玄朝秘史  第三部 第二十二回・前編  1.送別  その日、洛陽を中心とする河南尹の地方は、好天に恵まれた。呉蜀の重鎮たちにとっては、出発の日がこのように晴れ渡るのは、実際上でもありがたかったし、また、縁起を考えても今後の希望を予感させてくれるものであったと言えよう。  事実、呉の人々はこの日和を喜び、朝も早くから帰国の途についていた。  一方の蜀勢が午後にまでずれこんだのは、涼州へ向かう焔耶や星、さらには蒲公英といった者たちがいたこともさることながら、王たる桃香があまりのお天気に日光浴としゃれこんでのんびりとしていたせいもある。  しかし、その桃香たちもすでに馬車や馬上にあり、いまは一組の親子が別れを惜しんでいるばかりであった。 「お父さんを忘れないでくれよー」  じゃれついてくる娘の小さな手に人差し指を掴まれながら、一刀は寂しそうに呟く。 「ちー」  千年はそんな一刀の顔を見て、もっともらしく頷く。ちーというのは千年の自称であり、はじめて口にした言葉だが、なんでもそれであらわそうとするので、大人たちは理解できないこともしばしばだ。だが、千歳も数えで二歳、もう生まれてから一年ほどが経とうとする。言葉ははっきり喋れなくとも、案外こちらの言うことは理解しているものだ。  あるいは、彼女も父親の切ない風情を見て、慰めようとしているのかもしれなかった。 「二度と会えないわけでもありますまい」  からからと笑うのは、娘を抱き上げている桔梗。愛紗が前将軍として洛陽に留まるため、大使は紫苑一人となり、彼女は成都に帰還することとなった。そのためのこの一幕であった。 「まあね。体には気をつけてな」 「それはもちろん。子供のことですから、口に入れるものや着せるものには注意しますぞ」 「いや、千年だけじゃなくて、桔梗もね」  あたたかな言葉と笑みをかけられ、まるで思ってもみなかった彼女はその動きをしばし止めてしまう。 「ははっ、これは……」  思わず、といった様にもらした後で、彼が見つめてくる視線のあたたかさに彼女はその柔らかな顔にはっきりと笑みを刻んでみせた。 「ええ、気をつけましょう」  笑顔で二人は頷き合う。ふと男は辺りを見回した。周囲には魏の幹部たちもいるのだが、さすがに一刀たちを急かすような無粋は華琳その人が許さない。 「千年ができたのを聞いたのも、似たような時だったね」 「ええ、あの時は、ワシのほうが見送りました」  千年が彼女の胸を登り始めたのでよいしょ、と肩当ての上にのせてやる桔梗。千年は、母が頭を動かす度にそのかんざしが揺れるのを、じぃっと見つめ始める。 「今度は俺の番か」  母子の様子を一刀は慈しむような目で見続けている。動きの一つ一つを、脳裏に刻み込むように。 「あの折は、腹の千年と共に待っておりました。今度はそちらが待つ……。いや、あるいは」 「迎えに行く番、か?」 「ふふ。さてはて」  そんな会話を交わし、くすくすと小さな笑いをもらす両親に同調したか、千年が小さく笑い始める。そのきゃっきゃという声に、一刀はさっぱりとした顔になった。 「じゃあな、千年。また会おう」  娘の小さな手を握り、三度振る。それから、名残惜しそうに手を離すと、桔梗に向けて手を振った。 「桔梗、またね」 「はい。いずれ再び」  そうして、彼らはそれぞれの道を行くべく歩き出す。 「それじゃ一足先に戻ってるねー、お姉様」 「おう、徐庶殿によろしくな」 「愛紗、またなのだー」 「姉上を頼むぞ鈴々」  動き出した馬と車の列と見送りの一団の間で、いくつもの短いながらも思いのこもった声が交わされる。馬車の窓から身を大きく乗り出した桃香が、華琳たちに向けてぶんぶんと大きく手を振っていた。 「またです、華琳さーん。愛紗ちゃんをよろしくお願いしまーす。あ、お酒おいしかったですよー」 「はいはい。それより、落ちないようにね」 「え? わわっ!」  華琳の懸念通り、平衡を崩した桃香が窓から転がり落ちそうになる。慌てて同乗する朱里と雛里が取りすがり、懸命にひきあげた。がたごとと車体を揺らしつつ、なんとか蜀の女王は馬車におさまり、諦めたようなため息と明るい笑い声と共に一行は街道の先へと消えていったのだった。 「相変わらずにぎやかね」 「あれが桃香様の良いところで……」 「まあ、それはいいけどね。愛紗、あなた洛陽にいるのなら、もう少しおとなしくしてもらわないと困るわよ」 「わ、私は姉上ほど騒々しくはない!」  先頭に位置する美髪公と覇王の二人は、そんなじゃれているとも取れる会話を続ける。その様子に苦虫をかみつぶしたような表情の、あるいはぷりぷりと真っ赤な怒り顔の春蘭や桂花たち。  