玄朝秘史  第三部 第二十五回  1.血  あっという間に景色が過ぎ去っていく。  動くことで生じる空気の動きが、膚をくすぐり、髪をばさばさと揺らす。  下から鞍を突き上げるような振動も、腿をこする毛皮も気にはならない。なぜなら、いま、彼はその黄白色の大きな馬体と一体となっているから。  地を蹴る力強い脚は、黄龍の脚であると同時に彼のものであり、駆け抜ける荒野はまさに彼ら二者のものであった。  だが、その踏破行も永遠には続かない。  馬上の男はちらと太陽を見上げ、それが南中しそうであることに気づいて、落胆の息を吐く。 「しかたない。戻るか」  手綱を引き、愛馬に方向転換の意思を伝えると、不満そうないななきが応じた。一刀はそれでも速度を落としてくれた乗騎の首を大きくなでてやる。 「わかってくれよ。俺だってもっと走りたいけどさ」  もう二、三度いなないて、しかたないというように黄龍は馬首を巡らし、洛陽への帰還の路に乗るのだった。  護衛の母衣衆を引き連れて宮城へ戻ってみると、門の前で一人の女性が待ち構えていた。 「遠乗りですか」  栗色の髪を揺らす女性は、一行を見上げ、黒の手袋で覆われた手の甲で眼鏡を押し上げながら冷たい声で言い放つ。 「このところ物騒なので、あまり都を出ないでいただきたいところなのですが。仕事の溜まり具合からしても」 「い、いや、ち、違うよ。ほら、稟が言ったとおり、物騒だろ? だから、郊外の見回りを兼ねて、母衣衆を訓練とか……その……さ」  一刀の声は言葉を連ねるにつれかすれ、曖昧になっていく。その様子を眺めていた稟は、小さく諦めたようにため息を吐いた。 「……まあ、いいです。ともかく、ついてきて……いえ、汗をかいていますね。風邪をひかれてはたまりません。まずは着替えに行きましょうか」 「あ、うん……」  てきぱきと言われ、黄龍を母衣衆に預けて、彼女の後に続くしかない一刀であった。 「わざわざ部屋に来なくても、用事があるなら汗を拭いてからすぐ行くけど?」 「いえ。どうせ私も行くのですから問題ありません」  彼の自室につくと、稟は部屋の中を真っ直ぐ進んで、棚から彼の肌着を取り出しはじめた。 「上も着替えます?」 「あー、そうしようかな」  上着の前を開いて軽く汗を拭っていた一刀は、迷いもせず服を取り出す彼女の行動を自然と受け流そうとして、ぎょっとしたように目を見開いた。 「って、なんで、稟が俺の着替えを出せちゃうの?」  その言葉に、稟は取り出した上着を掴みながら、ぎろり、と不愉快そうな視線を飛ばす。 「短い間ながら、あなたのめいどをしていたこと、もう忘れましたか?」 「いや、もちろん忘れたりなんかしないけど……。でも、そこまで観察する時間あったかな、と……」  たしかに稟は華琳の『罰』によって一刀のめいどを務めてはいたが、あくまでも仕事の合間であり、それほど長々と彼の世話をしていたわけではない。まさか、吊ってある上着はともかく、しまいこまれている肌着の場所まで掴んでいるとは。  だが、彼女は彼に服を渡しつつ、涼しい顔で言ってのける。 「全て把握していますよ。艶本の場所も、淫具の場所も」 「……え?」 「拘束具はこの棚の四段目から最下部まで、張り型は、そちらの机の下段、肛姦用は……」 「ストップ、ストップ、やめてーーーっ!」  的確に隠し場所を指さす稟に、一刀は思わず大きく手を振る。その慌てぶりに、意地悪い笑みを見せつつ、彼女は続ける。 「そう。どれも見せてもらいました。いずれも兇悪なことで……。肉の兇器だけでも十分に威力があるというのに様々な器具を開発するその貪欲さは見習うべきものかもしれませんね。それはともかく早く着替えて下さい。私はこちらにいますので」 「……はい」  言うだけ言って部屋の隅に移動し、壁の方を向いてしまう稟に、それ以上なにも言えず、男は着替え始める。おおよそ着替え終わり、あとは前を閉じるだけというところになって、彼は、ぶつぶつとなにか呟きが聞こえることに気づいた。 「貪欲……。そう、貪欲に一刀殿は……。あ、だめです、今日はそんなことをするために来たわけでは、い、いけません。そんな……」 「ちょ、ちょっと稟さん?」  明らかになにか別の世界を垣間見ている女性の声に、一刀は慌てて声をかける。 「ああ、そんな恥ずかしい姿を!? え、そ、それは? そんなものを体につけるだなんて、ありえません! だ、だいたい、それでは皆と風呂に入ることも出来なくなるではありませんか! あ、ああ、そうなのですね。この私の膚を己一人のものとしたいと、そう仰るのですね……」  だが、稟の声はまるで止まらない。それどころか呟きは普段の声の大きさになり、さらには嬌声に近いものへと変わっていく。 「いや、ちょっと待て。それ以上は……」  駆け寄ろうとする一刀。しかし、その手が彼女の肩にかかる前に、声に籠もる熱は頂点に達する。 「ええ、もう抵抗はできませんから、どうぞお好きなように……え? 穴は開けてやったから、自分で、つけろ? そ、そんな、私がその言葉に抗えないと知っていながら、そんな辱めを楽しまれて……ち、違います。責められて濡れてなんかいません。私、淫乱なんかじゃ……ぷーーーーーっ!」 「りーん!」  一刀の叫びに応じるように、真っ赤な鮮血が宙に散った。 「ず、ずみまでんでじた」  しばらく後、ようやくのように二人は稟の先導で廊下を歩いていた。途中、彼女が鼻につめた布を取り去るところからは視線を外す。 「いや、まあ……。それにしても、なんか久しぶりだったな」 「はあ。ついつい。やはり、性臭の籠もる貴殿のお部屋が……」 「籠もってない! 籠もってないよ!」  現状、稟のおかげで血臭溢れる部屋にはなっているのだが。 「まったく、どんな妄想をしていたんだか……」  内容を思い出させると、今度は廊下が鼻血まみれになることは確実なので、小声でしか言えない一刀であった。  そろそろ軌道修正するか、と彼は気になっていたことを訊ねてみる。 「ところで、話はずいぶん戻るんだけどさ」 「はい?」 「ほら、最近、物騒だって話。なんだって、またこんなに騒がしいんだろうな? 深刻なものはあんまりないみたいだけど」  稟はわずかに歩く速度を落とし、腕を組んで顎に手をあてる。 