玄朝秘史  第三部 第二十八回  1.越  建業から南に下ると、しばらく平原地帯が続くものの、徐々に山岳地帯へと至る。奥に入り込めば、入り組んだ渓谷と森林の……平地とは別の世界が広がる。いわゆる山越が住む土地である。  この時代、呉の中心部である揚州で把握されている人口は、四三〇万ほど。曹操勢の当初の都であった陳留を含むエン州が四〇〇万程度であるから、同規模と言っていいであろう。  しかし、広さで考えると揚州はエン州の何倍もある。やはり、中原に比べれば、はるかに薄い密度でしか人がいなかった……と結論づけるのは早計すぎる。  当然、エン州ほどの人口密度はありえない。開かれていない土地も、山越すら住み着かない辺鄙な場所もあったに違いない。しかし、この場合は、徴税のために『把握されている』人口が同程度であるというだけで、中原のように支配の行き渡っていない揚州では、厖大な数の簿外人口があると考えるほうがより現実に近いだろう。  そこには山越などの勢力や、孫呉に表向き臣従しつつ、裏で私的に荘園を経営する土豪たちの存在がある。  孫呉政権はそれらの勢力を時に懐柔し、時に高圧的に出て、徐々に切り崩し続けている。山越のような元々国家機構に組み込まれていない人々も呉の民として受け入れ、隠し田で働かされている者たちは、あらためて住民として登録される。  だが、当然、そこには抵抗も生まれる。  余計な手出しをせずに放っておいてくれ、という程度であれば黙認できても、平地の民から略奪を始めたならば、これは威を示す場面となる。  いま、山地に続く森林から少々離れた場所で軍が布陣するのも、そんな理由からであった。 「しっかし、あいつらもたいがいだよねー。平地に出てこなければ、こっちも叩いたりしないのにさー」  ぶちぶちと言うのは、左右に白虎と大熊猫を従え、馬に跨がる少女。丸っこい顔立ちを凛々しく彩る表情が、その鮮やかな衣服によく映えた。  面倒そうに言う小蓮自身は本気でそう思っているのだろうが、実際には、叩けないと言うべきであろう。  山間部に住む山越の本拠地を知る者は、平地の民にはいない。もしそれがわかったとしても、大量の兵を山の中に入れるのは無理がある。進軍も難しいし、野営するのも危険だ。なにより、それだけ苦労して軍を進めたとしても、得られるものが少ない。  そのために様々な融和策を進めてきたのだが、白眉の台頭により、それもおじゃんとなってしまった。  白眉による各地の混乱を好機と見る一派が、攻撃的姿勢を強めてきているのだ。 「今回は白眉と結んでいますから、出てこざるを得ないというところもあるかと……」  小蓮から見ると大熊猫に隠れるようになる位置で兵をまとめていた女性が、善々の背から出て小蓮に話しかける。だが、その口調は少々重い。長い袖を揺らしつつ話す亞莎は、山越への温情ある扱いを主にしていただけに、今回の討伐は複雑な思いがあるのかもしれない。 「まあ、こっちとしては、挑んでくるならやっつけちゃうけどねー」 「それは……そうですね」  何気なく言った言葉であろうが、真実でもある。彼らは山の世界と平地の世界の境界を侵し、里を襲った。いかに融和を進めようとしている最中でも、それを放置するわけにはいかないのだ。  亞莎は顔を引き締めると、長い袖を合わせ、献策するかのような口調で言った。 「噂では、朝廷より印を下賜されたと主張しているとか」  王朝が、周辺の異民族を王や爵位に封じて手懐け、属国とすることは珍しいことではない。そもそも始皇帝以前は、どの国も天子に王に封じられる封建体制をとっていたわけで、現在の三国体制や、周辺属国とみなされる南蛮もそれに近しいものかもしれない。  しかし、孫呉の領域にある山越に印を渡す――つまりは王として認めるということは、呉領内に新王国の樹立を促すものだ。もちろん、呉としては面白いわけもない。 「ふーん。ほんとかな?」 「どうでしょうか。朝廷にとってうまく運べば本物だったことになるでしょうし、そうでなければ、否定するでしょう。いまのところ、無視という態度ですかね」 「ずっこいなー」  顔をしかめる小蓮に、亞莎は表情を変えずに囁きかけた。 「権威というものを利用しようとすれば、どうしてもそうなりますから……。こうして喧伝している山越の存在などを考えれば、権威の側だけが悪いとも言えません」  天子に留まらず、小覇王や覇王、あるいは天の御遣い。権威はあるだけで利用され、あるいは逆に敵意を呼ぶ。 「ま、要するに」  むくれ気味ながら少し考えていた小蓮は、ぱっと顔を上げると、にかっと笑みを浮かべた。 「シャオたちが平定しちゃえば問題ないわけだよねー」 「はあ、まあ、それは……」 「みんなーっ」  亞莎の声を遮り、彼女は愛用の月華美人を取り出し、真上に突き上げる。 「続けーっ!」  戦輪が振り下ろされ、それと同時に、彼女の馬が走り出した。しなやかな体躯を優雅に動かして周々があっという間にそれを追い抜き、重量感のある足音をたてて善々が巨体を前進させる。  おおおおおーっ。  兵たちのうち、小蓮の親衛隊がまず野太い声を天に放ち、勢いよく、しかし隊伍をしっかり保ったまま走り出す。それにつられて、各部隊が動き始めた。 「あ、小蓮さま! そんないきなり!」 「華雄直伝! 迷った時は、即! 突撃!」  白虎と大熊猫の露払いを受け、小蓮は楽しそうに突進する。 「小蓮さま、待ってくださーい。……へ、変なところが、しぇ、雪蓮さまに似てるぅ」  その後を、片眼鏡の軍師が慌てて部隊をとりまとめながら追いかけるのであった。  成都にほど近いところまで進軍したところで、桔梗は右手――北東の方向に大量の人間が進むとき独特の土煙を認めた。 「ん、あの旗は」  観察してみれば、その煙の合間に見える旗には見覚えがある。 「魏将軍ですね」  部下も同じように認識したのを確認し、隊列の進む向きを変えるよう指示を下す。 「よし。魏延隊と合流してから成都へ戻るとしようか」  実際には北東から来ている魏延隊と南方から北上する厳顔隊が合流するのは遠回りとなるのだが、日に何度も軍が入城するのも、人心を考えるとよろしくない。多少の道草も重要であろう。  そんなことを考え、髪に挿したかんざしを一つ弾いてから、彼女はからからと笑い声を立てた。 「おお、焔耶。主も呼び戻されたか」  合流し、馬を並べて進み始めた両将の会話は、そんな風に始まった。 「はい、桔梗さま。南方はいかがでした?」 「おとなしいものよ。一、二度潰したら後は続きもせん。あれなら南蛮娘どもに任せても問題あるまい」  桔梗を慕ってくれているのか、南蛮兵たちはよく言うことを聞いて、益州の南方統治に一役買ってくれていた。美以がそう言いつけていたのもあるだろうが、蜀にしてみればありがたいことであった。 「それはよかった」  ほっとしたように言う焔耶に、桔梗は少し顔を引き締めた。 「東は騒々しいようだな。叩いても叩いても出て来るとか?」 「ええ。ですから、戻ってきたのもワタシだけで、鈴々は残っております」 「まあ、鈴々なら、そうそう大事にもならないな。あれは民を大事にする心では、かなりのものよ」  しばらく馬に任せて進み、わずかに部下たちと距離を取る。