後ろからのいくつもの視線はもちろん華琳自身も気づいているだろう。しかし、彼女は振り向くこともなく、隣を行く前将軍をからかい続けている。 「まったくあんなに煽らなくてもなあ」  一刀はそんな華琳と彼女を愛する女性たちのぴりぴりとした空気に苦笑するしかない。彼の知る三国志でも曹操は関羽に執着したものだが、この世界でもその傾向がないわけではない。かつて魏の領土を通り抜けようとした桃香一行に彼女を差し出せと要求したのは、桃香たちを試すという要素も多分にあったろうが、まるで興味がなかったというわけでもないだろう。  現状、本気で彼女を取り込もうと華琳が考えているとは思えない。しかし、傍に侍る女性たちの感情をざわつかせるだけの効果は十分にあった。  華琳にとっては、嫉妬も一つの刺激に過ぎないのだろうな……。  そんなことを考えている彼の手に、小さな手が滑り込む感触。見れば、大きな瞳で彼を見上げる女の子の姿があった。 「ちとせちゃん、行っちゃったー」 「そうだね」  璃々が残念そうに言うのは、彼女自身、自分より小さい赤ん坊をかわいがっていたからだろう。 「また会えるよ」 「そっかー」  わかっているのかいないのか、一刀の手を勢いよく振りながら璃々は歩く。一刀とつないだ手の反対側には、豊かな胸を揺らすたおやかな姿がある。大使として残留することが決まっている紫苑は、娘と一刀の会話が一段落したところで話を切り出した。 「後で少しお時間をいただけますかしら?」 「ん、いいよ。なに?」  即決で了承する一刀に、紫苑は前を行く華琳たちの姿を目線で示す。 「愛紗ちゃん……あ、ごめんなさい。関将軍と一刀さんはあまり親交がないと思いまして、少々場をつくろうかと」 「あ、そうだね」  知り合うための一席を設けたいというところだろう。洛陽にいる各国首脳陣がお互いに真名を預けあっているのに比べれば、一刀と彼女の関係は実に希薄と言うしかない。今後の事を考えて、ある程度の信頼関係を築いておくのは必要なことであった。 「こちらからも頼むよ」 「ええ、では、またお招きしますわね」  艶然と微笑む桔梗の顔を見ながら、さて、あの関雲長とどう知り合っていけるかな、と考える一刀であった。  2.参謀 「あー、もうっ。めんどくさいのですよ!!」  小柄な体が、椅子の上で跳ねる。その体の前には、数々の竹簡が積み上げられ、あるいは広げられた大きな机。さすがにそれらの書簡をひっくり返すことはなかったが、筆を置いた拍子に少し墨が飛んでいた。 「あんたねえ、仮にも軍師を名乗るなら、書類仕事くらいで音を上げるんじゃないわよ」  柳眉を逆立てて辛らつな言葉を吐くのは、翡翠色の髪を振り立てた眼鏡の女性。こちらも大量の書類と格闘中。 「集中力が切れるのもわかるが、そういう時は体を伸ばしたり、深呼吸をするといい。あまり酷いなら、散歩に行って来てもいいな」  顔も上げず、書き物を続けるのは、漆黒の仮面を被る女性。彼女も竹簡で築かれた城の中にいる。  二人の言葉に反駁しようとする黒衣の少女は、彼女たちの処理済みの書簡の山と自分の仕事の捗り具合を見比べて、うぐぐと詰まる。 「だ、だいたいあのへっぽこが悪いのですよ。実質北伐の全部を引き受けるなんて。結局はねねたちがやるというのに」  形式的に言えば引き受けたのは麗羽であり、彼女の言う人物はその裏で支えていく形ではあるが、実務をこなすのが彼女たちであることに変わりはない。  だだっ子のように騒ぐその様子に一つ大きくため息をついて、詠は眼鏡を外して汚れを拭き取り始める。 「どうしても嫌だっていうなら、別にやらなくてもいいのよ。あいつとボクたちの関係は君臣のそれよりは緩いものだし。迷惑のかかる相手はいるけど、それも承知ならどうぞ放り投げて」 「や、それは、ですね……。れ、恋殿にも叱られますし、あいつはねねの同志なわけですからして……」  もごもごと決まり悪げに呟く彼女に、かけなおされた眼鏡の奥からきつい視線が飛ぶ。 「だったらごちゃごちゃ言わずに……」 「おっと、そこまで」  詠の語気の鋭さに音々音がびくんと体を震わせたところで、制止の声がかかった。 「……冥琳?」 「我らがいがみあってもしかたないでしょう。お互いいらつきが募るのは疲れのためもある。一休み入れる頃合いかと」  闇色の仮面の奥で、瞳が煌めく。彼女に対してもきつい表情で口を開きかけた詠だったが、なにを感じたか、ふっと緊張を緩める。 「それもそうね。まずは一休みといきましょうか。……ところで、ねね」 「はい?」 