「無じる真√N51」  南陽郡にある宛城、その門が大きく開かれ、数百人ごとの集団がいくつかに別れて入城していく。  その先頭で曹操は麾下数百の将兵を引き連れて驢を進めていた。  城内を見渡してみる。損傷したり崩れたりしている箇所、焼け後なのかくすみの目立つ所が未だに残っており、修復には今少し時間が掛かりそうである。  街の通りへと差し掛かるが、どうにも民の姿が表に見えない。  要所ごとに浮き彫りになる不完全統治。  だが、それも致し方ないことではある。  なにしろ、先の徐州における偽帝袁術の討伐およびその後始末のために曹操や有能な軍師たちは足止め状態となっていたのだ。  徐州は結局、孫策、公孫賛と分割。  もっとも、それぞれの理由で取り分は少なくなり結果的には曹操が一番領土を得ることになり、そのためにしばし滞在することとなった。  そうして統治に追われるのだから、その間は夏侯惇を中心とした隊によって陥落したこの城へと足を運ぶことなどもちろんできるわけがない。  ただ、いかんせん攻略に赴いていたのが夏侯惇と楽進、于禁、李典の通称、三羽烏に悪来典韋という比較的知や文に通じていない者たちだという点における不安はあった。  そこで、曹操は重宝している軍師を一人派遣する。  こうして徐州と宛というほぼ同時期に手にした領土の統治を曹操は上手くこなしていった。  徐州の領土に関する仕事を程昱のみで捌ききれるようになったのは他の二勢力の統治が落ち着いてから大分絶った後である。  しかし、そうして時間をかけたおかげで徐州に対する不安はなくなり、曹操はこうして実際に宛城へと視察に訪れることが可能となったのだ。 「まだまだね。念のため、稟を送ったとはいえ苦戦しているようね」  この地は南に劉表、そして……何よりも逃亡した劉備という注意すべき敵を抱えている。袁術の領土をそっくりいただいた孫策もまた警戒しなければならない。  ただ、それとは逆に北は洛陽、北西は長安へと通じる道もあり動きやすさはある。 「華琳さま!」  美しく黒光りする長髪をたなびかせて駆け寄ってくる人物がいる……むき出しの額をきらりと光らせながら嬉しそうな表情を浮かべているのは夏侯姉妹の姉、夏侯惇。 「久しいわね、春蘭」 「は! お久しぶりです。華琳さま」  どこまでも響き渡りそうな声で返事をする夏侯惇。走り寄ってきたその姿はまるで飼い主を見つけた犬のようでほほえましさすら感じさせる。 (あの振り乱している黒髪は尻尾といったところね)  もし、あの長く艶のある髪を髪飾りなどで纏めていたら完全に見た目も尻尾になっていただろう。  そんな空を切る夏侯惇の長髪を見ながら曹操は誰一人気付くことのない程度に口元を緩める。 「相も変わらずの壮健ぶりなようで何よりね。それと、出迎えご苦労」 「華琳さまご自身が足を運ばれると言うことでしたので、お迎えに参った次第です。ええ、そうです、華琳さまが! 華琳さまが来られると窺ったのですからこのわたしが出迎えるのは当然のこと!」 「ふふ、そう。それでは、すぐに報告を聞かせてもらおうかしら。さ、城に向かいつつ話してちょうだい」 「は、はい! えっと、それでは……」 「どうしたの? 春蘭」  曹操の隣で口を開けたまま馬鹿みたいにぼけっとしている夏侯惇。  内心ではどうしてそんな状態になっているのかを察知しながらも曹操は敢えて夏侯惇へ声をかける。 「……何を話せば良いのでしょう?」 「そうね。それじゃあ、あなたの武勇でも語ってちょうだい」 「畏まりました! え、ええと……この、夏侯元譲、南陽郡へと辿り着いてからはそれはもう、張繍の兵をちぎっては投げ! ちぎっては投げ! とまさに七転八倒の活躍!」 「そう。どうやら、八面六臂の活躍を果たしたようね」  曹操は身振り手振りに加え明らかに間違った熟語を用いて必死に説明をする夏侯惇の姿を見て彼女らしさを確認すると、満足感に包まれたまま訂正と要約を告げることで彼女の話を収束させた。 