玄朝秘史  第三部 第三十一回  1.沐浴  この格好のままはさすがにまずい。  落ち着いた二人が出した結論は、それだった。  戦闘のために血と汗と、さまざまなもので汚れてしまっている上に、最初に気絶させた男を死体の山から探そうとしたりしたせいで、その汚れはさらにひどくなってしまった。  結局、生存者はなく、おそらく戦闘中に目を醒ましたか仲間に起こされたかした男も、焔耶に討ちかかって返り討ちにあったらしかった。  その合間に見つけた灯火に火をつけてお互いの姿を見てみれば、これが思わず声をあげてしまうくらいに凄まじい。夜の闇の中で見かけたら、幽鬼でも出たと思って狩り立てられてもおかしくない、そんな姿であった。  この血みどろの姿のまま城壁に近づけば余計な騒動を巻き起こす。そう判断した二人は、焔耶の案内により近くを流れる川で最低限体を流すことにした。  秋に入ったとはいえ、まだまだ残暑は厳しい。しかも、二人とも体を動かして汗まみれだ。水浴びは大歓迎であった。 「上着は……もうだめだろうな、こりゃ」 「そうだな……。一部を割いて、体を拭くのに使うとしようか」 「うん。洗ってからね」  そんなことを話しながら着いた場所は、川そのものというよりは、川の水を田や畑に引き込む用途に使われるため池のようなものであった。たしかに川から繋がってはいるものの勢いも水深もなく、周囲には獣避けに植えられているのか、やけに鋭い棘をもつ灌木が生えている。 「じゃあ、俺は、この茂みの向こうで……」  その灌木の茂みの向こうに回り込もうとすると、後ろから服を掴まれて引き戻された。 「莫迦。まだあやつらの仲間がいないとは限らないんだぞ。そこの岩を挟めばいい」  引っ張られた服のせいで首が絞まり、ぐえ、と一つ呻いてから焔耶の指さす方を見れば、大きな岩がため池の真ん中にあった。あまりに大きくて池を作るときに動かせなかったか、あるいは、この岩のせいで出来たよどみを利用したものか。  いずれにせよ、水面から突き出た部分だけでも一刀たちの上半身くらいはある。水に入ったとしても、せいぜい岩の上面から頭が出るか出ないかというくらいだろう。  しかし、横から回り込むのは簡単なことだし、幅がない部分もある。 「え……でも……」 「なんだ?」  鈍砕骨を置く場所をきょろきょろ探している焔耶の横で、一刀はおずおずと言葉を紡ぐ。 「振り向いたりしたら見えちゃうんじゃないかな?」 「振り向くな」  焔耶は当然のことのように言い、さらに重ねる。 「見ようとするな。なんだったら目を瞑れ」 「いや、それはもう本当にごもっともだけど、男っていうのはこれはもう単純なものでして、近くに裸の女性がいるって思うだけでですね」 「ごちゃごちゃうるさい。暗い上に岩を挟んでだろうが! お前が見ようとしなければ見えない!」 「そ、それはそうだよ? そうだけども!」  あくまで抵抗しようとする一刀の様子に、焔耶の表情が変わる。 「まさか、お前……ふざけてるのか?」 「いや、真面目です!」 「ならば、素直に気配が探れるところにいろ。その意味はわかるな?」  ともすれば怒声に変わりかねないほどの低音で言われ、一刀は息を呑む。 「う……」  それ以上はさすがに反論できない一刀であった。  結局、岩の平らなところに灯火を置き、お互いにそれなりの光を得つつ、体を洗うことになった。 「さて、どうするかねえ。焔耶はどう思う?」  衣擦れの音や膚を水で洗う音を努めて聞かないようにばしゃばしゃ騒音をたてつつ、一刀は問いかける。無言でいるよりは、話をして気を紛らわせた方がいいのではないかと考えたのだ。 「どうするとは?」 「いや、今回の事」  その答えに血に濡れた髪を流し終え、服を洗うのにとりかかっていた焔耶が確かめるように問い返す。 「お前、秘密裏に済ませようなどと考えているのではないだろうな」 「……んー、無理かな」 「無理だ」  断言。  そう、無理だろう。なにもなかったように始末するには関わった人数が多すぎる。  そんなことは一刀もわかっている。しかし、彼としては可能性を探ってみたい気にもなるのだった。 「まあ、そうか……でも……」 「愛紗が気に病むか? それはそうだろうな。しかし、後でばれたら? 五十の骸の始末。消えた兵。共に進軍するなら、いつまでも隠しておけることではない」 「それは……」  一刀は声も出ない。なにしろ、彼女の言っていることは正しいのだから。 「それに……知らされぬ方が辛いこともあるだろう」  ぽつり、と付け加えられた言葉を聞いて、一刀の背が震えた。それは、水の冷たさだけが原因だとは思えなかった。 「焔耶……」 「それともなにか? 世間で言われてるように、無理矢理引きずり込んだから良心が痛むとでも?」 「おいおい」  冗談めかした声に、思わず苦笑する。 「違うのだろう?」 「違うよ」 「ならば、お前に責はないさ」 「そうかな……。でもさ」  一刀が言おうとするのを遮って焔耶は指摘する。 「もう一つ。ワタシが手引きして闇討ちにしたとでも取られたら? ワタシがお前を愛紗から遠ざけるよう動いたのは事実だ」 「それは……まずいな」 「だろう?」  それからしばらくは、二人が体を洗ったり、洗った服で細かい所を拭ったりする音だけが響く。  体を洗い終えた一刀は岩にもたれかかるようにして力を抜いた。最初は冷たいと思っていた水にも体は慣れてしまっていた。 「良心が痛むっていうんじゃないんだけどさ」 「ん?」  焔耶ももうほとんど身を清め終わったのか、少々ぼんやりとした声が聞こえる。がちゃがちゃという金属のこすれる音からすると、手甲を綺麗にしているのだろう。 「責任がないなんて言えないと思うんだよな」 「は?」 「たしかに、無理矢理彼女を奪取した訳じゃない。けれど、少なくとも招いた責任は俺に……」  ああ、もう! と水音と共にうなる声がした。