玄朝秘史  第三部 第二十二回・後編  5.血肉 「は?」  ぽかんと間抜けに口をあけた一刀は、そのまま息をとめていたようで、いきなりげほげほと咳き込んだ。後ろにいた季衣と流琉が慌てて背をさすってくれるのに感謝しつつ息を整え、それでも彼はぼんやりと理解の追いついてない口調で問い返さずにはいられない。 「もう一度言ってくれないか、風」  普段の服の上から被っていた簡素な胴衣を脱いでいた女性は、彼に向き直るとはっきりとした口調で告げる。 「ですから、もう生まれました」 「もう生まれた?」 「はい。もう、すっぽーんと」  稟に預けていた宝ャを頭の上に戻しつつ風が言うのに、赤毛の男が笑って父となった友人の肩を叩く。 「すんなり出てきてくれたよかったじゃないか」 「でも……。呼ばれてから急いで走ってきたんだけど」 「痛みを訴えたところですぐに呼んだんだが……。まあ、なんにせよ無事で良かった。遅れていたこともあるしな」  華佗がほんのわずか声を潜める。たしかに一刀自身も年明け前には生まれると聞いていて、まだかなと思っていたところではあるが、彼の表情を見るとあまり芳しくなかったようだ。  後に一刀が聞いたところによれば、あと数日待っても気配がなければ、五斗米道秘伝のつぼを刺激して陣痛を促すことも検討していたらしい。 「そうかあ……」  なんにしろ、子供が生まれてきてくれたのだ。  それも、この世界に来た当初からずっと共にいた、秋蘭との間の子供が。  無言でぎゅっと拳を握りこむ一刀の顔は、なによりも雄弁に彼の中の思いの深さと重さを物語っていた。周囲の人々は、声をたてることもなく、温かな目でそれを見守る。  しばらくの豊かな沈黙の後、ようやく一刀はそこに集っている人々を見回した。  秋蘭の子供となれば魏の面々にとっては彼に劣らぬ思いがあるだろう。元々秋蘭についていた季衣や流琉以外にも、華琳をはじめ主要な人間はそこに揃っていた。もちろん、魏に属していない人間も報を聞いて続々と集まりつつある。いま、人々の輪の後ろに滑り込むように白蓮がやってきたところだ。  しかし、その中にあるはずの姿がないことに男は気づかざるを得ない。 「あれ、春蘭は?」 「中よ」  黄金色の髪の毛を揺らしながら扉を指す声に、呆れたような響きがある。華琳のそんな様子に首をひねる彼に、魏の女王は肩をすくめる。 「もうさっきから扉のすぐ向こうで仁王立ちしっぱなしなのよ。私にも唸りかけそうになったくらい」 「ほんと、犬みたい。がるるるって」  顔をしかめながら付け加えるのは桂花。あるいは彼女も部屋を覗き込んで春蘭にはね飛ばされそうになったのかもしれない。 「……ま、まあ、春蘭でも父親くらいは入れてくれるだろう」  自分を納得させるように呟くのに、季衣が後ろからちょいちょいとつっつく。振り向いてみれば、真剣な顔つきで彼を見上げる季衣と流琉、二つの顔があった。 「避ける準備しておいたほうがいいよ、兄ちゃん。春蘭さま、七星餓狼抜いてるから」 「しばらく待ってみたらどうでしょう?」 「……大丈夫だよ……。たぶん」  嫌な汗を垂らしつつ、なんとかそう答える一刀であった。  結局、三度切りかけられたところで秋蘭が声をかけ、一刀は無事――本当に?――我が子と対面することが出来た。彼自身、どうやって春蘭の打ち込みを避けたのかさっぱりわからない。ただ、本能がそれを可能にしてくれたようだった。 「大きいだろう?」  我が子を抱いてしばし言葉を失っていた一刀に、寝台の上の秋蘭が疲れた様子も見せず笑いかける。たしかに父親の腕におさまったおくるみは普通の赤子より少々大きめに見えた。その中では彼の十七人目の娘が目をぱっちり開けながら、身動きもせずに間近にある一刀の顔を見つめている。  生まれたての赤子が見えるものは限られているが、まるで光や動きをとらえられないわけではない。きっといま彼女の中には父の印象がなんらかの形で蓄積されていることだろう。 「ああ。お腹の中に長くいたからかな?」 「私の中は、よほど居心地よかったと見える」  くっく、と笑う秋蘭に、一刀も笑みを見せる。 「姉者のこと、許してやってくれよ?」  いまは多少落ち着いたのか、華琳たちの間に入って姪の誕生の祝福を受けている春蘭のことを、秋蘭は口にする。冗談で言っているように見えるが、ほんの少し、本気で心配げにも見えた。 「ん? まあ、春蘭だし」 「ははっ。流石だな」  一刀がこともなげに答えるのに、彼女は安心したように頷いて、彼の手から娘を受け取った。 「稟たちに色々と聞かんといかんな」  今度はじっと母の顔を見つめてくる娘の小さな頬に指をあて、その輪郭を記憶しようとするようにゆっくりとなぞりながら、彼女は言う。 「そうだね。でも、大丈夫だろう、秋蘭なら」 「お前は慣れているからいいかもしれんが、私ははじめてなのだぞ?」 「まあ、そうだけど……。