「無じる真√N55」  彼女が郭嘉を叱咤してからそう間もなくして、曹操の求めに応じた郭嘉は即座にその智謀の限りを使用して策を編み出してみせようと思案を巡らせ始めた。  曹操が黙って答えを待つ中、郭嘉は顎に手を添えて神妙な面持ちで口を開く。  場は知らぬ間に沈黙に包まれていた……まるで彼女の言葉を邪魔しないようにするかのように。  その中で郭嘉の声だけ一段と大きく聞こえるような気がする。 「張繍はやっきになって華琳さまを追撃していると聞きました。つまりは――」 「この曹孟徳の頸が目的、か」 「そうなるかと。そして、それを鑑みるに導き出す案は……その」  口ごもる郭嘉。彼女が何を言おうとしているのか曹操には察しが付く。  曹操は揺らぐことない強き目力が籠もった瞳で郭嘉を捉えたまま淡々と口を動かしていく。 「構わないわ。この曹操が餌となりましょう」 「か、華琳さま!?」  夏侯惇がぎょっと右眼を一際大きくして問うように曹操へと視線を投げかけてくる。  これまでの沈黙が嘘のように辺りにざわめきが起こり始める。風にたなびく木々のように徐々にそれは広がり範囲は善太へと行き届き、森のようにそこかしこで揺れ始める。  曹操はそれを無視して郭嘉との会話に集中する。 「張繍にとって、とある理由からこの曹操の頸を一番に求めている。いや、むしろ、この頸のみが目的だといっても過言ではないでしょうね。そこまで思考が辿り着いたからこそ策を口にすることに躊躇いが生じたのではなくて?」 「仰るとおり。ですが、間違いなく危険の伴うこと。まさに排水の体をなします。よろしいので?」 「稟。私は誰?」 「は?」 「私は一体何者? 言ってみなさい」  落ち着いた声でそう告げると曹操はすうっと天へと瞳を向ける。  この大陸に生きる人々すらも圧倒する星々が見せる命の煌めきが明け方特有の青み混じりの空にうっすらとだがまだ見えている。特に強い輝きほどまだその姿を視認することができる。その中でも一際激しい輝きを見せる星を曹操の瞳が捉えるのを見計らったかのように郭嘉が答える。 「覇王……覇王、曹孟徳!」  瞼をゆっくりと下ろしていく……僅かな沈黙。  瞼の裏に先程の輝きを描くことに成功したところで頷くようにして再び瞳を開き郭嘉の顔を見据える。 「ならば、この覇王が辿る道……そう、覇道をとことん突き進みましょう。もし、ここで討たれるのならばそれもまた天命、覇道など初めから無かったというだけのこと。だが、切り抜けることができたならば、その時こそ我が道は未来へ向けて真っ直ぐに続いていることになる。そして、その上を突き進むことに対する憂いもなくなるわ」 「……それが貴殿のお答えか?」  徐々に郭嘉の表情が、放つ気迫が、曹操が仕えることを許した軍師たるものへと戻っていく。己の失態を悔いていた彼女はもういない。 「郭嘉! 曹操の覇道を支える一人としての自覚あるならば覇王自身すらも駒の一つとして有用に捌ききってみせよ!」 「は!」  軍令を取る郭嘉の瞳に曇りはもうない……迷いは吹っ切れたのだろう。  曹操は考えていた。郭嘉の責任感の強さこそが彼女自身を追いやるのではないかと。  自らに課した重責に郭嘉本人と他の要因とによる責任の割合など関係ない。全ての結果は自らの不甲斐なさが導いたもの……今回の件にしてもそう思い込んでいる。  だが、それももう関係なくなった。 「稟、すぐに全軍に指示を。追撃してくる張繍に対してどうすべきか、策を見せてみよ」 「御意」  少し前の彼女と比べて数倍も芯の通った瞳。揺るぎない意志によってよく通る声。 (軍師郭嘉……ようやく復活といったところか。本当に貴女は色々と楽しませてくれるわね、稟)  更なる算段を立てている郭嘉に視線を向けつつ曹操は内なる感情は表に出さず締まった顔のまま全軍を見やる。  思案を巡らす郭嘉の結論に関しては既におおよその見当が付いている。故に先に自分のすべきことをこなしていく。  曹操が既に万全の状態になった頃、郭嘉が全体に指示を出していく。何とかまとめ上げた策を授けているのだろう。  説明が終わったのを視認すると、曹操は全体へ向けて言い放つ。 「よいか! これより先、刹那ほどの余裕すらない。遅れを取る者は容赦なく斬り捨てる。覚悟を決めよ!」  その声に怒号が帰ってくる。  曹操はそれに満足する出もなくただ淡々と馬を進むべき方向へと向けて駆け出させる。 「この曹操を信ずるならば後に続け!」 「御意!」  夏侯惇の返答を皮切りに後続の兵たちから威勢の良い声が返ってくる。  そうして、曹操らは天の定めた試練に打ち勝つべく作戦を開始していく。  †  淯水も通常とは異なる箇所を利用して何とか渡河することに成功し、曹操軍は切り開かれた大地を延々と進み、ついには堵陽へと差し掛かっていた。  