「それはもう! ……あ、あの、それで華琳さま?」  夏侯惇は期待の籠もった瞳で曹操を見つめている。  曹操はそんな彼女を微笑ましく思いつつ頷いてみせる。優雅に笑みを造ると、周囲の少女や女性を虜にするその魅力的な唇を動かす。 「わかっているわ。ちゃんと後でご褒美を与えるつもりよ」 「ほ、本当ですか! くう……これで尽力したかいがあったというものだ……」  夏侯惇は両手を胸の前へと掲げて拳を握りしめながら身体を震わせている。どうやら喜びに打ち震えているようだ。  しばらく彼女は満面の笑みでいたのだが、それはうららかな陽気のごとく非常にのどかなものだった。  †  褒美についての約束を終えてから曹操が城に向かっている間、喋りを再開した夏侯惇が口を開いて以降一切止まることなく延々と話を続けていた。  もっとも内容はいかに自分が闘ったかの一点に絞られており、共にいたはずの三羽烏や典韋に関する話がまったく出てこない。  夏侯惇の話も聞いていて退屈しないことはしないのだが、曹操はふと聞いてみたいことがあったのだと思い出す。 「ねえ、春蘭」 「――それはもう。はい? なんでしょう」  会話を中断された夏侯惇が不思議そうな顔で曹操を見やる。 「貴女、関羽と一戦交えたそうね」 「え……。いや、それは……その」  どうにも歯切れの悪い夏侯惇。どうやら、あまり主だって取り上げたくない話題のようだ。  それを察した曹操は敢えて突っ込んだ質問をする。 「できれば、その時のことをじっくり、そう時間をかけて話してちょうだい」 「そ、それは勘弁していただけませんか?」 「駄目よ」 「……うう、わかりました」  がっくりと項垂れた夏侯惇は深呼吸すると街中に響き渡りそうなほどの大声量で「よし!」と気合いを込めると、関羽との打ち合いについて語り始めた。  おおまかな決着に関しては夏侯淵から伝え聞いてはいたが、当事者である夏侯惇から聞いてみるとまた違ってくることもあるだろう。  事実、夏侯惇の口から直に聞いてみるとより関羽という武将がいかに強靱な精神をしているかが伝わってくる。  ただ武に長けているだけでなくその心根もそれに劣らぬように鍛錬が積まれているに違いない。  おおよそ夏侯惇の話に満足した曹操だったが、ただ一点だけ気になったことがあった。 「関羽が冷酷?」 「ええ。あの瞳は間違いなく冷徹な色をしていました……あ、もちろんこの夏侯元譲がそれに臆したなどということはありませんよ?」 「そうでしょうね。貴女だったら一層闘争心が燃え上がるはずよね」  関羽と強引に別れさせる際の夏侯惇は本気で燃え上がっていたというのも既に彼女の妹より報告を受けており、それが彼女の話と事実における相違点が無いことを証明している。  しかしどういうことだろうか?  冷徹というのはあの甘さが大いに出ている劉備軍に属する武将らしくない。 「それは、生死をかけた戦闘に対するものではないのね?」  念のため確認の言葉を口にするが夏侯惇は首を振る。 「ええ。数多の戦場を駆け巡ったわたしだからわかります。あれは、すべてに対して冷ややかな感情を抱く瞳でした。相対したこのわたしに対して……そして、自らの命にたいしてさえも」 「それほどまでに……。なんだか関羽らしくないわね」 「ですが、強さはその瞳になってからの方が数段増していました。認めるのは悔しいですが押されかけたのも事実です。やつの調子が狂わなければ逆転は難しいものだったと思います」  歯がみしながら苦々しく告げる夏侯惇の言葉には口八丁の者では出すことなど到底出来ない重みがある。  まぎれもない事実、曹操軍でも並ぶ者なしと言えるほどに武に長けた夏侯惇ですら苦戦必至となる関羽……もしかしたらその武は既に昇華されてあの〝天下無双〟に迫っているのかもしれない。 「まさに、軍神といったところね……」  気がつけばそんな言葉が曹操の口をついて出ていた。 「華琳さま……やはり、関羽のことについて惜しいことをしたと思っておられるのですか?」  