玄朝秘史  第三部 第三十八回  1.涼州  涼州には秋ってものがないのかもね。  馬上で吹きすぎる風に身を震わせて、彼女はそんなことを思う。そもそも身につけている衣服が薄すぎるのが原因なのだが、故郷ではこれで十分だったのだ。しかたなく、馬の後ろにくくりつけてある荷物の中から薄物を一枚引っ張り出してまといつつ、雪蓮はこの地の冬を想像してげんなりとするのだった。 「祭たちは大変かもね」  帰還第一組の彼女たちと違い、最終組の祭と蒲公英は殊更ゆっくりと南下する予定であった。それは降した者たちへの威圧と、涼州の土地の調査を兼ねての行動である。  ふと彼女は斜め前を行く翠の姿に注意を惹かれた。この組を指揮するはずの馬家の棟梁は、なぜかあたりをきょろきょろと見回していた。 「なに? なにか危なそう?」  そんな気配ないんだけどなあ、と思いつつ隣に馬を進め訊ねると、驚いたように振り返られた。 「え? あ、いや。なにかあるわけじゃなくて……」  しばし翠はもごもごとなにか言っていたが、雪蓮の顔を見直して、照れたように呟いた。 「なんていうか、母様はすごかったんだなあって」 「馬将軍?」 「うん。このあたりはちょっと遠すぎて力も大して及んでいなかったけど、それでもまがりなりにも涼州をとりまとめていたからな」  照れくさそうに、しかし、誇らしげに辺りを示してみせる栗色の髪の女性の姿に、雪蓮も納得の表情となった。 「会ってみたかったわね」 「あたしも文台さんには会ってみたかったよ」  ふと漏らした言葉にそんな台詞が返ってきて、江東の虎の娘は目を丸くする。ついで、偉大な母を持った二人の武将はくすくすと笑いあった。 「あんまり懐かしがってばかりいても、祭にまだ乳離れできないのかと叱られそう」 「あの人が? そんなことないだろう。本人も文台さんの話をしてくれるし」  しこたま酔うと、孫文台とそれに付き従った若い頃の自分を大げさに話しては、実際に当たっていた華雄につっこまれる祭であった。 「それとは違うわ。あれが母様の話をするのは、祭自身の人生がそこにあったからよ。でも、私たちの生きるべき道はそこにとどまってはいけない。そうじゃないかしら?」 「生きる道、かあ……」  雪蓮の言葉になにを見いだしたのか。翠は真面目な顔で考え込む。その様子に彼女はついからかってやりたくなる。 「まあ、私はもう死んじゃった身だけどね」  しかし、笑いを含んだその言葉も、翠のひたむきさを突き崩すには至らない。長い髪をくくって後ろに垂らす女性はそれをゆっくりと振りつつ、ごく真剣な顔で雪蓮に対した。 「それも……呉を思ってのことだよな?」 「そりゃ……まあ、そうだけど」 「なあ、雪蓮。王ってのはどう生きるべきなんだ?」  その問いに、彼女は大きく息を吸う。翠はそれに気づいたかどうか、堰を切ったように話し始めた。 「国を建て、国を捨てる。それほどの覚悟があたしにはまだ無い。いや、違うか。覚悟はあるかもしれないけど、どうやってそれを示せばいいのか、行動に移せばいいのかわかってないんだな」  そう語る翠の姿をじっと見つめて雪蓮はしばし考える。この『後輩』になにか伝えられることはあるだろうかと。 「ねえ、翠」 「うん」 「たとえば華琳が呉の女王だったとして、同じ問題に直面した時、私と同じ行動を取ることはないわ。桃香や蓮華でもそれは同じ。私とあなたもまた違うでしょう。王の道というのはそれぞれに違うし、それを教えることは、誰にもできないのよ」 「そうか……」  がっくりと肩を落とす翠は、しかし、続いた言葉にぱっと顔をあげる。 「出来るとすれば」 「すれば?」 「もっと基本的なところくらいかしら。気構えとか……それこそ、自分なりの道の探し方とか」 「た、頼めるか? 聞いたからってすぐ実行できるとも限らないけど、でも、やっぱり経験者の言葉ってありがたいと思うし……」  拝まんばかりにしてくる翠。おそらく、馬上でなければすがりつくくらいしていたかもしれない。その必死な様子はおかしみさえさそう。  しかし、雪蓮は笑おうとは思わなかった。  彼女には母がいて、祭がいて、冥琳がいた。なにより、袁家という明確な敵がいて、自らの行動で示してやらないといけない妹たちがいた。  翠にそれは望めない。馬騰が示していたとしても、それは戦乱の前の――実に古い形での涼州連合の長としての物であり、いま通用する物ではないだろう。根本的な部分は問題ないとしても、現状に合うように修正すべく、誰かが手を貸してやらないといけないだろう。ならば、それを自分がやってもいいのではないか。彼女はそう思う。  先人たちの恩に報いるためにも。 「どうせ道中は暇だろうし、ゆっくり話してあげるわ。ただねえ、私も結構感覚で生きてるから、わかりにくいところもあると思うわよ?」 「う、それは……。でも、話してくれるだけでありがたいよ。華琳とかだと、正直、その……難しすぎて……」 「あははーっ」  ぼそぼそと秘密を漏らすように言った翠に、雪蓮は思い切り吹き出してしまう。その様子にぶすっとした翠だったか、あまりに雪蓮がおかしそうなのにつられたか、文句を言う前に苦笑いを浮かべていた。 「笑いすぎ」 「ご、ごめんなさい。でも、たしかに華琳は小難しく考えるからね。それはそれですごいけど、私たちには無理よねー。もう少し……いえ、いまはそれはいいか」  笑いの発作をなんとか抑え込み、雪蓮は真面目な顔になる。 「じゃあ、はじめましょうか。あ、一つ言っておくけど」 「なんだ?」 「これはあくまで私の考えだし、それに、ただのお話に過ぎないわ。そこからなにをつかみ、なにを見つけて、自分の道を考える栄養とするか、それはあなた次第なのよ、翠」  至極当然の前置きであったが、言われた方の翠はすでに真面目に受け止める態勢だったのか、少し考え込む。 「そうか。鍛錬みたいなものだって考えればいいんだな。大事なのは、自分でものにすることで、師匠の動きは、一つの指針に過ぎない」 「ええ、そうね」  翠の中で納得したのだろう。嬉しそうに顔をほころばせて言ってくる様子を、雪蓮はなんとも好ましいものに受け取った。  そうして、小覇王と言われた女性は心底から微笑んでこう思うのだった。  涼州は、いい王を迎えるわね、と。  2.冀州 「妾たちの歌を聴くのじゃーっ!!」  最後列からではほとんど点のようにしか見えない人影が、舞台上で声を張り上げる。そのわずかに舌っ足らずな甘い声に、会場をびっしりと埋める大観衆が凄まじいまでの歓声を響かせることで答える。  その後、三つの声が合わさった軽やかな歌が流れてきたところで、その様子を眺めていた二人の女性は周囲の兵たちに合図をして、熱狂する人々の列から離れ始めた。護衛の兵の一部が、未練がましく舞台の方を見ていたりしたが、猫耳頭巾の女性も、人形のようなものを頭の上にのせた女性も、それには気づかないふりを通した。彼女たちはここに楽しみに来ているわけではないのだ。  兵たちを引き連れた二人は平原のど真ん中に設営された会場から少し離れた林近くの陣へと戻り、自分たちの天幕へ帰り着く。天幕の中で二人きり――それに宝ャ――になった途端、桂花は大きく息を吐いて伸びをした。 「あー、まったく騒がしいったらないわね」 「それだけ盛況ってことですよー。なにしろ、うちの兵や近くの邑の人たちだけじゃなくて、投降してきた白眉なんかもいますからねー」  彼女の言うとおり、新たな歌姫たちの活動は、民や軍の慰撫にとどまらず、白眉の切り崩しをも成し遂げていた。  