玄朝秘史  第三部 第十六回  1.展望  じりじりと小さな音をたてて燃える火に熱せられ、溶けたろうが燭台へ垂れ落ちる。部屋の中の灯りはそれを除けば、戸口と壁にかけられた灯火だけで、とても部屋中を照らすには足りない。  それでも卓に置かれた大きなろうそくは、その卓についてうんうん唸る二人が、広げられた書類を読むには十分な光量を持っていた。  一人は整った顔立ちの男性。一人は栗色の髪を後ろで束ね、長く垂らした女性。  北郷一刀と西涼の錦馬超こと翠。  彼ら二人は涼州攻略の責任者として、指示された案件に答えを見つけようと、頭を悩ませているところだった。  発端は、華琳のこんな発言からだった。 「麗羽のつくっている長城の件だけど、ただ見張り台や防壁としてだけ使うというのは、北伐の基本理念である北方と中原の融合というのに反するし、少々大げさだわ。もちろん、それが不要とは言わないけれど、もっと有効に使えるよう知恵を絞ってほしいの」  そう告げられたのは、いまここにいる二人に加え、魏の軍師である稟と風。彼ら四人は二組にわかれて、それぞれに案を提出するよう言われたのだった。  彼女の望むことはわからないでもない。歴代の王朝は長城をつくり、異民族への備えとしてきた。だが、それは国家規模の大事業であり、本来、遠征軍の現地指揮官が判断して始められるようなものではない。きちんと計画をたてなおし、すでに行われたことにも必要とあらば修正を施すのが、中央を司る漢の丞相としての責務であろう。  その計画案、改善案を提出させるのはごく自然なことだ。  ただ、一刀としては、華琳が思わずといった感じで付け加えた言葉に、彼女の真意が隠れているように思えてならなかった。  すなわち、 「やっぱり、支配の限界を示すようで腹が立つし」  という呟きにこそ。  ともあれ、計画案の見直しという作業については一刀自身も賛成だったし、必要であることはわかっている。  問題は、うまい案が出てこないことだ。 「月と詠がいればなあ……」  ぼそり、と翠が漏らす言葉の通り、いま、この場には涼州をよく知り、頭もまわる人物二人がいない。  二人は――実際には、護衛の華雄も含めた三人は――華琳の依頼を受けて、とある場所へ調査に向かっているのだ。それが実質的には骨休めの休暇であることも、一刀は理解している。左軍東進部隊による単于軍急襲を成功させ、北伐全体が失敗に終わるのを防いだ詠の手腕は評価されるべきだし、北伐や荊州の問題で人がいない中、なにくれとなく働いてくれていた月に休みをあげるのは一刀としても大賛成だ。華雄は護衛の任なので気を抜くことは出来ないだろうが、多少は疲れを癒やしてきて欲しいものだ。  ただ、一刀と翠には少々時機がよくなかった。予定では往復の日程含めて二十日ほどかかるはずであるから、あと二週間以上は彼女らは帰ってこない。  軍師ならば音々音もいるが、彼女は恋や華雄の部隊の再編で忙しい。烏桓兵のうち半数ほどが北方に残ることを志願したことで、部隊を編成しなおす必要が出てきたのだ。北方に残った烏桓たちの家族などが兵と合流することを望んだ場合には、その段取りを整えてやったりなど諸々の派生する仕事もあり、こちらに関わってもらう余裕が無い。  冥琳は雪蓮と共に、子供達の面倒を見ているので、これもまた頼むわけにいかない。桔梗と紫苑が国元へ帰ったのもあって、天宝舎にも余裕がないのだ。  そんなわけで、翠と一刀は無い智恵を絞り出そうと、夜の遅くまで話し合っているのだった。  おそらくは、これも華琳の狙い通りなのだろう。そう、一刀は思う。  翠は未来の西涼君主として、一刀は北伐左軍の責任者として――なにより麗羽の保護者として――力を尽くしてみせろ、といったところか。  そんなことを考えつつ、一刀は書類をもう一度眺めやる。実を言えば、おぼろげながら問題点はわかっているのだ。 「結局はコストパフォーマンスの問題なんだろうな……」 「こすとぱふぉーまんす?」  ただでさえ大きい目をぱちくりさせる翠に、一刀は思わず昔に使い慣れた言葉を使っていたことに気づく。 「ああ、ごめん。俺の元いたところの言葉で……意味は、費用対効果、だな」 「んー?」 「要するにどれだけのものを費やして、どれだけの成果を得られるかってことさ」  言葉の響きははなじみ深くなったものの、意味についてはよくわからないまま、という風に首をこてんと傾ける翠に、一刀は自分なりの言葉でかみ砕いて説明してみる。 「麗羽の計画は、たしかにそれなりの成果をみこめる。でも、それに対してかかる費用の部分が甘い……というよりは、まるで考慮していない部分があるんだな」 「ん? 材料費とか色々書いてあって、案外まともに考えてると思ったけど? 意外すぎたくらいだ。いや、まあ、斗詩とかが書いてるのかもしれないけど……」 「うん。書いてある部分はね。そう……書いてあることに関してはちゃんとしてるんだ。でも、意図的にか、気づいていながら問題ではないとしたのか……。省かれている部分がある。まあ、技術屋の真桜にひっぱられたのかもしれないな」 「で、なんなんだよ」  一人うんうんと納得している一刀に焦れたように、翠はその頭を揺らす。尻尾のように垂れた髪の毛がゆっくりとそれにつられて揺られ、ろうそくの明かりを反射した。 「翠自身がこないだ言ってたろう? 人手の問題……派兵の費用さ」  一刀はそう告げて、翠の方に身を乗り出して話し始めた。 「西涼連合じゃあ兵を出すのは敵が来たときだろ? 自衛のためともなればどこの豪族もこぞって兵を出してくれた。そうじゃない?」 「ん。まあ、そうだな」  実際はそこまで簡単な話でもない――世の中、足を引っ張る人間はどこにでもいるものだ――が、おおむねは言うとおりなので、翠は彼の言葉を肯定する。 「だけど、魏では違う。魏の兵は抱えられている間は常に給金を払い、たるまないように訓練を施し……となにかと費用がかかるんだ。お金だけじゃなく、ね」 「ふんふん」 「麗羽も真桜も、まるでそこを斟酌していない。まあ、最初から北伐で派遣されることは明らかだからいらないと思ったのかも知れないが、しかし、長期の計画となると……なあ」  事実、先の会議でも蜀側は長期の派兵に関しては難色を示している。当然だろう。兵たちの給金だけではなく、補給や国元の家族の世話、引き抜かれた防衛力の穴埋めなど、負担は多岐にわたる。 「だから、華琳としては、そういった費用に見合う役割を見いだすか、あるいは費用を出来る限り削減する案を出せ、というのが、今回の指示なんだろう。……たぶん」  華琳の意図を全て読み取れているかというと、さすがに一刀にも自信はない。華琳自身も全能ではないから、部下の発想に期待しているところもあり、求めるものと、その解は流動的だ。 「はっきり言って、計画段階でこれが華琳の目にとまれば、間違いなく却下されただろうな」 「こないだの会議でやめさせなかったのは?」 「はじまっちゃってるからさ。いくら相手が麗羽でも、現地司令官の命じたことをいきなり止めさせるのはまずい」  止める方が明らかに益が多いならそう判断しただろうが、実際にははっきりと断じるのは難しい。長城は金食い虫だが、これまでの実績もあるのだから。 「だから、その分あたしたちに考えろって?」 「まあ、そういうことだ」 「うーん。そうは言ってもなあ。人を使わないでいい加減なものつくったって、何の役にもたたないしなあ……」  翠は体を折り曲げて、卓にべったりともたれかかってしまう。その様子を見ていた一刀は、ぱんっ、と一つ手を叩いた。 「よし」  さすがに目線をあげる翠に、彼はにっこり笑いながら、提案する。 「今日はもう寝よう。眠い頭で考えたっていいものが出るわけない」 「んー、でも……」 「徹夜してなにか良い案出ると思う?」  難色を示す翠に、一刀が問いかけると、彼女も苦笑しつつ同意した。 「……無理だな」  よし、しょうがない、寝るか! と体を勢いよく起こした翠に、一刀はもう一つ提案をぶつけた。 「それから、明日、遠乗りに行かないか」 「へ?」 「体も動かしたいし……。この長城の規模も自分で把握したいんだ」  驚き顔の翠は、一刀が笑顔で続けるのに戸惑いの目を向ける。 「……幅分走ってみるとか?」 「そうそう」 「それ、言い訳だろ?」  非難と笑い、両方を含みつつ、翠は決めつける。一刀はそれを否定はしなかった。 「気分転換が必要なのも事実だよ」 「まあ……うーん、そうだな。よし、その話のった」  腕を組み、天井を見上げていた翠は、しかし、遠乗りの誘惑に耐えきれなかったのか、にやりと笑って了承を伝えた。 「じゃあ、明日」 「うん、明日」  そういうことになった。 「あー、やっぱり気持ちいいなあっ!」  爽やかな風を受けながら、黄鵬の背で翠ははしゃいだ声をあげる。思い切り走らせているために本来は大きく上下するはずの体の勢いを器用に殺しながら、彼女は流れゆく景色を眺めるでもなく、ただ、無心に走る。  そんな翠の背中を追いながら、一刀もまた楽しそうに頬を緩めている。吹きすぎる風、黄龍のうねる体、そして、なによりもその疾走感。彼はそれらを感じながら、彼女から遅れすぎないように馬を操る。 「一刀殿! あそこの森のあたりで休もうか!」  不意に翠は左手を指さした。その示す先には、こんもりとした森があった。黄河から分かれた細い水の流れがその中に消えていくのが見える。黄鵬と黄龍に水を飲ませるにもちょうどいい場所ということだろう。 「ああ、わかった!」  風切る音と馬たちのたてる音に負けないよう一刀も大声で返し、二人は街道を外れ、その森へと愛馬を向かわせた。  ちょうどいい開けた場所を見つけ、二人して二頭の馬に水浴びをさせたり、体を拭いてやったりした後、一刀たちも休むことにした。 「どれくらい走ったかな?」  適当な大きめの木を見繕い、二人でそれにもたれかかって、一息吐く。日が中天にかかっているから、それを避けるにもこの木陰は心地好かった。馬たちは主人達を邪魔しないよう、少し離れたところで草を食べている。 「そうだな、七十里くらいか」 「ありゃ、これでも麗羽達の長城の幅に足りないのか」  そんなことを話しながら、一刀は持ってきた包みを開く。そこには三角の形に握られた米の塊が入っていた。 「これ、なんだ?」 「握り飯。俺の世界ではよく食べてたんだ。