「無じる真√N38」  曹操軍は、立ち寄った邑で休憩を挟んだのち、北西へとその進路を定め進み続けていた。  その曹操軍に所属する軍師が一人、荀彧――字を文若、真名は桂花――は曹操の隣に驢を並べて進んでいた。  主であり、愛しくもある曹操の隣を陣取ルコトが出来た荀彧は、それが嬉しくてチラチラと何度か曹操のほうを盗み見る。 「…………」 (華琳さま?)  先程から曹操は黙り込んだままじっと真剣な眼差しで、いやどこか含みを帯びた視線で前を見つめている。一体、何を考えているのか、荀彧にはまだ予測を立てることが出来ない。いや、最近は曹操に関することでわからないことが多すぎるのだ。  劉備を迎え入れたことについてもよくわからない。  関羽に対して執拗に想いを寄せている、その理由もわからない。  曹操が、一体何を考えて今回の遠征を企てたのか、わからない。  時折、誰にも口をきかず黙り込んでいる理由はなんなのか、わからない。  閨を共にしたとき、寝ている曹操が見せるまるで意識があってわざとしているのではと言うほどの様々な表情を浮かび上がらせるほどの夢がなんであるのか、わからない。  そもそも何をその胸に思っているのか、それすらもわからない。 (わからない、わからない、わからない……あぁ、もう! なんなのよ!)  聡明がゆえに、彼女は自分の不甲斐なさが苛立たしく感じる。そんな荀彧に曹操が顔を向けることなく声を掛けてくる。 「ねぇ、桂花」 「は。なんでしょう」 「貴女は覚えているかしら?」 「覚えているとは?」  急に質問を投げかけられたことにも動揺をすることもなく、荀彧はいたって自然な形で聞き返す。 「以前、各勢力についての話をした折、公孫賛軍について語った時に触れたことよ」 「…………えぇ、それなら覚えています」  そんなことなど覚えているに決まっている。荀彧は軍師だ、智謀を持って曹操を支える存在なのだ、そうやすやすと各国の情報を忘れるハズがない。  それでも曹操が覚えているかと訊ねたと言うことは、それだけ重要な話であると言うことなのだろうと判断し荀彧はしっかりと耳を向ける。もっとも、元々曹操の声を聞き漏らすようなことなどする気はないのだが。 「なら、公孫賛軍が麗羽をうち破った裏についても覚えているわね」  今度は小さく「はい」とだけ返事をして首を縦に振る。  そのことも覚えている。公孫賛軍を真に率いているように思える存在が関係していたと言うことを……そして、その者は民心も集めており、また、先見の明でもあるかのごとく、さりげない登用を計り公孫賛軍の勢力拡大を果たした男。天の御使いと噂される男だ。  相変わらず荀彧の方を向かない曹操が次なる言葉を紡いでいく。 「例の男、なぜだか無性に気になることがあるの」 「気になること……ですか?」  曹操が語ろうとしている内容の中心を察して荀彧は眉頭をぴくんと吊り上げ、眉間にしわを寄せる。 「あの男をこれまでに入った情報を元に考えるとしたら、貴女の評価としてはどうかしら?」 「そうですね、まぁ"そこそこ"キレ者に思えます。あくまで、そこそこですが」  天の御使いだと民たちから言われている男を、自らの主であり愛しい存在でもある曹操が評価しているように思え、荀彧はわざと低く申し出てみる。 「そう。あなたが思うように"かなり"のキレ者のようにも思える。元董卓軍の者たちを麾下にいれたことだって、まるで袁紹と公孫賛の戦力差を埋めるためにあらかじめ考えていたようではないかしら?」 「……はい。仰るとおりです」  表に出した言葉ではなく、裏に潜ませた本当の評価を読まれ荀彧は僅かに顔をしかめる。 (何故、華琳さまともあろう御方がよくわからない男を評価するのよ)  そんな荀彧の内情を知ってか知らずか曹操は話を続ける。 「そして、そのことをあの連合の時から考えていたようにも見える」  曹操は何故、その話をしたのかが荀彧にはわからない。