玄朝秘史  第三部 第十三回  1.墓参  建業の宮城。高くそびえ立つ城壁の上に、この都を支配する孫呉の重鎮が勢揃いしていた。もちろん、その先頭にあるのは南海覇王を腰に佩く呉王蓮華。  蓮華は秋の風に髪を遊ばせながら、町やそこを歩く米粒のように見える民を愛おしげに見下ろす。荊州から帰還してようやく少し時間の出来た彼女であった。 「こうして皆で揃うのも久しぶりだな。シャオがいないのは寂しいが……」  言葉の通り、そこには彼女の側近達が全て揃っていた。荊州問題の間留守を任されていた穏、二人の親衛隊長思春と明命、よく見えないのか目を細めて風景を眺める亞莎、そしてもう一人。 「そうねー。落ち着くわよねー」  やっぱり江東はいいわねー。と暢気な声をあげるのは、白い仮面に顔を隠す蓮華の姉。 「ええ、そうですね。って姉様! なんでいるんですか!?」  この台詞には周囲の面々のほうが驚かされた。なにしろ、仮面の奥の顔を知っている側近たちからすれば、主家の人間であり前の王である。現王たる蓮華が何も言わないので当然臨席は許されているのだろうと思い込んでいたのだ。  それがまさか気づいていなかったとは。 「んー。冥琳がね、水鏡先生を説得するまで待ってろっていうからさー。まあ、司馬徽も冥琳も議論できる相手が出来て楽しそうだからいいんだけど」 「いや、建業にいるのは知っています。そうじゃなくって、あなたはですね……」  真剣な顔で詰め寄る妹に、雪蓮は苦笑を浮かべてみせる。 「わかってるわよー。軍議に参加させろなんて言わないって。ただ、ちょっと蓮華に許可を取りたくて来ただけだから、安心なさい」 「許可? なんのです?」 「うん、ちょっとね。母様のお墓参りしていいかなってね。一応いまの身分だと、蓮華の許可がいるかなーって」  その言葉を聞いて、蓮華は虚を突かれたように体の動きを止め、次いで姉と距離を取った。仮面の将はにこにこと笑みを浮かべたまま、彼女の動きをずっと目で追っている。 「ええと……そうですか。では……私と思春が後ほど参りますので、お部屋の方に」 「はいはーい」  軽く手を振って、雪蓮は歩み去っていく。 「まったく、仕方のない方だ」  そうして姉の背中を見送る蓮華の視線はとてもあたたかだった。  雪蓮の墓参の道行きには、蓮華と思春だけではなく、大熊猫の善々までついてきた。小蓮が洛陽に行ってしまって寂しいのだろう、なにかと姉妹に構ってほしがっていた。 「あの、姉様、この棒は?」  墓に着くと、蓮華が側に突き立てられたものを見つけて訊ねた。風雨にさらされて汚れてはいるものの、墓石に比べればそれはずいぶん新しいものに見えた。少なくとも蓮華の記憶ではそんなものはなかったはずなのだが。 「ああ、華雄の槍よ。彼女なりの手向けでしょ」 「ああ……」  そんなやりとりの後、三人は掃除をはじめる。じゃれついてくる善々の爪を思春の鈴音がはねのける度、火花が散った。 「こんなものかしらね」  雑草を抜き、墓石を拭き終えた雪蓮が立ち上がって言うと、蓮華も淡く微笑んで同意した。二人は並んで墓石に相対し、揃って目を瞑る。その後ろに控えて思春もまた頭を垂れていた。さすがに雰囲気を察したか、善々まで体を縮めている。 「母様……」  そう漏らしたのは、姉妹のうちどちらだったろうか。あるいは二人ともであったかもしれない。万感の思いを込めた呟きに、思わず思春はその体を震わせていた。  まさに、その時であった。  いくつものことが、一時に起こった。 「お二人とも、お伏せに!」  思春の声は、雪蓮が蓮華の体ごと地面に転がるのと同時。  先ほどまで二人の体があった場所を三本の矢が通り過ぎたのは、それから寸毫の間もない。  巨大な獣の足が地を蹴るのと、思春が矢の来た場所を突き止めるのも、また同じ瞬間。 「あぐっ」  灼熱の感覚が腕をかすめる。蓮華に覆い被さるようにして地に伏せていた雪蓮の背中を、敵は最後に狙ったらしい。それが肩口をかすったのは幸運か、あるいは雪蓮の危機回避の動きか。 「姉様!」  いきなりのことに驚き硬直していた蓮華が、姉の体から力が抜けるのを感じ取り、叫び声をあげる。 「貴様らぁああああっ」  ぐがあああああぁっ!  怒号と咆哮が茂みの中へと消えていく。相手の気配もそれに応じて動き始めたのを感じ取り、雪蓮は唇をゆがめて体を起こした。一度、矢のかすった右腕を振って、さらに彼女は頬を引きつらせた。 「姉様?」  自らの服を手早く切り裂きはじめる雪蓮に、蓮華は目を白黒させる。 「手伝って、毒よ」 「だ、大丈夫なのですか!」 「わからないわ。とにかく、腕を縛るから手を貸して」  彼女は肩と肘の二カ所を、切り裂いた布できつく縛るよう妹に命じる。その一方で、茂みの奥に消えた思春たちの動きを鋭い視線で追ってもいた。まるで噴水のように血が吹き上がり、肉片や生首が宙を舞っている。 「思春、気をつけて、そいつら毒を使うわ!」 「はっ」  まあ、あの様子じゃあ、そんなこと注意するまでもないか。雪蓮はそう思いながら、ぎりぎりと肉に食い込む紐と、それに伴って麻痺する腕の感覚、それにも関わらず燃えるように熱く、氷のように冷たい気色悪さを感じていた。 「それくらいでいいわ、蓮華」 「は、はい」  必死で姉の腕を縛っていた蓮華は顔をあげると、はっと何かに気づいたように叫ぶ。 「思春、一人は生かさないと!」  だが、その言葉は既に遅かった。  思春の刀と善々の鋭い爪で、五人の刺客たちは全て地に伏せ、その命は血と共に流れ出して、もう押しとどめようはなかった。 「申し訳ありません、蓮華様。遅うございました」 「あーあ、やっちゃったか」  茂みの奥を覗き込んだ雪蓮がしかたないというように苦笑いする。蓮華も一瞥だけはしたものの、肩をすくめて体をひっこめた。 「雪蓮様を医者に診せるのを急ぐべきと判断しました」 「あら、ありがと」  返り血を浴びながら、真っ直ぐにそう言う思春に笑いかけ、真白き仮面は礼を言った。 「じゃあ、頼むわね」  それだけ言って、雪蓮はそのまま崩れ落ちるのだった。  意識を失った雪蓮を善々に載せて城へ走る途中で親衛隊の見回りに出会い、先に城へと伝令が走った。  だが、連絡を受けた重臣たちは対応に苦慮した。傷を負った雪蓮はすぐに医者に診せなければいけない。しかし、北郷の配下として呉を訪れている仮面の人物が雪蓮だと知れては一大事だ。王宮付きの侍医などは、仮面を被っていようと診察すれば相手が誰だかすぐにわかってしまうだろう。  結局、その問題は、城下にいたとある人物を明命が連れてきたことで解決された。 「華佗?」  大熊猫の背で眠る姉に付き添って王宮に帰り着いた蓮華はそこに待っていた赤毛の男性の顔を見て目を丸くした。 「ああ、久しぶりだな。それにしても、昨日建業に入ったばかりなのに、よく俺を呼び出せたものだ」 「重要人物の動き……特に建業への出入りは把握しておりますので」  きまじめな顔で当然のように答える明命。聞きようによっては不穏な響きであったが、いまこの時はなによりも頼もしく思える発言だった。  雪蓮は、華佗の診療中に意識を取り戻した。耳元で『元気になれえええええ!』と大声をあげられれば当たり前とも言えた。 「どう? 腕を落とさないとだめ?」  大きな枕にもたれかかり、脂汗の浮く顔でなんでもないことのように訊ねるのに、周囲の人間達は皆驚きの表情になるしかなかった。その一方で、長いつきあいの穏などは、この人らしい、とも思う。 「いや、いま施した治療で、大半の毒は抜くことはできるはずだ。たいていは、汗や尿で出てしまうだろう。ただ……」 「ただ、なんだ!」 「蓮華様」  怒ったように猛然と訊ねかける蓮華の肩に思春が手を置く。患者の家族の動揺には慣れっこなのか、華佗はちらりと目をやっただけで、再び傷に注意を戻した。 「毒は矢で受けたと言ったな?」 「ええ」 「この様子だと刺さってはいないようだが……肉をえぐってはいるな」  布で綺麗に拭われた傷痕を、華佗の指が動く。痛みが走るのか、雪蓮はその度に顔をしかめたが、声はけして漏らさなかった。 「鏃がこぼれて、肉や骨に残る場合がある。そうなると後々やっかいだ。特に骨に残った場合、腕の動きに影響してしまう」  医師の説明を、皆は固唾を呑んで聞き続ける。普通の傷ならばここにいる者でも治療は可能だが、毒ともなると扱いが難しい。 「だから、傷口を中心に切りひらき、中の様子を見ないといけないんだ。それ次第で、骨や肉を削る必要も出てくるだろう」 「そう。じゃあ、手早くやっちゃって」 「かなり痛むから、麻沸散で意識を飛ばしたいところだが、困ったことにその手持ちが……」  華佗が説明を続けるのに、淡く笑みを浮かべて雪蓮は首を振る。 「いいから、やっちゃって」 「本気か?」 「さっさと済ませちゃってよ」  この状態でも痛みはあるだろうに、その様子も見せず億劫そうに言うのに、華佗は思わず苦笑した。 「そうか。じゃあ、起き上がってくれるか。後ろからやるほうがいい。ええと、誰か手伝ってくれないか。彼女の腕を固定したい」 「はっ。失礼します!」  