恋姫†無双小劇場 「大きくなったら」  休みの取れたある日、一刀は紫苑たっての頼みで買物に付き合うため街へと繰り出していた。  迫力がありつつも均整のとれた体型を誇示するように優雅に隣を歩く紫苑と、彼女同様に紫色をした髪の幼女と共に和気藹々と日がな一日を楽しまんとばかりに三人とも笑顔を絶やしていない。  そんな一刀たちの前に大きな人だかりができており、何やら口笛を吹く音やら楽器を演奏するような音が聞こえてくる。 「何やってるのかなー?」 「そうね? 何かしら……あら、あれは」 「どうしたんだ、紫苑」 「いえ、あの女の子……」  人垣の中心で恥ずかしそうに頬を赤らめながらも幸福に彩られた美しき笑みを湛えている女性が男性と腕を組んでゆっくりと歩いている。  周囲の者たちからは祝福の声が浴びせられて二人は気恥ずかしそうにしながらも幸せオーラをまき散らしている。  これから、一つの道を共に歩いていくことを誓い合った二人なのだろう。  離れた所にいる一刀にまでも二人を包む暖かく甘ったるい空気が漂っている。 「おめでとー!」 「幸せになるのよー!」 「うう……ありがとね! ありがとね!」 「後でたっぷり時間をかけていろいろ聞かせて貰うからなー」 「ほどほどにしてくれよなぁ」  知り合いにもみくちゃにされて困ったような顔をする男性の袂では女性がうれし涙という宝石を瞳に備えている。 「……幸せそうだな」 「ふふ、興味がおありですか?」 「どうだろうな。でも、ああいうのはいいな。なんだか」 「人と人が出会い、結ばれる……そういった合縁奇縁を積み重ねながら人は生きていくのです」 「なるほどなあ。縁、か」 「ふふ、わたくしとご主人様が出会いこうしてお側にいられることもまた一つの縁ですわね」 「あ、あのなぁ……」 「ねーねー、璃々は? りりはー?」  紫苑の言葉に照れくさくなり視線を彼女から仲間たちに送られていく花嫁と花婿の様子へ向けていた一刀とまたしても可笑しそうに笑う紫苑の間で幼い璃々がぴょこぴょこと小さな身体を一生懸命撥ねさせている。  紫苑は、膝を折ってしゃがみ込むと愛娘ににこりと笑うとそっと語りかける。 「璃々とだってあるわ。もちろん、璃々とご主人様にもね」 「ホントーに?」 「ええ。絶対に」 「ごしゅじんさま?」 「ああ、ちゃんとあるよ」 「やったー! 璃々もなっかま、なっかま、なっかっまー!」 「あらあら、この娘ったら」  二人の周りをぐるぐると周りながら悦びを露わにする璃々を慈しむように微笑を浮かべる紫苑、一刀もつられるように頬を綻ばせる。 「ところで、ご主人様。ご結婚は?」 「え? いや、別に俺は……ほら、そのあれだし」 「そうですわね。ご主人様がもし式をお挙げになるとしたらそれは想像だにしないような大騒動となりますものね」  口元に手を添えながら紫苑がそう言う。その指の隙間からはくすくすと小さな笑い声が溢れている。 「……否定できない自分が情けない」 「あら、少しでも多くの女性を娶り優秀な種を後世に残す……それも立派な統治者の役目ですわ」 「優秀ねえ……俺よりは、紫苑の方が何十倍も卓然としたものをもってると思うんだけど」 「では、わたくしと式を挙げてくださるのですか?」 「それは、その今は保留で」 「仕方ありませんわね。あまり困らせるのも良くありませんから」 「ねえ、ごしゅじんさま?」 「ん? なんだい? 璃々ちゃん」 「璃々もご主人様と結婚したーい!」 「ぶっ!?」 「あらあら」  無邪気が故の璃々の発言に一刀は頭を掻きながら眉を顰める。 「こ、困ったな……」 「よいのではないでしょうか。本人が乗り気ならば」  相も変わらずニコニコと楽しそうに笑っている紫苑をちらりと見ながら一刀は寸秒だけ思案を巡らせると小首を傾げて見つめてくる璃々と視線を合わせて笑顔で頷く。 「そうだな。璃々ちゃんが大きくなったらしようか」 「えー、今じゃだめなのー?」 「残念だけどね。紫苑ほどとは言わないけどちゃんと大きくなったらね」 「おむねが?」 「違うからね! 紫苑、普段璃々ちゃんに何を言い含めてるんだ!」  