「無じる真√N58」  許昌へと戻った彼女は仕事の合間、庭園を眺めながら茶を服していた。  その場だけが外界から切り取られたかのように静かな時間がゆっくりと流れる。この場だけ刻の流れが狂ったのではと不安になりそうなほど落ち着いた時間。  「か、華琳さまー!」 「……桂花」  猫耳頭巾の少女が駆けてくるが、曹操はそちらへ視線を向けることは一切せずにもう一口お茶を啜る。  肩で息をしながら荀彧は曹操の前に立つ。 「か、華琳さま……あ、あの不義の者を生かしたというのは本当ですか?」 「例のこと? それは当然よ。あれにはまだ使い道があるもの」  荒い息を交えながら問いただしてくる荀彧が示すのは先の一戦で再度捕縛した張繍のこと。  戦後に曹操が下した決断のことは報告として上がっていなかったのだろう。荀彧の様子を見る限り、今し方耳にしたといったところのようである。 「し、しかし! また、いつ華琳さまのお命を狙ってよからぬことを企てることか」 「一度牙を抜いた以上、当分は生えてくることはないわ。それに、また生えてきたらその時に抜き取ればいい……思いっきりね」 「何故、それ程までに軽くお考えになっておられるのですか?」 「牙は伸びきり、よく磨がれている方が美しい……そうは思わない?」  曹操は言葉を詰まらせしばし逡巡する荀彧を一瞥すると、また一口茶を啜る。 「何より、その方が鋭利で使い勝手も良い。それに、才については少なからず具備している……それならば、この曹操が有効に使うべき。そう思っただけのことよ」  武に関してならば張繍にはそれなりに目に掛けておくべきものがある。そして、それはひいては率いらせる部隊の士気向上にも繋がることだろう。  曹操の言葉に何かを言おうとする荀彧の声を遮るように別の方向から名を呼ばれる。 「華琳さま!」 「騒々しいわね。今、華琳さまは私と話してるのよ。邪魔しないでくれる」 「そのような戯れ言に耳を貸す暇はありませんよ。私には」 「ざ、戯れ言ってあんたねえ!」 「稟、それで結果はどうだったの? 情報は上手く引き出せたのかしら?」 「は。それは無論。あの程度でしたら、児戯に類する行為と言わざるを得ません」 「ふん。どうだか」  口先をちょんと尖らせて毒づく荀彧を郭嘉が横目で睨む。 「それで? どうだったの、稟」 「……例の謀反には裏があったようです」 「裏ですって!」  荀彧が興奮した様子で声を荒げる。  それにつられるように庭園の草木が小さくだが風によってざわめく。 「どうやら、元より華琳さまの暗殺を企てていたと」 「な、なんですって……いつ! いつからなのよ」 「恐らくは、春蘭たちの攻撃で降伏するよりも前……違う?」 「全くもって、その通り。もしや、既に大方の見当は付いていたのですか?」  曹操は、と胸を衝かれた表情をする郭嘉に頷いて返す。 「全ては、ある時を境にして始まっていた……そう考えているわ」 「どういうことなのですか、華琳さま?」  会話についてこれない荀彧がひっつくようにして尋ねてくる。 「稟、説明を……いえ、その前に軍議を開く。用意を頼めるかしら?」 「御意、すぐにでも」  そう言うと、郭嘉は即座に立ち去った。 「それじゃあ、私たちも行きましょう。桂花」 「ああん、華琳さまぁ……焦らしなんて、そんな……」  僅かばかり鼻息を荒くしてくねくねと奇妙な踊りをしながら恍惚の表情を浮かべる荀彧を連れ、曹操も軍議を行うべく風にざわめく庭園に背を向け、その場を後にした。  †  曹操が到着したとき、既に多くの諸将が集っていた。  そこへ、どたどたと当人の頭の中のように賑やかな足音で夏侯惇が最後にやって来る。  彼女は急な呼出しに慌てたのか、周囲に気を回すことなく曹操の元へ一直線に向かってくる。 