玄朝秘史  第三部 第二十七回  1.成都 「ど、どうしよう。愛紗ちゃんが、愛紗ちゃんがーっ!」  関雲長離反す、という報をまず受け取ったのは成都であった。  それはかの将が蜀よりの離脱を宣言した長安から、漢中を経ての情報伝達経路が確立しているという事情もあったが、なにより一刀、あるいは愛紗自身が桃香たちを気遣ってのことだったろう。  そして、その報せを受け取った蜀の女王は人目もはばからず狼狽えていた。 「たいへん、たいへんだよーっ!」 「お、落ち着いて下しゃい、桃香さま。落ち着いて、わぷっ」  おろおろと歩き回る主をなんとかなだめようと近づいた蜀の軍師の片割れは、急に抱きつかれ……いや、しがみつかれてもろともに宮殿の床を転げ回る羽目になった。 「……お、落ち着かれましたか?」  私室に退き人払いをした後で、雛里の淹れたお茶をがぶがぶと飲んでいた桃香が、ようやくふうと息を吐いたあたりで、少女はそう問いかけた。 「うん……」  はああ、ともう一度息を吐き、まるで女王らしくは見えないが、しかし、女王以外の何者でもない女性は、脱力しながら天を仰いだ。 「愛紗ちゃんが……」  ぼんやりと呟くのは、先ほどまでと変わらぬように見えて、雛里は心配になってしまう。 「あの、桃香さま……」 「愛紗ちゃんが決めたことなんだよね」 「え?」  どこか茫洋と調子外れに聞こえるが、内容だけはしっかりと現実を把握している言葉を、桃香は吐き出している。雛里はただでさえ大きな目をさらに見開いて、主をじっと見つめていた。 「世間ではどう思われてるか知らないけど、一刀さんは無理強いするようなことはしないし、もし、そんなとんでもない事態が起きたら愛紗ちゃんは言われるままに従ったりしない。だいたい、あれで案外ぷちっといきやすいしね、愛紗ちゃん」  一刀さんが本当に無体な要求したら、殴り倒してからどうしようか考えると思うな、と桃香は言う。 「はあ……」  そこまで猪だったろうか、と思いつつも、雛里は頷いてみせた。現状、情報が少なすぎて、彼女の言葉を否定するほどの材料もない。 「で、ね」  ぐりん、と体を戻し、彼女は少し力を取り戻した声を発する。 「改めて考えてみたら、この時期に長安でってことは、朱里ちゃんも絡んでるんだよね」  漢中を通過しているというのに、今回の報せには朱里からの言付けが加えられていない。詳細な分析とまではいかずとも、何らかの指針を書いたものが添えられているのが常のことだというのに、それが無い。  沈黙こそが彼女の託言なのだと、桃香も気づいていた。 「それは、そう……ですね」  大きな帽子のつばをきゅっと握って、雛里は答える。彼女自身もあまりに急な事に、どう考えを巡らせようかと思案していたが、桃香の言うように、誰がこの決断に関わっているのかからたどってみるのもいいかもしれない。そう決めると小さな天才の思考は弾みをつけて回り出す。 「それと……紫苑さんも承知のことなのかもしれません」 「そうなの?」 「今回、朱里ちゃんが長安に行っているのは、あくまで個人的な行動ですから……知っているのは、桃香さまと私、紫苑さん、漢中で留守を預かる星さんだけ……。となると、愛紗さんも紫苑さんから聞いて長安に向かったのではないかと」  その推測は理に適っているもので、桃香も納得したように、そっか、と応じた。 「紫苑さんが話すべきだと考えて、朱里ちゃんが成すべきだと考えた。愛紗ちゃんはいろんな人に聞いて、それでも決断した。そういうことかな?」 「おそらくは。しかも、こちらに連絡する余裕がなかったか、あるいは連絡してはならないのか……」 「してはならない?」  雛里の言葉にひっかかったのか、桃香は身を乗り出して訊いてくる。 「はい。ええと、まず、この行動を、どう見るか、それを考えてみるといいかと。積極的な企てなのか、消極的な策なのか……」  桃香の問いかけに、雛里はまず別の方向へ話を導いた。 「積極的、ってのは愛紗ちゃんの……その、今回の行動が、朱里ちゃんがなにかを目的として行ったことだってことだよね? 消極的ってのは……」 「やむにやまれず……。他のひどい状況になるよりは、北郷さんのところに身を寄せる……つまり、避難のようなものですね」  ふむふむ、と主が頷くのに、彼女は続ける。 「私は今回の事は後者なのではないかと考えます。なにより、事前に桃香さまとも私とも打ち合わせしていないわけですから……」 「そーだよねえ。朱里ちゃんはそんないきなりとんでもないことしだすことってないもん。中身は教えてくれないことがあっても、なにかをするってのはちゃんと言ってくれると思うし」  はい。と雛里は信頼を込めて頷く。 「ですから、今回の事は、なんらかの不利益を最小限に……いわば、まだましと言える形で事態の解決をはかったと考えられます」  雛里はゆっくりと、考えをまとめるようにして、己の意見を開陳していく。 「そういう局面では、愛紗さんの行動が我々の指図だと思われることが、不利益を拡大しかねないことがあります。それで、連絡をとらなかったのではないかと」 「うーん。急ぎで、しかも、こっちと相談するわけにもいない状況だったってことだよね? それって大変だよ!?」 「ええ。ですから、愛紗さんと朱里ちゃんはしかたなくこうした乱暴な手に出ざるを得なかったのではないかと」  いまさらのように慌ててぶんぶん手を振る桃香に、雛里は少々びくりとしながら、そう告げる。 「そっかー……」  桃香は腕を組んで考え込み、こてんと首を傾げた。 「でも、それを引き起こしたのは、誰?」 「そこまでの圧力をかけられるのは、大陸でもいくつかの勢力しかありません。そして、そのどれもが……洛陽にいるんです……」  応じる桃香は無言。もちろん、彼女とてそこまで言われれば、誰が相手かわかろうというものだ。 「推測でしかありませんが、何ごとかが起きて、緊急の避難場所として北郷さんのところが選ばれたということだと思います。裏切りの汚名も引き受けることを覚悟して」  どれだけの非難を浴びるか、はたして本人はわかっているのだろうか。雛里は疑問に思う。彼女が考えている程度のことはもちろん朱里には予想済みだろうが、いかに覚悟の行動とはいえ、愛紗は後々相当に苦労するのではなかろうか。 