「無じる真√N-拠点イベント38」  いつもの政務室。書簡の山に対するように三人の人間が机に向かっている。  特に会話を交わす事もなく、室内には筆の走る音と、書簡が擦れ会う音のみが空間を泳いでいた。  彼女もまた黙々と書類を捌いていく。君主の補佐としてこの場にいるはずなのに、仕事の分量は自分の方が多くなっているのはいつものこと。 「…………」  彼女は、隣で筆を止めて窓の外を見つめたまま微動だにしない自分よりも更に小柄な少女の後頭部を筆の尻骨で小突く。 「いたっ」 「……あんたねえ、ぼけっとしてるんじゃないわよ」 「む。だからといって、そのように人の頭を突っつくのは如何なものかと思いますぞ」 「ふん。ちゃんとやることやってるなら何もしないわよ。ボクだって鬼じゃないんだから」 「それはどうですかね。詠はすぐ怒るし……鬼の方がマシかもしれませんからのう」 「ねね。言っていいことと悪いことがあるわよ」 「……詠はもう少し配慮というものを学ぶべきなのです」 「うっさいわね。そういうのは後でちゃんと聞くから、今はこれの処理を頼むわよ……急なことではあるけれど、あんたにとっては難しいことでもないでしょ?」 「まあ、ねねは優秀な軍師ですから? 別にこの程度のことなど問題なくこなせるのです」  帽子の下から両側で結った若緑色の髪が伸びている小柄な少女がここで賈駆の隣で政務の手伝いをしているのも、急な代理によって与えられたものである。  賈駆の主君筋に一応当たると言えなくもない少年が警邏の数合わせのためにかり出されたというのだ。  そこで、政務を捌くために呼び寄せたのがこの陳宮だったわけだが、今日に限って彼女はてんで戦力にならない。 「まあ、あんたの能力はボクだって買ってるのよ。だから、本当に頼むわね。ぼうっとしてないで、ちゃんと仕事してちょうだいよ」 「わかってるのです。何のためにねねがここに来たと思ってるのですか」 「何で、あんたにそれを言われなきゃならないのよ」 「無能な詠の捕捉をしてやるのですから、有り難く思うのです」 「あんたはホント余計な一言口にするわね……それなら言わせて貰うけど、あんた全然、書類を捌けてないじゃない!」 「これから実力を見せるところだったのです!」 「嘘ね」 「嘘じゃないのです!」 「なら、やってみせてよね」 「言われなくとも」  ふんと鼻息を荒く吐き出すと陳宮は政務へと戻る。上手く彼女を乗せることに成功できたとほくそ笑むと、賈駆は自分の分の処理を再開するのだった。  それから、また幾つかの書簡を御したところで賈駆は再度となりの少女を見る。 「…………はあ」 「あ、あんたねえ」  頬杖を突いてまた意識をどこかへと飛ばしている陳宮に対する苛立ちを眼鏡をいじることで誤魔化し、再度彼女へ声をかける。 「いい加減にしなさいよ!」 「な、何をするのです! 耳元で怒鳴るなど非常識ですぞ!」 「うっさい! また、筆が止まってるじゃないの!」 「だからといって、大声を出すのは少々知的さが足らないのではないですか!」 「何ですってえ!」 「文句があるとでもいうのですか!」  売り言葉に買い言葉二人は険悪な雰囲気を作り上げていく。 「……頼むから、二人とも仕事してくれぇ」  半泣きで筆を走らせている公孫賛の悲痛な訴えが通ることなく、軍師二人はその後も延々と互いにああだこうだと言い合うのだった。  †  警邏から戻ってきた一刀が廊下を歩いていると、反対側から木賊色の三つ編みを揺らしながらつかつかと歩いてくる少女と出会う。  のんびりとした一刀とは真逆のせかせかとしたせわしない足取りをぴたりと止めると少女は一刀の方に歩み寄ってくる。 「丁度良いところに戻ってきたわね」 「え? 何が丁度良いんだ?」 「実は、気になることがあってね。ボクじゃどうにも上手くいかなそうだからあんたに頼みたいのよ」 「俺で力になれるのか甚だ疑問ではあるが、まあ、話は聞かせてもらおうかな」 「そう。実はねねのことなんだけど……様子が変なのよ」 「ああ、そのことか」 「何か知ってるの?」  賈駆が吊り上がり気味な瞳を僅かに見開いて一刀を見つめてくる。