玄朝秘史  第三部 第十九回 後編  5.戦  小さく扉を叩く音に、寝台の上で本を読んでいた一刀は顔を上げ、脇机の灯火を手に、その音の出所へ向かう。 「忘れ物?」  扉を開けて訊ねる声は、しかし、きょとんとした顔に迎えられた。 「あ。ごめん。恋だったか」  頭の中で予想していた人物とは別の女性が現れたことを、一刀は慌てた様子で確認する。なにはともあれ部屋の中に赤毛の女性を招き入れながら、彼は彼女に見せないように小さく苦笑いを浮かべた。 「……誰かいた?」 「ああ、ちょっとね」  恋は小首をかしげ、すんすんと鼻を鳴らす。それから一つ納得したように頷いた。 「華雄の、匂いがする」 「うん。昼間の戦いの火照りが収まらないからって来てたんだけどね。眠れそうだからって帰ったよ」  内心、その鋭さに舌を巻きつつ、一刀は恋を先導する。椅子に座るよう促すと、首を横に振られたので、寝台の方を指さすと頷かれた。結局、二人で並んで寝台に腰掛ける。 「恋と同じ」 「恋も眠れないの?」  問いかけに、彼女は少し考えて、小さく首を振った。 「ん……。寝てたけど、目が覚めた」  眠くないわけでもないだろうが、一度目が冴えると、なかなか眠れないこともあるだろう。特に華雄と恋は、信じられないほどの武を発揮して戦ったのだから、多少調子が崩れてもおかしくはない。 「そっか。今日は大変だったからなあ」 「……ん。でも……たのしかった」  淡く笑う顔は、一つの村を簡単に瓦礫の山に変えた武人の片割れとは思えないほど透明だ。思わず一刀も笑い返す。彼を見上げる赤い瞳が、安心するように揺れた。 「よかったな」 「……ん」  最後は荒れ模様だった気もするが、それは恋には関わりのないことだ。あれだけの武の爆発で、村が荒野に変わった程度でよかったと考えるべきだろう。幸い、重篤なけが人が出たりすることもなかった。  二人はしばし顔を見合わせて笑っていたが、ふと恋がそのまま一刀にもたれかかってきた。彼は彼女の体を支え、肩に手を回す。彼の腕の中に収まって、恋は無言ながら心地よさそうにしていた。  どれほど経ったろう。一刀が、消えかけてちらちらと揺れるろうそくに照らし出される赤い髪と赤い瞳、褐色の膚の様子に目を奪われていると、不意に彼女は訊ねた。 「ご主人様は、華琳のために戦う?」 「ん? うん。そうだな。そうとも言えるかな」  唐突な問いに少しだけ驚きつつ、一刀は素直に答える。 「それは……拾われたから?」  どうやら、真面目に問いかけられているらしい。そう判断して、一刀はしっかり考えつつ、言葉を選ぶ。といってもそれは恋にわかりやすく説明するためであり、彼女の問いかけに対する答えの本質的な部分は彼の内側からわき出てくるものであった。 「うん。それもある。なにしろ、華琳に拾われていなけりゃ、どこかでのたれ死んでいたかもしれないしね。でもね」  薄暗がりの中、心臓の鼓動をお互いに聞き取れるほどの近さで相手の体温を感じながら、一刀は懸命に話す。恋もまたまっすぐに彼を見つめ、その言葉を受け取ろうとする。 「拾われたことの恩や……去ってしまったことの償いや、華琳自身を思っている気持ちが大きいのは確かだよ。ただ……それだけじゃないんだ」  見つめると、恋はこくりと頷き返してくれる。それを確認して彼は続けた。 「俺のいた世界じゃ、戦ってのは本当に縁遠いものだったんだ。いや、世界中を見渡せば、戦争をやっていたところもあったけれどね。少なくとも俺の周りじゃ、戦争なんて世代単位で経験しないものだった」 「……天の国」 「そう。そう呼ばれているね。実際は、そんな大した……いや、それはまたにしよう。ともかく、俺の世界と、この世界は違う。賊もいれば、黄巾の乱みたいな大規模な叛乱もあれば、群雄割拠の勢力争いもあった。それを見てきて、思ったことがある」 「……思ったこと?」  不思議そうに繰り返す。彼女にとって、彼が言う状況は所与のものであり、疑問に思うこともなかった。また、それに対して、天の御遣いと呼ばれる目の前の男がどう思ったか、そんなことを考えたこともなかった。 「なぜ、戦争が起きるのかってことさ」 「……」  なんと言っていいのかわからない。  戦は、起こる。  だが、なぜ起こるのか。それを考えたことが、彼女にはなかった。  それよりも、勝ち残り、生き残ることが大事だったから。 「きっと怖いからなんだと思うんだ」  だが、男は彼女の戸惑いもわかった上で、話を続ける。 「お腹が減って動けなくなるのが怖い。家族がいなくなるのが怖い。家がなくなるのが怖い。友達が……大事な人が傷つくのが怖い。街が燃えるのが怖い。なによりも、死ぬのが怖い。だから、戦う」 「……怖い?」 「うん。皆、怖いと思うんだ。それこそ、明日が、来年がどうなるかわからないような混乱した状況だったらなおさらね。じゃあ、もっと怖いことにならないようにするためにはどうするか。そこで、戦いを始めるんじゃないかな」  一刀の言うことを、恋は考えてみる。  たとえば、セキトがいなくなる。音々音がいなくなる。それは考えるだけで悲しく、とてつもなく辛いことだ。  そうならないように、大事なものを守る。  そこで、別の事を考え、望む誰かとぶつかることで、戦いが始まることもあるように思えた。 「もちろん、大勢力の主だってそうさ。自分の勢力を失わないために、新たに領土を広げることで、さらなる支持を集めるために、戦を起こす。