玄朝秘史  第三部 第十八回  1.新年  『めいど』というのは、天の国の側仕えであり、単なる侍女とは一線を画す。  魏の王宮に仕える者たちの中で、それは常識に近いことだった。一般の女官からしてみれば、同輩というよりは、貴人の扱いに近い。  しかし、いかにそんな認識を持った者たちであっても、その光景を見れば、絶句せずにはいられないだろう。  部屋から大きくせり出した縁側に、暖を取るための炭櫃を間に座るのは二人。  一人は、黒いめいど服に身を包み、その顔貌を白い仮面で覆い隠す女性。  もう一人は、美しい金髪を軽く揺らす小柄な女性。この国では、否、この大陸で誰一人知らぬ者はいない人物。  二人はお互いに相手の杯に酒を注ぎあいつつ、雪が覆った庭を眺めやっていた。  その態度は両者共悠然としたもので、どちらかが遠慮したり、緊張したりしている様子など微塵も見受けられない。  あの夏侯元譲ですら、その前に出ればかしこまる覇王の横で泰然と酒杯を傾ける『めいど』とはいかなる存在なのか。知らぬ者が見ればそう考えざるを得ないだろう。  しかし、もちろん、その場に居る者はそんな疑問とは無縁だ。降り積もった雪と同じ色をした鬼面の奥に隠れた正体を知っている華琳は、相手が秘蔵の酒をさっさと空けていくのを咎めることもしない。それが彼女の味わい方だとよく知っているから。 「……静かね」  ふと、なんの前触れもなく、雪蓮が呟く。その瞳は、隣にいる華琳ではなく、白一色の庭に向かっている。見る者に美しい配列を感じさせる庭石も、目を惹く奇岩も、刈り込まれた低木も、全てがどっしりと重そうな雪に覆われて、存在すらわからないその庭に。 「雪が音を吸い込むからかしらね」 「ふうん。見たことがないわけではないけれど、こんなに積もったのを見るのは初めてかも」 「年が明けてもこんなに降るのは、こっちでも珍しいわよ」  彼女の言葉の通り、大晦日の朝に作り上げられた銀世界は、年が明けてさらに二度ほど化粧をしていた。  本来、年が明ければ春である。いかに寒さが残るとはいえ、これほど雪が降るのはたしかに珍しい出来事であった。 「面白いわね、雪って」 「あなた、名前にも入ってるのに」  くすくすと笑う華琳に、さすがに口をとがらせて、雪蓮は抗議する。 「しょうがないじゃない。さすがに江東じゃ、あまり見ないもの」  ひとしきり笑って、華琳は表情を柔らかなものに変えた。酒杯のふちを指でなぞりつつ、彼女は横目で雪蓮を見る。 「でも、良い真名よね。雪を割って伸びる蓮。そして咲く花が、蓮華」 「あの娘のために、そんなにうまくやってあげられたのか、よくわからないけどねー」  皮肉げに唇を歪ませる雪蓮にさらに言葉をかけようとして、しかし、華琳はそれを呑み込んだ。彼女の意識は既に、背後に現れた馴染み深い気配に向かっていた。 「遅いわよ、一刀」 「おっそーい、一刀」  振り向きもせずに揃って責められて、部屋に入ったばかりの一刀は目を白黒させる。彼は急ぎ足で部屋を横切り、炭櫃の側に立った。 「悪い悪い。ちょっと子供たちの様子を見に寄ってたからさ」  ようやくのように振り返った華琳が彼のことをじっと見上げる。その視線の強さにたじろぎそうになり、なんとか踏みとどまる一刀。 「子供のことを出されると、これ以上責められないわね」  座りなさいな、と炭櫃を前に引き出す華琳。どうやら、それの代わりに真ん中に座れと言うことらしい。 「毎日顔出してるんでしょ、天宝舎」  腰を下ろすと早速杯が手渡され、灰の中に突き刺して温められていた竹筒から酒を注がれる。外を歩いてきた彼には燃えるように熱く感じるそれを一息に飲み干してから、一刀は不思議そうに雪蓮を見つめた。 「え、うん。そうだけど?」 「まめよねー」 「雪蓮。天の国の人間と、私たちの感覚を同じと思ってはだめよ」  感心したように呟く雪蓮の杯が空なのを見て、華琳が手を伸ばして酒を満たす。 「あれ、そういうもの?」 「そういうものよ。だいたい、私たちの間にだって、血縁のありかたには乖離があるんじゃないかしら?」 「あー、うん。そうかもねー」  言われてみれば、というように何度も頷く雪蓮。  地方の武家の血筋と、中央の宦官の家庭。当然、そのあり方も、感じ方も違うだろう。  ふと、それに触発されたか、酒を味わっていた一刀が顔を右手の華琳へと向けた。 「そういえば、華琳のお父さんっていまどこにいるの?」 「父? 父なら許昌で楽隠居してるけれど、いきなりなぜ?」 「ああ、いや……。その……」  予想もしていなかった問いに目を丸くして答える華琳と、それに対して言いにくそうに口ごもる北郷一刀。 「ああ、そっちの世界の話ね。ならしなくていいわ」  ひらひらと手を振って、その話を流そうとする彼女に対して、白面の女性は興味深げに身を乗り出してきた。半ば一刀にもたれかかるようにして、彼女は楽しそうな声をあげる。 「なになに? 面白そうじゃない。教えてよ」 「今度、私がいない時にしなさい」  強い口調でぴしゃりと言ってのけ、雪蓮が首をすくめるのに、華琳は諦めたような笑みを見せる。その後で彼女の笑みはゆっくりと広がり、同時にあたたかなものに変わっていった。 「それよりも、おめでとう。雪蓮」 「俺からもおめでとう。やっと、だな」  華琳が杯を掲げて祝いの言葉を述べるのに、一刀も同調する。二人から見つめられ雪蓮は照れたように唸り声をあげる。それでも二人とも姿勢を崩さないのを見て、ようやく諦めたように腕を上げ、華琳達の杯と己のそれを合わせる。 「本来は蓮華が受ける言葉だけどね」  ふてくされたように雪蓮が言うのは、一刀と華琳が祝う対象が、蓮華をはじめとする呉勢への官位授与の儀礼が無事終わったことであるからだ。ちょうど今朝、蓮華に鎮南将軍の位が下され、呉支配の裏付けは滞りなく完了していた。 「それでも、ね」 「うん。蓮華にはちゃんと別の機会に祝いの席を設けるしね」  二人ににこにこと笑いかけられ、雪蓮も相好を崩す。 「一年、長かったわねー」  ため息を吐くように、彼女は言う。酒杯をゆらゆらと揺らし、その中に満ちる液体を、ゆっくりと弄びながら、雪蓮はどこか遠くを見つめる。 「そういえば、去年の年始も、一刀とこうして飲んでいたんだっけ」 「そうだったね。肩の荷が下りた?」 「うん。まだまだどうなるかわからないところはあるけど、一区切りはついたわ」  雪蓮が偽りの死を以て姿を隠し、蓮華が王位について、まだ数ヶ月に過ぎない。しかし、その間、北伐への協力や荊州での騒乱を経ても呉の内部に大きな混乱はなく、豪族達がうごめき出す気配もない。  蓮華やそれを支える穏たちの手腕が発揮されるのはこれからのこととなるだろうが、国譲りとしては、まず成功を収めたと言えるだろう。  だから、雪蓮――かつて志半ばに斃れた母の遺志を継ぎ、袁家の軛をはねのけて孫呉を建国しながら、その国を惜しげもなく妹に譲った元女王――は、晴れ晴れと笑えた。 「これから隠居生活楽しむわよー!」  と。  酒がまわったのか、庭から時折吹いてくる寒風に冷やされたのか。  一刀が酒の補給ついでに厠に立った後、残された女性二人は、再びお互いに酒を注ぎつつ低い声で会話を続けていた。 「……で、どうするの? これから」 「んー。このままでいいんじゃなーい?」  不意に切り出した華琳の視線を真っ向から受け止めながら、雪蓮は凄絶とも見える笑みを浮かべる。その表情に苦笑いを浮かべながら、華琳はおどけたような調子で訊ねかけた。 