「じゃあ、雛里ちゃん。そんな大変な時に、私たちが出来ることって、ないのかな?」 「少なくとも、いまは……静観するしかないかと。状況を探ってみて、なにか手助けできるのならば……。しかし、それが愛紗さんたちの邪魔をしてしまうと逆効果ですし」 「うーん。でも……」 「まずは、状況の変化を見定めましょう。この報告だけではわからないことが多すぎると思いますから……」  それでも不満そうに何ごとか考えていた桃香であったが、よい考えが思いつかないのか、しかたないというように肩を落とした。 「それもそうだね」  はぁ、と彼女は大きく息を吐く。 「困ったなあ。まあ、愛紗ちゃんと一刀さんのことだから、いずれ帰ってくるんだろうけど……」 「あの、でも愛紗さんと朱里ちゃんの目論見では帰ってくることになっていたとしても、北郷さん……いえ、華琳さんが手放そうとしないかも……」 「あはは、ないない。華琳さんはともかく、一刀さんは、陣営の違いとか気にしない人だよ」 「まあ、それはわかりますが……」  少女の懸念を、桃香はいたって気軽に否定する。千年の存在はもちろん、蓮華と穏の懐妊を即座に想起する雛里であった。 「どちらかといえば、心配なのは愛紗ちゃんだよねー」 「……えと、北郷さんに文字通りたぶらかされる、とかですか?」 「ううん。愛紗ちゃんは優しくて芯のある人だけど……。でも、なんというか、やっぱり女の子なんだよねえ……」  それは、姉妹の契りを結んだ桃香だからこそ感じられ、言えることだったのかもしれない。言葉に含まれる意図をはかりかね、首をひねるしかない雛里であった。  2.愛紗  女だな。  彼女は一刀の側に仕えて数日で結論づけた。  この人の世界は女を中心に回っているらしいと。  ――たとえば政務の場。 「これ、芸人たちの互助組合から上がってきた報告。といっても、私たちは個々の芸人には不干渉だから、天師道がどんなことをやっているかとか、いまの足取りとかはわからないんだけど……。一年前から二ヶ月くらい前までの間に、どこで公演をやっていたかとかはわかったわ」  男に向けて、竹簡を差し出しているのは人和。大陸でも有名な歌姫の一人で、舞台を降りてもその可憐さは飛び抜けている。さすがに客たちに見せるような笑顔は浮かべていないが、そこにいるだけで部屋の華やかさが増すようだ。 「その、役に立つ、かな?」  おずおずと言う仕草もかわいらしい。無表情に見えて、その実、照れたような色を隠すその顔を、男はにっこりと曇りのない笑顔で受け止める。 「おお。ありがたい。これで色々検証できるよ。ええと……でも、可視化したほうが早いな。あー、と風、頼めるかな?」 「はいはーい。白眉の勃発状況とあわせて書き起こしますねー」  とてとてと歩み寄って来たのは、頭の上で宝ャを揺らす風。大陸でも十指に入るであろう頭脳の持ち主は、ひらひらふわふわと服と髪を揺らして、彼から竹簡を受け取り、作業に移る。 「さて、それにしても、暴動の数が多すぎるな。以前の華琳の手は……いや、あれはあの当時の状況だからこそ有用だった手だな……」 「ねえ。それより、幽州への増援の件はどうするの? 霞は動かせないわよ」  地図を睨んでぶつぶつと呟いていた男に、軍の配置の決断を迫るのは眼鏡を煌めかす詠。きつい目つきの女性が軍師としての服を纏いきびきびと働く姿は、愛紗にとっては珍しいと思える光景。 「あー、そうだな。沙和と連動させられないかな? どうだろう?」 「冀州も頻発地だから難しいけど……少し考えてみるわ」  こんな風に女性達に囲まれているから、というのではない。そんな表層的なものではない。もっと奥底の問題だ。  華琳ならどうするか、三軍師ならどう考えるか、詠なら、七乃なら、音々音なら、冥琳なら……。  彼の判断の大半はそうして生み出されているように見える。もちろん意識しているかどうかはわからないが、  彼個人の発想や発案がないわけではない。  しかし、それを検討する段になった時、あるいは具体的な手順を考えるときは、近しい女性たちの動きを参考にしがちなのだ。  もちろん華琳は当代随一の政治家であり、大陸に冠たる知恵者の数々に囲まれているのだから、それらを手本とするのは正しい態度であろう。それにしても、その相手がことごとく恋人であるのはどうなのだろうか。  ――あるいは武の鍛錬。 「では、行きますぞ!」 「おうっ!」  構えを取った彼に向けて、青龍偃月刀をふるう。その動きに合わせ、彼が一歩を踏み出してくる。  普通はできないことだ。  大ぶりとはいえ、偃月刀を振るっている関雲長相手に間合いをつめようとするとは。  だが、遅い。  彼の大胆な行動は、切り下ろすように動いていた刃の軌跡を、地面と並行に払うようにするだけで無効化される。首を苅りに来た偃月刀を、身を低くして避けた男は、愛紗の脚にひっかけられ、やすやすと大地に転がる。  そこから挽回するのは非常に難しいが、彼は降参せずに何度か地面を回転して彼女の刃を避け、弾いた。気を抜いていれば、再度立ち上がるのを許してしまったかもしれないほどの動き。  しかし、それは攻撃につながるものではない。あくまで守勢のものであり、彼女ほどの人間なら、簡単に追い詰められる。  結局、彼が降参し、仕切り直しとなった。  相手をしてみてわかったが、男は相手の攻撃を実によく見ている。  それは恋を、華雄を、春蘭を、秋蘭を相手に鍛えてきたためだろう。一流の武人の速度を、彼は経験として蓄積しているのだ。  だが、悲しいかな、その認識に体がついて行っていない。  こちらの攻撃の軌跡を読むことは出来ても、彼にそれを受け止める膂力はなかったし、避けるために体を動かそうとしても動きが遅すぎる。動き始める瞬間がいかに一流であろうとも、それを成し終えるまでが遅ければなんの意味もない。  そのために、結局、いまのように追い詰められてしまう。  もちろん、経験はそうした部分以外にも現れる。  二度目の立ち会いでは、男のほうが積極的に動いた。彼女に偃月刀を振らせては勝ち目がないと判断して、手数で圧倒しようという狙いだろう。  上段からの打ち込みを目眩ましに、左脇腹を狙って膝を繰り出す仕草に感心する。