この話ならば、かつてしたことがあるのだ。反董卓連合が終わり、時間もそれなりに経った頃に確かに話したのだ。  元董卓軍の将兵を見方に引き入れ戦力増強を果たしたことについて。 「だけど、不思議と私はあの男……北郷一刀はそこまでキレ者じゃないと思っているのよ」 「……え?」  曹操が最終的に下した評価に荀彧は神々しいものを見つめるように顔をパッと明るくさせ、瞳を輝かせる。 「情報に基づいて考えれば、あの北郷一刀はやり手。だけど、私個人としては……ブ男――」 「そうですね、ブ男ですよ。あんなの!」  曹操が口にした単語に荀彧は思わず口元を綻ばしてぐっと拳を作る手に力を込める。それによって馬がびくりと躰を震わせる。  これだけの言われようなら曹操がその男に興味を持っているわけではない、そう荀彧は思ったのだ。どこのどんな男かは知らないが、曹操に評価されるなど言語道断なのだ。 「落ち着きなさい、桂花」 「華琳さま?」 「続きを言わせてちょうだい」 「は、はぁ」  荀彧は、てっきり切り捨てて終わりだと思っていたのにまだ何かあるという曹操に馬の首をさすって宥めつつ自分の首を傾げる。  そんな様子を見ていないはずなのに曹操が僅かに口元を緩めて笑みを浮かべている。 「ブ男……のようで、どこかが違う。そんな気がしてならないのよ」 「どこかが違う、とは?」 「さぁて、ね。そのことを時折考えているのだけれど、未だにわからないわ」 「そうですか」  結局、曹操の考え事に"北郷一刀"が含まれていることがわかった。それが荀彧は無性に悔しくて仕方がない。 (け、結局……そのブ男のせいだったとは。華琳さまのお心をほぉんんんの僅かとは言え、悩ませるとは……おのれ、北郷一刀。いつか生け捕った暁には拷問にかけて……くくく)  荀彧は、曹操の言葉を何度もよく噛みしめ、その度に今はまだ遠くにいる一人の少年への恨みを募らせていた……だから、気付かなかった。 「…………ホント、あの一件からおかしいわね。どうしたのかしら」  曹操が何気なく呟いたその一言に。  †  兗城の街、そこのとある宿舎の一室、大陸の中にも数ある智謀の士のなかでも秀でているといえる三人が向き合うようにして卓を挟んで座っていた。  そのうちの一人、郭嘉が書簡に書き記した事項を眼で追いながら口を開く。 「なるほど、この法を今いったような形で適用すると」 「そうです。民の信望が損なわれることもありませんし、何よりそれぞれの負担が大きくありません」 「孔明ちゃんからは、やはり良い考えが出てきますねぇ」  口元に手を置きながら感心したように見つめてくる程昱に諸葛亮は僅かに視線を下げる。 「い、いえ……そんな、わたしなんて」 「謙遜なさらなくてよいのです。大変ためになったのは事実ですから」 「そ、そうでしょうか?」  郭嘉の言葉に、諸葛亮は視線をそろそろと段階を踏むようにして元の高さへと戻し、二人の方を見る。二人は自信ありげな視線で諸葛亮を見ている。 「えぇ、我々が見落としていたところに気付かれるだけでなく適切な助言まで頂き、感謝いたします」 「はわわ! そ、そんな、お礼なんて……わ、わたしはただ、わたしなりに仕事をしただけですから」 「仕事……ですか?」  諸葛亮の言葉にいち早く反応したのは程昱だった。 「はい。いま桃香様や愛紗さん、それに鈴々ちゃんだって自分の仕事という者を全うしています」 「そうですね……どちらも報告は上がっていますが、少なくとも張飛殿のほうは良い成果をだされたそうです。残りのお二方はまだ遠征の途中のようなので何とも言えませんが」 「やっぱり、頑張ってるんですね」  現在、それぞれがやるべきこと、もしくはやらねばならぬことのために散り散りになっている仲間たちの近況を聞いて諸葛亮はほんの少しだけ口元を緩めた。 