「無じる真√N62」  少年は自室で深く考え込んでいた。  青銅のランプの灯された明かりだけが頼りとなる中、膝に手を置き、深々と椅子 に腰掛けている。瞳は閉じて静粛ににしているが、その眉間には皺が寄っている。  先ほど、公孫賛との間にちょっとした諍いを招いたことを気にしているわけではない。  それはそれで頭の片隅に引っかかっている。  だが、彼は更に重要なことを思案していた。 「ふぅ、今のうちからこれじゃ駄目だな」  深く息を吐き出し全身から余分な力を抜く。静かに無念無想の境地に達せんば かりに心を落ち着かせようとする。  胸の高鳴りもそれなりに抑えられたころ、部屋の扉が控えめにノックされる。 「構わないから。入ってきてくれ」  そう告げると、複数の人影がツカツカと一刀の方へと歩み寄る。二人程、一刀に 促されるままに席に腰を下ろした。 「よく来てくれたな」 「そんなのいいから、要件を言いなさいよ」  装飾的に編み込まれた木賊色の髪を弄りながら見つめてくる少女。元来の鋭い 眼光のために睨まれているようにも見える。  気のせいか、その頬は赤く染まっている。 「あかんで、詠。そないツンツンしとったら照れとるのがバレバレや」 「な、なな、何言ってるのよ馬鹿じゃないの?」 「……一体、どういう勘違いしてるんだ二人とも」  張遼は卓に両肘をつき、重ね合わせた手の上に顎をのせてニヤニヤと意味あり げな笑みを浮かべている。  その両腕の間ではサラシの上からでもわかるふくよかな胸が卓上に盛られている。 「さっきの続きがしたいんやろ?」 「はぁ?」 「……だから。さっき浴場で、その」  指をくるくると回しながらちらちらと見てくる賈駆に一刀は頭を抱えそうになる。 「いや、悪いんだけど違う。全然そっち方面の話じゃない」 「なっ!? ちょっと、霞! どういうことよ、あんたが間違いないっていうからボク……」 「なはは、スマンスマン。さっきの今やから、てっきり」 「やれやれ。ホント詠はエロエロだな。エロ軍師陣に仲間入りか? 余りお勧めしな いぞ。流石に飽和状態になりかねないから」 「エロ軍師言うな! というか、あんたは一体何の心配してるのよ!」  余程、思い違いをしていたことが恥ずかしいのか賈駆の瞳は充血し、僅かに潤 んでいる。  一刀はうーうーと唸る賈駆を宥めつつ正しい理由を語ろうと姿勢を正す。  複数の視線が集まっていることを認識しつつもゆっくりと気持ちと顔を引き締める。 「霞と詠に来て貰ったのは他でもない。どうしても話しておきたいことがあって」 「なんやなんや、改まって。そないに重要なことでもあるんか?」 「まあな。多分、まだ話がいってないと思うんだけど。曹操軍が動いたらしい。天子 を奉戴し、朝廷を掌握したという報告が間者から入った」 「ホンマか!」 「…………」  一刀の言葉にぎょっとした表情を浮かべる張遼に対して賈駆は顔をしかめて首を 捻っている。 「どうしたんだ、詠?」 「いや、なんでもないわ。話を続けて」 「朝廷を抑えた曹操軍は長安に家畜や糧秣、それに兵力を集中させているらしい んだ。記憶が戻ってきているならわかると思うが、曹操軍に潰される運命にある勢 力の中で長安から出れば攻め込めることが可能なものがある」 「なるほどね。つまりは、西涼にいる馬騰の軍のために動きたいということね」 「それ、白蓮は知っとるんか?」 「いや、俺からは白蓮には言ってない。恐らくは現時点でも耳に入っているかどうか 微妙なはずだ」  先程の一件を思いだし、少しだけ心が重くなるが顔に出さぬよう堪える。 「何しろ、こいつは俺の個人的感情からくることだ。一国、そして、大勢の人々の命 を預かる白蓮を巻き込みたくはないんだよ」 「あんたの悪い癖よね。それ」 「いいとこでもあるんやけどね」 「まあ、わかっちゃいるんだけどな。だけど、今回の事は動くことによって起こりうる 影響が尋常ではないからな」 「曹操軍との確執を生み、戦へと向かいかねないものね」 「確かに、あそこの大将、強かやからな。絶対に一刀の行動を口実にして何かしら 働きかけてくるやろうな」 「そうだろ? だから……俺はこの軍を抜けようかと思ってる」 「はぁぁああっ!?」  驚愕に満ちた声が重なり合い室内を照らす灯火をゆらゆらと揺らめかせた。  †  少年の言葉に少女たちは固まったまま口をあんぐりと開けっぴろげにしていた。  そんな反応に彼は苦笑しながら咳払いをすると、真剣な表情のまま、その胸の 内に秘めていることを吐露し始めた。 「次に曹操軍が起こす戦で大きな傷を負う女の子がいる。彼女を救いたいと思うっ ていうのは間違いなく傲慢だろうな。戦争なんだ、いくらでも死人は出るのは当たり 前のことで傷つく人間なんて数え切れないほどだろう」  そこで言葉を句切り差し出された湯飲みを手にとると、一刀は熱い茶を綽然と流 し込んでいく。  十分に喉を潤すと、一刀は中身の減った湯飲みを置いて話を再開する。 「だからこそ俺はこの手が届く範囲にいる人たちだけは絶対に守り抜きたいんだ。 外面だけでなく、その心も」 「それくらいはわかるわよ。あんたの行動を見てればね」 「へ? そうなのか?」  きょとんと眼を丸くしている一刀に、賈駆と張遼はため息を零す。 「あんな、一刀。思てる以上にウチらはあんたを見とるよ」 「白蓮の事だって、大事に思うからこそ巻き込みたくないんでしょ?」 「ああ。正直なところさ、昔……いや、前の世界で彼女が討たれたとき、俺は身体 中の血の気がみるみる引いていったよ。足下が暗くなって立つ場所を見失ったよう な感覚だった。俺はできるならもうあんな思いはしたくないし、させたくもない」  暗い表情で静かに語る少年の瞳は恐らく、その時の自分を映しているのだろう。  青銅ランプの灯りを受けて壁に映る影もどこか弱々しくなっているように感じる。 「その思いは白蓮だけに抱いてる訳じゃない。少なくとも俺がこの腕の中に抱え込 んだ〝みんな〟に対して思ってるんだ」 「ウチらも?」 「当たり前だろ? そう思ってなきゃ、こうして相談を持ちかけやしないさ」 「普通は巻き込もうとしないんじゃないかしら? 白蓮にするように」  賈駆がしたり顔でおどけたように告げると、一刀の肩がぴくりと撥ねる。  一刀は両腕を卓につきながら大仰に頷く。 「もちろんそうだ。だけど、悔しいけど俺は無力だ。一騎当千の強者、奇略策謀を 織りなす智者、そのどちらにも及ばないだろう。こんな俺一人で何か出来るかと言 えば否定の言葉しか出てこない」  少年はいつになっても自らを低く見積もっている。 「いや、そもそも人間なんて結局一人では限界がある弱い存在で、だからこそ集ま り支えあう。そうして国ってものができていく。それは分かってるつもりだ」 「ちょ、ちょっと、何急に重い感じになってるのよ」 「だからこそ、記憶も戻り俺の真意を汲み取ってくれる二人に頼んでるんだ。他の みんなは俺がどうしてここまで必死なのかわからないと思う。でも、二人ならわかっ てくれるし、俺を支えてくれるんじゃないかって……そんな甘い考えで呼び出したん だ。ごめん二人とも」  謝罪の言葉ではあるが、その声色は芯が通りまるで背筋の伸びた偉丈夫のよう に真っ直ぐで、その瞳はどこまでも澄み渡っている。  悪いと思う反面、既に腹をくくっているのだろう。 「構へんよ」  じっと一身に見つめている一刀に張遼がふっと笑いかける。 「ウチは全然構へんよ。約束したやろ? ウチは強うなる。そして、一刀と共におる ってな」 「霞……」  一刀は瞳を閉じたままゆっくりと頭を下げて感謝の弁を述べる。  その一方、賈駆は先ほどから渋い表情を浮かべている。 「ボクは……月を残していくってのが……ちょっと」 「そっか。そうだよな、詠にとって月がどれだけ大切か俺にだってわかる。断られた としてもしょうがないよな」  気まずそうな賈駆に対して一刀は決して不快な顔をせず優しく微笑んでいる。 「ま、詠のことは仕方ないとして。今のところは霞と俺か……こんな少数で大丈夫 か。それは後々考えるとして、次の問題は兵士をどうするかだなぁ」 「それはなんとかなると思いますよ」  空になった湯飲みに茶を注いで差し出しながら彼女はにっこりと微笑む。  言葉と共に差し出された湯飲みと彼女を交互に見ながら一刀は何度も瞬きをし ている。 「……え?」 「ですから、ご主人様なら大丈夫だと思います」  間抜けな顔で自分の方を見てくる一刀に彼女は更に一層明るく微笑んでみせる。 「ゆ、月? え? いつからいたの! し、霞、気付いてた?」 