玄朝秘史  第三部 第十一回  1.治水  土を掘り起こし、台車に乗せる。台車はその上に土がある程度溜まれば、運搬の役を担う同僚が持ち去る。そして、しばらく行った先に作られている堤に加えられ、突き固められることになるだろう。  紐で四角に区切られた場所を、指定された深さまで土を掘る。掘りきったら、次へ。土を掘り出す場所は広く、それに従事している同僚は数多い。しかし、それでも仕事はいつまでたっても終わりそうになかった。肌の上を流れる汗を感じながら、彼は汗を拭うこともなく、体を動かし続ける。  その日何百回目か、土に鍬を突き立てながら、彼は背後に人が通る気配を感じ取った。  ちら、とそちらを見やって、かがめていた腰を伸ばす。魏軍の鎧をつけた人物に向き直り、声をかけた。 「そろそろ休みを取ってもよいのではないか?」  後ろを通り過ぎようとしていた将校は、わざとらしい様子で彼の方へ向き直ると、厭味のない笑みを見せた。 「そうですね。皆さーん、しばらく休憩としまーす!」  同時に将校の部下たちが合図の銅鑼を打ち鳴らす。作業に従事していた人々は揃って腰を下ろし、体の汗を袖で拭ったりしはじめる。 「少し話をよいか」 「ええ、もちろんですとも」  彼自身が今朝掘り出した大きめの石に腰掛けつつ、横に立ったままの将校に訊ねると、態度だけは慇懃に返された。たしかに位だけで見れば、この将校より彼の方が上だ。ただし、所属する勢力が異なってはいるが。その丁重な態度に、彼はふんと鼻を鳴らしてみせる。  この男が、彼と話をしたがっていることはわかっているのだ。元の地位が最も高い彼と話すことで、同輩達の様子を窺っておきたいのだろうことも。 「この堤が出来たら、次はどこにやられる? 不安に思っとる者がおる」 「そもそもここが出来ていないじゃありませんか」  彼は堤の方向へ目をやる。たしかに今年の晩春からとりかかった堤はまだ完成していない。以前からあった堤につなげるまでもう少しという所だが、一日二日でできあがるものでもない。 「まず、冬までにここを形にする。それが私の命じられたことの第一ですよ」 「ふん」  にこにこと笑いながら、将校は続ける。この男とのつきあいは、宮廷を追放されてすぐの時期からだから、一年以上になる。しかし、彼は男の穏やかな表情以外見たことがなかった。  それはそうだろう。この将校をはじめとした監督官たちは、彼ら――彼と同じ境遇の同輩達に対して、威厳を見せたり、恫喝する必要などありはしない。  そんなことをせずとも、一言言えばいい。 『ご不満ならば、洛陽にお送りしましょうか?』  と。  その洛陽から残らず追放された、宦官たちへ向けて。  もちろん、都に戻れるわけがない。  そこには、曹孟徳がいる、袁公路がいる、袁本初がいる。そして、彼にとってはさらに恐ろしいことに――名を隠していることは重々承知だが――董仲穎すらいるのだ。彼自身が直になんらかの害を董卓陣営に及ぼしたことこそないが、間接的な影響という意味では様々に関わりがある。けしてあちらの印象が良いとは思えなかった。  たとえ、それが押しつけられた重労働であろうとも、形式上は漢朝――の丞相である魏の覇王曹孟徳――から命じられた任を放り投げ都に帰って、無事で済むわけがない。名だたる面々が直に手を下さずとも、それに取り入ろうとする愚物がなんらかの策動を起こさないとは限らないのだ。  他の宦官たちも似たりよったりだ。出世していた連中の中には明らかな恨みを買っている者もいるし、下級の者は戻っても生活の当てがない。宦官というだけでさんざん蔑視を受けていたというのに、宮廷権力からも切り離されたいまとなっては、親族を頼ったとしても厄介者扱いされることは間違いない。  