玄朝秘史  第三部 第十七回  1.吾子  漢中の城内、その一室は、華やかな歓声で満たされていた。  その中心にいるのは、一人の赤子と、一人の幼子(おさなご)。  きゃっきゃと二人が戯れる様を、周りの皆が明るい笑顔で見守っている。  部屋に火が入れてあるためになにを着せてもむずがって脱いでしまう赤ん坊は、それでもおくるみをひきずって、かわいらしい女の子――璃々の小さい体に抱きつくようにしていた。まだ一人で立つのは難しいのだろうその体を支え、璃々は必死で踏ん張っている。 「ほら、千年ちゃん。こっちこっち」  璃々の力がそろそろ抜ける頃合いを見計らったか、単純に自分も加わりたくなったか、濃い桃色の髪をした女性が手をたたいて赤子を呼ぶ。  白い袖が、手の動きにつれてひらひらと揺れる。その袖に金糸で縫い取りされた翼が光るのに気づいた赤ん坊は璃々から手を離すと、床に四つん這いになった。途端に、驚くべきはやさで四肢を動かして、彼女に突っ込んでくる。 「はやっ」  驚きながらも抱き留め、よいしょと持ち上げた人物こそ劉玄徳。腕の中で笑い続ける赤ん坊に、字の一部を名前として与えた女性。 「はいはいでどこにでも行こうとするので、困ります」  母である桔梗が千年を受け取り、苦笑いを浮かべる。千年がその胸に頬をよせ安心するように微笑むのは、やはり母の香りや体温が一番馴染み深いからであろう。 「まだ、歩くのは無理か?」 「なにかにつかまってなら立てるし、わしの手をもって歩きはするが、まだまだはいはいが楽な様子」  美しい黒髪を振り振り、興味深げに覗き込んでくるのは愛紗。蜀の面々で子を産んだのは桔梗と紫苑の二人だが、璃々は母が愛紗達と合流する頃にはしっかりと受け答えが出来るほどに育っていたので、赤ん坊の頃から見知ることとなる千年に感心があるのかもしれない。  一方、千年を桔梗に預けた桃香はにこにこと笑って娘の様子を見つめている紫苑に近づく。当の璃々は千年が離れてからは鈴々と遊んでいた。 「紫苑さん、璃々ちゃんは大丈夫?」 「ええ、皆さんに会えるので興奮しすぎたんでしょう。もうすっかり熱は下がっていますが……」  実を言えば、桔梗と紫苑、それにその娘達は、成都まで戻る予定であった。しかし、漢中にさしかかったところで璃々が熱を出し、急遽四人は漢中で滞在を続けることとなったのだ。  桃香達もいずれは洛陽へ向かう予定だったこともあり、伝令のやりとりを経て、この漢中に皆が集まる運びとなった。歴戦の武将である面々はともかく、幼年の千年や璃々にとっては負担が少ないほうがいいだろうとの判断もあった。  二人は、背の小さな鈴々に掴まえられてぶんぶんと振り回され、きゃーきゃー騒いでいる璃々の姿を眺めやる。母たる紫苑の顔にも、桃香の顔にも温かな笑みが浮かんでいた。 「まあ、あの様子なら大丈夫かな?」 「はい」  そうして、武将達と子供たちの遊びは、会議場の準備を終えた朱里と雛里が呼びに来るまで延々と続いたのだった。 「なあ、桔梗」  次の間に控えていた侍女達に璃々と千年を預けて部屋を出た一行の中で、一人、愛紗が首をひねっていた。一本結い上げて長く垂らした黒髪が大きく揺れている。 「ん?」 「あの侍女たち、武術の心得――それもかなりのものがあるとみたが、お主のつけた護衛か?」  子供達を預けるわずかの間で見抜いたのはさすが関雲長というところか。事実、侍女達と長く時間を共にしていたはずの桔梗は大きく頷いて、彼女の見立てを肯定した。しかし、それに続いた言葉はさすがの関羽をも唸らせるに十分なものだった。 「ああ、護衛は護衛。千年と璃々の安全のためにな。ただし、つけたのはわしではない。あれは曹魏の親衛隊ゆえ」 「なに?」  思わず得物の柄に手をやろうとした彼女を制したのは、もう一人の母親のたおやかな手だった。 「気色ばむことはないわよ、愛紗ちゃん。華琳さんの気遣いですもの」 「気遣い、ですか?」  口を挟んできたのは大きな帽子のつばを押さえた女の子。蜀の頭脳の片割れ、雛里だ。 「そうだと思うわよ。私たちだけじゃなく、国内への気遣いも含めてですけどね」 「国内?」 「ええ。曹魏としては、大使として呼んでいた者の身内が、その帰路に害されるようなことがあるのは威信に関わるというのがまず一つ。次に、千年ちゃんの父親の問題が一つ」 「父親……。一刀さんですよね?」  不思議そうに小首をかしげるのは桃香。一刀の存在が重要なものであることはわかっていたが、実際にはどれほどのものか、彼女は未だに実感できていなかった。 「そう、まさにそこが問題なのですよ」 「魏が大使なんぞを始めた頃のことを思い出せばよろしい。体のいい人質ではないか、とさんざか騒ぐ者がおりましたでしょう」 「うん、まあ……」 「同じように、北郷一刀の娘を蜀に人質にとられてはかなわん、と無駄に気を回す者が魏にもおるというわけで」  あほらしい話です、と付け加え、かははっ、と桔梗は豪快に笑い飛ばす。 「そういう疑念を一蹴するためにも、華琳さんは腕利きの親衛隊を私たちにつけてくれたんだと思うわ。もちろん、個人的な友誼のあらわれとしても」  紫苑と桔梗の解説に、一同はそういうことかと納得の表情を示す。しかし、愛紗は渋い顔を隠さなかった。 「しかしなあ。他国の親衛隊員を、桃香様もおられる城の奥深くに入れておくというのは……」 「不安ならば、それとのうあやつらを見張らせておけばよい。わしとしては千年の警護が増えて大助かりというもの」 「もう、桔梗ったら」  余裕の母親組に対して、じっと考え込んでいたらしい少女が顔をあげて愛紗に話しかける。金と栗色の中間のような髪を揺らす彼女こそ、蜀の第一の頭脳、朱里だ。 「間諜を入れるならば、本職を入れるでしょう。城内の兵も多数おりますし、そう気にすることはないかと。そもそも、ここには――棟はちがいますけど――元から田豊さんもいますし」 「ふむ。朱里がそう言うなら……」 「愛紗は相変わらず心配性なのだー」  しかたない、というように頷く愛紗を混ぜっ返す鈴々。こらっと声をあげる愛紗の声も、どこか笑いを含んでいた。  そんな風にじゃれあうようにして、彼女達は会議のための部屋へと歩いて行く。  2.前将軍 「じゃ、はじめよっか」  一同が席に着いたのを見て、皆に囲まれるようにして上座に座る桃香が言った。  それを受けて、ほとんどの者の表情が引き締まり、場の雰囲気が明らかに変わった。変わらないのはいつものほほんとしている鈴々くらいのものだ。  洛陽から帰還した者、涼州の様子を知る者、荊州での争乱を目にしてきた者。それぞれに報告が行われ、わかりにくい部分を朱里や雛里が補い、かみ砕いて説明していく。  報告が一段落したところで、彼女達は自由に発言をはじめた。 「荊州刺史に水鏡先生を置くことで安定をはかり、北伐はひとまず成功として継続……というのがあちらの大方針のようですね」  すでに様々な情報を得ていたであろう大軍師朱里は驚きなどの感情を見せることなく、淡々と魏の態度を分析していく。 「ええ。我が方としても荊州については反対することもないし、北伐に関しては当初の予定通りに協力する、という姿勢を示してきたけれど……」  大使として派遣されていた紫苑が、同じ立場の桔梗と目線を交わしながら答える。 「私はいいと思うけど。どうかな、朱里ちゃん、雛里ちゃん」  それまで言葉少なにじっくり聞いて考え込んでいたらしい桃香は、顎にあてていた指を離して二人の軍師に目をやった。 「私も、いまのところは、それでよいかと思います」 「水鏡先生なら問題ありませんし……。ただ、北伐、特に西涼の計画の進め方に関しては、注意を払う必要があるかと思いますが」 「そのあたりは、星さんとも話してみてからですね」  軍師の二人は慎重な姿勢を崩すことなく、しかし、大筋では桃香に賛成の意を示した。 「そっか。じゃあ、ひとまずはそれでいいのかな。涼州での戦に関しては、翠ちゃんともよく話したほうがいいね。えーと、あとは華琳さん次第かなー。ともかく、洛陽に行かないとだめなことも多いねー」 「しかたないですね。華琳さんたちはもちろんのこと、蓮華さんたちとの足並みもありますし……」  うーん、と唸りをあげて困ったように腕を組んでしまう主をなだめるように雛里が細い声をかける。  実際、彼女達の事情だけで決められることは少ない。大まかな指針を決めておき、細かい部分は話し合いで詰めていくしかない。それは桃香達に限らず、呉や魏の立場でも同様だ。  そんな中、すっと一つの手が挙がった。その抜けるような白い指に皆の視線が集まる。 「紫苑さん?」 