「い、いやぁ、一刀の話に夢中やったから」 「え、ええと、ユエサン? いつからそこに?」 「何を仰ってるんですか? ずっといましたよ話の最初から」 「いや、それならもうちょっと目立つ動きしてもよかったんじゃ……」 「私は侍女ですから」 「そりゃ、女性は一歩引いて慎ましく謙虚、主人の傍らに寄り添ってるくらいが良い なんて言ってる人もいるよ。だけど、それは流石に慎ましすぎるんじゃないか?」  一刀の言葉に小首を傾げながら董卓は賈駆と張遼にも二杯目の茶を出す。  二人とも微塵も動かずに董卓を見つめている。 「二人ともどうかしたの?」 「いや、どうかしたっちゅうか……え? ホンマに?」 「はい、勿論本当ですよ」 「ホントのホントか?」 「ふふ、お二人とも疑り深いですね。ところで詠ちゃん」 「な、なに?」  一刀たちの反応に綻ばせていた口元をきゅっと引き締めると、董卓は真剣な面 持ちで語りかける。 「ご主人様のために尽力して差し上げてくれないかな?」 「月がそう言うなら……ううん、でも」 「それと、ご主人様。涼州のことなら私にもできることはあると思います」 「それはどういうことかな?」 「私が涼州へ使者として向かいご主人様の意向を伝えます。また、場合によっては 別の方面について申出を行ってみようかとも思っています」 「別にそんなことしなくても」  眉尻を下げて困惑した様子の一刀に首を横に振って答える。 「いいえ、駄目なんです」 「月の言う通りね。こちらで動いたとして、その真意がわからなければ馬騰たちの 軍も混乱するだけよ」 「つまり事前に事情を伝え、向こうさんにもこちらに合わせて動いてもらえばどちら も危険の低減が可能となるわけか。それに何とか凌いだ間に同盟に関しても何か できるかもしれない……確かに使者は必要かもな」  そういうと一刀は腕を組んで唸り始める。理屈はわかるが納得はできないようだ。  しばし考え込んだ末、一刀は首を傾げながら董卓を見る。 「なあ、よく考えるとそれなら月がいく必要ないんじゃないのか?」 「ふふ、お忘れですか。ご主人様」 「え? 忘れてるって何を?」 「私、涼州との繋がりがそれなりにあるんですよ」 「月、駄目よ。それだけは!」  董卓の言葉に即座に反応して賈駆が身を乗り出す。  賈駆はやはり伶俐である。董卓の意図を完全に読み取っているようだ。  牙を剥き出しにした獣のような顔で見てくる賈駆に怯むことなく董卓は笑みを浮 かべ続ける。 「おいおい、どういうことだよ?」 「つまり、月は董卓として赴くつもりってことや」 「そういうことよ。そもそも月は隴西郡の出身なのよ。その上、漢朝によって移住を 余儀なくされた羌族たちの居住地を訪ねては、そこの豪師たちとも親交を深めて可 愛がられていたからね。少なくとも上の連中は月の顔を知ってるやつもいるはずよ」 「なるほど。結構、月ってそういう方面も凄いんだな……可愛かったり気立てが良 かったりするだけじゃなかったのか」 「へう……そんなことはないですよ」  感心したような言葉とじろじろと見てくる一刀の視線に董卓は顔がぼっと熱くなる。 「なんのつもりよ、この色情狂」 「と、とにかくだ。それはそれとして、本気なのか? 董卓の名は穢され捨てること になったんだぞ。その存在も消えてから時間も経ってようやく世の中からも薄れつ つある。それなのに表舞台に出たりしたら」  静かな声で見つめてくる一刀。  その瞳は董卓の身を案じているように見える。大切に想われることに幸せと喜び を感じて暖かくなる胸元に両手をそえると瞳を閉じて口元を綻ばす。 「ご主人様。私はもう決めたんです。何よりご主人様にお仕えすることが私の幸せ です。それは侍女の月としてだけではありません。董仲穎としての私もなんです」 「……月と董卓」 「そうです。以前、ご主人様には董仲穎としての私もその腕にお抱きになって頂き ました。その時から決めていたんです。ご主人様が御自分の命を賭して事に当た るとき、私もまた命を賭けてご主人様と共に進もうって」 「一体どうしたんだ? どうしてそこまで……」 「もう……置いていかれるのはいやなんです」  すっかり、一つになった前の世界の自分。  