それだけじゃなくてさ」  咎めるように言い返されたのを、一刀はおかしそうに受け止めながら答える。 「それこそ稟や桂花や……璃々ちゃんを育てた紫苑だっているし、そういう経験がなくたって華琳や、なにより春蘭は秋蘭を助けてくれるだろ? 俺もいるし」  一拍おいて、彼は布のかかった彼女の腰のあたりをぽんぽんと叩いて言った。 「だから、大丈夫」  驚いたように目を丸くしていた彼女は、暫しの間そのまま固まったようになっていたが、腕の中の赤ん坊がむずがるように動き出したところではっと気づいたように視線を娘に落とした。 「しばらく一人にしてもらえるかな? 乳をやらねばならんし……。華琳さまたちへの挨拶は後ほどにしてもらえるとありがたい」 「わかった。そう説明しておくよ。ゆっくりして。でも、なにか用があったら呼んでくれよ」  手を振りつつ部屋を出て行く彼の背を見ながら、秋蘭は目を細め、そっと呟いた。 「人の親になる……か」  6.人物  招かれて叩いた扉の向こうから返ってきたかわいらしい声に、思わず男は微笑みを浮かべる。ぱたぱた足音がして、扉の向こう側で止まったのがわかる。 「どちらさまー?」 「北郷一刀です」  確認する声もあどけない。小さく隙間があき、それで彼の姿を認めたのか、大きく開け放たれる。 「こんにちはーっ」 「こんにちは、璃々ちゃん」  出迎えてくれたのは、母と同じ色の髪にきれいな布を結わえ付けた小さな女の子。てっきり母親の手伝いをしていると思ったのだが、彼女に招き入れられた室内には、豊かな胸を持つ弓将の姿はない。 「あれ? 紫苑は?」 「お母さんは、ちょっとごようがあるって。お兄ちゃんと愛紗お姉ちゃんがくるから、璃々がおむかえするように、たのまれたんだよ」 「ふむ……。そっか、ありがとうね、璃々ちゃん」  招いた当人の紫苑がいない。そのことに疑問を抱きつつ、しかし、一刀はまずは璃々に礼を言った。璃々は彼の顔を見上げながら問いかける。 「璃々、ちゃんとおむかえできた?」 「ああ、立派に」 「へへーっ」  にっこりと笑い、彼女はぱたぱたと部屋の中央の卓へと駆けていく。低めに作られた椅子に、それでもぴょんと跳ねあがって座る璃々。 「関将軍もいない、か……」  部屋の中を見回して、一刀は考える。だが、しばらくすると彼は小さく頭を振った。 「ねえ、璃々ちゃん」 「んー?」  璃々は卓に向かっているものの、なにをするでもなく、足をぶらぶらさせている。紫苑の言いつけに従って、愛紗が来るのを待っているのであろう。 「紫苑たちが来るまで遊んでよっか」 「いいの? あ、でも、愛紗お姉ちゃんが……」 「関将軍が来た時にちゃんと応対すれば大丈夫じゃないかな? あんまり音をたてたりしなければ、来たこともすぐわかるしね」 「そっかー。わかったー」  璃々は嬉しそうに破顔すると、とてとてと歩いて行き、大ぶりな箱を引っ張ってくる。 「じゃあ、これーっ!」  ずりずりと引きずると、中でかちゃかちゃなにかがぶつかり合う音が聞こえてくる。一刀は彼女がそれを開けるのをじっと待っていた。 「お母さんが、おとなの人と、いっしょにつくりなさいって」  よいしょ、と璃々が開けてみれば、いくつもの袋が詰められている。袋の一つを手に取ってみると、そこそこの重さがあった。 「おしろつくるのー」 「お城?」 「うん」  璃々は手際よく袋をどけていく。すると、箱の底面には土が詰められていた。その上に何本か線が引かれているのがわかる。 「あれ……?」  かすかに見覚えがある気がして、手に取った袋の中を確かめる。そこに詰められていたのは赤茶けた煉瓦だった。ただし、寸法はかなり小さい。一つ一つが小指の先程度の大きさしかない。 「これ……真桜が作ってた築城訓練セットじゃないか」  太守級の人間ともなれば、一都市を築き上げることを指導しなければいけない場合もある。しかし、それらの人員に経験を積ませるためにいちいち城塞を作らせるのも大変だ。それならば模型で作らせるのが手っ取り早いのではないか、と桂花が考えついて真桜に製作依頼していたものだ。一刀は彼女が開発している最中に見せてもらったことがある。  彼の記憶によれば、台紙で土台を作り、そこに実際に煉瓦を積んでいくものだったはずだ。築城の設計と、煉瓦を積む労力を実際に味わうことを目的としていたのだが、細かい煉瓦をつくるのがあまりに面倒なので没になり、実際にはもっと簡易化したものが採用されたはずだ。 「ふぇ?」  璃々がよくわからないという顔で見上げてくる。 「ああ、いやいや。これ、誰にもらったの?」 「華琳お姉ちゃんと真桜お姉ちゃん!」 「ああ。まあ、そうだろうな」  溌溂と答えてくる璃々に納得の表情で頷く一刀。おそらく、余った試作品を、璃々のおもちゃとして与えたのだろう。幼い子供がやるにしては根気のいる作業――なにしろ、煉瓦を手積みするのだ――だが、華琳や真桜にしてみれば積み木の延長程度の感覚なのかもしれない。 