これは、明命、あるいは思春の体術ではないか?  避けられても動きをつなげ、一回転して刀を振るうのは、華琳の大鎌使いの匂いがする。  実に驚嘆すべき動きであった。  体力と腕力が、それに見合うものならば。  結局、男は愛紗に五度挑んで、五度地に転がされることとなる。 「いやあ、さすがは関雲長。鍛錬で冷や汗をかくのは久しぶりだよ」  一刀は体を大きくのばし、痛めたところはないかと確認しながら彼女に笑いかける。 「手加減してくれているのは重々承知なんだけど、それでも体から汗がにじみ出るんだよね」 「気迫を感じているという点ではいいことではないでしょうか」  情けないという雰囲気を込めて言う彼に、愛紗は真面目な顔で返す。実際、彼は武人でもない。あまり厳しいことを望んでもしかたないだろう。 「あの、ご主人様、愛紗さん」  かかったのは、儚げで穏やかな声。 「お湯がわきました」  小走りに駆け寄ってきた『めいど』姿の月はにこにことそう告げる。 「お、ありがとう。愛紗、先に入る?」 「いえ。私はもう少し体を動かしますので」 「そっか。じゃあ、お先に」  一刀は月に連れられて去っていく。その二つの背中を眺め、愛紗は呟いた。 「今日は月か」  体を動かした後で湯浴みをするのはわかる。成都では燃料や水の確保でそうそう簡単にはいかなかったが、魏では色々と工夫して風呂の普及を考えているようで、望めばそれなりに入ることが出来るのだから、文句もない。むしろとてもいい習慣だと思う。  しかし、その度に女たちが風呂場に潜り込むのは、どう考えるべきだろうか。この間も、風呂場で地和と鉢合わせして驚いてしまった愛紗である。  もちろん、彼が無理強いしているわけではない。逆に、女性陣のほうが望んでいることではあっても……。 「爛れた生活態度と言われてもしかたないところではあるな」  隠しきれぬ嫌悪をにじませて言った後、彼女は自嘲の笑みをその唇に刻む。 「世間では、私もその一人、か」  北郷一刀の世界は女で形作られる。  そして、いまや自分もその一人なのだと、彼女はそう結論づけるのであった。  3.反響 「愛紗が離反、ねえ……」  成都から送られてきた――正確に言えば、一度漢中を通過し、成都を経て再び戻ってきた――書簡を、はっきりとした声で大軍師たる少女が読みあげていた姿を思い出し、その女性は優雅に杯を持ち上げる。 「なにか意見でもありますか、星さん。あと、お酒は部屋に戻ってからにして下さい」  文武の官たちの驚愕の声を受けても冷静に今後の対応を説き、皆を落ち着かせてみせた当の本人たる諸葛孔明は、いま、彼女の対面で机に向かっている。それも当然で、ここは朱里の執務室だ。  部屋にいるのは二人きり。三義姉妹の一人にして、蜀軍の柱とも言える愛紗離脱の影響で城全体は慌ただしい雰囲気に包まれていたが、ここだけは静かだ。 「いえ、去ってしまった者についてはいまさらどうしようもなく。ただ、不思議な成り行きだと思うばかりで。それと、これは酒ではなく、茶です」 「そうでしょうか? これまでも北郷さんは様々な人材をその手にしているじゃないですか。今回は愛紗さんだったということでしょう。我が国の受ける打撃を別にすれば、不思議とまではいかないのではないでしょうか。それから、そんなにお酒臭いお茶なんて、ありません」  きっぱりと言う朱里に、星は袖を指で引き寄せ、杯をそこに隠すようにしながら答える。 「たしかにあの御仁はほうぼうから人を集めていますな。しかし、明確に三国……いえ、他の二国から引き抜きをしたことはありませんでしょう」 「翠さんと蒲公英ちゃんの例がありますが」 「あれは北郷殿がどうということではなく、あるべき場所に戻ったというだけのこと」  その言葉に、しばらく間が空いた。星が、相手は会話する気がないのかといぶかしんで口を開こうとした時に、ようやく朱里は顔をあげる。  その瞳が真っ直ぐに星を見つめる。これまで、書類やその他のものへと向かっていた意識が、全て、彼女一人へと向かっていた。  星と朱里。二つの瞳の色は、実に良く似ている。深い臙脂の色を宿すその瞳。片方はわずかに面白がるような風情を帯び、片方は強い意志を宿している。 「そうですね。きっと時が来れば、皆、本来あるべき場所へと至るものなのでしょう」  なんでもないことのように、彼女は言った。その落ち着いた声音に、星はにやりと大きく笑みを広げた。 「そうですか。ふむ、そうですか」  蜀の頭脳はそれ以上言葉を連ねない。  再び書類に向かってしまったその淡い金の頭を眺めながら、常山の昇り龍は実に楽しげに笑い声を立てた。 「いや、これはこれは。実に酒が美味い」 「やっぱりお酒じゃないですかっ!?」  ちろっ、と舌を出してそそくさと退散する星の足取りは、軽やかなものであった。 「明命ちゃーん。明命ちゃーん」  ゆったりとした声が、巴丘の城にこだまする。ここは荊州でも三国の領土の境、洞庭湖の畔に位置し、荊州を含めた呉の西部一帯を政軍両面から統括する大駐屯地となっていた。いま響いているのは、その地を預かる大都督その人の声だ。 「はいっ。なんでしょうか!」  答えるのはきびきびとした元気な声。下手をすれば引きずってしまいそうなくらい長い髪をなびかせて駆けていくのは明命。部屋に入ってきた彼女に向けて、最初の声の主はひらひらと書簡を振って見せた。しばらく前に、明命自身が提出したものだ。 「これ、前兆つかめてましたかね〜?」  腕の動きにつれて、子を宿したためにさらに大きくなった美しい乳が揺れる。まるで巨大な果実のようなそれに目を奪われかけ、明命はぶんぶんと首を振った。 「あ、やっぱりなかったですか」 「あ、いえ。えっと、はい。申し訳ありませんが、まったく」  少々誤解されたようだったが、実際になにも掴めていなかった明命は身を縮こませる。ゆったりとした椅子に座って報告書を手にする穏は気にした風もなく、そうですかー、とにこにこ顔だ。  彼女が手にしているのは、愛紗が一刀の下へ出奔したという緊急の報せであった。長安と洛陽に潜む明命の部下が、鳩なども使ってよこしてきたものだ。 「本当に信じられないくらい突然で。