迷子となりひとりぼっちとなった幼子のように頼れる者が他にいないというような切さと必死さにいろどられた表情で夏侯惇が曹操を見つめている。  その様子が曹操の嗜虐心をそそるのだが本人は気がついていないのだろう。 「ふふ……そうね。あの忠義の臣を劉備から奪うのはきっと無理よ。それこそ力尽くでも難しいでしょうし、それがわかっているからこそ別に未練もないわ。だから、そんな悲しそうな顔をしないでちょうだい。春蘭」 「うう……華琳さま」 「でも、人の物ほど欲しくなるというのもあるのよね」 「やはり、関羽の方が良いと仰るのですか!」 「ふふ、冗談よ。貴女もとても魅力的よ」  そう言って情緒不安定な様子の夏侯淵を宥める。  曹操によって乱された心を夏侯惇が落ち着けた頃には目的地へと到着していた。 「さて、それじゃあ。頼むわよ春蘭」 「は。さあ、ご案内いたします。ささ、こちらへ」  夏侯惇が先導するように歩いていく。その先に一人の少女が立っている。 「華琳さま、お疲れ様です。料理の準備をしてありますので後ほど、厨房へお越しください」 「ありがとう。流琉」  若緑の髪を大きめの紺色のリボンで止めている少女が曹操へと歩み寄ってくる。体型としては許緒に近く、またその許緒とも昔なじみだったりする。  名を典韋という少女は、料理の腕とその武を認めて曹操が自らの親衛隊所属として召し抱えたのだった。  夏侯惇とも二言三言交わすと典韋は列に加わる。  そのまま、曹操一行は大広間へと入っていく。夏侯惇と典韋と数人の兵士以外はそれぞれ宿舎や交代先へと向かわせる。  複数の指示を的確に出した後、曹操は自分のために用意された席へとついた。  中には既に先客がおり、曹操という覇王の器を目の当たりにしていささか落ち着きを失っている。 「さ、話を始めましょうか?」  そう言って、曹操は目の前で恭しく挨拶をした後に膝をつく体勢を取った張繍を見下ろすのだった。  †  人が行き来する通りを並んで歩く孫呉の中心たる二人。  袁術の偽帝騒動が終結してからも徐州に留まったままの孫策と周瑜だった。  今は徐州の広陵郡、淮陰城に滞在して治政に務めていた。  元々さほどの乱れもなかったこの街は基本的に修復も制度の見直しも簡単に済んだ。  それでも二人はまだこの街にいた。  ちなみに本拠の方は先に返した孫権を中心とした次の世代のために修練の場として提供している。 (ま、仕事面倒だし……蓮華の方が適任でしょうからね)  それも孫策の本音だが、周瑜と共通の認識が別にある。  今はまだそよ風程度の乱世の空気。  それがいつ暴風と化すのかなど誰にも知り得るはずはない。  だから孫策たちはそうなったときのためにこつこつと孫呉復興のための土台作りという今のうちでも行えることをしている。  その為には多少の無茶であろうと決行する必要だってあるのだ。  だからこその孫権への委任。  一時的とはいえ、重要地である建業の統治をまかせているわけだがなかなかしっかりしている妹ならば大丈夫、そんな確信めいたものが孫策にはある。  それでも姉としては気にならないはずもない。 「蓮華たち上手くやってるかしらね?」 「穏もいるのだし大丈夫だろう。それに、平時の仕事くらい無難にこなせなくては我らの後を任せることもままならないというものだ」  真剣な眼差し。最近の周瑜はそれ以外の姿を見せることがめっきり減った。孫策はそれに対してどことなく厭な感じがしたが多忙なのもあるからだと自分に言い聞かせ訊ねはしなかった。 「それにしても私たちの取り分は随分と少ないわよね」 「当然だ。我らは徐州を抑える際にこれといった戦果などあげていないのだからな、おこぼれに預かれただけでもありがたいと思わねばならないぞ」  袁術が帝を僭称したことによって大規模になりかけた騒動の最中に反旗を翻したことで孫策は徐州の一部、主に揚州に面した土地を手にした。 「まあね。でも公孫賛も変な提案するものよね……『袁術らの身柄と引き替えに徐州分割に加わる権利を放棄する』だもん」 「余程の物好きなのだろう。