玄朝秘史  第三部 番外編『歌姫楽園』  1.帰京  朝焼けの朱色がまだ東の空に残る頃。  ようやく開けられた門を通って、男女取り混ぜて多くの人々が洛陽の城内へと入っていく。  彼らの大半は城内に仕事を持つ近在の職人や、収穫物を売りに来た農夫であるが、中には大きな荷を背負った行商人風の小集団や、田舎から都に仕事を求めて出てきたのか、不安げに周囲を見回す若者などもちらほら見かけられた。  そんな中に、頭巾を深くかぶり、大きな外套を体に巻き付けるようにして歩く、三人連れの姿があった。  その外套の汚れ具合からして、おそらくは遠隔地から旅をしてきたのだろう。三人の旅人は言葉を交わすでもなく、開店の準備をしている最中の市を通り抜け、役人街の奥に入り込んだ辺りでわずかに歩調を緩めた。 「うー、さむっ。やっぱり冬は南にいるほうがいいわね」  そんな声が飛び出したのは、三人の中でも先頭を歩いていた小柄な人物からだ。伸びやかで美しい声が、無人の街路に響く。ぶるりと体を震わせて、彼女はその体にさらに強く外套を巻き付けた。 「そうは言っても年末年始はやっぱり都のほうが、人は集まるもの」  静かにそれに答える声は一番後ろを歩いていた旅人のもの。頭巾の奥で、眼鏡が曙光にきらめく。一年の終わりまであと一月あるこの時期に彼女の台詞はまだ少し気が早いようだが、常に先を考える性分なのかもしれない。 「そうだよー。それに、一刀もそろそろ戻ってきてるらしいし?」  最後の声と共にばさりと音がして、二人がそちらを注視する。そこには頭巾をはねあげて桃色の髪を明らかにした女性がほんわかとした笑顔を浮かべていた。 「姉さん! 頭巾を外さないでよ!」 「えー、でもうっとうしいしー」 「せっかく顔を隠してきた意味がないでしょ。人に見られる前に早く隠して」  二人から注意され、渋々と彼女――三姉妹の長女、天和は頭巾を元に戻す。かぶりなおしたものの不満が残るのか、彼女はさらに文句を呟く。 「別に隠さなくたってー」 「しかたないでしょ。都じゃ有名すぎるんだから」 「派手に凱旋してもよかったんだけど、それだと、ただで歌わないといけないことになるし……」  地和と人和にさらに咎めるように言われ、天和は頭巾の暗がりの中で、口をとがらせる。人和はそれを見て苦笑いしながら、なだめるように姉に声をかける。 「まあ、宮城内に入れば自由にできるし、もう少し待って」 「はいはいー」 「それと、さっきの話だけど、一刀さんは確実に戻っているはずよ。北伐の軍と一緒に都に入ったはずだから」  三姉妹の頭脳であり、情報通でもある人和にそう言われ、他の二人が背筋を伸ばして反応する。 「あー、一刀もなんだか忙しかったらしいじゃない。ちぃたちが慰めてあげないとね!」 「……他の女の人達がとっくにやっていると思うけど」 「それはちがうわよ、人和! 他の女と、三国の歌姫の私たちじゃ、まるで意味が違うでしょ!」  びしっ、と指をつきつけられた人和は、頼むから声を抑えて欲しいと願うものの、この次姉にそれを望んでも無駄なことはよくわかっていた。彼女に出来るのは、人通りがないことを確認することくらいだ。 「まあ、それはねー。でも、とにかく一刀に会えるの楽しみ」 「うん! さあ、さっさと行きましょ。なにしろ、寒いし」  そう言うなり、さっと振り返り、ずんずん進んでいく地和。それを追うように、天和と人和は並んで歩く。 「一刀の事以外にも、洛陽の様子はわかってる?」 「うん。華琳さま宛ての連絡に稟さんや桂花さんが返事をくれていたし、個人的に月さんからも時々お手紙をもらっていたから……」 「ふふっ」  末妹の言葉に、天和は表情を緩め、小さく笑い声を漏らす。人和は首をひねって、くすくす笑う姉の顔を覗き込んだ。 「どうしたの、急に」 「おかしな話だなあ、って思って」 「なにが?」  一体何がおかしいのか。どこが彼女の笑いの勘所に入ったのか、人和にはさっぱりわからない。だが、天和の次の言葉は、人和を驚かせると共に深く納得もさせたのだった。 「だって、黄巾党の私たちと、魔王なんて呼ばれた董卓さんが、手紙のやりとりって……ねえ?」 「たしかに……」  言われてみれば、おかしな話だ。  かたや漢全土を巻き込む大動乱を引き起こした首謀者。  かたや位人臣を極めながら、朝廷の衰滅を決定づけた暴虐の徒。  そのどちらもが間違っていて、しかし、ある意味で決定的に正しい。  