こっちは麦が多いからあんまりつくる機会がなかったんだけど、北伐の補給で呉から回されてきた米がたくさんあったから」 「へー、一刀殿がつくったのか」  どうぞ、と勧められ、翠はおっかなびっくり一つつまみあげ、かぶついた。 「あれ、中になにか入ってるんだな?」 「うん、焼き魚を入れてみた。俺の世界だと、色々入れるんだけどね」  へー、ほー、と感心しながら食べる翠と、それを見ながらにこにこと笑いつつ、自分もぱくつく一刀。保存性を考えて塩を強めに握ったのが馬を駆って汗をかいた体にはちょうど良かったらしく、なかなかにおいしかった。  食事を摂りながらしばらく話しているうちに、話はやはり目下の案件である長城のことに行き着いた。しかし、そこでふと一刀がなにか思い詰めたように言葉を切った。 「翠」 「ん?」  重苦しい声を出す一刀を、翠は小首を傾げて見上げるようにする。 「長城のことだけどさ」 「うん」 「麗羽に代わって謝るよ」  そのまま頭を下げる一刀に、翠はわたわたと手を振る。 「え? な、なんで? なんで謝るんだ?」  頭あげて! と悲鳴のように言うのに、一刀は申し訳なさそうに顔をあげた。 「いや、翠がそんなことで気分を害するとは思ってないけど、でも、やっぱり西涼のことは翠たちの決めることだろ? そこに麗羽がいきなり大事業を持ち込んだわけだからさ……」 「ん……。そうか、まあ、そうとも言えるか……」  ようやく納得した、というように翠は何度か頷く。ばつが悪そうな一刀をちらと見て、彼女はずい、と体を近づけて真面目な声で話を始めた。 「あのさ、一刀殿」 「うん」 「まだ涼州で戦っていた時に、遠乗りにいったよな?」  言われて、一刀は思い出す。戦場を見回りに行った後、彼女と語らい、遠乗りに出たことを。 「ああ、何度目かの小競り合いの後だったっけ」 「そうそう。誰にも言わずに行っちゃったもんだから、みんな怒ってさ」  そこでひとしきり笑いあう二人。翠はそうしてほぐれた顔のまま、しかし、声は真剣な調子を変えずに続けた。 「あの時、あたし言ったよな。国の形が見えないって」 「うん、そうだったね。そして、俺は、わからなくとも、全部抱えて進めばいいって言った」 「うん」  二人はお互いの大事な記憶をたどるように、己の言葉を確かめあう。 「一刀殿の言ったこと、色々考えさせられたけど」  翠は、んー、と考え考え先を続けた。 「ひとまず戦が終わってみたら、なんか、さらにしっくり来たっていうか……。うーん、そうだな」  あたし、話すのうまいわけじゃないから、つっかえつっかえになるかもしれないけど、と前置きして、彼女は己の中の思いを形にしていく。 「今回の戦でもそうだけど、誰か一人が考えているようには、物事ってのは運ばないんだよな」 「……たしかにな」  一刀は重々しく頷いた。今回の戦は彼にとっても、そして、華琳や稟、風といった面々にとっても予想外のことばかりであったから。 「いろんなこと考えてるやつがいて、それぞれの行動があって、そうして、思っても見ないことが起きてる。それが世の中ってやつだな、って……なんかそう思ったんだ。もちろん、その中でも大きな動き……馬で言ったら群れ全体の動きを導くことが出来るやつってのはいるよ。華琳や一刀殿はそういう大事な位置にいる。でも、だからって全部を操るわけにはいかないし、他の意向を無視するわけにもいかない。そうだろ?」 「そうだな」  自分が大事な位置にいるかと言われると疑問であったが、翠の言うことも理解できる一刀は同意の頷きを返す。 「だから、あんまり考えすぎてもしかたないな、って」  彼女はその言葉を諦めでもなく、絶望でもなく、ただ微笑んで告げた。そのことに、一刀はなんだか安心する。 「それに、あたし、考えるより動くほうが性に合ってるからな」 「ふむ」 「今回の長城の件だって、麗羽がいきなりやり出したのはびっくりしたけど……。あたしや蒲公英だったら思いつかないことだったろうし、それを生かすよう動くのは出来ると思うんだ」  どう動けばいいかは、まだわからないところもあるけどさ、と翠はちょっとだけ悔しそうに呟く。 「ま、だからさ、考えないってわけじゃなくて……。その時、その時、あたしが信じる道を行くのが……それが、あたしなりの王のやりかたなんじゃないかなって、いまはそう思ってるんだ」  一刀はじっと翠の言うことを聞き、その言葉が胸に染みいるのを待って、大きく頷いた。その様にほっと息を吐く翠。 「うん、それでいいと思うよ」  彼は心底から祝福するように、そう言った。彼女が自ら見つけた道を、一刀は本当に嬉しく思っていたから。 「迷いながら、考えながら、それでも動く翠で」  うん、と頷いた翠は、だが、ついと一刀から視線を逸らし、彼の体が向いているほうに自分も向いて座り直した。男の左側面によりそうようにして。 「ただ……」 「ただ?」 「それでいいのか、って思っちゃう時もあるよね」  ふと、左肩に感じる重み。首筋をくすぐるように束ねた髪がおしつけられ、腹には彼女の体温をしっかりと感じる。女性に特有の甘い香りがわずかに一刀の鼻をくすぐった。  一刀は翠が身をもたれかけさせてくるのを驚きながら、けれどすんなりと受け入れていた。声を漏らすことも、訊ね返すこともしない。ただ、彼女が体重をかけられるよう、しっかりと受け止めていた。 「しばらく……こうさせて……ほしい」 「うん」  それ以上は、どちらも口を開かない。  ただ、静かに流れゆく小川の水音と、草を食みながらたまに戯れるようにしている二頭の馬のいななき、そして、お互いの呼吸の音だけが、二人を包んでいた。 「あのさ」  どれほどの時がたったろうか。  ぽつりと翠が呟いた。 「いつか、また……その、あたしが迷ったりした時は……えっと」  身を少し離し、顔を真っ赤にしてぼそぼそと言葉を紡ぐのに、一刀は先回りして答えてしまう。 「俺の肩なら空けておくよ」 「うん……」  小さく頷いて見せてから、翠は不意に意地悪い笑みを浮かべて、彼の脇腹をこづいた。 「でも、どうかなー。一刀殿もてるからなー」 「おいおい。こういう時は素直に聞いておくもんだろ?」 「知らないよ、そんなの」  拗ねたように口をとがらせて、翠は言い切る。 「まったく。ほら、行こうか」  こづいてくる翠から逃げるように立ち上がった一刀は、ぱんぱんと尻を叩き、草を払い落としてから彼女に手をさしのべた。  しばらくの間、びっくりしたように彼の手を見ていた翠だったが、次第にその顔に素直な笑みが広がっていく。 「うん!」  大きく頷いて、彼女は勢いをつけて立ち上がった。ふわり、と長い尻尾のような髪が大きな弧を描く。  そして、二人は飛ぶような足取りで駆け出す。  お互いの手をしっかりと握って。  2.順応 「あらあらー。一刀さんだけじゃなくて、雪蓮様に小蓮様、冥琳様が揃ってだなんて、もったいないです〜」  呉の筆頭軍師として、蓮華達に先駆けて朝廷側との調整のため洛陽にやってきた穏は、彼女が馬車を降りるのを待ち構えていた出迎えの面々を見て、満面の笑みを浮かべた。  そののんきな様子に、漆黒の鬼面を被った女性が小さく息を吐く。 「勘違いするなよ、穏。いまの我らは大鴻臚つきの侍女にすぎん。主が出迎えるのについているのは当然だろう」 「と、まあ、おかたい冥琳はおいといて、こっちで過ごしやすいように部屋の用意とかしてあるから安心してね」  白面の女性が、隣に立つ黒い鬼の肩に腕を置きながら保証する。それを聞いて、冥琳は頬をぴくりと動かしはしたが、腕を振り払おうとはしなかった。 「用意したのは私だ。お前は見ていただけだろう」 「やる、って言ってるのに触らせないのはそっちでしょー」  きゃいきゃいわいわいと二人は言い争いを始める。桃の花のような可憐な衣装に身を包んだ少女が、年長者たちのそんな様子を横目に眺めて大きくため息を吐く。 「なにやってるんだか」 「ま、まあ、ともかく、雪蓮が言うように、こちらでの滞在は出来る限り便宜を図るよ。蓮華達のことは……あとで、打ち合わせの場を設ける予定だけど……。いいかな?」  この場のとりまとめ役である一刀が、話を本筋に戻そうと慌てて口を挟む。彼は大鴻臚として、呉蜀の面々の接待役を務める必要があるし、個人的にも皆に快適に過ごして欲しいと思っていた。 「はい、もちろんですよー。打ち合わせは、こちらから頼みたいくらいです。お会いしたい人との橋渡しとかも出来たら頼みたいんですけどー」 「ああ、そうだな。そのあたり、どうするかも……っと」 「はい?」  不意に顔を近づけてきた男に対して、のほほんとした様子の穏は身構えることもしなかった。ただ、そのかわいらしい顔に不思議そうな表情を浮かべるだけ。一刀は彼女の耳に口元を寄せ、他の三人には聞こえないよう囁いた。 「まだ言ってなかった。洛陽へようこそ。会いたかったよ、穏」 「はいー」  けげんな表情は笑みに取って代わられ、彼女は大きな胸をぶるんと震わせて、明るい声で答える。 「ともあれ、政治向きの話はあとにしようか。どうせ何度もしなきゃいけないしな」  身を離した一刀はごまかすように大きな声で言い、それにかえって小蓮は不機嫌そうな表情を浮かべたが、しかたない、という風に首を振って元の顔に戻る。一方、雪蓮と冥琳は、雪蓮が一方的にからかう展開になった後、冥琳が強引に話を打ち切っていた。 「あ、そうそう。話は変わるんですけどー」  一人、全く様子を変えず、穏は話を続ける。彼女は背後の馬車に視線をやった。 「今回、連れがいましてー」 「連れ? 蓮華姉様の書簡には、穏を送るとしか書いてなかったけど?」 「いえー、まあ、基本的には私だけなんですけどね」  とてとてと馬車の扉に近づき、よいしょと開ける。すると、中から現れたのは、白と黒の印象的な毛皮をまとう巨大な獣だった。そこにいる面々はその正体がなにかよく知る者ばかりだったから、その獣の存在自体より、それがここにいるということに驚きを隠せなかった。  その中で、小蓮が弾むように駆け寄り、その獣の首に飛ぶように抱きついた。 「善々!」  ぐるぅうううう。  喉から絞り出された唸りは、おそらく喜びの声なのだろう。大熊猫の表情は人間にはよくわからないが、小柄な主が抱きしめてくるのをうっとうしがるでもなく受け入れている善々の姿は、一刀達の目には嬉しそうに見えた。 「さびしそうなので連れてきちゃいました」 「ありがと! 穏!」 「いえいえー。それでですね、一刀さん」  喜びにわく小蓮と、近寄って大熊猫をなでてやっている雪蓮たちをよそに、穏は一刀に向き直る。 