しょんぼりと表情を曇らせながらぽんぽんと真っ平らな胸元を平手で打つ璃々に驚いた一刀は紫苑の方を見る。だが、彼女も「あらあら」と困ったような反応をしながらも口元は楽しそうに笑っている。 「ご主人様は乳房でご奉仕されるのがお好きなのでは?」 「いや、まあ。それはそれで好きだけど他のことだって……って、そうじゃないから」  舌なめずりしながらじっと熱い視線を注いでくる紫苑に肩を落としつつ一刀は再度璃々を見る。 「いいかい、俺は女の子を胸で判断したりはしないよ。無論、あったならあったで魅力的だけど……じゃなくて」  そこまで言ったところで一刀は腹部に雷鳴が轟くのを敏感に感じとった。 「く、よりによって、こんなタイミングで……わ、悪い、俺ちょっと厠に」  そう言い残すと一刀は新郎新婦が立ち去ったことでまばらとなった人の波を掻き分けながら一目散に駆け出すのだった。  †  急な腹痛から戻った一刀は紫苑、璃々の親子と共に食事をした後、城へと戻ってきていた。  すっかり辺りも暗くなって空から降り注ぐ月光が床を照らしている。  背中に眠る璃々をおぶった一刀は紫苑を部屋へと送り届けた。  起こさないように愛娘を受け取る紫苑に二言三言告げて立ち去ろうとする一刀だったが、紫苑に引き留められる。 「ところで、ご主人様?」 「なに?」  まだ、何か用があるのかと彼女の方を向くと、前髪と夜陰が混じり合った影響なのか、顔に影が差し、瞳がギラリと光を帯びている。 「先ほど、ご主人様が璃々に仰った『わたくしほど大きく』というのは、もしかして、年齢が――」 「違うよ。紫苑は十分若いし美人じゃないか、それだけは俺としても譲れないな」 「ご主人様ったらお世辞がお上手なんですから」 「本音だよ」 「ふふ、嬉しいのでご奉仕を……と言いたいところですけど、璃々もおりますので本日はここでお別れとさせていただきますね」 「ああ、おやすみ」 「ええ、おやすみなさい……あなた」  その言葉が届いて間もなく、一刀にちゅっという小さな水音と唇にほのかな感触が訪れるのだった。  †  紫苑たちと街を回った翌朝、寝台で眠りこけている一刀の耳にどたばたと騒がしい足音が入りこんでくる。 「ん、なにごとだぁ?」 「ご主人様ー! いるー?」 「はいはい、いまふよ~」  扉を開け放って飛び込んでくる女性の姿を寝ぼけ眼で捉えながら一刀は返事をする。 「むにゃ……誰?」 「えへへ、ねえねえ、お胸大きくなったんだよ!」  一刀は、その言葉を反芻しようとするも、頭の中が半ば白一色になったままでその意味が脳にまで伝達されない。  その間に枕元に現れた女性が一刀の手をとって胸元にそっと添えている。  性格に動いていない頭からは「揉め」と信号が発せられ一刀はそれに従うように手を動かしていく。 「おお……やわらけえ、やわらけえ。この感じは紫苑にしては小さいし……桃香や愛紗にしては大きいような……」 「ん、くすぐったいよぉ……ご主人様」 「って、な、なんだ!」  ようやく脳が正常稼働を開始したところで一刀は寝台の上で飛び跳ねる。  改めて、女性を観察するが一刀には見覚えがあるようでない。 「えっと、どちらさまでしょうか?」 「何言ってるの? 璃々だよー」 「え?」  一刀の下顎が外れんばかりにがくんと下がる。 「ええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇええええええええ!」 「ごしゅじんさま! 朝は静かにしないと、めっ!」  璃々は母から特徴を受け継いだらしい瞳を真剣なときに見せるきりりと鋭いものへと変えて一刀を睨み付けてくる。  妙に迫力のある眼で叱られた一刀は寝台の上で正座をして頭を下げる。 「す、すみません」  一刀は謝りながらも璃々を改めて見る。  背丈は紫苑より肩一つ分小さいとはいえ、昨日までとはすっかり見違えて大きくなっており、顔立ちもあどけなくぷよぷよとした柔らかそうなものから引き締まったものへと変貌している。  鋭角さが目立つほどにシャープな線を見せる顎、母と似たくせのある紫の髪は普段と同じ髪飾りで結ってツインテールになっている。 