命の代わりに名を捨てた者たち同志で暢気に文通している奇妙な現状は、滑稽を通り越して奇蹟に近い。  人和はそんなことを思いつつ、姉の声に笑いを唱和させた。 「おーい、なにしてるのよー。置いてくわよー」  くすくす笑いを重ねているうちに、すっかり足がお留守になっていたらしい。ずいぶん先に進んだ地和が、腰に手を当ててぷりぷりとこちらを怒っていた。 「はいはい。まったく、ちぃねえさんはいつも元気なんだから」 「それでこそちぃちゃんだよ。さ、いこ」  小さく駆け出す姉の伸ばした手を取りながら、人和は大きく頷かずにはいられなかった。 「うんっ」  こうして、晩冬を迎えようとする都に三人の歌姫たちが戻ってきたのだった。  2.会談  こんこん。  遠慮がちな風情で、扉が叩かれる。  大きな執務机で書類に目を落としていた女性が、そのかすかな音に顔を上げた。濃い青の瞳に、軽く丸まった金の髪。その白いかんばせの女性こそ三国の覇王、華琳に他ならない。 「入りなさい」  短く言って、彼女は書類を片付ける。扉が開き、そこから三つの頭が覗く頃には、部屋の中央の丸い卓へと移動していた。 「あの、お呼びだということでしたけど……」  部屋に入ってきたのは、今朝洛陽についたばかりの張三姉妹。彼女達はひとまず王宮で落ち着いた後、昼食を食べに出ようかと考えている所で、華琳に呼び出されたのだった。 「そう、呼んだわ。さ、座って」  部屋の主のすすめに従って、三人はそれぞれ席に着く。 「ええと、報告書は、人和が稟に渡しましたけど」  いつも元気な地和も、華琳直々の執務室への呼び出しとあって、少し緊張した様子だ。手の置き所に困っているのか、卓の上でそわそわと動かしている。 「ええ、聞いているわ。そちらは後でしっかり見せてもらいましょう。各地の情報は貴重だし、私はしばらくこちらを留守にしていたから余計ね。それよりも、お昼はまだよね? 料理を持ってこさせるわ」 「わーい」 「昼食、ですか……」  華琳の言葉に、単純に喜ぶ天和と、逆に眼鏡の奥で目を細める人和。その様子を見て、華琳はふっと力を抜いて微笑んだ。 「実を言うと、久しぶりに三人と話がしたくてね」 「まあ、そう言うなら、ありがたくご相伴させてもらいます」  柔らかな相手の雰囲気に、表情を変えずに人和は答える。姉二人は食事と聞いて、それだけで緊張が解けてしまったらしい。おそらく華琳が既に手配してあったのだろう。間を置くことなく現れた侍女たちが運んできた皿の数々に、目を奪われる数え役萬☆姉妹。 「本当は順番に持ってこさせたいところだけど、話の腰を折られるのもいやだから、全部用意させたわ。よかったかしら?」 「あー、あんまり気にしないでください。私たち、ささっと食べちゃうのも芸のうちなんで」 「そうだよねー。公演の合間とか、とにかくお腹いっぱいになればいいって感じだもんねー。まあ、そんなんだから、普段はおいしいもの食べたいけど」  答える地和も天和も、その視線は華琳に向かず、卓の上に広げられた色とりどりの料理に向かっている。椀ものがいくつか、川魚の鱠、豆と野菜の煮物、そして、卓の中央には、蓋がされた大きな皿が置かれている。 「ふふ。今日はゆっくり食べてね」  その言葉と共に華琳が箸をとったところで、食事が始まった。 「あ、これ、鱗の揚げたのだね。軟骨みたいでかりかりしておいしいよね」  鯉の鱠のつけあわせとして置かれた、きらきらと光る揚げ物を口にして、天和が嬉しそうに漏らす。彼女の口の中ではさくさくとした食感と、弾力を持った鱗の固さと柔らかさが同時に広がっていた。 「酒のあてにいいものだから、酒のみはそればっかり食べてるけど、私は身のほうが好きね」  華琳もまた鯉の鱠の皿に箸をのばしている。しかし、彼女が取ったのは鱗のほうではなく、鱠そのものだった。酢でしめられたそれを、華琳はつるんと口に入れる。 「ところで、これはなんです?」  温かい椀と冷たい椀を交互に味わっていた人和が、中央の皿を指さす。 「ああ、開けていいわよ」  華琳の言葉に従って蓋を取ると、むわっと湯気とともに熱気が漏れ出てくる。それを発したのは、おめでたい形に象られた茶色い焼き菓子のようなものだった。ただ、菓子にしては、両手で抱えられるほどの大きさがあるし、表面は飴色に焼き上がっているものの、一方で焦げている部分もあり、これを食べるのは苦労しそうだ。 「練り物を焼いたものですか?」 「ずいぶんかたそー」 「いえ、それは……こうするの」  不思議そうに眺めている三人に微笑みかけ、華琳は取り分け用の短剣を手に取り、その柄頭を硬く焼き締められた表面に思い切り叩きつけた。 