「一刀はそんなに面白いかしら?」 「あら。一番楽しんでる人間の言う台詞?」 「……ふん」  あっさりと切り返され、鼻を一つ鳴らしてみせる三国の覇王。そんな様子にきゃらきゃらと笑い声をあげつつ、雪蓮は軽い調子で続けた。 「まだ見極めなきゃいけないことはいっぱいあるけどねー。北を治めるのくらいはつきあうわよ」 「あら、いいの? あなたがそうすると、冥琳も同じようにするってことでしょう。あの頭脳を私の計画に使わせても構わないと?」 「別に問題ないわよ。そもそも、北伐には呉も協力していることだし、それに……」  悪企みをするようににやつくのに、華琳も楽しそうに答える。 「蓮華達を鍛えるのにも有用、と」 「ま、中央からのちょっかいってのも面白そうだしね」 「隠居してまで厳しい姉よねぇ」  大げさにため息を吐いてみせると、雪蓮は憤慨した様子で体を大きく揺する。 「そんなことないわよ。私は優しいお姉ちゃんですよーだ」  はいはい、といなしつつ、華琳はふと厳しい表情を見せた。 「とはいえ、桃香にも蓮華にもしっかりしてもらわなくてはいけないのも確かなのよね。もちろん、私自身もだけど」 「そうそう。そのために、私は一刀や華琳のお手伝いをするってわけ」 「なにを殊勝な物言いを」 「気楽なものよ。なにしろ、『お手伝い』でいいんですもの」  その言葉には、さすがの華琳も絶句した。けれど、雪蓮は相も変わらず軽い調子で、次の言葉を吐く。 「華琳もさっさとこっちに来ればいいのに」 「……大陸を託すにふさわしい人物が現れればね」 「そんなの都合良く見つかるものかしら?」  仮面の奥で眼光鋭く、雪蓮は切り込む。それに答えようとしたか、あるいははぐらかそうとしたか。口を開きかけた華琳の挙動は、聞き慣れた足音によって中断させられた。 「ただいま……って、ありゃ」  部屋に入るなり奇妙な声を出した一刀に、姿勢を戻した二人の視線が刺さる。 「どしたの?」 「風花だよ」  一刀が指さすのは、鈍色の雲に覆われた空。  そこに、ちらちらと白いものが舞っていた。 「あら、本当。また降るとはね」  雪片が落ち来るのを見たせいで寒さを自覚したか、ぶるりと体を震わせて、華琳は口をとがらせる。 「さっさとこっちに来なさい。寒いわ」 「そうよ。一刀には私たちを温めてもらわないと」 「はいはい」  そうして、酒を手に男は二人の女の間に座り、女性達は両側から彼にもたれかかる。お互いの温もりを少しでも感じようとするかのように三つの影は重なり、言葉を交わすこともなく杯を重ねていく。  空からは、ただ、しんしんと雪が舞い降りる。  2.困却  北郷一刀は、窮していた。  朝も早い執務室で一人、頭を抱えてうんうん唸るほどに。  いくつもの竹簡を引っ張り出しては諦めたように丸め直すという作業をしている彼は置いておいて、少し、魏という国を考えてみよう。  魏という国家は、中央集権指向が強い国である。  それは、その幹部勢に土着豪族勢がいないことでよくわかる。  多少なりともそれに近いのは夏侯氏だろうが、これは王たる曹孟徳との血縁関係から言って準宗族とも言うべき存在であり、土地の人間の利益を代表する者たちとは言えない。  また、側近のうち五人――例外的な一刀を含めれば六人――までが一切の後ろ盾を持たない庶人出身の人物である。つまりは先祖代々の名声や、財産というものには無縁ということになる。  彼女達は大土地所有者たる豪族の代弁者でもなければ、古くから中央に関わり様々な利害関係を持つ士大夫たちの代表でもない。  ただ民の為、国の為働く者たちだ。その忠誠は己の一族でも、先祖が世話になった相手でもなく、主たる曹孟徳にのみ向かう。  まさに華琳という人物が一代で築き上げた国家であり、ただ一人に権力が集中する体制である。  しかし、この裏返しとして、曹魏の幹部勢のほとんどは、譜代の臣下や独自の収入源と言ったものを持たない。王権を脅かさないという意味では好都合であるが、幹部一人一人の力の根拠が本人の才能のみとなるために、弱点もまたある。  たとえば、いまの北郷一刀のように。  彼は抜擢された人物の中でも、『天の御遣い』という特殊な経歴を持つものの、その基盤の弱さで言えば、季衣や凪たちと変わることはない。  端的に言うと、一刀は、魏と漢から支給される俸給しかその財源を持たない。  そう。  北郷一刀は、いままさに、お金に困っているのだった。 「弱ったな……」  彼は竹簡の一つを放り投げて、大きくため息を吐く。  足りない。どう計算しても、どうひねり出しても、足りなかった。 「……しかたないか……」  彼は懐から大ぶりな鍵を取り出すと、棚に近寄り、腰を屈めて最下段の鍵穴に差し込んだ。差し込んだ鍵をひねることはせず、立ち上がって、最上段にある木組みを決まった順序で動かしていく。動かしながら手順を思い出しているのか、だんだんと額に汗をかきはじめる一刀。その手の動きが二十四を数えたところで、棚の奥でがちんとなにかがかみ合う音がした。  再びしゃがみ込み、今度は鍵をぐいと押し込む。すると、それを支点にするように、最下段の扉が開いた。 「真桜の絡繰りは凝っているのはいいけど、大変だな」  ぶつぶつと呟きつつ、彼は扉の奥に手を伸ばす。そこには木箱が五つほど積まれていた。その中から三つを取り出し、扉を閉める。途端にがちがちと絡繰が動く音がして、鍵が自然と吐き出された。 「ええと……」  三つの箱を机の上に並べる一刀。それぞれの箱は、飾り紐で縛られ、そこに木簡が挟み込まれていた。それぞれの箱の中身と来歴を示す由緒書きだ。 「これも値がつくかな? 華琳の手だものなあ……」  一刀は由緒書きを眺めながら呟く。曹操は当代随一の文人として知られている人物だ。華琳の手になると確実に示すことが出来るものは、なにがしかの値段がついてもおかしくない。この場合は、彼女の名と共に印も押されているから、なにも問題はないだろう。 「でもなあ」  箱を取り出したもの、一刀はそれを開けようとすることもなく、うろうろと机の前を歩き回る。 「うーん」  何度か唸り、しかし、意を決することが出来ないのか、彼は視線をちらちらと箱と書類の間で往復させる。 「……しかた、ないよな」  諦めたように呟いた、ちょうどその時。入り口の扉がどんどんと大きな音を立てた。 「はいっ」  飛び上がるようにして驚き、声をあげる一刀。その声に応じるように扉が開いた。 「邪魔するわよ」  一言言ってずんずんと歩み入ってくるのは、かわいらしいめいど服姿の勝ち気そうな女性であり、その後に続くのは対になるようなめいど姿の線の細い女性。さらに黒い上衣に身を包んだ小柄な少女と、何か大きな木箱――一刀には祖母が昔使っていた長持に見える――を両手で抱えた赤髪の女性が現れ、部屋にはあわせて四人の女性が揃っていた。 「やあ。みんなでどうした?」  一気に華やいだ部屋の中央に出て、一刀は彼女達――かつての董卓軍所属の四人組を迎えるように手を広げた。その彼の前に、恋が抱えていた木箱を下ろす。彼女が持っていた時は軽そうに見えたものだが、床に置かれた時の音と振動からすると、かなりの重量を誇るようだった。  これはなんだろう? と眺めている一刀に、腰に手を当てた詠が、ずいと身を乗り出してくる。 「ボクたちが、まだあんたの下に来る前の事覚えている?」 「ん? どうした? なにかあった?」 「いえ、そういうわけじゃあないんです。ええと、長安の街で四人で暮らしていて、その時、みんなでお金を貯めていたんです。