もちろん、愛紗さんが長安に行くこと自体不思議ではありますが……」 「事前になにか取り決めがあったなら、漏れないはずがない。あるとしたら、その場で決まったんでしょうねー」 「長安で、ですか」 「はいー」  こっくりと頷いてから、穏はいつも以上に顔を笑みに彩って、声をあげた。 「さて、なんでしょうねぇ。ふふ、一刀さんは本当に面白いですねー」 「それは否定しませんが……」  明命の視線は穏の軽くせり出し始めたお腹に向く。呉の四姓と呼ばれる大族の一員と呉王を一度に懐妊させるなど、普通は出来ることではない。 「ともかく、今後も探ってはみるつもりです!」  勢い込んで言う彼女に、穏は、ほんの少し真剣な顔で、ぱたぱたと手を振った。 「いえ、あまり深入りはよしましょう」 「いいんですか?」 「もちろん、事態の推移はきちんと観察しててもらわないと困りますけどねー。よほどのことが起きない限りは、洛陽の方々にお任せしましょー。それより地元のほうが急務ですから」 「それはそうですね……」  明命も優先順位の付け方に異存はなかった。 「交州の士氏はなんとか押さえて程普さんに任せてきましたが……。各地で似たような事が起きそうですね」 「混乱を機に独立しようとする人たちって、まだまだいるんですねぇ。また群雄割拠なんて許されるわけ無いのにー」  穏自身は軽く言っているが、白眉の頻発に伴う混乱をついて、各国の支配から抜け、自らの領地で独立を計ろうとする土着豪族の存在は深刻な問題だ。明命が口にした士氏のように力ある氏族はそれなりに存在する。それらが既存の国について混乱を収める側に回ってくれるならよいが、そうでもなければ混乱を深めるだけだ。  第二の劉備を、孫策を、そして、覇王曹操を目指す者たちによって大陸が混迷を極めることを、誰も歓迎はしないだろう。 「見所がある人なら、うちの人材として欲しいくらいなんですけどねー。どうも小粒な人たちばかりですしねー」 「めぼしい人は三国成立までに出きっているのでしょうか。まだ隠れている人もいそうなものなんですけれど」 「そういう隠士は世に出てきませんよ」  その手の人達はそもそも世の動きに興味がありませんからね、と彼女は珍しくわずかに侮蔑を込めた声音を出す。 「なんにせよ、この荊州の白眉を撃退してからですね」 「刺史の水鏡先生からもまた協力の要請が」  三国の統治が入り乱れる荊州では州刺史もそうそう簡単には動けない。実兵力の豊富な各国に頼ろうとするのは当然と言えた。  穏は明命の言葉に一つ頷く。 「穏はこんな体なのでなかなか動けませんけど、策のほうはばんばんたてちゃいますから、明命ちゃん、実行のほうよろしくおねがいしますねー」 「はいっ!」  元気よく生真面目な返事が返ってきたところで、穏は、ぱんと手を打ち合わせる。 「あ、そうだ」 「はい?」 「愛紗ちゃんそのもののことはいいんですけどー。愛紗ちゃんに近しい人たちの動向は見張っておいてくれますかねー?」 「蜀の方々ですか?」  不思議そうに訊ね返す明命に、穏はわずかに苦笑を浮かべ、こう答えるのだった。 「愛情と憎悪が同時に存在するように、信頼と疑念は同居しますし、感情なんてそうそう割り切れるものじゃありませんからね〜」  4.北原  平原に、人々が集っていた。  武器を持ってはいるものの、兵士などとはとても呼べない。規律もなければ、着けている鎧もまちまち。そもそも、集まってはいるものの、全体のとりまとめをする者に欠けているようで好き勝手に顔見知り同士の集団に分かれつつたむろしている。  持っている武器も農具の柄を長くしただけといったようなもので、とても戦えるとは思えない。  それでも、数だけは揃っていた。  なにしろ、そう広い場所ではないとはいえ、平原を埋めつくさんばかりに立っているのだから。 「おーおー、集まっちゃって……。いま、どれくらいだ?」  そんな光景を、少し離れた丘の影から眺めるのは、白馬に乗った女性とその周囲を囲む兵士たち。こちらは鎧もきらびやかに、規律正しく姿を隠している。 「やつらが喧伝してまわっている数でいえば五万ですが、実際は二万にいくかどうかというところでしょうか」 「それでも多いなー」  部下の報告に顔をしかめる女武将。白と金の鎧に身を包むその女性こそ、天下に名高い白馬長史、白蓮だ。  本気で戦えば逃げ散るような連中ではあるし、そもそも彼女の配下の白馬義従ならば、数倍の敵を突破するのも難しくはない。  だが、問題があった。 「うちは少数精鋭ですからね。……よく言えば」 「うるさい。白馬義従であることを誇りに思え、誇りに」 「いえ、それはもちろん誇りに思っておりますが、しかし、数は……」 「そうなんだよなー」  数が少ない。それが、彼女達の問題であった。  いま集まっている連中を追い払うのは可能だし、やるつもりだ。しかし、それを何度繰り返せばいいだろうか。  恒久的にこの土地を守り続けるにはある程度の兵を張り付けなければならないが、それをやれば、幽州の他の地域が手薄になる。  機動性のある白馬義縱は、各地に駆けつけて敵を追い散らすには有用でも、守り続けるには数が足りないのだった。  それほど移動を必要としない守りには歩兵が向いているのだが、白蓮にはその手勢が足りない。幽州全体からしても、優秀な歩兵は北伐――主に猪々子と斗詩の部隊――に取られてしまっているのだ。 「一刀殿が増援を送ってくれると約束してくれてはいるし、凪の部隊も東進しているはずだが……」  はっきり言って、幽州は辺境だ。増援がたどり着くまではどうしても時間がかかる。そもそも、部隊を編成し、それを進軍させるだけで大変なことなのだ。今日明日に間に合うはずもない。 「ま、今日はしかたない」  そうやって締めたところで、部下の会話が聞こえてきた。 「ところで、やつらはなにをしているんだ?」 「それを決めようとしてるのさ」 「はあ?」  わけがわからない、というように言う部下の声に、白蓮が解説してやる。 「やつらに指針なんてないんだよ。ただ、仲間を増やし、支配地域を増やすくらいかな? だから、次に何をするか、まるで決まってない。いまは、そうだな。臨時の指導者でも決めてるんじゃないか?」 