「ん?」 「竹ってこっちではあんまり生えてないんですねぇ。善々ちゃんのごはんが足りなくて困ってるんですよぉ。どこで手に入るか知りませんかねえ?」  その言葉に、冥琳が腕を組み、拳を顎にあてるようにして考え込んだ。 「ああ、そういえば洛陽は北限を越えているかもしれんな。手をかければ育たんことはなかろうが……」  一刀もどこか上の方を眺めやりながら頭の中をさらっていたが、思い出したらしく視線を穏に戻す。 「たしか、恋の屋敷に生えてる――というか、育ててたはずだから、とりあえずはそれをもらってくるか、恋の屋敷にいてもらうかだな」 「しかし、量があるわけでは……」 「うん。あとは許昌やさらに南から運んでくるしかないだろう。笹はあるはずだけどなあ」  どの竹や笹でも食べるのだろうか? と小蓮を乗せた善々を眺めつつ首をひねる一刀。穏は困ったような笑みを浮かべる。 「うーん。じゃあ、善々ちゃんは正月を過ぎたらまた建業に連れて帰りますかねえ」 「えー! せっかく来たのに、また連れて帰るのー!?」  ぶーぶー、と善々の背で手を突き上げて抗議する小蓮。その様子になにか感じたか、善々もぐるぐると低い音をたてる。そんな妹に、雪蓮がなだめるように声をかける。 「まあ、食べ物に不自由させるのもねえ。ただでさえこっちは寒いんだし、あんまり無理はさせられないでしょう」 「それはそうだけどさー。せっかく周々と善々と揃ったのに……」 「じゃあ、小蓮のお金で、建業から竹を送ってもらう?」 「う……。し、しかたないかなあ……」  どっちのしかたないよ、と返した雪蓮は、一刀が難しい顔をして考え込んでいるのに気づいた。 「ん、どしたの、一刀」 「いや、以前書庫を漁っていたときに大熊猫に関してなにか報告書を見たことがあるような……」  その言葉に最初に反応したのは当事者の小蓮ではなく、なにか荷物でもあるのか、また馬車に戻ろうとしていた穏だった。 「ら、洛陽の書庫ですか!」  妙に荒い息で走り寄ってくる穏。それに対して冥琳、雪蓮、一刀が揃って言葉を発する。 「お前はだめだ」 「穏はだめよ」 「穏は遠慮してくれ」  ぴしゃりと言われ、穏は袖を持ち上げて顔を覆った。 「ふぇえええー」  実に残念そうな泣き声が洛陽の城内に響き渡るのだった。  翌日、一刀に呼び出された小蓮たちは、善々共々恋の屋敷に集合していた。雪蓮、冥琳、小蓮は給餌に何度も訪れているので勝手知ったるものだ。穏だけが、木々や草花、生き物がたくさんいる屋敷の様子に興味津々だ。  彼女達に遅れてその場に現れた一刀は、なぜか華佗を連れていた。 「あ、一刀が男と一緒だ。珍しい」 「どういう感想だよ」  二人の姿を認めて小蓮が漏らすのに、一刀は苦笑で答える。 「えー、珍しいじゃない」 「たしかに、滅多にない」 「一刀さんですからねえ」  しかし、雪蓮、冥琳、穏共に、小蓮のほうに味方した。 「……お前、どういう見方されてるんだ?」 「こういう見方だよ……」  赤毛の友人に真顔で訊ねられ、よよよ、と泣き崩れる動作をする一刀。彼はそのまま冥琳に一冊の書を手渡した。読めということだろうと判断した彼女はそれを受け取り、ざっと目を通す。 「益州に、まだ劉備軍が入る前の報告か」 「うん、そう」 「ふむ。ある村落で家畜が襲われる事件が続発したために兵を派遣。大規模に罠をしかけてみたところ大熊猫がかかった、か。当初はその大熊猫はただの偶然で罠にかかったと思われていたのでまた罠にかからぬよう保護していたが、それを機にぴたりと被害がおさまったことから、犯人はこの大熊猫ではないかと疑われるようになったようだな」  冥琳は文を読みながら、同時にそれを整理して短くまとめていく。 「保護していた者の報告によれば、竹を与えても食べようとせず、人の食べるものを食べ、一番好んだのは肉だった……とあるな」 「うん。それで実際にこの大熊猫が肉食なのか確認しようと、生きた山羊と一緒にしたら、大熊猫は簡単に山羊を殺して食べたそうだ。結局、そいつが家畜を襲ってたということで事件は処理されたわけだけど」  皆の視線が善々の巨体へ向かう。たしかに、この体と爪なら、簡単に山羊くらいは屠れるだろうと誰もが思った。 「ここで注目すべきは、大熊猫は肉も食べられるってことだ。シャオ、善々は竹以外に何か食べたことあるかい?」 「んー。あ、果物とか食べたことはあるよ。あと、お魚。ちょっとだけだったけどね」  それを聞いた華佗は、うんうんと頷いてみせる。 「ふむ。すると元々雑食の素地はあるということだな?」 「そういうことだと思う」 「えーと、それで、どういうこと? 一刀」  納得したように話し合う男二人に対して、小蓮はよくわかっていないらしく、善々をなでながら問いかける。 「つまりね、善々が竹だけ食べるなら、恋の屋敷の竹も限りがあるから、他所から竹を入手しなければいけなくなる。だけど、魚や肉を食べるなら、洛陽でも手に入れるのは簡単だろ?」 「あー!」  その意味を悟って、こくこくと元気よく首を振る小蓮。 「それで、華佗を呼んだんだ。医者の華佗に手伝ってもらって、善々が雑食で健康を保っていけるかとかを調べてみようと思って。どうだろう?」 「えーと、でも、大丈夫なんですかー? 善々ちゃん、人間じゃないですしー」 「人間じゃなくとも、氣の流れや体調に関してはわかるさ。もちろん、ある事に対してどういう作用が出るかはそれぞれ違うわけだが……。なんにしろ俺が毎日様子を見る」 「うーん、善々はどう?」  小蓮は、べたりと座り込んでいる善々の顔を覗き込むようにして問うてみる。 「ぐる、ぐるぐああ」 「お腹いっぱい食べられるならいい? ふうん」  ほんとにああ言ってるんですかねえ? と首を傾げつつ小声で呟く穏。 「どう思う? 姉様、冥琳」  善々から離れ、今度は黒白の仮面をつけた二人に近づく小蓮。 「そうですな、きちんと計画をたてて、善々にも無理をさせない程度の量からならば、害にはなりますまい」 「事前の準備が必要よねー。うまくいかないことも考えて、やっぱり竹は手に入れておかないと」 「うむ、そうだな。その上で……」 「そのあたりの計画は……」  話が進んでいきそうな気配を感じて、一刀は四人に割り込むように話しかけた。 「まあ、そういうことで、四人で協力して検討してみてほしいんだけど。予備の竹の手配はしておくよ」 「うん。わかったわ、一刀」 「ありがとね、一刀!」  きらきら輝くような笑顔を向けられ、こちらも自然と笑みを浮かべる一刀。 「じゃあ、そういうことで、穏、行こうか」 「はーい。じゃあ、みなさん行ってきますねー」  仕事のある二人は、始まりだけを見届けて立ち去ろうとする。歩みを進め背後を振り返ると、四人は輪になって今後の事を話し合っていた。そんな彼らを見て、一刀は満足げに頷いた。 「うん、あの面子なら任せておけるな」  もちろん、この時、彼は知らなかったのだ。  数百年の後、南方の大陸で土着の動物を押しのけ、食物連鎖の頂点に君臨する雑食大熊猫族の未来など……。  3.布石  部下達との胃が痛くなるような会食の後、一刀は飲まされすぎた酒を振り払うように首を振りつつ部屋に向かっていた。 「警備隊の時は、こんなことなかったんだけどなあ」  彼が愚痴るのも当然といえば当然で、警備隊の時代に部下としていたのは魏の面々であり、個々人の思いはそれぞれにあるにせよ、一定程度の意識統一はなされていた。それは北伐の遂行でもほぼ変わることはなかった。  だが、大鴻臚の仕事となれば、朝廷の人間も管轄下に入ってくる。彼個人の部下として配置されている者、魏から派遣されて朝廷に仕えている者、漢朝に仕え続けている者、各々の立場がある上に、彼らがその立場と一致する意志を持っているとも限らない。  純粋に漢朝に仕えながらも魏の実質支配を――それが安定している間は――受け入れている者もいれば、魏の文官でありつつ漢への崇敬を持つ者もいる。  そんな複雑な思惑が絡み合う中で、しかし、もちろん、それは直接に表に出されることはなく、言葉の裏の裏や意見の底に隠れ潜むことになる。  とりまとめる一刀としては、気も遣おうというものだ。 「まあ、七乃さんのおかげで、みんなも毒気抜かれてたけどな」  秘書官として同席してくれていた七乃は、にこにこと無邪気な笑顔でとてつもなく悪意ある言葉を吐くので、中途半端に厭味を言おうとする部下達がかえって呆気にとられてしまっていたのだ。  しかも、七乃の悪罵は的外れというわけでもないので反論しがたく、場にいる人間は居心地悪いことこの上なかったろう。だが、そんな状況でも、腹の探り合いよりはよほどましだと思う一刀であった。 「もしかして、あれかな。桂花とか詠の罵倒に慣れてるから俺は直接的に謗る方が気にならないとかか?」  酔いに任せてかぶつぶつと自問自答している間に自室の近くまで到達した彼が見たのは、なにか服のようなものを抱えてばたばたと彼の部屋に駆け込む一人の女性の姿だった。 「あれ? 稟か?」  暗いせいで確実にはわからなかったが、廊下の燭台の光にちらりと反射したのは、稟の眼鏡のように見えた。  足を速めるでもなく、そのまま自室の前に行き、少し様子を窺う。扉の脇に座り込み、中の気配が大きく動く様子が無くなったところで、ようやく彼は立ち上がった。 「稟? 着替え中かな?」  言いながら、こんこんとノックしてみる。近づく人の気配と共に、慌てたような声が返って来た。 「一刀殿? も、もう大丈夫です!」 「そっか。じゃあ」  開けるね、という前に、むこうから開けられた。  そこに立っていたのは、いつもとは違う衣装に身を包んだ稟。  くるぶしまで隠れそうな服の色は、浅葱色。普段着ている服と同じ色をそのまま使っているのに、一刀もよく知るワンピースの形態となると印象が変わってくる。その上には刺繍の施された純白のエプロン。頭には、髪を覆うようにこれも真白いメイドキャップがのっかっている。  一刀からすると古典的な『めいど服』は、彼女の凛とした容姿に実によく似合った。それでも妙に張り詰めたように感じないのは、色合いが明るく、軽やかに見えるからだろう。  あるいは、彼女がいつも手袋に包んで見せないたおやかな指が、いまはあらわになっているからかもしれない。 「いつも思うけど」  彼女に導かれるように部屋に入りながら、一刀は小声で囁くように言う。稟は身を寄せて彼の言葉を聞き取ろうとした。 「はい?」 「よく似合うよ」 「ま、またそのような……。