その最後の経験が自らの愛する男の無事を祈り、終焉を迎えたことだった。  記憶を取り戻してからその時のことを考えると胸が切なく痛んだ。 「それはウチらにも言えることやな。何で、こんなにも一刀と一緒にいたいと思うの か……きっと、未練みたいなもんもあるんやろうな」 「ま、あの時はいいところは全部他の連中に持って行かれたしね」 「……はあ。これはどうしようもないな、三人とも」  一刀はどうやら呆れてしまったのか大げさに肩を竦めている。  そんな彼の様子に董卓たちと顔を見合わせてくすりと笑うと揃って同じ事を口に する。 「それは、貴方と一緒にいたから!」 「ホント、俺は幸せ者だよ。涙出てきそうだ」  そう言いながらも一刀は満面の笑みを浮かべている。  いや、それは彼だけではなく董卓も、賈駆も張遼も皆一様に笑っていた。 「ちょっと待てぇ、笑ってる場合じゃないだろ!」  もの凄い勢いで開かれた扉がきいきいと音を立てながらぶらぶらと前後している。  その原因たる人物は藤紫の髪を慣性の法則に則ってゆらゆらと揺らしている。 「おいおい。人の部屋に乱暴に入ってきて急に……不躾じゃないか、華雄」 「言ってる場合か! 一刀、お前どういうことだ」 「何よ。うるさいわね」  賈駆が迷惑そうに眉をしかめて華雄を睨むが彼女は全く意に介さない。 「一刀、貴様どういうつもりだ……月様まで巻き込みおって」 「いや、そう言われてもな」  頭を掻いて言いよどむ一刀に詰め寄ると、華雄は彼の胸ぐらを掴み上げる。 「大体、何故私には声をかけなかった」 「……それは」 「いや、わかってはいる。だが、何だ記憶というのは! 前ってどういうことだ。私に は全く分からんぞ」 「とういか、ずっと盗み聞きしてたってことよね。あんた」 「そ、それは、まあ仕方あるまい。たまたま部屋の前を通ったら何やら聞こえてきた のだからな」 「初めはそうでも、ずっと聞いてたってことじゃないのか?」 「それはすまん。だが、こんな大それた事を隠しているのも悪い。月様まで動かれ るのならば、この華雄も動かねば――」 「そこまでや。華雄」  その声色は非常に冷ややかで、それは現在首筋に宛がわれている刃のようである。  こめかみに青筋が立つのを感じながら華雄はゆっくりと声の主を睨み付ける。 「どういうともりだ、霞」 「どういうつもりも何も、あんたを連れてくわけにはいかないって言うとるんや」 「何故だ! 何故、駄目なのだ!」 「あんたには資格がない。それだけや」  張遼の飛龍偃月刀を払いのけると、華雄は彼女と向き合う。 「資格だと……ふん、ならば私と勝負しろ!」 「おもろいやないか。ええよ、訓練場へ行こか」  そう言うと張遼は華雄と共に部屋を出て行く。  残された者たちも慌ててその後を追って一刀の部屋を後にした。  †  愛馬を全速力で駆けさせて戻ってきた公孫賛は息も整えずに一刀の部屋へ向か って一直線とばかりに走っていた。  袁紹や張宝と過ごしている間にすっかり時間も経ち、一刀の元から逃げ出して二 刻は優に過ぎている。  晩の食事も碌にしていない状態だったが緊張からか全く空腹は感じない。  徐々に走りを緩め、一刀の部屋へと辿り着く頃にはゆっくりとした歩調で気配を殺 していた。 「落ち着け。落ち着くんだ……」  いざ、一刀の部屋の前に到着すると息苦しくて仕方なくなってくる。  公孫賛は胸に手を当てて深呼吸をすると、先ほどから起きている手の震えを堪え つつ扉を小刻みに小突く。  返事はない。 「おかしいな、もう寝てるのか? だとしたら、出直すか……いや」  ふと、公孫賛の脳裏に少し前に趙雲から聞いた話が過ぎる。  寝ている男の床にもぐりこみ、朝になって驚く男の前で一言「覚えてないの?」と 告げれば、それは男にとって死の宣告となるらしい。 「ちょっと、試してみようかな」  辺りには夜警の姿も無く、実行に移すなら今しかない。  公孫賛はごくりと唾を飲み込むと、そっと扉を開き侵入を試みる。  扉は思ったよりも軽く開いた。 「というか……なんで、微妙に脆くなってるんだ?」  ぷらぷらと揺れる扉に眉をしかめつつも忍び足と緩慢な動きで室内を見渡す。  きっちりと整理された書簡類。  卓の上に残された湯飲み、誰か客が来ていたのだろう。  