玄朝秘史  第三部 第三十三回  1.黎明  流琉の朝は早い。  親衛隊の長であると同時に、魏の女王に深く――様々な意味で――信頼された料理人として華琳自身の食事を作ったり、夜の宴の仕込みを指導したりといったことも同時にこなす必要から、彼女は早く起きることを習慣としていた。  華琳の用事がなくとも季衣や、最近では恋たちの食事をつくったりもするし、そもそも料理が好きなので軍務の他に台所に詰めることは、彼女にとっても楽しいことなのだ。  その習慣は、軍の陣中にあっても変わることはない。彼女はその朝も、本陣の大天幕の最も高い柱の頂を、曙光の最初の一筋が照らす前に、目を醒ましていた。  だが、その日の目覚めは普段とはわずかに違っている。何しろ彼女は温かな腕に包まれていたのだから。  意識を取り戻した途端、彼のむき出しの胸に自分が埋もれているという事実に気づき、流琉は赤面する。  頭の上からは一刀の規則正しい寝息が聞こえてくる。その寝顔を見上げ、彼女は微笑みを浮かべた。  それにしても……どうしよう?  流琉は考える。  一刀はしっかりと彼女を抱きしめていて、身じろぎすれば、彼にその動作は伝わってしまう。  それで男を起こしてしまうのは、避けたい気持ちがあった。  彼女は瞳だけを動かして天幕の出口を見やった。まだ外の光はわずかな隙間からも入ってきていない。彼女の体内の感覚が示す通り、時刻は十分に早いようだ。  まだ、寝床を出なくても大丈夫。  それを確認して、彼女は彼の胸に体を寄せると、ゆっくりと頬をこすりつける。彼の膚の温もりを感じつつ、流琉は大きく息を吸い込んだ。 「兄様の……匂い」  それは、流琉にとって静けさと安らぎを想起させる香りだった。他人に説明するのは難しい。だが、彼女にとっては、何よりも大事な『守るべきもの』であった。  ふと、上掛けの下に隠れた己の太腿をなにか熱いものがこするのを感じる。思わず流琉は身を震わせたが、すぐにその正体に気づいた。 「あ……これ……」  薄暗闇の中、流琉の顔は真っ赤に燃え上がる。火傷しそうなほど熱いそれは、昨晩、彼女の体を何度も貫いたものだ。 「もう、兄様ったら……」  彼女もそれなりの知識を持っているし、一刀と膚を重ねてきた経験もある。男性がそうなるのは、けして不自然なことではない生理現象だと頭ではわかっていた。だが、ついついなじるような口調になってしまう流琉。 「寝てます、よね」  腿に感じるそれを意識しながら、彼女は再び彼の顔を見る。しかし、先程と変わることなく、彼は規則正しく息をたてるばかり。 「意識がないのに……こうなっちゃうんですね」  恐る恐る、流琉は手を伸ばしてそれに触れようとする。指が絡もうとした途端、ぴくんと跳ねたのに、慌てて指をひっこめる。 「兄……様?」  返事はない。彼女はもう一度、真剣な顔でそれに指を近づけ、優しく絡め取っていく。 「うわぁ……」  既に何度も触れたことがある。それでも、そんな感嘆の声が出た。固く、大きく、そして、とてつもなく熱い。こんなものが自分を押し広げるようにして貫いているのだと思うと、恐ろしくも不思議に感じられた。  だが、これに征服されているという事実がどこか嬉しいような、そんな気もする。  しかし、こうして固くしていて、辛くはないのだろうか。流琉は疑問に思う。  彼女が知る限り、人の体でこれほど固くなるのは――骨や軟骨などを除けば――筋肉の、それも鍛え上げられた部分くらいだ。それも力を込めた時の事で、ずっと固いわけではない。そこから類推すると、なんだか疲れてしまうように思うのだが、実際はどうなのだろうか。  流琉はやわやわと指を動かす。  以前、一刀には、慎重になりすぎなくてもいいと言われていたが、やはり、あまり強くこすったりするのは躊躇われた。  それでも彼女の動きは彼に快感を与えているらしく、眠ったままの一刀の息が大きく深くなっていく。何よりも、触れているそのものがさらに硬度を増し、兇悪に反り返っている。 「うれしい……ですか? 兄様」  秘やかな声。その声音が濡れていることに、彼女自身、気づいているかどうか。指の動きは複雑に、そして、より熱意を込めたものへと変化していく。  彼のものがぴくんと反応する度、彼女はそれを学んでさらなる動きを引き出そうと、手を蠢かす。指でこすりあげ、掌で包み、優しく押さえたり、もう少しで触れそうな所でひらめかしたりする。  いつの間にか、彼女は掛け布の下の暗闇にわずかに見える彼のもの――と彼女自身の手の動き――を凝視しながら、夢中になってそれをこすりあげていた。 「うーん」  小さな声をあげ、男が身をよじる。流琉の事を抱いていた腕の片方がぱたりと敷布の上に落ちた。はっと体をすくめ、動きを止める流琉。 「にい……さま?」  荒い息を吐きながら、一刀の顔を見上げれば、彼はまだ夢の中にあるようだった。寝返りだったのだろう。  流琉は、急に恥ずかしさでいっぱいになった。こんなことをしているのを一刀が知ったらどうしようと考えたのだ。しかし、彼のものはいまも彼女の手の中で元気にその存在を主張しているし、一刀自身も心地よさそうだ。  それに、と彼女は思考を進める。  一刀の周りには、積極的な女性がたくさんいる。羞恥に怯えて彼の事を楽しませて上げられずに嫌われたりするのは避けたかった。もちろん、彼女の「兄様」がそんなことで相手を嫌いになるなどということはありえないと、理性ではわかっているのだが。  流琉はそれまでよりは緩やかな手の動きを続けつつ、一刀の様子を観察する。少なくとももうしばらくは目を醒ましそうになかった。さらに言えば、彼女を抱きしめていた腕が離れたため、彼女は自由に動けるようになっている。 「ん……」  彼女はもぞもぞとその身を動かし、布の下に潜り込んでいく。体の大半が布に隠れ、その代わりに寝床の足下の側に、ぷりんと丸いお尻がまろび出る。  布があやしく波打つ。  その隙間から漏れる音は、ごくごく小さいもの。まるで、猫が水を飲んでいるかのような。 「んぅ……」  一方の一刀は夢の中にいた。  冬の朝に、たっぷりと綿の入った布団に包まれているような、そんな幸せな夢だ。だが、夢のもたらす温もりと心地好さはどんどんと強いものに変わっていく。外から加えられる刺激によって、彼の神経が覚醒を迎えようとしていた。  意識を取り戻しつつある彼が最初に考えたのが、誰だろうかということであった。さすがに何度も似たようなことを経験すれば、察しも良くなろうというものだ。  しかし、さすがに自分の男根をくわえている少女の姿には度肝を抜かれてしまった。 「流琉!?」  彼にとっては暗すぎる天幕の中で、さらに布で光を遮られた場所にいる少女を、輪郭と雰囲気で判別して、彼は奇妙な声をあげる。 「あ……兄様、おはようございます」 「おはよう。うん、それはいいんだけどね」  流琉は掛け布を取り去って、一刀に挨拶する。その熱い息が、つい先程までなめ回していた肉棒にあたり、一刀は思わず腰を小さく動かす。 「えーと、その、朝、起きたらですね」  彼が訊ねるまでもなく、頬を紅潮させた少女は言い訳のように呟く。その言葉だけで、何となく状況が思い浮かぶ一刀。 「あー、うん。嬉しいよ、流琉」 「本当ですか?」  手を伸ばすと、彼女は甘えるように彼の手首に頬擦りする。