それはどちらが主導したわけでもない、師弟の呼吸のなせる技であった。 「此度の召集は、一度体勢を整えるためと……愛紗のことよな。聞いておるか?」 「北郷一刀の下へ走った、とだけ」  焔耶はさして気にしていない風に答える。それが周囲への影響を慮ってのことか、本当にそうであるのかはよくわからない。けれど、桔梗はその様子に奇妙なおもしろみを感じていた。それは、弟子の肝が据わってきたという評価だったかもしれない。 「ふむ。まあ、それでよいのかもしれん。詳細は桃香さまや軍師殿たちから聞くとしようか。あの方の動きはほんに読めん」  だが、その言葉に、焔耶は思いきり顔をしかめてみせる。先ほどとのあまりの違いに桔梗は思わず、ほんの少しのけぞっていた。 「なんだ、焔耶?」 「いえ。愛紗についてはどう考えたかわかりません。ですが、どうせあいつがお膳立てしたのであろうと思いまして」  焔耶が口にするのはもちろん、北郷一刀のことだ。しかし、そこに苦々しげな色はあっても憎しみや怒りはない。いや、苛立ちはわずかにあったが、それは激しやすい焔耶にとっての怒りとはほど遠いものであった。 「というと?」  こやつ、北伐を経験して、なにか変わったか?  彼女の師たる桔梗は表面上の話の成り行きとは別に彼女の事を眼を細めて観察する。 「あいつのいつもの手口でしょう。桔梗さまには悪いですが、あれはどうもわざとらしすぎます」 「ほう?」 「ほら、荊州でもやらかしたじゃないですか、一手に恨まれようとして。それと同じ事でしょう。そういう手口が得意な奴です」  それが悪いとまでは言いませんが、と焔耶は続ける。 「振り回される方はたまったものではありません。愛紗も気の毒です。桃香さまは言わずもがなですが」 「ふふん」  桔梗は笑う。  敬愛する桃香の下から逃げた――少なくともいま聞く限りではそうとしか判断できない――愛紗に対して怒るでもなく、北郷一刀になにか思惑があってこちらを振り回しているのだと断じる。しかも、それが悪意ではないと、焔耶はその態度で暗に示している。  そのことが無性に楽しく感じられた。  佳い女に育っておるわ。  彼女は口の中だけでそう呟いていた。 「な、なんですか?」  桔梗の意図をなにか察したのか、慌てたように声を荒らげる焔耶。その様子があまりに照れ隠しにしか見えず、桔梗はさらに笑みを深める。 「いや、あの方について、よう見ておるな、と……な」 「な、なにを!」  頭の上から抜けるような素っ頓狂な声をあげる彼女に構わず、桔梗は近づいてきた城門を眺めやった。 「さて、そろそろ入城するとしようか。桃香さまをお待たせするわけにもいくまい。のう、焔耶」 「う、そ、それはそうですが。いや、待って下さい。先ほどの……」  わいわいと言い合いながら、一組の師弟は成都へと帰還するのだった。  2.継ぐ者  その部屋は、かすかに刺激のある果実の香りで満たされていた。柑橘の皮を乾燥させて目の粗い袋に入れたものを、部屋の中にいくつか吊ってあるのだ。  思春はその香りで鼻がむずむずするようで好きではなかったが、部屋の主がこれを好んでいるのだからしかたない。体調の変化のためか、甘い花の香りなどは気持ち悪くてしかたないと彼女の主は主張するのだった。 「思春」 「起きておられましたか」  寝台で体を休めている女性から声が掛かると、思春は足をはやめて、その横につく。大きな枕に埋もれるようにしているその女性こそ、この国の女王、蓮華に他ならない。 「表はどう?」  ゆったりとした楽な服装の蓮華が体を起こそうとするのを、思春が手を貸して、丸めた枕にもたれられるようにする。 「はっ。小蓮様が予想以上にきっちりと。それと、明命は荊州から戻ってくるのはやはり難しいようで」  その報告に一安心したのか、蓮華は青い瞳を輝かせ、明るい表情になる。 「しかたないわ。穏に無理をさせられないし。彼女はつわりは大丈夫なのかしら?」 「はあ、なにやら食欲が無闇に増して困るという話でしたが」 「あら。そういう出方なのね、穏は」  呆れたように言う思春に、彼女はころころと笑って見せた。 「蓮華様のお体のほうは……」 「ええ。だいぶよくなってきたわ。先月が山だったみたい」  どうやらつわりが重く現れる体質らしい蓮華は、体調の悪いときはろくに公務に出ることもできていなかった。現在はその分を妹の小蓮が肩代わりしてくれているので、だいぶ溜まっていた仕事も片付いてきていた。 「小蓮にも、同世代の人間を誰か探してあげるべきかもしれないわね」  細かい報告を受けた後で、彼女は思春に髪を梳いてもらいながらそんなことを呟く。 「護衛ということでしょうか?」 「いいえ。姉様にとっての冥琳、私にとっての思春みたいな存在よ」 「公謹殿と並べられるのは光栄の極みですが、たしかに仰るとおり、近しい者がいてもよいでしょうな。私と亞莎で少し考えてみましょう」  主の発言に、驚いたような顔をして、ついでわずかに頬を染める思春であったが、内容に納得もしたようで、真面目な顔で請け負ってみせる。 「ええ、お願い」  しばらくは、思春が櫛で主の髪を整える時間が続く。 「また伸ばされたりはしないのですか?」 「うーん。一度切るとね。それに、子をもつとさらに細々と動き回らないといけないと思うし」 「たしかに、短い方が動きやすいところはありますが……。小蓮様のようにまとめるという手もありますし……」  そんな会話をひとくさりしたあと、不意に蓮華は思春に向き直り、深々と頭を下げた。 「ごめんなさい、思春」 「な、なにを謝るようなことなど。先ほども言ったとおり、国政については……」 「いいえ、そんなことではないの」  頭を上げた彼女はまるで秘密を打ち明けるかのように、小さく呟く。 「一刀の事」 「……は?」  思春の手が無意識に持ち上がり、髪に結ばれた紐をいじる。 「よくわかりませんが、子をなしたことを気に病んでおられるので?」 「まさか。私はそこまで傲慢ではないわ。子供が出来るのは天の思し召しだし、誰が先にだなどとも思わない。そうではなくて」  蓮華は思春に体を近づけて、小声で耳打ちする。 「昔、一刀を悪し様に罵ったことがあったでしょう。あなたたちに向かって」 「……まあ、そのようなこともありましたか。しかし、過ぎたことです」 「ええ、もう昔のこと。でもね、謝っておきたかったの」 「……そうですか」  突然のことに驚きはあったが、蓮華の思いがそれで晴れるならば、謝罪を受けるのも悪いことではないだろう。そう判断して、彼女はゆっくり頷く。  蓮華は思春が思ったとおり、ほっとしたような笑顔を浮かべてくれた。  その後で、彼女は顎に手を当てて、小首を傾げる。 「でも、きっと私が見ている一刀と、思春が惹かれている一刀では、また別の姿なんでしょうね」 「わ、私は別にあれに惹かれているなどということは……。たまたま、そういう仲にあるだけで……」 「隠さなくても」 「隠す隠さないではありませんっ!」  からかうように言う主に、ぶつぶつと恨み言のように何ごとか言っている思春であったが、蓮華はそんな事に構わないで話を進める。 「で、その一刀だけど。愛紗を手に入れたんですって?」 「はあ……。そのようで」  疲れたように頷く。