寝台の上に起こした体の後ろに華佗が回り、雪蓮の腕を明命が持ち上げて、華佗が傷口を扱いやすいよう固定する。華佗は鋭い小刀を取り出すと、慎重に傷口にあてた。新たに流れ出る血をもう一方の手に持った布で拭き取りつつ、傷を探り始める。 「蓮華、気を紛らわせるのに、話につきあってくれるかしら?」  自分の体に施されている手術をよそに、雪蓮は妹に明るい口調で語りかけた。彼女の自由なほうの手を取り、しっかりと抱きしめるようにする蓮華。 「え、ええ、もちろんです!」 「あのね。今回の賊をどうするか、それはあなたが決めることだから、なんとも言えないけれど、こういうことはね、今後もあるわよ」 「はい」  ゆっくりと、普段の口調よりはかなり静かに言葉を紡ぐ姉をしっかり見据えながら、蓮華は頷く。華佗の小刀が肉をえぐる度に彼女は顔をゆがめたが、調子を変えることなく話を続ける。 「どんな善政を布いても、敵というのは出来るものなの。それは人の考え方がそれぞれ異なる限り、どうしようもない。ある人間の益が、ある人間にとっては害になるってこともあるし、本当にしかたのないことなのよ」 「はい。わかります」 「この呉の領内にも、孫家の敵はまだまだたくさんいる。その敵を、私は切り捨ててきた。それはよく知っているわよね?」 「ええ、姉様。もちろん」  そう答える蓮華の鼻にも、鉄さびのような血臭が漂ってくる。毒が混じっているからだろうか、その臭いはことさらにきつく感じられた。 「それは、袁術に押さえつけられ奪われていた孫呉を立て直すには必要なことだった。けれど、あなたまでそうする必要はない。これから、そうした敵にどう対処していくか、それは穏や亞莎たちの進言を受けながら、蓮華、あなたが決めていくことよ。でもね、姉として前の王として、望むことを言わせてもらえば……」  そこで、彼女は一度言葉を切り、喉にからむものがあるように二度ほど咳払いをした。その顔といわず肩口と言わず、彼女の膚からは大量の汗が流れ出ていた。そして、異常な程の熱も、また。 「あなたは私と同じ道をとってはだめ。敵を排除し、切り捨てるのではなく、逆に丸呑みにしてしまいなさい」  そうして、彼女は大きく笑みを見せた。 「それが、私の願い」  呟く声は間近にいる妹にだけ聞こえた。その言葉を最後にがくりと首を落とした彼女の声は。 「姉様、姉様ーーーーーーっ」  体中の力が抜けた雪蓮を抱きかかえながら、蓮華は叫びをあげる。その悲痛さが、聞く者の胸を打った。 「雪蓮様!」  亞莎も穏も、思春までが彼女の名を呼び、駆け寄ろうとする。しかし、それは華佗の大喝によって止められた。 「落ち着け! 気を失っただけだ!」  それから、彼は集中のために額に汗を浮かべながら、小刀を動かす手を再開させた。 「もうすぐ終わる。少し待ってくれ」 「だ、大丈夫なの?」 「痛みと熱で意識が奪われたんだろう。大事はない」 「そ、そう」  華佗の保障に安堵して、蓮華は息を吐く。たしかに注意を向けてみれば、腕の中の姉の体は命を失ってはいなかった。荒く呼吸を繰り返す様子も感じ取れる。 「熱と汗は毒を吐き出すために必要なものだ。この熱は数日は続くだろうが、彼女の体力なら問題ない。毒を早く出すためにも水分だけはこまめに摂らせてやってくれ」  言ったとおり華佗の治療はすぐに終わった。寝台に寝かされた雪蓮をもう一度診察した彼はそんな言葉を残して、明命に連れられて部屋を出て行った。彼にはしばらく王宮の一角に部屋を与えて留まってもらう予定であった。 「ともかく、このことは知られぬようにいたしましょー。荊州の冥琳様には誰か信用のおける者を走らせますねー。洛陽にも必要かと思いますが、どうしますかー?」  しばらく経った時、穏が普段通りの調子で問いかけてきた。蓮華にはその様子が頼もしくも嬉しく思えた。 「そうね……。シャオに心配させるといけないから、一刀の手の者に……ええと、誰がいたのだっけ」 「月ちゃんがいると思いますよー」 「そう。では、月と、洛陽の守将に。お願いするわ」 「わかりましたー」  穏が立ち去り、亞莎もまた仕事のために部屋を辞す。扉の前には思春が立ち、余計な者を全て遮断した。  そうして、呉の王は一人、いつまでもいつまでも姉の側についているのだった。  2.単于  騎馬の一団が草原を駆ける。その数は三百騎ほど。  固まるのではなく、横に長く広がりながら、彼らは一目散に地を駆ける。それは、まるで誰かから逃げようとするようだ。  実際、彼らから離れること一里の距離を、これもまた騎馬の集団が走っていた。  しかし、第二の集団は数十騎ほどに過ぎない。数で勝るほうが逃げる理由があるだろうか。  とはいえ、三百騎は先へ先へと進み、対して第二集団はそれに徐々に徐々に引き離されていく。わずかな違いではあるが、馬もその扱いも、先の一団のほうがたしかに上だった。 「春蘭様、深追いはだめですよ! 右のほうで動いてます」  後背集団の先頭に立つ騎馬のうちの一つにまたがった小柄な少女が、隣を走る隻眼の女性に注意を促す。呼ばれた春蘭は季衣の指す方へ視線をやると忌々しげに舌を鳴らした。 「ちぃっ」  愛馬に指示を下し、右へと旋回を始める。部下達も彼女の動きに合わせて、緩やかに弧を描くように馬を操る。 「急げ! 敵につけいる隙を与えるな!」  馬にむち打ち、さらなる速度を出しながら、春蘭は怒鳴る。右方で動き出そうとしていた騎馬の集団は、そんな彼女達の様子を見て、さらに右へとそれていったようだった。  そんな彼女たちの背に、いつの間にか動きを止めた最初の集団が、揃って一連の言葉を投げつけてきていた。 「トグリシャンユー!」 「トグリシャンユー! シャー!」  おそらくは、北方民族の言葉であろうそれらの意味はわからなかったが、調子は明らかに侮蔑や嘲弄を含んだもので、春蘭は屈辱に顔を赤らめざるをえなかった。 「春蘭、季衣お疲れ様」 「おかげで、無事、陣を張ることができましたよー」  本陣の天幕に戻った春蘭と季衣に、華琳と風は揃ってねぎらいの言葉をかけた。先ほどまで怒りに身を震わせていた春蘭はその言葉でほっとしたように表情を緩める。季衣も華琳や風、流琉に迎えられて、ようやくのように笑みを見せていた。  彼女達二人が先ほどまで行っていた出撃は、このところ日課のようになっている威嚇行為だった。  彼女達の軍に張り付いた数千――いや、数万の騎馬軍を一時的にでも引き離すための。 「それにしても、やつらも飽きないわね」  右軍襲撃の報を受けた翌日、北方に数千の騎馬の兵が現れた。数千とはいっても、背後にさらに多数の……おそらくは万を数える騎馬軍団が控えていることは容易に想像できた。なにしろ、子細に検分すると毎日彼らの顔ぶれは変わっていたのだから。  騎兵の集団はいくつもの大集団からなっているようだったが、それぞれに横に大きく広がって、まるで北伐中央軍の退路をふさぐようにして並んでいた。  そうして、本格的に攻め入ってくるでもなく、中央軍が進軍を止めれば止まり、進めばそれについてくるという行為に出た。三里から五里の距離からはけして離れようとはしない。それは、こちらの弓は――たとえ弩でも――届かないが、彼ら騎兵が本気になれば一駆けで突撃できる、絶妙な距離。そして、いま進んでいるような平原では、中央軍の兵たちからも十分にその影が見える……つまりは不断の威圧を受け続ける距離でもある。  もちろん、ただ整列して着いてくるだけではなく、散発的に小部隊が突撃してきては馬の上から弓を飛ばしてくる。その攻撃で隊列のどこかが崩れれば、騎兵全体が突撃して来るであろうことは目に見えており、華琳達としては展開している部隊の全てに鉄の規律を課し、安易に挑発に乗って突出しないよう戒めるしかなかった。  しかし、人間いつまでも緊張を保っていることはできない。故に外側に位置し圧力を受け続ける部隊を内側の部隊と入れ替えてやったり、全体の休息をとるために陣を張る必要がある。  その隙を狙われるのを避けるため、春蘭や季衣、流琉といった武将達が、数は少ないものの精鋭揃いの騎兵を連れて敵の小部隊を迎撃に出ているのだ。それで時間を稼ぎ、部隊配置を変更したり堅固な陣を作ってしまうというわけだ。もちろん、右軍との連携が断たれた現状では、その陣に籠もって敵を打ち破るという方策は採れないため、あくまで兵を休ませる一時的なものに過ぎないのだが。 「なにかを言っていた?」 「はい。我々を侮辱するような調子でしたが……」  春蘭と季衣が報告を続ける中で、華琳は何かひっかかったように眉をはね上げた。 「なんと言っていたかわかる?」 「えっと、たしか、『トグリシャンユー』……だったと思います、華琳さま」  その言葉を聞いて、華琳と風は顔を見合わせる。他の三人は匈奴や鮮卑の言葉に詳しくないので、なにがなんだかわからないでいた。 「わかる? 風」 「シャンユーは、多少なまっていますが、匈奴の帝位のようなものですねー」 「あ、それ、単于とかいうやつですか?」  ぴんと来たらしい流琉が言うのに、風と華琳は頷いてみせる。春蘭は感心して流琉の頭をなでてやった。 「おお、よく知っているな、流琉」  えへへ、と照れる流琉。