そのまま盛大に水をはねのけながら、彼女は岩を回り込む。 「お前はとことん阿呆だな!」  ひくっ、としゃっくりのような音をたてて目を極限まで見開く一刀に向けて、彼女は指をつきつける。深い臙脂の瞳が、ろうそくの灯りを受けて、いまは真っ赤に燃え上がっていた。 「いいか、この事態は、お前のせいでも、愛紗のせいでもない。あやつら自身の招いたことだ。相手のことも考えられず暴走したやつらの責任をお前や愛紗が負う必要がどこにある!」  それは怒りなのだろうか。  あるいは別の何かなのだろうか。  本人すらもよくわかっていない激情にかられつつ、焔耶はぎりりと奥歯を噛みしめる。 「ワタシはあやつらを殺した。だが、そのことに後悔することもなければ、憐憫も感じないぞ。やつらは、ちっぽけな義を貫き、結果、大義を見失って桃香様の、つまりはワタシの敵となったからだ」  手に持っていた手甲を岸に放り投げる。自由になった両手を大きく広げ、彼女は大げさに肩をすくめて見せた。  その動作によって、形いい乳房がぶるりと震えることなど、もちろん本人は構っていない。 「お前に責任がある? ああ、あるだろうさ。だからなんだ。あやつらに害されるのがお前の責任の取り方か? 違うだろうが。下らぬ取り繕いではなく、お前はお前の成すべき事を成せ。そうやって責任を果たせ!」  もう一歩、彼女は彼に近づいた。岩に背を任せている一刀は退くことなど出来はしない。 「武人とは……いや、人とはそういうものだろうが! 違うか!」  まさに眼前で真剣な問いを突きつけられ、一刀はようやくぽかんと開いていた口を閉じ、何度か息を吸い吐きしてから答えた。 「違わない」  大きく頷く。それにあわせて、焔耶も生真面目な表情で頷き返した。そのまま満足げな笑みに移っていきそうな彼女に、しかし、一刀は声をかける。 「でも、あの……さ」 「なんだ。文句でもあるか?」 「いや、焔耶の言いたいことはわかった。それに、俺の、いや、愛紗のことを考えてくれてるっていうのもよくわかる。それは嬉しいんだけどさ、その……な」  相変わらず間近にいる彼女からなんとか虚空に目を泳がせ、彼は告げた。 「ん?」 「……見えちゃってるよ」  下方を指しながらのその言葉に、焔耶は反射的に下を向く。  引き締まった肉体は光を受け、まるで輝くように闇の中で浮かび上がっていた。  ばしゃん。  焔耶が胸を押さえて身を屈めるのと、彼の顎に向けて見事な一撃を放つのは同時であった。 「やぁっ」  飛んできた鉄拳に意識を手放しつつ、意外とかわいらしい声をあげるのだな、と最後の思考のかけらでそんなことを考える一刀であった。  2.会議  三日後、南鄭の城中に集まる面々の顔は一様に暗い色に彩られていた。 「一応の……調査は終わりました」  疲れもあるのだろう。蒼白の顔つきの少女が、普段被っている帽子をぎゅうと握りつぶしつつ言うのに、皆は固い顔で頷く。彼女は一人一人――一刀、流琉、愛紗、星、焔耶、そして、隣に立つ雛里――の顔を見回し、口を開く。  朱里の報告によれば、一刀を襲った五十人――正確には五十二人の兵たちは、一名を除きいずれも蜀の正規兵であり、中でも三十四人は同一の百人隊に所属していた。このことから、この――以前は愛紗直轄の部隊であった――百人隊の中で反北郷一刀感情が盛り上がり、決起するに至ったのではないかという推論がたてられていた。 「その、正規兵ではない一人がどこかの回し者とかってことは……」 「ないと思います。この一名は、三ヶ月前に軍を退いたばかりの者で、この南鄭の住人です。特に背後関係も見つかりませんでした」 「その人物が煽ったという痕跡も特にありませんし……。昔の仲間に誘われてということだと思います……」  流琉の疑問に朱里、雛里が答える。朱里と共に雛里も顔色が良くなかった。それも当然であろう。自国内で、自軍の兵が他国の要人を殺害しようとしたのだ。戦争を望んででもいない限り、頭を痛めずにはいられまい。  その後、他の兵たちに関しても、特別な事情があるような様子はみられないことが報告される。調査は続行予定だが、ともあれ、蜀からは全面的な謝罪が伝えられた。 「成都及び桃香様へ密使を飛ばしていますが、申し訳ありません、まだ返事は……。桃香様が受け取っていたら、正式な謝罪の宣言が北郷さんと華琳さんに対して出ると思うのですが……」 「まあ、すぐに届くわけもないしな」  しかたない、というように肩をすくめる一刀。魏は魏で、大使である田豊自らが、一刀の書状を手に洛陽に走っている。妙な情報が伝わり、誤解が生じる前に当事者による説明を中央に届けておく必要があった。 「進軍、どうしますか? 主力は桃香さんと合流して荊州に向かっているならば、漢中からの軍はなしでもなんとかなりますけど……」  予定では翌々日には魏、蜀両軍が漢中を発つはずであった。しかし、蜀軍が編成をしなおしたりするならば、その予定は大幅に遅れることだろう。 「いえ……数日は遅れますが、数などは予定通りに出すつもりです」 「そう……ですか」  流琉は微妙な表情を浮かべる。彼女とてきつい事を言いたいわけでもないだろうが、現に一刀が襲われている以上、すんなりと納得できるものでもない。 「もちろん、北郷さんを狙った者たちに関しては処罰をするべきですが、これはすでに焔耶さんが処断しています。また、中心となった百人隊に関しては成都に送り返しますし、他の人たちが所属していた隊の百人長、千人長には監督不行き届きの責任を負わせる予定です。ですが、それ以上のことはしません。すればかえってこちらの動揺を示すことになると考えます」  考えてあったのだろう、すらすらと朱里は自分への対応を語る。それを聞いて、流琉はうーん、と頭を振る。髪に結ばれた飾り紐がぴこぴこと動いた。 「かつての愛紗配下の者たちに関してはどうするのだ?」  