「……それで進軍するでもなく、休息するでもなく集まっているのですか?」 「そ」  呆れたような雰囲気が広がる。  当然だろう。彼らは将に従い、一つの行動を取ることをたたき込まれている。まさか、対する相手の行動がまるで定まっていないなどとは考えにくいだろう。  しかし、それが民衆叛乱というものだ。大層な理想などなくとも、煽られるだけで動く者というのはいるのだ。 「だが、こんなところで集まられれば迷惑だ。どう動くか決まる前に追い散らそう」  どうせまた集まってくるけど、とは言わないでおいた。実際、再度どこかで集まるだろうが、ここでそれを言って徒労を感じさせても仕方ない。  まさか皆殺しなどできるわけもないし、したくもない。 「じゃあ、そろそろ……」  潜んでいる部下に、馬の用意をしろと命じようとしたところで、その兵たちの列が割れた。  そこから現れた人影を見て、彼女は思わず隠れ潜んでいることを忘れたような驚きの声をあげる。 「お、お前?」  漢土の馬より大柄で、その姿も美しい馬が数十頭。その先頭にいるのは、かつて烏桓からの使者として白蓮の城に滞在していた男であった。 「なんでここに?」  幽州でも烏桓の行動範囲は決まったものだ。それを外れたこの場所に彼が現れるのは実に珍しい出来事であった。 「我らは一体だと仰ったでしょう」 「え……」  耳にした言葉を、白蓮は信じられなかった。まして、次の言葉は、聞き間違いとしか思えなかった。 「三部族の精鋭一万五千。かき集めてきましたよ」 「お、おい。本気か」  正気を疑うように訊ねた白蓮に、男はにやりと笑って見せる。まるで、予想通りというように。 「私も訊ねましたね。本気ですか、と」  彼は手を大きく広げる。それにつられて、白蓮はその場にいる烏桓たちの顔を認めた。それは、各部族の大人、妃の父、長老、そういった重鎮たちであった。 「もう一度お訊ねしましょう。幽州と烏桓は一体となるとは本気ですか? 幽州王」 「私は王じゃないぞ」  即座に否定した。白蓮の顔に困惑の表情が浮かぶ。 「いえ、王ですよ。我らが仰ぐべきは」 「おい」  なにを言い出すのか予想して、彼女の顔から色が消える。血の気が一斉に消え失せたその表情に構わず、男は続ける。 「なにも曹操に背けなどとは言いません。ただ、洛陽は遠すぎる。曹操は見えない」  見えるのは、いまそこにいる白馬長史。  名目はどうでもいい。  王たる覚悟はありやなしや。 「我らは一体となれましょうか?」  胸の中に一つの顔が浮かぶ。 『白蓮なら大丈夫さ』  その言葉に背中を押されるように、突きつけられた選択を白蓮はつかみ取った。 「本気さ。我らは運命を共にする」  わっ、と烏桓が沸いた。部下の中にもその重大さに気づいて、驚きや笑みを浮かべる者がいた。しかし、止める者はいない。彼らは白蓮が独立していた頃からの部下だ。辺境の王程度で動揺する者がいるはずもなかった。 「一つ訂正する」  朗々と、彼女の声が響く。その声は緊張し、わずかにかすれていたが、しかし、そこに居る人々の間で響くには十分だった。 「私が従うのは曹孟徳じゃない、北郷一刀だ」 「これは申し訳ありませんでした。それと、おわびついでにもう一つ」  その言葉にさして驚くでもなく、かつての使者は続けた。 「あなたの弟を手にかけた人間を見つけました」 「なっ」  青を通り越して白くなりかけていた白蓮の顔は、一瞬にしてその色を取り戻し、かっと紅潮した。周囲で兵たちが静かに柄に手をかける。  その様子を察していながら、彼はよどむことなく告げる。 「私の部下でした。この戦が終わったら、私の首を差し出しましょう」  ぱくぱくと、白蓮の口が動く。  空気を吸えなくなったように急いで口を動かしていた白蓮は、ふと膚をこする感覚を覚える。それは、胸に下げた玉の首飾りがもたらすもの。 「……いや」  押し出した声に、部下の手が、得物から離れる。明確な否定の声が、場の雰囲気を明らかに変えていた。 「やめておこう」 「ほう?」 「忘れたわけではない。いまも血が燃え上がりそうだ。しかし」  白蓮は左手で器用に鍔鳴らす。 「いまさら、復讐などに狂うつもりはない」  それから彼女は馬を進め、身を乗り出すようにして、男の顔にその顔を近づけた。怒りとも悲しみともつかない表情で、彼女は確認するように指をつきつけた。 「いいか」  まっすぐにつきつけられた指を見つめて、男は微動だにしない。 「お前の首をなどと二度と口にするな。それと、そいつをこっそり始末するのもなしだ」 「わかりました」  静かに頷くのを確認して、白蓮は手綱を引いた。その馬首の向かう先は、平原に集う、なにを目指すでもない人々。 「では、行こう。我らの民のために」  いつ終わるともしれない戦いに、彼女は真っ正直に突き進んでゆく。  5.軍議 「愛紗を配下にするってどういうこと?」  当然言われるだろうな、と一刀は思っていた。  しかし、実際に怒りを込めた桂花を前にすると、予想とはまるで違っていた。もっとかみつかれると思っていたのに、静かに怒るのは反則だ。いや、反則もなにもないのだが、一刀としてはそう思ってしまうのはしかたないところだろう。  桂花はずい、と近づいてくる。彼女が特に何かしてくるわけでもないのに、広間に繋がる廊下の角に、一刀は追い詰められていた。 「まあ……色々あるんだよ」 「そう」  あくまでも静かににじりよられ、一刀の背に冷や汗が落ちる。もうこれ以上下がることは出来ないから、とにかく言葉でなんとかするしかない。 「私たちは以前もあんたに立場というものについて色々言ったことがあるけど」 「う、うん」 「それを踏まえた上で、一つだけ訊かせて貰うわ」  既に猫耳頭巾は彼の顎下にある。桂花の顔がどこに向かっているのかよくわからないくらい、彼らはぴったり近接していた。  近い、近いよ、桂花さん!  首筋に彼女の熱い息を感じて、叫びたくてたまらない一刀。 「今回のあんたの行動は、華琳様に堂々と言えること?」 「ああ。わかってくれるはずだ」  それだけは間違いなかった。だから、彼は即答していた。 「わかったわ。じゃあ、後は華琳様がお帰りになったら話しましょう。いまはあんたと喧嘩してる場合じゃないしね」  すっと熱が離れる。