「わっ」  ばきんっ、と小気味良い音をたててひびが入る。いくつかの破片はそのままはがれ落ち、さらなる湯気を発した。その奥に見えるのは、白く蒸し上げられた肉の色。 「……鶏の丸焼き?」  割り砕かれた破片を皆で取り除けば、現れたのは羽をむしられた鶏の姿。ほかほかと湯気をあげるそれを、華琳は手際よく切り分けていく。 「そう。塩を練り込んだ生地で包んで焼くことで、美味しさを封じ込める技法ね。中身は……ほら」  腹を切り裂くと、そこからこぼれるのは、たっぷりと肉汁を吸い込んだ香草混じりのご飯。華琳と人和が手分けして小皿に取り、皆に配っていく。 「うわーっ」  香草と肉汁を吸い込んだ米、それに鶏肉自体からあがる香りを胸いっぱいに吸い込んで、思わず天和が歓声をあげる。 「やわらかい……」  もぐもぐと鶏肉を食べていた人和も、ほうとため息をつくように呟く。直火でないだけに熱がゆっくりとまわったのだろう、肉にも香草からと生地から味がしみこんで、噛むとじゅわりと旨味がにじみ出ていた。  姉妹の中で一人、地和だけは無言で、どうしたのかと見れば大きく切り分けられたもも肉に夢中でかぶりついていた。  華琳は自分も鶏を味わいつつ、そんな三人のことを微笑みながら見つめている。  彼女はしばらくそうした後、冷たい椀で喉を潤し、からかうような声音で切り出した。 「ところで、あなたたち。あれから、私のこと微妙に避けているでしょう?」 「んぐっ」  思わず、がりっと骨を噛んでしまう地和。その行為が示すように、華琳の言はけっして謂われのないことでもなかった。 「……この間の、公演から、ということですよね」  人和が小さな声で言うのは、以前の洛陽公演――つまりは、華琳が彼女達三人にとある要求をした時の事だ。 「えっと、ふじょ、おう? だっけ。それになれって言われたんだよねー」 「べ、別に避けていたってわけじゃあ……。ちぃたちも華琳さまも忙しかったわけで……」  気楽な風情でその時のことを思い出しているらしい長姉に対して、地和は汗をかきつつ言葉を紡ぐ。そのどちらも静かに黙って見つめている華琳の口元には淡い笑みがある。しかし、その笑みをいいことに甘えることは許されないと、人和は直感的に感じていた。  だから、彼女はずばりと、それに応える。 「正直に言います。私たちは二度と黄巾を繰り返したくありません。姉さん達もそれでいいよね?」  はっきりと、一言一言を噛みしめるように、人和は言う。真っ直ぐ華琳の瞳を見据えて発言した彼女は、視線を逸らすこともなく、姉たちに問いかけた。 「ん? もちろんだよー」 「ちぃたちは歌って、みんなに見てもらえれば、それでいい。それが華琳さまの言う、民の魂を燃やす行為になるとしても、ちぃたちが積極的にそれを……なんていうか……」  天和はのほほんと、地和は顎に手を当てて考え考え、言う。なんと言っていいかわからなくなり、口ごもった彼女を妹が手助けする。 「方向付けするつもりはない、ってことでしょ」 「そうそう、それそれ」 「そういうことです。華琳さま」  瞑目する華琳。  沈黙はどれほど続いたろうか。一人、考え込む華琳の額には汗がにじむ。それを見つめる三人も、息を呑み、身動き出来ずにいた。 「そう……。それを選んだのならば、それでいいでしょう」  はぁ、と大きく息がつかれる。それは、華琳が発したものか、あるいは三姉妹が緊張から解放された故に吐いたものか、判然としなかった。 「ただ、同じまつりごとでも、政治ではなく、もっと根源的な部分、それを担えるのはあなたたちしかいない。そこは、わかっている?」  再び目を開き、強い光を宿して問いかけられる言葉に、姉妹たちは顔を見合わせ、結局、おずおずと地和が答えた。 「それは……まあ。みんながちぃたちを通じて色々発散してるってのもわかるし」 「膚で理解しているようね。ならば問題ないわ」  彼女は箸を手に取り直し、新たに鶏肉を口に運ぶ。それにつられたように、天和達も食事を再開していた。 「ただ、あなたたちにそうして負担ばかりかかっているってのも事実よね」  その最中、ふと思い出したように華琳は呟く。その言葉に、再度、姉妹の動きが止まった。 「それで、少し提案が……。ああ、そんなに構えないで。さっきのような話ではないわ」  そう言って、曹孟徳は獰猛にも見える笑みを、その美しい唇の端にのせるのだった。  