あまりにも反応が良かったため一刀は頬を掻きながら申し訳なさそうに答える。 「いや、俺も変だなと思っただけだ。すまん」 「そう。まあ、別にいいんだけど」  賈駆が一体何を言わんとしているのかがいまいち分からず、一刀はずばり訪ねることにした。 「それで、俺にどうしろって言うんだ?」 「それとなくねねの悩みを聞き出すなり解決してやるなりしてほしいのよ」 「どう考えても無理だろ」 「そんなのやってみなきゃわかんないでしょ?」 「その心は?」 「……女を相手にしたら右に出る者なし」 「ぐっ!?」  おちゃらけた一刀だったが、即座にそのことを心底後悔することとなってしまった。 「まあ、そういうわけだから、あんたが適任でしょ?」 「いやいや、俺とねねだと……あまり良い結果は望めないじゃないかなぁと思うんだが」 「少なくともボクがやるよりはマシでしょ?」  賈駆と陳宮の二人は共に軍師であり、互いをよく知る仲でもあるためか何かと口論に発展しやすいのは確かであり、彼女が言っていることに道理があるなと一刀は頷く。  それでも、と一刀は口を開く。 「そ、それなら……恋にって、そうか、恋も何か変なんだよな」 「はあ? 恋までおかしいって、それホント?」 「あれ? 気がつかなかったか?」 「全然。ボクが見た限り普通だったと思うんだけど」 「おっかしいなあ……確かにどこか違和感があると思ったんだが……」 「まあ、その辺もあんたに任せるわ」 「お、おいおい」 「それじゃ、ボクはまだやることあるから」  そう言うと賈駆は先ほどまで同様に素早い足取りで廊下を進んでいってしまった。  声をかけるまもなく遠くなった彼女の背中を見送りながら一刀は頭を掻く。 「ったく……やればいいんだろ、やれば」  幸い、先日の一件もあり、一刀は仕事詰めから解放されていた。そのため、彼は早速とはいかないまでも、翌日には陳宮の元にでも行ってみようと決めるのだった。  † 「さて、ねねは何処にいるんだか」  賈駆からの依頼を受けた翌日、一刀は起きて早々陳宮の部屋へと向かったが、見事に空振りだった。  期待が外れたためか、気が緩んでいるからか口から溢れそうになるあくびを噛み殺しながらも一刀はそのまま城内散策に赴いていた。  朝日の目映い光が差し込む中、廊下を歩く一刀は前方で波打つ楝色の髪にヘッドセットを付けたメイド服の少女が歩いているのを見つけ、駆け寄る。 「おーい、月」 「あ、ご主人様」 「おはよう」 「おはようございます」  振り返り、一刀の姿を確認すると、董卓はぺこりと可愛らしくお辞儀をする。笑顔を浮かべて返事をすると、一刀は話を聞いてみることにする。 「なあ、月。ねね、見なかった?」 「ねねちゃんですか。ちょっと、見てないですね」 「そっか。どこいったんだろ……」  首を捻りながら呻く一刀を董卓が上目で見つめながら小首を傾げる。 「あの、何か御用でも?」 「ん、まあちょっとね」 「でしたら、ねねちゃんを見かけたらご主人様が探していたとお伝えしますね」 「ああ、よろしく頼むよ」  礼を告げると、一刀は董卓と別れ、陳宮探しを続行する。  数ある廊下を歩き渡り、要所要所を見ていくが、どこにも目的の人物の姿は無い。 「くそ、全然見つかりそうにないぞ」 「何を一人でぶつくさ言ってますの? 気味悪いですわねえ」 「れ、麗羽さま……開口一番にそれはちょっと酷いんじゃ」 「いやあ、でもこれはちょっとキモイぞ」  急に声をかけられて驚いて振り向くと、いつの間にかお騒がせ三人組がそこに立っていた。  巨、巨、貧という肉体の一部における力関係に均衡さが感じられない三人を見ながら一刀は口を開く。 「えっと、実は人を探してて」 「ふうん、それって急用なのか?」  朝日を受けて緑の色素を一層際立たせている青磁色の髪に生える濃藍のバンダナが一際活発さを感じさせる少女の言葉に一刀は曖昧に頷く。 「ん……まあ、そうと言えばそうかな」 「誰を捜しているんですか?」  主とどちらが上かという興味を持たせるような胸をした少女が頬に手を添えて訪ねる。