その間も流琉は、ゆっくりとだが、彼女自身の唾液と一刀がにじませた汁にまみれたものをしごきあげていた。 「続けて……くれるかい?」 「はい」  まだぼんやりとした声ながら、一刀は意思を伝え、彼女は素直にそれに従う。  ねっとりと軸全体に舌を這わせた後で、ぐじゅぐじゅと口内で攪拌された大量の唾と頬の肉で包まれる。  にちゅにちゅいういやらしい音。流琉の体温。泡立つ唾液。  そして、琥珀色のこぼれ落ちそうな瞳が、彼のことを窺うようにじっと上目遣いで見つめてくる。  その合わせ技に、一刀は思わず一声呻いていた。 「兄様っ!?」  少女は反射的に身を退いた。その目に涙が盛り上がるのを見て、一刀は慌てて口を開く。 「違うよ、流琉。気持ちよすぎて声が出たんだよ」 「え……?」 「なんだかえらく上手くなってない? びっくりしちゃったよ」  流琉は誤解していたとわかってほっとしたのか、再びその体を一刀の脚の上に預けつつ、照れたように答える。 「みんなで、練習したんです」 「練習? それにみんなって……」 「季衣と私と美羽ちゃんです。七乃さんが色々と本を持ってきて、私も沙和さんから何冊か借りましたけど」  ははあ、と一刀は心の中で納得の息を吐く。七乃さんもあれで案外知識便りだからな、と。  いずれにせよ、それは一刀に喜んで貰おうという気持ちからに違いあるまい。彼はそのことにいたく感動していた。  恋人の中でも小さい方の子たちがそれをしているという事実はどうなのか気にならないでもなかったけれど。 「ありがとう、流琉」  感謝の言葉をくすぐったげに受けて、少女は再び彼のものに挑みかかる。熱っぽく、そして実に真剣な態度で。そのことが、男を余計に昂ぶらせる。  その日、流琉と一刀は二人して朝の軍議に遅刻した。  2.討伐  荊州に入ってしばらく進むと、騒乱の気配が濃くなっていった。  漢水沿いを進軍するにつれて、大きな集団と行き当たることが多くなったのだ。世が乱れると、身を守るために街道や水路を使う集団の数は減少し、かえって一集団の構成人数は増加する。  そうして、行き交う者全てを警戒しつつ、人々は暮らしているようであった。  もちろん、一刀たち率いる軍団には、誰もが関わることを避けようとした。たとえ白眉を討つためのものだとわかっていても、関わり合いになりたくはないのだろう。それこそ、いつ白眉とぶつかって戦闘が始まらないとも限らないのだ。 「しかし、もっと早く白眉と当たると思っておりましたが……」  黄龍にまたがる一刀と並ぶように馬を進めていた愛紗が首をひねる。黄巾の時は、もっと手当たり次第だったような記憶があるのだが、白眉の動きはそういうものでもなさそうだ。  ただ、あの頃は、愛紗たちは身動きの取りやすい義勇軍であり、情報は外からもたらされるものであった。そして、こんなに多数の訓練された軍が動くということもなかった。単純に比べることは出来まい。 「こっちも動いてるからね。相手もかなりの数が集合してるんだろう。ただし、なんと言っても素人集団だ。数が多くなると、どうしても動きは鈍重になる。その代わり、動き始めると、止まる術を本人たちも持たないかもしれないが……」 「厄介ですな」 「まあ、それを鎮めるために俺たちがいるわけだしね」  言いながら、一刀は北方で同じように鎮圧の軍を進めているはずの華琳たちの顔を思い浮かべる。北方はなにしろ三軍師をはじめとして様々な人材が揃っているし、なにより華琳が率いているのだ。手抜かりがあるわけもない。だが、それでも戦は戦。心配をしないでいられるはずもない。  それにも増して気がかりなのは、中央の動きを詳しく知らぬまま、涼州で戦い続けなければならない翠たちや、白眉の大軍団相手に奮戦しているであろう白蓮たちのことだ。  さらに、一刀の名代として呉に派遣している詠のことも案じられる。  いずれも実力者ばかりであり、その働きに不安などないが、同時に彼にとってはとてつもなく大事な人々である。  考えてみれば、彼が深くつきあう面々はいずれもいまや戦いの場にある。幾人かは三国の都にいるが、それとて戦の支援や、それを円滑に進めるための政に忙殺されていることは想像に難くない。  いつかゆっくりとできる日々が来るだろうか、と考え、彼は周囲を進む軍の動きをじっと見る。  そんな日が来ることがあったとしても、そう近い未来ではなさそうであった。少なくとも、彼らが揃って一息つけるのは、土地の人々や兵たちより遅れるであろう。  そんなことを考えているうち、焔耶が駆け寄ってきて声をかける。どうも朱里が皆を集めようとしているらしかった。  用件を伝えてすぐに馬を返す黒衣の将軍の後ろ姿を見やりつつ、一刀も黄龍の首筋をなでて、馬首を巡らせる意思を伝える。 「さ、行くか。俺たちの仕事をしに」 「はい」  そうして、しっかりと頷く愛紗と共に、一刀は蜀将たちの集う方へと向きを変えるのだった。 「三万……ですか」 「はい。東進を続けているそうです」  流琉の確認に、朱里は頷いて改めて説明する。彼らの進む先、つまりは東方に、さらに東を目指して進む約三万の軍があるらしい。 「そいつらは、北上してきたのかな?」 「いえ、そうではないでしょう。このあたりで発生した白眉集団がいくつかあったという報告がありましたが、それが消えていますから……」  雛里が一刀の言に首を振る。言葉にせずとも彼女が示したい事はわかる。彼と愛紗が先程話していたとおり、彼らの進軍や、魏軍の南下気配を察して、対抗するために一つにまとまったのであろう。 「荊州の白眉の本隊は、さらに南を中心として動いている……。ある意味取り残された連中か」 「あるいはぐずぐずと蜂起を先延ばしにした半端者や、尻馬に乗ろうとする賊どもだな」  蔑むような声で言い捨てるのは、星と愛紗。二人は視線を交わすと、鏡に映したようによく似た不敵な笑みを浮かべた。 「いずれにせよ、そいつらを叩けば、襄陽周辺はひとまず治まるということか?」 「そうですね。この後、北から魏軍が――春蘭さんが来ますから、それが駐留すればなおさら動くことは難しくなるでしょう」 「その後は、はぐれた連中を鎮圧しつつ南下すればいいですね」 「その分、南にはうじゃうじゃといそうだがな。……ふん、腕が鳴る」  焔耶と雛里、流琉が会話しているのを聞きながら、一刀は地図を眺める。焔耶が言ったのはかなり広い意味合いだろうが、東進する集団の先には、荊州の中心とも言える大都市、襄陽があるのも確かだ。 「狙いはやっぱり、襄陽かな?」 「最終的にはそうだと思います」  地図の上に指を置き、とんとんと襄陽の位置を叩きながら独りごちると、朱里が真剣な顔で同意した。  荊州一の大都市。そこには物資もあれば、人もいる。白眉が狙うのも理解できる。ただし、本気で襄陽を陥とそうと思うのならば、あまりに数が少ない。  そのことを口にすると、朱里は腕を組んでしばらく考えてから、言葉を紡ぐ。 「襄陽の近傍に至るまでに、もっと集める予定なのかもしれません。あるいは、彼らの性格からして、城を囲むまでもなく、近隣の邑から略奪して南下してしまうことも考えられますね」 「私は後者の予想を指示します。荊州の本隊が完全に態勢を整え、北上を開始したときの第一目標が襄陽だと思いますから……」  一理ある。皆が朱里と雛里――蜀の頭脳たる二人の予想に納得したところで、話は実際の戦い方に移っていく。 「樊城、襄陽にも兵はいる。