「無じる真√N45」  装飾によって派手さを増した廊下を鳳統は駆けていた。  劉備から袁術へとその主を変えてからこの城は……いや、城郭も含めてあちこちが過剰な装飾によって妙な存在感を発していた。  鳳統の両側で同じく走っている顔良、文醜がその装飾をきょろきょろと見渡している。 「うぅん、やっぱり麗羽さまの従妹ってだけはあるな」 「そ、そうだね……この感じは麗羽さまと似てるかな」 「…………」  二人の感想に一瞬足をもつれさせそうになるがなんとか踏ん張る。いや、それどころか強引に足を前へとだして先へと進もうとする。  一刻も早く行かなくてはならないのだ。親友の、家族の、袁術の元へと。  それからも鳳統は何度も躓きそうになりながらも一心不乱に脚を動かし続けた。そうして部屋へと辿り着いた鳳統が眼にしたのは異常な光景だった。  床にへたり込んだ張勲と……何故かぐったりと横になっている袁術だった。その顔は青白く血の流れが良くないことを窺わせ、気のせいか口元からは泡が出ているようにも見える。  そして、何故か両頬は異常なまでに真っ赤にそまり膨らんでいる。 「ど、どうしたんですか? 七乃さん」 「いやぁ、なんかお嬢さまったら寝ちゃって……起こそうとしてみたんですけど、てんでダメでしたぁ」  そう言って両手をぷらぷらとふる張勲。その掌は袁術の頬と同じくらいに朱にそまっている。 「……す、すっげぇな。いくらあたいでもここまでは」 「あ、あはは」  さすがに文醜、顔良も何とも言い難い表情をしている。  鳳統もまた唖然としていたが、ぼそぼそとなにやら聞こえてくる声によって我に返る。  それは、袁術の口からまるで呪詛のように発せられている。 「あはは~、何やら楽しそうじゃのう。妾も加えてたもぉ~」 「み、美羽ちゃん!?」  明らかに異常な言葉だ。夢でも見ているのかと思えるが、いかんせん当人の顔色が優れていない。  深く勘ぐってしまうのも致し方ないというものだろう。そうして鳳統が眉を顰めている間にも袁術の見ている世界では変化が生じているらしい。 「むぅ? あっちとは逆の岸から雛里の声が……なんじゃ?」 「え? ま、まさか……」  嫌な予感に雛里の背を冷たいものが伝っていく。そして、つつつと落ちていくそれが腰の辺りまで届いたのとほぼ同時に袁術が更に何やらもごもごと口を動かし始める。 「まぁ、後から来るじゃろう。それよりも、さぁ妾もそっちへ行くのじゃあ!」 「ダメぇー!」  何やら生命的危機の様相を呈している袁術に鳳統は必死に語りかける。 「み、美羽ちゃん? 美羽ちゃん!」 「お、おぉ? どんどん、雛里の声がする方へと引っ張られるのじゃ~!」 「ほっ」 「おお~、向こうからも手が、手が伸びておるぅ!」 「えっ、に、逃げてぇぇぇぇええええ!」  その手に捕まったら袁術は戻ってこない、鳳統はそれを直感的に感じ取り叫んで呼び寄せる。  そんな彼女の元へ張勲が駆け寄ってくる。その顔はいつもの彼女からは感じられぬほどに真剣なものだ。 「またですか。えぇい、お嬢さまを連れてはいかせませんよぉ!」  そう叫ぶやいなや、張勲は大きく振りかぶった掌で袁術の頬を張った。それも往復で何度も……。  その、無数に渡って響き渡るあまりにも大きすぎる乾いた音に鳳統は目を瞑らずにはいられなかった。  そして、何十、何百にも及ぶビンタの末、袁術が瞼を上げて目元をこすりながら上体を起こした。 「むにゃ……う、うぅ……なにが、どうしたのじゃ?」 「ようやく、目を覚ましましたね。お嬢さま」 「ふぁ……にゃにゃの?」 「はい、七乃ですよぉ~」  焦点の定まらぬ瞳で見つめられた張勲がにっこりと笑みを浮かべながら袁術へとそっと手を伸ばす。 「わりゃわは一体どうなったのじゃ?」 「ちょっとばかし、お眠りになっていただけですよ」  倒れている間に乱れたらしい袁術の髪をそっと撫でながら張勲が整えていく。  しばらくぼおっとしたままの袁術だったが、急にはっとしたように鳳統の方へと瞳を向ける。 「ひ、雛里ではないか! いつの間に戻ってきておったのじゃ」 「いや、だからお嬢さま寝てたから」 「ふむ、そうか――って、なんで妾は寝てたのじゃ?」 「それは……わかりません」  首を傾げながら見つめる袁術に張勲は同じように不思議そうにしている。 「それに、なんだかほっぺが痛いのじゃ~」 「あ、あはは、どうしてでしょうね?」  両頬をさすりながらしくしくと涙する袁術に張勲は乾いた笑みで答える。一体累計で何発分のビンタをしたのか……鳳統でも想像だにするものを本人が自白するはずもないのは当然だろう。 「そりゃあ、あんだけひっぱたかれりゃあ腫れるだろ。あっははは」 「ちょ、猪々子!」 「あ……」 「ほほう。七乃ぉ? これはどういうことかのう?」 「え? いや、その……あぁっ! そういえば雛里ちゃんの話を聞くんじゃないんですか? お嬢さま」 「そういえば、そうじゃったのう」  険しかったものからころりと表情を変えると袁術は鳳統を見る。そして、彼女の両隣にいる人物を見て顔を青ざめる。 「ぶ、文醜に顔良……な、何故こ、ここにおる?」 「お迎えに来ました」  そう言って顔良がにっこりと微笑む。