正直、何とも言えない事態であった。 「姉様たちのように死んだことにしているわけでもないのよね?」 「はい」 「ふぅん……」  その瞬間の空気の変わりように、思春は思わずぶるりと身を震わせた。  やはり、この人は一人の女であり、呉を統べる女王なのだ。そんなことを思春は思い知る。 「穏は静観を勧めてきたけれど、思春はどう思う?」  続いての問いかけに、唾を飲み込んで、息を整える。 「私などの意見が役に立つかはわかりませんが、伯言の言うとおりでよろしいかと」 「そう?」 「あれの政治的な行動に一喜一憂してもしかたありません。理解できないものとして放っておくのが一番です。曹操も同じ部分がありますが……。今回は、特に呉に関係するわけでもありませんし」  その言葉に蓮華は体を枕に預け直し、傾いた格好で考え込む。 「酷い言われようだけど……でも、たしかに、いまは構う必要はないかもしれないわね」  では、そうしましょう、と呟いて、蓮華は表情を緩める。その手が膨らみはじめようとする己の腹に移った。 「人の思いというのは……強いものね」  ゆっくりお腹をなでる手の動きに目をやりながら、思春は頷く。 「時に大陸を揺るがします」 「ええ……。それがよいほうに働けばいいけれど……。でも……」  声が不安げにゆれる。  その様子に、しばし思春はためらっていたが、結局、決然とした口調で言葉を押し出した。 「蓮華様」 「ん?」 「現在は、たしかに不穏な情勢ではあります、しかし」  すっと彼女は跪く。その手が捧げるのは鞘に入ったままの大刀、鈴音。 「蓮華様の御身と、この呉の地は私たちが守ります。そして、御子様には、すばらしき世の中をお見せいたします。そう、約束いたします」 「思春……」 「あやつもそう心に刻んでいるはずです」  そこで彼女の言葉は途切れる。沈黙が落ちた部屋の中で、蓮華がわずかに立てる衣擦れの音だけが妙に目立った。 「ええ、そうね」  彼女は自らの腹をなでる手を止めることなく、ゆったりと呟く。 「ええ。そう。この子のためにもしっかりやっていかなきゃね」  そうして、まさに名前の如く華のように、彼女は思春へと微笑みかけるのであった。  3.帰還  人の怒りには何種類かある。  たとえば、義憤。  たとえば、憎悪に伴う怒り。  たとえば、どうにもならぬ苛立ち。  その中で、華琳の怒りは、二種類に還元される。そう、北郷一刀は思っている。  それは、覇王の憤怒と、少女のそれだ。  その日、その部屋に満ちているべきは、少女らしいわがままな怒りであるべきだった。  しかし。 「……魏の最高権力者におさまって、やったことと言えば、女を手に入れるだけなの?」  洛陽に戻った華琳が、一刀の前に突きつけたのは、覇王としての冷たい侮蔑の刃であった。 「い、いや、ちょっと待ってくれ。愛紗は色々事情があるし、それに他の仕事もちゃんとしたよ! 白眉だって、そりゃ、本格的な対策は、まだまだ端緒についたところだけど……」  三軍師を横に控えさせ、執務机の向こうでゆったりと椅子に体を鎮めている華琳に向けて、一刀は必死で抗弁する。 「そんなのは、当たり前。普段からしてることでしょ? それともなに? 民から税をとって衣食住を支えてもらってるくせに、さぼるつもり?」 「う、そりゃ……」  華琳の言うことも尤もだ。ただ、仕事をこなしただけでは、責められないだけで、褒められることはない。まして、愛紗の件は、実際の事情を考えてみても厄介ごとを引き受けたことには違いないのだから。  黙っている男に、華琳は金の髪をふって視線を戻す。 「他に、なにか言うことはないの? つまらない言い訳で時間を潰すつもり?」 「あ、いや……ええと、まず……」  彼は愛紗を自分の下へ引き入れた事情、白眉のこと、その対策として考えたことなど、自分がしてきたことを脚色することなく開陳していく。普段ならば補足で口を挟んでくる三軍師は、華琳になにか言われているのかまるで口を開こうとはしなかった。 「そのあたりの細かい話はいいでしょう。それで、自分では、どれくらいのことが出来たと思ってるのかしら? 短い間とはいえ、この私に代わってこの国と都を預かっておいて」  深い碧の瞳が力を増す。その問いかけは、一刀に偽りを言わせなかった。彼は、すうと息を吸い、出来る限り平静を保って自己評価を下す。 「そうだな。百点満点で、ええと、五十点、及第点ってところかなあ、と」 「そうかしら?」  ぎゅっと男の拳が握られる。その声音は、先ほどまでとはまるで違い、温かなものだった。だからこそ、彼女の本当の評価だと感じられて、一刀は膝から力が抜けそうになるのをなんとかこらえるしかなかった。 「私はもっとあげてもいいと思うけど。七十点くらいは」 「え……?」  優しくかけられた華琳の言葉に目を丸くして棒立ちになるところへ、彼女は立ち上がり、机を回って、彼の前にまでやってきた。 「一刀。お疲れ様」  すっと手があがり、彼の頬に、彼女の手が触れる。その温もり、その柔らかさよ。 「少し意地悪がききすぎちゃった?」 「か、華琳、お前……」  ようやく出てきた声はかすれていて、それがおかしかったのか、華琳は彼の頬に手を触れたまま、くすくすと体を震わせた。 「私のいない間、がんばってくれたのね。皆からも聞いているわ。ありがとう、一刀」 「あ、うん」 「まあ、私ならやらないこともあれば、私なら手を打っていることが抜けてるところもあるけど……。それも所詮後知恵でしょう。急に押しつけられた立場だというのに、あなたは立派にやり遂げたと思うわ」 「あ、う……ええと。その、こっちこそありがとう……」  感謝の言葉は、思わずというように漏れた。それは、華琳自身が本気で彼のしたことに深く喜んでいるからこそであったろう。 「ただねえ……」  華琳が彼の前から元の位置に戻ったことで、彼のことを慈しむように見ていた視線が一度外れる。しかし、それは、ぎろりと鋭さを増して戻ってきた。 「愛紗の件は恐れ入ったわね」  その視線が、この話は終わっていないと如実に示している。 「あはは……」  そう、乾いた笑いを漏らすしかない一刀であった。 「他の諸々も含めて、報告書は道々読んできているし、いま聞いたこともあるけど、不十分だわ。とはいえ……まずは桂花や秋蘭とも話をしたいし……。そうね、一刀からは明日、また改めて話を聞くことにしましょうか。それまでにあなたも自分で資料をまとめておいてくれる? 頭の中だけじゃなくて」 「よし、わかった」  そうして、一刀は退室していく。しかし、彼は扉を開けかけたところで、ふと振り返った。 「そうだ、華琳」 「なに?」  既に別の書類に目を落としていた華琳が、顔をあげると、彼はにっこりと笑う。 「その、大変な時ではあるけど、長旅だったんだから、ちゃんと体を休めてくれよな」 「はいはい」  一刀の明るい顔に苦笑で返しつつ、華琳はひらひらと了解の証に手を振るのであった。 「どう見た?」  一刀がいなくなってしばらくしてから、華琳は無言を貫き通した軍師たちに視線を飛ばし、そう訊ねかける。 「短い間とはいえ、権力の毒に侵されるようなことはなかったかと考えます」  稟がはっきり言い切るようにそう告げると、 「安易に私を頼るようなことも、それほどは。