玄朝秘史  第三部 第三十二回  1.夢  あたりを淡い桃色が覆う明るい光景から一転、彼女の視界は暗闇に落ちた。  否、自分は目を瞑っているのだ。そう気づいたのは次の瞬間。  目を開いてみれば、見慣れた作りの天井が見える。 「……わ、たしは……?」  身を起こしながら、彼女はぼんやりとした意識のまま呟いた。どうも、いままでいたのは夢の世界だったらしいということを自覚し始めた時に、人の気配がした。 「お、目が覚めた?」  扉を開いて部屋に入ってきた人物の声や顔には馴染みがある。いたわるように微笑みかけるその男性は、彼女が現在、主と仰ぐ北郷一刀に他ならない。 「ご主人様……?」  彼の顔を見たことで、意識にかかっていた霧はすっかり晴れ、代わりに、自分がなぜ眠っていたのかが疑問として浮かび上がる。 「愛紗は、数え役萬☆姉妹の公演の後、俺たち――流琉や三姉妹を守りながら城に戻って一段落した途端、倒れ込んじゃったんだよ」  態度で察したのか、一刀は経緯を説明し始める。寝台から出ようとした愛紗だったが、彼に押しとどめられ、水を差し出される。彼女はそれで喉を潤しつつ、一刀の話を聞いていた。  唐突に意識を失ったため、当初はなにごとかが起こったのかと心配されたものの、駆けつけた朱里の見立てでその疑いは晴れた。おそらく、もともと睡眠をとっていなかったところに、数え役萬☆姉妹の作り出した熱狂のあおりを受けて気当たりでも起こしたのだろう、というのが、彼女の判断であった。  実際、彼女を診察した医者も、疲労はしていてもおかしな様子はないと請け負ってくれていた。 「それは……ご迷惑を……」 「いやいや。休んでくれてよかったよ」  自分が倒れた様子を聞き、深々と頭を下げる愛紗に、一刀はかえって安心したというように笑顔を見せる。そのことに、愛紗は自分がいかに無理をしていたかを思い知らされる。  水をもう一口含み、わずかに杯に残った水の揺れる様を見ながら、愛紗は呟く。 「夢を……見ました」 「夢?」 「はい。桃香様と鈴々と……桃園で、この大陸の平和を願い、志を共にし、姉妹となることを誓う夢を」  ほう、と一刀はなんとも言えぬ息を吐いた。 「平和をもたらし、民を安んじることを誓った私が、争いのもととなっている。そのことに苦しみ、辛い思いを抱きもしました」  男は反射的に何ごとか言いかけ、しかし、彼女の落ち着いた様子から口をつぐんだ。 「特にご主人様を襲った連中は、もちろん当人たちだけの勝手な思い込みではありますが、善意から動いたのでしょうから……」 「そうだね。俺も彼らを恨もうとは思わないし、しかたのないことだと思うよ。まあ……やっつけられちゃうわけにもいかないけどね」 「はい」  そこにだけは苦笑いのような表情を彼に向け、しかし、愛紗は再び物思いにふけるように、目線を落とす。 「私は……いえ、ご主人様も含めて我々は様々な事情を鑑み、この道を選びました。そのことが、間違っていたのではないかと悩みもしました」  淡々と言う様子が余計に辛そうにも見えるが、しかし、一刀には声をかけることが出来ない。それは、きっと、彼女の心底からの正直な告白だろうから。 「でも」  愛紗はふふっ、と小さく笑う。 「さっきまでの夢の中で、気づいたんです」  童女のようなあどけない表情で、彼女は笑う。 「たとえ離れていても、あの時の志を持ち続けることは出来ると」  そうだ、彼女は誓ったのだ。 『姓は違えども姉妹の契りを結びしからは  心を同じくして助け合い、皆で力なき人々を救わん』 「いま、私がご主人様の下にいて、もろもろの事情に縛られているとしても、あの時思ったことを胸に動いていれば、それは、けしてあの誓いを破るものではないのだと……」 『同年同月同日に生まれることを得ずとも  願わくは同年同月同日に死せんことを』 「そして……あまり焦らずとも、いつか桃香様や鈴々の歩み道と、私の道も繋がるだろうと、そう思わせてくれた夢でした」  死ぬまで、そう、死ぬまで、彼女たちは歩んでいく。ならば、多少の回り道をしようとも、必ず三人の姉妹の道は繋がるはずなのだ。  志を胸に抱き続けるならば。 「そうか。よかった」  一刀もまた心底から喜ばしく思っていた。けして本意ではない状況を、彼女なりに納得してくれたということであれば、これを喜ばない手はない。もちろん、問題はまだまだあるだろうが、柔軟に対処していけば、必ず突破口は開けると彼も考えている。 「あ、いえ。もちろん、いま述べたようなことはご主人様をないがしろにするつもりは毛頭無く……」 「わかっているさ」  慌てたように顔をあげ首を振る愛紗の長い髪が揺れる。そのつややかな黒の色に目を奪われつつ、一刀は安心させるように告げる。 「俺の下にいる間は、その範囲で君の志を貫いてくれればいい。白眉を解決することは、大陸の安寧にはなくてはならないことだと思う。それをなすのは、愛紗の……桃香の志にも沿うことだろう?」 「はい。きっと。……ありがとうございます」 「それに、俺も、愛紗は桃香のところにいるのが似合ってると思うよ。そして、桃香の理想が叶うことは、俺にとっても喜ばしいことだと思うから」 「そう……ですか」  そのあたりはどうなのだろう、と彼女は思う。もちろん、根本的な部分、民の安寧や心豊かな暮らしを作り上げることに関しては一致しているだろう。だが、一刀と桃香の目指すところは同一とは言えまい。  だが、いまは、そんなことは問題ではないのだ、と彼女は考え直す。 「まあ、それまでは、一緒にやっていこう。ね?」 「は、はい」  真剣な顔で手をとられ、体ごと近づけられる。男の懸命さと熱心さが伝わる動作であったが、あまりに間近にいる彼の姿に、思わず愛紗は赤面する。 「ご、ご主人様」 「おうおう。倒れたと聞いて心配しておったら、なにをいちゃついておるのやら」  押し戻していいものか、いや、それはあまりに不作法ではないか、と逡巡する愛紗の耳に、聞こえてきたのは、そんな言葉。 「あ、桔梗」 「き、桔梗!?」  振り向いた二人の視線の先で、淡い色の髪にさされたかんざしが揺れていた。  2.報 「まったく。相変わらずですな」 「おいおい。そういうことじゃないよ?」  愛紗が着替えたいというので、しばしの間、彼女の部屋の前で二人は会話を交わす。