玄朝秘史  第三部 第三十四回  1.街道  その日は雲一つ無い秋晴れの実に良い陽気で、一刀はまるで旅の前途を空が祝福してくれているような、そんな気分になってにこにこと黄龍を進めていた。  彼の鞍の前には昼食後、大きな帽子を被った少女が乗っていた。馬をなるべく疲れさせずに脚を速めるため、平穏な場所では、御者台と馬の背に乗る人間とを順繰りに交替させていく手筈であった。 「良い天気だね」  空は晴れ、鳥は鳴き交わし、道の脇の水田では、農夫たちが野良仕事に精を出す。実にのどかで戦乱の巷であることなど忘れてしまいそうな風景であった。  だが、同乗する人物は彼と同じ感情を共有しようとする気はなさそうだった。眉をひそめ、じっと稲穂を睨みつけるようにしている。  その背に漂う緊張に気づいていた一刀はしばらくは乗り慣れていないためと放って置いたのだが、いつまでも和らぎそうにないのでついに声をかけた。 「あの、さ」 「はい?」 「もし俺と一緒がいやなら、愛紗か焔耶に代わってもらおうか?」 「あわ……。なんのことでしょう?」  びっくりしたように目を見開き、彼女は振り返る。その怯えたような表情に、一刀は己の考え違いを悟った。 「あ、あれ? ずっとなんか、不機嫌というか、息詰まるというか、そんな印象を受けたものだから、その……」  彼の言うことに合点がいったか、雛里は、ああと小さな声をあげる。 「ちょっと、あれが気になっていたんです。一刀さんの事じゃありません」  と彼女はずっと向こうの田んぼで働く人影を手で示す。 「うん? あそこで稲を刈ってる人?」 「はい。道々、他にも収穫している人を何人も見ました。それで、このあたりも荒れているんだと実感していたんです」 「荒れてる……?」  一刀は周囲を見回してみる。川から水を引いて開かれた田がずっと先まで続いている。そこに実る稲も元気よく、枯れ果てているなどということもない。豊かな実りを感じさせこそすれ、荒廃した様子は見受けられなかった。 「作物の出来は順調だと思います。でも……早いんです。いくら秋だからって……。まだ刈り入れるには早すぎる時期です。まして、一ヶ所だけではなくて、皆進めていると言うことは……」  言われてみればそうかもしれない、と一刀は考える。いまは七月の後半。彼がかつて慣れ親しんでいた暦で言えば九月に入るか入らないかというところだろう。品種にもよるが、稲刈りには少々早い。 「なにか、急かされることがあるってこと?」 「はい。彼らは、作物を早くに取り込んで、自分たちしか知らないところに隠してしまうつもりなんです。あるいは、このあたりなら、襄陽でお金や布に変えて、それで貯めておくのかもしれません。いずれにせよ、そうやって白眉の略奪を免れようとしているんです」  つまりはそれだけ危機感をもっているということだ。たしかに、荒れていると言えるかもしれない。 「さらに一歩進めば、私たちが以前保護したような難民にもなりかねません。このあたりはそこまでではありませんし、すぐに朱里ちゃんたちも来ますけど……」 「手の届いていないところでは、もっと荒れてるかもしれない、か」 「はい」  深刻な声で雛里が頷き、そこで会話が止まる。  一刀は黄龍の背から、ゆっくりと周囲の光景を見回す。相変わらず、日は明るく照りつけ、風はさわやかで、大地には田んぼが広がり、右手はるか遠くに見える丘陵地帯へと続いている。その様子は相変わらずのどかなものにしか見えなかった。だが、彼女の話を聞いてからは、その意味合いが変わってしまった。  男は小さくため息を吐くと、話を変えようと彼女に話しかけた。 「襄陽で水鏡先生には会っていくんだろう?」 「え? ああ、そうですね。刺史にも話は聞かないと……」 「いや、そうじゃなくて、二人の先生だろ?」 「それは……はい」  雛里は、はにかむようにして、そう答える。その声の穏やかさに、一刀は師に対する雛里の思いを見て取ったような気がした。 「じゃあ、顔を出しておかないと。旧知の人たちにはちゃんと挨拶しないとね」  雛里はしばらく考えていたようだったが、ちらと振り返り、顔を赤くして、頭を下げた。 「ありがとうございます」  御者台の焔耶は、脇を進む雛里と一刀がなにやら話し込んでいるのをじっと疑わしげな目で見ていた。 「どうした?」  黙りこくっている彼女に、馬車馬たちの手綱をとる愛紗が話しかける。 「いや、この企て、うまくいくものかと思ってな」 「そう悪くない偽装だと思うがな。馬が良すぎるのは、少々問題かもしれんが、しかたあるまい。いざという時、速度は重要だからな」  愛紗は車を牽く馬たちを眺めながらそう言う。軍馬の中でもかなり体格のいいものたちだから、行商人にはふさわしくないかもしれない。しかし、わざわざ疑いの目で見てくるのでなければ特に問題とはならないだろう。 「そんなことではない。お前の出奔も含めて、全ての話をしている」  ひゅっと愛紗の喉が鳴る。固まりきった表情の中、彼女は瞳だけ動かして隣の女性を見た。 「なんだ? ワタシがわかっていないとでも思ったか?」 「いや、そうではないが……」 「二人とも桃香様に顔向けできぬようなことをしているわけでもあるまい。公の場ならいざ知らず、この状況で口をつぐむほどのことか?」  その言葉を頭の中で吟味する愛紗。これまであえて触れてくる者はいなかったが、焔耶ならこうして直截に言ってきてもおかしくないような気もした。 「言われてみれば……な」 「だろう?」  得意げに鼻を鳴らしてから、彼女は声を潜める。 