残念そうににやりと笑う桂花の口に光る犬歯を見て、ああ、そうか、下手に答えたら、首に思い切りかみついてくるつもりだったのか、と慄然とする一刀であった。  その日の討議は、まず愛紗の紹介から始まった。もちろん、彼女という人物を知らない者はいなかったし、彼女が一刀の下へ来たことは長安へ同道しなかった桂花や秋蘭でも知っていることなのだが。 「えーと、まあ、色々あって俺のところに来ることになった。詳しい話は華琳が帰ってからって事で」 「よ、よろしく頼む」 「この危急の折に関雲長という強大な武を遊ばせておかずに済むのは正直助かるな。大陸全体のことを考えれば」  秋蘭の言いようもわからないではない。  朝廷は前将軍という役職で彼女を縛り付けた。洛陽の地にいても、蜀の所属では実際はなにもできなかったわけだが、北郷の下にあるとなれば、話は変わる。一刀に朝廷の顔色を窺う必要はないのだから。 「では、今日から愛紗ちゃんも軍議に参加ってことですねー。なんでも発言しちゃってくださいねー」 「は、はあ……」  風のお気楽な声に愛紗は戸惑いつつも頷くしかない。長安での一刀の周囲は月や張三姉妹も入り乱れるかしましいものであったが、さすがに洛陽の宮城ではそんなことはない。  ただ、当然あるべき者の他に、詠や冥琳、愛紗自身の姿があるのが不思議な気分であった。 「さて、この莫迦が長安でいつも通りに女を漁っている間に重大なことがわかったわ」  酷い言いぐさだ、と『漁られた』愛紗は思う。しかし、もちろん、彼女はそれで激昂したりはしない。そもそもの一刀が苦笑を浮かべているくらいで、怒った様子もないのだから。その態度を情けないと思うべきか、大人物と思うべきか、彼女には判断がつかなかった。 「白眉の大元はやっぱり天師道よ」  きっぱりと桂花が宣言する。そうではないかと疑われていたわけだが、事実として判明したのは大きな進展だ。これで対策を絞ることも可能となるかもしれない。自然、一刀の顔は明るくなっていた。 「おお。密偵でも忍ばせたの?」 「いや、捕虜を再尋問したのだ」 「瓦版屋から三人の絵姿を手に入れてね。罪を減じてやるから踏んでみろって迫ったの。断れば死刑になるかもしれないってつけくわえてね。全員拒否したわ!」 「踏み絵かよ!」  秋蘭の言葉に得意げに補足する桂花に、一刀が思わず突っ込む。 「なによ。それでうまくいったんだからいいじゃない」 「まあ、いいけどさ。踏み絵……踏み絵ねえ……」 「それにしても、全員拒否ね……。そういう相手は手強いわよ」 「いや、そうとばかりは言えまいよ」  釈然としない一刀を放って詠が疲れたように言うのに、仮面の女性が待ったをかける。 「捕虜としているのは、初期の暴動の連中だろう? そやつらはまさに天師道の熱心な……ええと、『ふぁん』と言うのだったか。それだ。しかし、現状白眉を構成するのはそれに留まらない」  冥琳の言葉は、桂花が引き継いだ。 「その通り。黄巾の残党や、各地の賊どもが初期から蠢いてはいたけど、いまは各地でそれらが結集しつつあるわ。天師道の信奉者を中心とする人々の勢いと、それを利用したい連中が合体しつつあるわけ。現状ではそれほど天師道一色というわけではないかもね」 「ただ、後々参加した者も感化されたり、あるいはそのふりをしていることはあるかもしれません。集団を形作るのにはやはり象徴があるほうがいい」 「少なくとも、天師道の周囲は、本当にファンばっかりかもしれないな」  どちらが撃破しやすいのだろう。愛紗は考える。  賊どものほうが気は楽だ。熱狂的な人間というのは、倒しても倒しても立ち上がりかねない。その熱情を他に向けて欲しいものだと彼女としては思うのだが。 「それでですねー。天師道がどこにいるかはだいたい掴めましたよー」 「どこ?」 「荊州だぜ、兄ちゃん」  訊ねられた風ではなく、頭の上の人形が答える。あれは軍議でさえ喋るのか、と愛紗は自分の常識では考えられないことに固まってしまう。 「荊州か。冀州か幽州かと思っていたが……」  秋蘭が漏らすのに、一刀が注意を向ける。 「冀州や幽州が怪しかったのはなんで?」 「華北では最も規模が大きいのだ。幽州はなにしろ遠いからまだつかみ切れていないところもあるが……。凪の部隊を東に向かわせたから、まだましかもしれんが」 「そうか。霞は動かせないよな?」 「一刀殿。そちらは後ほど対策を考えるとして、まずは風の話を聞きましょう」 「ああ、そうだった。ごめん。風、お願い」  軽くたしなめるように稟が言って、ようやく場の注意が風に戻った。 「ぐー」 「寝るなっ!」  目をつぶり、いびきをたてている風に、気づけば怒鳴っている愛紗であった。 「おおっ」  ぱっと目を開けるのに、狸寝入りだと気づき、愛紗は恥ずかしさに体が燃えるかと思った。 「す、すいません、つい」 「いや、お約束だから大丈夫だよ。いつもは俺か稟がやるだけで」 「は、はあ」  軽く流されて、かえって首をひねる。風のほうもまるで気にせずに話を続けていた。 「ええとですねー。人和ちゃんからもらった情報や、呉、蜀とも連絡をとってみた結果、天師道は荊州に留まっているだろうと判断したのですよ。理由は彼女達の足取りからたどると、最新の公演が、漢水沿いに漢中から東進して開かれていると予測できるからですねー」  そこで風はわずかに表情を固くした。 「さらに、荊州では大陸でもかなり……おそらくは一番の頻度で暴動が起きています。ちなみに、これまでそれがわからなかったのは、おにーさんのせいです」 「ええっ!」  驚きに襲われる一刀であったが、集まる軍師陣の視線は、またかとでも言いたそうだ。 「はい。昨年のおにーさん主導の国境の再確定の結果、管轄範囲が決まったのはいいんですけど、まだうまく機能していないんですよねー。ましてや荊州における三国間の連携なんて夢のまた夢という有様でして」 「ああ、それで……呉や蜀の資料ともつきあわせないとわからなかったわけか」  ふむふむ、と納得する一刀。周囲はそんな彼に構わず、南部の地図を引っ張り出して検討に移っている。 「おそらく、白眉本隊は荊州で力を蓄え、北上して一気に中原を制する段取りでしょう。