濃藍の切りそろえた髪が朝のどこか湿った空気によって艶を帯びて大人びた性格と合いまって美しく見える。 「じつは、ねねを探してるんだ……」 「あのチンクシャですの? なんでまた」 「まあ、ちょっと事情があるんだよ」  日の光を浴びてキラキラと玉石のような輝きを見せる金色の縦巻きの髪を揺らしながら訪ねてくる女性……二人の主でもある袁紹に頬を掻きながら一刀は答えを濁すようにして返す。 「もしかして、何か軍事的な話ですか?」 「軍師が必要なら斗詩を……いや、やっぱ駄目だ。斗詩はあたいと一緒にいるんだからな」  がばっと顔良を抱きしめると、青磁色の髪を猫の様に逆立たせて威嚇してくる文醜に苦笑いを浮かべながら一刀は首を振って答える。 「そうじゃないよ。ちょっと、私的な用事だから」 「そっか。なら別にいいや」 「何がいいのか、さっぱりだよ文ちゃん……」  文醜に抱きしめられたままの顔良が眉尻を下げてため息を吐く。 「で、その用事って言うのはなんですの? 何か、面白いことでもあるんですの?」 「いや、別に面白い事じゃないと思うぞ」  興味津々といった様子で詰め寄る袁紹をいなしつつ、一刀は他の二人の方を見る。 「まあ、何だ。俺は今日中にあいつを見つけたいんで、悪いけど、これで失礼するよ」 「あ、はい。もし会ったら探してるって伝えておきますから」 「ああ、頼むよ」 「ちょっと、まだ話は終わっておりませんわよ~」 「はいはい、麗羽さま。昨日買ったけん玉でもしましょうね」 「な、何でこのわたくしがそんな玩具で……というか、なんでわたくしのけん玉を猪々子が持ってるんですの!」 「いや、これ結構奥が深いんで……」 「ふん、ちょっとよこしなさいな」 「えー、嫌ですよ」 「猪々子!」  ぎゃあぎゃあと賑やかさを振りまいている袁紹たちを後にして一刀は尚も陳宮を捜す。  だが、成果は出ず、一刀はついには街へと繰り出すことにした。 「誰もねねを見てないってのも変な話だな」  区画事の詰所に立ち寄っては警邏の兵士たちに訊ねて回っているが、陳宮の消息については余り有益な情報は得られなかった。  時間は刻一刻と過ぎ、ついには昼過ぎとなってしまった。 「街をぶらついているのなら誰かしらの眼に止まっていてもおかしくないはずなんだけどな」  腕組みしてうんうん唸りながら歩いているうちに一刀は城門へと辿り着いていた。  そこには、見知った少女の姿があった。肩口辺りまで伸びているのと同じ洋紅の髪の毛を龍の角のようにぴょこんと二本ほど頭の天辺から飛び出させている彼女こそ陳宮とも親しい呂布である。 「あれ、恋じゃないか。どうしたんだ?」 「…………散歩」  そう答える呂布の足下ではセキトと張々が彼女に出発することを催促するようにじゃれついている。 「なるほど、セキトたちのか」 「…………」  こくりと頷く呂布。やはり、どこか違和感がある気がする。  彼女は一刀を見ているようでその後ろに視線をずらしているように感じる。  だが、先日の趙雲の言葉もあり、訪ねたい気持ちをぐっとこらえ一刀は別の話を切り出す。 「ところで、ねねを見なかったか?」 「…………」  今度はふるふると首を横に振る。どうやら、見てないということらしい。 「そっか、いつも一緒だから何か知ってるかと思ったけど……」 「……ねね、最近変」 「え?」 「……全然、姿を見ない」 「確かにそれは変だな」  事あるごとに呂布の元へ馳せ参じる陳宮が彼女の前に全く現れないというのはやはり何かあるということなのだろう。  一刀は賈駆が言っていたことがますます現実味を帯びているのを感じ始めていた。 「どこか、心当たりはあるかな?」 「…………」  再度、呂布は首を横に振る。 「そっか、なら仕方ないや。じゃ、俺行くから。恋も散歩いくのはいいけど、気をつけるんだぞ」  呂布がこくりと頷くのを見ると、一刀はその脚で城の外へと繰り出していく。 「後は、この辺だと森の方か……」  これで陳宮がいなかったらとんだ無駄足になるなと思いつつも、僅かな可能性にかけて一刀は森の方へと歩を向けるのだった。  †  森へ到着する頃にはすっかり、あたりも夕焼けによって朱に染まっていた。  