「で、どう思う?」 「そうだな。まずは、この道行きを含めて、白眉を討つまではそう問題ではないだろう。黄巾と同じく、多少の犠牲は出るにせよ、鎮圧できるだろう。これだけの軍が動いているのだからな。むしろ、私はその後の三国について心配があるな」  愛紗は小さく首を振る。 「離れてみてよくわかったが、蜀の立場は実に弱い。いや、違うな。華琳殿がずば抜けて強すぎると言うべきか。蜀も呉も、その輝きの前では影に過ぎん」 「……腹立たしい話だな」 「だが、事実だ。此度のことも、蜀、呉の動きはご主人様に引っ張られてのことだ。独自の動きは出来ていない」 「む……。しかたのないことでもあるぞ? 荊州で好き勝手やれば、他国が黙っておるまい」 「それはそうだ。ただ、白眉の件が終わった時、我らの立場がどうなっているか。考慮はすべきだろう。もちろん、朱里あたりは既にわかった上での行動ではあろうが……」  愛紗はごく自然に、『我ら』と言った。それは本来いまの彼女が口にすべき言葉ではなかったろうが、焔耶は気づくこともなく聞いていた。 「あれもその一環か?」 「ん?」  焔耶が顎で指した先には、なにやら歓談しながら進む二人乗りの騎馬がある。馬車のたてるがらがらという音に紛れつつ聞こえてくる声からすると、なかなか楽しげに話しているようだ。 「ああ、いや、どうだろう。さすがに、そこまではないんじゃないか? まあ、その手の思惑があったとしても、親交を深めることに害はあるまい」 「どうだか……な」 「焔耶は私よりもよほど早くご主人様に真名を預けていたではないか」  厳しい顔つきの焔耶に、愛紗は苦笑いを浮かべて指摘する。 「ああ、そうだな。ワタシは別にあれを友とすることにとやかく言うつもりはないし、言っていない。ただ……」  そこまで言って、焔耶は何かを振り払うように大きく首を振った。 「いや、すまん。考えすぎだな。柄でもない」 「……そうか」  愛紗はしばし躊躇って、しかし、結局何を訊ねることもなく、前に向き直った。馬たちを不安にさせぬためには、しっかり行き先を伝えてやらねばならない。 「大丈夫さ、焔耶」 「ん?」  愛紗は落ち着いた声で告げる。 「我らは……いや、蜀の面々は桃香様を信じ、桃香様の理想を信じてまとまっているのだ。それを貫けば、きっと、道を見失わないだろうさ」  あるいはそれは自分に言い聞かせるための言だったのかもしれない。 「そうだな」  だが、焔耶は力づけられたようであった。しっかりと芯の通った声で、そう彼女は頷くのであった。  2.襄陽  襄陽の街までは、特に何ごとも無く過ぎた。  道中で起きた事と言えば、野宿をする段になって、同行者が女性しかいないことに気づいた一刀が自分は一緒に寝られないと言い出したことくらいだろうか。  当然、なにを莫迦なことをと却下されて、女性の香りが蔓延する天幕の中、一刀は悶々として幾夜かを過ごすことになったのだが。  そして、街についた、その日。 「一応、宿はとったけど、さ」 「はい?」  愛紗と一緒に街を見に出た一刀は、しばらく歩いてから、そう切り出した。 「たぶん、水鏡先生が用意してくれると思うから、三人はそっちに泊まりなよ」  雛里は焔耶に付き添われて、司馬徽のところを訪れていた。おそらくは、歓待のために部屋を用意してくれるだろう。 「また男女がどうとかいう話ですか?」 「うん。だってさあ」 「戦場では気にもしていなかったではありませんか?」 「いや、戦場でも天幕一緒ってわけでも……ないでもなかったっけ」 「ええ、護衛で一緒にいたこともあるでしょう。もちろん、ご主人様が『お忙しい』時は遠慮しておりましたが」  歌うような愛紗の言葉に、微妙な顔になって笑うしかない一刀。 「あはは……。いや、そうじゃなくてね」 「今日の宿は、寝台が一つではありませんし、問題はないかと思いますが……。着替えの時は、小部屋のほうへ行ってもらえばよいことですし」  愛紗の言うとおり、その日取った宿には寝台が二つに、寝椅子が一つあった。四人でどのように分かれるにしろ問題ないといえば問題ない。 「さ、さすがに私としても、寝台一つに男女が交じって寝るのは、少々まずいと思いますが」 「まあ、それはね」 「とはいえ水鏡先生が用意してくれるとなれば、そのご厚意を無にするわけにもいかないでしょうから、そのあたりは相談しましょう。なんにせよ、ご主人様お一人にするなどということは……」  そこまで言って唐突に愛紗の言葉が途切れる。彼女が足を止めるのに、一刀も行きすぎようとした体を無理矢理戻す。 「どうしたの?」 「あれを」  彼女が小さく手を振った先、大通りから繋がる路地では、一人の男が動いていた。男は自分の前に並べた四つほどの箱の中に、柄杓で水をかけている。その箱の中を仔細に見てみれば、豆がぎっしりとつめられているのだった。 「なにやってるんだ、あれ」  料理の下ごしらえというには、水のかけかたが大ざっぱにすぎるような気がしたし、そもそも、あれほどの量を使うのだろうか疑問である。 「忌々しい。実に忌々しい」  首をひねっている一刀の腕を掴み、愛紗はぶつぶつと吐き出しながら、大股で歩き出す。引きずられるような格好になった一刀は慌てて足を動かしたが、愛紗の歩く速度はどんどんあがり、ついに肩が外れそうなほど引っ張られるようになってしまった。 「あ、愛紗? ちょっと待ってよ。いた、腕、痛いっ!」 「ああっ」  悲鳴に気づいた愛紗はぱっと手を離す。その勢いにこけそうになった一刀は、自分たちがその動きと声で注目を浴びていることに気づき、愛紗と共に横道に避難する。 