香炉から漂う香の匂いに混じり、かすかに煙の匂いがする。どうやら青銅ランプ の中心部に固定された蝋燭から立ちこめているらしい。 「消したばかりということか……」  理由は不明だが、香で焦げた匂いを消そうとしているのだろう。 (もしかして……誰かと寝てる……のか)  自分が癇癪を起こして離れている間に一刀の元を訪れた誰かが彼と閨を共にし たのだろうか。  高鳴る鼓動に気絶しそうに形ながら公孫賛はゆっくりと寝台へと歩を進める。  声を殺し、細い呼吸をしながら寝台の上を見る。 「…………おい」  布団は盛り上がることもなく、軟玉製の枕はその表面を惜しみなく見せている。 「誰もいないじゃないかぁぁああ!」  †  本来利用する者は皆、英気を養うために就寝しているはずの訓練場。  その中心で向かいあう二人。  肩、胸元、くびれを露出した艶っぽい服、スリットの入ったスカート。動きやすさに は特化している格好の女性、華雄。  訓練場を吹き抜ける風が無造作に伸びた彼女の藤紫の髪をゆらゆらとはためか せる。 「絶対に、認めさせてみせるぞ」 「はは、こうやって本気中の本気って感じは久しぶりやな」  肩にかけている羽織が風に揺らめかせながら張遼が飛龍偃月刀を片手に笑み を浮かべる。  だが、その瞳は瞳孔が開き、これから行う戦闘に対して興奮していることが明確 に現れている。 「楽しみでしゃーないわ」 「ふん、こちらの台詞だ」  華雄もまたここに来るまでの間に心臓が血液の循環を一層速く促し、軽い興奮 状態にあった。  全身に気が満ちているのが自分でもわかる。  ゆっくりと右足を後方に引き、腰元に金剛爆斧の柄を宛がうように両手を添える。  腰構えで相手をじっと睨み付ける。  張遼は、飛龍偃月刀を中段の構えで固定し華雄を見据えている。  松明の炎と空に浮かぶ月が辺りを照らし出している。  風がそよそよと吹き、灯りが揺れた。 「いざ……勝負!」  互いに一歩、前へ出る。  華雄が金剛爆斧による薙ぎ払いを狙うが張遼はそれを許さない。  華雄の攻撃は次々といなされる。  器用に動く飛龍偃月刀。  刃だけでなく、その柄から石突きに至るまで有効に使い華雄の手を封じてくる。  華雄が苛立ち始める中、漸く張遼が攻勢に出る。  張遼は下段からの突きを放ってくる。華雄は防御に回ろうと、その切っ先に合わ せて金剛爆斧を振り下ろす。  だが、重なる瞬間に飛龍偃月刀の姿は消え、唐突に左側から現れる。 (軌道を……変えただとっ?)  直進の動きからまさかの変動。  身を屈め、張遼の横薙ぎ斬り付けを避けつつ華雄は体当たり気味に肩を張遼の 胸にぶつける。  剥き出しの肩とサラシが擦れる。  僅かな硬直を見逃さず、華雄は軸足に力を込めて回転しながら金剛爆斧を横に 振り抜く。 「うらぁっ!」 「相変わらず、突進か。ホンマ強引なやっちゃな」  柄で吹き飛ばそうとするが、その寸前で張遼の肉体との間に飛龍偃月刀の柄が 滑り込み衝撃を減殺した。 「あんたは何もわかってへんのや」 「わかってない、だと?」  煌めく刃、幾度も擦れあう二人の得物と心、金属特有の音が訓練場を埋め尽くす。 「あんたは肝心なことは何も知らへん。そないなやつ巻き込めるか」 「何故貴様にそのようなことを決めつけられなければならん! 私の行く先を決め るのはこの道を先陣を切って歩む者だけだ!」 「アホ! あいつは、あの二人は優しい……そして、甘い。せやから、強くは出られ へんのや。ウチはそんな甘ちゃんの代わりを務めとるだけや!」  ぶつかり合う意志。  飛び散る汗。  食いしばる歯。  相手だけを見て、全力で潰しにかかっている。  完膚無きまでに叩きのめしたいという欲求が止めどなく溢れる。  狂っているのかも知れない。  だが、狂喜に満ちた乱舞もまた一興。  そう言わんばかりに二人は刃を幾重にも渡り相手に向かって振り下ろす。 「知ったことか! どうせ、私を猪突猛進で弱い。軟弱者として見て否定しているの であろう? 巫山戯るな、貴様ごときにそう簡単に推し量られてたまるか!」  わき出てくる気概に身を任せ、大股二歩分の距離を空けたまま金剛爆斧を振り 下ろす。  十分な間合い。  しかし、張遼は速い。当てることができない。 「あんたには、足らへんのや。