玄朝秘史  第三部 第十九回 前編  1.次代  たんっ。しゃらり。  高く飛び跳ねた踊り子の足首にはまった黄金の二重環が、こすれあって美しい音をたてる。その少し横では、兄らしき男の肩の上でとんでもない早さで回転していた女性がくるくる回りながら華麗な動きで着地する。  大通りを挟んだ反対側では、詳細な合戦の様子が描かれた大ぶりな本を前に、熱弁を振るう弁士の姿。語りがちょうどいいところに来たのか、ぱたりと口と本を閉じ、それと同時に助手が見物人の間を回り始める。続きを聞きたければ金を払ってから、というわけだ。観客達はぶつぶつ言いながら、これもご祝儀だと金を投じていく。  また別の場所には、店の軒先に机を広げ、丸い石の前に両手をかざす男の姿もある。水の封じられた石に奇妙な呪文を唱える男は、その石の中に生きた魚を出現させ、再び消してみせると豪語している。  そのいずれにも、それなりの数の物見高い客が付き、ただでさえ混雑している年始めの都の通りを、余計に歩きづらいものにしている。  しかし、それに文句を言う者はいない。新年の騒ぎは毎年のことだし、大陸に平和が訪れてからは、さらに派手になりつつある。人手があるのも、芸人たちがそれを目当てに集まるのも、この都が栄えている証拠である。よほど偏屈な者でも無い限り、それを咎める者もないだろう。  遠い将来、人が集まりすぎて、一歩も動けないなどという事態になったならまた話は別かもしれないけれど。  そんな喧騒の中を、二人の女性が行く。  すれ違う者は、その顔を覆う黒と朱、二つの恐ろしげな鬼の面にぎょっとして、しかし、お祭り騒ぎの中でたいしたことはないと思うのか、なにも言わずに歩み去る。その豊かな体に隠された武も知も知ることはなく。 「やはり、街はいいの」  そこかしこから聞こえてくる声や行き来する人々を眺めながら、祭は楽しそうに呟く。静かに雪に埋もれる宮城の中もいいが、活気一杯の城下もまたいいものだ。彼女はそんな風に感じていた。 「そうですな。あと十日……元宵節までこの賑わいは続くでしょうな」 「正月と上元が途切れぬとは、さすがは洛陽よの」  元宵節とは、一月の十五日、一年のはじめての満月の日を言う。この日、街では夜通し灯火が灯され、人々は上元天官を祭る。正月の祝いは当然としても、たいていは一月七日――人日で一度途切れるものだ。それが半月間継続し続けるのは、やはり人が集まる都ならではのことであろう。 「その分、警備隊は必死のようですがな」  人混みの流れの整理や、掏摸に対する注意の呼びかけ等を行っている警備隊の兵士をちらりと見やり、冥琳は同情するように笑みを浮かべた。 「おう。旦那様まで連れて行かれおった。いかに古巣とはいえ、一兵士に引きずられていく大鴻臚の姿などなかなか見られるものではないわ」 「ご助力してさしあげればよろしいでしょうに」 「あほう。せっかく古い仲間とじゃれて楽しんでおられるのに、儂がしゃしゃり出てなんとする。儂に出来るのは、抜けられる分の仕事の手配をしておくことくらいじゃ」  からかうように言った冥琳だが、当然のように返されて、一つ嘆息する。 「本当に手配のみではありませんか。袁術たちに任せただけでしょう」 「見張りに、さくど……雪蓮様を置いてきたじゃろ? すばらしく効果的ではないか」 「ま、雪蓮のほうも、無闇とどこかに行ってしまわれるよりはましではありますが」  こうして買い物に出ている間に暴走されては困りますからね。ただでさえ酒が入りやすい時期で……などとぶつぶつ呟いている冥琳をにやにやと眺めていた祭は、ふと思い出したように訊ねた。 「そういえば、権殿たちはいつまで都にご逗留じゃ?」 「それこそ、元宵節前後には出立されるかと。月が変わる頃には呉に着くような予定にしていると穏が」 「ふむ、まあ、あまり長々と呉を空けるわけにはの。とはいえ……。ん?」  そこまで言ったところで、隣を歩く女性が、なにかを気にするような視線を斜め前に向けているのに気づく祭。 「どうした、公謹」 「あ、いえ。前を行く者が、えらく大荷物だな、と」  冥琳が手振りで示す方を見やれば、彼女達の身長をゆうに超すほどの薪の束が何組かの人の群れの向こうに見える。あまりの荷物の量に、薪を背負っているはずの人物はすっかり隠れてしまっていた。そのくせ特によろけるということもなく、その薪の束は人混みの中を流れに乗って進んでいく。 「おお。たしかにあの薪の量はえらいことじゃ。どれ、どのような御仁か見てみるか」 「あ、祭殿」  制止の声がかかったものの、それで止まる祭ではない。すいすいと人の間を抜けて、薪の山の前に回った。いつもの気まぐれと諦めたのだろう冥琳も、見事に歩行者たちの合間を縫って後に続いていた。彼女も最初に注目したくらいだから、興味はあったのだろう。  果たして、そこで見つけたのは、二人共によく見知った人物の姿であった。 「あれー、祭さんに、冥琳さん。どうしたのー?」  頭の両側に髪を高く結い上げた小柄な少女は、自分の前に回ってきた女性二人の姿を見ると、朗らかに笑った。 「いや、薪の山が動いておったでな。見物に来たのじゃ」 「あー、これー? 知り合いのお店に持っていくんだ。あ、ちょうどいいや。一緒にお昼食べにいかない?」  祭たちの姿に一度足を止めたついでによいしょと荷物を背負い直し、季衣はそんなことを提案する。 「昼食を?」 「うん。いまからこれを持ってくお店。とってもおいしいよ」  そう言ってから、彼女は心配そうに二つの仮面を下から覗き込んだ。 