休憩も挟みながらの行軍故に、既に日は頂点を超えていた。  滴る汗を拭いながら曹操は目の前に聳えるそれを瞳に捉える。日中でありながらも不気味なほどに静まりかえっている堵陽の居城。  明らかにただ事ではない雰囲気が漂っている。 「恐らくは、既に張繍から何らかの接触が図られたはず。静まりかえって息を潜めているから逆に違和感を覚えるわね」 「そうですか? わたしにはよくわかりませんが……」 「……これより、堵陽には一切立ち寄らず、敢えて近くを全速で駆け抜ける! いいわね?」 「御意!」  夏侯惇は返答を終えると、即座に自分が率いてる僅かな兵へと指令を飛ばしていく。  隊列が軽快に動く。  互いの動きが邪魔になることなく円滑に配置変更が進む。  先へと突き進むことを何より重視した隊列を組んでいく。 「おそらく、追っ手は増殖するはずよ。よって、堵陽は捨てる。油断せず、前へ向かう!」  曹操はそう言い放つと全軍を疾く駆けさせる。そうして、堵陽付近を通り過ぎようとするとき、城内から慌てるようにして多数の兵士が飛び出してくる。 (やはり、中で入城するのを待っていたのね)  城内から現れた兵士たちは僅かに距離を取って移動していた曹操たちへと向かって馬蹄の音を響かせながら迷いなく駆けてくる。 「全軍、急げ!」  曹操は更に速度を速めていく。それに連鎖するように軍全体の動きもまた流速のごとく疾駆していく。  広報に迫る張繍軍に堵陽から現れた軍が次々と合流していく。  その様子を見つつ、曹操はずっと考えていたことに対する確信を得ていた。 「やはり、全力でこの曹孟徳を追うか……間違いないようね」 「はい?」  夏侯惇が一つだけの瞳で曹操を見る。曹操はそれに応えることなくすぐに前のみに集中する。 「なんでもないわ。今は、ひたすらに駆けに駆けるのよ」 「は、はい!」  その会話を最後に互いに無言となり、全力で風を斬っていく。  曹操の中に迷いはない。郭嘉を信じ、己の天命を信ずるが故に揺らぎはない。 (そう、稟の予想はこの私と寸分の違いもない……ならば、それは確実なる解と言って差し支えないはず)  明け方頃に交わした曹操の脳裏に郭嘉との話が一陣の風のように過ぎる。  頭の中で今一度振り返り、張繍の狙いとその理由を胸の中で反芻し、曹操は先を急ぐ。  それから堵陽を抜け、更に十里以上走り続けるが未だ張繍軍は振りきれていない。  いや、振りきらないままここまできたのだ。  わざと行軍を遅くしたりしては突き放したりと動きを複雑にして敵軍との距離を調節し続けていた。  そうしている内に日も徐々に降下していき、辺りは徐々に赤みを増した陽光に照らされ始める。そんな中、曹操は身体を捻り僅かに後方を振り返る。  堵陽で合流した兵と張繍が宛から率いてきた兵が一つの大軍となって追い寄せてくる。ただ、そこに張繍の姿は見受けられない。 「もう少し煽るべきかしらね……春蘭、先導は貴女に任せるわ」 「え? 華琳さま?」  急な命令に眼を白黒させている夏侯惇から目をそらすと、曹操は馬の速度を緩めて一気に後方へと下がっていく。  最後尾まで下がると曹操は馬上で上体を捻ったまま背に迫る張繍軍を鋭い目つきで睨み付ける。  先程よりは大分張繍軍の全貌を見渡すことができるのを確認すると、曹操は思いきり息を吸い込み、腹に力を込めて声を出す。 「張繍よ! 曹孟徳はここにある! この頸欲しくば全力を尽くすことだ!」  狙う対象である曹操の宣言に対して張繍は反応しないわけにもいかないはずである。  そんな彼女の思惑通りに張繍は兵士の合間を縫って張繍が姿を現す。武名を誇るだけはあって、臣下に対して勇猛さを見せつけないわけにはいかないのだろう。  曹操はそれを視認するやいなや、にやりと口元を愉快そうに吊り上げて馬の腹を蹴り先頭の夏侯惇及び率いられている全軍に遅れることのないよう速度を上げていく。  尚も距離を詰めようと駆ける張繍軍、追い縋ってくる彼の軍に捕捉されれば勝負は一瞬のうちに決してしまうだろう。 「さあ、後は貴様らの気力次第だ! ついてこられぬものには文字通り死が待っていると思え!」  夏侯惇の激励が響き渡り、曹操軍の兵士たちの表情はどれも一層深く必死な様相を呈している。いまや誰一人として気を抜いている者はいないだろう。 (よし、みな全身全霊で食らいついてきているわね……これでいい)  宛城より休憩を挟むのもほどほどに駆けてきた故に表出し始めていた兵たちの疲労が夏侯惇の言葉によって薄らいでいる。  曹操はちらりと再度背後の方を見やる。  張繍軍が躍起になって追撃に駆り立てられている。  飛び交う怒号、荒々しい馬蹄からは何が何でも曹操を討ち取らなくてはならないという強烈な意思が伝わってくる。その強大な共通意識はいつしか張繍軍を一つの生き物へと変貌させている。  