意見を聞くと称して、実質的に私に判断を委ねるようなことが、一つ二つありましたが、まあ、あいつの態度ですから、許容範囲でしょう」  と、桂花が報告する。最後に、風が、舐めていた棒つきの飴を外して、かすかにそれを振りつつ答えた。 「ちょっと無理してるところはありましたけどねー。まあ、瑕というほどでも」 「……そう」  三者の判断を受けて、華琳は腕を組み、脚を組み直す。白く柔らかな太腿が、何ごとかの落ちつかなさを示すように震えた。 「一つ付け加えますと」  稟は思案げに瞳を揺らした後で、眼鏡を押し上げて、その瞳を隠すようにした。 「勅の件を通じて、漢朝を潰すことを唆してみましたが、見事に否定されました。しかも、華琳様たちに重荷を背負わせたくないから、と」  そこで稟は、かつての長安での自分と一刀の会話を全て再現してみせる。一刀の部分は彼そっくりの抑揚と口調であった。 「あらあら」  稟の一人芝居を聞いていた金髪の女性の笑みはだんだんと深くなり、最後には思い切り破顔した。 「面白いわね。新時代の重みか……」  そこで彼女はひとしきり笑って、安心したような表情で肩をすくめた。 「予定とは違ったけれど、好都合だったかもしれないわね」 「しかし、華琳様、あいつのことはともかく……」 「ええ。愛紗の件と白眉については冗談ではすまない」  厳しい声で言う筆頭軍師の言葉に頷いて、覇王たる女性は指を机の上でついと動かす。 「白眉はなんとかするとしても、愛紗をどこまで世話できるものかしらね」 「おにーさんは、日が来ればあっさり帰せると思っているようですが」 「莫迦ね」  あっさり笑い飛ばされても、風は機嫌を損ねるようなことはない。かえって、他の二人がそれに乗ってきた。 「とことんまで莫迦ですね」 「しかし、その楽天家具合も、あの方のよいところでしょう」 「おにーさんですからねえ」 「まあ、それはいいわ」  三軍師の戯れのような言い合いに早々に言葉を挟み、彼女はふるふると頭を振る。ほんの少し傷んだ髪が鈍く光を放った。 「今日は一刀の忠告に従って、さっさと寝てしまうつもりだから、あなたたちも明日の朝までに伝えるべき事を選んでおいてちょうだい」 「はっ」 「了解いたしました」 「御意ですー」  三人の返事を背に、彼女は椅子から体を起こし、歩みを進めた。 「じゃ、お湯を浴びてさっぱりしてくるわ」  3.秉燭達旦  静かな夜だった。  聞こえてくるのはどこかで借りでもしてきたのか、梟が鳴く声くらい。  そんな中、闇を切り裂くようにあがるのは、赤子の泣き声。耳をつんざくようなその大声は、天宝舎入り口の扉が開いた段で、最高潮となった。 「おや、何をしている?」  大声の発生源である娘をあやしつつ中から出てきた母親は、扉の横で燭台を手に立っている美髪公の姿を認めて不思議そうに訊ねかけた。 「ご主人様に天宝舎の警護を頼まれたのでな。不寝番をしている。そちらは、秋蘭? ずいぶんな泣きようだが、なにかあったか?」 「ああ、いや、ただの夜泣きだ。庭を一巡りしたらおさまるだろうと思ってな。しかし……警護だと?」  わーわーと泣き続ける満天星を軽く揺すったりしてやりつつ、秋蘭は怜悧な美貌を疑問で覆う。  天宝舎は北郷一刀の子供たちとその母親のための棟だ。他に自室を持つ者がほとんどのため、常に全員がここにいるわけでもないが、母親たちもその子供も重要な人物ばかりのため、警備状態は常に高度に保たれている。これより手厚いのは華琳その人か、三軍師の私室警備くらいのものだろう。とはいえ、軍師たちのいくらかもここにいるわけで、警備状態に緩みなどあるわけもない。  さらに愛紗の武を上乗せするほどのことが……とまで秋蘭は考えて、あわく微笑んだ。 「ああ、そういうことか」 「ん?」  目の前で赤ん坊に泣かれている状況が落ち着かないのか、妙におどおどしている愛紗であったが、秋蘭の反応に顔をあげる。くすくす笑いつつ、満天星の母親は秘め事を開陳するかのように静かに告げた。 「今日、華琳様が戻ってこられただろう?」 「ああ、そうだな。春蘭たちも戻ってきたな」 「それで、北郷のやつ、気を回してお前を天宝舎に押し込めたのだよ。さすがに華琳様も、子供達のいるところに忍んでこようとはしないからな」  何を言っているのか理解しようと考えていた愛紗の顔が突然真っ赤に染まる。さすがに彼女とて華琳の趣味を知っていた。 「な、な、なにを言うのだ」 「ともかく、そういうわけだ。なにも外で不寝番などする必要はない。いや、逆に北郷の意図を歪めてしまうぞ。そこの部屋でいいだろう」  満天星にも負けず声を張り上げる愛紗の言葉をさらりとかわし、秋蘭は扉の中を示す。特に警備専用というわけでもないが、大扉の脇には出入りを監視することもできる小部屋があった。そこで詰めていればいいということだろう。 「それに、外は兵で十分だ。中のほうがなにかあった時、役に立つ」 「ふうむ、しかし……」  一理ある、と検討し始める彼女をよそに、秋蘭は満天星を抱きつつ横合いをすり抜けていく。 「まあ、あまり気張るなよ」  苦笑するように言われて絶句する愛紗。その間に秋蘭は庭の闇の中へ消えてしまった。 「あ……」  慌てて灯火を振ってもどこにいるかは見えなかった。満天星の声から向きだけはわかるが、あまりに大きすぎて、どれくらい離れているものか。 「……気をつけろよ」  彼女が闇の中にかけた声は、聞こえていたか否か。 「気張るな、か」  ゆったりとした大きな椅子に寝そべるように体を沈め、布をかぶる。体も休まるし、もし何かあってもすぐに動ける体勢だ。愛紗は秋蘭のすすめに従って、扉前の小部屋に移動していた。 「まあ、そう見えるか」  彼女自身、無闇と気を張っているつもりはないが、言われたことを几帳面にこなしている自覚はある。蜀にいた頃は国の中心にあり、自由裁量権も大幅に認められていたが、いまはそうもいかない。新参というものは、自分が出来ることを淡々とこなしている内に、どこまでやっていいのか、何が出来るかを学ぶものだ。慣れぬうちは杓子定規なくらい気が張っているように見えてもしかたあるまい。  そう、慣れぬうちは。 「慣れることがあるのだろうかな」  慣れねばなるまいな、と彼女は思う。  そう、慣れなければいけない。一刀に仕えることも、彼の周囲の環境にも、そして……。  彼女はふと前日の昼間のことを思い出す。  町に出たのは、馴染みの武具屋に顔を出すためであった。この洛陽にも益州から商売熱心な商人達が出てきている。その中の一人が今日の目当てであった。  国の人間だからというだけではなく、愛紗の目にかなう腕の持ち主でもあった。 「なに? これでつきあいを最後にしてくれとはどういうことだ」  店について、研ぎに出していた品――勅の受け渡しに使われた小刀――を受け取った彼女が聞いたのは思ってもみない言葉であった。 「言葉の通りです」  愛想のない声で、返事が返ってくる。普段でもそれほど愛想が良い親爺でもないが、今日はことさらに酷い。 「どういうことだ? この品に何か不備でもあったか?」  密勅に利用されたとはいえ、なかなかのものだと思って研ぎに出していたのだが、もしかしたら、まだ何か細工でもあったのかもしれない。