玄朝秘史  第三部 第二十回  1.巡廻  一月も十日を過ぎ、それでも衰えない洛陽の祝賀の色。周辺地域での春の祝いが一段落したせいか かえって都には人が増えているように思えた。  そんな街の中を、北郷一刀は警備隊の面々を連れて警邏する。臨時大隊長などと正式に役職まで与えられて、昔なじみの兵たちと、ほうぼうのもめ事を解決して歩いている。  今日も今日とて彼は眠い目をこすりながら、朝から警邏に精を出していた。  洛陽外からやってきた人群れの第一波を捌き終えたあたりで、ふと彼は見慣れた姿を見かける。  美しく長い黒髪を垂らし、何ごとか呟きながら歩くのは、その名も高い魏の大将軍、春蘭だ。当人は、体の前に袋を抱えてまっすぐ歩いているだけなのだが、その漏れ出る気迫が伝わるのかなんなのか、人波が割れるようにして彼女の進路を開いていくのは実に奇妙な光景であった。 「やあ、春蘭」 「ん? ああ、北郷か。つとめご苦労!」  こちらに気づいていないな、と一刀が声をかけると、彼とその背後に続く警備隊の兵士達を認めて、大きな声をかける春蘭。隊員の中には、それだけでなんだか震えている者もいる。それが感激か畏怖かはよくわからない。 「今日は買い物?」 「昼までは空いたのでな。秋蘭になにか買ってやろうと思って」 「それで、その荷物か。蜜柑?」  手に持つ袋を覗き込み、中身を見る一刀。黄色や橙の色とりどりの果実がそこにあった。 「うん。さっぱりとしたものが食べたいと言っていたからな。柑橘の類を集めてみた。ただなあ」  ううむ、と唸って彼女は続ける。 「なにか足りない気がするのだ。そういうわけで、北郷。なにか案を出せ」 「唐突だな」 「お前のせいで腹をふくらませて、外に行くのも億劫になっているのだぞ。それくらい当たり前だろう」 「まあ、そうか」  言われてみれば、秋蘭が出歩くのが大変なのは、一刀のせいでもある。大きなお腹で書類仕事をこなしている彼女を、彼ももちろん気遣って、腰や肩を揉みにいったりするのだが、やはり男ではしてやれることに限界がある。共に暮らしている春蘭に協力してやるのも彼の務めの一つだろう。 「ああ、そうだ。じゃあ、柑橘類を使ったお菓子を作っているところがあるんだけど、それはどうかな? あわせたお茶もあればいいかもしれないな?」  彼は少し考えて、ぴんと来たのか晴れ晴れと顔を上げる。 「おお、それは悪くない。よし、案内しろ」 「ん、了解」  そうして、彼は警備隊とわかれて、春蘭と通りを歩き出すのだった。  爽やかな香りの茶葉を道すがらで買い込んでから彼らは目当ての店の近くにたどり着いた。そこから見ると、店の前には十人程度の列が形成されている。 「並んでいるが、大丈夫か? さっき言ったろう。昼には城に戻らないとまずいのだ」 「うん。あれくらいなら大丈夫だよ。ここは人気だけど、人をさばくのがうまいんで、時間がかからないんだ」 「手際がよいということか?」  言いながら、最後尾に回る。一刀が話している間も列が動いているので、その様子を見て、ようやく納得したようだった。 「うん。そういうことになるね」 「そうか、それはよいことだな。そういえば、この間、華琳様のお出かけについて行った時、相手の木っ端役人の手際がどうしようもなく悪くてな。つい、そいつの書いている書類ごと、机を叩き切ってしまった」  片手で剣を振る仕草をする春蘭。その格好の通り、大剣で真っ二つにしてしまったのだろう。 「おいおい」 「華琳様を前に規約だからとかなんとかうるさかったのだぞ。規約もなにもそれを決めているのは他ならぬ華琳様だろうに!」 「いやいやいや。いくら王でも一度決めればそれに従わないと」  話している間に興奮が蘇ってきたのか、声を荒らげる春蘭。一刀は周りから飛んでくる視線になんでもないと身振りで示す。 「むう。たしかに華琳様にも叱られてしまったが……」  急にしゅんとする彼女を見て、きっと、かなり怒られたのだろうと少し同情する一刀。華琳とて、春蘭が悪意をもっていないことはわかっているだろうが、彼女自身のためにも叱っておかねばならない局面というのもある。特に、春蘭はこの国を支える大きな柱とも言うべき存在なのだから。  一刀が慰めの言葉を口にしようとした時、通りの向こうで大きな声がした。 「泥棒! 泥棒だよ!」 「……ん?」  振り向いた一刀と春蘭の目に見えたのは、金切り声をあげる商家のおかみさんと、その向こうで必死で走っている男の背中。男は走るのに邪魔になるのか、騒ぎに紛れるつもりなのか、道行く人々を引き倒して混乱を生じさせながら駆けていく。 「春蘭。すまん。こっちの仕事が出来た」 「私も手伝おう」  即座に顔を引き締める一刀に対してにやりと笑いながら参戦の意思を伝える。しかし、一刀はしばらく盗人が走り去っていく方を眺めやった後で、小さく首をふった。 「……いや、いい。あれを見なよ」  一刀が指さすのは賊の進む先、右手側から現れた影三つだ。一つはその躍動する体を最大限に動かして飛ぶように走り、一つは巨大な得物を回転させて異様な響きを生み出し、最後の一つは盛大な罵声を泥棒に浴びせかけている。  その三人を見て、春蘭も頷いた。 「ああ、凪たちか。なら大丈夫だな」 「うん。捕まえるのはあの三人で大丈夫だろう。俺はあの場を収めてくるよ。じゃあ、秋蘭によろしくな!」 「おう! そっちもがんばれよ!」  自身も長い棍を手に駆け出す一刀の背に声をかけ、彼女は外れかけていた列に並び直す。よいしょ、と荷物を持ち直し、春蘭は笑みを見せながら、こう言った。 「全く、せわしないやつだな」  一刀が聞けば、お前がそれを言うかと即座につっこみを入れるだろうが、残念ながらこの場には魏の大将軍にそんなことを言える人間はいるわけもなく、ただ、彼女のあたたかな笑みが、その言葉を飾るのみであった。  泥棒騒ぎを収めた後、一応は菓子屋に顔を出してみた一刀だったが、春蘭がそこに居るわけもなく、結局、凪達と共に警邏を続けることとなった。 「なんだか今日はいろんなやつと会うな」  街に遊びに出ていた美以と南蛮組の子供達――四つ足ですばらしい速さで走る――のうち幾人かがはぐれてしまったというので――どこからか現れた明命と一緒に――探し回った結果、路地裏で猫と一緒に寝ているのを見つけたり、涼州へ発つ前に新しい服を物色していた美羽と七乃に捕まって服屋をはしごしてみたり。そんなことをしている間に、昼時を逃してしまった彼は遅い昼食を三羽烏と摂り終えた後で、そんなことを呟く。 「そろそろ宴席も少なくなってきましたし、会議も一段落しましたから……」 「あー、それはあるか」  凪の言うとおり、宴席自体はだいぶ減ってきている。そろそろ地方の有力者達は自分の領地へと帰る時期なのだ。接待や義理での酒席の減った華琳や蓮華たちなどはその分重要な会議へつぎ込む時間が増えているわけだが、それも全体でのものはほぼ終わり、後は責任者や実務者同士での調整などになっている。そのため、中には時間の空く者も出てくるというわけだ。 「呉や蜀の人達も、そろそろお土産選びとかで、暇を見て街に出るようにしてるって言ってたのー」 「うちらもそろそろ予定たてんとな。正月休み明けの兵たちもしゃんとさせなあかんやろ」 「そうだな。それぞれ向かわないといけないところもあるしな。まあ、俺もほうぼう回らないといけないんだけど……」  ここにいる四人はそれぞれに役割は違うものの、北伐の第二波に参加する。そのための支度はしておかねばならない。とはいえ、魏に属する者たちは洛陽が元々の拠点であるため、他国の者に比べれば動きやすい。 「あ、そうだ、凪。今度、霞と白蓮と一緒に少し時間を取ってくれないか? 北方のことで相談があるんだよ」 「はい。わかりました。では、私から霞様たちにお伝えした方が?」  ふと思い出した、というように言う一刀に、凪はきびきびと答える。 「ああ、そうだね。でも、俺からも声はかけるよ」 「はい。了解です」 「なんやー。姐さんと凪と白蓮はんだけでいやらしことするん? うちらも混ぜてぇなあ」  横で聞いていた真桜がにやにやと割り込んでくる。途端、その引き締まった顔を真っ赤にする凪。 