結局、彼らはここで土を運び、地面を掘って暮らしていくしかないのだ。慣れない作業に血豆をつくっては潰しながら。  いずれにせよ、この堤を作り上げる冬までは生きていける。 「うまくはなくとも食べられるものが出るだけましというものか……」  実際、体を維持するのに十分な食物は出てくる。美食に浸っていた高級宦官たちなどは、へたをすると都にいた頃より健康な食事を摂ることになる始末だ。曹魏は我らを生かさず殺さずいきたいのであろう、とは彼ならずとも皆が予想していることだ。 「え?」 「いや、なんでもない」  彼の疲れたような呟きを聞き取れなかった将校が顔を覗き込んでくるが、うっとうしげに手を振ってそれをやりすごす。  その振る手も、去年と比べればずいぶんと太くなった。昔のようだな、と彼は思う。  実際の所、この十年ほどは体も鈍りきっていた。だが、下級宦官であった頃は宮殿の補修など、いまと同じような労働を毎日繰り返していたのだ。さすがにその頃からすれば老いてしまったが。 「それで?」 「なんでしょう?」 「この堤を冬までに作り上げる。それはいい。だが、その後はどうする。さすがに冬にまでこれと同じ事を続けろとは言うまいな。死ぬほどの労働となれば、抵抗も出るぞ」  いまはまだなんとか外での作業もできるが、冬のさなかに戸外での土運びを強要されれば体をこわす者も出てくる。あまりにもひどい環境では、どうせ死ぬのならばと捨て鉢になる者が出ないとも限らない。  それを押さえるのまでは、彼の職務に入っているとはとても思えなかった。そして、この将校にそれを期待されても困る、とも思っていた。 「そんなことは命じられていませんよ。去年もなかったじゃありませんか」 「ふん。宮廷から追い出され、体力作りを名目に、兵と同じ訓練を受けさせられていた頃ではないか」  去年の冬のことは、思い出したくもない。長安の練兵場で延々と走り込みをさせられるなど、こうしていま土を掘っているほうがましと思えるほどのきつさだった。実際、高齢の宦官は参ってしまい、訓練中に何日か寝込んだ者もいる。それでも病死以外では死人が出ていないのだから、魏軍の教練というのも大した物だ。 「今年から、冬は堤が崩れることでもなければ、基本的に室内での仕事です」 「どうせ、それもひどい仕事だろう」  屋内仕事と聞いてほっとしつつ、真剣な声で探ってみる。魏としてみれば、追放した宦官は邪魔な存在でしかない。どこかで『処分』されるのではないかという不安は、彼を含めた宦官達に共通していた。 「そうでもないですよ。機織りですし。座っていられますから」 「……ふうむ」  予想よりはましな答えに、彼はとりあえずそう答えてしのぐ。将校はそんな様子に構わず懐から竹簡を取り出して、確認を始めた。 「それから、春は河が暴れる季節なので大変ですが、これの対処は近辺の民への賦役でまかなう予定のようです。もちろん、手に余るようならあなたがたにも回ってくるはずですが……」 「ん? では、平常の時は?」 「あー、あったあった。ええと、植樹です」  探していた文面があったらしい。将校は該当箇所を読んで、彼にそう告げた。 「なんだと?」 「木を植えるんです。もう少し上流から、古い堤のあたりまでをまずは予定しているようですね」 「木を……」 「根っこが伸びたら、地面が崩れるのを防いでくれるんだそうですよ」  将校の説明によれば、桑や棗などを植えていくらしい。養蚕や果樹としての利用を見込んでのことだろう。根で土を固め、河が氾濫するのを防ぎ、同時に周囲の産業を作ろうという目論見だ。さらに、育てた蚕から取った糸は冬の間、彼らの手によって紡がれる。 「あの軍師どもめ……。さすがだな」  魏の三軍師と言えば、彼も会ったことがある。