よりにもよってあの袁術を新たな領土と秤にかけて袁術をとったというのだからな」  そこまでして袁術を保護しようとしたのはやはり既に手元にいる袁紹に関係しているのだろうか。  だが、 「そうね。ふふ、でもそうするとは思ってたわ」  孫策にはわかっていた。 「それは、お得意の勘か?」 「さぁて、それはどうでしょう?」  孫策は後ろ手を組んでのんびりとした歩調を取る。周瑜はそれに自然と対応した。  孫策の急な速度変化に驚いて足取りが乱れるなどというような無様な姿を晒すことなく周瑜はぴったりと彼女の横を依然保持したままである。 (あの少年ならやりかねないわよね……うん、きっとそう)  下邳城へと乗り込んだときに出会った少年。名は北郷一刀といっただろうか、彼としばしの睨み合いをしたときのことを孫策は思い出していた。  庇わねばならない理由もない袁術のために今や江東の小覇王とすら民衆から称される孫策相手に一歩も譲ろうとしなかった。  それだけの意志の強さを見せた以上、少年が公孫賛を説得するのに大した苦労は要さなかったことだろうと容易に想像することは可能である。  孫策から見て……いや、きっと曹操辺りも同じように考えているだろう。  公孫賛軍における主導権は君主にないということ。  そうでありながらも間者を使用したりして主導権を持つ者と公孫賛を引き離すことも無理だと言うこと。  孫策は思う、公孫賛軍の手綱を握っているのは北郷一刀という少年で間違いない。そして、徐州の一件からもわかるが、彼は仲間を大切に思っている。  恐らく、仲間の方もまた彼を大切に思っていることだろう。それが元は所属も違いばらばらだった者たちの寄せ集めにしか見えない公孫賛軍に存在する固い結束の秘密に違いない。  反董卓連合における無茶な行動の連発。  袁紹軍との抗争の果て。  徐州侵攻戦における袁術救出。  孫策が把握している公孫賛軍及び北郷一刀に関する情報の中から彼の人物像を特定するのに役立ちそうな話を選び出してもこれだけある。  そこから導き出される結果、そして実際に本人と対峙したことによって孫策は少年の人となりを徐々に理解し始めていた。 (初めて見てすぐのころは何で無茶なことをしてるのかわからなかったけど……今なら分かる気がするわね)  北郷一刀の行動原理……それはきっと“大切な人のために”  † 「しかし、平和ね」  淮陰城の街中をゆっくりと回っているわけだが、孫策の瞳には先ほどから平和そうな光景が幾度となく過ぎっている。  余程、治めるのが上手くいっていたのか子供たちは笑顔で駆け回り袁術討伐に際して店じまいしていた商人たちは我先にと店を再開している。 「とても、あのお嬢ちゃんの横暴な治政のもとにあったとは思えないわね」 「そうだな。我らがある程度整理したとはいえ、元から暗く沈んでいる様子はなかったからな」  かつて袁術の領土を訪れた時は、暴政に圧迫された民たちの苦痛に満ちた顔が痛々しかった。それを見た孫策たちの胸が痛んだ覚えも少なくない。  そして、袁術打倒を果たせない自分を呪いたくもなったものだった。  先の騒動において、袁術及び主力が不在となっていたうえ援軍要請を受けた孫策たちに対する警戒もなかったがために容易く落とすことができた寿春。  そこで見たのは過去に見た光景と比べてもある程度まともな民たちの様子。  この徐州に来てからは寿春以上に民の笑顔が残っていて孫策たちは一層驚くことになった。 「でも、どうしてなのかしらね?」 「恐らくは、袁術の元に降ったという軍師の仕業だろうな」 「賢いのね、その軍師さんは」 「雪蓮だって実際に見たのだろう? 反董卓連合の時、劉備の傍らにいたのを」 「ああ、あのちんまりした娘? ふうん、そっか」  人は見た目によらないというのは本当だなと孫策は感心する。  連合の際に見た感じだと末妹の孫尚香と大差ないように見えた。背丈も……地平線のような胸も。  