「無じる真√N」拠点28




　その日、呂布は新緑溢れる中庭をゆったりと歩いていた。
　足を踏み出すたびに頭頂部から伸びる二本の触覚のごとき洋紅の髪が揺れている。
　彼女は傍らでとことこと歩いているセキト……呂布の家族でもある愛犬と散歩をしていたのだ。
　普段ともに行動する陳宮は賈駆と何やら話があるらしく、予定が合わず呂布とセキトのみで過ごすこととなった。
「……久しぶり」
　何げなく呂布は呟く。よくよく考えてみればいつも陳宮とともにいた。陳宮もまた彼女にとって大切な家族の一員なのだから、それもまた当然のことではある。
「…………気持ちがいい」
　暖かい陽射しを眩しそうに見上げながら呂布は笑みをつくる……とはいっても、それを感じ取れる人間はそういない。
　うららかな太陽の暖かさは呂布を包む毛布のようにほっこりとした気持ちにしてくれる。
「……ふぁ。ねむい」
　あくびを噛み殺しながら呂布は一本の木下へと座り込む。セキトも続くようにして草むらへと腰を下ろすと首を地へとつけて眠たそうにしている。
「……ちょっと、ねてく」
　そういうと呂布は段々重くなってきていた瞼を降ろした。
　木陰を通り抜ける風が適度な清涼感を与えてくれ、とても気持ちが良い。
　そして、既に船をこぎ始めていた呂布は夢の中へと旅立った。

　†

　……
　…………
　………………
　沈黙の中、呂布はふっと意識を取り戻す。いつからだろうか、彼女はそこに一人きりで立ち尽くしていたらしい。
「……セキト？」
　今まで隣にいた家族の姿がない。静寂に包まれていたこと、セキトがいないことに気を取られていたが、呂布は自分の立っている場所が先ほどとは違う彼女には全く覚えのない城の敷地であることに気がついた。
「…………どこ？」
　誰にともなく問いかける……返事はない。当たり前だ。辺り一帯には誰もいない。
　何故だろう？　この場にいると、呂布の胸がぽかぽかと先ほどまで浴びていた陽射しのような暖かさにくるまれる。
「……なんで？」
　自分の急な変化を把握しきれず呂布はただ自らの胸元をギュッと握りしめることしかできない。
　そのとき、背後から近づいてくる足音が呂布の耳へと入ってきた。
「恋」
「…………？」
　振り返る呂布。その瞳には見覚えのある少年の姿。白き衣を纏った天の御使いと呼ばれる人。
「どうしたんだ？　今日もサボリか？」
「…………ご主人様？」
「たまには、仕事にまじめにとりくんでくれよ。俺が愛紗にどやされるんだ」
　頭を掻きながら苦笑を浮かべる少年の姿に呂布の胸が……いや、胸の中が強い握力で握りしめられるようにキュンと痛む。
「……んっ」
「どうした？　恋、大丈夫か？」
　少年が呂布へと歩み寄ってくる。その顔には心配の色が多く出ており足取りも速い。
「……わからない」
「恋？」
「恋にもわからない」
「ホント、どうしたんだよ」
　そう言って首を傾げると、少年は呂布の顔へと手を伸ばしてきた。そして、そっと額に触れる。
「うぅん、熱はないみたいだしな」
「…………ご主人様？」
「ん？　どうしたんだよ。何か悩みでもできたのか？」
　そう言って呂布の顔をのぞき込む少年の顔はとても温かく、そしてどこか自分を慈しむような瞳の色をしているように思えた。
「…………」
　なんと説明すればよいかわからず呂布はただ俯くことしかできない。そんな呂布の頭に重さと温もりが乗った感覚がした。
　何だろう……そう思い呂布は顔を僅かに上げる。そこにはこれまでの中でも最たるものと言えるほどに優しい微笑みがあった。
「……別に言いにくいのなら言う必要はないさ」
　そう言うと少年はぽんぽんと二回ほど呂布の頭を軽く叩いて踵を返して立ち去っていく。
　その後を追いかようとするが何故か動けない。そして呂布はそのまま小さくなっていく彼の背中をただ眺めていることしかできなかった。
「…………まって」
　徐々に小さくなる声、それは彼女のご主人様には届かない。彼は……行ってしまた。
「……………………ご主人……さま」
　そこで呂布は再び眠気に襲われる。