「ば、莫迦、そういうことではない!……ない、です、よね?」  赤面しつつ叱りつけながら、しかし、自信を失ったかのように、もごもごと小さくなる語尾。さすがにその様子に一刀は苦笑するしかなかった。 「おいおい。違うってば。それに、そういうのなら、お前たち三人を呼ぶって」 「わー、隊長ってば、昼間っからだいたーん」 「正面から言われるとなんか照れるな。あ、でも、姐さんもないがしろにしたらあかんで? って、三国一の種馬に、いらぬお説教やなー」  表情をころころ変えながらきゃいきゃいと騒ぐ二人と、さらに顔を赤くしてうつむいてしまうもう一人。勝手に喋り続ける三人――とはいっても主に真桜と沙和の二人だが――をなんとかおさめようと、一刀は彼女達に対するよう後ろ向きになって歩きながら、言葉をかける。 「はいはい。とりあえず、いまは警邏に集中しようぜ。今日は久しぶりにこの四人で……おっと」  意識が三人に向かっていたのが悪かったのだろう。後ろ歩きをする一刀の腰のあたりに、なにかがぶつかった。 「わぷっ」  2.邂逅  一刀自身の歩く速度はたいしたものではなかったし、他の動きもなかったために勢いもない。しかし、それでも彼の腰にあたったその人物はこてんと転がってしまった。 「だ、大丈夫、雛里ちゃん!?」  駆け寄る声と、振り向く一刀。見えるのは、顔からずれてしまった大きな帽子。そこにいたのは、尻餅をついてしまった小柄な少女、雛里であった。彼女の横からしゃがみ込んで助けようとしているのは、それと並び称される知謀の主、朱里だ。 「わあ、ごめん! 大丈夫かな?」 「隊長ー。前見てないとだめなのー」 「雛里様。大丈夫ですか?」 「とりあえず人避けしとこか」  口々に言って動き出す四人。真桜と沙和が朱里と雛里の後ろに回って、二人の小さな少女が人波に埋もれてしまうのを防ぎはじめる。 「士元さんだったか。えっと、起きられる?」 「あわわ。大丈夫です。荷物も……落としませんでしたし」  朱里と凪に手を借りて起き上がった雛里は、まず抱えていた袋を確認し、次いでようやく顔をあげて一刀たちのほうを見た。 「で、でも、転んだから汚れて……」  一刀は腰を落とし、彼女の服の裾に手を伸ばす。汚れをはらおうとしたその手が動こうとする前に、雛里は怯えたように朱里にしがみついた。 「ひゃうっ」 「え? 痛むのか? そうだ。よかったら、医者に。ここからなら、華佗の診療所に近いから……」 「あの、そうじゃなくて、えっと……その……」 「えーと、北郷……さん?」  二人の予想外の反応に、一刀は首をひねる。なぜか、片方は怖がるようなおどおどとした様子だし、片方は冷え冷えとした視線をくれている。 「隊長。いくらなんでもいきなり女の子の、その、お尻に触ろうとするのはどうかと思います」  その疑問への答えは彼の横で成り行きを見ていた凪が出してくれた。 「あ……え? いや、違うぞ。俺は……」 「隊長。隊長の意図はわかりますが、ここは私に」 「あ、うん」  慌てる一刀に、疲れたように深々と頷いて、凪はそう言い切る。厳しい口調で言われて、一刀はしかたなくそこで突っ立っているしかないのだった。 「ああ、また悪印象を与えてしまった……」  一刀は肩を落とし、棍を杖代わりにするように体重をかけながら歩いていた。その表情はまるで冴えない。いまにもため息の一つも吐きそうだ。 「大丈夫やって。あの後、たいちょが本屋の場所を何軒も説明したら、かなり上機嫌になってはったやん」 「でもさ。ついて行くって言ったら頑として拒否されただろ?」 「しかし、誤解だときちんと理解して下さいましたし、そういうわだかまりはないのではないでしょうか。お二方は、軍師ですから、何の本を買ったか知られるのを警戒されておられたのかもしれませんし……」  落ち込んでいる一刀を、横を歩く真桜と凪が励ます。  彼としてはお詫びもかねて、本を買いに出てきているという蜀の軍師二人の護衛としてついて行きたかったのだが、同道は断られてしまった。真桜の言うとおり、本屋の場所を教えた時点ではかなり喜んでくれていたので、機嫌も治ったと思っていたのだが、案内をあそこまで拒否されるとそれも疑わしくなってくる。 「うーん」 「大丈夫だよ、隊長。朱里ちゃんたちは、あんなこと気にするような子たちじゃないのー」  沙和に念を押すように言われ、一刀はようやく姿勢をただし、普通に歩くようにする。 「まあ、そのあたりは、うちの軍師たちよりは素直そうだよな」  自分に言い聞かせるようにして彼は言う。 「ええんか? そないなこと言うて」 「しょうがないだろう。うちの軍師たちは華琳に見いだされただけあって有能だし、頼りになるし、頭の回転も速いけど、みんな一癖も二癖もあるからな。個人としての性格とは別として、複雑怪奇な考え方をするところが……」  真桜の問いかけに、一刀は一人一人顔を思い浮かべながら、説明する。先ほどの失敗から前ばかり向いていたのが、今度は仇となった。 「誰が一癖も二癖もあるひねくれ者ですって?」  横合いから響いた声に、思わず彼は真桜を横目で睨むようにする。 「……気づいてたな」 「なんのことかわからへんなー」  当の真桜はどこ吹く風と言ったところだ。だが、そんなやりとりをしている間にも、彼らのななめ後ろから進んできた猫耳頭巾の女性は一刀の間近までずんずん近づいてきて、怒りも露わに叫んでいた。 「ちょっと! 無視するんじゃないわよ、この色欲の化身!」 「こ、こんなところで大声でそういうことは……」  魏の筆頭軍師の後に続いて、彼女を押しとどめようとしているのは、髪に大きな飾りを結わえつけた少女。 「あー、えーと、珍しい組み合わせだな。桂花と流琉なんて。って、痛い痛い!」 「ふんっ」 「食材の買い出しに来たんです」  鼻息荒く、彼の足を一踏みする桂花。それでとりあえずは気が治まったのか、それ以上は攻撃してこようとはしなかった。 「食材ですか? 城の中にあるものじゃだめなのでしょうか?」  凪たちは手慣れたもので、一刀が踏まれた足を大きく上げて、片足でぴょんぴょん進んでいる間も特に気にもせず会話を続けている。 「華琳様がね、宴会料理に飽き飽きしていらっしゃるのよ。それで、なにか目新しいものを、と思ってね」 「ははあ」  なんとなく頷いているものの、凪はあまりよくわかっていないようだった。そこで流琉が桂花の言葉を細くする。 「宴席では、儀礼に則った料理が出ますから、それほどの変化はないんです。食材は良いものを使ってますし、料理人も腕を振るってますから、どれも美味しいですけど、やっぱり続くと……」 「華琳様はそういうつきあいも必要って知ってらっしゃるから文句なんて仰らないけど、たまには目先が変わってもいいでしょう?」 「それで、城の外に探しに来たんやね」  華琳は王であるから、重臣たちの誰よりも儀礼的な食事の席や、宴に顔を出す機会がただでさえ多い。さらに主賓の場合も、主催者の場合も多く、この時期の食事はなかなか自由にならない。  桂花達の言うようなことも、大いにあり得る話であった。 「はい。南方の食材を使うお店があるって聞いたので、いっそ中原のお料理より面白いかも、と」 「ああ、食材に限らず、南方からのものを扱う一角はあるよな」 「知ってるのね。ちょうどいいわ。案内なさいよ」  桂花の言葉に一刀は少し考え、空を見上げた。夕暮れはまだ訪れていないが、昼の光はもう衰えかけている。そろそろ彼も城に戻ってもいい時間だった。 「そうだなあ。ちょうど市に人が増える頃だし、流琉たちと見に行って、それで今日は終わりにするか」 「わーい」 「沙和。終わると言っても、ちゃんと夜番に引き継ぎをしてからだぞ」  一刀の宣言に思わずというように歓声を上げる眼鏡の女性に、凪はきまじめに注意する。しかし、その声にもちろん沙和は頬をぷうと膨らませて抗議した。 「わかってるのー」 「凪は相変わらず厳しなあ」 「当たり前だろう。我々も昔に比べればより責任ある地位についているということをしっかり自覚してだな……」  そんないつもと変わらぬお説教を背景に、彼らは連れだって市へと向かう。  3.