「華琳様がおられないのが一つの要因であることは確かですが、しかし……果たしてそれだけかというと疑問ではありますね。全国的に暴徒どもの動きが激しくなっているとの報もあります。まずは魏全体の引き締めをはかるべきでしょう」 「あんまりきつくしすぎてもなあ……。たしか、秦はそれで滅びたんじゃなかったっけ?」  実際の所、許攸のようなどうしようもない叛乱軍相手ならともかく、春蘭たちが兵を率いて鎮圧に出て行くだけで――下手をしたらそういう報が流れるだけで――逃げ散るような暴徒もいる。それらにまでまとめて厳しい圧力を加えるというのは逆に問題を大きくするような気がしてならない一刀であった。 「おや、博学な。まあ、たしかにそういうことになってはいますね。実際にはそれだけが原因とは言えませんが」  稟は遅くなっていた歩調を戻して、再び一刀の前を先導するように進む。 「秦の場合、なにしろはじめての大帝国ですからね。失敗も当然あったでしょう。しかし、それが滅亡を引き起こすほどのものであったかといえば、これは疑わしい」 「ふうん? じゃあ、なぜ滅びたの?」 「そうですね。端的に言えば、継承の不備ですか。始皇帝は制度を数多く作らせ、それを徹底させつつ、二代目への継承でしくじった。まあ、死後のことですから、彼だけを責めるわけにはいかないのですけれど。国を建てることはもとより、それを引き継ぐのは尋常なことではないということですね」  もちろん、これは稟の意見であり、秦の滅亡の全てを示すものではない。しかしながら、そこに込められた決意や覚悟は、一刀にも感じ取れた。 「次代、かあ」 「ええ、次の世代。それこそ阿喜たちの生きる世代に、私たちは繋ぐべく努力せねばなりません」 「うん」  彼女の言葉に力強く頷く男の姿に、鋭い視線が飛ぶ。底冷えのするようなその凝視に、彼は思わず身を震わせた。 「あ、あれ? 稟?」 「たしかに」奇妙な沈黙の後、彼女はゆっくりと言葉を押し出して「たしかに一刀殿は努力なさっておいでだ。次の世代を形作ることに。すばらしい。実にすばらしい」 「あの、稟さん? 言葉の内容と、言い方がまるであってないように聞こえるのですが……」 「さて?」  まるで意味がわからない、という風情で首を傾げられた。その仕草が妙にかわいらしく、彼は妙な悔しさを覚える。  さらに言葉を連ねようとしたところで、稟は向き直り足を止めた。その視線の向かう先に扉が一つあった。 「さあ、皆さんお待ちかねですよ」 「皆?」 「ええ、皆、が」  そう応じる稟の眼鏡がきらりと光り、彼女の表情を覆い隠した。  2.五軍師 「こりゃまた……えらく豪華な」  部屋の中で彼を待っていた四人の顔ぶれを見て、一刀は思わず声をあげた。稟がその四人と合流し、五対の視線が彼を刺す。  彼女達はゆるく弧を描く扇形の机に並んで着いていた。  中央にいるのはぴょこんと二つの耳のようなものが突き出る形の頭巾をかぶった女性――王佐の才、荀文若。  彼から見て桂花の左手には、棒付きの飴をくわえている茫洋とした表情の女性。桂花を挟んで右に座った稟と合わせて、魏の三軍師が中央に勢揃いしている。  さらに翡翠色の髪を編んだ一房をつまらなさそうに弄っている詠が右端にいて、左端には漆黒の仮面を被った女性が薄い笑みを浮かべていた。  荀文若、程仲徳、郭奉孝、賈文和、周公謹。  大陸でも指折りの頭脳が勢揃いだ。 「おにーさんの席はそこですよ」  風が飴で指さす先を見れば、扇形の机に正対するように、ぽつんと椅子が一つ置かれている。  机もなにもない。ただ、粗末な椅子だけが。 「ははっ。なんだか裁判の被告席みたいだな。いや、査問会とかそういうのかな?」  一刀の笑いを含んだ言葉に、誰一人同調する者はいない。冥琳の顔に浮かんでいた笑みまで消えるのを見て、彼は背筋を伸ばすと急いで椅子に腰掛けた。座ってみると、妙にがたつく作りであった。 「ええと、なにかな? さっきも稟と話題にしてたんだけど、最近の暴徒の……」 「それはまた今度。軍を――春蘭や秋蘭を交えて話し合う予定があるわ」  一刀の言葉を遮ってぴしゃりとはねつけるように言うのは桂花。いつもならこれに罵倒の一つも付随しているものだが、今日はそんな気配もない。 「あ、ああ、そう」  奇妙な沈黙。  一刀はその沈黙の中で、ぐんぐんと部屋の空気が張り詰めていくのを感じ取っていた。まるで戦闘でどちらが仕掛けるか、その機を計るかのような緊張感が満ちる中で、一刀は身じろぎすら出来ない。  その中で、口を開いたのは深い闇のような仮面をつけた女性だった。 「さて、まずは、縁の深い私が言うべきだろう。おめでとう。我が故郷の跡継ぎの御父上」 「え? あ、ああ……」  その奇妙な言い回しに一瞬意味が取れなかったが、一刀は冥琳の言葉を理解して、喜色を顔に浮かべる。彼女は蓮華の懐妊を祝ってくれたのだから。  その言葉が呼び水となったか、次々に軍師たちが口を開く。 「報せを持ってきた思春殿がとんぼ返りして、しばらく経ちますね」 「その間、風たちはおにーさんに、蓮華さんの懐妊についてのお話を一切しませんでしたよね?」 「個人的な話しかしていないというべきでしょうね」  風の問いかけと、詠の補足を聞いて、一刀は思い返してみる。 「ああ、うん。そういえば。さらっと祝われたくらい……かな?」  それぞれの形ではあるが、祝われた記憶はある。しかし、それ以上踏み込んだ話をした覚えはなかった。 「はっきり言って、これからの話は、一刀殿には不愉快な部分もあるでしょう。しかし、聞いていただかなければ困ります」 「あ、うん……」  柔らかで優しい気遣いを込めた稟の声に、かえって一刀はごくりと唾を飲む。 「わかった。ちゃんと聞くよ」 「じゃあ、言わせてもらうけど」  覚悟を決めてぐっと拳を握って答えたところで、桂花が音もなく立ち上がる。そして、かっと目を見開くと思い切り声を張り上げた。 「あんた、莫迦なの? 本気で何考えてるわけ?」 「……へ?」 「どうして! あんたは! そう無節操に! ぽんぽんぽんぽん孕ませるのよ!」  耳が痛くなるほどの怒声に、四人の軍師は揃って耳を押さえ、一刀はぽかんと口をあける。  桂花がぜーはーと荒い息を吐くのを繰り返す間に、他の者たちも呆れたように話し始める。 