先行き、どうなるかわかりませんでしたから……」  不思議そうに聞き返す彼に、月が唐突とも思える話をし始める。彼は話の流れがよくわからないながらも、記憶を探ってみた。 「ああ、そういえば聞いたことがあったね。写本とか用心棒で稼いでいたとかなんとか……」 「そうです。あの頃は、隠れ潜んでいましたから、その程度しかできなかったのです。しかし、お前の下に来てからは、俸給が――いい加減な方式でしたが――なんにしろ出ていましたからね。生活に困ることはなかったので、そのお金はそのままになっていたのですよ」 「正直、多少増えたくらいよ。なにしろ、恋のところの食費以外は大してかからないしね」  ねねと詠の説明に、一刀は一つ頷く。恋の家族の食費、そしてなにより恋の食費はかなりかかるだろうが、それはすでに予算に入っている。動物たちを飢えさせるわけにはいかないし、天下無双の将軍にひもじい思いをさせるなど以ての外だろう。  そこを除けば、四人とも贅沢を好む性質ではない。蓄財が可能だったというのも頷ける。 「まあ、そうかもね。でも、それが……」  話が一体どこにつながるかわからず、困り顔のまま一刀は言葉を連ねようとする。しかし、その前に恋とねねが木箱の横に屈みこみ、留め具をばちばちと外しはじめた。 「これが、そのお金です」  恋によって蓋が外され、黄金と白銀、それに七色に輝く宝玉の姿が露わになる。見えるのはしっかりと整理された一段目のみだが、箱の深さからすれば、その数倍が収められているのは確実だった。 「……え?」  思考停止してしまったのか、ぽかんと口をあけた一刀を予期していたように、詠はにやりと意地の悪い笑みを浮かべる。 「あんた、北伐の褒賞、どうやって出そうか困ってるでしょ」 「なっ」  つい先ほどまで悩みに悩んでいたことを見抜かれて、一刀は大きな動作でのけぞった。 「なんで? わかるに決まってるじゃない。論功行賞は基礎中の基礎だもの」  詠の言葉の通り、功績を評価し、それにふさわしい褒賞を与えることは、上に立つ者として当然の行いだ。まして、今回の北伐のように大きな戦ともなれば、その規模も大きくなる。  魏軍はいい。あるいは、蜀軍もまたいい。それぞれの国から、それぞれの功績に応じた褒賞が与えられるだろう。  また、西涼の馬一族にとっては、涼州に戻れることそのものが大きな報酬であり、西涼の建国という大目標がある以上、現時点でそれほどのほうびを考える必要はない。  だが、そのどこにも所属していない、一刀の預かりの者たちはどうだろう。  高位の将軍達――つまりは顔なじみの面々に関しては、それほど問題はない。なんらかの地位や封土を与えるのがふさわしいと一刀や華琳が考えた者にはそれ相応の上申がなされ、いずれ朝廷を通じて官位などが下されるだろう。  しかし、たとえば恋や華雄が指揮した烏桓などは、ほとんど傭兵に近い。それなりのものを与えなければ、士気低下どころか、逃亡まで予想されるのだ。  その半数ほどには、北方への移住という対価がすでに提供されていたが、それでも残った者たちや、そのとりまとめ役などへの賞与は考えねばならない。白馬義従などに関しても、そのあたりは同様に考慮せねばならなかった。  通常ならば、それらの報酬は、一刀が華琳から受け取る予算で十分まかなえる。  まかなえるはずだった。  しかし、異常な事態が起きるのが、戦というものだ。 「二千里を走らせるのは、綿密に計画していたとしても厳しいことです。それを急にやったつけは、いろいろと出たはずです。たとえば、当初の予算を軽く超えてしまうとか」 「あ……。うん」  図星をつかれ、一刀は表情を曇らさざるを得ない。  左軍の予算どころか、北伐全体の予算を食い荒らすほど、東進は無理のある計画変更であり、実行にはさらなる犠牲が強いられた。その代価として中央軍の将や兵の命を救えたことを考えれば安いものだが、だからといってどこからか予算が湧いて出てくるわけもない。 「けれど、足りないからといって華琳さんにはあまり言えない……。沙和さんが補給やらなにやらで使ったお金だけでとんでもない額になるのに、傘下の烏桓への褒賞まで頼るわけにはいかない。ご主人様ならそう考える」  珍しく苦笑いを浮かべて、月は言う。しかし、一刀を見つめるその瞳はあたたかなもので、なによりそのことを誇るような光に彩られていた。 「……恋達にちゃんと言ってくれないと、困る」  相変わらず平板な声で、恋は言う。けれど、その声が少々の怒りのようなものを宿していることを、その場に居る者たちはしっかりわかっていた。 「……ごめん」  素直に謝る一刀に、恋はずい、と木箱を押し出す。思わず何か言おうと口を開く一刀に、ぴしゃりとはねつけるように詠とねね、二人の言葉が飛んだ。 「四人で相談して、これをあんたに預けることにしたわ。当座の用には足りるでしょ」 「あげるのではありませんよ。預けるだけです」  男はその言葉を受け、一人ずつの顔を順番に見つめていった。恋は小さく頷き、月はにっこりと笑い、詠はふんと鼻を鳴らした。最後に、ねねが照れたように腕をぶんぶんと振りながら、確認するように告げた。 「いいですか。これを預けるということの意味を、しっかり噛みしめるですよ」 「すまな……いや、ありがとう」  その言葉は、かすれた鼻声で、彼が必死になにかをこらえているのは明らかだった。 「あいつのことですから、来月から返すとかし出すんじゃないですかね」 「さすがにそこまで莫迦じゃないでしょ。無理をしても、結局ボクたちにしわ寄せがくることくらいはわかってるはずだし」  部屋を出た四人は、そんなことを話しながら、廊下を行く。その途上、詠がふと首をひねった。 「それにしても、ボクたち、華琳の邪魔をしちゃったかしら?」 「華琳さんが、ご主人様の窮状を察していないなんてあり得ないものね」  親友の言葉に淡く微笑んで、月が頷いた。その話の流れを疑問に思ったか、恋は不思議そうに訊ねる。 「……じゃあ、なんで?」 「あいつがどうするか、見ようとしたのではないですか? どうしようもなくなる前に手助けしてやるつもりで」 「あるいは打ち明けてくれるのを待っていたか。まあ、なんにせよ準備はしていたんじゃないかしら」 「華琳さんに一歩先んじちゃったね」  おどけたように言って、月は表情を明るくする。そんな彼女の顔を嬉しそうに眺める三人。彼女達四人の顔は揃って晴れやかなものであった。  3.三頭会談  冬の冷たい風を遮るように植えられた低木に囲まれた四阿で一人、なにかの書物を読んでいた華琳は近づいてくる足音に顔をあげた。そこにあったのは濃さの違いはあれど桃色の髪を揺らす、二人の女性の姿。 「おはようございます、華琳さん」 「おはよう、華琳」  大陸の女王たち二人の挨拶を受けて、三国の覇王は本を閉じ、立ち上がって二人を出迎えた。 「おはよう。二人とも、きちんと目は覚めているみたいね」 「はいっ。昨日はお酒を控えるようにしてましたから。新年のお祝いは楽しいですけど、さすがにこうも続くと……ねえ」  辟易したように言うのは桃香。彼女の言うとおり、今年の洛陽は、呉の面々の官位授与もあって三国の重鎮が全員揃っているため、酒宴がひっきりなしに行われているのだ。  既になじみきった者たち同士なら酒を抜いてでもつきあいは保つが、三国の名士達に顔を売りに来ようとする者たちは、酒の席を利用する。そういった交遊も仕事のうちとはいえ、さすがの彼女も疲れが出ているようだ。 