「もう一つあるんですの」  名を呼ばれた紫苑は立ち上がり、その袖から一巻きの竹簡を取り出した。卓の上を滑らせたそれを、桃香が受け取り、開いていく。 「関羽を前将軍として洛陽に招きたい……? 愛紗ちゃんを前将軍につけたいって文だね。あれ、でも、華琳さんの署名じゃないなあ?」  桃香は確認するように何度か見直してから、それを横に座る愛紗に渡す。自分の名前が出たことで、愛紗は食い入るようにそれを読み始めた。さらに隣の雛里が体を傾けて、愛紗の頭の後ろから文章を覗き込んでいた。 「それは、魏の意向ではなく、朝廷の意向ですからな」  おかしいなあ、と変な顔をしている桃香に、桔梗は種明かしをするように告げる。その言葉に朱里の顔から表情が消えた。 「朝廷? そっか、朝廷……うーん」  主である桃香が黙り込んでしまい、しばしの間、沈黙が支配する。それを破ったのはお茶菓子をぱくついていた鈴々だった。 「その前将軍ってえらいのかー?」 「左右前後は漢朝でも由緒正しい将軍号よ。さすがに大将軍や車騎将軍などには及ばぬが四征将軍、四鎮将軍に勝るとも劣らぬ格式。とはいえ、そもそもこのような高位の将軍は、なかなか任命されぬものだが……」 「たしか、左将軍に恋さん、右将軍に華雄さんがついていらしたかと……後将軍はいまのところいないはずです」  桔梗の解説に、雛里が付け加えるが、鈴々の表情は得心からはほど遠かった。 「ふーん」 「わかってないな、鈴々」  生返事の義妹に苦笑を向けつつ、愛紗は読み終えた竹簡を雛里と朱里に渡す。二人の軍師は一字一句を確認するように、額をよせて読み始めた。 「しかし、前将軍か。しかも、この様子だと私を洛陽に置いておきたい様子」 「将軍号はともかくとして、それが問題よね」 「北伐には参加することだし、しばらく洛陽にいるのは許容範囲ではあるが……」 「でも、愛紗ちゃんにずっと洛陽にいられるのは厳しいと思うんだよね」 「半年、一年程度ならともかく、それ以上を望まれるのは困りますな」  指名されている愛紗を中心に、再び場に意見が飛び交う。桃香、愛紗、鈴々の三義姉妹は実質的にも精神的にも蜀の中枢であり、象徴だ。それを何年も他国にやるというのは大きな問題となる。北伐のような一時的な遠征とわかっているものに派遣するのとは訳が違う。 「そもそも朝廷が私を……。どうしたいのだろうな?」 「やっぱり、なにかあると勘ぐってしまうわよね」  こつこつといらだたしげに指で卓を叩く愛紗に、苦笑気味に紫苑が返す。それに続けて桔梗もまた薄い笑みを唇にのせていた。 「恋にしろ華雄にしろ、黄巾の前より官軍の将軍。以前の大将軍何進の配下、後には洛陽に入った月たちの配下としてあったからこそ、左将軍、右将軍を賜ったのだろう。しかし、愛紗は桃香様の配下。そこに前将軍をいきなりというのは……ちと、な」 「あちらからいい条件――この場合は高位の官位――を出すということは、やはり、それなりの見返りを求めていると考えるのは当然かと思います……。といって無下に断るというのも……」  書簡を読み終えたらしい雛里も同意の言葉を呟く。話を聞いている桃香の顔は困ったように歪んでいた。 「白蓮ちゃんの例もあるしね……」  彼女にしては珍しく、ぼそぼそと歯切れ悪く幼なじみの名を呼ぶ桃香。  かつて白蓮が密勅を受け、それを断った――実質的には麗羽によって破棄された――ことで、有形無形の圧力を蜀は受けることとなった。それによって白蓮を追放せざるをえなかった過去を皆が思い出していた。  名実ともに、現在の朝廷に力はない――そう言い切れるのは、大陸を支配している魏の面々だけであろう。  実際の兵権、経済力などを鑑みれば朝廷の影響力は非常に小さい。しかしながら、名分という意味での存在感は蜀、呉にとっては無視できないほどに大きい。  たとえば、官位の問題がある。各国はそれぞれ独自の官位を持つが、それらは漢の伝統的な官位に比して格式が落ちる。また他国との折衝などにも公的な官位、つまりは漢朝の官位が必要とされてくる。このため、高官ほど国の官位とは別に漢朝の官位を持つ必要が出てくるのだが、それを認可、授与するのは朝廷に他ならないのだ。  これが魏であれば、形式的に華琳が朝廷に『推薦』することで、どんな官位も引き出すことができるだろう。しかし、洛陽を抑えているわけでもなく先の争乱でも魏に負けた、いわば地方政権たる蜀、呉にそこまでのごり押しは難しい。  そのためある程度までは朝廷の顔色を窺う必要が出てくる。  もちろん、これを断ったとしても朝廷側の嫌がらせがあまりに無法であれば丞相たる華琳が見とがめる可能性も高い。だが、政治的に言えば魏の庇護を得ることが常に良いとも限らない。 「まずは華琳さんに相談する必要もあるかなぁ……。朱里ちゃんはどう思う?」  桃香はそれまでずっと黙って書簡を読み込んでいた朱里に話をふる。彼女は書簡の文言で気になる部分があったのか何ごとか書き写す手を休め、顔をあげた。 「ええ。華琳さんともお話しする必要はあるでしょう。ですが、その前に少しよろしいでしょうか」 「うん。どうぞ」 「紫苑さん、桔梗さん」  桃香の承諾を得て、朱里は立ち上がり、その小さな背を精一杯伸ばすようにして書簡を持ち込んだ二人の大使に声をかけた。 「この書簡、朝廷の方から渡されたんですよね?」 「ええ」 「そして、華琳さんたちも別に咎めたりはしなかった?」 「おうとも。魏の軍師どもも知っておる様子だったが、なにも言わなんだぞ」  二人の答えを予期していたように、朱里は大きく頷き、右手を顎にあててぶつぶつと呟きはじめる。 「やはり、そうですか……。まあ、将軍号くらいは構わないと思ったのでしょうね。あまり締め付けても逆効果ですし……」 「朱里ちゃん?」  呟きが長く小さくなり、ついに誰にも聞き取れなくなったあたりで、覗き込むようにして雛里が声をかける。それがきっかけだったかのように、朱里は視線を戻し、皆を見回すように話し出した。 「先ほどの皆さんの推測は正しいと思います。朝廷にはそれなりの意図があって、愛紗さんに高位の将軍を与えようとしているのでしょう。華琳さんたちは呉への各官位の授与に伴って蜀へも恩を売っておこうと朝廷が画策している程度に考えているものと思います」  しかし、と彼女は低い声で言い切る。その声の鋭さに、思わず雛里が息を呑んだ。 「たぶん、華琳さんたちも気づいていないことがあります」 「なんだと?」 「朝廷といえど一枚岩でないことはわかっていると思いますが、その中でも、漢王朝の存続を望む人と、今上をもり立てることを望む人とは、別だということです」  彼女の言葉に、はっとしたように雛里が表情を変える。しかし、それ以外の大半の者はぴんとこなかったようで、紫苑がかろうじて推測を述べただけだった。 「派閥争いということかしら?」 「違います。もっと根源的な話です」  朱里はその反応に少し視線をさまよわせていたが、小さくうんと頷いて話を続けた。 「それでは、最初から説明しましょう。皆さん、光武の中興についてはご存じですよね?」  その問いかけに、視線がお茶菓子をぱくついている赤髪の少女へと向かう。皆、知らないとすれば彼女だろうと思ったのだろうか。しかし、鈴々は得意そうに笑って答えた。 「劉秀っていうおっちゃんが、悪者王莽とか、ばったばったといろんな勢力をなぎ倒して、皇帝になるお話なのだ」 「まあ……大筋では間違ってはいないな」  色々と言いたいことがある愛紗であったが、細かいことを指摘してもしかたないだろうとそれ以上は言わない。 「よく知ってるね、鈴々ちゃん」 「旅芸人の人が色々話してくれたのだ」  遡ること約二百年。漢朝を劉氏より禅譲された王莽は新たな王朝、その名も新を打ち立てた。しかし、対外政策の失敗などを積み重ね、王朝は崩壊。その後に起きた混乱の中、最終的に漢の宗室の一員であった劉秀――後の光武帝――が天下を平定し、それによって漢を再興させた。  この一連の出来事は演劇や講談にもってこいの題材となり、項羽と劉邦の物語には負けるものの、そこかしこで演じられていた。鈴々が聞いたのはその一部であったろう。 「鈴々ちゃんも概要はわかっているようなので話を続けますね。知っての通り、光武帝の中興により、漢は再興し、現在まで続いています。しかし、そこで帝の座を占めたのは、まさしく光武帝の血筋でした」 「当然と言えば当然だな」 「はい。しかし、一方で、光武帝から発する血統以外の劉氏、たとえば光武帝自身の祖である景帝から分かれた桃香様の血脈などは、この光武帝王朝では重視されていません」  不意に名前を出された桃香だったが、当の本人は軍師の説明に小さく不審そうに首を傾げていた。 