ここまでくればもう疑う余地はない。間違いなく、目的は曹操の頸ただ一つ。 「全速で駆けろ! 助かりたくば襄城までもたせてみせよ!」  曹操は敢えて張繍に聞こえるくらいに声を張り上げて全軍へと号令を飛ばす。  彼女の背を叩き続ける多数の馬蹄が力強さを増していく。  それを快絶そうに聞きながら曹操はすっと息を静かに吸い込む。 「さて、張繍の執念が勝るか……我が覇道がそれをうち破って突き進むのか。楽しみで仕方がないわね」  張繍が今回の一件に全力を注ぎ、自らの頸に対して執着し続けているのを肌で感じる曹操の呟きはささやか程度の彼女の巻き髪をなぜる風によって空へと舞い上がっていった。  †  宛城の守備に残った張繍軍の兵たちが彼女の率いる軍が洗われた事に対して驚愕しているのが城壁下からでも雰囲気でわかる。  その様子を僅かに離れた所から見上げつつ、彼女は運命の夜に起こった出来事について自分なりに整理をつけていた。  張繍が中心となり決起した謀反。  それに適したのは、曹操が臣下の動きを完全に把握していない初日しかなかったといえるだろう。  典韋が時折、食堂の手伝いにかり出され城郭へと出るのを彼らは知っていた。何しろ、曹操本人が訪れるまでの間幾日もの期間があった。 「まさに、計画通りということですか」  曹操が無類の女好きであることも有名なことである。 (恐らくは、人の良い流琉が困窮者を見ると自ずと助けてしまうこと、そんな彼女を妹や娘のように兵たちが見ていることもまた既に調べ上げることは造作もないはず。それも華琳さまの尊来までの間なら十分に満足いくまで行えたのは疑う余地もない)  そして、張繍たちは備えたのだ。たった一度の好機が訪れるその刻を。そして、現在もその絶好の機会をものにするため全力で曹操を狙っている。 「裏でそのようなことが起きていると察知も出来ないとは、本当に私は頓痴気すぎる。いや、今はそれよりもすべきことを成さねば」  意気込むと、郭嘉は改めて戦況を確認する。 「予想通り、守備の敵兵は僅か。敵本隊は我が軍の本隊を追って合流することはほぼ不可能。つまり、敵の援軍は無し、かといって緩戦でいくわけにはいきませんね。幸い敵は援軍が望めないことを知りません。よってこの場合は速戦が適切と判断。仕掛けます」 「御意」  郭嘉の言葉に従い兵たちが駆けていく。  幸い、許緒が率いてきた兵がいたため曹操と郭嘉とで分け、それを今も指揮している。  許緒軍の装備は充実していた。 「ただ……攻城用の兵器も重装隊もここには無い。それが今の我が軍の痛点か。大木を用意させることが可能だったとして、どうすれば」 「稟さん、それでは私も行ってきますね」 「はっ!? 流琉、待ちなさい」 「はい? 何でしょう……?」  慌てて呼び止めた郭嘉を不思議そうに見つめる典韋。  郭嘉は咳払いをすると、眼鏡の縁に触れながら典韋へ質問をする。 「貴女は確か、季衣に劣らぬ怪力でしたね」 「その言われ方はちょっと嫌ですけど、まあ、力は季衣と同じくらいだと思います」 「そうですか……ふむ。流琉、貴女は一隊を率いてください」 「え? わかりました」 「ただし、編成は流琉以外には盾を所持させます」 「盾……ですか?」 「そう、流琉には攻城兵器の代理をして貰うのですよ」 「ええ!?」 「大丈夫です。丸太を仕入れさせているところですから貴女はそれを持って城門を突けば良いのです」 「そ、それじゃあ、他の方が盾というのは……」 「ええ、貴女の守護ですよ。この攻城戦、兵器のないこちらが速戦を仕掛けるには流琉の力が必要ですからね。いま最も重要な戦力なのですよ、貴女は」 「……わかりました。力の限り当たってみます!」  自分でも無理なことを言っているのは郭嘉にもわかる。数十人の兵が集まっても城門をうち破るのにはそれなりに時間が掛かる。  そんな原始的な武器を一人で扱えなど正直無茶な注文だろう……それも小柄な少女に託そうとしているのだからその度合いは半端無いといえる。  それでも今考え得るのはそれしかない、そう自分に言い聞かせると郭嘉は真剣な眼差しで典韋を見る。 「では、隊の編成はこちらで行いますので流琉はそれまでに準備を」 「わかりました」  活き活きとした返事を残して典韋が郭嘉の元を後にする。  それからすぐに郭嘉は城門をうち破るための隊に関してまとめ上げていく。  隊の編成が完了したのと同時に兵が彼女の元へ駆けてくる。 「郭嘉さま、お申し付けになった大木。運び終えました」 「ご苦労様です。では、典韋将軍への伝令を頼みます」 「は!」  郭嘉は隊の編成に関する話を兵に託すと、今度は別に準備が行われている隊へと向かう。  弓兵、弩兵を掻き集めた部隊。何時でも出撃可能な彼らの前で足を止めると、軽く咳払いをする。 「良いですか、これより城門へ向けて突撃があります。