「あ、もう、食べちゃった?」 「いや、まだじゃ。では、向かうとするか」 「ふむ……そうですな。どうせ食べて帰る予定でしたし」  同意を示した時の少女の本当に嬉しそうな表情を見て、思わず同じように笑みを漏らす二人であった。  店に向かう道すがら、季衣は両側を歩く祭と冥琳に、これから向かう店の話を始める。 「鍋ものがおいしいお店で、流琉が見つけてきたんだ。でも、年末年始で人が増えてるでしょ? お店の人だけじゃ手が回らなくなっちゃって。流琉がお昼と夕方だけお手伝いに行ってるんだ」  季衣によれば、流琉も仕事をさぼっているというわけではなく、ちゃんと抜ける許可をもらっているのだという。一国の親衛隊長が料理屋を手伝いに出るというのもすごい話だが、それに許可を出してしまう国の方もさすがだ。 「ふむ。では、この束は……」 「うん。ボクは薪を持っていったり、お肉とかを受け取りにいったり。さすがに二人揃っては抜けられないから」 「それは感心」  驚いたように言う祭に、うんうんと頷く冥琳。その動作から明らかな称賛が伝わるのがわかって、くすぐったそうに季衣は笑った。 「へへー」  それから店にたどり着くまでにも、季衣はまずはその店の鍋の具材や出汁、そのおいしさについて語り、次いで、鍋であるからどうしても客が店にいる時間が増えてしまうので回転させるのが難しいこと、さらには、その打開策として流琉が鍋と同じ出汁を使ってめん類を出すようにしたところ、昼食時の混雑が大幅に減った上、夜の鍋も最後にめんを投入するのが流行って大好評なこと、そんなことを語り続けた。祭と冥琳は両横でうんうんと頷きながら、彼女について行く。  あそこだよ、と季衣が指さす先は、たしかに混雑する大通りの中でも注目される場所のようで、列をつくるというほどではないが、人が集まっているのが見えた。  季衣は人垣越しに店内へとよく通る明るい声をかける。 「流琉ー。薪持ってきたから裏に置いておくねー」  言うなり横の路地へと消えていく季衣に対して、店内の動きは少々遅れた。手ぬぐいを姉さんかぶりにした小柄な影が店先に出てきた頃には、すでに季衣の姿はそこになかった。 「はーい、ありがとー。って、あれ?……祭さんに冥琳さん。どうしたんです?」  そこにいるはずの季衣の代わりに二人の仮面の女性がいるのを見て、流琉は大きな茶色の目をさらに見開いて不思議そうな顔をする。これが悪来の再来と謳われる武将とは思えぬあどけなさであった。 「いや、美味い店があると聞いての。ついてきたのじゃ」  その言葉に不審そうな顔が一転、笑顔に変わる。その変わりようのあまりの素早さと明るさに、冥琳は仮面の奥で目を丸くする。 「あ、そうですか! いらっしゃいませ! えっと、席を空けるのにもう少しかかるんですけど……?」 「ああ。薪を置いて戻ってくるのも待たねばなるまいからな」  店の中を覗き込んで、再び申し訳なさそうに顔を暗くする流琉に、季衣を待つことを示して安心させる。 「じゃあ、三人分、用意しますね。少し待っててください!」  すでに言葉の後半で、流琉の姿は店内にある。てきぱきと食器を集め、厨房に注文を伝え、奥へと消えていく姿を、二人はじっと見つめていた。流琉の所作は懸命さにあふれているためか、見ていて心地良い。  そして、嘆息するように祭は呟いた。 「魏の将来は安泰じゃな」 「ええ。そうですね」  同意する冥琳の頬にもあたたかな、けれど、なにかをうらやむような笑みがのっていた。  2.総大将 「おーっほっほっほ、おーっほっほっほっほ」  無駄に発声のいい高笑いが、謁見の間に響き渡る。先ほどから延々と続いている大笑に食傷していない者は、部屋の中で本人だけだったろう。いや、彼女の隣で聞き流している一刀も特に気にしてはいなかったかもしれない。  だが、それ以外の面々――袁家の二枚看板と七乃、魏の三軍師はそれぞれに苦笑したり呆れたりしていたし、なにより玉座に座す金髪の覇王はひくひくと唇の端を震わせて、怒りの水位が上がっているのを示していた。 「いい加減、その莫迦笑いをやめなさい。品性を疑われるわよ」  首を振り振り注意するのに、麗羽はようやく笑いを治め、優雅な姿勢を真っ直ぐに戻すと、位置としては上にいる華琳を見下ろすようにするという器用なそっくり返り方をした。 「あら、そうですかしら? それにしても華琳さんが品を云々するなんて珍しいこともありますのね」 「なにを言っているの。私は元々、下品なものは好きではないわ。ただ、あなたとはその上品下品の判断が……」 「華琳、華琳。脱線しかけてる」  むきになって言い返そうとする華琳に、一刀が口を挟む。一瞬、きっと一刀のほうを睨みつけた後、華琳は表情を緩めた。 「……そうね。話を進めましょう。しばらく黙っていなさい。麗羽」 「ふんっ。まあ、でも、しばらくは喉を休ませてさしあげましょう」  二人のやりとりもいつものことで、周囲は苦笑するばかり。気を取り直した華琳はあえて麗羽のことを無視して、それ以外の人間の顔を見回してから声をかけた。 「先ほどの三国の代表者たちの会談で、この麗羽が、第二次北伐の総大将に決まった。これはいいわね」  皆が承知の意志をそれぞれに示すのを見て、彼女は続ける。 「でも、麗羽に実務なんて期待していない。どうせ、本人だって、そんな些末なことは下々の者がやればいいと考えているでしょうし。そんなわけで、実際には、一刀をはじめとしたあなたたちに任されるわけだけれど……」 「あの、いいですか。