「しかし、驚いたな……一体、何が?」 「ねえ、ご主人様ー」 「ん?」 「お胸大きくなったんだから結婚しようよー」 「げほっ!? 急に何を言い出すんだ」 「ほら、大きくなってるもん」  璃々はそう言いながら満面の笑みで自分の胸をぐにぐにと揉んだり寄せたりして強調する。 (さ、さっきなんで俺は寝ぼけてたんだよ……感触が記憶に残ってない……)  先程触れた自らの掌を見ながら一刀は後悔の念に押し潰されそうになる。 「ね? だから、いいでしょ?」 「い、いや。とにかく、結婚は駄目!」 「えー、なんでー!」  ぷうっと乳袋のように頬を膨らませる璃々に一刀は首を振る。 「胸が大きくなればいいってもんじゃないんだよ」 「ええー、折角背もお胸も大きくなったのにぃ」  紫苑と似た切れ込みの入った服を着た美女という見た目に相反する甘ったるい舌っ足らずな喋りは一刀の背筋をぞくぞくとさせる。 (い、いかん……紫苑のようで大人びているのに子供っぽい……ギャップがたまらん)  一刀はよろしくない感情に支配されそうになる頭をぶんぶんと振り回して邪念を追い払う。 「ごしゅじんさまのうそつきぃー」 「……いや、だからね。その」  見た目が大人でも中身は子供、納得がいかないとなれば駄々をこねることもあるようで、璃々は口先を尖らせて一刀を上目でじっと睨み付けてくる。 「はあ、わかったよ。結婚は無理だけど、デートしよう、デート。わかる?」 「でーとって、よくお母さんとしてるのであってる?」 「し、紫苑はどこまで話してるんだよ……まあ、そういうことだね」 「やったー! ご主人様とでーとだー!」  嬉しそうに飛び跳ねる璃々。普段と違い胸元に携えている大きな果実までもが嬉しそうにたゆんたゆんと彼女の気持ちを表すように弾んでいる。  一刀がその魅惑的な動きに視線を釘付けになっていることを自覚するのは彼女が不思議そうに訊ねて胸の動きが止まるまでかかるのだった。  †  慌てて準備をした一刀は璃々をつれて自室を後にした。  廊下を歩きながら一刀は隣を恋人として歩いても違和感のない姿で歩いている璃々に話を聞く。 「ねえ、璃々ちゃん」 「なーにー?」 「紫苑は知ってるのかな、その……大きくなったってこと」 「うん。すっごくびっくりしてたけど、ご主人様に一目見てもらったらって」 「何考えてるんだ、紫苑は……」  母親としてその反応はありなのかと一刀は額に手を当て、璃々はそれを不思議そうに見つめる。  そんな二人の前に二人の少女が姿を見せる。 「お、ご主人様じゃないか」 「ご主人様、おはようございます」 「ああ、愛紗に翠か。おはよう」  二人の姿に気がついた一刀は頭を抱えるのをやめて手を上げる。  だが、何故か二人の表情は非常に険しく恐ろしい。 「それで、そのものは一体何者ですか?」 「え?」 「よもや、どこかの刺客かもしれない女をおいそれと閨に……」 「このエロエロ魔神! ま、まままままさか、そいつを正室として迎えるんじゃ……てことは、あたしら用済みかよ」 「なんとっ! それはあまりにも残酷な仕打ちではありませんか!」 「ちょっとちょっと、俺は何も言ってないんだけど!」 「どういうことかきっちりとお聞かせ願います!」 「ちょっ、まって――っ!」  それから一刀は話を聞いてくれない愛紗と翠にしばし痛めつけられ、それを止めようと璃々が「ご主人様」と言ったがために更に酷い仕打ちをうけるのだった。  そうして一刀をぼこぼこにしたところで冷静さを取り戻した二人は漸く彼の説明に耳を傾けてくれるようになった。 「なんと、そうでしたか。まさか璃々だったとは……しかし面妖な事態ですね」 「まったくご主人様は馬鹿だなあ、それならそうと先に言えよな」 「話を聞かなかったのは君たちでしょうが!」 「大丈夫? ご主人様」  ぼさぼさになった髪を整えるようにそっと撫でてくれる璃々に一刀の目頭が熱くなる。 「うう……心にしみるなあ」 「ぐっ、し、しかし、ご主人様。如何に璃々がこのような姿になったからと言って手を出されるようなことは」 「してないし、しないよ」 「ホントか?」 