「きっと、華琳さまも評価してくださるでしょうねぇ」 「そうだといいですね」  のほほんとした表情をする程昱に諸葛亮は笑みを湛えた顔で頷いた。 「あ、あの……そういえば、曹操さんのことですけど」 「どうかしましたか?」  郭嘉が眼鏡の位置を神経質そうに直しながら諸葛亮の方を見る。 「先程から、思っていたことなのですが、わたしが軍の政に関わったり、その中身を見たりしたこと……お二人は曹操さんに怒られたりしないんですか?」 「いえ、華琳さまは、もし何か訊くことがあったら諸葛亮殿にたずねてみるとよいと仰っておられましたよ」  それは諸葛亮にとって意外なことだった。自国の内政に関する話を一客将でしかない自分に知られることを警戒するどころか相談役として利用するとは思っていなかった。 「はわわ……大胆なんですね」 「大胆と言いますか、才能ある者なら有効に使わなければ、という考えを持ってる御方ですからねぇ~」  曹操の考えに驚きを露わにしてるまもなく、程昱からさらなる事実を伝えられる。「まぁ、もっともご自身の目で確認なさり、認めた者に限るようですが」  郭嘉の捕捉を聞きながら諸葛亮は、内心で驚愕することはなく、どちらかといえば納得していた。そして同時に、もし曹操との接触を持たなければ諸葛亮という名も曹操の中には残らずに終わったのかもしれないという予測も出来た。 「なんにせよ、諸葛亮ちゃんの腕前を見て優良であるとはんだんしたのでしょうね」  程昱の言葉がダメ押しとなり諸葛亮はようやく自分に対して二人の軍師が相談してきた理由を納得することが出来た。そして、同時に曹操と言う存在を少しながら理解できた気がした。 「曹操さんは、君主としての力量は十分過ぎるほどにあるようですね」 「そうですね。多くの才を愛し、また、自らの才を磨くことも忘れない。非常に、優れた御方ですよ」 「…………」  陶酔の眼差しで宙を見つめる郭嘉の言葉に諸葛亮は押し黙る。戦国、春秋といった古の時代においても才を持つ者を師と仰ぎ、教えを請い自らを強国の王たらしめた覇者たちがいた。  曹操もそれらと同じといえる。間違いなく、覇者としてのあり方を自分なりに考え、昇華している。諸葛亮にはそれが脅威に感じられる。  近い将来、もしくは遠き未来に曹操との対立があるとき、劉備は果たして彼女を打倒できるのか……それは諸葛亮の中で僅かながらも不安ごととして刻まれる。  徐州を出たことで……大切な仲間を失ったことで心の中でほんの僅かとは言え変化をみせたように見える劉備だが、それはまだ彼女の中に細い芯が作られたにしかすぎない。  曹操は違う、もはや芯ではない、巨木で作られた大黒柱なのだ。それが曹操の言動からひしひしと伝わってくるのだ。  そこで曹操に関する評を締めくくった。  そして、今度は目の前の二人へと意識を向ける。郭嘉と程昱、どちらも軍師としての質は非常によい。少なくとも諸葛亮にはそう思える。  諸葛亮が先程助言をしたことにしても、既に二人の手によって分かり易く纏められていた。しかも、量でいえば膨大な法令をしっかりと頭の中へと刻み込んでいた。  まちがいなく、目の前の二人も才を好む曹操に見いだされるに至る程のモノを内包しているのだろう。  そこまで考えを巡らすと、諸葛亮はあることをふっと思いついた。 「あ、あの、もしかして愛紗さんの動向を許可したのも、その才能を――」 「いえ、あれは悪い癖が出ただけでしょう。もちろん、才を見てというのもあるとは思います。ですが、前者の可能性が大きいのは間違いないでしょう」 「悪い癖ですか?」 「まぁ、いわゆる女好きって奴だな、ありゃ」 「え?」  明らかに、郭嘉でも程昱でもない声に諸葛亮は辺りを見回す。 「ここだよ、ここ」 「諸葛亮殿、風の頭ですよ」  そう言って郭嘉が程昱の頭上を……というか、彼女の頭頂部を示す。 