挟撃、という手もありますな」 「それは……まあ、出来るね。ただ、時間がかかるし、襄樊に被害が出ると困る。俺としては奴らの狙いがなんであれ、襄陽には近づけたくないけどな」 「いずれにせよ襄陽にも樊城にも警戒態勢は取らせておきたいですね」 「それはそうですね。使者を出しましょう」  そんな風に話は続いていく。結局、襄陽と連携する手間をかけたりせずに、とっとと打ち破ってしまおうという結論に至った。戦いたくてうずうずしている武将陣と、被害を広げたくない者たちの思惑が一致した形であった。 「それでは、今日の午後出来るだけ足を速め、早い内に野営。深夜からさらに兵を走らせて包囲し、夜明けに敵を討つ。この段取りでよろしいでしょうか」  細い声ながら、しっかりと雛里が作戦の概略を告げるのに、皆が頷き、将たちはそれぞれ細かい打ち合わせを始める。  その時、すっと一刀の横に立ったのは、朱里。 「一刀さん」 「ん?」 「この戦い、負ける恐れはありません。しかし、近隣を騒がせることは確実。事が終わったら、兵の興奮を静め、人々を慰撫するために三姉妹に公演をお願いしたいのですが」  一刀はその提案に納得して頷く。 「用意させるよ」 「彼女たちも大変だとは思いますが……」  申し訳なさそうに顔を曇らせる朱里に、一刀はぱたぱたと手を振ってみせる。 「いやいや。天和たちは歌うことが大好きなんだよ。普段は疲れたとか面倒とかぶーぶー言うくせに、いざ歌わずに休んでいろって言ったら、すぐに歌いたい踊りたいって言い出すんだから」  そう語る男の様子はとても穏やかで、そして、同時に誇らしげでもあった。その信頼に溢れた態度は、見る者に羨望を抱かせるほど。 「もちろん、彼女たちの労はねぎらってあげないといけないと思うけどね。そうそう、これが終わったら、桃香からもできたらなにか……」 「はい。そこは考えておきます」  彼の言葉に了解の意を伝えつつ、その態度に二つの異なる心情を抱く朱里。一つは、好もしさ。そして、もう一つは恐怖。  北郷一刀という男の歌姫たちに対する信頼に、温かな気持ちを抱きつつ、彼女たちの実力やもたらすものと、その人物と深く繋がりあう彼の存在、ひいては魏という国の懐の深さと強さに恐れを感じる。  そんな己の心の動きに、理性ではしかたのないことだと承知していても、どこか寂しいような苦い感覚を覚えずにいられない朱里であった。  3.襲撃  翌朝――否、まだ朝とは言えぬ時間から、一刀は焔耶と共に街道脇の丘に伏せていた。背後には同じように身を隠す母衣衆と、焔耶配下の部隊がいる。 「ええい。星たちはまだ動かんか」 「まあまあ。落ち着きなよ。朝日が差したら、って申し合わせだろ?」  いらいらと籠手で地面を叩く――不思議なことに地面はたしかにえぐれているのに、わずかな音しかしなかった――焔耶を、一刀はなだめようとする。 「まったく。なんで、ワタシがお前のお守りなのだ。お前の面倒を見るのは、愛紗の役目じゃないのか?」  ぶつぶつ言う声は、一刀のごく近くから聞こえてくる。なにしろ丘の上のこの場所では、身を隠すための空間は限られていて、二人は寄り添うように腹ばいになっているのだった。  彼女が動く度に、ふんわりと甘い香りが漂ってきて、一刀としてはどぎまぎしているのを察知されないかと気が気でない。 「おいおい。お守りって。予備隊も大事な役目だろ。戦場の最後の一撃になることだってあるんだし」 「そんなことはわかっている。わかってはいるが……」  焔耶は一刀のお守りと言ったが、実際には一刀の言葉通り、予備の部隊として配置されているのだった。騎兵である母衣衆の突破力と焔耶の部隊の突進力は、戦いの最終局面や思わぬ事態となった場合に大いに役立つと判断されたのだ。  しかし、その役割上、一番槍はおろか、正面からぶつかることもないだろう。そのことが焔耶には不満なのであった。 「それよりも、見なよ」  一刀は、遥か遠くに見える敵陣の灯りを指さす。 「なんだ?」 「静かすぎると思わない?」 「寝てるんだろ? それに、ずいぶん遠い」  時間的には彼女の言うとおりだし、襲撃を悟られないよう、各部隊とも距離をとっている。 「うーん。なんていうかなあ……」  それでも何となしに覚える違和感を、一刀は切り捨てることが出来ない。これもまた用心のためと、斥候をそれほど近づけていないことが悔やまれるほどであった。 「もう少しすれば、空も明るくなる。そうすれば何かあるならわかるだろう。さすがに逃げられてはいまい」 「まあ、さすがにそれはね」  言いながら彼はかがり火の列を目で追う。あの灯り一つ一つの周りに、白眉はどれほどいるのだろうか。  彼が何処かひっかかりを感じて首をひねっている間にも、時は着実に過ぎ去っていく。黒一色だった空は、紫の色を帯び始め、そこからさらに明るい色へと変化していこうとしていた。 「……あれ?」  次に疑問の声をあげたのは焔耶であった。思わず上体を起こそうとして、斜め上方にあった灌木の枝にあたりそうになり、慌てて姿勢を戻す。そのはずみに勢い余ったか、彼女は一刀の上に覆い被さる形になってしまう。 「わわっ」  肩口になにかやわらかい圧迫感が生じ、熱い息が首筋にかかる。そのことに驚いた一刀が身じろぎすると、強い叱責が降ってきた。 「う、動くな莫迦。すぐにどくからおとなしく、ひゃあんっ!」  その場にはあまりにふさわしくない艶めかしい声が漏れ、一刀はいっそう動揺する。 「お、お、俺、何もしてないよ、今回は!」 「わ、わかっている! だから、動くな。ん……やっ、すぐ、はなれ……」  妙に艶っぽい吐息を放ちつつ、焔耶はなんとか身を離す。その下で男は硬直しきって指一本動かさぬようにしていた。 「そ、そ、それで何か?」 「い、いや、見間違いだとは思うのだが……」  二人とも直前の出来事には触れず、話を進めようとする。暗闇を見透かすように目を細めた焔耶は、しかし、疲れたようにため息を吐いた。 「なに? 俺にはまだ暗すぎて見えないんだけど」  何とか目を凝らそうとする一刀であったが、彼の視力では闇の中に浮かび上がる天幕の影くらいしか見て取ることが出来ない。 「お前の言うとおりだ。静かすぎたし、火の列が整然としすぎていた。疑うべきだったな」 「いや、だから、なにが……」  悔しそうに言う彼女を問いただそうとして、一刀は言葉を失う。天幕群の周りに高々と掲げられた旗の数々を、ようやく彼の目も認識し始めたのだった。 「あ、あれは……」 「うむ。そうだな」  へんぽんと翻るのは、深い青の旗。ずらりと並ぶ旗は、実に規則正しく正確に幾何学的な図形を描いている。 「あそこにいるのは、魏軍だ」  そして、中央に高く掲げられるのは、夏侯の旗印。  魏の大将軍、夏侯惇の部隊がそこにいた。 「はーはっはっは。遅い、遅いぞ、お前たち」 「春蘭!」  駆けつけた一刀たちが見たのは、見事に張られた陣の真ん中で、七星餓狼を突き立て、あたりを睥睨するようにしている隻眼の将軍の姿であった。  彼女は続々と集まってくる将たちを、からからと笑い飛ばす。 「あの、春蘭様、いつの間に?」 「ああ。南下していたら、なんだか妙なやつらがいたのでな。成敗した」  流琉の問いに軽い調子で答える春蘭。 「簡単に言ってくれるなあ」  一刀は呆れたように呟く。春蘭の率いる軍は一刀たちのそれよりは数も多いし、平均してみれば、練度でも勝るだろう。