「一体、何事ですか? 華琳さま」 「落ち着きなさい、春蘭。例の件についてよ」 「例の件……はっ!? まさか、わたしが華琳さまのお手伝いをするため書に筆を走らせたことですか? いやあ、やっぱりばれちゃいましたか。いいんですよ、礼など。礼などぉ。えへへ」 「……それは後で聞かせてもらうとしようかしら」 「ち、違うのですか! で、では……この間買いに行った菓子を華琳さまにお届けする前にその……つまみ食いしたことですか……し、しかし、あれは季衣がどうしてもというから共に食べたわけで……」 「それでもないわ」 「で、ではあれですか? いや、あっち……それともこっちか? もしや、あのことですか!」 「春蘭……どうやらあなたには聞くべき事が山ほどあるようね」  軽い頭痛を覚えつつ曹操は眼で周囲を指し示す。 「あ、あれ……?」  漸く他の者たちの顔を確認する夏侯惇にジト眼の荀彧が仰々しく肩を竦める。  何かを呟いたようだが曹操の耳ではさすがに聞き取れない。だが、 「誰が天下一品の馬鹿だ!」 「なんで聞こえてるのよ!」  何故か夏侯惇は聞き逃さず、逆に荀彧が動揺している。 「わたしは南方にいてなお、北方で華琳さまに異変が訪れるのを察知するだけの勘の鋭さがある!」 「まったく関係ないじゃない! 意味わかんないわよ、あんた!」 「貴様のようなもやしっ娘にはわかるまい! この夏侯元譲の察知能力が如何に高尚であるか!」 「なんですってぇ……この領土減少中の生えぎ――」 「…………二人とも、黙りなさい」  言い合いが本格化する前に曹操がそう一言告げると、両者とも肩を落として静かになる。 「稟、貴女の方から説明をしてもらえるかしら?」 「は! では僭越ながら。華琳さまに対する謀反の結末は鎮圧成功と相成ったものであることは各々、先刻承知のことだとは思います」  その言葉に全員が頷く。曹操も話の内容についてはもちろんわかっていることなので黙って聞く。 「そして、今回の召集における議題。それは……例の謀反にある裏のこと」 「裏だと? どういうことだ、稟」  眉をぴくりと吊り上げて夏侯惇が説明している郭嘉を見る。 「交渉の結果……というよりは、華琳さまの予想通り欲に惑わされたのでしょう。見事に口は割れ、そこから聞き出すことができたのは、そもそも華琳さまの御頸を狙ったのには明確な理由があったということ」 「理由って、そんなの自分の領土を取り返そうとした……そして、あわよくば華琳さまの領地までってことじゃないの?」  荀彧が小首を傾げるが、郭嘉は静かに首を振る。 「いや、私も初めは桂花の言う通りの理由を想像するに至りはしました。しかし、そうではなかったのです。一つの密約こそが事の発端であった、そう聞かされました」 「発端……袁術の起こした偽帝騒動よりも前まで遡ることになるのでしょうね」 「ええ、華琳さまの仰るとおり。全ては、都へと向かったあの時から始まったと……」 「劉備と共に向かったというあれか。確か、桂花も同行していたな」  夏侯惇がぽんと手を打って荀彧の方を見るが当人は顎に手を添えて一人頷いている。 「なるほど……華琳さまが何をお考えになったかようやくわかったわ」 「む? どういうことだ」 「あんたは黙って稟の話を聞いてればいいのよ」  †  説明を進めていくにつれ、段々と諸将の反応が大きくなり始めている。  首を捻る夏侯惇にはまともに取り合わずに流す荀彧を余所に郭嘉に質問がくる。 「それで、稟……その証拠となるものはあるのかしら?」  尋ねる曹操に頷くと、全体を見渡しながら郭嘉は一本の書簡を取り出す。 「これが……受け取ったという書簡です」 「よく、残っていたわね」  まじまじと書簡を見つめながら荀彧が感心したように聞いてくる。 