だが、実際はどうだ。あの歩く無茶苦茶こと袁術の暴政を見事に補っているではないか。  それだけで、その軍師の能力の程がわかるというものである。 「しかし、袁術の間抜けぶりは見事に役立ったものだな。徐州への領土拡大においてこの地を手にすることができたというのは我らからすれば大きな得となったわけなのだからな」 「そんなに?」  街並みを見つめながら語る周瑜の顔をのぞき込むようにして訊ねる。周瑜は顎に手を添えて静かに頷く。軍師としての彼女がよくみせる仕草だった。 「そうだな……。この土地は後々徐州における用水の要とするのが良いだろう」 「へえ……そうなんだ?」 「ああ、この淮陰という土地は北方より流れ来る泗水と西よりくる淮水の合流する場所があり、また東には長江と淮水を結ぶ点がある。これを運河の基点として水上交通の要地とするが良いだろう。そうすれば建業との行き来もまた方法が変わってくる……これだけの要素があれば十分に我らにあった土地といえるだろう」  ここが水関係に比較的強そうだという周瑜の言葉もまんざら間違いではないのだろう。  彼女の言葉を裏付けるように街中には泗水と淮水の合流地点より引いてあるらしい水路が張り巡らされている。  孫策たちのいた揚州など水と親しむことが多い土地ならばこういった水路は多い。かつて劉繇の統治下にあった建業にしても曲阿にしても道路のようにいくつも流れていた。 「この水路も良くできてるわよね」 「これも、袁術がやったというのか……いや、恐らくは元劉備の家臣だったという鳳統の考えによるものか」  顎に手を置いて何やら難しい表情をして水面を見下ろしている周瑜。  それにならって孫策も中腰になってのぞき込む。そこには、孫堅の跡継ぎ、孫呉の復興を求めて止まぬ者の姿がはっきりと映る。  だが、こうしてハッキリと映る映像も孫策がたった一つの小石を投げ込むことによって引き起こされる波紋の影響で歪められ霧散してしまう。  その様子に美しさと儚さは近しいものだということを思わずにはいられない……それはまるで充実していたと思える幼少の頃の記憶のようだ。  記憶は良いものほど美しく彩られ、そしてその多くを心の奥にしまったままどの引き出しにいれたのかわからなくなって思い出せなくなる。 「こうやって、水のある風景を見てると昔を思い出すわね」  なんとなく過去の出来事を思い出しつつ孫策はもう一度投げ入れようかと小石を拾う。水面を泳ぐ孫策はもう元の姿を形成している。 「なにを懐かしんでいるのだ? いつでも行こうと思えば行けるではないか。それに、そういう言葉はもっと領地を広げそれこそ涼州や益州にある山岳あたりを訪れてから言ったらどうだ?」 「ぶー! なによ、少しは感傷に浸ってもいいじゃないのよ」  風情もなにもない周瑜の言葉に孫策は妹の孫権のお尻のようにぷっくりでかでかと膨らませた頬で抗議の意を表明する。  周瑜はそんな孫策の言葉を意にも介さず肩を竦めると一人ですたすたと歩き始める。 「やれやれ……。そんなことよりも、二人が待ってる。行くぞ雪蓮」 「冥琳の冷血漢ー!」 「いくらなんでも漢はないだろ……」 「そう? 冥琳なら男装しても十分カッコイイと思うわよ?」 「あのなあ……」  また周瑜はため息を零す、だがその口元は綻んでいる。過去から続く今、彼女たちは笑っている。共に夢を追いかけながらも互いを見つめ合うことも忘れず歩き続けている。 「私は冥琳、冥琳は私……か」 「は?」  隣を歩く周瑜が表情だけで意味が分からないと言っているのに対して孫策はにっこりと微笑む。 「ふふ、そんな感じしない?」 「すまん。意味が分からないのだが?」 「二人で一人……つまり、私と冥琳どちらも同じ一人。つまりは一心同体なんだなと思ったってことよ」  孫呉復興のため仲間たちと一丸となってやってきたが、その中でも孫策と周瑜においては別格と言えた。二人は呉という肉体の中核を担う一つの存在なのだ。少なくとも孫策はそう思う。 