人が通ることで出来た道を歩きながらどこかにいないかときょろきょろと見回すが見つからない。  そうこうしているうちに、一刀の耳に水の流れる音が届く。 「そうか、小川があるのか」  音のする方へと脚を踏み出していく。ゆっくり、でも確実に進んでいく。  そして、ついに木々の間を抜けて小さいけれど開けた場所に出た。  今まで木々によって制限されていた日の光をもろに受けたため、条件反射で手を翳しながら一刀はゆっくりと川辺へと歩いていく。  小さな影が、そこにちょこんと座り込んでいた。  帽子に描かれたパンダ同様に紅色にそまる顔を俯かせた小さな小さな影。  カットジーンズから伸びる脚の素肌の膝を抱えている彼女は普段以上に小さく見える。  その小さな肩に自分の肩がぶつかりそうなくらい近くに一刀はそっと腰を下ろす。 「どうしたんだ、こんなところで黄昏れたりして」 「…………」  やけに元気のない陳宮を不思議に思い、横目でちらりと盗み見る。街で別れた呂布の髪のように洋紅色をした髪飾りが日の光で煌めいているのに反して彼女の瞳は曇ってしまっている。  ふう、と息を吐き出すと一刀は後ろに手を突いて空を見上げる。 (今はそっとしておくのがいいだろうな……)  無理に話しかけず、陳宮が落ち着くのを待つことにして一刀はのんびりと赤い空の中で徐々に姿を見せ始める星を数えていく。  そのまま二人は日が沈むまで言葉を交わすことなく座ったまま寄り添っていた。  辺りも暗くなり始め、空にて月がうっすらとした光を放ち始めるころになって俯きがちだった陳宮の顔がゆっくりと上がる。 「何しに来たのです?」 「別に」 「誤魔化すんじゃないのです」 「そう? じゃあ、言うな。様子が変だけど、どうかしたのか?」 「…………」 「ま、いいさ。本当はさ、詠になんとかしてこい! なんて言われて来たんだけど、ねねの姿見たらどうでもよくなっちゃったんだ」  再び空を見上げながら一刀は話しかける。  陳宮がどんな表情で、どこを見ているのかはわからない。それでも、このせせらぎ以外に遮るものがない場所ならば一刀の声は届いているはずなのだ。 「ねねも自分なりに考えたいだろうし、無理にあれこれ訊くのも良くないもんな」 「…………」 「だけど、これだけは覚えておいてくれ。勝手にいなくなったら心配する」 「…………ふん。そんなのねねの知ったことではないのです」 「はは、そうか」 「な、なんだか、今日のお前は気持ち悪いですね」 「そうか」 「それしか言えないのですか」 「どうだろうな? きっと、ねね次第じゃないか」 「そう……ですか」 「うん」  段々、陳宮の声には普段のような力が籠もってきている。言葉も力強く、一刀のよく知るものになっている。それが今は無性に一刀の心をほっとさせる。 「そろそろ帰ろうか」 「当たり前なのです。いつまでも、こんなところでケダモノのようなやつと一緒にいたくはないのです」 「あんまりな言いぐさだな」  すっかりいつもの様子に戻っている陳宮に苦笑を漏らしつつ一刀はゆっくりと立ち上がる。  陳宮と共に腰掛けた際に付着した土などを手で払うと森へと戻っていく。  しばらく憎まれ口を叩く陳宮を微笑ましく見ていた一刀だが、徐々にいつもの調子で返すようにしていく。 (変だなんていうから結構心配したもんだけど、何だ、それほど深刻ってわけでもなさそうだな)  じゃれ合いながらも胸が温かくなるのを一刀が感じていると、木々によって作られた闇の奥から何やら人の声が聞こえてきた。 「ふぃ-、流石にちょっとばかし夜は冷えるな」 「そうだなあ。親分たちもあの街にいってから帰ってこねえし……参っちまうぜ」  野太く、厳つい声に一刀はぎょっとして脚を止める。  即座にそっと身を屈めて茂みに身を寄せると、陳宮にも同じようにするよう促す。 「…………」 「……何をしているのです?」 「しっ。どうも、まずいとこに来ちゃったみたいだぞ。俺たち」 「どういう意味ですか?」  不思議そうに見てくる陳宮に一刀は耳を傾けるように小声で指示する。  男たちは何やら大声で話をしているらしく、会話の内容が一刀たちにも良く聞こえる。 