「大層大事にとっておいたようです。もしかすると、こういったことになるのすら一つの可能性として逆賭していたのかもしれません」 「用心深いとうことね……まあ、あれだけの期間を掛けて機を窺うくらいだからあり得なくはないわね」 「それで、中にはなんて書いてあるのよ? ま、大方予想は付くけれど」 「それはこれから申す所存。ですから、桂花はしばし黙っていてください」 「なっ!?」 「桂花。少し、静かにしてもらえるかしら?」 「……は、はい」 「稟、読み上げなさい」  郭嘉は頷くと手に持つ書簡を広げ、内容を語り始めた。  それは、張繍に対して送られた密命であることがよくわかる内容だった。  主に書かれていることは曹操に対する悪意。彼女を逆賊であると誹謗する言葉から始まり延々と曹操の頸に固執する話だった。  郭嘉は書簡の内容を読み終えると、再度ぐるりと全体を見回す。 「つまり、要約すると、逆臣曹操を討てと命じてあるようです。そして、その後には儀を重んじぬ曹孟徳の頸を持ちて入京するならば、帝に掛け合い……高位を与えん、そう書かれております」 「なっ! どこのだれだ! 華琳さまに対して無礼な」 「馬鹿ねえ。ここまでくれば大体の察しがつくでしょ。普通」 「うーん、さっぱり、わからん!」  胸を張って堂々とそう宣言する夏侯惇にため息を吐きつつ郭嘉は説明を加えていく。 「一応、受け取ったのは立場のある人間です。密かにとはいえ、そのような人物に命を下す以上、この差出人はそれなりの地位についているのは間違いありません。それこそ、書かれている通りならば、天子と何らかの関係があるのでしょう。しかし、この書簡には玉璽の印がありません。これは、恐らく袁術が帝を僭称した時に発覚した玉璽の紛失が関係していることを如実に物語っています」  郭嘉は解説をしながらずっと気になっていることがあった。なんら反応のない曹操のことである。  静かに瞼を降ろしたまま、郭嘉の話に耳を傾けていた。まるで、郭嘉の言葉に従って自分の考えを一つ一つなぞらえていくかのように。 (まさか、私はあの方が既に通った思考の道を辿っただけなのか?)  書簡の内容とそこから導き出す答え。ひょっとすると曹操はこの書簡を見る前から既におおよその事情は読めていたのではないか。そんな疑惑が郭嘉の中で首をもたげ、同時に身震いしそうになる。 「稟の説明通りなら、全ての事象から送り主は間違いなく……」 「ええ、朝廷ということになります」  郭嘉がそう断言すると、辺りはにわかにざわつきを見せる。 「そう、やはり張繍は……」 「予想通り、朝廷の先兵……つまりは刺客となりて曹孟徳の頸を献上せんとしていたというわけです」 「刺客ね……、やはりこの曹操を討つべしという考えに到達したというわけね」  怒りでもなく、狼狽でもなく、曹操は静かに笑った。  国の中枢が自らの命を狙っていると知ってなお、郭嘉の仰ぐ主君は清水のような穏やかさを保っている。  それはかえって郭嘉の背筋を寒からしめるには充分すぎるほどの脅威を彼女に与えた。 「どうしますか? 華琳さま」 「そうね、本格的に向こうの言う〝逆臣〟というものにでもなってみようかしらね」 「では、やはり――」 「再度、都へと向かう」  再度、場がざわめきだつ。 「それで、稟。書簡に目を通していた貴女は朝廷の事は既知よね。何かしたのかしら?」 「既に遠征の準備は整えてあります。それでよろしいでしょうか?」 「良い手筈よ、稟。流石ね」 「有り難きお言葉」  曹操はかっと目を見開くと全員を見る。口元には不適な笑みを浮かべたまま開かれていく。 「これより、この曹操は都へ今一度向かい、朝廷の意向を直に確かめてみようと思う。異論ある者はこの場で述べよ」  一瞬の静寂の後、一人手を挙げる者がいた。 