北郷一刀は公孫賛とともに政務を行わなければならなかったため、執務室へと向かっていた。  昨日、彼は久しぶりに貰った休みを賈駆と過ごすことにしたが、非常に過激で丁度良い感じに身体慣らしにもってこいな一日となった。  そのためなのか、昨晩は非常に眠りにつきやすく今朝の目覚めはすっきりとしたもので廊下を進んでいく足もご機嫌で軽快そのものだった。  朝の空気を全身で感じながら一刀は執務室の扉を開ける。 「おはよう、……あれ?」  室内へと足を踏み入れた一刀が見たのは普段と僅かに違う光景。  公孫賛が机に向かっているのは別段おかしくはない、だが本来いるはずの人物がいない。 「詠がいないみたいだけど?」 「ん? ああ、あいつはなんでも体調不良らしくてな、自室で寝込んでるそうだ」 「え? それホントか!」  昨日、一日中ともにいただけに一刀は驚愕し、鼻先がぶつかりそうなほどに公孫賛に詰め寄る。  公孫賛が瞳を丸くしてぴくっと小さく身体を撥ねあがらせる。 「あ、あぁ。先ほど、月から報告があったから間違いない。……というか、近い」 「そうか、ということは、月は詠の面倒を?」 「そうだ。さすがに詠のことが心配らしいのでな。……だから、息が掛かってくすぐったいんだが」 「あ、ご、ごめん。」  視線を逸らして気まずそうな顔をする公孫賛からばっと後方へと飛び去る。 「ということは、今日は二人きりか」 「ふ、二人きり……、ふふふ」  腕組みして何かを考える素振りをしているのに、若干引いてしまいそうになるくらいに顔が緩んでいる公孫賛を見て首を傾げるのと同時に一刀の後頭部に衝撃が走る。 「待たせたのです!」 「…………ってえ」  後頭部を抱えるようにおさえて蹲った状態でちらりと背後を窺うと、ちんまいのが腰にて置いて仁王立ちしている。  その一方で公孫賛が現実へと意識を取り戻したらしく慌てている。 「は? ……どうしたんだ、ねね」 「詠の代理として来てやりました。有り難く思うがよいのですぞ」 「…………取りあえず、ていっ!」  いまだに痛む後頭部を片手でさすりつつ空いた手で陳宮の額をぺしりと平手打ちする。 「いたっ! いきなり暴力とは……最低かと思っていましたが、まだ人としての格を落とすとは驚きですな」 「ほう、扉で人の後頭部を強襲しておきながらそんなことをほざきやがりますか、このおチビちゃんは」 「誰が、おチビちゃんなのです!」  僅かに紅く染まる額を小さな両手で抑えながら上目で睨み付けてくる陳宮。一刀も負けじと同じ意味合いの視線で返す。 「お前らなあ……」 「だいたい、お前はいちいちねねにつっかかってくるとは何様なのです!」 「一応、形式上はご主人様だ」 「そういうことじゃないのですー!」  胸をはって答えた一刀に陳宮が両手を振り上げて憤慨する。彼女がぴょんぴょんと撥ねるたびに左右で纏められている若緑色の髪が小刻みに揺れる。 「なんだよ、訊かれたからちゃんと答えたんじゃないか」 「ああ言えばこう言う……、本当に捻くれたやつなですな」  腕組みして半眼で睨む陳宮に一刀は口先を尖らせて不満を露わにする。 「ねねに言われたくはないな」 「なんですとー!」 「なんだよ。そうだろ? いつも蹴られる身にもなってみろってんだ」 「それはお前が毎度のようにそのアホ面にあったあっぱっぱーな事をしているのがいけないのです」  どこかバカにするような眼でみる陳宮に一刀は反論しようと口を開くが、ため息混じりの声に遮られてしまう。 「お前ら……、仲が良いのは結構だが、いい加減仕事してくれ」 「誰と誰が仲が良いと?」  一刀と陳宮の避難めいた声は見事に重なった。  †  目の前で示し合わせたように見事に展開される口げんかにげんなりしながら公孫賛は二人を見やる。 「あのなあ、二人とも何しにここに来たんだ。ん?」 「えっとだな……」 「それはもちろん、影の薄いのを手伝いに来たのです」 「おい、聞き捨てならんぞ。今のは」  陳宮が放った一言は流石に公孫賛の琴線に触れる。 「どうしたのですか?」 「影が薄いとはなんだ、影が薄いとは」 「いや、実際……」 「一刀。お前はちょっと黙ってろ」 「……はい」  視線だけで一刀を下がらせると公孫賛は陳宮へとぐっと詰め寄る。