華琳様」  華琳が話を続けるために息を吸った頃合いを見て、猪々子が手を挙げる。話を中断されたことに苛ついた表情を示したのは当の華琳ではなく、横に控える猫耳軍師だったが、もちろん、猪々子は気にしない。 「ええ、なにかしら、猪々子」 「あたいたちに任せるのってかなり無謀じゃないですか?」  あっけらかんと言い放つのに、さすがに一刀と斗詩が苦笑する。 「自分で言うなよ」 「そうだよ、文ちゃん」 「でもさー」 「ここにいる面々だけならば、かなり無謀ね」  猪々子、斗詩、一刀の三人で漫才が始まりそうなところで、華琳はあっさりと猪々子の発言を認める。 「でも、一刀の所には色々といるのを忘れてるわね。涼州の馬家勢はもちろん、詠やねねをはじめとした軍師たちや武将だって、一度関わった北伐から抜けるとは言わないでしょう」 「あ、そっか」 「実質的には、前回の中央軍……風を含めた面子が抜けて、左軍が全体に広がるというべきですかねー。補給面は相変わらず右軍が担当しますしね」 「魏の主力が抜けるわけですから、大事ではありますが、兵の供給には問題ありませんので、ご心配なく」  風と稟が補足をし、猪々子は一応は納得したような表情を見せる。春蘭や季衣といった武将、それになにより華琳が抜けることで魏兵の扱いには苦労することも予想されるが、そこは元から配属されている将校たちを利用してなんとかしていくしかない。将が抜けた状態で各地をそれぞれに守っている現状は、ある意味でその準備としてふさわしいのかもしれなかった。 「とはいえ、あなたたちにも大事な役目はある。実際には一刀たちが出す方針に応じて麗羽が総大将を務めるための裏方をやってもらわないといけない。わかるかしら?」  笑みを見せつつ訊ねかける華琳に、そこは自信があるのか、猪々子は満面の笑みで答える。 「麗羽様の尻ぬぐいっすね!」 「文ちゃん、こう、もっと言い方が……」  彼女の隣でおずおずと注意する斗詩だが、内容についてはまるで否定していないあたり、常の主従関係が窺えるというものだ。 「麗羽もここまでの流れで、自分が成すべき事はわかったかしら?」  くるくると丸まった髪の毛の中に枝毛を見つけ、不機嫌そうにそれを弄っていた麗羽は自分への問いかけに気づかず、ようやく一刀に肩を叩かれて反応する。 「え? ああ、ええと、要するに、我が君を立てろということですわよね?」 「非常に的確な理解ね。……気持ち悪いくらいに」 「まったく、いちいちつっかかりますのね。私は常に賢者の言を取り入れて参りましたわ。今度もそうするだけのことでしょう」  再び高笑いをあげる麗羽。その言葉に呆気にとられたように、桂花が繰り返す。 「常に……? 賢者の? 言を? 取り入れる……?」 「そ、そういうことにしておいてください」  笑い続けている主をよそに、ぺこぺこと頭を下げる斗詩。黄金の髪が縦横に揺れる横で、黒髪のおかっぱが上下する中、諦めたような雰囲気が謁見の間に漂う。 「あのー」  その微妙な空気を切り裂いたのは、それまで一言も発さずににこにこ笑っていた七乃であった。 「そういうお話なら、なんで私が残されたんです? 私、お嬢様と一緒に涼州いかされるんで、麗羽様に構ってる暇とかないんですけどー」 「ああ、それは次の話に関わることよ」  もっともな質問に、未だに笑い続けている麗羽に向き直る華琳。 「麗羽」 「はい?」 「あなた、田豊や沮授、それに他の元袁家の者から、たくさん書簡をもらっているようね。そして、それは美羽も同様よね、七乃?」 「あ、あれは、以前にも我が君を通じて華琳さんに伝えたじゃありませんか」 「んー、やましいことはないですよ、別に。私が命じたりとかしてませんし」  一方は動揺し、一方はなんでもないことのように応じる。そして、そのどちらも華琳の言ったことを否定はしなかった。  ただ昔の部下たちから手紙をもらっているというだけならば、話に出るわけもない。ここで大事なのは、そこに書かれている事柄だ。 「ええ。あなたたちが命じたわけじゃないことは知っているし、殊更になにかの情報を集めようと意図しているわけでもないのだって知っているわよ」 「けれど、名家たる袁家に縁のある者は多く、魏の内部では、いえ、三国の政権内いずれでも、自然と袁家恩顧の者たちの繋がりが生じている。結果として、様々な情報――本来は知られるべきではないことまで、あんたたちの下に集まっている。違う?」  本人もかつて袁家の禄を食んだ桂花が、苦々しい顔で問い詰める。麗羽達は皆で顔を見合わせ、そして、結局斗詩が頷いた。 「まあ、そうです。私たちとしても困っているって言うか……。善意で教えてくれているのがわかるだけに、その……」  国家の運営には、秘匿されるべき情報がつきまとう。それを知ることは時に有利に働くが、知ってしまったが故に面倒に巻き込まれることも多い。特に、相手と対立する意図があるわけでもない場合、知っていて無視するより、知らない方が安全なこともある。袁家という看板があるために目をつけられやすい一行の場合、余計な厄介ごとに巻き込まれる危険性のほうが高い。  とはいえ、積極的に組織化しているわけでもない。そのため、ある程度以上の情報を遮断するといった制御が難しかった。 「止めろ、とは言えないという事情もわかります。また、袁家恩顧の人間の立場からすれば、現状、返り咲いたとは言い難いにしても中央にいる貴殿方にご機嫌うかがいをしたい気持ちもわかる。