なのに袁術は一層顔を引き攣らせる。  絶望感たっぷりな表情をしたまま袁術がきょろきょろと辺りを窺う。 「ひぃぃいい。あ、あやつは……麗羽はおらぬのか! いや、おらんのだろう? のう?」 「あ、あぁ、姫は留守番してっから」 「そ、そうか」  ほっと胸をなで下ろす袁術に顔良が目線を合わせながら微笑む。 「でも、心配してましたよ。麗羽さま」 「え?」 「きっと、お嬢の姿を見れれば喜ぶだろうな」  文醜の言葉を聞き終える前に袁術が身体を震わせる。そう、鳳統が公孫賛軍との接触を図る前のときのように。 「ひぃぃいい! や、やはりあやつが一枚噛んでおるのじゃな!」 「えっと、どうしたんでしょう?」 「あはは、まぁ、ちょっとありまして」 「うぅ……あり得んあり得ん、よりによって麗羽の元へなど……な、なにが待っておることやら……ひぃ」 「おいおい、大丈夫なのかよ?」  文醜の疑問ももっとも、鳳統はそう思い、張勲を見る。だが、 「うふふ、可愛いですねぇ~。あぁ、お嬢さま、最高です!」  とろんと潤んだ瞳で袁術を見つめて身悶えている。 「どうすんだよ、これ」 「どうしたらいいと思う?」 「……そ、その私に訊かれましても」  眉尻を下げて困惑を露わにする顔良に鳳統はただため息を吐くことで答えることしかできない。  と、そんな騒がしい場へと兵士が駆け込んでくる。 「た、大変です! そ、孫策が既に徐州へと攻め込んできたそうです」 「え? そ、孫策さんが? 何故?」  鳳統は兵士の報告を受けながら愕然と項垂れる。 「また、曹操軍も破竹の勢いで我が防衛網を破りこちらへと突き進んでおります」 「うっわぁ、これはえらいこっちゃ」 「お二人とも、いい加減どうするか決めてくださいよ」  顔良がたまらず袁術たちへと問いかける。その間に鳳統は報告に来た兵士を下がらせて張勲へと詰め寄る。 「……な、七乃さん、これは一体どういうことですか? 孫策さんは揚州にいたはずではないんですか?」 「あぁ、それはですねぇ。実は、何でも良いから戦力を増やそうと孫策さんを呼び寄せたもので……」  そう答える張勲の顔は苦い笑みで覆われている。だが、鳳統の顔の方が苦渋に満ちあふれている。 (もともと、曹操さんが防衛を突き破り一気に進行してくるのはわかってた……でも、なんで孫策さんまで)  うちに秘める焦りを表に出さないよう堪えながら鳳統は思案する。 「こ、こうなったら。やはり、今すぐに降伏しましょう」 「むぅ、それは……ちょっと、いやじゃな」 「お嬢さま、さすがです。こんなときでも空気を読まない。いえ、読めない」 「まぁ、妾ほどにもなれば器が違うからのう。なっはっは!」  アホのごとく……いや、むしろアホ丸出しで大笑いする袁術。その姿を目の当たりにして鳳統は拳をふるわせる。 「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ!」 「ひ、雛里……」 「あらら、怒っちゃいました?」  張勲と袁術は目を丸くして鳳統を見ている。鳳統は、それに対して強い視線で、瞳の端に光るものを携えながら見つめ返す。 「いいですか! 曹操軍につかまれば朝廷のこともあって頸はなくなるでしょう」 「う、うむ」 「孫策さんに捕まればこれまでのことも考慮して頸元が涼しくなること請け合いです」 「……そ、それは嫌ですね」 「わ、わかりましたか……はぁ、はぁ」  少々興奮気味に語ったせいか息は上がってしまっていた。鳳統はそれを抑えるために深く息を吸い込みゆっくりと吐き出す。  徐々に上方へと集まっていた血液が今一度全身へと素早く巡っていく。それを感じなる鳳統の口からは次なる言葉が出ずる。 「だから、せめて一番身の安全を確保できうる公孫賛さんの軍に投降するんです」 「……し、しかし、そこには麗羽が……」 「仕方ありませんよ、お嬢さま」 「そうですよ。ほら、もう時間がないんだから」  鳳統がそう急き立てると袁術はへなへなとその場に崩れ落ちる。 「しょ、しょんにゃ~」 「うぅ、おいたわしや……お嬢さま」  どこから出したのかハンカチで目元を拭う張勲。手持ちぶさたにしていた顔良と文醜はこの流れについてこれないのかぽかんと気の抜けた表情をしている。 「なんにしても、もう観念しましょう。二人とも」 「そうですねぇ。お嬢さま」 「うむ。わかったのじゃ」  項垂れたまま袁術は首を小さく縦に振った。 「じゃが……」 「どうしました?」  急に肩を震わせる袁術に心配した顔良が歩み寄る。すると、袁術は顔を上げて紅く腫れたそれを指さした。 「妾のほっぺたをなんとかしてたも!」  †  劉備は馬を走らせ、戦地よりかけ離れていた。袁術との戦いの決着がついたという報せが入ったからだ。  元々は国境付近で待機していた程昱の部隊とともに進軍していた。  だが、報せが届いてからは視界の悪い谷へと差し掛かったとき、森林に囲まれ見通しの良くない道を通るとき、そういった要所要所で劉備軍は徐々に兵を後退させていた。  そして、ついには劉備と諸葛亮も曹操軍を後にして一目散に逃げ出した。  それからは敢えて人の手の加えられていない獣道をひたすらに駆けていた。