だが、まさか彼らが包囲を形成する一晩のうちにあっさり倒してしまうとは。 「簡単だったからな。敵の大半は見張りも立てずに寝ていたぞ」  本当に言葉の通り簡単だったかどうかはともかく、相手の虚を突いて短時間で陣を占拠してしまったのは確かなようだった。後で一刀たちも確認するのだが、元々白眉が使っていたらしいみすぼらしい天幕がいくつも陣の後方に広げられ、そこには眉を白く染めた捕虜がぎっしりと詰まっていた。 「その後、陣を整えながら見ていたから、お前たちがこの陣を襲おうと動いているのももちろん知っていた。おかしくてしょうがなかったぞ」  はっはっはと呵々大笑するのに、皆は言葉もない。その中で、一人、一刀が苦々しげに口を開いた。 「同士討ちでもしたらどうするつもりだったんだよ」 「我が軍にそんな間抜けはおらんだろう」 「くう、春蘭にそんなことを言われるとは!」  地団駄を踏んで悔しがる一刀などは発散できてまだいいほうだろう。朱里や雛里などは、起きた事態をしっかり把握するにつれて、どんどんと表情を暗くしつつある。 「だいたい、お前たち、進軍が遅すぎじゃないか? このあたりはもう治まっているものとばかり思っていたがな」 「色々……あったんです」  さすがに発言しておかないといけないと思ったのか、朱里がかすれた声でそう言う。 「ああ、北郷が襲われたりとかか?」 「それだけじゃないけど……。まあ、地和たちの公演をやりつつだからね」 「まったく、ぐずぐずしおって。ともあれ安心しろ。これからは、この私がしっかり指揮してやるからな、うん」  そうして、また、春蘭は大きな声で笑う。 「大船に乗ったつもりでいるといいぞ」  どんっ、と大きく自分の胸を叩く彼女の姿に、無言で顔を見合わせあうことしかできない諸将であった。  4.京師  天宝舎。  それは、魏の首脳部の子供――実際には北郷一刀の子供たちを養育するための棟である。だが、いまやそこは、魏の、そして漢の政の中心ともなっていた。  現在、洛陽の最高実力者、華琳は白眉討伐に出て不在。その留守を預かるのは、夏侯妙才――たったいま眠りに就いた幼子をその腕に抱く秋蘭その人なのだから。  桔梗が成都に戻り、南蛮勢が故郷に帰ったために、天宝舎の子供の数はめっきり減っていた。そのため、全ての子供を一室で面倒をみるようになっている。そこにいるのは、洛陽の守将を務める秋蘭と、めいど服姿の月、同じく黒基調のめいど服を着た仮面の女性――冥琳の三人。  いまや、この国の舵取りは、この部屋で決せられていた。 「白眉討伐の方は、どうかな?」 「まだまだこれからだな。北も南もな」  ようやくお昼寝にうつった子供たちを眺めつつ冥琳が訊ねると、秋蘭は寝息をたてる満天星を寝台に寝かしてやりながら答える。 「今年中に終わるでしょうか……?」 「そこは大丈夫ではないかな。黄巾も半年ほどだ。それよりも大変なのは後始末だろう。白眉としてのまとまった動きはなくなっても、賊は消えて無くなるわけではない」 「黄巾の場合、我らが吸収したのと同様、割拠した群雄がそれぞれに取り込んだ部分もあるが、今回は三国が吸収せざるを得まいな。まあ、鍛え直して兵になるのなら、それもよしだが」 「しかし、財政を圧迫しないだろうか」 「といって放り出すよりはましだ」  寝台を囲むように三人は座り、目線は子供たちに向けたまま、会話が続いていく。 「それはそうですね……。庶人の皆さんが怖がったり不安になったりするのが一番困りますから……」 「うむ。心情的にも実際的にもな」  世情が不安定になり土地を離れる者が増えたりすれば、税収が減ってしまうし、混乱した情勢では商いの規模も減って、国家の基盤が弱まる。それ以上に、守るべき者たちを守れないことほど、彼女たちにとってつらいことはない。  だが、秋蘭は首を振って、その懸念を振り払うようにする。 「それよりも、近々の課題は、洛陽にあるな」 「ほう?」 「やはり朝廷というのは、一筋縄ではいかん。……魔窟だな」  重苦しい物言いに、沈黙が落ち、しばらくして、おずおずと月が訊ねる。 「また……華琳さんや、ご主人様を……?」 「いや、今回はそうではない。その逆……」  そこで秋蘭は言葉を切り、考え込んだ。 「いや、果たしてそう言えるのかどうか」 「どういうことでしょう?」 「董承が失脚したことにより、その娘も貴人から除かれた」  貴人は皇妃の位である。皇后ほどの影響力はないが、けして侮れるものではない。董承の権力の源泉のいくばくかは献帝の貴人たる娘にあったのだから。 「それに乗じて皇后も廃しようとする動きがあるのさ」  冥琳と月は揃って首をひねる。秋蘭の言った状況は、たしかに宮廷での陰謀としては問題なのかもしれないが、手を出すほどのことなのかどうか。 「どうも、そうすることで華琳様に阿ろうとしているらしい」  肩をすくめつつ言った彼女の言葉でようやく二人も事態を把握する。思わず寝台の子供達から目を離し、秋蘭の顔を窺う月と冥琳。 「まさか、次の皇后に、華琳さんを!? それはさすがに……」 「……いや、その顔つきだと違うようだな」  眠りながら、母の指をきゅっと握ってくる満天星のことを見つめつつ、秋蘭は苦笑いを浮かべる。 「当たり前だ。そんなことが企まれていたら、問答無用で叩き潰しているさ。文字通り、な」 「となると……親族をあてるか」 「妹御だろう」 「え? 華琳さんって、妹さんがいらっしゃるんですか?」  そんなに近しい親族がいるのなら、名前を知っていてもいいだろうと思う月だったが、記憶をさらっても、そんな話を聞いた覚えがない。 「血は繋がっていないさ。御父上、曹嵩殿の養子だからな」 「へえ……」 「しかし……」  双子の娘たちのお腹に両の掌をのせながら、冥琳は皮肉げに唇を歪める。 「やっているほうは、華琳殿の立場を強めると思っているが、大きなお世話もいいところだな。害のほうがよほど多い」 「でも……あの世界に生きている人達は、きっと……」  月はぽつりと独り言のように呟く。その言葉の重みに、秋蘭と冥琳はちらと目を見交わした。 「実際の所、妹御にしても、どなたを狙っているのか。……あるいは、当人すら知らぬところで動いているのか。そのあたり、探ってはいるがなかなか」 「巻き込まれてしまっているとしたら……その方もお気の毒ですね」 「うむ。実の妹ではないと言っても、華琳様のご家族。私としてもなんとか穏便に事を収めたい。だが、本格的に動き出す前になんとかせねばならん」  頭の中の知識を掘り出すように斜め上に視線をやっていた冥琳が、ようやく思い出したように訊ねる。 「現在の皇后は……伏氏の出だったか」 「ああ、そうだな。父は伏完、母は陽安公主。自身も漢室の血を引く名家の出だ。とはいえ、名ばかりで特に政治力があるわけではない。おとなしくしていてくれるので、我々にとっては実にありがたい存在だよ。これを取り替えようなどとんでもない」  その評価に、闇色の仮面の奥で楽しげに目が細まる。 「なんだか悪人の物言いに聞こえるぞ」 「しかたあるまい」秋蘭は小さく笑って「形だけ見れば、君側の奸という見方も出来るからな。しかし、それでも現在の朝廷が狭い世界での陰謀に明け暮れてまともな統治能力を持たぬ以上、この国を任せておくわけにはいかん」 「いまの朝廷と華琳殿では、比ぶるべくもない、か」  二人がきわどい会話をしている間、賢明にも月は無言を貫く。 