酔っているのですか?」  顔を赤くするでもなく、それでも声だけは少し震わせて、彼女はすたすたと部屋の中へ戻っていく。一応鍵を確認してから、一刀は振り向いて笑った。 「少しはね。でも、正体を失う程じゃない」 「水を用意しますね」  部屋の奥に向かって水を汲んで戻ってきた稟は、一刀が座り込んだ卓に水の満たされた杯を置くとそのまま頭を下げた。 「申し訳ありません。夜しか来られなくて……。あの二人の代役を務めねばならないというのに……」  この言葉の通り、稟はいま洛陽にはいない月と詠の代役として、一刀の『めいど』を務めている。形式的には、これは彼女への罰ということになっていた。  だが、郭嘉は魏を代表する三軍師の一人でもある。いかに調整しようと一刀の部屋を掃除したり、洗濯を行ったりする時間を捻り出すのは難しい。  だから、彼女は、一刀が寝る前に閨の準備をすることと、夕食後の時間に詰めるくらいのことしか出来ていなかった。 「しかたないさ。軍師の仕事だってあるんだ。それと、駆けてこなくてもいいよ。危ないから」  一刀とて、稟の忙しさは重々承知している。それでもきまじめな彼女が少しでも役目を果たそうと息せき切って走りこんでくるのが嬉しくもあり、くすぐったくもあった。 「み、見ていたのですか!?」 「ちらっとね」  良いながら片眼をつぶってみせると、さすがに顔を赤くする稟。彼女は取り繕うように早口で次の言葉を吐いた。 「と、ともかく、今日仕事を仕上げてしまったので、明日はこちらに詰められます。会議もありませんから……あ、その、空いた時間に書類を見るのを許してもらいたいのですが……」 「それは構わないよ。そうか、明日はいられるんだね」 「はい。最終日くらいは一日全部めいどの仕事をするように、と華琳様が。近々の予定は明後日の午後の会議です。もちろん、緊急事態があるようなことがなければですが……。その時は一刀殿も構っていられないでしょうし……」  稟はそこで少しもじもじとしながら言葉を続ける。 「一応、その、罰ということになっていますから。もちろん、個人的には苦にはなりませんが、しかしながら……」  彼女の言葉は続いている。だが、一刀はその中に含まれたある言葉に気づき、意表を突かれたような表情になっていた。 「最終日……か」  その意味するところが、彼に、ある事を思い出させた。  しばらく前の、ちょうど、華琳や一刀が洛陽へ帰って来てほどなくのこと。  稟と風、それにその主たる華琳の三人は北伐に関する事柄の確認をした後、昼食を共に摂っていた。 「最近、鼻血はどうなの、稟?」  艶やかな笑顔でそう訊ねかける華琳。一般的な君主としての心配の感情を超えたものが混入されているのが、その表情からして明白だった。 「あ、それは……その……昔よりは……」 「稟ちゃんはですねー、阿喜ちゃんをお腹におさめていた頃と、頻繁に乳をやっている頃はあまり鼻血を出さなかったのですよー。ただ、最近、阿喜ちゃんがお乳だけじゃなくなってきているせいか、たまに噴いているようですよー」  表情を崩さないように注意しながらも顔を赤らめてしまう親友に助け船を出す風。彼女の言葉に、華琳は驚いたような顔つきになった。 「あら、阿喜はごはんを食べるようになったの?」 「はい。まだ粥ですが、乳以外も摂るようになっています」  これはさすがに冷静に答えられるのか、穏やかな笑みで我が子の事を語る稟。 「子供はすぐ大きくなるものね……」  時の流れを実感するのか、何とも言えない静かな表情になる華琳。奇妙にあたたかな静寂がしばし流れる。 「で、話を戻しますけど、子を育てる緊張感から、鼻血が抑えられていたのではないかと、華佗さんは言ってましたねー」 「一刀殿は、ええと、ほるもん? とやらが関係しているのではないかなどと言っていましたが」 「ふうん。ということは……阿喜が大きく……というより手がかからなくなると、また?」  華琳の予測に、稟は縮こまり、風はしかたないという風に頷いた。 「可能性はありますねー」 「まあ、それでも昔に比べたらましだけれど……」 「たしかにー。ちょっとしたいたずらくらいは、なんとかあしらえるようになっていますしねー」  そこで、彼女はぼんやりとした表情のまま首を横に倒した。宝ャが落ちかけるのを、手で押さえながら。 「華琳様は、稟ちゃんを食べちゃってなかったんですかー?」 「こら、風!」  真っ赤になって叫ぶ稟に流し目をくれながら、華琳は小さくため息をつく。 「子もできたことだし、北伐もあったから、閨に呼んでみる暇がなかったのよねえ」 「それは残念でしたねー」 「しかたないわ。阿喜と一緒にいる時間を邪魔したくはないからね」  淡々ときわどい話を交わす二人に対して、稟は複雑な表情で黙っていた。その様子を見て取ったか、風がにやにやと笑いながら切り出す。 「でも、稟ちゃん、鼻血が元に戻ったら、あの夢の叶え時じゃないですかー」 「夢?」 「え?」  聞き返す声は二つ。稟自身がなにを言われたのかよくわかっていなかった。 「すごいんですよー、鼻血を噴いてもさらにしてくれたら、とかなんとかー」 「ああ、あれは冗談ですよ、風」  思い出した、というように反応する稟に、風は、おや? という顔をする。からかうつもりがあてが外れたのだろう。 「いつもの、血を噴くような幻ですらない……なんというか、お遊びのようなものです」 「あら、本当に冷静ね。……一歩引いたものなのかしら?」 「ええ。さすがにありえなさすぎて、現実味がないといいますか……」  苦笑いで続ける稟に、華琳はかえって興味を惹かれたか、茶杯を傾けながら、さらににじり寄る。 「どういうものかしら? 興味あるわね」 「ばかばかしい話ですよ。夢想を、そのまま現実にしてくれたなら……というものです」  ぽつぽつと稟は話し始める。顔を朱に染めるでもなく、自嘲気味に語る様子は、少し淋しげであった。 「私がいつも思い描いては倒れてしまうそのものを直にぶつけてくれて、しかも血を噴いてもやめないでくれたなら……もしかして、乗り越えられるのではないか、なんて……夢物語です」 「ふぅん?」 「華琳様は一刀殿に私と風を磨き上げるように命じられましたが、あの方はお優しいし、なにより、私がしている空想の、万分の一も知りません。ですから普通の女にするようにしか……その……」  紅潮して口を濁す稟。さすがの華琳もこれには苦笑いを返した。 「まあ、そうでしょうね」 「私のはしたない考えも、艶本で仕入れたような知識も、全てそのままに再現……いえ、華琳様や一刀殿ならさらなるものをもたらせるはず。それを受け入れられれば、もしや……と」  実際にそれを想像するのではなく、論理的に考えているからか、稟が鼻血を噴くような兆候はない。あるいはすでに何度も考えすぎて、もう慣れてしまっているのかもしれなかった。 「うーん、それは難しいですねえ。稟ちゃんのわき出て止まらない夢を引き出す時点で鼻血噴かれて倒れちゃいますからねー。それをさらに……というのはー」 「ええ、ですから、これは鼻血を噴く以前の笑い話でしかないわけですよ」  あはは、と乾いた笑いを見せる稟は、それを聞いた華琳の目がすっと細くなり、鈍い光を放ち始めているのに気づかない。 「笑い話……ねえ」  魏の覇王、いや、大陸一の美女好きの女性が、そう呟く。その口元は、うっすらと笑みに彩られていた。  華琳本人から聞いた彼女達三人の会話の一端を思い出し、一刀は改めて稟を見つめる。彼女は新しい敷布を抱えて寝室へ向かおうとしているところだった。そのあとをひょこひょことついていく。  彼女は慣れない手つきながら、一刀の寝台を整えていく。それは詠や月の動きに比べればぎこちなく時間もかかるものだったが、性格からか四隅もきっちりと収まり、寝台中にぴしっと張られた布はできあがってみれば、とても綺麗に見えた。  作業が終わった辺りで、戸口に寄りかかって見ていた一刀は声をかける。 「あのさ、稟」 「はい?」  くずかごを持ち上げていた稟が彼の方を振り返る。何か用事と思ったのか、彼女はかごを置き近づいてきた。 「実は最終日には、その……華琳から言われていることがあるんだよね」 「はあ。なんでしょう?」 「稟の夢を叶えてやれって」  そう言われても稟はなんのことかわからない。かわいらしい服に身を包んだ知謀の士は、眼鏡を押しあげながら、どういうことだろうと考えを巡らせる。その間、一刀は彼女に近づきながら、言葉を選んでいた。 「稟の考えている妄想をね、引き出して、全部実現させてみせろって」 「は、はい?」 「鼻血を噴いても、気を失っても、それでも続けてやれってね」  そこまで言われて、彼女は彼の言葉の内容を理解した。以前、華琳と話したことが、頭の隅で思い出される。驚きに包まれながら、彼女の膚は首筋まで朱に染まった。 「は? え、まさか、華琳様が、いや、しかし」 「もちろん、それは俺もしてやりたいことだし」  一刀の腕が、ゆっくりと稟の腰に周り、引き寄せられる。その温もりを振り払うことは、彼女には出来なかった。 「それじゃ、その下準備に、今晩はゆっくり見せて貰おうかな。稟の頭の中の世界を」 「え、いや、それは……しかし、え、でも……か、一刀殿……うむっ……」  抱きしめられ、口づけられて、稟は言葉を封じられる。形だけの抵抗は、男の手によって簡単に排除された。  そして、彼女の頭の中では、一つの言葉が繰り返される。 『華琳様の言いつけならば……』  それは、彼女にとって、最高の麻薬のようなもの。絡め取られるのがわかっていながら、けして逆らうことも、無視することもできない。まして、それを実行するのが、北郷一刀という人物ならば。  そうして、彼らは、先ほど彼女が整えた寝台を乱す作業へと没入していった。  4.夢幻  それは、まさに彼女が普段思い描く白日夢の世界だった。  一刀は数多い仕事を一段落させる度に部屋に戻ってきては、稟を抱いた。いや、そもそも、朝起きたのは一刀に愛撫されながらだった。そのまま抱かれ、そして、朝食を給仕しながら奉仕させられる。否、それは昼食の時だったろうか。  犬のように鎖で繋がれ、部屋の中を四つん這いで歩かされたのは、朝か? 午後だったか?  食卓にうつぶせにしばりつけられ、犯されたのは、いつのことだったろう? 鼻血を噴いても水をかけられて起こされ、水分と塩分補給に塩水を――犬がするように容器から直に――飲まされた後で、またさんざんに体をもてあそばれたのは?  