「……景帝?」 「桃香様の遠い祖、中山靖王の、そのまたお父上が景帝です、桃香様」  愛紗が耳打ちすると、ぱあっと顔が明るくなり、笑顔になる桃香。 「あー、あー。そうだったそうだった」  こほん、と朱里が小さく咳払いをする。 「ともかく、光武帝の血筋を重視するならば、現在の帝をもり立てるのが一番です。もちろん、漢王朝という大きなくくりで見ても、それが一番でしょう。しかし、漢王朝を守れるならば別に光武帝の血筋にこだわる必要はないと考える人達も、またいます」 「ああ、それで漢王朝の存続を望む人達という話をしたのね?」 「そうです。劉邦の血筋とそれを支える官僚機構という仕組み、これらを守ることを望む人達もいる。それらの人々にとってみれば、皇帝の座に座っているのは今上でも構わないし、それがうまくいかないのならば、他の劉氏でも構わないんです」  そこで朱里は言葉を切る。彼女が唱える説が腑に落ちた幾人かが、その目を細め、剣呑な光を宿し始める。中でも桔梗と愛紗は心底嫌そうに顔をゆがめていた。 「たとえば、桃香様のような、か」 「つまり、私を宮中に止めるのは、いざという時には……桃香様を……」 「おそらくは」  二人の硬骨の武将の言葉を受け、朱里もまたなんとも言えない苦渋の表情で答える。 「現状の光武帝系列一色の皇族中ではさほど重視されないにしても、漢王朝という意味では、高祖劉邦の血を引くという点で光武帝系列も景帝やその他の帝の子孫も等しく天子の位を担うにふさわしいですから。なにより、桃香様には蜀という国の後押しがあり、実際の兵権を持たない朝廷にとっては是非とも引き入れたい『味方』でしょう」  それは推測だ。しかし、蜀の頭脳がもたらす推測だ。  これまで彼女達は朱里や雛里の頭脳の冴えをさんざん見てきている。その身からすれば、彼女の推測が完全なる正解とは言えないまでも、ある程度の確度を持つものであろうと信じる他なかった。  なによりもその論理の運びは、諸将を納得させるのに十分すぎた。  だから、場は沈黙に落ちた。朱里が席につく音だけが部屋の中に響く。その中で、一人、朱里に匹敵する知謀を持つ雛里だけが言葉を紡ぐことができた。 「つまり、愛紗さんが前将軍を受け、洛陽に居続けるとなれば、これは蜀と朝廷の関係を強め、一方で魏との対立を招きかねない……。そういうことだね、朱里ちゃん」 「うん。すぐに桃香様を利用しないまでも、愛紗さんなら、そこに居るだけで魏への牽制として有効だからね」 「じゃあ……受けないほうがいいってことかな」  おずおずと訊ねかける桃香に、雛里が振り向く。 「しかし……先ほど桃香様が仰ったように、白蓮さんの事もあります。ここで朝廷を刺激するのが得策かどうか……」 「それはそうだが、しかし、陰謀があるとわかっていて……」  これは愛紗。彼女の言葉をきっかけに、再び侃々諤々議論が始まる。その言葉のやりとりを遮ったのは、一人の少女のよく通る元気の良い声だった。 「そんなに難しく考えることないのだ」 「鈴々ちゃん?」 「くれるというならもらってしまえばいいのだ」 「いや、鈴々、お前な」  あっけらかんと言う鈴々に義姉二人が声をかける。しかし、彼女達二人の言葉をそれ以上言わせない迫力が、その小さな体には秘められていた。 「それで、もし、それにかこつけて愛紗やお姉ちゃんに悪いことをするって言うなら」  ちろり。その真っ赤な舌先が、唇に水気を補給する。 「鈴々がそいつらを成敗してやるのだ」  沈黙。  しかし、その沈黙は、そこに流れる温度は、先ほどのものとは確実に異なっていた。  そのあたたかな沈黙を破るのは、これもまたあたたかな笑い声だった。 「はっはっは、さすがは燕人張飛。その意気やよし。愛紗に背負わせるなら、我らも覚悟をせいということか」 「うーん。でも、ちょっと無茶がすぎるのではないかしら……?」 「いえ……その、それも、手かもしれません」  小さな、しかし、はっきりとした声が肯定するのに皆の視線が集中する。一気に注視された雛里は顔をほのかに赤らめつつ自分の考えを明らかにしていく。 「前将軍を受け、一方、北伐で近くにいる者たちで愛紗さんがおかしなことに巻き込まれないよう援護をする。それができれば……」 「そうかぁ。大変そうだけど、ただ断るよりはましなのかもしれないね……」  自分の思考に入ろうとする桃香に、朱里が付け加える。 「いずれにせよ、結論はまだ先にしてよいでしょう。洛陽に向かい、魏、呉とも密かに計る必要があります」 「そうだね。華琳さんや一刀さんとも相談しないとね」 「北郷さん……ですか?」  不意に出てきた名前に朱里がびっくりしたように聞き返す。桃香は慌てたように大きな手振りで早口で答えた。 「え、あ、うん。ほら、一刀さんのところには、詠ちゃんやねねちゃんもいるわけだし」 「たしかに……。漢朝を相手にするならば、詠さんたちに聞くのも大事ですね」 「そうそう!」  勢い込んで頷く桃香。主の受け答えにけして不自然な部分はないというのに、なぜかはぐらかされたような気がしてしまう大軍師なのであった。  3.北原  白茶けた大地。  その色づけをしているのは、地に落ちてそのまま凍りついた雪であり、それを割り破って転々と存在する枯れ草だ。薄い氷雪の層の下に見える原野の茶色はあまり目立たず、枯れて白に近くなった茶の方が、なぜか目をひく。  彼女はそんな光景を小高い丘の上から眺めつつ、杯を呷る。ぬるく温めた酒が喉を通りすぎ胃に落ちると、かっと体を燃やす。その感触が楽しくて、彼女は酒杯を傾ける手を止められない。  自身の後背に近づく気配は感じていた。だが、武器に手は伸びない。それは極々近しい者の発する、馴染み深いものだったから。 「こんなところにおられたのですか。風邪をひいてしまいますよ。霞さま」 「明日には戻らなあかんからな。この景色とおさらばする記念に飲んどるんや」  声をかけてきたのは、きまじめな顔つきの武人。積み重ねてきた戦の痕を示す傷の数々を見れば、誰もがその人の正体を悟るだろう。  北伐右軍大将楽文謙こと凪は、酒を飲む手を止めない霞の答えに首をひねる。 「しかし、何週間か後には、戻ってくるのですよ?」 「そんなんわかっとるがな。せやけど、戻ってきたら、もう春やろ? やっぱなあ、こう冬の寂寞っちゅうかなあ。わかるやろ、白馬長史」  杯を持った手でぐるりとあたりを指し示し、霞はもう一人、凪の横に立つ人物へと声をかける。白い鎧と、赤髪を束ねたその姿こそ、白馬長史こと白蓮その人だ。 「んー、私は……。幽州の風景と似てるから、慣れてるっていうか、そこまで……」  言葉の通り無感動に風景を眺める白蓮。彼女にとって雪に覆われた原野というのはそう珍しい情景ではない。生まれたときから北方異民族と――様々に――関わってきた彼女にとって、それが示すのは寂寥や静寂ではなく、春へ続く希望そのものだ。  その点、白蓮と霞とでは受け取り方がまるで違っていた。 「かーっ、これやから……」 「とはいえ、もう帰る用意も出来ているし、酒につきあうくらいはしてもいいけど。私は、な」  そもそも、この二人は帰還の用意が出来たことを確認するために霞を捜していたのだ。霞は二人より先に用意を終えてしまっていたので、彼女を待たせていたと言ってもいい。 「お、そうか。じゃ、凪も、な?」  ぱっと明るくなった霞に笑いかけられ、凪は困ったように白蓮のほうを見る。霞の猫のような笑みをまっすぐ見返せていないところからして、既に分は悪いように見えた。 「え、いや、しかし……」 「ここに天幕を張らせよう。吹きっさらしじゃなければ、ましさ」 「……お二方がそうおっしゃるなら……」  そういうことになった。  部下達によって指揮官用天幕が移され、入り口から先ほどの原野の景色を眺めながらの酒盛りがはじまった。凪お手製の料理――凪は自身の皿には調味料をどばどば加えていた――を肴に飲んでいた三人であったが、しばらくすると、凪の様子がおかしくなってきた。 「白蓮さまは、ずるぃのですよ……」 「え? え?」 「隊長のお側にずっといて、しかも、ほんごーろくりゅーきとか言われて!」  唐突に絡まれて驚き顔の白蓮であったが、凪の投げかけた言葉に、思わず顔を赤らめる。 「……いや、あれは真面目に恥ずかしい呼ばれ方で」 「知りません!」 「えー……」  なぜかぺこぺこ頭を下げながら説明してみたのだが、むくれた凪にぷいっと横を向かれてしまう。その様は、普段の真っ直ぐな凪しか知らない白蓮にしてみると新鮮この上なかったが、もちろん、それを楽しむ余裕などあるわけもない。 「霞さまだって、ずるいです。いつの間にか隊長の部下になっているし!」 