星が訊ねるのに、ぴくり、と愛紗の肩が動く。そちらをちらと見やり、しかし朱里はすぐに星に向き直った。 「特になにもしません」  さすがにそれは、と流琉が声をあげようとしたところで、一刀が頷く。 「まあ、いいんじゃないかな」 「兄様!?」 「考えてもみなよ、流琉。愛紗は蜀の軍筆頭だったんだ。愛紗の部下を除くとなれば蜀の全軍の協力が得られなくなる。直属じゃなくたって慕っている人はいるものだし、誰も彼も疑ったってしかたないよ」 「で、でも、兄様が危険じゃ……」  魏軍近辺から離して配置するとか、使者に使わないなど色々とやりようはあるはずだと思う流琉であるが、男は気にした風もなく言ってのける。 「兵で言えば、桃香たちと一緒にいる人たちだって、俺に敵意を持っているのはいると思うぜ?」 「それは……そうかもしれないですけど、でも……」 「それに……色々と覚悟の上さ。さすがに完全武装の五十人に襲われるとは思ってもみなかったけど」  裏を返せば一人二人なら予想はしていたことになる。そこで、一刀はふと思いついたように腕を組んだ。 「いや、華琳は多少は予想していたのかな? 愛紗を俺につけさせ、他は流琉に守らせようとしていたくらいだし」 「……今回の件もあり、今後、直接行動に出ることはないかと思います。いえ、私たちがさせません」  大きな帽子を胸の前に抱えた雛里が、細い声ながら決然と宣言する。だが、すぐに困ったように眉を曇らす。 「でも……その、別の形でなにか北郷さんに悪意を向ける可能性は……」 「連絡の不備、怠業……。それぞれは小さいが、厄介ですな。あるいは毒という手もあります」 「兄様たちのご飯は私が作ってますから、毒は避けられると思います」  星が不穏なことを言うのに、流琉が胸を張る。その様子を眺めつつ、一刀は頬を掻いた。 「蜀に接する魏軍の代表としては、流琉を表に出して対処するしかないかな」 「それは構いませんけど……。でも……」 「大丈夫だろう。いずれ桃香と合流する」  あっさりと懸念を否定する一刀と、あくまでも疑念を持つ流琉は見つめ合う。男の表情に信頼の色しか浮かんでいないのを見て、流琉は思わずため息を吐く。 「流琉?」  心配そうに顔を覗き込んでくる彼の姿に、もう一度大きくため息を吐き、ようやく流琉は頷いた。 「わかりました。でも、兄様」 「なに?」 「これ以上危険な目にあわせるわけにはいきません。常に母衣衆か、愛紗さんか、私の側にいて下さい。いいですね?」 「うん。そうするよ」  確約してみせる男に、焔耶がふんと鼻を鳴らした。 「そうしてくれるほうが、こちらも安心というものだ」  流琉はその言葉にはっと顔を向け、申し訳なさそうにうつむく。 「まあ……その……焔耶さんや星さんの側でもいいとは思いますけど……」 「なんか、妙な事考えてませんか、流琉さん?」  なぜかちょっと頬を赤らめている流琉に思わずつっこむ一刀。  そんなじゃれあいを尻目に、星は着物の袖をくるりと巻き込むように腕を動かした。 「今後、我らの方でも対策を立てていくのは当然として、下手人の処罰の件だが、さすがに何人かは骸をさらすべきではないだろうか?」 「どう……しますか、焔耶さん」  その場で全員を始末したのは、以後の辱めを避けるための焔耶の心遣いだと知っている朱里は彼女に確認を取ろうとする。 「しかたあるまい。見せしめが必要だというなら……」  その時、それまで一言も発していなかった人物が鋭く吐き捨てた。 「甘い」  全員の視線が彼女に集まる。黒髪をいらだたしげに振っているその女性の名を、雛里が思わず呼んでいた。 「愛紗……さん?」 「全ての骸から首をはね、街道に晒すべきだ。もちろん、晒し終えた首は墓に入れずに漢水に流す」  強い調子ながら淡々と言うのに、全員が絶句する。  儒教の概念に照らせば、首――だけではなく五体の一部――を切り離すことは、とてつもなく忌まわしく、同時に不孝なこととなる。それは、親にもらったものを損なうことになるからだ。  戦場などで体が損壊してしまった場合でも、藁や木で代替の体をつくり埋葬することで死者に礼を尽くすほどだ。  また、通常、首を晒す場合でも、後に埋葬する時点で、胴と首をつなぎ合わせるものだ。遺骸の一部を一緒に埋葬しない、あるいは切断されたまま埋葬するのは、最も重い刑罰となる。  まして、首を川に流し、どこに行ったともしれぬようにせよとは。  愛紗は、かつての部下に最悪の恥辱を与えよと主張しているのだった。  そのあまりに苛烈な物言いに全員が固まりきった中、死生観がこの時代とは多少ずれている一刀が声を発する。 「どうなのかな、それって」  彼にしてみれば、死体を弄りたいとは思わないものの、首をはねて晒すようなことをするのなら、それ以後どうしようとあまり変わらないだろうというのが正直なところだ。しかし、場の空気を読む限り、彼女が痛烈なことを言っているのはわかる。 「やりすぎるのは、反発を強めない?」  覗き込むように訊ねかけられ、朱里がはっと硬直から立ち直る。 「……さすがに、全員にそんなことをするというのは、逆効果かと思います。厳罰と言いましても限度が……」 「それでもっ!」  椅子を鳴らし、立ち上がる愛紗。その拳が握りしめられ色を失っていた。 「愛紗」  彼女が息を吸った拍子にあわせ、一刀は声をかける。さらに滔々と持論を述べようとしていた愛紗は出鼻をくじかれて彼を見ずにはいられなかった。  視線を受け止めたまま彼は愛紗の前に移動する。 「ご主人様、私は……」 「わかってるよ」  でも、と一刀は続ける。 「苦しいのは君だけじゃない。俺を守って、自分のところの兵を殺さなきゃならなかった焔耶を、さらに苦しめるつもり?」  不意に名を出されて眉をひそめる焔耶であったが、文句を言うでもなく、黙って腕を組んだままでいる。 