陳宮は全く悪びれた様子もなく公孫賛を見つめている。 「いくらなんでも言っていいことと悪いことがあると思わないか?」 「別に影が薄いのなんて今に始まったことではないのです」 「…………それは、それとしてだ。やはり口に出さず心に留めておくべき事はあるだろう」 「ねねたちと初めて対峙したときだって何処にいたのかよくわからなかったですし。へぼ主人はまだわかりましたが」 「それは仕方のないことなんだがなぁ」  何故だろうか。公孫賛は無性に切なくなってきてしまう。影の薄さは自覚していないことはなかったがいまや一大勢力の長と言ってもおかしくない……いやさ、実際そうであるのだからそれも幾分か軽減されていると信じたかった。 (だが、どうなのだろう)  元来、産まれ持った性というものに人は逆らえないものなのだろうか。己に与えられた運命は克服できないのか、いやそんなことはない。  実際に今共にいる少年は過酷な宿命を乗り越えたではないか。  そんなことを思いながら一刀を見たところではたと気付く。 (私は何をそんなに深く考えているのだ……)  やはりいまいちぱっとしない自分の特性に関しては公孫賛にとって命題なのかもしれない。それこそ永遠の問いとなるかもしれない。 「……どうしたのです?」  訝しむような陳宮に首を横に振って公孫賛は答える。 「いや、なんでもない。それで、ねねは詠の代理と言うことでいいのだな?」 「そうなのです」  自分でも意味不明な思考の渦に呑まれかけた公孫賛の疲労感漂う声に陳宮はふふんと鼻を鳴らして堂々とした態度で頷く。 「やっぱり、詠の調子は良くないんだな」  一刀が心配そうに表情を曇らせて訊ねてくる。まだ事情を知らないらしい彼に少し詳しく公孫賛は説明することにする。 「ああ。なんでも昨晩月と話してる最中に突然倒れたらしい。今朝、そのことを兵士が報告に来たのだが少なくともその時はまだ目を覚ましていなかったらしい」 「そうなのか……そんな悪いのか」  陳宮と戯れていたときとは打って変わって沈み込む一刀。 「きっと、普段から不摂生だったのです。ま、詠もへぼ主人と違いバカではなかったのでしょうな」  陳宮がまた余計な事を口にしているが、一刀は反応を見せない。それどころか聞き流すようにしながら一刀は黙って席を立つ。  そして、何を思っているのか悟らせないような表情で公孫賛の方へと色のない視線を向けてくる。 「悪い、ちょっと厠に」 「やれやれ、本当にお前はなっていませんのう」 「…………」 「な、何か言ったらどうなのです?」 「ん、ああ。そうだな」  陳宮の言葉を聞いていなかったらしく、一刀はあやふやな返答だけを残して部屋を後にしてしまった。 「…………」  部屋に残された二人の間に妙な空気が流れる。沈黙が続くが、どちらも視線を合わせようとはしない。  そうして互いに何も語らぬままの時間が過ぎ去っていくのではと公孫賛が思うころ陳宮がぽつりと呟きを漏らす。 「……なんなのですか、あの態度は」 「私に訊かれてもな」  むすっとした様子でふくれている陳宮だが、僅かに心配しているようにも見えなくもない。 「あいつ、どうしたのです? 今日は一段と変人ぶりに磨きが掛かっていましたが……」  一刀が出て行った扉をじっと睨み付ける陳宮。その瞳にあるのはやはり彼を気にかけている雰囲気。 「ん? なんだ、あいつのことが気になるのか?」 「な、なにをバカみたいな事をいっているのです! どうしてねねがあんなやつを」 「そんな顔を真っ赤にして言われてもな……くく」  公孫賛は自分と同じように席についてはいても彼女の髪のように紅くなっている陳宮の顔を見てにやりと口元を歪める。 (普段は星に弄られる側の私だが、今回は違うぞ……くくく)  いつも趙雲にやられているためか陳宮を上手くつっつくことができている。公孫賛は内からあふれ出る笑みを堪えるので一杯一杯になってしまう。  そんな彼女をジト眼で睨みながら陳宮が眉を顰める。 「なんだか、あの性悪星のようにいやらしい顔なのです」 「……え?」  陳宮の言葉に公孫賛はぴたりと表情から笑みを堪えるために添えていた手まで硬直させる。 「その笑みがまた意地の悪さを表していますな」 「ちょ、ちょっと……?」 