思想、理念、頭脳、気品、優雅さ、勤勉さ! そして 何よりも、速さが足りへんのや!」 「霞ー、それ違う。絶対違うぞ」 「あれ? そうやな。スマン、別のモンが足らへんのや!」  一刀の指摘に一瞬、止まる張遼の隙を突くがやはり当たらない。どうにも紙一重 のところで避けられている。 「くそ、当たらないとは……」 「あんたにはまだ、覚悟が足らへん。それに……必要なものを手に入れとらん、の やぁ!」  これまでで最も速い払いが襲い来る。必要最低限後退してよけつつ反撃に出よ うとすぐに前進を試みる。 「甘いっ!」  直後、最初同様に飛龍偃月刀の軌道が変わり突きの一撃が迫り来る。  今からでは金剛爆斧で応戦するのは難しい。 「私は、負けられんのだぁ!」  咆哮を上げると共に華雄は飛龍偃月刀の側面を弾く。  ぶれる先端を通り過ぎ刃の付け根を強引に押さえ込み重力と同方向へと力を込 める。 「くっ、なんて馬鹿力や!」 「勝たせてもらうぞ霞ぁ!」  金剛爆斧を頭上に思い切り振り上げる。  目の前で眼を見開いている女を標的と定める。  右足を踏み込み、息を吐き出しながら  脳に宿る直線上の軌道を辿るように振り下ろす。 「ぐ……かはっ」  華雄の攻撃は空を切っていた。  その代わりに張遼の飛龍偃月刀の背が華雄の脇腹にめり込んでいる。  完全に油断していた。 「そ、そんな馬鹿な……」 「せやから、言ったんや。速さが足りひんて」  崩れゆく華雄と対照的に直立する張遼が肩を竦める。  そして、 「さて、ちゃんとケリは付けへんとな」 「お、おい。霞、もういい。決着はついたんだろ!」  一刀の制止する声も無視して張遼が飛龍偃月刀を振り下ろしてくる。  華雄はその刃を見ながら妙な感覚を覚えていた。  以前、刃を交えたときから違和感はあった。その正体が実像を持ち始めている。  遠い昔、どこかで似たような光景を見た。  善戦したものの最後には敗れた。  最後に見えたのは偃月刀。  悔しかった。  悲しかった。  守れなくなることが、守れなかった事が。 「あ……ああ……」 「もういい、やめろ霞」 「安心しい。別に殺すつもりはあらへんよ。なんや、一刀はウチのこと信じられへん のかいな。めっちゃ傷つくわー」 「いや、すまん。別に霞を信じてない訳じゃなくてだな……」  気がつけば刃はぴたりと華雄の眼前で止まっていた。  必至に弁解している一刀を余所に張遼はにやりと口角を吊り上げながら華雄を 見下ろす。 「ふう。華雄、これであんたとの戦績は五分やな。一勝一敗一分けや」 「……なあ、霞よ。一つ聞かせてくれ」 「なんや? 何か気になることでもあるんか?」 「ああ。そのだな、以前……汜水関でお前と刃を交えたことは――」 「あらへん」 「そ、そうか。ということは、やはり私はおかしくなってしまったのかもしれん」 「言うてみい。いや、ウチやのうて一刀に全部話してまえ。ウチは疲れたさかい、先 に休ませてもらうわ」  飛龍偃月刀で肩をぽんぽんと叩きながら張遼は訓練場を後にした。  董卓はしばし逡巡した後、賈駆に連れられ張遼の後を追っていった。  静けさの戻った訓練場の中、華雄は呆然としていた。  一刀が両肩を掴んで瞳をのぞき込んでくる。 「大丈夫か? あーあ、あちこち怪我して。ちょっと待っててくれ。手当手当っと」 「待て。別にいい。後で自分でやる」 「ダメダメ。ほらほら……擦り傷、切り傷。どれも女性に残すべきものじゃない」 「いやだから……」  華雄の言葉が聞こえてないのではないかと思える程に一刀は手当を続ける。剥 き出しの二の腕にできた傷、脇腹を打たれた時の痣などあちこちに手を伸ばしてくる。 「あ、ちょっ、待て……本当にやめっん……っ」 「脚にも傷が、仕方ないなぁ」 「いや、そんなとこ……くぅっ」  没頭しすぎて築いていないのか、態となのかはわからないが一刀は必至にスリ ット部からスカートの中へと手を差し入れてもぞもぞと動かしている。  終始、身体のあちこちに優しく触れられた華雄は手当が終わる頃には息も絶え 絶えになっていた。 「お、お前なぁ……」 「ん? どうしたんだよ」 「いや、いい。それよりも聞け」 「いいけど。どうしたんだ?」  不思議そうに首を傾げる一刀。  