「頭って、お人形さんしか……ま、まさか」  恐る恐る、程昱の頭の上に鎮座しているのか立っているのかわからない人形をまじまじと見つめる。 「おうよ、オレさ」 「ひうっ!?」  間違いなく人形だった。諸葛亮は人形が自分を見ているような気がしてならない。  そんなおどおどとしている諸葛亮気にしてか程昱が眼を細めながら頭上のソレを嗜める。 「これこれ、ホウケイ野郎、いたいけな少女を驚かしてはダメなのですよー」 「……ほ、包茎!」  大声でそう言ってすぐに自分の言葉に諸葛亮は頬を紅く染める。 「あぁ、違いますよ。恐らくは字が」 「へ!?」 「オレの名前が宝譿なんだなぁ、これが。勘違いしないでくれよ。ムッツリ嬢ちゃん」 「む、むっっっ!?」  とんだ言われように諸葛亮は顔を真っ赤に染め上げる。 「ふ、風!」 「風に言われても困るのですよ~」  郭嘉が注意をするが、程昱はどこ吹く風である。その代わりに頭上の宝譿が答える。 「おいおい、言ったのオレね! 我が軍の誇るむっつり軍師の姉ちゃん」 「そんなことで誇りにされたくはありません!」 「そう言う割には、さっきから、チラチラとあの棚からはみ出してるブツを盗み見てるじゃねーか」 「ぶっ!?」 「はわわ!」  諸葛亮は、郭嘉と同時に身体をびくりと震えさせる。  郭嘉の見える範囲にある棚には、先程押し込んだちょっと口に出しては言えないような事がぎっしりと書き綴られているそれはもう大人指定の本があるのだ。 「べ、別に見てなど……」 「体位図解百科」 「うっ!」 「はわ!」  宝譿の言葉に郭嘉だけでなく諸葛亮も同様を露わにする。確かにそれは諸葛亮が手にした本の一つだ。 「艶事大全集」 「はうぅ!」  郭嘉が肩をびくりとふるわせる。また、諸葛亮のもつ本のひとつだ。  なぜ、本の題名を……と考え、あぁ、棚からはみ出しているのがそれかと納得する。 「……? は、はわ、はわわ~!」  諸葛亮は慌てて、席を立ち棚へと駆ける。少しでも郭嘉たちの視線から隠れるよう手を振って遮りながら。 「み、見ないでくださぁい!」 「で、ですから、見てませんって!」 「おうおう、まだ惚けるのかよ、姉ちゃん」 「風!」 「ですから、風に言われても」 「いいから、視線をこっちに向けないでくださぁ~い!」  なんだかんだ言い合いながらも未だ視線を逸らさない彼女たちに諸葛亮は半泣きで抗議するのだった。  それから、棚の本を再度ぶちまけたり、郭嘉が鼻血を拭いて倒れたりと先程と同様の騒動が繰り広げられたが、なんとかそれも一段落し、なんとか会話を再開させることとなった。  なんとか落ち着いた諸葛亮と郭嘉が席に着くと、宝譿が話を切り出した。 「そうそう、大将が女色って話からだったな」 「まだ、言いますか」 「え、えぇと、それで結局はどういうことなんですか?」  程昱の頭上を半眼で睨む郭嘉に、これではさすがにキリがなさそうだと判断した諸葛亮は先を促すことにする。  郭嘉が視線を諸葛亮へと戻し、複雑な表情をした。 「そうですね……実は、あの方には気に入った女性を愛でる趣味がありまして」 「そ、それじゃあ、愛紗さんが遠征に同行してもいいってことになったのは」 「そうですねぇ、関羽さんと長くいたいという想いがあったんでしょうねぇ~」 「そ、そうですか……」  女色なところがあるとは諸葛亮も耳にしたことはあったし、曹操が劉備との話し合いの時にみせた関羽への失着からもそれはわかっていた。  とはいえ、まさか関羽の動向を認めた裏がそんなことだとはさすがに予想していなかった。 「ま、まさか、そのために桃香様を連れていったってことは……」  最後の一言「ないですよね?」と訊く前に答えが出ていた。眼前の二人が何も答える気がないように見えたからだ。 「…………し、知りません」 「風には何とも言えませんねぇ」 「あ、あはは……」  何とも言えない空気が三人の間を通り抜けていく。