「私は喪に服すという建前があるからな。酒が断りやすい」  肩をすくめて同情したように言うのは蓮華。彼女はそうして飲むのも適当なところで済ませていた。蓮華は姉のように底なしではないのだ。 「今日も夜はどんちゃん騒ぎが待っているわ。静かなうちに、話を済ませておきましょう」 「ああ、そうだな」 「はい!」  二人の同意を得て、華琳は彼女達を庭の奥へと導く。雪が払われ、歩きやすくなった敷石の上を歩いて行くと、小さな草庵へと行き着いた。 「ずいぶん手狭だな」 「多人数で使うものではないから」 「あんまり見ない感じだねー」  案内されるまま、小さく切られた入り口に身をかがめて入っていく二人。それがにじり口と言われる様式だなどと、もちろん、二人は知るよしもない。 「一刀から聞いた、天の国の茶室を再現してみたのよ。あれも全部覚えているわけではないし、材料がないものもあるから、私の考えでいじっているけれど」  お尻がつっかえそうになった蓮華を手助けして、華琳が説明する。狭い部屋には座るための円形の毛氈が敷かれ、部屋の一部には炉が切られて、茶が淹れられるようになっている。 「案外に明るいのだな」 「壁に大きく窓を取ってあるからね」  低い天井ながら、外からの光が回っているために、圧迫感はそれほどない。それぞれにしかれた毛氈に座ってみると、相手との距離が近く、濃密な空間が感じられた。 「さ、ここなら邪魔が入ることも、話が漏れることもないわ。ゆっくり話し合いましょう」  そうして、華琳手ずからの茶を味わいながら、三人の女王の会談は始まった。 「細かいことは、皆を集めてまた話し合うとして……我が魏からは三つほど話があるわ」  軽く現在の大陸情勢を当たり障り無く話した後で、まずは華琳が切り出した。 「一つ、なんと言っても西涼の建国。西方の抑えとして、これは必須。今後とも両国の支援を期待したいわ」  これには異論がないのだろう。蓮華も桃香も大きく頷く。 「次にそれと対になる東のことだけれど、白蓮に幽州を任せようと思うわ」  え、と間の抜けた声を出す桃香を制し、ともかく最後まで聞くよう身振りで示す華琳。その様子に蜀の王も気を取り直すように茶杯を傾けた。 「三つ、再来月から始まる予定の第二次北伐における総大将に麗羽を推す」 「……へ?」 「袁紹……を?」  今度は蓮華も目を丸くするのを見て、華琳は思わず軽く笑ってしまう。 「ええ、麗羽よ。あなたたちだって知っているでしょう。あれはちゃんと制御すれば、飾りにするには最適な人間よ」  二人は、華琳が反董卓連合のことを言っているのだと気づく。しかし、あの当時ならともかく、いま、麗羽を総大将に祭り上げることになにか意味があるだろうか。桃香と蓮華の思考はそれぞれに乱れていた。 「……それは褒めているのか?」 「ええ、もちろん。私があれを評価するところがあるとすれば三つ。おだてあげればなんにでも挑むところと、莫迦なりにひたむきなところと、なにを置いても生き残る危機感知能力よ」 「……やっぱりちょっと莫迦にしてるような……」  さらっと言う華琳に呆れながらも、桃香は考え続ける。華琳の意図、そして、それを自分たちに伝えることで、何が生まれるかを。 「そう?」  さわやかに、華琳は微笑んでみせる。その笑みに蓮華は攻めどころを変えてみる。 「しかし、いまの袁紹幕下に、北伐を進められるほどの者がいるか? 二枚看板は悪くないが、全体をまとめるとなると……」 「大丈夫よ、そのあたりは、引き続き稟や詠がやってくれるから」  その二つの名前が出たことに、蓮華の思考がぐるぐると回る。そうして導かれたのは一人の男の姿だった。 「……ああ。一刀か」 「一刀さん……?」  納得したように呟く蓮華に、まだ追いついていない桃香が小声で問いかける。一人、華琳は素知らぬ顔で自分の淹れた茶を味わっていた。 「あれの預かりだろう」 「ああ……」  囁くように言われて、桃香の中でなにかが繋がる。華琳の意図の全てを読めるなどということは期待していないが、総大将に麗羽を据えたとしても、ひどいことにはなりそうにないと、それで感じられた。 「ところで、お飾りの総大将殿と涼州のことはよいとして、幽州は?」 「烏桓をうまく制してもらおうと思ってね」  蓮華は杯を置き、腕を組んで考え込む。そうすると元々小さくはない胸が強調されることに彼女が気づいているのかどうか。 「ふむ。烏桓を治めることに専念する人間を置くことで、鮮卑を牽制するか。こちらは理解しやすいな。まあ、魏の領内のことだ。特に異存はない」 「白蓮ちゃんなら古巣だし、きっと大丈夫だね。あ、でも……」  桃香のほうは考えるまでもなく賛成のようだ。親友が幽州の主に返り咲くとなれば、それはそれで蜀にとっても彼女にとってもやりやすいだろう。しかし、彼女は心配げに顔をゆがめた。 「翠ちゃんたちに続いて白蓮ちゃんもってなると、魏や呉の中で反発があったりしない?」  自分との交遊の深さが徒になるのでは、というのが桃香の不安であった。だが、その懸念は一蹴される。 「白蓮がしっかり治めている間は、ないわ」 「我が国としては、交易が盛んになることは期待するが、それ以上は気にならんな」 「そっか、よかったー」  ふんわりと桃香が笑って、華琳の話はそこで区切りがつけられることとなった。細かい調整などは、三人ではなく、その下につく者たちが行うべきことだ。 「呉は……いまのところ、特に語るべき事項はないな。荊州における交易の促進など、共に進めたいことはあるが、どれも長くかかることでもあるし……」  次に話し始めたのは蓮華だが、唯一外敵に接していない呉は、そこまで危急の事態がない。国譲りに片が付いたいま、注力すべきは国内優先という事情もある。 「治水は問題ない?」 「ああ。いまのところは順調だ。今年は暴れんだろう。それと、一刀から発想を得たという下流域への入植も始まったが、これも結果が出てくるのは十年後の話だろうからな」 「それはそうだねー。じゃあ、私の話をしてもいい?」 「ああ。そうしてくれ」  桃香がはいはーい、と手を挙げながら話しかけてきたことで、蓮華は肩の力を抜いて座り直す。そこで、話は蜀の問題へと移っていった。 「あのね、実は愛紗ちゃんが朝廷から……」  彼女はそう話し始める。関雲長が前将軍として招かれていること、その申し出にはいまのところなにも見返りは要求されていないこと、しかしながら将来に何ごとかを要求されるのではないかと疑っていること、そして、朝廷の狙いとは、漢の高祖の血を引く自分を利用することではないかと蜀の中では意見が出ていること。愛紗の前将軍就任の内示について蜀側の不安、推測を、彼女は全て話した。 「前将軍の件は聞いていたけれど、名目上は出世だしね……」  気を静めるためか、次の茶を淹れる用意をしながら、華琳は苦々しげに呟く。 「それでね。劉姓がうんぬんって部分は、朱里ちゃんの推測なんだけど、実は華琳さんたちにも話すなって言われてたんだよね」 「なに?」  いぶかしげな声をあげる蓮華に対して、華琳のほうは動作をしばし止め、面白がるように桃香のことを眺める。しかし、口を開いた時には、再び茶を抽出する動作に戻っていた。 「朱里達に口止めされているのに、私たちに話すということは……この場だけの話にしろということね?」 「うん。そうしてもらえるかな。私も、他の誰にも話したことは喋らないって約束するよ」 「口止めした孔明たちにも、か?」 