「おにーさんに女を抱くなとは言えませんけどねぇ……」 「そんなこと言いつけたら、こいつ死んじゃうわよ」 「たしかに。精液が溜まりすぎて木っ端微塵に破裂されても困りますからね」 「しないよ!」  無茶苦茶なことを言われて思わずつっこむが、そんな一刀たちをよそに、桂花は憤怒の表情をたたえたまま、再び部屋の空気を震わせる声を放った。 「桔梗たちでも綱渡りな状況なの! それが! 現役の女王! なんてことしでかしてくれるのよ!」  ああ、もうなにもかもこいつが悪いのよ。そうよ、そもそもなんで長い戦乱の間に一人も子供作らないで、いまになってどんどん種をばらまいてるのよ、とぎゃーぎゃーわめき続ける桂花の言葉を聞きつつ、一刀は確かめるように他の者たちの顔を見回す。 「ええと……。蓮華を、その身籠もらせたのが問題?」 「政治的な、問題だな」  冥琳が静かに答え、そして、桂花がついに核心を突いた。 「華琳様より先に、孫仲謀を孕ませるなんて!」 「あー……。そこなのか……」 「そうよ! この莫迦!」  なんとなく納得して、しかし、一刀は反論する。 「いや、でもな? 他はともかく、桂花は華琳に俺との子が出来たら……怒るんじゃないか?」 「当たり前じゃない! とっておきの罠でお仕置きしてやるわよ!」  びしっ、と指を突きつけて宣言し、その後で、桂花はすっと声を落とした。 「でもね。いま私が言っているのは政治的な問題なの。個人の感情なんて、あんたに当たって晴らせるけど、華琳様ご不在のいま、国を預かるこの荀文若は、そんなこと言っていられないの。それくらいわからない?」  恐ろしいほどに平板な声。冷徹な政治家の顔を見せる彼女の姿に、一刀は冷や汗を浮かべずにはいられなかった。 「ああ、うん。ごめん」  どすん、と桂花は音を立てて座りこむ。声をからして叫んで疲れたのか、用意された水を飲んでいた。 「はっきり言えば問題となるのは、長幼の序というやつだ」 「次代の魏王と呉王が兄弟姉妹となる。まあ、そこまではいいとしましてもー」 「呉が先、というのは……」  桂花の話を冥琳が引き取り、次いで風、稟と続く。 「もちろん、祭殿の策が成り、雪蓮と私が赤壁で魏を打ち破って大陸を制覇していたなら、その順でもよかった。しかし、いまの状況は異なる」 「ええと、もう生まれてる美以の子は? 南蛮の次の王は、確実に兄か姉になるけど……」 「現状、問題になる国力じゃないもの」  一刀の疑問は詠に切って捨てられた。 「つまりですねー。大陸の中でも一定の発言力がある呉の王が魏王の姉、あるいは兄であることが問題となるのですよー」 「……そういうものか」  たしかに、現時点においても、美以の発言がなにか大きな出来事を左右することはないであろうから、次代でそれが問題になることもないのだろう。 「片方だけとはいえ、血が繋がっているからこそ感情が生じ、軋轢を生み、こじれていく。骨肉の争いのほうが、赤の他人への恨みより、はるかに様々な因縁を生む」  淡々と冥琳が述べる。彼女もまた感情を殺して発言していた。喉を潤し終わったか、桂花がその後を継いだ。 「いい? あんたね、これはうちの問題だけじゃないのよ? 蓮華の身だって危うくなりかねないんだから」 「……え?」 「魏が呉の風下に立つのは許せない、そう思う一派がいないとは限りませんからねー」 「あるいは逆に、孫呉に一刀殿の血統が入ることを許せないと思う者が呉にいないとは限らない」 「まあ、そんなこともあって、思春は桂花達との会談をする時間もとらずさっさと戻ったのよね。本来の任務――蓮華の護衛に」  三人がそれぞれに説明してくれる言葉の調子は、そう重い物ではない。しかし、その響きと裏腹な深刻な内容が、一刀の背筋を冷たくする。 「なにしろ、本人を狙うまでもないものね。ちょっと蹴躓いてもらうだけでいいんだもの」 「っ!」  声にならぬ声。その爆発する憤りに冷水をぶっかけるように、詠の醒めた声が飛ぶ。 「莫迦」  常人なら向けられただけで逃げ出すような視線を、彼女は真っ向から受け止める。寸時、睨み合うような格好になった二人だったが、一刀のほうがふっと肩の力を抜いた。 「……すまん」  いたわるような、探るような視線が集まっていることに気づいたのだろう。彼は詠だけではなく、皆に頭を下げていた。 「私たちがそんなことをやると思ってるなら、おめでたさも頂点に達してると言っていいわね。いい? 私たちこそが蓮華の子の安全を最も案じていると言ってもいいのよ。あんたと蓮華本人を除いたらね」 「呉にとっては、蓮華さまのお体のほうが大事だ。無事お生まれになれば万々歳、もし万が一うまく行かずとも次が期待出来る。しかし、だ」 「現時点で蓮華さんとその子にもしものことがあった場合、我々こそが疑われるのですよー」 「ああ……」  これまで呉王の跡継ぎが先に生まれることの懸念を聞かされてきたために、一刀にもすぐにわかった。まだ生まれても来ていない我が子が、暗殺の対象になりうるという現実が、鉛のように重くのしかかってくる。 「血を分けた子供が政治的に利用されかねない状況は、一刀殿にとって憤懣やるかたない事態だとは思います。しかし、我らはそう考えざるを得ない」 「……わかっているさ」  小さく首を振る。なにかをはらいのけるような動作で気持ちを切り替えて、彼は天を仰いだ。 「しかし、そうか、参ったな……」  がしがしと頭をかき、もちろん妙案など出て来るわけもなく、彼は自分より遥かに頭の回る五人の顔を一つずつ見つめていく。 「俺は、どうすればいい? どう動くべきだ?」 「根本的な解決策は、ない」  闇色の面をつけた女性は短く、きっぱりと言い切った。 「子が産まれないのを望む者なんて、華琳様の部下にいるはずもないですしー。だからって、おにーさん。いますぐ華琳様を孕ませられますか?」  風の問いに、一刀は首を横に振るしかない。 「かといって、あんた以外の男を、華琳様が近づけるとも思えない。なんか腹立つけど、それは事実よ」  なにを思っているのか、がっくりと肩を落として桂花が言い。 「つまり、次代において呉王と魏王が片親とは言え血がつながり、呉王のほうが年かさであることは、ほぼ免れ得ない」  稟が静かに結論づけた。 「その中でボクたちが出来ることは限られている。