3.虚聞  だだだだだっ。  大きな音を立てて、警備隊の詰め所に走り込んでくるのは、かつて隊を率いていた男。彼の姿を知らぬ隊員がいるわけもなく、詰め所にいた者たちは、疾駆する彼のために場所をあけてくれた。  詰め所の奥、床が一段高くなった辺りまで進み、男はそこにいた女性に声をかける。 「焔耶に何かあったって、何ごとだ!? 無事か!?」 「あ、たいちょー」  彼の叫びに応じて、落とし物の整理をしていたらしい眼鏡の女性が顔をあげた。のんびりとしたその声に、男は張り詰めた表情を緩めた。 「その様子だと……大事ではなさそうだな」  少しそばかすの残る顔で屈託無く笑いかけてくる彼女は、警備隊の副隊長、于文則こと沙和。もちろん、それに対しているのは、かつての警備隊長北郷一刀に他ならない。 「うん。焔耶ちゃんなら無事なの。ちょっと落ち込んでるっぽいけどー」 「よかった」  力が抜けたのか、一刀は背を丸め、高くなった床に手をついて体を支える。その耳に、小さく小さく、注意していなければ聞き落としてしまうほどに低い声が響いた。 「……よくない」  ぼそ、と呟いたのは、詰め所の奥も奥、土塀に向かって座り込んでいる黒ずくめの人物。膝を抱え、その間に頭をつっこんで縮こまっている彼女こそ、蜀の若手武将、焔耶。  なぜそんな格好をしているのか、とか。一体何があったのか、とかわき出てくる疑問をぶつけようとしたところで、彼の背後に現れた人物があった。 「焔耶、いた?」 「あ、恋ちゃん」  沙和の言葉通り、そこには犬を抱いた赤毛の女性がいた。セキトにも挨拶をして、わんっと大きな声で答えてもらう沙和。  その吠え声で、焔耶の肩がびくりと震えたが、何ごともなかったかのように、再び亀のように丸まってしまう。 「ああ、そうそう。動物絡みだっていうから、恋を連れてきたんだけど……。一体何があったんだ?」  ようやく息を整えて、一刀は問いかける。しかし、相手は困ったように笑みを浮かべた。 「んー、それがねー。なんか、街中を犬に追われてたのー」 「は?」 「だから、焔耶ちゃんがたっくさんの犬に追われてて。それで沙和達が助けたんだけどー」  沙和は身振り手振りを交えて、街を何十頭もの犬を引き連れて疾走する焔耶をみつけたこと、最初はなにかの鍛錬かと思って放っておいたこと、次に見かけた時にもまだ犬と一緒に走っており、あまりに表情が悲愴だったのでおいかけてみたこと、そうすると、助けを求められたこと、焔耶にまとわりつこうとする犬たちをなんとか追い払い、詰め所に保護したことなどを、少々の脱線と共に賑やかに話した。  その間、奥のほうからは、 「泣いてない」 「別に怖くない」 「邪魔だっただけだ」  などなど低い声が聞こえてきたが、誰も反応しようとはしなかった。 「なんだって、そんな……」  半ば呆然としながら呟く一刀。その言葉に答えがあるものとは、発した本人も考えていなかったが、しかし、それでも答えは返ってきた。 「……焔耶は」 「ん?」 「焔耶はいいにおいがする。だから、犬が集まる」  いつも通りの平静な声で、恋は言う。それが厳然とした真理であるかのように。 「……ってセキトが言ってる」 「いいにおいはうらやましいなあ。あ、でも、沙和は隊長に好かれるにおいのほうがいいのー」 「いまでも十分いい香りだよ」 「えへへー」  あっさりと恋の言葉を受け入れる沙和。一方の一刀は多少抵抗があったが、かつて彼が生きた世界で仕入れた知識を思い出し、納得したような表情になった。 「犬が好きなフェロモンでも発してるのかな」 「ふぇろもんー?」 「虫や動物が発する、ごくわずかな匂い……かな? 敵がきたことや、発情期に入ったことを知らせたりするって言われてるんだけどね。焔耶は、犬にとっては魅力的な信号を発してるんだろうね」 「へー、なんかすごいのー」  目を大きく見開いて感心する沙和。しかし、その対象である本人は相変わらず部屋の隅で膝を抱えたままぶつぶつ何ごとか呟いているだけだ。耳を澄ませてみれば、動物と一緒にするなとか、犬が多いのが悪い、とか聞こえてくる。  一刀と沙和は、あはは、と乾いた笑いでその様子を見守るしかなかった。 「そ、それはともかく、沙和は今日はここを離れられないの。だから、隊長に任せていーい?」  甘えるような声音で問いかけられ、一刀は腕を組んで考え込む。なんとも珍しい事に警備隊の仕事に精を出している沙和に手間をかけさせるのも悪い。