その大元はそう変わらない」  非難を込めた厳しい声で言った後で、一刀は一転優しい口調に戻る。 「でも、いまの三国の状況じゃ、そんなことはないよね? いきなり隣国が攻めてきたり、大規模な盗賊団が現れたりなんてことは予想しないし、実際ありえない」  恋はその言葉に視線をさまよわせて考え、再び頷いた。 「うん」 「それは、三国がみんな信頼しあっていて、さらに自分たちの国をしっかりと治めているからだ。でも、そこにたどり着くためには、色々と犠牲が必要だった」  俺たちと恋たちが争ったみたいにね、と一刀はなんでもないことのように言う。 「俺はね、この三国の関係が、もっともっと広く、大きくできると思っているんだ。鮮卑や烏桓と呼ばれる人達とも、もっと西の国々とも」  そう言う彼の顔は、すぐ傍にいるはずなのにここではないどこか遠くにいるようで、恋はきゅっと彼の袖を握った。 「その中で衝突もあると思う。今回の北伐みたいに戦になることもあるかもしれない。でも、いつも不安な緊張状態ってのは解消されていくはずだ。とはいえ、もちろん、うまくやらないと禍根を残しかねないんだけど……」  言葉尻を濁し、彼はふっと小さく笑った。 「まあ、こういった事も、華琳が推し進めることを傍で見て感じて、考えたことだから、華琳のために戦うというのも間違ってはいないだろうね。ただ、それを言うなら、華琳を含めた大事な人達のために戦う、かな」  ろうそくの火はいよいよ小さくなり、燃え尽きかけている。しかし、その最後の光が、一刀を見上げる恋の瞳を、濃くなりつつある闇の中できらめかせた。 「……ご主人様は色々考えてる……」 「まだまだだよ。それでも……待っちゃくれないからね」  何が、とは彼は言わなかった。あるいは、誰が、とも。  そして、じじ、と小さな音を立てて、ついに火が落ちる。ふっと立ちのぼる最後の甘い香りの中、二つの影は重なり、無言のままに寝台へと倒れ込んでいった。  暗闇の中、不意にしなやかな体の持ち主が首をもたげる。その膚が離れる感覚に寂しいものを感じ、男はかすれた声で訊ねた。 「どうした?」 「……なんでもない。もう行っちゃった」  女の答えはいつも以上に謎めいていて、なぜだか少し残念そうにも聞こえた。 「え?」 「……ううん」  聞き返す声に小さく首を振り、再び彼女は彼の胸に体を寄せる。その密着をさらに近いものにしようとするかのように、男の力強い腕が彼女をぐいと引き寄せ、女もまたそれに応じて彼の体を抱きしめる手に力を込めるのだった。  6.令  宮城の中には大小様々な庭があり、それぞれに特徴がある。その中の一つ、ひょうたんの形につくられた池の畔には、池を上から眺めて楽しむために、こんもりとした丘が添えられている。  その丘の上には大ぶりな四阿があり、一時、そこを訪れる者のために日差しを遮る役を果たす。  しかし、今日は、その四阿にとあるものが鎮座していた。  それを構成するのは、黄金と猩猩緋。  壁と言わず天井と言わず全てが金に塗り込められたところに、床と窓に広がる深い深い紅色。外から差し込む光は全てが紅に染まり、金の色を複雑に飾り立てる。  たった二歩ほどで縦断も横断も出来る狭い室内は、金の輝きと緋の重さで、とてつもない緊迫感を持つように思えた。  それは、黄金の茶室。  北郷一刀の生まれた国をかつて一手に支配していた男が命じ、その美学を示しきった、その再現。  世に醜悪と、悪趣味の権化と言われた金箔仕立ての茶室は、しかし、実際にそれを直視すると、異なる印象をもたらす。  夕暮れの淡い光の中、それは清冽で、凛とした空気を纏っていた。  何とも言えない緊張感の中、覇王は自分の髪と同じ色の茶室の中を見回す。 「昼間見かけた時はなんて派手かと思ったけど、夕暮れの光で見ると案外悪くないわね」  その隣でこくこくと首をふって同意を示すのは、何枚もの衣を重ね着した月。珍しく、今日は彼女はめいど服ではなく、かつて相国を名乗り、朝廷を牛耳っていた頃の服を着ていた。 「きれいな赤で……なんていうか、引き締まった感じがします。これもご主人様の世界のものなんですよね?」  訊ねかける相手は、炉の前にたたずむ金髪の女性。位置からすれば、この場の主ということになる。 「ええ、わたくしが――このわたくしが、我が君からお教えいただいた天の国の作法ですわよ!」  まさに黄金の茶室にふさわしい硬質な輝きを持つ黄金の髪を振り立て高笑いする彼女にあわせて、華琳は月に小さく耳打ちする。 「私の茶室に対抗して、一刀からなんとか聞き出したのが、麗羽の趣味にあったらしいわよ」 「なにか仰いまして?」 「いえ。茶を淹れる道具まで金なのね、と感心していたのよ」  彼女の指摘通り、麗羽が手を動かしている茶道具まで金で出来ている。壁や天井は箔をはりつけたものだろうが、その数々の茶器の重さや存在感からすると、全て純金製かもしれなかった。 「金というのは軽薄な印象をもたれがちですけれども、その実態はもっと深いものですのよ」 「……それ、どこの受け売り? 一刀?」 「きーっ! わたくしの持論ですわよ!」  時折激しい掛け合いを挟みつつ、それでも麗羽は優雅な動きを崩さず、茶を淹れていく。  華琳と月、二人の前に置かれた茶杯は、これのみ無垢の純白であった。 「おいしい」  茶を口に含んだ途端、思わず、といった様子で月が漏らす。その顔は幸せそうな笑みに満ちていた。茶の熱が腹に落ちたのか、彼女はほっとした様子で力を抜く。 「……本当にこいつは奇をてらわなければねえ……」  隣で微妙な表情を浮かべるのは華琳。