文化 「ふうん。このあたりがそうなのね」 「呉の商人たちの出店だからね」 「よく知ってるわね」  本格的に食材を選びはじめた流琉は凪たちに任せ、桂花と一刀は市の中でも南方の物産を扱う一角を見て回っていた。店の数は十に満たないが、それぞれが特徴的な品揃えで、中原にはない特色を打ち出していた。  たとえば、今回目当てにしてきた食材で言えば、内陸の洛陽で、塩漬けとはいえ海の魚が並んでいたりする。 「おいおい。俺も大使として呉に行ってたんだぜ。こういう交流のことは聞いているさ」 「ああ、そうだったわね。まったく、勝手に種付けして、さっさと出て行くんだからね」 「そういう表現は誤解を招くから!」  とげとげしい物言いながら、聞きようによっては非常に艶っぽい会話を交わしつつ、彼らは観察を進めていく。桂花は適当な南方の小物を手に取り、それを買い求めてから、独り言のように呟く。 「いずれにせよ、南方の商人がこちらまでやってきているのはよいことよ。洛陽にそれだけの富が集まっていると判断されるからでもあり、道中の安全が保障されているからでもある。経済的な効果もさることながら、そういう安心と信用が、我々の――華琳様の財産だわ」 「華琳をはじめ皆で築き上げたもの、だな」 「ええ。そのとおり。そして、これから築き上げるものの基礎となる。まだ、呉だけでは足りないけれどね。ここに来ているのはどうせ建業あたりの商人か、その雇われでしょう。交州や南蛮の物資も様々な経路で流通するように出来れば……」  そこまで言って、桂花は首を軽く振る。ここで考えることでも話すことでもないと判断したのだろう。 「まあ、いいわ。戻りましょう。流琉がなにを選んでいるか気になるわ」 「そうだな」  そうして、彼ら二人は肩を並べて、皆が食材を選んでいる場所へ戻っていった。  だが、二人が元の店に戻ろうとすると、なかなかに騒がしいことになっているのに気づいた。店の中で流琉や真桜たちが何ごとか言い合っている声が、店先を越えて外にまで聞こえてきている。 「まったく、なにをはしゃいでいるのよ」  恥ずかしいまねをされては困るわ、と勢い込んで店の中に足を踏み入れた桂花は、しかし、店内の様子に、驚きの声をあげた。 「あら」 「あれ?」  同じように意外そうな声をあげる一刀。彼らの目の前には最前別れた四人に加えて、二人の見知った女性の姿があった。 「こんにちは」  公の場ではなかなか見せない柔らかい物腰で挨拶をするのは、呉の女王、蓮華。その背後に影のように立ち、軽く顎を引いて見せるのは、彼女の親衛隊長思春だ。彼女達がいるせいだろう。店の人間は奥の方でかしこまっていた。 「こんなところで会うとは……ってそうでもないか」  自分で言っておいて、このあたりが呉の物産を扱う場所であることを思い出し、苦笑する桂花。呉王であれば当然、自分たちの領から洛陽に出てきている商人達の事も気になるだろうし、あるいは地元のものを求めるにもまず声をかけるに違いない。この場にいても不思議ではない二人であった。 「でも、なんで騒いでたの? うちの者がなにか粗相でもしたかしら?」 「いや、別にそんなことはない」  華琳様に恥を掻かせるようなことをしたのではないか、と冷たい目で凪たちを見る桂花に、思春が冷静に声をかける。蓮華が笑みを見せながら、店の奥、皆が取り囲む中心を指さした。 「たいしたことではないわ。これについてちょっと話をしていたの」  蓮華の指の示す先には水槽――いや、生け簀がある。少し濁っているものの、何匹もの魚が元気に泳いだり、底面に敷き詰められた砂に潜ったりしているのが見えた。  その中で、多数を占めているのは、なにやら丸っこい形の魚であった。 「河豚?」 「ええ、河豚。生きた河豚なんて洛陽では珍しいんじゃないかしら? これは、河水で獲れたのを、生かしているらしいけれど」 「江水にも、海から遡ってくる河豚がいる。呉では、沿岸で獲れるもののほうが多いがな」  覗き込んでその魚を見た一刀が言うのに、蓮華と思春が続ける。  名前の通り、古代からこの大陸では河豚は河川にいるものと認識されていた。実際には完全な淡水性ではなく、海水域や汽水域にいるものが――産卵などの理由で――遡上して来る場合のほうが多かったろう。思春が沿岸で獲れると言っているものと、おそらく種は同じだ。 「それでですね、蓮華様達が、この魚を……」  凪は一刀が覗き込んでいる横から生け簀を指さし、彼と桂花に説明を始めようとする。しかし、彼女をはじめ、沙和、真桜の三人は一刀の次の言葉を聞いて固まってしまった。 「へえ、河豚かあ。俺の知ってるのより少し小さいけど、美味そうだな」 「に、兄様、毒魚ですよ、これ!」  砂に埋まって隠れようとしている河豚の動きを眺めつつ嬉しそうに言う一刀の裾を、隣に来た流琉が懸命に引っ張る。まるで生け簀を覗き込むのを止めさせようとするように。 「うん、知ってるよ。でも、美味しいだろ?」 「火を通せばいい雷魚と違って、毒が何ヶ所にもあってですね!」 「あら? 一刀は河豚を食べるの?」  流琉が大慌てで説明するのを姿勢を戻した一刀が不思議そうに眺めていると、微笑みを見せながら蓮華が訊ねる。一刀は必死で自分を見上げてくる流琉の様子を気遣いつつも、蓮華にはなんでもないことのように答えた。 「そんなに頻繁に食べていたわけじゃないけどね。一、二度食べたことがあるよ」 「へえ……そうなの。食べるの」 「ん? どうしたの?」  蓮華の驚きつつも嬉しそうな顔もさることながら、流琉以外にも妙な空気になっている人間がいるのに気づいたのだろう。一刀は皆の顔を見回した。  魏の人々は、彼の言葉を聞いて、揃って複雑な表情になっている。一人、無表情を貫き通す思春が彼に説明する。 「先ほど騒いでいたのはな、この河豚を食すかどうかという話だったのだ。我々は先ほど言ったように海で獲れるものを食べるが、どうもこちらでは食べないようだ」 「私が何匹か買おうって言ったら、真桜達が必死で止めるのよ。おかしくて」  面白そうに呉王が言うのに、ようやく真桜達は言葉を紡ぎ始める。 「あ、当たり前やん。毒やねんから死んでまうわ」 「たしかに美味しいって聞くけどー。死ぬ覚悟までして食べるのは……ねえ」  沙和の言葉に賛同の意を示す流琉と凪。 「えーと、魏では、河豚を食べる習慣がないの?」 「ま、まるでないわけではありません。みんなに毒だと知られている理由は、美味しいと知られているからですし。でも、普通はあんまり……」 「山海経に曰く、『肺魚、これを食えば人を殺す』。あるいは、王充の『論衡』にも『肝に毒あり』とあるように、河豚が毒魚であり、食べれば死ぬことは古くから知られていることね。当たり前すぎて知らなければおかしいくらい」  一刀の問いに口ごもる流琉の言葉を引き取るように、桂花がその猫耳頭巾を揺らしつつ滔々と話し始めた。 「一方で、流琉が言うように美味であることも知られているから、春のごちそうとして、宮廷や大商人は食べることがあるわ。庶人と違って、それらの場所では、毒を除く技術を持つ者を雇う財力と伝手があるからね」 「ふむふむ」 「私も一、二度、宴席で出ているのをみたことがあるわ。華琳様ならもっと見たことがあるでしょうし、食べてもいらっしゃるでしょう。でも、その程度ね。好んで食べるものかと言われると疑問だわ」 「うーん、まあ、たしかに俺の国でも扱う資格のある人間が調理していたなあ……」  たしかに皆が言うとおり、毒があることは知っているし、そのまま食べたいとは思えない一刀であったが、彼の感覚からすれば――適切に調理した――河豚は美味しいものとして認識される。  とはいえ、食べなければ飢えてしまうというような食材でもない。そういうものかと思って、それで終わるはずだった。  しかし、それでは納得しない人々もいるのだった。 「思春なら毒を避けられるわよ」 「水の民の出なれば」  ねえ? とほんの少し自慢げに声をかけるのに、思春はあくまでまっすぐに答える。 「へえ、そうなんだ」 「ああ。毒のほうを使うこともあるからな」  ここに至って、はじめて彼女は表情を変える。