ちらっと恋のほうを見やると、彼女も頷いてくれた。 「そうだな。俺たちが城まで送っていくよ」  結局、一刀がセキトを預かり、恋が焔耶に帰るよう促すことになった。焔耶に近寄り、ちょいちょいと袖を引いている恋をほほえましく眺めていると、沙和が何かを思いだしたような表情になった。 「そうそう、隊長、最近、変な噂があるから気をつけてなのー」 「ん?」 「なんかね、夕暮れ時になると、桂花ちゃんみたいに耳のとがった頭巾を被った女の人――なんか結構きれいらしいけど――が、『宮中へ案内せい』って話しかけてくるんだって」 「なんだそりゃ」  沙和の語る口調は怪談話のようでもある。よくわからない内容だが、それが一種不気味でもある。 「それでね、たいていの人はそこで逃げちゃうか相手にしないんだけど、何人かが、どういうことか聞いてみたらしいのー。そうしたら『妾は何進じゃ。宮中に帰るのは当然じゃろう』って言うんだって」 「えっと……何進は死んでるし、そもそも男だろ?」 「そのはずなんだけどー。幽霊話にしてもおかしいの」  有名な人間の幽霊が、その死後に目撃されることは珍しくない。中には死んでいないのに、死んだという噂が流れ、さらに幽霊話が出来てしまうこともあるほどだ。しかし、そういう場合、あくまでその幽霊は本人の姿をしているはずだ。少なくとも世間の評判にふさわしい姿を。  性別や容姿まで極端に変化しているというのは、噂の流れ方としてあまり尋常ではない。 「うーん。自分を有名人と思い込んでいる頭の緩い人かもしれないなあ。警備隊も見つけたら保護してあげるようにな。……ただ慎重に。そういうのはなにをやらかすかわからないから」 「うん。わかったの」  困ったように、しかし、真剣に皆の身を案じて言う一刀に、沙和も明るいながら、張り詰めた顔でそう答えるのだった。 「何進か。おかしな噂だな」  詰め所から出てしばらく行ったところで、赤く染まりつつある空を見上げ、焔耶が呟く。自分の殻に閉じこもってばかりだと思ったが、どうやら沙和と一刀の会話を聞いていたらしい。  一刀もまた、空を見上げる。冬の日の落ちる早さは侮れない。まだ昼の残滓は残っていたが、きっとすぐに暗くなってしまうだろう。 「ああ。あんまりはびこるようなら、本格的に調べさせたほうがいいかもしれないなあ」  セキトを抱いて歩きながら、一刀は首をひねる。その横を歩く焔耶が、ふと思いついたように訊ねかけた。 「……そういえば、お前たちは何進に面識があるのか?」 「いや、俺はないよ。恋はあるだろ?」  一刀が恋を最初に見たのは、まさしく何進の名代としてねねと共に華琳のもとにやってきた時のことだ。彼女が何進を知らないわけがない。焔耶と一刀の視線を受けて、後ろを歩いていた恋はこくっと頷き、いつもの調子で答えた。 「……ん。お肉料理がおいしかった」 「そ、そうか……」  いつもながら少しずれた答えに二人ともそれ以上何も言えない。 「黄巾に反董卓連合か。あの頃の北方は、ワタシたちから見ても騒々しかったな」  しばしの沈黙の後で、遠い昔を思い返すように、焔耶は言った。 「ああ……焔耶や桔梗たちはこっちには関わってなかったものな」 「益州や荊州はそれぞれを治めるので必死だったからな。北にかまっている暇はなかった」  そこまで言って、焔耶は肩をすくめる。彼女は皮肉げな笑みを浮かべて、小さく言葉を吐いた。 「ま、古い話だな」 「……そうだな。古い、話だ」  そう答える男の顔には、夕暮れの赤い光がつくる淡い陰がたゆたっていた。  4.挑戦 「やっほー、一刀!」 「姉さん、ずるい! ちぃも!」  部屋に戻るなり、一刀の腕は柔らかいものに包まれていた。ついで、逆の腕にも力がかかる。声を聞いたところでその正体には気づいていたものの、鍵をしめて出たはずの部屋でそんな風に出迎えられ、彼は目を白黒させずにはいられない。 「おいおい。どうやって?」  両側から抱きつかれているせいで、まるで身動きがとれない。扉は地和が――少々行儀が悪いが――お尻をぶつけて閉めていたおかげで、廊下にそんな姿が露見することだけは防がれた。  この城で、女性にくっつかれている彼を見て、評判がなにか変わることなどあるはずもないのだが。 「詠さんに開けてもらったの」  苦笑しながら三人の様子を見ていた人和が、一刀の疑問に答えをもたらす。 「いつの間に……」  それは部屋の鍵を開けたことに対してか、あるいは詠と三姉妹がそこまで仲良くなっていたことに対してか。  