玄朝秘史  第三部 第十二回  1.合議  羌と鮮卑の連合に狙われるであろう中央軍を救援に駆けつける。  そう決定は下った。ならば、それに応じて動かねばならない。  将達は己の成すべき事を知っており、いま、なにがなされるべきかも知っていた。ただ、一つの物事が動こうとする時、自ずと逸る心を抑えつけるのは、なかなかに難しい。  それ故に皆は一度に口を開こうとし、それがそのまま行われれば収拾がつくまでにまた時間がかかったろう。だから、白蓮は機先を制して、ぱん、と両手を大きくたたき合わせた。 「はい、みんな聞いてくれ」  皆の顔が一斉に白蓮を向く。興味深げな顔からうさんくさげな表情まで色とりどり並ぶのを見て、圧倒されそうになるのをなんとか踏みとどまって言葉を続ける。 「詠、進行を。好き勝手に話したら、進みやしないからな」 「そうね。いま慌ててもしかたないしね。ここの鎧も片付けないといけないし、翠たちの調べたことの資料も配りたい。まずは……うん」  白蓮の表情から意図を読み取ったらしい詠がねぎらうように頷き、次いで腕を組んで考え込んだ。 「最初に、さっきの命に従うための準備に何日かけるかを決めましょう。期限を切って考えないと動きようがないわ」 「賛成やな」  霞を始め、幾人かが同意の声を上げる。他も消極的賛成という風情だった。 「じゃあ、ボクから提案。五日ちょうだい。そうしたら、到着するのを十日縮めてみせる」  覗き込むようにして見つめる視線を受け止めながら一刀はしばし黙っていたが、ゆっくりと頷いて見せた。 「よし。それでいこう」 「で、次だけど、さっきも言ったように、鮮卑と羌の連合の話については資料をまとめてあるわ。これを配るから、参考にして考えをまとめてもらって、その後で話し合うってのはどう?」 「敵の情報は必要だな。羌あたりはこの北伐のために調べをつけてきたが……」 「いまは、昼前だし、ここもかたづけて……昼食後に集合ってことで。もちろん、秘密厳守。資料はこの邸から持ち出したらだめよ」  了解の声が上がり、早速翠たちにも手伝ってもらって資料を配り始める詠。それを受け取ろうと列に並んでいる大きな帽子の小柄な女性に、北郷一刀は近づいていった。 「士元さん」 「はい?」 「この件の軍議に関しては、発言を一切制限しない。ぜひ知恵を貸してほしい。どうかな?」 「……はい。わかりました」  いつもながらに細い声ではあるが、しっかりと了承してくれた彼女にほっと一安心して、一刀は残った面々を見渡し、何人かに声をかける。 「ええと、じゃあ、詠と祭、それに沙和、一緒に来てくれるか?」 「ん。じゃあ、ねね、残りを配っておいて」 「わかりました」  詠はそうして資料をねねに預け、他の面々と合流し、一刀の後を追って部屋を出て行った。 「詠に二つだけ訊きたい」  一刀の私室に通された三人は思い思いに椅子に腰かけたり壁にもたれたりしていたが、その中で中央に陣取って立っている詠に、一刀はまず話しかけた。 「なに?」 「一つは、敵が華琳たちを……いや、中央軍を狙っているとして、間に合うのか。二つ目は、裏をかいて、やはり敵はこのあたりに潜んでいて、残った面々を襲うのではないかってこと、なん、だけど……」  言葉を連ねる度に厳しくなっていく詠の眼光に、一刀は少々びくつきながらも問いを発する。詠は彼が口をつぐんだ後もしばしの間睨みつけるのを止めなかったが、はぁ、と小さく息を吐いた。 「一つ目について言えば、間に合うかどうかじゃない。間に合わせるのよ。そう、あんたが命じた。だからボクたちが実現させる。違う?」 「あ、うん。わかってる。詠達を信頼していないとかってことじゃなくて……」 「信頼されてないなんて、誰一人思ってないわよ。ただね……」  きつい調子で言いつのろうとする詠に、沙和がはいはーい、と手を挙げつつ、明るい口調で割って入った。 「隊長の心配もわからないでもないのー。でも、まだあっちとぶつかっていなければ、それはそれでいいし、もしもう戦闘が始まってても、ある程度のまとまった騎兵がいけば力になるはずなの。そんなに心配しなくていいと思うな」 「……と、まあ、沙和もわかってることなわけ。あんたが承知してないでどうするの」  遮られたことは気にした様子もなく、かえって沙和の明るさに苛立ちが緩んだか、口調を少し和らげて詠が言うのに、一刀はようやくのように頷く。 「それも……そうか」 「そして、二つ目は、これから議論することよ」 「そうですぞ、旦那様。我らは命を受けて動きますが、命じる者が見えていないものがあれば、それを指摘するのも務め。  動かせる戦力のどれだけを割くか、どれだけを残すか。それを決めていくのが軍議というもので。それでも、あらゆる事柄に対応するとは行きませぬ。そこを詰めていき、最終的に決めるのは旦那様となるわけですが」 「ふむ……。そうだったね」  諭すように言うのが歴戦の将ともなれば、その説得力は大きなものだ。彼女がこういうったことを何度もやってきたのではないかと、一刀はふと思う。孫家の三人を、そして、冥琳さえも育て上げたのは、目の前にいる仮面の人物に他ならないのだから。 「隊長、さっきからなにを緊張してるのー?」 「まあ、わからぬでもない。何千里も駆けに駆けろと兵に命じることが小さな事であるはずがありませぬからの。しかし、じゃ」  きゃらきゃらとおかしそうに笑う沙和に同調するように笑みを浮かべていた祭は、すっと笑みをおさめて一刀に視線を戻した。 「此度のことも、これまでの進軍も、その本質は変わりませぬぞ。これまでを侮っておったわけでもありますまい?」 「うん。それはもちろん。ただ……」  そこまで言って彼は天井を仰ぎ見た。気遣いを込めた視線が自分に集まっていることがよくわかる。  祭や沙和は武将として、そして、詠は軍全体の行く先を決定する立場として、決断を迫られた経験は何度もあるだろう。いまさら軍を動かすことの難しさや重みを吐き出してみたところでどうしようもない。  もちろん、三人は、いや、三人だけではなく、左軍の将達は力になってくれるだろう。だが、決めるのは、そして、この軍の大将は彼自身なのだ。 「いや、甘えだったな。すまん」  明るく、しかし軽薄には聞こえないように言う彼を見て、誰かが小さく安堵のような息を吐く。 「ま、自分の意見を盲信したり、根拠もなしに無闇と威張り散らすような莫迦よりはずいぶんましだけどね。もう少ししゃんとしてほしいところね」 「えー、でも、隊長の桃色な感じがなくなるのはやだなー」 「個人的な部分まで変えろとは言ってないわよ」  俺の個性はそこなのか、と苦笑を浮かべる一刀には構わず、詠は沙和の方に向き直る。 「それはともかく、沙和を呼んでくれたのはちょうどよかったわ。あんたには、軍議の後すぐに発ってもらうことになると思うから、そのあたりの用意を身近な将校にでも命じておいて」 「わかったのー」 「旦那様の御用は先ほどで終わりじゃろうか? そうであれば、腹ごしらえといきますか? 意見を戦わせるのも、力がいりますからの」 「ああ、うん。実は、一つ相談があるんだけど」  そうして話し始めた一刀の提案は、その場の三人に驚愕という感情を抱かせるのに十分なものであった。  2.一意  詠達が出て行った後、将軍達はそれぞれ何人かで組になって、たいていが厨房に向かっていた。皆、外で昼食を摂ってから戻って資料を読むよりも、食事をしながら検討をはじめるつもりのようだった。すでに部屋に残っているのは――鎧をまとめて運んでいこうとしている母衣衆を除けば――書類を読み込んでいるねねと、何ごとか話し込んでいる麗羽達、それに霞くらいのものだった。  その中で霞は、部屋の真ん中で書類を繰りながら、うんうん唸っているねねに近づいていく。 「なあ、ねね」 「なんですか?」  書類から顔をあげず、ねねは応対する。霞をないがしろにしているわけではない証拠に、その体がほんの少し彼女の方を向いていた。 「正味、腹割って話して欲しいんやけどな? 孟ちゃんが狙われとるっちゅう話、どこまでほんまやと思う?」 「そうですね……。いま見ているこれですが……ここに書かれていることを考えに入れると、連合の存在に関してはほぼ確定してよいでしょう。が、それが華琳の排除を考えているというのは……。まあ、五分五分よりは分がいい、という程度でしょうかね」 「なんや結構ええ割やないか」  からからと笑う霞に、さすがに横目で視線を向けるねね。 「……どれほどありえないと思っていたのですか」  よくそれであれだけたきつけられますね。ねねはいっそ感心したように呟いていた。 「んー? うちにとって大事なんは一刀が決めるっちゅうことやからな。まあ……」  にやりと笑って、出て行こうとする袁家の三人のほうへ体を向けると、ぶるん、とさらしだけで隠した胸が大きく揺れた。 「なんや同じ事思っとった連中も多かったようやけどな」  霞の視線には気づかず出て行く麗羽達の背をねねも見やり、彼女は頭の上の帽子をきゅっとかぶり直す。 「……たとえ、あの決断が間違っていたとしても、それを支えるのがねねたちの仕事でしょうからね」  満足げな笑みを浮かべている霞を見上げていたねねは、しばらくしてから、こう切り出した。 「実を言うとですね、霞」 「ん?」 「軍師として……ねねがずっと磨いてきたこの頭の中での考えで言えば、さっき話したように、五分五分を超える程度の確度でしかないのですが」  とんとん、とこめかみのあたりを叩く指は、すっと下がって、自分の胸を指した。 「それ以外の部分、勘とか予感とかいうやつで言えば、もっとあいつに分があると感じているのですよ」 「ふぅん」  霞は顔を傾け、どこともない宙を睨みつけた。 「あんたも戦場で鍛えられてきたっちゅうことやろなあ」  もうおこちゃまとは言えんな。霞は心の中で呟いていた。 「ま、なんにしろ、これは色々と転機になりそうやな。……一刀にとってもな」  会話を終わらせるように呟いた霞の言葉を迎えたのは、ねねの憂鬱げな答えだった。 「それはどうでしょう」 「なに?」 「いまはともかく、いずれあいつの中で整理されてしまう可能性はありますよ」 「どういうこっちゃ?」  問いかける霞に、ねねは座れ、と手振りで示す。霞はねねの対面の椅子に尻をひっかけるようにして腰を下ろした。 「今回の事、華琳を救いに行くのは魏に属する者としても、北伐左軍の大将としても、判断としては正しい部類に入ります。まあ、賭けではありますが……。なんにせよ、不自然というほどのことはないです」  書類を閉じ、その上に両腕を重ねて置くねね。 