「うん」  珍しくきりりと引き締めた顔で頷く桃香に、蓮華も厳しい顔で頷き返す。そこで、お茶をそれぞれの杯に注ぎながら、華琳が指摘する。 「ということは、愛紗にも伝わらないわね。私たちが手助けしようにも、本人が知らぬでは限度があるわよ?」 「それはそうなんだけど……」  しゅんとする桃香。蓮華が何ごとか言う前に、華琳は再度口を開く。 「ただ、実際の所、あいつらの目的は、蜀でも魏でもない。自分たちに都合のいい情勢となるなら、どことも結ぶでしょうし、誰を利用するのも厭わないでしょう。愛紗の一件は蜀だけの問題ではないわ」  二人に杯の載った盆を押し出しながら、華琳は冷たい声で宣言するように言い放つ。そのあまりの非情な響きに、慌てたように蓮華が身を乗り出した。 「しかしだな、華琳。まがりなりにもわれらは漢朝を主と戴くのだぞ。単純に敵対するというわけにもいくまい」  その言葉に対する答えは明快で、しかし、強烈なものであった。 「一気に漢朝を除くという手もあるけれど?」  沈黙が落ちる。  しかし、覇王の声音が深刻なものではなく、からかうような調子であったことが、蓮華に次の言葉を言わせてくれた。 「……そして、華琳が帝となるか?」 「別に私でなくともいいわ。蓮華、やってみる? それとも、やはり桃香が劉姓を引き継ぐ?」 「無茶を言うな。今の状況で、お前以外が登極したとて、天下は治まらん。いや、それでもかなりの軋轢があるだろう。十年、二十年かけてそれを準備するというならわからんが」  そこで蓮華は自分の杯を受け取り、ことさらにゆっくりと茶を喉に落とす。 「だからといって、三国の王だけとしてしまうには……」  ぼそり、と呟いた言葉に、ため息のように同調したのは桃香。 「漢ってずいぶん長く続いてきたからねえ……」  劉姓の人間が、漢という国のことを諦めたように評する。これはおかしなことであろうか、あるいは自然なことであろうか。どちらともとれず、蓮華はただ桃香を見つめる。 「そう。討ち滅ぼすのではなく、私たちの側もまだ利用するつもりであるなら、やはり、なんらかの手を考えねばならないわね」  それまでの空気を振り払うように、華琳は腕を組んだ指をぴょこぴょこと滑稽に動かして、考え考え、言葉を紡ぐ。 「まずは、時機を見て……。そうね、北伐の第二陣が終わった頃にでも、愛紗の功績を鑑みて、別の官位を与えるよう私が上申するというのが、一番、穏便で確実な手ね。時間はかかるけれど」 「そんなところだろうな。あるいは愛紗が都にいるとしても、その間仕事を与え続けて、妙なことに巻き込まれる暇をなくすというのもあるが……」 「つまらないことに美髪公を使うのもね……。それはいざという時に取っておきたいところよ」  蓮華と華琳が方策を話しているところに、桃香は深刻そうな顔で割り込んでいく。 「でもね、朝廷がまず考えるのは、魏の牽制だと思うんだ。そこはどうかな?」 「そんなもの、私たちが気にしなければいいことよ。愛紗は真面目な性質だから居心地は悪いかも知れないけれど、そこは我慢してもらうしかないでしょう」 「うん。そっか。じゃあ、そこは私が直に言っておくよ」  こくこくと真剣に頷く桃香。  そうして、三人の女王は、彼女達の名目上の主であり、敵とも味方ともつかない存在について真剣に語り合い続けるのだった。  4.呉蜀 「はあ。小蓮さまを次の鎮南将軍に、ですか」  片眼鏡の少女は、主から告げられた言葉を鸚鵡返しにして驚きを表現する。その様子に苦笑しながら、蓮華はその場につどった面々の顔を順次見渡していく。筆頭軍師たる女性は、いつもののほほんとした笑みを崩さず、武官の二人は驚きを隠しているのか、よくわかっていないのか、自分たちが関わることではないと思っているのか無表情を貫き、亞莎は前述のように顔中を驚きでいっぱいにしている。話題に出ている当の妹は、ふーん、と呟くのみだ。 「私を後将軍にして、愛紗の前将軍とのつりあいを取るそうだ。なにか意見はあるか?」 「めんどくさいねー。シャオはもらえるものは気にせずもらうけど」  小蓮の呆れたような言葉に皆の顔が緩んだところで、穏が口を開く。 「蓮華様をずっと都に止めるような事は無理ですから、その事実を以て、愛紗さんを都への駐留から解き放つ、ということでしょうけど……」 「迂遠、ですな」  軍師が口を濁したことを、思春はばっさりと切って捨てる。その態度に苦笑いを見せつつ、蓮華は一方で小気味良い感覚を味わってもいた。 「これは、あくまで手の一つ、という位置づけだもの。それよりも大事なのは、朝廷が蜀に対してあからさまな工作をしているという事実だな」  蓮華は桃香との約定通り、朝廷が劉姓を狙っているという予測までは話していない。しかし、なんらかの意図があって蜀に近づこうとしていることは伝えていた。 「都に潜り込む人間を増やすべきでしょうか? 荊州に割いた分を今なら戻せますが……」  諜報担当の明命が真剣な顔で問いかけてくる。たしかに、荊州での騒動があったために、そちらに注力しすぎた感はある。南方が治まったいま、中央に集中すべきなのかもしれなかった。 「そうだな。そうしよう。ところで、今回の件は、明命は掴んでいなかったのか?」 「いえ。報告を上げましたが」  きまじめな顔でそう答える明命の横で、亞莎の顔が真っ赤に染まる。彼女は何かを思い出したようにわたわたと腕を振った。長い袖がばたばたと揺れる。 「ああっ。申し訳ありません! 私で止めてしまっていました!」 「ふむ」  蓮華は責めるでもなく、亞莎に先を促す。王にまで上げずともよいと判断した理由があったはずだ。亞莎は紅潮した顔を覆い隠すようにしながら、それでもはっきりとした声で告げる。 「我々がかなり多くの官位を得ることになっていましたので、それに対応する箔付けと考え、その、蜀の側からの申し出ならば気にすることもないだろうと……」 「うん。去年の末の局面なら、あれはそれなりに妥当な判断でしたよ。でも、亞莎ちゃん。もう一個裏を読む訓練をしましょうか」 「は、はひっ! 本当に申し訳ありません!」  ぺこぺこと頭を下げる亞莎。それになだめるように笑いかけながら、穏は首を傾げて蓮華に話しかける。 「蓮華様? 亞莎ちゃんの具申を受けて、最終的に蓮華様にお伝えしないでいいと判断したのは穏ですから、罰するなら穏のほうをよろしくですー」 「いや、いい。元々知っていた華琳のほうでも亞莎と同じような判断だったようだからな。今回の事は気にせず、次に注意してくれ」 「はいー」 「も、もったいなきお言葉!」  軍師二人が王に礼をとったところで、先ほどから黙り込んでいた思春が警戒するような声音で呟く。 「しかし、蜀にはちょっかいを出して、我が方にはないというのは解せませんな。あるいは、何ごとかあるのでしょうか」 「それは……」  桃香という存在が、漢朝にとって重要であるという話ができない蓮華は思春の指摘に口ごもるしかない。あるいは、彼女が言うように自分たちも気づいていないなにかがあるという可能性もないでもなかった。しかし、あっけらかんとした声が、それを否定する。 「ああ、それは簡単ですよー」  穏はにこにこと笑いながら、その視線をきつい顔つきの細身の女性に向ける。 「思春ちゃん。一刀さんたちの大使館にいるはめになった事件覚えてますう?」 「忘れるものか。亞莎もあの時は災難だったな」 「い、いえー」 「そう、そうです。亞莎ちゃん襲撃の時の事です。あの時、一刀さんたちと私たちで、賭場――朝廷の間諜たちの拠点を潰したのも覚えてますー?」  