「いやぁ、とうとう星に毒されてしまったということですか」  陳宮はやれやれとため息混じりに首を左右に振りながら肩を竦める。 「いやいや、いくらなんでも星のようだなんて……冗談だろ?」 「……いえ、まったくもって星のようでしたぞ」 「う、嘘だぁ~」  引き攣った笑顔で公孫賛は街でよく見かけるおばちゃんのように手を顔の前で振る。 「ま、それはおいておくとして――」 「私としては是非とも説明願いたいのだが」 「星が二人になったのはどうでもよいとして、あのへぼ主人のことを心配しない影薄のことを是非とも本人に伝えるべきなのでしょうな」 「えっ!?」  公孫賛の言葉を無視して強引に話を続ける陳宮の口から出た思いも寄らぬ言葉に彼女は完全に表情を崩し厭な汗をかき始める。 「ねねはまあ、ほんのこれっぽっち……、あくまでこの筆の毛先程度とはいえ心配してやらないこともなかったのです。しかし、白蓮はあのボンクラをこれっぽっちも気にしていなかったと本人に報告してやった方が良いと思うのです」  毛穴から吹き出る汗が公孫賛の頬を流れ落ちる。先ほどまでの余裕など公孫賛のどこにもなかった。 「ま、まて、あいつ……、一刀には言うな!」 「しかしですな。一応、あれでもねねの主人であるわけです故、伝えるべきことは伝えておかないといけなのですぞ」  陳宮は、ついぞ少し前まで顔を真っ赤にして公孫賛に牙を尽きたてんとばかりに唸っていたとは思えないほど理知的な表情を浮かべている。  その顔には公孫賛が失ったものが溢れている。 「ふふん、自業自得というものなのです」 「た、頼むから、な? 何か買ってやろう。だから……」 「では、恋殿に肉まんを山ほど献上していただきましょう」 「く、やむを得ないか」  公孫賛はそっと財布の中身を確認する。特に浪費癖もないが、貯蓄に邁進するというわけでもなく程よい金額が収まっている。 「それと――」 「……あわわ」 「へ?」  更なる要求をしようとした陳宮の声と被さる戸惑いの言葉……らしきものに公孫賛は視線を部屋の隅へと巡らせる。 「……え、えっと。ど、どどどどどうしたら」 「い、いつからいたぁ!」  驚いてしまって興奮状態になってしまったために公孫賛は思わず大声で問い詰める。 「……あ、あわあわ、あわわ~」  鳳統は吃驚したらしく眼を回してしまっている。それに合わせるように帽子まで弧を描くように動いているのが彼女の動揺ぶりを表している。 「お、驚いたのです。しかし、いつから……」 「あ、あにょ、その……あぅ」  なかなかしゃべり出せない鳳統はしばらく視線を泳がせた後、帽子のつばを両手で引き下げて顔を隠してしまった。 「…………あうう」 「え、えぇと……」 「影薄が威嚇するからおびえてしまったのです」 「してないって、……というか、影薄って言うな」  髪をかきむしりながら公孫賛はちらりと鳳統をみる。彼女は縮こまったままで動く気配がない。  鳳統も徐々に慣れてきたとはいえ、今は親しき者もいない。そのため鳳統が何を思っているか察しきれない。 「こういうときに限って一刀はいないんだよな。……はぁ」 「まったく。つかえんヤツなのです」  ぷりぷりと怒る陳宮とは対象に公孫賛は鳳統の扱いがわからず戸惑いのため息を漏らし、萎縮しきってしまった少女を宥ようという試みを行うため彼女は歩み寄ることにした。  † 「…………」  一刀は一切顔色を変えることなく厠へと赴いた。そして、そっと一人中へと入ると壁に手をつく。 「俺の馬鹿野郎」  周囲の人間に聞こえないよう声量は抑えたが、それでも力強くその言葉を吐き捨てる。同時に壁に付いていた手へと力を込めてぐっと拳を握りしめていく。 「本当にどうしようもない馬鹿野郎だ、俺は」  公孫賛より賈駆が病欠することとなったことについての詳細を聞かされたところで一刀は後悔していた。  賈駆の持つ特殊な体質については元々、少なくともこの外史にやってきたときには既に一刀は知っていたのだ。  かつての外史でも一刀は賈駆の体質に巻き込まれて大変な一日を過ごしたものだ。その時は不幸を被る理由について予測を立てていたが最終的にどうだったのかはよくわからなかった。 (……ううん。