天遣帰歌 第四話「匹夫の勇」  天涯霞む無人の平原。  新緑繁る沃野に陽光が降り注ぎ、草原の表面を光の波が滑ってゆく。適度に乾いた大気は肌に心地よく、深呼吸すると清澄な空気が肺を満たしてくれる。道の脇には群生する薄紫色の撫子や白磁色の菖蒲の花。初夏の風景を牡馬の背中から満喫しつつ、俺は草原に挟まれた街道を北上していた。  陳留を出発してから今日で二日目。現在地は陳留の北約五〇キロの地点。この街道は河南省北部の「濮陽」まで続いており、通行する旅人や商人の半数以上は濮陽方面を目指す人間だが、俺の目的地は途中の城塞「白馬」である。陳留と業の間を黄河が分断している為、白馬から出ている渡河船に乗る必要があるのだ。 「白馬に着くのは夕方頃かな」  天頂で輝く太陽を仰ぎながら到着時刻を予想する。  急げば二〜三時間くらいは短縮できるが、馬に無理をさせるのも可哀想だ。第一、数時間を惜しむような旅ではない。馬任せの一人旅を存分に楽しむとしよう。 「一人旅、か」  自分の顔が馬鹿みたいにニヤけているのが解る。  というか、陳留を出発して以来、俺はずっとこの調子なのだ。  馬上でニヤニヤと笑う自分自身の姿が傍目には不気味に見えるだろうと自覚してはいるのだが、どうしても口元が弛んでしまう。広大な大地を馬に跨って旅するという、男なら誰もが憧れる体験は想像以上に強烈だった。以前、夏休みにモンゴルを旅行した同級生が「癖になりそうだ」と笑っていたが、彼の気持ちが今なら理解できる。手脚に絡んでいた糸が解けたような解放感で心が躍るのだ。 「確かに、これは癖になりそうだなあ」  華琳との再会が済んだら大陸を旅してみようか。いや、そういえば、霞とローマ帝国に行く約束をしてたっけ。五賢帝時代の末期だから国内が荒れはじめる頃だけど、霞が一緒なら大丈夫だよな……などと考えてしまうのだから重症である。 「…………っと、いけない」  空想に浸りかけたところで我に返る。  幾ら何でも惚け過ぎだ。比較的安全な街道とはいえ、盗賊や追剥が出没しないとは限らない。旅を楽しみながらも周囲に気を配り、危険を察知できるようにアンテナを働かせておくべきだろう。頬を軽く掌で叩きながら、腰に帯びている剣に視線を落とす。  陳留を発つ間際、梁さんから頂いた【黎明】と呼ばれる剣。  精緻な装飾が施された鍔と、柄尻に嵌め込まれた琥珀の玉。今は鞘で隠れているが、刀身にも紋様が刻まれている。素人目にも名刀だと解る、俺には似合わない逸品だ。さすがに貰えないと断ろうとしたのだが、当の梁さんが早々に立ち去ってしまったので、仕方なく頂戴したのである。数打ちの剣よりも遥かに心強い武器だが、何と言うか、高価な宝石を持ち歩いているような気分で非常に落ち着かないのが難点だ。 「我ながら情けないくらいの貧乏性だな……って、あれ?」  街道の彼方で揺れる人影に気付いて瞳を細める。  離れているので断言はできないが、複数の人間が争っているように見える。人数は最低でも一〇人以上。しかも、揺れ動く反射光は刀剣の輝きではないだろうか。 「白馬は目と鼻の先だってのに、嫌な展開だな」  手綱を引いて馬を停める。  盗賊と街道の警邏が争っているのか、あるいは盗賊が旅人を襲っているのか。  春蘭なら躊躇うことなく抜刀して猪突猛進するところだが、残念ながら俺の腕前は素人に毛が生えた程度。名刀を帯びていようと、その事実に変わりはない。RPGのように武器を装備するだけで強くなったりはしないのだ。  自己の安全を考えるなら、街道を逸れて迂回すべき場面である。旅の目的は華琳との再会であって、正義の味方を演じることではない。実力の伴わない義侠心は身を滅ぼすことになる。君子危うきに近寄らずという諺もあるではないか。 「……なんてこと、解ってはいるんだけどなあ」  馬の横腹を両脚で軽く圧迫して街道を前進する。旅人が襲われていたらという可能性を無視して保身に専念できるほど、俺の思考回路は合理的にできていないのだ。  