昔なじみとして、言いたいことは色々あるのだろうが、麗羽の得意そうな表情に、彼女は言葉を呑み込んだ。 「それにしてもこの顔ぶれって珍しいですね」  しばらく茶を楽しんだあと、少しぬるめの二杯目を麗羽が淹れたところで月が問いかけるように言う。麗羽はすぐさま視線を華琳に飛ばした。 「招待したのはわたくしですけれど、人選は華琳さんですわよ。場をつくってくれと頼まれたのですもの」  二人の視線を受けて華琳は小さく笑う。 「まあ、あなたたちを呼んだ意図は後に回すとして、この間の劇はいかがだったかしら? 主役のお二人さん」  華琳が言うのは、年始に上演された張三姉妹の劇のことだ。反董卓連合に題材を取って華琳自身が脚本を書いた歌劇はおおむね好評なものだったが、主役となった――悲劇の主人公として描かれた月と、それを攻め立てる悪役として描かれた麗羽自身にとっては別の感慨があるかもしれなかった。 「あ……。あれ、すごかったです。でも……」  月は勢い込んで話し出し、しかし、すぐに顔を曇らせた。 「でも?」 「私の役があんなにお姫様で良かったんでしょうか? 人和さんは可愛かったですけど」  促されておずおずと切り出した内容に、思わず華琳は笑みを浮かべる。しかし、一方の月は困ったような表情。 「しょせん、私は田舎領主の娘に過ぎないわけですから」 「辺境の一領主が、数奇な運命で位人臣を極める。そして、追い落とされる。物語としては大事よ」 「それはそうかも……。あ、でも、本当に楽しかったです。もっと詠ちゃんが出てきてもいい気はしましたけど……」  月は華琳の言葉にようやく明るい顔に戻り、そして、最後に少し不満顔になった。 「そこはしかたないわ。あの話は北伐まで繋がるのだけど、そのあたりで詠が注目されるようになっているからね」  なだめるように説明する華琳。月は納得したようにこくこくと頷いていた。それから、静かに自分が淹れた茶を味わっている麗羽の方へ、彼女は向き直る。 「麗羽は? 最後は改心する形だったにせよ、結構な悪役ぶりだったわけだけど」 「別に気にしませんわよ? なかなか良い目立ちっぷりでしたし」 「あら。もっとよく描きなさいと憤るかと思ったけど。意外ね」  麗羽は、かえってその言葉の方に眉をひそめた。 「華琳さんはわたくしをなんだと思っていらっしゃるの? わたくしは、悪は悪として認めますわよ。それが、偽でなければ、ね」  ほう、と息を吐く華琳を面白そうに見やりながら、麗羽は続ける。 「まあ、好むかどうかはまた別の問題ですけれども……。あの劇は、まあ、悪くはありませんでしたわ」  それが袁家の主としては最高級の賛辞に等しいことを知っている華琳は会心の笑みを茶杯で隠した。 「それはともかく、そろそろ本題に入ったらいかが? 結局のところ、この三人を集めた理由はなんですの?」  琥珀色に熟成された干し柿を盆に載せて、それぞれの前に押しやってから、茶室の主は焦れたように訊ねる。  それに対して、華琳は小さく微笑んだ。その笑みで、再び室内に緊張が戻ってくる。 「中央を狙えた人間を呼んだのよ。世が世なら、この漢土の頂点に立っていたであろう者を」  思わず月と麗羽は顔を見合わせる。その言を発するのは、現実に漢を掌握している人物。そして、残る二人もまた、たしかにこの国を支配するまで後一歩の距離に立ったことはあった。  だが、今更それを持ち出すとは。 「呉や蜀の皆さんは?」 「可能だったと思うの?」 「それは……」  月が口ごもるのも故無き事ではない。  たとえば赤壁で呉蜀連合が勝っていたとして、南方の二国が中原、さらには華北を制覇できたろうか? 多少の侵攻は許したとしても――あえて自ら国土を棄てたりしない限り――魏が中央を掌握し続けることだけは可能だったはずだ。  一方で、官渡で華琳が負けていた場合、洛陽の失陥は免れ得なかった。それだけの兵力を、経済力を、袁家は有していたし、白蓮を討って後背の憂いもなかった。おそらく、そうなれば魏は強力ではあるがただの一勢力に成り下がり、けっして覇者とはならなかったであろう。  それが時勢というものであった。  地方政権として勢力を維持することはともかく、中央を狙えたのは、たしかにこの三人だけだと言われても抗弁は出来なかった。 「古いお話を」 「年寄りみたいなことを言わないで。五十年、百年も前の話ではないでしょう」 「ふん」  交わす軽口も、親しみはあっても緩さはない。 「それで、私たちに……なにを?」  月の言葉に促され、華琳は懐から一巻きの竹簡を取り出す。じゃらり、と床に広がったそれに墨色も新しく書かれた内容を、月と麗羽は目で追っていく。  自古受命及中興之君、曷嘗不得賢人君子與之共治天下者乎。  及其得賢也、曾不出閭巷、豈幸相遇哉。上之人不求之耳。  今天下尚未定、此特求賢之急時也。  『孟公綽為趙、魏老則優、不可以為滕、薛大夫』  若必廉士而後可用、則齊桓其何以霸世。  今天下得無有被褐懷玉而釣於渭濱者乎。  又得無盜嫂受金而未遇無知者乎。  二三子其佐我明揚仄陋、唯才是舉、吾得而用之。 「兄嫁と密通し、賄賂を受けとり、いまだ推挙してくれる友人に行き当たっていない者はいないといえようか。卑賤の人も推薦してくれたまえ。ただ才のみによってこれを挙げよ、私が用いよう……」  麗羽は最後の数行をぶつぶつと呟いてみせる。 「魏無知が出てくるからには陳平のことですよね。