にやりと頬を歪めてみせる凄味の恐ろしいことよ。 「あ、ああ、そう」  そこで、蓮華はいいことを思いついた、と言うようにぽんと手を打った。 「そうだわ、一刀」 「ん?」  そして、彼女は居並ぶ一同を絶句させる言葉を言い放つのだった。 「あなたも河豚を食べたいなら、私たちで河豚をごちそうしてあげるわ」  と。  4.指南  魏の三軍師の一人、程cはけして人付き合いが悪い方ではない。  しかし、彼女の自室を訪れる者となると、これは限られてくる。かつて共に旅をした同輩の郭嘉と主たる曹操を除けば、彼女の恋人、北郷一刀くらいのものだ。  だから、今日、その部屋が二人の客人を迎えているのは、なかなかに珍しいことであると言わざるを得なかった。  ましてやそれが三国の女王の一人と、その軍師ともなれば。  真名にふさわしい色の髪を揺らす女性と卓を隔てて向かい合いながら、彼女は呟く。 「風に習うより、朱里ちゃんと雛里ちゃんに教えてもらうのがいいと思いますけれどねえ……」  象棋の駒を進めながら、風はちらりと桃香の顔を窺う。蜀の女王は真剣な表情で盤面を見つめ、次の動きを考えているようだった。 「華琳さんがね、風ちゃんは面白い棋譜を作るって言ってたから。それに、こうして雛里ちゃんに助言も受けられるし」  彼女の言葉通り、桃香の後ろ、少し下がった位置には雛里が控えている。彼女もまた、桃香と風が指す象棋の盤面を注視している。雛里は基本的には口出しをしてこないが、桃香が迷った時や、あまりに悪い手を指そうとした時には注意をするようにしているようだった。  桃香はそこで象棋盤を覗き込むような仕草でぐいと体を前に寄せ、風にだけ聞こえるように囁いた。 「これで相手が朱里ちゃんだと、雛里ちゃんもむきになっちゃって、私はただの代理指しになっちゃうの。逆もおんなじ」 「ははあ」  なんとなく想像がつくことを言われ、風も納得の表情で小さく頷く。 「そういえば、桃香さんの目標としては……愛紗さんに、駒落ちでも勝つってことでいいんですか」 「そうそう。朱里ちゃんたちに負けてもしかたないで済むけど、愛紗ちゃんにあんまりにも負けるのは義姉の威厳っていうものがねー」  姿勢を戻した桃香は、考えがまとまったか駒を手に取り進めてくる。その素直な前進に風は一拍考えてから、全体の包囲の準備を進めていくことにした。  華琳から頼まれたこともあり、暇な時間に桃香の象棋修行につきあっている風であったが、これがなかなかに面白い。  蜀王の指し手の癖を見られることもあるが、その後ろにいる雛里――戦術では並ぶ者がないとまで言われる鳳士元がどこに目をつけ、なにを助言するのか、それを感じ取ることも風の知的好奇心を刺激するのであった。 「とはいえ……」  桃香が言っていたように、代理勝負になっては意味がない。せっかく、桃香と雛里の二人と相対することが出来るのだから、それを楽しまなければもったいない。だから、風は大胆な一手を進めてみた。右翼の防御をほとんど放棄して、そこに所属する駒を敵本陣に向けた。いかにも薄い防御に桃香の目が驚きに彩られる。 「えーと……。隙、だよね。でも……」  桃香は腕を組み、考え込む。彼女でもさすがに風の挙動がしくじったものではなく、あくまで風自身の意図から出ていることくらいはわかるのだろう。 「むむむ……」  黙考が長引き、ついに桃香が唸りをあげはじめるに至って、雛里は帽子のつばを押さえながら、彼女の主に進言を始める。 「桃香様。そうやって悩むのも風さんは計算済みです。こういう場合、罠に対する方法は二つです。罠だと認識しつつ、それを利用して相手に打撃を与えるか、警戒だけして、自分の動きを崩さないか。最悪なのは、警戒しすぎて自分の動きを止めて……先の手の広がりをなくしてしまうことです」 「ははあ……そうかあ。じゃあ、まずは予定通りに……」  雛里に諭されて、桃香は再び駒を動かす。だが、その後ろで、戦術の天才と呼ばれる少女は小さく呟いていた。 「しかし、実際には罠であるかどうか……」  その瞳がそれぞれの動きの交錯する盤面を凝視する。 「うーん。そうか、あの罠は罠じゃなくって、本当に隙だったんだね」  一戦を終え、さらにそれを再現する感想戦を後半まで進めたところで、遂に気づいた桃香は感心したように呟いた。 「ふふー。おかしなことをすれば罠だと思う。それは警戒心としては正しいですが、しかし、流れを見ればあれが無謀な挙動だとわかったはずですよー」 「でも、風ちゃんはそれを私が見抜けないだろうと踏んで、ああして動いた。そうなると、隙は罠と同じ効果になっちゃう……。そういうことだよね?」  風のからかうような口調に、しかし、桃香は真剣に考え込み、そうやって訊ね返す。 「ですねー。まあ、そういう戦い方は、桃香さんにはまだ早いので、まずは数をこなして、動きの類型を覚えることですね。そうすることで、多少の変化なら基本的な動き方に還元できますし、そこにある意図も見つけられます」 「うんうん」  風が動かしていく駒をじっと見つめながら、桃香はこくこくと頷く。桃香自身がすでに覚えていない棋譜を、彼女は全て記憶しているらしく、ひょいひょいと駒を動かしていく。 「ここまでくると、もう決定的だね」 「ええ。そうですね。ここでやめて、少し休まれますか?」  完全に包囲された局面に至り、桃香は深く腰掛け直す。疲れた様子の主に雛里が休憩を勧める。 「ううん。手は動かしておきたいかな。ここからだとだいたい覚えてるから……」  だが、桃香は首を振り、自陣側の駒を動かし始める。そこで彼女は対戦相手を覗き込むようにした。 「風ちゃん。象棋以外もおまけで教えてもらっていいかな?」 「はいー?」  のほほんと口元を隠して応ずる風に、桃香は本当に不思議そうな顔で、こう訊ねかけた。 「朝廷の人達だけどね、なんで私たちなんだろう?」 「桃香様……!」  唐突な問いに、顔を青ざめさせたのは、問われた本人ではなく、桃香の後ろに立っていた雛里だった。その慌てぶりを眺め、頭の上に人形のような者をのせた女性はにゅふふ、と面白がるような声をあげた。 「答えていいんですかねー?」 「うん」 「桃香様!」  悲鳴のような声をあげる雛里に視線をやり、桃香は腕をのばしてぽんぽんとその肩を叩く。 「雛里ちゃん。これはあくまで参考にしたいだけだよ。公式な場所で魏の軍師さんに訊いているんじゃなくて、象棋のお師匠に教えを乞うてるだけ。違うかな、風ちゃん」 「ええ、風はそれでいいですよー」  さすがは三国の王の一角と内心感じ入りつつ、風は泰然とした態度を崩すことなく答える。一方で雛里は諦めたように帽子を引き下げて表情を隠していた。 「そう難しいことではないと風は思いますよ」 「そうかな?」 「前提としまして、朝廷の皆さんは、風たちが邪魔で邪魔でしかたないわけですよ。自分たちを飼い殺しにしているとでも思っているのでしょう。実際は保護されているんですけど」  風はすらすらと言い、桃香はそれを熱心に聞く。雛里も顔を隠しながら、しかし、耳はもちろん彼女の言葉を捉えていることだろう。 「ともあれ、そういうわけで、彼らは魏の敵を探しているわけです。しかし、選択肢は多くありません。我々に多少なりとも影響を与えられるのは、呉と蜀、この二国しかないわけですからねー」  風はそこで一つ息を吸い直し、頭の上の宝ャの位置を直した後で続ける。 「では、なぜ桃香さんなのか。それは、華琳様と桃香さんの対立は根本的には解消していないからです」 「私たち、華琳さんの敵かなあ?」  ちっちっち、と風は指を振りつつ舌を鳴らす。 「そこは間違ってはいけませんよー。たち、ではないんです。魏と蜀は現状では対立しない。けれど華琳様の考え方と桃香さんの考え方。この二つは根っこの部分では相容れないものなのですよー。もちろん、先ほども言いました通り、魏と蜀が対立しない情勢では、表には出てきようがありませんけれど」 「それはそうだよ。私は戦いたくないもの。華琳さんだって同じだと思うよ?」  当然のように訊いた言葉に、しかし、相手はすぐさま答えようとはしなかった。 「いまは、そうですね」  何呼吸か置いての声音は、こののんびりとした軍師には珍しく、感情がまるで乗っていなかった。 