「わ、わた、私は……」  一方の愛紗は一刀と焔耶に何度か視線を往復させ、かすかに震えながら声を押し出すようにしていた。  その肩に、ぽんと一刀の手が置かれる。彼は彼女の膚のあまりの冷たさに、そして、彼女は彼の掌のあまりの温もりに、お互い驚愕を覚えずにはいられなかった。 「いいんだ、愛紗。そんなに自分を責めないで。責任というなら、俺も負うべきものがある。これは、一人で背負うものじゃない」 「そうですな。北郷殿と愛紗だけの問題でもない。我らもまた同じように背負うべきでしょう」 「そ、そうでしゅ! 私たちが、皆で解決する問題です!」  星に続き雛里が回らない舌を必死に動かして声をあげるのに、一刀は一度振り向いて頷いてみせる。そして、愛紗の肩に乗っている手にわずかに力を込めた。 「わかってくれるね?」 「……はい」  悄然とそう答えるしかない愛紗であった。  3.苦悩  皆で今後のことを話し終えた後、場には一刀と流琉、朱里と雛里という四人が残った。武将たちは早速部隊の引き締めに調練に向かい、愛紗は一刀に頼まれて、美以たちの様子を見に戻っていた。 「愛紗さんは……どうですか?」  雛里が茶を淹れ、朱里が自分で焼いたという菓子を皆に配って一服したところで、話題はどうしても愛紗のことになった。 「んー……事件以来ずっと俺の護衛についているね」  一刀は茶杯を右手で揺らしながら、顔をしかめる。 「夜、俺が部屋で寝てるときも不寝番をしてるようだよ。なるべく休むようやんわりとは言ったんだが……はっきり止めるように言っても隠れてするだけかもしれないし、きつくは言えてない」 「この三日で、まともに横になって眠った時間はないんじゃないでしょうか……。私と兄様が一緒にいる時に少しは体を休めてはいるようですが、それでも、私たちがいる棟の入り口近くで見張っているようですし……」 「前は側にいる時は色々口を出してくれていたんだけどね。いまじゃこっちから話しかけないと反応しないよ」 「……なんていうか、ぐつぐつ煮えたぎってる感じですよね。触れたらはじけちゃいそうで……」  一刀と流琉が交互に愛紗の様子を述べるにつれて、蜀の軍師二人の顔色はさらに悪くなっていく。 「……ある程度は予想していましたが……」 「思い詰めちゃって……ますね」  一刀と流琉もなんと言っていいかわからず、口を開けない。実際の所、一刀自身も責任を感じて色々考え込みそうになるのだが、比べものにならないくらい愛紗が落ち込んでいるおかげで、冷静でいられている部分があった。 「本当に……本当に申し訳ありません……」  だから、思わずと言った様子で頭を下げる二人に、彼は温かな声をかける余裕があった。 「まあ、そんなに気にしないで。俺は無事だったんだし」 「……兄様、それはさすがに……」 「いいや、そこは大事だよ。焔耶のおかげで無事だったってところはね。ちゃんとその辺りが華琳に伝わるよう、わざわざ田豊さんに洛陽に行ってもらったくらいなんだから」  そう言いつつ、命を狙われすぎて感覚が変になっているのではないかと自分でも思う一刀であった。 「あ、そうそう。訊きたいんだけど、現状、魏への感情が悪化してるってことはあるのかな?」 「いえ……それはあまりないかと思いますが……」 「他国の軍ですから、それなりの警戒はあると思いますが……魏軍全体というよりは、やはり、北郷さんがやり玉に……」  軍師二人に保証され、一刀はほっと息を吐く。 「そうか、よかった」 「よくないですよ、兄様」 「でも、俺に集中しているならやりようはあるだろう?」  怖いのは、何とはなしに魏というものに嫌悪感をもたれることだ。一刀一人の印象ならば変えていくことも可能かもしれないが、大きな組織に一度悪感情を持つとそれを晴らすにはかなりの労力がいる。一刀はそう思っているのだった。 「……北郷さんに洛陽に戻ってもらうことも考えたのですが……」 「うん。俺もそれは考えた。ただ、それをやると……なあ」  一刀は茶杯を置き、かつかつと指で卓を叩く。  魏の立場を考えても弱腰を見せるのは避けたいところだし、制御されていない暴力で何かが変わるという印象を与えるのもまた避けたかった。軍という形にしてさえ危ういものを、個人の考えで暴発されてはたまったものではない。  なにより、白眉という統制されていない力によって生まれたものと対する時に、規律を外れた行動で何かをなせると思わせるわけにはいかなかった。 「荊州の封鎖を言い出したのは俺だし、そもそも荊州牧時代の混乱の後始末って側面もあるし、俺が抜けるのはまずい気がするんだよな」 「兄様を帰すのは、軍の士気を考えてもちょっと……」 「そうだよなあ。ころころ指揮官変わっても」  その言葉に、流琉は横目で一刀の方を見やる。 「それもそうなんですけど、兄様、兵に人気ありますし」 「あ、そうなの?」 「はい。華琳様や春蘭さま、秋蘭さまほどではありませんけど。ええと、なんでしたっけ、男の本懐だとかなんとか……。あと、男なのに魏軍の中枢にいるのはすごいとか……。主に男性人気ですかね」 「なんか、微妙な……」  慕われるのはいいが、自分が重要と思っているところとはまるで関係ない部分を認められているような気がしてならない一刀である。 「私たちも、北郷さんを戻すべきではないと思います。白眉への対策が遅れてしまいますし、やはり必要以上に動揺を示したくありませんから」 「ん。じゃあ、これからもよろしく頼む」 「はい」  朱里と雛里はしっかりと頷く。そこで雛里が朱里の袖をくいと引っ張った。その動作に思い出したのか、朱里ははっと顔をあげた。 「それから美以ちゃんたちのことなんですが」 「うん?」 「桔梗さんに来てもらおうと思ってます。その……北郷さんのお子さんですので……」  朱里の物言いに思い当たり、一刀は苦笑を浮かべる。美以たちは、ここ漢中で蜀軍に預け、成都から南蛮に向かう予定であったが、それをせずに桔梗に迎えに来てもらうということらしい。 