天下のための賢人――太公望や陳平を得るためには、どんな低い身分の者も、ただ才能だけで判断して取り立てる、という布告ですね?」  月が口にした陳平とは、漢の高祖劉邦の名参謀として有名な人物である。兄嫁と密通した云々というのは、彼の有名な故事であるが、実際には他者による讒言であり、本当にそうしていたかどうかはわからない。ただし、前段の渭水で釣り糸を垂れる太公望と共に、名を出さずとも、この時代の人間ならばすぐに察せられる逸話であった。 「ええ。そのとおりね」 「まあ、内容はともかく、華琳さんらしい布告ではありませんこと? 塾の先生方が聞いたらひっくり返ること請け合いですけれど」  麗羽はからかうようにそう言う。わざわざ悪い噂のある人物の名を出したり、いかに身分の低い者であろうと実力だけで取り立てるというのは、元から支配層にある人間たちに対しては挑発的な物言いであり、古くさい考えの老人達からすれば噴飯ものであろうが、それをやってのけるのが華琳という人物だと、麗羽は身にしみてよく知っていた。 「賢人を求める心に偽りはないわ。ただ、書いていて思ったのよ」  手を伸ばし、こんこんと彼女は竹簡の表面を叩く。 「果たして、いまは乱世なのかしら、と」 『今、天下はなお定まらず、特に賢を求める急時なり』  彼女が指さす先にはそう書いてある。それを自らも見つめつつ、華琳は疲れたように首を振った。軽く巻かれた金髪がその動きに応じて揺れる。 「自分で書いていて、疑問に思ったのよ」 「たしかに強めの表現ですけれど、こういった布告では、強調するのが常でしょう?」 「そう。悔しいけどあなたの言うとおり。でも、なにかひっかかって……」  気に入らない表現ならば、ただ削除すればいい。あるいは認識を変え、そもそもいまは天下が定まりつつある時期だからこそ人が必要だとしてもいい。  そんな簡単なことのはずなのに、そうさせてはくれないなにかが華琳の心にわだかまっていた。自分でもそれがよくわからない彼女が相談相手に選んだのがこの二人であることに、華琳自身なにか不思議なものを感じている。  その表情を見て、麗羽も月も何かを感じ取ったか、再度真剣にその文を検討し始めるのだった。  7.英雄 「乱れているかどうかと言えば、三国を華琳さん自身が平定されたわけで、治まっているとは言えますよね」 「そうね。たしかに三国は治まったと言っていいでしょう。ただし、あなたのほうが詳しいでしょうけど、涼州にはまだまだ軍閥を組んでいる豪族達がいる。一方、北方や西方には……」  月が華琳とそんなことを話している間、麗羽は竹簡を受け取り、さらに何度も何度も華琳の手による文章を咀嚼していた。  そして、月と華琳の会話が途切れたところを見計らい、彼女は問いかける。 「ねえ、華琳さん?」 「なに?」 「この布告は、要するに才能のある人間を求めるというものですわよね? 身分にも過去にも関係なく、かつての敵だろうと罪人だろうと変人だろうと、それこそ異民族でもいい、そんなことを考えてらっしゃるのではありませんこと?」 「え、ええ」  珍しく真剣に物事を考えているからか、麗羽の表情は普段のにこやかさとは縁遠い。そうしてみると、元来の美貌も相まって、妙に迫力があった。 「まあ、華琳さんの人材好きは昔からのことですから、そのこと自体には驚きもなにもしませんけれど、でも、華琳さん」  麗羽は主人の席から身を乗り出す。黄金の茶室の中で黄金の髪が揺れ、さらに華琳へと圧力を加える。 「いつまで、それを求めますの?」 「……え?」 「いまが乱世だろうと治世だろうと構いませんけれど、どれだけの人材が必要で、それをどれだけの間、求め続けますの?」 「それは……。才あるものがいる限りは、それを発掘し、生かすのは為政者の使命でしょう」  挑むように言い放つ華琳。その姿に一つ頷いて、麗羽は身を戻す。 「月さん?」 「は、はい?」 「華北中原で名高い人物を挙げてみてくださいません? そうですわね、知謀の士を」  唐突に名を呼ばれ、話を振られた月は驚きつつも、指折り数えていく。 「え、はい。ええと、そうですね。桂花さん、稟さん、風さんの三人は当然ですよね。あとは、華琳さんご自身と、詠ちゃん、ねねちゃん……くらいでしょうか。朱里ちゃんたちも元々は中原の人ですけど、いまは南部ですし……」  とっさの答えに、けれど満足そうに麗羽は頷く。 「そうですわね。文若さん、仲徳さん、奉孝さん、文和さんにあのおちびさん。それと、華琳さん。仰るとおり、知謀の士ならこんなものでしょう。江水以北というとてつもない広い地域で、たったの六人」 「麗羽?」  袁家の主がどこに話を持っていこうとしているのかわからず、華琳は問いかける。しかし、旧友の呼びかけに答えず、彼女は先を続けた。 「いまはいいですわ。それこそ卓越したその六人がいらっしゃれば十分やっていけるでしょう。でも、次の世代、その次の世代……」  ひらひらと彼女は優雅に手を振る。 「華琳さんだって、漢の歴史くらいは知っているでしょう。きら星の如く英傑達が出現する世代など、そう多くはありませんわよ。たいていはわたくしの親族のようなどうでもいい人間が高位を占めますのよ」  四世三公。四世代にわたって漢の政治の中枢に人材を輩出した名家の血を引く女性は、まさにその名家としての業績を否定しつつ、からからと笑った。 「まさか、わたくしが実力をもって大将軍位についたなどと、あなただけは仰らないでしょう」  すい、と華琳の目が細まる。  まさか、と思っていた。  