あるいはあくまでも優しく、体中を触るか触らないか、羽毛のような感触をもたらす指先で愛撫され続けたのは、いつのことだ? そして、あのいつ終わるとも知れぬ永遠にも思えた時間は、実際にはどれほどの時だったのだろう。  時系列もはっきり把握できないほど、稟の頭は混乱し、興奮し続けていた。  それらはまさに前夜、閨の中で語らされた内容そのままだった。  一刀は稟に鼻血を噴かせないよう、さんざん昂ぶらせ、絶頂を迎えさせながら、彼女の妄想を引き出したのだ。快楽と、自分の渇望を語らされる恥ずかしさの中で、稟自身、どれだけのことを口走ったのか、正確には覚えていない。おそらくうわごとのような単語の連なりの中から、一刀が理解できたものを引き出し、実現できないものは排除し、出来ることを膨らませたのだろう。  実際、命じられ、それをさせられる度に、ああ、これがまさに自分が夢想していた行為だと思い知らされるような事ばかりだった。  もちろん、想像の世界と違い、現実には可能なことと不可能なことがある。  公衆の面前だとか、幾人にも犯されるだとかいうのは言われるまでもなく無理だとわかっているし、全裸のまま縛り上げて放置というのは、動けない間に鼻血を噴いて窒息してしまうことを考慮すると出来るわけもない。  それでも、一刀がしかけてくる行為の全ては、彼女の幻想そのものであった。こうして、一人、部屋で彼を待つ時間さえ、もはや幻夢の中にいるかのよう。  ただ、不思議なこともある。  たとえば、いま、服の下に身につけさせられている扇情的な下着。  ほとんど意味をなしていない、布と言うよりは紐のようなそれは、昨晩聞いてすぐ用意できるようなものではないはずだ。  乳首と割れ目をぎりぎり隠すだけのそれは、布の部分が極端に少なく、明らかに下着としての機能を果たしていない。それどころか、かえってその小さな布部分が隠すべきものの存在を強調させ、彼が部屋にいない時でも彼女を昂ぶらせつづけている。だが、それと同時にどこから持ってきたのか不思議にも思う。  もしかしたら、前々から私にこれを着せる妄想を、彼もしていたのではないか。  稟の頭脳はそんなことまで考え始めてしまう。  こんなに体にぴったりなものは、彼女の体型を把握している者にしか用意できまい。子供を産んでから、元に戻りつつある体の線を知っているのは彼女以外には……。  そんなことを考えるだけでぞくぞくする。  考えすぎかもしれない。ただ、既成のものを適当にもってきただけかもしれない。そう自分でも否定するのに、紐のような下着が敏感になった膚をこする度、乳首がわずかな布を押し上げているのを自覚する度、彼もまた待ち望んでいたのだという確信が強くなる。  艶本でも、ここまでのことを想起させてはくれなかった。  もはや、妄想なのか現実なのかわからないくらいだった。あるいは、自分は一刀のように別の世界にとばされたのではないかという疑念すら、彼女のぼうっとした頭は抱きはじめる。  稟はそんな不安をはねのけるように、無駄とわかりつつも書類に目を落とす。今日読み込んでおくはずの書類は、もちろん、一行も読めていない。字を追うより早く、興奮と欲情が彼女を捕らえ、放してくれないのだ。  華琳が次の予定を午後にした理由がわかった気がした。実際、華琳は今日のために様々な手を打ったのだろう。一刀が頻繁に抜け出て彼女を嬲る時間があるというのも、華琳の手回しに違いない。本来ならば、彼にそこまでの暇があるわけもない。 「お恨み申し上げます、華琳様……」  恨み言を呟く声も、また、濡れている。  口移しで食べさせあったりする夕食が終わった後、稟は服を脱ぐよう命じられた。胴をしめつける紐をゆっくりと緩めながら、彼女はそれに続く行為を期待して膚を上気させるのを止められない。  一刀につけさせられた下着だけ、すなわちほとんど体を隠しようもない姿になった稟は腕を使ってなんとか胸と下を隠しながら、一刀に導かれるまま寝室へと移動する。  そこには大型の椅子に見えるものが設置されていた。 「これは……」  背もたれや肘掛けにごてごてとした装置のようなものや、金属の環が取り付けられたそれを見て、稟はぶるりと体を震わせる。彼女はそれをよく知っていた。  元々は真桜が華佗に請われて開発した、手術用の椅子だ。手術をする時に患者の体を固定する必要がある為にがっちりとつくられたそれを知った稟が、罪人の刑罰にも利用できるのではないかと進言したものだ。  真桜が刑罰用に新しく造っていたはずだが、それがここにあるということは……。  硬直する稟の横を通り抜けて、一刀はさっさとその椅子の横に立つ。 「座って」  当然、そう言われるだろうと予想はしていたが、実際に言われてみると、体の震えはさらに強くなった。  もっと冷たく突き放すように言ってくれれば、すんなりと従えたかも知れないというのに。  一刀の温かな言い方になぜか妙な不満を覚える。それが恐怖――と期待――の裏返しであると聡明な彼女はわかっている。わかってしまう。 「か、一刀殿。なにもこんなにしなくとも……それに、拘束はしないと……」 「拘束しないのは、誰も居ない時が危ないからだろ? 俺がいるから大丈夫だよ」  にっこりと笑って言われる。その邪気の無さに、彼女は近づいて行ってしまう。自分がいやらしい格好で男の側にいるというだけで、かっと体が燃えるような心地がした。 「そ、それにしたって……」  椅子や柱に縛り付けられる妄想は、たしかに彼女もしたことがある。実際、今日も縛られた。  しかし、この椅子だと、頭まで木組みでがっちり固定され、首を動かすことも出来なくなるはず。 「嫌ならやめるよ」 「……知っているくせに……」  嫌なわけではない。ただ、少し怖い。一刀になにかされるとかそういう不安とは関係ない。これは本能的なものだろう。  装置をじっと見つめている稟を、一刀はゆっくりと抱き寄せる。その胸におさまるだけで安心するくせに、心臓の鼓動は逆に早まる。その矛盾が、ほんのわずかだけ残る彼女の冷静な部分を面白がらせた。 「稟を傷つけたりはしないよ」 「……はい」  その言葉で、恐怖などどうでもよくなった。ただ、彼に抱きしめられ、触れられた膚が、熱い。  ぼんやりとした感覚のまま、彼女は椅子に座り、腕を、肩を、首を、足首を固定された。まっすぐ前を向くことしか、すでに彼女には出来ない。 「お尻痛かったりしない?」 「はい、それは」  医療用のものを流用したからか、特注なのか、背もたれと座面、それに肘掛けには緩衝材がたっぷりと使われていた。座り心地は普段の椅子よりよほどいい。 「じゃあ、もういいか」  その言葉は彼女にかけられたものではなかった。あきらかに違う方を向いている彼の視線を追いたくても、首を動かすわけにはいかない。 「だ、誰かいるのですか!?」 「落ち着いて、稟」  一刀は静かな声で言い、安心させるように彼女の肩に手をかける。動けない彼女は、ただ近づいてくる気配を感じ取り、そして、視界に入ったその人物を見るに至って、目を極限まで見開いた。 「こんばんは、稟」  碧い瞳に金の髪、大陸中の誰もが知るその美しい顔の持ち主こそ。 「か、か、か、華琳様!」  彼女の主にして、大陸の覇王、華琳その人であった。  5.直視  その人は、戦友であり、同志であり、我が子を授けてくれた人であった。  その人は、あこがれであり、愛しき人であり、なによりも尊い主であった。  だが――。  いま、目の前にいるのは、紛れもない、『男』と『女』。  自分を抱く男なら、見たことはある。自分の処女を奪い、子をなした男は知っている。  戯れに他の女性との閨での出来事を話す女の姿を見たこともある。自分に触れようとする女の姿も知っている。  だが、こんな光景は、彼女の妄想の中にすらなかった。  あの覇王が、この大陸の覇者が、跪き、男の股間に顔を埋めているなど!  きっと鼻血を噴くと思っていた。  意識を失うほどの血を失うと思っていた。  だが、それさえ許されない。  興奮は出口すらみつけられず、彼女の体中を駆け巡り、身動きすらとらせずにいた。鼻血どころか、体中の穴という穴から血も汗も涙も全て噴き出してしまいそうなのに、興奮が、いや、愉悦がそれを許さない。  頭の中では、ばちばちと火花が飛ぶような感覚。膚の上には、炎が燃え上がるような感触。  首を動かして視線を他にやることも出来ず、彼女はその光景を見続ける。眼前でむつみ合う二人の動きにあわせて、快楽が荒れ狂う。 「死ぬ……。死にます、絶対死んでしま、い、ます……」  本当に事切れそうなほど小さく、呻くような呟きを聞きつけたか、金色の髪の少女が、男の股間で律動的に動かしていた顔を大きく引き離した。  その唇が外れる時には、大量の唾液が垂れ落ちると共に、ちゅぽん、と音がした。指は相変わらず男の剛直をしごきあげ続けている。 「だめよ、稟。目をそらすことも、意識を失うことも、ましてや、ここで死ぬなんて、絶対に許さないわ」  凄絶なほどの色気を感じさせる流し目で、彼女は稟を見る。その一方で触れている男にも意識をちゃんとやっているのだと安心させるように、指は動く。 「それに、まだ口でしかしてないんだから。私が一刀に気持ちよくさせられているところも見てもらわなきゃ」 「はぁっ、はっ、はっ」  もはや、稟の返事も言葉の意味をなしていない。全力疾走した人間のような、獣が押し殺す呻きのようなそれを漏らしながら、彼女は鼻血を垂らしてもいないし、目をそむけてもない。  その様子に華琳は満足そうに頷いて、再び大きく口を開き、一刀のものを受け入れた。  その動きの一つ一つが稟にとっては拷問であり、愉楽であり、妄想以上の現実を認識させてくれるものだった。  唇を犯すように侵入していく男のものを見つめながら、稟は口中に同じ感触を受けている。自らの舌が、架空の男根をいやらしくねぶるように動いているのを、彼女は戦慄と共に意識した。  頭をゆっくりと掌がなでる。金髪の少女の頬はさらに朱を強め、むずがるように形よい尻を振った。稟の拘束された体も、許されたわずかな範囲だけで同じようにくねる。膚を覆う、極限に小さい面積しか持たない艶めかしい下着が、ぐじゅりと音をたてた。それが汗なのか、自分が分泌した愛液がゆえなのか、それすらも彼女にはわからない。いいや、もしかしたら、さんざん注がれた一刀の精かもしれない。  いつの間にか、華琳は本格的に男から快楽を引き出そうとする動きに入っていた。