そうすれば、大軍では追って来れない。  そして、そんな舗装も何もされていない道を一心不乱に通りに通った劉備たちは背後に迫る気配を感じなくなったところで僅かに速度を緩めた。 「ふぅ……なんとか、撒けたのかな?」 「そのようですね」  暴風のごとく乱れた呼吸を整え、無風状態になるまで己を落ち着けながら二人は馬の進行する方向から目をそらして僅かに振り返る。  背後に広がるのは木、岩、土、そして劉備軍の馬が巻き起こした土煙。曹操軍の追っ手の姿は見られない。 「ねぇ、先に動いちゃって良かったのかな?」 「問題ありません。しっかりと、仕事をこなしたのですから」  不安げに訊ねる劉備に諸葛亮は意にも介さぬという表情で答える。  今回の一戦における関羽、張飛の活躍。それにこれまで積み重ねてきた劉備軍の諸将の仕事を振り返ればそろそろ曹操の元を離れるのも問題ない、劉備たちはそんな判断をもとに行動を開始したのだ。 「それに、これ以上曹操さんのところにいたら立場上危うくなる可能性もありましたし」 「危険が迫るの?」 「えぇ、そうです。いろいろなことが混ざり合うことでこの先起こりうるいざこざに巻き込まれることになったと思います」  いざこざといえば朝廷の一件しかない。劉備は念のため諸葛亮には要点のみを掻い摘んで説明したのだ。それを一通り黙って聞いた彼女の返答は「即座に別の地へと逃れましょう」というものだった。 「下手をすれば、桃香さままでもが曹操さんにとって即座に排除すべき敵の一人として認識されることになったはずです」 「そっか。じゃあ、やっぱりこの機に逃げるしかなかったんだよね」 「えぇ」 「後は雛里ちゃんを連れて愛紗ちゃんたちが戻ってくれば」 「…………それは、どうでしょうね」 「え?」  ぽつりと呟く諸葛亮へと顔を向けるが、彼女はもう何も答えない。ただ劉備の方を見ることもなく判然としない眼差しで空をただじっと見上げている。  劉備が合流したときから時折同じような様子を見せているが諸葛亮の中で何があったのかは計り知ることはできない。  ただ、一つ。なにか、鳳統に関することを感じ取っているようなのは確かだった。  それからどちらからともなく口を閉ざした二人が沈黙の中、進み続けていると、右手側から木々を突き抜けるようにして進み来る馬蹄が劉備の耳へと届く。  音の様子から、まだ距離はあるように思える。そこで、一旦彼女たちはその足をとめる。 「だ、誰だろう?」 「わかりません。少々、様子を窺った方がいいですね」  そう言って木々の影へと身を隠しながら何者かの姿を探す。二つの影がかなりの速さで迫ってきている。  それは、関羽だった。また彼女を迎えに出ていた張飛も共にいる。 「愛紗ちゃんたちだね」 「どうやらそうですね」  二人は揃ってほっと息を吐くと、馬を再び動かし始める。  すると、向こうも気付いたらしく関羽が自らを運ぶ馬を一層せき立て速さを増して木々の間を器用に抜けながら劉備の方へと駆けてくる。  劉備は真横へと馬を並べた関羽をちらりと視線で確認する。 「愛紗ちゃん、どうだった?」 「…………すみません。雛里は救出できませんでした」  必要以上に思い詰めたように影で暗くなる関羽の顔を見つめながら劉備はついと空を見上げる。  一度ならず、二度までも鳳統を置き去りとせざるを得ない状況を生んだのは自らの弱さ故なのだろうか、そんな想いが劉備の中で首をもたげ始めずにはいられない。 「…………はぁ」 「愛紗ちゃん、あまり気にしないで、流石に無茶なことだったとも思うもん」  そう言って劉備は関羽の肩へとそっと触れる。関羽は一向に顔色を明るい者へと変える兆候をみせない。  そもそも関羽を先行もとい潜行させることにしたのも今でも大事な仲間と信じる鳳統の身柄を確保することにこそ焦点があったからだ。  だが、もちろん、それが厳しい話だというのもわかる。だから、劉備は関羽を責めるような真似はしない。  その時、ちょうど、森が一度途切れる。今までまばらだった日の光が一気に差し込んでくる。  しばらくの間暗さに慣れ親しんだ瞳が陽光のまぶしさにくらみかけるのをなんとか堪えながら劉備は自らに言い聞かせるように口にする。あくまで希望的観測でしかないようなことを。 「後は、白蓮ちゃん……と一刀さんを信じよう」 「っ!? ……それは」  関羽の表情がより険しくなるのを劉備は見逃さなかった。 「なにか、あったの?」 「いえ、何でもありません」 「本当に?」 「えぇ、本当に何もありませんでしたよ」  そう答える関羽の顔は再び森に入った事による木々の影でいまいち窺い知ることはできなかった。  †  下邳城へと到着した一刀は負傷した張遼を呂布に任せた後、城内のとある一室へと足を運んでいた。そこは玉座の間、つい少し前まで袁術たちがいた部屋だ。  いま、彼女たちは医務室へと運ばれていた。  袁術の頬がとんでもなく腫れており、そのせいで彼女の小さな顔が腰掛けにちょうど良い岩ほどの大きさまで膨らんでいたのだ。  その治療のため、そして彼女の付添いとして袁術と張勲は文醜、顔良それに鳳統によって連れていかれたのだ。  一刀はそのときの様子を思い出して僅かに笑みを零す。 