「なんだ、翠? そんなにさっき言ってたことが心配なのか? 大丈夫、俺は翠のこと好きだぞ。絶対に手放さない」 「う、ううううるさい! な、なななな何わけわかんないこと口走ってるんだー!」  顔を真っ赤にして喚き散らす翠を見て愛紗がますます表情を険阻なものへと変えていく。 「ご主人様、そうして翠を丸め込むのを見せられては、信用できませんよ」 「疑い深いな……これでも中身はいつもの璃々ちゃんなんだぞ」 「しかし、ご主人様は見境がないですから」 「うんうん。欲情の権化だもんな」 「あのなあ……」  疑わしさ満載の視線を向けてくる二人に一刀が頬をひくつかせていると璃々が一刀の裾をくいと引っ張る。 「ねえ、ご主人様、それよりはやくでーといこうよ、でーと」 「……ほう?」 「あ」  璃々に向けた顔をゆっくりと二人へと戻す。  目の前に二人の鬼が立っていた。 「ご主人様、少々お時間を頂けますか?」 「奇遇だな、あたしもちょっと訊きたいことがあるんだ」 「璃々よ、ほんの僅かな間ご主人様を借りるぞ?」 「うん、いいよー」 「そんじゃ、行こうか。ご、しゅ、じ、ん、さ、ま」  音も無く両脇へと移動した二人に腕を掴まれ一刀は廊下から外へと引きずられていく。  庭園にある生け垣などによって、ちょうど誰からも見えない所へ向かっていく二人に一刀の冷や汗は絶えない。 「え? ちょっと、お二人さん? な、なんで人目のないところへ? や、優しくお願いします!」  †  二人にこってりと絞られてズタボロとなった一刀は、璃々の面倒を見るという理由で正式に休みを貰い、彼女を連れて街へと繰り出していた。  昨日回っているが、内面が幼い璃々を連れて遠出というわけにもいかないため致し方なかった。 「ねえ、ご主人様、たんぽぽお姉ちゃんどうしたのかな?」 「璃々ちゃんが知る必要はないよ」  出かけるときに門の前で蒲公英と出会ったが、訓練から帰ってきた彼女は焔耶に紙一重で負け、馬鹿にされたことに腹を立てていた。 (なんか、街中の犬を集めて焔耶の部屋に放り込みそうな勢いだったけど、大丈夫かな。焔耶)  何かトラブルに巻き込まれそうな少女に同情の念を送りつつ一刀は璃々に腕を組まれたまま街を回っていく。  急な肉体のみの成長を果たした璃々が少々心配ではあるが紫苑が何か知っており、対処も任せられるとふんで一刀は彼女にデートを満喫させようと心がけることにする。 「さて、まずはどこから――」  一刀の言葉を遮るように可愛らしい音が璃々のお腹から聞こえてくる。 「取りあえずは食事かな」 「うん!」  二人は連れそって一見の飯店へと足を運ぶと、見知った顔が並んでいた。 「あ、お兄ちゃん!」 「おや、お館様。横におるのは……なるほど、璃々ですか」 「あれ? よくわかった」 「えー、璃々って、あの璃々ー?」  杯を手にふっと微笑を浮かべながら桔梗が零した言葉に鈴々が丼を抱えながら眼を丸くしている。虎の髪飾りまでもが驚愕の表情を浮かべているあたり驚きの程がよく分かる。 「ふふん。凄いでしょー」 「す、凄いのだぁ……ま、負けたのだ」  璃々と自分の胸元を見比べ、更に桔梗のふくよかな胸元を見ると鈴々はがっくりと項垂れる。  少々哀れになり一刀は慰めの言葉をかける。 「なに、鈴々だって時が経てばきっと大きくなるさ」 「ホントに?」 「まあ、誰しも背は多少大きくなるだろうな」 「む、胸は大きくならないのか!?」 「桔梗……余計な一言挟まないでくれないか」 「いえ、やはり現実を加味して考えねばならないと思いましてな。これも一つの心遣いというやつです」  そう言って桔梗は片手で頬杖を突いたまま酒をあおる。 「……俺にはただの意地悪にしか聞こえないけどな」 「はっはっは。まあ良く聞け鈴々よ。良き女となりたいのならば、酒の一樽や二樽は軽く飲み干せねばいかんぞ」 「の、呑むのだ! いくらでも呑んでやるのだー!」 「あ、璃々も璃々も-」 「二人ともやめなさい。桔梗もそうやって、こんな明るいうちから堂々と酒を勧めようとするなよ」  鈴々に杯を渡そうとする桔梗を遮りつつ一刀は璃々と共に席について食事始めるのだった。  †  食事を終えた二人は桔梗と鈴々に別れを告げて街の散策を続けることにした。  目線が違う街並みが珍しいのか璃々は常にきょろきょろと辺りを見回してはふらふらと店へと歩を向けている。 「あ、あれなんだろ」 「そんなに急がなくても……ま、いいか」  興味を惹かれるのも無理はないと諦めて一刀は彼女のそばを離れずに付添いを続ける。  それから二人は露店に屋台と多くの店を見て回る。  たまたま開かれていた劇も見たりした。 「劇、面白かったね-」 「そうだな、また見にきたいな」 「特に華蝶仮面が格好良かったね。まるで本物みたいだった」 (本物なんだけどな……あれ)  本家華蝶仮面が何故か舞台上で客を魅了していた。  そんな楽しい時間も過ぎていく。  辛い時間は長いのにこういった時間は短く、あっというまに夕日が街を照らす時刻となっていた。 「すっごく、楽しかったね。ご主人様」 「そうだな……後はどうしようか」  相手の内面が見た目と釣り合っているならどこか眺めの良いところにでも連れて行きたいところだが残念なことにそうはいかない。  どうしようかと思案に暮れる一刀だったが、ぽんと手を打って璃々を見る。 「そうだな……服屋にでも行こうか」 「服屋?」  一刀を見上げるように訪ねる彼女の顔は夕日を浴びて一段とその美貌を増している。  胸がどきりと高鳴るのを感じつつ一刀はにこりと微笑む。 「ああ、記念に何か買おう」 「いいの?」 「もちろん。今日はデートなんだからな」 「わーい!」  このときの一刀はまだ気がついていなかった。  自分が璃々に向ける視線が親の愛情によるものとは違っていたことを。  †  服屋で璃々の服を選んだ一刀は、璃々を先に外へ行かせて店主への支払を行っていた。  店主に礼を言って商品を持ったまま外へと出ると、璃々の姿がない。 「あれ?」  驚いて視線をせわしなく動かすと、離れた所に彼女の姿を見つける。 「璃々ちゃん……って、あいつらなんだ?」  璃々の周囲には複数の若い男が集まり笑顔を浮かべて何か語りかけている。 「どう、お茶しない?」 「お茶?」 「そうそう。ほんのちょっとでいいからさ」 「えっとねーうーんと」 「俺たちと一緒に遊ぼうぜ」 「遊ぶの? それならいいよ。でも、璃々ねー、ご主人様待ってるから」 「それじゃあ、そいつ……いや、その人がくるまででいいからさ」 「それならいいよー」 (ナンパか……)  璃々と親しく話す男たちを見て一刀の心がざわめきだつ。  むしゃくしゃしてしたかがない。  荒立つ思いに冷静な表情を被せてその場を去ろうとする璃々たちに近づいていく。 「璃々ちゃん、お待たせ」 「あ、ご主人様!」 「…………ちっ」  一刀がじろりと睨み付けると、男たちは舌打ちして蜘蛛の子を散らすように立ち去っていった。  ふう、と一息吐くと一刀は咎めるように璃々に話しかける。 「璃々ちゃん、駄目だろ。知らない人についていこうとするなって紫苑もいつも言ってるじゃないか」 「今の璃々は大人だから大丈夫だよー」 「大丈夫じゃない」 「ご主人様、なんで怒ってるの?」 「怒ってなんかない。ほら、帰るぞ」  本当は苛立っていた。  理由はわからない。  璃々を一人にさせていたことに対する自責の念か。  それとも璃々が自分以外の男に見せる笑顔に対する感情からなのだろうか。 「くそっ」 「あ、ご主人様、待ってよ」  そのまま璃々と一切口をきくことなく一刀は彼女を紫苑の部屋へと送り届けた。  紫苑が何か言いたそうな顔をしていたが、一刀は気付かぬふりをして二言三言だけ話して部屋を後にして自室へと戻った。 「やっちまったなぁ……」  ついカッとなって璃々に冷たい態度をとったことに一刀は今更ながらに後悔していた。 「あ、服もってきちゃったよ。本当に俺どうかしてるんじゃないのか?」  ぼやきながら服を机の上にそっと置くと一刀は寝台に横になって眠ってしまう。  気がついたときには窓から差し込む月の光に照らされている場所以外は暗くなっていた。 「いっけね。