小娘ながら、喰えない相手と思っていたが、政敵であった自分たちを追放し、なおかつそれをしっかりと労働力として使っていく姿勢は感銘さえ抱かせた。 「ふっ、く、くくくくく」  なぜか腹の底からこみあげてくるものがあった。彼がそれを止めることなく吐き出した時、それは笑いに変じた。 「この張譲が、世の権勢を極めた男が、土を盛り、木を植え、機を織るか! いや、愉快、愉快」  自棄な気持ちが無かったとは言わない。しかし、彼は半ば本気でおもしろがっていた。昔ならば、筆をとるまでもなく一言言えば成されたであろう事業を、自分たちの労働が築き上げていく。まるで想像できなかった事態にある自分自身に、彼は嘲りではなく、なにか不思議なおもしろみを感じていた。  目を丸くして驚く将校の顔を見て、ようやくこの男の表情を変えることが出来たな、と張譲は思うのだった。 「長生きはしてみるものだ」  そう呟き、彼はもう一声吼えるように笑った。  2.継承  さて、宦官が追放された宮廷はどうなっているのか。  それは、洛陽の城中の一角に象徴的に見ることが出来た。  纏う衣は華やかならずとも、その所作はあでやかに。いくつもの結い上げられた頭が、さわさわと小さく囁きあいながら、庭を埋め尽くす。まるで花開くかのような、その姿。  そこには百に届くほどの女官達の姿があった。  そして、その女性達を前にするのは、こちらは世にも珍しいふわふわとした『めいど』服に身を包んだ女性と、雅やかな着物にその豊艶な肉体――特に大きな胸――を押し込み、巨大な肩当てをつけた女性の二人組。月と桔梗だ。 「今日は、みなさんの武芸の講義に、蜀の武将、厳顔さんを特別に講師としてお呼びしました」  月が小さい体で精一杯声を張り上げてそう宣言すると、周囲の女官達は顔を見合わせる。ざわめきを月が注意しようとする前に、一つ手が挙がった。 「はい、なんでしょう?」 「あの、孫先生と董先生のいつもの護身術ではいけないのでしょうか?」  孫先生というのは小蓮のことだ。彼女は月と共に女官達に武芸の一端を教え込んでいた。もちろん、彼女達は兵士ではないから、己の身を守り、宮廷の重要な文物を守る程度の訓練でしかないが。  月が図などを用いて理論的に説明し、シャオがそれを実践してみせる、という訓練法は女官達にはわかりやすいと評判であった。そもそも基礎訓練が主であったから、体を動かすのに慣れていない者たちにも十分ついていけた。そこにいきなり武将としても名高い桔梗の教練となれば怖じ気づく者が出るのも当たり前だろう。 「いえ、もちろん、あれでもよいのですが、私たちは背が低いので……。皆さんの中には体の大きい方もいらっしゃいますし、それを効率的に使うには……」  月が真剣な顔で説明する横で、桔梗はふてぶてしい笑みを浮かべながら、ただ無言で見守っている。  そんな二人の様子を、さらに高みから見物している人影があった。  首をひねると、ぴょこりと頭の上でとんがったものが動く。独特の形をした猫耳頭巾を被るのは、大陸に名高き魏の筆頭軍師、荀ケこと桂花に他ならない。 「女官たちを本物の武に晒してみせる、か。あれもなかなか面白いことを考える」  すっと音もなく彼女の横に立ち、大きく開いた張り出し窓から同じように中庭を見下ろすのは洛陽の守将、夏侯淵。 「あら、つわりはもういいの?」 「ましになった、程度だがな」  淡く笑みを浮かべつつ、秋蘭は己の腹をなでてみせる。まだ膨らみは目立たないが、いずれ政務にも差し障りが出始めるだろう。懐妊はともかくもう少し時期を考えて欲しいものだ、と桂花は脳内の一刀に蹴りかかる。 「あそこにいるのは三次募集の面々か?」 