「すみません。本当にすみません」  さらにもう一本路地を入り、狭苦しい路地裏まで行って立ち止まる。その間、愛紗はずっとぺこぺこ頭をさげていた。 「いや、いいってば。でも、どうしたの?」 「少々腹がたってしまいまして。あの場にそのままいたら、あやつの性根をたたき直してやりたくなってきたでしょうから、立ち去るしかありませんでした」 「あ、暴れられるのはちょっと……」 「はい。いまは軍務の最中。我慢します」  表情は平静ながら、目に憤激の炎を燃やす愛紗の様子に、この怒りが解放されていたら大変だった、と身震いする一刀。しかし、それほどの憤りを感じる理由はなんなのだろうか。  一刀は、愛紗を突き動かしているものが義憤の類だろうと予想はついたものの、いったいあの行為が何の悪事を意味するのかは理解できていなかった。 「で、あれ、なんだったの?」  それを受けて、少し考え、彼女はゆっくりと言葉を紡ぐ。 「豆に水をかけると水を吸うでしょう」 「うん」 「そうなると目方が増えます。量り売りですから、つまり……」 「……少ない量でも高く売れるってことか」  文字通り、水増しというわけだ。液体のものに混ぜるのは聞いたことがあるが、穀類にまでやるとは。 「はい。あのようなやり方だと、みずみずしくみせかけられますしね。ただ、水が抜ければ量はなくなりますし、味も悪くなります」 「そうかぁ。それはたしかに腹が立つよね」  商売が公正に行われないのは問題だな、と一刀は小さく呟くが、愛紗は決然と首を横に振った。 「私が腹立たしいのは、誤魔化しだけではないんです」 「というと?」 「もちろん、あのような行為自体悪辣なものです。しかし、です」  彼女は周囲を示すように手を広げる。 「普通は隠れてやることではありませんか? それこそ、このような人目のない路地か、蔵の中でやるでしょう」 「まあ、そうだね。そんなことやってるってわかったら、客が寄りつかなくなるだろうしな。俺たちみたいな通りすがり以外騙せなくなる」  たとえば店の倉庫の中でそういうことをしていれば、中には気づかぬ客もいるだろうし、疑いは持ってもはっきりしたものではないとまた買いに来る者もいるかもしれない。しかし、見られてしまえば評判はすぐさま落ちるだろう。 「それを、あのような、通りからすぐのところでやるとは……」 「見られてもたいしたことないと思ってるのかな?」 「いえ、違うでしょう。おそらくは、周りもやっているのです」 「周りも?……そうか」  一刀は考える。  まず、白眉の一件で、流通にも少なからず影響が出ているだろう。だが、それよりも大きいのは人々の不安だ。特に食糧などは、いざという時を考えて備蓄に回す者も増えてくるだろう。  そうなると供給は絞られ、需要は跳ね上がる。当然のように価格は高騰し、それに乗じて、ああした誤魔化しを行う者も増えるというわけだ。 「あそこはちょっとおおっぴらに誤魔化してるだけで、他も一緒ってことか……」 「はい。あやつはきっと悪びれもせずにやっているのです。他もやっているから、俺もやって何が悪いと。そして、見られたとしても、他もやっているのだから、客は買うしかないとたかをくくっている。私はその根性が憎い」 「そうか……。そういうことか」  その言葉で、一刀はようやくのように愛紗の痛憤の意味が理解できた。この高潔な女性は、あの行為そのものより、あの人物の堕落にこそ立腹しているのだった。 「もちろん、ああいった行為自体、許せることではありません。しかしながら、商人とて生きていかねばなりません。ものが仕入れられないのならば、ある分をなんとかして高く売ろうというのもわかります。酷いことだとは思いますが、その程度なら、我ら、上に立つ者がなんとか世情を安定させて対処できるでしょう」 「そうだな。真っ当に商売して利が出る方が長期的に考えればいいし、なにより、そもそもの食糧の不足や高騰は、俺たちが対処すべき課題だ」 「はい。しかし、ああして見られてもそう気にもしない……おそらくは、悪の一歩を踏み出すのになんのためらいも感じぬほどのさもしい者が出て来るとなると、これは」  ぎりり、と彼女は歯を食いしばる。  あの男とて、最初は罪悪感を持っていたかもしれない。しかし、続けてやっている内に、どんどん大胆になったのだろう。蔵でやるのも面倒だと、店のすぐ近くでやりはじめた。あるいは、あの光景を見て、他の者も罪の意識を捨ててしまうかもしれない。  そうした状況を常態としてしまったのは、何か。  直接的には白眉だ。だが、それを防ぐべきだったのは、自分たちではなかったか。  そんな忸怩たる思いが、愛紗を責めさいなんでいた。  彼女の首筋がわずかに紅潮している様を、一刀はじっと見ていた。土壁のはがれかけたみすぼらしい路地の中で、黒髪の女性の憤激する様は、あまりに美しく、場違いであった。 「愛紗」 「はい」  一刀は力の入った愛紗の腕にぽんと手をのせる。せめて自分の温もりが伝わればいいと、そう思いながら。 「白眉を討とう」 「ええ、ご主人様。共に」  二人にそれ以上の言葉は必要なかった。  3.強襲  水鏡先生に見送られて襄陽を出た一行は、真南を目指していた。船を使い、夏口から巴丘へと至る案もあったが、もう少し土地の実状を見ておきたいという一刀や雛里の意見が通り、江陵までは陸路を辿ることとしたのだ。江陵からは船で真っ直ぐ巴丘に向かう予定であった。  一刀たちがそうして南下をはじめてしばらく経った、とある夜明け前。