいまは言えない。でも、だからこそ、ね」  探るような視線。それは、一つだけではない。桃香がなにかを読み取ろうとしていることを彼は意識せざるを得なかった。しかし、いまはそれを努めて無視する。 「またお前を殺そうとするかもしれないのだ」 「そうかもしれない。まあ、そうならないよう、なんとかするよ」  警戒するように、彼女は口をつぐむ。それは当然とも言えたが、一刀としてはなんとか答えてもらうのを待つしかない。  じりじりと焼けつくような時間が過ぎる。 「鈴々ちゃん」  桃香の困ったような声を受けて、鈴々は大きくため息を吐いた。 「わかったのだ。お姉ちゃんに免じて、また今度話をしてやるのだ。でも、愛紗を返さない限り、お前は鈴々の敵なのだ」 「うん。わかった」  はっきりとまっすぐな少女に対して、一刀は思わず微笑みかけていた。逆に獰猛な獣のように恐ろしい笑みを返されて、腰が砕けるかと思ったが。 「じゃあ、またね」  そうして、北郷一刀と張翼徳は別れた。  馬良と馬謖の姉妹が操る馬車を見送る兵たちの群れは、鬱然としていた。  部隊の指揮官――これまで共に戦ってきた将軍が急に軍を離れるというのは、兵士たちにとっては歓迎すべき事ではない。たとえそれが予定通りであろうとも、戦い方に変化が出て、これまで通り行くとは限らないのだ。ましてそれが天下に名高い武将であり、不意の出来事ともなれば余計だ。 「しかし、あの将軍が病気とはな……」 「ああ、困ったよな。他の将軍方が来られたとはいえ……」  解散を命じられた兵たちは陣に戻りながら、重苦しい調子で早速そんな愚痴を吐き始める。 「莫迦。お前知らないのかよ。病気ってのは表向きだよ、表向き」 「そうだぜ、お前、あのいつも元気いっぱいな将軍が病気するわけないだろう」  横で話を聞いていた兵士が会話に加わり、いつの間にか、兵たちは陣の中で輪になって話し始めていた。 「え? じゃあ、なんなんだよ」 「実はさ……」  もったいぶった男は、ひょうきんな調子になって、後を続ける。 「骨折っちまったんだってよ、すっ転んで。それでも本人は戦う気まんまんだったけど、玄徳様たちからすると、そんなんで怪我なんて恥ずかしいから、顔も見せずに帰らされた、と」 「あー、骨折じゃ、わかっちまうから?」 「おい。骨折ったってのは本当だけど、理由は違ぇって。演武で折ったって話だぜ」  その声にさらに反駁の声があがる。 「三国の会議ではしゃぎすぎて謹慎って聞いたけど?」 「あれ、俺は、酔っ払って粗相したって」  わいわいと意見が出され、中にはとても信じられないようなものまで出始める。さすがにあのちびっこが懐妊というのはないだろう。  いくら天の御遣いこと孕ませ大王が陣にいるとはいえ、触れれば出来るというものでも無い。 「ちょ、ちょっと待て。話をまとめるとこんな感じじゃない?」  兵たちの中で、年かさの女性がてんでばらばらに言葉を交わしている皆を遮った。 「三国の幹部が集まる中で将軍が演武を披露したものの、酔っ払ってて転んだ。それで骨折しちゃって、大事な会議ではしゃぎすぎってことで、病を理由にして本国に送り返された?」  その答えに、呻くような同意の声が各所で起きる。 「あー……普通はありえない話だけど……」 「なくもなく聞こえちまうよ、なあ……」 「将軍だから、なあ……」 「なあ……」  皆はなんともいえない表情で顔を見合わせ、そして、もはや点にも見えない馬車が行き去った西の方を見て、揃ってため息をついた。 「……なんにしても養生してください」  誰かが呟いた声が、皆の心を代弁していた。  8.陰謀  その日、洛陽の天宝舎――北郷一刀の子供たちのための棟――に駆け入った秋蘭の表情は冷たく硬かった。見る者――たとえば一刀や春蘭――が見れば、それが彼女の鬼気迫るほどの恐怖と怒りの表現だと看破しただろう。 「どうなさいました?」  とてとてと寄ってきたかわいらしいめいど姿の月も彼女を見て、声を強張らせる。 「冥琳は?」 「あ、奥に」  その返事に安心したのか、秋蘭の表情がわずかに平静に戻った。 「よし。わかった。私が呼んでくる」  彼女は月の指す方へ早足で歩き出した。月はその後を、緊張の面持ちで追った。 「何ごとだ?」  冥琳を引き連れて秋蘭が戻ると、三人は子供たちを視界に収められる場所に揃って椅子を置いて話を始めた。 「密告があった」  前置きもせず告げられたその台詞に、場の空気はさらに張り詰める。