「万が一を考えて、か」  一刀の悪意は一刀本人だけに向かうとは限らない。まさかあのかわいらしい猫耳っ子たちを襲う者がいるとも思えなかったが、朱里たちの立場としては何かあってからでは遅い、念には念を入れてというところだろう。 「桔梗さんなら、美以ちゃんたちも安心するでしょうし……」 「たしかに桔梗なら心強いが、時間がかからないかな?」 「先の密使で既に伝えていますから、おそらくすぐに到着するのではないかと」 「そうか」  一刀としても、ただ蜀軍に引き渡すようなことをするよりは、桔梗に預けることのほうがよほど望ましい。 「悪いね。色々考えてもらって」 「いえ、先ほども言ったとおり、北郷さんだけ、私たちだけの問題ではないと思いますから……」  彼が軽く頭を下げると、わたわたと手を振る朱里。その動きで首下の鈴が小さく音をたてた。彼女は次いで雛里と目を見交わし、ずいと身を乗り出してきた。 「あの、北郷さんに、その……私たちから一つお願いがあるんです」 「こんなにご迷惑をかけて、その上というのは非常に心苦しいのですが……」  雛里も朱里に並んで言うのに、一刀は興味深げに手を振って先を促す。 「我が軍に向けて、数え役萬☆姉妹の公演を行ってもらえないでしょうか」 「ふむ」  その申し出に一刀が答える前に、流琉が勢い込んで頷いている。 「敵意を直接に緩和するわけではありませんが、それで発散するものもあるかもしれませんね!」 「……どれだけの効力があるかはわかりませんが」 「いや、名案だと思うよ」  遠慮がちに言う雛里を力づけるように、一刀は片眼を瞑り、こう言うのだった。 「歌の力ってのは、これがなかなかすごいものなんだよ」  4.決意 「しっかしさー。公演開くのはいいけど、人心安定なんて出来るのかな?」  だらしなく脚を机に放り出し椅子を傾けて呟くのは、均整のとれた小柄な体の女性。ただでさえ短い腰布だが、いまは脚をあげているため下着まで丸見えだ。  それを気にした風もなく、くるくるの髪をいじりながら地和は呟く。 「なかなか厳しいと思うんだよねー」 「でも、一刀の頼みだしー」  のんびりとした声でそれに応じるのは、彼女の横で髪の手入れをしていた彼女の姉。 「それはわかってるわよ? でも、一刀を襲うような連中をどうにかするってできるのかな、って思うわけよ」 「んー。煽動するのは得意だけど、そこまで熱くなってる人を鎮めるのって難しそうだよねぇ」  ねー、と二人で言い合っていると、繋がっているもう一つの部屋から現れる姿があった。 「実際にはそこまで先走った人たちはすでに処分されちゃってるのだけどね」 「あれ、人和。どこ行ってたの」  紙束を抱えて歩いてきた眼鏡の妹に、地和は訊ねかける。 「私も今回の依頼は難しいと思って、すこし構成を考えてみたの。見てもらえる?」  地和が脚をどけた後の机に広げられた紙に、天和と地和は目を落とす。そこに書き出されているのは、彼女達の持ち歌の数々だ。 「んー? 別になんてことない曲目じゃない?」 「お姉ちゃんも特に変わったことないと思うけど……。人気曲もばっちり入ってるし……『あんこーる』がないくらい?」 「曲目自体は、ね。それと、最後の五曲は全部あんこーるだから」  姉たちが曲を確認して顔をあげるのに、人和はいつも通り落ち着いた調子で続ける。 「なに、その構成」  地和が目を丸くするのに、人和はその手に持っていたもう一つの紙片を、最初の紙の上に重ねてみせた。その構成表を姉たちが読み込んでいく途中で、彼女はわかりやすくなるように補足を加えていく。 「ちょっと……これ、本気?」 「ええ、本気よ。いい機会だと思ってね」  人和の提案する公演の流れを理解した地和は、声を震わせずにはいられなかった。その様子に人和もまた真剣な顔で頷く。 「でも……余計に反発されないかな?」 「されるかもしれない。話の持って行き方次第では、このあんこーる部分はやれずじまいで終わってしまうかもしれない」  それどころか……と彼女は言葉を濁す。その様になにを想像したのか、長姉の顔は真っ青になっていた。 「正直、これは賭け。私もどうなるかわからないわ」  しん、と静まりかえる室内。  この姉妹が揃っているのに沈黙が落ちるなど、滅多にないことであった。 「うーん……」  天和は首を傾げる。頭の上ではねた毛が、その動きにつれてぴょこんと動いた。 「いまこれをやらなきゃだめなのかな?」 「いずれやらないといけないなら、いまやっても同じだわ。それとも、ずっと隠し続ける?」 「……それもやだけどぉ……」  眼鏡を押し上げながら、あくまで冷静に人和は指摘し、天和はううん、と唸ってしまう。 「賭け……ね」  一方の地和は構成表をじっと見つめていた。司会進行を担当するのは主に彼女だ。天和のぽやぽやとした発言や、人和の控えめな発言を時にからかい、時にまとめあげて話を進め、舞台を盛り上げる。その段取りを、彼女はその構成表から考え、つくりあげているのだろう。 「この賭け、どれくらい分が悪いの?」  ひとしきり段取りが組めたのか、地和は構成表をひらひらと振って、人和を挑発するようにねめつけた。 「最悪、戦が起こるくらい」 「ちょ、ちょっとー」 「ふぅん」  さらりととんでもない事を言い出す妹に、姉たちの反応は二分した。  一人は狼狽し、一人は面白がる。 「それをどうにか出来るかどうかは、ちぃたちの喋りと歌ってわけ?」 「そういうこと。だから、この曲を選んだの」  最後に並んだ五曲は、彼女達が歌いはじめたその当初からのものだ。つまり、黄巾の乱や、その後の動乱期にずっと歌い続けてきた、いわば体に染みついた曲である。なにがあろうと歌いきる自信はあった。  そして、あんこーる前、人和の言う賭けをした後に歌うものこそ、一刀が消えた直後になにかに取り憑かれたようになって三人が作り上げた一つの歌であった。 