彼女の言うとおり、単于というのは匈奴の君主を示す。後には匈奴そのものの影響力が低下し、匈奴にかつて抑えつけられていた周辺の諸族がそれを名乗ることもあった。部族にまたがって大きな権力を持つ場合、そうした昔ながらの称号で力を権威づけする必要があったのだろう。 「トグリはトングリだと思いますが……。だとすると大いなる天という意味ですね」 「上天単于といったところかしら」  華琳が風の言葉を受けてまとめてみせる。しかし、風は長いつきあいのこの面々でしかわからないほどに微妙な不満の表情をその顔に張り付かせていた。 「どうした、風?」 「うーん。変なんですよー。単于はもともとトウリコト単于、つまり、広大な地を治める天の子、という意味です。それにさらに天を重ねるというのは……」  どうやら、風は言葉の意味はわかっても、その使い方に納得がいかないらしかった。しかし、その疑問に、華琳はあっさりと答えてみせる。 「わざわざ天の言葉を付け加えなくてはいけない存在だということでしょう」 「はいー?」 「あちらにも『天の御遣い』がいるってことよ」  さらりと吐いた言葉は、天幕内を凍り付かせた。その名は、彼女達にとって特別な意味を持つものだったから。華琳はその様子にくすりと笑みを漏らす。偽の天の御遣いが目の前に現れたら、この子達大変なことになりそうね、と彼女は心の中で呟いていた。 「まあ、いいわ。ともかく、敵は『上天単于さまがお前達をやっつけるぞ』とでも言っていたのでしょう。そういう指導者がいるらしいことがわかっただけでも収穫よ。あれだけの数で頭がないとも思わなかったけれど、確実にいるとわかればそれを討つことを考えることもできるしね」  主の言葉に、一同は先ほどの衝撃を引きずってか、ぎこちないながらもそれぞれに同意する。  その後で話は移り変わり、春蘭はずっと疑問に思っていたことを、良い機会だと口に出した。 「しかし、わからん。我らの動きをどうしてこうも読み取れたのだ? 数の多い中央軍の居場所だけならともかく、凪達を襲うとなると……」 「簡単ですよ」  既に考えていたのだろう。風はそのぼんやりと眠そうな表情を少しも崩すことなく、春蘭に答えてみせた。 「ものを押せばそれだけ反発が返ってくるものですし、人が歩けば、その跡はわかるものなのですよ」 「むう、そのような言い方ではわからんぞ、風」  困ったように言う春蘭と、同じように呑み込めていない季衣と流琉を見て、風は思わず微笑みを浮かべつつ続ける。 「詠ちゃんの使ってる客胡にしろ、稟ちゃんの進めてきた調略にしろ、相手の情報や信頼を得るには、こちらも腹を割って話す必要がありますー。だから、どうしてもそこから情報は漏れるんですねー。いえ、相手にこちらのことを知らせることこそ、必要なことなのです。目端の利く者なら、様々な断片から、我らの動きを読むことは可能でしょう」 「……いや、うん、それはわからないでもない。しかしだな、右軍の動きは……あれは、呉の軍を、ええと……」 「国譲りの目くらましに使いましたね。しかし、おそらく、あちらはそんなことは知らないでしょう。ただ単に、これだけの軍を動かすならば、その補給を断てばよいと考えたまでですよ」  うまく疑問を言葉に出来ない春蘭を助けるように風は言葉を重ねる。彼女は、敵が右軍をわざわざ狙ったとは思っていないのだ。あくまで、補給の動きを察知して中央軍の補給部隊として討ったつもりだと、その推測を口に出してみせた。 「風の言うとおり、敵は補給線を断ち切った。ならば、絶好の機会よね。なぜ攻めてこないのかしら?」  風の言葉を受けて、華琳はその深い碧の瞳を揺らして確かめるように訊ねた。華琳自身には彼女なりの推察があったが、それを明らかにせずに、部下の意見を引き出そうとしているのだ。 「圧力をかけ続けているというのはわかるんですけどね……」 「追い出せればいい、と考えている風情……でもないか」 「うーん。こっちの方が数が多いから……じゃあないよねぇ。相手は騎兵いっぱいだもんなー」  それぞれに意見を言う三人に対して、風は少し考えていたようだったが、なにかに気づいたのか一つ息を吸ってから考えを口にした。 「……戸惑っている、のかもしれませんねー」 「どういうことだ、風」 「つまりですねー。敵は背後に騎兵――おそらくはその中でも最速を誇る部隊を回し、右軍を討ちました。しかし、彼らにとって、それは、輜重隊を討ったという認識なのです」 「間違ってはいないですよね? 右軍との連携が断たれれば、いずれ私たちの兵糧も切れますし」  流琉が不思議そうに首をひねるのに、うん、と頷く風。 「そこですよ。いずれ、です。あくまでも中央軍は中央軍として、しばらくの間は動けるだけの兵糧、水を携えています。それが彼らには意外なのです。すぐに兵糧が尽き、飢え始めると思っていた部隊が無事に動いているので、攻めあぐねている、といったところでしょう」  言っていることは理解できるが、まだ完全には得心できない、といった表情の面々を見て、華琳が口を出す。 「つまり、風が言いたいのは、こういうことかしら。この北伐において、我らは通常ではありえないほどの大軍を編成した。補給用に一軍をあてるという手までつかって。ただ、右軍はただの補給部隊ではない。補給と後衛を兼ねた、それだけで独立した立派な一つの軍……一つの自律組織と言っていい。将もたくさんいることだしね。そこを彼らはとらえていなかった、と」 「ですねー。そして、中央軍や左軍もまたそれぞれ一つの組織として存在しますー。右軍から食糧供給などを受けていますが、それでも一個の軍としての形はありますから、たとえ連携が途切れてもしばらくは継戦能力を保ちます。それが……」 「敵の予想外であった、か」  そこまで言って、ようやくのように春蘭はぽんと手を打った。 「ああ……。要はあやつら、兵糧を集めた部隊は後方の凪たちだけ、と思い込んでいたということですか?」 「そうね。そして、その部隊がしぶといとも予想していなかったことでしょう。だからね、戸惑っていると風は言っているのよ」 「んーと、計算違いだったってことですよね。でも、それって……」  理解が追いついた季衣が言いにくそうに口ごもるのを、華琳は笑みをたたえたまま受けた。 「そう、今は判断できていないけれど、いつかは来るわ。おそらく、鮮卑の領域を離れるか離れないか、そのあたりが、あちらの最終決断の時でしょう」  それから彼女は笑みをさらに深くする。 「そうなった時、斃れているのはあちら――上天単于よ。そうでしょう、あなたたち」 「はっ」  自信を秘めた声が応じる。たとえその嘯きが現時点では危ういとしか思えなくとも、主の言葉を真実とすることこそが彼女達に与えられた務めなのであった。  3.逃亡  騎馬の群れが、黄河の脇をひたすらに走る。その列は、延々と続いていた。  人の数は二万、馬の数は六万、追い立てられる羊の数が十万。  そう、羊だ。  大地を蹴り、優雅にその体を動かす大きな馬体の足下を、めぇめぇと情けない鳴き声をあげつつ走っているのは、もこもことした毛に包まれた羊たちだった。  彼ら北伐左軍の東進組は、金城で右軍から大量の羊を受け取った。食料兼水分補給兼暖をとるための存在だ。  まさに遊牧の民と同じように羊を生ける貯蔵庫として利用したのだ。  ただ違うのは遊牧の民のように羊の速度に合わせたりはしないことだ。彼らは、羊を限界まで追い立てた。  そして、へとへとになって倒れる度、その肉を食料とし、血は飲料とした。また、血を混ぜた煮こごりをつくり、それは馬上で摂れと配られた。  そんな羊たちに草を食べさせたり、死んだ羊をさばいたりするために、最も先行する部隊だけは立ち止まり、休息を取ることが許されていた。通り過ぎる部隊に食料を配り、彼らが馬上で食事を摂ることができるようにするのがその役割だった。もちろん、他の部隊は馬を替えつつ、昼夜ぶっ通しで走り続けている。  そんな野営の部隊の片隅で、数人の兵達がひそひそと言葉を交わしていた。 「なあ……」 「うん、やっぱり……なあ」 「二千里は……きっついよなあ」  すでに東進組が出発してからそれなりの時間が経過している。疲れも溜まってきているし、そもそも北伐中央軍を救いに行くと言われても、彼らには実感などありはしない。ただ馬を操る身だけに、その距離の膨大さだけははっきりと認識できた。  だからこそ出てくる不満であり、不安であった。 「……いっそ」 「いや、でも……」 「じゃあ、このまま引きずり回されるってのか?」 「……それもそうだな」  会話は議論となり、そして、一つの方向を示す。  その日、闇の中で、いくつかの人陰が眠る同輩たちの中から消えた。  見回りの目をかすめ、馬にはいななきあげないよう木片をかませて、兵達は夜明け前の最も闇の濃い時間に慎重に移動していた。陣の端、軽く囲いのされた場所まで来て、ようやくのように息を吐く。 「おい」  その声は闇に紛れて聞こえた。  全ての顔が声のしたほうを向き、そこに一人の女性の姿を見る。  巨大な鈍器、闇に溶け込むような服を着た、眼光鋭いその女性こそ――。 「ぎ、ぎ、魏延将軍!」 