「さっきの話だけどね」  先ほどまでのきつさはなく淡々と話をしだす詠に、不思議そうな顔のねね。 「あいつがこの作業の大元になってる……北伐を引き受けてきたって話」 「んぅ?」 「ボクの気にしすぎなのかもしれないけれど……」  そこまで言ったところで、外から小さな声がかかる。会話は途切れ、詠が弾かれたように立ち上がって扉まで駆けていき、即座に開ける。 「あ、ありがとう詠ちゃん」 「どういたしまして」 「両手がふさがっちゃってて」  そこにあったのはふわふわとした髪と、それによく似合うかわいらしい『めいど』服を着けた可憐な女性の姿であった。言葉通り片手には盆、片手には陶器の瓶をぶら下げている。 「お茶? 手伝うわ、月」 「うん。お茶とお茶菓子。あ、ありがとう」  詠は重そうな瓶のほうを受け取り、ゆっくりと持ち上げる。熱湯が入っているのだろう。蓋を閉めていても熱気が漂ってきた。 「おお、ぐっどたいみんぐですね!」  嬉しそうに両手を振り上げつつねねが言うのに、月は曖昧な笑みで返す。 「愚度……怠眠?」 「天の国の言葉で、ちょうど良い頃合いという意味らしいですぞ!」  にこにこと解説する様子に、思わず月も明るい笑顔を返す。 「音々音殿は、最近天の国の言葉に夢中でな」 「なにかって言うとあいつの後ちょこちょこついてまわってるからねー」  他の二人のからかうような声音に、ねねはほっぺたをぷうと膨らませる。 「なんですか。新しい知識を得ようというのは軍師のたしなみというものではないですか」 「それは、そーなんだけどねー」  そんな風に騒ぎながらも、皆で用意してお茶の時間となる。 「皆さん大変そうですね」 「戦なんて、始まる前が一番大変だからね、しかたないわ。まあ、面倒は終わった後なんだけど」  部屋の光景を見渡して呟く月に、詠は肩をすくめてみせる。いまも、卓を用意するのに結構な量の書類を移動させなければいけなかったくらいだ。 「それでも、北伐という一連の流れであるだけましではあるが。なにより、一軍を割いているせいもあり、補給の問題がかなり楽になっている」  月の淹れてくれた茶を飲みながら、冥琳は感心したように言う。彼女と雪蓮は国譲りに専念していたために北伐に本格的に関わるのはこれがはじめてのようなものだ。そのためにかえって全体を余裕をもって論評できていた。 「そうは言っても将が入れ替わったりしますからね。夏のはじめには蜀の兵を戻さねばなりませんし」 「ねねちゃんは恋さんと一緒に涼州に行くんだよね?」  詠にでも聞いていたのだろう。月がにこやかに口を挟んだ。 「そうですぞ! 恋殿と共に偵察隊を率いるのです! ねねは先遣軍師という肩書きになりますが」 「恋さんが、偵察……?」  飛将軍の名前からは縁遠い任務に、月は小首を傾げる。 「偵察と言っても威力偵察ですよ、月殿」 「威力偵察、ですか」 「ええ。敵の影響の強い地域に小規模で進軍して相手の出方を見たり、実際に戦って敵情を探ったり、あるいは後方にまわって輜重を襲ったり。そんな役割ですな」 「はあ……」  冥琳の説明に頷いてはみるもののいまひとつ理解し切れていない風情の親友に、詠が助け船を出す。 「ええとね、前の戦で烏桓兵を恋たちが率いたのは月も知ってるわよね?」 「うん。冀州に住んでた人たちだよね」 「そう。でも、その烏桓は前回の北伐で空白地帯となった北方に移住することになったの。まあ、彼らからすれば世代を超えての帰郷なのかもしれないけど」 「そのおかげで実際に兵として使えるのは四千を切ったのですよ。移住にも人手がいりますから当然と言えば当然なのですが」  ふむふむと月は興味深げに耳を傾ける。 「当初は四千まで補充して、華雄と恋の部隊にそれぞれ二千を配しようと思ったんだけど、翠と蒲公英の部隊と比べて規模が小さくなりすぎるのよね。今回、霞たちが北に行くから、涼州には騎兵部隊は馬家と烏桓兵だけだし。連携を考えて、華雄に大部分を与えることにしたの」 「そして、恋殿の部隊は身軽な戦力として機能させることとなったです。恋殿の武、ねねの智、最精鋭の烏桓突騎五百。小規模ながら快速の部隊ですよ。身軽なだけにどこにでも投入可能で、ねねと恋殿の判断で機敏に動けるです」  手に持ったお菓子を振り振り、彼女は小さな胸を張る。 「万が一敵中に取り残されるようなことがあっても、二人がいれば、敵中を突破して本隊に合流することも、後方で攪乱することも、先に拠点を築いておくことも可能だからな」 「敵中深く分け入り、地形や情勢も調べてこられるってわけ。恋の桁外れの武あってこその部隊ではあるけど……正直、あの娘の本能に任せたほうがいいこともあるしね」  軍師としては認めがたいことだけど、と詠は苦笑気味に呟く。 