「なんや次はこっちかいな!」 「ずるいです! 霞さまがなんではいってくるですか!」  ろれつの回っていない責め口上に、苦笑する霞。彼女はつい手を伸ばして凪の頭をなでてしまう。 「いやー、凪はほんまかわええなあ」 「ごまかさないでください!」 「いやー、うちは、ほら、昔の董卓軍の流れっちゅうんがあるわけで」  にこにこしながら答える霞を、白蓮ははらはらしながら見守っている。凪は言葉に会わせてその手をぶんぶんふるっている。手甲をつけていなくともその拳がもし当たれば、かなりの手傷を負うのは間違いない。しかし、霞がよけているのか凪が無意識に当たらぬようにしているのか、その手は霞の膚をかすることもなかった。 「ずーるーいー!」 「せやなあ」 「隊長のばかーっ!」 「うんうん、一刀はあほやなあ」 「ちあいます、隊長はすごい人です!」 「せやなあ」 「ちゃんと話を聞いてくらさい!」  そんな風にさんざん叫んだ後で、凪はこてんと倒れてしまった。霞が敷物を彼女の上にかけてやり、白蓮が出入り口を閉めて風が吹き込まぬようにした。  その後で白蓮は席に戻ったが、その顔はいつまでも持ち上がらなかった。 「どないしたん。きもちわるいん?」  何ごとか寝言を呟き続けている凪の頭をなでてやりながら、霞は下を向いた白蓮を覗き込むようにする。彼女の顔はあがったものの、深刻そうな表情は変わらなかった。青ざめた顔で、眠りについた凪を凝視している。 「……私たちは邪魔に思われていたのか……な?」  その言葉を聞いた霞はぽかーんと口を開け、次いでそのまま腹を抱えて笑い始めた。 「わ、笑うなよ」 「そんな、言うたかて、あはは、笑わずにはおられんちゅうの」  ひとしきり笑った後で、あー、おかしかった、と目尻にういた涙を拭う。彼女は、にやにや笑いを顔にへばりつかせたまま、白蓮に向かってずいと身を乗り出した。 「なに本気にしとんねん。酔っ払いの愚痴やで。それともあんたも酔ったんか?」 「いや、そこまで酔ってはいないつもりだが……」  ぱかぱかと杯をあけていく霞と比べれば、白蓮の飲んだ量は遥かに少ない。凪は生来の無口も相まって、霞と白蓮が話し込んでいるうちに酒が進んでしまったのだろう。 「あんな? 凪たち自身が偉なってしもて、あんまり一刀の側におられんやろ? 昔は凪、沙和、真桜の三人はいっつも一刀と一緒におったんよ」 「ふむ?」  笑いを含んだままではあるが、幾分か真面目な顔つきになった霞の言葉に、白蓮もまた注意を寄せるような顔つきになる。 「あの頃に比べたら色々あって一刀の周りに人も増えたし、一刀自身も警備から外されとるからな。寂しいんよ、こん娘らは」 「寂しい……か」 「まあ、要するにやきもちやな。かわいい嫉妬やんか」 「や、や、やきもち!? いや、私はそういうことにはなってないぞ!」  予想外の単語だったのだろう。白蓮の顔は途端に赤くなる。その首筋まで真っ赤な様は、けして酔いからくるものではないだろう。霞の笑みが再びにやにやと大きくなる。 「お、なんや。白馬長史はまだやったんか」 「お、お前といい、華琳といい、揃ってまだとか言うな!」 「なんや、華琳にも言われとるんか。まあ、でも、ちゃうで。凪のやきもちは上のもんと下のもんとの関係であって、男女のことやない。だいたい、一刀に限って言えば、そんなんいまさらすぎるやろ」  動揺して手を前に出し、ふるふると振る白蓮に対し、凪の髪をさらさらと弄びつつ言う霞の方はあっさりとしたものだ。その様子に毒気が抜かれたか、白蓮は結った髪をあえて揺らすようなやり方で首を振り、苦笑いを浮かべた。 「……魏の連中は底知れないな」 「ははっ。そないほめられても」  からからと笑う霞に、呆れていいのやら感心していいのやらどっちに振り切ればいいのかわからないというような微妙な表情でいた白蓮は、しかし、すーすー寝息をたてる凪を見やり、小さくため息をついた。 「まあ、でも、たしかに、一刀殿の下に移ってきて、自身、恵まれているとは思うよ」 「ほう?」 「蜀では、働きどころがなかったからな」  声を潜めて言う白蓮。その杯が空なのを見て、霞は酒を注いでやる。ついでに新しい酒を火にかけはじめた。 「んー? そんなことあらへんやろ?」 「いやいや、考えてもみろよ。魏と本格的に戦っていたころの桃香の軍には錦馬超も馬岱もいたんだぞ。うちの隊よりそっちが優先されるだろ。朱里や雛里の立場なら、私だってそうする」 「あー、まあ、そうかもなあ」  西涼騎兵との戦いを経験してきている霞としても、それを否定することはできない。しかも馬岱と馬超の部隊ならば連携もとりやすい。戦の流れの中で、より有利になる方を選ぶのは当然であろう。 「そりゃあ騎馬隊が複数あることは、戦術の幅を広げるのには役立つが、それだって、翠と蒲公英二人いればいいしなあ。結局、私は後始末というか、落ち穂拾いというか……」 「桃香と同輩っちゅうのんも関係しとったんかな」 「どうだろうな。そんなこと気にしてる余裕は、あの時の蜀にはなかったろう」  白蓮はどこか上の方を眺めるように顎をあげた。その焦点は、おそらくは過去に結ばれていた。 「あの頃の蜀は、兵の少なさを、将の多さで補おうとしていた。無理なことはわかっていても、五十万の兵に対するにはそうするしかなかった。そういう意味で考えると、武人としての強さを私に期待するのは……なあ?」 「あんたの場合、兵を指揮してなんぼやしな」  霞の言葉に、白蓮は曖昧に笑う。彼女はそれに答えるでもなく、言葉を続けた。 「しかも、戦後は大使だよ……。向いてなかったよ。毎日胃が痛くて」 「あはは。そりゃあ、うちの軍師ども相手やからな」  実際に胃の辺りをさすっている白蓮に、もっと飲めとさらに酒を勧める霞。 「それに比べたら……いまは楽さ」 「そか?」 「兵を動かして、北の民と渡り合うことだけ考えてればいいしな。私がずっとやってきたことだから」  こればかりは自信があるのか、白蓮はよどみなく言った。その様子が、霞にはなんだかおかしい。 「せやけど、うちといっしょに北に置き去りやで?」 「あの張遼と一緒に北方の抑えに選ばれたんだ。十分な信頼だろ」 「そりゃそうかもしれんけど」  からかうように言われ、霞は照れたように自分の頬をかく。 「それに……うん。凪がやきもちをやくのもわかるよ。一刀殿は……信じてくれてるからな」  さすがにこれには虚を突かれ、肴を口に運ぼうとしていた手が止まった。 「桃香たちが信じぃひんかったとは思わんけど?」 「違うよ。桃香も朱里も、みんな信じてくれた。でも、それは私という人間を、だ。裏切ることはないとか、そういうことだな。一刀殿は違う。あの人は、白蓮に任せておけば大丈夫とか、さらっと言うだろ?」  北伐第一波の後処理として、兵を北に置き、支配域の画定を行うことは必須事項であり、規定事項でもあった。  しかし、単于軍の圧迫と、一刀たち東進部隊によるその撃破は当初の予定を狂わせた。単于が討ち取られるという事態に陥ったことで鮮卑の各部族が大きく北に後退してしまったのだ。  これにより、元々、その地に住む部族を支配下に組み入れ、緩やかな支配を行うという前提が崩れ、空白地帯が生じてしまった。しかたなく、その地は緩衝地帯として触れないでおこうということになりかけたものの、そこに名乗り出てきたのが恋、華雄の部下として配されていた内烏桓たちであった。  彼らは後背に残してきた家族達を連れて、鮮卑達が去った地に移り住みたいと申し出たのだ。  この申し出は恩賞の一部として即座に許可された。  三国の側にしてみれば、元々部下としていた内烏桓が鮮卑達との防波堤になってくれればありがたいし、内烏桓の側にしてみれば、かつて強制的に移住させられた漢土から離れて、再び先祖伝来の遊牧の生活に入ることが出来る。お互いに利の多い取り決めであった。  もちろん、内烏桓たちがこの地で自立する危険性はあったし、内烏桓たちにとっては実質的な支配からは逃れられないという煩わしさはあったろう。しかし、それでも両者共に希望の持てる事態となった。  ただ、あわせて八千ほどの兵のうち四千ほどが抜けることとなった華雄と恋にとっては痛手だった――実際は事務処理を引き受けるねねが一番苦労した――し、監督の将を右軍以外にも置いておかなければならなくなった。  その時、一刀が推薦したのが霞と白蓮であり、白蓮の言うとおり、 『白蓮なら、烏桓の扱いにも慣れているし、大丈夫だよ』  と言ってのけたのも、また彼であった。 「私はそりゃあ烏桓とは関わりが深いけど……恨んでた過去だって知ってるのになあ、一刀殿は。