諸葛亮はただ空笑いをすることしかできない。 「ま、まぁ、正直なところ、あの方の真意がどうであるかは我々の理解の範疇ではありません。ですので、諸葛亮殿の疑問にそうだ、とも、違う、とも答えられません」 「そういうことですから、何とも言えないんですよ」 「そ、そうですよね」  何故だろうか、一概に自分の抱いた疑惑が間違ってると言い切れない気がするのは……曹操をよく知っているわけでもないのに何故か、「あの人ならあり得る」という想いが控えめな――それでも、今いる三人の中でならそうは見えない――胸の中にあった。 「あまり、深く考えないでおきましょう」 「それがいいですね……」 「あんな女好きは他にはいないだろうな」 「いえ、女の子が好きな人でしたら――」  宝譿の一言に諸葛亮は嬉々として答えようとしたが言葉に詰まる……自分が何を言おうとしたのかがわからないのだ。  女好きな人間……それが誰であるのかがわからない、一体誰の事を言おうとしたのかが諸葛亮にはわからない。 (いま、わたしは誰の事を言おうと思ったんだろう?)  よく分からず諸葛亮は首を捻る。 「諸葛亮殿?」  訝しげに郭嘉が諸葛亮の顔をのぞき込んでくる。 「あ、な、なんでもないですよ」 「そうですか、何か言いかけていたような気もしたのですが」 「いえ、ちょっと勘違いをしただけでした」 「はぁ、そうですか」  今一要領がつかめないといった表情のまま郭嘉が引き下がったことに安堵しつつ、諸葛亮は考える、自分の知らない自分の心に何があるというのだろうか? と。  †  未だ支配が完全には行き届いていない徐州にある城にて袁術――字を公路、真名を美羽――が自室においてある無駄に豪華な椅子に座ったまま背もたれに体重を預け、だらしなくもたれかかっている。張勲はその隣で袁術に渡す予定のハチミツの入った器を持ったまま待機していた。 「うぅむ、暇じゃのう……」 「仕方がありませんよ。雛里ちゃんも今は賊軍討伐の指揮を執るために出ちゃってますから」  雛里――姓名を鳳統、字は士元――というのは今のところ袁術軍に所属している将であり、また軍師、である少女。彼女は、袁術がほぼ掌中に収めきったと言っていい徐州の一部で未だ頻繁に現れては好き放題しているという賊の討伐に出ていた。  そしてなにより、鳳統は袁術にとっての友人なのだ。もちろん、張勲にとっても大切な存在になっている。 「暇じゃ、暇なのじゃ~」 「うぅん、困りましたねぇ」  先程から床に届かず宙ぶらりんとなっている足をバタバタと暴れさせ、今にも爆発しそうな袁術の様子に困ったように眉をひそませながら張勲――真名は七乃――は袁術について思惑する。 (実際のところ、こういった状況は以前となんら変わりのないもののはずだというのに……人間の適応能力は恐ろしいですねぇ~)  鳳統が来る前は、張勲と袁術の二人であることは多かった。だが、鳳統が来てからの袁術は彼女といつも一緒、何時も離れることはなかった。  共に食事し、共に入浴、共にハチミツ茶を飲んでまったりし、そして共に寝る。  それが当たり前になったからこそ、袁術は今物足りないと感じている……張勲にはそれがわかるのだ。  袁術がさらに席からずり落ちていく。それによって視線が自ずと天井へと向いたようだ。 「早く帰ってこぬかのお」 「まだ、大分かかると思いますよ」  目の前で溶けてしまいそうな程に気の抜けた表情をする袁術に一応返事をする。もっとも、袁術の耳に入っているのかは疑わしいところである。 「……はぁ」 「雛里ちゃんは頑張ってるんですから、お嬢さまももう少しシャキっとしません?」 「うぅむ、そうじゃのう」 「ほら、そんなだらけた姿勢で座らずに」  張勲はそう言うと、半身を投げ出すように座っている袁術を持ち上げて座り直させる。 