敗残の身で大陸を流浪した後、一刀の下に来ることとなったこの腐れ縁の女性が、かつてとは変わったということを聞いてはいたし、見てもいた。しかし、ここまでとは華琳は思ってもいなかった。  いや、変わってなどいないのかもしれない。  ただ、隠れていただけで。 「あの……いいでしょうか」 「ええ」  横合いからかかる声に視線を動かすことなく、華琳は言う。もう言うことは言い切ったという風情で涼しい顔をしている古なじみを、彼女はじっと見つめていた。 「麗羽さんの仰ることもわかるような気がします。先ほども言いましたけれど、私はただの田舎領主の娘です。それが京師を担うようになったのは、世が乱れ、洛陽周辺がぽっかり空いたからであって、才があったからではありません」  もちろん、詠ちゃんがいた、というのが大きな要因ではありますけど、と付け加え、月は話を進める。 「それに、いま女官の人達を教えていて思うんです。傑出した人間というのは本当に少ないって。それよりも、私のようなつまらない人間や、大した力もない人間のほうが、圧倒的に多いんです」  謙遜するわけでもなく、月は告げる。その声の素直さに、華琳は少々面食らった。 「そんな……つまりは、どこにでもいる程度の人間がしっかりと働ける。それでも保たれていく機構をつくることのほうが、大事なのかもしれません」  月の意見をじっくりと考えつつ、華琳は意識の一部で思う。  この二人を呼んだ自分の勘は誤っていなかったらしい、と。 「本当に才能のある人間は、もっと大きな事に費やすべきだと、そう思います」  月が言葉を切ってしばらく、茶室は沈黙が支配した。そろそろ日も暮れ落ちて、炉と暖房の灯だけが室内を照らすようになる。そうなると、金はさらに暗く落ち、わき上がる炎のような緋色に包まれて、空間は幽玄に沈む。 「あなたたちの言うことは尤もな部分もある。たいていの要職はどうでもいい無能者に握られているものだし、それで崩れず続いていくなら、そのほうがいいのかもしれない」  華琳は唇を噛みしめた後で、そう同意した。しかし、すぐにその顔に不敵な笑みが浮かぶ。 「それでも、私は才ある人間を求めずにはいられない。少なくとも、現状でそんな国は作ることができていないのだから。新しい形を求めるためにも、いまは、やはり賢者が一人でも多く欲しい」 「誰も止めろなんて言ってませんわ。さっきの布告だって実に華琳さんらしいと言いましたでしょう。ただ、華琳さん」  温もりを求めるように自ら入れた杯を両掌で包みながら、麗羽は何かを思い出すかのように華琳の顔を見る。  その瞳に映るのは、果たして、いま、そこにいる華琳だったろうか。その輪郭はもっと小さく丸く、しかし、その瞳はさらに鋭い、そんな頃の彼女ではなかったか。 「昔……、そうずいぶん昔、読んだ本にこうありましたわ」  彼女はちろりと唇を湿らせて、その一節を歌うように告げるのだった。 「英雄の最後の仕事は、英雄を殺すことだと」  8.問い  ずどどどどど……。  なんの音だろう。一刀がそう考えて辺りを見回したときには、もうすでにそれは避けようのない距離にあった。小さな黒い影が彼の視界を覆ったと思うと、次には腹にとてつもない衝撃が走り、そのまま体は持って行かれて、地に転がる。 「がはっ」  ごろごろと草の上を転がって、ようやく庭木にぶつかって止まる。彼は低木にすがりつくようにして体を起こし、自らを襲った相手に対した。  そこにいるのは黒白の印象的な軍師服に身を包む、快活な少女……のはずだった。 「ち、ちんきゅーきっく、おそるべし……」  普段ならここで高笑いか、さらなる追撃の怒鳴り声が来るものだが、今日に限ってはねねは冷たい瞳で彼を見つめるばかりだ。その様子に少々戸惑いつつ、一刀は何度か息を吸い吐きして、体に力が入るようにしていく。 「弱い、ですね」 「へ?」 「恋殿並みとは言いませんが、武将でもないねねの蹴りを受けるどころか、避けることも出来ないとは」  一刀はその内容よりも、吐き捨てるような物言いが気にかかった。しかし、彼が何ごとか言う前に、彼女はくるりと背を向ける。 「……ねね?」  黒い軍師服が遠ざかっていこうとするのに、呆然と彼は声をかけ、次いで、痛む体にむち打って、地を蹴った。 「おい、ねね」  さすがに体の大きさに差があるおかげで、なんとか彼は彼女の体に手をかけることができた。ぐいと引き留める腕に抵抗する様子もない少女の顔を覗き込み、彼はおそるおそる訊ねかけた。 「……泣いてるのか?」 「な、泣いてなどいないですよ!」  しかし、そうして反駁しながらも、必死で歯を食いしばる様子は、自らの言葉を見事に裏切っている。 「なにかあったのなら、俺が……」 「うるさいっ」  爆発するような叫びは、彼の腕を振り払うのと同時だった。追いすがろうとする一刀の体をすり抜けるようにして、彼女は走り去る。 「ねねっ!」  一刀の声は、悲痛ではあったが、彼女を引き留めるなんの力も持っていなかった。  次に一刀が彼女を捜し当てたのは、もう日が暮れかけた頃のことだった。厨房の裏の茂みの奥に座り込み、膝の上で丸くなった猫をなでている姿は、夕暮れの光の中で、あまりに物寂しく見えた。 「……よくここがわかりましたね」  がさがさと音を立てて一刀が現れても顔をあげることもなく、彼女は小声で言う。それはうつらうつらしている猫の事を思ってのことだったろうか。 