「だから、自分の判断は、左軍大将としてのものであった、といつのまにかあいつの心の中でそういう風におさまってしまうかもしれないのですよ」 「あー、うーん。そないなもんなんか? よう……わからんなー」 「もちろん、責任を感じないというのではないですよ。そうではなくて……」  首をひねる霞に、なにか気づいたように慌てて付け加える。相手は、それに真面目な顔で頷いた。 「うん、わかっとる。一刀はたとえ軍務やろうとなんやろうと、己のしたことはなんでも抱え込んでしまうほうやからな。そこは気にせんでほしいところやねんけど」 「そうですね。受け流すと言うことも時に必要です。それはともかく、それとはまた別のことなのですよ。いえ……つながっているのかもしれません。あれは、なぜか極端に官位を軽視するところがありますが、それに伴うものも含めて、自分に与えられた役割というものを、非常に重要に受け取りがちです」 「そりゃ、ええこっちゃろ。己の役割もわからん奴を、大将と仰ぐんは無理があるっちゅうもんや」  こくりと頷きつつも、ねねは憂いを隠すことが出来ないでいた。 「霞の言うことはもっともです。ですが、それが、行きすぎるのも考え物ですよ」 「んー?」 「簡単に言うと、与えられた役割――この場合は左軍大将という職責こそが大事であり、自分の手柄というものを考えないのが北郷一刀という人間なのですよ」  そこでねねは少し考えると、言葉を継いだ。 「ねねの見たところ、魏という国は、全体にそういう傾向があります。後から入った霞にならわかるのでは?」  その言葉に霞は腕を組んで考え込みはじめた。険しかった表情が徐々に納得がいったように緩んでいく。 「あー……。なされたことは全部孟ちゃんに捧ぐべきもので、己の功績より、果たすべき責務こそが重要視される……そんなとこやろか? 言葉にするんはむずかしなあ」 「ねねにも明確に言えることではありませんが……。ただ、今度のことが、そう簡単に転機になるとは思わない方がいいですよ。あいつの中でどういう位置づけになるのか、それはこれから次第でしょう」  それを聞いて、霞は大きく長く息を吐く。 「んー、一刀も面倒やなあ」 「しかたありません。あれは恋殿や霞のように英傑ではないのですから」  その言葉に思わず言い返そうとして、ねねの顔に浮かんだ悲しそうな笑みに、霞は出かかった声を呑み込んだ。 「ねねと同じです」  とらえどころのないねねの視線。それは間違いなく眼前の霞を見てはいなかったし、この今という時すら見ていないように思えた。 「英傑が一度で決められる覚悟を、何度も何度も、毎日のように繰り返し、自分に言い聞かせなければ前に進めない。それが凡俗というものです」 「ねね……」  霞の言葉は果たして彼女の耳に届いていたろうか。 「ねねにはわかるのです。英傑ではない人間が、英傑の横に立つために必要なことが。ねねだけが……そう、ねねだけが。つまらない苦労に追われ、くだらない感情にとらわれ、どうでもいい些事にふりまわされながらも、それでも……」  ぎゅうと握りしめられた小さな拳が掴んでいるものは、いったい何だったろうか。霞は、この昔からよく知る少女が内に秘め続けてきたものの一端をのぞき見てしまったような気がしていた。 「いまは、いいのです。たとえ、あいつの中で整理されてしまっても。ただ……」  自分に言い聞かせるように、ねねは言う。ぎりぎりと噛みしめられた歯の間から押し出すようにして。 「あいつが華琳の……覇王の横に立ちたいと、立ち続けたいと望むなら……」  そうして、ねねは顔をあげる。きっとその瞳には、彼女の崇敬の対象――天下無双の飛将軍の姿が映っている。霞はそう確信していた。  3.議論  証拠品の鎧がすっかり片付けられた後の広間には卓が馬蹄型に並べられていた。すでに、諸将の大半がそこに座っている。  最後に入ってきた一刀は馬蹄の広がった部分に一つ置かれた大型の机に着いた。そこには先に右軍所属の沙和が座っていたので、二人と諸将が対面する形となる。 「……ん、斗詩と猪々子がまだか。麗羽?」 「少々申しつけておりますもので。おっつけ参りますでしょう。はじめてしまってかまいませんわ」 「そうか……?」  たいしたことでもないように答える麗羽に一刀はいぶかしむが、後で斗詩に話でもしておけばいいかと思い直す。基本的に猪々子と斗詩の二人は麗羽の言うことに大きく逆らうことはないし、細かい部分は最初から斗詩と話すほかないのだから。 「じゃあ、はじめようか。意見のある人は?」  すいと優雅に手が挙がり、黄金の羽が翻る。一刀がそちらに頷いてみせると、星はそれを受けて、詠の資料を手に話し始めた。 「これを見る限りは、羌、鮮卑連合はあると判断するのが妥当でしょうな。そして、その連合が我らではなく、中央軍を狙うのではないかというのも、頷ける」 「鮮卑の援軍があるなら、それも合わせて今回の戦にて我らを討つべきだろうからな。なにも先延ばしにする必要はない」  焔耶が星の言葉に頷く。それに対して一刀が疑問をぶつけた。 「補給線が伸びきるのを待っているというのはありえないだろうか?」 「武威に腰を据え、張掖との間の街道も制圧した我ら相手にか? 客胡のことをかぎつけていなかったとしても、分の悪い賭けだぞ、それは」 「武威や張掖といった拠点が無ければ、たしかに警戒すべきですが、現状では……」 「ふむ」  一刀は軽く頷いてその話題を終わらせる。本気の疑念ではなく、焔耶と星の反論を引き出して、議論を進めるためのものだったのだろう。 「この連合、鮮卑が中心となっているならば、狙うべきは華琳の軍……か」  白蓮が確認するように呟く。彼女の手には先ほど詠が追加で配った竹札があった。 「それにしても敵の推定兵力は、最大六万騎……」  連合が鮮卑主導であったと考えた時、推測される数字。それを詠は昼食の間に考え、提示しておいたのだ。  白蓮の呟きに応じて、皆がそれぞれに唸ったり考え込んだりし始める。  この場にいる諸将が身にしみてわかっている通り、騎兵というものは歩兵に比べて強力な兵種である。その移動力、戦闘における突破力、歩兵よりはるかに視界が広く、切り下ろすにせよ、射撃を行うにせよ有利な馬上という位置。どれをとっても歩兵の敵うものではない。  さらに、いわゆる北方騎馬民族の有利な点がいくつもある。  漢土で産する馬より大型の良馬を育成できること。  それらの馬に生まれたときから慣れていること。  馬を使っての狩猟を行うため、馬上での射撃が可能であること。  いずれも異民族たちにとっては当たり前のことであるが、漢人にとっては脅威だ。  もちろん、漢人の側もそれらの不利を克服するため様々な方策を施し、騎兵を自らの軍に入れている。  ただ、基本的には漢土の戦において騎兵は強力だが数が少なく、歩兵の支援やここぞという局面にだけ用いられる兵種に過ぎない。  しかし、騎馬民族たる鮮卑や羌は、生まれたときからの習熟をもって、騎兵の大規模運用を可能とする。中原の戦術とは異なり、ほぼ騎兵のみの単一兵種で軍を編成し、その数の不利を機動力で補うことさえやってのける。  そんな騎兵が六万ともなれば、いかに魏の精兵三十万といえど、危機に陥りかねない。  それは、そんな重要な数字だった。 「そこらへんはたんぽぽが調べたんだけど、羌の戦士の移動が諸々合わせて一万二千から、多く見積もっても二万くらいなの」 「そこからボクが考えたのが六万という数字ね。最大二万を呼び込むためには、鮮卑の兵力はそれを上回るはず。で、その最大値が倍の四万ってことね」 「四万以上ということはないんか? 鮮卑はえらい広がっとるけど、それだけ多くの部族がおるんやろ、たしか」 「ないわね。考えてもみて。鮮卑だけで四万以上いるなら、羌を呼び込む必要がどこにあるの?」  霞の問いに、詠はよどみなく答える。彼女のことだから、当然この程度の反論は織り込み済みなのだろう。さらに彼女は眼鏡を押さえながら、翠に問いかけた。 「翠? たとえば、中央軍を襲おうと考えたとして、あんたならどれくらい集めたい? 鮮卑の側に立って考えてみて」 「そうだなー。地の利は自分の側にあって、相手は遠征軍。とはいえ魏の精強さは聞いているだろうし、三十万とはっきり数を捕らえていなくとも、かなりの数だと把握はしているだろうから……。んー、騎兵四万と支援に軽歩兵一万ってところかな」 「せやな……五万もおったら自力で対抗すること考えるわな」  納得したように頷く霞。そこでそれまで黙っていた雛里が大きな帽子を揺らしながら言葉を発した。 「鮮卑はそれだけの数を……少なくとも精鋭と言える面々では集められず、援軍を条件に、羌から一万数千から二万程度を呼び込み、羌も勝ち目があると読んで乗った……。自分たちが参加するからこそ勝ち目があると踏む数……。たしかに詠さんの試算は理解できます」 「羌の側だって莫迦じゃありませんからね。自分たちの戦力が重視されないような同盟関係なんて乗るわけがありません。羌の中でも各部族いるでしょうが、せめて羌全体では存在感があるというのを維持していないとだめでしょう。なにより、そうでなければ鮮卑も援軍をこっちによこしません」 「ふむ。つまり、五十の中では二は埋もれてしまうが、五の中では二は無視できぬ大きさ、というわけじゃな」  そうして、詠の試算が十分あてになるものだという意見が大勢を占めたところに、おかっぱ頭と元気に髪がはねた頭の二つがひょいと戸口に現れた。 「ん、斗詩? 猪々子?」 「どもー」  いち早く気づいた一刀に、いつも通りの明るい声で入ってくる猪々子。その姿にねねがふんと鼻を鳴らした。 「まったく、遅刻とはなっていませんね」 「あー、ちょっとお話を聞きに行ってたんですよー」 「話?」 「はい。捕虜になってる羌の方々にちょっと。あ、別に、この書類が信用できないってわけじゃあ!」  いつも通り麗羽の横に座った後で、わたわたと手を振って立ち上がり否定する斗詩に詠は取り合わずに先を促した。 「わかってるわよ。それで?」  どうせならと猪々子も立ち上がり、話を始める。 「んーと、やっぱり鮮卑と羌の連合はあるみたいだぜ。長老格のやつが認めてた」 「……どうやったの? ボクがずいぶん粘ってみたんだけど、結局口を割らなかったのに」 「まあ、そこは……袁家に仕えるとなると、それなりに謀の追求もうまくないと……。あはは」  ごまかすように軽く照れ笑いをする斗詩。そして、普段たいていのことには動じない猪々子がその笑みを見て、顔を思い切りひきつらせる。  その様子を見て、ああ、こいつは怒らせてはいけない性質だな、と思う一同であった。 「なんにせよ、連合はあったわけじゃな。恐るべきことじゃが、確実にわかったのはまずよいとせねばな」  重々しい言葉に頷く面々。