「そのおとなしい伏氏を、少し持ち上げてやればいいのではないか? どうせ実権はないのだ。名目だけで押さえ込めるなら、安いものだろう」 「ふむ……」  目線をどことも知れぬ空にさまよわせ、冥琳の言ったことを考えてみる秋蘭。要は、伏皇后を曹魏も支持していると示すことが出来ればいいのだ。そうすれば華琳に取り入ろうと愚かな企みを進めている連中は、今度は伏氏をもり立てようとするだろう。それで実際には華琳にいい印象を与えたりはしないのだが、そこまで面倒は見られない。 「伏完さんは、いまはなんの官についてらっしゃるんですか?」  掛け布を蹴飛ばしてしまった木犀に布をかけ直してやって月が訊ねるのに、秋蘭はさらに思考を進める。 「たしか、侍中だったかな。ふむ。適当に位を進めて様子を見るか」  そうしてもまだどうしようもない企てが続くようなら、改めてその動きを潰せばいい。彼女はそう考えて、ふうとため息を吐く。  それとあわせるように、満天星がふわ、と声にならぬ声をあげた。彼女はその様子を温かな瞳で見つめながら、暗い調子で続けた。 「まったく、桂花まで出て行ってしまうのだからな。私一人に全部押しつけて」 「それだけ信頼されているのさ。それに……」 「白眉は、早い内にどうにかしないといけませんしね」  愚痴をこぼす彼女に、他の二人は真剣な声で慰めを与える。もちろん、秋蘭自身がそんなことはしっかりと理解していることは、その場にいる全員がわかっていることではあったが。 「それはな。白眉も、北伐も、はやいうちに……。しかし、次々と起きるものだな」  半ば呆れたように、秋蘭が言う。それは彼女にしてみれば、単なる感慨に過ぎなかったのかもしれない。けれど、それに対して決然とした表情で答える者があった。 「でも……私は、いまのほうがまだいいと思います」  秋蘭と冥琳は、ゆっくりと、しかし張りのある声を発する月をじっと見つめる。 「昔は……つい数年前までは、みんなが自分たちの主張を奉じ、自分たちのやり方を押し通そうと相争っていました。それに比べれば、ずっと放置されてきた涼州をしっかり治めるためだったり、白眉の混乱を収めるためだったり、色々ありますが、皆が協力して動く、いまの状況のほうが、よりよい状態に向かっていると思うんです。もちろん、問題は出てきますが、それでも、みんなで……」  そこまで言って、はっと気づいたように月は口に手を当てた。 「すいません。身を隠している私なんかが偉そうなことを……」 「いや」  秋蘭は月の言葉を遮る。その唇に、淡い笑みが乗る。 「私もその意見に賛成だ。もちろん、現状とて色々と意見はあるだろうが、そういった異なる意見も受け入れるだけの度量を、いまの三国の女王たちは持っているはずだ。英傑たちが血を流して力を削るよりは、いまのように難局に皆であたるほうが、遥かにましだ」  同意するように頷きながらも、冥琳はからかうように明るい声を出す。 「おやおや、貴殿は華琳殿による一極体制を支持するものと思ったがな」 「華琳様がそう望むなら、な。だが、いまの三国の均衡も華琳様がそう望まれて生まれたものだ。ならば、それを支えるまでさ」 「潔いものだ」 「そうあるよう努めているさ」  くすくすと笑いあう母親たちを、月は穏やかな目で見つめている。 「まあ、まずは……些末な事案でも一つずつ片付けていくしかないな」 「しかたあるまい。国事なぞ、そんなものだ」 「がんばりましょう」  三人は頷きあい、そうして、すやすやと眠る子供たちの横で、政は進められていく。  5.慫慂 「雛里だけ先行する?」  大きな帽子で顔を隠すようにしている小さな軍師の言葉を聞いて、一刀と愛紗は顔を見合わせた。  一刀の天幕を訪れた雛里の言葉は、二人の意識に当惑しか生まなかった。 「はい。桃香様のところに行くべきだろうと思いまして」 「桃香のところに……か」 「知っての通り、現在、荊州の蜀軍本隊には、桃香様と鈴々ちゃん……あれ、一刀さん?」  事前に言うべきことは考えてきたのだろう。用意していたらしい言葉を紡ごうとしていた雛里は、しかし、途中で調子を変えて、小さく握った拳を顎にあてて何ごとか気がかりがあるように一刀の方を見た。 「なんだい?」 「鈴々ちゃんに真名は?」 「残念ながら預かってないね。もちろんわかるけど……」  そもそも彼女とはあまり話したこともない一刀であった。 「そうですか……。では、改めて。桃香様と、張将軍しかいません。実戦だけを考えると問題はないのですが、白眉がどう動くかや、魏軍、呉軍と連携することを考えると……」 「ふむ?」 「あの、ご主人様。桃香様も、張飛も、その……あまり事務仕事が得意ではありませんので……」  愛紗は苦笑いのような表情で、よくわかっていない一刀に補足する。雛里も小さくこくりと頷いていた。 「そうなんだ?」  季衣みたいなものか。  そういえば、蜀の頭脳労働は朱里と雛里、この二人に極端に偏っているという話だったか。一刀はそんなことを思い出す。 「まあ、軍師がいるといないとじゃ大きく違うし、こちらには朱里がいるわけだから、雛里が桃香のところに行きたいというのはわかるよ」 「はい。それで、ですね」  そこで、彼女は一つ大きく息を吸い、真っ直ぐに一刀の事を見つめる。 「一刀さんも一緒に来ませんか?」 「俺が?」  雛里の申し出に素っ頓狂な声をあげる一刀。だが、それに動揺することもなく、彼女は己の言葉の意味を開陳する。  その説明によると、荊州での軍事行動は三国の軍の綿密な連携が必要となるという。三国の権益や国境が絡み合う地帯だからという生臭い政治の論理はもちろんのこと、実際面でも、それは必須となるのだと。  一刀たちが本隊であると予想したように、荊州の白眉は大規模に組織化されている。これが本当に本隊であり、首謀者と目される天師道たちもまたこの地にあるとすれば、それを一気に倒すことが肝要となろう。各軍が同時に攻撃をかけ、首魁を取り逃がさないようにしなければならない。  そこで求められるのは、三国の足並みを揃えること。  各軍の指導者たちはそれぞれに有能な軍人であり、政治家である。しかし、それだけに誇り高く、己の行動を他国の者たちに制限されるのを好まない。  それを調整するのに、現在荊州で最も適しているのは一刀であろうと、彼女は告げるのだった。 「いずれ三軍が集結する局面もあるでしょう。その前に……」 「俺が桃香たちと……それに穏や明命と打ち合わせをしておくべき、か」 「はい」  春蘭と合流した今、魏軍の指揮に不安はない。各国の調整のために先に手を打っておくというのも悪くはない。  だが、と一刀は思う。雛里の意図はそれだけではないはずだ、と。 「愛紗も、だよね?」 「それはそうでしょう。私がここに残る意味はありますまい。ご主人様をお守りする必要もあります」  確認するように問いかけると、愛紗自身が不思議そうに口を挟んできた。彼女の様子を楽しそうに横目で見やりつつ、一刀は続ける。 「そう。愛紗も一緒だ。つまり、雛里は桃香に早く愛紗を会わせてやりたいわけだよね?」  そう指摘すると、少女の顔には赤みが、当の愛紗の顔には驚きが広がった。 「……否定はしません」  その答えに、男の唇に優しい笑みが乗る。 「実にいい提案だ。三姉妹の面倒を流琉たちに任せることになるが……」 「そのあたりは、皆と相談すべきかと思います。