じゅぼじゅぼと大きな音をたてるのも厭わず、その顔を振っている。軽くすぼめられた唇と、口内で激しく動いているであろう舌先。そして、時折頬がぽこりと出っ張る様は、おそらく頬肉で彼の膨らんだ先をこすっているのだろう。 「あ……あああ……ひゅわ……」  泡になった唾液が、華琳の白い喉をだらだらとこぼれ落ちていく。それと同じように、稟の唇の端からも、口内にわき出た唾がこぼれ、その首筋をべたべたにしていく。  何度も犯された。あの硬く、太く、反り返ったもので。  何度も幻視した。あの美しい肢体を。喜びに彩られる顔を。  仮想と経験、頭の中の出来事と、この体が覚えさせられた事。  全てがいりまじる。  犯して欲しい。  触れて欲しい。  囁いて欲しい。  胎内を満たして欲しい。  欲望と、様々な感情と、そこから導かれるはずの感覚が彼女を襲い、その体を痙攣させる。  そして、それは、男が女の口中に精を放った瞬間に、最高潮を迎えた。 「はふっ……かりっ……かず……」  深い青の両目は焦点を失い、とめどない涙を吐き出す。かたかたと揺れる眼鏡のむこう側で、涙とよだれでぐちょぐちょの顔はたしかに喜悦を刻んでいる。  稟は、一度も触れられることなく、間違いなく絶頂を迎えていた。  舌を突き出し、よだれを垂れ流しながら、彼女の顔は童女のような純粋な喜びの表情に彩られていた。  6.垂涎  ただ、見ているだけで。  意識を手放すような絶頂を経て再び状況を把握した稟は、ぼんやりとした頭と、まだ涙でよく見えない視界の中、愕然とその事実を受け止める。  二人の口淫を見せつけられただけで、彼女の体は極みへと持ち上げられてしまった。  固定された視界とそこで動いているものに少しずつ意識が戻っていく中で、彼女は首を振って意識を切り替えられないのがなんとも残念に感じた。  しかし、かえってよかったのかもしれない。  もし、そうして一息に意識を普段の水準に引き戻していたら、いま、目の前にしているものを一気に受け止めることになり、彼女はまた混乱と激情の中に取り込まれてしまったろうから。  だから、彼女は朦朧とした意識と視界で、それらをゆっくりと受け止めていった。  嬌声を。  肉のぶつかりあう音を。  二つの体が絡み合う光景を。  なにが起きているのか、彼女はようやく理解する。今度は、一刀と華琳、その二人が稟の前で繋がり合っていたのだった。  寝台に寝た華琳の小さい体に覆い被さる一刀は、その動きからして、ゆっくりと優しく彼女を責めている。対する華琳もまた、男の体の下で、なまめかしく腰をはねあげ、その膚に汗をしたたらせ、歓びの声をあげている。  それは、ひとりのか弱い少女の姿。  しっかりと指をからませてお互いをつなぎとめるようにしているその姿を見て、彼女がこの大陸に覇を唱える人物だと、三国の頂点に立つ女性だと思う者がいるだろうか。  しかし、なぜだろう。幻滅という感情はわいてこなかった。  それよりも、自分もあの二人の間にいたかった。からめあう舌に、自分も参加したかった。そこに自分がいないことに、恨めしいものさえ感じていた。 「華琳」  彼女が意識を取り戻したことに気づいたらしい一刀が声をかけ、体を持ち上げる。華琳も名を呼ばれて、それまでの忘我の境地から普段の自信満々の笑みへと表情を変える。 「あら、ようやく起きたのね。その間に楽しませてもらってるわよ」  華琳も手をついて体を起こし、一刀とつながったまま彼女に語りかける。 「は、ひ……」  稟はまともに答えるのも難しい。その様子を見て、華琳はさらに笑みを深くした。その途端、彼女の中を一刀のものがえぐったのか、思わず喘ぎをあげる華琳。 「一刀!」  怒ったように言う華琳に、一刀はこたえた様子もなく、彼女を強く抱き寄せる。 「だって、せっかくだし、よく見せてあげなきゃ」 「きゃっ」  抱えるようにされた華琳は、一刀の手によってゆっくりと向きを変えられる。意図を悟ったのか、されるほうの彼女も途中からは協力して、背面座位へと体位を変えた。  拘束された稟の真っ正面に一刀は座り直し、その上に乗った華琳もまた、稟と正対する。美しい線を描く華琳の体も、つんととがった乳首も、汗に濡れた脇腹も、大きく割り広げられたすらりと伸びる両脚も、そして、彼のものに突き上げられる彼女の秘所も。  その全てが見えた。見せつけられた。  そして、その彼女を抱き上げ、膚に指をはわせる彼の姿も。 「ほら。俺と華琳がつながってるところがよく見えるだろう?」  稟は頷こうとして、引っ張られる感覚に、頭が固定されていることを思い出す。 「はひ……」 「ふふ、死んではいないようね?」  華琳は後ろに手を回し、一刀の首につかまるようにしてその体を支えていた。その姿勢が、さらに彼女の体を稟にさらけ出して見せつける。 「は……い」  ごくり、と唾を飲み込み、稟はなんとか言葉を紡ぐ。先ほど口淫を見せつけられた時と同等、いや、さらに強烈な興奮が訪れているというのに、華琳の瞳に見つめられていると、その興奮は逆に頭の中を透明にしていった。欲望が、夢想が、秘めていた感情が、形になって浮かび上がる。  先ほどが嵐だとすれば、いまは噴火前の溶岩のようだ。ぐつぐつと煮えたぎるものが、なにかはけ口を求めている。 「どう? 私たち、んっ、稟には、どう見えるかしら?」 「美しい」  間髪入れず、彼女は言い切った。華琳も一刀もその答えに驚きの表情を浮かべる。だが、二人とも、体の動きは一瞬も止まることがなかった。 「へえ」 「華琳様も、一刀殿も、浅ましく、淫蕩で、獣のようです。だからこそ、美しい。あなたたちの欲望が、快楽が、まっすぐに私を打ちます。それほどのあけすけな欲望は、私にとっては、まぶしい限り」 「……意外ね。んっ、さっきまでの様子だと、もっと……あふっ、感情的な答えが返ってくると……思ったけれど」  嬌声を挟みつつ、華琳は楽しそうに稟に語りかける。強い突き上げで、時折声がひっくり返るのはご愛敬というものだろう。 「ええ。私自身、予想外です。しかし、先ほどと違うのは、きっと、いま、私がそこにいたいからでしょう。お二人の美を壊すことになるかもしれないと恐れつつも、いま、私はその渦中にありたい」  体は相変わらず燃え上がるよう。目の前の女性の秘唇を押し広げて肉棒が動く度、かつて同じように犯されたときの快楽が、体中を走っている。それでも、稟の舌は痺れることなく、二人への賛美を形作れる。  その理由は、きっと…… 「へえ?」 「こんな椅子など打ち壊して、お二人の間にいられるならば、千金でも積み上げましょう!」  血涙を流すかのような叫びが、彼女の喉からほとばしった。 「あらあら。聞いた?」 「ああ、聞いた」  名残惜しいけれど、と華琳は呟いて、その足を床に下ろし、一刀は腰を引いた。華琳は右から、一刀は左から彼女の拘束を解いていった。突然のことに、稟はなにも言えず、二人のなすがままになっていた。 「さあ、いらっしゃい、稟」  腰がぬけている稟の体を、一刀が軽々と持ち上げる。彼女の手を引く華琳と共に、三人は寝台へと移動する。 「三人で楽しみましょう」  その言葉が、呆然とする稟の頭をさらに燃え立たせた。  7.誓約 「真桜のつくるものは、射精機能がついているのが普通だけれど、今回のは特別なのよ」  男根を模した絡繰を自分の中にも埋めている華琳は、一刀に抱きしめられ、その膚をなであげられている稟に話しかける。革紐を腰にかけ完全に固定すると、華琳の体に男のものが生えているようにも見える。それは、あまりに淫靡な光景であった。 「これをつけた者の中からその射精する液体を取り込むのよ。もちろん、別で補充も可能だけどね」 「あふっ、それは……」  とろとろにとろかされた秘所を男の指でかきまぜられ、自分の汁の音を意識させられながら、稟はなんとか問い返す。 「つまりは、私の雫と、一刀がさっき私の中に出したものが混じるってわけね。ああ、口に出してもらったものもね」 「俺と華琳、二人分で愛してあげるってことだよ」  耳元で囁かれる。その甘い声が脳天に響くよう。もしかして、この人達は、人間の体を本当に溶かしてしまう術を知っているのではないだろうか。そんなよくわからない妄想が煮えたぎる頭の中で反響する。 「ふたり……ぶん?」 「前と後ろよ」 「二人同時などと、そのような……む、無理です。無理にきまって……あっ」  ずいと近寄られた華琳にも逆の耳に囁かれ、しかし、今度はその意味するところを理解して、稟は恐怖に体を震わせた。二つの穴を同時になど、耐えられるとも思えない。ここまできて失神してしまい、二人を落胆させることこそ、彼女にとっては恐怖だった。 「華佗特製の潤滑剤もあるし、大丈夫さ」 「そ、そういうことを気にしているわけでは!」  体のことを気遣ってくれるのは心底嬉しいが、いまはそんなことを言っているのではない。なにより、そう囁くと同時に陰核をひねって軽く達させるなど、この男は鬼なのか優しいのかよくわからない。  びくりと体を震わせた途端、細い指が、彼女の後ろの門に触れた。 「ひあっ」 「知っているのよ? 私があなたの後ろのはじめてをもらうと言って以来、ちゃぁんと準備しているってこと」 「な、な、な……」  碧い瞳に見つめられると、心の奥底まで覗き込まれるようだ。いま、彼女がいじくっている性器ではない場所が、紛れもない快楽を発していることを隠し通せるとはとても思えなかった。 「まあ、真桜がお菊ちゃん管理してるからなあ。俺と華琳には隠せないだろ、真桜も」 「いや、しかし!」  それでも、すがりつくようにして、彼女は男のほうへと首をひねる。しかし、そこに浮かんでいた温かな笑みは、希望よりも絶望をこそ彼女にもたらした。  彼女は思い知る。  もはや逃げることはかなわないのだと。  そして、堕ちきることを望んでいる自分がいることも。 「何度気を失ってもいいのよ。今日は一刀もいるし、興がそがれることもないわ」 「あ、あ、あ、あ……」  それは感謝だったのかもしれない。あるいは恐怖の言葉だったかもしれない。だが、実際にはそれらの感情を全て塗りつぶす快楽への期待が、その声を押し出していた。  もうなにがなんだかわからなかった。  前を向けば、細いくせに意外にたくましい筋肉をつけた男の胸がある。後ろを向けば、空気に溶け込んでいきそうな金の髪が揺れている。  四本の手は彼女の体の全ての場所に一時に触れているよう。  