一刀をからかうのが楽しくてしょうがない様子の桔梗であったが、責めるような色はない。 「いやいや。そういうことにつなげてしまうのがお得意でしょう」 「……結果的にそういうこともあるけどさ」  苦笑いして一刀は話題を変えようとする。 「桔梗は、美以たちを迎えに?」 「ええ。それと、兵の移動ですな」  桔梗が言うには、成都と漢中で、いくつかの部隊の配置転換がなされるのだという。一刀襲撃や、白眉への備えとして、派手なことはしないまでも最適な配置にしておきたいということなのだろう。 「そうか。みんな大変だな……」 「しかたありますまい。難事に対処するのが我らの役目」 「それもそうだ」  そんな会話をしていると、扉が開き、二人は愛紗の部屋に招かれた。  その後、ひとくさり見舞いがてら近況を――愛紗が一刀の下に走ったという危うい部分には三者共に触れぬまま――話し合ったところで、桔梗は部屋を辞そうとした。  それを一刀が呼び止める。 「桔梗。これは、成都にも持ち帰って欲しい報せなんだけど、華琳がこの数日で出陣するそうだ」  使者のやりとりに時間がかかるために多少のずれが生じてしまうが、華琳が北方へ出陣するというのは確定事項であった。 「ほおう? ついに覇王が鎮圧に向かわれますか」 「ああ、冀州、そして、幽州目指して北上する。陣容は華琳、季衣、それに、稟と桂花。途中で沙和と風、それに凪の軍と合流する予定。もちろん、これは情勢を睨みつつだけどね。ああ、あとは軍を率いるわけじゃないけど、美羽と七乃さんもいるね」 「ほっ。これはまた豪勢な」  華琳の出陣だけで大変なことであるというのに、魏の幹部勢の多くが集うときている。桔梗がそう言うのも当然であった。しかし、彼女はそこで己の顎に手をあてて考える。 「しかし、そうすると……洛陽に残るのは夏侯の姉妹のみですかな?」 「魏の人間ではそうなるね。それに春蘭がいずれ南に来るから、秋蘭一人か」 「……それだけ、洛陽は盤石、と」  しばらく探るように一刀の瞳を見つめていた桔梗が、低い声で確認する。それに対して一刀はきっぱりと頷いていた。 「うん。そうなる」 「ふむ。これは大事な報ですな。ぜひ伝え、広めねばなりますまい」 「ああ、そうしてくれ」  それに対して獰猛な笑みを見せて、彼女は部屋を出て行く。 「ご主人様、先ほどの件……」  部屋に残った愛紗は、桔梗の姿が扉の向こうに消えると、勢い込んで一刀に訊ねかける。 「ああ、愛紗の考えているとおりだよ。華琳たちは、董承派閥を完全に押さえ込んだ。愛紗に……というより蜀にちょっかいを出そうとしていた連中はしばらくは身動きはとれなくなったよ」 「ありがたい話です」  彼女は乗り出していた身を椅子に戻し、自分の胸に手をあてて、大きな安堵の息を吐く。 「朝廷ってのは陰謀の巣だから、今後どうなるかはっきりは言えないけど、それでも……」 「はい。後は私たちが頑張るだけですね」 「うん。俺もようやく無位無冠になれたし」  それは、あまりにあっさりとしていて、彼女は聞き間違えたかと思った。 「……は?」 「大鴻臚解任されたからさ。宮仕えも終わりってわけ。もちろん、華琳の食客としての働きは別だよ?」 「いや、そ、そうですか。しかし、なぜ、そのように嬉しそうなの……です?」  彼女が見る限り、にこにこと笑っている彼の顔は喜びに彩られている。免職された者の見せる表情とはとても思えなかった。 「愛紗は朝廷、好きかな?」 「正直申しまして、あまりいい印象はありませんが」  今回の件以前から、朝廷はろくに機能していないのに権勢だけを誇る存在だと思っていたところのある愛紗であった。邪魔とまではっきり考えてはいないが、少々鬱陶しい面倒な存在、くらいの認識である。 「俺も別に嫌いってほどじゃないけど、どうせ働くなら、朝廷に仕えるより、華琳の意思を体現させるほうがいいよ。最終的には大陸の民のためってことになるけど、どうも、朝廷は濁ってるっていうか、はっきりしないし」 「それは……華琳殿のところのように強固に統一されているわけでもありませんからね……」  王朝は帝を頂点にすると言っても、帝ただ一人で動かせるものではなく、様々な思惑や意思が絡み合い、総体としてはどこに中心を持つとも言えないものとなる。見方を変えれば魏という国すらも朝廷を構成する一派閥となるのだから、一刀が言うようにすっきりしないというのも当たり前のことであろう。そのような混沌とした状況の組織に仕えるより、華琳の食客として働くというほうがわかりやすいのは確かだ。 「そういうわけで、体裁とはいえ朝廷の官をもらっているよりは、いまのほうがよほど気楽だし、望ましいってわけさ」 「それは……まあ」  しかし、だからといって手放しで喜ぶというのもすごい態度だ、と妙に感心してしまう愛紗であった。 「そういえば、私の前将軍はどうなのでしょう?」 「ん? いや、愛紗の官位ははく奪とかはなかったはずだよ。といっても、洛陽に縛り付けられるってこともないと思うけど。もうこれだけ動いちゃってるし」  一刀はそこで腕を組む。 「うーん。でも、実際の所はどうなのかな。洛陽に戻ったら、華琳にどんな判断だったか訊いてみるよ」 「そうですね」  そこで愛紗は部屋の隅に置かれた自らの得物へと視線を走らせる。 「まずは……」 「ああ、まずは白眉」  一刀もまた青龍偃月刀を見ている。それが振るわれる時、なにが起きるかを彼はよく知っている。なにしろ、かつてはお互いに敵として対していたのだ。 「愛紗にも軍を率いてもらう。……頼む」 「はい」  一刀のわずかに気遣わしげな声に、しっかりと頷いてみせる愛紗であった。  3.練  愛紗の部屋を辞した桔梗は、城の中でも蜀の将たちにあてがわれている棟に向けて歩を進めていた。  途中、中庭の一つに通じる廊下に行き当たったとき、空気を切り裂くような音に気づく。 「ほう……」  それは彼女にとっては実に耳慣れた音であった。まだ、柱や壁が邪魔をしてその姿は見えないものの、それを発する人物が誰かも桔梗はよくわかっている。  巨大な鉄の塊が空気を押しつぶすその音。 「調子は上々か」  嬉しそうに呟いて、そちらに向かってみれば、予想通りの姿が目に入ってくる。