「うるさい、黙れ」  金切り声をあげる兵を、低く地を這うような声で一喝する焔耶。その迫力に、兵達は恐怖の声さえ呑み込んだ。 「逃げるのか?」  しばらくの間、彼らは身動き一つとれなかった。  だが、焔耶が焦れ始める前に、一人がこくりと頷いた。それを見て取った焔耶は、こちらもこくりと頷き返す。 「そうか。気をつけろよ」 「え?」 「さっさと行け。それとも突き出されたいか?」  兵達は思わず顔を見合わせていたが、焔耶がくるりと背を向けて、どこかへ歩き出すのを見て、その背に声をかけはじめる。 「い、いえ! あ、あ、ありがとうございます」 「ありがとうございます、将軍!」  ぺこぺこと頭を下げる兵に、うっとうしげに焔耶は呟きを返すだけだった。 「まったく。うるさいと言ったろう」  その光景は、逃げた兵と焔耶以外、誰も見ていないはずだった。  しかし、いつの頃からか、焔耶が見回りをしているところで何組かの逃亡兵達が逃走に成功したという噂がまことしやかに語られるようになっていた。  実際に姿を消している兵はいたし、その全てが偵察中に死んだだとか、落馬しただとかいう理由だとはとても思えなかった。  だから、その噂は信憑性をもって受け止められ、さらに勝手な解釈が付け加えられていった。  すなわち、魏延将軍は、元々部隊を持っていないから、逃げようとする兵に甘いのだと。  そして、この夜もまた……。 「おい」  闇の中からかかった声に、兵達はぎくりと身を震わせ、しかし、その姿が黒ずくめの特徴的な女性将軍のものだと知って、安堵の息を吐いた。 「魏将軍」  五人の兵の中で頭目格の男が、焔耶の姿ににやけつつ答える。彼らは見つかったのが焔耶だと知って、弛緩した空気を漂わせていた。 「逃げるのか」 「へい。まあ、こんなの莫迦らしいですからね」  へらへらと答える男に不快感を隠そうともせず、焔耶は顎をしゃくって、男の手元を差してみせる。 「その袋は?」 「あ、いえ、ちょっと駄賃をもらおうと思いましてね」  男が持ち上げた袋からはめぇめぇと小さな声が聞こえてきた。おそらく、中には羊が入っているのだろう。同じような袋を、他の四人も背負っていたし、馬にもいくつか乗せられていた。人がいる地域について換金するか、途中で食うかするつもりなのだろう。  それを見て、焔耶はすうと目を細めた。 「置いていけ」 「へ?」 「その羊を置いていけと言った」  理解できない、といった顔の頭目に、焔耶は丁寧に繰り返す。 「え、いや、しかし、これくらいいいでしょう。ね、お目こぼしして下さいよ」  その言葉に、焔耶ははぁと小さくため息を吐く。  その行為を頭目は誤解したようだった。既ににやついていた顔がさらににんまりといやらしい笑みを刻む。 「愚か者め」  ぐしゃり、と奇妙な音がした。  それは、鈍砕骨が振り抜きざま、男の頭蓋を破壊した音に他ならなかった。ぶしゃりと血をはじけさせながら、男はどうと地に倒れる。 「逃げるような弱卒は不要だ。だから、見逃してきたが……」  恐怖の声をあげ、荷物を放り投げて逃げ出す男達を、焔耶は逃がさない。 「軍のものを盗むとなれば、話は別だ」  その武器が振られる度、風を切る音と共に、肉を、骨を、柔らかい脳髄を破壊する嫌な音があたりに響いた。 「全員、死ね」  焔耶の宣告はまさに死をもって下された。  焔耶に呼ばれ、兵達の処理にやって来た母衣衆は、事を隠し立てするつもりなど毛頭ないようだった。大声で将軍や将校を呼ばわり、焔耶によって軍令違反者が処罰されたことを喧伝する。死体は近くにあった岩にまとめてくくりつけられ、見せしめにされた。たとえ、いまはここにいる部隊だけにしか事が知れなくとも、すぐに噂は軍内を駆け巡るだろう。  そんな騒ぎを離れて、焔耶は一人、武器についた血糊の処理を行っていた。もちろん、黙々と血なまぐさい後始末をしている彼女に近づく者などいるはずはない。  そう、いないはずだった。  だが、実際には彼女の動きをじっと見つめる二つの瞳がそこにあった。その人物は、彼女が全て済ませるまで何一つ言葉を口にしなかったが、彼女が終わりを告げるようにぽんぱんと両手を打ち合わせて体を起こすとついに口を開いた。 「悪いね、文長さん」  声をかけたのは北郷一刀。この部隊の長にして、ここ数日、焔耶に見張りを頼んでいた張本人であった。 「いや、いい。だが、本当に良かったのか。最初の三組は逃がしてしまって」  打ち合わせ通りではあるが、彼女自身納得していなかったことを、命じた本人に訊ねかける焔耶。彼は頭をかきながら、苦笑いで答えた。 「うん。まあ、困った事態ではあるんだけどね。でも、早い内に逃げようとする兵ってのは、この戦に勝ち目がないと踏んでいるか、この戦の意味を理解していないと思うんだ。そういう人には逃げてもらった方が良い場合もある」 「戦がはじまったところで逃げられては余計に困る、か」  綺麗にした鈍砕骨を持ち上げて、彼女は歩き始める。夜明けがもうすぐそこに来ているのだろう、東の空が暗褐色に焼けていた。 「そういうこと」  焔耶の歩くのを追って、一刀も横に並んだ。二人は騒ぎから離れるように、陣の端のほうへと歩いて行く。 「それでね。いま逃げようとしているのは、先に成功した連中の噂を聞いたかなにかで、浮き足だって逃げようという連中なんだ。そういうのまで逃げさせると、際限がなくなって部隊が崩れる」  ふむ。と焔耶はその言葉に頷く。 「そういう兵にはきちんと罰して見せて、怯懦を追い出す、といったところか?」 「うん。その噂を印象づけるために、部隊を持たない文長さんに……」 「焔耶だ」  真名であることはもうわかっていた。ただ、あまりに自然に言われたので、一刀は一瞬息を呑み、ついで、人なつっこい笑顔を顔満面に広げた。 「うん、ありがとう。焔耶」  その笑顔に照れたのか、ぱたぱたと籠手をつけた手を振って焔耶は先を続ける。 「まあ、いい。この程度。泥をかぶるくらいどうということもない。以前の部下の不始末も、一人同行したこともある。部隊の規律を保つくらいはいくらでもやろう」  彼女はそこで立ち止まり、鈍砕骨を地面に打ち下ろした。どん、と深く重い振動が大事と走る。 「だが、わかっているのか。いかに曹孟徳を救うためとはいえ、二千里、三千里は目のくらむような距離だぞ」 「ああ、わかっている」  そう言う一刀の顔にその日最初の光が照りつけた。そのまばゆさに思わず焔耶は目がくらむ。まるで目の前の男が光り輝いているかのような錯覚に、彼女は襲われていた。 「それでも、俺は行かなければならない。皆を引き連れて」  曙光差す東の空を睨みつけるようにして、一刀はそう宣言するのだった。  4.献策 「元直ちゃんが翠さんのところへ、か」  手紙を読み終えた朱里は、そう呟いてなんとも言えない表情になった。彼女たちの師である水鏡先生のもとへ冥琳を案内した時から、なんとなくこうなるだろうとは予想していたものの、実際に本人から西涼へ行くと決めたという報せを受けると、複雑な感情がわき起こってくる。  いまは、水鏡先生も冥琳に口説かれている最中だという。実際に動くかどうかはわからないが、もしそうなれば西涼には智者が集うことになる。  西涼は翠と蒲公英という、彼女もよく知る人物たちによって築かれる国だ。この蜀で過ごしていた人々が、故郷で国を建てる。友好関係にも期待できるし、そのことに文句などあるはずもない。  だが、それでも西涼は魏の影響下からは逃れられないだろう。そのこともまた、彼女はよくわかっていた。  いや、この大陸で、魏の影響を免れる者など――よほどの西域にでも行かない限り――いないのだ。そう、西涼だけではなく彼女自身が属するこの国もまた。  そう考えを進めたところで、彼女はもう一つの書簡を引き寄せた。それは数日前に到着し、もう何度か目を通したものだ。送ってきたのは、雛里――この国のもう一人の軍師、鳳統。同門の徒であり、その知をお互いに認め合った親友の言葉を噛みしめるように読み直す。  そこに描き出されているのは、涼州で雛里が見聞きした北伐左軍と、それを率いる北郷一刀という人物の姿。  雛里自身は涼州についてから日が浅いために見極めるとまで行っていないと考えているようだが、すでに一定期間軍事行動を共にしている焔耶や星たちから聞き取った事柄などを含めての考察は、魏の北伐にかける意気込みと北郷一刀という人物の為人を窺わせるのに十分なものだった。  朱里は読み終えた書簡を巻き直し、徐庶からのものといっしょに並べると、それを前に腕組みして考え込み始めた。  そして、うん、と大きく頷くと、人を呼んだ。 「馬車の用意を。成都に戻ります」  部下にそう告げ、蜀の大軍師は手早く身の回りのものをまとめはじめた。  漢中に内相府を建てるためについ先日赴任した朱里が戻ったと聞いて、軍部のとりまとめと共に成都を任されている愛紗は急いで合議の間へと向かった。  彼女が部屋に入ると、既に義姉妹の二人は席に着いており、朱里と談笑しているところだった。その他に壁際には数名の高級文官が立っているが、もちろん、彼らはこの国の主たる劉玄徳と、大軍師諸葛孔明の会話に割り入ることはない。 