しかし、二人はまだ着席しようとしなかった。 「それと、今回の戦は本来あるべきではなかった戦らしいです」 「え?」 「鮮卑との密約だと、ここいらの羌はさっさと降る予定だったんだって。あたいらを油断させておくためにね」 「それがなぜ全面的に戦う事になったかは、長老にもよくわかっていないようです。ただ、鮮卑から来た援軍が戦端を開いてしまい、止めようが無くなった、と。暴発したのか意図的なのかはよくわかりません。援軍はほとんど死んじゃったようなので……」  斗詩と猪々子がこれ以上話すことはないと示すように腰を下ろした後も、しばらくは発言する者がいなかった。その中で、ねねが弾かれたように顔をあげ、声を発する。 「鮮卑側の策かもしれません。連合から目を逸らさせるために、羌すら利用したのかも……」 「どういうことじゃ?」 「こちらの足止めに利用したと言うことですよ。羌の側には油断を誘うために抵抗せず降るよう言っておき、戦士達を安心して供出させる。けれど、実際には鮮卑の援軍が戦をしかけてしまう。  一度始まれば、この地は羌の故郷でもあり、生きる場所でもあります。いかに若年、老年の兵とて奮戦し、戦は長引くと踏んでいたのでしょう。  実際、勝てたとはいえ手強かったですしね」 「鮮卑にしてみれば、この地で戦がどれほど起きようと、悪いのはボクらってことにすればいい……か。疑いもないのに、死体をわざわざ改めるなんて思いもしないでしょうしね」  詠が疲れたように呟くのに、翠が呆れて手を広げてみせた。 「なんだか色々やってるなー、鮮卑側は。それほどの者がいるのか?」 「いるんだろうな。……あるいは、北伐を機に人の上に立つ才を発揮しだしたのかもしれない」 「救国の英雄……。乱世だからこそ生まれる存在というのはあるな」  華雄の一種突き放したような物言いは、そういった事例を彼女自身がいくつも見てきたからだろう。黄巾以前――それこそ、雪蓮たちの母と競うほどの時――から将軍の位についていた彼女にしてみれば、黄巾の乱やそれに続く混乱の中で頭角を現してきた諸将の姿もそう見えているのかもしれない。一刀はそこで頷いて話をまとめるように言った。 「ともかく、斗詩たちが連合の存在をはっきり確認してくれたし、今回の戦をわざわざ起こしたのが鮮卑となれば、やはり鮮卑が連合を主導していると考えるべきだろうな」 「せやな。そこまでわかったところでさっきの話に戻すけど、六万にどう対処するかやな……」 「六万は現実的に言ってかなり大仰と思うのだけど……。そうね、最低でも四万はいると考えた方が良いでしょうね」 「四万……。無理とは言わんけど、生半可な兵力を割いても無駄になってまうな。それこそ騎兵全部連れてくくらいの勢いやないと」  左軍の騎兵は六龍の部隊合わせて二万六千。一刀の母衣衆や、歩兵部隊に編入されているものを合わせても二万八千には届かない。中央軍と連携することを考慮しても、最低でも二万は必要だろう。 「……ご主人様が行くなら、恋は、行く」  赤毛の女性は唇を引き結び、強烈な意思を表明する。隣に座った霞が、ぽんぽんと彼女の肩を力づけるように叩いた。 「恋と華雄んとこは行ってもらわな困るわ。烏桓やったら鮮卑の戦い方もよう知っとるやろしな。なあ、一刀」 「そうだな。恋たちは俺と一緒に行こう」 「ん」  こくりと頷くと、恋の頭から跳ね上がった二束の髪の毛が軽く揺れた。 「歩兵部隊はこちらに残るということでよろしいのかしら?」 「そうだな。歩兵を随伴させるのは厳しいだろう。工兵は多少連れて行きたいが……いいかな?」 「ええ、もちろん。兵器の類はばらして運ばせますの?」 「いや、それは……」  一刀は詠に視線をやるが、詠はぱたぱたと手を振って否定の意を示した。 「無理。そりゃあ、できれば欲しいけど……。いいえ、諦めましょう」 「了解。でも、変な地形をつっきらなきゃいけないとかなった時に工兵の力は欲しい。麗羽、五百人ほど選んでくれるか?」 「わかりましたわ」  いつも通り泰然と頷く袁家の主。常に浮かんでいる笑みは頼もしささえ感じる。本人がどこまで理解しているのかはわかったものではないが。 「しかし、騎兵全部はちょっとどうだろうな。一部隊くらいは残る方がいいんじゃないか? 連絡にも必要だし。それで……」  白蓮が立ち上がり、諸将、特に騎兵部隊の長の顔を見回す。 「私もついて行きたいが、人数などから考えると、残るのはうちの部隊がちょうどいいと思う」 「うーん、たしかにあんたのところは人数も手頃だし、訓練も行き届いてるか……」 「んー、ちょっと待って」  詠が同調するように腕を組むのに、蒲公英が異を唱えた。 「たんぽぽが残るほうがいいと思う」 「え?」 「たしかに白馬義従はまとまってるし、戦力だけで見たらそれでいいんだろうけどね。ただ、ここは涼州で、この戦は西涼をつくるためと思ってる兵も多いから……」  含みを持たせた言い方で、その場の大半の将は言いたいことを理解した。西涼の棟梁である翠が、頭をがしがしとかきながら結論づける。 「馬一族の人間が一人は必要、か。たしかになー。ほんとはあたしが残るのがいいんだろうけど……」 「翠の隊には烏桓と並んで、長駆の中核となってもらわないといけません。お花の言うとおり、残すなら緋龍隊のほうでしょう」 「たんぽぽが残るのはもう一つ理由があるんだなー」  にこにこと微笑みながら、蒲公英は続ける。 「お姉様やたんぽぽの部隊は、替え馬の数が飛び抜けて多いでしょ。だから、それをー」  あっ、と誰かが声をあげた。  涼州騎兵はそもそもこの土地を故郷としていることもあり、馬の所有数が多い。その上、西涼の民が馬家の者が戻ってきたことを喜んで寄付してくれたり、安く売ってくれたりするものだから、他の部隊に比べると格段に予備の馬の数が多かった。 「そうか。蒲公英の部隊から馬を出してもらうのか……」 「さらに、涼州をよく知るお花なら、後で補充するのもたやすいと言うことですね」  よく考えたな、と翠が蒲公英の頭をなでる。従姉に褒められてまんざらでもないのか、へへー、と蒲公英がにやけるのを、皆はほほえましく見守っていた。  4.論決 「じゃあ、東へ赴くのは緋龍隊を除く騎兵全部隊ね。そうなると涼州は歩兵部隊と緋龍隊で……」  話が一段落したところでまとめるように詠が発言するのを、一つの声が遮った。 「ちょっと待った」 「ん?」  皆の視線が集まるその先にいるのは、精悍な顔に真剣な表情を浮かべた女性――魏文長。彼女はしっかと睨みつけるようにして一刀を見ていた。 「ワタシも行く」 「は?」 「ワタシもついて行く」  繰り返す言葉に、数人の視線が焔耶の両隣に座る女性に向かう。大きな帽子で顔が隠れそうな可愛い軍師も、ゆったり笑う白い着物の女性も、別段驚きの表情は浮かべていなかった。 「え、いや、でも、文長さんは鋼飛兵が……」  おそらく、この時最も動揺していたのは、最高指揮官たる北郷一刀その人だったろう。 「部隊は星に任せる。連れて行くのはワタシだけでいい。蜀から一人は参加する者がいるほうが格好がつくだろう」 「軍全体の均衡を考えれば、たしかに言うとおりじゃが、蜀の他の面々はどうなのじゃ? まさか鳳雛が今後ずっとこちらにおるというわけにもいくまい」  朱塗りの仮面の奥から鋭い光をきらめかせ、祭は星と雛里の二人を見据える。その視線を受け流しつつ、星は袖で口元を隠すようにしながら応じた。 「焔耶がどうしてもと言うならば、それもよろしいのではありませんかな。あれほどの兵なら私一人でもなんとかなるというもの」 「私は……後で少々話をさせてもらいたいところですが、蜀から誰かが、というのは必要かも知れません」  二人の言葉を受けて、男は腕を組んで考え込む。 「兵を率いないとなると、文長さんは俺の補佐をしてもらうことになるけど……。それでもいいのかな?」 「ああ、ワタシはこの戦の行く末を見据えるために行く。本陣にいさせてもらう分は働くさ」  真剣な表情で頷くのに、一刀もようやく首を縦に振った。その間、一瞬足りとて彼女の視線は彼の瞳から外れることはなかった。 「そうか、わかった。工兵や母衣衆の指揮に力を貸してもらうことにしよう」 「じゃあ、東に向かうのは大将のこいつと母衣衆、恋の赤龍隊、華雄の黒龍隊、霞の碧龍隊、翠の緑龍隊、白蓮の白龍隊、工兵五百。あとは焔耶、音々音、それとボク」  一刀の決定を受けて、詠が一人一人指名していく。その度に、将達は声をあげたり、頷いたり、手を掲げて見せたりする。その最後にさしかかったところで、沙和がはーい、と手を挙げた。 「軍師が二人とも行っちゃってだいじょぶなのー?」 「難しいところだけど、事態が流動的になるのは東進部隊の方だと思うの。ねねは恋たちについて細かい調整をしてもらいたいし、外せないわ。もちろん、残される方が厳しくなるのだけど、事がこうなってくると予定通り前進するよりは……いえ、これも大将次第ね」  詠は説明の途中で口をつぐみ、一刀の方へ向き直った。 「どういう方針か、考えは決まってる?」  一刀はこれについてはすでに決めていた。だから、すらすらと答えが出てくる。 「武威までは確保してほしい。進む必要はないが、相手に侮られて攻められては元も子もないから、現地の判断で多少進出することはしてくれてもいいかって考えてるかな」 「それなら、たんぽぽたちだけでも大丈夫だよー。冬まで現状維持でいれば、春までに色々準備できるし」 「そう言ってくれると助かるな。ありがとう。そうすると、残るのは、蒲公英、祭、星、麗羽、斗詩、猪々子だな。士元さんにはこうなったら、早めに国に帰ってもらう方が良いだろう」  胸を張って保障してみせる蒲公英の言葉に微笑みを浮かべ、一刀は残りの面々の名前を呼ぶ。 「早めに、ですか……」 「うん。予定が大幅に変わった以上、国元で混乱が起きるとまずい。何ごとか起きるとは……」  そこで、一刀は言葉を切り、ふるふると首を振った。こびりついた何かを振り払うように。そして、開いた口から出た言葉はなんでもないことのように響いたが、その真剣さは疑いようがなかった。 「いや、俺たちが何も起こさずに済ませる。だけど、用心だけはしすぎていけないってことはないからね」 「……では、蜀軍の動揺が収まり次第、帰国することにしましょう。さすがに将が一人抜ければ、我が国の兵といえどそれなりに心動くでしょうから」  しばらく考えた後でぎゅっと帽子のつばを下ろして答えた雛里に、一刀は頭を下げた。 「さて、話を戻すと、残る諸将の中で、俺は麗羽に涼州における大将を引き継いでもらいたい」  それまで、いつもの軍議と同じように、ほとんど他人事同然に話を聞いていた麗羽が、ぐいと姿勢を前のめりに動かした。