それで親爺に傷でもつけたのなら大変だ。 「いや、そいつは少々華美に走ってますが、良い品ですよ。十分実用にもなりますしね。そういう風に調整しときました」 「では、なぜ?」  勢い込んで問い詰める彼女を店主はじろりとねめつけて 「玄徳さまを裏切って男に走るような方と取引しているなんて知れたら、客が離れちまうんでね」  と非難がましい声で告げたのだった。  その後、背筋を伸ばして道を歩けたかどうか、彼女には自信が無かった。そう努めたはずだが、逃げるように足早になってはいなかったろうか?  わかっていた。そう、わかっていたことだ。  裏切り者と謗られ、愚かな女と罵られることは。  しかし、それでも辛くないとは言えない。  いかに予期していても衝撃を受けずにはいられない。  愛紗はその日、自らの立場というものを、強烈に思い知らされたのであった。  朝廷の罠をかいくぐるため、元凶たる北郷一刀に従う。そんな選択をした理由を、愛紗は彼女なりに持っている。  実際の所、愛紗一人の力では、朝廷に抗するのは難しい。ならば、いずれにしても何らかの力を頼らざるをえない。  桃香たちを頼るか、華琳を頼るか、一刀を頼るか。選択肢はそう多くない。  その中で、蜀に恒常的な圧力が加えられることは第一に避けなければならなかった。だから、残るは二人だ。  力量だけを見れば、華琳を頼るのが正しい。そもそも一刀の力を保証するのは華琳なのだから。  しかし、朱里も勧めていた華琳を頼る策を取らなかったのには、明確な次第がある。たとえ華琳が洛陽にいたとしても、愛紗は華琳を選ばなかったかもしれない。  それは、華琳という人物と、桃香との関わりにある。  かつて、彼女たちは戦に敗れた。大陸を一手に仕切ることに成功したのは覇王――華琳であった。  それは揺るぎようのない事実。しかし、それが華琳の主張の正しさと、桃香の思いの誤りを意味するわけでは、けしてない。  だが、今回の事で愛紗が華琳を頼ることは、その構図を崩してしまう。桃香をはじめとする蜀陣営は、常に脆く、弱く、華琳に頼ることでしか生きながらえることが出来ない。そんな印象を与えてしまう。  そうなれば国としての力関係と、その姿勢、信条は別物であるという主張は余計に難しくなる。桃香の思いは、彼女が支えようと誓った純粋で鮮烈な優しさは、消えてしまう。  それは、許し難い大罪であった。  翻って一刀はしょせんただの一個人である。天の御遣いといい、魏の客将という。あるいは華琳の、蓮華の、事実上の夫の立場があってなお。  そう、彼自身は強烈な主張を持っていない。  故に愛紗が彼に屈しても、それは桃香の考えがなにかに否定されるような事態には繋がらないはずだ。  そう考えての一時的な臣従の礼であった。 「ご主人様、か」  彼女は彼の姿を脳裏に思い浮かべて、自嘲めいた声を出す。あの時、彼女は北郷さま、あるいは一刀さまと呼びかけるつもりだった。真名がないという以上、それが自然と思ったのだ。  だが、出来なかった。  それでためらった後に出てきたのが、恋や月が呼んでいるのを聞いていた『ご主人様』だったのだ。  後から思うに、桃香と同じようには呼べなかったということなのだろう。『桃香さま』と対になるように『一刀さま』とは呼べなかった。  そんな子供じみた感傷。 「まあ、案外しっくりくる呼び方ではあるが……」  避難のようなものだとはいえ、彼の庇護下に移ったことで、朝廷……董承派閥からの働きかけはとりあえず収まっている。蜀への攻撃もなさそうに見える。その恩義を返すためにも、本気で仕えるつもりはあるのだ。  それを自らに刻み込むためにも『ご主人様』と口にするのはいいことなのかもしれなかった。  いまや、世間の者たちからも裏切り者と認知された愛紗には、ここしか居場所はないのだから。 「あの人も、少々不思議な人ではある」  力を抜き、椅子に体重を預けながら天宝舎の内外の動きに気を配っている愛紗の思考は、次いで一刀自身へと向かう。  そもそも長安で彼の下に身を寄せることに決まった直後から間近に置いて警護をさせたり、真剣で鍛錬の相手をさせたりする神経が理解しづらい。  彼女は彼の殺害を命じた勅を持って転がり込んできているのだ。困っていると見せている事こそが偽りで、近づいたところで討たれるとは考えなかったのだろうか。 「考えなかったのであろうなあ」  ため息を吐くように呟く。  そんな疑いを持つような人ではない。そのことを、彼女はこの十日あまりの短い日々で学んでいた。 「といって、単純なお人好しでもない……」  まだ印象の段階でしかないが、甘いだけの人物でもないと彼女は考えていた。  一刀は甘い。  それは間違いない。そのあたり、桃香と通底する部分がある。  華琳の側近で、個人的な部分ではなく、政治的な部分であれほど温情深いのは、彼くらいのものなのではなかろうか。  しかし、甘いとはいえ現実を見据えている部分がたしかにある。これは魏軍全体に言えることだが、理想を追い求める情熱と、現実的な情勢を認める慎重さが同居しているのだ。  優しさと甘さはあるが、桃香ほど空想的ではないなどと言ったら、怒られるだろうか。 「だが、どこか……」  それとはまた別の部分が、何処か飛び抜けて異質な気がする。もしかしたら、天からやってきたという出自がその根源にあるのかもしれない。  それが何なのか、愛紗自身にもよくわからないのだが、彼は、どこか自分とは、そして、華琳とも蓮華とも桃香とも違うと思うことがあるのだ。  そんなことを考えていると、今日の午後のことを思い出した。  場所はこの天宝舎。  走り回るちびっこ猫娘たちと彼が戯れていた時の事だった。 「いやあ、これはなんとも……」  かわいらしい耳を持ったちびたちが、四つ足で駆け回る様子を見て、愛紗はほうと息を吐く。本物の猫と同じくらいの大きさの彼女らは、その体の大きさからは想像できぬすばしっこさで、部屋中を駆け巡っていた。 「かわいいよね」  にこにこと笑う父親は、まるで木に登るように幾人かのちびたちに這い登られている。頭の上で一人、寝息をたてているのまでいた。 「元気なのはいいですが、これを一人で面倒みるというのは……」  美以を始め、母親たちの姿はいまはない。また、南蛮の子供達のうち、男の子は別室で月に見守られてお昼寝中だ。しかし、それでも走り回り、あるいは泣き出し、転げ回ってはきゃっきゃと笑う子供達の勢いは相当なものだ。 「でも、美以たちもたまにはゆっくりしたいだろうし」  泣き出した子を、頭の上の子供を落とさないように気をつけながら抱き上げて、一刀は言う。彼の言うとおり、美以、ミケ、トラ、シャムの四人は、お休みということで、おやつを食べに出ているらしい。その時間をつくるために子供たちの世話を買って出た一刀であった。 「家族思いですね」  ほほえましく思いつつ告げた言葉は、意外にも真剣な顔つきで受け止められた。 「それはどうだろうな」 「え?」 「親ばかなのは否定しないし、美以たちが大事だってのも確かなんだけど」  彼はそこで小さく笑った。 「俺は家族を捨てた人間だからなあ」  その笑みのあまりの寂しさに、言葉を失っている愛紗に、彼はこう続けた。 