「それで偵察ですか。へえ。たしかに涼州の北のほうは豪族の人たちがたくさん分かれているから、そういう隊があってもいいのかも」  考え考え、月は納得したように頷く。涼州は月にとっても故郷である。彼女自身は涼州でも南の出であり、あまりに北方となるとそれほど馴染みがあるというわけでもないが、気にならないわけもない。 「うん。それに、恋ぐらい圧倒的ならかえって敵の被害も抑えられると思うのよね」  なぜか照れたように言う詠の言葉に淡く微笑み、月はもう一つ気になっていた事を訊ねる。 「そういえば、雪蓮さんも涼州に行かれるのですよね?」 「ああ。あまり目立つなと言っておいたのだが……。華琳もいいと言ってるとかなんとか、一刀殿を言いくるめてしまってな」  月に頼んで濃く淹れてもらった二杯目を傾けながら、黒い仮面の女性はやれやれと言いたげに首を振る。 「戦狂いもたいがいよね。……でも、大丈夫なの? あんたは洛陽を出られないでしょ」 「子供もいるからな。私は洛陽を長く離れるつもりはない。作戦だけなら、ここでも問題なかろう」 「しかし、ねねも心配ですよ。詠も言う通り戦狂いですし……」 「大丈夫さ。祭殿がいる」  二人の懸念に即答し、それで全て終わったことという風情の冥琳に、疑問を込めた視線が集まる。その沈黙の中で、結局、詠が口を開いた。 「祭が信用できないってことはないけど。でもねぇ……」  さらに訝る声に目を丸くして、ぷっと噴き出す冥琳。 「ははっ。さすがの賈文和も読み切れていないか」 「え?」 「あの雪蓮に輪をかけて破天荒だった文台様の尻ぬぐ……いや、補佐を務めていたのは誰だったと思っている?」  珍しく面白がるような顔で、冥琳は問いかける。さすがにそれを言われて軍師二人は腕を組んで考え込んだ。 「……ふうむ」 「文台様亡き後は、雪蓮も私もあの方に育てられた。最近は下の世代の手綱をとる重責を私に任せて己の楽しみを求めておられたが、雪蓮を御せぬ方ではない。しかし……」  そこで冥琳は遠くを見るように視線を上に向け、無意識だろうか、少女のような仕草で首を傾けた。 「そもそも雪蓮が我を忘れるほどの相手がいるかという問題もあるな」 「いまの関西は韓遂さんが落ち着いていますからね……」  関西――函谷関の西――に諸勢力あれど、かつての馬騰と並び立てたのは韓遂ただ一人。もちろん、警戒すべき相手はそれだけではないが、前回の鮮卑の敗北と合わせれば、諸勢力、諸部族の大同団結の可能性は低い。 「あれもさすがに馬家相手に陰謀巡らしたりしないでしょう。……たぶん」 「その分、まとまりがなくて実に面倒なのですよ!」  一休みの最中だというのに、軍師たちの話はそんな風に進んでいくのだった。  3.臣  月がお菓子の皿を片付けて部屋を去っていった後、それぞれの机に戻ろうとするところで、黒い鬼の仮面をつけた女性が思い出したように訊ねかけた。 「先ほどの話だが」 「ん?」  机に戻り、墨をすろうとしていた詠が、その手を止める。よくわかってない様子の彼女に、ねねが声をかけた。 「あのへっぽこがどうとかいう話ではないですか? 北伐を受けてきたのがどうとか……」 「そうだ。なにか気になることがある様子だったが」 「ああ、それ。北伐に限った話ではないけどね。結局、どこまでがあいつ本人の意向なのかどうか、という話よ」  詠の言葉に、大小二人の軍師は不思議そうな顔をする。彼女の問いかけていることは、あまりに当然のことで、それに答えを出せないはずもない。それでもなお抱く疑問の意味がよくわからなかった。 「それはもちろん華琳の考えも含まれているのではないですか?」 「三国の、ことに魏の領内で行われる意思決定に覇王が関わらないはずもないからな」  二人の発言に、詠も同意の仕草を返した。 「うん。それはその通り。でも、じゃあ、なんで華琳があいつを選んだのかしら?」 「それは、華琳にとってあいつが信用に足る人物だからでしょう? 春秋の二人は別格としても、それに並んでもおかしくない程度の信頼を得ていると、ねねは見ていますが」 「こうして実務をこなす我らのような人材もいることだしな」  それらの言葉にも詠は同様に肯定の意を示す。おそらく、そのまま誘導したいのだろうと、二人は彼女の話にのってみることにしたようだった。 「そうね。じゃあ、なぜそんなことになっているのかしら。あいつが信頼されてるのは――そもそも魏軍の古参なんだし――いいとしても、ボクたちを預けているわけは?」 