街道脇の森を入ったところに広げられた天幕に近づく人影がいくつもあった。  押し殺した囁きが交わされ、わずかに明るくなってきた空の光に、いくつもの鋼がぎらりと鈍く輝く。  そして、野太いわめき声が、森の静寂を破った。  天幕に打ちかかった男が、内側から突き出された青龍偃月刀に串刺しにされて、武器を取り落とす。  そのまま腹に生えた刃を信じられぬような目で見つめながら、男は宙に持ち上げられ、ぽいと振り払われた。刃にひっかかった腸がずるずると引き出され、ぼたぼたと真っ黒な血が地面に落ちていく。どさりと草の上に落ちた男は、一声奇妙な声をあげると、動かなくなった。 「……まったく、朝っぱらから鬱陶しい」  仲間たちの死に動揺したか、固まったようになっている男たちの前に、細身の鋼鉄の棒を携えた焔耶が、天幕からゆらりと現れた。愛紗は偃月刀で天幕の横を切り裂いてそのまま躍り出る。  その後ろから、一刀と雛里が身を寄せ合うようにして姿を現していた。 「ご主人様は、天幕を背に! 雛里はその脇にいろ!」 「二人は動くなよ」  愛紗と焔耶は一刀たちにそう言うと、それぞれ右と左に分かれて、彼らと男たちの間に立つ。後ろで一刀が静かに刀を抜くのを二人とも気配で察した。 「十人か」  愛紗はまだ暗い森の中で、襲撃者の人数を正確に把握していた。弓を持つ者はおらず、また、長柄の持ち主も二人ほどだ。 「なんだ。たいしたことないではないか」 「我らが誰だかわかっていないのだ。当たり前だろう」  どうでもいいように話す二人の言葉が、男たちの神経を逆撫でしたのか、彼らは再び喚声をあげながら襲いかかってきた。  突き出された槍をひょいと避け、焔耶は鈍砕骨を振り下ろす。それは普段使う鈍砕骨に比べれば二回りも小さい代物であったが、鈍器としての性能は十分なものだったのだろう。粗末な兜を被った頭に当たったそれは、兜ではなく、その内側に衝撃を与え、男の頸椎を見事に粉砕していた。首が奇妙に持ち上がった格好のまま、男はよろよろと進み、顔の穴という穴から、血とそれに混じったものを噴き出して地に倒れた。  彼女の右では、愛紗が偃月刀の一振りで三つの頭を飛ばしている。首どころか肩口から横に切断された肉体の下半身だけが、勢いを保ったままに森の中へと走っていく。 「なっ」 「驚いている場合ではないぞ?」  既に死んだ仲間たちと一緒に走り寄り、武器を振り下ろしていた男たちは、自分の打ち込みが鮮やかに避けられたことよりも、仲間たちのあまりの死に様に驚愕の声をあげる。その隙に側面に回り込まれたことも気づかずに。  偃月刀が男の腹を横から突き通る。その勢いはまるで減じず、横に並んだもう一人を刺し貫き、さらにその横で前に出ようとしていた者の腕に突き刺さる。 「ぎゃっ」  声をたてることができたのは、腕を刺された者だけだった。そのまま偃月刀は振られ、悲鳴をあげて吹き飛ばされる。だが、腹を割かれた二人の口は血でごぼごぼ言うばかりで、声すら出てこなかった。  その間に、焔耶は目の前の三人の武器をはじき飛ばしていた。分厚い刀はぐにゃりと曲がり、手槍の柄は折れ、剣は根本からぽっきりと折れていた。 「諦めた方がいいぞ」 「ふざけるなっ!」 「親切で言っているのだが」  破れかぶれになったのか、手に手に新しい武器――それは短刀だったり、手斧だったりした――を引き抜いて向かってくる男たちに呆れたように、だが、歓迎するように笑いかけ、焔耶は再び鈍砕骨を振るう。硬く重いはずの鋼鉄の棒が、空中で蛇のように蠢いた。  打撃音は一度だった。  たった一度だった。  だが、次の瞬間、糸が切れた人形のように力を失って膝を突いたのは三人。男たちは一様に胸をかきむしり、そして、同じように顔を赤くし、次いで青黒くして、ばたばたと地面を蹴った後で静かになった。 「さて、終わりか」  喉を潰して始末した三人から目を離し焔耶はあたりを見回す。既にその場で動くのは彼女たちだけであった。 「一人は死んでいないと思うのだが……」 「がっ」  まるで違う方向から声が聞こえてきたのに二人が振り向いてみれば、先程愛紗に腕を斬られ振り払われた後で伏せていた男が、こっそりと逃げだそうとしていたのだった。  だが、その行動は、一刀によって阻止されていた。  血塗られた刀を、ゆっくりと男の背から抜く一刀に、愛紗は頭を下げる。 「すみません、ご主人様」 「いや、問題ない」  しかし、そう言いながらも一刀は自分が止めを刺した男の背を見つめ、そっとため息のような息を吐く。 「俺の腕がもっとあれば、生きたまま止められたんだがなあ……」  彼が漏らした小声には決して気づいていないように、焔耶は愛紗の方を向く。 「小気味良い戦いだったな」 「まあ、朝飯前というやつだ」  二人が言い合うのに苦笑を浮かべながら一刀は刀を綺麗にして収めてから、雛里の横に戻った。 「大丈夫かな?」 「はい」  焔耶は死体の一つをひっくり返し、ずいぶんと明るくなった朝の光で、その顔を確かめる。そこには白く塗られた眉があった。 「こいつらも、一応白眉か」 「そう……みたいですね。でも、眉を染めるのは誰でも出来ますから……」  こわごわと死体を遠目で見ながら、雛里は首を傾げる。断定は出来ないということだろう。 「白眉を装った……いえ、白眉になるのを望んだ者たちとも考えられます」 「困ったものだな」 「黄巾以来の大勢力の発生だからな。盗賊どもにとっては、あこがれかなにかなのだろうよ」 「……大きなものに加わりたいなら、軍に入ればいいのになあ」  死体を検分しながらの一刀の感想に、焔耶は莫迦にしたように鼻を鳴らす。 