「よし、じゃあ、つくろうか」 「うんっ」  元気いっぱいに頷く璃々に続いて、彼は床に座り込んだ。  ついで扉が鳴ったのは、一刀と璃々が城壁の煉瓦を積み続けている最中であった。面倒な設計と台紙作りの部分は紫苑が処理してくれていたので、設計書に従って煉瓦を積む作業に取りかかれていたのだ。 「紫苑かな?」 「ううん。ちがうー」  一刀が差し出した布で手を拭いながら、璃々は首を振る。ぱんぱんと服も払って、扉に近づいていく璃々。 「そうなの?」 「うん。あるく音が違ったもん」  その答えにさすがだなあ、と感心するしかない一刀。 「いらっしゃい、愛紗お姉ちゃん」 「やあ、璃々」  一刀と同じように璃々に出迎えられたのは、長い黒髪を誇る凛とした様子の武将。関雲長その人だ。 「こんにちは」  せっかく積んだ煉瓦を崩したりしないよう気をつけて立ち上がり、彼女に挨拶をする。 「おや? 紫苑は?」 「まだらしくてね」 「なんですと? さて、それではどうしますか……」  彼女もまた紫苑の不在を疑問に思ったようだが、必要以上に触れることはせず、首をひねる。璃々はそんな彼女の横で楽しそうに報告した。 「璃々、お兄ちゃんとあそんでたの」 「ほほう」  ちら、と一刀とその背後にある光景を眺め、愛紗は得心したように頷く。 「邪魔をしてもいけないでしょう。私はここで見ていますので、どうぞ続けて」 「そう? 悪いけどそうさせてもらうよ。じゃあ、きりのいいところまで作っちゃおうか、璃々ちゃん」 「はーい」  卓に座りくつろいだ体勢になる彼女の言葉に甘え、再び煉瓦積みにいそしむ一刀と璃々であった。  なんだ、大人のほうが夢中になっているではないか。  璃々と遊んでいる一刀の姿を見て、愛紗はそんなことを考えて笑い出しそうになる。  二人がなにをしているのかは、男が説明してくれたが、その実際の煉瓦積みを率先してやっているのは当の北郷一刀のほうだ。璃々は濠を掘った土に水を混ぜて泥として、積んだ煉瓦がくっつくようにぺたぺたと塗っている。  璃々が泥を塗りつけ、男が面を揃えながら小さな煉瓦を積む。それがうまくいくと、整った拍子を刻む。それが面白いのだろう、璃々はわいわいと喜び、一刀も調子を崩さないよう懸命になる。煉瓦をつまんでは置き、つまんでは置き、時折木ぎれで面をあわせつつ、小さな城壁を作っていく。  ある程度できたところで、誇らしげにその出来映えを褒め合う二人に、さすがにぷっと小さく吹き出してしまった。  慌てて口元を覆ったのが幸いしたのか、二人には聞こえていなかったようで、彼らはできあがった面と組み合わさる新たな城壁に取りかかりはじめていた。  北郷一刀か……。  愛紗は口の中だけで呟く。  悪い人間ではないように見える。ましてあの華琳が側に置くのだから、それなりに力もあるのだろう。  また、多数の人物から慕われてもいる。同輩の桔梗など、彼の子を産んでいるくらいだ。  いま、紫苑が愛娘を置いて留守にしているのも彼と愛紗を信頼しているからだろうし、なにより、彼のことをよく知らない彼女が観察するための時間を用意したかったに違いない。これは彼と彼女両方に対する気遣いではあるが、それをはかるだけの価値が彼にあると考えている証拠だろう。  しかし、その一方で、悪印象を受ける部分がないとは言い切れない。荒唐無稽な噂はともかくとしても、女癖が悪いというのはあるだろうし、そもそも彼が名乗る『天の御遣い』とやらがあまりに……。  そこまで考えたところで、彼女はふるふると首を振った。 「そんな風に先入観を持つことが、そもそも視界を狭める……か」  無心に見てみれば、目の前にいるのは、夢中になって童女と遊んでいる青年にすぎない。  彼女ははじめて戦場にたどり着いて情勢を呑み込む時のように、二人の遊ぶ姿を眺め始める。 「さて、あとは乾かさないと」  それなりにできあがったところで、一刀が立ち上がり、んー、と伸びをする。これ以上進めるには屋根や張り出し部分を作る必要があるが、それには基礎部分が固まるのを待たないといけなかった。 「うんー。じゃあ、璃々おかたづけするねー」 「お、えらいね。手伝おうか?」 「だいじょぶだよー」  ぽいぽいと元々ふたになっていた中に材料を戻していく璃々に笑いかけて、一刀は卓にやってくる。手を拭い、汚れをとってから、彼は愛紗の斜め前に座った。 「紫苑、遅いね」 「おそらく、私にあなたを見定める時間をくれたのでしょう。もうそろそろ来る頃かと」 「なるほど。なにか意図があると思ったけど、そういうことか」  推測に頷く男の様子は素直なもので、疑う様子もない。彼女のほうが紫苑とのつきあいが長いこともあって、疑う意味もないと思っているのかもしれない。だが、一方であまりに考えなしにも見える。愛紗には、現状、どちらにもとる自由がある。 「それで、どうだった?」 「一人の人間を判断するというのは、とても難しいことです。