幽州は囮、冀州の隊はおそらく本隊北上にあわせて南下予定かと」 「そこまで考えてるかしら?」 「考えている者はいるだろうな。それを遂行できるところまで持って行けるかどうかはともかく」  軍師たちのやりとりを聞いていた一刀は、地図の上の身を屈め、荊州の州境をゆっくりと指でなぞった。その動きに視線をやった桂花がふんと鼻を鳴らす。 「どんだけ手間がかかると思ってるのよ。陳留時代とは違うわよ」 「聞く前に言うなよ。まあ、封じ込められるかな、とは考えていたけど」  さすがに黄巾の本隊を討ち取る経験を積んできた者たちの反応は素早い。秋蘭もどれだけの苦労がいるかを考えて、渋い顔をしていた。 「華琳様の焼き直しでしょう? でも、荊州は広いわよ。まして……」 「荊州をどうにかするならば、呉、蜀との緊密な協力体制が必須となります」  そこではじめて愛紗は発言する。その通り、というように幾人かが肩をすくめる。 「だけど、北上させるわけにはいかない。各地の白眉と連携を取られるのも困る。荊州に限らず、分断は必要だよ」 「それは間違いない」  闇色の仮面が同意の印に頷き、 「まー、おにーさんが決めたら、なんとかするしかないんですけどねー」  風がにゅふふ、と笑って、 「華琳様が戻られて変更を命じるまでは、そうですね」  稟が後押しするように言い、 「そんな大方針、華琳でも変えられないわよ」  詠は呆れたように両手を広げ、 「まあ、悪くはないと思うぞ。いいではないか」  秋蘭が頼もしそうに笑った。 「よし」  そして、彼が決断した。 「荊州を封鎖する」  6.眩惑 「あの、ご主人様」  執務室に戻ろうとする一刀をそうやって愛紗は捕まえる。 「ん? 部屋に行こうか」  彼女の顔を見て何かを察したのだろう。一刀は軽い調子で彼女を誘い、執務室に入った。 「今日の会議に意見かな? たしかにあの場では言いにくいことってあるよね。なにしろ大陸の頭脳が勢揃いだし。でも、いろんな切り口は必要だから、ぜひ……」 「いや、そうではなく。いえ、そうであるとも言えるのですが……」  歯切れの悪い彼女を、机に着いた彼は不思議そうに見上げる。座るよう促されたが、愛紗は立っている方が気が楽だと断っていた。 「なぜ、私をああも簡単に受け入れるのだろうかと思いまして」 「は?」  一刀はきょとんとして何を言われたのかわからない風情。彼は少し考えてから、 「悪い。意味が掴めない」  と申し訳なさそうに上目遣いで訊いてきた。 「ですから」と愛紗は重ねる。「私に意見を求めるのはもちろん、あの白眉の対策を話し合う場に同席させることも指しています。数日前までは他国にいた者なのですよ、私は」  ふむ、と相手は頷く。彼女の言いたいことは理解してくれたようだが、本当の意味でわかってくれているのかどうか、疑問であった。 「そうは言っても、詠も冥琳も別に生粋の魏の人間でもないしね。別にいいんじゃない? 気にしなくても」 「気にします!」 「そ、そう……?」  愛紗の勢いに、彼はびくりと震える。彼女は小さく息を吐くと、くくった髪を一振りし、子供に話すようにゆっくりと問いかけた。 「考えても見てください。あなたは現状華琳殿の代行をなさっておいでだ。つまり、あれは御前会議に等しい。それをほんの少し前まで蜀に属していた私にまで公開して、情報を流されたらどうなさるおつもりですか?」  愛紗の言葉を聞いていた男は、真剣な顔つきになり、考え込むようにうつむいた。ようやく理解してくれたか、と彼女がほっとしたところに浴びせられた答えは予想外のものであった。 「どうするもなにも、特に困ることはないけど?」 「は?」  先ほど男があげたのとそっくりな声を彼女は漏らした。 「困らないよ。だって、白眉の対策っていうのは大陸全体の問題だからね。魏以外の国に知れても特に問題はない。いや、逆に三国でその対策や情報を共有すべきものだ。まあ、兵一人一人にまで説明して回る話でもないけどさ」 「いや、しかし」 「白眉に内通しているなんてことがあれば、そりゃあ困るけどね。愛紗はそんなことするわけもないしさ」  にっこりと微笑まれて、言葉に詰まる。こんなにも人を信じ切った笑顔をする人を、彼女はそうそう知らない。脳裏に浮かぶのは、義姉と誓ったその人くらいのものだ。 「それにさあ」  彼はいたずらっぽく笑って続ける。 「戦時とはいえ、祭なんて、『孫呉』に属したまま軍議に参加していたぜ。あれはまさしく罠だったわけだけど」  罠であるならば、それごとかみ砕く。裏切りがあるならば、それすらも抱えてみせる。それが曹魏だというのか。  曹魏の強大さ、覇王の存在の強烈さは知っていたはずなのに、背筋に震えが走るのを彼女は止められなかった。 「結局の所、魏が本当に秘匿すべきことなんて、華琳の頭の中にしかないんじゃないかな。それはそれで問題なんだけれどね」  ぶつぶつと彼女に聞かせるでもなく呟いてから、一刀は思い直したように彼女を見上げた。 「なんにせよ、これからもどしどし会議に出席してよ。俺に、いや、大陸の民に、力を貸して欲しいんだ」 「は、はあ……」  そんな男の言葉に、曖昧に頷いてみせるしかない愛紗であった。 「なに黄昏てんのよ、天下に名高い美髪公殿が」  庭の四阿で一人風景を眺めていた愛紗は、声がかかってはじめてそこに茶盆を持った『めいど』服姿の女性がいることに気づいた。武将としてはあるまじきことであったが、その人物が旧知のものであったのが、その理由の一部を構成していたかもしれない。 「ああ、詠か。その格好を見るのも久しぶりだな」  盆を差し出してくる詠から茶杯を受け取り、笑顔をみせる。 「最近忙しかったからね。でも、こっちもボクの仕事だしね」  そう言いながらも彼女は愛紗の横の腰掛けに座りこむ。本来の侍女ならば許されないことを、彼女の特殊な立場が可能にする。 「で、どうしたのよ」 「慣れの問題だろうな」  これは新参への励ましのようなものなのだろうか。詠の探るような問いかけに、愛紗はなるべく軽く聞こえるように答える。慣れていないというのも間違いではないのだし。 「ま、戸惑うのもわかるけどね」  肩をすくめ、かわいらしい服装の女性はずり落ちかけた眼鏡を慌てて押さえる。 