「これ……かあ……」 「それしかないでしょう」  きっぱりと言い切る妹に、姉は少々心配げに訊ねかける。 「わかってくれるかな?」 「わからせるのよ。ちぃたちが」  答えたのは人和ではなく地和。そして、彼女はその顔ににんまりと笑みを刻んだ。舞台では決して見せない類の表情であった。 「面白いじゃない。ちぃは賛成」 「そう。姉さんは?」 「んー」  妹たちの視線が集まり、姉はうんっと大きく頷く。 「二人が賛成なら、お姉ちゃんもやるよ!」  その手が持ち上がり、すっと前に出される。そこに二人の妹の手が重なった。 「やっちゃおう!」 「私たちのために、そして……」 「ちぃたちの大事な人たちのために!」  そう言い放つ地和の顔に浮かぶのは、先ほどまでの笑顔とはまるで違う。温かで爽やかな笑顔がそこにあった。 「ええ」 「うん」  そうして、歌姫たちの決然たる意思を込めた公演準備が始まるのだった。  5.告白 「あの、ご主人様」  人波の真ん中で手を動かし続けている愛紗は、背中合わせになって同じ動作をしているはずの男に訊ねかけた。 「なにかな?」  喧騒の中でも体が近いので、声はなんとか聞こえた。二人は人の群れに紛れないよう柵で囲まれた台の上にいるため、他の者より頭の位置が高く、少しは声が聞き取りやすいという事情もある。 「我々は何をやっているんでしょうか」 「入場整理……いわゆるもぎり?」  言葉の通り、次々と差し出される入場券をちぎっていく一刀。もちろん愛紗も同じように入場券をちぎっては回収用の袋に会場分を入れていっている。 「いや、それはわかりますが、なぜこのようなことを……ということでして……」 「んー。今回は急な公演だし、人手たりないからなあ」 「いえ、それもわかるのですが……。しかし、なにもご主人様がやらなくとも……」  ざわざわと何ごとか喋りながら進んでいく人の群れをさばきつつ、彼女は顔をしかめる。人の群れはまるで秩序が無く、それでいて会場の中に進もうとする圧力だけはあって、どうにも相手がしにくかった。 「俺は数え役萬☆姉妹の世話役だしね」  そんな中でも、彼らは会話を続ける。時折、そこー、走るな! などと怒号を飛ばしたりすると反応もあるが、基本的に人々は彼らに構いもしない。 「……私は自らの身を案じて欲しいと」 「だから、変装してるじゃないか」  その言葉に思わず彼女は振り返る。背後の一刀は、どう見ても変装とは言えない姿をしていた。たしかに公務の時の姿とは違うが……。 「変装って……。町人の服を着て、髪を少し弄ってるだけではないですか」 「それで十分だろ。俺の顔を知らない奴だって多いし、そもそも、もぎりの顔なんて見ないよ。いま話してるのだって、誰も気にしていないだろう?」 「たしかに……私に気づいている者も……おりませんな」  一方の愛紗もいつもは垂らしている髪を上に結い上げて、動きやすい格好にしているだけなのだが、気づかれている気配がない。こやつらは蜀の人間のはずだが、と彼女はいぶかしむ。 「そういうものなんだよ。彼らが見たいのは俺たちじゃなくて、数え役萬☆姉妹だからな」 「ううむ……」  釈然としない様子ながら、もぎりを続ける愛紗。もちろん、二人以外にも入場整理の者はいて、着々と列は進み、人々が会場に収まった。 「まあ……すごいものですな。熱気というかなんというか……」  いつの間にか額に浮いていた汗を拭い、愛紗は一刀に話しかける。普段とは違う動きをしたからか、妙に疲れた気がした。 「そうだな。戦ともまた違うしね」  こちらも汗をかいていた一刀も顔を拭うと、ぱっとその表情を明るくした。 「ああ、そうだ。良い機会だから、愛紗もこの後、三人の歌を聞いて行こうよ」 「え? あ、はい……それは、構いませんが……」 「じゃあ、行こうぜ!」  ぐい、と彼女の手をつかみ、関係者入り口のほうへ走り出す。 「ちょ、ちょっとご主人様! わわっ」  手をぐいぐいと引っ張られ、一刀の後を追って駆けだした彼女の顔に、淡い笑みを認め、こちらも笑みを浮かべる一刀であった。  舞台袖で流琉と合流し、三人は公演を楽しみ始める。蜀側からの依頼ということもあり、焔耶や星は、警護にかり出されている。  公演も進み、半分ほどの時間が過ぎたところで、歌は一段落し、姉妹三人の会話が始まった。当初はたわいもない最近の出来事を話していたはずが、地和のこの一言で、がらりと雰囲気が変わった。 「そういや、ひっどい話もあったものよね」 「なになにー?」  天和がのんびりと訊ねるのに、地和が返す。 「なんかさー、最近、百人くらいで一人を襲って返り討ちにあったらしいじゃない?」  そこで、あれ、と一刀は思う。  自分の話をすること自体はいい。すでに有名な話だし、最近の話題として触れるのもありだろう。しかし、地和の声の調子がおかしい。 「あれ……地が出てないか」  彼が不審に思って眺めている間にも、会話は続いていく。 「百人じゃないわよ、五十人。それに、返り討ちにしたのは北郷さんじゃなくて、魏将軍ね。それでもすごいと思うわ」 「ああ、天の御遣いさんだねー」 「天の御遣いさん、じゃないわよ、白々しい」  姉たちがいつも通りの声音で話を修正しようとするのに、さらに冷や水をぶっかけるように、地和が言う。  明らかに舞台で出す声より一段低い。普段の……いや、怒りをためているときの声だ。 「ちょっと姉さん。なにを言っているの?」 「一刀って呼びなさいよ、一刀って。普段の通りに」 「ち、ちーちゃん?」  制止しようとする二人を振り切って、地和は舞台の中央からかなり前に進む。 「この際はっきり言うけどね、瓦版で噂されてたやつ、あれ、本当」  ざわり、と声にならぬ声が会場を覆った。 「ちぃは一刀の恋人だし、姉さんたちもそれは一緒」  地和自身の妖術と真桜の技術で増幅された声が、会場中に鮮やかに響き渡った。 