軍師に促され、思春は深い紫の瞳を揺らす。それが見つめるのは、はたして何だったろう。 「ああ、そういえば……。ふむ、それで朝廷側は手をだせんと?」 「それはどうでしょう? 聞くところによると大きな拠点ではありましたが、唯一のものではありませんよ」  一足飛びに結論に飛びつこうとする思春を、こてんと首を倒した明命が制する。間諜についての専門家である彼女には、その程度で朝廷が蠢動をやめる理由がわからなかった。 「明命ちゃんの言うとおり、実質的な被害がそう大きかったとは思いません。他にも手蔓はあるでしょうから。ただ、あれはなんというか……試験、みたいなものだったと思うんですよ」 「試験ー?」  嫌な単語を聞いた、というように小蓮が顔をしかめる。 「そうです。呉に干渉したらどうなるか、そういう試験です」 「孫呉の火の中に手を突っ込んで、火傷したってわけね」  穏の意図を理解した蓮華が愉快そうに呟く。  敵は徹底的に潰す。それが孫呉のあり方であり、身の守り方でもある。余計なちょっかいを出してこなければ、あちらもこちらも平穏だと、知らしめるための。 「一方、蜀は白蓮さんを追放した……。そういうことでしょうか?」  おずおずと、亞莎は確認するように訊ねる。それに対して、穏は良くできたと言わんばかりに頷いて見せた。 「蜀は与しやすくて、呉は侮り難いって印象づけたって穏は言いたいのー?」 「んー、まあ、雪蓮さまたちの印象も、それ以前の文台様のこともありますし、元からかなりの武断派と見られていたとは思いますけどねー」 「確認かだめ押しか。いずれにせよ、蜀の方が……ということか」 「とはいえ、気を抜いてもいけません。明命、対策は怠るなよ」 「もちろんです!」  孫呉の中でも武を代表する二人が気を引き締めるように言った言葉で場の空気が変わろうとした時、ぽつりと穏は続けた。 「ただ、もともと……月ちゃんたちの件もありますし、蜀の方針なんでしょうけどね……」 「ん?」  小さいながらも厳しい声を漏らす軍師の顔を見やる蓮華。その丸っこい顔は、なぜか強い緊張に彩られていた。だが、蓮華が見つめるうち、はっと気づいたようにその表情を和らげ、ぱたぱたと手を振る穏。 「いえ、これは余計なことでしたー」 「いや……。続けよ。蜀もまた重要な同盟国だ。理解を深めるにこしたことはない」  身を乗り出してまでそう言われ、穏は一度閉じた口を、真っ赤な舌でちろりと舐めて湿らせた。 「んー。これは穏一人の考察なんですけれど。蜀……いえ、あの頃はまだ蜀にいなかったですけど、桃香さん達の陣営を、いまは蜀って呼びますとですね。蜀は、手に入れたものをあっさり手放す癖があるんですよー」 「癖だと?」 「かつて蜀勢は徐州にあり、そこを二袁に攻められました。窮地に陥った蜀勢は、華琳さんたちの領地を通って荊州に至るわけですが……。普通、そんなことしますかね?」 「せっかく手に入れた領地を捨てて、か。だが、負けるとわかっている戦に兵を追いやるわけにもいくまい。なにしろ、あの当時では桃香達が袁家に抗することは不可能だからな。兵数が桁違いだし、ましてや、あの頃は我らも……」  そこまで言って、蓮華は気づく。気づかざるを得ない。蜀と自分たちの決定的な違いに。 「ええ、そうなんです」  穏は、ごくりと唾を飲み込んで注視する面々の顔をしっかり見返しながら先を続ける。 「雪蓮様たちは、従属の屈辱に耐えてでも、江東の地を取り戻すことを選びました。民も、土地も、兵も、捨てることはしなかった、いえ、できなかった」  そのとおりだ。  その場にいる全員が、そう感じた。孫家に従い、戦を重ね、死地をくぐり抜けてきた彼女達の血が、そう叫んでいた。  江東の地を離れれば、孫呉は孫呉たり得ない。江水で産湯に浸かり、江東の地を護って死ぬ。そこから始めてこそ、彼女達の天下はある。  たとえ、もし、孫呉が大陸全土を支配することが出来たとして、江東の地を忘れることなど不可能であったろう。  そのことがわかっていたからこそ、誰も言葉を発することが出来ずにいた。 「でも、桃香たちにはそれが出来る」  ようやく、小蓮が沈黙を破ったのは、どれほど経った頃か。  疲れたように頷いて、穏は自分の言葉が嫌であるかのように渋面を作った。 「それと同じように、桃香さんたちは、月ちゃんたちを捨てました」 「そ、それは月さんを護るために……」 「なぜです? あの当時の曹魏に、董卓を討つ意味なんてありません。たとえ月ちゃんと詠ちゃんの正体がわかったとして、華琳さんは別に気にもしなかったでしょう」  穏は吐き捨てるように言う。けれど、どこかその言葉には弱さがあった。  あたかも、誰かに反論され、論破されることを望んでいるかのように。 「あの時、蜀を処分するのに、大義など必要ありませんでした。董卓をかばっていたなどと責める必要も、どこにもありません。蜀は負け、国ごと解体されようと、処刑されようと、文句など言えるわけもなかったのですから」  覇王が覇王たることに、大義が必要だろうか。  そこになにか必要であるならば、戦を終わらせることにこそ、それはある。当時、既に忘れ去られかけていた董卓の名前を引っ張り出すよりはっきりとした名分が、彼女にはあった。  大陸を一つに。  そんなわかりやすい理念を前にして、死人が一人二人蘇っても、どうということはない。 「さらに言えば、華琳さんは人材好きです。董仲穎に呂奉先、賈文和に陳公台。これほどの名のある者を、むざむざ殺すはずがありましょうか。祭さまの裏切りを知っていてもなお呑み込んでみせるお人なんですよー?」  そこまで言って、穏は大きく息を吐き、息を吸った。二度、三度、己の中のなにかを抑えつけるように。 「そして、何より」  その言葉は、それまでの彼女の語りより遥かに低く、遥かに静かだった。 「共に戦ってきた友ならば、逃がすよりも最後まで守り抜くのが、我らの考えではありませんか?」  そして、わずかに震えていた。  震えた声のまま、彼女は宣告する。まるで、泣き声をあげるように。 「それこそが、蜀と我々との決定的な違いなのです」  5.酒宴  その夜の宴は、大鴻臚としての職務の一環であった。  名もよく知らない地方領主たちに囲まれて、部下達とともに酒を飲む。それが一刀がその晩果たすべき仕事であった。  高祖の功臣の末裔、皇族の末の末、四世太尉の家柄、等々。  どれほどの重要性があるかはともかくとして立派な肩書きだけは揃っている面々を、気持ちよく歓待されたと思わせるために、様々な催しや芸人を集め、酒や料理を手配する。  そんな手配りを監督した一刀としては、出来ることならば本当に楽しんで帰ってもらいたいところであった。  とはいえ、周囲の惨状を見ると、それも望み薄かも知れない。背景に流れる楽団の歌を聴いていないのはともかく、調子外れな大声で笑い合っている一団や、隣の客の膝で眠りこけている面々の様子などを見るとわかるとおり、明らかな酔っ払いの集団だ。大鴻臚に――あるいは『天の御遣い』に顔を売りに来ようとする人々も、最初の頃はともかく、いまではもういない。  少々奮発して、良い酒――つまりは、酒精の強い酒を用意したのが裏目に出てしまったようだ。  しかたなく、同じく接待側であまり飲んでいなかった七乃とともに酒を呷ることしかできない一刀であった。 「私、莫迦には三種類あると思うんですよ。