「風ちゃんは……」 「桃香様。そこまでに……」  思わず息を呑んだ桃香が気を取り直して訊ねようとしたのを、雛里が厳しい声で遮りかけ、それに重ねるように風の新たな言葉が響く。 「たとえば、華琳様が再び覇業に出たら」  淡々と、彼女は言う。  もし、そうなったなら、どうなるというのだろう。想像し、青ざめる二人になにかをつきつけるように、風は視線を飛ばした。  だが、その答えは彼女自身の唇からではなく、その頭の上の存在が代弁することとなる。 「その時、立ち向かうのは誰か。それを朝廷の陰険野郎どもは考えているってわけよ」  そして、部屋に完全なる沈黙が訪れる。  5.膳立  その日、朱色の鬼の面をつけた女性は、呼び出された部屋に入るなり、喜色満面の声で迎えられた。 「よく来てくれたわね、祭!」  その手で育て上げたと言っても過言ではない女性の嬉しそうな笑みに、なぜか祭は戸惑ってしまう。長姉ならばともかく、彼女がここまで感情をむき出しにしてくることがかつてあったろうか? 「お、おお。権殿の頼みとあらばいつでも駆けつけますぞ」 「今日は、一刀を迎える手筈になっているからね! いまのあなたの立場にも悪いことはないはずよ。存分に腕をふるってちょうだい!」  にこにこと微笑みながら手を引く蓮華に続いて、奥に進んでいく。そこには丁寧な刺繍を施された布で飾られた大ぶりな卓があった。すでに、食器や酒器は用意され、後は料理と客が揃えばいいという状態であった。 「うむ。それは聞いてまいりました。なんでも河豚を馳走する予定だとか」 「そう。そうなのよ。こちらでは食べないというけど、一刀は食べるらしいの。それで招待したのだけど」  勢い込んで言ってから、蓮華は小さく首を傾げる。 「でもね、考えてみれば、国王として他国の人間を招待するとなれば、これは公式の場ではなくても大事よね? やはり間違いがあってはいけないと思って、あなたを呼んだの」 「毒の件については、華琳殿が蓮華様の保障なら問題ないとして、許していると聞きましたが?」  蓮華の一刀招待の件は当然華琳の耳に入り、その後流琉や凪たちが、やはり危ないのではないかと危惧を表明したのに、呉王も共に卓を囲むなら何も心配はいらないと彼女自身が諭す事態に至った。そこまで言われては誰も反対は出来ず、今日の席は成立している。この上、わざわざ――現在は一刀に従っている立場の――祭を呼ぶ理由はないはずだった 「いやだ。そうじゃないわ。思春が毒を除けるのはちゃんと理解しているわよ。ただ、呉の味自慢といったら、やっぱりあなたじゃないと」 「そのように見込んで下さるとはありがたいことですな」  喜ばしいことだと思いつつも、やはりなんとなく釈然としない心持ちの祭であった。 「では、蓮華様。河豚は危のうございますので、こちらでお待ちください」 「私は手伝わなくて大丈夫?」 「卓の準備も出来ておりますので……。北郷の座る場所などを決めておいていただけると」 「ああ、そうね。席次は大事だものね。わかったわ!」  厨房の中から、そんな思春と蓮華のやりとりを見ていた祭は、蓮華が卓の方へ駆けていくのを見届けてから、黝い髪の女に体を寄せた。 「のう、興覇よ」 「はい、なんでしょう」 「河豚料理くらいお主一人でなんとでもなろう。なんで権殿は儂まで呼んだのじゃろか」  料理の準備に前掛けをかけながら応じていた思春は祭の問いに一度体を止め、声を潜める。 「……どうも、少々張り切り過ぎておられるようで」 「蓮華様がか? 雪蓮様ではあるまいに」 「しかし、これを用意しろと言ったのは蓮華様で……」  言いながら思春は腕を広げ、厨房の中に過剰なまでに用意された食材の数々を指し示した。元々洛陽滞在中、呉の一行が自由に使っていいことになっている厨房であるため、それなりの材料は揃えられているが、それらは大半が保存の利くものである。  一方、今日のために用意されたらしいものは野菜や鮮魚など、新たに買い求められたと一目でわかるものばかりであった。 「なんじゃ、お主の気の回しすぎかと思うておったわ」 「おそらく、久しぶりに色々なしがらみ抜きで振る舞えるのが楽しいのではないでしょうか」  その言葉に、祭は深々と息を吐く。王族ともなれば、そもそもしがらみ抜きで動くことそのものが難しい。それは蓮華とてわかっているし、そのように祭自身や姉である雪蓮が育ててきた経緯はある。しかしながら、実際に王となること、一党の当主であり続けることは、また重みが違う。  一挙手一投足が政治に結びつけられない身としては、あまりそういうことを気にせずに単純に食事に誘うことが出来るのに、開放感を得られるのであろう。招待する相手が、一刀という三国の中でも絶妙な位置にいる人間であるからこそ可能なことでもある。 「王を継いで初めての異国の地じゃ。息が詰まることもあろうのう」 「特に今回の事は、完全に蓮華様主導ですからひとしおでしょう。それと、河豚だろうと恐れずに食べるのだと普段から莫迦にしてくる中原の連中に見せつけるだとか……色々あるのではないかと」  これには祭は苦笑で返す。彼女自身、なんの後ろ盾もなく中央にいるのだから思春の言うこともわからないではなかったが、同時に稚気に等しいと思ってもいた。 「まあ、見せつける相手があやつでは……。魏の重臣どもにもそういう気があるわけではありませんからな。侮ってくるのは、たいていが魏に抑えつけられている官吏や豪族どもで」 「そのあたりも複雑じゃろうのう。いっそ面と向かってなら、お主が処分できるじゃろうに」 「……まったく」  思春も一つ苦笑いして、しばらくは言葉が途切れる。けれど、彼女は思い出したように付け加えた。 「ああ、それと」 「ん?」  そろそろ用意にかかろうとしていた祭が思春の口調になにか感じたか、その仮面の奥から鋭い視線を飛ばす。思春はそれを受けて、彼女には珍しい微妙な表情を浮かべ、こう言った。 「呼ぶ相手があやつだからでしょう」 「ああ……」  全てわかった、という風に祭が頷き、直後に出たため息ははかったように揃っていた。 「興覇」  思春が毒を除いた河豚の肉を調理にかかりながら、祭は視線もあげずに思春を呼ぶ。毒の部位を処分し、それに触れた道具をしまい込んでいた思春も、視線を外すことなく応じる。 「はい?」 「権殿が手持ち無沙汰のようじゃ。そこらの野菜でも炒めて、つまんでおいてもらえ」 「……うろうろしておられますね」  道具を無事収め終えて、部屋の方を見ると、彼女の主はなぜか腰に南海覇王を佩いたまま部屋の中を歩き回っていた。 「うむ。孫呉の姫君があれではの。せめて食うものでもあれば、落ち着くじゃろ」 「わかりました」  作業用の手袋を外し、さらに入念に手を洗った後で、彼女は野菜を炒めにかかった。 「蓮華様、これを」 「でも、招待する方が先に食べているなんて……」  普通に出す皿よりはだいぶ少なめのものを持っていくと、蓮華はそう言って断ろうとする。しかし、思春は顔色を変えることもなく、畳み掛けるように言葉を紡ぐ。 「だからこそ、です。客のほうはともかく、もてなす側はがっつくわけにはいきますまい。腹を少し良い具合にして、主菜を楽しめるように準備しておくのがよろしいかと」  腹心の言葉に少し考え、蓮華は頷いて席に着く。 「言われてみればそのとおりだわ。ありがとう思春」  礼を言って、早速箸を伸ばす蓮華。ともかく歩き回るのは止められた、と厨房に戻ろうとする思春だったが、その向かう先からさらに声がかかった。 「権殿ー。ついでに酒の方も味見をしておいてくだされ。旦那様からもいくつか届いておるはずじゃ」 「祭殿、さすがに酒は……!」  あまりの台詞に慌てたように言うのに、鋭い声が続いて浴びせかけられる。 「凝りたいならば、出す順番というものが必要じゃろう。なにも酔えとは言うとらんわ」 「心配しないで、思春。姉様じゃないんだから。軽く見ておくだけよ」  卓のほうからもそう声をかけられると、思春としてはもう何も言えない。ただ、心配そうに主を振り向いて、こう釘を刺すしかできなかった。 「それでは……。