「それはもちろん、いまここにいるような人間を入れやすいからでは? 詠だって、いきなり華琳に仕えろと言われるのは勘弁でしょう」 「魏の臣ではなく、客将のそのまた食客として人材を確保し、役立たせる。実に正しい判断だと思うがな。私や雪蓮のように表向きは身を隠さねばならない人間をも利用できる」 「そう、正しいわ。非常に正しい。華琳の性格を考えなければ、ね」  冥琳は興味深げに仮面の奥の目を光らせ、ねねはうむぅと腕を組む。 「華琳の人材好きは有名だし、実際に彼女は人の才を愛する。けれど……。そうね、ちょうどいい例があったわね。この間の布令を覚えてる? 最後にはなんてあったかしら?」 「唯才是舉、吾得而用之……か」 「そう。我が用いよう、よ。彼女は手元に才を置くだけで満足したりはしない。自分のものにしなければ、ね」  しばし、沈黙が訪れる。むむむ、と唸っていた音々音が筆をつかみ、なにか書き付けつつ話し始める。 「しかし、むざむざ逃すよりは、確保しておいたほうがいいのではないですか? あのへっぽこ主自体、華琳と一体のようなものですし……。少なくとも大筋では逆らうようなことはないでしょう」 「それは普通の人間の思考。手放したらもったいないと思うのはね。華琳の場合は違う。惜しいとは思っても、自分の思い通り使えないのなら、かえって邪魔だと思うはず。そうじゃない?」 「そうですかねえ……?」 「王なぞというものはそれくらい我が強いのは認めんでもない。しかし、王であるということは、個人の感情だけに構ってはいられないということでもある。あえて自分を曲げ、一刀殿のところに押し込めておく選択を取ったのかもしれん」  扱いづらさにかけてはおそらく三国でも珍しいほどの王に傍近く仕えていた冥琳が説得力のある言葉を吐くと、詠は少し考える。 「ふむ。じゃあ、ぶしつけだけど訊くわね。あんたたち、華琳に閨に誘われたことある?」 「……い、一度だけ」 「雪蓮と一緒の時に一度、な。からかっていたとしか思えないが」  唐突な問いかけに、顔を赤くしたり白くしたりしながら、二人は答える。 「ボクもそんなもの。でも、おかしいと思わない? もし、すっぱり諦めるのではなく、とりあえず手元に置いておく選択をしたとしたら、多少は粘るんじゃないかしら。儀礼的に一度声をかけるだけなんて、華琳らしくないわ」 「……うぬぼれととられますよ、詠」 「言ってるでしょう。彼女は人の才を愛するの。ここにいる人間は誇っていいだけの才を持っているし、まして華琳の欲望に果てがあるだなんて思っちゃ駄目よ。まあ、そこらへんはあいつもそっくりだけど」 「まあ、そうだな」 「そ、そうですね」  苦笑いで受ける冥琳はともかく、先ほどよりもさらに顔を赤くし、どもりがちに言うねねに驚きの表情を浮かべ、次いでなにかを疑うように厳しい視線を送る詠。 「……ちょっと待った。あんた……」 「な、な、な、なんですか?」  慌てて竹簡に顔を落とすねねに呆気にとられたように口を開く詠に、苦笑混じりの声がかかる。 「詠殿」 「……そうね。いまはやめるわ。話を戻しましょう。ボクはそのあたりの不自然さに、かえって華琳の意図を感じるの」  気を取り直したように、ねねから視線を外して彼女は言う。 「こう言いたいのかな。本来、曹孟徳という人間がするはずもない行為をしている、その理由が北郷一刀という人間と関わってくる、と」 「ええ。己の臣とせず、北郷一刀という人間にボクたちを預けている理由がある。そこがね、気になるの」 「ですから、それは、結局、あの男に対する期待や信頼というものの顕れなのではないですか?」 「覇王が侍ることを許した唯一の男だからな。そもそも、あの方を客将とし続けているところからも、特別扱いがわかるというもの」 「不臣の礼というやつですね!」  うんうん、と頷いているねねの素直な様子に、ほう、と小さくため息をつく詠。それは呆れているというのではなく、自嘲のような雰囲気が込められている。 「期待。それはあるでしょうね。未来の夫、あるいは子の父となるはずの男への嘱望。でも、それだけかしら、本当に」 「では、なんだと? 詠は、華琳があのせーよく魔神になにを望んでいると?」 「……ボク自身の考えはある。けれど、いまは言うつもりはないわ」  言い切って、詠は二人を見る。厳しく引き締まった顔は緊張のためか唇の端がわずかに震えていた。 「周公謹、陳公台。二つの頭脳に、考えて欲しいの。いま、そして、これまで華琳があいつにしてきたこと、そして、これからするであろうこと。そこから導かれる結論。もし、それらがボクと同じものにたどり着くならば……」  彼女は最後を濁す。