鈍砕骨をふるって鍛錬を続けているのは、他ならぬ彼女自身の弟子、焔耶だ。 「桔梗さまっ!?」  足を止めて眺め始めるとすぐに向こうも気がついて名を呼んできた。得物をぴたりと止める彼女の姿に、桔梗はひらひらと手を振る。 「続けい」 「はっ」  まるでなにも中断などしていなかったのように、焔耶の動きは再開される。架空の敵を想定しているのだろう。彼女は踏み込み、振り下ろし、時に体勢を崩したりしながら、その巨大な鉄塊を振るっていた。桔梗の目に、彼女が打ち倒していく敵の姿がまざまざと見えてくるような、そんな真剣さであった。 「ん? あれは……」  わずかに焔耶の動きが鈍ったかに見えた。だが、それは、疲れや呼吸の乱れによる鈍化ではない。焔耶は、自らが描き出している仮想の相手に手こずっているのだ。  振り下ろした金棒を素早く引き戻し、構え、空想の相手が繰り出す攻撃に備える。だが、それはうまくいかなかったようで、鈍砕骨を構えながら、焔耶は大きく飛び跳ねて後退する。  その苦闘を物語るように、彼女の額には珠の汗が浮いていた。 「華雄……いや、恋か」  そう。いままさに彼女は天下に名高い飛将軍と対峙しているのだった。 「わざわざ最強の武を選び、己を磨くか……」  仮想の恋に連続で突きを受けたのか、焔耶は姿勢を低くし、膝をつき、その得物で地面をえぐりながら、攻撃を続ける。 「まだまだ童(わっぱ)と思っていたが……」  桔梗は眼を細め、焔耶の戦いぶりを見つめる。明らかに劣勢であり、うまく体を動かせていない状況でありながら、焔耶の動きは美しいものであった。 「不思議よな。これほどまでに喜ばしいのに、どこか寂しいとは」  あるいは、それは、子を思う母の気持ちに似ていたのかもしれない。 「やめっ!」  そう、桔梗の声がかかった時には、焔耶の顔と言わず腿と言わず、膚はぐっしょりと汗にまみれ、腕は疲労と緊張のために小さく震えているほどだった。ごずん、と音をたてて彼女の腕から離れた鈍砕骨が地に刺さる。 「ようやっている」 「あ、ありがとうご、ざいます」  息を整えながら答える焔耶の側に寄って、桔梗は布を渡してやる。それを受け取って、汗みどろの焔耶は自分の体を拭っていく。 「五十人相手に、あの方をお護りしたとか?」 「ああ、あれですか。まあ……ワタシが呼び出したのが元ですし」 「そうか」  気負うでもなく言う焔耶を、もう一度目を細めて観察する。その後で、彼女は焔耶に真っ直ぐ向かった。 「焔耶」 「はい」 「主は強い」  その言葉に、焔耶はすぐさま反応できない。何を言われたのかよくわからないというような間抜け面をしばし晒し、ついで慌てて頭を下げる。 「は? え、あ、ありがとうございます」 「が、これまでは、その武を十全に発揮できなかった。それがなぜかわかるか?」  次の答えまでには先よりさらに時間がかかった。 「……いえ、申し訳ありませんが……」  懸命に考えたのだろう。眉間に深く皺を刻みつつ、彼女は首を横に振った。桔梗はそれに深く頷いて答えを与える。 「主の心が弱かったからさ」 「……ですか」  悔しそうに、けれど素直に受け入れる姿に、桔梗はにやりと笑って見せる。 「ほれ、そこよ」 「はい?」 「これまでなら、ワシがそう言っても、必死で虚勢を張ったろう。それが無くなった。一つ、強うなった」 「そうで……しょうか?」  いまひとつ実感できないのだろう。焔耶は首をひねる。桔梗の言葉を否定するつもりはないが、どう受け取っていいのかわからない風情だ。 「焔耶、ワシはな、武人の強さなど、紙一重のものでしかないと思うておる」  もちろん、桔梗は焔耶が理解するまで手取り足取り説明してやるような鍛え方はしていないし、するつもりもない。彼女はただ、必要なことを伝えていく。 「人の体が持つ力に、それほどまでの差は出ん。いや、力が強くても、武が強いわけではない。魏の悪来、虎癡、共に愛紗より膂力のみなら勝ろうが、それで武威が勝るわけではない」  こくり。焔耶は頷く。 「ならば、技か。それも違う。ワシや紫苑、秋蘭あたりは技では頭一つ抜けておろう。だが、小覇王に勝てるかというと、また違う」  わからないまでも、じっと彼女の教えを聞き漏らさぬように、焔耶は努めていた。 「世に名の知られた武将ほどになれば、技も力も身体も、それほどの差異は無いはずなのだ。もちろん、不断の鍛錬あってこそのことだが、さらにのびるには、それら全てをまとめあげる心気、そして、経験と感覚を統べ判断を下す直観。それらをどう磨き上げるか、よ」  桔梗は地面に突き立った鈍砕骨を軽々と抜き去り、焔耶に向けて構えてみせる。 「幸いなことに、この時代には、華雄と恋という化け物がいてくれる。とてつもない武と同じ時代に生きられるからこそたどり着けるところというのは、あるぞ。焔耶」 「はい」 「そう。華雄と恋のおる場所にたどり着く術はワシもわからん。少なくとも、いまはな」  あれほどの武がどうして生まれるのか。実に恐ろしい事よ。  桔梗は心の中で独りごちる。 「が、愛紗、春蘭、雪蓮殿。いずれもたどり着ける強さよ」  そこに挙がった名前だけでもでたらめな強さを持つ武人たちである。しかし、焔耶はそれを否定するどころか、疑いもしなかった。 「焔耶、お主はまだそこまでも至らん」 「はっ……」 「だが、至れる。ワシは今日確信したぞ」  鈍砕骨を構えるのを止め、桔梗はその武器を、本来の主の手へ受け渡す。 「驕慢と虚勢、そして、なにより、とがってはいても脆く折れやすい心。それを乗り越えたとき、主は、さらに強くなろう」 「桔梗さま……」 「焔耶」  捧げ持つように得物を支える弟子に、桔梗は一つ笑みをくれて、くるりと彼女に背を向けた。 「白眉の件、終わったら、ゆっくり仕合おうぞ。本気で、な」 「望むところです!」  背後の弟子にゆったりと手を振る桔梗の背にかかった声は、実に嬉しそうに弾んでいた。  4.進軍  舞台の幕は、まだ閉ざされていた。  分厚い布に遮られ、外の様子はまるでわからない。 「一昨日の舞台は、最後にはうまくいった……はず」  展開された移動舞台の上、地和は下りた幕の向こうを睨みつけるようにしながら、そう言った。 「狂乱って意味ではね」  挑み架かるような姉の言葉に対して、あくまで冷静に人和は呟く。