きれい事に思えるかもしれないことを、地道にやっていくしかないでしょうね」  詠の言葉に、一刀はひゅう、と奇妙な息を吐き、そして、ぎりと奥歯を噛みしめた。 「魏と呉がそんなことでいがみあわないようにしておく……か」  彼が自分で吐いた言葉が腑に落ちるまでの間、誰もが黙っていた。  そして、魏の三軍師がそれぞれに口を開く。 「言葉で言うのは簡単ですが、並大抵のことではありません。おにーさんも、風達もやるべきことは山積みですねー」 「しかし、どちらの国にも血を残す、北郷一刀という存在の果たすべき役割は間違いなく大きい」 「今日はそれをあんたにはっきりわかってもらいたくて、みんなで集まったってわけ。子供が出来てのぼせあがってるのが醒めた頃にね」  ぎゅうと握りしめた両手を解きながら、一刀は言う。 「……ありがとう」と。  しばらく後、部屋には一つの影だけがあった。鬼の面を被る、一人の女性の姿が。 「解決策は、ある」  先ほど述べたことと真逆のことを、彼女は呟いた。 「だが……」  こつこつと指で机を叩きながら、彼女は疑問を口にする。 「そのために、いまの枠組みを、全て打ち壊すか?」  冥琳の疑問に、答える者はもちろんいない。 「いったい、誰がそんなことを望む?」  ただ、疑問だけが、部屋の中でじっとわだかまっていた。  3.袁長城 「おーっほっほっほ。おーっほっほっほっほ」  草原に響く高笑い。天から降るようなその声は、風とともにびっしりと生える草を揺らすかのよう。  もちろんその声の主は、黄金の髪を振り立てる袁家の主――麗羽。これもまた黄金の鎧に身を包んだ彼女は高くそびえ立つ壁の上に立ち、笑い声をあげていた。壁はかなりの長さまで続き、草原を横切っていたが、まだ建設中のようで、所々に足場が組まれているのがわかる。 「ほんまよう声続くわあ……」  呆れたように呟くのは同じく城壁の上に立つ作業着姿の女性。工兵の長にして、この城壁を作り上げた責任者、真桜だ。 「ふふん。当たり前ではありませんの。せっかくあなたがわたくしのためにこのように立派な城を建ててくださっているのですもの。労いの声くらい出るというものですわ」 「労いなんかい、それ。せやけど、あんたのための城やないからな、言うておくけど」  真桜の言葉の後半は、再度始まった笑いに遮られ、おそらく麗羽の耳には届いていない。そのことに妙な疲れを感じつつ、喜んでくれていることは受け入れておこうと思う真桜であった。 「あ、真桜さんに麗羽さま。こんなところに」  城壁の厚みの内側につくりつけられた会談から姿を現したおかっぱ頭の女性が二人に声をかける。その後ろには快活そうな短髪の女性もついてきていた。 「あら、斗詩さんに猪々子さん。いままでどちらに?」 「どちらに? じゃありませんよ、姫。あたいらに視察を全部押しつけておいて」 「あたいら……。文ちゃん、何かしたっけ……?」  不満そうに口をとがらせて抗議する猪々子と、それに対して本気で疑問に思ったようで小さく問いかける斗詩。  いつもの光景であった。 「酷いぞ、斗詩ー」 「はいはい。でも、ほんとに、ちゃんとお仕事してくれないと困るよ?」 「う……わかったよ」  にっこりと笑って猪々子の言葉を封じてから、斗詩はその顔を真桜のほうに向ける。 「真桜さん。ちょっと訊きたいんですけど」 「ん?」 「あの門の周りって、大げさすぎません?」  彼女が言っているのは、門の両側に大きく張り出した部分のことだろう。城壁より高くなってはいないもののまるで塔のように作られたその部分には、見張りのためか、あるいは防護のためか、いくつもの箱のようなものがせり出していた。一つ二つなら理解できるが、あまりに多いのは威圧的にすぎないだろうか、斗詩はそう心配していた。 「あれ? なんやたいちょから聞いてへんの」 「え?」 「あれ、見張り台とかそういうんやのうて、商店やで」  斗詩だけではなく、三人の興味の視線が集まるのに、真桜は少し気をよくしつつ説明を始める。  いわく、長城を拠点として利用したり、異民族に対する備えとして使ったりするだけではあまりにもったいない。なにより長城の内と外という境界を作ることにより、余計な対立を促しかねない。  そこで一刀と翠が知恵を絞ってひねり出したのが、長城を一種の交易所として機能させることだった。  商店としての機能を一通り持った箱と、倉庫として使える塔を作り、それを望む者に貸し出す。その箱を利用する商人は、利用料を支払う代わり、税金を減免されるという仕組みだ。 「必然的に人が集まる門周りにまずは配置しとるけど、うまくいくようなら壁面全体を利用する考えらしいわ。ま、それに対応できるよう設計しなおすんが大変やったけどな」  言いながら、真桜は照れたようにへへっと小さく笑う。 「たいちょの話やと、長城の内側を物が行き来して、外壁で交易がなされるのが理想らしいわ。まあ、そこまでうまく転がるかはわからんけどな。涼州のやり方っちゅうんもあるやろし」  へえ、と話に感心していた麗羽たち三人だったが、真桜が最後に肩をすくめるようにして言うのに、猪々子が大きく頷く。 「そうだなー。まずは涼州が鎮まらないとなー」 「そのあたりは大丈夫じゃないですかー?」  唐突にかかった柔らかな声に、猪々子は飛び上がる。声のした方を見れば、白基調のふわふわとした服に身を包んだ七乃の姿があった。色をあわせた大きな白い帽子もその頭にのっかっている。 「わ。七乃、どこから出てきたんだよ」 「どこからって、そこの階段からですよ。皆さんが話に夢中だっただけで」 「うむ。七乃の言う通りじゃ」  七乃が階段のほうを指さすのに、横の美羽が胸を張る。彼女は普段と同じ色合いながら、かなり短い丈の軽やかな印象の服を着ていた。見比べれば隣の七乃と対になるような印象がある。 「あら、美羽さん。ずいぶんかわいらしい格好して」 「舞台衣装じゃからのう」  早速美羽を抱きしめようとする麗羽と、それから逃げようとする美羽を横目で眺めながら、猪々子はにこにこと同じように主達のじゃれあいを見つめている七乃に問いかける。 「で、大丈夫って?」 「え?」 「だから、お前が言ったんだろ。大丈夫だって」  その言葉に、美羽の逃げ惑う姿を食い入るように見ていた七乃は、ああ、と手を打った。 