彼女が取り上げるなら、重大事に違いなかった。 「密告……ですか」 「ああ。洛陽の白眉だ」 「洛陽に? 都の中にいたとはな」  呆れたように首を振る闇色の仮面の女性に対して、秋蘭は大きく首を振った。 「それどころではない。宮中にいる」 「なに!?」 「あの、もしよろしければ、最初から……」  月の指摘に、秋蘭は慌てている自分を知ったのか、思わず呆けたような表情になった。しかし、それも一瞬のことで、彼女は冷静な声に戻る。 「そうだな。すまん。まず、そやつが接触してきたのはしばらく前だ。命の保証がない限り話さないというので、陳留に送った」 「陳留ですか?」 「われら魏の旧都だ。あそこなら誰にも手は出せない。そう、我ら以外はな。それで絶対に安全だと納得してくれた。今日、そやつの証言が急使で送られてきた」  二人が頷く。それほどの手をかけなければならないこととはなんなのか、これはまさに聞いておかなければならないことであった。 「白眉の連中め、この城内で蜂起するつもりだ」 「……続けてくれ」  あまりの衝撃に青ざめるのも忘れて、冥琳は先を促す。月は叫び出しそうな口を必死で抑えていた。 「そやつも全貌を知っているわけではないので、詳しくはわからん。ただ、そやつの言うには、城下でなにか騒ぎが起き、そちらに気を取られている間に、宮中でも騒ぎを起こす、という二段構えらしい」  そこで秋蘭は息を吸う。己を懸命に抑えるように。  そして、彼女は告げるのだった。 「そして、宮中の狙いのうちの、一ヶ所が、ここ――天宝舎だ」      (玄朝秘史 第三部第三十九回 終/第四十回に続く) 北郷朝五十皇家列伝 ○夏侯家の項抜粋 『夏侯家は夏侯惇にはじまる皇家であり、曹三家を支える曹家集団の中核を担う存在である。家祖たる夏侯惇(字は元譲)は、数々の虚実入り交じった逸話が巷間語られており、親しみやすい人物像が定着している。  これは、当人の業績もさることながら、実質的な王朝創始者とも言われる曹操という人物があまりに偉大な英雄であり、軽々しく触れるには畏れ多い存在として認識されていたためという理由も大きいと思われる。血脈としても近しく、常に曹操の片腕として働いていた夏侯惇に対して、英傑というものへの素朴な憧憬を仮託したものではないだろうか。  つまりは、民衆にとって曹操は尊敬すべき存在だが、夏侯惇は『我らが大将軍』というわけであり……(中略)……  さて、そんな硬軟取り混ぜた逸話の持ち主、夏侯惇であるが、後世に与えた影響として最も大きいものとしては、馬岱と共に『首都圏回遊型政府』の構想を提案したことが挙げられるだろう。  首都、洛陽と副都五都の間を小規模な政府機構そのものが移動するという案のそもそもの基は、遊牧民の生活形態だろう。つまり、夏営地、冬営地といった季節移動であり、この部分については、共同提案者である馬岱の知識が多分に関与していると思われる。だが、その実行を後押ししたのは、とある懸案に対する夏侯惇による単純明快な解決策によるものだった。  ここでそもそも北郷朝というものはいかにして成立してきたか考えてみて欲しい。黄巾の乱以来の混乱を俯瞰して眺めてみると、この王朝は漢という中央集権の官僚国家が崩壊した後、各地に起った群雄たちが最初は曹魏によって、そして、仕上げとしては太祖太帝によって束ねられることで生み出された。いわば、各地の有力者による連合政権である。ただ、そのような成立過程自体は、他の王朝でもそう珍しいというわけではない。  問題は、太祖太帝の後宮に入るのが、各地の有力者の血縁(娘や一族の女)ではなく、有力者たちそのものだったことである。これが以前のような、ともすれば地方軽視になりがちな中央集権型の国家であればそう問題はなかっただろう。呉の孫家も、蜀の劉備たちも、全て洛陽に住まわせてしまえばよいのだから。  だが、王朝成立以前から烏桓、匈奴、羌などの異民族を取り込み、拡大傾向を明確に示していた北郷朝においては、洛陽からの遠隔支配だけでは、その巨大な国家を支えきれない懼れがあった。  そのために太祖太帝の皇妃たちは、それぞれに元来の支配地や、それに近い場所、さらにはより遠方の前線地帯に居を定めざるを得なくなる。  しかし、そのような分散はいたずらに地方国家を分立させる事態を招きかねず、問題視された。  そこで出て来るのが夏侯惇の提言、すなわち『妻が動けぬなら、夫が巡ればいい』であったと……(後略)』