「雛里も頑張っておるのか……」 「えぇ、私たちが思っている以上に頑張ってますよ、きっと」  実は、今回鳳統が相手をすることとなった賊は多少手間が掛かりそうな輩なのだ。  山のどこかに居を構えている。それ以外にわかっていることはない。それでも鳳統はなんとかすると言って討伐へと赴いた。  だから、いくら鳳統といってもそこそこ手を焼くだろうし、素早く討伐を済ませて帰ってくるのもまた難しいことだろう。 「むぅ……なんとかならんのかのう?」 「え~、そんな、なんとかって言われても困りますよ」  無理難題をふっかけられても、そう思いながら張勲は首を横に振る。そもそも、鳳統には相当の兵を預けている、これ以上、彼女を支援する手立てはない。 「雛里が帰ってきたら何をするかは――」 「決めてしまいましたね」 「はぁ……暇じゃのう」 「そうですねぇ」  ただただ、何も無い時間が流れる。袁術の口からは何かを考えることで出るうなり声が聞こえるだけだ。張勲も少し考える。  鳳統と共にいる生活が袁術にとっての当たり前の日常になっているということだが、ある種嬉しいことなのかもしれない。  袁術にとって心が許せる存在というのは張勲くらいのものだった。だが、現在はいろいろな意味で同じくらいといえる少女が友達となった。  そして、二人の距離は日に日に縮まっていっている。張勲はそれを二人の傍に居て感じていた。 (でも、ちょっと妬けちゃいますね)  今まで、張勲が袁術の傍で世話をしていた。だが、今は袁術が何かと鳳統の世話を焼きたがるようになった。  とはいっても、最終的に張勲が二人の世話をしているのだが……。  そんなことを張勲が考えていると、 「そうじゃ! 折角手にしたアレを有効利用するとしようかの」  袁術が、ばっと立ち上がり何やら思いついたらしいことを言い出した。 「あぁ! アレですか、いいですねぇ」  袁術の考えが何かすぐにピンと来た張勲は自信満々な表情をする主に両手を叩きながら賞賛の言葉をかける。  恐らく、それは壮大なものなのだ。他の者には真似が出来ないことに違いないのだ。袁術の考えを張勲は、そう評価する。  一層の拍手で袁術を褒め称える。 「いやぁ、見事なお考えです! さすが、お嬢さま!」 「うむうむ。そうであろう。なーっはっはっは!」 「よ! 天才!」 「そう褒めるでない。で、ほれ」  そう言って袁術が手を差し出す。その行為の意味するところがわからず張勲は首を傾げる。 「えっと……はい」  取りあえず自らの手を添えて握手をする。 「…………何をしておるのじゃ」 「え? 手を握れって事じゃないんですか?」 「違うわ! アレを渡せといっておるのじゃ~!」 「あ、なるほど」  漸く意図がわかり張勲は納得し手をポンと打つ。 「なるほど、ではないわ! 早く持ってくるのじゃ!」 「はいはい、ただいま~」  両腕を掲げて「ムキー!」と叫ぶ袁術から逃げるようにして張勲は部屋を出るのだった。  †  曹操と荀彧が何やら話をしている。だが、その内容がギリギリ聞こえない位置……そこに劉備と関羽はいた。  関羽が邑を出た時からの道取りを確認して進んでいる方角を見いだし教えてくれる。 「方向は西のようですね」 「そっか。ということは一刀さんのいる方じゃないんだね」 「そうなりますね」 「愛紗ちゃん、ちょっと残念だったりする?」 「特にそのようなことはありません」 「…………」  ずっとこの様子だ。関羽の反応が微妙なものになっている。以前なら、顔を赤面させて劉備に延々と弁明をするはずなのだが、今の関羽はそれを軽く受け流しているように感じる。 「どうかしましたか?」 「ううん、なんでもないよ」  不思議そうに見つめてくる関羽に対して首を横に振る。 「そうですか。それよりも、本当は安心しているのでは?」 「え、なんで?」 「いえ、もし一刀殿のいる方へと進むのならば、曹操の目的は河北への侵攻ということになるでしょうから」 「あぁ、なるほど」  関羽に言われて何度も頷く。 