ここにいる弓弩隊は城壁上の兵に攻撃を仕掛け注意を引いてください。できるだけ突撃部隊に矢が降り注ぐことのないよう尽力願います」 「応!」  兵士たちの返事に頷くと郭嘉は弓弩隊に配置を指定し、向かわせる。 「流琉、いけますか?」 「はい、いつでも」  典韋の方もどうやら準備を終えたらしく何時でも出撃可能のようだ。 「頼みますよ。この一戦、いや……曹操軍、それどころか華琳さまの命運すら貴女に掛かっているといっても過言ではありません。必ずや」 「うち破って見せます」 「その意気でお願いしますよ」  郭嘉はそう告げると深呼吸して兵士たちを見渡す。 「現在、宛に残存している兵はおそらく千にも満たないものです。こちらはその倍以上おり、戦力はこちらが上、また唐突な我々の出現によって敵は混乱し、士気は擦れた木も同然! ここが正念場です。全軍死力を尽くしてください!」 「うぉぉぉぉおおおお!」  鬨の声にあたりが包まれ郭嘉はついに全軍へ出撃を命じ、攻城戦は開始された。  †  駆け続け、ついに曹操軍は襄城郡へと到着していた。居城まで後数十里というところだろう。  淯水を出た時から変わらず未だ兵数は百三十。  追われ続けながらも曹操は考えていた。  後続すれすれまで追いつき今にも噛みついてきそうな張繍が一体どの時点からこの〝好機〟を待ち続けていたのかということを。  曹操の中ではある仮説が既に出来上がりその解まで自分なりに辿り着いている。だが、その根本である時機についてはまだ結論に至ってなかった。  ――自分が訪問することが決まってから?  ――違う。  ――春蘭らに攻めさせた頃?  ――それも違う。  ――恐らくは……。 「華琳さま、襄城の影が僅かに見えてきました!」  夏侯惇の言葉に曹操は思考を打ち切り、息を深く吸い胸を反らして声を張り上げる。 「まだ数里はある……が、全軍、左右に展開、しかる後、転進! 張繍を出し抜く!」 「は!」  曹操の号令に従い、兵たちが一斉に馬を反転させ曹操軍は進行方向をこれまでと真逆に変更する。  どの陣形を取るかは既に伝えてある。もちろん、それもまた郭嘉の出した策の一部でしかない。  張繍軍が距離を詰める間に鋒矢の陣へと形を変えた曹操軍。  鐘を鳴らして突っ込んでこようとしていた張繍軍の動きが急な変化に動揺し僅かに揺らぐ。陣形も何も考えずに追撃してきていた張繍らが突如陣形を固めた曹操軍に仰天したのは間違いないだろう。  現に張繍が慌てて停止の号令を掛けている。  もちろん、急に止まれるわけもなく張繍軍の兵士たちは折り重なるように順々に馬上でつんのめっていく。そうして鈍くなる動きによる隙を曹操軍が見逃すはずもない。  夏侯惇が空気を切り裂かんばかりに鋭くどこまでも突き抜けるような声で全軍へと呼号する。 「敵は動揺して身動きが取れなくなっている。今こそ好機! 突破するぞ! だが、過信はするな!」  それを合図に曹操軍は、混乱して身動きが取れなくなっている張繍軍の両脇を抜けようと大喊しながら駆け出していく。  元々最後部にいた曹操は先頭を駆けるが、その際に張繍軍の鈍才ぶりに思わず笑みを浮かべてしまう……はずもなく、冷めた視線で殴りつけた。  そんな彼女の隣で先程の組んだ陣形によって前衛と移動していた夏侯惇が並走する。  曹操軍の動きに示し合わせるように張繍軍の後衛から叫び声が上がる。 「な、何だ!」 「うわっ、曹操軍の一隊だ!」 「どうなってんだー」 「どうして、こんなところにいるんだぁ!」  唐突に現れた曹操軍の別働隊に張繍軍の混乱が更に増していく。  それは、淯水から本隊とは別の道取りで動いていた数百程度の隊である。  ほんの数百とはいえ、急な出現によって敵の混乱を誘発するのには十分すぎる数だった。 「敵軍は見事、策にはまった。全軍、気兼ねなく駆け抜けよ!」  そう告げると曹操は一際抜きん出るようにして先陣を駆けていく。 「皆、華琳さまに続けぇ!」  夏侯惇も遅れずに曹操についてきている。  隻眼の将、夏侯惇を先頭に精鋭部隊が敵の前衛を突き崩し真っ二つに裂いていく。  張繍軍から悲鳴がいくつも上がっていく。 「どけい! せやぁ!」  夏侯惇の七星餓狼が、舞い紅い霧が空気に混じる。  曹操自身も絶で敵の頸を撥ねる。  一瞬、張繍の顔が見えた気がしたが曹操は無視して前進を続ける。  瞬く間に曹操軍は張繍軍の中を通り抜け、反対側へと出ることに成功していた。 「よくぞ、やってくれた。このまま堵陽まで戻る!」  そう言うと曹操は夏侯惇に並び先頭を駆けていく。  曹操の頸を望むばかりに張繍は堵陽からも多くの兵を引き出してしまっていた。欲に囚われ戦の本質を見失った故の失敗といえる。  そして、それはつまり……、 「堵陽はがら空き……愚かなり、張繍!」  