その途端、いくつもの金色のくるくるが動き、室内の光に煌めく。その横で斗詩もまた驚きに目を見開いていた。 「わ、わたくしですの? 馬家のおちびさんや公覆さんではなく?」  目を白黒させて問いかける声に一刀が答える前に、名前の挙がった二人が口を挟む。 「儂などにはとてもつとまらんわ」 「たんぽぽもちょっと全軍は無理ー。あと、ちびって言うな」  困ったように揺れて動く麗羽の視線の先が詠にたどり着く。詠はそれに応じて肩をすくめてみせた。 「大将軍であるあんたが順当でしょう。ボクらを負かした大連合の立て役者なんだしね」 「それはそうですけど……まだお恨みですの?」 「莫迦ね。そんなのもうどうでもいいことよ。でも、あの時のことでわかるようにあんたは人をのせる才はあるんだから、せいぜいそうしてくれればいいのよ。あんた自身が動かなくとも、蒲公英たちがいるんだから」 「人をのせる才……」  それは本気だったのか、あるいは挑発だったのか。こっそり横目で一刀を睨んでいる詠の表情からその事は読み取れなかった。ただ、言われた方の麗羽はぶつぶつと呟きを続けていた。 「そ、そうですわね」 「あーぁ」  喜色満面で顔をあげる麗羽の耳に、隣に座る猪々子が思わず漏らした声はもちろん届かない。 「ええ、ええ、そうですとも。この袁家の主たるわたくしの手にかかれば、涼州で支配を固めるくらい、なにほどのものでもありませんわ!」  だんだんと自信に満ちていく口調に、思わず頭を抱える斗詩。 「我が君! もうどーんとお任せ下さいませ!!」  言っている間に興奮してきたのか、麗羽は立ち上がり、胸を反らして手を口元にあてる。いつも通り高笑いが始まったところで、やれやれと言いたげに何人かが肩をすくめていた。だが、一刀はそんな様子をにこにこと見守り、改めて彼女に言う。 「ああ、頼むよ、麗羽」 「ええ、我が君!」 「あの、ちょっといいですか? 席次として、麗羽様が残留組の大将になるというのはわかるのですが……。その副将とかは決めないのでしょうか?」  慌てたように立ち上がった斗詩は、暗に『名目上ではない、実際の代表者を他に決めておかなくていいのか』というような事を主張する。麗羽に実権が渡るとすれば、おそらく最も苦労するのは斗詩であり、それを分担できる人間を求めようとするのは人情というものだ。だが、それはあっさりと否定された。 「ああ。決めない。他の皆は、あくまでも麗羽の指示に従って欲しい。これについては既に右軍の了解を得ている」 「うん、沙和は賛成なのー」 「あ、ああ……そう、ですか……」  一刀のきっぱりとした物言いに、席に着く斗詩。そのおかっぱ頭の下で、頬がほんの少し膨れていた。その様子に苦笑しつつ、彼女に向けて小さく頭を下げる一刀。  それから彼は再び大きく頭を下げた。 「みんな大変だろうが、俺が戻るまで、麗羽を支えて、この涼州を確保しておいて欲しい。頼む」 「まあ、アニキが言うなら……な」  まだむくれている斗詩を元気づけるように猪々子が言い。 「はい、なんとか……やってみせます」  斗詩が気持ちを切り替えるように、笑みを見せ。 「ここらの豪族はたんぽぽがなんとかするよー」  蒲公英が手を振って大きく伸びをする。 「西涼のため、奮戦させていただきますかな」 「兵は任せてもらいましょう」  星と祭が頼もしい言葉を放ち。 「お任せ下さいませ。四世三公の戦というものを、しっかり見せて差し上げますわ。おーっほっほっほっほっほっほ」 最後に麗羽がさらなる高笑いを見せて、大まかな方針は定められたのだった。  5.杞憂  南方への転進――とは言っても実際には次の水のある場所を目指しているので東南への移動なのだが――をはじめて、三十里。  その日の進軍予定の半分ほどを過ぎて、ようやく華琳は緊張をほんの少し緩めた。 「どうやら杞憂だったようね」  進軍を始めてから最初の食事のための小休止も既に終えた。華琳たちが案じていた兵の弛緩という意味で言えば、まずは最も危ない所を抜けたと言える。 「我々の側には、天から二回も落ちてきた人がいますからねー。杞の国の人の心配もわかろうというものです」  彼女の横で馬を進めていた風が笑いを含みつつ呟くのに、華琳も思わず顔をほころばせる。 「それもそうね。一刀の事を考えたら、なにが起きても正直不思議ではないもの」  消えたり、戻ってきたり、忙しいやつよね、とくすくす笑う華琳の顔は、とても明るかった。だが、彼女は顔を引き締め、改めて側らの軍師に話しかける。 「とはいえ、気を抜いてはいけないわよ。それに、帰る途中でも降した部族の人心を捉えるよう努力しないとね」 「そですねー。春頃には、今回の占領区域をしっかり区分け直して、統治者を決めていけると思いますよー」 「ええ、よろしく頼むわよ。それで……ん?」  話を続けようとした華琳の視線が前を向く。風は主の動きで気づいて同じ方向を向いたが、目の良さが違うのか、彼女に見えたのはしばらく後のことだった。 「あれ、春蘭さまですね」 「そうね。なにか用のようだわ。兵を止めなさい風」 「了解ですー」  風の指図で将校達が部隊を停止させる中を、縫うようにして春蘭が近づいてくる。彼女は一人の兵士を横に連れていた。その姿が近づくにつれ、春蘭の連れのつけた鎧の汚れ具合に華琳は気づかされる。 「戦の汚れね……」  血や土、それ以外の様々な付着は戦の証だ。しかも、その汚れようを見ると、かなり厳しい戦いのようだった。華琳と風は緊張を強めつつ、二人を待った。 「華琳様! 伝令です!」  華琳と風の前に開けた場所へと入ってくると同時に、春蘭は大声で主の名を呼んだ。周囲の将兵は内心では興味津々だろうが、さすが華琳の側に仕える者たちだけあって、まるで無表情に不動の姿勢を保ち続けている。 「伝令? どこの隊の者かしら?」  地に膝を突いて礼を示している伝令は、華琳の問いに直答していいものかどうか迷っていたようだったが、後ろから春蘭に乱暴にこづかれて、ようやくのように答える。 「右軍、楽大将の部隊から参りました」 「右軍……ね。さて、なにを伝えてくれるのかしら」  硬い表情で呟く華琳。伝令の兵はそれにさえ気圧されるようで黙ってしまったが、春蘭が肩に手を置くと、我に返ったように再び口を開いた。 「で、では、ここよりは、楽大将の言葉をそのままお伝えします。 『右軍の陣三つが同時に奇襲を受けました。相手は騎馬五千ずつ、合わせて一万五千ほどと推察されます。騎兵の勢いは激しく、統率も取れております。周囲の部族が一時的に連携を取っているという類のものとは思えません。  中央軍におきましては、くれぐれもご注意を。  なお、我が軍は一時的に周囲の全隊を我が本陣に集め抵抗しましたが、敵いそうもなく、陣を五十里ほど下げさせていただきます。これは私個人の判断であり、不徳のいたすところ。洛陽に帰還の後、いかようにも罰を下さりますよう』  い、以上です」  華琳はその言葉を聞いた後、何度か風と目配せし合い、そして、再び兵に訊ねた。 「……そう。で、実際はどうなの?」 「それは……」 「答えんか」  ためらう兵の前に回り込み、春蘭は活を入れるように吼える。その隻眼の圧力に押されるように、兵は言葉を紡ぎ出した。 「将軍は陣を堅く守っておられましたが、三部隊による繰り返しての攻撃により、兵は疲弊。とても……とても持ちこたえられる勢いではありませんでした!」  がばり、と兵は平伏し、逆にその声はだんだんと勢いを増していく。華琳と風はその様子をじっと観察していた。一人、春蘭のみが落ち着き無く七星餓狼の柄に手を触れている。戦の気配にうずうずしているわね、と華琳は見当をつけた。 「そこで、張将軍が決死隊を募り、突撃を敢行しようとなさいましたが、楽大将は兵を無駄にすると却下なさいました。勝つことではなく、中央軍を支えるための力を残すことに心を砕け、と」 「張合か。まあ、あれの判断も間違いではないだろうが……」  張合は麗羽配下から魏へ来た将だったが、それなりに将としての評価を受けていた。おそらく、決死隊を率いて突撃をかければ、敵に打撃を与える事は十分やり遂げたろう。しかし、それが右軍全体や、中央軍に及ぼす効果まで計算できていたかどうか。 「楽大将は、張将軍に退路を確保させ、陣頭にて獅子奮迅の働きをなさっておいででしたが、負傷兵が増え続け、陣を下げることを、決断せざるを……!」  兵の報告は進むにつれ、途切れ途切れになりはじめる。それは間に苦しそうな息が挟まるからであり、同じく嗚咽のような声も、そこに含まれているからであった。 「その決断は正しいわ」  優しく、あくまでも優しく華琳は言う。 「彼女の事だから、被害を最小限に食い止めてくれているはず。安心なさい。あなたの伝令も役に立ってくれたわ」  ばっと顔があがる。涙と疲労でぐちょぐちょの顔は、それでも喜びに彩られていた。 「ありがたき……!」  そこまで行って、彼は再び顔を落とし、そのままべたりと地に伏せてしまう。ぐんにょりと力の抜けた体に春蘭がかがみ込み、脈を取る。 「気は失っておりますが、死んではおりません」 「緊張がきれましたかねー」  風が周囲の兵に、気を失った伝令の世話を命じると、早速丁重に彼の体は抱え上げられて運ばれていった。 「こちらからも偵察を兼ねて、凪に向けて使者を出しましょうか。あるいは、私が一隊を率いて……」  春蘭の申し出に、華琳は寸時考え込み、しかし、首を横に振った。 「いえ、やめておくわ。偵察はもちろん出すけれど、生半可なものじゃどうしようもないでしょう。敵は――おそらく鮮卑でしょうけれど――あえてさっきの男を逃したと、私は見るわ」 「騎兵で攻めてきている敵が、伝令を見つけられないわけもありませんからねー」  華琳の推測を補足するように風が呟く。頭の中は急回転しているのか、表情はいつもながらのぼうっとしたものだったが、額にうっすら汗が浮かんでいた。 「なぜでしょう? 奇襲するほうがよいのではないですか? あちらは足があるようですし」  春蘭の問いに、華琳は首を振り振り答える。その唇に、久しぶりとも思えるような笑みが浮かびつつあった。戦うべき敵を、好敵手を見つけた時の、ふてぶてしい覇王の笑みが。 「右軍の急襲を我々に知らしめるためよ。これは……宣戦布告よ」 「なんと! 華琳様に真っ向から挑もうとは生意気な。私がさんざんに打ち砕いて見せましょう!」  忠臣の本気の憤激を好ましく眺めながら、華琳はそれを御すように声をかける。 「春蘭、兵を進めなさい。その中で、あなたの部隊はいつでも偵察に出られるよう準備させて。ただの偵察じゃなく、相手に切り込む強行偵察よ」 「了解いたしました!」  