「ええ、あれらが一人前になってくれたら、ようやく宦官の抜けた穴はふさがるわね」  もちろん、月が教えているのは宦官が追放された後に内廷に職を得た女官達のうちの一部に過ぎない。下級の女官達は月や小蓮などと接触することもなく、すでに各所で仕事をたたき込まれているだろう。しかし、ある程度以上の地位の者は、やはりそれなりの者が体系的に教育を施してやる必要があった。 「それでも追放した宦官の数より、雇った数のほうが少ないし、彼女達にはせいぜいがんばって貰わないといけないけどね」 「外朝内廷のうち、外はわれら魏がほとんど肩代わりしているのだ。それくらいはしてもらわねばな」  桔梗の弓の腕を見せつけられて、きゃーきゃーと騒ぐ女官達の歓声がうるさかったのか、桂花は窓を閉める。秋蘭もそれに否やは唱えず、二人して室内へと戻った。 「しかし、宦官追放か……」  差し向かいで座りながら、秋蘭は何とも言えない表情を浮かべる。苦笑のような感心したようなそれは、対面している桂花の顔を鏡に映したようだった。 「まあ、私たちの常識じゃあ出来なかった事ね。いくらなんでも宦官全部放逐するなんて、想像も出来なかったわよ」 「宦官の害自体は認識していても、宦官のいない宮廷など考えることはできなかったからな。益もあったのだろうかな?」  その言葉に、桂花は少し考えるようにうつむいた。 「どうかしら。皇帝としては、信用できるのが宦官だけっていう状況は、代によってはあったと思うけど。でも……それよりは、慣習でしょうね。私たちや、父母、祖父母、曾祖父母、そのさらに昔から存在したんですもの」 「それを我らの兵の力あったからとはいえ、あっさりと全て追い出してしまう、か」  卓の上の水差しを引き寄せながら秋蘭はどこか遠くを見るような表情になった。 「ある意味で、袁術達も規格外なのかもしれないな」 「も?」 「我らの側には、とびきりの規格外がいるではないか。天の御遣いという、な」  その名を呼んだ時、すっと手が下がり、無意識だろうか、己の腹をなでているのを桂花は目にとめた。なにか言おうとして、しかし、彼女はそのまま口をつぐんだ。 「しかも、その下には華雄と呂布までいるぞ?」 「どれもぶっとびすぎて、扱いづらいわよ。まあ、華琳様の部下というわけじゃないし」  形式的には、魏の丞相たる華琳は、皇帝その人はともかく、この国に存在する官吏の全てを部下とするが、桂花や秋蘭にとって華琳の部下と言えば、覇王に近しく、その意思決定の過程に関与できる魏の重臣たち以外にない。 「あいつが扱えるんならそれでいいんでしょうけどね」 「詠や音々音もいる。大丈夫だろう」  秋蘭は表情を緩めてそう言った。彼女の言うことは桂花も理解できる。しかし、彼女としては不安要素もないではないのだ。 「あれらもわからないのよねー」  桂花はこんこんと指で卓を叩きつつ、そう言う。現状、北郷一刀の下には様々な人材が集まっているが、それが同じ方向を向いているとは、彼女にはとても思えないのだった。 「まあ、袁家のおつきの連中は単純だからね。ご当主様たちがあの莫迦に惚れ込んでる間はなんの文句もないでしょうよ」 「元の同輩だろう?」  くっくと面白そうに笑いを漏らす秋蘭を無視して、桂花は言葉を続ける。 「江東組も、そういう意味ではわかりやすいわね。あれらは気が向かなくなったら去るだけだろうから、害はない」 「たしかにな。祭殿はともかく、名を捨てた二人は面白いことでもなければ、去ってしまうだろう。……ま、彼女達なりに面白いと思えるものを見つけてはいると思うが」  これには頷くだけで返して、さらに桂花は話を進める。 「わからないのは軍師組」 「詠と音々音か」 「賈文和と陳公台は、果たしてあいつをどう思っているのか」  桂花は探るような目で秋蘭を覗き込んだ。