覇王曹操率いる魏軍が大軍勢をもって北上した――その一事をもって意気阻喪しているところに、稟の知謀と七乃の奸智が組み合わさり、的確に弱いところから突き崩し、美羽たちの信奉者へと変えてしまったのである。  もちろん、大部分はいまだ暴れているし、降った者たちにしても全てを信用できるわけでもないが、敵を減らし、味方を増やしたのは確かである。  それをどう監視し、どう使っていくかは、まさに桂花や風たちの仕事というわけだ。 「効果があるのはわかっているわよ。だからこそ視察に来たのだし。しかし、騒いでる方はともかく、歌ってる方はよくやるわよね。特に稟。あのちびっこと腹黒は慣れてるんでしょうけど……」  言いながら天幕の中を歩き回ってる桂花に対し、風は座り込み、宝ャを膝にのせた格好で飴を舐めていた。彼女は、んー、とどこかぼんやりした声をあげる。 「まあ、稟ちゃんも歌うのは好きですからねー。風も好きですけど。でも、稟ちゃんにとってはちょうどよかったんじゃないですかねー?」 「ちょうどいいって?」 「いやー、だってこの戦じゃ、稟ちゃんの能力の生かしようがないじゃないですか。緻密な作戦と緊密な連携、美しい機動を得意とする稟ちゃんですけど、白眉相手にはそんなの必要ないどころか邪魔っけです。あんまり綺麗な動きをしても、相手に理解してもらえないんですから」 「ふむ」  猫耳を揺らしつつ、桂花は同輩の言葉を考えてみる。 「たしかにね。あれは私たちの中でも戦術に秀でているほうだけど、今回の戦の有様では、かえっていらついてしまいそうね」  荀ケ、程c、郭嘉といえばいずれも大陸に冠たる知恵者であり、政治から軍事、学問に至るまでたいていのことはこなしてしまう人材である。しかしながら、当然のことではあるが、得手不得手があり、それぞれの分野に対するとらえ方もまた違うのだ。 「そですよ。なにしろ相手は烏合の衆。稟ちゃんみたいな、敵であってもだらしないのが許せない怒りんぼさんは、歌のお仕事に忙殺されてるほうがよいのですよー」 「それもそうね。なにしろ私ですら連中の粗末なやり方には腹が立つもの。あれで数だけはいるんだからたまらないわ。黄巾の時みたいにうかつに集まってくれたら楽なんだけど」 「おかげで各個撃破ができるのも事実ですよー」 「それはそうだけど、もっとこう……」  そこまで言ったところで桂花は歩き回る足を止め、肩をすくめた。 「まあ、言ってもしかたないわね。何にせよ、この冀州を収拾して、白蓮の幽州を支援しないと。さっさと終わらせなきゃ冬が来かねないし」 「まー、そこは大丈夫でしょー」  風はのんびりと言う。その後を、いつの間にか定位置――彼女の頭の上――に戻った宝ャが引き取った。 「なにしろ俺たちゃ、勝つべくして勝とうとしてるんだからよ」 「勝つべくして勝つ、ですかー」  桂花たちの天幕から離れること人の脚で一日ほどの距離。まさに白眉と対する最前線となる本陣の大天幕の中で、同じ言葉を繰り返す人物があった。 「ええ、そうよ、季衣。私たちは勝つべくして勝つの」  広げた地図の上にいくつもの人形を並べて模擬戦闘を行っているのはこの軍の統率者たち。元来冀州に布陣していた沙和と、それを助けるべく北上してきた季衣と華琳の三人だ。 「どういうことかわかるかしら、沙和?」 「え? ええと、その……。か、勝てる戦をするってこと……ですかー?」  話をふられた沙和は眼鏡の奥の瞳をきょろきょろ動かし、しどろもどろに答える。一刀たちを交えてというのならともかく、華琳と直に戦の話をすることなどそうそうあるものではない。緊張するなというほうが無理だろう。 「間違ってはいないけど、曖昧すぎるわね」  彼女の言い様に苦笑する華琳であったが、居住まいを正すと、二人の部下たちを真っ直ぐに見つめて解説を始める。 「戦というものは当然ながら勝利を目指す物だけれど、実際には直接当たる前にその結果の大半は見えているものなの。そのための準備をすることこそが大事なのよ」 「んー?」  よくわからないという顔の季衣に微笑みを向けて、華琳は続ける。 「たとえば白眉相手に同数の親衛隊で負けると思う?」 「いや、それはないですよー」 「じゃあ、五千の鮮卑相手に、沙和一人を当てて勝てるものかしら。沙和の部隊じゃないわよ。文字通り沙和一人で」 「春蘭さまや恋ちゃんじゃあるまいし、そんなことさせないでほしいのーっ!」  華琳の想定を脳裏に描き出したか、沙和は泣きそうになりながら抗議する。 「そうね。そんな無謀な事は出来ないし、しないわね。だから、私たちは勝てると思う兵力を投入するわけ。そのために兵も将も鍛え、戦うべき場所の地勢や天候を調べ、周囲の状況を勘案する。そうして、実際の戦に挑む。それが勝つべくして勝つと言うこと」  そこで華琳は肩をすくめ、ま、当たり前ね、と呟いた。 「でも、その当たり前のことがなかなかに難しいものなのよ」  沙和と季衣、二人は主の言葉に顔を見合わせる。彼女たちも実戦を指揮する将であり、華琳の言うことを理解できないではない。しかし、言葉として、あるいは明確な論理として認識できてはいなかった。 「兵を揃えるのが大変ってことですー? 数じゃなくて、質を上げるのってとっても大変だって沙和思うの」 「みんなに食べさせたり、色々と調べたりするのが面倒なんじゃないの?」 「どちらもあるわ。我が国は多くの兵を擁しているけれど、けして無限ではないし、なにより、彼らを食べさせ、養っていくのにどれだけ費用がかかることか。さらにはひよっこを歴戦の兵(つわもの)に育て上げるのは大仕事だし、それに、広い地域なら偵察だって一苦労よね。いずれもとてつもない労力を伴うわ。でもね、実際には他の要因のほうが大きいのよ」  二人が食い入るように自分を見つめているのを感じつつ、華琳は一拍おいてしっかりと言葉を紡ぐ。 「その中で最も怖いのは、予断ね」 「予断って、前もって判断しておくってことですよねー?」 「ええ」  沙和が訊ねるのに頷いてみせると、季衣が不思議そうな声をあげる。 「なんでそれがだめなんですか? 前もって考えておけば、その場になって機敏に動けるんじゃないのかなぁ?」 「それは予測。予断とは違うわ」  華琳の指摘にびっくりしたような顔を向けてくる季衣。 「いい? 予断は、あらかじめ決断や判断を下しておくということなのよ。まだ起きていないことに対してね。人というのはね、一度決断したなら、それを覆すのは実に難しいの。なにしろ、自分が間違っているって認めるのは大変なことですもの」 「そうかなー?」 「沙和は間違っていたら、すぐごめんするのー。そのほうが、みんないい気分なの!」  二人の様子に彼女は思わず笑ってしまう。予断の恐ろしさを語るのに、この二人はあまりに向いていないような気がしてきた華琳であった。 「あなたたちは柔軟だもの。でも、みんながそうとは限らないわよ」  しかし、彼女は続ける。注意を喚起させておくにこしたことはないのだから。 「戦というのは常に流動的なものでしょう? 援軍が来るかもしれない、伏兵がいるかもしれない。部隊の一部が騒ぎを起こすかもしれない。あるいは、地形に足を取られて遅れる部隊がいるかもしれない。だからこそ私たちは幾度も偵察を繰り返して敵の様子を把握し、自分たちの軍を統制する。けれど、前もって決めていた通りのことしか見ていなかったらどう? 敵はこう動くはずだ、と思い込んで失敗するなんてよくあることよ」 「う、たしかにそうなの……」  演習か実戦か。