いずれにしろ、彼は天和と地和に引きずられるようにして、寝室へと連れて行かれる。もちろん、人和もその後に続いた。  嫌がるどころか、それを不思議に思うことも、四人にしてみれば、ありえないことであった。 「劇団?」  一刀は不思議そうに問い返す。  何戦か終えて一息吐いたところで、彼の胸にのっかるようにして寝そべる地和が語ったのは、彼女達の今後の活動についてであった。  数え役萬☆姉妹として独自に活動するのは今後も当然続けていくが、それとは別に興行のための団体をつくってはどうか、というのが華琳からの提案であった。 「うん。そのことで、一刀とも相談しろってさ」 「元は一刀さんの提案だと仰っていたけれど」  一刀の腕枕に頭をのせている地和が見上げてくる。激しい情事で落ちたりしないよう眼鏡をはずしていたために、珍しく碧の瞳が直接彼を見つめる。 「えーと……」  天和の膝に頭をのせながら、一刀は考える。  天和が一刀に膝を提供しつつ、その豊かな体を彼の右側に折り曲げ、左は人和がちょこんとおさまり、地和は小さいながら美しい曲線を描く体を、彼の胸から斜め右に向けて乗せる。天下の歌姫達と北郷一刀は、そんな風に絡み合っていた。  彼女達を追いかけている者たちならずとも、中心となる男に嫉妬せざるを得ないような絵であった。  そんな中で、四人は特にそのことを気にした風もなく会話を続ける。なにしろ、彼らはさっきまでもっと深く繋がり合っていたのだから、今更だ。 「あー、あれか。三人の負担をどうにか軽くできないかな、って華琳に相談したことがあったんだよ。華琳が一番詳しそうだったから」 「それでだねー。数え役萬☆姉妹としての興行と、劇団の興行を、一年か半年交替でやったらどう、って言われたよー」 「んー、でも、劇団つくったって、そこまで楽にはならないんじゃ……」  かつては麗羽一行がやっていたように、裏方を雇うのはこれまでもしていることだ。それに、舞台に上がる人間を増やしたとして、中心は三人だろう。はたしてどれだけの省力化が見込めるものか。 「そうでもない。劇なら常に歌いっぱなしってわけじゃないし」 「ていうか、一刀、こっちの劇の形って、知ってるの?」 「あー、すまん。よく知らない」  一刀自身、劇を見に行った――たいていは華琳に連れて行かれた――ことは何度かある。しかし、庶人向けの歌舞と、宮中の舞ではまるで様式が異なる。彼が見たり触れたりしたものと、彼女達が話していることには隔たりがあるはずだった。  ふんっ、と一つ鼻を鳴らし、地和は意地悪な顔つきになる。 「それじゃあねえ」 「すまん。教えてくれよ」 「まー、いーけどー」  顎を彼の胸にのせてぐりぐりと押しつけながら、地和は呟く。ため息を一つついて、人和が注意した。 「いちゃついてないで話を進めて」 「はいはい。ええとね、まず、私たちがやるんだから、当然歌劇よね。で、その中でも色々あるんだけど、たぶん、華琳さまが想定してたやつだと……」  語られた地和の説明をまとめると以下のようになる。  劇中、役者達は演技をするが、そこで細かい状況説明や、物語の筋を語るのは、合唱隊だ。役者は重要な台詞を語るもので、基本的には合唱隊による歌が全体を通して流れる。  そして、主役級の役者――今回想定されているのはまさに数え役萬☆姉妹――が、重要な場面で、恋歌や敵への挑戦や、勝ち名乗りを歌い上げる。  それはまさに山場であり、見せ場でもある。 「基本的に、わかりやすいように出来ているんだよねー。演者の中で歌うのが限られてれば、この人が主役で、この人が敵(かたき)、この人が恋人ってすぐわかるでしょ?」  妹の言葉がとぎれたところで、天和が付け加える。一刀は小さく頷いて、理解したことを示して見せた。 「もちろん、合唱隊の格を落とすわけにはいかないけど、私たちへの負担は減るでしょうね」 「ちぃたちはいいとこ取りできるってわけ」  聞いている限りはいい案だ。もちろん、実際に軌道に乗せるには時間がかかるだろうが、色々な困難をくぐり抜け、何度も成功してきた歌姫達だ。不可能とは思えない。  しかし、三人の顔は一刀が見る限り、あまり晴れやかとは言えないものであった。 「ちなみにー、私たちは芸人さんたちの連絡網も作ってるから、使えそうな人を呼ぶのは簡単なんだよー」 「そう、やろうと思えばできるのよ。ただ……」  地和の言葉もまた、歯切れ悪い。一刀は片眉だけはね上げつつ、彼女達の顔を見回した。 「あまり乗り気じゃないみたいだね?」 