その叫びは風に乗り張繍の元へ届いたようだ。張繍軍は混乱もそのままに強引に方向転換して曹操を追撃しようと無理のある動きをしだしている。  それに比べて、少数の曹操軍は一つとなって動くことに関しては何ら問題なく行うことが可能である。 「背後の張繍は亀。相手にせず、我らは疾く駆ける」  その声と共に曹操軍はここに来るまでに通ってきた道を逆走し始めた。西へ傾いた太陽によって紅く染められながら彼女たちは一刻を争うように馬を走らせる。  †  宛城攻略戦は彼女の予想通り、敵兵の抵抗はそれほどまでに激しいものではなかった。  城壁にいる敵兵の数もさほど多くはない。  本来なら豪雨のごとき矢も小雨から通常の雨程度である。  また、彼女の場合、自分を護る者たちがいる故に不安は少ない。 「せぇぇぇええのっ!」  大呼しながら丸太を目標へと衝突させる。一撃与える度に軋むような音はするのだがやはりなかなか打ち破れない。大量に吹き出る汗と全速力で何度も掛けることによる逆風で彼女の若緑色の前髪は髪留めから抜けて額を覆い始めている。 「はぁ……はぁ、しぶとい」 「典韋将軍、大丈夫ですか?」 「ええ。まだいけます。いえ、やらなくちゃいけないんです!」  普段の彼女に似つかわしくない稟とした声で応えると典韋は再度後ろへ下がり思い切り大地を蹴り出す。 「でやぁぁぁぁぁぁあああ!」 (私のせいで春蘭さまは……眼を)  轟音がするが、城門は未だ壊れず。  再度身を引き、大きく深呼吸して駆け出す。 「はぁぁぁあああ!」 (華琳さま……稟さん……季衣)  迷惑を掛けた仲間たちに対する謝罪の気持ちを込めて全力でぶつかっていく。  轟然たる大音響。  城門が一際大きく揺れる。 「あ、あと少し……なのかな?」  汗を拭いながら典韋は城門と距離を取る。  周囲でざくっという盾に矢が突き刺さる音がする。皆、典韋を護るためにいてくれるのだ、中には一本や二本は身体に突き刺さっている者もいる。  その者たちのためにもうち破りたい……そう願う彼女の掌を覆う手袋も既にボロ布とかし、所々が赤く汚れている。 「今度こそ……今度こそ……」  譫言のように典韋は何度も呟く。  守備兵が心配そうな眼で自分を見ているのがわかる。それがまたいたたまれない。  何が何でもと気合いと力を込めて典韋が城門へ向かって踏み出そうとした瞬間、 「城門が……開いた?」  予想外のことに典韋は足を止めて呆然とその光景を眺めていた。  ゆっくりとしかし着実に開かれる門。  倒れている門兵たち。  現れる複数の人影。 「何が……どうなってるの?」  未だ矢が降り注ぐ中、典韋は唖然としたままあんぐりと開口して突っ立つことしかできなった。  †  城門から降り注ぐ矢を見ながらも冷静に指示は飛ばす。それが軍師たる彼女に求められていること。  もっとも、矢に関しては敵兵の数に比例するように脅威度も損害も少なかったり軽度なものであったりという様子である。  郭嘉の指揮する二千五百の兵の多くを弓弩兵として城壁の敵とやり合わせているおかげか典韋の方は余り影響を受けることなく攻撃を行えているようだ。 「……あと少しといったところですかね」  眼鏡をくいと差し指で上げながら城壁の敵を見やる。  宛城が再度陥落する状態まであと僅かといったところというのが郭嘉の予測。  城門を護る門兵自体もそれほど人数を避けていないはずである。 「む? 何やら城門の方が騒がしい……?」  目を懲らしてみると城門が開かれていく。そう、うち破ったのではなく開いているのだ。 「あれは、一体?」 「あ、あれを!」 「どうしました?」 「じょ、城壁をご覧ください!」  促されて見上げてみれば城壁上にいた敵兵の多くが這いつくばらされている。  そこにはどう見ても兵士ではなく、厨師や職人、商人など明らかに一般の民衆が群れを成していた。  どうやら彼らが押さえ込んだらしい。流石に兵士といえども急襲されたうえ相手が数人では形無しだったようだ。 「何が起こっているというのか?」  ずれ落ちる眼鏡を正しながら郭嘉は眉を顰める。 「何にせよ、一度流琉と合流すべきかもしれませんね」  そう呟くと郭嘉は護衛の兵士と共に前線へと向かい典韋と合流を計る。 「急に静寂が訪れるというのもなんというか、据わりが良くないというかなんというか……」  不気味なほどにぴたりと矢の雨が止んだ戦場を歩く郭嘉。歩行に支障を来すことも特になく城門前に立ち止まっている典韋隊の元へと辿り着く事ができた。 「門で一体何があったのですか? 流琉?」 「……嘘」 「どうしました?」 「お、親父さん!」 「オオヤジさん? 誰ですかそれは?」  首を傾げる郭嘉を余所に典韋は駆け出していく。その先にはいかにも頑固親父といった風貌の料理人らしき男がいる。  