「恋が教えてくれた」 「そうですか……」  諦めたように、しかし、ほっとしたように呟き、丸くなった猫をゆっくりと土の上に降ろす。 「少し話、しようか」 「……ええ。でも、ここは、いえ、外は止めましょう。万が一にも人に聞かれたくはないですよ」  彼女の横に場所を作ろうとする一刀を押しとどめ、彼女は初めて顔をあげ、彼のことを見あげた。その鳶色の瞳が一刀を射るようで。 「わかった」  彼は一も二もなく彼女の申し出に頷いていた。  結局、一刀の自室に落ち着いた二人は、執務机ではなく、円卓に座って、斜めの位置に対していた。 「なにがあったのかな?」 「……なにがあったわけでもないですよ」  暗く沈みきった表情でそう言われても、説得力がない。 「ただ、わからなくなったのですよ」 「わからない?」 「お前に仕え続けていていいのか、と」  あまりのことに、一刀の体が硬直する。彼はぱくぱくと口を開いて何ごとか言おうとしたが、それが声になることはない。 「慌てていますね」 「そりゃあ、そうだろ……!」  指摘され、はじめて声が出る。喉につまったものが飛び出たような感覚。一刀は自分が息を出来ていなかったことにようやくのように気づいた。 「ま、その程度には求められているということですか。いいでしょう」  ふっと自嘲のように歪むねねの表情。それは決して彼の心を温めてくれなかった。 「ねね……?」 「最初から話をしましょう。いいですね?」  打って変わってはきはきとした口調で言われた。一刀もこれは頭を切り換えて、しっかり対するべきだと自覚していた。 「あ。うん。わかった。俺も落ち着く。飲み物、用意していいかな。ねねもどうかな?」 「そうですね。お願いしますよ」  そうして、そういうことになった。  お茶を用意して、喉を潤してから、二人は再び相対する。 「この間の、恋殿と華雄の戦い。覚えていますよね」 「もちろん。簡単に忘れられるものじゃないだろう」  あの出来事は、印象の薄いものではない。ましてや数日も経っていないのだ。忘れている方がおかしい。 「あれを見てわかったでしょう。恋殿は、そして……これはあまり認めたくもないことではありますが、華雄もまた、人の域を超えるほどの武を持っているのですよ」 「うん。それは知ってるけど……」  音々音の言葉に、猛威を振るったあの光景を思い出し、一つ身震いしてから彼は答える。しかし、小さな軍師はその様子にあきれ顔を見せた。 「簡単に言いますね。いいですか? あの時は恋殿たち二人だったからああして勝負になりましたが、普通の人間では、あの二人の相手にすらなりませんよ」 「ん……。それは、そうだろうな」 「本気の打ち込みを受けられるのは、三国でも数人。せいぜい片手で数えられる程でしょう。まして兵ならば、万を連れてきたって片手間ですよ」  実際、最後に乱入した雪蓮でさえ、連戦の華雄に引き分けるのがやっとといったところだった。三国の一流どころでも、彼女達と伍するには不足だ。一般の兵ではお話にもならないだろう。 「いいですか? いわば、恋殿と華雄はそれぞれが一軍に匹敵します。しかも、個人で、です」  音々音が念押しするように言うのも道理だ。華雄たちが本気を出すような事態はこれまで滅多に起きていないが、実際に何かあれば、あの二人だけでたいていの難局は乗り切れるだろう。もちろん、一刀自身はそんな局面に二人を追いやることなど考えたくもなかったが。 「お前は、その二人を預かっている立場なのですよ?」  ねねは語気も荒く、身を乗り出して、彼に迫る。 「そのことの意味がわかっているとは、ねねには到底思えません! 武力もなく、自覚もなくでは、ねねたちはなにを基とすればよいのですか!」  そうして、一息にそこまで言われて、ようやく一刀は彼女が何を考えているのか理解できたような気がした。 「だから、さっきあんなことを……」 「ええ。現実問題として、ここを去るというのは難しいですが、形式上仕えているふりならば、いくらでも出来ますから」  そんな冷え冷えとした関係は、さすがに一刀としてもごめん被りたい。もちろん、ねねが本心から仕えているのは恋だけだというのは理解している。だが、仲間だと思っている彼女に、ただ見た目だけ仕えている演技をされるというのは悲しく、辛いことだ。  彼は息を一つ吸う。その息を腹の底に落とし、力を込める。そうしなければ、この小さいがひたむきに物事を考えている軍師に対して、しっかりと正面から対峙できないのではないか。そんな危機感があった。  そんな彼の動きを見たか、音々音もまた態度を改めていた。 「主殿」  すっくと立ち上がって、彼女は軍師服の前を両手でかき抱くように閉じる。 「陳公台、主殿に、二つだけ問いたく存じます。どうかお答えいただきたい」 「……わかった。なんでも訊いてくれ。隠さず答えると約束する」  もちろん、彼はなんでも答えるつもりであった。彼に出来ることは、いま、それしかないのだから。 「一つ、右将軍華雄、左将軍呂布。いかにお使いなさるおつもりか。そのお覚悟、お聞かせいただきたい」  一刀は口を挟まない。彼女の疑問を受け止めてから、きちんと話すつもりであった。しかし、彼女の口から出たもう一つの問いの内容は、さすがに彼の予想を大きく外れていた。 「二つ、以前にもお訊きしましたが、もう一度お訊ね申し上げる。何故に、それほど女を求めますか。女たちになにを望まれますか」  そうして、彼女はぺこりと大きく頭を下げるのだった。 「以上、二つ。ご心底うかがいたく」  9.