ですから、止めるのではなく、いっそこちらの監督が効くようにしていただきたい」 「名目上の責任者は、おにーさん。そこから桂花ちゃんを通じて華琳様に報告が上がる形ですかねー。実際のとりまとめは七乃ちゃん」  事前に話を聞いていたのだろう。一刀は稟と風の言葉に素直に頷く。一方で七乃のほうは白手袋で包まれた両拳を口元に当て、ぶーと息を吐く。 「えー。私ですかぁ」 「嫌かい?」 「正直、面倒くさいんですよねー。私たち涼州に行けとかなんとか言われてますしぃ」  困ったなあ、と頭をかく一刀。残る選択肢としては斗詩になるのだが、斗詩には猪々子と麗羽を抑えるという大役がある。ただでさえ猪々子たちの事務仕事も斗詩に回っている現状で、袁家の情報網のとりまとめを頼むのは彼としては気が引けた。 「ところで、張勳殿」  困り顔の一刀とすでに諦めたように微笑んでいる斗詩を眼鏡の奥から見つめつつ、稟は硬質の声で七乃の名を呼ぶ。 「私の部下に、金をもらって情報を流すという不届き者がいましてね。まあ、重要な情報を扱う者たちではないので、泳がしているわけですが……」 「はあ……。それは大変ですねー」  平静でありながら不穏な色を帯びた言葉に、七乃は不思議そうな表情で答える。何を言われているかまるで理解できないというように。 「風の部下にもお金で転びそうになった人がいますねー。本当に転んでいるのかどうかは、さて、わかりませんがねー」 「うーん。いずこも面倒ですね。でも、お金で解決するならそれでいいんじゃないでしょうか?」  にゅふふと怪しい笑いを漏らしつつ開陳する風の言葉にも、特になにを感じたようでもなく、七乃は首を傾げる。  そこに一刀が口を挟もうとしたところで、華琳がひゅっと鋭く息を吐いた。  途端、謁見の間の空気が一変する。  三軍師は揃って膝をつき、麗羽でさえ身を守るように腕をあげ、掌で表情を隠した。他は身動きさえとれないでいる。 「ねえ、七乃」  問いかける声はあくまで優しく。 「は、はひっ」  しかし、睨まれた者は飛び上がって、奇妙な声を喉から漏らす。急な動作のおかげで七乃の頭に乗っていた帽子が落ちて、床をころりと転がった。 「あなたを殺すようなことは、私もしたくないし、美羽とそこの一刀のおかげで出来るはずもないわけだけど、それに足る理由があれば、公的な身分をはく奪するくらいは簡単なことなのはわかっているかしら? 月や雪蓮は楽しそうにやっているけど、本当に気楽なだけじゃないって……わかるわよね?」  語る内容は物騒だが、あくまで声は静かだ。そして、その瞳も、なにかを楽しむように揺れている。 「あー、はい。なんか、急にやる気出てきちゃいましたー。そうですよねー。この中だとちゃんと悪だくみできるの私ぐらいですもんねー。やー、しかたないなー、やるしかないなあ」  だらだら汗をたらしながらも、猛然たる速度の言葉が七乃の口から飛び出る。そんな顔中を脂汗で覆った青髪の女性の頭に、ぽんと帽子がのせられた。 「華琳。あんまりいじめてやるなよ。美羽にも頼んでおくしさ」  床に落ちた帽子を棒立ちの女性に戻してやった男は、覇王の眼力を受けて倒れそうになっている彼女を後ろから支えてやりながら苦笑する。 「あら、いじめてなんかいないわよ? ねえ?」 「え、あ、はい。そうですねー。あははー」 「ま、これまでのおいたは不問ってことでいいんだよな? 華琳」  白々しいやりとりを重ねる女性達に確認するように、一刀は切り出す。しかし、華琳はひらひらと手を振って彼の質問を振り払うようにした。 「なんの事か私にはよくわからないわね。さ、話は終わりよ」 「うん。じゃあ、そういうことで」  あくまでしらを切る彼女に一方的に約束をとりつけ、男は、麗羽と協力し、固まっている七乃たちを引きずるようにして退室するのだった。 「これで手綱はつけた。さて……本当に扱いきれるかしら、一刀」  騒がしい一行がいなくなった謁見の間で、優雅に構える杯に桂花によって酒を注がれつつ、魏の覇王は小さく呟く。  そんな寛いだ風情の彼女に、眼鏡を手の甲で押しあげながら声をかけるのは、郭奉孝。 「手綱を持つ人間に、鈴をつける必要はありませんでしょうか?」 「一刀を? ふむ……」 「美周郎に、賈文和、陳公台。知謀だけを見れば十分ではありますが、我らの方針を慮るような殊勝な面子ではありません」 「たしかにね。けれど、それが良い方に働くこともあるわ」  稟の説明に耳を傾けつつ、華琳は酒を味わうのと同じように稟の意見を楽しんでいた。軍師たちの具申は、常に彼女を刺激してくれる。 「それはそうでしょうねー。ですが、監視とは言わず、連絡役は置いておいたほうがいいかもしれません。おにーさんや主要な将が洛陽にいる間はともかく、ばらけますと、目が届かない可能性もー」  連絡役か……。小さく華琳は呟く。実質は、監視と助言の役だ。繊細な作業なだけに、へたな人間を据えるわけにはいかない。彼女は魏を代表する知恵者たちの顔を見回した。 「桂花は筆頭軍師として表の仕事を大幅に受けてもらわなければならない。稟、風、あなたたちは自分たちのうちから選ぶとしたら、どちらを推薦する?」 「風ですね」 「んー、風ですかねえ」  答えは同時で、また同じ内容であった。 「理由は?」 「一刀殿との意思疎通に関して言えば、私でも風でも特に問題はないでしょう。しかし、その預かりの各々ともなると、私では衝突の可能性が高い」 「風を苦手にしてる人がいないとは言いませんけど、風自身は気にしませんからねー」 「そう。