「雪蓮と同類というのは不名誉極まりないな」 「えー! なによそれ」  素直な言葉を一笑に付され孫策は彼女の内包する激しさを表すような鋭い柳眉を逆立てる。 「文句を言う前に仕事をサボる癖を直せ」 「……あ、二人とももういるじゃない! おーい」 「自分で話を振っておいて逃げるというのはどうなのだ、雪蓮よ」 「あー! あー! 聞こえなーい、聞こえなーい!」  小言をぶつぶつと呪詛のように垂れ流している周瑜を無視して孫策は揚州より呼び寄せた二人の元へと駆け寄る。 「久しぶりー。どう? 元気してたかしら」  手を挙げて歩み寄ると、二人の小柄でほぼ同じ背丈をした少女たちが駆け寄ってくる。  二人ともよく似ている……それもそのはずであり彼女らは双子である。  性格は姉の方が大人しめで妹の方が比較的行動的である。  双子はそろって肩を露出した白色の着物に身を纏い、髪の毛と似た赤紫色の帯できゅっと腰元を締めていてその力を込めて抱きしめたら折れてしまいそうなくびれを強調している。  両側でお団子状に纏めた髪に白のシニヨンカバーを被せており、それが小さな容姿によく合っている。シニヨンカバーはリボンが特徴的で、大喬が左、小喬は右側とまるで目印とするようにそれぞれ片側のみ垂らしている。  もっとも、孫策からすれば見分けなど簡単に付くのでリボンなど大して関係なかったりする。 「はい! 雪蓮さまもお元気そうでなによりです」 「お姉ちゃんったら、孫策さまと会えなくなってすっごく寂しそうにしてたんですよ」 「ちょっと、小喬ちゃん!」 「でも、ホントのことじゃないの」 「だからって、言わないでよー」 「いいじゃない、減るもんでもないんだしー」  じゃれあう二人……孫策と周瑜がたっぷりと愛情を注いでいる彼女たちは二喬とも呼ばれている。  姉の大喬は孫策、妹の小喬は周瑜とそれぞれ相性が良いらしく今のようなじゃれあいはともかくとしてこれといった喧嘩へと発展するようなこともなかった。 「なんだ? 小喬は私に会えずともなんら思うところは無いのか?」 「え? いや、その……あたしは……」 「そういえば、小喬ちゃん。よく冥琳さまの部屋に出入りしてたよね」  ほんわかとした表情で小首を傾げる大喬に妹の方はぎょっと表情を一変させる。 「な、なんでお姉ちゃんが知ってるのよ!」 「急に姿を消すんだもの……どうしたのかって思うでしょ?」 「あ、後つけたのね!」 「……いいでしょ? 減るものでもないし」 「お姉ちゃん!」  妹の口まねをする大喬と表情を強張らせる小喬が孫策たちの周囲をぐるぐると回る。その姿は鬼ごっこをしている子供のようにキラキラと輝いている。  周瑜も二人を宥めるような事をいいながらも最近の張り詰めていたものに比べると幾分か明るい顔をしている。  和やかな光景、朗らか日の光のような三人に眼を細めながら孫策はぽつりと呟く。 「こんな日がずっと続けばいいのに……」  何故そう思うのかはわからない。不思議と最近は感傷に浸りやすい、孫策はそんな気がしてならない。  やはり袁術より呉を取り返したことが大きかったのだろうか?  それとも別に理由があるのか?  彼女にそれを知る術はなく、ただ目の前にいる愛しき者たちへ微笑むことしかできない。  でも……孫策にしてみればそれだけで十分だった。  †  張繍との会談を済ませた曹操はすぐに郭嘉を呼び出した。  政務などに追われている彼女が折り合いを見てやってくるまで少々時間がかかりそうだと予想し曹操は先ほどの張繍のことを思い出す。  特に降った後に交わされる物としてこれといった問題もなく話は滞りなく進んだ。だが、張繍の今後について語るとき、その瞳は明らかに変化をきたしていた。  張繍の目からは抑えきれないほどの卑しさに満ちた光が滲み出ていた。その眼だけで張繍が人間の中に確実に存在する卑しさ、強欲さを人の何倍も強く持っているのが伺い知れるというもの。  曹操に降ったのも防戦しているうちに曹操、袁術、そして己について思案し大局を読んだからに違いない。  