寝ちゃったんだな」  あくびが口から溢れるのを堪えながら一刀は燭台に火を付ける。  すると、機を見計らったように扉が叩かれる。 「誰だろ。もう遅いだろうに」  首を捻りながら扉を開けた一刀に向かって人影が体当たりをしてくる。 「な、なんだ?」 「ご主人様……」 「り、璃々ちゃん?」  未だ身体の大きいままの璃々が一刀の腰に腕を回して抱きついていた。  湯上がりなのだろう、ほんのりと香る石鹸と彼女自身の匂いが一刀の鼻腔をくすぐる。 「ど、どうしたんだ?」 「ごめんなさい」 「…………」  詫びる言葉に混じる嗚咽で一刀はようやく彼女が泣きじゃくっていることに気がついた。 「何かあったのか?」  璃々は言葉では答えず首を横に振るだけ。よくわからず一刀は頭を掻きながら優しく語りかける。 「何がごめんなさいなのか、聞かせてくれないかな」 「ごしゅじんさま……ぐすっ……嫌いになっちゃやだ」 「璃々ちゃん?」  思いがけない一言に一刀の脳内はますます混乱していく。 「あのね……璃々ね、ずっと怖くて……」 「怖いって何が?」 「ご主人様に嫌われちゃったって……思ったら……」  一刀は鈍砕骨で頭を殴られたような衝撃に襲われる。 (俺は馬鹿だ……)  確かに一刀に抱きついている璃々は大人と言って過言ではない。しかし、その内面は幼女であり、精神的にもまだ安定しきっていはいない。  普段の璃々も紫苑の娘とあってしっかりしているところがあるとはいえ、まだ子供なのだ。  一刀はそれを改めて思い知らされ申し訳ない気持ちで一杯になる。 「ごめんな、璃々ちゃん」 「ごしゅじん……さま?」 「ごめん……ホント駄目だな俺は」 「あのね、璃々……ご主人様に嫌われるくらいならすぐに元に戻るうって思ったたの」  少し落ち着いてきたのか璃々は鼻を啜りながらたどたどしくも言葉を連ねていく。 「でも、この姿で怒らせちゃったから、ちゃんとこのままで謝りたかったの」 「そっか、偉いな」  一刀は静かに笑みを作ると璃々の頭をそっと撫でる。  どういった方向に関するものかは判断しづらくあっても、胸に抱く女性を一刀は愛おしく思う。  下ろしたらしい髪の毛もよく見れば紫苑に負けないほど長く美しいものとなっていた。 (これは見た目だけの変化だ……)  いつかはそうなるのだろう。だが、それは今ではないのだ。 「なあ、璃々ちゃん。俺、実は璃々ちゃんが急に変わったから吃驚しちゃったんだよ。多分、それで混乱して……なのに璃々ちゃんに当たっちゃったんだ」  安心させるように背中を掌でさすりつつぽんぽんと軽く打つ。 「だから、別に璃々ちゃんを嫌ったりしてないよ」 「でも……ごしゅじんさま、おおきくなったら結婚してくれるっていったのに……あさ嫌がったもん。やっぱり、璃々のこと好きじゃないんでしょ?」 「うっ、そ、それは」  もっとちゃんと説明をしておくべきだったと一刀は一層反省の想いを強めていく。 「おむねだって背だって大きくなったのに……」 「璃々ちゃん。いいかい、俺が言ったのは……心の大きさなんだ」 「こころ?」 「そう。紫苑と一緒にいて暖かくなったり安心したりすることってないかな?」 「うん、ある」  こくこくと頷く。  あまりに真剣に話を聞く璃々に一刀は思わず頬を綻ばせる。 「その暖かさやほっとするような気持ちを他の人に与えられるような人が心の大きな人なんだ。そして、そういう人は誰しも何かを守るためにそうなるんだ」 「ふうん、なら、ご主人様もおおきいこころを持ってるってことでしょ? 璃々、ご主人様と一緒のときはお母さんといるときと同じくらいにおむねがぽかぽかしてくるもん」 「ありがとな。それで、もし璃々ちゃんが紫苑くらい大きな心を持てるようになったのならそのとき……ちゃんと璃々ちゃんとのこと、考えるよ。約束だ」 「うん、やくそく……だよ」  蕩けたかのような声でそう言うと璃々は眼を細めて唇を重ねてきた。  一刀はそれを受け入れて眼をそっと閉じる。  ほんの数秒限りの口付けだった。 「……やっちゃったな。俺……ロリコンなのかな」 「……うぅん、ごしゅじんさまぁ」 「いつの間にか寝ちゃったのか。