華雄は無性にこの男の顔が殴りたくなっていた。  だが、その前に聞かなければならないことがあった。 「一刀、お前は関羽と共にいたことがあるな」 「え? ああ、以前は白蓮のとこで働いてたからな」 「そうではない。反董卓連合とやらが結成され、汜水関に攻め込んできたときだ」 「ああ、劉備軍と一緒に前衛をやってたからな。よく見てるな」  明るく笑う一刀に華雄の苛立ちは増す一方だった。  それでも堪えて質問をやめ、決定的な一言を告げる。 「北郷軍」 「……は?」 「北郷軍の関雲長」 「か……ゆう?」 「それが私を負かした強者の名だ」  全てが彼女の中で姿を見せていた。  反董卓連合が董卓を狙い洛陽へ向かっていた頃、華雄は汜水関の防衛を担っ ていた。  だが、その使命を全うすることなく敵の将に敗れてしまった。 「そうか、思い出したんだな」 「やはり実際にあったことなのだな?」  眉尻を下げ、どこか悲しげな顔をする一刀の胸に寄りかかる。 「どうにも、先程から身体の調子がおかしいんだ。少し胸を貸してくれ」 「ああ。ゆっくり休んでくれ」  優しく微笑む一刀の顔を見上げながら華雄は全身の力を抜いて記憶の奔流と共 に起こった異常に蝕まれた身体を癒すのだった。 (感謝するぞ、一刀。私に同じ過ちを犯させないでくれて)  †  部屋を出てから一刻ほどたっただろうか。  張遼と華雄の決闘の勝敗が決っした後、華雄は記憶の奔流による影響を受け静 かに眠りに就いていた。  そんな華雄を抱き留めた一刀は、彼女のくしゃくしゃになっている髪の毛を手櫛で 整えながら溜め息を漏らす。  背後から足音が聞こえる。  細い身体を腕の中から落とさぬようしっかりと抱きながらそちらへ顔を向ける。 「華雄、どうしたんや?」  張遼が眠りこけている華雄をのぞき込みながら訪ねてくる。 「記憶……戻ったそうだ」 「あら、凄いじゃない」 「こうなると、もう断る理由もなくなってしまうんやないか?」 「霞……まさかとは思うが」 「なんや? ウチはなんも知らんで」  どうにも答えるつもりがないのか張遼はにやにやと笑うばかりでまともに取り合お うとしない。 「ふふ。幸せそうに寝てますね」  確かに董卓の指摘通り華雄は穏やかな寝顔を浮かべている。 「こうして見てるとやっぱり女の子なんだよな」 「それはそうですよ」 「ん……」  そよ風によって前髪がかかった瞼がぴくりと動いたかと思うと、華雄はがばっと 起きた。 「すっかり寝てしまっていたようだな。すまんな」 「いや、いいよ。それより、気分はどう?」 「うむ。何故かとてもスッキリとしており爽快なことこの上ない」  そう言うと華雄は柔軟体操でもするかのように身体を動かしていく。  賈駆のときなどと違い、強靱な肉体と精神を持っている華雄には記憶表出の反 作用はそれほど起こらなかったのだろう。 「なんなら、さっきの続きといってもよいぞ」 「ほう、まだやられ足りないっちゅうことか? ええで、やろうやないか」 「やめろって二人とも」  火花を散らす二人を諫めながら一刀は改めて華雄に訊ねる。 「記憶、戻ったんだよな?」  華雄は力強く頷くと、董卓のまえに跪く。 「月様。この華雄、今度こそ舞台にしがみつき主君を守り就く所存である所存でし たが、その誓い一層強きものとします」 「さて、これで面子も良い感じになってきたんちゃう?」 「そうだな。知略面なら詠。戦闘なら霞に華雄。政治的な面なら月か」 「しかし、私や霞が抜ければ公孫賛軍は大きく戦力が落ちる気もするのだが」  華雄が腕組みをして首を捻りながら唸る。 「いや、大丈夫だと思う。恋や星っていう万夫不当な連中がいる。内政面ならねね、 軍略なら雛里と揃ってる。それに何だかんだ強かな七乃もいる。猪々子や斗詩な んかも多少見劣りしても十分強い。兵力だって、数え役萬☆姉妹がいればまだま だ増えるだろう」 「そうね。烏丸兵のことや周辺の異民族の対応も郭淮がいればある程度なんとか なるでしょうし、思っているよりは悪くはならないでしょうね」  一刀の捕捉をするように大方の分析結果を言った賈駆は、じろりと一刀を睨みつ ける。 「ところで、あんた軍を抜けるっていってたけど、どうするのよ」 「ああ。そういえば途中だったな」  しんと静まりかえる訓練場で一刀は静かに呼吸をして息を整え心を落ち着かせる。 