その瞳の光を受けて、弓将はその顔の笑みを一瞬崩しかける。 「どちらも悪感情はないと思うぞ? なにより、詠は……いや、音々音もそうなのだろうか?」 「軍師たる者が、いざという時、そんな個人的感情を優先させると思う?」 「さて。私は軍師というと、個人的にとんでもない人間しか知らぬでな」 「まあ、うちもたいがいだけど……」  秋蘭のからかうような声音に、桂花は一つ肩をすくめてやりすごす。ここで口げんかを始めてもしかたない。 「音々音はともかく、詠は存外に冷酷よ?」 「そうか?」 「そうよ。なにしろあれは、主の安全のためなら、主自身の意思さえ封殺して事を進めるだけの覚悟がある。劉備軍に落ち延びてめいどになることにしたってそう。まあ、意外に性に合ってたようなんだけど、それは結果論に過ぎないでしょう?」  ちら、と彼女は窓の外に視線をやる。秋蘭もつられて外を見た。月自身の姿が見える訳でもないが、外にいるのは確かだ。秋蘭はなにか悟ったような顔つきになった。 「こればかりは私たちには出来ない事よ?」 「む……」  魏軍の人間は、なにがあろうと華琳の意思を無視できない。無視してはいけない。  たとえ間違っているように見えても、それが覇王の誇りであり、一人の女性の望みであるのならば、それに殉じるのが自分たちだ。  他の忠誠のありようがあることも知っている。けれども、その道を取ることは望まない。それが魏だ。  だが、詠は違う、と彼女は言っているのだ。 「いま、彼女が望むのは、主の平穏。それを託すため、詠はあいつに従っている。ねねもそうね。あれの場合、呂布という稀代の英傑を輝かせることの方を望むでしょうけれど」  いまのところ、どちらの希望にもかなっている状況と言っていいだろう。月は宮廷で後進を育てる穏やかな仕事に就き、恋は北伐の最前線で兵を率いている。どちらも望み通りだ。 「もちろん、利害と感情、どちらもうまく行っている間はいい。詠は月のため、ねねは恋のため、働いてくれるでしょう。だけど、いざそれらが食い違った時……」  桂花は大きく手を広げ、肩をすくめてみせた。わからない、という言葉を何度も口にしたくはなかったため、仕草で示して見せたのだ。 「魏の筆頭軍師様でも読めないか」  からかっているのでもない様子の秋蘭に、桂花は大きく鼻を鳴らした。 「いくら私でも、本人たちがわかっていないものまで、読み切れないわよ」  3.教育 「お疲れっ!」  講義が終わった後も色々と話しかけてくる女官達の群れからようやく解放されたところで、月は背後から聞こえる声に振り返った。満面の笑みの小蓮につられて彼女も笑みを浮かべる。  小蓮はそのまま月に並ぶと歩き始めた。 「他人にものを教えるって大変だね。シャオはいつもお手伝いだけだけどさー」  頭の後ろで腕を組んで横を歩く小蓮の顔を見上げるようにしながら、月はぽつりぽつりと答える。 「うん……。私もこんなに大変だとは思いませんでした。四書五経を読む程度なら経験もあったんですけど……。相手が大人数ですし、これまでのやり方ではなかなか……」  基本、この時代の教育というのは、師と弟子が同じ書物を読んでいくことで成される。思想書や兵法書などを読み進めていく中で、弟子は文章の読み取り方、解釈の仕方や、考え方の基本を師から学びとっていく。そして、同じ調子で様々な古典の知識を次々と伝授されるのだ。たいていの者はそこで終わるが、才に恵まれた者はさらに多くの書物を読んで新解釈を生み出したり、自ら書を書き出したりする。  かように教育というのは少人数を相手にするもので、大人数相手を想定した教育方法というものは編み出されていなかった。複数相手となれば、せいぜいが子供相手の基本的な読み書き程度の話だ。  