無茶をさせると思わないか? ま、無理とは言わないけど……」  ぶちぶちと恨みがましいような口調で呟く白蓮に、霞は杯をあげて表情を隠そうとする。口調は愚痴のように思えるのに喜色満面な相手の顔を真っ正面から見ていると、にやにやするどころか噴き出してしまいそうなのだ。 「期待されるってのは……やっぱり違うな」  白い肌が朱に染まっているのは、酔いのせいだろう。けれど、座って呟いているだけの相手に、妙ななまめかしさを感じるのはなぜだろう。  自分が酔っているからではなかろう。霞はそう思う。 「そか」  彼女は短く答える。けれど、その声は柔らかであたたかい。その調子を感じ取ってか、白蓮もまたなにも答えず、ぐっと酒器を傾けた。 「せやな。認められるっちゅうのはええもんや。それが……」 「それが?」  意味あり気な目で見つめられ、白蓮は居心地悪そうに問い返す。しかし、霞の顔は途端にぱっと晴れ渡り、新たな酒を火から下ろし始める。 「ううん。なんでもない。さ、飲むでー。明日は帰るだけやからな。多少潰れたってかまへんやろ」 「おいおい、さすがにそれは……」  口では諫めつつ、白蓮も杯を乾すのを止めない。  そうして飲み続ける二人はとても上機嫌であった。  翌日、とてつもない頭痛を抱えて馬を走らせることになるとも知らずに。  4.亡霊  琥珀色に焼き上げられたその肉を口に運ぶと、舌の上でたちまちにとろけ、じゅわりと脂がしみだしてくる。噛む必要もないほど柔らかなそれを口の中で咀嚼して呑み込んだ途端、一刀の口からは絶賛の言葉がまろび出ていた。 「うまい!」  一刀が食した子豚のあぶり肉を調理した当の本人は、彼の称賛を真正面から受け止め、ゆるやかに丸まった金髪を軽く揺らす。  一方、その横に座る猫耳頭巾の女性は同じようにあぶり肉を口に運びながら、ふんと鼻を鳴らした。 「当たり前じゃない。華琳様手ずからの料理なんだから」 「まだまだあるわよ、稟たちも食べなさい」 「はい、いただきます。こちらの鹿肉もいいですね」 「美味しいですよー、華琳さまー」 「ありがとう、風」  十人も入ったら窮屈でしょうがない庵の、これも小さめの円卓いっぱいに並べられた料理に手を伸ばすのは五人。魏の覇王華琳と、その軍師、桂花、稟、風の三人、そして北郷一刀だ。  今日の主な献立は、子豚のあぶり肉、鹿肉の刺身、魚や海老がたっぷり入った粥に、馬肉の羹。他に野菜や果物はあるが、どちらかといえば彩りと考えた方がいいだろう。  その全てが華琳が料理したもので、どれも舌鼓をうつほどの美味しさであった。豚肉の脂っこさが気になったら、淡泊な――四足獣とは思えないほど――鹿肉を味わい、それに飽きたら、様々な味が込められた海と川の幸溢れた粥に手をつければいい。さらに、濃厚な味わいの馬肉の羹は体を芯から温めてくれる。  しばらくの間、五人は夢中になって食を進めていた。  腹もだんだんとくちくなりかけたところで、桂花が用意した酒――一刀に向けては、あんたのは毒だから、と怖いことをさらりと言っていた――を飲みつつ、ようやく会話が始まる。 「今後の北伐の総指揮を、麗羽に任せようかと思うの」 「……は?」  桂花の冗談を気にもせず酒を呷っていた一刀が思わずその杯を取り落とす。幸い、中にはもう何も残っていなかったのと、横に座っていた稟がすかさず手を伸ばして受け止めたおかげで卓の上を見出すことはなかった。 「ありがとう、稟」 「いえ」  この様子では自分以外には話が通っているのかな? 一刀は冷静に自分に杯を渡してくれる稟を見つつ、そんなことを思う。 「まあ、袁紹さんは仮にも大将軍ですからねー。丞相が担った役割を継ぐにはふさわしいでしょう」 「いや、そりゃあ、官位で言えば……」  のんびりと言う風。桂花もあまりいい顔はしていないものの、反対を唱えない以上、すでに三軍師は了解済みなのだという確信は強まる。 「まあ、華琳が決めたことなら大丈夫かな。俺も精一杯麗羽を支えるように……」 「それじゃ、だめですよー」 「え?」 「あんたねえ、ほんとわかってないのね」 「あー、ええっと?」  風と桂花、続いての否定に、彼は助けを求めるように稟を見る。稟は眼鏡をくいと上げ、その奥から深い青の瞳で見つめてきた。 「一刀殿。麗羽殿はいま、あなたの預かりですね?」 「うん。そうだな」 「つまり、実質上の総指揮官はあなたです。一刀殿」 「……え?」  思わず彼は視線をさまよわせる。にっこりと微笑んでいる華琳にそれが向いた時、彼女は――大陸を支配する覇王はさらに笑みを深くして宣告をつきつけた。 「そうよ、一刀。あなたよ。麗羽を支えるのではなく、麗羽を担いで実際にはあなたが、やるの」  ぱくぱくと口を開け閉めしながら、言葉が出ない。一刀は一度大きく息を吸い、呼吸を整えて再び華琳に問いかけた。 「……ええと、まずは理由を教えてくれないか?」  一刀の問いかけに、華琳は軽く肩をすくめる。 「ちょっとね、私は忙しくなりそうなのよ」 「忙しく?」 「朝廷がそろそろ動き出す頃かなあ、ってことですよ、おにーさん」  羹の中の馬肉をちょいちょいつついていた風が、相変わらず眠そうな表情でそう告げる。 「……え、いまのタイミングで?」 「たいみんぐ?」 「あ、いや。なんでもない。それで、なぜいま動くと?」  現代語を使ってしまったことに動揺する一刀。しかし、そのおかげで次に来た衝撃もぼんやりとしか感じることがなかったのは幸いだったかも知れない。 「あんたのおかげよ」 「俺の?」  ええと、これはいつもの桂花の軽口か? 一刀はぼんやりそんなことを思うが、とても本気でそれを信じることはできない。そう考えている間に、稟が話を始め、一刀は黙ってそれを聞き始めた。 「朝廷と我らが華琳様の丞相就任で、不干渉状態に入ってほぼ一年。華琳様の就かれた丞相という位は非常に強力ではありますが、それだけに危険を孕むものでもあります」 「丞相は栄誉職を除けば最高の官位だってところが要点ですねー。もし華琳様が成果を上げたとしましょう。そうすれば、これ以上の地位を与えることはできません。華琳様が上を望むとすれば昔の王莽さんのように専横を侵すことになります。つまりは簒奪の意志を示すというわけですねー。こうなれば朝廷にとってはしめたものです。やはり曹操は漢を奪おうとする奸臣であったと喧伝し、呉、蜀を扇動するつもりだったでしょうね」 「逆に、なにか重大な過失を犯せば、丞相位なんてすぐ返上しなきゃならない。まあ、華琳様はそんなこと気にしないからそれでもよかったんだけど、その過失を責めに責めるでしょうね」  軍師三人の続けざまの説明で、なんとなく華琳の置かれた立場を把握する。朝廷は手打ちを求めていたと思っていたが、その一方で罠もしかけていたらしい。 「今回の北伐なんてのは、そのどちらかを期待させる最たるものだったのよ。成功してもよし、失敗してもよし。いずれにせよ朝廷は私を悪役にできる。まあ、桃香や蓮華相手に実際、どれだけ扇動できたかは怪しいけれどね」  現実に桃香や蓮華を見知る一刀にしてみれば、そんな安易な扇動にのるとは思えないが、朝廷の人間が同じように考えるとは限らない。 「ともかく、朝廷の目論見としてはうまくいくはずだった。実質的な権力を持つ私に形式的に最高の官を与えて、ほくそ笑みながら失敗を待っていればよかったんだから」 「ところが、この一年の最大の機会であった今回の北伐、成功も失敗もしなかった。一刀殿のおかげで」  稟が言うのに、一刀は声を潜めて体を前に倒し、華琳にささやきかけた。 「なあ、華琳。俺は……責められてるのか?」 「違うわよ」  そんな二人のやりとりは一切無視して、稟は話を続ける。 「たしかに匈奴は支配下におきました。しかし、それは元々あった状態を強めたに過ぎません。さらには西涼をまとめることも出来ていない。我らから見れば危難を救っただけでも成果は十分と言えたとしても、失敗とも成功ともつかない状態では、扇動には利用できない」 「で、しびれを切らした朝廷は、別の手を打ち始めるのではないかなー、とそういう状況なのですよー、いまは」  風がまとめるように言うのを、一刀は残った粥をかきこみながら聞く。どうも腹に力を込めなければいけない状況のようだったので、本能的に手が出たのだ。空になった器を卓に置きながら、一刀は考えをまとめるように腕を組む。 「ははあ。それで、華琳はなるべく身軽にしておきたいと」 「そう。宮廷闘争なんてまっぴらだけどね。西涼の建国は成し遂げないといけないし、北方の経営もきちんとしたい。それには私が一歩引いて、他を助けるような形になるのが一番だという判断」 「……きついなあ」  思わず漏れた言葉に、四人の顔が緊張に彩られる。