だが、本当に旅人が襲われていた場合の行動を考えておく必要がある。  地形は起伏の乏しい大草原。草の背丈も足首程度だから、匍匐前進で接近を試みても無駄だろう。弓があれば遠距離から牽制できるが、所持している武器は【黎明】のみ。つまりは正々堂々と近接戦闘を仕掛けるしかないが、俺自身の技倆が頼りにならない以上、戦闘で打開するのは不可能である。 「馬に乗ったまま乱入して……その隙に逃げてもらうしかないか」  無為無策も同然の愚策だが、残念ながら選択の余地はなさそうだ。  俺の緊張と戦闘の気配を察して馬が鼻息を荒くしている。穏やかな気性の馬だと思っていたが、意外にも好戦的な性格の持ち主だったらしい。もしかしたら、戦場を何度も経験している歴戦の馬なのかもしれない。  さて、思考を巡らせている間も距離は縮まり、やがては人影の輪郭が見えてくる。  人影の数は約五〇名。地面に斃れている者も含めれば一〇〇名以上。予想外の大人数に驚きながら、集団の中で一際目立っている二つの人影に目を凝らす。  ひとりは偃月刀を振るう漆黒の髪の女性。  もうひとりは方天戟を振るう赤銅色の髪の女性。  見間違えるはずがない。蜀の宿将たる関雲長と呂奉先だ。しかも、比較的後方で十数人の蜀兵に護られている女性……劉玄徳の姿も見付けて、俺は唖然とする。蜀の統治者と将軍二人が、どうして魏の領内に? 「……………っ!」  脳裏に浮上した疑問を、戦場の外側に発見した人影が粉砕する。戦場から離れた五人の男達が弓を番えはじめたのだ。勿論、関雲長や呂奉先に雑兵の放つ矢が通用するとは思えない。それは男達も解っているだろう。即ち、男達の狙いは劉玄徳……。 「畜生っ!」  罵りながら横腹を蹴ると、馬が存在を主張するように嘶き、猛然と駆け出す。弩から放たれた矢のごとく疾駆する牡馬。俺の意思を読んだかのように、男達に向かって直進してゆく。落馬しないように注意しながら、俺は腰の【黎明】を抜刀した。  急接近する存在に気付いた男達の顔に動揺が走る。数瞬の逡巡。だが、標的を変更したのは一人だけで、他の四人は相変わらず劉玄徳を狙い続けている。そして、全員が一斉に発射した。  馬の背に上半身を伏せ、飛来する矢を辛うじて回避する。  男達までの距離は約三〇メートル。相手は即座に弓を捨てて剣を構える。馬上からの攻撃を防ぐ為だろうが、彼の予想に応じる義理はない。速度を緩めることなく馬を突進させる。男は慌てて逃げようとしたが既に遅く、馬は彼を躊躇なく吹き飛ばした。  更に別の男を吹き飛ばし、速度が弱まったのを見計らって馬から跳び降りる。剣に注意しながら地面を転がり、立つと同時に全力疾走を開始。相手に考える暇を与えず、最も近距離にいた男に斬撃を叩き込む。  多少慌てながらも男は斬撃を刀身で防ぎ、直後に唇の片端を歪めた。俺の伎倆を看破して、思わず嘲笑してしまったのだろう。無理もない。淑女の窮地を救う主人公のように登場しておきながら太刀筋は経験の浅い素人。見事なドンキホーテである。男は脆弱な剣圧を跳ね除け、俺の無防備な頚部へ攻撃を繰り出す。  だが、男の失敗は油断したことだ。未熟な実力でも攻撃を誘うことくらいはできる。水平に迫る斬撃を潜り抜けて躱し、左膝の裏に【黎明】を突き刺す。絶叫と鮮血を迸らせながら悶絶する男を放置し、次の相手に視線を向ける……が、そこまでだった。強い衝撃が左腕を襲い、体の均衡を崩して転倒してしまう。 「あ……ぐっ……!」  首筋まで痺れるほどの激痛。二本の矢が左肩と左上腕部に突き刺さっている。左上腕部の矢は反対側まで貫通しており、出血とともに全身の力が秒単位で漏れ出てゆく。 「孺子が図に乗りおって……」  残りの男達二人が怒りで顔を紅潮させて歩み寄ってくる。  ……どうやら、ここまでか。五人を相手にして三人を戦闘不能に追い込み、時間も充分に稼げたのだから上出来じゃないか。我ながら頑張ったもんだ。華琳や皆に会えなかったのは残念だけど、不思議と心は澄んでいる。五年前とは大違いだな。