眼鏡を押し上げ、彼女は付け加えた。 「それでも、二晩経てば興奮も冷める」 「冷静になっちゃうと、考え直しちゃうってことー?」 「そっぽを向かれるだけならいいけど、私たちを汚らしいと言い出す奴もいるかもしれないわね」 「えー。そんなのやだよぅ」  天和は人和の示す最悪の事態に、泣きそうな顔で首を振る。それに対して、人和は肩をすくめるしかない。 「公演をもう一度開くなら、入り具合で判断できたんだろうけど……ね」 「今日は軍の出陣式。だから、兵は揃えられている。あとは……盛り上がるか、罵声をくらうか、無視されるか……」  相変わらず幕を睨みながら、ぶつぶつと呟く地和。緊張しているのか何度も深呼吸をしている人和。うろうろと歩き回る天和。そんな三人を安心させるような声が、背後からかかった。 「大丈夫だよ」 「一刀?」  三人が揃って向いた先にいるのは、彼女たちの思い人。彼は三人に向けて、優しい笑顔を向けている。 「一刀……」 「それに、なにがあろうとも受け止めるしかない。そうだろう?」  口々に彼の名を呼ぶ姉妹たちの前で大きく手を広げ、彼は言い切る。 「それは……そうだけど……」  それでも、さすがに不安が解消されるわけもない。なにしろ彼女たちは舞台の上で、ふぁんたちの他に愛する男がいると宣言してしまったのだから。  みんなの恋人でみんなの妹だったはずなのに。  それを、気にせずにいられるわけがない。  けれど、一刀は言う。 「もし、みんなに石もて追われるような状況になったなら」  彼女たちにそんなことをさせることになった理由を一番よく理解しているからこそ、言わずにはいられない。 「俺のために歌ってくれよ。俺のためだけに」  彼は、たとえたった一人になっても、最後まで、歌姫たちのふぁんなのだから。 「……うん。そうだね」 「そうなったらそれもいいかも」 「ありがとう、一刀さん」 「あんな熱烈な告白を大観衆の前で受けて、礼を言うのはこっちだぜ?」  からかうように言うのに、三人の顔に微笑みが浮かぶ。  彼ら四人は肩を組み、円陣を作ると、一声吼えた。 「行くぞ!」 「行くわよ!」 「うん!」 「いっくよーっ」  そして、一刀が下がり、開いた幕の向こうには……。 「残念でしたね、兄様」  いつの間にか横に立っていた流琉に声をかけられ、彼は放心状態から立ち直る。数え役萬☆姉妹が登場した途端に爆発した大歓声と、それに続く一糸乱れぬ三人への『こーる』のあまりの見事さに呆気にとられてしまっていた一刀であった。 「へ? え? いや、大成功じゃないか」  鎧で身を包んだ兵たちは、三姉妹の歌う勇壮な進軍歌に励まされるように体を揺らしており、いましも突撃しそうだ。この分なら、進軍は無事決行されるどころか、彼らを落ち着かせながら行わなくてはいけないかもしれないくらいだ。 「いえ、そちらではなく」  流琉は特に表情を変えることなく続ける。彼女が直接指揮をとっているのだから、この事態は当然予想されるものであり、驚くことはないのだろう。 「三人を兄様だけのあいどるに出来なくて残念だったんじゃないかな、って」 「る、流琉さん?」 「はい?」  返ってくる笑顔はとてつもなく明るく透明なもので、一刀はさらに訊ねようとする意気を全て失ってしまう。  喝采に包まれひたすらに盛り上がる場の中で、一人冷や汗をかくしかない一刀であった。  色々とあったもののなんとか始まった進軍の中心部。一刀は馬を進めながら、横を進む朱里たちに話しかける。 「あの公演、案外受け入れられていたんだね?」 「と言うよりも……なんといえばいいのか……」  焔耶と共に馬に乗っている――そのほうがいざ指揮するときに馬の操作を託せるので都合がいいらしい――雛里は、帽子のつばをひっぱりながら、口ごもる。 「簡単に言うと精神を安定させるためにそうせざるを得なかったということになりますか……」  こちらは星と一緒の馬に乗る朱里がその後を継ぐ。 「どういうこと?」  並んで進んでいる二人の軍師はお互いに目を見交わすと、一刀と、そして、その周囲にいる星や焔耶、流琉たちに説明をはじめる。 「あまりにとんでもないことをいきなりつきつけられ、怒りとなって発散したところに彼女たちの歌で心を揺さぶられて、一刀さんとあの三人のこと、そして、あの三人のそういうったありようを納得することで精神の均衡を保たざるを得なかった……。私たちの手の者が探ってきた兵たちの心情をまとめてみるとそんな結果が出てきます」 「もちろん、それぞれの人で現れ方は違います。たとえば元黄巾党の人や、黄巾党に親しみを感じていた人は、三人への崇敬を強めて、別世界の……いわば、天女とでも考えるようになったようです。天女だから、天の御遣いと添うのは当たり前だ、という論理を自分でつくりあげたのではないかと思われます……」 「また、数え役萬☆姉妹を単純に歌い手として知った者たちは、一刀さんがその歌の源泉だというように納得しているようです。あれだけの歌をつくらせる相手ならばしかたない、という諦観に近い感情でしょうか」 「他にも色々と反応はあるようですが、まだ調査が行き届いていない部分もあります。ただ……ひとまずは収まっていると判断すべきかと……」 「はー……」  なんだか、概要を聞いていると悪辣な洗脳の手口に思えてならないな。一刀は心の中でそう思う。 「愛紗のことは?」 「有耶無耶……とはもちろんいきませんが、皆、どう考えていいかわからない状況になってしまったようで……」 「ひとまず脇に置いて日常の作業を……という風になっている人が多いようです」 「ある意味酷い結果ですな」  黙って聞いていた星がさらりと言い放つ。 「ま、まあ、さすがは黄巾党の首領というべきか……」  なにしろ、煽動の実績だけなら、大陸でも有数の存在だ。それくらいやってもおかしくない人物たちではある。今回に限っていえば、彼女たち自身もその効果を予測しきれていなかったようではあるが。 「一つ訊きたいのだが」  焔耶がなにか納得できないのか、首をひねりつつ訊ねる。 「我らが相手にする白眉も、それと同じ事ができるということか?」  その問いに、 「うーん……」  と三つの思案の唸りが重なった。朱里、雛里、一刀、それぞれのものだ。その中で、最も早く結論に至ったのはやはり黄巾本隊との戦を経験している一刀であった。 