「どうした、朱里。漢中に赴任して早々戻ってくるとは……?」  三人の雰囲気にそれほど緊急事態ではないことを察して胸をなでおろしながら、文官たちもいる手前、それほど表情を崩すこともなく彼女も卓に着く。長く垂らした髪を自分で下敷きにしないよう、無意識に払いつつの優雅な動きだった。 「いえ、特に何ごとが起きたというわけではありません。ただ、皆さんとお話したいことがありまして」 「ふむ……」  お茶菓子をばりばり音を立てて食べている鈴々の姿に笑みを浮かべる愛紗。彼女は横に座る義妹の胸にかかった菓子のかけらを払ってやり、あまり音をたてるな、と小声で注意する。 「ふわーい。それで、話ってなんなのだ、朱里」  鈴々の言葉に、朱里は立ち上がる。その背についた大きな飾り布がふわりと揺れた。 「まず、先日、元直ちゃん……私や雛里ちゃんの学友から書簡が届きました」 「雛里ちゃんとも一緒ってことは、ええと、水鏡先生のところの?」 「はい、そうです」  桃香の確認を肯定して、朱里は先を続ける。 「西涼の建国を助けるため、翠さんのところに行くとの話でした。もちろん、実際に赴くのは、北伐が一段落してからでしょうけれど」 「へー、翠ちゃんを助けてくれるんだね。よかったね」  桃香は華のような笑みを浮かべる。その表情から、本気で喜んでいるのがよくわかった。だが、一方で、それを受ける朱里の表情は硬い。 「ええ、それ自体はよい事だと思います」 「それ自体は?」 「はい」  愛紗が小首を傾げるのに、朱里は丁寧に説明を加える。 「翠さんが国を作り上げるために、元直ちゃんの智は非常に役立つことと思います。西涼は我が国にとって完全な味方とは言わないまでも友好国となるでしょう。ですから、その国に力となる人材が赴くことは良いことです。私や雛里ちゃんも元直ちゃんのことをよく知っていますから、余計な腹の探り合いなんかも避けられます。ただ……」  そこまで言って朱里は咳払いをした。かわいらしい声にも、真剣な色が乗る。 「しかしながら、この一連の出来事には、魏の意向が強く関わっています。実際、元直ちゃんを誘ったのも北郷さんの考えだったようですし」 「西涼を建てるということ自体、北伐の結果だしな」  こくり、と朱里は頷く。その真剣な表情に愛紗はなにごとか理解できるような気がしたが、横でいまだにもぐもぐやっている鈴々のほうはそうでもなかったようだ。 「つまり、朱里はなにが言いたいのだー? お姉ちゃんわかるかー?」 「んー、西涼も含めた外交の問題だよね? たぶん……」 「ええ、桃香様の仰るとおりです」  朱里は、今度は桃香を真っ直ぐに見つめて話し始める。強い視線にのけぞりそうになる桃香だったが、国主であることを思い出したかなんとか踏みとどまる。 「戦乱が終わり、我々はまがりなりにも同盟国としてやってきました。しかし……意識の上で、元の敵国であるというのは変わらなかったと思うんです」 「うーん、まあ、そうかも……。私はそうでもないけど……」 「桃香様はそうかもしれません。しかし、他の者がそうできるとは限りません」  言いながら、彼女は壁際の幾人かにちらと視線をやる。同意するように二人ほどが頷いていた。たしかに、ずっと争ってきた相手とすぐに仲良くしろというのはなかなかに難しいことだ。表面的や儀礼的にはできても、本心からというとどうだろう、と愛紗も内心考えてしまう。 「では、朱里はその関係を変化させるべきだと言うのか? 今回の西涼建国などを通じて?」 「はい。北方で北郷さんと交渉を行った雛里ちゃんの意見も勘案した上で、荊州の問題、西涼の建国……様々に事態が動いている中で、私としましては、考えを改めるべきだと思い至りました」  そこで彼女は皆の注意を惹くようにしばらく口をつぐんだ。焦れた鈴々が声をあげるより少し前に、彼女は決然とこう宣言する。 「友となるべきなのです」 「友?」 「はい、先ほど言ったように、我々は……少なくとも私と雛里ちゃんは、魏、呉の両国を元敵国であり、現状でも潜在的な敵国であるとして扱ってきました。国自体としてはその備えは間違っていません。けれど、我々個人までそういう風に考えては、なにも解決できないのではないか、と思い始めたのです」 「膝を屈して融和しろと?」  まさかそんなことは意味していまいと思いつつも、愛紗は確認をせざるを得ない。魏とも呉とも、彼女達の政治方針はかけ離れている。友人となれと簡単に言うが、どうすればいいというのだろう。 「いいえ、違います。そもそも、愛紗さんは友である人と常に同じ動きをしますか?」 「いや……しないが……」 「我々は華琳さんや蓮華さんとは違う理想を持っている桃香様に仕えています。しかし、そこで『違う』として理解することをやめてしまうと、相手がどう動くかも理解できなくなります。もしかしたら、自分のやり方を勧められる時機を見失ってしまうこともあると思うんです」  朱里の弁舌を三人は黙って聞く。文官達は幾人かがその言葉を書き留めたりしているようだった。 「逆に相手を知れば、相手の違う部分、わかりあえる部分、そして、自分のほうが道理にかなっていると思える部分、そうであっても相手の理もあると判断する部分、様々に見えてくるはずではないか。そう考えるようになったんです」  早口になっているのに自分でも気づいたか、逸る気持ちを抑えるように、大軍師はそこで一度言葉を切る。 「はぁ……」  なんとなくはわかったような気がしないでもない、という微妙な表情の主を見て、彼女は再び口を開く。 「相手とわかりあい、その上で違う道を歩く必要がある、ということです。いえ、もちろん、お互いに理解できて、両者の理想を合わせたものを作り上げられれば言うことはありませんが、そこまで楽観的には……」 「でも、なんにしても敵視をやめようってことだね」 「基本的にはそうです。ただ、どうしても馬が合わない人がいるだろうことは……」  朱里はそこで桃香の満面の笑みを見て、話の方向を変える。あまり、今から悲観的な事ばかりを言ってもしかたないだろうとの判断か。 「それでも、これまでただ遠巻きに、あるいは儀礼的に接していた人達に一度は近づいてみる必要があると考えています。現在北伐が行われていますから、同じ戦場で戦い、策を練る中で、自然とその機会も増えるかと」 「んー? 熱心に北伐をやればいーのか?」 「そうですね。まずはそうなりますね。北伐自体、皆さん色々思うところもあるかもしれませんが、だからといって大きな流れから身を背ければ孤立あるのみです。ここは内側から変える試みを行うべきだと」  朱里が言葉を切り、しばらくは沈黙が続く。桃香も愛紗も考えに沈んで、朱里の主張を深く理解しようと努めていた。 「学べるところは学び、知るべきは知り、そして、その上で我らの理想を貫く……といったところか」 「それって、ただ敵対するより難しそう」 「敵なら倒せばよいが、しかし……」 「でも、仲良くするのはいーことなのだ」  三義姉妹が、それぞれに意見を口にする。しばらくそのままに会話が続くのを見ていた朱里が、まとめるように言った。 「それでも、桃香様の理想にも近い形だと思います。いかがでしょうか?」  桃香が目配せをしてくるのに、愛紗は頷いてみせる。けして悪い話というわけではないと思えた。その動きに勇気づけられたように、蜀の王は大きく体を動かして賛意を示してみせた。 「うん。いいことだと思うな。警戒は必要なこともあるけど、やっぱりお友達にならないとわからないことってあるしね」  その一声で方針は定まる。敵対ではなく、友となり、相手を見据える。その方針ができあがったならば、次はそれをどうやって行っていくか考えなければならない。 「では、まず予定よりも積極的に北伐に将を派遣し、他国の……特に魏の将と友誼を交わすことになるか」 「はい。北伐と大使派遣ですね。その分、国に残る者の負担は増えますが、他の機会を待てばさらに大変になりますから……」 「大使は一人減らしてもいいって通達がきていたと思うけど……」 「ええ、呉からの大使が小蓮ちゃん一人になった関係もあって、こちらも一人でよいと。ただ……小蓮ちゃんは王族ですし、いまのところ呉の後継者候補筆頭ですから」  難しい顔をして考え込む朱里。 「釣り合わせるのは、難しいかな?」 「愛紗さんか鈴々ちゃん、あるいは私か雛里ちゃん。一人に絞るならこのうちの一人ということになるかと……」 「その面々に国を離れさせるのはどうなのか……」 「私とかどう?」  その言葉を発したのは、相変わらず笑みを浮かべたままの桃香だった。名前の通り桃色の髪を揺らしての発言に、その場に沈黙が落ちる。  だが、一拍おいて、どっと笑いがはじけた。誰もが場を和ませるための冗談だと受け取ったのだ。 「あ、あははー、だめかー」  だが、ひきつった笑みを見せる義姉を見て、これは本気だったなと一人思う愛紗であった。 「ま、まあ、まずは今年いっぱいはいまの桔梗さんと紫苑さんの体制で……ええと、たしか年末にはみんな帰ってくるよね? あとはその時に話し合うとかどうかな」 「はい。そうですね。急ぐことはないと思います。