満足して死ねるというのは、結構幸せなことなのかもしれない。 「ふん、生意気にもまだ抵抗する気か」  嘲笑を帯びた男の言葉で、俺は自分の行動に初めて気付く。  苦痛に耐えながら起き上がり、落とした【黎明】を右手が拾っていたのだ。  おやおや、と自分自身に苦笑してしまう。理性とは別の部分が「死んでたまるか」と反対し、肉体を勝手に動かしているらしい。しかも、胸奥には灼熱した熱の塊が産まれ、猛獣のように暴れ回っている。生存本能と破壊衝動の混合物。ここまで過激なエネルギーが自分の裡に潜んでいたのは驚きだった。 「……仕方ないな」  自嘲しながら【黎明】を構える。  拒絶の意思が一欠片でも残っているのなら、潔く諦めるわけにはいかない。結果や結末がどうあれ、心臓が止まる瞬間まで堂々と足掻き続けるとしよう。第一、腕を矢で射られたくらいで諦めるとは、幾ら何でも軟弱すぎやしないか、北郷一刀?  心中の呟きとともに胸奥の熱が全身に伝播する。俺の決意を褒めるように【黎明】の刀身が陽光をギラリと反射する。ボリュームを絞ったように周囲の音が消え、視界から色彩が抜け落ちてゆく。無音灰色の景色の中、眼前の男が剣を振り下ろした。 「………………っ」  右腕の【黎明】を撥ね上げる。目標は垂直に接近する剣の刀身。相手の腕が伸び切る前の斬撃に当てて防御する……はずだったが、強靭に鍛えられた【黎明】は相手の剣自体を叩き折ってしまう。憤怒から驚愕へと変化する相手の表情。そこに恐怖が滲むのを眺めながら【黎明】を渾身の力で振るう。皮膚、筋肉、脂肪、神経、血管、骨、内臓……胸部の組織を切り裂く致命の感触。傷口から鮮血が噴き出しながら男は斃れたが、俺自身も膝から崩れ落ちてしまった。 「シャアァッ!」  最後の男が憎悪を両眼に滾らせて襲いかかってくる。  立ち上がろうと両脚に力を篭めるが、首まで汚泥に埋もれたように身体は重く、姿勢を整えることすらできない。さすがに血を流し過ぎたようだ。嗜虐的な笑みを浮かべて剣を構える男。だが、それが彼の生涯最後の表情だった。  口端を獰猛に歪めたまま男の頭部が果実のごとく宙を飛ぶ。まるで、二流恐怖映画のワンシーン。剣を落とした両腕がだらりと垂れ、重さに引かれた身体が頽れる。そして、その背後に立っていたのは赤銅色の髪の女性……呂奉先だった。 「………………」  男の首を刎ねた長大な戟を右腕に携え、ゆっくりと歩み寄ってくる。  少々肝の冷える光景だが、彼女の表情に敵意は感じられない。というか、表情自体がほとんどないので断言はできないが、少なくとも、即座に殺される心配はなさそうだ。  それにしても不思議な人物である。彼女については霞から多少聞いていたし、五年前の消滅直前に催された宴でも見ているが、相変わらず古今無双の猛将とは思えないほど平和な雰囲気を漂わせている。 「……平気?」  反応がない俺を疑問に思った彼女が首を傾げながら訊ねてくる。だああっ、畜生! 問答無用で癒されるなあ! 何だこの可愛い生き物! 頭撫でてえっ! 「う、うん、大丈夫。助けてくれてありがとう」  愛でたくなる衝動を我慢しながら立ち上がる。 「俺のことなんかより、そっちは大丈夫だった? 劉備さんは?」 「……問題ない。桃香も無事」  数十メートル離れた場所に見える蜀兵の数は約一五名。その中に関雲長と劉玄徳(桃香というのが彼女の真名らしい)の姿もあり、俺はホッと胸を撫で下ろした。どうやら男達が放った矢は命中しなかったようだ。  安堵した途端、左腕の激痛と軽い貧血に襲われる。  幸いにも動脈や神経は傷付いていないようだが、出血量を考えると、急いで治療すべきである。だが、包帯等が入っている荷物は馬に乗せたままだ。あの勇敢な牡馬がいないと応急処置すらできないぞ……と思ったところで、誰かに背中を誰かに押される。振り向くと、その牡馬が鼻先で俺の背中を押していた。 「お前……戻ってきてくれたのか?」  ぶるると鼻を鳴らして返事する牡馬。  何となく「そんなことより、さっさ治療しろ」と急かしているような態度だ。 