桂花は?」  ぐい、と杯を乾し、次を注ぐよう促しつつ、彼女は筆頭軍師たる桂花に訊ねる。 「風のほうがとぼけやすいというのはあると思いますが……正直、どちらでも変わらない気もします。どうせあいつがなんとかするでしょう」 「あら、桂花は一刀の事信用しているのね」 「ち、違います! ただ、全方位に女好きのあいつのことだから、自分の女が喧嘩するのなんて見たくないだろうと、それだけで!」  予想通りに過剰に反応する桂花に、華琳は思わず笑ってしまう。 「ふふっ。それはそれで一刀の事を理解しているということだけれどね」 「華琳さまぁ……」  すがりつくようにする桂花の頬を軽くなでてやりつつ、彼女は考える。 「では、そうね……」  それから、彼女は桂花と自分の触れあいを見て、顔を真っ赤にしている――鼻血は出ていないようだ――眼鏡の軍師を見つめた。 「稟。あなたがやりなさい」 「わ、私ですか!?」 「ええ、そう。困難をやり遂げてこそ、我が軍師。非常時ならともかく、楽な方に逃げようとするのは良くないわ」 「に、逃げようとしたわけでは……」  言いかけて、しかし、稟はぐいと顎を引く。その顔はなにか決然とした意思を秘めていた。親友である背の低い軍師は、その様子を好もしそうに眺めている。 「いえ……そうですね。たとえ腹がたつ相手でもその行動を理解し、使いこなすことこそ軍師の真骨頂。その任、お受けしましょう」 「では、桂花は文官の総指揮を執り、表の仕事を担いなさい。風と稟は桂花の補佐をしつつ、朝廷対策と北伐をそれぞれ担当すること。もちろん、お互い連動させつつよ。わかったわね」 「御意」  そう決まり、しばらく話をした後で、四人はそれぞれに仕事に戻っていく。しかし、部屋を出ようとした稟を、華琳は背後から小声で呼び止めた。 「稟」 「はい?」  足を止め振り返る稟の耳元に口を近づけ、低い声で主は告げる。 「先ほどの任だけど、一刀と私、二人に仕えるつもりで働きなさい。……あの夜の事、よもや忘れてはいないでしょう」 「……はっ」  小さく交わされた声は、しかし、なによりも重い意味を持っていた。  3.天下無双  長大な戦斧が振られ、柱と壁の一部がまとめて吹っ飛ぶ。元から傾いていた家屋は、それに耐えきれなかったか、ずずずと音をたてて大地に倒れた。  その背後に位置していた赤毛の女性は、廃屋の破片と、なにより斧の刃を手持ちの戟で受け流し、その勢いを利用して十歩ほど飛んだ。 「どうした、恋。かかってこないか」  警戒するように動きを止めている彼女に、土煙の向こうから現れた影が声をかける。胸と腕、腰程度にしかつけていない防具は、彼女の流麗な体の線を隠しもしない。金剛爆斧を構えるその姿こそ、猛将にして良将と謳われる華雄に他ならない。  それに対するは、天下に名高い飛将軍。掲げるは、方天画戟……とは微妙に異なる。横につけられた月牙の刃はさらに分厚く、そして、その本体となる槍の部分はより長く、鋭く。さらに兇悪に、さらに美しくなったそれこそ、方天画戟・改。 「愚か者が……消えよ……」  ぼそりと呟いて、十歩の距離を一瞬で詰め、同時に横殴りに得物を振るう。敵の胴を狙うように見えた一撃は、華雄が防ごうと体をひねった途端に急激に向きを変え、首を下から刈り上げるように放たれる。 「なんだそれは?」  変化を予想していたか、金剛爆斧でがっきと月牙の刃を受け止めつつ、ひねりを加えて相手の得物を絡め取ろうとする華雄。しかし、そうしようとした時にはすでに恋の武器は引かれ、さらなる打撃のために振りかぶられていた。 「……必殺技の時、こう言うとかっこいいってご主人様が」 「はっは。さすがだな」  穏やかな会話に見えるが、交わしている二人は打ち合いの真っ最中。 「そろそろ暖まってきたか?」  二十合ほど地面を揺らす打ち込みを受けた後で、華雄が金剛爆斧を振り抜き、再び恋が距離を取る。 「……うん」  握り直した武器の石突きのあたりで、セキトを模した人形が小さく揺れた。 「では、本気でいくぞ」 「ん。恋も」  二つの武器が同時に振られ、轟音と共に、空気が割れた。  話は少し遡り、そろそろ年末の準備も本格化していた頃。 「土地をくれ?」  話を持ってきた二人の武将を執務机から見上げて、男は突然の申し出に驚きを隠せなかった。まさか、その二人が領地経営に興味があるとは思ってもみなかったのだ。しかし、次の言葉でその疑問はさらにねじれることとなる。 「うむ。なにも更地でなくてもいい。適当な谷や、放棄された城、開墾予定の荒れ地でもいいな。周りに人がおらず、なにが壊れても文句の出ない場所が望ましいだろう」 「……なにするの?」  華雄がはきはきと返す言葉になにか不吉な影を感じて、一刀はおずおずと問い返す。すると、次に答えたのは、華雄ではなく、その隣に立つ赤毛の女性であった。 「……特訓」 「と、特訓? 恋が? 華雄が?」  思わず動揺する一刀。恋と華雄が特訓する必要がどこにあるのだろう。 「恋も私も、ここのところ部隊指揮ばかりで個人の武を鍛えるのを怠っていたからな。少々本気を出せる場所が欲しい」 「……それと、武器を試す」 「ああ、真桜が打ち直しているやつか」  恋の武器――方天画戟は北伐において毀れてしまった。しかたなく涼州から帰ってきた真桜に打診すると、三国一の発明家は嬉々として新しい武器を作り始めたのだった。なにしろ食事も工房で摂っている始末だから、その入れ込みようがわかる。 