「特に宣戦布告も何もなしに曹操軍の領土を攻めるなりしようと思ってる。ただ、そ れをすれば風評はあまりよくないかもしれない。だったら、公孫賛軍と関係のない 存在として動いてみるのもいいかと思ったんだよ」 「そこまで気にするようなことなのか、それは?」 「実際の影響がどれ程かは俺もよくはわからない。だけど、少なくとも〝天の御使 い〟がするようなことではないのは確かだと思う」  そう言うと一刀は上着を脱ぎ捨てる。 「守りたい人を守るための足かせとなるなら、こんなもの俺は必要としない」 「なっ!? ほ、本気なの? あんた、それはつまり……」 「いいんだよ。これは俺なりのケジメなんだ」  呆然とする少女たちの中、下に着ているシャツだけとなった一刀の肩にふわりと 羽織が掛けられる。  振り返ると上半身はサラシのみとなり、素肌を露わにしている張遼の艶やかなか 姿があった。 「これは?」 「貸したる。予備はあるし、それ返すためなら無茶はできひんやろ?」 「……まいったな。でも、有り難く借りとくよ」 「それで、どうするの? 恐らく明日の朝議では曹操軍のことについて話がでるは ずよ。その前には動いた方が良さそうだけど」 「そうだな。月には涼州へ向かって貰うとして護衛に華雄か霞について欲しいんだ けど」 「それなら、ウチがいく。何かあったとき、頼りになるんは馬や。華雄よりは上手く扱 える自信あるで」 「そうか。華雄もそれでいいか?」 「ああ。別に構わんさ」 「あら? 意外に素直ね。てっきり、『主君たる月様は私が守る』とかいうもんかと 思ったんだけど……」 「ふん詠には関係あるまい」 「ふうん。ああ、そういうことか」  華雄は何故か頬を赤らめて険しい表情を浮かべており、それを見ていた賈駆は 急に口元を歪めて笑いだす。 「な、なんだその顔は!」 「主君を守る、か。物は言い様よね」 「き、貴様! 絶対に言うなよ、何を想像したかしらんが嫌な予感しかしないから、 絶対に言うなよ!」 「別に良いけど。その代わり、今度は受けた指示はちゃんと守りなさいよ」 「くっ。それくらい……わかっている。だから、言うなよ。絶対だぞ」 「わかってるわよ。……あんたが何を考えてるかもね」 「おい! 詠!」  華雄はすっかり賈駆に翻弄されている。  一刀がその様子に苦笑していると、張遼があくびをする。 「部屋に戻らへんの?」 「そうだな、明日に備えて準備をするか」  そうして全員に予定時刻を伝えると、この夜は各自解散となった。  †  一刀が自室に戻って見ると、扉が不自然に開いていた。  侵入者でもいるのかと気配を殺して中を覗く。  青銅ランプに火が灯されて部屋がほんのり明るくなっている。 「どういうことだ。ん、あれ?」  卓に顔を伏せた状態で誰かが寝ている。  慎重に近づいてみると、後ろで結わえた深紅の髪の毛の間からは白い肌が覗いている。 「白蓮じゃないか」  公孫賛は可愛らしい寝息を立てている。 「どうやら、行き違いになったようだな。やっぱり、あれを気にしてたのか。相変わら ず気遣いだな。どうせ、俺が悪いはずなのに自己嫌悪でもしてたんだろうな」  愛おしげに少女の寝顔を見ながらふっと口元を緩めると一刀は公孫賛を抱き起 こして両腕で抱える。 (きっと、起きてるときの白蓮だったらお姫様だっこなんかしたら途端に動揺して落 っこちるんだろうな)  一刀は微笑を浮かべたまま自室を出ると、公孫賛の部屋へと送り届ける。  起こさないよう丁寧にゆっくりと寝台に寝かせると一刀は彼女の顔を見つめる。 「……ごめんな」  憂い顔を公孫賛の顔へと寄せる。  窓から入りこむ月明かりによってできた一つの影がゆっくりと惜しむようにして別 れる。  公孫賛から顔を背けると外へ出ようと歩きだす。 「それじゃあ、俺は行くよ。今までありがとう」 「ん……一刀」  背後でした公孫賛の声に驚いて振り返るが、彼女の白い瞼は閉じたままだった。 「むにゃ。呑めぇ、とにかく呑めぇ……」 「寝言か」  恐らく、酒の勢いで和解する夢でも見ているのだろう。  一刀はくすくすと溢れそうになる笑い声を抑えながら彼女の部屋を後にした。 「なーんか、前にもこんなことあったような……ま、いいか」