「ほら、一応私も、前線の華雄さんとか、色々連絡を取ってるんですけど、いまのところ、進撃が止まってる様子もないのでー。それに進めば進むほど、あっちは客胡の援助も受けられるわけですからねえ」  その言葉を聞いて、斗詩と猪々子は納得したように頷き合う。 「まあ、あっちには、すごい面々が揃ってるからねえ……」 「錦馬超に呂布に孫策に黄蓋だもんな」 「ただ、まあ、あんまりにも遠くにおるからなあ。あっちでなんかあっても、こっちじゃなかなか即応できんのが悩みどころやなー」  じたばた暴れる美羽を、軽々抱きしめていた麗羽は、真桜が渋い顔で言うのに、艶やかに笑って見せた。 「あらあら。そのためにわたくしたちが参るのでしょう?」  北伐総大将である麗羽が、兵と物資を携えて涼州の前線へ赴く。将たちに対しては物資供給以上の意味はないだろうが、その場で戦っている兵たちの士気を上げる効果はある。なにより、遠く離れた都から援軍が来るというそのこと自体が、彼らを安心させるのだ。 「ま、そやけどな」 「大丈夫ですわよ。わたくしが前線に赴き、後ろには我が君が控えておられるのですもの。なにも心配ありませんわ」  麗羽が一つ高笑いを決めている隙に、美羽は姉の手から逃れ、七乃の後ろに回ってしまう。麗羽はそれ以上追いかけるつもりもないらしく、ぶるぶる震えて七乃の衣装の中に隠れようとしている美羽を愛おしげに見ていた。  美羽を一通りなだめてから、ふと七乃は小首を傾げる。 「あのー、麗羽さま。一つ訊いてもいいですかねー」 「はい?」 「前々から気になっていたんですけど、麗羽さまって、どうして、そこまで一刀さんに傾倒してるんです? 一刀さんを評価しないとかって意味じゃなくて、ですけど」 「どうして……」  問いかけられ、艶然と笑う。そのたおやかな指が首にはまった黒革の首輪に触れるのは、意識してのことなのかどうか。 「さて、どうしてですかしらねえ……?」  くすくす。  くすくす、と。  彼女は笑った。  まるで、太陽はなぜ毎日世界を照らすのかと問われたかのように。 「あの、七乃さん」  主がそれ以上答える気がないことを察した斗詩が口を挟む。七乃はいつも通りの笑みを口元にたたえたまま、視線を彼女のほうへ移す。 「私、思うんですけど、口に出来るような理由なんて、本当はあんまり意味のないことなんじゃないかな?」  言ってから、斗詩は顔を赤らめ、両手を前に出して大きく振った。 「あ、違う。昼間から口に出来ないとかそういう意味じゃないよ!?」 「いや、誰もそんなこと言ってないから」 「そんなん考えてるん、あんただけやで」 「うう……」  猪々子と真桜に同時につっこまれ、奇妙な声をあげる斗詩。 「ええと、その、ですから、たしかに、なにか契機となる出来事はあったかもしれませんし、一刀さんの行動だとか、考えだとか、そういうものがあるからこそだったり、麗羽さまの感覚のおかげかもしれません。でも、そのどれかってのは言えないんじゃないかなあ、って」  彼女はなんとか自分の中にある感覚を説明しようとしているのだろう。しかし、七乃にとってみれば、それはあまりうまく言葉になっているようには思えない。  だが、それでも。 「ま、いやらしとこも、真面目なとこも、かっこええんも悪いんも全部まとめて北郷一刀やからなあ」  真桜はそれを受け取っているようだった。 「うちなんかも、なんでたいちょについてくのかって言われたら、あの人やから、としか言われへんわ」 「ふぅん……」  低い声。  自分でも思っても見なかったほど真剣な声が出たことに、七乃は内心焦りを覚える。なにしろ、そんな真面目な話でもないはずなのだから。 「七乃はどうなのじゃ?」  まして、自分の腰にしがみついていた少女にそんな風に訊ねられるとは、意想外もすぎるというものだ。 「……え?」 「七乃とて一刀のことは好いておろ?」 「い、いえ、お嬢様。いまはそういうことを……」  先ほどまでの震えはどこへやら、けろっとした顔で美羽は七乃を見上げている。その純粋な信頼の意思が、いまはこそばゆい。 「そーだよなー。ちょくちょく閨で悪だくみしてんだろ? 知ってんだぞ、あたいー」 「へ? わ、悪だくみって人聞きわるいですねー」 「でも、そうだろ? アニキが小ずるい手使わないといけない時はお前か、あのめいど軍師に相談してんじゃん」  にやり、と猪々子は意地の悪い笑みを浮かべていた。まるで、いつも七乃がその唇に刻んでいるようなそれ。 「えーと、ああ、そうだ。報告書を書かないと。じゃ、失礼しますね。行きますよ、お嬢様〜」 「わ、こら、七乃。そう強く引っ張るでない。わぷ、七乃〜」  あからさまにうわずった声で、七乃は背を向け、美羽の手を引っ張って、あっという間に階段へと消えていく。そのあまりの素早い行動に、残された四人は虚を突かれたようになってしまった。 「なんやあれ」 「……ああいう人いますよね。自分が攻撃されるとえらく弱い人」 「あの腹黒ねーちゃんやったら、なんでも笑って受け流しそうなもんやけどなあ」  首をひねる作業着姿に、小さく斗詩は呟く。 「純情なんですよ」 「……そうかあ?」  心底疑わしそうに眉根に皺を寄せる真桜。 「魏の皆さんって、袁家に関わる人間のこと、ちょっと誤解しているところがありますよぉ」  そんな真桜の様子を見て、ぷうと不満げに頬を膨らませる斗詩であった。  4.芽吹 「んー、なんや騒がしな」  配下の千人隊一つを連れての見回りから戻ってきた霞は、まだ少し離れた陣の雰囲気を感じ取り、ぽつりと呟いた。隊を部下に任せ、手綱を握る手に力を込め、陣の中へと駆け込む。 「何ごとやっ」  彼女とその愛馬絶影の勢いに、せわしなく動いていた兵たちが退き、中央までの道が空く。そこにいた一人の女性が彼女の姿を認めて口を開いた。 「あ、霞さま」 「あれ、凪っち。どないした?」  霞は驚いたような顔つきになる。凪はこの北辺の地と、冀州の沙和、幽州の白蓮との間の物資や連絡の行き来が円滑に行くよう、各地で動いている。この陣にいるのは短期間だし、まして、予定のない訪問は珍しい。予定では、あと十日ほどは南部にいるはずだった。  馬を下り、膚に多くの傷を持つ女性へと近づいていく。二人の将の会話を邪魔しないようにとの配慮か、兵たちがさらに距離を取った。 