「えっと……兄様、これって……」  流琉が困惑と共に見上げた一刀の顔は、びっしりと汗に覆われている。 「え、演出かな? う、うん。そうだと思うよ」 「……なにを演出するのです?」 「えーと……」  冷静に愛紗につっこまれ、一刀が言葉を絞りだそうとしている間にも、舞台上では強烈なやりとりが続く。 「ちーちゃん、なにを言ってるのかなー?」 「いいの? とぼけてて。ちぃが独占しちゃうよ?」  ひきつった笑顔の長姉に、にやりと悪い笑みを見せる地和。その様子にやれやれと人和が額を押さえた。 「まあ、腹が立つのはあるけどね。私たちの一刀さんを殺そうとするなんて」 「れ、人和ちゃーん?」  おろおろとすがりつくように、天和は人和に駆け寄りその肩に手を触れる。 「だって、しかたないわ。私も一刀さんのこと好きだもの」  しかし、この一言で、天和もまたはじけるように腕を振り上げた。 「うう、ずるーい! お姉ちゃんだって、一刀のこと大好きだよー!」 「そうそう。認めちゃえばいいのよ。認めちゃえば」  そこまで言って、地和は、くるりと一回転する。ふわりと腰布が巻き上がり、下着が見えかけたところで、ぴったり回転は止まる。 「はーい、取り残されてるふぁんのみなさまー? 真っ白な頭にはっきりすっきり、事実をお伝えしまーす」  舞台用の声音にすっかり戻って告げる言葉は、しかし、いつもの甘ったるさとは無縁のものだった。 「数え役萬☆姉妹は、みな、一刀さんの恋人」  地和に続くのは人和。かわいらしい顔を朱に染めて。 「みーんな、一刀が大好きなんだよっ!」  手を振り上げ、会場の後ろの人間にも見えるように大きな仕草で、天和もまた告げる。 「そしてー、一刀のところにいる人たちは、みんな一刀のことが大好きなの。ま、男と女の関係かどうかは別としてね。そういうわけだからぁ、一刀のこと襲うなんてだめだめなことしたって、まるっきり無駄なんだよー?」 「んー? みんな静かだねーっ! 反応うすいよーっ」 「では、まだ幻想に浸っているみんなに、だめ押しでお伝えしちゃいましょー」  当惑が押し寄せる舞台の上、三人ははきはきと続けていく。  6.歌  会場を静寂が支配する。  その張り詰めた空気の中、三人は揃って並び胸を張る。 「私は!」 「私たちは!」  三つの声が揃う。ぴったりと、そして、轟くように。 「北郷一刀を愛してるーーーーっ!!」  その時、ようやくのように会場からわき起こったものがある。  それは悲鳴であり、怒声であり、遠吠えのような慟哭であった。  天にも届かんばかりのその苦鳴は、会場中を覆い、そして、その収斂する先には、もちろん三人がいた。 「に、兄様」 「ご、ご主人様」 「はっ」  あまりのことに意識が半ば飛んでいた一刀は流琉と愛紗に左右から揺さぶられて覚醒する。  見れば、会場は怒号が吹き荒れていた。拳を突き上げ、口々に汚い罵りを叫ぶ男たちの群れが、波のようにうねっている。  前へ前へ、彼らは進もうとするものの、前方がびっしり人で埋まっているのと、最前列は腰の高さまで板が張られ、しかも警備の兵が立っているために、押しとどめられ、その反動でぐねぐねと列が動いているのだった。  だが、このままでは板塀も兵も突破して舞台へなだれ込むまでそうはかかるまい。いまも板がみしみしと音をたてて、一部は明らかに割れてきている。 「ど、どうしましょう、これ」  焔耶と星が揃って駆け出し、最前列に回り込もうとしている様子に流琉はさすがに顔をひきつらせる。  しかし、渦中の一刀は三姉妹を凝視していた。その様子に愛紗は決断する。 「私が道を切りひらく。ご主人様を担いでついてきてくれ!」 「はい!」  言われて、一刀を抱きかかえようとした流琉であったが、それは一刀自身の手によって押しとどめられた。 「い、いや……待て」 「兄様?」  流琉を止めた腕は持ち上がり、舞台を指さしている。思わずその指す方を見る流琉と愛紗。 「あの三人を見ろ」  二人の目が見開かれる。そこにいるのは、当然あるべき、会場の勢いに怯えて立ちすくむ姉妹ではなかった。  そこにあったのは、三人で手を繋ぎ合い、全てを受け止めるように大きく手を広げる歌姫の姿であった。  そして、流れ来るのは、軽やかな、しかし、どこか寂しげな旋律。 「う、歌う気ですか! この状況で!」  そして、流琉の驚愕の声をきっかけにしたかのように、耳を弄せんばかりの鼓の音が放たれた。  それは挫折の歌であった。  それは再生の歌であった。  一人の少女が大望を抱き、全てを失い、誇りすら失ってしまいそうになった時、彼女を救ったのは、一つの歌と、一人の人。  歌うことは、少女を勇気づけた。  歌う場所をくれたのは、その人だった。  それは、三姉妹の生きてきた道程を語る歌であった。  黄巾の乱を引き起こし、たたきのめされ、そして、一刀と出会った、そのことを。  彼女達は歌い上げていた。  いつか別れなければいけないかもしれない。  いつか忘れ去られてしまうかもしれない。  それでも、人は歌う。  それでも、彼女たちは歌う。  それでも、わたしたちは歌う。  愛の歌を。  彼は黄巾党の出であった。  いや、元をたどれば荘園の農奴であった。  農奴の生活は厳しい。いくら働こうと、その実りは全て土地を持つ荘園主のものだ。それでも飢えずに暮らしていけるだけで良いと思っていた。  自分にとって生きることとはそういうことなのだと思っていた。死なぬ事、それが生きることであった。  腹一杯食べることもない。渇きを癒やす以上の水も必要ない。ただ、鋤鍬をふるうだけの力があればいい。  そんな生活。  それが、あの日、変わった。  街に買い出しに出る召使いの付き添いで彼女たちの歌を聴いた時、彼は見つけてしまった。  そこにあったのは、希望。  