そもそも、一人の人間には様々な面がある。家族には優しくとも外には無慈悲な者もいれば、自分の意思を殺して、名声のために良いとみなされることに努める者もいる。戦や政の世界で大事なのは、その人物ではなく、その人物が何を成したか、でしょう」 「そうだね」  一気に言うと、彼は楽しそうに目を細める。厳しい声で正論を吐いて、面白がられるのは彼女にしても珍しいことだ。 「しかし、です」  ん、と一つ咳払いして、彼女は続ける。一刀は相変わらず興味深そうに耳を傾けていた。 「共に事を成そうとする時、その人物をまるごと信頼できれば、これほど力になることはありません。そういう意味では、その人物の性向なども含めて判断するのも、また重要でしょう」 「うん。それはそうだな。頼れるってのは、本当にいいことだからな……おっと」  片付けが終わった璃々が駆け寄ってきて、一刀の膝によじ登ろうとする。その軽い体を持ち上げて乗せてやりながら、彼は愛紗に訊ねかけた。 「俺は、その、共に事を成す人物になれるかな?」 「……もう少し様子を見て判断する必要がある、と考えます」  聞きようによっては拒絶にも聞こえる言葉を、しかし、彼はにこやかに受け取り、璃々の頭をなでてやっている。 「そうか。第一歩には合格かな?」 「私はなにもそのような。ふるい落とすとかそういうことでは……」 「ああ、ごめんごめん。でも、ありがたいよ。あの美髪公、関雲長に検討してもらえるんだからね」  本当に嬉しそうに言うのに、思わず照れてしまう。 「そ、その呼び方は、どうにも……」 「だめなの?」 「少々気恥ずかしいところです」 「そういうものか。二つ名っていうのかな、そういうのって……」  そうして遅れて――もちろん、予定通り現れた紫苑は、談笑する一刀と愛紗、そして、愛娘の姿を見て、目を細めるのだった。  7.事端  整った調子で足音を響かせながら、彼女は廊下を行く。長い黒髪を後ろでくくり、それを波打たせて歩くのは、その名も高き美髪公、関雲長こと愛紗だ。  まだ慣れていないのか、彼女は角を曲がる度に周囲を確かめつつ進んでいた。しばらくして目当ての場所についたのか、とある部屋の前で足を止めた。 「少々いいか?」  扉を叩きつつ声をかける。約束をしていたわけではないが、中に気配があるのはわかっていた。 「ひゃ、ひゃいっ」  素っ頓狂な声が返ってくる。朱里や雛里ではあるまいし、と苦笑しつつ、彼女は戸を開ける。しかし、中を覗き込んだところで、一度驚いたように口をすぼめ、次いで納得したような表情へ変わる。 「すまん。邪魔して悪かった」  中の人物に頭を下げてから、戸を閉めようとする。しかし、締め切る前に手が伸びてきた。 「ちょ、ちょっと待った!」 「お、おい」  勢いよく引っ張られ、そのまま部屋の中に引きずり込まれる。普通ならありえないことだが、相手が相手だ。なにしろ、引き寄せる手の持ち主は西涼の錦馬超。 「なんだ、どうした、翠」  部屋の主の名を、彼女は不審げに呼ぶ。なにがあったのか、顔を真っ赤にした馬家の棟梁は、かつて蜀でくつわを並べた愛紗にくってかかる。 「いやいやいや! この服装を見てその反応はないだろう?」  言われて愛紗は相手の姿を改めて見直す。ふわふわとした黒基調の服、それも多数の飾り紐や刺繍が組み合わさったものを着ていることを除けば、特に普段と違うこともない。よく見知った翠の姿だ。  となれば、やはり服装が問題なのだろう。 「おめかししているな」 「そうだけど、でも、その……」  目の前で顔を赤くしたり青くしたりしている女性が、何を言いたいのかよくわからず、愛紗は首を傾げる。  戦にふさわしい装束もあれば、宮廷に出仕するのに適した衣もある。彼女はこれだけ着飾っているのだから、遊びに出るところだろうと思っていたのだが、違うのだろうか。 「お」 「お?」  なにか喉につまったかのように一言唸る彼女に、ますます首をひねる。そんな愛紗の様子に、ようやく翠は勢いをつけて口を開いた。 「おかしいだろ!? あたしがこんなかわいい服を着てさ!」 「何がだ? よく似合っているし、よいのではないか?」  率直に思っていることを口にすると、翠は黙ってしまう。一方、愛紗は思い出したようにぽんと手を打つ。 「おお、そうだ。そういえば前に蒲公英が似たような意匠の服を着ていたぞ。あれと揃いなのか?」 「え? うん。まあ、そうだけど……」 「ならば二人で着たいというのはわからないでもないな。涼州へ行く前に着てみればよかったのに。翠も蒲公英も似合っていることだし」  二人揃ったら、さらにかわいらしかったろうに、と本気で残念に思う愛紗であった。 「いや、そういうわけでもないんだけど……。えっと、蒲公英はともかく、あたしも……似合ってる?」 「さっきからそう言っているぞ。服自体は見たことのない感じだが、翠に似合っていることには変わりない」  囁くように問いかける声に、愛紗は不思議そうに返す。