いずれの経験を思い出したのか、沙和が渋い顔をする。季衣も真面目な顔で同意するように頷いていた。 「硬直した思考は、決めつけを繰り返し、いずれは、自分が好むもの以外の情報を否定するようになる。そうなれば破滅よ。たとえ自分で決めたことでもそれを振り返って考えないといけないし、そもそも情報が足りないときに性急に結論を出してはいけないの。いくらそのほうが気が楽でもね。まあ、さっきも言ったように、あなたたち二人には無縁の思考でしょうけれど……。でも、気をつけなさい。そうね、自分が奇策に頼りそうになったら、いま私が話してきたことを思い出しなさい」 「奇策ですかー?」 「ええ、兵力の劣る側が敵地で鮮やかに勝利する。そのために人が考え付かないような奇想を元に策を練る。そんな誰もやらないような策が成功することが稀にあるわ。ただし、たいていの場合、そんなものが成功するのはたまたまなの。いわば、幸運だったにすぎない。そんな策を頼るようになったら、それは危険な兆候よ」  不利な条件を覆すような珍しい事態より、兵糧もたっぷり用意した兵数の多い側が勝つのが常というものだ。そこを華琳は繰り返した。 「季衣、沙和。そのあたりをしっかり注意して、この私の臣として、勝つべくして勝つ戦をなさい。いいわね?」 「はい!」 「はいなの!」  嬉しそうに、二人は返事をする。そのことに金の髪を揺らす覇王もまた美しい微笑みで応えるのだった。  3.幽州  暗闇の中、言い交わす声がする。 「なあ、もう少し強くしないか」 「阿呆。そんなことしたら目立っちまうだろうが」  出所は、ほんのわずかに埋み火の赤が見える場所から。どうやら、その火を囲む誰かが、火を強くしようと提案しているようだった。 「でもよう」 「やめろって」 「でも」  ばしっとなにかが叩かれる音と、地面に小さななにかが落ちる音がする。しばらく打撃音が続き、不意に止んだ。 「いま、ここにどれくらいいんだ?」 「さあな」 「ここにいるのが、五、六〇〇。後続が二〇〇〇程度じゃねえか?」  いくつかのあらたな声がそんな会話を紡ぐ。闇の中、密かな談義は続いていく。 「ずいぶん……減ったな」 「減った」 「でも、集まってると狙われるぜ」 「ああ、この程度のほうが安心だろう」  それに対していくつもの吐き捨てるような声が答える。 「安心なんかできるもんか」 「なにしろ白馬長史だ」 「それに、烏桓」  それらの声は先のものよりさらに押し殺されていて、しかも、明らかな恐怖と絶望に彩られている。 「まさかあいつらが手を組むとはなぁ」  ため息のように漏らした声は、誰にも拾われず消えていく。どうしようもないことだと誰もがわかっていたからだ。  その後、再び声があがるまで、しばらくの間があった。 「しばらく高句麗あたりでほとぼりを冷ますってのもありだと思うんだよな」 「高句麗だと?」 「やつらは北と西からくるわけだし、東に……さ」  沈黙。  だが、今度のそれは、ただの停止を意味していない。言葉にならない中で、何ごとかの意思が交わされているような雰囲気があった。 「だが、そううまくいくか? そもそも脚が違うだろ」 「その脚を殺す場所を選べばいいんだよ。海に出るとかな」 「海……」 「そりゃ、あんの化け物みてぇな馬どもでも追ってこれやしねえけど、船はどうすんだ。まさか、泳げってんじゃねえだろうな」  肩をすくめるような気配。その声の主に皆の関心が集まっていることがわずかな衣擦れや息の調子から察せられた。 「おぼれ死ぬくらいなら、刺し殺されるほうがましさ。船は盗むしかねえだろ」 「動かせるんかい?」 「俺はな。それに、他にも、動かせるやつぁいるだろ。岸を離れる必要はねえ」  そこで声はわずかに強さを増す。 「いいか、大事なのは、いま、ここから逃げるってことだ。なにしろ、あいつら相手に勝てやしねえんだからよ。なんだったら、呉のほうへ逃げてもいい。顔知られてなきゃ、なんとでもなるだろうさ」  やがて、やけっぱちのように野卑な声がそれに答えた。 「そのまんま江賊ってのもありかもしんねえな」 「白馬どもに狩られるん待ってるよりは……ましか」 「そうだな」 「よし、やるか」 「なんもねえよりは、やってみるか」  いくつもの声が寄り集まり、熱気を帯びる。やがて野太い声たちは、逃亡のための卑しい算段に夢中になっていくのだった。  闇の中を、一人の男が走る。  それは、先程まで焚き火――とは言えないほどのわずかな炎――の傍らにあった姿の一つ。  彼は暗闇の中を見通すようなたしかな足取りで走っていたが、やがて、切り立った丘に繋がるあたりで足を止め、辺りを窺うような格好になった。 「ここだ」  唐突に、その男の背後から声がかかる。はねあがるような勢いで体ごと振り向いた彼は、その先に夜闇の中でもわずかな光に煌めく白銀の鎧を認めて力を抜いた。 「将軍」  彼の目の前に立つのは、柔和な顔つきの一人の女性。彼女は庶人が聞けばひれ伏すような大層な称号やあだ名を持っているのだが、そんな様子をまるで感じさせない。それでも男の敬意はその声に如実に表れていた。 「どうだ、首尾の方は」 「はっ。うまく海へ向かうよう誘導できたと思います。朝になって奴らの熱が冷めるようなら、また気合いを入れ直しに行かねばなりませんが……」 「そのあたりは様子を見てからだな。うん、ご苦労だった。しばらく休め」 「はい! ありがとうございます」  喜悦の声と共に再び男は闇へと消える。その気配が離れるのを待って、白蓮は背後に向けて手を振った。 「ってわけだ」  声をかけた先には、口元を布で覆った一人の女性が、まさに闇に溶け込むようにして立っている。先程の男に何一つ気配を感じさせることなくそこにたたずんでいたのは、呉の将、甘興覇。 「ふむ。間者を使っての工作か。信用できるのか?」  思春の鋭い視線が刺さるのに、白蓮は苦笑してみせる。 「あれはうちの百人長の一人だよ。私が幽州で自立する前からの仲間さ」 「ほう。それにしてはなかなかうまく化けていたではないか」 「地元の人間という点では、あれも変わらないからな。溶け込むのもそう難しくはないんじゃないか?」  それに対して思春は答えない。ただ、小さく鼻を鳴らすばかり。 「ともあれ、海へ向かってくれるのであれば、そちらは我々が始末しよう」 「ああ、頼む。出来れば投降を促したいんだが……」 「ふん」  今度はあからさまに大きく鼻で笑った。 「無理を言うな。お前の話によれば、相手は既に何度か敗れている連中だろう? それなのにいまだ賊だというなら、もう自分では抜けきれん。さっさとけりをつけてやるのが慈悲というものだ」 「まあ……そうかも。……うーん」  思春の強い口調に押されるように白蓮は頷き、しかし、どこか諦めきれないというように、小さなうなり声をあげる。  その様子を見ながら、思春は無言のまま。なにを考えているのか、じっと白馬長史の動きの一つ一つを見つめていた。彼女にとっては夜の闇程度、観察の邪魔にはならない。  しばし、思い煩う白蓮の姿を眺めていた思春であったが、ちらと空を見上げて口を開いた。まだ明ける徴はないが、彼女は暗い内に自分の船に引き返すつもりであった。 「ともあれ、私は戻るぞ」 「あ、そうだな。すまん」  言って白蓮は立ち去ろうと体の向きを変えかけている思春の手を取った。そのまま拝むような格好でくれぐれもよろしく頼むと言うのに、手を握られている方は、わずかに目を見開いた。  彼女と別れ、飛ぶように地を駆けながら、思春は独りごちる。 