その周囲にも民と思しき者たちが何十人……いや、何百人と集まっている。 「彼らが門兵を倒して……城門を?」  目を丸くしながら郭嘉はゆっくりと城へと歩み寄っていく。  徐々に民衆たちの声が聞こえる。城郭の方からなにやら悲鳴と怒りに満ちた怒鳴り声が聞こえる。 「ひぃぃいい! なんなんだよ、こいつら!」 「このやろう! 俺らを騙したな!」 「やっちまえ! 典韋将軍の手伝いをするんだ!」 「た、助け、助けてちょ――」  どうやら民衆は掃討荒ぶっているらしい。あちこちで轟音が響いている。 「成る程、やはり内部で彼らが暴れていたのが原因というわけですか……」  郭嘉が急な状況の変化について納得していると、典韋と向かい合った民の一団が何やら話を始める。 「典韋将軍、すいやせん。あっしらのせいでこんな事態に……この借りは返して見せますぜ!」 「そんな……皆さんは何も悪くないですよ。私が頼りないのがいけなかったんです」 「嬢ちゃん。あんまり自分を責めなさんな。頼りないっつったら、あれくらいでへばった俺こそだらしねえってもんよ。へへ」 「親父さん……」 「そうそう。親父さんに比べりゃ典韋将軍はすっごく頼りになりますって」 「あんだと!」  とても攻城戦直後とは思えない程に和やかな空気を醸し出す民衆と典韋。 「これも流琉の人徳なのでしょう」  朗らかな光景を見ながら郭嘉は自分が笑みを零していることに気がついた。 「どうやら私もまた、流琉とその周囲の織りなす空気にやられたようですね……ふふ」  最早郭嘉の指示などなくとも城内は陥落した直後のように沈黙した敵兵で溢れかえっていた。  とはいえ、しっかりとけじめは付けなくてはならない。  郭嘉は速い足取りで典韋に近づくと彼女の肩にそっと手を置く。 「流琉、貴女が締めなさい」 「え? 私がですか?」  郭嘉はその小さな肩をぽんと軽く叩いて頷いて答える。典韋は視線を泳がせながら躊躇した末、意気込んで全体を見据える。 「え、ええと……その」 「待った、みんなに見えるとこでやんな」  誰かの一言で典韋は担ぎ上げられ丁度やってきた騎兵の馬に乗せられる。 「お、様になってますぜ!」 「もう! すぅ……て、敵軍は降伏! この城は我らが掌中へと落ちました。み、皆さん、早速旗を掲げてください!」 「応っ!」  典韋の言葉に盛大に反応する民衆たち、そこには終わりを迎えた攻城戦にあわせるように沈んだ太陽の代わりに大地を照らしてしまいそうなほどに明るい笑顔が浮かんでいた。  今回の典韋と民衆の間で起きた珍事を眼にして郭嘉は感慨にふける。 (今回の攻城戦、勝利を導いたのは流琉の人徳。そして、流琉ですら効果がこれだけあった。ともすれば、華琳さまがあの者を警戒する理由……今ならば確実に理解することも可能というもの)  郭嘉はじっと空を見上げる。  南……その方向には今、劉備がいる。  †  張繍を欺き、そのまま拠点である襄城へは戻らず再度南下していく。彼女の率いる強行軍はまたもや数刻もの刻を費やして堵陽まで後、十数里という所まで差し掛かろうとしていた。  街道を進むうち、左右を森に挟まれた箇所へと差し掛かる。騎馬のみとなった曹操軍は速度を速めて抜けようとするが、前方から鳥が何十羽も飛び立ってくるのを見かけ、停止する。  注目してみれば野を兎やら小動物らが慌てて駆けているのまで覗える。  曹操はそれを見つつ張繍軍の増援であることを察した。 「どうやら、挟撃に出るつもりのようね。わざわざ拠点の兵を更に裂いてくるとは……やはり張繍にとって堵陽の守りよりもこの曹操の方が価値は上ということか」  そう呟く曹操の隣で夏侯惇が全体に向けて声を張り上げる。 「待ち伏せていた敵の別働隊がこちらへ向かってくるぞ! だが、案ずるな! これも我らの策の内、落ち着いて華琳さまの指示に従うのだ!」 「よいか、これより我らはここに留まり迎撃の体勢を取る。背後から張繍軍の本隊がやってくるだろうが気にする必要は無い!」 「応!」  乱れのない返事をすると兵たちは夏侯惇を先頭に魚鱗へと形を変えていき敵との衝突に備える。 「……来たわね」  敵の姿が見え始める。 「まだ……」  徐々に大きくなる敵軍の姿。突撃の太鼓が打ち鳴らされている。 「……一つ」  更に迫る敵軍。歩騎まばらで編隊もままならぬが曹操軍よりは数上は大。  太鼓がまた鳴る。意気衝天でやってくる張繍軍の兵が構える刃が松明の灯りを浴びてぎらりと輝く。 「……二つ」  喚声と共に押し寄せてくる敵、敵、敵。  三里、二里と距離は縮まる。  敵の数がおおよそ見えてくる。千から二千。  曹操の傍にいるは二百。  太鼓が三度……鳴った。 「三つ、よし! 全軍、突撃!」  号令に従い兵士たちが大呼し迎え撃つ溜めに馬を駆けさせる。  砂塵が舞い、空気が振動する。  