そんな状況で、月は百人になんなんとする人間に武芸を教えたり、宮廷での礼式作法を教えたりしている。手探りばかりでうまく行かないことがあるのも当たり前であった。 「ご主人様の世界みたいにはなかなか行きませんね……」 「んー? 一刀の?」 「ええ、ご主人様の元いた国では、六歳から九年間は必ず集団教育を受けることになっていたんだそうです。実際にはさらに三年行く人や、七年行く人もいたとか。こちらは義務ではないそうなんですが……」  月は、一刀から聞いたことを思い出し思い出し続ける。学問関係のことは何度も聞いたから多少年数などは混じってしまっているかもしれないが、長い期間集団教育を受けるというのは間違いないはずだ。 「九年と七年? 十六年もみんなで?」 「はい、三十人から四十人程度が集まるのが普通らしいです」 「はー……」  小蓮は驚きを通り越したのか、呆れたような顔で息のような声のようなものを吐く。 「しかも、参加するのは豪族の子弟や富裕な家の子供達ばかりではないんだそうです」 「へ?」 「どんな仕事に就いている家でも……。それに、離島や山奥でさえ、そういう施設が作られているそうで……」  かくん、と小蓮の顎が落ちる。その表情を見て、自分も初めて聞いたときは驚いたものだがこんな顔をしていたのだろうか、と心配になる月。ともあれ驚愕に足を止めた孫呉の姫を待って、彼女もそこで止まる。 「天って……すごいね……」  ようやくのように言う小蓮に笑いかけ、再び天宝舎に向けて歩き出した。  たしかにこの世界の常識では計れないのが一刀の故郷だ。彼女自身、色々と話を聞いていて、この人は真顔で嘘が吐ける人なのだろうかなどと、今にして思えば失礼な考えを抱いてしまったこともあるほどだ。  きっと、あの話なんて聞いたら、小蓮は仰天するだろうなと考え、月は少しおかしくなる。  それは、月と詠がまだ呉にいた頃に、一刀から聞いた話。たしか、一刀の国の王はどんな王だったのか、と詠が訊いたのがきっかけだったはずだ。 「ん……。政治には関与していないよ」  その言葉に、詠と月はなんとも収まりの悪い気分を覚えたものだ。 「……政をほっぽりだしてるわけ?」  少々きつい口調で詠が言うと、一刀は手を振って笑った。 「そうじゃない。憲法……法律の一番強い大元のやつで、政治への関与を制限されているんだよ」 「王様を排除して、大臣が好き勝手やってるとか?」 「いや、そういうんじゃなく……うーん」  詠の推測に、これまた一刀は否定の言葉。月と詠は顔を見合わせて、どういうことだろうと考え込んだ。 「そうだなあ。信じられるかどうかは別として、説明してみると……」  その話によれば、なんと、天の国では、民が政治を行う者を選ぶのだという。政治に携わる人間を地域ごとに選び出し、議会と呼ばれるところで討議を行い、政治の今後を定めていくのだそうだ。  その他にも国権の主体たる権利の分立や、文民による軍の完全なる統制など、月と詠にはとても一度では理解できない話を、彼はしてくれた。 「民が選ぶというのは……どうやってですか?」 「選挙をするんだ。何人かが立候補してね。その中でいいと思う人に票を入れていくわけ。それで多くの支持を集めた人が当選」 「じゃあ、その選ばれた議員? だっけ、それの間では……」  何度も質問をし、何度も説明を受け、それでも彼女達は、その制度をぼんやりとしか理解できなかった。いや、聡い詠は理解していたのかも知れないが、月は常識が邪魔をして頭ではわかっても、しっくり行くということがなかった。 「そんな制度が……本当に動いてるの?」 「俺が生まれるずっと前から続いてる。まあ、衆愚政治になってしまっている、という批判もあったけれどね」  うむむ、と考え込んでしまう詠と対照的に、月には一刀の語る制度が優れたものに思えた。