「俺がこの世界にいるってことは、そういうことなんだよ」  愛紗は、彼の言葉を改めて思い返す。  その意味の細かい部分まではわからない。けれど、深い覚悟と決心がその底にあるのは、なんとなく感じられた。  愛惜と決意。  失ったものと得たもの。  両者を共に抱えているのが、あの笑みだったとそう思う。 「変わらない、か」  何か違うものはあるのかもしれない。愛紗たちにはなく、彼にはあるものが、なにかあるのだろう。  しかし、それを感じる心は同じだ。  彼もまた、愛紗と同じ、一人の人間なのだ。  彼女はそんなことを思う。なんだか妙にふわふわとして嬉しい心持ちで。 「あとは……」  その後、彼女は何を続けようとしていたのか。  思い返してみても、思い出せないような淡い思考と共に、彼女は浅いまどろみへと沈んでいった。  4.詰問  前日と同じく華琳の執務室に入った一刀は、室内の雰囲気に少々面食らった。 「あ、あれ? 桂花たちはいないの? 今日は俺一人?」  三軍師たちの姿はない。いるのは華琳ただ一人。しかも、椅子に座るのではなく、執務机にお尻をひっかけた格好で立っている。その前に椅子が一つ用意されているのは、一刀のためのものであろう。 「ええ、一人よ」  予想通り、座るように仕草で促される。しかし、椅子に着いてみれば、彼女の体が妙に近い。机を隔てて対するように置かれた椅子に一刀が腰掛け、華琳のほうはその机にもたれかかるようにしているのだから、近いのは当たり前なのだが、それにしても、一刀が脚を閉じられないくらいの位置に、華琳の脚があるのはどうなのだろうか。 「あの、か、華琳さん?」 「あなたの仕事ぶりを改めて検討したのだけれど」  どぎまぎする一刀をよそに、華琳は一見妥当にしか思えない言葉を、微妙な調子を加えて紡いでいく。 「色々と訊きたいことが出てきたの」  その声音に硬質のものを感じ、一刀ははっと背筋を伸ばす。鼻の下を伸ばしている場合ではなさそうだった。 「準備はいいかしら?」 「は、はひっ」  強烈な眼力を込めた瞳で見つめられ、一刀は思わずひっくり返った声で返してしまうのだった。 「まあ、こんなものかしらね」  一刀の行った決定一つ一つに仔細な検分と検討が加えられ、華琳自身ならばこうするという補足、今後の展望、どのように実行していくかなど、多岐にわたる指摘を受け、一刀の持ってきた資料は書き込みで真っ黒になってしまった。  その間、ひたすらに自分がしてきたことの結果と影響をつきつけられ、善後策を絞り出すことを要求された一刀は、とことんまで疲弊していた。体中、冷や汗だかなんだかわからないものでべたべただった。  へとへとどころの話ではない。三日ぶっ続けの行軍訓練でもここまで疲れたことはなかった。 「あの……華琳さん」 「なに?」  彼の顔のすぐ側で、華琳はくるくる丸まった金髪を振る。 「怒ってます?」 「怒る? この私が? 何を?」  怒ってますよね、絶対!  目を見開いて大げさな身振り手振りをする華琳の様子に心の中で叫びながら、一刀は彼女の顔を見上げる。 「今日のことは、わかるよ? やらなきゃいけないってのはわかる。きちんと仕事を評価して、しかも、それを考え直す機会をくれたのは、ありがたいと思う。でも、こんな姿勢で短時間に高圧的にやるってのは、怒ってる証拠だろ?」  疲れていて、柔らかい言葉を選んでいる余裕がなかった。その台詞に、華琳はぷうと頬を膨らませる。  まるでただの少女のように。 「……盗った」  ぽつり。  華琳の小さな言葉が響く。 「愛紗のこと盗ったでしょ!」 「ええっ!」  そもそも愛紗は華琳のものじゃないんじゃないかとか、一時的なものにすぎないんだとか、やっぱり執着してるのか、さすが曹操だとか、一刀の頭の中を一瞬にしていくつもの疑問と驚愕の言葉が流れていったが、どれも形になる前に、華琳が淡々と続けていた。 「私はね、これでも遠慮していたの」 「は、はあ」 「蜀にとって、愛紗は重要な人物。それを洛陽……私の所に置いておくのは、桃香としても辛かったと思うわ。実際に打撃となっていたでしょう。それに、愛紗自身にとっても、朝廷から前将軍を任じられ、洛陽に留まることは不本意だったでしょうし」  じわり。華琳の体が前屈みになる。 「その上、私は桃香に彼女の事を頼まれていた」  脚が退き、代わって、掌が男の両の太腿に乗った。 「だから、手出しを控えてきたのよ。望まぬ状況にいる者を無理強いするような形で手に入れたって、なにも面白くないから」  実に華琳らしい言葉を、彼女は一刀の面前で語る。文字通り、面前だ。のけぞるようにして体を引いているのに、華琳の顔は、息がかかるほどの距離にあった。 「それが!」  ぎゅう。  太腿に載った手が、彼の衣服の端を掴んで絞り上げる。ついでかどうか、少しだけ肉も掴まれていた。 「よりにもよって留守を任せたあなたに!」  ぐい、とさらに身を乗り出す華琳。顔の位置は移動していないが、手は肩に周り、彼女の膝が彼の腿をぐいぐい押していた。 「横からかっさらわれるとはね!」 「いや、だから、その……」  熱い息がとんでもない勢いで膚に当たってくる。その感触に心を乱されつつ、一刀はどうなだめようかと考えていた。  しかし。  ばさり、と彼の手から、資料の束が落ちた。  感じるのは温かな感触。  触れているのは、五箇所? いや、六箇所?  両の掌から伝わるのは、紛れもない女の熱。  膝がこすりあげ、やさしく弄るのは彼の腿。  みぞおち辺りに押しつけられているのは、慎ましやかながら、間違いなく隆起した胸。  そして、彼の唇に触れているのは、彼女の柔らかな朱唇。  とろけるような甘さとしなやかな弾力、そして絡みつくような潤いを感じながら、彼は目を丸くしていた。 「んっ……」 「……ぷはっ。か、華琳……?」  思わぬ事に息を止めていた一刀が華琳の唇が離れた途端に大きく息を吐く。 「私は、いま、大変欲求不満なの。わかる? 美味しそうなものを知らない間に取り上げられたわけだから」  囁く声は、鋭く、しかし、甘い。至近距離で動く度、彼女の唇は、彼の唇から移ったであろう水分でてらてらと光り輝く。 「う、うん」 「だから……」  彼の首筋をなめるようなかみつくような、そんな軽い口づけを、彼女は繰り返す。 「その分、あなたが満足させなさい」  濡れた声。ぞくぞくと背筋を走るものがある。 「そうしないと……いつ愛紗に手を出すかわからないわよ?」  いたずらっぽい脅し。  本気とも冗談ともつかないその言葉に押されるように男は動く。  力強く抱きしめられ、無理矢理のように唇を貪られて、彼女はあわく満足げな吐息を漏らす。 「あの……ねえっ」  ぜえはあと荒く途切れる息を無理矢理押し出して、彼女は抗議する。膚を全て露わにされたその体は執務机の上に横たえられ、猛然と胸を上下させている。その動きが彼女の美しい体を波打たせ、金の髪や、同じく股間の金の淡いなどを揺らしているのに見とれてしまう一刀であった。 「私は、こういうことするの、一ヶ月……いえ、それ以上ぶりなのよ? ちゃんと覚えてた?」 「ああ……。