おやすみ、璃々ちゃ――璃々」  身長と同時に長々と伸びた璃々の髪をそっとすくう。  指の隙間をさらさらと流れ落ちていく細くて艶のある髪は彼女の母と全く同じ。 「こうやって、下ろしてると一層長さがわかるってもんだな」 「むにゃ……ごしゅじんさま……だーい好き」 「嬉しいこと言ってくれるよ。ホント」  幸せな夢でも見ているのか口元をほころばした璃々が浮かべる微笑を前にして一刀はいつの間にか心が温かくなっているのに気がつく。 (やれやれ、これは将来有望だな)  もにょもにょと動く唇を見ながら一刀は口元に感じた温もりを思い出しぽつりと呟く。 「それにしても、感触は紫苑と似てたしやっぱり親子なんだな」 「ごしゅじんさぁま……」 「……気持ち良さそうに寝ちゃって」  一刀は自分の胸にもたれかかって眠りについた大きな璃々をそのままにそっと抱き直すと、義娘の姿にほころばせていた口元を一文字にして窓の方へと声をかける。 「星、どうせ、覗き見してるんだろ」 「おや、ばれておりましたか」  その声と共に窓から白い影が滑り込んでくる。  露草色の髪を掻き上げながら身体を起こした星に一刀は眼をほそめながら肩を竦める。 「いつからお気づきで?」 「なんとなく、な。大方、劇場で俺と璃々ちゃんが一緒にいるのを見てあちこち調べてたんだろ」 「おや、まるで見てきたかのような発言ですな」 「俺は星の姿を見かけたからな。それより、覗きなんてあまり良い趣味とは言えないぞ。まったく」 「主君の身を案じておるだけです。まあ、ほんのちょっぴり興味本意と言えるかも知れませんが」 「はいはい、嘘は良いから。悪いけど、紫苑たちに言って璃々ちゃんが眼を覚まし次第元に戻しに俺の部屋へ来るよう伝えてくれないか」  不敵に笑って誤魔化す星を無視して一刀は用件を述べる。 「御意。それにしても、この寝顔一つとっても間違いなく璃々が将来男たちを骨抜きにする良き女となるのが覗えますな」 「笑ってないでさっさと行ってくれ。あんまり長く喋ってると璃々ちゃんが起きちゃうだろ」 「ふむ。まるで父親のような顔をしておりますぞ、今の主は」 「まるで、じゃなくて俺はこの娘の父親なんだよ。例え、どんな姿になっていてもな」  姿は大きくなって美女となっているが、その中身は未だ可愛らしい幼い少女のまま変わりはない。今の一刀はそう思う。 「やれやれ。本当に璃々が成長したとき、その言葉を聞いたら何と反応するか……」 「ま、そのときはそのときだ。今はまだ璃々ちゃんの父親でいいんだよ。俺は」 「それもよろしかろう。では、長居しすぎました故、お暇させていただきます」  おかしそうに小さく笑いを浮かべると星は静かな足取りで外へと出ていこうとする。 「あ、ちょっと待ってくれ」 「まだ何か?」  顔だけ振り返った星に一刀は咳払いしてから伝え忘れたことを述べる。 「璃々ちゃんは劇場を出た後、眠ってしまった。そういうことにしてくれと紫苑に伝えてほしい」 「おや、それでよろしいのですか?」 「だから言っただろ。璃々ちゃんにとっての俺はまだ父親のような存在であればいいんだ。まだ幼いんだから色々と余計なこと考えさせたら可哀想だろ」 「ふむ。しかと承りました。紫苑にはそう伝えておきましょう」  そう言うと星は今度こそ部屋の外へと出て行った。  口付けによって眠りへと誘われた璃々。彼女が起きたとき、この部屋であったことは全て夢となる。  それから彼女がどうするのかは、璃々次第。  一刀はこれから彼女が辿るであろう道をそっと見守っていこうと密かに決意するのだった。  †  翌朝、仕事のために部屋を出た一刀は璃々の事が気になり紫苑の部屋を訊ねた。  割と早めの時間にもかかわらず紫苑は起きていた。 「あら、ご主人様。どうかなさいましたか?」 「いや、璃々ちゃんはどう?」 「無事、元に戻りました。ただ、身体が大きいときにため込んだ疲れがどっと押し寄せたようで、今日はきっと長く寝てることになりそうですね」 「そうか。昨夜星から伝えられたと思うけど」 「承知していますわ。ちゃんと璃々には言い聞かせておきます」 「悪いな。