そこから一番先に立ち直ったのはやはり華琳だった。 「断る? もしどうしても、と言うなら蓮華にでも……」  彼女の声は残念そうではあったが、すぐに次の計算に入っているようでもあった。その様子に一刀は思わず苦笑する。 「いや、違うよ。俺じゃなくて華琳が。一番嫌だろ、そういうの」 「莫迦っ、いまはそんなこと気にしなくていいの!」  思わず立ち上がり怒鳴りつける華琳の顔は、見る見るうちに真っ赤になっていった。それを見上げて、一刀はしっかりと頷いてみせる。 「そうか。じゃあ、やるよ。でも、麗羽にもちゃんと働いてもらうぞ?」 「……あれが御せるならいいわよ」  しかたない、というようにため息を吐いて、華琳は再び椅子に体を預ける。その様子に、三人の軍師が揃って小さく安堵の息を吐いた。 「袁家と言えば」  華琳はお尻の収まりがわるいのか、何度か椅子の上で体を動かし、思い出したように切り出した。 「稟が先走って、本人達に伝えてしまったようだけど、美羽たちには、涼州に行ってもらうつもりよ」 「ああ、それ、美羽自身からも聞いたんだけど……。微妙じゃないか? いや、美羽に能力がないとは言わないけど、彼女の場合、その発想がぶっ飛んでるからこそいいわけで、実務をさせるってのは……」 「ほんっと、莫迦ねえ、あんた」  あきれ果てたように呟くのは桂花。彼女は猫耳を大きく振って彼の方へ身を乗り出してきた。 「この流れであいつらの名前が出た意味が、ま・る・で、わかってないのね」 「え?……あ……」  罵倒しながらも示唆してくれた言葉に、一刀の顔にも理解の色が広がる。当然、朝廷絡みであると考えるべきであった。 「そう。美羽たちは宦官を追い出した。それは、朝廷にとっては大いなる痛手であり、彼女達は疎ましい相手よね。今後、彼らの動きが出てくるであろう中では、しばらく中原を離れるのもいいでしょう」 「うーん。そっか……」  一刀はがしがしと頭をかき、顔をゆがめて、酒をすすった。 「まったく、やっかいだなあ。組織だけみれば、瀕死の態だっていうのに」 「瀕死? はんっ」  ばんっ、と音を鳴らして桂花が体をのけぞらせる。その様子は心底からの軽侮の意を表していた。しかし、それを向けられているのが直に声をかけられている自分ではないことも、一刀にはよくわかっていた。 「漢朝なんてね、董卓が洛陽に乗り込んだ時点で、死んでいたのよ。いくら遅く見積もっても、袁本初が帝のおわす洛陽を攻めようと兵を挙げた時点でね」  それまでも皇帝を変えることがなかったわけではない。古くは伊尹、霍光、近くは梁冀など、賢臣と呼ばれたにせよ佞臣と呼ばれたにせよ、例はある。  しかし、それらの主君追放者は、たいていが自分が置いた帝や、それに協力する勢力に除かれる運命をたどる。本人が生きているうちはよくとも、一族が後々まで隆盛を誇るということはまずない。  さて、それらに比べると、黄巾の乱の後、涼州の一諸侯たる董卓が都に入り、それに対抗して名族たる袁氏が中心となって兵を挙げるという流れは根本的に質を異にする。  これまでの皇帝のすげ替えはあくまで宮廷内での――多くは外戚同士の――権力闘争であり、その影響も宮廷内で収まっていた。最悪でも首謀者の一族が滅び、それにこびへつらった官僚の顔ぶれが変化する程度であったのだ。  しかし、各地の実力者が大軍団をもって洛陽を攻めるとなれば、事態は、すでに宮廷には収まりきらない。実際、その後麗羽や華琳をはじめとする各地の実力者は群雄となってそれぞれに立ち、大陸を巡って争うこととなった経緯を、皆、知りすぎるほどに知っている。  漢朝の力が薄まり、宮廷が軽んじられ、彼らが田舎者と謗る月の力を借りるしかなくなる。そして、四世に渡って三公を輩出した麗羽が軍をもって都を侵す。この明らかな中央権力の衰退こそが漢朝の終焉であると、王佐の才たる荀文若は称するのであろう。 「だとしたら」  一刀と桂花のやりとりに興味深そうな表情を見せていた華琳は、しかし、その唇に薄く笑みを乗せて、鋭い声を発した。 「桂花の言うとおり、月たちが来た時点や、私たちがそれに対するために集まった時に、全てが終わっていたのだとしたら」  彼女は片手を掲げる。天を指さすように。 「私たちは亡者を相手にしなければいけない」 「……そうなる、な」 「それは、生者を征服するより、遥かに陰惨で苦しい戦いとなるでしょう」  大陸の覇者の唇に刻まれた凄絶な笑み。  その笑みを、一刀は恐ろしく、しかし、美しいと思った。 「そんな戦いに、春蘭や季衣たちを関わらせるわけにはいかないわ」  そして、先ほど話したように、美羽たちもまた。  その華琳の宣言は、びりびりと部屋の空気を震わせるように思えた。背筋を走るのは、悪寒というよりも、強烈な熱気。  体の芯に響いたその言葉に、一刀は思わず確認するように問いかけずにはいられなかった。 「ここにいる俺たち四人の責任は重大ってわけだな」  だが、華琳はその問いに、酷薄とも思える笑みを返すばかりであった。  5.日輪  小さな白い体が、男の上ではねる。その膚に流れる明るい金の髪。  びくりびくりと大きく痙攣していた体は、力が抜けて男の胸に倒れ込んできた。そこにふぁさりとかかる髪の束。一刀はそれらをまとめて抱きしめる。 「今日もおにーさんにもてあそばれてしまいました……」  ふーふー、と荒い息を整えつつ、彼女は彼の胸の中で囁く。さすがにいまはいつも頭の上にのった相棒はおらず、きわどい台詞も彼女自身のものだ。 「そうかな?」 「そうですよー。風は何度死ぬかと思ったのです」 「おいおい。まるで加減をしてないみたいじゃないか」  腰を上げ、一刀のものを抜いた風をずりあげて抱きしめなおす。そうしないと、話すのには不向きな距離になってしまう。 「稟ちゃんには手加減なんてしていないくせにー」  肩口までやってきた風が責めるように囁く。ゆっくりと肩を顎でこすられるのは心地いいが、その言葉の険はあまり歓迎すべきものではなかった。 「は?」 「稟ちゃんたら、おにーさんに初めて抱かれた時以来の、壮絶なまでの女ぶりじゃないですか。隠せませんよー」 「いや、隠しているわけじゃあ。なんというか、ある意味で稟は念願かなったというか……」 「まあ、稟ちゃんと華琳様、一対一ではまだ鼻血を止められないという話ですがー」  なんだ、ちゃんと知っているんじゃないか、と思いつつ、一刀は困ったように眉間に皺を寄せる。 「あー。うん。俺が半日かけて下準備すればいけるみたいだけど、そうじゃないと難しいみたい」 「……半日」 「うん、一応実験してみた。でも、そんな時間なかなかないだろ? だから華琳も困ってるみたいで」  うー、と妙なうなり声をあげて、風は会話を切る。一刀は小さく笑いながら、彼女の髪をくしけずる。 「……あ」 「どうした?」  身じろぎする風に心配そうに声をかけると、彼女は自分の体と一刀の間に手をやり、その後でその手を抜き出した。 「垂れてきました」 「いや、見せなくていいから」  顔の前でにちゃにちゃと自らの精と彼女の液が混じったものをいじくられてもあまり嬉しくはない。だが、風は興味深げにその粘液を見つめていた。 「この垂れてくるのがですねー、風としては嬉しいのですよ」 「そういうもの? なんかあんまり気持ちよくなさそうだけど」 「感触としては、とっても気色悪いです」  きっぱりと言われる。  風自身が表情をあまり変えずに話すおかげで、言葉の打撃力が凄まじい。 「あ、ああ……そう」 「でも、心情とは別なのです」  そういうものか。男にはどちらにせよわからない部分もあるのだろうと予想しつつも、一刀は納得する。 「ところで、風に何か訊きたいことがあったのではないですかー?」 「あー、うーん」  風がこう訊ねるのには理由がある。  夜、寝つけずに城内を散歩していた一刀が風に行き当たり、話があると誘ったのが、この交歓に至るきっかけだったからだ。先に閨に突入してしまったのは、一刀自身、その話を切り出しにくかったからでもあった。  だが、もはやためらう時でもない。一刀は真剣な顔つきになって、腕の中の知謀の士へと質問を投げかけた。 「風。華琳はなぜ至尊の座に座らない?」  風は一瞬目を見開いたが、すぐに普段通り眠そうな表情へと戻り、そして、ぼそぼそと一刀にしか聞こえない声で話し始めた。 「……日輪は、分け隔て無く誰のもとにもその光を届けます」 「うん」  日輪が華琳の比喩であることは、一刀とてわかる。その光が届くと言うことが、華琳の政が行き渡るという意味であることも。 