しばらくは魏の意識は北伐に向かうでしょうし、呉は代替わりということもあって蓮華さんが地盤固めをしているでしょうから、こちらとしても、ゆっくりと接近をはかれるでしょう」 「そうだね。じゃあ、そのあたり、詳しいことはみんな考えて、また話し合おう」  そう桃香が締めて、その件は一段落した。その後、漢中における朱里の報告や文官達からの上奏などを経て、会議は終わりを告げるのだった。 「朱里」  会議を終え、部屋に戻ろうと廊下を歩く軍師の背中に追いつき、愛紗は彼女の名を呼んだ。 「はい? あれ、どうかしました?」  振り向いて不思議そうに見つめてくる少女は、たくさんの書類を抱えている。彼女はそのうちの半分ほどを持ってやりつつ、廊下の先の中庭にある四阿に彼女を引っ張り込んだ。 「少々聞きたいことがあってな」  その真剣な声音に、一つため息をついて苦笑する朱里。 「やはり、愛紗さんには隠せませんか」 「いや……別になにかを見抜いたとかいうわけではないが……。今回のこと急な上に、具体性にかける献策であったなと、ひっかかってな」  はは、と小さく笑う朱里。彼女は四阿の陰に隠れつつ、彼女をじっと見つめてきた。愛紗もまた人目から隠れるようにして彼女に問いかける。 「なにか……あるのか?」 「時間が必要なんです」  朱里はきっぱりとそう言った。 「時間?」 「魏をもう一度理解する時間が」 「魏を……」  鸚鵡返しに言って、愛紗は自分が朱里の言葉を繰り返してばかりだと苦笑いする。 「しかし、我々はすでに敵としても、同盟国としても魏とそれなりの時間を過ごしてきていると思うが……」 「歳月だけを見れば、そのとおりかもしれません。しかし、戦後から一年の間、我々は重大なものが欠けた彼女達を相手にしていたと言わざるを得ません」  愛紗には、相手の言いたいことがだんだんとわかってきた。そこで想起される人物の名を思わず呟く。 「北郷……天の御遣いか」 「そうです。彼は戦が終わった時に姿を消し、そこで魏の面々は重大な喪失を経験したはずなんです。だけど、それまでの私たちは華琳さんたちと敵対していた状況ですから、その変化に気づけなかった。戦が終わり、平和を謳歌していた華琳さんたちは、戦中の彼女達とは決定的に違っていたはずなのに、それをただ戦時と平時との違いと受け止めてしまった。しかし、一年半前……」 「彼が帰ってきた。そのことで、再び華琳殿はじめ魏の面々は変化した、と。そう言いたいのか、朱里」  身を乗り出して鋭く言う愛紗に、朱里は小さく頷く。 「おそらくは。だから、その相手を知る時間を稼ぐ必要があるんです。敵対などしている暇はありません」 「そうか……」  ようやく得心がいった、というように愛紗は息を吐く。ただ、近づくだけではない。相手を知ることこそが、自らを、そして、主と民を守ることになる。そう主張する朱里の言葉がようやく体に染みいったように思えた。  しかし、愛紗はそこで一つ気づいたように顔をあげた。 「朱里。もう一つだけ聞いておきたい」 「はい」 「友となり、相手の思いを知り、他の理想を知り、その先にある未来を見て、それでもなお道を同じくできないと、敵とならねばならないと思い知った時、どうする」 「簡単です。とても苦しいですが。……友を敵とするだけです」  朱里は硬い表情で、しかし、背筋をぴんと伸ばしてそう言い切った。そうしていると、その小さな姿が、自分と同じほどの背丈があるような気がしてしまう愛紗である。 「出来るか、それが」 「出来ぬほどの理想ならば、諦めればよろしい」  いっそ冷たいほどの鋭さで、諸葛孔明は、そう切って捨てる。それから、彼女は遠くを見つめるようにしてあたたかな声音で呟いた。 「諦めることが出来ないからこそ」 「我らは桃香様に仕えている、か」  二人は顔を見合わせ、しっかりと頷き合うのだった。  5.覚悟  騎兵がそれぞれに距離を取って、百騎進んでいるとしよう。  人より重く大きな馬体と、それにまたがる戦士達。  そんなものが列になって進んでくる。それだけで脅威の光景と言えよう。  しかし、それが百どころか千、万を数えた場合、もはやその光景は脅威などという言葉では表現しきれなくなる。  そこに現れるのは、黒い波だ。  大地を埋め尽くす黒い波が着実に自分に近づいてくる風景は、もはや恐怖や不安と言った感情を通り越し、いっそあっぱれとも思えるようになってくる。  進んでくる敵を自軍の兵達の最後尾で眺めている華琳たちにもその心理は忍び寄っていたかもしれない。 「なかなか壮観なものね」 「ですねー。左軍の面々より多いですよ、これは」  ついに姿を現した敵軍の本隊――であろう軍勢を、華琳は馬から乗り出すようにして観察していた。いまだに敵は本格的な攻勢をかけてきていないが、数千程度で圧力をかけてきた時点とはすでに話が違う。まず間違いなく数万はいるであろう軍勢こそ、総攻撃が近いことを如実に示していた。  そして、中央軍側もそのことをきちんと理解していた。なにより、糧食が残り少ないことがそれを裏付ける。二日分を三日で、一日分を二日で消費するように切り詰めてきたが、それも限界がある。その限界はけして遠い時ではない。  彼らがそうして飢えに襲われ始めた時こそ、敵が待ち続ける好機なのだ。 「どれくらいかしら。五万?」 「いえ、華琳さま。もう五千から六千はいるものかと」  華琳の目算を、同じようにずっと敵軍を観察していた春蘭が訂正する。ふむ、と頷く華琳と風。 「五万六千。大した数ですねー」  その声が震えてもいないのに、彼女達を護衛する役を担う流琉はついつい感心してしまう。 「す、すごいですね、お三人は」  三人の視線が一度に集まる。幸い、護衛については季衣が目を光らせてくれている。風は流琉のこわばった表情を眺めて、ぼそりと呟いた。 「怯えても始まりませんからねー」 「怖い? 流琉」  華琳の問いかけに、流琉は少しためらった後、ぐっと自分の武器の持ち手を握りしめた。 「はい、怖いです」  その答えに、華琳は少々意外そうな顔をする。しかし、その表情は、続いた流琉の言葉でさらに驚きに彩られた。 「華琳さまが、春蘭さまが、風さんが、季衣が死ぬことが、私は怖いです」  そこで、彼女は一つ息を呑んで、語調を改めた。 「だから、華琳さま。お願いがあります」 「なにかしら?」 「殿はこの流琉にお任せ下さい」 「……なんですって?」  不審げに呟く華琳に、流琉は遠くを見るような視線で語り始める。 「以前、兄様に聞いたことがあります。かつて兄様のご先祖が考案した、凄絶な戦法のことを」 「おにーさんに?」  はい、と流琉は頷く。かつて、北郷の家が武将に繋がると聞いたときに教えてもらった話だ。 「兄様のご先祖が窮地に陥り、退却をしなければならなかった時のことです。  彼らは、殿の一部隊を切り離し、その部隊に弩のような武器を持たせ伏せさせたそうです。そこに追撃の部隊が来れば、めぼしい相手をめがけて狙撃をし、それで混乱したところに突きかかる。もちろん、部隊は全滅しますけれど、追撃はほんの少し遅れます。  そこにさらに切り離された部隊がかかる。そうして、全滅し、全滅し、全滅し、全滅し、全滅し続けて、ただ、主君を逃したそうです」  その戦法を、捨て奸。鉄砲を数多く配備し、それを操る術にも長けた島津家ならではの戦法であったが、殿というものの本質でもあった。生き残ることなど考えていたら、本来生かすべき者を生かすことができなくなる。  そして、流琉は自分たちなら出来る、と信じていた。弓将夏侯淵に薫陶を受け、弓の技を磨いた部下が親衛隊にも数多くいる。そして、いざという時の胆力は、三国を見回してもそうそうないほどに鍛え上げている。  一刀から聞いた戦法を再現する条件は十分整っていた。 「流琉、お前……」 「春蘭さまも、華琳さまも、この国に必要な存在です。もう一度お願いいたします。殿軍はこの典韋にお任せを」  真っ直ぐに華琳を見つめる流琉の瞳。そのあまりの透明さに、思わず夏侯惇は強い調子で彼女の名を呼んだ。 「流琉っ」  だが、それは主君によってぴしゃりとはねのけられる。 「春蘭、黙りなさい!」 「か、華琳さま」 「流琉の覚悟を汚そうというの?」 「しか、しかしっ」  表情を硬くした華琳に、あくまでも食い下がろうとしたその時、暢気な調子で声をかけた者があった。 「流琉も春蘭さまも華琳さまも心配性だなあ」 「季衣?」 「だって、華琳さまの危機だよ?」  そこでにっこり笑って、彼女は全幅の信頼を示してみせる。 「兄ちゃんが来るに決まってるよ」 「き、季衣。わかってるの? 兄様は、遙か西にいるのよ」 「来るよ。だって、兄ちゃんだもん」  ぶぅ、とむくれて抗弁する季衣の目尻に、ほんの少しきらめくものがあるのに華琳は気づいていた。 「いい部下に恵まれているわね、私は」 「はい。みんな華琳さまが大好きですよー」  ふるふるとそのゆるく丸まった金髪を振ってみせる華琳に、いつも眠たい目をした軍師は厳然としたこの世の法則を述べるように言ってみせる。その様子に華琳はさらにあたたかな笑みを浮かべた。  だが、彼女はその笑みを振り払い、真剣な顔で流琉に対する。 