「実際やるには大変というのもあるし、あとは……」 「なんか、限界を認めるみたいじゃない。歌と踊りだけではだめだって」  その言葉に、さすがに一刀も黙ってしまう。  少し考えて、彼は確認するように問いかけた。 「歌もやめるわけじゃないし、歌劇なのに?」 「それはそうなんだけどー」  困ったように笑う天和。一刀はその表情を見て、己の顔を強く引き締めた。 「ええと……」  唇をひとなめし、湿り気を与える。彼は彼女達に触れる腕に力を込め、言葉を発した。 「少し聞いてほしいんだけど」 「うん」  三人の声が和する。甘やかで、それでいて芯の通ったその声に紛れもない力を感じながら、一刀は切り出す。 「俺は、みんなの歌を聴き、舞台を見て、歌の力……いや、三人の表現の力ってのを思い切り味合わされた。言葉も、旋律も、踊りも、人を惹きつけて、そして、君たちが示すどこかに連れて行ってくれる。そう感じるものだ」  きゅっ。  地和の腕が、一刀の体に回る。同じように、人和は彼の腕にしがみつくようにし、天和は彼の髪に指を差し入れる。 「人々が、みんなに見いだしたものが、俺と同じとは限らない。あるいは、一人一人違うのかも知れない。けれど、三人は、数え役萬☆姉妹は、たしかに一人一人に、大事なものを見せてくれていると思う。だからあれだけ多くの人達が三人を応援してくれているんだと、そう思う」 「……うん」  長い沈黙に耐えかねたように天和が頷く。三人ともそれで一刀の話が終わったのでないことは重々承知していた。彼は懸命に自分の心の中を言葉にしている。それを、どれだけでも待つつもりは、三人全員に共通してあった。 「三人が、歌で大陸を獲ることができるって、俺は確信している」  けれど、と彼は続ける。 「そこに犠牲があってはならない。  力は、十全に発揮されなけりゃいけない。無理をして歪ませたり、損なったりしたら、まさにこの世界の損失だよ」  小さく、一刀は笑った。そうなることを恐れるように。 「別に歌劇をやれと言ってるわけじゃない。ただ……」  最後に彼は大きく息を吸って、こう続けた。 「新しいことに挑むのをためらうのに、これまでやってきたことを理由にするのは……出来れば、やめてほしい」 「一刀……」  そう漏らしたのは、誰だったろう。あるいは、三人ともだったかもしれない。 「……あー」 「一刀?」  急に気の抜けた声をあげ、顔を真っ赤にする一刀に、地和が不思議そうに顔を覗き込む。 「悪い。俺がやるわけでもないのに、偉そうなこと言った。あー、ごめん。ほんとごめん」  照れたように謝る彼を抱きしめる腕に、彼女はさらに力をこめる。 「んーん」 「嬉しかったよ、私」 「私も……。一刀さんで、よかった」  三つの言葉が一気に飛んできて、青年はすでに真っ赤な顔を限界まで紅潮させる。その体に、三人はさらに熱い膚をこすりつけた。 「劇団をやるかどうかは、三人でもう一度話し合うけど」  人和は枕にしていた腕を己の頭の下から外し、その掌を自分の下腹へと導く。 「いまは……ね」  そこでは熱くとろける蜜が、彼を待ちわびていたのだった。  5.立願  翌日、日も明け切らぬ時間。  一刀、天和、地和、人和の四人の姿が華琳の部屋にあった。 「ふうん。相談の結果、劇団をやることは決定。しかも、試験的に、年始の祝いの公演で短い劇をやりたい、と」 「うん」 「あと、一月しかないのに?」 「うん」 「で、私に劇の台本を書け、と」 「うん」  そこまで会話が進んだところで、華琳はぎろりと四人を睨みつける。彼女達は一様に首をすくめつつ、おずおずと言葉を紡ぐ。 「ほ、ほらー、華琳さまが提唱者だしー」 「華琳さまの詩ってすばらしいって評判だから……」 「無理にとは言いませんが……」 「華琳ならできるかな、って」  聞きようによってはかなり無茶苦茶なことを言いつのる四人。しかし、三国の覇王はそこまで言われて引き下がれるような人間でもなかった。 「わかったわよ、やってやるわよ」  わっと沸く室内に、ばんっと大きな音が響く。机を一つ叩いて四人を鎮めた金髪の女性は、強い口調で言い含めるように話し出した。 「ただし! 劇の題材は、そちらが案を出しなさい。さすがに何もないところからやるのは時間が足りないわ」 「それでしたら、一つ」  眼鏡を押し上げながら、人和が即座に答える。劇に限らず、新しい歌の題材として考えているものがあったのだろう。 「今回の北伐、一刀さんが華琳さまを救いに現れた事実はすでに大きな噂になっています。