「もしや、全く気付いておられなかったのですか?」 「うん。だって、攻め込むにしては全然戦力的には足りないとしか思えないもん」  とは口で言うが、本当のところは、半信半疑とはいえ曹操より聞かされた話があったからある程度予測がついていただけだった。 「そうですね。少し考えればわかることでしたね」  関羽はそう言うと微笑と共に小さく息を漏らした。  それを見ながら劉備は、もしかしたら関羽自身が安堵したのではないだろうかと思った。 「ねぇ、愛紗ちゃん」 「…………あ、はい。なんでしょう?」  ジッと馬のたてがみを見つめ続ける関羽が劉備の声で我に返ったように視線を移す。それを見て本当に教えて欲しいと思ったことについては訊ねないことにした。 「曹操さんは、どういう意図でわたしたちを連れていくつもりなのかわかる?」 「さぁ、私にはわかりません」 「行き先は、方角からすると……やっぱり都なんだよね」  北西、その方角へと進んでいけば司隷へと入って行くことになるのは自明の理である。そして、そこには少し前まで都だった旧都、洛陽……そこよりさらに西へと行けば、かつての古の時代、そして最近になって都としての役割を持つことになった長安がある。 「仮に、都だとしても曹操は一体何の用で訪れようとしているのでしょうか?」 「だからかな、よくわからないのは。わたしたちを連れて行ったとしても曹操さんには何も利点がないような気がするの。だとしたら何故なんだろう?」  そう、劉備には意味がよくわからないのだ。曹操が自分を連れて行こうとする理由が不明なのだ。連れて行く事になんの意味を見いだしたのかがわからないのだ。 「そもそも、本当に都に向かっているのかもわからないではありませんか?」  つい、行き先が都であるのを前提に話をしていたが、関羽からすれば何故断定して話すか分からないのだった。  ふと確か、思い出す。曹操に呼び出されたとき、劉備はあるものを見せると言われていたのだ。そう、劉備には足りていない、見えていないモノを。 「一体、曹操さんは何をわたしに……」 「桃香様?」 「ううん、何でもないよ。今はまだ関係あるのかわからない話だもん」  少なくとも、目的地についてからでないとどうしようもない話なのだから当然のことだ。 「はぁ、何かあるのでしたら。遠慮なさらず仰ってくださいよ。我らは――」 「姉妹、だもんね」 「えぇ、そうですよ」  互いに頷き会って見つめあう……何だか気恥ずかしくて、すぐにどちらからともなく吹き出してしまう。  そうして微笑みながら劉備は曹操からされた話の一部を聞かせることにした。 「そうそう、実はさ、曹操さんから都に向かってるって聞いてたんだよね」 「え? そうなのですか?」 「うん、ごめんね。言うのすっかり忘れてて」 「はぁ、まったく仕方がありませんね。まぁ、すっかりと言うよりはうっかり忘れたとしか私には思えませんが……まぁ、その方が桃香様らしいのかもしれませんね」 「もう、酷いなぁ」 「ふふ、いいのですよ。貴女はあなたの思うままで」  その言葉に、劉備は笑みを湛えた口元をきゅっと引き締めて表情を真面目なものへと変える。 「愛紗ちゃん」 「はい」 「わたしたちはどこへと向かうのかな?」 「…………どこだろうと私には……いえ。私にもわかりませんね」  何かを言おうとして関羽が口をつぐむ。初めの方は声が冷ややかなものになっていたように思えたが一瞬の事でよくはわからなかった。 「ホント、わたしたちの行き先はどこなんだろう」  仲間たち……いや、家族たちと劉備はどこへ向かうのか、未来に待つのはどのような世界なのか、そんなことを思いながら劉備はなんとなく空を仰ぐ。  果てしない青空を白い雲たちが気持ち良さそうに流れている。大陸とは違ってとても穏やかな世界がそこには広がっていた。