「冀州からの輸送隊、幽州からの定期連絡の兵、共に襲撃を受けました。ここは兵を出すべきだろうと」  簡潔に要領を伝えるその報告に、霞はすっと目を細める。 「……すぐ出るんか?」 「いえ。まだ準備が出来ておりません。しかし、夕刻前には」 「そか。せやったら、少し話そか」 「はい」  二人は部下に指示をいくつか下してから将軍用の天幕へと移動した。天幕の中では地図が広げられ、凪が襲撃地点を指さす。その手甲が示す地点を見て、霞はゆっくりと首をなでる。 「ん……はぐれ鮮卑っちゅうわけやないな。この位置やと」 「烏桓の反抗勢力でもありません。おそらくただの賊でしょう」  実際に、白蓮の兵――白馬義従の一員――は簡単に撃退し、沙和からの輸送部隊は、多少の被害は出したものの、死者を出すことなく追い払うことが出来ている。それほど強力な襲撃者ではない。  しかし、実際には、その賊だけが問題というわけではなかった。 「……賊が軍の輜重を襲うか。いやな風潮やな」  霞が片目をつぶって苦々しく言うように、ただの賊が輜重隊とはいえ正規の軍を襲うことそのものが問題であった。それは、軍という強力な暴力装置が、うまく作動していないことを意味する。 「はい。ですから、ここは厳しくしないと、と」 「己の力量すら読めん賊が増えるとたまらんからな……」  力を見せつけることで退いてくれる相手ならばいい。しかし、力がないのに立ち向かってくる者はやっかいだ。全部を叩き潰すには労力が掛かりすぎる。ここは、出鼻をくじく意味でも、最初に徹底的にやってしまうべきだった。 「ん。うちの隊からも兵を出すわ。いくら欲しい?」 「五百」 「せやったら、それに加えて千人長一人。それでええか?」 「助かります」  伝言を部下に預けて用意させ、二人は再び地図の前に座る。今回だけではない、襲撃は散発的ながら、何度も起きていた。 「で、これ……どう見る?」 「関連は……まだないと思います」 「まだ……?」  凪の表現に、霞は片眉をはね上げる。 「白蓮さまからの書状に、こうありました。『黄巾と同じようなことが起きる可能性あり、注意せよ』と」 「黄巾、か……」  その言葉がもたらすものは大きい。黄巾の乱において霞と凪の立場は大きく違ったが、黄巾とぶつかった経験はそれぞれに重いものとして抱えている。再びそれが起きたとしたら、どんなことが生じるのかもわかっていた。 「動きが大きくなれば、連動し始めるっちゅうことやな?」 「おそらくは」  ふう、とため息を吐いたのはどちらだったか。  しばらくはお互いに黙考の時間が続き、地図を指でなぞっていた凪が確認するように顔をあげた。 「鮮卑のほうはいかがですか?」 「んー。明確にこっち来るやろって思える動きはあらへんな。こないだの決戦以来、仲間内で主導権争い絶賛開催中や。どっかが頭とるまでは、大きな動きはないやろ」 「大きくまとまることはないわけですね。しかし、統制がとれていないのも、それはそれで困ります」 「跳ねっ返りや、争いに負けたんが南下することはあるやろうからな」  それでこちらに降伏してくれるならありがたいところだが、そうはいかないだろう。いまは空になった元鮮卑の土地に入植した、内烏桓たちとの衝突など生じたら泥沼になりかねない。 「特にこちらが隙を見せれば、目端の利く者がすぐ動きますね」 「せや」  強く頷き、霞は卓の上の杯をとりかけ、しかし、それをじっと見つめてから卓上へ戻す。酒が恋しくなったのだろうが、いまはそれどころではないと判断したのだろう。 「せやから、うちはここを動けん。なにがあろうとも、や。つまらん役回りやで」 「正直何もないほうがありがたいのですが」 「そうも言うてられへんやろな」  沈んだ口調の凪に対して、霞は張り詰めた声で言う。その声に宿る力に、凪ははっと身を引き締めた。 「白馬長史の言うこと、間違いやないやろう。なんやよくないことが起ころうとしとる」 「……ですね」 「大戦(おおいくさ)か、それとも……」  天幕の中の二人には、いかに目を凝らしても暗鬱たる未来しか見えなかった。  所は変わって成都のほぼ真東、白帝城。かつて、新が漢より禅譲を受け、その後群雄が各地に割拠した折、巴蜀の地をその根拠地とした公孫述が建てたと言われる城だ。  白帝山に建てられたその城壁に、いま、一人の少女が立っていた。  夕刻の光に燃えるように輝くその赤毛は、首に巻いた長い布と同じ色をしている。その髪に虎を模した飾りをつけたその少女は、何ごとか考えているのか、城壁に顎をのせ、手に持った蛇矛をぶらぶらと揺らしながら、ぶつぶつと呟いていた。 「どうした鈴々」  背後からかかる声にも反応は鈍い。 「夕陽を眺めるなぞ、風雅な趣味がお前にあったか?」  からかうように言って横に並んだのは、黒の上着を羽織った少女と同じ蜀の将軍、魏文長こと焔耶だ。彼女はぶらぶら揺れる蛇矛をかいくぐって、鈴々の横に立ったのだ。 「んー。なんか、もやもやするのだ。夕焼けを眺めてると、なんか思い出しそうな気がするのだ」 「ふうん。そうか?」  こんなもの眺めていても、血しか思い出さんがな、と真っ赤に燃える空を見つめて焔耶は思う。特に、暗く紺に染まっていくあたりの黒く濁った朱色など、まさに血の色だ。あるいは敵がぶちまける臓物の色だ。 「焔耶」  同じように朱色に染まり行く風景を見つめている鈴々は、相変わらず顎を城壁にのせたまま、隣の将に問いかける。 「なんだ?」 「今日のやつら、おかしくなかった?」 「おかしいとは?」  焔耶は何を言っているのかわからず、しばし考える。  今日のやつらというのは、焔耶と鈴々が討伐に来た賊のことだろう。二千ほどと聞いたのだが、実際には三千を超す数がいて、二千五百程度しか兵を連れてきていなかった焔耶達は苦戦するものとばかり思っていた。  だが、戦いを始めてみれば、相手はろくに統制も取れず、中にはまともに武器の扱いを知らぬ者もいたようだった。鈴々と焔耶、二つの部隊に分かれて包囲しようと動いてみれば、それに対応することもできず右往左往して逃げ散ってしまった。これならば、最初からなにも考えずに突撃した方がよかったのではないかと考えてしまうくらいの手応えの無さである。 「まあ、弱いのは……弱かったな」 「うん。弱すぎるのだ。あんなので賊になるほうがおかしいのだ」 「たしかにな。