俺のわがままで」 「ご主人様の事ですから、璃々の事をお考えくださったのでしょう?」 「どうだろうな。もしかしたら、俺自身が考える時間が欲しかったのかもしれないよ」 「ふふ、本当にお優しい御方」  そう言って朝露に濡れた花弁のように目映い笑顔を浮かべた紫苑に眼を奪われた隙に一刀は彼女に唇を奪われていた。 「璃々とどちらの方がよろしかったですか?」 「っ!? せ、星から聞いたのか……」 「ええ。璃々の母ですから。しっかり把握していないといけませんもの」 「……お、俺、仕事あるから。それじゃ!」  そう言うと、一刀は逃げ出すように紫苑の元を後にした。  それから政務室へ向かおうと廊下を歩いていた一刀だったが、途中で忘れ物に気がつき自室へ戻ろうと走りだす。  そんな折、庭園の方から普段と違う喧騒が聞こえてくる。  何だろうかと興味を持って中庭の方へと向かった一刀に瞳に予想外の混乱が映り込んだ。 「いーやーだー! 犬やーだー!」 「わうわう!」 「びぇぇぇええ!」  黒くつやつやとした中、一部の前髪の白い幼女が犬から逃げ回っている。  必死に逃げる姿は普段、鈍砕骨を振り回して暴れ回っている彼女の姿とかけ離れておりほほえましさすら感じさせる。  そんな様子を見ながら愉快そうにあくどい笑みを浮かべている少女がいる。 「あはは、こうなっちゃうと魏延文長も形無しだね」 「やれやれ……蒲公英よ、相手は童なのだから、あまりいじめてやるでないぞ」  蒲公英の横では、桔梗が酒を片手にしょうがないなと言わんばかりに苦笑を浮かべている。 (いや、止めてやれよ……) 「でもでも~、焔耶にはこの間のお返ししないと気が済まないんだもん。だから、その分だけ、ね? いいでしょ」 「ひぇぇぇー、誰かたちけてぇ!」 「わふー!」 「…………セキト、楽しそう」  ほのかに笑みを浮かべる恋の傍に歩み寄りながら一刀は頭を掻いて眉尻を下げる。 「とんだ騒ぎだな」 「おお、お館様。一献どうですかな?」  杯をくいと突き上げながら頬をほんのり染めた桔梗が秋波を送ってくる。ため息混じりに手を振ると、一刀は桔梗の横で立ったまま額に手を置く。 「桔梗じゃないんだから、こんな早くから酒なんか飲めるかよ……で、どういう状況なんだ、これ」 「うむ。それがですな。昨日、紫苑のやつが璃々を元に戻すために与えた不思議なあめ玉、あれの効果も知らずにくすねた馬鹿者どもがおりましてな」 「なるほど、そのなれの果てがあれか」 「お兄ちゃん!」 「鈴々、どうしたんだよ」 「な、なんとかしてほしいのだ」  涙目で助けを求める鈴々の背後に向けてポニーテールをしたふと眉の幼女と長くしっとりとした黒髪を一部で結っている幼い少女が駆けてくる。 「こっちもかよ……」 「た、助けてほしいのだぁ!」 「いや、流石にこうも混沌としてるとな」  セキトから逃げ回る焔耶には更に張々やコリンまでじゃれついて阿鼻叫喚の体を成している。  鈴々の方は翠と愛紗にスパッツを両側から引っ張られて身動きが取れなくなっているようだ。 「あー! りんりん、ごしゅじんしゃまのひとりじめはゆるしゃないぞ! あたしだって、ごしゅじんしゃまとあそびたいんだ!」 「そうだじょ! なかまはずれにしたり、いじわるしたりするやつはこのせいりゅうえんげちゅとうのさびにしてやる~」 「お兄ちゃん、なんとかしてなのだー!」 「ごめん……俺、仕事だから」  虫の息で見つめてくる鈴々から眼を反らすと一刀は一目散に駆け出した。  一刀は背後で木霊している少女の悲鳴に身を竦ませながらも自室へと戻る。 「さて急がないとな。臨時の休みもらったばかりなのに遅刻したら大目玉だ」  急ぎ気味に扉を開いた一刀は忘れ物を手に取ると部屋を出ようとする。  だが、目に付いた机の上のものを見つめる。  それは璃々に夢の中で過ぎ去ったものと思わせた時間が現実のものであったという証拠。 「大きくなったら……か」  一刀は小さく息を漏らすと部屋を出た、その口元を僅かに緩ませて。  今はこの服の存在を誰にも言わないだろう。  しかし、もしこの服を璃々に渡すときが来るとしたらそれはきっと――。