相手が困惑しているのは伝わるのだが、似合っている服を着て、なにに不満があるのかがよくわからない。 「そう……。そうなんだ。ありがとう」  相変わらず顔は赤いものの、先ほどのような取り乱した風はなく、照れくさくて仕方ないような声。ふむ、落ち着いたか? と愛紗は彼女の動きを観察しつつ考える。 「あ、ところで用事だったんだよな」 「ん? ああ、北伐のことで少し。しかし、そう急ぐことではないぞ」 「そうか? じゃあ、あたしの予定だけど……」  ようやくまともに対応し始めた翠と次の機会を約束し、挨拶を交わして愛紗は部屋を出ようとする。  ほとんど体が扉を抜けかけたところで、彼女はひょいと上半身だけを戻し、外から見えない位置から見送ろうとしていた翠に顔を向けた。 「ああ、翠」 「なんだ?」 「その服装なら、髪を下ろすとよいと思うぞ。黒にお前の髪の色が映えるだろう」 「へ?」  それだけ言って部屋を出て行く彼女に固まっている様子の翠だったが、扉が閉まりきる前に、中から大きな声がその背を追いかけてきた。 「ありがとなっ」  その嬉しそうで、とても元気な声に思わず微笑みを浮かべるのは実に自然な成り行きであった。  翠の部屋を出て自室に戻る途中、とある角を曲がろうとしたところで、一人の侍女が近づいてきた。  手渡された文を見ると前将軍宛てとなっていて、彼女は少々複雑な気分になる。  名誉ある地位であることは知っていたし、理解もしているが、彼女にとって大事なのはそんなことではない。  劉玄徳の第一の矛であることが、彼女の誇りなのだから。それが、桃香の傍を離されて洛陽に駐留せねばならないとは。 「まあ、いまさら愚痴を言ってもしかたないが」  魏の人間はよくしてくれるし、傍には紫苑や璃々もいる。  きっと、この都での生活に慣れていくように、この呼び名にも慣れていくことだろう。 「董承殿?……はてどなたであったろうか……」  差出人として書かれていた見慣れない名前に記憶を懸命にさらいながら、愛紗は再び黒髪を揺らして、廊下を歩いて行くのだった。  8.ふたり 「うん」  待ち合わせ場所に現れた北郷一刀の第一声は、嬉しそうに弾むそんな声であった。 「ど、どうしたんだよ」 「思った通り、よく似合っていると思ってさ」  翠の口から怪音のようなものが漏れるが、さすがに人通りもある茶店の前では抑え気味。 「それに、こんなかわいい翠とデートできる俺は幸せ者だと思ってな」 「……ばか」  周囲の視線を集めてしまったと思ったか、もじもじしながら小声で一刀を責める。すると彼は大げさな身振りで道の向こうを指し示した。 「だって、実際、俺、見とれてたからな。さっき、あそこで」 「なっ。なにしてるんだよー」  あまりに真剣な顔で男が言うのに、脱力してしまう翠であった。  それから、彼らは午後の洛陽の散策へと移る。  翠の服に似合う小物と靴を眺め、芝居小屋で活劇に歓声をあげ、一刀推薦の料理屋で舌鼓を打つ。  そんなことをしているだけで、あたりはすっかり暮れ、夜闇が支配する時間となっていた。  道を行きあう人も減り、その少ない人々も門が閉められる時間を気にして足早に歩いている中、肩を並べて歩く二人の歩調は、しごく緩やかなものであった。 「なあ、翠」  城の門をくぐり、あとは各々の部屋に戻るだけ、となった段で、一刀は横を歩く翠に声をかける。彼女は城に近づけば近づくほど言葉少なになり、いまは黙ってうつむいてしまていた。 「ん?」 「ちょっと寄り道していいかな?」  久しぶりにあがるような気がする顔に真っ直ぐ視線を向けて、彼は翠の手を握った。 「え? う、うん。いいよ」  しっかり繋がれる指と指とにほんの少しだけ困惑しながら、しかし、彼女もやわらかく握りかえし、しっかりと頷いた。  果たして、一刀が導いたのは、宮城の庭園の一つであった。低く盛り上がった広場の真ん中に立ち、彼は空を見上げる。  そこに広がるのは、黒と言うよりは暗い紫に染まった星空であった。信じられないほど数多くの星々が地上へ光を降らせている。 「ここからだと、よく星が見えるんだ」 「星? 星見でもするのか?」  彼に倣って首を傾けつつ、普段通りの空の様子に内心なにがしたいのかわからない翠。一刀が卜占をやるとは聞いていなかったが、天の御遣いなら、本来それくらいやるものかもしれないとも思う。 「星見? ああ、いや。ただきれいだな、と思ってさ」 「う?」 「ああ、そっか。ええとね、俺の世界では星がほとんど見えなかったのさ」  きれいだというのはわかっているものの、彼に比べて明らかに感動の薄い女性の様子に、一刀は苦笑しつつ説明する。 「雲が多い地方なのか?」 「いやいや」  どう説明したらいいだろう。彼は少し考えてから話し始めた。 「空がね、汚かったんだよ。それに、明るすぎた」 「明るい?」 「元宵節の夜のことを思ってくれればいいよ。