去年が不作という話も聞かんし……」  民が凶作にもかかわらず重い税を課せられ、それが収められずに、やぶれかぶれで蜂起するという例はある。あるいは、他の土地でどうしようもなく流民となり、それが流れ流れて賊となるということもあるだろう。  しかし、重税を課すような治め方を蜀はしていないし、他の二国も苛烈な政をしているようなことはない。かえって流民を保護し、屯田させていることのほうが多いくらいだ。  なぜ彼らが寄り集まり、そして、どんな経緯で賊と化したのか。わからないことだらけであった。 「どんな理由で背いたかよくわからんのは、たしかにおかしいところだな。首謀者も逃げてしまったようだし……」  というよりも、首謀者がいたかどうかがよくわからない。捕らえた者は異常に口が堅く、少々乱暴な――鈍砕骨を目の前で振るような――訊ね方をしても口を割らないのだ。元々焔耶も鈴々も尋問が得意なほうではないから、あとは成都に送り、文官たちに任せるつもりであった。 「うん。なにかおかしいのだ。……こう……なにか、かみ合わないのだ……」 「ふうむ……」  鈴々の主張する『おかしさ』になにか思うところあったのか考え込む焔耶の髪が揺れる。その一部、白く色の抜けた箇所を眺めて鈴々は呟く。 「そういえば、眉を染めているのが多かったのだ」 「私の髪と一緒にするな」  思わずという感じで、両手で髪を押さえる焔耶。その様子がまるでほっかむりが落ちそうになっているのを押さえつけているかのように見え、鈴々は笑いかけた。  だが、次の瞬間、その笑みが凍りつく。 「思い出したのだ!」  少女は煌々と瞳を燃やして叫ぶ。  その鋭さ、その憤激よ。  それは、思わず焔耶に構えをとらせるほど、殺気に似た何かを発していた。 「やつら、黄巾と同じ匂いがするのだ!」  5.勅 「右翼後退。代わって左翼、前方に展開せよ!」  だだっぴろい練兵場に、張りのある声が響く。それに応じて完全武装の人の群れが整然とその隊伍を保ったまま駆け足で移動する。 「遅い! 死にたいのですか、あなたたちは!」  だが、声の主には彼らの動きは満足できないものであったらしい。鋭い声が飛び、兵たちの足が速まる。 「そうです。速く、そして乱れず動くのです。それこそがあなたたちを勝利へと導くなによりの武器なのですから!」  誇らしげな声。  兵たちの動きはいっそうきびきびとしたものになる。彼らは彼女の指示に従い、一糸乱れぬ部隊展開を続けていく。 「あれが郭奉孝の用兵か。美しいな」  まだ続く兵達の訓練を後に、洛陽郊外を連れだって宮城へ戻るのは、長い髪を後ろに一本揺らす美々しき武将と、豊かな体を雅やかに進める弓将。 「だが、美しすぎる。あれではよほどの兵でなくては機動についていくこともできまい」 「ふふ。愛紗ちゃんなら、あえて無理をさせて崩すといったところかしら?」 「そうだな。どんな部隊であろうと、弱い部分があり、練度の劣る者というものがいる。そこを基準に部隊は動かねばならん。あのように美しいが余裕のない動きであるならば……」  紫苑の問いにそこまで答えて、愛紗は小さく笑う。 「いかんな。せっかく訓練を見学させてもらったというのに、つい対したときのことを考えてしまう」 「それが武将の性というものでしょう。このわたくしも、稟ちゃん率いる兵と対陣した時どうしようかと考えたもの」  同じように困ったように笑う紫苑。訓練とはいえ他国の部隊の動きを見れば、自分ならどう当たるか、あるいはどう潰すかを考えてしまうのは軍の指揮官としては避けられない習性であろう。 「でも、稟ちゃんの訓練を見学できたのは幸運だったわね。魏では最近は凪ちゃんたちですら直に訓練にあたることは減ってきているのに」  このところの魏軍における訓練が、主要幹部勢の手を離れつつあるというのは事実である。親衛隊や工兵隊、水軍のような特殊な部隊はともかくとして、一般部隊の調練は、沙和を中心とした一団による『訓練者の養成組織』によって鍛え上げられた将校たちによって行われている。将軍による直々の訓練など、実戦間近の直衛部隊のみが受けるものとなりつつあるのだ。  ましてや三軍師の一角である稟が自ら練兵を行うなど、実に久しぶりの事態であった。 「幸運ではあるが、しかし、それも……」 「各地の暴徒達のせいよね」 「うむ」  稟が練兵に精を出しているのは理由がある。頻発する暴動、賊徒の発生に備え、よりいっそう、都の将兵の練度を上げ、士気を上げておく必要があるのだ。 「本国でも騒がしくなっていると聞く。歯がゆい話だ」  そして、それらの続発は魏だけではなく、大陸中――愛紗や紫苑の本来いるべき場所、蜀でも起きている出来事だ。彼女達としては本国で起きているそれらの騒乱の鎮圧にも、都周辺の賊の退治にも力を震えぬいまの状況が残念でならない。 「しかたないわ。桔梗や鈴々ちゃんがうまくやってくれているようだし……いまはこちらでやるべきことをすべきよ」 「たしかにそこはしかたないとわかっているのだが……」  忸怩たる思いで呟きながら、彼女は朱里からの書簡を思い出す。 「たしか、星が漢中に、桔梗が南方にいるのだったか」 「ええ。桃香さま、雛里ちゃん、鈴々ちゃんと焔耶ちゃんが成都ね。といっても、鈴々ちゃんたちはかなり東の荊州方面まで足を伸ばしているようだけど。幸いなのは、南蛮がしっかり治まっている事かしら。まるで動揺していないわ」  その台詞に、思わず愛紗は微笑む。 「美以の子が生まれて以来、何ヶ月もぶっ通しで宴会をしていたというからな。もう騒ぐ元気もあるまい」  二人は揃って、南方からの報告にあった風景を思い浮かべる。 『今日は大王しゃまのおこしゃまが生まれて、えっと……たくさんにちめにゃー!』 『にゃー!!』 『おいわいするにゃー!』 『おめでとにゃー!』 『めでたいにゃー!』 『おしゃけうまうまー』 『おにくおいしいにゃー!』 『大王しゃま、ばんざいにゃー』 『にゃー!』 『にょー!』 『にゃー!』 「ふふっ」  愛紗の顔が微妙にとろけているのを見逃さず、紫苑は微笑む。それに気づいたかどうか、彼女は咳払いして話を戻した。 「問題は荊州か。あの分割以来、体制が固まり切らぬうちにこの騒ぎだ」 「たしかに。