「軍の訓練についていけるものか。こんな半端者ども」 「そうかな?」 「お前、兵をなめてないか? 兵というのは、軍規を守り、戦に挑む。体はもとより心の強さもなくては務まらぬのだぞ」 「いや、それはわかるけど……」  一刀は首を振る。彼とて新兵を訓練する凪たちの様子は知っていたし、兵士たちも見知っている。それが厳しい生活だとはわかっていた。  だが、それでも。 「こんな風に旅人を襲って暮らすよりはいいと思うんだがなあ……」 「……それは、やはり一刀さんの感覚が、こういった人たちとは違うからだと思います。彼らにとっては、弱い人たちを襲うほうが手軽という感覚ですから……」 「まあ、盗賊どもの心境を推し量ってもしかたありますまい。後始末をして、出発の準備といきましょう」  愛紗の言葉で皆は顔をあげ、それぞれに動き始めるのだった。 「ところで、こんなのが出て来るからには、これからは白眉どもがうようよいると考える方がいいのだろうかな?」  血で汚れた服を替えつつ、焔耶は訊ねる。彼女たちの着替えのため、一人、一刀だけが天幕の中に押し込められていた。 「そう……かもしれませんね」 「ならば、普段の格好に戻っても良いのではないか?」 「お前は普段のほうがよほど身軽な格好ではないか」  大まじめな顔で、愛紗は指摘する。そのあまりにまじめくさった顔に、一瞬焔耶は自分がからかわれているのに気づけなかった。 「お前だってそうだろ! まあ、鎧はつけていてもそう問題はないか……。しかし、手甲は加えてもいいだろう?」 「それくらいはいいのではないでしょうか」 「いまの鈍砕骨は?」 「それは、かえって敵を招き寄せる。やめておけ」 「うう……」  残念そうに唇を噛みしめる焔耶であった。  4.群盗  一刀と焔耶が馬に乗り、愛紗と雛里が馬車に乗るという当初の形で四人が街道に出た途端、大音声が爆発した。 「なんだ!?」  見れば、森の中から、あるいは、街道の先から、それぞれに適当なものを選んだとしか思えないような鎧を身につけた男たちが駆け寄ってくるところだった。まだ距離は遠いが、その腕にはめいめいに武器が携えられ、そして、なにより見渡す限り人の群れで包囲が作られているようだった。  少なくとも彼らが向いている前方は人並みでびっしり埋まっている。 「しまった!」  叫ぶなり愛紗は馬車の向きを変える。もちろん、一刀も焔耶も馬首を巡らしている。戦うにしろ逃げるにしろ、相手が待ち受けていたところでやるつもりは毛頭無かった。 「やつらは、白眉の斥候隊だったようですね……」 「戻らないので、一味全員でやってきたのか」  走りながら、後ろを振り返り、一刀は苦々しげに言う。見れば彼らを追って走ってくる男たちの眉はいずれも白く塗られている。 「なんで、こんなに拙速なんだ。斥候がやられたなら、もう一度物見をだして判断するものだろうが!?」  焔耶の疑問に、愛紗は鼻で笑う。 「先程お前が言ったではないか」 「なに?」 「こやつらは半端者なのだ。判断がいい加減でもしかたないだろう」 「面倒になったのかもしれないしね」 「……たまらんな」  焔耶はちらと馬車の荷台を見る。本来の鈍砕骨はその中にあるのだが、取り出している暇があるだろうか。 「千はいるぞ。どうする?」 「二人なら勝てるのはわかってるけど相手にしてられない。なんとか逃げよう」 「では、ご主人様は馬車に。私が馬に乗って……っ」  既に青龍偃月刀を手にしていた愛紗が雛里に手綱を任せて立ち上がろうとして、息を呑んだ。 「そんな暇はないようだな」  愛紗が見たものを、もちろん焔耶たちも見ている。それは、前方……当初の後方に位置する人の群れだった。彼らもまた一行目指して武器を振りかざし、駆けてきていた。 「回り込んでいたか」 「くっ。いつの間に」 「回り込むというよりは、私たちのほうが 縄張りに入り込んでいたのかもしれません……」  一刀は猛烈な勢いで思考を巡らせる。彼は手に持っていた六角棒をぐっと握り込んだ。 「よし、突破するぞ」  四人の間で視線が交わされ、ぴったりと呼吸をあわせて馬車と二頭の馬は再び方向を転換する。  そのまま、彼らは、追いかけてきていた白眉へ向かってまっしぐらに走り出した。 「突っ込むぞ! ワタシが馬車のために道を切りひらく! お前はワタシの横を離れるな!」 「了解!」  焔耶が鈍砕骨でびゅんびゅんと空気を切り裂けば、一刀はその横に黄龍を滑り込ませる。その背に向けて、愛紗が力強い声を張り上げた。 「ご主人様、背中には私がいます!」 「頼んだ!」  そうして、彼らは白眉の群れへと立ち向かっていくのだった。 「くう、うじゃうじゃとっ」  鈍砕骨が振られる。その途端、二人の白眉が吹っ飛んだ。だが、そこに後ろから新たな男たちが加わる。馬に乗る者がほとんどいないために、かなり有利に進めていられたが、なにしろ数が多すぎる。 「これは、千どころではないな!」 「だが、数はともかく、一人一人はなんとか俺でも押さえ込める、か」  近づいてきた男を、一刀が棒で叩くと、よろめいた隙に黄龍がその男の足を踏みつぶす。転げ回る男を、さらに馬蹄が踏みにじった。 「そのようだな。だが、後一歩足らん。馬だけならなんとでもなろうが……」  さすがに馬車ともなれば幅がある。それを通すだけの穴を開け続けるのはなかなかに厳しいことだった。 「なあ、焔耶」 「なんだ」  鈍砕骨で敵の武器をなぎ払いながら、焔耶は聞き返す。