「いまは白眉への対応でなにしろせわしないし、無理にでも切り替えて、合わせていかないときついわよ」 「それはわかっているのだが……」  自分自身でもわかっていることだけに、指摘されると辛い。彼女はもごもごと口の中で言葉を弄ぶ。 「どうも、まだ北郷ど……ご主人様のやり方が奇異に思えてしまってな」 「ご主人様……ね」  北郷と呼んだのが気に障ったのだろうか。なにやら不機嫌そうな声に、愛紗は黙る。詠もまた沈黙を貫き、しばらくの間、夏の風だけが吹きすぎていった。  再び口を開いたのは、なにがきっかけだったのだろう。ぼんやりとしていた愛紗にはよくわからなかった。 「ねえ、愛紗」 「ん?」 「決戦の時、あんた達はボクたちを外に出したわよね」  また古いことを、と思いつつ、現在の状況について話すよりはましだろうと愛紗はそれにのってみる。 「ああ……。桃香さまが逃がすと決められたからな」 「あれを蜀に見捨てられたと取るむきもあるのは知ってる?」  驚愕のあまり、声を出そうとして、げほっ、とむせてしまった。 「なっ、なにを言う。あれは、名を伏せている月たちをやむなく……」 「落ちのびさせるため? そりゃあ桃香の意図はそうでしょうね」  詠は愛紗の言葉を先取りして、話を進めてしまう。 「だけど、さっきも言ったとおり、ボクたちを切り捨てたという見方もあるのよ。そう、たとえば……。人材好きの華琳は飛将軍を欲しがる。圧倒的に優勢なあの時ならば、反董卓連合の時に見逃した恋を華琳は追いかけるよう命を下す。いっそ名前を捨てているボクたちだけなら逃げられても、恋がいることでボクたちは追われ、捕らえられ、贄を受け入れた華琳は大満足で、蜀に対する処断は緩む。そんな筋はいかが?」 「なにが……言いたい」 「つまり、桃香たちはボクたちを見捨て、恋を囮にしたのだと、まあ、これは下種の勘ぐりに近いけど、そういう受け取り方もあるわけ」  不穏な熱を帯びてかすれた声を嘲弄するように、詠は続ける。まるで悪意の塊のようなおぞましい笑みを浮かべて。 「詠!」  この時ほど、現在の状況に遠慮して青龍偃月刀を側に置いていなかったことを喜んだことはなかった。もし、手に届くところにあったなら、振り下ろしてしまっていたかもしれない。 「言っておくけど、こういう見方もあるってだけの話。でもね」  しかし、詠の言葉は止まらない。先ほどの笑みとは違う、寂しささえ感じられる表情で、彼女は吐き捨てるように言った。 「たとえ本人の意図がどうあろうと、正しさの裏側には別の正しさしかないのよ」 「詠……?」 「一つの正しさに縛られることは、辛いことよ」  もはや、その言葉は誰に向けられているかもよくわからない。もしかしたら、いま、この謀士は自嘲しているのだろうか。愛紗はそんな疑問を抱く。 「なにしろ、その正しさ以外の全てが間違いだとしたら、あんたは間違いばかりに毎日出会うことになるんだから」  これは忠告だけど、と詠は言って立ち上がる。 「あんたもせっかく外から蜀を見る機会を得られたんだから、考え方を柔軟にして、いろんなものを見てみるといいわ」  返事も待たず、盆を持って、彼女は立ち去ろうとする。そのひらひらとした格好がくるりと一度振り向いて、思い出したように付け加えた。 「ああ、そうそう。紫苑があんたと直に顔を合わせないようにずいぶん気を遣ってるから、あんたも気をつけてやりなさいよ」 「……わかった」  一言告げるのに、詠は手を振って、今度こそ立ち去っていく。 「なにが、わかった、だ」  一人きりになった四阿に、そんな言葉が響いた。 「わからないことばかりだ」  そして――。  ついに彼女が帰還する。 「私を北に追い出している間に、愛紗を手に入れるとは、ねえ」  ふふ、ふふふふふ。  低い低い笑い声が、食いしばった歯の間から漏れる。 「やってくれるじゃないの、一刀」  金の髪持つ覇王の笑みは、深く深く刻まれていた。      (玄朝秘史 第三部第二十七回 終/第二十八回に続く) 北郷朝五十皇家列伝 ○孫世家の項抜粋 『孫世家は、三孫家の祖である孫家三姉妹のうち、次女であり、死亡を偽装した孫策の後を継いで呉王となった孫権の血統を受け継ぐ皇家である。代々(死後、呉王を追贈される)呉公を継ぐ、いわゆる三皇のうちの一つである。  世間ではそれほど認知されていないものの、歴史に詳しい人間、あるいは雑学知識に通じている人間にはよく知られていることだが、孫権は、一時期帝を称した。  いわゆる、太祖太帝、呉大帝(孫権)、漢皇帝(劉協)による三人の皇帝が並び立ったわずかな期間。それこそが狭義の三国時代である。なお、この三国時代を、太祖太帝、呉大帝、劉備の三者の時代とする学派も存在するが……(中略)……  さて、孫権の帝位登極に関しては、後に彼女が皇妃となる関係上、史料もあまり残されていない。これは袁術、劉備についても同様であり、その部分が削除されたというよりは、曖昧な文章の中に封じ込められたと見るべきであろう。そのため、本人の伝や側近の伝ではなく、他国に属していた者たちの列伝などを丹念に追うことで、その実像を浮き彫りにすることが可能である。  ところで、太祖太帝の時代より三百年ほど後のこと。当時の戯れ歌を集めた歌集『悉皆戯作』の写本の一部に、こんなものが収録されている。 『顕の頃には六帝残り  みんなまとめて海送り』  つまり顕帝の時代には、太祖太帝をはじめとして、孫権、劉備、袁術、劉協、劉(黄)敍と『元皇帝』が六人もいた計算になって、さぞやりにくかったであろう。だから、顕帝は東方植民と称してみんな海外に放逐してしまったよ。という事実関係をまるで無視した歌である。その作りからして、文化人のものではなく、町民階級のものであろうと推定されている。  その内容はともかくとして、これにより、世間でも――ことに一般の人間にも――ある時期には、それらの人物が元皇帝、あるいは皇帝を自称した人物であることは知られていたこととなり、現在でも残っている文献と、当時の常識を形作っていたものが異なることを示している。  これについては、現在でも研究中の事柄であり、今後も、発掘文献、未公開文献などとの照合などが進むことでその全容が明らかに……(後略)』