物を知ろうとしない莫迦、容量の足りない莫迦、勉強が出来る莫迦」  七乃は美羽がいないのがつまらないのか、先ほどから適当なことばかり言っている。もしくは酒席なら、この程度でいいと考えているのかもしれない。 「んー、なんとなくわからないでもないな」 「官僚の大半は、三番目ですよねー」  酔っているのかと疑いも抱くが、顔や態度からは窺えない。そもそも、この女性は、普段でもとんでもない毒舌を吐くのだから。  それでも一刀は苦笑を浮かべて彼女をたしなめようとする。 「七乃さん。無闇に敵を作るようなことは……」 「あはっ。大丈夫ですよう」  けらけらと笑って、彼女は声を潜める。さすがに一刀以外には聞こえない声で、七乃は続けた。 「だって、本当にそれにあてはまるお莫迦さんは自分のことだなんて思わずに、ここぞとばかりに周囲の人間を見下すだけですし、お利口さんはそれがわかってるから、苦笑いするだけですって」 「それにしたってだな」  言いつのろうとする一刀に、彼女は抱きつくようにして口を寄せ、耳元で囁く。 「それにぃ、いまここにいる面々で本当に私を害せるのは、一刀さんくらいですよぉ?」 「俺が七乃さんを傷つけると思う?」 「思いませんよー。思わないから言ってるんじゃないですか。私、ずるいですから」  最後の一言は、余計だな。一刀は彼女が酔っていると確信して笑みを深くした。普段と違うとしたら、そこだ。 「少し、酔ってるね」 「そうですかあ? あー、でも、んー……」  考え込むようにして放つ息が首筋にあたる。その熱さに思わず身を震わせていると、背後から低い声がかかった。 「なにいちゃついてるの。真名を許し合った連中の前じゃないのよ、莫迦」  突き刺さるような苦言を降り注ぐのは、振り向くまでもなく、詠だ。彼女は月と共にめいどとしてこの酒宴では配膳など裏方を担当してくれていた。 「あ、いや、そうじゃ……」  ちゃっかりと体を離してそっぽを向いている七乃のほうを恨みがましく見ながら、彼はもごもごと弁解しようとする。詠は彼の横から手を伸ばし、空になった皿を回収しはじめた。 「そんなことよりも、もう少ししたら、ねねが来ると思うわ。ちゃんと相手してあげてね」 「ねねが? なにかあったか?」 「ううん。ただ、まあ……。いえ、これも経験ね。じゃ、よろしく」  詠はそれだけ言って、別の場所へと移動していく。それ以上引き留めるのも悪いと思いつつ、詠の思わせぶりな態度はなんだったのだろうか、と考えざるを得ない。  だが、それほど考えるまでもなく、彼の前に音々音が現れた。彼女も七乃と同じく接待側で参加していたのだ。しかし、いつもは快活そのものの表情は厳しく引き締まり、ほんの少し青ざめてさえいる。 「主殿」  歯を食いしばりながら言うような口調で、彼女は言った。その呼称の突飛さに、一刀は驚いてしまう。 「あ、あるじどの?」 「少し相談があるですよ。抜けられますか」 「うん」  詠はああ言っていたが、ねねの顔や態度を見る限り、これは緊急事態だろう。一刀はそう判断して即答する。 「大丈夫だよ。じゃあ、七乃さん、後は任せる」  酒に手を出していない月たちもいることだし、問題はないだろう。一刀はさっと七乃に身を寄せると、早口で囁いた。 「七乃さんも、あんまり変に飲み過ぎないでね。この様子じゃあ……さっさとお開きにしていいよ。それと、衛士を使っちゃっても構わないから」 「はーい。わかりましたー」  にこにこと、元気いっぱいのその答えを聞くと、さっきの言葉はひっかけだったな、と思わずにはいられない一刀であった。 「で、話って?」  少し離れたところまで来ると、一刀は横を歩くねねに訊ねた。ねねは普段よりずいぶん遅い歩調だったので、一刀としてはかなり慎重に歩みを合わせていた。 「……ました」 「え?」  身をかがめて耳を近づけると、歯と歯の間から押し出すように、彼女は言葉を吐く。ぷうん、と酒精の匂いが鼻についた。 「のま、されすぎ、たんです」 「ああ……。もしかして、気持ち悪いのか?」  頷く動作も緩慢だ。先ほど青ざめていると見たのは、間違いではなかったらしい。その理由は的外れであったが。  詠が、なにかあったわけでもないと言ったわけが、彼にもようやくわかる。 「恋殿、の……御名を……汚す、わけには」  その言葉を聞いて、男は全てを理解した。音々音という少女にとって、呂奉先――恋の軍師であることは、なによりの誇りだ。飛将軍の軍師という矜恃を持つ彼女にとって、勧められる酒を何度も断ることも、その酒で酔いつぶれることも、許せなかったのだろう。  だから、胸の奥で暴れる不快感も、平衡感覚の麻痺も、澱のように溜まった疲労感も、全てを押し殺して、彼女は前に進む。 「よし。じゃあ、ともかく俺の部屋に行こう。手を貸すか? 一人で歩ける?」 「……人目がある、内は……なんとして、でも」 「うん、そうだ」  本当は、しがみつきたいだろう。手を引いてもらいたいだろう。しかし、音々音がそうしないことも、一刀にはよくわかっていた。  だから、遅々として進まない歩みになにか言うでもなく、彼はずっと彼女の横を保ち続けた。  そうして、どれほど進んだか。  脂汗でびっしりと顔中を覆うねねがとある柱のあたりにさしかかったところで、一刀はその柱の陰に屈みこんだ。 「もう大丈夫だろう。おぶさって」 「……」  何ごとか言おうとして、しかし、ねねは口を開く前に、慌てて自らの両手でふさいだ。そのまましばらくして、くぐもった声で彼女は答える。 「わかり、ました」  そろそろと手を口から離し、彼の肩にかける。そのまま背中に体重をかけると、一刀が彼女の脚と尻を抑えて立ち上がる。 「こんな、とこっ、れ、恋殿にはっ」 「うん。そうだな」  彼の背で揺れながら熱にうかされたように、恋に申し訳ないと言いつのるねねに、優しい声で返事をしながら、一刀は廊下を早足で歩く。背の少女を揺すりすぎないよう、重心をなるべく一定の高さに保って。 「もう少しだからな。ほら、あそこにもう見える」  そうやって、励ましたのがいけなかったかもしれない。あるいはずり落ちそうになっている彼女の体を揺すり上げたのがきっかけだったかもしれない。 「ぐっ」  右の肩口から腕にかけて、熱が走る。  吐瀉物は、ほとんど液体に近かったのだろう。そのまま流れて腰から脚を伝っていくのが、なんとなくわかった。 「ずいませ、ん、すいませ……んっ、んぐっ」 「気にするな、ねね」  歩みを止めることなく、彼は進む。本当にあともう少しで彼の部屋だ。こうなったら、早く入ってしまったほうがいい。 「でも、よご、よごれ……」 「ねねの吐いたものなら気にならないよ」 「へ、へんたい、うぐっ」 「ほら、冗談言ってないで。着いたよ」  なんとか片手で鍵をあけられたのは、少女の体が軽かったおかげだ。彼女の体を優しく下ろし、適当な壷を手に取って、中の竹簡をばさりとあける。 「出すものだしちゃおう」 「で、でも……」 「いいから」  竹簡、木簡を保存する容器に吐くのは抵抗があるのか、あるいは嘔吐するところを見られたくないのか、ねねは最初だけ、むずがるように首を振った。しかし、こみあげてくるものに耐えられなかったのだろう。壷を両手で抱え、頭をつっこむようにして、胃の中身を吐き出し始める。  彼はゆっくりとその背をさすってやりながら、まずは上着を脱ぎ捨てた。幸い、彼女の服にはあまり汚れはついていない。一刀の手で汚れを広げることもないだろう。 「うう……」  ひとしきり戻し、胃液しか出なくなったあたりで、ようやくねねは顔をあげる。