「歌を使って煽動するという意味でなら、出来ると言えるだろうね。ただ……今回は、それこそ全てさらけ出してぶつけてるからね。天師道の三人が同じことをするかっていうと……どうだろうね」  一刀は、懸命に言葉を選ぶ。 「天和たちだって、黄巾の頃からあんなやり方をしてきた訳じゃない。いや、黄巾の頃はもっと偶像としての姿を演じていたと思う。だけど、いまは違うから……。やっぱり現れ方は異なると思うよ」 「ふむ……」 「とはいえ、民を煽動されるだけで脅威です」  朱里が暗い顔で指摘すると、皆はおし黙る。実際、それで何万もの人々が動き、いまの騒ぎとなっているのだから。 「ところで、愛紗は後ろですかな?」  空気を変えたかったのか、星はあたりを見回して訊ねる。桔梗と美以たち南蛮勢は途中で別れるために軍の最後尾についているが、愛紗もそちらに行っているのかという問いであった。  だが、それは流琉が否定する。 「いえ、うちの兵を指揮してくれてます」 「ほう……?」 「色々と反発はあるかもしれないが、まずは白眉討伐が優先と示してもらう意味で、彼女に指揮して貰っているよ。それに、魏の兵としても、愛紗の指導を受けることで刺激を得られるだろうしね」  一刀が説明するのに、雛里がわずかに身を乗り出してくる。 「……元気を取り戻してくれたと……思ってよいのでしょうか?」 「空元気な部分はあるだろうけど、それでも、体を動かしてるうちに、多少は気も晴れて来ると思うよ」 「そうですね。……よかったです」  そうして雛里や朱里が安堵の息を吐いたところで、蜀側の伝令が現れる。  軍師たちと会話した後戻っていこうとするその女性を見つめ、一刀はなにかおかしいと思っていた。だが、いくら考えても、その違和感の正体にたどり着けない。しかたなく、彼は、小声で星に耳打ちした。 「あのさ……星」 「なんですかな」 「あの女の人、以前にも成都でちらっと見かけたことがあると思うんだけど……なんか……印象が……」  どこが違うのだろう。化粧ひとつで女性が化けるものとは知っているが、そういう感覚でもない。あるいは、彼女自身ではなく、姉妹とでも見間違えているのだろうか。 「くっく」  一刀の疑問に、星は喉を鳴らしておかしがる。 「あれは馬良ですよ。最近の出来事に憤慨して、眉の白い毛を全て抜き去ったおかげで、少々間抜けなことになっております」 「ああ、白眉か……」  馬を返す馬良の顔を密かに見れば、眉が極端に細い。 「馬家の五常、白眉を最良とす、でしたっけ」  彼女が立ち去った後、流琉がようやく思い出したように言い、雛里が同情するように呟く。 「……ちょっと、かわいそうですよね」 「気にしすぎだと思うがなあ」  同じように色の抜けた髪の一房を振りながら、焔耶はそう言ってのけるのであった。  5.歌姫 「どうしてこうなったのでしょう……」  魏の誇る天才軍師、郭奉孝は鏡に映る自分の姿に、深くため息を吐いた。身につけるものが青基調なのはいつもとかわらないが、派手さが段違いだ。  すらりとした印象ながら、要所要所に小粒の翡翠を並べることで体の線を浮かび上がらせるような美しい衣装。それは、断じて日常生活で身につけるものではない。あまりのきらびやかさと、稟の体への合い具合に、庶人なら天女の衣かと見まごうことだろう。  おかしな事に、盛大にため息を吐く稟自身にも、その姿は実に似合って見えた。さもありなん、それは一刀が見立て、華琳が細部を調整して仕上げさせた品なのだから。彼女の体のあらゆる場所を知り尽くした二人が、稟の、普段は押し隠している怜悧な美を引き出すために作り上げたもの。それが似合わぬはずもない。  しかし、似合っていようと、美しかろうと――いや、そうだからこそ――そのような姿でいることは、軍師たる彼女の本分とは遠く離れる。 「どうして……」  もう一度呟いて、稟は諦めたように嘆息する。  彼女のいる天幕の外からは、既に人々のざわめきが強まり、多くの人間が集っていることが漏れ伝わってくる。その気配に震えながら、彼女はこうなったいきさつを思い出していた。  それは、十日ほど前の事。  一刀たちが旅立った後の洛陽では、朝廷工作が進むと共に、北方の白眉に対する出陣の準備が進められていた。  その中でも稟は別働隊として、華琳の本隊に先駆けて出動することになっていた。そのための訓練を指導していた時の事である。 「もー、いやじゃー」  ぐでーと床に伏し、抗議の声をあげるのは美羽。その横では七乃があらあらと楽しそうに笑っている。  そう。稟が統率する別働隊とは、袁家主従による『あいどる』部隊であった。  南方における数え役萬☆姉妹に対応する、北方における人心掌握の要。  すでに涼州で公演をこなしている美羽と七乃であったが、白眉に対するとなれば、念を入れるにこしたことはない。そこで、稟の――時折は冥琳も加えて――歌唱指導が行われているのであった。 「そう言われても出来ていないのですから、出来るまで繰り返すしかありませんよ」  ぐずる美羽に、稟は冷徹な態度を崩さない。彼女にしてみれば、言葉にして言ってくれるだけ赤子より扱いやすいという認識であった。 「むーりーじゃーっ! このような難しい曲、誰が考えたのじゃ!」 「華琳様ですよ」  あっさりと稟は答える。曲も歌詞も、華琳の書いたものであった。それだけに、完成度も高いが、難易度も高い。 「美しい旋律ではないですか」 「たしかにすばらしい歌だとは思いますけど、歌う方はきついですよねえ」  そう言う七乃も、三度に一度は外してしまう箇所がある。 「ですから、私がこうして指南……」 「ふん。どーせ、ほーこーも己ではろくに歌えないのであろ。なにが指南じゃ。なにが教授じゃ」  鼻で笑うような美羽の態度に、稟は、くいと眼鏡をあげ、瞳を隠す。 「指導できることと、自分が出来るのは、また別の事なのですが……」  彼女は美羽と七乃が先ほどまで歌い踊っていた、一段高い場所に歩き出す。その段の端っこにはりついていた美羽は、圧力に押し出されるようにじりじりと退いた。 「そうまで言うのなら、手本を見せましょう」  稟の合図と共に、七乃の伴奏でその歌は始まる。  それは、希望の歌。  