あんまりにも地上が光で満たされると、星は見えにくくてね。まあ、ともかく、星があんまり見えないところでさ。でも、ここではよく見える。俺は、こうして見上げる度に、なんだか……うん。色々思うんだ」 「んー。まあ、そうだな」  星空ではなく、男の顔を横目で眺めながら、彼女は言う。空自体は見慣れたものだが、星と月の光に照らされる彼の顔には、どうやっても慣れそうにない。一刀の言葉を聞いているだけで、普段の空が、まるでなにか特別なもののように見えてくるくらいだから。 「星は大事だよ。夜でも方角を知れるし、いろんなお話もある」 「お話か」 「うん。こっちの人達に言うと、話が合わないんだけど」  彼女が言っているのは星に託した神話のことだろう。それらはたいていが地域ごとに異なるもので、漢土の中ですらばらばらだ。まして、異民族の影響が強い西涼の民とでは、物語の基盤が異なることさえありえる。彼女の言葉も当然であろう。 「涼州の夜空が翠の空かな?」  一刀が訊ねたのは、彼女が星を指さして、いくつかの星座とそれにまつわる話を簡単にし終えてから。彼女は昴を示していた指を下ろし、うーん、と考え込む。 「そうだな。でも、星は変わらないよ、ここでも」 「そっか」  女の出した結論に男は小さく笑う。  その笑いはとてもあたたかく、ほんのわずかだけ寂しげだと彼女は感じていた。 「一刀殿は……」  その声はあまりに小さくて、誰にも届かないと思った。  発した翠自身が、そう思った。  けれど、一刀には聞こえたのか、あるいは彼女の体の動きに何か感じたのか。星から目を離して覗き込んできた。 「一刀殿にとっては……その」  繰り返された言葉は、最後までたどり着かない。それでも、彼は答える。 「いま……翠と見ている空が俺の空かな」 「……き、気障」  握り合った手に、きゅっと力が込められる。  彼女の部屋にたどり着く、その一歩手前で一刀は足を止めた。 「あのさ、翠」 「うん?」  さすがにこの『でぇと』も終わりだろうと思っていた翠は、一刀の声に不思議そうに顔をあげる。その深い葡萄酒のような瞳が彼の姿を映していた。 「今日はありがとう。本当に嬉しかった。翠が俺のあげた服を着て、俺と一緒に楽しんでくれたから」 「うん」 「翠は、王になる人だ」  その言葉の繋がり方はあまりに自然で。 「うん」  だから、彼女も同じようにそう頷いていた。 「わかってると思うけど、華琳も、王だったときの雪蓮も、それぞれに心の調和を保とうと、色々莫迦をやったりしている」  やりすぎなところもないではないけど、と彼は付け加える。 「張り詰めてばかりじゃなくて、たまには今日みたいに遊んだりして気を抜く日を作るのを、忘れないでくれよな」 「じゃあ」  男が手を引こうとするのを、彼女は許さない。結び合った指と指が離れていきそうになるのを追いかけて、またそれらを組み合わせながら、彼女は訴える。 「じゃあ、一刀殿が誘ってくれよ」 「え?」 「そりゃ、蒲公英や馬たちと遊んでいるのは楽しいさ。遠乗りで気持ちを落ち着ける日もあるかもしれない。でも……」  彼女は一つ息を吸う。 「でも、こうして楽しむのは……色々悩みを話したり、からかいあったり、どきどきしたりするのは……。一刀殿とじゃなきゃ、やだ」  ぎゅう、と握られた手は痛いくらい。  そして、そこから伝わるのは、明らかな震え。 「ああ、もう」  翠が息を呑んだ小さなため息は、拒絶ではない。 「我慢できないじゃないか」  なぜなら、彼もまた切ない表情で、彼女を抱きしめたから。  それからのことは、どれほどの時間のことだったか、当人達にもわからなかった。  一刀が腕の中の女性の唇を奪ったのは一瞬のことだったかもしれない。  唇を割って、熱いくらいの舌が滑り込むまで、一晩かかったような気もする。  翠の意識に紗幕がかかったかのように感じるのは、あまりに長い間息をするのを忘れていたための酸欠のせいだったかもしれないし、唇をなぞり、その熱や、その形や、押し返す弾力を味わうように蠢く彼の舌のなせる技だったかもしれない。  呼気も唾液も交換し合いながら、二人は一秒も視線を外さず、永遠とも思える間、無言で会話をし続けていた。  そして、繋がれた手は、一度も離れなかった。 「なあ、一刀殿」  ほんのわずかに唇が離れた時に、彼女はため息のようにそう呼びかける。 「ん」 「あたし、大事な人になれたかな?」  ごくごく近く、喋る度に一刀の膚に息がかかる距離で、彼女は遠くを見るような瞳で続ける。 「前、あたしに……敵わないってわかってても挑むって言ってた」  かつて、成都で。  彼はそんなことを誓ったのだった。 「うん。翠は、俺の大事な人だ。俺みたいな弱っちい奴に言われても実感はないかもしれないけど、それでも、守ってあげたいと思う人だ」 「じゃあ、見せて」  硬直は、ほんのわずか。  膚の露出している部分をすべて朱で染めながら、彼女は震える声を押し出す。 