元気に答えて走り去っていく春蘭の背を眺めつつ、華琳は馬を進め始める。周囲では兵達が再度進軍を始めようとしていた。 「右軍を襲ったのは、おそらく敵の本隊ではないわね」 「ですねー。本隊なら、こちらに規模を知らせるようなことは許さないでしょう」 「すると、右軍襲撃に五千の部隊三つ……。全部で三……いえ、四万と見たけど、どうかしら?」 「あちらが勝つ気なら、四、五万は必須でしょうね。もちろん、どれだけの部族が参加しているかによります。五千の部族が十か、一万の部族が四か。数は少なくとも後者の方が脅威です」  風の意見に同意の頷きを返し、華琳は首をひねって背後の北方を見やる。おそらく、右軍を襲った別働隊とは違って、本隊は北方にあるだろう。彼女はそう感じていた。 「ここまでのことを成し遂げる者が出てくるとはね。名前を聞いたことがあるのは、ええと、軻比能だったかしら。そいつ?」 「そうかもしれませんが、確認してみないことにはどうにも。予断を持ち込むのは避けたいところです。ただ、風が思うに、強い圧力にはそれだけ強い反作用が返ってくるのですよー」 「私の覇業が招いたこと、か。それにしても……」  軍師の言葉の意味を噛みしめつつ、華琳は小さく息を吐く。後悔のような、深い理解のような、矛盾した思いを込めて。 「郭奉孝、過てり……か」 「……最初があれでしたからねー」  二人は北伐のために調略を進め、各部族の情報を集めていた軍師の名を呼ぶ。  最初から北伐――北方地域の平定を企図していたならば、稟の策略は決してこんな事態を招く手落ちは許さなかったろう。だが実際には、この計画は当初全く別の形で動いていた。華琳や風にすら秘匿された、ある意図をもって。 「まったく、一刀ったら」  その策動を生み出した原因であり、後にその動きを終わらせた当の人物の名を、面白がるように呼び、彼女は一声笑った。  それから華琳は表情を引き締め、覇王としての顔で部下に命を下した。 「春蘭に伝えよ。部隊を十に分け、偵察に出すように!」 「了解いたしました。偵察のうち一つには、春蘭さまを加えても?」  指揮官が先行して地勢を見ることは、非常に大きな力となる。もちろん、危険と隣り合わせだったが、こんな時こそ危険を冒す必要があった。華琳はしばしの間腕を組んでいたが、それを解いて頷いてみせた。 「許す」  彼女は腕を振り上げ、ついで、振り下ろして見せた。その指が差すのは前方。進軍予定の土地。 「足を速めよ。とにかく、この人数を支えるだけの水を得る場所まで走り続けるぞ!」  その声に応じて、北伐中央軍三十万は足を速め、ついには駆け足になって、ひたすら北の大地を駆け抜けるのだった。  6.逃走  その頃、中央軍より南に下ること百二十里ほどの原野を、一台の人力牽引車が走っていた。特別に三基の『自転車』が取り付けられた大型の荷車は、必死で漕ぐ兵の脚力により、かなりの速度を実現していた。ただし、訓練された騎馬の出す最速よりは、やはり落ちる。  荷台には、二十名を超える兵が乗るが、そのうち半分ほどはどこかしらに怪我をしており、起き上がることもできそうになかった。残る半分は楯を構え、それらの負傷兵達を囲んでいる。  そして、その囲みの最後尾に、一人の女性の姿があった。  銀髪を三つ編みにして長く垂らした彼女の肌にはいくつもの傷痕が残る。くぐり抜けてきた戦いを如実に示す体に、さらに新しい傷を作りながら、彼女は構えを取り、疾駆する荷台の上で体を揺らすこともなく立っている。彼女こそ、楽文謙、右軍の大将を拝命した人物だ。 「来るっ」  音を聞きつけたか、気配を察したか。彼女の言葉に周囲の緊張が高まる。兵達は持っていた楯をさらに強く掲げ持ち、矢が飛んでくるのを警戒する。  そんな凪の視界に、数十の騎馬の群れが見えた。距離は遠いが、近づいてくる必要もない。騎馬民族の騎兵たちは、騎射の腕に秀でているのだ。  だが、弓を取らせる余裕を与えるつもりは、凪にはなかった。 「破ぁあっ」  体中に流れる氣を加速させ、四肢に集める。彼女の振り抜いた右手から氣の塊が発射され、見事に敵の足下を吹き飛ばした。そのめくれあがった地面に足を取られ、何頭かの馬がどうと倒れる。さらにそれを避け損ねた何騎がもつれあい、怒声といななきが彼女の耳にまで聞こえてきた。 「いまだ、漕げ!」  兵達に命じると、ほんの少しながら車の速度が上がる。しかし、これで振り切れるわけもない。敵は混乱が収まれば再び接近してくるだろう。あるいは、別の追撃隊が彼女達を見つけるかもしれない。敵は数多くいるのだ。 「このままでは……厳しいか」  兵には聞こえないよう気をつけながら、彼女は口の中だけで呟く。周囲の兵たちは、大半の味方を逃がすために殿を買って出ててくれた優秀な者たちだ。それだけに判断力もあり、このままではいけないことなどすでにわかっているだろう。そこに指揮官たる彼女がだめ押しをして、士気を下げる必要などどこにもなかった。  皆、わかっていながら、敵を引き離して味方の陣にたどり着くことを、友を送り届けることを信じて戦っているのだから。  この窮地を抜け出る手を考えようとする凪を邪魔するように、再び騎馬の群れが視界に入る。今度は左右、二隊に分かれての攻撃だった。 「くっ。左から相手をする。右側、気をつけろ!」 「はっ」  再び氣を巡らせ、今度は連撃を放つ。最初の一撃は先頭の騎馬を吹き飛ばし、次の氣弾がその後ろの馬を横転させる。その反動で彼女は足をもつれさせ、背後で腰を落とし楯を構えていた兵にぶつかってしまった。 「すまん!」  それだけ言って、左の部隊の様子を窺いつつ、今度は右に備える。やはり、始末する前に散発的に矢が飛んできてしまったが、楯に刺さったので被害はなかった。人数が少ないこちらには一発で済んだものの、再びがくんと反動が彼女を襲い、今度はなんとか踏みとどまる。 「腰に来ているか……」  言ってから、ふと彼女は自分の体よりその現象そのものに注意を移した。はじめて自転車を組み上げ、走らせた時の事が脳裏に蘇る。 「反動……そうか……」  彼女はちらりと漕ぎ手たちの姿を見る。顔中の汗を拭う暇もないほど、彼らは懸命に足を動かし、この荷車を引っ張ってくれている。しかし、それがいつまでも続くわけもない。人を替えたとして、どれほど持続できるものか。一時的にでも敵の騎兵を振り切る必要があった。  試してみよう。そう思った。 「おい、お前達」  五人の兵を選び、声をかける。 「私の体を支えろ。そうだ。うん、お前は腰を持て。それで、ちゃんと座れ。そうだ、荷台に体を固定するんだ」  兵達に楯を置かせ、その代わりに、彼女の体を支えさせる。両脚をもたせ、腰を掴ませ、肩に手を置かせた。兵たちはなにが行われるか理解していなかったが、将軍の言うことならと素直に聞いてくれる。肩を押す二人以外には、姿勢を低くさせて、荷台との密着を高めさせた。 「よし、行くぞ」  ふー、はぁあああああ。  息を吸い、息を吐く。そんな単純で誰もが行う動作の中に、体中の筋肉と氣の働きを同調させていく。  そして、体を巡るうちに何度も何度も加速させた氣を、掲げた両掌に向けて導いてやる。 「破ぁあああっ」  一発、二発、三発……。氣弾が出る度に反動が襲い、それが彼女の体と兵達を通じて荷車に伝わって、速度を瞬間的にはね上げる。 「うわっ」  五発目を撃ったあたりで、漕ぎ手の一人が声を上げた。速度に足がついていかなくなったのかもしれない。 「よし、お前たち、足を離せ!」  驚きの声があがるものの、もう一度命じると兵達は、漕ぎ板から足を離した。その様子を確認した凪は向き直り、氣弾の発射を再開する。 「きちんと……押さえていろよ」  体を支えている兵に命じ、大きく息を吸う。その息を吐くように、氣を体の中から吐き出し続けた。  そして、いつしか、氣弾は途切れなく続きはじめ、一筋の流れへと変ずる。 「龍だ……」  誰かが呟いた。その言葉通り、黄金の龍が、そこに現れていた。  凪の両手から発せられる氣はしばらく先で合流し、黄金色の光を放ちつつ、大きく尾を引く龍と化していた。  その流れ出る氣の強力な反動により、加速され続けた荷車は、ついに騎馬の速度を軽く突破して、車輪ががりがりと悲鳴を上げるほどになった。 「よし……」  体中に疲労が溜まっているのを感じながらも、凪はさらに氣を循環させ、手へと集中させ続ける。その腕の中から生まれ出た龍は、彼女達の乗る荷車を、ひたすらに南へと向かわせた。  余談であるが、この時、黄金の龍を見かけた追撃隊はこぞって後を追おうとしたものの、馬が怯えきってしまい、どうにも身動きがとれなくなってしまった。これにより、右軍の撤退はこれ以後妨害を受けることはなかった。  だが、もちろん、凪達にはそれを知るよしもないのであった。  7.問答  東進の準備が始まって四日。  部隊の引き継ぎを終えた焔耶は、自分の天幕で最後の荷造りをしていた。明日は本陣の仕事で忙殺される予定なので、今日しか機会がなかったのだ。  ぽすぽす、と天幕の入り口にかけた布が押される。誰かが入りたがっているのだろう。彼女は振り向く手間もかけず、応、と短く答えた。 「焔耶、いるー?」  垂れ布をどかして現れたのは、栗色の髪をくくった元気いっぱいな少女の姿。 「なんだ小悪魔娘か」  さすがに荷造りの手を止めて焔耶は振り向く。いたずら好きの蒲公英の前で、目を離すわけにもいかない。しかし、彼女は天敵とも言える少女の顔を見て首をひねった。 「ん? お前、今日はあやつと一緒に韓遂の所へ行くのではなかったか?」 「うん、そうなんだけど、一刀兄様の仕事がおしてて。まあ、黄龍は足早いから大丈夫だと思うよ」 「そうか。で、何用だ。ワタシはお前に構ってやる暇などないぞ。いたずらなどしている場合ではあるまい」  渋い顔でそう言うと、反発が返ってくるかと思ったが、相手の表情は特に変わることがなかった。 「うん、今日はちょっと訊きたいことがあるだけだから。手を動かしながらでいいよ」  ふんと鼻を鳴らし、焔耶は体の向きを変えて荷造りを再開する。さっきまでとは違い、蒲公英も視界に入れつつの動きだ。 「これはいるか……。こっちはいらんな……」  置いていくものを仕分けつつ、ぶつぶつ呟く焔耶。蒲公英はそんな様子をしばらく眺めていたが、ようやくのように口を開いた。彼女にしては珍しくおずおずとした口調だった。 「ねえ、もしかして、焔耶が行くのってさ」  そこまで言ったところで、蒲公英がそれ以上続けるのを遮って、焔耶は鋭く声を発した。 「お前が残るから、などという莫迦な話はするなよ? 小娘」 「……違うの?」  目をまん丸にして驚く蒲公英に肩をすくめて、彼女は分別の手を止める。 