しかし、その前に大きな問題があります。問題と言うよりは、危険と言うべきでしょうか」  雛里は声を固くして言う。なにか大事なことなのだろうと、一刀は先を促すように頷いた。 「荊州には白眉が多数群れています。さらに、私たちの進軍により、その活動範囲は狭められ、そのために密度は高まっているでしょう。各軍は街道を確保しようとしておりますが、全てを見張り続けるのはとても不可能です。つまり……」 「俺たちも白眉と遭遇するかも、か」  たしかにそういうこともあり得る。万を超えるような集団は周囲に見受けられないが、白眉の特性として、いつどれだけ集まり始めるか予想がつかない。まして、比較的小さな一味なら、さらに溢れているだろう。  いまのようにまとまって進軍している時ならともかく、少人数ではそれも脅威となる。 「はい。危険です。しかし、危険だからこそ得るものもあります。軍が進む前に土地の現状や白眉の動きを探る事が出来れば……」 「確かになあ……」  一刀は顎をなでながら考える。雛里の言うことは尤もであるが、さて、実際どうすべきか。そう考えていると愛紗が口を開いた。 「戦場で、将が状況を把握していることは大きな利点であり、勝利の条件ともなろう。しかし、将が自ら斥候となったりはしない。なぜなら、それで将が失われれば、損失は取り戻しようがないからだ。いま、雛里が言うのはその愚を犯すことではないか?」 「それは……そうかもしれません」 「先行するというなら、連れて行ける人数は多くあるまい。多くなればなる程、軍としての力は増すが進行も遅くなる。速度の利を得るなら、せいぜい数百人。ご主人様配下の母衣衆程度だろうか。白眉どもとあたるには数が少なすぎる」  雛里自身もよくわかっているのだろう。愛紗の言葉に彼女は反論しようともしなかった。その代わり、きっぱりと宣言するようにこう言った。 「無理にとは申しません」  しばらく静寂が続き、一刀は頭をかきながら訊ねる。 「俺が行かないと言っても、雛里は行くのかな?」 「……朱里ちゃんには止められています」  朱里としても、その有用性は理解しても、雛里を失う危険を冒すわけにはいかないというところだろう。しかし、その言い方からすると、自身の意志は固いように思える。 「ふむ」  一刀は無言のままの愛紗と視線を交わしてから雛里に視線を戻す。 「少し考えさせてもらうよ」 「はい、もちろんです」  その場はそういうことになった。  6.樹上  夜半、春蘭の軍と合流したことで膨れあがった陣の中を歩いていた男は、大ぶりな木の上に一つの影があるのを見つけた。闇の中に白く浮かび上がるようなその人影は、張り出した太い枝に腰掛けて、酒杯を傾けているのだった。 「こんばんは、星」  驚かせないように慎重に声をかける。護衛の母衣衆が音もなく離れていくのが気配で察せられた。 「おや、これは」  歓迎するように、彼女は杯を掲げる。翼のような袖が、一段高い枝からつり下げられている灯りに煌めいた。 「あがってきますかな?」 「いや、さすがにそれは。星みたいに身軽じゃないからね」  星の座る場所は、それほど高いというわけではないが、それでも人の背丈の倍ほどはある。夜中にそこまで木登りする気にはなれなかった。 「まあ、そう遠慮なさらず」 「いや、遠慮っていうほどじゃ……って、うわっ」  一刀はいきなり感じる浮遊感に声をあげる。事態を把握できないまま、彼はいつの間にか星の隣で枝に腰掛けていた。 「へ? いま、なに? え?」 「そう驚きめさるな。私がひっぱりあげたまで」  言われてみれば、彼の脇の下に持ち上げられた時の衝撃の余韻が残っていたし、星の座っている場所もわずかに先程とは違う。おそらく、枝に脚をひっかけて鉄棒の要領で彼を引っ張り上げたのだろうと一刀は推測する。  しかし、そんな軽業師顔負けのことを、彼の側の協力もなしにあっという間にやってのけるとは。 「すごい力だなあ」 「力はそれほどいりませんよ。大事なのは力を入れる向きと、機を見ることですからな」  なんでもないことのように言う星に、一刀は唸る。彼女が口で言うほど簡単ではないはずなのだから。  その時、彼の背を支えるように彼女の腕が回っていることにふと気づいた。幹の側に彼の体を置いてくれたから落ちる心配はまずないはずなのだが、その気遣いに一刀はなんとも言えないくすぐったさとその裏腹のうれしさを感じる。 「それよりも、一献いかがか?」  一刀のための杯を懐から出して差し出す星。その動作の流れるような美しさに、彼は目を惹かれる。なぜ、この人物は、こんなにも当たり前の動作を、これほどまでに優雅に出来るのだろう。 「うん、いただくよ」  一刀がもぞもぞと尻のおさまる場所を調整し終え、姿勢が安定したのを見て取った星の腕が離れ、どこからか竹筒を取り出す星。注がれた酒で口を湿らせてから、一刀はあらためて呟く。 「やっぱり武人のみんなはすごいね」 「それが役目ですからな」  満更でもなさそうに、彼女はそう返してきた。 「恋なんて黄巾三万を蹴散らしたっていうからなあ」 「いや、さすがにそれは桁違いというもので……」 「星だったらどのくらい?」  その問いに星の片眉が跳ね上がる。しかし、一刀の表情を見て、彼女の唇にも面白がるような笑みが刻まれた。 「そうですな……。知っての通り、集団と対する場合、その力は単純な個々の総計にはなりません。意気が上がれば個人の武を合わせた以上のものとなりますし、心が挫ければ、個人の能力を発揮するまでもなく潰走してしまうこともある。全てを倒す必要はないことも多い。そういう意味で、恋の如き名の通り方は多数を相手にするときには大きな力となりますな」  そこで、星は腕を振り、くるりと袖を腕で巻き取る。 「私もそれなりの者ですが、やはり万の単位はなかなか。せいぜいが千の単位でしょうな」  それでもとんでもない話だと一刀は思う。しかも、彼女は謙遜しているかもしれないのだ。いや、確実にしているだろう。 「それも白眉や黄巾相手なれば、ですな。正規の軍相手ならさらに落ちましょうよ」 「そういうもの?」 「ええ。兵というものはそのために訓練を重ねているのですから。一人が倒れても隊を失わぬよう、戦列を崩さぬよう――つまりは生き残れるよう鍛えられております。いかに私でもそれを突き崩すには手間がかかりますからな」  それでも、いざとなればこの人はやってのけるのだろう。男にそう思わせるだけのものが、目の前の女性にはあった。その細い体から繰り出される武威を思って、彼はわずかに震える。 「まあ、しかし」  と彼女は杯を持ち上げる。 「一人で戦をするわけではありませんからな」 「そりゃそうだ」  二人はそこでひとしきり笑う。 「それに」  星は笑みを収め、杯を傾けた後で一刀をじっと見つめてきた。その瞳の色に、彼はどきりとさせられる。 「貴殿もまた凄まじい力をお持ちだ」 「へ? 何のこと?」  とぼけているわけではない。本当に何のことかわからなかった一刀は、目を丸くした。星の態度にからかっている様子がないことが、なぜだか彼を酷く狼狽させた。 「権力、というやつですよ、一刀殿」 「ああ、まあ……ねえ」 「おありでしょう。たとえ九卿でなくなろうと、いえ、肩書きなど全て無くそうと、貴殿の力が変わることはありますまい」  一刀は微妙な笑顔で酒杯を乾す。 「そりゃ、あるのが華琳の力だからさ。