二つの唇と舌は、彼女の体中にその跡をのこしていく。  彼女が自分たちの所有物だと、彼女自身に、そして、世界中の人間に知らしめるように。  なによりも、体の中をえぐる二本の男根の、その動きよ。  肉の棒は、繊細な動きと圧力で彼女の弱い部分を的確に突き、その大きさがもたらす圧迫感で、安心と征服感を同時に味合わせてくれる。  絡繰は、人間には出来ない連続した振動で、尻の肉をえぐっていく。本来は入るべきではない場所にあるそれは、まるで身体全体が串刺しにされたかのような感覚を彼女にもたらす。  そして、それら二つが中でこすりあわされた時の衝撃たるや。  快楽を生み出す部分を肉の裏側から圧された時、どんな感覚が走るのか、彼女は初めて理解した。  その物足りないような、それでいてじんじんと響くような感覚のあとで、その場所を実際にこすられる。  何度も何度も彼女は悲鳴をあげた。  許してくれ、と何度懇願したろう。  もっとしてくれ、と何度ねだったろう。  快楽は恐怖であり、戦慄は快感であった。  相手も、何度か達していたようだった。体の中にぶちまけられる感覚は、もはや絶頂と同義だった。  戻れないな。  彼女は諦めのような感覚でそう悟った。  もはや、何も知らなかった頃には戻ることはかなわない。  ただ、自分の頭の中にかまけて、鼻血を噴いていた頃にはもう帰ることは出来ない。  快楽が、問題なのではない。  快楽をお膳立てしてくれた、この二人こそが問題なのだ。  胸の中が苦しいほど熱く切ないのを、稟ははっきりと感じた。  舌を懸命にのばし、三人でぴちゃぴちゃと音を鳴らす。そこから、なんとか顔を引き離し、彼女はしばらくぶりに意味のある言葉を発した。 「約束……やく、そく、……を!」 「約束? 一刀、なにか取り決めていたの?」 「え? いや……?」  後ろからは聞き返す声がかかり、前からは戸惑うような声がした。二人が動きを緩めようとするのを、腰の動きで牽制しながら、彼女は言葉を続ける。 「そうでは……ありまっ、いま、いま、約束してくださいま……せ!」 「なにを? 稟」  意図を理解したのか、動きを早める華琳にほっとしながら、彼女はゆっくりと息を吸い、そして、静かに告げた。 「お二人とも、私より先に死ぬことは許しません」 「……稟」 「このように、このように、私を壊した以上、お二人に約束願います。私より確かに長く生きると」  なにとも知れぬ液にまみれながら、彼女は言う。同じようにお互いの体液に汚れた二人に向けて、はっきりと彼女は言う。  獣の享楽におぼれながら、彼女は言う。 「いいでしょう。稟」 「ああ、約束する」  二人もまた、言葉を発した。肉の欲望にまみれながら、彼らは誓う。 「この知謀も、この肉体も、この欲望も、感情も、全てをもって!」  稟の両手が天へと掲げられる。  その体が痙攣し、瞳からは涙が、口からは泡をたてた唾液が、音を立てて流れゆく。 「郭奉孝の神算鬼謀、全てを、あなた方に!」 「ふふっ」  気絶した稟を掛け布で覆ってやってから、一刀は寝台に腰掛けている華琳の横に座った。華琳はその体重を彼に預けてくる。まだ火照った二人の膚が触れあい、お互いの熱を伝え合う。 「どうした?」 「いえ、稟も大したものだと思って。まさか、私たち二人に責められながら、あんなことを言って達するとはね」 「目が覚めたとき、覚えてるかどうかはわからないけどね」  背後で眠っている稟をちらっと見やり、一刀は苦笑いを込めて呟く。華琳は拗ねたように頬を膨らませて彼を見上げた。 「あら? 一刀は稟が覚えていないと言ったら、あの約束を忘れてしまうの?」 「まさか」  心外だ、というように目を見開く一刀。彼は今度は首をひねって稟を見ながら、はっきりと言った。 「閨の中の約束は夢のようなものだけど、あれは違うだろう」  それから一刀は顔を戻し、見上げてくる華琳の瞳を覗き込む。 「それに、改めてするまでもなく、俺はみんなより先にいなくなるつもりはないよ」 「……そうね」  彼女はそれ以上、なにも言わなかった。  一刀もまた、余計なことを付け加えようとはしない。  ただ、彼の腰に手を回していた華琳が、その腕にきゅうと力を入れるのに応じて、ゆっくりとその金の髪をくしけずるだけであった。  8.驪山(りざん) 「えーと、今日の量は……」  大の大人の背丈ほどもある大きな桶の前に置かれた台の上に立ち、中の水位を確認しているのは小柄ながら強気そうな眼鏡の女性。彼女はもうもうと立ち上がる湯気に曇る眼鏡を手にとって綺麗に拭き、今度は湯気を避けるようにして確認する。 「ん、よし、記録終わり」  桶の片側に取り付けられた木片を少し緩めると、その下から突き出た竹の管にお湯が流れ始める音がする。それを確認して、彼女はひょいと台を降りた。翡翠色の三つ編みがその拍子に大きく揺れた。 「詠ちゃーん、第二源泉の確認も終わったよー」  そこに聞こえてきたのは、かわいらしい声。ゆっくりと近づいてくるのは、何枚も重ねた美しい衣装に身を包んだ女性と、その背後で戦斧を掲げて付き従うすらっとした女性の姿だった。  二人が合流すると、最初の女性――詠は表情を緩める。 「ありがと、月。今日は山際の第三源泉の確認はなしだし、これで終わりね」  線の細い女性――月から竹簡を受け取り確認すると、詠はそう言って笑いかける。 「まだお昼前なのに、暇になっちゃったね」  月は困ったように笑うが、詠のほうはそれに肩をすくめるばかりだ。 「まあ、実質的にはただの休暇だからね。今日もお湯につかる? それともどこか行こうか?」 「ううん。せっかくだし、ゆっくりしよ。華雄さんもそれでいいですか?」  月は背後を振り向き、彼女達の護衛に付き従っている女性へと訊ねかけた。 「もちろん」  全員が同意して、そういうことになった。  三人は少し早い昼食を摂るために、近くに造られた建物へと向かった。見上げれば覆い被さるようにそびえ立つ山。その麓に点在する建物は、実を言えば、漢帝室の離宮であり、彼女達はその離宮の入り口の関所を使わせてもらっている立場だ。  ここは、長安から東に百里にたらぬほど。驪山湯、あるいは星辰湯と呼ばれる温泉地であり、漢に先立つ秦、そして、さらに古い周王朝から歴代の離宮が置かれたことでも有名な場所だった。  彼女達三人は、離宮と、そこに温泉を供給している源泉の調査のため派遣された――ことになっている。  実際には離宮の雨漏りや傷み具合をみるのは最初の二日で終わり、あとは源泉からわき出る湯の量を記録するわずかな時間拘束されるだけで、今日のように暇な時間が続くことになる。要するに、温泉で骨休めしてこいという華琳の計らいなのであった。  とはいえ、しばらく放置されていた離宮は整備を必要としていて、それを確認することも誰かがしなければいけないことであった。また、これはまだ腹案段階らしいが、他にも湯をひいて、庶人も利用できる一大温泉地をつくるという計画もあるようなので、源泉の調査も欠かせなかったろう。  下級役人を派遣して暇をもてあまさせるよりは、月と詠、それに華雄に恩賞代わりに任せたほうがましという判断であろう。  しばらくの後、三人は着替えを携えて、別の建物へと繋がる回廊へと姿を現した。 「いずれは、洛陽や長安の街中にも浴場をつくりたいとか言ってたけどね。そうなると、こことは違って湯を沸かさなきゃいけないし、そのあたり、どう考えてるのか……」 「ご主人様は蒸し風呂にするとか言っていらしたけど」 「それにしたって、清潔な水がね……。ここみたいに地面から出るなら楽でいいんだけどさ」 「天の国はそういうのがたくさんあったらしいぞ。家ごとに、湯がでる口があったとか」  面々はこれから湯に向かうからか、関係する話をしながら歩いて行く。多少、勘違いしているところもないではなかったが。 「そういえば、お風呂には毎日入っていたって」 「あいつの風呂好きはそういうのが関係してるのかしらね……。でも、こっちじゃあ……」 「体を綺麗にするのは大事だよね。そういう習慣づけが、病気にならないためにもいいって言うし……」  そんなことを話しているうちに、彼女達は目当ての建物の中に入る。入った途端、奥の方から熱気が漂ってきた。ためられた湯が発する熱だ。  すでに慣れっこになっている三人は、それに構うことなく服を脱ぎ、濡れないように備え付けの棚に置いて、奥へと向かった。  そこには、地面を掘り下げ、石組みで組んだ浴槽があった。幅が五歩ほど、長さが二十歩ほどというかなり大きなもので、一度に数十人が入ることができるだろう。  だが、いま利用者はたった三人だけだ。  その三人は、もわもわとした湯気の中で汗を流し、体を湯に沈める。 「ふぅーっ」 「へぅ……」  ゆっくりと湯につかると、それぞれに声をあげる詠と月。力の抜けるようなその声を、二人揃って同時に発しているのを見て、華雄はくいと口の端を持ち上げたが、それ以上のことはしなかった。 「きもちいいわねー」 「うん、気持ちいいね」  広い湯船の中で並んで座り、彼女達はため息のような会話を続けるとはなしに続ける。華雄は少し離れたところからその様子を眺めて、まるで姉妹のようだなと心の中で呟いた。  湯に沈む二つの白い体は、鍛え上げた武将の身からすれば、同じように細く儚い。詠のほうは普段は眼鏡をかけて厳しい表情と雰囲気を纏っているために気づかれないが、髪を解き、眼鏡をはずしてぼんやりと言葉を交わしている様は、月と比べても遜色がないほどに繊細でたおやかだ。あるいは風雅と言ってもいいかもしれない。  実際の所、芯が太いのも、月様の方だろう。  華雄はそんな事を考える。  詠の肝の太さを知っていてもなお彼女はそう思う。 「あ、詠ちゃん、華雄さん」 「ん?」 「私、ちょっとあっちで寝転がってきていいかな?」  月が指さすのは、大きな一枚岩だ。周囲を循環する湯で温められたその上に布を敷いて寝転がると、体がよく温まり、汗をかくのだ。 「ええ。いってらっしゃい」 「室内ならいずこでも」  詠と華雄は彼女の希望を理解すると、それぞれに頷いてみせる。 「じゃあ、行ってくるね」 「あ、月、滑らないよう気をつけてー!」 「はーい」  湯から出て湯煙の中を進む月に詠が不安そうに声をかける。それに対してくすくすと笑いながら、月は岩の上に登っていった。  それを確認し、詠は半分湯から出ていた体を戻し、ついで、何かに気づいたように、華雄のほうをじろじろと見てきた。