彼女は息を乱さぬよう、慎重に事を進めている。これだけの数を突破するには、粘りこそが必要とされるのだ。 「二人を逃せないかな」 「格好つけようとするな、この莫迦。お前を守って切り抜けろと言うのか? 一人で?」 「身軽な方が抜けやすいだろう?」  味方同士でぶつかるように敵を押しやり、突き倒しつつ、一刀は言いつのる。焔耶は敵の槍を受け止めつつ、一刀の顔を覗き込んだ。 「それはそうだが、その前に馬車を追わぬよう敵を引きつけなければなるまい」 「わかってるよ、でもさ」  焔耶はその表情を見た途端、それ以上言うのを諦めた。そこにあったのは、既に決意を固めた男の顔であった。 「ああ、もういい。わかった。やってみせよう」  彼女は得物を巻き込むようにしながら振るった。二人、三人まとめて吹き飛んでいた一撃が、前方一帯を弾く衝撃を生み出す打ち込みへと変化する。直に受けて後退した者が後ろの者を巻き込み、重なり合いながら何列かが倒れていく。そこに一刀が突っ込み、倒れている男たちを、黄龍がそのたくましい足で蹴散らした。」  間隙が空いた途端駆け寄ってくる周囲の白眉に向けて、一刀と焔耶は凄まじい早さで棒を振るう。めちゃくちゃに振り回されるその勢いに彼らが足を止めた途端、一刀は叫んだ。 「愛紗!」 「はい!」  青龍偃月刀で敵を屠り続けていた愛紗がその動きに馬車を進める。彼女は御者台の上に立ち上がり、偃月刀の長さを利用して、馬車に群がる白眉たちの首を次々とはね落としていた。雛里は邪魔にならぬよう、荷台に隠れて身を守っている。 「雛里を連れてそのまま逃げろ! これは命令だ!」 「そ、そんな」 「大丈夫だ。こっちには焔耶がいる。黄龍も走ってくれる。だから、行け!」  顔を歪めて一刀に抗弁しようとした愛紗であったが、周囲を見渡し、諦めたように首を振った。その動きに、一刀はにっこりと微笑んだ。 「愛紗」 「わかっております。どうかご無事で!」 「もちろん、お互いに!」  はっ、と一声あげて、愛紗は手綱を大きく振り下ろす。馬たちはその動きに答えて急に走り出した。  もちろん、それに応じて白眉たちも後を追おうとする。そこで、愛紗は手綱から手を離し、一度大きく御者台の上で飛んだ。  くるり、と美髪公の体が回転する。その名前の通りに美しい髪が、彼女の体の動きを追って流麗な線を空中に描き出す。  そして、首が飛んだ。  一度に、二十と三つ。  それが、馬車を囲んでいた白眉たちの数であった。  白眉たちが、血を噴き出しながら倒れ込んでくる仲間たちの死体をよけたり、あまりのことに棒立ちになったりする間に、馬車は飛び出るようにして速度を上げる。  そして、なおもそれを追おうとする者たちの前には、 「お前たちの相手はこのワタシだ」  血にまみれた金棒を手に、焔耶が立ちふさがるのだった。  5.山中 「ここ、どのあたりだろうな?」  ともすれば土に染みいってしまいそうな、小川とも言えぬ流れから水を汲みあげ、一刀は訊ねる。  まずはその水で血に汚れた黄龍と、焔耶の愛馬の体を洗ってやるのだ。彼自身、いまだ戦いの汚れのついた服を着ていたが、まずは馬たちを休めてやるのが先決だと考えていた。黄龍は彼にとって友達だったし、それ以上に、この状況で足を失うわけにいかない。  彼らは人が踏み行ったこともあるのか怪しい森の奥へと逃げ込んできていたのだから。 「襄陽と江陵はわかるな? 江陵は襄陽のほぼ真南だ。街道を進むと右手に山地が広がる。この山岳地帯は低くなったり高くなったりしながら益州まで繋がるんだ。漢中や、成都平原はその山地に囲まれている」  少し離れたところに座り込み、馬にくくりつけてあった荷物を下生えの上に広げて調べている焔耶が手で周囲を示す。  うっそうと茂る森の中は、既に暗い。いや、昼間であろうと日はあまりささないのかもしれない。このあたりの木々は競うように葉を生い茂らせ、太陽の光を遮っていた。 「要は、この山地は襄陽の南西にあたるということだ。いずれ東に向かえば平地に出る。東南に行くと、まず当陽あたりに出るだろうな」 「そう」  頭の中で地図を広げながら、一刀はぼんやりとした声で答える。疲労と思考のせいで、声にまで注意を向ける余裕がなかった。 「で、どうする?」 「そうだな、まずは江陵を目指そう。二人もそこを目指すだろう」 「道がなければ、襄陽に戻るかもしれんぞ?」 「それならそれでもいいさ。襄陽にはすぐに春蘭たちが来るだろうし、そちらに合流してもらってもいい」  最も優先させるべきは安全だ。二人が退くべきと考えるならそれでいい。  いずれ会えることは確信している一刀だった。もちろん、焔耶としても愛紗がどうにかするであろうと信じていた。 「まあ、あちらはあちらでなんとかしてもらおう」  言って、焔耶は周囲を見回す。一刀には木と土くらいしか見えない光景だが、焔耶にはなにか感じるところがあるのだろう。二、三度頷いて結論を出す。 「こちらは……そうだな、明日明後日くらいは山の中を行くとしよう。おそらくそうすればワタシの見知った道に出る。一日くらいのずれは見込まないとだめだろうが」 「そうか。頼むよ」  二人はそこで黙って、お互いの仕事を続けた。一刀が馬たちを洗い終えて振り向くと、いつの間にか焔耶は普段の服装に着替えていた。  あの格好の方が動きやすそうだよな、と思いつつ、彼は馬たちをおいて彼女に近づく。 「どうかな、荷物は。山の中で過ごせるだけはある?」 「干し肉に乾燥果実……。まあ、二日分はあるな。あとは、森にいる間は果実や草を摘むとしよう。