適度になさいませ」 「うん。わかったわ」  だが、思春には悪い予感しかしなかった。 「あら、美味しい」  蓮華のこんな声を聞いてしまっては。  6.河豚  河豚を振る舞うという意味では、その席は大成功であった。  鱠、碗もの、鍋、一刀の要請で作られたしゃぶしゃぶ。河豚だけでもそれだけの料理がつくられ、他に各種の炒め物、さらに鍋に出た出汁による雑炊でしめ、と、皆、すばらしい味に舌鼓を打った。まして、半月程度とはいえ久しぶりに故郷の味を堪能した呉勢にとってはすばらしい宴だったと言えよう。  たとえ参加者が四人しかいなかろうと、祭と思春が少々遠慮気味だったとしても、十分に盛り上がり、楽しまれた場であった。  ただ、一つ誤算があったとすれば、それは……。 「ほら、これ、美味しいわよ、一刀。飲んでみない?」  蓮華は頬をほのかに桜色に染めながら、横に座る一刀に向けて杯を突き出す。それに対して男も朱色に染まった首筋を伸ばして覗き込み、実に楽しそうに笑みを浮かべた。ただ、実際、そこまで動く必要はなかったし、普段の彼ならわざわざそんな大げさな動きをしたりしなかったろう。 「お、いいね……っと、これかい?」  蓮華の杯に入っているだろう酒の瓶を手に取ろうとすると、その手に柔らかな手が、しかし、絶対的に強い意志を持った動きで重ねられる。その手は彼の手を瓶からもぎ離すと、自分のもう片方の手の方へと持っていった。そこには彼女の掲げる杯がある。 「違うわよ、こーれ」 「いいの? じゃあ、いただくよ」  握らされた杯をそのまま口に持っていく一刀。すでに蓮華の唇がついているはずの杯だが、彼は気にした風もなく、んくんくと喉を鳴らして飲み干していく。 「おいしいでしょー?」 「ああ、うまいな」  ご返杯、と一刀は別の酒を自分の杯に注ぎ、彼女に示す。 「飲ませて」 「ん?」 「のーまーせーてー!」  手を伸ばそうとしない蓮華に視線をやると、彼女は首を大きく振りながら、だだっ子のように言う。 「ああ、はいはい」  その要求にぴんと来たのだろう、彼は自分でその杯を持ち上げ、彼女の唇の前に持っていく。赤い唇が軽く開かれ、突き出される。その様はなんだか妙に蠱惑的であった。  その唇へ杯を合わせ、傾ける。彼の動きに合わせ、彼女の喉が鳴る。  一度、二度、三度。  くすくす。  うふふふ。  笑いが交差し、二人は顔を見合わせる。 「おいしいわねー」 「おいしいよなー」  そう、誤算があったとすればただ一つ、こんな風に二人ができあがってしまったことだった。 「孔子曰く、同じ杯で酒を飲めば、兄弟も同然、ってね」  きゃらきゃらと笑いながら、上機嫌に蓮華は声をあげる。おそらく大声をあげるつもりなどなかったはずだが、その声は強弱の波が激しく、しかも妙に節を外れていた。 「……孔子がそんなことを言っていたのですか?」 「さあ、知らない。だって、いま私が考えたんだものー!」 「蓮華様……」  えへへー、と笑う主に、どう言っていいのか思春が口ごもっているうちに、蓮華は彼女の肩をばんばんと叩きはじめる。 「いいの、いいのよー。どうせ春秋あたりだって、孔子が書いたかどうかも怪しいもんじゃない。あんなもの、孟子あたりが適当にでっち上げたに決まってるわ」  春秋とは、史書でありながら、孔子が書いたとされ、儒学の聖典とされる。人々はそこに書かれた言葉の中に潜む大義を探り出し、解釈しようとした。一冊の歴史書に対して、左氏伝、公羊伝、穀梁伝の春秋三伝と呼ばれる注釈書が三種も編まれ、儒学を学ぶ者にとって重要な書物となっている。  それをあっさりと否定するのは、酒席の戯れ言とはいえ、さすがに度が過ぎていた。ましてや、彼女は一国の王なのだ。 「お、面白い話だな。きっと、華琳が食いつくぜ」 「でしょー。あのねー。色々と研究してるのは華琳だけじゃないのよ? 私だって、そう、がんばってねー。あー、でも、亞莎のほうががんばってるんだけどね!」 「い、いや、二人とも……」 「興覇」  思春が珍しく動揺した表情を見せたところに、じっとその場を見ていた祭が声をかけ、耳元に口を寄せる。 「ちと、まずい。誰も近づかぬようにせい。この場は儂がなんとか受け持つ」 「……そうですな。明命も呼びます」 「そうせい。それと穏に冥琳か雪蓮様を捜させておけ」 「はっ」  かつて、呉の宿将として過ごしていた頃と同じ声音で言われる。思春はその事実に身を震わせずにはいられなかった。 「もうさー、俺としても異世界? タイムトラベル? 女の子だらけの三国志? って認識したらさ、やっぱ、なんか力の一つでも覚醒すると思うわけじゃない。こう、黒い翼が出たりとかさ」 「一刀ってばわけわかんなーい。真桜につけてもらいなさいよ、翼とか」 「それが、言葉は通じるくせに文字読めないって! どんな理屈だよ!」 「やーい、ぶんもー、ぶんもー! 魏下の阿刀!」  二人の会話はさらに続き、明らかに他人には理解できない領域へとさしかかっていた。そもそも当の二人は会話を交わしているように見えて、相手の言っていることをどれだけ理解しているものか。 「しかも、なんも能力アップとかなく、凡人のまま! これが一番効いたね!」 「凡人! 覇王を落とした男が凡人! きゃははははははっ。あーのーねー。凡人だったら、私でしょうが! 母様も姉様もあれなのに、私だけ、普通! ありえないと思わない? 小蓮なんか無茶苦茶強くなってるのに!」 「いやー、普通はないだろ、普通は」 「普通だってば。白馬長史くらい普通!」 「いや、そう言うけど、白蓮は実は普通じゃないぜ。だって、あれの昔なじみ知ってるか? 星と桃香だよ?」  その言葉に、顔中を桜色に染めた蓮華は、妙に低い声を出す。 「あー」 「だろー?」  地を這うようなそれを、一刀はこともなげに受け止めている。その光景に、祭は呟かずにはいられなかった。 「どういう方向に酔うとるんじゃ、この二人」  幸い、すでに扉の前には思春を配し、廊下には明命を潜ませて誰も近づかないようにしたが、この光景を他の誰かに見つけさせるわけにはいかない。一刀はまだしも、蓮華にとって、ここは他国の城中なのだから。 「そもそも、権殿も旦那様もそう弱いわけではないはずじゃが……」  なぜ二人がこんなに酔ったのだろう。  祭は考える。彼女と思春は給仕と仕上げに忙しかったため、落ち着いて席に着けたのは、宴も半ばを過ぎてからだ。その時点で、既に二人が杯を乾す調子はだいぶ早くなっていた。とはいえ、それほどおかしなことが起きるような量でもなかったはずだ。祭たちが見ていない間に、なにか飲み慣れぬものでも飲んだに違いない。  二人して顔を近づけ、何ごとか内緒話をはじめたところで、祭は席を立つ。二人はよほど話が楽しいのかくすくす笑いあって、彼女が立ち上がったのにも気づいていない様子。 「……もうそろそろ潰れような」  なんだか事態が進展しそうな予感に妙な安堵を覚えつつ、彼女は部屋の隅に除けられた空き瓶を覗き込んでいく。その中で、三つ、かぎ慣れぬ香りを放つ酒瓶があった。  その瓶は異国の象眼が施され、何ごとか見慣れぬ言葉がかきつけられた紙も貼られている。一つを開けてみると、掌に、濁った血にも見える赤褐色の雫が垂れ落ちる。  顔に近づいてみれば、まるで生の葡萄をかじった時のような香りと、酒精の香りが混じったものが感じられた。 「これは……葡萄酒というやつか?」  そういえば客胡から戦勝祝いで送られてきたとかいう話を聞いたような気がする。彼女は掌につくられたくぼみに少量たまったそれを舐めとってみた。 「酒精はそれほど強くはないが、この喉ごし、軽すぎるの。これで配分が狂うたか」  そんなことを思っている祭の背後から、急にどんと衝撃が来た。まるで気配の感じられなかった突進に、彼女はよろめいて、なんとか踏みとどまる。 「ねー、祭!」 「おうっ?」  まるで妹の小蓮のように祭の腰にしがみつく蓮華は、もう腰が抜けているのか、足で立ち上がれず膝立ちの格好。それに振り返って抱き留めるようにしてみると、卓の上に突っ伏している男の姿が見えた。 「あのねー、わらし、一刀に元夜に誘われちゃった!」 「お、おお。