風に吹かれ、雨に打たれ、雷鳴が轟いても、休まず飛び続ける一羽の鳥の物語。  海の上を、大地の上を、人々の営みの上を、それは飛ぶ。  日の光を、星の明かりを目印に、休まぬ翼は駆け続ける。  孤独という切なさと裏腹の自由を糧に。  迷わずに、ただ、一心に。たどり着くはずの、地平線の向こうを見つめながら。  その姿を、稟は見事に歌い上げていた。  のびやかな声ははるか天まで届くようで。  その動きはまさに羽の生えた鳥のように軽やかで。  彼女が歌いきり、両手を大きく広げて最後の姿勢を決めたその時、美羽と七乃、二人の眼前を一羽の鳥が舞い上がる。それは、大瑠璃――美しき青い鳥。  途中からは七乃の演奏すら止まり、稟の声のみが作り上げていたその世界の中、美羽と七乃はその目に涙をためて固まっていた。 「……ん?」  二人が静かなのを、稟は不思議に思う。呆れてしまうほど悪い出来ではなかったはずだが、と顔を向けてみれば、ぽかんと口をあけて、こちらを見つめるばかり。 「どうしました?」  そう訊ねたのをきっかけに、二人の表情が爆発的に変化する。 「す、す、すごいのじゃ、稟!」 「いや、そうですか。これはそういう歌だったんですね。そこまで引き出せるなんてさすがですー」  飛びかかるように稟の腕に抱きついていく美羽と、楽器を抱え、感動からか、体を震わせる七乃。二人の反応はそれぞれであったが、稟の歌を気に入ってくれたのは間違いなさそうであった。 「多少、理解の役には立ったようですね。では、それを生かすべく……」  練習を再開しようと呼びかけようとした稟であったが、腕にぶら下がるようにした美羽が、その言葉を遮る。 「この歌は稟の持ち歌にするのじゃ!」 「……は?」 「稟の先導なら、妾たちもうまく歌えるであろうしの!」  嬉しそうに笑う美羽の顔をまじまじと見つめて、稟は問いかける。 「ええと、なにを言っているのでしょうか?」 「じゃから、妾たちと共に、舞台に立つのじゃ」 「……はぁ?」  わけがわからないといった風情で、助けを求めるように七乃のほうを見やると、彼女はぽんと手を打っていた。 「あ、それ、名案ですね。さすが、お嬢様!」 「そうじゃろ? そうじゃろ?」 「ちょ、ちょっとなにを……」  二人で盛り上がる主従を前に、稟は目を白黒させる。 「あのですね、稟さん」 「……なんでしょうか」  指を立て、何ごとか説明を始めようとする七乃に嫌な予感を覚えつつ、稟は返事をする。 「数え役萬☆姉妹って三姉妹じゃないですか」 「三人ですね」 「あの人たちって、本当の中身はともかくとして、おっとりぽやぽや、元気はつらつ、おとなしい子、っていう役割分担で、いろんな層の需要を狙っているんだと思うんですよ」  その分析自体は間違っていないかも知れない、と稟は思う。 「でも、こっちは主に美羽様のかわいさだけ。二人だとどうしても主と従ってなっちゃいますしね。もちろん、美羽様のかわいさと莫迦さは天下一ですけど、美味しいものもずっと食べてると飽きちゃうみたいに、何か変化がないとだめだと思うんですよ」  七乃の言葉に、もっと褒めてたも! とうるさい美羽。莫迦にされているとも気づいていないのか、と稟は愕然とする。 「美羽様のかわいさ、私の大人の魅力、そこに知的な美しさを持つ稟さんを加える。これってなかなかいい感じじゃないです?」 「また無茶なことを。そもそも私は……」 「あら、なかなかいい案じゃない」  不意にかかった声は、皆が良く知るもの。なにしろ、先ほどの歌を作った人物のものだ。 「華琳様!?」 「おお、華琳。主もよいと思うじゃろ?」  部屋の入り口から金髪を揺らして歩み寄ってくる主の顔に浮かぶ笑みに、稟は諦めに似た心境を覚える。この顔が出たら、どのみちもう逃げられない。 「美羽たちの具合はどうかと思って覗きに来たのだけれど、実にいい提案が出ているじゃない。私は賛成よ」 「しかし、華琳様。私は軍師ですよ?」 「あら、私は王で丞相だけど、歌を作るし、歌うわよ?」 「それは……」  あなたと同じ事が出来る人なんて、この世にいるものですか、と思いつつ、稟は抗弁を試みる。 「そ、そうだ。衣装もなにもありませんよ。それに、私が歌って、誰が喜ぶというのですか」 「あるわよ」  あまりに簡単に言われて、稟はその言葉の意味を計りかねる。 「はい?」 「だから、あるのよ。衣装が」 「どういうことでしょうか」  おそるおそる、彼女は問いかける。金髪の覇王は微笑みながら、稟の側に寄る。 「一刀がね、作ったのよ、あなたのために。もちろん、舞台衣装としてではなく、一刀と私の前で着せて楽しむつもりだったのだけれど、少し手直しすれば十分使えるわ」 「ま、まさか、その……」  稟は思わず小声で訊ねる。いくらなんでも閨で着るべきものを着せて舞台に立てと言うほど非常識なことはしないと思うが……。 「大丈夫。膚が見える部分は極々少ないわ。あの男が脱がせる楽しみをわざわざ減じさせると思って?」 「さっすが一刀さん、信頼されてますねー」  なにか違う。稟はそう思っても相手をする気力すらわからない。 「しかしですね」 「それに」  あくまでも反論しようとするのを遮って、華琳は彼女の頬に指を伸ばす。 「あなたが歌ってくれたら、私が喜ぶわ」  こう言われてしまってはもはやなすすべのない稟であった。  そうして、いま、稟は初舞台に挑もうとしている。天幕の中からでも、外の熱気はわかる。なにしろこれは白眉への反攻作戦の端緒なのだ。人集めにも手を抜くわけがない。 「そう、これは作戦……。大丈夫、大丈夫ですよ、私」  鏡の中の自分に語りかけ、何とか気を落ち着けようとする。洛陽の月に預けてきた阿喜を無性に抱きしめたくなった。  阿喜。  この一年半、彼女の生活の中心に居座る娘の顔を思い浮かべる。抱き上げるのもそう苦ではなかった子は、どんどん大きくなり、いまや一人で歩き、小走りもする。最近では、一人前にすねたりなどする。  夜、寝床に就くときに、彼女に向けて子守歌を歌う。すると、彼女は寝つく前にきゃっきゃと喜んでくれるのだ。元々嫌いではなかったにせよ、稟にとって歌うことが好ましいものになったのは、そのおかげだったかもしれないと、いま、思う。 「あの娘に歌うように、歌うとしましょうか」  それでいいのではないか。