「また、一団と賑やかになりそうだな」 「あら、それはどうしてなのかしら?」 「そりゃあ、もちろ……ん?」  ふいにした声に思わず応えかけたがなんとか口をつぐんでそちらを見やる。そこには髑髏の髪飾りで美しい金髪をロールしている少女を中心に数人の少女がいた。 「かり――曹操?」 「やはり、あなたなのね。動いたのは」 「何のことだ?」  言われている意味がわからず一刀は首を傾げる。その様子に曹操はくすり……というよりはにやりとした笑みを口元に湛えた。 「反董卓連合」 「……?」 「麗羽……いえ、袁紹との戦」 「なにを……?」 「青州黄巾党鎮圧」 「だから、何が言いたいんだよ」 「その全てにおいて、北郷一刀。あなたが動いている。違うかしら?」 「だったら……だったら、どうだって言うんだよ?」  何かを計るような、それでいて確認しようとするかのような青い瞳が一刀の姿を写している。それが妙に落ち着かない。 「華琳さま。やはり、こんな〝ブ男〟が暗躍しているとは……」 「でも、本人は認めているようだけど?」  ネコミミ風のフードを被った狐色のウェーブがかった髪の少女――荀彧の進言に曹操はまったく動じない。  それどころか一刀の方へと視線を注いでいる。 「だから、なんなんだよ……」 「なんでもないわ。こちらのことよ。それよりも、袁術はどうしたの?」 「あぁ、彼女たちならこっちで預からせてもらったよ」 「あら、そう。まぁ、いいわ。処罰に関して、そしてこの徐州について話をするつもりでこの曹孟徳自ら来たのだから。早いとこ、話を進めましょう」 「あぁ、そうだな。まぁ、袁術たちの処分はこっちに任せもらえないかな?」 「どうしようかしらね」  不適な笑みを浮かべたまま一刀へと視線を注ぐ曹操。朝廷の件のことがあるのなら一刀の提案を呑むとは思えない。 「そうね。まぁ、貴方がどう裁くのかお手並み拝見させてもらうことにしようかしらね」 「それじゃあ……」 「少なくとも、私はいいわ。別に袁術の頸自体にはさほど興味もないし」 「しかし、華琳さま!」 「朝廷から言われたのはあくまで偽帝討伐。一応、それは済ましたはずよ」  険しい表情で詰め寄る荀彧を曹操は軽くあしらう。そして、再び一刀へと視線を向ける。 「北郷一刀……やはり、ブ男と呼ぶのは一応、控えておこうかしらね」 「……はぁ、それはどうも」 「もし、本当にどうしようもない男ならそう呼ぼうかとも思ったのだけれど。貴方、やっぱり私の思ったとおり――」 「華琳さま! 大変です」  曹操が何か言いかけたが、新たに部屋へと入ってきた者の声でかき消されてしまった。 「どうしたの? 秋蘭」 「それが、風から入った報告によると……劉備が逃げたそうです」  天色の髪を一部額に駆けている女性――夏侯淵からの報告に曹操は「ふぅん」と小さく頷く。あまり驚いているようには思えない。 「それで? 今はどうなっているの」 「は! 風と稟が追撃するための軍を送り込んでいます」 「そう」 「それと、劉備より送られたという手紙があります」  そういって夏侯淵が差し出してきた手紙を曹操は手に取る。妙な緊張感の中、一刀は自分が場違いな気がしてならない。 「へぇ、なるほど。やっぱり、そうきたのね」 「華琳さま? 一体、なんと書かれているのですか?」 「今回の袁術討伐をもって借りの返却は済んだ。故に私たちの元を去る……だそうよ」 「なんと、挨拶もせずに。そのような勝手な真似を……おのれ劉備」  夏侯淵がその落ち着いた見た目に似合わぬ憤怒の炎を瞳に抱いている。それに対して曹操はまったく動じていない。 「いいんじゃないかしら? 元々、私もこの件を機に考えようと思っていたのよね」 「ですが……」 「風と稟には追撃の手を一時的にでも緩めさせないさい。それよりも、まずいのは春蘭の方よ」 「え?」 「劉備がわざわざ我が軍が各地に配備されている宛豫州を抜けていくとは思えない。そうなると、向かうは南。恐らくは荊州でしょう」 「そうか、荊州と言えば今は姉者が」 「わかるでしょ? なら、秋蘭。あなたがすべきことは?」 「早馬として姉者の元へ向かう……ですか?」 「そう。その通りよ。というわけで、任せたわ」 「は!」  先ほどまでの怒りの感情はなく、ただ冷静に仕事をこなすように落ち着いた返答をして夏侯淵が部屋を出て行った。 「さて、どうやら……落ち着いて話す時間は無いようね」 「みたいだな」 「ふ、残念ね。貴方にはいろいろと訊き出したい事があったのに……」 「また機会があったら、そのときに答えるさ」 「そう。そうね……それじゃあ、また」  そう言うと、曹操は臣下の者たちを連れて退室した。 「ふぅ、緊張したぁ」  ようやく解放されたということで、一刀は一息吐こうと肩の力を抜く。その瞬間、もの凄い勢いで扉が開かれた。 「袁術はどこ!」  石竹色の髪を僅かに振り乱しながら、明らかに血走った目をぎょろぎょろりとせわしなく動かしながら押し入るようにして現れたのはかつて反董卓連合の際に初めて出会うことになった孫策だった。 「ん? 仲間に任せてあるよ。今は医務室にいる」 「どういうこと? 怪我でもしたの?」  褐色の肌に浮かぶ玉のような雫を拭い払いながら孫策が眉を顰める。 