同志 「俺も、元々いた世界では、武術を習っていたんだ。恋や華雄には遥かに及ばないけれどね」  一刀は、そう話し出す。椅子に座り直した音々音は口を挟もうとはしなかった。もし、彼が煙に巻くような話し方をすれば、それはそれで一つの結果――おそらくは負の結果――として受け止めるつもりだったろう。しかし、これは彼なりの論理の持って行き方であった。 「その時に言われたことがある。武という文字は『戈』と『止』からなっている。これはどういう意味かといえば、武の本質とは、『戈』を『止める』こと、つまりは戦いを無くすことにこそあるのだと」  一刀は卓の上で大きく指を動かして、武の文字を描き出す。戈と止、二つの文字をそこに再び描いて、彼は言葉を続けた。 「だから、武を収めるものは、無用な戦いを避け自らを守ることにこそ気を配るべきだ、と言われた。強くなれば、よけいな厄介ごとにも巻き込まれなくなるんだ、とある人は言っていたかな。強くなることで相手を傷つけなくても制することができる、ともね」  何ごとか思い出したか、そこで彼は一つ二つ振り払うように首を振った。 「でもね、ねね。武というものが、戦いを無くすという本質を示すものだったとしても、そこには二通りの解釈があるんだよ」  わかるかい? と目線で訊ねかけられ、音々音はこれも視線の動きで先を促す。 「一つはさっき言ったような、戦いを未然に制するということ。余計ないざこざを抑止するために力を持つってことだね。まあ、これはこれで一つの考え方だと思う。それこそ、好きこのんで華雄や恋に挑みかかるなんて人はなかなかいないだろうから」  雪蓮のような物好きはこの際置いておこう。 「もう一つは、戈を以て止めるという意味。つまり……武という力を使って、相手を倒し、戦を終わらせる。それもまた戦いを無くすということだろう?」 「両極端な解釈ですね」 「うん。そうだね。傷つけない平和か、血まみれの平和か。でも、実を言うとね、ねね」  そこで一つ苦笑をしてから、彼は続けた。 「俺はどちらでもあると思っている」 「ふうん?」 「これはこっちに来てから風に聞いたことなんだけど、実際には『止』という字は、足の意味らしい。つまり、戈を持って進む、進軍する風景こそが、武という字なんだそうだ。そういうことも考え合わせると、武の本質というのは、『力』そのものだと、そう思うんだよ」  そう言って、ぐいと彼は拳を突き出す。そこに込められた力は、武人のものに比べれば頼りないものであったかもしれないが、一つの力であることはたしかだった。 「それを抑止に使えば、第一の解釈になるし、殺戮に使えば第二の意味になる。大事なのは力そのものと使い方は別のものであり、同時に同根のものでもあるってことだよ」  一刀は拳を開く。その掌が、じっとりを汗で濡れていた。 「戈を止むるも戈を以て止めるも、表裏一体。それをどちらかに決めてしまうことは、力そのものを歪めてしまうことにつながるんじゃないかな」  それから彼は一つ息を吸うと、きっぱりと言い切った。 「戦をしなくていい時もある。戦をしなきゃいけない時もある。そのどちらにも、華雄と恋の力は必要だ」  だけど、ねね。と彼は彼女に呼びかける。じっと彼のことを大きな瞳で見つめている小さな軍師に。 「華雄と恋の力を歪めることはしたくない。彼女達が誇りをもって戦えるようにしたいし、また、無用な時には武器を振るわずに済ませたい。その選択の結果は俺が受け入れる。覚悟というなら、それこそが覚悟だ」  そこまで言って、彼はおずおずと語りかける。 「答えに……なったかな?」  彼のことを無言で睨みつけるようにしていた音々音は、しばらく、うー、と唸った後で、こう続けた。 「二つ目の答えを聞いていないですよ」 「あ、そうだな。うん……そっちは……」  考えつつ、視線を揺らす。その視線は部屋の中を一巡りしてから、目の前の少女に落ち着いた。大熊猫の意匠のついた帽子をかぶった少女は、彼の視線を受けて、小首を傾げる。 「正直に言うと、俺が欲張りだからだろうね。俺は強欲で好色だ。それは間違いなく事実だよ」  彼は自然とそう認めていた。口の悪い仲間にたまに罵られるほど、自分が莫迦で節操なしだとまでは思わない。しかし、欲深なのを否定するのは難しい。  大事な人を愛することを、今後も止めることが出来るとはとても思えなかった。 「欲だけで、あれだけの女を? 幾人も子をなした上で?」 「うん」  他になにか意図があるわけではない。王に恋するのも、武将を愛するのも、軍師を求めるのも、別に、なにか目的があってしているわけではない。彼女達のそれぞれの能力は尊敬しているし、仕事をしていく上で頼ることはあるが、北郷一刀という一個人が手に入れたいと思うのは、そんなものではない。  彼は、その人を好きになる。  それだけのことだ。 「幸い、子供を育てるだけの余裕はあるわけだしね」  肩をすくめて付け加える。  自分の欲望に新しい命まで巻き込むわけにはいかない。しかし、幸運なことに子供が出来れば生んでくれる女性たちばかりだったし、育てるあてはある。女性たちの手を煩わせずに乳母に頼むという手をとることだって決して不可能ではない。そんな状況にあることは、彼にとっては非常にありがたいことであった。 「では……では! その女たちに、なにを願うのですか? いえ、お前はなにをするつもりなのですか?」  そういえば、そんな質問も揃いになっていたな、と思い出し、一刀は言葉を選ぶ。特に手間取ることもなく、彼はこう言っていた。 