「どうするよ? 親分たちの救出に行くか?」 「いやあ、もう少し仲間は必要だろ。かといって、纏まった人数で一片にいくのもな……門兵が通そうとはしないだろうし……何よりまともな軍に対抗できるとは思えねえ。面倒だが、仲間を集めつつ、街へ忍ばせていくって感じだろうな」 「つか、もう送ってたりしてな。あっははは」 「何? そりゃ、マジか!?」 「おうよ。既に、手先が何人も潜り込んでるぜ。多分、やつらも気付いていないだろうよ」  いくつもの声によって交わされる会話は、聞き捨てならない内容が含まれており二人ともそちらから耳を離すことができない。 「やばいな……もしかすると、この間討伐してやったやつら……いや、討伐したのは恋だけど。その仲間っぽいなあ」 「どうやら、あの感じからすると組織の下部構成員のようなのです。せいぜい残りカスと言ったところですか」  腕組みして一人頷く陳宮。その横で耳を澄まし続ける一刀の耳には複数の声と足音が段々と自分たちの方へと近づいてきているのがハッキリと聞こえた。 「ま、まずい! ねね、身を隠すぞ」 「え? ちょ、ちょっと! どこに手を回しているのです! この変態! 離せー!」 「ば、馬鹿っ! 騒ぐなって」 「はーなーせーでーすー!」  一刀の嗜めも聞かず喚く陳宮。その声は一段と声量を増し、ついには近づきつつある気配へも届いてしまう。 「な、なんだ今の声は!」 「誰かいやがるのか!」 「探せ! 探せ~!」 「話を聞かれちまったとしたらまずい、殺せ!」  喧々囂々と息巻いた声を発する賊徒たちの声が森中に木霊するようにして広がっていく。 「本格的にまずい。マジで逃げるぞ! だから、顔を殴るな! ああもう!」 「もがもがもが」  一先ず口を押さえて陳宮を運び去る。二人と入れ替わるようについ少し前まで一刀たちがいた河原へと複数の足音が辿り着いた。  間一髪、近くの茂みに身を隠した一刀は陳宮と共に賊の様子を窺う。 「ひぃ、ふぅ、みぃ……ざっと三十くらいいないか、あれ」 「まだぞろぞろと出てくるのです……」 「ど、どうしようか」 「何か考えてみるのです」 「な、なあ……いつものあれで倒せたりしないかな?」  そう言って、一刀は自分の脚を叩く。  少女の必殺技とも言えるきっくの威力は彼こそが一番知っていると言えるだろう。故に、もしかしたらと希望を抱きたくなる。 「そんなことわかるかですー!」 「ば、ばかっ!」 「大体、失敗したらねねの命――もがっ」 「誰だっ!」 「そぉこかあ!」  陳宮の口を押さえたのも一足遅かったらしく、河原にいた男たちが一斉に一刀たちが身を隠している方へと向かってくる。 「やべっ、逃げろー」 「ひぃ、お前はどうなってもいいですが、ねねだけは、ねねだけは逃げきってみせるのですー!」 「さりげなく、非人道的なことを言うなあ!」 「死にたくなきゃ、自分でどうにかするのです!」 「あほかっ! 出来たらしてるわ! それよりも、こういうときこそ、名軍師として良策を授けるというものじゃないのか?」 「い、今考えているのです。……そうだ、へぼ主人、おとりになるのです!」 「よ、よし、そうして罠かなんかで奴らを一網打尽にするんだな」 「いえ、ねねだけ逃げます」 「馬鹿かお前はー!」 「前もって何かできる余地もないのならそれしか道はないというものです。そう、臣下のために命をかけるのも主君の務め――」 「いやいやいやいや、そこはどうにかして二人とも生き延びる方法をだな……」  一刀が首をぶんぶんと振って陳宮を説得しようと頭を巡らせていると背後からの声が一層数を増していることに気がついてしまう。 「おいおい、三十どころじゃないぞ、この声」 「…………」 「だ、黙って先に行こうとするな! ま、待てってば」  だだっと一目散に駆けていく陳宮の背中を追いかけて一刀もひた走る。  ちらりと背後を見る。  もうもうと立ちこめる土煙が賊徒の荒々しさを物語っている。  一刀の背中は冷や汗によってすっかりびちょびちょに濡れている。生存本能が危険信号を送っているのだろう。 