なにしろ、聞きに来る者たちも、誰かの娘で、誰かの息子なのだから。 「それに」  稟は苦笑のような、けれど、明るい表情を浮かべる。 「あの娘が大きくなったとき、笑い話としてでも話してあげられるかもしれませんね」  気恥ずかしさもあれば、なぜ自分がという思いもある。それでも、そう考えれば少しは気分が軽くなるようであった。 「りーん。そろそろ時間じゃぞー!」 「稟さん、準備おわりましたー?」  ぱたぱたと転がるように入ってくる金髪のかわいらしい少女とそれを追ってきた七乃の能天気な声に、稟は、なぜか妙に安心する。 「ええ。行きましょう。私たちの『ステージ』へ」 「すてぇじ?」 「天の国の言葉で、舞台、って意味らしいですよ、お嬢様」  七乃の解説に、ぱっと顔を明るくし、大きく手を振り上げる美羽。 「おー! では、行こうではないか。妾たちのすてぇじへ!」  新たな歌姫たちによる大躍進が、今日、この場所から始まる。  6.流民 「次はにぃが南蛮に来るのにゃー」 「にぃ様、またにょー」 「にぃにぃ、まただにゃ!」 「……あにしゃま、またにゃん」 「とー!」 「ととー!」  かわいらしい肉球と猫耳とにゃんにゃん声の入り乱れる姦しい別れが過ぎた途端、軍内がいきなり静かになった、と一刀は感じていた。それだけ寂しいのだろうと自分でも思うのだが、こればかりはどうしようもない。彼としては、ただただ馬を進めるだけだった。  そうして、時折、土地の者たちに向けて三姉妹の公演を行いつつ、軍は進む。  程なく益州と荊州の境というところで、前方で出くわした一群に対する報告を斥候が持ち帰った。 「……難民か」  報告を受け、焔耶は唸る。白眉の被害を避け北上しているというその群衆は千人ほどだという。白眉にせよ、それを討とうとする各国の軍にせよ、万単位の集団が動いている中では吹けば飛ぶような小集団だ。  それでも彼らは田を捨て、家を捨てて、逃げてこざるを得なかったのだ。 「何というか……辛いですね」  大きな帽子で顔を隠すようにしている少女がぽつりと言う。雛里だけではなく、政に携わる人間にとって、難民が出るという事態そのものが苦々しいものである。 「そう言っていてもしかたありますまい。まずは南鄭、なんなら上庸あたりにも兵を走らせ、保護のための人を出して貰うと……」 「いえ、少し待って下さい」  星が言うのを遮ったのは、先ほどから何ごとか考え込み、首元の鈴を弄っていた朱里。 「我々で保護しましょう」 「それはもちろんそうですよね。放置するわけには……」  流琉が不思議そうに言うのに、朱里は首を振る。 「いえ、陣に招き入れ、二日でも三日でも、世話をしてあげようという話です」 「そこまでですか?」  百人隊をいくつかつけ、他から人が来るまで警護するか、近くの城市まで随伴するというのが常識的な対応であろう。朱里の言うのは少し大げさすぎるように皆には思われた。  民を世話することに否やはないが、それでは進軍が止まってしまう。まさか難民を進軍につきあわせるわけにはいかないだろう。 「何か考えがあるんだね、孔明さんには」  一刀が言うのに、一つ頷く朱里。彼女は彼を見つめたまま続けた。 「はい。ですが、それを説明する前に、少しいいですか、北郷さん」 「なんだろう」 「我々はこうして共に進軍する同盟軍であり、民に害なす白眉を討たんとする仲間です。他人行儀はそろそろやめてもいいと思うんです」  彼女の言葉の意味を悟り、一刀は確かめるように彼女を見る。背の低い少女にしか見えない、しかし、三国の中でも驚嘆すべき知謀を備える諸葛亮その人を。 「それって……」 「はい。朱里と呼んでください」 「あ、そ、それなら私は雛里でしゅ。あう……です」  にっこりと笑って真名を告げる朱里と、その彼女の行動に触発されたのだろう、慌てて声をあげたものの噛んでしまう雛里。二人に向けて、一刀はしっかりと頷いてみせた。 「じゃあ、俺のことは一刀と呼んでくれ。残念ながら真名がないからね」 「はい、よろしくお願いします」 「お願いします」  にこにこと笑い合う三人の風景は心和むものであったが、少々場違いでもあった。ついに愛紗が焦れたように先を促す。 「親交が深まるのは歓迎すべきことですが、そろそろ話を進めませんか」 「あ、はい」  弾かれたように姿勢を戻し、朱里が考えを披露する。 「実を言うと、いま私が北郷……いえ、一刀さんとしたことと、根は一緒なのです。簡単に言えば、実戦に入る前に、共同作業をして親交を深めようと、そういうことです」  幸い、まだ荊州に入る前であることもあって、彼らは白眉とぶつかっていない。魏軍も蜀軍も本隊は別にあるにしても、いま、ここにいる部隊の間での連携を強めておくにこしたことはないだろう。実際に戦いとなってうまく動かなかったでは被害が大きくなりすぎる。 「両軍の兵たち間でふれあう機会を作っておくということか……北伐と違って、事前の訓練が少ない分、有用ではあるかもしれん」 「難民を救うというならば、尻込みする兵もおりますまいし、都合はいいかもしれませんな」  その提案に、焔耶と星が賛意を表明する。次いで、雛里が朱里の案を補完するように付け加える。 「ただ白眉を討つだけではなく、民を救うという姿勢を打ち出せるから、他の地域の人たちにも話が広まるようにすれば、本来の、漢水流域の安定化という任務にも役立つね」 「うん。そうだね。……魏軍としてはどうですか?」  流琉と一刀は視線を交わし、頷き合ってから、朱里に応じる。 「あまり遅れない程度なら、いいと思います」 「仲間意識を作るのは大切だからね。あとは、彼らから、色々と話を訊いたらどうだろう。荊州の実態は探ってはいると思うけど、生の情報は大事だしね」  しばらく、細かいやりとりが続き、最後に朱里が確認する。 「では、彼らを保護し、三日間面倒を見ます。その後は南鄭から派遣されてくる者たちに委ねるという段取りでよろしいですか?」  朱里の言葉に皆が頷き、そうした運びとなったのだった。 「お疲れ様、流琉」  その日の仕事を終えて、自分の天幕に戻った流琉が見たものは、なにやら布をかけた卓の前に立つ一刀の姿であった。 「え、兄様?」 「まあまあ、ともかく座って」  促されて、席に着く。