俺のじゃない」 「同じ事でしょう。貴殿と覇王殿は一体と見なされておりますし、実際、それが切り離されることなどありますまい。違いますか?」 「それは、俺もそうあり続けたいと思うが、でも……」 「少なくともいまは万の兵を動かすことも、どこぞの長官を変えることもたやすいはず。そうではありませんか?」  星の言葉をあくまで否定するのは、華琳の信頼や自身の責任を否定することになるような気がして、一刀は口をつぐむ。いまひとつ釈然としないながらも、彼は頷くしかなかった。 「であれば、貴殿はやはり大きな力を持つのですよ。一言で首も飛びますし、印一つで城も落ちる」 「そんなことしないよ」 「でしょうな」  あっさりと星は頷いて、一刀の杯に酒を注ぐ。 「しかし、出来ぬわけではない。しないだけです」 「……それはね」 「武の力にせよ、政の力にせよ、我らは大きな力を持っております。要は、それをいかに使うか」  結局の所、と星は囁くような妖しい声音で続けた。 「我らは常にそれをつきつけられているのでしょうな。いつ、どのようにして力を振るうか。誰のために、何のために、そして、なにを志して」 「難しいね」  なんとかいま感じていることを表現しようとして、結局そんな言い方しかできない一刀。どう言葉を選ぼうと、難事であることは変えようがなかった。  だが、もっと、伝えるべきことがあるのではないか。そんな焦燥感にかられて彼女の瞳を覗き込み、そこに彼への共感とも言うべき色を見つけて、ようやく彼はほっとする。 「ええ、ですが、そうあることは幸運なことです」  星はそう言って小さく微笑んだ。 「我らは、その力の使い時や、使う場所、相手すら選べるのですから」  星と別れた後も、なお彼は陣の中を歩いていた。  時刻を考えればとっくに床に就いているべき時間である。だが、なにか、彼を突き動かすものがあった。  周囲では、兵たちが雑魚寝をしていたり、天幕からいびきが聞こえてきたりする。そして、見張りの兵が立ち、彼の後ろには護衛に母衣衆がついてくる。 「……選べる、か」  彼は辺りを見回す。  広がるのは闇。  しかし、そこに息づくのは、人々の営みだ。  いまは見えぬ先には邑があり、城がある。そこで、人々は眠りに落ちているだろう。翌日の労働のため、体を休めようと。  そして、いま、この場所には、多数の兵士たちがいる。彼――まさに一刀の発案によって集められ、引き連れられて戦いに赴こうとしている。 「選ぶ、か」  もう一度だけ呟いて、彼は踵を返す。自分の天幕へと帰る足取りは、けして軽くはなかったが、たしかな決意とわずかな興奮に満たされていた。  7.出立  その日、大天幕には将たちだけではなく、張三姉妹も集められていた。そこで一刀は自分の考え――雛里の提案に彼なりの考えを付け加えたものを説明していた。 「そういうわけで、俺と雛里、愛紗だけで行こうと思うんだ」 「……兵を連れて行かないのですか? 母衣衆も?」  聞かされていなかったのか、名前を挙げられた愛紗が眉をひそめつつ訊ねる。一方の雛里の方は動揺も見えないことからして、すでに話は通っていたのだろう。 「うん。大丈夫だろ?」 「まあ……二人くらいならば守れますが……」  彼女は世間でもたたえられるほど美しい黒髪を振りつつ、前に立つ一刀と、帽子を引っ張っている雛里を見比べつつ控え目な声を出す。  だが、もちろん、消極的賛成どころか明確な反対を唱える者もいた。がたん、と床机を倒しつつ、流琉が跳ねるように立ち上がる。 「そんな少人数で行くって……無茶です!」 「まあ、話を聞いてくれ。正直な話、愛紗だけなら、いや、ここにいる春蘭、流琉、星に焔耶、誰をとっても、一人で荊州の全部を突っ切ることだってできるはずなんだ。多少は厄介なことになるかもしれないけど、切り抜けられるだろう。問題になるのは、俺と雛里だけなんだよ」 「それはそうですな。その中でも、愛紗、春蘭の力は図抜けている」  星は一刀の言葉に表面上は賛成しながら、心の裡で、しかし、守るのにかけてはいま挙げた二人はどうなのだろうと思ったりしている。 「でも、兵を連れていったら目立つし、警戒される。中途半端な数の兵は逆に危険になるくらいだ。もちろん多数で進軍するなら先行するなんてできない」 「だからって、三人なんて……」 「いや、三人だからこそ、だよ。いくらなんでも三人相手にいきなり千人ぶつけてくるやつはいないし、なにより、避けて通れるからね。これが百人単位じゃ、避けるのも難しくなる」 「それは……そうですけど……」  流琉は、困ったような視線を横にいる春蘭に向ける。流琉に助けを求められた春蘭は、一刀と流琉の様子を確認してから口を開いた。 「そもそもだが、お前が行く必要があるのか?」 「荊州封鎖を言い出したのは俺だからね。桃香とも話しておかないといけないのは、たしかだよ。穏や明命にもちゃんと話を通しておきたいし」 「ふうむ……。では、流琉も連れていけ。一人増える程度は変わるまい?」  春蘭の何気ない物言いに、ぱっと流琉の顔が明るくなる。しかし、そこに口を挟む人物があった。 「少々よろしいですかな?」  発言の主――星に皆の視線が集中する。 「さすがに蜀の軍師殿が行くというのに、『蜀の人間』が護衛につかないというのは、問題でしょう」  星は一部を強調して言いながら、愛紗の方にちらと目をやる。その瞳に謝罪のようなものが浮かんだと見たのは、一刀の勘違いだったろうか。 「ですから、私が行ってもよろしい。指揮なら軍師殿と焔耶がいれば……」 「いや、待て! それならワタシが行くぞ!」 「焔耶さん?」  大声をあげて拳を振り上げる黒衣の将軍の名を不思議そうに呼ぶ朱里。彼女だけではなく、皆、いきなりの勢いに面食らっているようだった。 「この中で、荊州の道に一番詳しいのはワタシだろう。裏道を含めてな。さっさと進むなら、ワタシが適任だ」  鼻息も荒く胸を張る様子に、星の顔が納得したように笑み崩れた。 「ははあ。魏文長殿は、愛しの桃香様の許に一刻も早く駆けつけたいらしい」 「なっ。だから、ワタシは……」  ぎゃーぎゃーと言い合う二人を置いて、流琉はあくまでも一刀に詰め寄ろうとしていた。 「し、しかし、その論理なら、魏の人間もいないとまずいのではないでしょうか?」 「それはそうですね。流琉ちゃんと一緒に行かれたらどうですか?」 「うーん。流琉には数え役萬☆姉妹を頼もうと思っていたんだよね。春蘭一人に軍の指揮も公演もって全部任せるのは大変だし」  一刀の視線が端の方にいた三人に飛ぶ。その中で、人和が小さく首を振った。 「私たちは自分たちでもなんとかできる。もちろん、世話してくれる人がいた方が便利は便利だけど、必須とまではいかない」 「いや、それだけじゃなくて、やっぱり流琉に守ってもらいたいんだよ。三人は白眉に狙われることだって考えられるんだから」  その発言に、天和がびっくりしたように口をすぼめる。だが、下の二人は、真剣に考えるような顔つきになった。 「えー。そんなことあるかなあ?」 「ある……かもね。あいつらにしてみれば、ちぃたちは自分たちの歌姫を邪魔する存在なんだし」 「ふぁん心理が暴走すればあり得ないことじゃない。……もちろん、軍事的にも」 「そういうわけで……守ってもらえないかな、流琉」  三姉妹に頷きかけた後、しっかりと流琉を見据え、一刀は頼み込む。 