「……しかし、武器の方はわかるけど、鍛錬を怠っていたとはとても思えないんだけど……」 「もちろん、基礎は欠かしていないが、たまには全力を出しておかないと、力の抜き方を忘れるからな」 「抜き方?」  顔中に疑問の色を浮かべる一刀。その様子に華雄は腕を組み、考え込んだ。 「そうだな……」  しばらく後、どう説明すればいいのか思いついたのか、彼女は一気に話し出した。 「一〇〇の力を出せるとしよう。それを会得した当初は、一〇〇の労力をかけねば、一〇〇の力は出ない。  しかし、次第に慣れてくるにつれて、一〇〇を出すのに九〇、八〇の労力で済むようになる。そうすると、一〇〇の労力をかけた時、一二〇の力が出る場所に届く道が見えてくる。  いまは、七〇、六〇の力を、四〇、三〇の労力で出すようにしているが、たまには一〇〇を出さねば、いまやっているものも鈍ってしまうし、次も見えないからな」 「ふーむ」  華雄の説明は実に抽象的だがわからないこともない。力を存分に発揮するにもそれなりの技術が必要だし、また、それを伸ばし続けていくことが、彼女達が武の頂点に位置するために必要なことなのだろう。 「……でも、本気だすと……色々、危ない」  それはそうだろう。  本気を出せば、一人で三万人を屠れる人物の発言に、一刀は深々と頷く。 「本気を出すために、何が壊れてもいい場所を、か」 「うむ」 「そう」  口々に認めた後で、華雄は恐ろしいことを言い出す。 「悪龍の一匹でもいれば、相手にするのにちょうどいいのだが、そんなに都合よく見つからんしな」 「ええと、武器を試す必要があるのはわかるし、そうだな……龍を見つけるよりは場所を見つける方が早いだろう。華琳に頼んで、どこか見つけてくるよ」  この世界、本当に龍がいるのか……。  認識を新たにしつつ、一刀はそう頷くのだった。  そんなわけで用意されたのが今回の戦場、河水沿いのとある廃村であった。  黄巾の乱の頃に避難も兼ねて棄てられた村は、その後、どこからか流れてきた賊に牛耳られていたが、つい先頃、どうせならと恋と華雄が投入され、全員が捕縛された。  その村を遠巻きに兵が囲み、そのさらに外側に、観覧席が設けられていた。  しかし、もちろん、ここから村の中で戦う二人の姿が見えるわけもない。 「まったく、この術ってば、すごい疲れるんだからね」  巨大な岩の横で、ぶつぶつと呟いているのは地和。岩は空から落ちてきたのが真っ直ぐに突き刺さったかのように地面に垂直に立っていて、さらに漆黒の表面は鏡のように磨き上げられていた。その岩の横に地和は座り込んで何か印のようなものを組んでいるのだ。さらに背後には同じように座って、彼女の肩に手を触れている人和と天和の姿。 「今日だけだから勘弁してくれよ」 「はいはい」 「大丈夫。私たちが手助けするし」 「でも、明日は一刀を私たちで独占だよー」  岩に対するように作られたいくつかの席の最前から一刀が声をかけると、地和はため息混じりに、人和は元気づけるように言い、最後の天和の台詞で、周囲から冷え冷えとした視線が飛んだ。 「まだ早いけど、少し試すわよ」  地和が目を瞑り、小さく何ごとかを呟き始める。すると、岩の表面になにかがゆらめき始めた。  しばらくすると、そこに現れるのは、無人の村の風景。その中で、赤毛の女性と銀髪の女性が立って周囲を見回したり、何ごとか打ち合わせたりしている様子が見えた。 「……便利なものだな」  観覧席で華琳の横に座った蓮華が思わず呟く。そのさらに隣で桃香も目を丸くしていた。 「現状では原理もよくわからないし、地和しか使えない上に体力を消耗するわで、あまり使い出がないのだけれどね」  華琳自身、地和に説明させようとしたのだが、感覚的な部分が大きいらしく、その仕組みの理解はできずにいた。ただ、地和達が作った護符を持った人物のいる場所と周囲を映し出すことが出来るという結果だけは確実にあるものなので、それで納得しておくしかない。 「ところで、華琳。他の武将達はいいのかい? 春蘭とか」  大岩の表面の華雄と恋は――時間がきていないこともあって――まだ戦闘に入りそうにないので、一刀が気になっていたことを訊ねてみる。そもそも、華雄と恋という大一番だというのに、この場にいる人間が少ない。  華琳、蓮華、桃香の三女王はともかく、他にいるのは凪、明命、焔耶と各国の武官が一名ずつ、それに方天画戟を打ち直した真桜と、一刀、音々音、張三姉妹といったところだ。他に村を囲む兵を指揮する沙和がいるが、彼女は兵達の間にいるため、ここにはいない。 「莫迦。春蘭やら鈴々やらを連れてきたら、自分もやらせろと言うに決まっているでしょ。今回は乱入なんかせずに、あくまで華雄と恋の戦いを参考にしてほしいの。だから、若手だけ呼んだのよ」 「あー。そういうことか。それで雪蓮もいないわけだ」  確実に混ざりたがる人物の名を挙げると、蓮華が苦笑する。妹としてもそれを否定することはできないようだ。 「勉強させていただきます!」  凪がびしりと背筋を伸ばして礼をする。その横で明命も勢いよくこくこくと頷いていた。焔耶もまた言葉少なながら、地和の映し出す映像から目を離さない。 「華雄なんて、恋殿にこてんぱんにされるに違いないですよ!」  薄い胸を張って宣言するのは恋の小さな軍師だ。 「さすがにそれはないだろう。二人は拮抗するくらい強いわけだし」 「ふん、お前は恋殿の本当の本気を見たことがないからそんなことを言うですよ」  一刀の苦笑混じりの言葉にねねが反駁した瞬間、ゆらりと映像が揺れた。