「決戦は今日ではない。典韋、あなたの思いは受け取った。その日が来れば、殿は任せる。よいな!」 「はっ!」  跪く流琉。そして、その後ろで春蘭が悔しげに顔をゆがめつつ、流琉の小さな背中を見つめていた。華琳はそんな側近の姿に淡く笑みを浮かべ、彼女にだけ見えるように、音を出さず言葉の形に口を動かした。 「その日が来れば、ね。がんばりましょう、春蘭」  その無音の言葉は、たしかにそう綴られていた。 「死屍累々ですねー」  一里ほど先の大地に広がる数百の死体を見つめて、風はわずかに硬い口調で呟いた。  この日、北伐中央軍は、はじめて百を超える死傷者を出した。死者は約三百、負傷者は誰かに手を貸してもらわねば動けない者から、足を引きずる程度の者まで含めて約二百。  合わせて五百ほどが戦闘からは離脱することとなった。  もちろん、敵はずっと追跡してきている単于軍だ。相手も数十、もしかしたら百を超えるほど倒したが、明らかにこちらのほうが損耗は激しい。騎射を駆使しつつ突進してくる騎馬の突撃を受け止めるのは歩兵には厳しい役割と言えた。 「ま、あちらのほうが数は少ないとはいえ……」  困ったものです、と口の中でもごもご言う風の背に声がかかる。 「風。敵のものも含めて、馬を二十は回収出来たぞ」  それに振り返ってみれば、春蘭、季衣、流琉という三人が兵の中から歩み出てきていた。三人とも先ほどの戦いで獅子奮迅の働きをしたためか、髪や服の至る所に汚れがついていた。 「おお、すばらしいですね。これで少しは食料を配れます」 「……やつらの亡骸も回収してやりたいところだが……」  春蘭は自軍の死者を眺めつつ悔しげに言う。 「良い的になってしまいますよー」  死体の山のさらに先には、ずらりと居並ぶ騎馬の群れがある。死体を回収するために兵を出せば、再び戦端が開かれることになるだろう。それが出来ないことがわかっているからこそ、春蘭も悔しさをにじませているのだ。  その様子を眺めていた風は、もう一度、自軍の兵の死体をじっと見つめた。 「春蘭さま。華琳さまのために死んでもらえますかねー?」 「なっ」  不意に彼女の口から出てきた言葉に、季衣が驚きの声をあげる。しかし、一方で名指しされた春蘭のほうはどうということもなく泰然としていた。 「ああ、もちろんだ、風」 「春蘭さまの隊を中心に、死兵一万を編成して、春蘭さまに預けます。突撃しちゃって下さい」 「ちょ、ちょっと待って。歩兵で騎兵に突撃しろって言うの!?」 「よし、わかった」 「春蘭さま!?」  騒いでいるのは季衣一人で、他は静かに彼女達の会話を聞いていた。流琉でさえ、歯を食いしばりながら何も言わずにいる。 「騒ぐな季衣。華琳さまのためならいつでもこの命捨てる覚悟はある。我が部下も同じこと」 「それは……そうかもしれませんけど……」 「春蘭さまの決死隊、その後に流琉ちゃんの捨て奸、それに親衛隊全部をつぎ込んで三万。風がその後ろで六万をもってさらに追いすがる敵を討ちます」  淡々と、あくまで淡々と、風は自分の策を説明していく。 「ちなみに、おにーさんに戦法をならっているのは、流琉ちゃんだけではないのですよ。釣り野伏せの戦法は、風と稟ちゃんがおにーさんから教えて貰ったとっておきなのです」  釣り野伏せもまた島津の戦法の一つだ。敵を釣り、伏せていた部隊で包囲殲滅するこの戦法は非常に高度な連携を要求する難しいものであったが、成功すればその効果は絶大と言える。  本当に成功するならば。  なにしろ、相手は突破力でも機動力でもはるかに勝る騎兵軍団なのだ。 「この策ならば、華琳さまと二十万を生かせます。風と春蘭さまと流琉ちゃんと十万の命。華琳さまとこの国の未来のためなら、安いものですよー」 「ちょ、ちょっと」  一人、のけ者にされている季衣は、すでに涙目だ。 「季衣、あなたは華琳さまの側にいてね。最後まで守るのよ」 「うむ、頼んだぞ季衣」  春蘭と流琉は決意を込めた笑みで同輩を見つめる。それに季衣が抗弁しようとした時、一つの声がそこに割り込んだ。 「はい、そこまで」 「華琳さま!」 「か、華琳さま」  どこから現れたのか、驚く部下達に艶然と笑いかけ、金髪の覇王は背の低い軍師の前に立つ。 「話は聞いていたわ、風」 「はいー」 「たしかにあなたの策、あの軍を見事足止めしてくれるでしょう。しかし、まだ早いわ」  そう言って彼女は視線を南に向けてみせる。釣られて将軍達も南を見やった。 「匈奴の部族には、信用のおける者もいる。そこまでふんばってから、先ほどの策を再検討してもいいんじゃないかしら?」 「……ですか」  主の言葉に、彼女を支えることを誓った軍師は言葉を収める。  それは実を言えば彼女にとっても、もっけの幸いと言えた。  なにしろ、彼女は兵の死体を壁としてでも鮮卑たちを防ぐつもりだったからだ。  降った匈奴という材料があるならば――。  風の決意は、どこまでも徹底していた。  6.高潮 「駆けよ、駆けよ。今日の一里が明日の千里と思え!」 「飯は走りながら食らえ! 眠るならば、手綱を持って眠れ!」 「輜重隊は、水と食料を渡したなら、即刻退却せよ。一刻が国を失う時と知れ!」 「いま、曹丞相を失うは漢土を失うと同じ。みな、苦しいのはわかるが耐えてくれ!」  そんな将たちの叱咤が、軍の各所で行われる。それは、すでに体力の限界を迎えて、気力に頼るしかないと将たちが考え始めたということでもある。わざわざ喝を入れ直さなければ前に進めないのは、それだけ前に進む力が失われていると言うことなのだから。  だが、それがわかっていたとしても、彼らは進むしかない。実際に、彼ら、彼女らが兵を奮い立たせるために放つ言葉は嘘ではないのだから。  いま、ここで立ち止まることは、魏どころか、三国を失うことを意味する。  そのことを、一刀を始めとした首脳陣たちがはっきりと悟ったのは、先行させた偵察隊が右軍の凪達と渡りをつけたことが大きかった。  それによって、彼らは中央軍が既に右軍との連携を断たれ、胡族の連合に迫られていることを知った。中央軍の正確な居場所はつかめていなかったが、右軍が何度か襲撃を受け、その度に陣を南下させざるをえなかったことを考えると、中央軍も一応は南下しているのだろう。北方に取り残されているのならば、右軍を執拗に攻撃する意味は薄いからだ。  救うべき味方は近い。しかし、その部隊は間違いなく窮地に陥っている。  現状をそう理解した一刀たちは、疲れ切った部隊をさらにむち打って駆けに駆けさせないわけにはいかなかったのだ。 「あと一日……ね」  手綱を持っていない方の腕だけで器用に地図を支え、じっと眺めていた詠は、これまた器用にその地図をまとめて服の袂に押し込むと、そう呟いた。 「なんだって?」  隣で黄龍を走らせていた一刀が、それを聞きつけて問いを放つ。馬蹄の立てる響きは凄まじいものだが、その音を無視して人の声や別の音だけを聞き取る術を、彼も学びつつあった。 「あと一日進んだら、本格的に軍を組み直して、華琳達を救いに行く態勢を作らなきゃって思ったのよ。移動じゃなく、進軍に切り替えるわけ。替え馬はそこで切り離して、後背を支える部隊を編成しなおさないとね。それに……」 「……んー、そうか。ああ、そうだな。このまま突っ込むわけにもいかないものな」  詠の説明に、一刀は少々遅れて反応した。その表情がぼんやりとしているのはなぜだろう。 「……あんた」 「なんだ?」  詠は手綱をしっかりと握って馬を操りながら、横を走る男を子細に観察する。埃まみれで薄汚れているのは他の兵士も将も、そして、彼女自身も同じ事だが、その身体全体に漂う雰囲気がおかしかった。 「何日寝てない?」 「……どうだろう? 二日、いや、三日かな?」  この受け答えもおかしい。彼女が執拗に訊いてようやく答えるのがこの男のはずだ。睡眠を取れていない事をこんなにすぐに答えては周囲が心配すると気を回してしまうのが、彼女の知る北郷一刀という人物ではなかったか。 「一度外れるわよ。ついてきて」 「ん」  詠は馬首を巡らし、走り続ける馬の列を抜ける。それに続いて一刀と十人の母衣衆がついてきた。指揮官である一刀や詠が隊列を外れて暫時打ち合わせを行うのはよくあることなので、兵に動揺もない。  適当なところで馬を止めると、詠はそこで馬を下りた。 「ん?」  不思議そうに彼女を見下ろす男を、腰に手をあてつつ見上げる詠。 「ボクをそっちに乗せなさい」 「え?」 「あんた、頭働いてないわ」  はっきりと、子供に言うような口調で言うと、一瞬驚いた表情をした一刀だったが、すぐにその顔に苦笑が浮かんだ。 「……あー、そうかも……なあ」 「いい? 聞いて。ボクなら体も軽いし、黄龍の負担にもならない。それに、なにより涼州の民だから、馬上で寝る術も、体力を使わない術も知っている」 「うん」 「だから、あんたと一緒に乗って馬を操ることができる。それで、その間にあんたには体を休めて欲しいの。さっきも言ったとおり、もうすぐ攻撃態勢に動きを変えないといけないの。そんな時に、総指揮官が頭回らないでは困るでしょう? わかる?」 「ああ……そうだな。