漂ってくる熱と香りからして、卓の上にかけられた布の下には、料理が揃っているらしいことがわかる。彼女は横に立つ男の事を不思議そうに見上げた。 「ええと、兄様?」 「三日間、お疲れ様。料理の指揮、大変だったろ?」 「え、はい。まあ……」  難民の世話をするにあたり、魏軍は主に食料面の面倒を見ることとなった。そうなると、当然彼らの食事を担当するのは流琉ということになる。  難民は、約千人。全ての料理を彼女一人が作るのは物理的に不可能だ。実際には、調理係の兵たちを指導してまわることになる。  だが、なにしろ流琉は責任感が強く、生真面目だ。さらに言えば、軍内で流琉より料理が上手い者などいるはずもない。勢い、調理している人間に教えるためにも、色々と手本を見せて回ることになる。  おそらくは自分で思っている以上に疲弊しているはずだ、と一刀は考えていた。 「そんな流琉さんに労いの席を設けてみました」 「え? うわーっ!」  言うと、一刀はかけてあった布を取り去る。そこに現れたのは、流琉の予想通りいくつもの皿に盛られた料理の数々。思ってもみなかったごちそうに、流琉は歓びの声をあげる。  だが、次の瞬間、流琉は中央に置かれた料理を認め、さらに驚きの表情になった。 「これ……はんばぁぐ……ですよね」 「うん。そうだよ」  見慣れた料理――野菜の盛り合わせや魚の煮たものなどもあるにはあるが、皿のうちの半分ほどが、一刀からかつて話を聞いたことがある、天の国の料理のようだ。いくつかは彼女自身が試作もしたから、間違いない。  しかし、華琳や流琉以外にそれを作れる者がいるかというと……。 「これ、もしかして……」  対面に座った一刀の顔を見上げると、こくりと頷かれる。 「うん。俺が作った。まずくはないと思うんだ。もちろん、流琉や華琳には及ぶべくもないけど、味見しながら作ったから、食べられるものには……」 「ありがとうございます!」  一刀が自信なさげに言いつのるのを遮って、流琉は破顔して大きな声で礼を言う。その勢いに、用意した一刀の方が目をぱちくりさせていた。 「喜んでくれて嬉しいよ。いつもは俺がごちそうしてもらってばかりだから、たまには……ね」  酒と酒杯を揃えながら一刀は微笑み、ふとなにか思い出したように付け加える。 「あ、でも、お腹がすいてなかったら無理しないでな」 「いえ、多少は食べたんですけど、後始末とかしてたら、すっかりお腹へっちゃって……」  それから彼女は照れくさそうに笑う。 「それに……その、実は……へとへとだったんですよ。だから、お腹すいてるけど自分で作るのはちょっときついと思ってたところで……。そういう意味でもありがたいんです」 「料理は体力勝負なところあるしなぁ」  それもそうなんですけど、と流琉は呟く。 「酢豚五百人前とか……しばらく酢豚は見たくありません」 「あー……」  あんまりにも大量に作りすぎて、げんなりしてしまったというところだろう。野戦では大量の料理を作ることもあるが、それにしても百人隊単位だし、粥などが多い。炒め物を五百食も作るのは珍しい。 「まあ、じゃあ、食べてくれよ」 「はいっ!」  元気に言った流琉は、しかし、箸を持ったところでふと動きを止める。 「兄様は食べないんですか?」 「ん……いただいていいの?」  一応は一刀の前にも箸は置いてある。しかし、彼はそれを手にとってはいない。少しはお相伴にあずかろうとは考えていたものの、まずは流琉が食べてからと思っていたのだった。 「ええ。一緒に食べる方が楽しくて美味しいですから」  だが、彼女は本当に嬉しそうに笑う。にこにこと琥珀色の瞳まで笑みで彩って。 「そうか」  一刀もその様子に嬉しくなり、箸を取る。 「いただきます」 「いただきます!」  二人の声が重なり、そうして一刀の手料理を味わう食事が始まった。 「んー。おいしいっ」 「はは。ありがとう」  満面の笑みで料理を口にする流琉の様子を眺めながら、流琉はいつもこんな風に喜んでいるのだろうか、そうであってくれればいいのだが、などと思う一刀。 「兄様」 「ん?」  しばらく食べ進み、料理を口に運ぶ速度もゆったりと落ち着き始めた頃。彼女はふと切り出した。 「天の国に帰りたいって……思ったりはしませんか?」  男は、聞き間違いかと思った。いや、そう思いたかった。  だから、問い返す声は、かすれて震えていた。 「……流琉?」 「あの人たちをお世話していて……みんな、言うんです。帰りたい、戻りたい、でも、怖いって」  白眉がいる間は戻ることは出来ない。だが、出来ることならば、故郷で生きたい。彼らはそう漏らす。中には、どうせ死ぬのならばあの家で死にたいと愚痴る老婆すらいた。 「でも、白眉は私たちがやっつける。そうですよね?」 「ああ。そうだな」 「だから……あの人たちは帰れる。それに、兄様の世界には、白眉なんて……いませんよね? だから、もし……」  小さく、細く、消え入るように問いかける声は、唐突に絶える。  いつの間にか、自分でも気づかぬうちにうつむいていた流琉は、彼が席を立ち、己の傍らにいることに気づけていなかった。  だから、不意にぎゅうと抱きしめられ、飛び上がるほど驚いた。 「に、兄様?」 「流琉」  彼は、彼女の名を呼ぶ。椅子ごと抱きしめるようにしながら、あるいは、彼女にすがりつくようにしながら。 「流琉を……流琉たちを手放したくないんだ」  彼女の体に回った腕に込められた力は強くない。まるで壊れ物に触れるように、彼は彼女に触れている。 「俺のわがままかもしれない。でも……いさせてくれ」  その言葉を。  震えて、言葉にならぬほどの哀訴を聞いた途端、彼女は胸がきりきりと痛むのを感じた。  喉からは嗚咽が漏れ、頬を熱いものがこぼれ落ちる。 「……ごめんなさい、兄様。ごめんな……」  謝罪の言葉を途切れさせたのは、彼の熱い唇。彼女の方からも押しつけたそれが、わずかに離れて彼の言葉を伝える。 「流琉と、いたい」 「兄様」  彼女は抱き返す。彼の温もりを少しでも感じられるように。彼をつなぎ止めるように。 「帰らないで、くだ、さい」  ありったけの力で男に抱きつきながら、彼女はそう言う。  顔を涙でくしゃくしゃにして、彼女はそう懇願する。      (玄朝秘史 第三部第三十二回 終/第三十三回に続く)