最先端を担う夏侯惇が敵兵数人を薙ぎ払い敵の先陣の勢いを挫く。  遮二無二突っ込んでくる敵は突撃を促す太鼓を乱打しているがそれが逆効果であることをわかっていない。功を焦り戦場の理を忘れた指揮官の様が曹操には手に取るように把握できる。 「少なくとも三度……、今は三回以上どころか滅多矢鱈に打ち鳴らしているようね。本当に愚かとしか言い様がないわ」 「はぁぁああ!」  夏侯惇の力は片目を失ったとは思えない程の斬撃を繰り出していく。  七星餓狼の刃は既に真っ赤に染まりきっている。  敵の十分の一程度の兵力しか擁していないにも関わらず曹操軍は応戦出来ている。だが、それは当然の摂理であり曹操からしても別段驚くことでもない。  一騎当千の強者である夏侯惇、両軍の闘志の煽り方における差異。 「遠方から……しかも、あんな馬鹿の一つ覚えに何度も突撃の合図とはね。碌な指揮官が残っていなかった……ということかしらね」  詰まるところ、それは曹操追撃のためだけに張繍が可能な限りの戦力を費やしたということに他ならない。  丁度、それ程までに彼女の頸に執着しなおかつ暗殺まで企てた者が背後より迫り来ていた。 「来たか、張繍」  体勢も整えきれないままの張繍軍本隊が後方より勢いそのままに襲いかかってこようとする。  その速度は曹操の頸に対して張繍が抱いている価値の現れ。  後衛に接触しようというところまで張繍軍本隊は迫っている。だが、曹操は尚もそれを悠然と眺め口元を歪めてにやりと笑う。 「さて、そろそろね……」  前方でぶつかり合う両軍、飛び交うありとあらゆる音、声。その中で小さく呟かれた曹操の言葉が空気に染みこんでいったのが合図となったかのように両側に広がる森林がざわめきだつ。 「うぉぉぉぉぉおおおお!」 「突撃! とつげきぃぃいい!」  左右の森林から銅鑼の音と共に出現した兵たちが前方の張繍軍へと横撃をかけていく。また、同時に背後で張繍軍本隊の悲鳴が上がる。  森林に挟まれた街道、その半ばで立ち止まっていた曹操軍。前後でそれを挟撃せんとしていた張繍軍へと伏兵が襲いかかったのだ。  前方の部隊に対しては左右から千ずつの部隊がおおよそ三千ほどの敵兵に横撃をかける。  後方では、張繍軍本隊へむけて更に後部より現れた曹操軍四千が急襲をしかけていた。それは、既に襄城へ向かわせていた伝令によって送り込まれた部隊である。 「全てはこの曹操の掌の上……よく踊ってくれたわね、張繍」  混乱を巻き起こし、それを活用してこそ道は切り開かれる。 「敵は怯んでいるぞ! 今こそ死ぬ気で全てをその手に注ぎ込め!」 「応っ!」  夏侯惇に続いて兵士たちが勢いを増しながら敵軍を圧し始める。  対する前方の敵は横撃と正面からの攻撃のそれぞれに応じようとバラバラの動きを見せ、ついには士気が低下して戦闘態勢が乱れに乱れている。 「いっくぞぉぉぉおお! 続けー!」 「うぉぉぉぉおおお!」  背後から聞き慣れた声が兵を先導している。許緒だ。  よく見れば後部の張繍軍から何人もの兵が上空へと吹き飛ばされている。恐らくは許緒の持つ得物が炸裂したのだろう。彼女が使用しているのは複数の刺が付いた巨大な鉄球……名は岩打武反魔。敵を蹴散らすにはもってこいの得物である。 (どうやらちゃんと〝お使い〟を達成できたようね)  襄城への遣いを果たした許緒の様子を把握し背後は心配する必要がないとふんだ曹操は前を向き、行く手を遮っている部隊を見据える。 「てぇああああっ!」  さすがに大分弱まってきているらしい。夏侯惇を始めとした強者の攻撃だけに留まらず更なる横撃とそれによる混乱には耐えきれないのだろう。  幾度となく攻撃を続けるうちにその規模は小さくなっていき、縮こまってしまった部隊は蜘蛛の子を散らすようにばらばらと後退し始めていく。 「に、逃げろー!」 「た、退却! 退却ー!」 「と、堵陽に戻るぞ」  口々に情けないことを叫びながら逃げていく。どうやら、統率者である張繍を見捨てて居城まで退却するつもりのようだ。 「待てえ! よぉし、直ちに追撃を――」 「貴女こそ待ちなさい、春蘭」 「華琳さま?」  首を捻る夏侯惇に曹操は首を振る。 「追撃は無用。追走も必要なしよ」 「よろしいのですか?」 「大丈夫よ。そっちはね」 「……?」 「時機に分かるわ」  不思議がる夏侯惇に意味ありげに笑うと曹操は振り返り背後に広がる光景に眼をやる。  許緒の部隊によって曹操軍本隊の後続を攻撃できずにいる張繍軍の姿がある。 「大いに隙だらけね……はぁ。春蘭、いい加減楽にしてあげなさい」 「御意」  そう言うと夏侯惇は数十騎を率いて許緒軍の対応で手一杯となっている張繍軍の背後へと突撃を開始する。  継いで曹操軍全体へ号令を掛ける。 「陣形を鶴翼へ変更。敵を覆い尽くす!」  あっと今に魚鱗からの変更を行うと、曹操は全軍に突撃を命じる。  