「へっぽこ主人、そっちに行くのです」 「え? こ、こっちか?」  陳宮の指さす方向へと向かい、茂みを飛び越え、更に先へと踏み出そうとした瞬間、大地がめりめりと不釣合いな音を立てて沈み、一刀は重力の向きに従って落下していった。 「い、痛てて……な、何を」 「お前は、そこにでも隠れてるのです。どうせ、足手まといになるのですから」 「は? 何をって、おい! ねね、本当に何をして」  一刀が入ってきた入り口が徐々に塞がれていき、ついには何も見えなくなる。  暗がりと森を支配する沈黙が一刀の心にある焦燥を焚きつける。  慌てて駆け上ろうとするが、落ち着きがないためか何度も脚を踏み外してはずるずると落ちる。  既に陳宮の気配は感じられない。  その代わりに、賊のものと思われる気配が一斉に同じ方向へと駆け去っていくのと方々から野太い悲鳴が響き渡っているのだけが伝わってくる。 「な、何が起こってるんだ?」  なんとか落とし穴から這い出た一刀が首をきょろきょろとさせていると、がさがさと音を立てて茂みが揺れる。  息を呑み、一刀がじっと見つめていると、そこから人影がぬっと現れる。 「くっ、やられる前にやってやる!」  そう叫び飛び掛かろうとした瞬間、影がばっと空中に舞い、一刀に反撃を仕掛けてくる。 「変態野郎を倒せとこの脚がうなるのです! ちんきゅーきーーーーーーっく! 」 「おぶぅ」  間の抜けた声を発しながら一刀は後方へと大地を滑るようにして吹き飛ばされる。  聞き覚えのある声と、何度も感じた脚の感触とかすかにほんのり香る甘い匂い……それは間違いなく野太い声を口から垂らし続けるようなむさい男ではない。 「……ね、ねねか?」 「む? 何をしているのです。よもや、この森林によってできた暗がりを利用して不埒なことをしようとでもしたのですか! このケダモノめ!」 「違うって、てっきりあいつらの仲間かと思って……」 「どこをどう見れば、あんなむさ苦しくて暑苦しくて見苦しい奴らと見間違うのですか!」 「い、いやあ。ちょっと慎重になってたからな……うん」  ジト眼で睨み付けてくる陳宮に頭を掻きながら一刀は苦笑を浮かべる。 「にしても、どうしたんだ結局? というか、なんで俺は落とし穴に落とされたんだ?」 「だから、足手まといだといったはずですぞ」 「まあ、そうだな。いや、そうじゃなくて」 「皆まで言うなというやつです。ちゃんと馬鹿なお前にもわかるよう説明してやりますから安心してよいのです」 「何かそこはかとなく腹が立つのだが、取りあえず説明を頼む」 「実は、丁度この辺りに罠を作る訓練を行ったところがあったのです」 「……成る程、それを利用したと」 「まあ、そうなるのです。幸い、敵は頭脳となる人間もいない獣のような奴らでしたから、この陳宮に掛かれば始末するのも容易いものです」  始末という言葉に冷たいものが背中を通るのを感じながら一刀は、気付いたことを述べる。 「なあ、それなら俺が落とされた穴にでも入れればよかったんじゃ……あれ、落とし穴だろ? 俺じゃなくてあいつらを落とせばよかったんじゃないのか?」 「ああ、それですか。まあ、個人的に憂さ晴らしがしたかっただけなのです」 「一発殴らせろ」 「お断りなのです」 「待てー! コラー!」  だだっと早足で木々の間を駆け抜ける陳宮を一刀もがむしゃらに走って追いかける。  木々に宿る葉の合間から差し込む月の灯りを頼りに駆け回る二人。  吹き抜ける風が音をかき消し、二人の声だけを残していく。  そよぐ枝々が優しげに笑う。  何だかんだで楽しげにしている二人だったが、茂みを超えて飛び出した先で新たな人影と出会ってしまう。  それは、先ほどまで二人を追いかけていた男たちとよく似た男だった。 「な、なんだおみゃーたちは!」 「げっ、まだ残りがいたのか……いや、一人ならなんとか」  じりと踏み込み身構える一刀の耳は男の後方からする声を拾った。 「ん、どうした。おっ、なんだ? どこぞの村から迷い込んだ兄妹か?」 「そこはむしろ姉弟としてほしいところです」 「んなこと言ってる場合じゃないって」  気がつけばぞろぞろと賊徒が姿を現す。