わずかに顔を青ざめさせている張三姉妹。 「地和?」 「気にしないでください。大丈夫です」  華琳のいぶかしげな問いに答えたのは人和だった。彼女の言う通り、すでに映像の揺らぎは収まり、華雄と恋が距離を取り、それぞれの得物を手に取る光景がそこにあった。 「ともかく、恋殿の本気を見るがいいですよ」 「ぜひ本気出してほしいもんやなあ。そうやないと、うちの打ち直したんが保つんかわからんし」  武の問題よりも技術的な興味が強いらしい真桜が言うのに、ふと思いついて一刀が問いかけようとしたところで、明命が岩の表面を指さした。 「はじまりますよ!」  そうして、二つの巨大な武の衝突が始まったのだった。  4.隔絶 「ね、ねえ、華琳さん」  視線は岩の映像に置きつつも、桃香は困ったように訊ねかける。  その視線の先で、颶風が荒れ狂っていた。突風にでも巻き上げられたように木材が吹き上がり、壁土が舞う。その最中で雷光のように時折光るのは、おそらく二つの鋼がぶつかりあっている証。 「なにかしら?」 「華琳さんたちは、その、恋ちゃんや華雄さんの動き、目で追えるの?」  そう。彼女は、華雄の姿も恋の姿も追えていなかった。ごく稀に、力を貯めるためだろう、動きを緩めたどちらかの姿を見つけることがあるが、戦闘そのものを見て取ることは出来ていない。 「たまに見失うわね」  答える華琳の額にも汗が浮かんでいる。その横で蓮華が諦めたように肩をすくめた。 「私には動きは無理だな。得物を見るようにしている。明命たちは?」 「……しゅ、集中すればなんとか!」 「私も似たようなものですね。近くで氣を追えればいいのですが」 「手合わせした経験から、恋は追えますが……」  武官の三人にもなかなか難しいことらしい。一刀などは、まるで自然現象にしか見えない。そこに展開しているのは、彼にとっては巨大な竜巻に襲われる人家の様子でしかなかった。溶け残った雪が空に散らされてきらきら光る様など、幻想的ですらある。 「恐れ入ったね……」  華雄や恋の武威を侮っていたわけではない。いや、むしろ尊敬し、まがりなりにも武術に触れたことのある人間として憧れてもいた。しかし、ここまでくると、彼ではその実態を掴むのも困難になる。そのことに、一抹の悔しさと、言い様のない驚嘆と賛美を覚える一刀であった。 「ふふん」  鼻高々なのはねねだ。彼女も恋の動きを見て取れるわけではないだろうが、その力を称賛されるのは素直に嬉しいのだろう。 「うーん。もう少し足を止めての打ち合いも見せてほしいんやけどなあ」  腕を組んで気むずかしげに唸るのは真桜。彼女としては、自分の武器がどう使われるのかを子細に見分しておきたいところだろうが、体に触れるどころか、相手の得物と交差することも少ない様子に不満顔だ。 「本人は感じ取ってくれているだろう。後で恋に訊いてみるといい」 「せやなあ……」 「それより真桜」  じっと戦いの行方を見守っている真桜の横顔を見つめつつ、一刀は先ほど訊ねられなかったことを思い出し、ようやく口にする。 「ん……。なん?」 「方天画戟は一度壊れた。それで、今度は恋のどんな力にも耐えられるよう真桜が打ち直したわけだよな?」 「せやね」 「今回は、その試験も兼ねているから、壊れたのと同じくらいの勢いで切りつけてるだろう。そうなると、今度は華雄の金剛爆斧のほうが壊れたりとかはしないのか?」  華雄ならば力を抜いて受ける術も当然知っているだろうが、それでは新しい武器の試しにはならない。お互いに多少の無理はしてみているはずだった。 「ああ、そりゃ大丈夫やと思うで。こないだ研がせてもろたんやけど、あの斧は名前の通り、無闇と硬いんよ。しかも、硬いくせにやたらと粘る代物や。どうやって打ち出したんか、うちが教えてほしいくらいやわ」 「へえ……」  真桜の説明に感心の声をあげる一刀。彼女にそう言わせるだけの出来となれば、安心できる。  そうして、再び彼が視線を地和の術による像へと戻そうとした時、焔耶が思わずといった様子で叫んだ。 「弾かれたっ!」  そこに展開されているのは、戦斧を振り抜く華雄と、それによって強く左方に飛ばされた方天画戟の柄を掴んで引き戻そうとしている恋の姿であった。 「片手はそろそろ無理だぞ」  相手が姿勢を戻すのを待って、華雄は告げる。彼女の言葉からすると、いまのいままで恋は片手で得物を振るっていたことになる。重い刀身を振り抜く長大な斧に対して、片手だけで対するとはなんという技倆か。 「……ん」  素直に頷き、戟を両手で構える恋。刃を体の右下に。右手で下から支え、左手は頭の上に上がった石突き側を軽く抑える。  円を描いて振り上げるか、あるいはすくいあげるように突きに行くか。  どちらでも選べる姿勢の恋に対して、華雄の構えは明快。  右脚を引き、腰の高さで構えられた戦斧は、ただ一歩踏み出し、体の奥にある腕を真っ直ぐ前に突き出すだけで、相手の胴を薙ぎに行ける。それはひねりなどといった不要なものを排した、直線運動を円運動に変える最高率の方法。 「行くぞ」 「……来い」  先ほどまでとは打って変わった動きの無さで、二人は構えあい、対峙しあう。  そして、その一瞬が訪れる。  ごく自然な動作で、華雄の前に出た足が変わっていた。それに伴い、金剛爆斧の刃は円を描いて恋の胴へと向かっている。それを押しとどめる方法はすでに無い。  そう思われた。  だが、見よ。戦斧は上から石突きに押さえられ、地面へと落ちているではないか。 