「まあ、まるでないとは言わん。お前とは喧嘩をしがちだしな。慣れている蜀の兵はともかく、他の面々にはよい影響があるとは言い難い。だが、それが主ではないぞ」 「じゃあ、なに?」 「桃香様の御為だ」  よどみなく焔耶は答える。主の名を呼ぶその声に尊崇の色がにじみ出るのはいつものこと。だが、今日は特にその色合いが濃かった。 「なぜかはわからんが、あやつから目を離してはいけないように思う。蜀のためにも、な。雛里も行きたがっていたが、さすがに二人で止めた。ワタシが行くのは、個人的な事もあるが、蜀勢の総意でもある」 「そっか」  安心したように頷いて、蒲公英はにやり、と笑み崩れる。にひひひ、といつも通り不吉な笑い声を上げ始めた彼女を見て、焔耶はつい身構えてしまう。 「言っておくけどさー。恋敵多いよー? 魏の人達や一刀兄様の下にいる人達はもちろん、お姉様もなんか怪しいんだよねー」 「ば、莫迦を言うな。なんでそうなる!」 「えー、だって、一刀兄様の側にいたいんでしょー? 個人的にも」  常の事ながら、この少女の解釈には恐れ入る。もちろん呆れる方でだが、それにしても、事実をねじ曲げるのが巧みだ。自分にとって一番面白いように受け取っているのだろう。焔耶は激高する頭の隅でそんなことを考えてもいる。 「曲解するな、莫迦」  言ってからなにかひっかかるものがあり、まじまじと目の前の少女を観察する。  楽しげに目が輝いているのは毎度のことだが、それにしても熱の入りようが違うのではないか? 彼女は蒲公英の細かい動作にそんな違和感を覚え、そこから一つの結論に達した。 「ああ、なんだ。実はお前が……」 「うん。そうだね」  ほんのりと頬を染めて、間髪入れず答える蒲公英。さすがに照れるのか、焔耶に全てを言わせようとしなかった。 「やけに素直だな」 「んー。あんまり隠してもねえ……。さっき言ったように恋敵は多いし、子供はいっぱいいるし」 「ああ、そうだったな。あれでも子持ちだったか、やつは」  桔梗様の御子は可愛いが……。とぶちぶち言う焔耶。 「だからねー。好きっていうか、たんぽぽは好意と興味があるのを否定はしないよ。あんたが一刀兄様のことどう思ってるのかわからないけど、興味はあるでしょ?」 「お前とはだいぶ方向性が違う興味だと思うが?」  その答えに、蒲公英は不満そうに首を傾げた。 「そっかなー。根っこは一緒のような気もするけどなー」 「どこがだ?」  呆れると言うよりは、興味深くなってきた焔耶は蒲公英に訊ねてみる。目の前の少女が、恋愛感情と、政治の話をどう結びつけるのか、そんな意地悪な楽しみがわき上がってきていた。 「だって、一刀兄様が気になるんでしょ? それって別にどんな思惑だろうと、関係なくないかな?」 「そんなことはないだろう。ワタシが用があるのは、あいつの立場や職責だ。お前は個人の……その、なんだ、男としてのあいつではないのか?」 「それって分けられるの?」  その問いかけに反射的に答えようとして、しかし、焔耶は言葉に詰まった。眼前の相手の言うことは、誤魔化しのようでもあり、ごく素直な言葉のようでもある。  果たして、それは分けられるものだったろうか。焔耶が探れる記憶の中に、その解答は存在していなかった。 「全部ひっくるめて一刀兄様でしょ。そりゃあ、どこを重要に見るかってのはあるのかもしれないけどね」 「だ、だから、その重要に見る部分というのがまるで違うわけだから……」  しどろもどろになっているのが焔耶自身よくわかる。しかし、蒲公英はそれを気にした風でもなく、さばさばと笑って続けた。 「まあ、いまはそこ突き詰めてる場合でもないか」  小さく呟く蒲公英に対して、焔耶はなんとか自分にわかる範囲に話を持っていこうとした。 「しかし、あんな弱っちい奴のどこが……。お前だけではない。他の武将達も、だ」  そうして多くの人々が北郷一刀に惹かれる事実こそが、焔耶はじめ蜀の面々にとっては不可解であり、彼を重要と思わせる一つの要因ともなっている。そのことを、思わず動揺した彼女は直截にぶつけてしまっていた。 「そりゃあ、武術ではたんぽぽたちのほうが強いと思うけど……」  でもね、と照れたように笑って、蒲公英は続ける。 「いざという時は助けに来てくれそうなんだよね。一刀兄様って」 「なんだそれは……」  そんなに頼りになりそうな男だったか? と首をひねる焔耶に、蒲公英は楽しそうに笑って言った。 「今回みたいに、さ」  その真名の通り花のようにまぶしい笑顔に、なんだかやりこめられたような気持ちになる焔耶であった。  8.狭霧 「遅くなっちゃったな」  西の空を赤く染め沈み行く太陽を黄龍の背から見やって、一刀は呟く。 「悪いな、蒲公英」 「いーよー、別にー。一刀兄様が忙しいのはしかたないし。韓遂さんもちゃんと話聞いてくれたし」  彼の横を同じように馬を進めている蒲公英がにこにこ笑って行った後で、年相応の幼い表情になって、ぷうと頬を膨らませた。 「あの人、いっつもたんぽぽの事、子供扱いするんだもんなー」 「はは……」  口をとがらせる蒲公英に、一刀は笑うしかない。韓遂は彼の知っている歴史と同じく涼州の軍閥の領袖を長く務めており、翠の母親とも親交が深かった。そのため、馬一族のことはよく知っていて、翠や蒲公英などは生まれた時からのつきあいらしい。子供扱いしていしまうのも無理からぬ事だろう。  そこで、左軍大将である北郷一刀も同行、ということになったのだが、一刀にしてみると、翠や蒲公英をことさらに子供扱いしてみせるというのは、韓遂なりの交渉術なのではないかと思えるのだった。  いずれにせよ、韓遂との交渉により、周辺軍閥からの軍馬の供出は順調に行きそうだった。各部族、各軍閥は降ったとはいえ、人が急激に動いているわけでもなく、いまだ勢力を保った状態の組織もある。その中でも特に有力な韓遂が協力の姿勢を示せば、周囲もそれに同調しようというものだ。  これにより、緋龍隊からの替え馬の引き抜きをさらに増やすことが出来る。  ただ、多少、こちらとしても出費が増えてしまったが……。 「ともかく、うまく行ったことだし、今日は早く帰るとしようか」 「うん!」  明るく頷く蒲公英を引き連れ、一刀は馬の足を速めた。だが、二人の周囲をだんだんと乳白色の色が覆い始める。 「ありゃ、霧だ」 「これは濃いな……」  しばらくは足下を漂っていた霧は、見る間に周囲を圧するようになり、やがて視界の全てが灰色のような乳白色のようなものに覆われてしまった。  ついには、少し離れて歩く同伴者の姿さえ、影絵のように見えてくる始末。  二人は互いに呼びかけあい、馬を近づけ身を乗り出して、額をつきあわせるようにして話を始めた。 「蒲公英、この霧どれくらいで晴れるかな?」 「うーん。夕立みたいなものだから、日が暮れきったら晴れると思う」 「ふむ」  蒲公英はなにか思い出すようにくりくりと視線を動かした。 「えーと、たしか詠が言ってたけど、こういう霧は、温度が変になると出やすいんだって。だから、日が落ちてあたり全部冷えたら消える……のかな? 少なくともたんぽぽたちの経験ではそう」 「そうか。じゃあ、しばらく止まっていた方が良いかな? 下手に動いてはぐれたりしたら大変だ」 「……そうだね。迷うこともないとは思うんだけど、下手に遠回りになるより、その方が良いかも」  草もいいし、食べさせといたらいいよ。と蒲公英は馬を下りる。影閃を突き立て、そこに二頭の馬の手綱を結び合わせた。  一刀も黄龍から下りて、影閃の刺さった場所の近くに座り込んだ。それから横に立つ蒲公英のほうを向き、ぽんぽんと自分の膝を叩いてみせる。 「ほら、蒲公英」 「え?」  何を言っているのかわからない蒲公英はそんな彼の仕草に首を傾げる。 「いや、直に座ると濡れるから。膝の上でもどうかと思って」 「一刀兄様、さらっとすごいこと言うよねー」 「あ、そうか。ごめん、子供扱いしたわけじゃあなくて……」  やや呆れたような言葉に、一刀の方が慌てだす。それにくすりと笑って、蒲公英はするりとその体を彼の膝の上に置いた。だが、男の方は自分から誘っておきながら、目を白黒させていた。 「いや、蒲公英、こっちを向くんじゃなくてだな」  言葉の通り、彼女は体を一刀の方へ向けていた。完全に向かい合ってというのではなく、横座りのような形で、一刀の驚く顔を観察している。 「えー、このほうがいいよー」  言いながら、蒲公英は体を傾けて、彼の胸に体重を預けた。胸についた耳から飛び上がった心臓の音が聞こえるのではないかと、一刀は気が気でない。その一方でふんわりと漂う蒲公英の香りを意識してもいた。甘さの中に、ほんの少し汗の混じった、その香気。 「こうしたりできるしね」 「うー」 「あ、一刀兄様、顔赤い」  妙な呻きをあげる男を見上げ、蒲公英はにひひと笑う。その意地悪な笑みになぜだか落ち着く物を感じつつ、一刀は彼女の体に柔らかく腕を回した。彼女はその動きを意識しているようだったが、なにも言葉にはしなかった。 「そりゃそうだよ。こんなに可愛い女の子にもたれかかられたら」 「可愛い……?」 「うん、可愛いよ?」 「そっか」  お互いになんでもないことのように言って、しかし、その言葉に感じる物があったのか、二人はしばし無言で過ごした。  その間も霧は深まるばかりで、聞こえる音と言えば、二頭の馬が草を食む時のものくらいだ。一刀は、この世界に二人きり取り残されたような、そんな不思議な気持ちを抱く。そして、きっと腕の中の少女も同じように感じているだろうと、奇妙に確信していた。 「ねえ、一刀兄様」 「なんだい、蒲公英」  静かに、二人は話す。声を荒げずとも、あるいは震わせずとも、感情は体の触れている場所から漏れ出ているように思えた。 「一刀兄様は欲張りなんだよね」 「ああ、そうだな」 「みんなを救いたいの?」 「そこまでじゃないよ」  一刀は微笑んで、首を軽く横に振った。人を救うなど、たった一人相手でも――いや、自分自身ですら出来ることではない。彼に出来るのは、ただ力を貸すことくらいで、その力だってほんのわずかなものでしかないのだから。そのことを、一刀は身にしみて理解していた。 「ただ、みんなと一緒に歩いて行きたいんだ」  故に、言葉を選び、出来る限り伝わるように彼は言う。 「明日も明後日も、ずっとずっと先まで」  けれど、その言葉に籠もる真剣さは、まるで損じることはなく。膝の上の少女は息を呑んで聞いていた。 「簡単に言うと、明日も蒲公英と会いたいし、笑いあいたいってことかな」  明日明後日過ぎたらしばらく会えなくなるけど、それはまた別の話な、と一刀は冗談めかして片目をつぶってみせる。