恐らくは、賊の本体といったところだろう。先程、陳宮が処理した者たちが戻らぬため、様子を見にきたのだろう。 「ねね。俺の後ろに隠れてろ……」 「そんな気遣い無用なのです! 別にねねだってこの脚があります」 「ははっ、馬鹿だなあ。いいか、残念なことに俺は男なんだよ。大事にしてる女の子くらい護らないでどうする」 「ば、馬鹿はそっちなのです! そんな見栄を張ってる場合じゃ――」 「男には張らなきゃ行けない見栄もあるんだよ」  一刀はにやりと笑うとごねる陳宮を強引に背中に回して賊徒たちと対峙する。 「ほう、麗しいねえ。でも、俺らにはそんなの関係ないけどな」  下卑た笑みを浮かべ距離を詰めてくる賊徒たちを睨み付けながら一刀は足下に転がっていた太めの枝を拾い上げると両手で握りしめる。  足をこぶし一個分ほど左右並行のまま開く。  つま先立ちにした左足のつま先を右足のかかとへと近づける。 (かかとは紙一枚分浮かせる……)  自然と一刀は、自分の中で最も身に染みついている構えを取っていた。 「さて、誰から行くか? 誰もいかねえんなら俺から――ごふ」 「余計なおしゃべりは戦場じゃ命取りだぞ」  脳天を打ち抜いて男に大地との接吻を堪能させると、一刀は口端を吊り上げて皮肉るように笑う。もっとも、彼自身は戦場で武器を持って戦ったりしたことなどないのだが。 「糞が舐めたことしてくれるじゃんかよ……」 「い、以外なのです……てっきり、へぼへぼのダメダメだとばかり思っていたのです」 「ん、まあ、恋のような天才や華雄や霞のような武の道を進むやつら……いや、それどころか猪々子や斗詩なんかと比べたとしてもへっぽこには違いないだろうな」  構えを取ったまま、背にしている陳宮に答える。  仲間の一人がやられたためか男たちの目つきが一層険しくなる。 「許さねぇ! うひょぉおっ!」 「せいっ!」 「あわびゅっ!?」  急いて突出した一人が飛び掛かってくるのを一刀は叩き伏せる。  継いで襲いかかってくる男たちも同様に枝の餌食にしていく。  賊徒たちは何故か思うように一刀に攻撃が通じていないどころか、逆に仲間が次々と脱落していく様に動揺を露わにしている。  静寂が訪れ、賊の一人がごくりと唾を飲み込む音が明確に聞こえる。 「な、なんだ、こいつ……見た目は優男なのに……」 「そら、専門的な連中よりは下かもしれないけど、一般人よりは腕あるって自負してるからな。一応、これでも武官にしごかれて、兵士や街の人たちに混じって肉体労働させられて、文官……主にツン軍師共にコキ遣われて……うう」  自分を作り上げてくれる様々な要素を語っているだけのはずなのに一刀の目頭は非常に熱くなっている。 「全部、お前らのようなやつが世を乱すせいじゃああああ!」 「な、なんじゃそりゃあー!」  頭の中で何かが切れる音がしたのと同時に一刀は男たちに襲いかかる。  打ち据えては倒れさせ、大地に転がった相手を見つけては枝でしばく。  その繰り返しをしているうちに、一刀はめまいを覚える。 「あ、あれ?」 「ち、血が出てるのです!」 「へ? あ、そうか……この間の傷が開いたのか……」  視界が雪景色のように真っ白に染まっていく。  世界がぐらついているかのように足下がおぼつかない。 (やばい……貧血か)  気付いた時には後の祭り、一刀の意識は完全に闇の底へと沈んでいってしまった。  ただ、最後に何か荒々しい息遣いが近寄ってくるのだけは感じ取れた。  † 「ん……ここは?」  瞼を重々しく上げた一刀の瞳に映り込んだのはよく見慣れた天井だった。 「あれ? いつ部屋に戻ってきたんだっけ?」 「何を言っているのです。運ばれてきたに決まっているではないですか」 「ん? ねねか、どうして俺の部屋に」 「本当に目覚めたばかりなのですなあ」  陳宮は態とらしくやれやれと肩をすくめると「よいですか」と前置きして説明を始めた。 「お前は乱闘を繰り広げた挙げ句、地に倒れ伏して御輿に惹かれた蛙みたいになっていたのです」 「そうだったのか……どおりでその辺りから何にも覚えてないわけだ」 「どうです? 