「白蓮か……。これまであまり語り合うこともなかったが、あれが幽州の主となるならば、呉にとっては重要な人物となるかもしれん。知っておくにこしたことはあるまいな」  そこで彼女は唇の端に薄い笑みをのせる。 「しかし、蓮か。なんだか微妙な気分だ」  そこまで言って、思春は意識を切り替える。うまくすれば昼までには、あるいは遅くとも夕暮れには戦闘が始まるだろう。  白馬義従と烏桓が追い立て、呉軍が海から刈り取る。  そんな図式が成り立つかどうかが、この手始めの一戦にかかっているのだ。  たとえ遠地の賊相手でも、任は任。彼女には手を抜くつもりなど毛頭なかった。  4.船旅  江陵から巴丘までは呉の軍艦で下ることとなった。川の流れと兵たちの漕ぐ櫂のおかげで、多層の大型船は水の上をすべるようにすばらしい速さで進んでいく。  四層ある船の三層目――甲板のすぐ下に一刀たちの部屋は割り振られていた。明命が詰めている司令室によって船の他の部分とは切り離された形の貴賓室だった。  一刀はその夜、向かい――焔耶の部屋の扉を叩いた。実は焔耶は船に乗ってからというもの調子が悪いと部屋に閉じこもりきりなのだ。船酔いではなく、旅疲れだと主張していたが、彼は少し気にかかっていることがあった。 「……何だ」  最初は返事がなかったものの、根気強く叩き続けると、不機嫌そうな声が聞こえてくる。 「話したいことがあるんだけど」  扉が開き、暗闇の中から光る瞳が覗く。どうやら彼女は灯りをつけていないらしい。しばしじろじろと彼の事を見ていた焔耶だったが、諦めたように息を吐くのが聞こえた。 「わかった。入れ」  彼を招き入れると、彼女は一つだけ火を灯した。獣脂の燃えるやにっぽい香りが広がる。ようやく彼女の顔を見ることが出来た一刀は、不健康というわけでもなさそうなその様子にほっと安堵の息を漏らす。 「大丈夫? 焔耶」 「大丈夫なわけあるか! お前だってわかっているだろうが! 見られていたんだぞ、ワタシたちは!」  顔中を真っ赤にして叫ぶ焔耶。それは怒りなのか羞恥なのか、おそらく本人にも区別できてはいないだろう。 「あー、やっぱりそこ気にしていたんだ」 「やっぱり、じゃない! 気にならんのか、お前は!」 「んー」  焔耶の剣幕をいなしつつ、一刀はゆっくりと言葉を選ぶ。彼は彼女に向けて嘘を吐くつもりはなかったから、どう伝えるべきか考える必要があった。 「そりゃ、俺も気分はよくないよ。特に独占欲の面で考えれば、そりゃあなあ。でも、ああいう仕事の人たちだし、そこらへんは訓練されているから……。俺も自分で無理矢理納得しようとしているところもあるけど、でもね」  そこで一刀は焔耶の顔を覗き込むようにして言った。 「勝手に覗いていたのはあっちだ。焔耶が縮こまる必要は、なにもない」 「む……」  彼女は一刀の言葉を吟味するように視線を揺らす。その様子に、一刀はうんうんと頷いてからまた口を開いた。 「それに、焔耶はすばらしく綺麗な体をしているんだから、逆に誇るべきだよ!」 「またそういう……」  呆れたように言う彼女に、一刀は不満顔で言い返す。 「だって、本当のことだろう」 「お前なあ。褒めるにしてもやりようがあるだろうが。そりゃ、その……キレイと言われて嬉しくないとは言わんが、しかし、それも度が過ぎれば……」  言葉にするのに疲れたという風に肩をすくめる。その姿をいっそ不思議そうに一刀は見つめていた。 「どうしてそんな風に思うの?」 「どうしてって……そんなの当たり前だろうが。ワタシは武人として体を作ってきたのだぞ。ごついし、筋肉で固いし、傷だってある。いわゆる女らしさとは縁遠いじゃないか」  一刀は最初、彼女の言葉に目を丸くしていたが、すぐに和やかな目つきになった。 「なあ、焔耶」 「なんだ」 「俺は幸いなことにたくさんの女の子と接している。恋人だけじゃないよ。洛陽の宮中には、本当に多くの女性たちがいるんだ。華琳の親衛隊はもちろんのこと、きっと、焔耶が足を踏み入れたこともない場所にだって女官たちはいるよ。その中には、絶世の美女と言われるくらいの人だっている。華琳ほどとは言わないけど、審美眼はかなり鍛えられている方だと思うよ、実際」 「……だから?」  言いくるめられると警戒しているのか、慎重に話を聞いている様子の焔耶に笑みを見せながら、一刀は続ける。 「そりゃ、世の中広いから俺と同じ見方をする人ばかりじゃないだろう。でも、俺は、これまで培った感覚の全てを賭けて焔耶を綺麗だと思う」  真っ直ぐに言われて、焔耶は驚いてしまった。これほどにきっぱり切り込まれた経験がないだけに、どうしていいのかわからなくなってしまう。 「い、いや、だから……」 「お世辞でもなんでもない。本当にそう思うんだ。だいたい、お世辞なんて焔耶を怒らせるだけだろう? 俺がそんなことすると思うか?」 「いや、その、こっぱずかしいことを真顔で……」  ようやく驚きが面映ゆい感覚へと転じたのか、たじたじとなりつつ、焔耶は一刀の口をふさごうとする。だが、その手を取られて、逆にぐいと引き寄せられた。身体能力では明らかに自分が上であることを知っている女は、そのこと自体に大いに動揺して、余計に動きがおかしくなる。 「それとも、焔耶は俺以外の男に、これ以上見せつけるの?」 「は?」  腕に続いて腰まで抱きしめられて、男の体に膚をこすられつつ、焔耶は素っ頓狂な声をあげる。 「俺は嫌だよ。俺以外に見せるのも、焔耶を手放すのも」 「わがままだな」  男の腕の中にあることに抵抗する気も失せている自分に驚きながら、彼女は小さく笑う。そうでもしないと、膚から伝わる彼の熱でおかしな声をあげてしまいそうだった。 「ああ、そうだね。でも、焔耶が隠しているこの膚を、他の誰かが勝手に見るようなことは、今後俺がさせない。許さない。それは約束する」 「大まじめに莫迦なことを……」  一刀以外が見ることはもうないのだから、自分が綺麗だと思えばそれでいいではないかという論法は、非常に乱暴なものだ。見られたことを恥ずかしく思っているのは焔耶なのだから。  しかし、押し切られてもいいではないかと彼女は思う。  膚をこする男の指に、快楽を引き出される。そのことに、もはや悔しさもなにも感じていない状況では、いくら論理を通そうとしても意味はない。  それに。  己を賛美する男に無理を通されるくらい大したことではないではないか、と。  彼女は己の喉から漏れ出る声が熱く濡れ、歌を奏でるように連続的にのびていくことを意識しつつ、そんなことを思うのだった。 「ところで、前から聞きたかったのだが」  男の腕を枕に狭苦しい船室の寝床に収まりながら、彼女は切り出す。こうして静かに横になっていると、揺れる感覚がよくわかった。 「はい?」  焔耶の髪を――特に白い一房をいじっていた男がぼんやりとした声で返す。 「お前、桃香様とはどういう仲だ?」 「はい?」  今度は驚いた声で繰り返すのに、焔耶はさらに切り込んでいく。 「真名を預けられているとは聞いたが、しかし……まさか、お前、ワタシにしたような……」 「い、いや。桃香とはそんな。そもそもまだ……」 「ま、だ?」  彼女の言葉に剣呑な色が乗ったのを感じて、一刀は慌てる。焔耶が起き上がろうとするのを阻むように、彼の手が彼女の体にかかった。 「違う! そういう意味じゃない! いや、待って、待って!」 「なにをそう怯える? なにか後ろめたい……」 「違うってば! そりゃ、手紙のやりとりはしているし、仲が悪いとは思わないけどね! でも、うん、そうだな。