「いや、まぁ……ちょっとね」 「ふぅん、できればこっちに渡してくれないからしら」 「断る……と言ったら?」  趙雲の真似をして意味ありげに、にやりとした笑みを浮かべながら一刀がそう答えた瞬間、室内の気温が下がった、確かにそう感じられた。  その理由は一刀の目の前にいる人物にある。孫策が先ほどまでとはうってかわり目尻を吊り上げ冷たい眼差しで一刀を貫いているのだ。 「なに、その態度。もしかして私舐められてる?」 「そんなつもりはないんだけどな」  頬に妙な汗が流れ落ちていくのを感じながら一刀はなんとか笑みを造る。異常なまでの圧迫感を受ける。  まるで猛獣を前にしたときのような生存本能から信号が脳に送られてくるような感覚、それは先ほどの関羽ともまた違った気迫。  それでも一刀は視線を逸らさない。負けられない。負けてはならい。そんな想いとともに孫策を凝視する。  それから互いに何も言わず、ただ淡々と時間だけが流れていった。 「はぁ、もういいわよ」 「え?」  ため息混じりに肩を落とす孫策に一刀は呆気にとられる。気付けば先ほどまでの押し潰されそうな空気も霧散している。 「私たちの元へちょっかい出してこないなら。あの二人のことはもう忘れるわよ」 「そうか……悪いね」 「別に。ただ、その代わり」  意地の悪い笑みを浮かべて孫策が一刀をつま先から頭の上でピンと伸びている髪の毛先までじろじろと見てくる。 「お酒、付き合ってもらえるかしら?」 「へ?」 「そうねぇ、どうせだし城郭にある酒屋行ってみようかしら」 「いや、ちょっと。なんでまた、そんな話に?」 「あら、以前伝えたはずよ。いずれ呑みましょってね」 「そ、そうだっけ?」  そういえば、反董卓連合のころに劉備から伝言でそのような話を耳にした気もしたが一刀は今の今まですっかり忘れていた。 「ほらほら、行きましょ。折角だし、貴方のこと教えてよ。天の御使いなんでしょ?」 「いや、そう言われても」 「もう、ノリが悪いわねぇ、さ、ほら」  徐州の酒はどんな味だろうか、とでも考えているのだろうか、孫策は妙に眼を輝かせている。そして、その瞳を一刀へと向け手を差し伸べる。  そのときだった、勢いよく扉が開かれたのは。 「雪蓮! 勝手に出歩くなと言っただろう!」 「げ、冥琳」  眼鏡をくいと指で上げ、その反動で孫策に負けないほどの巨乳を揺らしながら周瑜が二人の方へと近づいてくる。  その隣には孫策同様の石竹色の髪をした少女がいる。その姿を一刀は知っている。彼女こそ孫策の妹……孫権、字を仲謀、真名は―― 「姉様! まったく……何をしておられるのですか」  一刀の思考は孫権のお叱りの言葉でかき消される。怒気に包まれている孫権を見ながら一刀は内心妙な気持ちに包まれていた。 (へぇ、髪……長いんだな)  孫権の後ろ髪が長い……それが一刀には意外だった。彼は彼女の髪型についてはうなじが出るほどに後ろ髪が短めに切りそろえられたものしか知らなかったのだ。  そんな関係ないところで感心していた一刀を余所に周瑜は孫策へと歩み寄る。 「雪蓮。これからまだまだ話すべきことはあるのだから。抜け出そうとしないでもらえるか?」  そう言うやいなや周瑜が孫策の耳を引っ張って歩き出す。 「痛い痛い! 自分で歩くから離してよ冥琳~」 「そんなことをしたら逃げるでしょ、あなたは!」 「うぅ~」  そうして消えていく孫策の姿を苦笑いで見送っていた一刀は最後まで部屋に残っていた人物に気がつく。 「…………」 「……あ、あはは。あの人にも困ったものだね」  じっと一刀を見つめる孫権。その瞳に含まれるのは一体なんなのだろうか、そう思いながら一刀は彼女の出方を窺う。 「…………」  まったく動かない、いやそれどころか口を開かない。その何とも言えない非常に気まずい雰囲気は、一刀の鼓動をどくどくと速めていく。 (まさか、愛紗だけでなく……いや、そんな馬鹿な) 「…………ふん」  一人混乱の境地へと旅立たんとしてた一刀に一瞥をくれると孫権は踵を返して退室していった。 「な、なんだったんだよ」  緊張感が解けたせいか、急にどっと汗が溢れ出してきていた。それを拭いながら一刀は誰もいなくなった部屋の中ぽつりと呟いた。 「……せめて何とか言ってくれよ。蓮華」  彼女の――孫権の真名を。  †  孫策を諸将の元へと送り届けた周瑜の元へ、一人の兵士がやってくる。とは言っても兵士にしてはいささか軽装、そして、なにより存在感が薄い。  しかも周りの装飾が派手で目立つために一層気配が感じられない。  この趣味の悪さは袁家特有なのだろうか、それとも名門特有なのだろうか、そんなことを考え始めた周瑜を畏まった姿勢をとった兵士が見つめてくる。 「周瑜様」 「なんだ?」 「このようなものを見つけました、隠すように仕舞われていたので何か貴重な物ではないかと思われます」  そう言って兵士が包みを差し出してくる。  一体なんだろうかと周瑜は中を覗く。そこに入っていたのは、周瑜もかつて見たことのある孫呉復興に関しては非常に印象的なものだった。 「これは……そうか。よし。あぁ、すまぬが……一つ頼まれてくれるか?」 「は、なんでしょう?」 