けれど、そこに並々ならぬなにかが潜んでいることに気づかぬ二人ではなかった。 「少々よいかな?」  ねねと冥琳は、詠のあまりの真剣さに顔を見合わせ、しばらくの間、口を開こうとしなかった。そして、豊かな黒髪をゆっくりとかきあげて冥琳が口を開くまで、詠は微動だにしていなかった。 「なにかしら」 「先ほど、貴殿は一刀殿と自分たちの関係は君臣のそれよりも緩いと言っていた。しかし、なにやら聞く限り、彼のために知謀の限りを尽くせと言うように聞こえるぞ」 「う? え? そ、それは……」 「私はあの方に愛もあれば情もある。我が子らの父でもある。顔を隠し、こうしてかくまってもらっている義理もある。今後の心配をするのもありといえばありだろう。しかし……わかっていると思うが、一心に仕えることと、それらは異なる」  冥琳の静かな声音に、責めているような調子はない。彼女が不平に思っているという様子もない。ただ、なにかを探るように、彼女は詠の琥珀色に揺れる瞳を覗き込んでいた。 「ぼ、ボクはなにも……」 「……ま、そのあたりも、『意図』のうちなのかもしれないな」  なにごとかもごもごと言おうとする詠を遮って彼女はばさりと髪を揺らし、首を振った。 「わかった。考えてみよう」 「ねねも考えてみるですよ。恋殿の安全をお守りするためにも!」  承諾の言葉と共にゆっくり頷く冥琳とは対照的に、音々音は楽しそうに腕を振り上げている。彼女にとっては知謀の士として頼られるだけで嬉しいことなのかもしれない。 「ああ、そうだ。もう一つだけ言っておく」  一息つき、皆が普段の仕事に戻り始めたところで、冥琳はしごく真面目ぶって呟いた。 「なにかしら?」 「私は周瑜などではない。周護だ。間違えてはいけないな」  あまりに意外な言葉に、ぽかんと口をあける詠にいたずらっぽく片眼を瞑ってみせる冥琳であった。  4.伝承  一刀の執務室に集められた凪、霞、白蓮、翠の四人の将は、一刀の目論見を聞かされて、少々面食らっていた。 「伝承、ですか」 「匈奴の言い伝えなあ……」 「あたしは羌の、白蓮が烏桓、か」  三人が言うように、一刀は伝承を調べるように、彼女たちに依頼していた。 「うん。それぞれの任地に戻ったら、彼らに口伝やらなにやらの話を聞いて欲しいんだ。まあ、一族秘伝のものとかも多いだろうから難しいかもしれないが……」 「そりゃ、まあ、円滑に統治してくためにも仲よう話すんは大事やろから、そこから色々探れるとは思うけど、一体なにが知りたいん?」  最も北方、北に退いた鮮卑と対する予定の霞が一刀の意図を知りたいと話を向ける。 「ええとね、かつて匈奴が鮮卑や烏桓の先祖を従えて強大な国家を作り上げていたことは知ってるよね?」 「それはもちろん。ただ、それも秦とか、せいぜい漢の武帝までだったかと……」  北に赴いた後で、かつての根拠地幽州まで東進し、そのまま幽州の統治と防備、海運による補給を任される予定の白蓮が記憶をさらうようにして呟く。 「うん。そうらしいね。で、その頃の事は、こっち側――秦や漢、それに先立つ各国の情報が断片的にはあるものの、実態はわからない。なにしろ敵側の目だからね」 「そりゃあな。あたしだって、直に接しててもわからないことって多かったし」  かつて涼州で羌やテイ相手に奮戦していた翠がうんうんと頷く。彼女は北伐の中でも涼州方面軍統括――左翼軍大将を務める予定だ。 「それでね、俺が欲しいのは、遊牧民たちを束ねるやり方というか……。どういう経緯で匈奴が国――いや、勢力範囲を広げ、多くの部族をその下に集めていったか、そして、その後、それらをどう扱ったか、という全般的なことなんだ」 「もしかして、そこから、今後の統治や支配のやり方を学ぼうというのですか?」 「そ。凪、さすがだな」 「ありがとうございます!」  推測のあたった凪は、一刀に褒められて実に嬉しそうに返す。彼女は前回の北伐と同じく補給と後詰めを担当するが、霞と白蓮の補佐――つまりは北方から東北方面の連携を保つことも期待されている。 「華琳は、いわゆる漢土の覇者となり、そこを、蓮華や桃香と一緒に統治している。だが、今回の北伐で俺たちは新しい人々、匈奴をはじめとする遊牧の民を仲間とすることになった。それらの人々に対して、これまでと同じやり方が通用するとは限らない。稟や風はそういったこともすでに考えてはいるようだけど、彼女たちが推し進めようとしていることをさらに円滑にするためには、向こう側の考えを理解し、やり方を学ぶのが一番かと思ってね」 「しかし、そういったものが残っているかな? こっちと違ってあんまり文字で残さないと思うけど」 「だからこそ、伝承を聞いて欲しいのさ。