道具は斧と毛布くらいだが……。書き物をする道具はいまはいらんからなあ」 「毛布をかぶって寝られるなら十分だよ」 「そうだな」  そこで焔耶は嫌そうな顔で彼を見上げる。 「それよりお前」 「な、なに?」 「とっとと体を拭いて着替えろ。屠殺場から出てきたような匂いだぞ」  一刀はへこんだ。  翌日、固い地面で眠った二人はしばらく筋肉のこりをほぐしてから出発した。午前中は馬にも乗らず、深い森の中を注意深く進んでいく。  午後になってから谷に行き当たり、川沿いの踏みしめられていない道を、時折馬に乗って進んでいく。その後、再び森の中に入った頃、それは聞こえてきた。 「あれは……なんだ?」 「あれ?」  道の状態を観察しながら進んでいた焔耶が顔をあげるのに、二頭の馬を引いていた一刀が足を止める。耳を澄ませば、なにかが聞こえてきた。  高く震え、そして、遥か遠くまで響くその音は、遠吠えに他ならなかった。 「犬……かな?」  もう一度、同じように高く、太い声が聞こえる。しかし、それは明らかに先程のものとは違っていた。  彼らは、鳴き交わしているのだ。 「や、野犬か? この山にそんなものがいるはずがない」  見るからに動揺して、焔耶は呟く。  いるはずがない、いるはずがないんだ、とぶつぶつ繰り返す様子に、一刀は腕を組んで考え込んだ。 「白眉の混乱で、街を追い出されたのかも」 「は?」 「野良犬が街や邑にいられるってのは、食べ物があるってことだよね? こぼれものがね。でも、戦乱になると……」  意識が逸らされたからか、焔耶は周囲に響く音を忘れたように彼の言葉にのっかってくる。 「食物はぎりぎりまで人が食べてしまって、あさるものがない。そういうことか」 「だろうね」  おぉーーーん。  一声、大きな吠え声が響いた。  それは奇妙に近くから聞こえるように思えた。もちろん、そんな気配が実際に近くにあれば、まず馬たちが怯えているだろうが。  それでも、さっと顔色を変えて、焔耶は足を踏み出す。 「い、一匹二匹ならいいが、群れに当たるのは厄介だ。少し道を変えよう」 「うん。賛成だ」  二人は遠吠えがしてきた方向からずれて進み出した。 「なあ……」  先を行く焔耶がぽつりと漏らしたのは、それからかなり経ってからのことだった。 「うん……」  同意するように、一刀は頷く。その顔は暗く、その声はさらに暗かった。 「近づいているような気がするのだが」 「俺にもそう聞こえる」  さらに足を速め、ほとんど駆け出すような速度になった焔耶に、一刀は声をかける。 「待った焔耶。日が暮れるまでどのくらい?」 「そう遠くない」  だから急げ、と焦れたように振り向く彼女に、一刀は首を振る。 「だったら先を急ぐんじゃなくて、身を守れる場所を探すべきだと思う」 「身を守る、だと?」  その言葉に、鈍砕骨を握る籠手がぎゅうと握りしめられ、ぎりぎりと音をたてた。 「あいつらが襲ってくるというのか?」 「夜になったらね」  焔耶はその答えにまじまじと一刀の顔を見つめた。  遠吠えが、三度。  焔耶はきょろきょろと周囲を見回すと、先程までとはまるで違う方向を向いた。 「わかった、こっちだ」  6.群れ  そこは、崖下の少し開けた土地だった。元々は、川のよどみでもあった場所なのだろう。崖が丸くえぐれていた。  そこにちょうど火災でもあったのか、あるいは樹木の病気でも流行ったか、その一帯だけが枯れた木々で埋もれていた。元気に生えている木々の列から急に倒木が現れるので驚かされるほどだった。 「よくこんなところがあったね」  一刀は枯れ木――一部はぼろぼろになっていた――をどかしながら感心する。 「木の生え方と川の流れで地形は目星はつく。木が枯れているのは先程見てわかっていたしな」 「へえ……」  彼としてはその観察力に恐れ入るしかない。焔耶はもちろん、彼以上の速度で木々を除いていく。 「しかし、籠城するなら最適だ」  ひいひい言いつつ、一刀は倒木を寄せ集める。焔耶にも言って、丸く開いた部分を閉じる壁を作るように、枯れ木を積み上げていく。 「莫迦。籠城というのは、外部からの救援をあてにしてするものだ。この場合は撃退と言わねばならん」 「まぁまぁ」  太い木を軽々と持ち上げ、大きな音を立てて横たえる焔耶に、一刀は笑いながら声をかける。 「それよりも、焔耶」  彼は手を止めて、じっと彼女の事を見つめた。焔耶も一時的に動きを止めて、彼を見つめ返してきた。その臙脂色の瞳に宿る純粋さに、一瞬一刀はその場の出来事を忘れそうになる。  その衝動を振り払い、彼は腹に力を込める。 「真面目な話をしよう」 「ワタシはいつだって真面目だぞ?」 「うん。わかってる。だから聞かせて欲しい。焔耶、犬が苦手だよね?」 「な、なにを莫迦なことを! ふざけるな!」  激昂し、鋼鉄の籠手を握り込み、振り上げる焔耶に、平板な声で一刀は重ねる。 「苦手だよね?」 「くっ……」  振り上げた拳をどうすればいいかわからぬように彼女はゆらゆらと揺らし、結局はだらりと力なく垂らした。 「認めよう。私は犬が苦手かもしれない。だが、恐怖するのとは違う。敵としたならば……別だ」  その声は震えていないし、その体もまた震えてはいない。  だが、無理をしている。  一刀はそう思うが、それを口にしたりはしない。 「そうか。でも、四つ足の獣は跳ねるのもものすごいし、牙も爪も強い。焔耶が相手にしている間に俺じゃ対処できなくなるかもしれない。だから、近づけないのが一番だと思う。