今回の俺なら大丈夫だと思ったんだけどな)  昨日の朝、公孫賛と賈駆に出会った際、賈駆の体質に関してそれなりに知っていた一刀が怪しいと思うことが起こった。  普通なはずの公孫賛にしては少々激しい事故が発生したのだ。  そこで、一刀はもしかしたらという思いがあり咄嗟に彼女に付き添うようにして一日を過ごそうと考えた。  幸いにも休養を取るために丸一日仕事から解放されており、ちょうど良かったのだ。  もちろん、大丈夫だろうという思いもそれなりに抱きながら……。 (そして、あの後すぐだ。そう、軍師会議だ)  賈駆とともに過ごし始めた一刀は確信した……彼女の体質が発現していると。そして、自分も巻き込まれていることに。  その後も案の定賈駆と過ごすことによって一刀は様々な不幸に見舞われることになった。 (割と軽傷で済んだような気もするんだがな)  完全にボロボロになるほどの被害ではなかった気がしなくもない。本当に不味い場合というのは武官連中が絡んでくるはずだからである。 「そんな中での一番の不幸はやっぱり……」  昨日の朝から夜まで通して考えた際、最悪な不幸だと言えるもの、それは余計な事を口走ってしまったことだった。  賈駆の不幸に関する体質を知っていることを悟られてはならないと一日中警戒はしていたのだ。  それにも関わらず、最後の最後で口を滑らせてしまった。 「いくら、頭がはっきりしてなかったとはいえ……俺はなんであんなことを言ったんだよ」  頭部を強打した影響なのか当時一刀の脳内ははっきりとしていなかった。それでも当初通り余計な言動を起こさないようにと立ち去ろうとした。  だが、間に合わなかった。彼女に核心に触れるような一言を残してしまった。 「くそ。下手すると詠は俺のことを……」  足から力が抜けて一刀は壁にもたれかかる。額をこすりつけ、瞳を閉じて歯を食いしばる。  どれだけ後悔しても、もはや後の祭り。もう終わってしまったことだ。だが、あの時と考えずにはいられない。 「まだ、俺だって纏まってないんだぞ」  貂蝉から聞いた記憶の表出。この世界に持ち越されたかつての外史の〝記憶〟――それは一刀とともに過ごした思い出の数々。  個人差はあれど、徐々に少女たちの心に刻まれていながらも隠されていたそれが姿を見せ始めていくという。 「間違いなく、俺の余計な一言が詠に与えられていた記憶表出までの猶予を縮めてしまったんだろうな……」  正直なところ賈駆はかなり賢く鋭い。一刀がぽろりと口から零した言葉だけで切欠を手にしてしまったのはほぼ間違いないだろう。  そして、その影響で記憶の表出が起こり――――。 「いや、いくらなんでも……考えすぎだよな」  否定の意思を込めて頭を気持ち強めに振る。  発想が飛躍して確証もないことまで考え始めていることに一刀は気がついたのだ。  早合点で決めつけていたが、よく考えれば昨日の事と今日賈駆が病欠したことが必ずしも繋がっているとは限らない。 「そうだよな……。まだ、どうなのか判断するには早いよな」  一人そう頷きながらも後で賈駆の様子でも見に行った方が良いと考えた一刀は仕事が一段落付いたら行ってみることにして厠を出た。 †  静まりかえった部屋の中、一人の少女が寝台の上で横になっている。普段纏めてあるとくさ色の髪は解いており枕の上に広がっており、服装は就寝時のものだ。 「…………」  寝込んでいる少女……賈駆は寝台に身体を横たわらせているが、その視線はずっと天井を見据えたままである。  董卓はそんな彼女の横で置物のように寝台の傍の卓上に座している眼鏡の横にある桶、その中を満たしている水から手ぬぐいを取りだして強く絞る。  手ぬぐいから滴る濁流が水面に波紋を起こす。そうして必要以上の水分を含ませないよう気を付けながら手ぬぐいを丁度良い状態にしていく。 「よし。……はい、詠ちゃん」  濡らした手ぬぐいを親友の額に載せる。ほんの僅かだけ賈駆の顔を覆う険しさが緩んだ気がする。 「……ん、気持ちいい」 「大丈夫?」 「うん。……ごめんね、月」  僅かに眼だけを向ける賈駆。その瞳は本当に申し訳ないと物語るように曇りを帯びている。 「だけど、目を覚ましてくれてひとまずはほっとしたよ」 「そう……ね」  微笑む董卓を見て賈駆が口元を僅かにひくつかせる。どうやら笑みを造ろうとしているようだ。 