友達、かなあ?」  一刀は焔耶が力尽くでなにか彼に迫るとでも思ったようだが、彼女の方はそんなことは思ってもいなかった。それよりも体をくっつけて、相手の体温の変化や汗の様子を感じ取る方がよほどわかりやすい。  その上で、焔耶は 「ふうん」  と鼻を鳴らすように言った。 「そうか。まあ、いい」  しばらくの緊張に満ちた沈黙の後でそう言うと、あからさまに一刀がほっとした様子で身を蠢かす。さすがに裸同士で抱き合っているところで他の女の話をされると、この男でも居心地が悪いのだろうか。 「それよりお前、愛紗の件。気をつけろよ」 「え?」  驚いたように言う男の胸の上で髪をこすりつけるように頭をふってやる。 「漢中から連れてきたやつらはどうにかなっているが、荊州にいた連中がどう反応するとも限らん。また死兵を相手にするのは御免蒙る」 「あー。そうだな」  しばし彼は部屋の隅の暗闇を見つめてなにか考えていたようだったが、彼女のことを強く抱き寄せるとはっきりとした声で言った。 「必要以上に刺激しないよう努めるよ」 「よし。じゃあ、寝る」  言いながら彼女はもはや半ば意識を手放していた。男の膚の温もりと川面を走る揺れを感じながら、焔耶は夢の中へと落ちていくのだった。  5.大都督  巴丘に着いたのは夕刻だったが、焔耶と雛里は呉側に請うて、そのまま蜀勢の本陣へと向かった。  一刀と愛紗は巴丘に残ったが、一刀としてはすぐに愛紗を桃香に会わせてやれないのが残念でならなかった。もちろん、状況把握のためにも、ここに残らざるを得ないのだが。  二人で明命から現状の概況を聞いた後、一刀は一人、呉の大都督に面会に来ていた。 「やあ、大きいなあ」  大都督――体調を理由に表に出てこなかった穏は自室の寝椅子に座ってその膨らんだ腹をさすっていた。彼女が腰掛ける寝椅子は彼女と蓮華の懐妊を知った時に、一刀が洛陽から建業とここ巴丘に送らせたものだ。 「はいー。冬に入ったら、もう産み月ですからねえ」  秋も半ばになりつつある。お腹がぽっこり出ているのも当然であろう。ただでさえたわわな胸があるのに、さらにお腹まで大きいため、さすがの迫力であった。 「最近、圧迫されてるのか、胃がもたれるんですよねー」 「申し訳ない」  恨めしげに言われて、一刀は思わず謝る。こういう時、男というのは他にやりようがないのだ。 「もー。これまでの分も、穏は思う存分わがまま言わせてもらっちゃいますからねー」 「うん。頑張るよ」  すねたように言うのにきっぱりと応じると、彼女はいつも通りの、にへっとした柔らかい笑みを浮かべた。 「んー。よろしい」  そこへ、明命がぱたぱたと部屋に入ってきた。早足なのに手に持っている盆はまるで揺れていないのがさすがであった。 「黒豆のお茶です」 「やあ、ありがとう。……黒豆?」  明命が注いでくれた杯の中を覗きこんで見れば、黒と言うよりは濃い赤紫色の水面が揺れている。 「黒豆のお茶を飲むと、膚がつるつるのお子様が生まれるのです!」 「へえ、そうなんだ」  どれほど信憑性があるのか一刀にはわからなかったが、そういう言い伝えだかなんだかがあるということは、妊婦の体に悪いこともないのだろう。飲んでみれば、ぬるめの温度も相まって、さらりと飲みやすかった。かすかに豆の甘みのようなものも感じられる。 「ほら、明命ちゃんも座ってください。久しぶりなんだから、ゆっくりお話しましょー」 「え? いえ、私は給仕を……」  抗弁する明命をまーまーと一刀と穏二人して座らせて、三人は歓談を始める。  最近の話題の中で、一刀たちを乱暴なやり方で確保してしまったことに話が及んだところで、一刀はふと真面目な顔になった。 「あのさ、明命。よくよく考えてみたんだけど、あれってやっぱりわざとだよね?」 「なんのことですか?」 「だから、俺たちを江陵で捕まえたこと」  一刀の説明が理解できた途端、明命は椅子の上で飛び上がった。 「はぅあっ!? か、一刀様に故意にあんなことするなんて絶対できません!」 「あれ、そうなの?」  首をひねる男を見て、こらえきれないといった様子で穏が吹き出す。 「あははー、一刀さーん。明命ちゃんを問い詰めても無駄ですよー。なにしろ知らないんですからー」  その言葉に、一刀は了解したというように肩をすくめて苦笑を向けた。 「なんだ。穏の差し金だったの」 「はいー」 「はひ?」  一人、明命だけがわけがわからないと目を白黒させる。その様子に、穏と一刀が顔を見合わせ、結局一刀が口を開いた。 「色々と考えてみたんだけど、あの一件はおかしいんだ」 「おかしい……ですか?」  不思議そうに自分を見上げてくる明命の大きな瞳を見つめながら、一刀は指をゆらゆら振ってみせる。 「うん。おかしい。まず、明命の部下があんなやり方をするってのがおかしい。なにしろ、俺たちを見張っていたなら、普通に声をかければいい。多少荒っぽくても確実に身柄を押さえておきたいにしても、江陵に入る前に襲えばいいことだ。なにしろ魏軍に接触後だ。いなくなったら探索される懼れだってあるんだから」 「それは……そうです」  うんうんと頷く明命に向けて、もう一本指を増やす。 「しかもわざわざ隠れ蓑にしている宿屋と、その親爺の姿を見せる必要もない。せっかく作り上げた拠点を放棄しなきゃいけないようなことをする意味がないだろう?」  目を見張り始める明命に、三本目の指を示してみせる。 「さらに言えば、雛里たちは、俺たちを捕獲することを事前に聞きつけていたっていう。これもおかしいよね。そこらのならず者なら、虚勢もかねて自分のやることを吹聴するかもしれない。でも、諜報を生業とする者が、わざわざそれを漏らすだろうか」  そこで一刀はぱっと手を広げて見せた。その行為に理解を促されたか、明命の顔つきが変わる。彼女の頭の中で思考が凄まじい勢いで走っているのが見ている者にもわかるほどであった。 「つまり、これは、雛里や俺たちに突きつけられたもの……。要は、呉の隠密部隊の存在に目を向けさせるためのものってことになる」 「そ、そんな意図が!」 「そこで考えたんだ。諜報組織が自分の動きを見せつける理由はなんだろうとね。それこそ、一都市の拠点を失ってまで」  そこで彼は相変わらずにこにことしている穏に視線を向け直した。一刀の頬にも不敵な笑みが浮かぶ。 「今回のことを経て、魏も蜀も警戒することになる。なにしろ、焔耶や愛紗、雛里を手玉に取る呉の諜報網の実力を知るんだから。そして、最終的にこう思うわけだ。呉に対しては、隠し事をするよりも、先に話を通して味方にしておいたほうが得だ、と。こうして、二国は下手なことをしないようになる。万の大軍を擁しなきゃできないだけの効果を、呉はせいぜい百の単位の隠密で成し遂げるわけだ」  そこで一刀は再び肩をすくめ、今度は穏と明命の両方を視界に収めて微笑んだ。 「こういうことじゃないかな?」 「んー。個人的には色々と答えてあげたいんですけどー。穏としては関与を認めただけでも……ねえ? ああ、そうそう。魏にも蜀にも、後から、蓮華様の『丁重な謝罪』が届けられるはずですよー」 「わかってるさ。もちろんここだけの話だ。華琳には……まあ、あいつのことだから、起きたことをそのまま報告すれば十分だろう?」  穏と一刀の会話を、明命は愕然と見ているだけだ。彼女も諜報には詳しいはずだが、それをさらに利用するとまでは考えていなかったのだ。