それはよろしゅうございました」  ろれつの回らぬ言葉をなんとか聞き取って、まとわりつく相手の背中をさする。けぷ、と小さく三度しゃっくりをして、彼女はにへら、と笑み崩れた。 「いいれしょー。わらしよ? 姉様じゃないわよ、わ、ら、し!」 「え、ええ。蓮華様ですな?」 「シャオじゃなくて、わーらーしー!」 「わかっておる、わかっておる!」  ずるずると床に倒れ込んでいこうとする呉の女王を助け起こそうとしながら、老練の武将は必死で声を張り上げる。 「おおい、思春。入ってこい。これは一人ではどうにもならぬわ!」  その脳裏で、堅殿も策殿もこれほどではなかったですぞ、と疲れたように語りかけながら、しかし、祭の口元には、はっきりとあたたかな笑みが刻まれているのだった。  7.元宵節  正月の望の日。  すなわち、一年の最初の満月の日――一月十五日。  この日の夜、ただでさえ明るい満月の下、人々は、街中に灯火を灯す。  手に手に携帯の灯籠を持ち、家々の壁や、店の軒先、大通りには固定式の灯籠がつり下げられる。色とりどりの紙で覆われた灯籠は、内側からろうそくの炎に照らされ、街中に様々な色彩を投げかける。  大通りを練り歩き、人々は挨拶を交わす。  ――ああ、今年も始まりますな。  ――ええ、ようやく年越しも終わります。  ――明日からは遊んでいられませんな。  新年を祝う期間は、この夜――元夕あるいは元夜をもって終わる。そのために、人々は最後の邪気払いを、夜の闇を追い払う灯火の光をもってなす。  元宵節の晩、暗闇は、その居場所を無くすのだ。  もちろん、ただ灯火を灯すだけではなく、その灯火の連なりや動く波を見物する者たちもいる。たとえば洛陽の城下で最も高い望楼を持つ酒家に場所を取り、集った八人は主にそちらが目当てだった。  かなり高い場所のため、眼下の光はほとんどひとまとめのものに見える。街中が輝き、七色に包まれているのを、彼女達は楽しげに見下ろしていた。 「今頃、蓮華ってば……」  その中の一人、円座の中央に座る白面の女性が、含み笑いを漏らしつつ呟く。その頭を軽く叩き、対になるような黒い面の女性が苦言を呈する。 「下品だぞ、雪蓮」 「でもさー。あの一刀だよー? ここにいる女の子、みーんなさー」 「うるさい、酔っ払い」  周囲の穏、思春、亞莎、明命、小蓮に祭という面々はその二人を見て、顔を赤くしたり、穏やかに笑ったりしている。そんなところに、廊下の奥、階段のあたりから声がかかった。 「お客様です」  これにも雪蓮が素早く反応する。 「客? 華琳あたりが来たのかしら」  見回しても戸惑い顔が並ぶ。皆、心当たりはないらしい。本来なら、先ほど名前が出た一刀が考えられるのだが、今夜に限ってはそれはない。 「ともかく会ってみましょう。どこぞの無粋者なら明命たちにたたき出させればよろしかろう」 「はい、いつでもっ!」  からからと笑う祭の言葉に、きまじめな声が飛ぶ。その様子に皆がひとしきり笑ってから、冥琳が店の者に声をかけた。 「そうですね、通してくれ」  しばらくすると、店の者と入れ替わりに、よく見慣れた髪の色をした頭が見えてくる。それに気づいた小蓮があっと声をあげた。 「みんな酷いじゃない。置いていくなんて」  そこに現れたのは、小蓮によく似た、そして、白い仮面の下の顔と共通した面影を持つ、固い雰囲気の女性だった。すなわち、他でもない呉の王にして孫家の次女、蓮華の姿。 「え?」 「あれ?」 「……ええっ?」  口々に出る驚きの声。あるいは、声もなくぽかんと口を開けている者もいる。 「蓮華様、なぜここに!」  そのうち、彼女に最も近い腹心である思春だけがようやく意味のある声をあげることが出来た。 「え? 女官にみんながここで見物してるって聞いたから……え? 駄目だった?」  何を問いかけられているかわからない、という調子で、蓮華は言う。その目が不安そうに揺れるのを見て、亞莎はぐいと唾を飲み込んで、素っ頓狂な声を放った。 「一刀様とお約束しているはずでは!?」 「……はい?」  沈黙。  その意味するものは、それぞれに異なる。  身に覚えのないことを言われ、呆然としている者が一名。  ある種の不安にかられた者が八名。 「ねえ、これって」 「もしや……」 「忘れておられる……」  ぼそぼそと交わす声は、恐怖に彩られている。八対の目が自分を貫くのを感じ、言いようのない寒気を覚える蓮華。 「え? え?」  思春が立ち上がり、素早く自らの主の傍らに寄る。彼女はいっそ優しく、噛んで含めるようにゆっくりと問いかけた。 「河豚のことは覚えておられますか?」 「ええ、もちろん。河豚がどうかした?」 「北郷を招待し、河豚を食べ、酒を酌み交わしましたな?」 「そうね、あの時は一刀と気持ちよく酔って……酔って……え?」  何かを思い出すように、蓮華は斜め上に視線をやる。そして、その顔が言葉が進むにつれて青ざめはじめ、ついには真っ白に漂白される。 「あれ、嘘……」 「思い出されたようじゃな」  あの場にいたもう一人の人物にため息を吐くように言われ、ぶるり、と蓮華の体が震える。その腕を、思春がさっと取った。 「急ぎましょう。露払いいたします」  だが、彼女はすぐにも駆け出そうとする思春の腕を押さえ、もう片方の腕を振って否定の意思を示す。 「ちょ、ちょっと待って、もうちょっとだけ」 「どうしたの、蓮華。もし一刀のところに行きたくないなら、ちゃんと断りを……」 「ち、違います! 約束していたことは思い出しました。明後日には呉に発つわけで、その前にゆっくり話もしたいし、元宵節に場所を取っておく、という一刀の言葉も。ええ、私も承諾しましたし……えっと……でも……」  そこで言葉は途切れる。何かをこらえるようにしている蓮華の額に、みるみるうちに汗がにじみ出始めていた。その様子を、皆は固唾を呑んで見つめている。 「で?」  焦れたように姉に促され、がっくりと肩を落とす蓮華。 「……その、場所が……」 「思い出せませぬか?」 「……うん。というか、たぶん……後で聞くとか言ったわ……たぶん、なんだけど」  その言葉を聞いた途端、思春が飛び跳ねるように彼女から離れ、皆の前へ戻る。 「明命!」 「はいっ」 「お前は西を、私は東だ。亞莎、魏軍に連絡を……」  矢継ぎ早に指示を飛ばす彼女の前に、小さな影が立ちふさがった。複雑に結い上げられたかわいらしい髪を揺らし、いつもは笑みに彩られている顔を珍しく厳しくして、彼女は思春を阻むように手を広げる。 「待ちなさい、思春!」 「小蓮様!?」  一方、その背後ではすっと立ち上がる姿があった。すらりと背の高いその女性は被っていた雪のような面を取ると、ばさりと長い髪を揺らし、自分の妹の顔を真っ正面から見つめた。  姉妹とはいえ、久しぶりに見る、触れれば切れるように思える美貌であった。 「蓮華」 「はい、姉様」 「わかっているわよね?」 「はい」  力強く頷くの見届け、再び彼女は仮面をつける。その瞬間、孫伯符という亡霊は、そこから消える。そのやりとりに口を挟むことなど出来ず見ていた面々に、蓮華は向き直る。 「思春。明命、お前達の気持ち、とてもありがたく思う。主としても友としても、だ」 「ならば、蓮華さ」 「しかし!」  思春にそれ以上言わせず、蓮華は強く口調を変えて告げる。 「私も孫家の血筋。孫文台の娘、孫伯符の妹だ! 己が約束を果たすのに、部下の力を借りたとあっては、母様の、姉様の名前を汚し、さらには私自身が許せなくなるだろう」  その宣言は、まさに孫呉の熱い血がなせるものだったろう。そのことをわからぬ者はこの場所にはない。 「と、友としてのものなら……」 「思春」  わかっていながら、それでも押し出すように言った言葉を、彼女は優しく受け止める。 「友達ならば、私が自分でやるべきだって、わかるでしょう?」  ぐう、と小さな音が、思春の喉から漏れた。 「では、姉様」  再び座りこんで酒杯を手にした白い仮面に、彼女は声をかける。姉は杯を掲げて、彼女に向けた。 「ええ、蓮華。行ってらっしゃい」 「お姉ちゃん、がんばって!」  姉と妹の言葉を受け、呉の女王はその身を翻し、猛然と駆け出した。 