生きることは死なないだけではないのだと、人は愛し愛されていいのだと、そして、歌を聴いて微笑んでいいのだと、そう教えてくれたのが張三姉妹であった。  それまで、彼は自分が絶望していることすら知らなかったのだ。  荘園を抜け出し、黄巾に身を投じ、そして、戦い抜いた。  だが、彼は敗れた。  彼だけではない。彼の同志たちは、全て大陸中で敗れていった。  そして、彼は捕まった義勇軍に、逆に兵士として志願したのだ。  それこそが劉備率いる軍――後の蜀軍の母体であった。  黄巾党の中で夢見た理想を、劉備と、それを支える関雲長、張翼徳の目指す未来に置き換えて、一兵士に過ぎないといえど、ひたすらに奮闘してきた。  そして、死んだと思っていた張三姉妹がいまだに活動していることを知って、狂喜乱舞した。  もちろん、その頃には彼は蜀の一員で、数え役萬☆姉妹に対しては、一『ふぁん』として応援していこうと思っていた。  だが、常に燻り続ける思いがあった。  あの日目指した大陸制覇の思いは、彼が黄色い布に込めた思いは、一体どこに行ってしまったのだろうかと。  黄天の世は、夢でしかなかったのだろうかと。  三人の歌を聴き、皆が幸せな思いになる、そんな世の中を目指して戦い抜いたのはなんだったのだろうと。 「なんだ……そうだったんだ……」  だが、そんな思いは全てまやかしだったのだ。  彼は、いまこの時、ようやくわかった。  黄巾の乱で敗れ、赤壁で敗れ、成都で敗れ……そして、三姉妹も関将軍も奪われたいまこの時に。 「あなた方は、もうとっくに黄天の下にたどり着いておられたのですね」  彼は、ただ、あの頃の幻影を追っていただけだった。  あの時夢見た理想そのものではなく。  夢見た理想を追い求める自分の後ろ姿を追った。理想を追い求めている自分というその姿勢に酔っていた。  それは、きっと、蜀の時代を通しても同じだったのだ。彼は理想を追ったのではない。理想を追う関将軍、張将軍の姿に自分を重ねたかったのだ。  だが、彼女達は、そんなところに留まっていなかったのだ。  敗れ果て、地に伏してなお、彼女達は蘇った。理想を捨てるでもなく、消え去った理想の幻影に囚われるでもなく、ただ、自らの思いを胸に、歌うことで。  そこにあるのは、なにかを大事に思う気持ち。  彼女達の言うとおり、それは北郷一刀へ向かうのだろう。この歌はまさに北郷一刀に向けられているのだろう。  しかし、いまそれを聴く自分たちへの思いがそこに一片もないだろうか?  その思いを否定することは、彼女達の気持ちの広さを否定することになるのではないか?  彼にはもうわからなかった。ただ、ふつふつとわきあがるものがあった。  それは彼の目からは涙となってあふれ出る。そして、口からは声となって爆ぜた。 「おおおおおおおーーーーっ」  それは、雄叫び。  黄巾の乱以来秘めていたその獣のような叫びを、彼は思う存分解放していたのだった。 「そうだ。これでいい」  唖然と立ちすくむ愛紗と流琉を横にして、一人一刀は拳を握る。 「自分たちがなにをしたかったかを、なにを見せたかったかを」  どうなるかは、彼にもわからない。あるいは、これはなにもならないかもしれない。 「歌いたかったはずだ、人和! 伝えたかったはずだ、地和!」  さらに言えば、これは彼女達の歌姫としての活動に終止符を打つことになる行いなのかもしれない。 「歌え! 力の限り歌え! 天和!」  けれど、彼はこれでいいと思う。  北郷一刀はここで行われたことのいかなる結果も受け止める。  なぜなら、それは、彼の愛しい歌姫たちの作り上げた舞台なのだから。  会場は、いまも凄まじい声に覆われている。それがなんなのか、もはや発している当人たちにすらわからないくらいの喚声。  それは、悲慟であった。  それは、咆哮であった。  それは、喝采であった。  だから、そんなものに覆われた会場で、裾にいる一刀の小さい叫びなど、舞台の上にいる三人に聞こえるはずもない。  しかし、それはたしかに伝わっていた。  天和は微笑みと共に最後の節を歌い始め、妹たちは小声で合図を交わした。 「ちぃ姉さん! 力を最大に!」 「もうどうなったって知らないわよ!」  地和は公演においては妖術を用いて声を伝えている。最近は真桜の絡繰がそれに取って代わっていたが、いまもその術を使って絡繰の動きを補っている。  だが、あくまで力は抑え気味だ。なぜなら、その力には、もう一つの作用があるから。  いや、正しくは、声を伝えているのは、術の効果がごく表層的に現れているに過ぎないのだ。  それは、伝える力。  自分たちの歌を。  自分たちの思いを。  なんであろうと、伝える力だ。  しかし、力を強めれば強めるほど、困ったことも出て来る。  それは、全てを伝えてしまう。  たとえば悪意も、嫌悪も、負の感情すらも。 「受け取って、姉さん!」  そして、地和は印を結ぶと共に、体の中に残る全ての力を、その術に注ぎ込んだ。  この時、三姉妹が、負の感情をまるで持っていなかったとは思えない。  彼女達は打算も欲望も妬みも人並みに、いや、人並み以上に持ち合わせている。美味しいものはいくらでも食べたいし、お金も欲しい。贅沢は好きだし、人々が己にかしずくのも大好きだ。  面倒くさがる気持ちも、疲れを厭う感情も、体にまとわりつく熱気と汗をうっとうしがる心もそこにはあった。  だが。  それを遥かに上回る、圧倒的なものが、その場を満たした。  天和の澄んだ声と共に広がるもの。  そこに溢れるのは、愛に他ならない。  北郷一刀への。  ふぁんたちへの。  姉妹同士の。  そして、なにより、歌うことへの。 「みーんなー!」  その時、会場の全員が、まさに一体となった。 「歌ってー!」  漢中は、いままさに熱狂の渦の中に落ちようとしていた。      (玄朝秘史 第三部第三十一回 終/第三十二回に続く)