詠の言うとおりだ」  じっくり彼女の言葉を吟味して、本気で頷く一刀。その様子に彼女はそっと安堵の息を吐く。疲れているときは、人間妙に依怙地になる事がある。それを心配していたのだが、幸い杞憂だったようだ。 「うん。じゃあ、邪魔するわよ。黄龍、我慢してね」  一刀の愛馬に声をかけると、元気にいななきで答えられた。替え馬のあるおかげで三日に一日の割合で一刀をのせているため、まだまだ余力があるようだ。  彼女はするりと彼の身体の前に入り込み、少し後ろにずれてくれた一刀とあわせて座る位置を調整する。手綱を彼の手から受けとり、代わりに彼女の腹に手をやるよう指示した。 「あんたは後ろで寝てなさい」  そこで彼女は手近な母衣衆を二人手招きする。 「陳公台に伝令を。これからしばらくは、頭を休めるためにも呂将軍の前にでも乗って寝ていなさいと」  二人に伝令を復唱させて送り出し、詠は手綱を振って、黄龍を進める。その馬上で、一刀は遅れて感心していた。 「ああ、そうか。ねねも厳しいだろうからなぁ……」 「霞や翠、それに白蓮は馬上でも疲れない術を知っているし、華雄はどこでも寝られる。恋は、元の体力が桁違いだから、ごはんさえ食べてればなんとかなるだろうけどね。あんたやねねがいざという時頭が動かないではたまらないわ。休むのも仕事」 「ん……ありがと……」  答える声と共に、一刀の体は彼女にさらに寄り添うようにしてくる。彼女の肩口に男の顔が埋まる形だ。その体温を心地よく感じつつ、詠は顔を真っ赤にして抗議した。 「ちょ、ちょっと。ボクもしばらく水浴び出来てないんだから……」 「詠はいつでも良い香りがしてるよ。いまも……」 「……あんた、しばらく禁欲を強制されてるんで、欲望が直接的になってない?」  一刀の声に混じった甘さに、まさかと思って低く訊ねる。甘やかな時間を全て拒絶しようとは思わないが、時と場合というものがある。 「はは。ただ、詠が柔らかくて……よく眠れそうだ……ってね」  途切れ途切れの言葉に、ああ、なんだ、眠気が限界なのか、と彼女はようやく一安心する。甘く感じたのも、眠さで声がぼけていたのだろう。 「それに、こっちから消えたときはもっともっと長い間、女性とは触れていなかったよ」  相変わらずぼんやりと答える一刀の言葉を聞き流しつつ、彼女は黄龍の速度を上げていく。片手を彼の腕に回してしっかりと固定した。もたれかかられるのはいいが、落ちられたらたまったものではない。 「ふん。あっちの世界ではよほどもてなかったのね」  軽口で答える詠に、返って来た言葉はそれまでとは打って変わってしっかりと響いた。 「帰ることばかり考えてたからね。その場に興味ない人間には、誰も寄ってこないよ」  真剣なその声に、しばし言葉が途切れる。詠は乾ききった唇を自分の舌で潤して、ようやく次の言葉を押し出した。 「……じゃあ、いまは……」  だが、それに対する答えは、すーすーと規則正しい息の音。 「あー、もう。気持ちよさそうな寝息立てちゃって!」  それでも詠は、こいつが帰りたいと、会いたいと心底から願っていた相手のためにもう一踏ん張りしてやっても良いかなと思うのだった。  7.時来たる 「第八偵察隊より、伝令です!」  一人の兵が本陣へと駆け込んでくる。その言葉に、陣内に緊張が走った。 「西北の方十里に、砂煙。大軍かと思われます」  その後を追うようにもう一人、兵が駆け込んでくる。そのまま彼は言葉を発した。 「第五偵察隊より報あり! 騎馬の軍、数はおよそ二万!」 「二万騎か。ここに来て……」  南なら、あるいはせめて西南ならば、味方の可能性もあった。しかし、西北とは。  春蘭の呟きは、全員の心情を代弁していた。  だが、そんな失意に沈む暇も敵は与えてくれないようだった。 「敵軍に動き! 突撃してきます!」  かなり後尾に近く作られた本陣からは、その姿がはっきりと見て取れた。大地を覆う黒い波が音を立てて動き始めていた。まだその動きは鈍く見えるが、すぐにその速度が上がることは容易に想像できた。 「これまでにない規模ね。勝負をかけてきたか」 「おそらく、西北の騎馬軍がきっかけでしょうねー。敵にしろ味方にしろ、相手が突撃をためらう必要がありませんからー」  のんびりと言っている風の額にも汗が一滴にじみ出る。 「その通りね。ここが、決戦!」  絶が振られ、その言葉に応じて、各将は持ち場へと走る。  その中で、春蘭は部隊を率いて最前列へと進んでいた。すでに彼ら以外の本隊は近づいてくる単于軍に対して射撃を開始している。 「お前達、わかっているな。ここであやつらを食い止めねば、いずれあやつらは匈奴の土地を呑み込み、我らの漢土を侵すであろう。三国のため、魏のため、そして、我らが曹操様のため、共に死に花咲かせようぞ!」  兵に向かってからからと笑いながら告げた春蘭は、馬の腹に一蹴りくれると、七星餓狼を振りあげる。 「夏侯惇隊、突撃ぃいいいいい!」  騎射も巧みな騎兵の群れへ歩兵が大半の部隊が突撃するなど、死にに行くようなものだ。だが、春蘭の部下達一万人には、簡単に死ぬようなつもりなど毛頭なかった。  地に倒れるのはいい。しかし、その前に一人でも一頭でも、なんとしてでも道連れにしてやろう。そんな思いだけが、彼らにはあった。  怯える者もいた、空元気で笑う者もいた。恐慌状態か、ひきつれたような奇妙な声をあげるものがいた。しかし、誰一人、逃げはしなかった。  彼らは武器を構え、楯を押し上げて、ただただ走り続けた。その見つめる先は敵にあらず、大剣を天に掲げ、黒髪を風になびかせて、先頭を走る馬上の将の背中。  そこに追いつきたいと、ただただ、彼女を支えたいと。  兵達はみな、それだけを考えて走り続ける。  その頭上を、本隊が放つ矢の雨が通り過ぎる。彼らの隊が激突すれば、もはや本隊にも矢を放っている暇はなくなる、これが最後の援護だと、皆承知していた。  それが、さらなる矢の嵐が横手から降ってくるとは。 「なんだ!?」  突撃の足を緩めずに、しかし、隠しきれない驚愕の声を春蘭はあげざるをえない。彼女の視界の中で、敵の騎兵が何十何百と矢に撃たれて倒れ伏していく。彼らは明らかに予想とは違う方向から振ってくる矢に対応できず、小型の楯を掲げる暇もなく死んでいく。  その新しい矢の来たった先を、彼女の視線が追った。 「あの丘!」  その声は誰のものだったろう。左に障害物として存在していた丘の上に、いつの間にかびっしりと騎兵の群れが立ち並んでいた。  そこにへんぽんとはためく旗の数々は……。  深紅の呂旗。  紺碧の張旗。  漆黒の華一文字。  錦にきらめく馬の文字。  白く染め抜かれた、公孫の旗。  そして、もう一つ。  その旗の真下にいる人物の腕が上がり、天を指さした。鞭のように振り下ろされる手が、矢を受けて隊列を乱した敵軍へと真っ直ぐ伸びる。 「第二射斉射! 続いて矢が尽きるまで各自うちまくれ!」 「北郷!」  にやりと笑って、彼が作り出した好機を生かさんと、その突撃の方向を微妙に変えたのは隻眼の大将軍、夏侯元譲。 「兄ちゃん! ほら言ったとおりでしょ!」  満面の笑みで彼を呼ぶのは、許仲康。 「兄様!」  悪来典韋はそのあだ名にふさわしくない笑みを顔に刻み。 「あらあら、おにーさんったら」  感情を露わにしない猫のような軍師程仲徳はにゅふふと含み笑いを漏らす。  そして、中央軍の本陣では、信じられぬものを見つけたように北伐総大将にして漢の丞相……いや、彼を愛する一人の少女が大きく目を見開いていた。 「一刀!」  翻る旗こそ、北郷旗。  北郷一刀、はるか涼州より馳せ参ず。      (玄朝秘史 第三部第十三回 終/第十四回に続く) ☆次回予告☆  ――それは覚悟ではなく、ただの事実に過ぎない。 「六万の軍を、二万の軍で破るにはどうしたらいいかわかるか?」  訊ねる者の名は華雄。 「簡単だ。一人が三人倒せばいい。たった三人だ。うまくいけば、武器を三度振るだけで済む」  かつて敗れ、しかし、立ち上がった者は、猪武者と呼ばれた頃のままに、爽やかに笑う。 「我が部隊に、一人十殺を義務づける! 十人を屠るまでは、倒れること許さぬ! だが、十人を超えて斬った者があれば、報償は望みのままぞ!」  喊声は大地を揺るがし、天へと上る。  ――天下無双は、その時何を見るか。 「お前……強い。楽しかった。でも、お前、ねね泣かした」  守るべきは、己の誇りでもなんでもなく、ただ、愛しい相手。 「……死ね」  砕け散るは方天画戟。 「トグリシャンユー!」  咆哮はなにを呼ぶか、なにを招くか。  ――黄昏の間で、それは姿を現す。 「ふん、せっかく偽の管輅まで仕立て上げたが、所詮は北辺の胡(えびす)か」  日が差しているはずなのに、なぜか仄暗いその場所で、男は一人呟く。  その声音に込められているものは、諦観であり、絶望であり、うかがい知れないほどの虚無だった。 「さあて、曹操よ、北郷よ。朕の麗しき終幕は、誰の手に握られておろうな。せいぜい、地を這いつくばるがよいぞ、天の御遣いよ」  がらんとした玉座に、暗き哄笑だけが響き渡る。  次回、玄朝秘史 第十四回――二天