そもそも、筆頭軍師である穏が明命の指揮系統の下部にちょっかいを出すようなことがあるなどとは思ってもいなかったのだからしかたのないところであろう。 「明命ちゃんのところを勝手に使ったのはごめんね?」 「い、いえ、呉のためならば!」  はっと気づいたように明命は姿勢を正す。穏がしたことならば、たとえ自分に隠されていたとしても呉のためであろうと考えたからであった。 「ええ、呉のためですよー。なにしろ雪蓮様も冥琳様もいなくなったからって、なめられちゃうのは困りますからねー。もちろん、攻撃的になるつもりはありませんけど」 「でも、やろうとすればできる。抑止力ってのは大事だよね。お互いがわきまえていれば」 「はいー。そういう意味では魏の三軍師の方々も、朱里ちゃんも雛里ちゃんも、私はとーっても信用してますからー」  ふふっ、と彼女は意味ありげな笑みと視線をお腹の子の父親へと向けた。 「一刀さんは、また別ですけどねー」 「俺の立場も微妙だよね」 「そうですねー」そこで穏は笑みをさらに深くする。「それにしても、一刀さんも悪辣になってきちゃいましたねー」 「周りが周りだからな」  そう言って三度肩をすくめる一刀の表情は実に複雑なものであった。  6.配慮 「蓮華は元気かい?」  場の雰囲気を変えるために、一刀はあえて何度か軽く話に出た蓮華のことを口にした。穏も明命も忠誠を誓う女王の事を話すのには飽きることがないようだったからだ。 「はい! いまは亞莎がお側にいるはずです!」 「ああ、思春が海に出たからか。あれ、でもそうすると、シャオは一人で山越討伐?」  詠の説得で、思春率いる水軍が北方へ出撃したことは聞いていたが、呉の国内事情はあまり詳しく聞いていなかったので、一刀は意外そうな顔をする。 「いえいえー。思春ちゃんと亞莎ちゃんが見所のある若い子たちを見つけたんですよー。それで、その子たちを補佐としてつけてますー」 「年齢も小蓮さまに近いので、気も合うようだ、と亞莎からの手紙にはありました。ええと、吾粲さんと呂岱さんでしたか」 「へえ」  周々と善々がいれば小蓮自身の身の危険はないだろうから、討伐行の手助けを出来る者がいれば問題はないのだろう。まして、齢も近いというなら、未来の側近候補でもあろう。 「それに、詠さんも見に行ってくれてるらしいですし」 「詠が?」 「はい。南方の様子を見がてら小蓮さまのところにも行ってくれるとか」 「ああ、そうなんだ……。ってことは、詠は南から荊州に入って北上してくるのかな?」  意外な名前が出たが、そうでもないのかもしれない、と一刀は考えなおす。軍師たる詠が各地の状況を把握しようとするのはおかしなことではない。まして北からは一刀たちが来るのだから、南を見ておこうというのは実に尤もな行動ではないか。 「そういうことになります」 「といっても詠さんは既に荊州に入っていると思いますよー。長沙経由でこちらに来るまで、あと十四、五日といったところですかねー」  穏の説明を聞いて、一刀は考える。彼の視線は自然と穏の大きなお腹へと向いていた。彼自身の子供が収まっている場所へ。 「春蘭たちが江陵に入るのも、あと十日……前後かな?」 「ですねぇ」 「よし」  一刀は椅子に座り直し、穏を真っ直ぐに見つめる。 「その間……いや、これからのことは俺に任せてくれ。詠が来たら彼女にも協力してもらうが、いずれにしても三国の協調関係を形成しないといけない。拠点としてはここ――巴丘が最もしっかりとしているし、ここを中心として物事は動くだろう。でも、それじゃ穏に負担がかかりすぎる。だから、その分を俺が動き回ることで軽減したい。いいかな、それで」  真剣な視線を、穏の柔らかな青い瞳が受け止める。ぱちぱちと何度かまばたきして、穏はおもむろに頷いた。 「ふふっ。もちろんいいですよー」  そう言って穏は一種見せつけるような仕草で腹をゆっくりなでるのだった。 「では、穏はゆっくりさせてもらいますかね。もちろん、呉の動きは明命ちゃんを通じて、一刀さんとばっちり同調させますからー」 「うん、頼むな。明命」 「はい、もちろんです!」  明命は元気よく返事をし、それに対して一刀も微笑まずにはいられない。しかし、穏はわずかに気遣わしげな表情を浮かべた。 「でも、それなら桃香様にもきっちり話を通しておくべきでしょうねー。蓮華様は一刀さんがまとめ役でも文句はないでしょう。というか、推薦しちゃうかもしれません。だから、呉の意向として穏は支持しますが、蜀の意見まではなんともなりませんからー」 「それはそうだな。よし、じゃあ、明日早速桃香に会ってくるよ。なにしろ愛紗にも会わせてやらないといけないし……」  言いながら、なにか考え始める一刀に、明命が勢いよく立ち上がって声をかける。 「では、明日、船を用意しておきます!」 「あ、うん。ありがとう。お願いできるかな」 「もちろんなのです!」  そこで走り出そうとする明命を慌てて穏と一刀が止め、そして、再び場は穏やかな笑いと語らいに包まれていく。 「ご主人様、少々お話が」 「ん? ともかくどうぞ」  深更、愛紗が一刀の部屋の戸を遠慮がちに叩いたとき、彼は呉軍のつかんでいる現状の報告書を読んでいるところだった。 「すいません。こんな遅くに」 「いや、いいよ。どうせ寝られそうにないし」  言いながら一刀は机の上に山と積まれた竹簡を示す。まとめだけではなく、細かい報告まで見せて欲しいと頼んだ結果がこれであった。 「明日までにお読みになるつもりなのですか!?」 「うん。あらかたはね。桃香と会う時に、情報が抜けているのはまずいだろう?」 「それは……そうですが……」  こともなげに言う男に、愛紗は絶句する。桃香様は華琳殿とは違うのですよ、という言葉が喉まで出かかったが、なんとかそれを呑み込んで、結局無難なところに落ち着く。 「お体に障らぬ程度に……」 「うん。そうするよ。ところで……?」  男が目線で訊ねかけてくるのに、愛紗はおずおずと言葉を押し出す。 「その……明日の、桃香様との会合の件ですが……」 「うん」 「どういう態度で行くべきか、話しておくほうがいいのではないかと思いまして」  一刀の下へ走ってから……すなわち世間的に見れば蜀を裏切ってからはじめて桃香と会うのだ。愛紗としても複雑な心情があった。寝床に就いてからもなかなか寝付けなかったのだが、ふと一刀と打ち合わせておくべきだと考え付いたのだった。  実を言えば彼の方も起きているとは思っていなかったのだが。 「態度ねえ……。普段通りじゃだめ?」 「そこがわからないのです。幸い、雛里たちは受け入れてくれていますが、しかし……」 「うーん。まあ、ねえ」  漢中からの道中には事情を知る朱里がいた。たとえ蜀勢になんらかの思いがあったとしても、筆頭軍師たる彼女が押さえてくれたはずだ。  対して今回の相手は彼女の義理の姉妹。  構えるなと言う方が無理であろう。 「ご主人様とも……その、もう少し親密なふりをすべきでしょうか?」 「え? 距離を置いてるの? いま?」 「い、いえ、そういうことでは!」  慌てて否定する様子にほっとする一刀。まさか親しみすら感じてもらっていないかと心配になったのだった。しかし、彼はその後に真っ赤に頬を染める彼女の様子を見て納得する。 「ただ、その、男女の……」 「あー……」  世間の噂を考えれば、恋仲を偽装するのもありだろう。しかし、それをすることで、余計に蜀側を刺激することもあり得る。まして、既に焔耶には釘を刺されているのだ。