その場面を再現出来れば」  この申し出に、華琳は感心したように頷く。 「今回の一刀のことを……か。悪くはないわね。ただし、機密部分はぼやかすわよ」 「当然でしょう」  人和の提案に刺激されたのか考えに沈もうとする華琳を、しかし、一刀は引き留める。 「あー、噂と言えば、こちらは俺の希望なんだけど……。いや、今回の台本じゃなくともいいんだが、もし、考えてくれれば……」  その提案は華琳を驚かせるのに十分だった。 「月達のことを? 反董卓連合の内実を描けと?」 「うん……。その、まだ世間では印象が悪いからね。それに、今回のことだって、詠や恋、華雄に霞たち――元董卓軍のみんなの功績は大きい。悪者にしたままってのはどうかな、って」 「ああ……。そうね、わからないでもないけど、さすがにそちらは今度という……」  不意に言葉が途切れる。そのあまりに不自然な様子に、一刀は心配げに身を乗り出した。 「華琳?」  問いかけに手を挙げ、それ以上の動きを封じる。その瞳が方々に動き、彼女の内部で生じている急激な動きをわずかに示していた。 「いえ……。ちょっと待って。反董卓連合の面々は、今回の北伐と共通する……。うん。そうね、そう、彼女を軸に……うん。少し面白い筋を思いついたわ」  そうして、彼女はいつも通りの笑みをその顔に刻み、はっきりと言い放った。 「明日まで待ちなさい。考えてみるわ」 「明日!?」 「なによ。時間がないんでしょう。やってやるわよ」  思わず立ち上がって驚愕を表す一刀にむけて唇をとがらせ、拗ねたように宣言する華琳。  そんな姿を見たことが無かった三姉妹は、そこにいる人物、いや、少女のことを――不覚にも――かわいらしいと思ってしまうのだった。  翌日、さすがに夜遅く、華琳は一刀たちを謁見の間の一つに呼び出した。  彼女達の前に置かれた綴じ本は、十数冊。  その様子に少し悪い予感を覚えたものの、さすがにそれだけを一日で書き上げたわけではなく、参考に別の台本も選んできてくれたのだろうと推測していた面々は、どこか疲れたような表情の華琳の言葉に、ぎょっとせずにはいられなかった。 「じゅ、十五幕仕上げたわ」 「じゅうごまくぅ!?」  素っ頓狂な声が上がる。三姉妹揃ったそれはさすがの声量で、華琳は思わず頭を抑えた。 「えと、華琳さま。ほんとーーーっに、ありがたいんですけど、それをいまから稽古して演じるというのは……」  不安げに言い出す地和を身振りで抑え、華琳は苛ついたとき特有の早口でまくしたてる。 「わかっているわよ。本編は十五幕だけど、今回やるのはそのうちの三幕をつなげたものよ。  反董卓連合の成り立ちと、洛陽の陥落とその中で『天の御遣い』が『董卓』と『賈駆』を密かに救う話と、密かに涼州に逃がされていた『董卓』を北伐進軍の合間に見かけた『袁紹』が己の間違いを悟るという……。まあ、全体として麗羽と月に焦点を当てた流れに仕立ててあるわ」  華琳は本の中から分厚い一冊を取り出し、ぱらぱらとめくっていく。 「本当はこっちだけ書こうと思ったのだけど、月や麗羽、それに一刀のことは偽装もあって、創作をかなり混ぜているから、他との整合性を考えると……。ああ、いえ、いまはそれはいいわね。とにかく、これ」  細かいことは全部指示があるから、読み込んで疑問に思ったら、また言って、と彼女はその本を天和に手渡す。  そうして、ずんずんと一刀に近づき、その手を取った。 「じゃあ、私は寝るわよ。いいわね、寝るわよ!」  眠さが限界なのか、怒ったように言い捨て、彼女は謁見の間を横切りはじめる。腕を掴まれたままの一刀が引きずられるように後に続く。 「あの、華琳さん。なんで俺の手を、って、早い、華琳、痛い痛い!」 「ね、る、わ、よ!」  彼女の歩調にあわせきれない男を力任せに引きずって、三国の覇王は奥に繋がる扉へと消えていく。  そして、後には乾いた笑いを交わし合う歌姫達が残されるのみであった。  なお、余談ではあるが、曹孟徳自らの手によると言われる歌劇『洛陽の落日』の完全な台本は残念ながら後世に散佚してしまった。しかしながら、その抄録と言われる三幕もの『月丹抄』は後々まで演じられ、派生作品を多数生みだしていく。さらに、歴史研究において、董卓や袁紹の性格、功罪など、当時の人々の判断はいかなるものであったか、といったことをうかがい知る資料として用いられるまでになるのである。      (玄朝秘史 第三部番外編 終)