身体の方は、何か以上はあったりしないのですか?」 「ん? ああ、大丈夫なようだな」  調子を見るように肩を回したところで一刀はふと自分が白いぽりえすてるの上着を着ていないことに気がついた。 「俺の上着は?」 「ああ、あれなら賊と争っているときに汚れたようだったのでそれを落としてるのです」 「なるほど。そういや、あいつらどうなったんだ?」 「恋殿の逆鱗に触れたらしく、夜空を舞うはめになったのです。もしかしたら煌めく星々のどれか一つに届いてしまうのではとすら、ねねは思ったのです」 「は、はは……何となく想像出来るな」  少し前に見たばかりだったからか、宙を舞う賊の姿がかなりの精度で綺麗に思い描くことができ、一刀は引き攣った笑みを浮かべることしかできない。 「しかし、どうして恋がいたんだ?」 「それはですな、たまたまセキトと張々の散歩にと出向いてきたようです。まあ、恋殿と張々によく感謝しておくことです」 「そっか。しかし、なんで張々にまで感謝しないといけないんだ?」 「へっぽこなお前を運んだのは張々なのです…………正確には引きずったのですが」 「ん? 最後の方が良く聞こえなかったんだが?」 「と、とにかく、張々には頭こすりつけて土下座でもしてよくお礼を言うのです」  どもりながら答える陳宮を訝しみつつも一刀は取りあえず、親指という留め具に抑えられている中指に怒りを込めて陳宮の額にでこぴんをかました。  それからしばらく犬猫……いや、犬と猿が喧嘩するようにがあがあと言い合いをした後、どちらともなくため息をついた。  ふうっと鼻から息を漏らすと陳宮はぽつりと呟く。 「鷦鷯深林に巣うも一枝に過ぎず……ねねもその意味がわかった気がするのです」 「ふうん。どういうことだ?」 「ようするに、ねねにとっては恋殿がいればそれ以上は求めずにいても……ということです。まあ、しょうがないので、本当にしょうがないので、恋殿以外にもう一つくらいなら枠を作ってやっても良いかなと思わなくはないのです」 「は?」  陳宮が何を言わんとしているのかがわからず一刀は怪訝な表情を浮かべて首を傾げる。  一刀の反応を見た陳宮は何故かむっとした表情を浮かべてそっぽを向いてしまう。 「ふん。へぼ主人は知らなくてよいのです」 「何だよ、気になるじゃんか」 「……その様子だと恋殿のこともわかってないのでしょうな」 「いや、まあ……そうだけど」  鋭いツッコミを受けて一刀は頭を掻いて口ごもることしかできない。 「なら、ねねの口からはこれ以上言うことはありませんなあ」 「えー、気になる気になるー」 「気色悪い声を出すなです。次やったらちんきゅーきっくをお見舞いしてやるのです!」 「ちぇっ、わかったよ……自分で考えるから」 「その足りない頭ではどうにもならないのでしょうが、ま、健闘を祈っておくと言っておきましょう」 「そのくどい言い方は何なんだ」 「自分で考えれば良いのです。さて、ねねはこれから恋殿に張々の世話をしていただいたお礼をしにいくので失礼するのです」  一刀の質問に答える意志を微塵も見せることなく腰掛けていた椅子から立つと、陳宮は軽い足取りで部屋を出て行こうとする。 「あ、そうだ」 「なんですか? しつこい男は嫌われるのですよ」 「あのなあ……いや、まあ、その辺りについては後日じっくり議論させてもらうとしてだ」  そう言って一呼吸すると、一刀は全身の力を抜いた状態で自然に柔らかく笑う。 「恋と……仲直りできたんだな」 「っ!? べ、別にお前には関係ないのです!」 「いや、素直に良かったなって祝福してるんだよ」 「ど、どうやら、頭でも打ったようですな。あ、後で医務室に行ってみて貰うといいのでう!」  どもりにどもり、終いには噛んだ陳宮は眼を細めてべーっと舌を出すと、すたこらさっさと部屋を後にするのだった。  扉が閉まるまで視線を釘付けにしていた一刀はそれがぱたんとしまるのと同時に腕を頭の後ろで組んで横になる。 「やれやれ。相も変わらず騒がしいやつだな……ま、その方が俺としても安心できるんだけどな」  そう呟いた一刀の口元は緩やかに綻び、幸せの曲線を描いていた。