最早、張繍に逆転の眼は無くなった。 「ふふ、これで詰みかしら?」  そう呟きながら曹操は目の前で行われる張繍軍の殲滅を見守るのだった。  †  いくら強兵を集めたとはいえ、夏侯惇率いる二千五百の部隊と許緒率いる四千の部隊相手には立ち回りがいかずついに張繍は降伏した。  結局曹操軍は宛まで戻ることにした。  流石に兵たちの疲労なども考え、堵陽で一夜を過ごすことにした。  城内の一部屋で曹操は席に着き、臣下たちと今回の騒動を振り返るように話をしていた。 「稟、どうやら上手くやってくれたようね」 「ええ。予測通りに動いたので堵陽を落とすのは迚も軽易なことでした」  にこりとも笑うことなく冷静に返答する郭嘉。  曹操たちが捕縛した張繍軍を引き連れて堵陽を訪れた時、既に郭嘉の手によって堵陽は落ちていた。 「なにしろ張繍は華琳さまに気を取られ兵力を大層裂いておりました。それ故、堵陽は殆どもぬけの殻という有様だったのですよ」 「あの……、流琉はどうしたんですか?」  小首をちょこんと傾げながら許緒が訊ねる。 「流琉ですか? 彼女は宛に残してきました」 「その理由はどのようなものかしら?」  興味が湧き曹操は頬杖を突きながら訊ねる。 「人心の安定と速戦とはいえ被害が生じた城の復興も考慮すべしとし、それらの役を彼女に嘱しました」 「しかし、なんでまた流琉なのだ?」 「春蘭さまはご覧になられてないのでお分かりにならないと思いますが、流琉と民の繋がりを勘案すればそれが最適だと判断したまでですよ」 「なるほど、確かにあの娘ならば稟の存意に同意せざるを得ないわね」 「そうですねー、流琉ってなんだかんだで色んな人と仲良くなれますからね」  にこにこと嬉しそうに頷く許緒を見ながら曹操は微笑ましい気持ちに包まれる。 (貴女もそれはきっと同じよ……季衣) 「えっと……あの、つまりどういうことなのでしょうか?」 「はあ、春蘭さまには後で説明しますよ」 「くれぐれも頭痛には気をつけるようにね」  曹操がそう言って微笑むと、郭嘉は頬を染めつつ苦笑する。夏侯惇だけは訳が分からないといった様子でひたすら首を傾げ続けていた。 「今回の一件、智謀を働かせる者がいなかったことが張繍の悲劇といえるでしょうね。もし、傍に策謀の師がいればまた違う結果を迎えていたかもしれないわね」 「それはあり得ません!」夏侯惇と郭嘉が同時に応える。 「あら? 二人して同じ意見なのね。どうしてかしら?」 「あ、ボクも聞きたい!」 「無論、この――」二人は再度同時返答を始める「夏侯元譲が」「郭奉孝が」と互いに自らの名前を叫び。 「華琳さまのお傍についていますから!」  最後もまた、同じ間、同じ言葉による返答だった。 「うわあ、すごいや。二人とも同じこと言ってる」 「くっ!」  素直に感心して瞳を輝かせる許緒の反応がとどめとなり、曹操は笑いを堪えきれず吹き出してしまう。 「か、華琳さま――む、いい加減真似するのは」  互いにむっとした表情で睨み合う夏侯惇と郭嘉。その様子がまたおかしくて曹操は更に笑い続けてしまう。気がつけば許緒も腹を抱えて大笑いしている。  それから暫く、不服そうにする夏侯惇と郭嘉を余所に曹操は許緒と共に笑い続けた。  なんとか落ち着きを取り戻した曹操は息を整えていく。 「……ふう。なんだか、久しぶりに笑った気がするわね」 「私としても笑われたのは久しいですよ。それより」  肩を竦めると郭嘉は背筋を伸ばし姿勢を良くする。 「張繍はいかように?」 「あのような不忠者、頸を撥ねてしまえばよいのだ!」 「待ちなさい、春蘭。まあ、貴女のこともあるから私としても頭に来てはいたけれどね」 「ああ、華琳さまぁ……」  鼻息荒く七星餓狼を強く手に取る夏侯惇は一転して熱い眼差しで曹操を見つめる。  曹操はそっと微笑み返すと目つきを真剣なものへと変え、口元を引き締める。 「張繍からはやり方次第では恐らく良い情報が得られるはずよ。そうね……命を助けること、それと今一度我が足下で臣として働くことを許可すれば口も軽くなる可能性はあるわ。そうなれば、私が知りたいことについて大いに聞き出すことができるに違いないでしょうね」 「ええ。恐らくは」  唯一、曹操の意図を察した郭嘉が頷く。 「それじゃあ、稟、交渉は貴女に一任するわ。ただし、甘さは一切見せないこと」 「御意、しからば即刻行うとしましょう」  一礼すると郭嘉はきびきびと歩き部屋を後にした。その後ろ姿を見ながら曹操は思う。 (それにしても……美女、美少女を閨に呼び込むのも少し考えものかしら? 春蘭を呼んだり、その過程で稟が鼻血で倒れたりしからこそ隙を作ってしまったわけだし……)  曹操は顎に手を添えて真剣に考えてみる。そして、ぽつりと一言口から漏らした。 「まあ、止める気はないのだけれどね」