その顔も吐瀉物でぐちゃぐちゃだ。自分の袖で拭き取ろうとするのを慌てて止めて、一刀はとりあえず脱いだ上着で拭ってやる。 「のろが……いたい……です」 「そうか。なにか飲み物を持ってくるよ」  もう出すものもないらしい。吐き気はあるだろうが、まずはうがいでもしたほうがいいだろう。そう判断して、一刀は立ち上がる。しかし、そのすそを引っ張る指があった。 「……ひと、り、は……」  ねねの視線は彼を見ていない。うつろな視線は床と壷の間をさまよっている。けれど、小さく震える指は、たしかに彼の服の裾を握っていた。 「大丈夫、部屋からは出ないから。隣に行くだけだよ」  そう言っても、指は離れようとしない。しばらく待っていると、ねねはそろそろと指を離し、壷を抱きしめるようにして再びげぇげぇ言い出した。  走ることはせず、彼は隣の部屋に入った。手早く着替え、必要なものを持って戻る。ついでに部屋に灯りをつけておいた。  明るいところで見てみれば、音々音は目の焦点があっていない。あるいは、意識が途切れ途切れなのかも知れない。彼女はまるで姿勢を変えることなく床に座っていた。 「ちょっとしょっぱいけど、これでうがいして。そのあと、一口飲むんだよ」  そう言って、華佗と一緒に開発している生理食塩水の試作品の入った竹筒を手渡す一刀。まだ手術などに使えるほどではないが、塩分補給にはちょうどいい。実を言えば、一刀自身の酔い覚ましに用意していたものだ。  言われたとおり、がらがらとうがいし、ぺっと壷に吐き出した後で、一口飲みこむねね。 「……塩味」  彼は持ってきたきれいな布で改めて彼女の顔を拭いてやる。素直に拭かれるねねの顔はまだ青ざめているように見えた。 「うん。でも、塩分もとらないとだめなんだよ」 「……わかったですよ」  言うなり、彼女は竹筒を持ち上げてごくごくと飲み干した。どうも、ずいぶんと喉が渇いていたらしい。 「少し汚れてるから、上着だけ脱がないと」 「……んぅ」  ばさり、と上着を落として、彼女はそのまま床にねそべってしまう。床の冷たさを心地好く感じながら、音々音の意識は急速にその速度を減じていくのだった。  6.夢現  途切れがちな意識の中、音々音は誰かの会話を聞いていた。  押し殺した声が二つ。  一つは男、一つは女。  どちらも聞き覚えがあるような気がするが、それでいて誰だかよくはわからない。 「お湯、持ってきたから」 「ああ、ありがとう。これ、ねねの。洗ってもらえるかな」 「ええ。でも、あんたのは? 大丈夫だった?」 「ああ……俺のは、もうだめだろ」 「いいから、出しなさい」 「わかった。ありがとうな」 「他になにかいる?」 「いや、大丈夫だろう。華佗の輸液も部屋にあるし」 「あっちのほうはもう撤収作業に入ってるから」 「ん、了解。月と七乃さんにも明日、礼を言うよ」 「ええ。じゃあね」  声が止む。  その沈黙は、彼女を不安にさせるに十分だった。  自分はどこにいるのだろう。  自分はなにをしているのだろう。  そんな不安が、彼女の混乱した意識を駆け巡る。  けれど、混濁した精神は、その疑問も解消してくれない。かえって絡まって入り乱れていくだけだ。  ただ、寂しさだけが胸に募った。  そして、全てが闇に塗り込められていく。  意識が、睡りという深みから切り離され、覚醒の水面へとたゆたいだしたのに、彼女は気づいた。  けれど、いまだ水面を突き抜けるまでにはいかない。覚醒のわずか手前、起きているのかそうでないのか、感じているのは夢なのか現実なのか、よくわからない。  そんなところに、いる。  次に感じたのは悪寒。  体中をなにかで押しつぶされているかのような重さがのしかかる。  振り払おうとしても、体は動かない。ただ、苦しさだけが募る。  三番目に感じたのは温もり。  右手のあたり、そこだけが、なんだかあたたかい。  その温もりは、ほんのわずかとはいえ、右手から腕を伝い、胸を通って体中に広がっていくようだった。  そのことが、体中の重苦しさを、ごくごくわずかに和らげてくれる。  けっして、うんざりとした寒々しさは消えないけれど、温もりがたしかにそこにあることが、彼女を勇気づけてくれる。  誰かが歌っていた。  旋律も、言葉すらも聞き覚えがない。  きっと、異国の――その存在すらよく知らない、どこかの歌だ。そう、直感した。  そう感じた途端、意識のはしごを、一段上った。  目は開かない。体も動かない。それは、先ほどまでと同じ。  けれど、感触がある。  右手を握られているのがわかる。  彼女の手に比べればずいぶんと大きな手が、掌を覆っている。  そして、耳をうつ、あたたかな歌声。  その言葉の連なりの意味が受け取れないのは、彼女の意識がまだ明晰ではないからでは、けしてない。  わからないのは、まるで馴染みがない言葉だから。  ――そう、おそらくは天の国とか言う、この男の故郷の歌なのだろう。  意味はわからない。けれど、明るくあたたかな旋律は、彼女の耳にも心地良い。歌はいつしか言葉をなくし、鼻歌へと変わっても、音律はそのままに彼女を包んでいた。  この男と知り合ってから、それなりに経つ。しかし、その間、彼女は男から故郷を懐かしむ言葉を聞いたことがなかった。  おかしな言葉遣いをしたり、変な発想を持ち出したりはする。しかし、それを通じて、天の世界を偲ぶようなことを、一度でも彼が言ったろうか?  記憶する限り、存在しない。  そんな男が、誰も聴いていないはずのいま、故郷の歌を歌う。  そのことが、なぜか無性に悲しかった。  開かぬまぶたの間から、涙がつうと流れるのを感じる。この悲しみはなんだろう。この涙はなんだろう。  涙の熱さと、右手を包む温もり。その二つを意識しながら、彼女の心は奇妙に静かであった。  きっと、気の迷いだ、と思う。  体の調子が悪く、心細い時に優しくされて、同情し、同調しているのだ。  けれど、こうも思う。  そこにある優しさは、たしかに本当のものなのではないかと。  再び睡りという海が強大な力で彼女にまとわりつき引きずり込もうとするまでの間、彼女はそんなことをぐるぐると考え続けていた。  日の光の明るさに重いまぶたを開くと、見慣れた寝台の上にいた。  昨晩のことは夢だったのだろうか。  そう錯覚するほどに体になじんだ風景だった。 「……ねね、起きた?」 「恋殿!?」  彼女を覗き込む女性の赤い髪が、朝日にきらきらと光る。その何よりも馴染み深い相手の姿を認めて、彼女の意識は完全に覚醒する。 「お、おはようございます。ねねはどうやって、ここに……?」  起き上がってみれば、服装は普段のままだ。寝間着に着替えていない以上、全てが夢というのはありえない。 「ご主人様が、朝はやく、連れてきてくれた」 「……そうですか」  少なくとも、一刀に助けを求め、酔いを醒ましてもらったのは確からしい。そのことに、音々音はとりあえず安堵する。主たる恋の名を汚すような醜態を衆目にさらすよりは、北郷一刀一人に見せる方がはるかにましだ。  だが、果たして、どこまでが、いや、どこからどこまでが本当だったのか、あるいは全てが……。  それを、確かめねばならない、と彼女は強く思った。 「……あいつに礼を言わねばなりませんね」  音々音は精々苦り切った声で呟いたはずなのに、なぜかそれを聞いた恋は淡く笑みを見せ、こくりと頷いて同意を示すのであった。      (玄朝秘史 第三部第十八回 終/第十九回に続く)