無用な混乱を引き起こせば愛紗のみならず、桃香や焔耶、それに蜀全体に迷惑をかけてしまう。 「必要ないと思うけど……なあ」 「しかし……」  納得できないのだろう。うつむいて懊悩する様子を見て、一刀は考える。実際には必要ではなくても、この様子だと、何ごとか言ってやらないとまずいかもしれないと。 「ああ、でも」  考えた末に一刀は慎重に言葉を選んで声をかけた。 「何というか、世話を焼いてくれるってのはあるよな。愛紗は」 「は?」 「ほら、俺がだらしないと思ったら注意してくれるだろう?」 「それは当たり前では……」  こてんと首を傾けて訊ねてくる様子に、意図が当たった一刀は勢い込んで続ける。 「そこさ。当たり前と愛紗が思ってることを俺にすればいいだけだよ。そうするのが一番だ。なにしろ、相手は愛紗の事をよく知っているんだから。俺に対して不自然に接するより、自然と出ることをしているほうが、安心するはずさ」 「そう……でしょうか」 「うん、絶対そうだって」  そこで一刀はもう一度考え、口調をゆっくりとする。 「まあ、そうは言っても緊張もするだろうし、なかなかうまくはいかないだろうから……」 「はい」 「そうだな。今回は……いや、今度もそうだけど、俺が桃香たちとの折衝を受け持つわけだから、愛紗はなるべく俺と話していればいいんじゃないかな? その中で桃香たちから、愛紗に意見を求めたりとかも自然とあるだろうし」 「むむ……」  愛紗は首を振り振り考えていたが、やがてその結んだ髪を揺らすのをやめると一つ頷いた。 「そうかもしれません。では、そうします」  しっかりと頷き直し、己の顔を見つめてくる視線の透明さに、一刀は申し訳なくなってしまう。そもそも、彼女を追い込んだのは彼ではないとしても、この状況を作り出す責任の一端は彼にもあるのだから。 「難しいとは思う。ごめんな」 「いえ。私が選んだ道ですから」  そう答える愛紗の顔はすがすがしいまでの決意に満ちていた。  7.交歓  案ずるより産むが易し。  一刀は馴染み深い成語を心の中で思い出し、ほっと安堵の息を吐いていた。彼の横で愛紗は義姉である桃香に抱きつかれて、再会を祝いあっているところだ。  きゃいきゃいわいわいという黄色い声と共に美しい女性二人が抱き合い、じゃれあっている様子は実に華やかなものであった。  ほっぺたをくっつけて親愛の情を示そうとする桃香を、愛紗は会議の場ですから、と引きはがそうとするが、気勢の上がっている桃香はそんなことを気にせず愛紗の名前を大声で呼んでいる。  その二人を大きな帽子を胸に抱いた雛里がにこにこと眺め、焔耶がうらやましげに見つめている。そんな様子に一刀は思わず温かな笑みを浮かべずにはいられなかった。  ただ一つ気がかりは、義姉妹の最後の一人が、その温かで騒がしい輪の中に入っていないことだ。  一見するとただの子供にしか見えない赤毛の少女は、ぶすっとした顔で黙っている。一刀もあまり面識はない相手だったが、季衣と遊んでいる様子などは見たことがある。そこから考えると、義姉たちのじゃれあいの間に入っていかないのが不思議であった。 「張将軍は、会話には入らないのかな?」  思い切って一刀は斜め前に座っているその少女に話しかけてみる。もしかしたら、遠慮でもしているのかもしれないと思ったのだ。  半ばうつむいていた顔が持ち上がり、彼の方を向く。その瞬間、彼はとてつもない圧力を感じた。  そうだ、どう見えようと、この相手は……。  燕人張飛の武威の一端を受け止めて、一刀は顔をひきつらせる。その様子がなにか癇に障ったのか、彼女はぷいと横を向いてしまった。 「ありゃ……」  そのやりとりに気づいたらしい雛里がおろおろと慌て出す。それに対してか、あるいは一刀の動きそのものに対してか、焔耶が渋面を浮かべるのに、彼も頷いてみせる。 「あの、桃香さん?」 「はい?」  愛紗に思い切り抱きついていた桃香は一刀が声をかけてようやくその動きを止める。 「積もる話はあると思うんだけど、そろそろ、その……」 「あ、お仕事だね。うん。そうだね」  名残惜しそうに彼女は愛紗のことを離し、自分の席――一刀の対面へと戻る。義姉の抱擁から逃れた愛紗は慌てて自分の衣服の乱れを直していた。 「でもさ、一刀さん。私たち、まだ……」  蜀の女王は軍師である雛里と目を見交わしてから、困った様にそう答える。 「武陵と街道は確保しておりますが、周辺はまだまだ……です」  地図を広げ説明していく雛里。蜀軍は荊州の西部――蜀領土を鎮圧しつつ武陵に向かって来たわけだが、その全てを鎮めきったわけではない。  そもそも白眉の性格からして、一度叩いてもまた出てきかねないのだ。そういう相手なので、まだ完全に周囲を圧しているとは言えない状況であった。  もとより兵が多く、それと比較すると荊州での領地が狭い魏軍や、白眉の乱が起きる前から穏が軍を率いて巴丘に拠点を築いていた呉とは状況が異なるのだ。 「ああ、そうだよね……。さて、どうするか……」  呉軍側からの間接的な情報で大まかなところを把握していた一刀も、考え込む。しかし、結論を出す前に彼は頭を振った。 「あ、いや。その前に」  皆の視線が彼に集まる。それをしっかり意識しながら、彼は桃香に向けて口を開いた。 「魏呉蜀――三国の軍が動くことになるんだけど、そのまとめ役については、俺ってことでいいかな?」  一刀は緊張しながら、彼女の答えを待つ。もし、ここで桃香が難色を示せば、今度は桃香に従うよう穏や春蘭たちを説得しなければならない。桃香は女王の一人なのだから、彼女がそう望めば、当然、三国の軍の総指揮は彼女に委ねられる。それはそれで一つの手なのだが、穏の労力を減らすという一刀の気遣いは、別の形で示す必要が出て来るだろう。  だが、当の桃香はにっこりと笑うと、あっさりと言い放った。 「うん。私はいいよー。私、春蘭さんに命令したりとかちょっと無理だし」 「わかった。じゃあ、そういうことで」 「うん」  皆の同意と――多少の――期待の視線が自分に集まるのを感じ、一刀はその重責を思って身震いする。だが、その中にほんのわずかに疑念と敵意のようなものも感じてしまったのは、果たして彼の思い過ごしであったか、それとも……。 「ということで、蜀軍が武陵周辺を固めている間、呉軍のほうで洞庭湖の湖上の安全を確保してほしいということになったんだけど」  巴丘に取って返すと、一刀は早速、明命と話し合う場を持った。軍事上の意見を出してもらうために愛紗も同席している。 「それはどうでしょう?」  一刀が説明したことに、明命は小首を傾げる。その態度に今度は愛紗が不思議そうに瞳を煌めかす。 「しかし、水上は呉軍の天下だろう? 実際、我らが武陵とこことを往復する間は姿も見せなかったが」 「ええ、そうです。白眉は我らが姿を見せているときは、動こうとしません……。ですけど」 「なにかあるの?」 「はい」  明命の様子に一刀が訊ねると、彼女は生真面目な顔でこくりと頷く。明命は机の下から荊州全体の地図を取り出すと、一刀たちにそれを示して見せた。 「まず、我が呉は白眉の乱以降も、江水の安全を確保しています。ただし、その維持には、水軍ではなく、江賊も動員しているのです」 「江賊?」 「思春殿の昔の伝手などを使いまして、呼び寄せた方々です」  元来江賊というものは賊と言いつつも義侠心に溢れた人物が多く、思春のようにその志が合うとなれば孫呉の臣となり、働く者もいる。白眉のような無軌道さはなく、民の危機となれば官と協力することも厭わない一面もあると、明命は説明する。 