「う、その顔はずるいですよぉ……」 「どうする流琉」  床机を戻し、座り込んだ流琉に、こそこそと話しかける春蘭。 「しかたない……でしょうかね、これは」 「いいのか?」 「心配は心配ですけど……。愛紗さんは強いですし……」 「それは否定せんが、しかしなあ……」  小声で言い交わす魏の将たちを他所に、地図を眺めていた地和が小首を傾げる。 「実際には、何日くらい稼げるわけ?」 「ええとね、まず、巴丘を目指そうと思うんだ。そこから、桃香たちが行き着くはずの武陵には湖を通じてすぐにいけるはずだ。俺が穏たちにも会う必要があるってのもあるけど、呉軍が以前から駐屯していて周囲も安全なはずの巴丘に行くのが結局早道だと思う。その想定で……一五日は先行できると計算したんだけど、どうだろう」  一刀の言った道筋を、星と話していてもからかわれるだけだと気づいた焔耶が地図に寄り、指でなぞる。その動きを追いつつ、雛里が口の中だけでぶつぶつと呟いた後で、彼女の概算を述べた。 「襄陽を経て、江陵、巴丘に至るなら、通常の進軍速度で二十日あまり。この軍の性格上、一月以上はかかります。しかし、私たちだけで行けば、半月程度。一刀さんの言うとおり十五日程度は縮められると思います」 「途中、船を捕まえられればもっと早いぞ」 「ですね」 「なにか想定外のことがあっても、江水を下る船足と相殺して、一〇から一五日といったところですか」  最後に愛紗が結論づけるように言い、それを受けて、朱里がかすかにため息を吐いた。 「私としては、やはり危険度が高いように思うのですが、しかし、漢水と江水の間を見分しつつ、早い内に雛里ちゃんが桃香様のところに行ける利点は無視できないものがあります……。ですから、私としては、四人での先行を支持せざるをえません」  そうして、彼女はその小さな体を折り曲げ、深々と頭を下げた。 「愛紗さん、焔耶さん、一刀さん。雛里ちゃんを、どうか頼みます」  結局は魏軍の二人も賛成し、一刀の提案は皆に受け入れられるのだった。  翌朝。  一輛の馬車と二頭の騎馬の姿が陣の外れにあった。  覆いのない馬車の上には、織物や食料が積まれて、その下に押し込められた鎧や武器の存在を隠している。操るのは地味な格好に着替えた雛里と愛紗。  一方、焔耶と一刀は普段はつけないような分厚い――が分厚いだけで強靭さはそれほどない――鎧を着込み、武器を構えていた。  行商人とそれを護衛する二人というのが、彼らの選んだ偽装であった。 「焔耶、それは?」  一刀は隣で鎧の位置を調整している女性に訊ねかける。彼が指さしたのは、彼女が肩にひっかけている細い鉄棒であった。細いといっても普段持っている武器に比べてのことで、一刀が携えている六角棒より太い鋼の塊なのであるが。 「ん? 鈍砕骨だが?」 「いやいやいや。全然大きさ違うだろ!? だいたい、荷物の中にあるじゃないか、鈍砕骨!」  当たり前のように言うのに、一刀はぶんぶんと手を振る。鈍砕骨はあまりに目立ちすぎるし、焔耶の正体を喧伝して回るようなものなので、普段は荷台の底にあるはずだった。 「なに? ああ。そういうことか。これは二代前の鈍砕骨だ。身を潜めて先を急ぐのに、いまのを担いでいると目立つからな」 「代替わりするの!?」 「得物をよりよく、強くしていくのは当然だろう?」 「……そう言われてみれば、真桜に打ち直してもらったりしてるよな」 「どうでもいいことに驚くな、お前は。それより、用意はいいか?」  ぽかんと口をあけている一刀だけではなく、愛紗や雛里にも向けて、焔耶は訊く。  御者台に座った二人が頷き、一刀もまたはっきりと言い放つ。 「ああ、もちろん」  すでに皆との別れは済ませてある。見送りをするとどうしても目立つので、しないことにしていたのだが、遠くから見つめている目があることは、彼自身よくわかっていた。もちろん、焔耶や愛紗も気づいているだろう。だが、それを口にする者はいない。 「いつでも大丈夫さ。たとえ何があろうとね」  その言葉に表面以上のなにかが隠れているような、そんな感触を覚えて、焔耶は怪訝な表情を浮かべる。だが、そのわずかな違和感は捕まえる前に消えていき、彼女は馬を進めはじめた。  その後ろで、彼は小さく呟いていた。 「俺は帰らなきゃいけないんだから」  誰にも聞こえぬように。 「じゃあ、行ってくるよ!」  一刀が最後に腕を振りあげ、一行は旅立つのだった。  荊州中央部――大陸を揺るがす騒乱の中心へと。      (玄朝秘史 第三部第三十三回 終/第三十四回に続く) 北郷朝五十皇家列伝 ○甘家の項抜粋 『甘家は甘寧にはじまる皇家であり、いわゆる孫家集団に属する。孫呉の成立に関わった諸皇家の中でも、孫高家、周家が江南の経営から一歩引いた立場であったのに対し、甘家は代々呉公を継ぐ孫世家と密接に関わりながら、南方の土地、ことに江水流域の開発、水運の整備に力を注いだ。  そういった積極的な地元への関与が続いたこともあったのだろう。甘家は江東、江南の人々に慕われ、初代甘寧は武神として崇められることになる。この時期は太祖太帝をはじめとして、呂布、華雄、関羽、周泰などが続々と民間信仰において神の座を占め始めた頃であり、この動きもその流れの中で生まれたものであったろう。  しかし、ここで注目すべきは、同時代に生きた武人として、華雄、呂布の人間離れした活躍――それは、複数の史書や同時代の書物にはっきりと記されているのに、後世の学者から、当人の実在すら疑われるほどの荒唐無稽なものである――に比べると、甘寧、周泰などは一段落ちると考えざるをえないことである。それでも、南方の人々は地元の神として、呂布、華雄に勝るほどの信仰を、彼女たちに捧げた。  そこに、この当時では、まだまだ開拓の続く活気溢れる土地であった南方の、華北、中原の人々に対する対抗心や反発といったものが見え隠れ……(中略)……  後に楚が建国される時には、この甘家の傍系の人物が帝に推戴されることとなる。北郷の血を取り入れることで権威を増そうとしたのは――あちらは失敗したが――趙と同じ意図であろう。しかし、成都を都としているのに蜀漢ゆかりの人物、それこそ劉家の人物や関家の人間を戴かなかった理由はなんであろうか。  この疑問に関しては、一般には以下のように理解されている。  趙は巴蜀をその拠点とし、そこから荊州、揚州の南方をかすめて東に尾を伸ばすような形で支配域を広げようとしていた。巴蜀はそもそもの勢力拠点であり、基盤である。そこでの支配を盤石にするならば皇家の血として選ぶべきは蜀漢縁故の者であったろう。しかし、楚はそれよりも拡大策を選んだ。そのために南方でも東側により信奉者の多い武神甘寧の末をその主とし、東方への侵攻を企図したのだった。  この意図が成功したかといえば、それは疑わしいものであったが、北郷の血を用いてその権威を高めるという狙いは成功し……(中略)……  なお、楚の帝に関しては、趙の初期の皇帝たち――つまりは荀家の一員であった者たち――に対するような暗殺の試みがなされた形跡はない。これは、後朝の初代皇帝となった孫高家の聖武帝から手を出さぬよう命が出ていたのではないかと疑える部分がある。現実的に、南方に遷移した後朝にとって、最も近しい隣人とも言える楚に対して、敵対するにせよ融和策をとるにせよ、甘家の者が頂点にあることが有利にはたらくと……(後略)』