だが、栗色の髪の少女は、彼のそんな態度をからかう余裕も無くすほどの驚きに身を震わせていた。  己の名前がそこに出てきたことが、彼女は信じられぬようだった。ただでさえ大きな瞳が、こぼれ落ちんばかりに開かれる。 「……たんぽぽもそこに入ってるの?」 「いやかい?」  男の問いかけに、ぶんぶんと勢いよく彼女の首は振られた。  否定の方向に。 「来年も、十年後も、一緒に歩いて行きたい、そう思ってる」  それに対する答えは、はたして肯定、否定どちらだったか。  大小二つの影は、霧の中、重なり合って一つにしか見えなかった。  9.前夜  五日と日を区切った最後の夜。  一刀の部屋はすっかり整理されていた。仕事の書類などはともかくとして、なるべく足を速めたい気持ちが表れてか彼の個人的な荷物は極端に少ない。寝台脇にまとめられている分以外は全て洛陽へ送る予定だった。  そんな部屋の中で、詠と一刀は明日の出発に向けての最終打ち合わせを行っていた。机の脇に二つ椅子を並べ、二人は話している。 「替え馬はかなりの数を確保できたわ。あとは右軍との調整次第だけど、最後のあたりでは、余計な馬を置いて本隊は先に行き、右軍に回収してもらってもいいかもしれないわ。これは洛陽の返事次第」  地図を前にしての詠の説明に、一刀はところどころで頷きつつ耳を傾けている。彼の見つめる中で、詠の指が地図の上を動いていった。 「兵達にも下達してある通り、金城までは行軍してきた経路をそのまま戻る。その後、黄河沿いに北上。黄河の北端あたりで中央軍の居場所を探索することになるわね」 「右軍との合流は……金城と、あとは北方か。うまく行くといいけど」 「そこは、ボクたちの腕の見せ所ね。それに加えて真桜と沙和、それに、洛陽の面々がなんとか連動してくれることを祈る他ないわ」  地図を睨みつけるようにしながら呟く一刀に、詠は平板な声で言う。うまく行かせる自信がないわけではないが、最高責任者である男に、余計な期待を抱かせるつもりもなかった。希望は必要だが、あまり期待感ばかり膨らませても、後がきつい。 「それと、基本は黄河沿いに行く予定だけど、一部は沙漠を突っ切ることになりそうね。もちろん、黄河沿いの道の様子を確かめつつだけど」 「ふむ。沙漠をか」  一刀は詠の指さす先にある文字に目を細める。しかし、異国の言葉で書かれたその場所の名前は読み取れなかったようだった。 「てんぐりとかとんぐりとかそんな名前で呼ばれている場所よ。もちろん水の確保を考えつつだけどね」  ん、と頷いて一刀は彼女から地図を受け取り、何度か確認するように全体を眺めた。その後で、くるくると丸めてそれを返す。 「このルート……じゃなかった進路は兵たちには?」 「金城までは指示してあるけど、その後はまだ。伝えてもいいし、伝えなくてもいいと思うけどね。帰還ではない、とだけはっきり言ってあるけど」 「そうだな……。華琳達を救いに行くのだと示した方が良いか、それともしばらくは隠したままで行くか……」 「どっちも一長一短ね。部族連合の連中はまだいるだろうし、ボクたちが動いたらそれだけで知れてしまうとは思うけど、わざわざ情報を与えるのもどうかと思うし。ただ、涼州に残る兵に取り残されたと感じさせるのもね……」 「うん」  男はしばし思考に沈む。その間に詠は地図を懐にしまいこみ、疲れを吹き払うようにふるふると頭を振った。翡翠色の髪が揺れ、編み込んだ先が腕にぶつかる。その先が少しほころんでいるのを見て、あ、ほどけてる、と彼女は自らの髪をいじりはじめた。 「なあ、詠」 「ん?」  呼びかけられて顔をあげると、対する表情は存外に真剣だった。重大ではあるが事務的な打ち合わせとはかけ離れたその雰囲気に彼女は内心疑問を持つ。目の前の男は、一体何を言い出すつもりだろう、と。 「一つ頼みがあるんだ」 「うん、言ってみて」  今晩泊まっていけ、という様子ではないわね。彼女はそんなことを思う自分に淡い苦笑を浮かべつつ、彼に先を促す。 「今回、東進を決めて色々と考えたんだ。それで……詠に頼もうと思った」 「うん」 「俺は、この先いくつもの決断をすることになると思う。今回のような大きな出来事も、たぶん……ある。だけど、もし、俺が将来、そんな決断を間違えたなら、一度だけ止めて欲しい。決定的な間違いを、俺が犯す前に」  その言葉に、彼女の表情がすっと硬くなる。一刀はそんな詠をまっすぐに見つめている。 「一度だけ?」 「ああ」  確認するように問いかけ、そして、頷いた男に、彼女は小さく嘆息する。  一度眼鏡に触れて位置を直すようにしてから、彼女はその手を男に差し出した。導かれるようにそれに重なる男の手。  途端、男の視界は回転した。  気づいてみれば、彼に見えるのは目の前に広がる床と、詠の沓。いすの上にあったはずの体は、いまや床にべたりと倒れていた。ただ、右腕だけが強く上にひねりあげられている。そこから走る痛みが体を縛り付けるように響いていた。 「聞いたことがない? 五胡の組み討ち術。翠や蒲公英ならもっと上手だけど、ボクでもこれくらいは出来るのよ」  男の頭上から降る声。  体中を走る痛みに、一刀は声を上げることも出来ない。はねのけようと力を入れる事さえ筋肉と神経が拒否していた。手を押さえられているはずだが、あまりの刺激の強さに痺れてしまったのか、それともそのつかみ方が特殊なのか、どこに力が込められているのかさえもわからない。 「一度だけ止めてくれ? この賈文和さまをよくもそこまで侮辱してくれるわね!」  赫怒の声を、詠は止められない。腹の中で渦巻く激情と、目の前にうずくまる男の姿に、このまま踏んでやろうかという衝動が走るが、さすがにそれはなんとか押さえつける。 「え……い……」 「うわ、この状態で口を利けるの! 感心するわ。まあ、いいわ、離すわよ」  冷たい声で言い放ち、彼の手から指を抜く。すると、男はそのまま立ち上がった。詠も彼の前で腰に手をあてて睨みつけている。 「詠、俺は……」 「いい?」  彼の言葉が続くのを許さず、彼女は彼の眼前に指を突きつける。 「あんたが間違えていたらね、何度でも止めてやるわよ。一度だけ? 一度だけですって? あんた、何様のつもり!?」  鋭く、激しく、彼女は声を発する。己の中でどろどろと渦巻く怒りと悲しみに形を与えてやることで、さらにその切なさは増していく。 「このボクだって過ちは犯すわ。あの稟も、華琳ですらそう。それを言うに事欠いて、一度だけ止めてくれ? あんたの決断はねえ、もうそんな程度のものじゃないのよ!」  男が顔をしかめる。それは先ほど腕を決められていた時とも比較にならない程の衝撃を受けたからだろうか。 「詠……」 「何回でも、何十回でも止めてやるわ。ボクも、月も、ねねも、他のみんなも、あんたが間違っていれば、それを正そうと手を貸す。そんなこともわからずに、全て一人で背負い込んだような顔で一度だけとは言いも言ったりね!」  そう叫ぶ詠の目尻には、涙さえ見えていた。 「すまん。莫迦を言った」 「ええ、本当にね」  興奮を収めるようにすーはーと大きく息をする詠の姿に、一刀はどうしていいのやらわからないように体を縮める。 「ごめん」  その様子を眺めて少しばつが悪くなった彼女は寝台へと歩み寄り、語勢を和らげて彼を手招いた。 「ボクのほうもちょっと頭に血を上らせすぎたわ。こっち来て。変に痛めてないか見てあげるから」 「ああ、すまん」  寝るように指示されてうつぶせになる一刀。沓を脱ぎ捨て、その上にまたがって、彼女は先ほどひねっていた腕を優しく揉み始めた。 「一つ、言っておくけど」  痛むのか、それとも気持ちいいのか、たまに呻きをあげる男の体をゆっくり慎重に揉みほぐしながら、彼女は生徒に指導するような口調で言った。 「さっきも言ったとおり、あんたが間違った道を選びそうになったら、それを修正するべく手を貸すつもりはあるわ。何度だってね。でもね。同じ間違いを何回も止める義理はない。それだけは覚えておいて」 「ああ……肝に銘じておくよ」  しばらくの間は、ゆっくりと探るように彼の背中を揉む時間が過ぎる。すでに彼女は、彼の体中を揉んでやろうと決めていた。詠も一刀に揉みほぐしてもらったことが何度もあるし、少しはお返ししてもいいだろう。 「詠」 「なに?」 「やっぱり、兵にも華琳の事伝えようと思う。敵に伝わるにしても時間はかかるだろう。それに、敵がそれで攻めてくるのを諦めてくれればその方が良いしな」  くぐもった声で言うのに、指の動きは止めずに彼女は考える。 「まあ、そんなことはないと思うけど。そうね、あんたが決めたならそれでいいわ。涼州に残る兵たちの士気も保てるし、東進部隊はより気合いが入って、速度を上げられるでしょうからね」  腕に力を込め、男の体幹を押す。彼女の額には汗がにじみ出ていた。 「隠しておくほうが大変なのよね。もちろん、知らせることでの不利益もあるんだけど……。うん、それもちゃんと考えてみるわ」 「ありがとう……」  気持ちよさそうな声。詠は満足とともにそう感じた。  その後も揉んでいることへの感謝なのか、それ以外のものも混じっているのか、彼は何度も何度もありがとうと呟いていた。さすがにそうなると少々照れてしまい、詠は顔を赤くしながら、彼の背を押していた。  しばらくの後。 「ん……?」  すーすーと息の音が聞こえてきて、彼女は彼の顔を覗き込んだ。 「なんだ寝ちゃったの」  横を向くようにして、彼は夢の世界へ旅立っていた。その無防備な表情に、彼女はいたずらっぽく微笑む。 「ここんところあんたもボクもちょっと忙しすぎたしね」  寝台を下り、彼の体に何枚か布をかけてから、彼女は部屋の中の火の始末をして回る。そうして、んー、と一つ伸びをして、詠は部屋を出て行った。 「ボクも早く寝ておこうっと」  かわいらしいあくびと一緒にそんなことを漏らしながら。  10.夜陰  北郷一刀は夢を見ていた。  夢を見ていることを自分でも意識できている、そんな夢だ。  その中で、自分が抱いている相手の熱を、彼は感じていた。それは、昨晩の光景の繰り返し。腕の中にいるのは、昨日、処女をくれた蒲公英だった。  少し急ぎすぎたかな、という思いがないとは言えなかった。出会った頃の季衣や流琉などよりは大人びているとはいえ蒲公英は妹とも思えるような少女だったし、無邪気さと子供っぽい意地悪さの混じり合った彼女に触れることで、決定的に変えてしまうのではないかという恐れはたしかにあったからだ。  だが、二人とも――そう、蒲公英も彼も――このまま、別れてしまうのは承諾できなかった。  男は千里の果てに旅立ち、女はこの地に残る。  共に死ぬつもりなど毛頭無かったが、それが許されないのが戦というものだとも承知している二人であった。  