そうか、ごめん」  こちらは下だけは穿いている一刀は、先ほどと同じ椅子に座りながら、机からだらしなく落ちた彼女の腕をゆっくりとなでている。 「でもさ、俺だって華琳の膚に触れるのは、久しぶりなんだから、興奮するのはしょうがないところもあると思わないか?」 「……ま、まあ、そういうことなら、しかたないかもね」  この吸い付くような膚にさ、と言うと、華琳の頬が赤くなる。それは、これまでの興奮とは明らかに違う恥じらいの色であった。  一刀はそんな彼女の顔を見て微笑み、その微笑みに拗ねたように顔を逸らす華琳であったが、結局顔は戻ってきて、彼と視線を絡めて微笑みあう。  しかし、そんな安らぎの時間は扉を叩く大きな音で中断された。  その音に、一刀は慌てて上着を引っかける。しかし、華琳は最初の内は寝そべったまま、なにも反応しようとしなかった。部屋の主が返事をしないので、一刀は扉と彼女とに視線を往復させるしかない。 「ああ、もう!」  それでも止まない音に、彼女の体が跳ね起きる。まるで翡翠(かわせみ)が魚を捕まえて飛び立つ時のようななめらかな動きに、一刀は魅了されてしまう。 「なによ、こんな時に!」  だから、彼女に声をかけるのが、一拍遅れた。 「あ、華琳。そんな格好……」  一刀が制止しようとした時には、すでに彼女は扉を開け放っている。その向こうで、一人の女性が目を皿のように丸くしていた。 「な、な、なななんという姿で!」  黒髪を揺らし、顔を真っ赤にして立ちすくむ女性の姿を認め、華琳は艶然と微笑む。そして、先ほどまで、一刀の下で漏らしていた声とは微妙に異なりながらもどこか共通する熱っぽい声で彼女の名を呼んだ。 「あら、愛紗」  慌てて扉を閉めようとする愛紗の手を、華琳はぱっと取る。そして、それを引いて、そのまま部屋に導いた。 「ふ、服を着て下さい、服を!」  とにかく扉を閉めることの方に意識がいっていたのだろう。愛紗は華琳に素直に従って部屋に入ってから、再び叫んだ。 「ごめんなさい、でもね。一刀が自分といるときはこうしてろって言うのだもの。逆らえないでしょう?」  童女のような声音で、目を潤ませて上目遣いに弁解する華琳。そのしおらしい態度に愛紗は呆然とした顔で一刀のほうを見やった。 「嘘だよね! 明らかに好きでやってるよね!」 「ご、ご主人様……。新参の身でご趣味に口は挟めないかもしれませんが、しかし……」 「いや、話を聞こうぜ! 俺は好きな女の子露出させて喜ぶとかそんな人じゃありませんから!」  一刀が叫ぶ声に、華琳は先ほどまでの様子はどこにやら、なんでもないといった態度で小さく肩をすくめる。 「あら、残念。あなたが命じれば従ってもいいのに。なんだったら、麗羽みたいに首輪もご所望?」 「え?」  思わず硬直して華琳のほうに意識が向く一刀。その様子を見て、深々とため息を吐く人物が一人。 「ご主人様……。慎まれる方がよろしいかと……」 「あーもーっ」  5.覇王  結局、裸の上に薄物一つをひっかけることで、その場は解決した。  しかしながら、膚の大部分は隠れたものの、所詮は薄物である。体の線は姿勢を変える度に浮き上がるし、そもそも光の加減で透けて見える。まして、しっかり帯で止めているわけではなく、腕を通してひっかけているだけだ。華琳の身動き一つで見えてはいけない場所が見えてしまいそうで、はらはらする。  全体としては、隠れたが故にさらに淫靡な雰囲気を醸し出す結果となっていた。 「で、なんの用かしら?」  執務机に座り込み、ゆったりと脚を組み替える華琳。その合間を見ないように、あらぬほうへ視線をやっている愛紗の顔はかわいそうなほどに真っ赤であった。 「ええと、その……」 「愛紗。気にしない方がいいぞ。動揺するとわかると、からかい続けるからな」 「そ、そうですか」 「なによ。雪蓮みたいな扱いしないでよね」  じゃれるように華琳がかみつくのに、ごほんと一つ空咳をして話を進める愛紗。 「今日、ご主人様が私のことについて華琳殿に詳しい説明をしに行くと仰っていたので、補えるところがあればと思って来たわけですが……」 「ふうん」  華琳は一つ頷いてそれから順繰りに一刀と愛紗の顔を見た。 「一刀から、あなたの事情は聞いたわ」 「はい」 「それで、あなたはどうするつもり?」 「約定通りに」  答えは淀みない。くるくると丸まった金髪の一房に指を絡めながら、華琳は確認する。 「そう。つまりは、一刀に従い、ほとぼりが冷めるのを待つ、と」 「そう……ですね」 「多少長引く事もありえるわよ? 一刀は白眉の終息までと言ったらしいけど、それだってどれほどかかるか」 「それは……しかたありますまい」  最初から長期戦は覚悟の上だ。なにしろ、朝廷の問題もある。しかし、それを突きつけられると、愛紗としては言葉に詰まるものがあった。 「私の所にくれば、もっと楽になるわよ?」 「おいおい、華琳」 「そうね、朝廷そのものを潰してしまえば、あなたと釣り合うかしらね?」  一刀の呆れたような制止をまるで無視して、彼女は続ける。 「そのような戯れ言……」 「あら、戯れ言だなんて」 「戯れ言としていただきたい!」  びうん、と空気が震えた。大音声に華琳の表情は変わらず、一刀だけがびっくりしたような顔になっていた。 「私は」  ちら、と彼女は一刀に視線を送った。  愛紗が目礼し、何ごとか感じたか、彼が頷く。 「私は、いまも桃香さまに忠誠を誓っております。それが揺らぐことはけしてない。ですが」  愛紗の喉が鳴る。ぎゅっとその拳が体の後ろで握られたのを、魏王はその腕の動きで知った。 「ですが、いまは、その忠誠を今後も貫くために、北郷一刀という人物にお仕えすると誓い、それを実践しようとしているところです。いかに、いかに華琳殿といえど、それを邪魔されるようであれば……」  愛紗の手に、青龍偃月刀はない。しかし、幻のそれがまざまざと見えるような、そんな闘気が部屋に満ちていた。 「ふふ」  一刀が余波だけで固まりきっている気合いを涼しく受け止めて、ぴょん、と華琳は机から飛び降りる。すっと背を伸ばし愛紗の前に真っ直ぐ立った彼女の姿は、裸同然であるというのに、どんな衣装を纏っているときよりも冷厳と見えた。 「しかし、それだけの言葉を我が前で吐くからには、我が盟友を愚弄するようなことは、けしてしまいな」  口から出る声の調子はけして強くない。けれど、その言葉に愛紗は思わず膝を折りかけていた。しかし、自分に託されているものの重さを思い起こし、なんとか踏みとどまる。 「もし北郷一刀を一時の主と思って侮るような事あらば、蜀の命運も尽きると思え。よいか」 「そのようなこと起こりえませぬ」  歯を食いしばり、うめくように答える。 「よし」  その返答をどう思ったのか。華琳は一声言うとさっさと自分の席に向かってしまった。  愛紗と一刀の二人が顔を見合わせているところで、元の調子に戻った華琳が問いかける。 「それで、朝廷からはなにかあったかしら?」 「いえ、まったく……。長安以来接触もありません」  話が移り、ほっとして愛紗は答える。実際、不気味ほどなんの動きもなかった。 「でしょうね」 「え?」  歌うように、華琳は何ごとか唱え始めた。  それが名前の羅列だと、しばらく聞いていたようやくわかった。  