英雄の伝説や神話といったものは、実際の政治の闘争や戦争を色濃く反映していることが多い……っていうのを聞いたことがあるから。実際には軍師勢や学者の判断をあおぎつつだろうけど、なんとか読み解いていけると思うよ」  熱心に語る一刀に、いまひとつ重要性が呑み込めない四人という図ではあったが、彼がそれほどまでに求めているのならば、それくらいは、と思う面々でもあった。 「ふうん。まあ、長い目で見たら必要なんかもしれんな。そういうんも」 「ちょっと迂遠かもしれないけど」 「うん。即効性は期待出来ないし、もしかしたらあんまり役に立たないかもしれないね。でも、いずれは必要だと思う。ただ伝承を知るだけでも、相手のことを知るのには有用だよ。これから、さらに多くの文化が異なる人たちと接することになるし、情報は多いほうがいいだろう?」 「わかりました。注意を払います」  凪が言うのに合わせて他の三人も頷いてみせるのに、一刀は安心したように息を吐き、話を続ける。 「それと、生活習慣だな。これはすでに白蓮や翠は知っていることも多いだろうから、できれば、元々詳しい稟あたりとすりあわせをしておいて欲しい。知っていることはなんで、知らないことはなにか確認して……」  そこまで言ったところで、ばんっ、と音を立てて扉が開く。 「アニキーーーっ!」  扉を開けた勢いで転がるように入ってきたのは、快活そうな女性。すらりと伸びる細い足がまぶしい。 「うわ、なにごとだ?」  声と動きで猪々子だと知り、思わず拳を握りしめ、椅子から腰を浮かせかけていた凪が姿勢を戻す。猪々子はそのまま一刀の執務机に一直線に走ってこようとして、後ろから駆けて来たもう一人の人物に羽交い締めにされる。 「文ちゃん!」 「なんだよ、斗詩ー。こんなところで抱きついて」 「違うでしょ!」  彼女を止めているのは、もちろん黒いおかっぱ頭の女性、斗詩だ。こちらはむっちりとした太腿の柔らかそうな様子に目が奪われる。 「麗羽がわがままでも言ってるの?」  驚きから回復した一刀が、二人から連想される人物を口にする。この二人が飛び込んでくるとしたら、それくらいしか思いつかなかったのだ。 「あー。自分に指揮とらせろとか言い出したん?」 「ありえるなー」 「まあ、できないわけでじゃないけどな、あいつも。華麗に前進させるのだけなら得意だし」 「圧倒的優勢ならともかく、さすがに今回それは……」 「ち、違います。違います」  四人の将の感想に、慌てて斗詩が手を振る。その隙に彼女の手から逃れた猪々子は机に近づく。だが、それ以上特になにをするでもなく、一刀の横で話し出す。 「姫はご機嫌だよ。なにしろ、アニキにでぇとしてもらったんだからさー!」  ぶぅ、と頬を膨らませ、うらやましそうに彼女が言うのに、一刀とのつきあいが最も長い凪が、なにかを懸命に思い出そうとするように眉間に皺を寄せた。 「でぇと……。天の国の言葉のはず……。たしか、逢い引きよりは少し軽い意味合いでしたか?」 「うん。元々は、日付を決めて会うって意味だからね。俺のまわりだと、男女で遊びに行く、程度の使われ方だったかな」  凪の記憶力に舌を巻きつつ、一刀は丁寧に説明する。ここできちんと言っておかないと、いつの間にか変な意味に取られかねないことを、彼はこれまでの様々な経験で学んでいた。 「でぇと……」 「でぇとなあ……」 「でぇとか……」  神妙な顔で、あるいはにやりと笑いながら、三人が異口同音に呟く。もちろん、なにやら企むように微笑んでいるのは霞であり、真剣な顔で繰り返しているのがその他の二人だ。 「ともかく、そのでぇとだよ。あたいたちともでぇとしようぜ! 麗羽様とはしたんだろ?」 「遊びに行きたいって言うからね。猪々子たちも遊びたいのか」  買い物につきあったり街を散策したりなので、実を言えば普段していることとそう変わるわけでもないのだが、なにか計画をたてて一緒に遊びに行くのが楽しいのは間違いない。猪々子たちが望むなら、大歓迎な一刀であった。 「北伐で出かける前に!」  元気いっぱいに答える彼女の勢いに、一刀は苦笑いを浮かべつつ応じる。 「んー、わかった。猪々子と斗詩の二人でいいんだよな?」 「あったり前だろ!」 「ぶ、文ちゃん……」  猪々子の裾を引っ張って非難するように彼女の名前を呼ぶ斗詩に、にっこりと笑いかける一刀。 「いいんだよね?」 「は、はい……」  顔を真っ赤に染めつつもしっかり頷くのを見て、一刀は机の上から小さめの紙をひきよせ、何ごとか書き付けていく。 