だから、蒲公英も積極的に答えてくれた。あるいは、そこには彼女の強い好奇心も作用していたのかも知れないが、それでも肌をさらし、身を預けることを覚悟する相手に、自分を選んでくれたことが一刀には嬉しくてたまらなかった。  だから、彼は彼女を思うさま貪った。  自分が帰ってくるまで消えないような――ありえないけれど、そうあってほしい――跡を残したいと思いながら、彼は彼女を貫き、突き上げたのだ。  その快感が、じわじわと体に染み渡る。腰のあたりが熱くなり、ずうんと重くなっていく。  一刀はそれを感じて焦りを覚えた。なにしろこれは夢だ。夢だとわかっているのに動きは止められず、溢れる快楽も収まる気配がない。  これはまずい。この感覚は、現実に繋がっているのではないか?  そんな恐怖が走った途端、彼は解き放たれる快楽と共に目を覚ました。 「あ……?」  意識が明晰になる。薄明かりの中、ぼんやりと見えるのは既に見慣れた天井。そして、股間には信じられないほどの熱。  まだ続いている射精が、けっして夢ではない、なにかあたたかな物に包まれながら行われるのを感じ取り、一刀は愕然と下を向いた。  そこにあるのは、栗色の小さな頭。必死で彼のものをくわえている少女の顔は驚きと苦しさに彩られている。その喉がたしかに、こくり、と何かを飲み込むように動いた。 「うぇー、濃いぃ」  一刀の精液を飲み干したのか、彼女は彼のものから口を離す。それでも硬度を失わないものには彼女の細い指が回されていた。 「苦いのはまだしも、濃いのはきついなあ。昨日はこんなに濃くなかったよ?」  少し怒ったように上目遣いで問いかけられ、眠気が完全に吹っ飛んだ一刀は思わず彼女の名を呼ぶ。 「たん、ぽぽ?」 「うん、たんぽぽ」  それから、彼女は一刀のものをこすりあげながら、にかっと笑った。 「夜這いにきちゃいましたー。へへー」 「きちゃいましたーって、昨日の今日じゃないか」  呆れたように言いつつ、彼は彼女が、自分が贈った白と黒のゴスロリ服を身につけているのに気づく。昨日は普段の服装だったから、今日はわざわざ着替えて来たというところだろう。しかも、普段はまとめている髪も解いていた。  彼は思わずその長く伸びた髪に手を伸ばし、指でくしけずる。その指の動きに気持ちよさそうに目を細めながら、蒲公英は囁き声で彼に話しかける。 「だって……たんぽぽだけ一晩だけなんてずるいよ」 「いや、それは……まあ」  そう言われると、一刀としても弱い。  こういう関係になってから日が浅いのだからとかなんとでも言い様はあったが、眠っているところを口でされて絶頂まで迎えておいて、帰れというのも非道に過ぎるだろう。 「それに、昨日ははじめてで、余裕無かったし。一刀兄様の体のこと、色々興味有るんだよねー」  にしし、と笑う蒲公英。その様子を見て、ああ、かわいいな、と思ってしまう一刀は、もう彼女に夢中でいる自分に気づき、心の中で降参と諸手を掲げるのだった。 「どこか、しがみつきたいの?」  服を脱がさないまま、蒲公英を抱き上げて突き上げている一刀は不意に訊ねた。彼女は胡座をかいた彼の上で跳ねていたが、その間、ずっと彼の腕や肩、腹や顔に指を這わせていたのだ。 「ん、あふ、ちが、違うよっ」  その指の動き自体は心地いいもので、止めて欲しいとは思わなかった。だが、体が定まらなくて不安ならば、体位を変えて固定してやろうと思っていた一刀は、彼女の否定に軽い驚きを覚えた。 「あのね、こうしてね。ああああっ」 「こうして?」  喘ぎに途切れた答えを促す一刀は、その間も彼女に快楽を送り込むのを止めない。それに翻弄されながら、なんとか蒲公英は言葉を紡ぐ。 「こうして全部さわって、それで覚えて」 「覚える?」 「うん。一刀兄様の指も、腕も、肩も、顎も頬も額も目も鼻も唇も髪も眉もまつげも首筋も全部全部覚えて……ふわっ」  熱を込めて彼女は言う。  彼の全てを覚えておきたいと。  忘れぬよう刻んでおくのだと。 「かずとにいさまを、たんぽぽの中に住まわせるの」  喘ぎに紛れるためか、舌足らずになる言葉。 「嬉しいな」  一刀は笑みを深くすると、彼女の唇に軽く己のそれを重ねて、彼女の間近でゆっくりと呟き、同時に彼女の中を深くえぐった。ひときわ大きく跳ねる体と嬌声。 「じゃあ、全部覚えさせてあげるよ。絶対に忘れられないように。蒲公英の体全体に」 「うん、そうして……」  吐息のようなその声は蜜のようにとろけて、砂糖菓子よりも甘く感じられた。  11.戦 「さて、我が君たちは去られてしまいましたわね」  無数の騎馬が立てる砂塵もはるか彼方に消えた頃。それでも南方を見つめ続けながら麗羽は呟いた。  あたりにいるのは、同じように南に消え去った騎馬の影を追い続ける将軍たち。そして、その足下で鼻を鳴らす、セキトと張々。  一刀たちが駆け出す前には歩兵達も並んで彼の号令を受けていたのだが、その兵達は、涼州を確保し騎兵軍の帰還を待つという新たな戦いに向かうため、各々の陣に帰されていた。  それでも彼女達が残っているのは、それぞれに複雑な心情をその胸に宿していたからであったろう。  ふと、麗羽はその黄金の髪をまるで翼のように振り立て、背後を向いた。きらきらと輝く鎧に身を包み、袁家の宝刀を掲げる袁家の主の姿はあまりに派手派手しいが、今更誰もそんなことには驚かない。  しかし、その顔に浮かぶ凄艶とも言えるほどの笑みには、度肝を抜かれた人間が何人かいた。 「皆さん!」  その笑みを刻んだまま、彼女は宣言する。 「これよりこの地で袁家の戦を始めますわよ!」 「でも、麗羽様。袁家の戦って一体……?」  まさか、全員並べて進軍だなんて言わないかと、斗詩ははらはらしている。なにしろ、あの一大決戦の官渡でさえ、『華麗』に戦えと命じた麗羽だ。 「ふふん」  側近の心配げな様子を笑い飛ばし、麗羽は宝刀をゆるやかに振った。あれでは人は斬れないだろう、誰もがそう思った。 「よろしいこと? 我が袁家の戦は、日々進歩しておりますのよ」 「進歩ぉ?」  うさんくさげに言う蒲公英。一度でも袁家の戦を見たことがあるなら、その心情もわかろうというものだ。 「華麗に! 優雅に! そして、豪快かつ堅実に!」 「け、堅実。麗羽様が堅実って!」  猪々子が驚天動地の出来事が起きたように大騒ぎする。だが、それに構わず、麗羽は残る祭や星、雛里たちに微笑みかけた。 「まずは我らが居城を作り上げましょう」  彼女はさも当然のことのようにそう言うのだった。  四世三公の戦が、北辺の大地でいま始まろうとしていた。      (玄朝秘史 第三部第十二回 終/第十三回に続く) ◆注  作中での距離の『里』はほぼどれも正確なものではなく、概算を示していますが、一里については420メートル程度とお考え下さい。  ただし、一里500メートルでもそう問題は起きないので、400ないし500とお考えになってもよろしいかと。 北郷朝五十皇家列伝 ○王馬家の項抜粋 『王馬家は後漢後期に名高き将馬騰の娘たる馬超にはじまる皇家であり、央三王の一つ、西涼王を代々受け継いできた皇家である。  西涼は南蛮成立前に国家としての体裁を備えていた国であり、魏、呉、蜀、南蛮に次いで成立年代が早い。この中で、南蛮の成立をいつとするかは非常に難しく、学説も対立しており……(中略)……  さて、王馬家の祖、馬超は、いわゆる北郷六龍騎の一人としても名高く、特に張遼と並んで主導したと言われる上天(テングリ)大返しは馬超の見せ場としてよく取り上げられ、講談や芝居でも好んで演じられる名場面である。  さて、それらの物語は、上天沙漠を横断する太祖太帝の一行が水の補給に困るという出だしで始まる。そこで、絶影に乗った張遼と麒麟を駆る馬超が、沙漠のただ中でオアシスをどちらが先に見つけるかで勝負になる、と言うのがおきまりである。だが、沙漠の中で道も知らずに水を求めるのはもちろん無謀だ。案の定二人とも見つけることが出来ないでいると、奇妙な鳥が舞い降り、それを追った馬超が見事にオアシスを見つけ、無事に上天横断を果たす、という筋になる。  また、このオアシスを教えるように降りてきた鳥は瑞祥である鳳凰であり、これをして太祖太帝はこの戦の勝利を確信し、馬超を殊にたたえ、負けた張遼も素直に馬超を称賛して度量を示す、という部分まで含めて一場面としている場合も多い。  この物語は、ある程度史実を伝えている、というのが巷間での評価であるが、実はこのようなことはありえなかった、というのが学問的には大勢を占める。  それというのも、そもそも『上天大返し』そのものが、一般に思われているように上天沙漠を横断するという、地図上での――一種空想的な――最短ルートではなく、水と食糧の補給を受けられる、実質的な最短ルートをたどったであろうと言われているからである。  いくつか説はあるが、太祖太帝がたどったと言われてきた、あるいは考えられるルートは三つある。まずは伝説や物語においては事実と語られている上天沙漠横断ルート、二つ目は黄河が北方へ屈曲するのに沿って北上したとする黄河屈曲ルート、最後に武威から東南に進み、一部は上天沙漠を通るものの早い内に黄河流域に達する折衷ルートである。この中で、発掘された竹簡などの当時の史料を見ても、後者の黄河をたどる道のどちらであるかを確定することは難しい。しかし、前者の横断ルートではないことは確実である。この説は、後、講談などが多く出てきた数百年後に確立するもので……(後略)』 ☆七割くらいしか信憑性のない☆次回予告  ――南飾るは姉妹の涙。 「蓮華、よく聞きなさい」  毒を受けるは孫家の業か。 「この呉の領内にも、孫家の敵はまだまだたくさんいるのよ。その敵を、私は切り捨ててきた。でもね、あなたはそうしちゃだめ。逆に丸呑みにしてしまいなさい」  次につなぐがあるは楽しや。  明日の王のあるこそ嬉しや。 「姉様、姉様ーーーーーーっ」  喉もかれよと叫びしも、届かぬ声のなんと悲しや。  ――北に溢るる忠義の志。 「以前、兄様に聞いたことがあります。かつて兄様のご先祖が考案した、凄絶な戦法のことを」  天の伝えた殿(しんがり)作法。 「その戦法を、捨て奸」  主守って死ぬるは誉れ。  女悪来仁王立ち。  ――西より来るは疾風の。 「駆けよ、駆けよ。今日の一里が明日の千里と思え!」 「飯は走りながら食らえ! 眠るならば、手綱を持って眠れ!」  将兵一丸、鬼神となってまかり通る。 「いま、曹丞相を失うは、漢土を失うと同じ。みな、苦しいのはわかるが耐えてくれ!」  北郷一刀の言葉を鞭にして。  次回、玄朝秘史 第三部第十三回――大返し