呉からは穏さんが来ているらしいけど、それもお腹に子供が出来てしまったから、あまり無理をさせられないし……」 「それも北郷殿の胤だろう?」 「ええ、まあ、あの人だから……」  苦笑いする紫苑。それに対して、愛紗も苦笑で返していたが、比べてみれば、黒髪の女性のほうが少々その表情の辛辣さが上であった。 「……全く、兄弟姉妹が多くて大変なことだ」  それはともかくとしても、と彼女は向かう先の洛陽の都を見つめながら続けた。 「北伐の様子を見る限りは、良い判断をする男ではあるな」 「あらあら、高評価ね」 「ただし」  面白がるように笑う女性の声を断ち切るように遮って、彼女は言う。 「ただし?」 「あれでは華琳殿の代理にすぎん。いや、現状では華琳殿のだいぶ小粒な写しに過ぎない。そう観るが、どうだろう?」 「……否定はしづらいわね」  紫苑は口元に手を当て、表情を隠すようにしてそう答えるが、その様子を愛紗は見ていない。じっと、漢の帝都を見つめている。 「あれが、もし……」 「もし?」  二人はそこで会話を止める。遥か先、豆粒のようではあるが、彼女たちの視界にはしっかりと、とある人物の姿が入ってきていた。  しばらく歩いていると、あちらから近づいてきた青年が手をあげて挨拶してくる。二人はその場で歩みを止め、彼に気づいたことを示してみせる。 「やあ、二人とも」 「あら、噂をすれば影ですわね」 「え?」  足を止め、不思議そうに首を傾げるのは、紛れもない北郷一刀その人であった。 「いえ、少々噂をしていたものですから。一刀さんはどこまで家族を増やすのだろうと」  言われて、一刀は嬉しそうな、くすぐったそうな、照れくさそうな顔をする。 「あー、うん。大家族だよね。全員揃うのは難しいしね」 「名を覚えるのも大変では?」  それは、少々意地の悪い質問だった。愛紗のような倫理観からすると、さすがに彼は子供を作りすぎだという感覚があった。 「いや? そうでもないよ。みんな特徴あるし」 「……美以たちの子も?」 「ああ、もちろん」  さも当然のように言う一刀。問えば、すぐにそれぞれの特徴をしゃべり出しそうだ。いや、そうしたがっているような風情すらある。  その様子に愛紗は驚いたような顔をして、次いで柔らかな笑みを浮かべた。 「そろそろ璃々にも弟か妹が必要かしらねえ」  二人の様子を眺めていた紫苑が、意味ありげな流し目を一刀に飛ばす。その仕草になにを感じたのか、男は見るからにどぎまぎしはじめる。 「と、ところで、稟に用事があるんだけど、まだ練兵場かな?」 「ああ。まだいるはずですよ」 「ちょうど稟ちゃんの訓練の様子を見学してきたところですの」  二人が答えると、彼の顔はぱっと明るい笑みで彩られる。 「ああ、そうなんだ。ありがとうな。じゃあ、悪いけど、これで!」  言って、唐突に走り出す一刀。それに呆気にとられ、次いで顔を見合わせて笑った二人は、すぐに再び驚きの表情を作ることになる。  走り去ったと思っていた男が、急に回れ右をして戻ってきたのだ。 「あ、あのさ。雲長さん。もし、なにか困ったことがあったら、いつでも相談してくれよな」  急な方向転換で息を切らせながら、彼は話しかけてくる。その様子に、愛紗は内心首をひねっていた。さすがに外面にそれを表すことはしなかったけれど。 「はあ……。ありがたい話ですが、なぜ、いきなり?」 「いや。いきなりでもないんだけど、ここのところ、北伐や、暴徒の鎮圧で忙しくて、他がおろそかになっているような気がしてね。意識的にやらないとなって思って」 「わかりました。では、何ごとかありましたら」 「うん。よろしく。それじゃ!」  今度こそ走り去っていく彼の背中を見送りながら、二人は呆れたように会話を交わす。 「せわしいことで」 「ふふ。そうね」  だが、その声音が、ほんの少し温かなものを含んでいたのは、なぜだったろう。  紫苑と別れ、部屋に戻ってみると、卓の上には箱が山積みになっていた。 「また董承殿か」  何度も断っているし、送り返してもいるのだが、未だに賄いは贈られてくる。最近ではほとんどが董承自身の名前か、あるいは董承と誰かの連名となっている。もはや派閥の者を使って隠す気もなく近づこうとしているのだろう。 「全く、どうしたものやら……」  いまのところ実害はないし、なにか董承たちにはかってやれるようなこともない。贈られてくれば、しばらく後で返してやるだけのことだ。  実際には受け取るのも返すのも侍女に任せておけばいいのだが、律儀な愛紗は一応受け取った以上は、それぞれの物に目を通すことにしていた。もし、腐るような物があれば、早々に返すよう手配しなければいけない。  後に回しても面倒になるだけだ。愛紗は儀礼用の剣を外しただけで、それらの箱を調べ始めた。ほとんどが彼女にとってはどうでもいいような宝飾物や奇石の類で、せいぜい気をひいたのは珍しい書くらいのものだった。しかし、これも手元に欲しいと思うほどではない。望むなら、華琳あたりに頼めばいくつも似たような品を見せてくれるはずだ。  ただ、一つだけ愛紗の注意を惹いた物があった。  それは、大ぶりな短刀、あるいは小ぶりな刀で、美しい彫刻が施され、さらにそこに絹があしらわれた鞘に包まれていた。刀身を引き出す前から、鞘と柄の作りからしてかなりの手が掛かっていることがうかがい知れた。 「ふむ……」  短い剣だが、儀礼用にはいいのかもしれないな、などと思いながら、愛紗はそれを抜いてみる。思った通り重厚な刀身が現れる。しかし抜き放った途端、ぷつり、と巻かれた絹が切れて垂れ下がる。 「しまった!」  急いで刀を脇に置き、鞘から垂れ下がった絹を手に取る。なんとか修復できるだろうか、と観察した時、そこにあるものを認めて、愛紗の喉が小さく鳴った。 「なんだ……これは……」  そこには、間違いない、『勅』の一文字が記されていた。  書式もなにもあったものではない、ただ、一文字と一文が記された絹。  だが、そこにはもう一つ、見逃せないものが描き出されていた。  すなわち、璽の印影が。  震える手で、彼女はその絹の一巻きを鞘から外す。  記される言葉はわずか。  しかし、けして無視することの出来ぬ、その文言。  すなわち――。  姦賊北郷一刀、討ち果たすべし      (玄朝秘史 第三部第二十五回 終/第二十六回に続く)