曹操軍だけでなく公孫賛軍も袁術討伐に動いたと知るや危機的状況にあってなお働かせていた頭脳を振り絞って算段をつけたのだろう。だから、長引くと思われた宛城攻略も徐州侵攻と同時期に済んだのだ。 「何を腹に抱えてるのかしらね……」  張繍には何か裏がある、そんな予感がする。曹操に取り入ることで何かを得ようとしているのだとは思うがわからない。 「お呼びでしょうか?」  思考を打ち切ると曹操は声の方を見る、少々神経質そうな顔をした人物がこちらへむかって歩いてくるところだった。 「なんだその表情は! 華琳さまを前にしてどういうつもりだ」 「よしなさい。春蘭」  今にも目の前までやってきた郭嘉へと飛び掛からんばかりの猛獣を制すると曹操は口元に笑みを浮かべて声をかける。 「ご苦労様。稟」 「……流石に骨が折れます。はぁ」 「……?」  ため息を吐いて表情を緩める郭嘉、くすりと笑う曹操。  夏侯惇はそんな二人の顔を交互に見て首を傾げている。その隣で典韋が苦笑を浮かべているあたり現在この城で苦労を背負っているのが誰なのかが浮き彫りになってくる。 「それじゃあ、一先ず稟の苦労を労おうかしらね。流琉、厨房に準備に向かいなさい」 「は!」  びしっと背筋を伸ばして返事をすると典韋は駆け足で出て行く。その際に背中の一部が出ている後ろ姿が曹操の瞳に映りこむ。  僅かに揺れる小尻は普段ならば腰下どころか更に下で履いているぴっちりと太腿から覆う腰布とそこから覗いているお尻の割れ目が露わとなるはずだが、今の典韋は戦装束を来ておりそのため桃の溝は隠されてしまっていた。  視線で典韋の尻から背中にかけての曲線をなぞっていた曹操の耳に郭嘉の疑問に満ちた声が届く。 「用意とは……?」 「なんでも、私が視察に訪れるのに合わせていろいろと用意してくれているそうよ。多分、下ごしらえもかなりしてあるのでしょうね」 「はぁ。なるほど。華琳さま、……それも宜しいですが、まずは目を通していただかなければならない案件が山ほど待っております」  眼鏡に手を添えて眉尻を下げながらきつめの口調で詰め寄る郭嘉に曹操は表情を真剣でありながらも労る気持ちを出したものにする。 「わかっているわ。これまで、その膨大な量の仕事を良くやってくれたわね稟」 「ありがたきお言葉。しかし、これくらいならばさほどのことではありません」  にこりともせずに郭嘉は淡々とした声で答える。これは自らの職務に対する彼女なりの姿勢なのだから特に曹操は気にならない。むしろそういうところも好感が持てるし魅力なのだと思う。  曹操は表情を完全に真面目なものにするとこの場で最も話をするべき相手へと歩み寄る。 「どうやら、まだまだ元の状態までは戻せていないようね」 「は。恐らくはこの城が落ちる前までというのにはいささか時間が掛かりそうです」 「それでもなるべく急ぎなさい。時間は惜しいものよ」 「言わずもがな、心得ています」  それからも流れるような会話が続いていく。  郭嘉からの問題と対処の報告。  曹操からの一言。  郭嘉の対応。  滞ることなく清流のように静かにそれでいて確実に確認は済んでいった。  郭嘉と自分なればこそのことだと曹操は確認事項を理解するのとは別にそう冷静に分析する。 「――以上となります」 「そう。ご苦労様」 「いえ」 「そういえば……ここにはなかなかの美女がいるそうね」  予てより噂で耳にしていたことを曹操は思い出す。かなりの美しさを持った者がいるという話だった。 「……鄒氏のことですか」  眉間に皺をよせながら郭嘉が曹操の言葉に答えを返す。  そんな彼女の様子に気付かぬふりをしながら曹操は宙へと視線を向ける。 「ええ。どんな容姿をしているのか興味があるわね」 「まさか、その者を閨へ……」 「そのまさかだけど……悪いかしら?」 「当たり前です。未だこの宛城も落ち着いて統制をとることができてないというのによりによって信用なるかわからぬ者を懐に招こうとするなど言語道断! 