「この包みを劉備の元へ送ってほしい……いや、奴らの荷物にでも忍ばせておいてくれ。情報によれば、劉備は荊州方面へ逃亡したようだからな。我らが平定した江東あたりからでもある程度は容易に近づけるはずだ」  そう言って周瑜は兵士へと包みを手渡そうとする。だが、それも一瞬でぴたりと手を止める。 「ただし、劉備軍にも我が軍にもそして他の勢力の者たちにも気付かれるな。中身も見るな。極秘中の極秘だ。何者にもその存在を知らせてはならぬ」  そう念を押すと周瑜は今度こそ目の前の兵士へと包みを手渡す。 「これはいずれ孫呉のためになるものだ。任せたぞ」 「は!」  周瑜に呼応するやいなや兵士はその姿をくらませた。そう、それは周瑜子飼いの間者だった。 「ふふ、そう、それでよいのですよ」 「っ!?」  急に聞こえた声に周瑜は振り返る。だが、そこには誰の姿もない。 (空耳?)  その割には耳に残っているが、なんなのだろうか……。胸にもやもやとしたものは残る。  だが、周瑜は自分がここで行った事は聞こえた声の言う通り間違ってはいない、そう信じていた。  そんな想いを胸に抱いているのを改めて自覚している周瑜の背後に気配が現れる。 「ちょっとぉ、冥琳!」 「……なんだ、雪蓮か」 「なんだとはなによ! 人を無理矢理連れてきておいて自分は知らん顔ってのはないでしょう?」 「ふ、すまない。では、行こうか」  両手を腰に置いたままむっとした表情で睨みつけてくる孫策に苦笑混じりに頷きながら周瑜は歩き出した。 「孫呉はこれからだぞ、雪蓮」 「……? どうしたの冥琳」 「いや、なんでもない」  そう言うと周瑜はツカツカと歩き出す。その後を孫策が慌てて追いかける。 「冥琳、何を焦ってるのよ~」  その言葉に一瞬、周瑜の胸がどきりと跳ね上がる。だが、そっと胸を押さえながら孫策の方を振り返ると、僅かに笑みを浮かべて答えてみせる。 「バカを言うな。私が焦るはずもないだろう?」  笑顔を浮かべる周瑜を不思議そうに眼を丸くする孫策に彼女は更に続けた。 「なにしろ、私はあなたと共見る夢を叶えるためにも邁進しているのだから」  †  曹操軍が残る宛豫州を抜けてというのはさすがに厳しく、劉備軍はやむを得ず逃亡先として荊州へと向かっていた。  その途中、既にまとまっていた民衆が合流してきた。  どうやら、諸葛亮が今回の策を実行に移す前に纏め役である長老に曹操の元を離れることについて説明していたのだそうだ。  そして、それを聞かされた民たちはこぞって劉備の後を追うと決意したらしい。  当初、劉備は戸惑いを見せていた。民衆を護りながら逃げることができる自信がないということだった。  それに、曹操の元に流れ着いてから民衆は割とまともな生活を送っていた。今回の逃亡に巻き込むということは、ようやく落ち着いた民の日々を奪うことにもなる。  そう、民衆を思うからこその迷いなのだ。  関羽は悩み唸る姉を見ながらそれを理解していた。そして劉備を君主と扇ぎ、また義姉としたことは正しいと自分を褒めたい気持ちに駆られた。  だから、彼女は劉備に進言をした。 「この関雲長が守り抜きましょう」  と、それでも渋る劉備に民から声が上がった。  そう、彼らの想いは「劉備様に何処までもついてく」というもので纏まっているということだった。そこまで言われ徐々に決意を顔に浮かべていく劉備に、諸葛亮が決断を迫る。 「行軍速度は少々落ちますが、お連れになりますか?」 「うん、連れて行こう。全力で護ろう。それでみんなで進もう」  そう答えて当然だ。彼らは劉備のことを必要としてくれているのだから。本当に民たちのことを思うのならば連れて行くと決断する以外選択肢はないのだ。例えそれが厳しい道であろうとも……。  そして、それができるから人だからこそ関羽は劉備とともにこれまでやってきたのだ。  とはいえ、やはり困難は立ちふさがるわけで、荊州付近にもまた曹操軍の部隊が常駐していた。  どうやら、荊州北部にいる張繍を絞り上げていたらしい。しかし、それも終わり張繍も降った後らしく城へ移動したのだろう。曹操軍が陣を敷いている様子はない。  張繍の領土が曹操軍の手に落ちた事はわかった。  それでも劉備を中心とした一つの塊は脚を止めようとはしない。前へ先へ未来へと向かうために突き進み続ける。  関羽もまたその中で遠い未来を〝劉備〟とともに生けるために……いや、そのことだけに一意専心してかけ続けていた。  そんな中、やはり妨害しようと曹操軍の部隊がその姿を見せる。劉備軍の先頭を走る歩兵が曹操軍の兵たちとぶつかり合う。 「今、曹操軍の主力は徐州に残っています。故に我々に負けはありません!」 「おぉぉおお!」  諸葛亮の分析による発言に対して兵士たちの士気が格段に上がっていく。  勢いは留まることを知らないかのごとく上がっていく。それを持って劉備軍は曹操軍をうち破る。  張飛が民を護りながら戦い。また、民も張飛を手伝う。そうして一つの存在のように誰一人遅れることなく駆け抜けていく。  その一つの生き物のごとく動く集団とは別に、曹操軍の将が率いる隊と正面からぶつかり合い、またうち破ろうと関羽隊が奮戦していた。  