眼鏡がないためだろう、目を細めて見つめてくる視線が妙に鋭い。 「……なんだ?」 「いい体つきだなあ、と思って。……あ、別にそういう意味じゃないわよ。ぼ、ボクは華琳達と同じような趣味はないし、純粋に筋肉の付き方とか、そういう……」 「そうか? 体を動かすから引き締まってはいるだろうが……」  顔を真っ赤にして墓穴を掘っている詠を放っておいて、華雄は湯の中で体をひねってみせる。たしかに意図通りに動く体だったが、軍師にこれは必要ではないだろう。  その様子に、詠はぼそぼそと呟く。 「背がね、もう少し欲しかった」 「身長か」 「そう、月の楯になれるくらいには。いまの背じゃ、月とほとんど変わらないしね」  華雄はなにも答えない。目の前の相手が本気であろう事も、それに対してどうしようもないとわかっていることも承知の上で、何を言えばいいというのだろう。  ただ、彼女は詠の視線が持ち上がり、自分と再び目を合わせるのを待つしかなかった。 「ねえ、華雄」 「ん?」  じっと視線を交わしていた詠が不意に問う。さすがにそれに続く言葉は、彼女の予想の外だった。 「あんた、ボクがあいつを裏切ったらどうする?」  だが、その答えは至極簡単だ。考えることすら必要ない。 「裏切る? そもそもお前の主はいまも月様だろう。裏切るも何も、月様のためにふさわしいとお前が判断したなら、それを責める謂われは無いさ。まして、私のように……流言に惑わされ亡くなられたと思っていた人間にはな」 「あんた、それは……」 「もちろん、敵対するとなれば、それなりの行動をとる。しかし、それは恨みや憎しみの関わることではなかろう。せいぜい、後になって、そういう成り行きを悲しむくらいだ。違うか?」  彼女の言葉に詠は目を白黒させ、そして、唇が何ごとか紡ごうとしたが、それを呑み込んだようだった。結局出てきた言葉は、きっと、呑み込んだものとは別のものだったろう。 「……あんたは相変わらず真っ直ぐね」 「お前が考えすぎなのではないか?」 「しかたないわよ。それが軍師の務めですもの」  その言葉に、華雄は腕を組んで考え込む。 「……ふぅむ。そうかもしれん」  なぜか、詠はその様子に小さく、しかし、軽やかに笑い声をあげるのだった。 「あはははは」  実に、楽しそうに。 「しばらく、二人で話させてくれない?」  月が岩盤浴からふぅふぅ言いながら戻ってくるのを認め、詠は華雄を横目で見ながらそう切り出した。 「わかった」  華雄の答えは簡潔だ。じゃぶじゃぶと音をたてながら、彼女は浴槽の端へと向かい、そこで石組みにもたれかかり、目をつぶってしまった。 「詠ちゃん?」  戻ってきた月は、華雄が遠ざかっているのを見て、首を傾げる。詠は複雑そうに微笑みつつ、彼女に竹筒を差し出した。 「はい、これ。喉渇いたでしょう」 「あ、うん」  浴槽のへりにこしかけ、ごくごくと竹筒の中身を飲み干す月。礼を言って竹筒を返してから、たっぷり汗をかいた体に湯をかけ、清めていく。 「少し、話、いい?」 「うん」  そう詠が切り出し、月が頷いたというのに、詠はなかなかその先を言おうとしなかった。急かすこともなく、月はちゃぽんと音を立てて、再び湯船に入った。詠の正面にまわり、彼女を見つめる。 「あいつのことなんだけど」 「ご主人様の?」 「うん……」  再び沈黙。  彼女のほうを見ているようで、微妙にさまよっている視線をなんとか捕らえると、詠は勇気づけられたかのように先を続けた。 「月は、これからも……あいつにつく?」  息を呑む。  だが、一度目を落とすと、彼女と詠の合間にさざ波がたっていることに気づいた。それを生じさせているのは、自分の動きではない。月はそれを悟り、次の質問をせずにはいられなかった。 「……詠ちゃんは、ご主人様になにか不満とか、不安とかあるの?」 「違う!」  ばしゃりっ。  思わず掲げた手が、水面を激しく揺らす。それは、月の膚にしぶきを飛ばすほどだった。 「あ、ごめん」 「ううん、いいよ。先、続けて」 「あのね、あいつはいいの。あいつ自身は。でも……」  首を振って力づけるように手を取ると、詠は淡々と告げる。 「あいつはこれからも、責任ある立場と重要な役割を与えられる。それはもはや止めようがない。そう、華琳にさえ……」  だから、もし逃げ出すならば。  全てを捨てる覚悟をしてでも、逃げるなら、いましかないのだ。  詠の額に浮かぶ汗は、はたして湯に温められたからか、それ以外の所以か。 「……私が相国にならなきゃいけなかったように?」  しばらく言葉を選んでいた月は、ようやく意中の単語を見つけて、詠に問いかけ返す。 「あの時みたいに、あからさまな罠や悪意が裏にあるわけじゃないけど、それでも……」  濁る語尾。  詠の言葉を引き出すために、月は再び訊ねなければならなかった。 「それでも?」 「それでも、そう、敵は同じように現れるかも知れないわ」  昔と同じだ。  泣きそうな、辛くてしかたなさそうな顔。  昔は、自分よりも、この親友の方がずっと泣き虫だった。転んだり、怖いものを見たり、そんなどうでもいいことでも、彼女は泣いた。  いま、彼女は、その泣き出す一歩手前の顔をしていた。  彼女が、この顔を冷たい人形のような表情に変えて、冷徹な軍師として振る舞いだしたのは、いつからだったろう。  ――月はどうしてもそれが思い出せなかった。  たぶん、詠にとっては、月が傷つくことも、彼が傷つくことも、泣き出したいくらい辛いことなのだ。  月自身が一刀を好きなことも、一刀の味方でいたいことも、この聡い友にはわかっているはずだ。  それでも、彼女は訊ねなくてはいけない。  友として。  同志として。  一刀に恋する一人の女として。  そして、臣として。  だから、月はきちんと決めよう、と思った。  詠のまっすぐな思いに、しっかりと、なにも考えずに答えてはいけないと、そう思った。  だからこそ、月はじっくりと考えた。  敵――それは、数十万の兵の姿はしていないだろう。なぜなら、それは彼の側にもあるから。  あるいは、それは、無道な刃や毒の塗られた短刀や、傾国の美女の姿もしていないだろう。なぜなら、それらは彼の周囲の人々がたやすく防げるから。  それは、きっと、もっともっと醜悪で、卑怯で、薄暗くて、実態の掴めないものであるはずだ。  それは、十常侍などという名前さえないに違いない。  それでも?  それでも。  うん、と滅多に見せない厳しい顔で月は頷いた。そのことに、さっと詠の顔が青ざめる。  月は彼女を安心させるように、ゆっくりと詠の腕を引き寄せ、自分の胸にあてた。  ちゃぽり、小さく湯がゆれる。 「大丈夫だよ」 「え?」 「今度は恋さんや華雄さんや霞さんやねねちゃんだけじゃないもの」  そう、今度はたくさんの仲間がいる。  そして、なによりも守りたい者が、守られるべき者が、たくさんいる。  月たちにとっても、一刀にとっても。 「それに、詠ちゃんがいたら、大丈夫だよ」  それは、願い。  一番身近な彼女への。  だが、その『お願い』が、命令と同義になってしまうことが、月には辛くもあった。 「そう。わかった」  詠は、厳しい響きをそのままに、大きく頷く。 「月がそう言うなら、ボクも腹をくくることにするわ」  そう呟く詠の顔には、厳しく峻烈な決意と共に、なんだか心の底から安心したかのような柔らかな表情も同居していた。  幼なじみのそんな様子を見て、月はにっこりと、花のような笑みをその顔に浮かべるのだった。      (玄朝秘史 第三部第十六回 終/第十七回に続く) 北郷朝五十皇家列伝 ○華家の項抜粋 『華家は、呂布と並ぶ優孟で知られる華雄にはじまる皇家である。  華雄は後漢末、官軍の武将として何進配下から董卓配下に移ったが、その後足跡がぱたりと途絶える。一説では反董卓連合の戦いにおいて重傷を負い、その療養に地方へ逼塞したとも、山賊に身を落としたともいわれているが、後々の武将としての働きを見ると、どちらも考えにくい。実際には、戦乱の諸国を渡り歩き、様々な戦功をたてていたのではないかと、後に姿を消す様々な武将にあてはめる考えもある。しかしながら、文献の裏付けがない以上、追跡は難しい。これに関しては、今後の新しい文献の発見などが待たれ……(中略)……  華家は後に東方植民に参加し、東方八家の一つに数えられることとなる。東方大陸の北半が支配下に入った後も南方植民に積極的で、広大な領土を持つに至ったことは有名であろう。  しかしながら、華家自体が東方に移った後もなお、西方大陸では華雄の影響は強く残っていた。  たとえば、華雄を武の神として崇める民間信仰はいい例である。  正式には、武神は古代の戦争神蚩尤が祭られており、宮中でもそれは同様であった。しかし、四代文帝の頃、太祖太帝が神として祭られたはじめた頃、既に民間においては呂布、華雄を武神として祭り始めていた。ただし、同時期の江南地方では、甘寧を武神として祭る機運が出てきており、全国的にこの時代の武将を神格化する動きが起きていたと思われる。  さらに後に中黄帝国が成立しヒンドゥー教が取り入れられると、華雄はカーリー女神と同一視された。それと同様に呂布はドゥルガー女神と同一視され、カーリーとドゥルガーが合身すると、パールヴァティー女神になるとされた。  パールヴァティーはヒンドゥー教の最高神の一人シヴァの神妃であるから、シヴァは当然のように太祖太帝ということになる。さらに、このシヴァとパールヴァティーの融合神こそが、マハーカーラ、すなわち大いなる暗黒であり、世界の終わりに立ち、世界を破壊する最強の破壊神であるといった、複雑な関係を築き上げていく。  そして、この時期、華雄と呂布の融合神たるパールヴァティーが、暴れ回る蚩尤を成敗するという物語が流布し始める。劇や講談も何種類かつくられ、好評を博したという。  こうして、古い武神たる蚩尤は、ついに新しい武神にとってかわられるのであった。  もちろん、宮中の正式な祭祀では蚩尤は生き続けていた。さすがにそう簡単に神を取り替えるというわけにはいかなかったのであろう。  だが、後北郷朝においてはこの民間の信仰が宮中に入り込み、呂布と華雄の融合神は『三界伏魔大帝神威遠震天尊葉呂帝君』という神号を得、武の神として宮中で祭られるようになる。なお、ここでいう葉は華の誤字だとされるが、一度神号として与えられた以上、おいそれと変更するわけにもいかず、後々までこの名で崇められ……(後略)』