「くっ」  刃を引く暇はなかった。  前に出された右手を支点に円を描いた方天画戟が、華雄の頭の上で止まっていた。  どれだけの間か。  その体勢のまま、二人は一切の動きを止めていた。 「今日はそちらの勝ちか」  大きく息を吸った後で、華雄が敗北を認める。そこでようやくお互いの得物が引かれた。 「……前に負けた。おあいこ」 「次が楽しみだな」 「うん」  こくこくと頷く恋。それに対する華雄も小さく笑う。彼女は辺りを見回すと、恋に大きく手を振って示した。 「後始末は私がしておこう。一足先に戻るといい」 「……わかった。ありがと」  はぁああ。  観覧席の面々が、揃って大きく息を吐く。誰もが皆、緊迫した光景に息を呑んでいたらしい。  その後は、皆ぐったりと椅子に背をもたれさせる。一人、音々音だけが飛び上がって喜びを体中で表現していた。 「本当に、人のいないところでよかったねえ……」  瓦礫の山と化した廃村の風景を遠目に眺め、桃香は呟いた。  最後のやりとりはともかく、それまでに破壊された周囲のことを考えると、へたなところで二人に本気を出させるわけにはいかないのは確かだった。  その村の方角から、彼女達に走り寄る影が一つ。 「ん? 沙和?」  見慣れた顔にいち早く気づいたのは凪。必死で走ってくるのは、たしかに兵を指揮しているはずの沙和に違いなかった。 「た、た、大変なのーーーっ。隊長、凪ちゃん、華琳様ーーーっ!」 「どうした、沙和。落ち着け」  転げ込むように観覧席の辺りにやってきた沙和の体を、凪が駈け寄って抱き留める。ぜぇはぁと荒い息を吐く彼女は、それでも凪の腕を掴んで叫びをあげた。 「お、落ち着くなんてできるわけないの。と、突破されたの!」 「突破……?」  誰もが首をひねったその言葉に対する答えは、けれど、大岩の表面に明らかであった。その姿を最初に認めたのは、他ならぬ蓮華。 「……姉様」  雪のように白い仮面を被った人物が、そこにいた。  瓦礫をいくつかの場所にまとめていた華雄が気配に振り向いた時、雪蓮は手に持つ偃月刀をぶらぶらと揺らして悠然と歩み寄ってくるところだった。華雄の視線が揺れる彼女の得物へと向かう。 「ほう……。その刀、見覚えがあるな」  まがまがしいほど鋭く分厚い蛮刀が、その先端には収まる。関雲長の青龍偃月刀には決して備わり得ない兇悪さがそこにあった。 「ええ、母様の使っていた古錠刀。荊州で長柄にしてみたら使い勝手がよくってね。真桜に偃月刀仕立てに拵え直してもらったの」 「武を誇るはいい。しかし、王が死地に立つのは愚の骨頂と、私は言った様な気がするが? 記憶違いだったか?」  彼女は金剛爆斧を手にしていない。近くの地面に刺したままにしているそれに手を伸ばすこともなく、華雄は目を細めて鬼の面の奥にあるはずの顔を見るかのように、相手のことをねめつけた。 「あら。私はもう王じゃないわよ。孫伯符は死に、ここにいるのは、ただの雪蓮。あなたと戦っても文句の出ようがないわ。違うかしら?」  言われて気づいた、というように華雄は腕を組む。 「ふむ。一人の武人として武を競うか。ならば、たしかに文句はない」  晴れ晴れと笑みを刻み、金剛爆斧に近づく華雄。彼女は微笑んだまま、己が愛用の戦斧を大地から抜き取り、軽く肩に担いだ。 「やる気になってくれた?」 「ああ。文台を思い出すその髪、切り落としてくれよう」 「いいわねえ。ぞくぞくしちゃう」  何気ない歩き方ながら、動こうとしない華雄との間にしっかりと間合いをはかって雪蓮は足を止める。 「小蓮から、あなたの技盗んだわよ」 「ほほう。それはそれは……楽しみだっ」  彼女の間合いなどものともせずに一飛びで踏破した華雄の打ち込みに、腕全体のしびれを感じながら、白面の鬼も、また陽気に笑っていた。 「あっはは。たのしーっ」  その頃、あきれかえる観覧席には、先に村を出ていた恋が到着していた。 「恋。あの莫迦どうにかならない?」  皆を代表して華琳がそう言うのに、恋はふるふると首を振る。 「……ん。無理。それどころじゃない」  珍しく慌てたように言う恋を、皆が不思議そうに見つめる。恋は音々音に歩み寄ると、彼女をひょいと抱き上げた。 「恋殿?」 「いまは……逃げる」 「逃げるって?」  その途端、ごうん、と音がして、大岩が揺れた。  ばらばらと地に落ちたのは、黒い岩の破片と、おそらくは飛んできた瓦礫。かけらを盛大に頭からかぶった張三姉妹がけほけほと咳き込み、大岩の幻術は破れた。その光景をふさがっていないほうの手で指さしながら、恋は続ける。 「……華雄と雪蓮……楽しすぎて、我を忘れてる。だから、逃げる」 「撤収! 撤収よ!」  鬼気迫る表情で華琳が命じ、北郷隊の三人が兵を収容するため駆け出す。同時に焔耶が桃香の手を引いて走り出した。  疲労困憊の地和を一刀が背負い、その後ろを天和、人和が続くのを見届けて、天下無双の飛将軍もまた、己の軍師を抱きかかえたまま、文字通り飛ぶように走り始めた。  一人、蓮華だけが、村の方角を見つめたまま呆然と突っ立っていた。 「蓮華様、お叱りは後ほど!」  その体を黒髪の少女が肩に担ぐようにしてひっつかむ。荷物のように担がれて、蓮華は慌てて体を揺らした。 「ちょ、姉様置いていくの? え、でも、姉様ーっ!」  そうして、おそらく心配など全くもって無用であろう姉を思う妹の声だけが、かつて廃村であった――いまや荒野と変わった――場所にむなしく響くのであった。