「証拠、見せて」  次の口づけはさらに情熱的なもの。  舌を絡め合い、視線を絡め合いながら、後ろ手で女は扉を探り、男はわずかに開けられた扉をさらに広げる。  二人は繋がり合ったまま、転がるように、その内側の闇へと吸い込まれていく。  そして、扉は内側から閉められた。  9.巡幸 「ねえ、私思うのだけど、一刀って、変態的な行為をしはじめるとやけにねちっこいわよね」  生まれたままの姿に、汗を拭くための布を斜めにかけただけ、という格好で金髪の少女は男の事を見上げる。彼女が肘をつくのに太腿を提供している一刀は寝台の上に足を伸ばして座った姿勢を少し調整しながら華琳の青い瞳を見つめる。 「そうかな?」 「そうよ。今日だって……お尻だけしちゃって」  布のかかっていないかわいらしいお尻をもぞもぞと動かすのは、思い出したのか、あるいは、なにか違和感があるのか。その表面は汗と彼の吐き出した液とが混じり合って、てらてらと光っている。 「そういう約束だろ。この間、俺の尻をいじった時に、後で代わりに華琳のを……って」 「それはそうだけど、こんなにしなくてもいいでしょう」  口をとがらせて非難するのに、一刀はにやりと笑って見せる。 「嫌がってなかったくせに」 「そ、そういう問題じゃないわ!」  かっと赤くなった顔で、金髪の覇王はさらに言いつのる。 「それに、私が一刀の後ろをいじめたのは、二度。しかも泣いて頼むからお菊ちゃんを勘弁してあげて、この指でよ。今日は何度あなたの太いのでされたかしら? 五度? 六度? 正直、途中意識を飛ばされてたんだけど?」  すぐにからかうような、あるいは面白がるような反論が返ってくると思っていた華琳は、一刀が彼女から視線を外し、短い沈黙を挟んだことに驚きを隠せなかった。 「……男が後ろにちょっかいを出されるのは、女性にはわからないすさまじさがあるんだよ」  その台詞の調子になにかを感じたか、華琳もまた彼を見上げる瞳を伏せて視線を逸らす。 「……そうなの」 「……うん」  深刻になった雰囲気を振り払うように、華琳はくるくると丸まった金髪を振り振り、怒ったように主張する。 「でも、さすがにこれじゃあ、お腹の調子がおかしくなりそうよ」 「なら、ちょうどいいじゃないか」  一刀は軽く笑いつつ、彼女のお尻をなでる。 「華琳は、比較的、べ」  だが、急に走った脇腹の痛みに、彼はそれ以上、声を発することが出来ない。 「ねえ、一刀」  にこやかに。あくまでもにこやかに、彼女は言う。その指が肉をむしりとる勢いで男の脇腹を掴んでいるのに、その表情はどこまでも穏やかだ。 「私、素手でもあなたの内臓くらい握りつぶせると思うの」 「すいませんでした。調子のりました」 「よし」  脂汗を垂らしつつなんとか声にすると、途端に脇腹からは痛みがなくなり、彼女は彼の体を伝ってその身を起こした。 「座席になりなさい、一刀」 「はいはい」  言われるまま彼女を膝の上にのせると、そのまま金色の頭が胸にもたれかかってくる。汗と唾液と二人の液に塗れた膚をお互いにこすりつけるようにしながら、二人は囁き声で話を続ける。  話はあちらこちらに飛びつつ進んでいたが、ふと一刀が真剣な声音になって訊ねかけた。 「華琳。俺に一月くらいくれないか?」 「ん?」 「春の終わりから夏の初めくらいに、匈奴や烏桓の土地をぐるりとまわってきてほしいんだよ」 「……どういうことかしら?」  華琳の声はまだ甘い響きを漂わせる。検討に値する話でなければ、寝物語に終わらせるのも彼女の優しさのうちだった。 「俺たちは匈奴の部族を下し、西涼の豪族を下した。でもさ、一体となって国をつくるという意味ではそれだけじゃだめだと思うんだ」 「ふうん?」 「たとえば呉や蜀なら、倒してもすぐに、いまみたいに仲良くできる。それは元々仲間――いや、そこまでいかなくても、同じ人間、同じ言葉の通じる相手だって意識がどこかにあるからだと思うんだよ」 「続けなさい」  華琳はしばらく黙った後で、そう短く応じた。声の調子はすっかり普段通りに戻っている。ただし、一刀の話を面白がるような音声は、いまだない。 「今回、北伐で広げた地域に関しては、違う。そもそも生き方が異なるし、こっちの人間は彼らのことを野蛮な部族だと蔑視しているところもある。逆に、あちらにもこっちを見る目ってのがあるだろう。でも、それじゃだめだ。同じ『仲間』になったことを、お互いにわからなきゃいけない。そうじゃなきゃ、わざわざ遠征をした意味がない」 「言いたいことはわかるわ」  華琳は丸まった自分の髪の毛をさらに指に絡めて巻きを強くしつつ呟く。 「長く漢土の影響を受け続けた匈奴でさえ、自らが匈奴であることを意識し、誇りに思っている。それを力尽くで抑えつけてきた塞内の印象がいいわけもない。