「ともかく、いまは話の最中だから、あとで予定を連絡するよ。それでいい?」 「うん、わかった! じゃあな、アニキ!」  そのままくるっと向きを変え、入ってきた勢いと同じように駆け足で部屋から出て行こうとする猪々子の背中に、一刀は慌てて声をかけた。 「あ、猪々子!」 「んぁ?」 「宝探しは無理だぞ?」  言った途端、彼女の唇が鋭くとがる。 「えーっ。地図一枚分くらいはー?」 「だめ」 「ちぇーっ。わかったよ。じゃあ、どこ行くかとかはアニキに任せるから」 「うん、任された」 「今度こそ、じゃあなーっ!」  言葉通り、猪々子は外に出て行く。取り残されたのはさっきからぺこぺこと頭を下げ続けている斗詩。 「すいません、皆さん。ほんとーっに、すいません。あの、一刀さん。麗羽様は、本当に上機嫌で、しばらくはわがままとかないと思いますので!」 「うん。いつもありがとう。じゃあ、またね」  一刀が手を振ると、頭を下げながら足早に後ろに下がるという器用な歩き方を見せて、斗詩も部屋を出て行く。彼女が閉じた扉の向こうから、待ってよ、文ちゃーん、という声がかすかに聞こえてきた。 「まったく、えらい慌ただしいこっちゃ。あ、一刀。うちもでぇと予約なー」 「はいはい。なんとか時間をひねり出すよ」  書き付けに霞の名前も足して、予定をどうするか考える一刀に、椅子の上で体をもじもじと揺らしていた凪が声をかける。 「あ、あの、隊長……」 「ん?」 「私も……その……。できれば沙和と真桜と三人で……」  普段のはきはきとした物言いとはまるで異なるか細い声の申し出に、もちろん一刀は快諾する。 「了解、うれしいよ。……夜とかでもいいか?」 「はい! もちろん、いつでも」  少し考えてつけたした一刀に、何度も首を振る凪。そんな彼女に、ああ、かわいいわあ、と霞が絡んでいくのはいつものお約束の光景だ。  しかし、さすがにそれにも口を挟む人物があった。 「あのさ。そろそろ仕事に……」  おずおずと、しかし、生真面目な声で提案するのは白蓮。それに一刀が同意しかけたところで、部屋中に響き渡る声があった。 「あたしも!」 「え?」  椅子を鳴らして立ち上がり、大音声を発したのは、茶色の髪を長く揺らした翠。全員の驚いたような視線を受けて、彼女は首筋まで赤くしながら次の言葉を口にする。 「あ、あ、あたしも、それ!」 「それ?」 「なんや、錦馬超もでぇとかいな」  鸚鵡返しに返す凪に対して、からかうような声音で問い返すのは霞。残りの白蓮はぽかんと口をあけていた。 「み、みんなするんだろ。なら、あたしだって!」 「翠も?」 「な、なんだよ! あたしじゃ駄目かよっ!?」  なかば怒っているような声音になり、目尻にはうっすら涙が盛り上がる。手の甲までかっかと燃え上がるように赤いのを見て、霞がにやにや笑いをひっこめる。 「いや、光栄だよ。でも、あんまり時間とれないから、遠乗りとかは無理だと思うんだ」  申し訳なさそうに困り顔になるのに、翠は勢い込んで言葉を吐く。 「ま、街中でいい。あたしだって時間あるわけじゃないし!」 「ありがとう、助かるよ。じゃあ……。そうだな、みんな明日までには予定を知らせるよ」  その言葉に、翠は糸が切れたように座りこみ、他の二人はそれぞれに賛意を伝える。 「あいよー」 「了解です! 沙和たちにもそう伝えておきます!」 「う、うん」  そこでようやく話に参加していない人物のほうに向き直る一刀。見ると彼女はなにか言いたげに口をぱくぱくとさせていた。その様子に彼は即座に頭を下げる。 「悪かった、白蓮! すぐ話に戻るから」 「すまんなあ」 「すいませんでした」 「ご、ごめんな」  一刀に続いて凪たちにも謝られ、白蓮は何ごとか言おうとしていた言葉を呑み込んで、ぎこちない笑みを浮かべる。 「あ、いや……えっと。うん、いいんだ」  それじゃあ、と一刀が息を吸い直し、空気が変わる。 「伝承や習俗の話は、細かい調査方法なんかについては軍師たちにも考えてもらう予定だよ。書簡でもやりとりしていこう。いいかな?」 「えっと……その書簡はあたしや蒲公英より、徐庶殿に送ってもらうのがいいかもしれない……かな?」 「ああ、そうだな。どちらにせよ徐庶さんは涼州のこと詳しく知らないといけないものな。じゃ、そういうことで。それで、鮮卑の対策なんだけど……」  そうして話が続いていく中、内容にも注意を割きつつ、白蓮は顔に張り付けたこわばった笑みを崩すことも出来ず、口の中だけで呟いていた。 「出遅れた……」  と。      (玄朝秘史 第三部第二十二回・前編 終/第二十二回・後編に続く)