「急に倒れたときはどうなっちゃうかと思って、凄く心配したよ」  そう。昨日、賈駆は董卓との会話中突然倒れたのだ。それから今までずっと意識を取り戻すことはなく人形が横たえられているかのように微動だにしなかった。  董卓はその間ほとんど賈駆の傍にいた。  桶に水を用意するとき、近くを通った兵士に賈駆が政務を病欠する代役の者への連絡を頼んだときのみは流石に賈駆から離れていた。  だが、それ以外は賈駆に付き添っていた。 「ごめんね。月に、……心配かけちゃって」 「いいの」  再度申し訳なさそうな声色でぽつりぽつりとゆっくりとした口調で喋る賈駆に董卓は首を横に振る。 「詠ちゃんは、いつも頑張ってるって知ってるから。たまにはこうして身体をしっかりと休めてあげなきゃ」 「……そうかもね」  そう答えた賈駆は瞼を降ろす。その顔は穏やかさで満ちているように見える。  しばらくは二人とも口を開かない時間が流れる。珍しく、外からの音も聞こえてこない。静寂に包まれた部屋の中、董卓はじっと賈駆の顔を見つめる。 「ねえ、月」 「なに? 詠ちゃん」  未だ瞳を閉じたままの賈駆、その口調はやはり落ち着いている。だが、顔は無表情であり内包するのはどんな感情か……それこそ正か負か推し量ることはできない。  寝ているのではないかと思える程にぴくりとも動かない賈駆だが、その僅かに乾いている唇だけが動く。 「最近……、月は何か変なこと、なかった?」 「変なこと?」 「そう。こう、……見に覚えがないのに知っていることがあったりとかしない?」 「ううん、どうかなあ」  賈駆から視線をそらすと董卓は考え込むように天井を見つめる。視線の先に答えは書かれていなかった。  †  目の前には視線を一点に集中させたまま何度か瞬きをしている董卓がいる。  そんな親友を前にしている賈駆は内心では複雑な想いを抱いていた。  昨晩、賈駆の中に流れ込んでくるような……それでいて身体の底から沸き上がってくるようでいて激しい奔流のような感覚とともに現れたあり得ない記憶の数々。  もしも董卓にも同じような覚えがあれば、それはすなわち賈駆の中に刻まれた……いや、刻まれていると思しき記憶は彼女の勘違いでもなく、まがいものでもない正真正銘のものだという証明となる。 (少し……、怖いわね)  緊張のあまりに唾を飲み込もうとするが、ずっと寝込んでいたせいか渇き始めてしまっている喉は上手く唾液を流し込んでくれない。  董卓の答えが逆だったら、それはすなわち賈駆がどうかしてしまったということになる。  賈駆は期待と不安が入り交じった瞳を董卓へと向け続ける。  気のせいか、鼓動は高鳴り続けており顔が熱い、……これは、体調不良による発熱のためだろう。  少し纏わり付く汗が鬱陶しく感じるが、身体は気怠さのために安易には動かすことが出来ない。 「…………ん」  なんとか頭部は自由に動かせる。  それでも身体は重い。  まるで重装備をしたかのようだ。  自分はどうしてしまったのだろう、この先どうしたらよいのだろうか。そんなことを考えてるうちに時間は刻々と過ぎていく。  そっと頬に手を添えて思案を巡らせている董卓は未だに考えている。その仕草から賈駆は声をかけることにする。 「……どうやら、心当たりはないようね」 「う、うん。ちょっとわからない……かな?」  小首を傾げる董卓の表情からは本当にわからないのかどうか窺い知ることはできない。 「もうちょっと、わかりやすく話してくれないかな?」 「……そうね。えっと、月はさ、例えばそう、ずっと前にあいつと出会ったことはない?」 「それって……、ご主人様の事?」  一瞬、誰の事か察した董卓に期待感が膨らむが、落ち着きつつ改めて考えると普段からそれくらいは察してくれていることを思い出せた。どうも調子が出ないせいで思考回路の動きが悪いらしい。  また、冷静な判断に到達するのと同時に膨らんだ期待感は急速にしぼんでいく。  賈駆が数秒でそのような思考を繰り広げた後に董卓が言葉を紡ぐ。 「特にはないかな。ご主人様と出会ったのはやっぱりあの炎上する洛陽だったと思う」 「…………そう」  董卓の瞳は確かに戦乱の影響で荒れに荒れたかつての都を映し出しているように見える。  