「どうやら、何か含むものがあるようね。桂花」  珍しく曹操の決断に待ったを掛けたのは軍師、荀彧。 「華琳さま、本気なのですか? 先に待つのはどのような形にしても朝廷との関係崩壊。それはこの地に生きる民衆の中において多くの敵を作ることとなるはずです。今、我が軍は成長期にありますが、まだ成熟はしておりません。私としては、あまりにも時期尚早かと」 「民の反感を買うことは既に覚悟しているわ。覇に生きると決めたときからね」 「下手をすれば、数百年にわたり奸雄の名とともに後世の人々に伝えられていくことになります」 「桂花。私が正しいかどうか、それは貴女たちに見定めて貰えればそれでいいのよ。何より、この曹操が目指すのは民に慕われ頼られることではない。民が進むべき道を切り開くこと」 「……華琳さま」 「それでも、まだ止めておくべきだと思う?」  荀彧が首をふるふると横に振った。 「愛する華琳さまが百年……いえ、千年に渡って悪名の代名詞となるのを危惧したのですが、華琳さまのお言葉に隠された私への愛……しかと受け取りました。ですから、もう異論はありません」  瞳を輝かせて曹操を熱く見つめる荀彧。郭嘉には彼女の言ってる意味がほとんどわからなかった。 「ところで、稟」 「何でしょうか?」 「先ほどの書簡以外には何もなかったのかしら?」 「そこまでお見通しですか……やれやれ、智謀を持って貴女に仕えるというのは、光栄であり、かつ無残なものですね」 「ふふ、褒め言葉として受け取っておくわ」  悠然と郭嘉の言葉を飲み込んでしまった曹操に感嘆のため息を吐き出すと、郭嘉は密約書と共に持ってきて手紙を全員に見えるように出す。 「これには、華琳さまの暗殺もしくは征討を受け持ったと思われる者たちの名が記されています」 「なんと、そのようなものまでもが存在しているというのか!」  夏侯惇が身を乗り出してくる。他の者たちも、綴られた名前に視線を走らせていく。 「ここに記された名前の中に、気になるところがありませんか?」 「……この手よりすり抜けた小さき大魚」 「っ!?」  その場から動かぬままの曹操が呟き程度に漏らした言葉に郭嘉の背筋に冷たいものが走る。 「華琳さま……貴女は一体どこまで見えているのですか?」 「さあ? どこまでかしらね? いえ、そもそも見えているのかしら?」 「なっ!? いい加減、空を使うのはやめていただき――」 「稟。貴女の質問に今すぐ私が答える必要はないのではなくて?」  眼を細めながらの曹操の詰問に、さもありなんと郭嘉は口を閉ざしたまま頷く。 「さて、話が逸れてしまったわね。始めに行っておくけれど、私はこの一覧に載っている者たちを討つ」 「そうなると、やはり、あの者も?」 「ええ。当然……もっとも、今はまだその時でないけれど」  河北に大勢力を築いた公孫賛、江東を治めつつある孫策。これらが残っている以上、その人物は優先されるべきではないのだろう。 「しかし、あの時のことはやはり……」 「華琳さまを暗殺しようとしてたけど、恐れをなしてってことでしょ」 「むう……普通は、自分にとって得な方に動くのではないのか? 華琳さまを討てば報酬はそれなりに得られるのだろう?」  郭嘉や荀彧が徐州で起こった急な出来事を思い返す中、夏侯惇が何気なく発した発言に一瞬、時が止まったかのように静まりかえる。 「ん? どうしたのだ? 急に、皆黙り込んで……」 「春蘭……あんた、その時折筋の通った発言するのやめなさいよ。心臓に悪いわ」 「なんだと! それではまるでわたしが普段は間抜けなことを口にするうっかりさんみたいではないか」 「…………むしろ、空気が読めてないのよ、あんた」 「はっはっは! お前は実に馬鹿だな。空気は読むものではない、吸うものだ。