「しかし、あまりにまばゆい輝きは、その目を焼いてしまうのですよ」 「……目を」  鸚鵡返しに返す。輝きが華琳の正しさだとしたら、それで目を焼くというのは……。 「氷雪の大地を歩き抜き、百日の夜を抜けたばかりの者に、その温もりは灼熱の苦しみとなり」  一刀の考えがまとまる前に、風は続けていく。 「大地の下に潜んで厳しい冬をやりすごし、暗闇こそをおのが住み処としていた者には、その光は、全てを塗り込める白となってしまうのです」  風の一連の言葉は一刀にとっては難しい。  しかし、それが意味するものの幾分かは彼にもわかったつもりだった。  その意味するところが、華琳が帝位につかない理由だと、彼女は言うのだろう。 「……だから、華琳は……?」 「さてさて……」  にゅふふ。  彼女は笑った。  猫のように。  はぐらかすのではなく、問いかけるように。  その行為にこそ、風の真剣さが隠れているような、そんな気がした。 「でも、おにーさん」 「ん?」 「いつまで、一人の女の子に大陸を押しつけるおつもりですか?」  がつん、となにかで殴られたような衝撃を、一刀は覚えた。わなわなと体が震えるのを、彼は止められない。 「風……俺は、いや、俺たちは……」 「かぷっ」  わざわざ口で言いながら、彼女は彼の鎖骨の辺りを強く噛む。途端、彼の体の震えはどこかへ行ってしまった。 「痛ぇっ」  悲鳴を上げながら、彼は彼女を抱き留める手を離すことはない。 「かぷっ、かぷっ」 「わかった、わかったから!」  かえって噛まれる度に、一刀の手はうごめきはじめた。彼女の膚の上を。埋み火のようになった快楽を引き出すために、慎重に。 「ふふっ」  明るい笑い声を上げかみつくのをやめた少女は、男のもたらす快楽に身を任せていくのだった。  6.晦  その朝は、ことさらに布団から出たくない気持ちでいっぱいであった。  まず、寒い。  顔を出しているだけだというように、空気が刺すように冷たい。  そして、体が重い。  これは溜まった疲れであろう。まぶたを開く気にもならない。 「よし」  二度寝することにした。 「よし、じゃなーいっ」  寝返りを打った途端、勢いよくはたかれて、次いで、布団を一気にはがされた。 「ご主人様、体を起こして下さい」 「んー」  優しい声に促され、まだ開かないまぶたを意識しながら、なんとか体を起こす。 「寝ぼけてないの。ほら、着替えさせてあげるから」 「そうは言ってもさ……」  手をつかまれ、寝台の端に腰掛けさせられる。目をつぶったまま、一刀は寝間着を脱ぎ、詠と月が差し出す服を着ていった。もはや呼吸ができあがっているために、このあたりは意識すらする必要がない。 「昨日は、一日、張三姉妹の劇の稽古で大変だったんだよ……」  服を着終え、なんとか薄目を開いてふらふらと立ち上がると、二人して細部を確認してくれる。詠が髪の毛を解きほぐしやすいように一刀は身をかがめ、月が服を直しやすいようなるべく体を不動にする。 「知ってるわよ。ボクたちだって一緒にいたでしょ。ついでに、夜には、その歌姫三人と、二袁相手に奮戦したのも知ってるわ」 「……あー、目が覚めたなー」  妙に低い詠の声に、ばちっと目を開く一刀。ちょうど整え終わったのか、二人が少し離れたので、体をまっすぐに戻す。その途端、部屋の光景が目に入り、違和感を覚えずにはいられなかった。 「って、なんかすごい明るいぞ!」 「だからとっとと起きろって言ったでしょ」  にやにやと意地悪い笑みを浮かべる詠に対して、一刀の顔からは血の気が引いていく。いくら見回してもその明るさは冬の早朝のようには思えなかった。昼とは言わないが、いずれにせよ普段より遥かに遅いように思えた。 「なんてこった。まずい。明日は祝宴本番だから……いや、朝を摂らずに……」 「あの、ご主人様。ご主人様」  ぶつぶつ言いながら頭を抱えていると、くいくいと袖をひかれた。見ると、かわいらしいめいど服をつけた月が困ったように笑っていた。 「外が明るいのは、日が高いからではないんです」 「え?」 「焦った? でも、目は覚めたでしょ」 「え、詠!」  ひっかけられたとようやくわかって、一刀は青かった顔を赤くして、情けない声をあげる。しかし、当の詠はけろりとした顔で、彼に告げた。 「本当言うと、時間はそう遅くないわ。でも早く起きた方がいいのはたしかなのよ。もしかしたら宴の予定を調整しないといけなくなるかも」 「え? そうなのか? 一体なにが……」  それに答えるように、詠は窓に近づく。光の差し込んでくる窓を大きく開け放つと、寒風が吹き込んできた。しかし、それよりも一刀の注意を惹きつけたのは、外に広がる一面の銀世界であった。 「うわっ。一晩で積もったのか!」  庭石も、灌木も、四阿も、全てが白に覆われていた。池には氷が張っているのだろう、その上にもやはり雪が積もっていた。  四阿の屋根に積もった雪の厚さを見れば、かなりの量が一晩で降り積もったことがわかる。 「道理で寒いはずだ……」 「もう南蛮組なんて大変よ。赤ん坊抱えて布団から出てこないわ」 「猫はこたつでまるくなる……」  妙に節のついた調子で呟いてしまう一刀。 「え?」 「いや、なんでもない」  月と詠、それに一刀の三人は窓辺に立ち、その雪景色を眺める。 「二人とも寒くはない?」 「大丈夫よ。ボクが月に風邪ひかせるようなまねすると思う?」 「私も詠ちゃんも下に着込んでいますから……」  そんな事を話しているうちに、月が不意に庭の一角を指差した。 「あ、ご主人様、見て下さい」  見れば、何人かの女性達が、わいわいと戯れ、雪を投げ合って遊んでいる。一刀にはその人影は見覚えがあるどころか馴染み深いものであった。 「……ありゃ、華琳達か?」 「そうみたいね。行ってみる?」 「ん。そうだな」  そうして、一刀達もまた雪の庭へと向かうのだった。 「うぷっ」  魏の筆頭軍師にして王佐の才とたたえられる荀文若は、一面の雪原の見事さに振り返ったところで、冷たいものを顔にぶつけられた。顔中に広がるのは雪のかけら。誰かが雪の塊を投げつけたのは明らかであった。 「だ、誰よっ」 「私よ、桂花」  ぶんぶんと顔を振り、雪を全て振り落としながらの叫びに答えたのは、意外な人物だった。声の主は愛する主、華琳その人。たしかに華琳はその手に雪玉を構えている。 「ほら、避けなさい、桂花」  ひょいっと華琳は軽く雪玉を投げる。桂花は華琳の言うことだから、避けるべきなのか、それともこれは裏を含んだ指令なのか、一瞬考えてしまったために動きが遅れた。顔にかぶるのは避けられたものの、雪玉がかすめて髪に雪がかかってしまった。 「ひ、ひどいです、華琳様ぁ〜」 「軍師の恥ですね」 「桂花ちゃんは、いじめられるのが好きなんですよー」 「うるさいわよ、あんたたち」 「ふふっ。あなたも反撃してきていいのよ」  からからと華琳は笑う。機嫌がいいと見たか、隣にいる春蘭が彼女に話しかける。 「わ、私と投げ合いましょう、華琳様」  華琳はちらっと春蘭の手を見る。そこに握りこまれているのは雪のはずだが、すでにぎちぎちに固まって氷のようになってしまっている。ぶつけられればただではすまないだろう。 「嫌よ。どう考えてもあなたや季衣たちに敵うわけないじゃない」 「そんなあ」  がっくりとうなだれる春蘭。そのさらに横では、季衣が両手で抱えあげるほどの雪玉を作り上げていた。 「季衣、それ大きすぎるよ」 「へにゃ? まだ岩打武反魔より小さいよ」 「私か春蘭様以外には投げないでね、それ……。あ、兄様!」  季衣に話しかけていた流琉は、向こうからやってくる人影をみつけ、大きな声をかけた。それに応えて向こうで一刀が手を振る。 「やあ、みんな」  近づいてきた一刀と月たちに、華琳が顔を向ける。彼女は彼を招き寄せて話し始めた。 「一刀、ちょうどよかったわ。明日の祝宴に、せっかくだから雪見の宴を入れられないかしら?」 「そうだな、夜は難しいな。劇は中だし……。まあ、昼間だろうな」 「そうね、そのあたり、時間の調節はできる?」  一刀は上を向き、何かを思い出すようにする。それから彼は小さく頷いた。 「そうだな、やってみよう」 「お願いね」  そこまで言ったところで、華琳はぐるりと辺りを見回した。 「あら……みんな出てきたわ」  彼女の言葉通り、雪の積もった庭にはぞろぞろと人が集まりつつあった。  西涼や北方から帰還してきた北伐参加の面々、呉からやってきた呉軍一同、つい先日到着した蜀軍勢に張三姉妹と勢揃いだ。妊娠中の秋蘭や、赤ん坊のいる桔梗たちはいないものの、ほとんどの将たちが集まってきていた。  中でも呉の面々はこれほどの雪は珍しいのか、はしゃぎ回っている。