関羽は敵の中でも戦力的に上々なものを相手取るようにしていた。  そんな彼女の元へ新たな隊、さらに一人の少女が飛び出してくる。 「止まれぇ! 関羽」 「えぇい、邪魔だ!」  たしか楽進だったか……と、目の前で織り込んだ銀髪の髪を振り乱しながら拳、蹴りと次々に放ってくる傷跡の多い少女のことを考えてみるが、関羽は関係ないな、と無駄な思考を捨てて相手の攻撃をいなしては弾き飛ばす。 「凪! こぉのー! ウチもいくで」  薄紫色の髪を両側で纏めた少女が駆け寄ってくる。関羽は舌打ちしつつもそちらへも青龍偃月刀を振り抜く。 「くぅ、なんやねんこいつ! 化け物やん」 「ふんっ!」  薄紫色の髪の少女こと李典も加わり二対一だがそれもやはり知ったことではない。  関羽はただ目の前の〝敵〟を叩きのめし、主君の道を切り開くだけ。  楽進と李典に反撃の余地も与えぬほどに斬撃を連続で繰り出してみせる。それによって関羽に対する二人の顔が強張っていく。 「だ、ダメだ。くそっ、これが関羽なのか……」  楽進の言葉を遮るように関羽はさらなる追い打ちをかけんとする。だが、楽進はそれを手甲――閻王で塞ぐ。  だが、勢いを殺せただけで衝撃は楽進へと届く。 「ぐぅっ」 「ふっ!」 「そこまでだ!」  何度目になるかわからないが、楽進を吹き飛ばしたところで更なる援軍が来る。  李典は声の方を見てまるで松明に火をともしたかのごとく一気に表情を明るいものへと変えていく。 「お、我が軍の化け物のお出ましやー!」 「おう! って、だれが化け物だばかものぉ!」  そう叫ぶのは長い黒髪を全て後ろへ流して額を露出させている女性、夏侯惇。  彼女は李典の言葉に反応を見せた後、すぐに関羽の方を見据える。その瞳は真剣そのもの。捉えたものを射抜けそうなほどに鋭い視線を放っている。 「関羽よ、我が主、華琳さまを裏切り、あまつさえ逃亡とはな。さすがにこれは見逃せんぞ!」 「来るならば、覚悟は決めておくのだな夏侯元譲殿」  青龍偃月刀の刃を〝敵〟へと突きつけ関羽はそう叫んでみせる。 「ふん! 覚悟するのはどちらだろうな、はぁぁっ!」  かけ声一閃、夏侯淵の持つ大剣――七星餓狼が唸りを上げて襲い来る。  関羽はそれをあえて正面から受ける。そう、己が道の形を示すように。  青龍偃月刀の刃は一切負けていない。  鍔迫り合いとなった二者の間を火花が走り、飛び交う。  一合、二合と打ち続ける。  互いに一歩も譲らない。譲れない。  夏侯惇が大ぶりの一撃を放つ。  関羽がそれをすんでのところで躱し返す刀で斬りかかる。 「ちぃっ!」  確かに夏侯惇の口から舌打ちが聞こえた。  互いの額から、長い黒髪から雫が飛び散りきらりと輝く。 「さぁ、道を譲れ!」 「断る!」  どちらも譲れないものがある。恐らくはそれがより大きい方が勝つ。関羽はそれを密かに確信する。 (無論、そのような想いで私が負けるはずはない!)  そう内心で叫びながら関羽は一層激しい攻めを繰り出していく。 「これでも、まだ、ついてくるか!」 「ふん、よもやこれで全力ではなかろう? 関羽!」  そう言って夏侯惇はにやりと笑う。それは、どうみても不適なものだ。対して、関羽はにこりともしない。ただただ斬数を増していくだけ。 「さぁ、我が主のために道をあけよ!」 「……ぐぅ、嫌だ! 断る! 絶対に通さぬぞ」  強情な夏侯惇の姿は不思議と関羽に苛立ちは与えない。そのひたむきに信ずべき者を信じて闘う姿が似ているからだろう。 (ふ、なるほど……だが) 「無理矢理にでも通る!」  そう宣言するのとほぼ同時に七星餓狼が宙を舞った。綺麗な弧を描きながら大地へと突き刺さる音とともに夏侯惇の顔が苦渋に満ちる。 「くそっ、おのれ関羽ぅ……」 「さぁ、終わりとしようか……夏侯元譲」  未だ反撃の意思を宿す瞳で睨み付けてくる目の前の獅子を冷めた目で見つめる関羽。  青龍偃月刀の刃をつつと動かして、次の斬撃の軌道上に夏侯惇の頸がくるように調節する。 「春蘭様! ちぃっ、させてたまるかいな!」 「このぉ、でやぁっ!」  すっかり、無視していた二人の武将が飛び掛かってくる。だが、そんなものは夏侯惇との打ち合いで集中力を増し、感情も敵の除外のみに絞り込んでいる関羽にとっては取るに足らない相手だった。  一振り。  たったそれだけで李典、楽進を一度に打ち返し、後退させる。二人の足が大地をすべるように動き僅かに粉塵を舞いあげる。 「貴様らぁぁああ、これ以上邪魔立てするな!」  関羽は気迫を込めて叫ぶ。それこそ、周囲の者たちを圧倒せんばかりの力を込めた声で。  本当に効果があったのか敵兵がじりじりと後退し始める。 「貴様ら……華琳さまのために戦うのではなかったのか」 「か、勝てっこねぇよぉ……あんなの相手じゃ」  誰かがそう漏らした。それを切欠に爆発的に敵が下がっていく。関羽はそんなことなど一切気にも留めない。  ただ、目の前の敵を見つめ続ける。 「くそ、やはり私がやるしかないのか……」  夏侯淵がちらりと大地に刺さったままの七星餓狼をみやり、再度関羽を睨みつける。 「…………」  関羽は深く呼吸をする。精神を落ち着けるために何度も行う。そして、青龍偃月刀を持つ手に力を込める。  