曹孟徳とは思えぬ軽率な考えではありませんか?」 「そうです! 華琳さまらしくありません。それでしたらこのわたしがお相手を――」 「ふふ、そんなにムキになって……嫉妬かしら?」  なにやらぶつぶつと言っている夏侯惇を無視して曹操は郭嘉へと数歩近づく。 「なっ!?」  顔中真っ赤にしていた郭嘉は眼を丸くして口をぱくぱくと餌を求める鯉のように空いたり閉じたりしている。 「そうね。貴女の忠告、しかと受け取ったわ。鄒氏のことは諦めるとしましょう。でも、その代わり」  そう言って僅かに細めた眼で郭嘉の顔を捉える。  理知的な眉、その下にある切れ長の瞳とそれを覆う眼鏡が知性溢れる彼女の印象を助長している。  幾何学的な雰囲気のある長尺の裾からすらりと伸びた脚、身体よりも頭を働かせるにしてはよく締まった腰……そして、本人の感覚だと貧しいという胸。  何気に曹操は、彼女の胸に対して(どう見ても、そこまで無いとは思えないのだけれど……)という疑問を郭嘉以上にささやかな胸の中に密かに抱いてたりいなかったりする。  じっくりと品定めするように郭嘉の全体を見渡していると彼女は曹操の視線から割と貧しくないように見える胸を隠すように自分の肩を抱く。 「な、何です? 何故、怪しげな眼でその……舐めるように私の身体へと視線を這わせるのですか!」  狼狽えて冷静さを失った郭嘉の喚きを無視しつつ彼女を抱き寄せる。 「か、華琳さま!」 「ちょ、ちょっ――っ!」  郭嘉や夏侯惇らの息を呑む音がする中、曹操は郭嘉の耳元にそっと囁きかける。 「貴女に閨での相手をして貰おうかしら?」 「――っ!?」  曹操の言葉を聞くやいなや郭嘉は飛び退いて一気に距離を取る。赤々とした耳を押さえながらぷるぷると小刻みに震えている。 「な、何を仰る! わ、私にはやらねばならぬことがあるのですよ?」 「いいじゃない。たっぷりと、愛してあげるわよ? 今まで、ここでの内務をこなしてくれていたご褒美……どう?」 「たっぷりと愛して……ぷはっ!」  虹のごとく宙へと深紅の橋を架けると郭嘉はその場にばたりと倒れ込んでしまう。 「まだ駄目なのね、稟」  床に寝転がったまま眼を回している少女を見下ろしながら曹操はため息を零す。 「さて、風はいないわけだけど……どうしたものかしら」 「わ、わたしにお任せください! 風の代わりなど軽々とこなしてみせます!」  そう宣言するやいなや夏侯惇は仰向けになって倒れている郭嘉の襟を掴み、親猫が子猫を大人しくさせて運ぶときのようにして上半身を起こす。  きっと、郭嘉は子猫同様首がきついことだろう。 「では、……ご覧あれ! そりゃあ!」  気合い一閃、夏侯惇の手刀が郭嘉の首筋を打ち付ける。 「ふがっ! が……あ……」  郭嘉の鼻からびゅっと血が飛び出る。それを最後に郭嘉の首がガクリと力なく垂れる。 「せい! せい!」 「…………」 「あ、あれ? こ、こんなはずは……どりゃあ!」  なかなか目を覚まさない郭嘉に焦りを感じているのか夏侯惇が早口でかけ声を叫びながら郭嘉の首筋へと力強い手刀を打ち込んでいく。 「……春蘭、その辺でやめておきなさい。いい加減、稟の頸が飛んでしまいそうよ」 「で、ですが、華琳さま」  狼狽えた様子を見せる夏侯惇に対し曹操は無慈悲な一言を告げる。 「あなたへのご褒美はなしよ」 「そんなあ……華琳さま」  へなへなと力なく姿勢を崩していく夏侯惇を見て口端を僅かに吊り上げながら曹操は言葉を継ぎ足す。 「代わりに、たっぷりとお仕置きしてあげるわ」 「華琳さまぁー」  ぱっと表情を明るくすると、夏侯惇が勢いよく立ち上がり踊り出しそうな雰囲気を放ち始める。 (本当に感情の赴くまま……直情的ね)  素直な反応を見せる夏侯惇を慈しむような眼で曹操は見つめる。 「…………」 「これじゃあ、少なくとも今日一日は目を覚まさないわね……泡拭いてるし」  血の海に浮かぶ青白い顔をした首の据わっていなさそうな軍師を見下ろしながら残念がる曹操だった。