いくつかの名前には、愛紗も覚えがあった。彼女に賄を贈ってきた、董承に連なる人間のはずだ。 「いま挙げた面々だけど、出仕を止めて、門を閉めているはずよ」 「それは……」 「桂花の指示。まあ、稟から董承派閥を締め付けるよう話がいったのでしょうけど、さすがに車騎将軍閣下本人は私が居ないときにはどうしようもないからね」 「素早い……ですね」  朝廷工作などとは無縁で、せいぜい官位の任命の時にしかその世界を垣間見ていない愛紗としては、そのあたりどうやってやっているのか見当も付かない。しかし、手を打つのが早いのだけはわかった。 「こういうのはまず手足をもがないとね。兵をこちらが握っている以上、あとは暗躍する連中を潰すのが一番。とはいえ今回は一刀の命よね?」 「俺は細かいことはわからないよ。ただ、華琳が戻ってくるまで朝廷が動けないようにしてくれ、って稟に頼んだだけさ」  そこで一刀は肩をすくめる。 「愛紗が俺の所に来てるのに桃香たちに無理を通そうとしたら困るしね。まずは動きを封じるのが一番だろうと思ってさ」 「正しいわね。で、一刀としてはどう決着をつける? 董承は宦官と一緒の所に放り込む?」 「うーん。そこまでやるのもね。でも、俺にも愛紗を桃香たちから奪ったって悪名がつくし、両方泥を被るって事で、免官くらいかね?」  理想を言えば、一派を全て一度に放逐するべきだ。しかし、そこまでの強攻策は、その後の混乱と引き替えになる。余計な摩擦を生むよりは、ここは以前稟も言っていたように董承一人に引退してもらうのが一番だろうと一刀は考えているのだった。 「汚名だけで朝廷が溜飲を下げてくれるといいのだけど……。もう少し必要かも」 「そこらへんはまた相談するよ」 「ええ」  華琳は大きく頷いて、話が終わったことを示した。椅子の向きを変え、しばらくの間、会話から置いて行かれていた愛紗に向かう。 「そういうわけで、あなたに関する話はこれで終わりよ、愛紗」 「はあ……」 「ご不満?」  なにか拍子抜けのような顔をしている愛紗を華琳は面白そうに下から覗き込む。 「いえ……。なんだかえらく簡単に終わってしまったような……」 「そうかしら?」  じっと見上げる碧の瞳を受けて、愛紗はたじろぐ。たしかにそう言われてみれば、なかなかに激烈な成り行きであった気もする。 「まあ、意気込むのはいいことよ。でも、それは私じゃなくて、あなたの主に向けなさい」 「……そうですね」  それで話は全て終わった。  6.更正 「ひとまずうまくいきそうですね」  華琳の部屋を辞した後、愛紗と一刀は彼の部屋に落ち着いて、そんな話を始める。 「桂花が動いてくれているなら問題ないよ。華琳も手を貸してくれるはずさ」  手ずから茶を淹れた一刀が、彼女の前にも杯を置き、対面に座る。愛紗がやると言ったのに、まあまあと押し切られたのであった。 「ただし、すぐに終わるかどうかはわからないよ。もう問題は愛紗と車騎将軍じゃなくて、俺と董将軍の間にあるわけだしね。今回の首謀者が彼なのかどうかは……いや、まあ、最終的には彼が矢面に立つだろうけど」 「ご主人様のほうにもなにかあるかもということでしたが……」 「ああ。官位返上程度だろ。俺にとってはたいしたことじゃないけど朝廷はしてやったりかもしれないしね」  九卿をたいしたこともないと言われるのも困るのだが……と愛紗は苦笑いする。 「何にせよ、今日明日で打開できることとも思っておりません」 「うん。申し訳ないけど、しばらくはうちにいてもらうしかないね。ああ……そうそう。朝廷対策の細かい部分については、愛紗は知らない方がいいと思うな」 「……そうですか。はい、わかりました」  彼女は頷き。一口、お茶を含む。豊かな香りが口の中で広がった。 「あの、ご主人様。その、お訊ねしてもよろしいでしょうか」 「ん、何かな?」 「華琳殿との密議は、いつもあのようになさっておいでなのでしょうか?」  何のこと? と首をひねる男の様子に、彼女は歯切れ悪く続ける。 「で、ですから、その……裸で」  茶杯を傾けていた一刀が、ぶっと噴き出す。杯を取り落としそうになり、慌てて卓に置きながら、げほげほと咳き込んだ。 「ち、ち、ちがうよ!? そりゃ、たまには、寝物語に……あ、いや、違う。そうじゃなくて。普段は、真面目にやってるよ!」  大慌てで弁明する一刀。おかげで言わなくてもいいことまで口走っていた。 「真面目に……首輪をつけてですか?」 「違います!」 「では、不謹慎だということは理解されている、と」  一刀の様子に、完全に開き直っているわけではないらしいと悟った愛紗はゆっくりはっきりと言葉を句切って確認する。 「不謹慎というか、いや、だから、普段はちゃんとやってるわけで……」 「ご主人様」 「はい」  一刀の言葉を遮って愛紗は呼びかける。その言葉の響きに、びしっと背が伸びる一刀。底光りするような瞳に見つめられ、彼は体を震わせた。 「先ほど、華琳殿に申し上げたとおり、私はあなたの下にいる間は、誠心誠意、本気であなたにお仕えするつもりでおります」 「いや、そんな堅苦しく考えないで、愛紗さんの、その、力をですね」 「ですから」  もごもごと言う一刀を再び遮って、彼女は続ける。 「ですから、私は私なりのやり方であなたにしっかりお仕えさせていただきたいと思っています」 「それは……愛紗がしたいようにするのはいいんだけど……」 「ありがとうございます」  一刀は彼女の固い言い方に不満そうではあったが、彼女の意志を曲げる事も選びたくないらしい。しっかりと了承してくれた。  そこで、愛紗は昨日から、いや、以前から感じていたことと、先ほど華琳の部屋で経験した事が入り交じり浮かんできた思いを明らかにする。 「今日のこともそうなのですが」 「う、うん」 「少々、女性との戯れが過ぎるように思います」 「え、いや、それはしかたないところもね。ほら、国の重鎮がことごとく女性なわけで」  たしかに女性ばかりの中に男性一人という構図ではある。だが、だからといって、男女の仲になるかどうかは別の話だし、ましてや政の場にそれを持ち込むのは論外であろう。 「それでも、です」  それから愛紗は茶で喉を潤してから続けた。 「正直、ご主人様の世間での評判は芳しくない」 「あー、うん。そうだね」 「そして、私が来たことで余計に、それは悪化しています」 「そこはしかたない。その噂を利用した部分があるわけだから。愛紗のせいじゃなくて、その策を提案した俺の責任だよ、それは」  暗い表情になる彼女に、一刀はこれだけははっきりとした口調で告げた。その気遣いはすばらしいものだと、愛紗自身も思う。 「はい。申し訳ないとは思いますが、そこを覆すわけにはいきません」 「うん」 「しかし、元からの部分は改善できましょう」 「か、改善?」 「はい」  何を言い出すのだろう、と不安そうな顔をする男に、愛紗は安心させるようにとても朗らかな笑顔を向けた。 「お任せ下さい!」  そうして愛紗は立ち上がり、彼女の――一時的な――主の手を取り、がっしりと握った。 「この愛紗が、ご主人様を真人間にして差し上げましょう!」      (玄朝秘史 第三部第二十八回 終/第二十九回に続く)