だが、その手が震えていた。恐怖でもない……いや、感情が起因しているわけではない。 「張遼のせいか……」  張遼との打ち合いが思っていた以上に関羽の肉体に眼には見えない傷跡を残していたらしい。  その異変に気付いたのだろう……いつの間か夏侯惇は七星餓狼を手に関羽へと向かっていた。 (ちぃっ……判断が遅れた!)  自らの不覚に苛立ちながらも関羽はすぐに臨戦態勢に入る。 「てぇやぁぁああ!」 「ぐっ」  やはり、違和感がある。夏侯惇の攻撃を受けるのがきつくなってきている。痺れのようなものが前腕を中心に走っている。  夏侯惇の荒い攻撃を受ける反動で青龍偃月刀が手の中で暴れそうになる。  一合、二合と打ち合う。  一方的に打たれ始める関羽。  夏侯惇も勢いが付いてきたのか先ほど以上に強力な斬撃を放つ。  取りこぼしそうになるのを堪え、関羽は耐え続ける。 「ふはははは! どうした、関羽!」 「ちっ、こ、このままでは……」  本格的に痺れに支配されかけたところで関羽は歯を食いしばる。せめて、この一戦を切り抜けることができれば、そう思い関羽は多少の無理をしてでもと決意する。 「だぁぁあああ!」 「ふ、そうこなくてはな。せぇっ!」  関羽の攻撃はまさにごり押し、ひたすらに夏侯惇を退けることにのみ集中する。  そんな彼女の渾身の一撃と夏侯惇の一撃がぶつかり合う。  ばちばちと火花が散り、両者共に飛び退く。  瞬間、二人の中間へと矢が突き刺さった。 「両者、そこまで!」 「誰だ!」 「邪魔を……って、秋蘭! どうしたのだ?」  夏侯惇は乱入者である――とは言っても未だ離れた位置で馬上に座して弓を構えた姿勢のままの――夏侯淵に対して眉を顰める。 「姉者、もうやめろ。劉備軍への攻撃は中止だ」 「何を言っている! もう少しで関羽を討ち取れるのだぞ」 「華琳さまのご命令だ」 「く……」  夏侯淵の言葉に夏侯惇の手がぶらりと落ちる。  二人のやり取りを黙って眺めていた関羽へと夏侯淵の視線が向く。 「そういうわけだ、関羽。すぐに劉備共々、荊州へ行くがいい」 「……感謝の言葉は残さぬぞ」  そう返答すると、関羽は劉備たちのいる方へと向かう。 「関羽!」 「なんだ?」 「劉備に伝えておいてくれ。次はない、とな」 「…………ふん」  ただ、首を縦に振るだけで特に返事を口にすることはせず関羽は再び進み始めた。 「まだだ、もっと……もっと強くならねば」  関羽は層の先を口に出すことはなかった。ただ、内心で思うだけだった。 (二度と、護るべき人を守り切れずに終わってしまうようなことのないように……)  †  曹操がいなくなり、孫策がいなくなり。随分と無人の時間が続いていた玉座の間。  もう、これ以上部屋へとやってくる者もいないと思った一刀は混乱のせいなのか散らかってしまっていた玉座の間を掃除することにした。  そして、実際に部屋の中でいろいろと整理したりとせっせと働き始めた。  そんなとき、勢いよく扉が開かれた。そこから一人の少女が中へと入ってくる。 「待たせたな! 私が公孫賛だ! さぁ、袁術のことを話そうではないか」 「…………」  意気揚々と歩いてくる公孫賛だが、それに対する一同は皆、言葉が出ない。ある者は口を閉ざし、またある者はぽかんと口を開けっぴろげにしている。  公孫賛はそんな面々が眼に入っていないかのように異常なテンションでずかずかと歩み寄ってくる。 「さぁ、公孫賛軍当主こと公孫伯珪、じっくりと腰を据えて話す用意はできているぞ」 「……え、えぇと」  どうしたものかと、一刀が答え倦ねていると公孫賛が捲し立てるように進み出る。 「さぁ、さぁ!」 「いや、だから……」 「曹操は? 孫策は?」 「じ、実は……その、だな」 「もしかして、そこにいる者たちが使者か?」  公孫賛は鼻息も荒くしてまさに興奮しきった様子で、先ほどから部屋の中を忙しく動き回っている女性たちを指さして問いかける。  だが、女性たちは首を横に振る。そして、その中の一人が公孫賛の言葉に応じるように口を開く。 「いえ、当室の仕様も済んだとのことなので少々荒れてしまった部屋の片付けをしているのですが?」 「は?」  公孫賛は彼女の言葉を理解できないのか目を点にしてる。そんな反応をする公孫賛に一刀は頭を掻きながら説明をする。 「そこの彼女たちは、もともとこの城で働いている侍女を務めてる人たちなんだよ」 「へ?」  ギギギと壊れた絡繰りのごとく一目でおかしいとわかる動きをしながら尋ねるような視線を向けてくる公孫賛に一刀は頬を掻きながら頷く。  一方、侍女たちは不思議そうに公孫賛と一刀を交互に見比べ、なにやらひそひそと話しながら部屋を後にした。  取り残された一刀は、公孫賛の様子を窺おうとそっと歩み寄る。その瞬間、公孫賛の身体がぶるぶると揺れる。 「……な」 「……白蓮?」  どうしたのかと、さらに数歩彼女に近づく。ちょっと顔を寄せれば口元に耳を寄せれることが可能なほどの距離だ。  そして、実際に耳を近づけようとしたのと同時に公孫賛が口を開いた。 「なんだそりゃぁぁああ!」  公孫賛の悲痛な叫びが徐州全体に届くのではと一刀が思うほどに辺りに響き渡るのだった。