　†

　頬を撫でる風の心地よさで呂布は目を覚ました。
「…………？」
　目の前には先ほどまで見ていた顔があった。
「……ご主人様、ねてる？」
　そう訊ねるが、返ってくるのは寝息だけだった。
「…………」
　呂布は、未だ消えない胸の痛みと温もりに突き動かされるように彼女のご主人様の顔を抱え込むようにして腕の中へ抱く。
　胸が高鳴る。先ほどまでの余韻なのだろうか……不思議な夢。それは幸せなのに何故か悲しくて泣きたくなるような夢。
　なんとなく、少年の寝顔を眺めてみる。その顔を見ているだけで呂布の胸を締め付ける何かの強さが増していく。
（…………なんでご主人様を見ると、こんなにも悲しくなる？）
　そして、呂布は――
「……ごしゅじん……さま」
　身体の中で蠢く不思議な感情を堪えきれずにそっと顔を近づけていく。そして、彼女はその柔らかな唇で彼の口元へと優しく触れた。
「……ん」
　それはほんの数秒のこと、その間だけ彼女と少年の距離は縮まっていた。不思議な思いが呂布の中に流れ込んでくるような……胸の痛みを和らげていくような感覚があっという間に広がっていく。
「ん……んぅ」
　呂布の顔が離れたのに合わせるようにして一刀が身じろぎする。そして、それから間もなく彼が目を覚ました。
「あれ？　恋？」
「…………」
　眼をパチパチと瞬かせている一刀を呂布はじっと見下ろす。そんな彼女を気にする出もなく彼は上体を起こして腕組みをする。
「確か、ちょっと休憩がてらここに来て……恋とセキトを見つけて……あっ！」
「…………？」
　何やら慌てた様子を見せる一刀に呂布は首を傾げる。
「ま、まずい……詠にどやされる」
「…………」
　一人わたわたと慌ただしく頭を抱えたりもんどり打ったりとしている一刀を呂布はただ黙って見つめる。
「ん？　どうかしたか、恋？」
「…………なんでもない」
　一刀が気遣うように顔を覗き込んでくるが、呂布は何だか変な感じがして瞳をそらしてしまう。
「ホント、どうしたんだよ」
　そう言って首を傾げながら一刀が呂布の顔へと手を伸ばしてくる。そのまま彼の掌がそっと呂布の額に触れる。
「うぅん、熱はないみたいだしな」
「…………っ!?」
　夢の内容が鮮明に蘇る。同じ事をした……それが呂布の中のよくわからないものを活発にする。
「んっ……」
「恋、だ、大丈夫か？」
「…………だいじょうぶ」
　様子を見ようと距離を詰める一刀を制して呂布は小さく頷く。
「……まぁ、恋がそう言うなら。俺からは何も言えないな」
　そう言って立ち上がると、一刀は呂布に向かって手をひらひらと振ってこの場を後にするように歩き始めた。
　その姿が夢の少年と重なって見える。その瞬間、
「れ、恋？」
「…………」
　呂布は一刀の服の裾を掴んでいた。それは自分でも気付かぬうちの行動だった。
「ど、どうしたんだ？」
「…………恋も一緒」
「まぁ、別にいいけど。じゃあ、一緒に行こう」
　頬を掻きながらそう答えた一刀に呂布はいるもの通り黙って頷く。
　そして、その白き服の裾を摘んだまま呂布が歩き出す。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。恋」
「…………なに？」
「いや、セキト」
　そういって差し出された手の先……一刀の人差し指によって示された先には今更になって眠りから覚めたらしくのん気にあくびをしているセキトの姿があった。
「…………あ」
「ほら、セキトにも声をかけてあげないと」
「…………」
　口元を綻ばせながら促す一刀に従って呂布はセキトの元へと向かおうとする。
「あ～、その、恋？」
「…………？」
　振り返った呂布の瞳に眼を細めて困惑の色を混ぜ込んだような表情をしている一刀が映る。
「裾、離してくれないか」
「…………だめ？」
　小首を傾げて訊ねると何故か一刀が一瞬だけ口ごもった。そして、眉を困惑に歪ませながら頭を掻く仕草を取る。
「うっ、いや、ダメというか……ホントどうしたんだよ、恋」
「………………恋はご主人様と一緒がいい」
　この手を離してしまいたくない。夢のような思いはしたくない……それは口下手な呂布には言い出せなかった。
　だが、一刀は何かを悟ったのか肩を竦めると深く息を吐いて呂布の方へと視線を注いできた。
「なぁ、セキトのところまでは別に大した距離じゃないだろ。それに俺は恋を置いてどこかにいったりはしないよ」
「…………ほんと？」
「あぁ、本当だ」
　じっと一刀の瞳を覗き込む。その奥の奥、最奥まで覗かんとばかりに見つめる。
　相変わらず優しい眼差しをしている。それを悟ると、なんだか一刀の視線が急にくすぐったく感じてきた。
　その身体をよじりたくなるような不思議な感覚から逃げるように呂布は一刀の服から手を離した。
「…………わかった。行ってくる」
　そう言うと呂布は駆けるようにしてセキトの元へと向かった。
　木の根元に伏せてくつろいでいるセキトの前にかがみ込むと、呂布はその名を呼ぶ。
「……セキト」
「わう？」
「……一緒に行く」
「わふ！」
　元気よく返事をしたセキトが呂布の横を駆け抜けていき、一刀の胸へと勢いよく飛び掛かる。
「…………」
「お、おい、セキト！　ちょ、ちょっと待て」
「わふわふわふぅ～！」
　セキトは妙に一刀の事を気に入っている。まるで長く連れ添った呂布や陳宮を相手としたときのように……。
「…………ご主人様」
　なんとなく呟いたその響きが不思議と心地よい。だが、同時にきゅんきゅんと胸が締まる感覚もする。
「…………これは、なに？」
　疑問を発した唇をそっと指で触れてみる。少しだけ妙な感情が収まった気がした。
「恋！　置いてくぞ」
「わう～ん！」
「…………今、行く」
　笑顔を浮かべながら待ってくれているセキトと大切な……いや、それすらも超越したよくわからない存在となった少年の元へと呂布は慌てて走り寄る。
　約束通り、一刀は待っていた。
　普通に考えれば他愛ないことだが、今の呂布にはそれはとても嬉しいことだった。
　そう、夢のように別れるような事はないのだ。いや、決して別れはしない……今の呂布にもそれだけは絶対に断言できる。
　なにせ、呂布自身がそう決意しているのだから。
（…………ご主人様と恋は……一緒）