わたしでもこれくらいはわかるぞ! ほれ、すー、すー」  豊かな胸を張りながらふふんと鼻で笑うと夏侯惇は呼吸を……いや、空気を吸い込み始める。 「その論法で言えば、吸ったり吐いたりでは……」 「すー、す……うぅ、げほっ、げほっ」  吐き出すことを忘れて咳き込む夏侯惇を見て、荀彧が頭を抱え込む。郭嘉もなんだか頭痛がしてきた。 「ま、馬鹿は無視して……確かに、春蘭の言うことにも一理あるわね」 「暗殺を実行する……もしくは、もう少し悩んでいてもおかしくなかったというのはあり得ますね」 「しかし、素早い決断を下したのよね……」 「やはり、彼女によるものでしょう」 「名軍師……諸葛孔明ね。まったく、計算が素早いとでも言うべきかしらね。護衛の多い懐での暗殺は危険が多く、それよりは一度距離を置いて体勢を整えてから討った方が何かと都合が良いものね」  小柄で幼げな見た目とは裏腹に非常に切れる頭。  はわわと危なげに思える言動とは裏腹に冷静沈着な判断をこなす彼女ならば、劉備から事情を聞くやいなや的確かつ俊敏な決断も可能だったに違いない。 「劉備……これからどうなるかは予想もつかないわ。でも、少なくとも今はあの娘の相手をする時じゃないというのが私の考えよ」 「ということは、先に……」  郭嘉は確認を取るように曹操に視線を投げかける。 「当たり前でしょ。それに、我が軍の勢力もそろそろもう一段階は拡大してもよい時機を迎えたわ」  それは肯定であるということ。 「まず、朝廷を抑える。これに変更はないわ。そして、次に討つべきは――」  †  西方の地……涼州。  そこには少し前に朝廷より〝征西将軍〟へ封じられた馬騰と〝鎮西将軍〟となった完遂らを中心とした羌族、そして、羌族と漢民族の混血からなる民族の集落が主に見受けられる。  漢民族からすれば羌族も異民族の一つであるが、その身体に羌族の血を持つ馬騰、羌族及び匈奴から絶大な支持を持つ韓遂、この者たちからすれば涼州の勢力を一つと纏めることも可能だった。  そうしてまとめ上げられた西涼軍が主だって生活をしている広大な大地で一人の少女が荒野で馬を爽快に走らせていた。 「よし、行けー! 紫燕」  彼女がよく手入れしている三頭いる愛馬。そのうちの一頭の背にまたがったまま少女は愛馬の尻尾のような纏めた後ろ髪を風の中に踊らせながら恍惚の表情を浮かべる。 「あー、気持ち良いなぁ……」  しばらくは大地が続き障害物が無いことを確認してすっと瞼を降ろす。目の前が闇に包まれるが、代わりに別の経路から入ってくる情報が一層強く伝わってくる。  地を駆ける振動、耳に届く空気の流れる音。  彼女は今、愛馬と一つとなり、風になっていた……その感覚が心地よい。  それからも少女は紫燕の背に乗ったまま雄大な地を駆けに駆け続けた。  日もそこそこ動き頂点に向かって上昇をしている中、彼女は近くの小川へと立ち寄った。  ほどよく開けていて周囲が見渡しやすく、しばらく愛馬を休ませるには最適な場所を見つけると、紫燕を好きに動けるよう解放する。 「さて、と」  紫燕がざぶざぶと川の中へと入っていくのを見送ると少女は持ってきた長槍……銀閃を手にし、流れるような動きで構えを取る。 「今日もいっちょやるか!」  そう叫ぶと少女は手にした槍をくるりと縦横に一回転させ、ぴたりと動きを止める。  瞼を下ろし、馬上同様に外界からの情報の一つを消し去る。  目の前に敵がいると空想し、狙いを定める。  槍の腹と少女が身に纏う翠色の服が擦れる。  徐々に激しさを増す動きに合わせて白く丈の短い腰布がふわりと舞う。  深く呼吸をして、少女は白い腿まである長めの具足を履いた足で地面を力強く踏み込む。 「はっ!」  一閃、精神を集中させてその一発のみを放つ。  