「そうだな、出来れば……幸せになる手助けがしたい」  かくん、と小さな顎が落ちた。 「……いいですか、北郷一刀」  何度か咳払いして調子を戻しながら、ねねは彼の名を呼ぶ。 「お前がそう言う相手の中には、それこそ天下無双の武人も、大陸の覇王すらいるのですよ?」  あ。と一刀は思わず小さく呟いていた。  大陸の覇王とは華琳のことだろうが、この音々音が華雄のことを天下無双と言うはずがない。  そうか、と彼は悟る。どうやら、ねねは一刀と恋の関係を――どんな風に理解しているかはわからないが――知ったらしい。それが今回の問答の発端の一つだったのだろう。 「それを、幸せになる手助けを、する、ですと?」 「うん」  しかし、たとえねねの心の裡に感づいたとしても、彼の答えは変わりない。ごくごく素直に彼は頷いていた。 「お前は本当に莫迦ですねえ」  しみじみと言われる。呆れたように首を振り、肩をすくめるのまでひとそろいで。そのことに軽く傷つきつつ、しかし、彼は次の言葉を聞くことで、驚愕を隠せなかった。 「それは、真に苦しい道ですよ」 「そう……だろうか?」  考えてみる。  皆の幸せと望みを叶えること、それは口で言うほど容易いことではない。まして、ねねの言うとおり、華琳の幸せなどと言ったら……。 「うん。そうだな。そうかもしれない。大それた願いかも知れない」  もちろん、一人でそれを成し遂げられると思っているわけではない。彼が愛するその相手に、ほんの少し力を貸してあげることができるなら、それだけでとてつもない僥倖と言えるだろう。  なにしろ、背中を押すためには、共に歩くためには、まず、その人々と同じ所に立つ必要があるのだから。 「でも、俺は撤回しないよ」 「本当に?」 「本当に」  その問いかけは、とても優しい声をしている。だからこそ、一刀は強く言い切る必要があった。 「そうですか」  諦めたように首がふられる。明るい色の髪が、ひょこひょこと揺れ、髪をまとめている朱色の髪飾りが一刀の視線の中で弧を描く。 「よーく、わかりました。お前が莫迦だということが」  酷い評価だが、言う声に、最初に部屋に入ってきた時の悲愴さはない。そのことが、なにより一刀をほっとさせてくれた。 「ただし、筋金入りの莫迦です」 「……それはもしかして、褒めているの?」  こくん、と頷く顔。どうやら、本気で褒めていたらしい。それから彼女は、ぐっと顔を引き締め、そのかわいらしい八重歯も唇の奥に隠した。 「北郷一刀」 「はい」  思わずかしこまって応じる。  それほど、その言葉は重みを持っていた。 「……お前を、ねねの同志として認めてやるですよ」      (玄朝秘史 第三部第十九回 終/第二十回に続く) ※求賢令について  作中で華琳が麗羽と月の前に出す文章は、歴史上の曹操布告による、いわゆる求賢令です。本文では白文をそのまま載せ、必要な部分のみを話し合っていますが、参考のために、訳文を引用します。興味ある方がおられましたら、どうぞご一読下さいませ。  以下の訳文は漢籍完訳プロジェクトIMAGINE(http://www.project-imagine.org/)の三国志魏書武帝紀第一より引用しております。  ――以下引用 「古代より、受命および中興の君主のうち、かつて賢人・君子を得て彼らとともに天下を治めぬ者はあっただろうか! 彼らが賢者を手に入れるに際して、一度も村里を出でずしてどんな幸運があって出会うことができるものか? 上に立つ人はそれを求めなかったのである。いま天下はなお平定されておらず、それゆえとりわけ賢者を求めるべき緊急時なのである。『孟公綽が趙・魏の老となるのは易しいが、滕・薛の大夫を務めることはできない』という。もし廉直の士であることを条件にしたうえで任用するならば、斉の桓公とてどうして世に霸を称えられよう! いま天下に褐衣を羽織って玉を懐き、渭水の川辺で釣りをしている者がいないといえようか? また嫂を犯して金を取り、いまだ無知に遭遇していない者がいないといえようか? さあ諸君よ、我を支援して仄陋(卑賤の人)を明揚してくれたまえ。ただ才能によってのみ推挙を評価し、吾はその者を手に入れて任用する。」  ――引用終わり  求賢令の布告文そのものは『三国志』に存在する文です。第6節を書く上では、ちくま文庫の『正史 三国志』掲載の訳も参考にしております。   ☆次回予告☆ 「兄様、やめてください!」  少女の懇願も、男の欲望の前にはむなしい。汚れ無き白い肉を、その手に握られた硬いものが探り当てる。 「なんでこんなこと! 華琳様が悲しまれます!」 「許せ、流琉。人間、我慢出来ないこともあるんだ!」  そうして、男はむしゃぶりつく。  その蠱惑と危険に満ちた肉へと。 「ああ、おいしいなあ……」  舌の上でとろける味と香り。それは一刀に無上の歓びをもたらした。 「毒魚なのに……」  流琉の嘆きは、けらけらと笑う声に押しつぶされる。 「まったく、北の人間はこれだからだめなのよ。一刀も河豚を食べるなんてねえ。本当に嬉しいわ!」  ばんばんと背中を叩く彼女の行動は、あまりにその姉に似ていはしないだろうか。 「蓮華様、飲み過ぎです」 「なに言ってるの。これが飲まずにいられるものですか。いい? 思春。食はね、人間にとって、最高の共通語なのよ。食べるものとお酒、これが相手に通じれば……」  そうして酔っ払いの説教はこんこんと続く。  次回 玄朝秘史第二十回『河豚と提灯』