「さて、行ったわね」  しばらく重苦しい無言の空気の中、一人酒杯を傾けていた雪蓮が呟き、それに応じるように冥琳が頷いた。 「ああ、もういいだろう」 「頃合いでしょうな」  祭も同意したのを受けて、雪蓮は鋭い声を放つ。 「明命、亞莎、あなたたちは一刀を捜しなさい。ただし、一刀本人にはけして気づかれてはならないわよ」 「え?」 「え……あ、はい!」  驚愕の声をあげ、次いでぱあっと明るい顔になって、明命と亞莎はこくこくと頷く。 「次、小蓮。あなたは蓮華を。いけるわよね?」  欄干に身を乗り出して眼下を眺めていた小蓮の背に声をかけると、彼女はくるりと跳ねるように振り返り、にっこりと笑う。 「はいはーい。見つからなきゃいいんでしょ? 向かった方も覚えたよ」 「偉いわね。まあ、なにかあったら、すぐ他を頼りなさい」 「りょうかーい」  それから雪蓮は先ほどまでそわそわと心配そうに体を揺すっていた女性のほうへと顔を向けた。 「思春」 「はっ」 「あなたは、明命と亞莎、それにシャオの間をつなぎなさい。そして、一刀と蓮華を誘導して二人を会わせるの。ただし……」 「どちらにも気づかれぬように、ですね」  納得した、というように深く頷く思春の顔は先ほどまでと違い、決意に充ち満ちている。 「うん。よくできたわね。蓮華にはあまり近づかないようにね。あの娘、あなたの気配だけは見分けかねないわ。では、行け!」 「はっ!」 「はーい!」  四つの声が響き、先ほどの蓮華に勝る勢いで走り出す。その背が消えたところで、雪蓮はくいと顎をしゃくった。 「ん」 「穏」  冥琳が親友の意を受けて声をかけた時には既に彼女の弟子たる孫呉筆頭軍師は立ち上がり、その大きな胸をぶるんと揺らしていた。 「はぁい。魏軍に伝達。奇妙な花火があがっても、今日はみなかったことにしてくれ、と話を通してきますねー」 「よし。それでいい」  そうして、階段のほうへ向かう彼女の背に、雪蓮が声をかけた。 「ああ、穏」 「はいー?」 「どうしようもなくなったら、華琳に頼みなさい。一刀に一晩待ちぼうけくわせるのはさすがにまずいでしょ」 「はーい。でも、そうはならないと思いますよぉ」  のんびりと含みを持たせた笑顔を浮かべながら、彼女はそう言って、いってきまーすと手を振って灯火の中へと消えていった。 「お優しいことじゃ」  若い衆がいなくなった後でぼそりと漏らしたのは祭。それに対して、照れたように笑うのは、もちろん雪蓮だ。 「ま、私、お姉ちゃんだしねー」 「もう少し素直になればもっとよい姉になるだろうにな」 「ぶー、冥琳ひどいー」  そうやってしばらくの間冥琳と戯れていた雪蓮は、ふと町並みを見渡す。そこに煌めくのは何千、何万の灯火。その中を、いま、彼女の妹はたった一つの光を捜してさまよっていることだろう。  あるいはその相手も、また。 「あなたによい夜でありますように。蓮華」  酒杯を高く高く掲げ、彼女は祈る。もはやそうするしかできないことに歯がゆさと、そして、誇らしさを感じつつ。 「そして、皆によい一年を」  二つ目の祈りも、また真摯なものであった。  8.衆人  どこもかしこも、光に溢れていた。  赤、橙、黄、緑、青、藍。  全てが明るく、しかし、その間を歩く人々は、影絵のように暗く塗りつぶされて、その顔も輪郭もうまく捉えられない。  彼女は走っていた。  道行く人々の肩にぶつかっては邪険にはねのけられ、その顔を覗き込んでは文句を言われ、それでも諦めることなく、彼女は走り回る。見物の集まる場所を聞き出し、料亭にこれこれこういう男が来ていないかと訊ねて歩く。  だが、洛陽は広い。  どれほどの人がいて、どれほどの場所があるだろう。まして、土地勘のない蓮華にとって、道一本間違えて時間を浪費することも当たり前であった。  走った。  なにもかもを忘れて走った。  そのはずだった。  けれど、だんだんと、彼女の体を疲労が襲う。足はだるいのを通り越して棒のように固く痛みを伝える。人波をかき分ける手はいろんな人々の衣服にひっかかり、ひりひりとかゆいような刺激をもたらす。  戦ならば、この程度の行軍は楽なはずだった。  格闘ならば、倍の体重の男でも押さえることができるはずだった。  しかし、いま、そんな能力は役に立たない。彼女が必要としているのは情報であり、速度であり、根気強さであった。  なにをやっているのだろう。  そんな自問が、間欠的に訪れる。  通りを歩く人々は、笑いさんざめき、口々に談笑し合う。皆、新年を祝う最後の機会を楽しもうとしている。  そんな中、彼女だけが同調しない。  約束を果たすため、北郷一刀を捜すため、彼女だけが新年のことなど忘れて、ただただ走っている。  いつの間にか、夜ははるかに深くなり、それに反して灯籠の光はさらに強くなる。彼女の周りを歩く影絵のような人々はその光の中に埋もれていく。  一人だった。  彼女は、一人だった。  なにをしているのだろう。再び自問が到来する。  彼女は呉の女王である。  しかし、その地位は、自ら勝ち取ったものではない。  江東の支配を作り上げたのは彼女の母であり、志半ばで没した母の後を継ぎ、呉を再び蘇らせたのは彼女の姉である。  現在の地位はただ、血縁に基づき、姉から譲られたものに過ぎない。まして、公的には死んだことになっていても、実際には姉も生きている。本来ならば玉座に座ることなど出来るはずがない。  それが彼女であるはずだった。  武では姉に敵わない。  知謀では、華琳の足下にも及ばない。  魅力では、桃香の後塵を拝する。  だが、国を造るのは王だけではない。彼女を支える者たちはみな優秀であったし、孫呉のために心の底から忠誠を誓ってくれる忠義者ばかりであった。少々生意気だが才気煥発、将来を期待させる妹もいる。もし、小蓮が自分より王にふさわしい器に成長したならば、姉と同じく引退して妹に国を譲ることも彼女は考えていた。  呉の女王であることは重い。  けれど、なんとか耐えられるはずだし、耐えるべきであった。  だが、一人の女としてはどうだ?  姉ほどの破天荒に人を惹きつける力はない。  妹ほど天真爛漫に相手を虜にする魅力はない。  人並みの容姿があったとしても、いつも額に皺を作っているような女など、誰が好む?  こんなつまらない女を待つ男がいるものだろうか?  まして、いま、探している男の傍らには、大陸を統べる覇王も、天下に名高い勇者も、国一つを簡単に傾けられる知恵者もいる。  そして、なにより、自分は万を超える人々の中から、一人を捜し出せるだろうか?  いつしか、彼女の視線は地面にばかり向かっていた。とぼとぼと歩きながら、彼女は考える。  華琳ならば、一刀の居場所を把握していないことはないはずだ。華琳自身でなくとも、部下の誰かは間違いなく把握しているだろう。そこから連絡してもらい、きちんと謝罪しよう。  彼を捜すのを諦めるとすれば、それが一番いい解決法に思えた。  なにしろ、彼女は約束をすっぽかしてしまっているのだ。一人で彼を捜すことになどこだわっている場合ではない。  そう考えつつ、彼女の足は止まらない。  本来ならば、華琳たちの居る場所――宮城へ向かうべきなのに、なぜか、未練がましく街中を向くその足。  そのことが、涙が出るくらい悔しかった。  自分はなんて、卑怯な女なのだ……と。  待ってくれているという一縷の望みにすがっている。  諦めて、魏軍に頼み込むという確実な手段をとることで、その可能性を潰すことを恐れている。  己が力ない女だと自覚して、それでもなお、正しい道をとれないでいる。  彼女はいつしか歩くのも止め、一人、立ち止まり、下を向いてしまった。  そうやって、どれくらいうつむいていたろう。その肩に触れるあたたかな手があった。  思わず弾かれたように顔をあげると、そこに広がるのは、視界を埋め尽くす光の群れ。そして、その中でもひときわ輝くのは、目の前の男の、穏やかな微笑みだった。 「やあ、蓮華。やっと見つけた」  そこに、彼がいた。  北郷一刀が、そこにいた。      (玄朝秘史 第三部第二十回 終/第二十一回に続く)