空気が切れる感触がじんわりと手に伝ってくる。  沈黙につぐ沈黙。そして、沈黙。  風が少女の頬をなぜる。  ふっと息を吐き出すと、彼女はゆっくりと瞳を開いていく。 「まずは、こんなもんかな」  銀閃の尻を大地に座らせると刃が天を仰ぎギラギラと光り輝く。それを眩しく思い片目を細めながら彼女は一呼吸入れる。  全身から余計な力が抜けたところで少女は再度、銀閃を構える。  その特徴的な太い眉一つもぴくりとも動かすことなく前をじっと見据える。  銀閃を自由自在に扱いつつ、自分が持っている型の一連を繰り返し行っていく。  それが一段落したころには、すっかり汗も掻いていたのでごしごしと拭いさる。 「ふぅ、ちょっと休憩だな」  息を吐き出すように身体から力を抜いていくと、彼女は丁度良い大きさの岩を見つけて腰を下ろす。なんとなく川の方へと目をやると、紫燕が気持ち良さそうにぶるると鼻を鳴らしている。 (しばらく休憩を挟んだら、基礎体力を鍛えるためにも肉体の鍛錬だな)  この後の時間をどう有意義に過ごしていくかを決めると馬超はぐっと両腕を伸ばしながら伸びをした。  †  休憩を挟んだ後、彼女は筋力方面の鍛錬を重点的に行った。  始めた頃はさすがにこたえたそれも、今ではさほど負担は残っていない。 (あいつも、これくらいのことは楽にこなせるようになってもらいたいもんだ)  彼女と比べると少々未熟なところの多い従妹のことを考えつつ鍛錬を止めて空を見上げる。  太陽は既に天辺を過ぎ、翳した手の指一本分程度西へと進んでいる。  充分な鍛錬を行えたと満足しつつ河原へと戻ると、彼女は川に入ったままの紫燕の元へと近づき、そっと紫燕の身体を洗っていく。  彼女と以心伝心な関係にある紫燕は特に暴れることもなく、大人しく身を委ねてくれている。 「よし、良い子だ。ピッカピカな毛並みにしてやるからな」  まるで人を相手にするかのように言葉を交わしながら洗っていく。  彼女にとって馬は人と同等、いわば家族なのだ。  ゆったりとした時間が流れていき、紫燕がすっかり綺麗になったころには彼女たちの影は少し背が伸びていた。 「さて、少し休んだら帰るからな」  そう言って紫燕を川辺へと連れて日向ぼっこをさせる。  その隣で彼女は人一人分はある茂みへと腰を下ろす。  麗らかな陽射しと透き通る風が心地よく、彼女は眠気に誘われていき少しずつ舟を漕ぎ始める。 「……ふぁ。やば、なんだか、ちょっと眠くなってきちまったな」  一度、伸びをすると口からあくびが溢れる。  彼女は頭の後ろで手を組むと、腰を下ろした状態からそのまま背後に倒れ込んで空を見上げる。  朗らかな太陽がさんさんと温もりを降り注いでいる。 「……少しくらい、いいよな」  そう呟くと少女は川のせせらぎに耳を傾けたまま一粒の水滴のようにじんわりと瞼を閉じていく。  † 「お・ね・え・さ・ま!」 「ひひぃぃん!」 「うわぁあ!」  唐突な馬の嘶きと誰かの声が耳に飛び込んでくる。  それに驚いた彼女は思わず飛び上がり、反射的に寝そべっていたところから離れるようとして勢いよく飛び退いてしまう。 「あっ、そっちは!」 「え? あ、なぁぁああ!」  寝起きで意識が完全には目覚めていなかったため体勢を維持するのは容易ではなかった。  彼女は身体の重心が上手く捉えられず体勢を崩してしまう。  斜面を転がる石ころのようにごろごろと転がり、彼女は川の中へと落下してしまった。  どぼんという音をたてながら水没した彼女はすぐさま身体を起こし、馬のようにぶるると頭を振って水気を払う。  あまりに大きな水音に驚いたのか紫燕がこちらをじっと見つめている。 「な、なんなんだよ一体?」  