どうかな」 「……それができるというなら、それがいいのではないか」  焔耶は男の言葉に自分への侮辱が含まれているのではないかとわずかに考え、それを己で否定した後、そう答えていた。  明らかにほっとしている自分がいることに気づきつつ。 「火を使おう」 「目立つぞ?」  余計な危険を招くのではないか、と焔耶は暗に示す。 「犬によってたかって噛まれたりするよりはましだろ?」 「お、おかしなことを考えさせるな」 「ごめん」  一刀は自分でも気分が悪くなった想像を頭の中から消して、体を戻す。 「倒木はもちろんだけど、ここの木立を切り倒して、枝は燃やすように、幹は積み上げて壁にしようと思うんだけど、どうかな?」  焔耶は一刀の提案に疑わしそうに木々を見つめる。既に寄せ集めた枯れ木の山を見つめ、それから決心したように頷いた。 「しかし、時間がかかるぞ?」 「急いでやるさ。それに、他にすることもないだろう?」 「……まあ、そうだな」  二人はすっかりその場を綺麗にして、さらに周辺の木立を切りひらけるだけ開いた。背後では既に轟々と火が燃え、馬たちはその背後、崖の壁際に置かれていた。  既にどんどんと近づきつつある遠吠えに、馬たちは怯えきっていた。 「木の枝に火をつけて投げつけてれば、きっと近寄ってはこない」  壁の外側に、小枝を切り払い、先をとがらせた木を埋め込む作業を終えた後、一刀は倒木で作った壁にもたれるようにして、枝を並べていた。そこにいずれは火をつけて放り投げると彼は言っているのだった。 「……本当か?」  燃えさかる炎の面倒を見ている焔耶は、こわごわと訊ねる。彼女の口数は吼え交わす声が近づくにつれてだんだんと減っていた。 「大丈夫だよ、焔耶」  一刀は枝の重さを確かめるように掌でぽんぽんとはね上げながら、優しい声で告げる。 「もし何かあっても俺がいる」 「はあ?」 「焔耶は何度も俺を守ってくれた。つい昨日だってね。今度は俺が守る番だ」 「い、いや、お前なあ……」  呆れたように焔耶は顔を歪める。この男はなにを言っているのだろう。そう思っている顔だった。 「頑張ってみるくらい、いいだろう?」  苦笑しながら言うのに、さらに渋面が強くなる。 「結果が出ぬ頑張りなど意味があるか、莫迦」 「じゃあ、せめて」  しばらく考えるようにしていた一刀は、囁くように、嘆願するように、そう呟いた。 「なんだ?」 「俺を信じてくれ」  驚いたように目を見開いて、彼女は彼を見る。  そこにあったのは、無謀でも諦観でも覚悟でもなく、ただ、信頼だった。  彼は彼女を信じている。  命を預けてもいいと思うくらいに。  ならば、彼女もそれに答えてもいいのではないか。 「……いいだろう」  気づけば、焔耶はそう答えていた。  遠吠えはある時からぴたりと止まっていた。  それは、狩人が獲物に近づいている証。  そして、ついに周囲が完全な闇に落ちたとき、それは、やってきた。 「近づいて……こないな」  闇の中に光るいくつもの目。  彼らは光が届く範囲にはけしてその姿を見せることなく、じっと二人のことを、そして、燃え上がる炎と、その背後にいる二頭の馬の姿を見つめていた。 「諦めてくれるといいんだが……」 「燃えさしを投げつけてみるか?」 「いや、いまいるところを動き出したら、にしよう」 「わかった」  刺激はしたくない。  だが、その姿が見えずに、目だけがらんらんと闇に燃えるという図はあまりに精神的にきつい。一刀はちらっと自分たちを背後から照らす炎を見やった。 「でも、火の勢いは強めて置いてほしいな。俺はここで見てるから焔耶、燃やしてきてくれない? あと、馬が暴れないよう注意してくれるとありがたい」 「よし」  焔耶は手頃な倒木を引っ張って、火へと近づいていく。普段ならなかば閉鎖された空間でこれほどの熱気が籠もるのは避けたいところだが、いまはこの熱と光が安心感を与えてくれる。 「うわっ」 「何ごとだ!」  火に倒木をくべていた焔耶は、男の声に思わず跳ねるように距離をつめる。彼女が一刀が指さす先のものを認めると、その喉から、しゃっくりのような音が漏れた。 「で、でかいな」  闇の中からぬっと出てきたその姿を、一刀はまず馬ほどもあると感じた。実際に炎が照らし出すとそこまでの大きさはないとわかったが、それでも十分に大きい。  頭の高さは間違いなく一刀の腹あたりにある。おそらく、胴の長さもかなりのものだろう。体を伸ばせば人の背を十分に超すことは容易に想像できた。  その巨大さに比してみれば体つきは細く、顔つきも細面といえる。しかし、そこに強靭なばねと精悍さを感じる。  あれを侮ってはいけない。二人の本能が叫んでいた。 「狼犬かもしれない……」  ゆったりとした足取りで、一刀たちの背後で燃える炎が作り出す光と闇の境界を歩いている姿を見ながら、一刀は思わず呟く。 「狼だと?」 「いや、狼なら同族と群れを作るだろう。たぶん狼と犬の雑種じゃないかなって」 「なにか関係があるのか?」  焔耶もそのしなやかな体躯から目が離せないようで、顔を動かさぬまま、奇妙に静かな声で訊ねてきた。 「あのボス……群れの頭目が狼犬だったら」 「だったら?」 「群れの統率力は普通の犬とは比較にならない」 「……つまり?」  その答えに悪い予感を抱きつつ、それでも訊ねずにはいられないように、焔耶の口から疑問が滑り出る。 「火を恐れずに向かってくるかもしれない」  一刀はわずかに震える声でそう告げるしかなかった。      (玄朝秘史 第三部第三十四回 終/第三十五回に続く)