私たち首脳部の人間からすれば漢を上に、諸部族を下にするつもりはなくとも、統治の官制の中でそういう印象をもたれることも大いにありえる」  こくりと一刀が頷くのを膚で感じたのだろう、華琳は先を続けた。 「それを引き起こさないためには、同胞たることを意識させること。私の支配の下で、どんな者たちも保護され、慈しまれるのだと示すこと。そうね?」 「うん。俺が言おうとしていたのよりまとまってる」 「それで、私自らが北方を巡り、彼の地もまた、この魏と同じく私の土地であり、そこに生きるのは私の民であると示す、か」 「うん。こないだは不測の事態もあって、なかなかそこまでは進められなかっただろう?」  鮮卑の側の戦術により、匈奴が住む地帯の制圧は順調に進められたものの、その後の慌ただしい撤退を考えれば、北は安定しているとは言い難い。特に鮮卑が退いた地域に烏桓が移り住むことは、その西南方に位置する匈奴たちにとっても不安な事態であろう。  人心安定を含めて王自らが姿を見せることはけして無駄にはならないはずであった。 「それと、これはこの間、関将軍と紫苑から聞いたことなんだけど、涼州には桃香が顔を出すようなんだ」  思考に沈み、沈黙を保つ華琳に補足材料を与えようと、一刀は愛紗たちから聞いた話を華琳に伝える。実際に初耳だったかどうかはわからないまでも、華琳は驚いたような声をあげる。 「へぇ? 桃香が?」 「まだ本決まりじゃないらしいけど、焔耶の提案で、慰問に行くことを検討中らしい。もちろん、前線には出ないだろうけれど」 「蜀の兵や、元蜀の兵である馬家の者たちには効果的……か」  蜀の頂点である桃香が涼州の兵たちのもとを訪れることは、現地の兵士の士気をあげることはもちろんだが、北伐――この場合は涼州平定――そのものへの参加姿勢を強く打ち出すことにも繋がる。  蜀もまた西涼の建国を後押ししていることが改めて示されることで、民や兵は心強く思うだろうし、軍閥や諸部族の中には諦めて投降してくれる者が増えるだろう。様々に効果的な動きであった。 「で、そんなことを考え合わせて、やっぱり、華琳に行ってもらうのが一番だと判断したんだ」 「北伐を進める上で、それが重要だと判断したのはいいわ。でも、私が洛陽にいるよりも?」 「うん」  華琳は考えをまとめようとするようにその頭を何度か前後に動かした。一刀の胸で跳ね返る弾力で、思考に弾みをつけているかのような動きであった。もちろん、受けるほうの一刀はそれなりに構えていないといけないのだが。 「ふん。いいでしょう。桂花達にも相談して、時間をやりくりできるか考えてみるわ。……それにしても」  腕が持ち上がり、彼の首筋へと這う。その指の感触にぞくりとしたものを感じながら、一刀も彼女の腹に腕を回す。 「私を手駒に使おうだなんて。大したものね、一刀」 「手駒だなんて。俺は……」 「莫迦ね、一刀。褒めているのよ。本気で、ね」  言葉の通り、心の底から彼女は彼を褒めている。そのことがよくわかっていながら、それでも彼はなんと言っていいかわからない。 「……うん」  どう答えていいのかわからず、結局、彼は一つ頷いただけであった。 「いいわよ。使いなさい。私でも、誰でもね。それが私の理想を、この国のよりよい未来を築くと信じるならば、私はそれにのってあげるわ。ただし」 「くだらないことを持ってきたら、それ相応の罰を、だろう?」 「ええ、そう。わかってるじゃない」  首にあたっていた手は膚の上を滑り落ち、彼女のお尻にあたりつづけている熱いものへと至る。 「このきかん坊にも罰を与えるべきじゃないかしら?」 「こんなやわらかな体を感じてちゃ、無理もないさ。いや、華琳の前でしおれてるほうが無礼だろう」  指が絡む度に硬度を増して屹立するそれ。華琳は思わず、ほう、と小さく息をついてから、彼に笑いかけた。 「ふふっ。あと少しなら……ね。ただ……そうね、その前に一度一緒に湯を浴びましょう」 「ああ、それはいいな」 「じゃあ、運んで」  甘えを含んだそんな要請に抗える者などいるはずもない。  男は女をしっかりと抱え、女もまた彼に絡みつきながら、二人は風呂に繋がる道へと消えていくのだった。      (玄朝秘史 第三部第二十二回・後編 終/第二十三回に続く) ○一刀の子供 郭奕(かくえき):一刀と稟の娘。幼名は阿喜(あき) 厳徳(げんとく):一刀と桔梗の娘。幼名は千年(ちとせ) 荀ツ(じゅんうん):一刀と桂花の娘。幼名は木犀(もくせい) 周循(しゅうじゅん):一刀と冥琳の娘。双子の姉。幼名は大周。 周胤(しゅういん):一刀と冥琳の娘。双子の妹。幼名は小周。 マウ、ペルシャ、スコゥ、ラグ、クス:一刀と美以の子供たち。 アビ、コーニ、サイベル、:一刀とトラの娘たち。 バーミー、クーン、シャル、 バン、ムリック、ヤマ:一刀とミケの子供たち。 プーラ、ソマ、バリニー、コラット:一刀とシャムの子供たち。  ――以上、数えで二歳 夏侯衡(かこうこう):一刀と秋蘭の娘。  ――以上、数えで一歳