賈駆は普通に考えればあり得ないことがあり得ないことのままであったことに対する安堵、そして、心の片隅にある残念さを交えてほっと息を吐いた。  どうやら緊張の糸が切れたらしく、賈駆の意識は徐々にもやもやとした霞の中へと沈んでいった。  †  気がつけば賈駆は瞼を下ろし眠りについていた。昨夜からの険しいものではなく、どこか安心したような顔をしている。  親友の寝顔を微笑ましく思いつつ、董卓は手ぬぐいを再度濡らす。 「そろそろ水替えてこなきゃ」  賈駆の寝汗を耽る限りは拭い、再度絞った後に額に手ぬぐいを乗せる。  僅かに残っていた不快そうな空気が賈駆の顔から消えたのを確認するやいなや、何度も使用したことでもうそろそろ交換時期だと思われる水のみが残る桶を持って董卓は立ち上がった。  扉に向かいながら董卓は一度振り返る。賈駆が胸を上下させて規則的な寝息を立てている、非常に気持ち良さそうに寝ている。  それを確認して大丈夫だろうと判断した董卓は音を立てぬよう細心の注意を放ちながら部屋を後にした。  早く部屋に戻るため、少々早足で進んでいく途中で董卓は先ほどのやり取りを思い出し首を傾げる。 「……それにしても、詠ちゃんどうしたんだろう?」  急に何を意図しているのかわからない質問を繰り出した賈駆。普段の彼女らしくない、体調を崩しているのだから普段通りではないにしても突飛すぎる。 「でも、ご主人様との出会い……か」  思い描くは混乱によって覆い尽くされた当時の都。董卓もその頃はまだ今のようになるとは思ってもいなかった。  彼女の危機に颯爽と現れた少年によって助けられなければ一体どうなっていたのか、正直想像したいとは思わない。 「そういえば……」  一刀との出会いを思い出して気付く、あの時、少年は董卓に対して非常に申し訳なさそうにしていた。改めて思い返してみると彼はまるで同じ過ちを繰り返してしまったようにも見えなくはなかった。 (でも、どうして?)  連合とのいざこざに匹敵するようなことは董卓の知る限り無かったように思える。例外を言え黄巾の乱だが、その時に董卓同様に組織の上に立っていた人間は彼女が保護した。  つまり一刀があの時と同じような経験をする機会などなかったはずなのだ。そもそもそんな話など誰からも訊いたことがない。この世界に来た彼を拾ったということで長く共にいたはずの公孫賛からすらも。 (へぅ、よく考えたらご主人様のことって知らない部分が割とあるんじゃ……)  この世界に来てからのことは本人も含めいろいろな者たちから話を聞いていたがそれ以前のことはあまり聞いたことがない気がする。  何故そんなことに気がついたのだろう。それもこんな急な形で、董卓自身驚きを覚えながら。 「あ、そうだ……、って、それよりも早く水を汲みに行かなきゃ」  一瞬、ちょっとした思いつきがあったが、首を振ってすぐに余計な思考を断ち切る。そうして一度頭の中をすっきりさせると董卓は駆け出した。  それから董卓は水を汲んで部屋に到着するまでまったく考え事はしないようにした。  戻ってすぐにこの日もう何度目かの手ぬぐい交換を行っていく。  完全に熟睡している賈駆の額に濡れ手ぬぐいをそっと置くと、董卓は寝台から僅かに離れて先ほど思いついたことをする。 「もう、着ることはないと思ってたんだけどな……」  手に取ったそれは一刀に救出されるまで着ていた服。  今でこそ、一刀から受け取っためいど服なるものを常時着用することで通しているが、元々はそちらの服を着ていたのだ。  賈駆の言葉を切欠に過去を振り返っていくうちに無性に着てみたくなったのだ。 「でも、着たからと言ってどうもしないよね」  広げた服を見ながら董卓は苦笑を漏らす。何を考えているのだろうと思ったらおかしくて仕方がなかった。  なにしろ過去を懐かしんでというよりも賈駆が言いたかったこと、それを知る手段になりうると思ってしまったというほうが理由として大きかったのだ。 「でも、今は詠ちゃんの方が大事だもの」  誰にでもなくそう呟くと董卓は再度看病に戻ることにして、賈駆の傍に腰掛けるため服を一旦置くのだった。 「着るのは後でも良いもんね……」  そう呟きながら董卓は夜にでも着てみようと密かに決めるのだった。