「もちろん、そういう方々を選ぶ必要があるのですが」 「それはそうだろうね。でも、そのあたりは思春がうまく選べただろう」 「はい。その通りです。さらに、我が方から兵をたくさん入れているのです」 「どういうことだ?」  わざわざそう言うからには、普通に軍を配置しているのとは違う意味のはずだ。愛紗は半ば答えを予想しつつ訊ねかける。 「兵に江賊の姿をしてもらっています。元江賊の者もいますので、堂に入ったものです」 「わざわざ兵に江賊のふりをさせているの?」  さすがに驚いた一刀は腕を組み、その意図を考え始める。もちろん、それは明命だけではなく、穏が考えて作り上げた状況だろう。そうであるならば、なにか狙いがあるはずだ。 「思春殿が北に行っている間なら、油断も大きなものとなるだろう、と」  そこで一刀はようやく思い至る。荊州白眉に対して呉軍がその姿を偽装し、江賊を用いていると思わせていることの意味に。  元来、洞庭湖とその周辺は三国の領地が入り乱れている。それを利用して白眉は移動、逃亡、集結を繰り返しているわけだが、そこに呉の水軍、与し易しという弛緩が入り込めばどうだろう?  大動脈である江水を、江賊をも動員して守らねばならないほどの戦力しかないのであれば、洞庭湖を見張れるわけがない。国全体の浮沈を左右する江水より洞庭湖を優先させるわけがないからだ。まして、思春――現在の孫呉きっての水上指揮官が北方へ派遣され、国元を留守にしているとなれば……。  「誘っている……か」  頷く顔は二つ。明命と、そして愛紗。彼女たちと認識が共通しているのを確認して、一刀はさらに思考を進める。  油断した白眉は、より大胆に湖上を動き回るだろう。本来ならば地上を使うほうがいいと思える場面であっても。  水は低きに流れるものだ。  荊州の白眉は洞庭湖周辺に自然と集まってくる。たとえ、実際にはその警備の網がきめ細かいものであったとしても、彼らの意識の中では呉水軍は大した相手ではなくなっているのだから。 「洞庭湖周辺で決着をつけるための策ですな」 「はい。もしよろしければ、これを一刀様から魏、蜀の方々に披露していただければ、と」 「俺から?」 「はい。我々が主導するわけではありませんから。なにより、実際に調整するのは一刀様になるでしょうし……」  直に口には出さないが、それはもちろん穏の意向でもあるのだろう。一刀としても洞庭湖周辺に白眉を集め、一手に叩き潰すことに異存はない。それどころか望んでいたくらいだ。  また、たとえ一刀が説明したとしても、実際には穏が計画を作り上げていたことは聞く者が聞けばわかることだし、特に彼女の手柄を奪うというようなことを考える必要もないだろう。 「うん。わかった。じゃあ、洞庭湖を利用して罠を張って、白眉を追い込もう」 「はい!」 「ええ、やりましょう」  三人は頷きあい、決意をあらたにした。  そして、一刀は三国の縮図のような、江陵・巴丘・武陵の間を、それぞれの意向や要求を抱えて奔走することになる。もちろん、その傍らには常に愛紗が付き添っていた。  8.鈴々  一刀が桃香たちと会談してからちょうど二十日目。  それは、魏、呉、蜀、荊州に派遣された全ての将がはじめて一ヶ所――巴丘に集まるという日であった。  江陵に兵を置いた魏からは春蘭と流琉、そして壮行会を担当する張三姉妹が。  呉からは巴丘を預かる大都督穏と、明命が。  蜀からは女王たる桃香をはじめ、朱里、雛里、鈴々、星、焔耶とそうそうたる顔ぶれが。  それら全てを迎え、彼らの間を取り持つのは、白く輝く『ぽりえすてる』をまとった天の御遣いと、それに付き従う美髪公愛紗であった。  その二人は、既に将たちがちらほらと集まりつつある大天幕の中央あたりで、身を寄せ合っていた。  天幕の壁面にあけられた窓から入ってくる陽光にきらきらと輝く上衣が、愛紗の手で綺麗にあわせられていく。 「まったく、天の御遣いの正装だというなら、しっかりとしたらどうですか?」 「いやあ、これ、俺の世界ではもう少し年下の奴が着るものだから、ちょっと気恥ずかしくてね。こう、ついつい着崩しちゃうというか……」 「しかし、だらしなく見えるのはご主人様が困るでしょう」 「いやー、そこまで厳しい人はなかなかいないだろう。たいていは真名を許しているわけだし……」 「親しき仲にも礼儀ありと言うではありませんか」 「うう、その通りですが……」  一刀は愛紗に襟元をなおしてもらいながら、そんなことを言い返していた。もちろんそれは照れ隠しであり、見ようによってはほほえましい光景であった。  しかし、部下――であり恋人でもあると噂の高い人物――に服装の乱れをなおさせながら、尊大に文句を言っている構図とも、また見える。  さらに言えば、それはどちらの見地からしても親密な男女の図であり、なにより女性の側の男への気安さを示していた。  そのことを、一刀本人も、愛紗も気にしている様子がまるでない。  それが、ある人物が堪えに堪えてきたなにかを刺激した。  彼女は耐えていた。  たとえ男が良いように愛紗のことをこき使っているように見えても、きっとそれはなにかの考えがあるからなのだろうと納得しようとしていた。  彼女は辛抱していた。  たとえ彼女に『ご主人様』と呼ばせて悦に入っているような男でも、それを愛紗が甘受しているのならば、それなりの人物なのだろうと思い込もうとしていた。  彼女は我慢していた。  たとえよそよそしい口調で、男の事をはばかるように遠慮がちに声をかけてきても、それは立場を考えればしかたないのだと、他の人間にも言われていた。  それでも。 「ほら、いいですよ、ご主人様」 「ん」  男は愛紗が手を離すと、彼女に笑いかけ、何ごとか話しながら、席へと歩いて行こうとする。  その半歩後ろに、美しい黒髪をたたえた愛紗が続く。  にこやかに、二人共に。  あるいは――。  へらへらと、傲慢に女を従えて。  それは、きっと、どちらも正しい。  たとえ、当人の意図とは離れていても、己に見えるものしか、いや、己が見たいものしか、人は見ない。  だから、彼女は走る。  得物をひっつかみ、自分の脚が出来る限りの速さで駆ける。  構えるは、その背よりもはるかに長き丈八蛇矛。  たった数歩で間合いを詰め、驚愕の表情で固まる男の脳天めがけ、それは振り下ろされる。 「愛紗を、返すのだーーーーっ!!」  彼は、動けない。  北郷一刀は動かない。  天下に名高い張翼徳の打ち込みに反応できるわけがない。  彼は空気を切り裂いて蛇矛が迫っても、その存在すら感知できなかった。  だから、動いたのは、彼ではない。  それは、彼女が駆け出すと共に駆け始めていた。  それは、矛が動くと同時に跳ね上がっていた。  それは、刃が落ちる寸前、彼の前に回り込んでいた。  一丈八尺の蛇矛を、燕人張飛の強力が振り回した時、刃はとてつもない速度と重さを誇る。それを止め得るのは、この世でも数人。  だが、見よ。  いま、その矛は三つの刃に防ぎ止められているではないか。  一つは分厚い刃を持つ七星餓狼。 「こやつを殺されては、可愛い姪の父がいなくなってしまうのでな」  一つは長大な直刀、魂切。 「一刀様を失うわけにはいきません」  一つは天に吼える龍を象った青龍偃月刀。 「この莫迦が」  愛紗の吐いた言葉は、最も短く、そして、なによりも冷たかった。      (玄朝秘史 第三部第三十八回 終/第三十九回に続く)