「解ったよ、ありがとな」  無傷な右腕で額を撫でてやってから、荷物から包帯と適当な紐、針と糸、そして竹筒を取り出す。まずは左腕全体の止血だが、片腕の作業は難しく、途中で紐を地面に落としてしまう。落とした紐を呂奉先が拾い、俺を見ながら「……手伝う?」と訊ねてくる。初対面同然の相手に申し訳ないが、ありがたく手伝ってもらおう。 「じゃあ、その紐で腕の根元を縛ってくれる?」  こくりと頷いた呂奉先が俺の脇付近を紐で縛る。腋窩動脈の圧迫により出血が収まってから刺さった矢を抜き、竹筒の中に入っている白乾児で傷口を消毒。その後、傷口を縫合してから包帯を巻いて治療完了である。……と、まあ、淡々と説明してみたが、実際は結構な痛みを伴い、治療が終わった頃には顔中に脂汗を掻いていた。つーか、傷口を縫合したのも呂奉先だったりする。それでも、治療を終えた俺は馬に背中を預けたまま、しばらく動くことができなかった。情けない有様だが、貧血と疲労で体力を奪われ、さすがに体裁を繕う気力もない。 「………………」  馬の体温を背中に感じながら視線を移動する。眼差しの先にあるのは、袈裟切りにされて息絶えた男……初めて自分自身の手で殺した人間の遺体だ。  映画に登場する主人公のように吐き気を催すかと思ったが、現実の俺は驚くほど落ち着いている。人命が消耗品として大量消費される戦乱の記憶と体験は、水面下で俺自身の精神構造を強固にしていたらしい。  だが、倫理観は別だ。俺の倫理観は未来の世界(しかも平和な日本)で培われたものである。殺人を犯したという罪悪感は澱となって心の奥底に沈んでいる。動揺して平常心を失えば、澱は舞い上がって心を濁らせるに違いない。要するに、大切なのは罪の意識に潰されることのない心の強さなのだろう。難易度、高そうだなあ……。 「……どうして恋達を助けた?」  傍にいた呂奉先が唐突に訊ねてくる。恋、というのが彼女の真名らしい。 「……あなたは魏の人間。恋達を助ける理由はないはず」  どうやら、彼女は俺の素性に気付いているようだ。  頭髪と同色の瞳に湛えられた純粋な光。それだけに、適当な理由でごまかすことを躊躇わせる圧力がある。しかし、助けた理由を告白するのは難題だ。そもそも、理由なんて考える余裕もなく脊髄反射的に馬を突進させたのだ。 「う〜ん……理由ねえ?」 「……………」 「特にないんだけど……強いて挙げるなら平和を楽しむ為、かな」 「平和を楽しむ……?」 「三国同盟が結ばれて平和が訪れたのに、劉備さんが殺されたら、また戦争が始まるかもしれないだろう? そんなのは御免だからね」  同意するように馬が鼻を鳴らし、彼の額を撫でながら言葉を続ける。 「この馬も以前の戦争を経験してるみたいなんだけど、仮に戦争が始まったら、こいつも戦場に駆り出されて……今度は死ぬかもしれない。当然、兵士も大勢死ぬだろうね。苦労して生き延びた挙句、一〇年と経たず戦争再開ってのは、幾ら何でも割に合わないじゃないか。つーか、ようやく気楽に昼寝できる毎日が来たのに、その平和を満喫することなく終了なんて詐欺だ」  勢いに任せて喋ったと言うか、最後は個人的な愚痴でしかないような気もするが、嘘ではないので良しとする。第一、端役同然の俺が偉そうに高説を披露したところで舌を噛むのがオチである。深く考えないで本音を語ったほうがマシだろう。 「……昼寝、恋も好き」  彼女が俺の言葉を拾って応えてくれる。  ヒトに慣れていない仔犬や仔猫を連想させる仕草。 「そっか、君も昼寝好きか。じゃあ、俺達は昼寝仲間だな」  笑いかけながら彼女の頭を優しく撫でる。  怯えた仔犬を宥めるように、戸惑う仔猫を落ち着かせるように、ゆっくりと。 不思議そうに俺を見詰めていた彼女の顔にも、やがて微笑みがじんわりと滲む。年齢相応の愛らしい表情。それだけで、先程までの苦労が報われた気がした。  ……数分後、緊張感の欠片もなく和んでいた俺達が関雲長に叱られたことを最後に追記しておく。ごめんなさい。