小蓮など、周々といっしょに雪の上をごろごろと転げ回っているくらいだ。 「仲間割れはやめて、魏軍で集まりましょうか」  にやり、と華琳が笑う。彼女は雪玉遊びを止めるつもりは毛頭無いようだ。 「華琳様、私は、戻ります。阿喜に雪を持っていってやりたいので」 「ああ、そうね」  稟が雪の塊を抱えて声をかけるのに、桂花が考え込む。華琳の側にいたいのはやまやまだが、子供のことも気にかかるのだろう。 「私はどうしようかしら……」 「よければ、木犀の面倒もみましょうか?」 「そう?……じゃあ、まあ、もうしばらくいるわ」  その一方で、華琳は出てきた者たちの数を数えていく。それを終えると、彼女は脇に控えた春蘭を呼んだ。 「春蘭、皆に集合をかけて」 「はっ」  そして、華琳が各将に声をかけ、大陸中の有名武将、軍師たちによる雪合戦が開催されることになった。  あまり各員の所属にこだわると人数が偏って面白くないというわけで、組分けは自由に二、三人ずつということになった。  それでも各軍、馴染みの武将で分かれるのが大半で、たとえば魏軍は、華琳、春蘭、桂花の三人組や、元北郷隊の三人、さらには風、季衣、流琉というように分かれていた。  そんな中、白蓮は組になる人間をみつけられずにいた。理由はというと、蜀の武将達が桃香、愛紗、鈴々の組と、星、朱里、雛里の組、それに翠、蒲公英、焔耶で組を作ってしまったからであった。  一方、一刀の預かりの面々は董軍、袁家と分かれているため、入り込む隙がない。 「うう、一人だ……。そうだ、いつもそうだ……」  やはり、美羽と七乃に頭を下げて入れてもらうか、と考え始めた時、白蓮の横にすっと一人の男が通りかかった。 「あれ、白蓮一人か? じゃあ、俺は白蓮と組むか」  びきっ。  彼女の耳には、そんな聞こえるはずのない音が聞こえた気がした。  温度とは関係なく凍りつく空気。  膨れあがる殺気――のようなもの。 「あ、あの一刀殿、それはまず……」  しかし、白蓮が制止の声をあげる前に、一刀はぶんぶんと大きく手を振って、華琳に合図を出してしまった。 「おーい、華琳。みんな組になったみたいだぞー」 「……あら、そう」  一拍おいた返事に、白蓮の背筋が凍る。  そして、彼女にとっては嫌な予感しかしない宣告が下る。 「では、はじめましょうか」  当初は問題なかった。  それぞれに皆、雪をかためて陣地をつくり、雪玉を蓄えつつ他にちょっかいをかけたり、あるいは他から雪玉の備蓄を盗んだりして遊んでいた。 「よし、じゃあ、行こうか。白蓮」 「あ、ああ。そ、そうだな」  大丈夫、さっきのは気のせいだ。  白蓮は悪い予感に目を瞑り、皆、いい大人なのだから、と心の中で自分を納得させようとした。  だが。  一刀が雪玉を持って投げ始めた時、様相は一変する。 「一刀が投げ始めたわよ」 「ほう。ではいきますか」  白と朱の仮面の将は顔を見合わせてにやりと笑い。 「いまよ、一刀を狙いなさい!」 「……蓮華様?」 「一刀様、申し訳ありません!」  孫呉の主と、その親衛隊は釈然としないながらも一刀を狙い。 「はーい、小蓮さま、いまこそ好機ですよー」 「いきますよ、小蓮様さま!」 「なんで、穏たち、シャオより燃えてるの?」  姉たちと共に魏軍の猛攻が始まったのを見て、小蓮と軍師組からも雪玉が飛び始め。 「いいですの? 我が君ではなく、白蓮さんだけを狙いなさい!」 「はーい。でも、あたいらがやらなくても、アニキ……」 「そこはしかたないよ、文ちゃん……」  ひたすら白蓮を狙撃する者たちも出始め。 「中! 黄! 太! 乙!」 「黄巾の頃に戻ってるぞ! いてっ、つめてっ!」  張三姉妹は、姉と妹が丸めた膨大な数の雪玉をどういう技なのか地和が空中に浮かばせて、凄まじい速度で打ち出しはじめ。 「よっしゃ、雪玉連射砲、出来たで。沙和、凪、さっさと詰めるんや」 「わかったのー」 「隊長、お許しを」 「なんで俺狙うの前提なんだよ!」  竹細工の急ごしらえの発射機は氣を動力として目にもとまらぬほどの速度で雪玉を投げつける。 「うん、こうなると思った。うん」  とてもではないが投げ返せる量ではない雪に埋もれ始めた陣地を眺めながら、白蓮は静かに呟いた。 「いや、白蓮、なにうつろな目で、いてっ。つめてっ。待て、ねね、恋が投げるのはやめさせてくれ。華雄も!」  もちろん、一人悲鳴をあげている一刀は、なにがなんだかわかっていない。 「ちょっと待て、蒲公英。鈍砕骨で打てる雪玉をつくるな! あああ、陣地があっ」  もちろん、この流れに乗らない者たちも中にはいた。 「詠ちゃん、たのしいね」 「あー、うん。でも、あいつがなんかえらいことになってるけど……」 「まあ、一刀やから大丈夫ちゃう?」 「それもそうね」  単純に遊んでいる者や。 「美羽さまー、あったかいですよー」 「おお、本当じゃ。冷たいのとぬくいのが一緒とは面白いのう」  雪洞をつくって、その中に灯火を持ち込んで暖をとる者もあり。 「なんだか知らないけど、他の所は、一刀さんと白蓮ちゃんばっかり狙ってるよ! 愛紗ちゃん、鈴々ちゃん、この隙にっ」 「はいっ! あ、星たちも機を窺っている様子!」 「いくのだ!」  一刀を一方的に狙っている魏、呉、董、袁の各軍の間隙を突いて、他を狙おうとする者たちや。 「お母さん、これ、うさぎー!」 「あら。かわいらしい。そうだ、あとで桔梗と千年ちゃんにも持っていてあげましょうか?」 「うんっ」  びゅんびゅんとすごい勢いで投げ交わされる雪玉をものともしない分厚い陣地の中で、静かに雪遊びをする母子もあった。  そして。 「たーすーけーてーっ!!」 「うわーん、年の最後までこんなんかーっ」  雪の彫像のようになりつつある一刀と白蓮の悲鳴が響き渡る。  各軍の武将、軍師たちのにぎやかな笑い声と共に、一年の最後の日が過ぎ去ろうとしていた。      (玄朝秘史 第三部第十七回 終/第十八回に続く) 北郷朝五十皇家列伝 ○関家の項抜粋 『関家は関羽にはじまる皇家である。関羽は劉備の旗揚げから共に行動してきた功臣であり、義姉妹の契りを結んだ特別な存在であったという。  その忠義の様子、凄まじい戦いぶりなどは、講談などでつとに有名だが、史実で考えれば、彼女は有能でありながらも様々な戦に敗れ続ける悲劇の武将であった。あるいはそういった同情を買いやすい状況こそが彼女を民衆の英雄へ……(中略)……  また、関羽は一時期武神として信仰されたが、同世代に呂布、華雄というとてつもない武功を誇る将がおり同様に武神として神格化されていたため徐々に衰退し、現在では『帝国』外でしかその残滓は見られない。江南地方では、同じように華雄、呂布には劣るものの、土着信仰として甘寧、周泰を祭る信仰が長く続いたことを考えると、これは不思議な現象と言える。(周泰については、個人よりも、武器である刀そのものへの信仰に変化していった)  これは、後々の学者たちの考えるところによると、関羽への信仰は様々な要素が混じり合いすぎていたためとされている。彼女の持つ青龍偃月刀は龍、すなわち水神へとつながり、同時にその武は剣神へとつながる。しかしながら、彼女は劉備を支える忠烈の士であり、曹操が求めるほどの美女でもあった。これらの多彩な要素が混じり合い、その特徴を……(中略)……  関家に関わる話で不思議なものがある。関羽の三女、関策にまつわる東方の伝承だ。関策は史書に見られる足跡からすると、関家に生まれるも三女という立場からか、西方本土を離れ東方植民に参加している。その後、幾度かの戦闘に名は見えるが、特筆するほどのことはない。  しかしながら、東方大陸の人々の間では、彼女にまつわる花関策伝という伝説が広まっている。  関策は入植してきた側の人間ながら、原住民たちと深く交わる中で精霊の加護を受け、原住民を守り、侵略者たちを撃退する英雄に生まれ変わったというものだ。この時、花先生と呼ばれる先導者(おそらくは、部族の指導的立場にある巫覡のことであろう)に導かれたため、以後、花関策と名乗ったという。  花関策は各皇家の軍を何度も打ち破り、ついにはそれらの背後にいた妖怪、悪神とも戦い、最終的には七つの困難をくぐり抜けて精霊と一体化する。  もちろん、荒唐無稽な伝説であり、事実的な裏付けは一切無い。それにも関わらず、花関策の伝説は住民の間で熱心に信じられているのである。  このあたりの伝説は、南蛮大王孟獲が、諸葛亮に七度捕らえられてもその度に死から蘇り、最終的には諸葛亮の軍を打ち破り、南方の平和を築いたという――これも事実とは相当異なる――伝説ともつながりがあると言われ……(後略)』