まさに冷や水を浴びせられたといった状況には流石に意識も覚醒し、目線を辺りへと向ける。落っこちてきた方を見ると、彼女に似た人物が立っている。  彼女のものと意匠の似た向日葵色の服と切れ込みの入った白のパンツに身を纏った少女は口元に苦笑を……いや、笑いを噛み殺している。  自分より小柄なその少女は間違いなく悪戯な表情にぴったりな悪戯好きな従妹の馬岱だった。 「くく……、なにもそんなに慌てなくてもいいんじゃない?」 「お前なぁ」  びっちょりと濡れそぼった白いスカートをぎゅっと絞って水分を捨てながら彼女は未だにやにやと笑っている馬岱とその傍にいる一頭の馬の元へと歩み寄る。 「くそ、麒麟の声だったのか。あぁ、もう!」  先ほど彼女を驚かせたのは、紫燕と同じようによく世話をしてやっている愛馬だった。 「うわっ……下着が気持ち悪いったらありゃしない」  他の箇所と同様に水分を吸収してぐっちょりとなった下着は密着度を増して股にぴったりと張り付いており、彼女はそれを不快に感じて思わず顔をしかめる。  馬岱がそんな様子を見ながらにししと笑うと、それに合わせて彼女の左後頭部で纏められた尻尾風の少し癖のある髪がふりふりと揺れる。 「まさか、お姉様があんなに驚くとは思わなかったよ」 「あのなぁ、耳元であんな風にされたら誰だって反応するに決まってるだろ!」 「いやぁ、図太いお姉様なら大丈夫かなって」 「んなわけあるか! つか、なんであたし即ち図太いになるんだよ」  太めの眉を吊り上げて表情を険しくさせながら馬岱を睨み付ける。 「え? 本気で言ってるの」  意外とばかりに馬岱はきょとんとした表情を浮かべる。 「しまいにはあたしも怒るぞ。蒲公英」  彼女の真名を呼びながら更に距離を詰める。それと同時に馬岱が一歩距離を置く。 「大人しく捕まっとけ……な? たーんーぽーぽー!」 「ひ、ひぃぃいい! お姉様、眼が怖い!」 「今日という今日は許さん! あたしも怒るときゃ怒るんだからな」 「そんなの、いつものことじゃん」 「なぁにぃ!」 「き、麒麟! お願い……に、逃げて!」 「あ、待てコラ! 紫燕、追うぞ!」  どこまでも広がる大地に映る二つの影、それはどこか似ていて何だかとても楽しそうに駆け回っている。  太陽はそんな穏やかな光景に満足したというように大地へと向かって早々と降りていく。  伸びる影、賑やかな声。  そこには、確かな平穏な一時があった。  それから二人はいつまでも走り続けんばかりに追いかけっこを続けていた。  しかし、馬術においても一日の長がある彼女に馬岱が勝てるはずもなく、見事捕まえることができた。  馬の足を緩めて二人は並行するようにゆっくりと馬蹄を進めていく。  制裁を加えられた馬岱は涙目になって片手で頭を抑えながら太めの眉を曇らせている。 「うぅ……たんこぶできちゃってないかな」 「ふん、自業自得だっつの」 「むぅ……お姉様ってばそんな野蛮なままじゃ、将来、貰い手が現れてくれないよ」 「なっ、べ、べべ別にどうでもいいよ。そんなもん、あたしはどうとも思わないね」 「……嘘ばっかり」 「もう一発いくか?」  拳をぐっと握りしめて馬岱へと突き出す。  馬岱はちぎれてしまいそうな程勢いよく首を左右へぶんぶんと振る。  気がつけば川に落ちて濡れた服もすっかり乾いていた。 「やれやれ……さ、日も暮れてきたし帰るぞ」 「はーい」  馬岱とともに馬を走らせるが、全身に浴びる風は不思議なことに先ほどまでの気持ち良さを感じさせてはくれなかった。 「なんだか……嫌な風だな」  妙に肌に纏わり付いてくるような不快感を催す風触りに眉を顰めつつ、彼女――馬超、字を孟起という――は遠く地平を見やる。  いつの間にか胸に沸き立ったざわめきが馬超の中で小さな波紋を起こし始めていた。