弱小豪族の出である月は、強い者たちに良いようにされる民達の姿を間近に見てきた。そして、それにどうしようもできない自分たちを責めもした。そんな想いを、月も詠もずっと抱えてきたのだ。  一刀の言う民主制とやらは、はっきりと理解できるものではなかったが、民が政を主導できるというのは良いことにしか思えなかった。 「でも、民の想いが……みんなの考えが反映されるというのは、すばらしいです」 「まあ……理論的にはね」 「なにか問題でも?」  その時一刀が浮かべた苦笑のような表情を、彼女は忘れられない。それは、天の国の話をする場合に彼が時折見せる、寂しげで悔しげな顔とどこか似ていた。 「んー、結局の所、この制度を運営して行くには膨大な費用がかかるんだよ。費用というのは、直接的な金銭だけじゃなく、前準備として色々と必要ってことなんだけどね。結局、それは国全体の負担になっていく」 「どういうことでしょう?」 「たとえば投票一つにしても、文字が読めなければいけない。俺の国では記名式だったから、書ける必要もあった。つまり、識字率が高いのが前提なんだよ」  一刀の言を聞き、詠が顔をあげた。彼女の表情には納得の色が浮かんでいた。 「ああ……。それはちょっと……」 「各党の候補たちの主張も、演説で聞くこともできるけど、それだけじゃやっぱり理解しにくい。詳しく知りたければ、各党、各候補が配布している広報を読む必要が出てくる」  一刀は真剣な顔で続ける。詠と月は二人して彼の言葉に聞き入った。 「次に、文字が読めたとしても――こっちのほうが難しいんだけど――その主張が理解できないといけない。政治家は人々にわかりやすく伝えるよう努力しているけれど、だからといって、これまでなにも考える材料を与えてもらえなかった人達が、この国をどうしていくか、なんて話をされて理解すると思う?」 「……難しいかもしれません」 「それに、ずるい政治家に民が騙されるのも防がないといけないよね。私利私欲で国を牛耳ろうとするような人を排除するためにも、みんながそれぞれの主張を理解する……少なくとも理解しようと努力できる環境をつくらないといけない」 「読み書きに関しては、国の施策として進めることがあるとしても……意識のほうは……」  ぶつぶつと呟く詠の声を、一刀は聞き逃さない。 「今年の実りのために働かなくちゃいけないところに、そういうのを詰め込めってのは難しいだろうね」 「たいへん……ですね……」 「まあ、さすがに民主制をこの世界に応用するのは難しいよ」  彼が言うには、天の国でもそういった概念が浸透するには長い長い年月が必要だったそうだ。たしかに大幅に制度を変えてしまう必要があるそれを導入するには、大いなる困難を伴うだろう。 「でも、学ぶべき部分はあるわ。民が自分で考えられるように環境を整えるというのは大事なことだとボクは思う。無知は身を守ってはくれないもの」 「そうだな。その点は詠の言うとおりだろう。軍事的な意味だけではなく、それぞれが自衛できるようになるのが理想だろうね」 「そうするためには……どうすればいいのでしょう?」  しばらくの沈黙の後、月は熱意を込めて訊ねた。彼女自身がすばらしいと思えたものを、難しいからと諦めてしまうのはあまりに怠惰にすぎると思ったのだ。彼が語ったそのものをもたらすことは出来なくとも、かけらでも取り入れることができれば、この世をよくすることが出来るかも知れない。 「そうだな……。やっぱり、教育かなあ。いろんな概念を人々が学び取れること、これが大事なんじゃないかな? その結果、それこそ王様や皇帝に守ってもらうのがいいと思う人もいるだろうし、そういう人達に勝手をされるのは困るから監視しようという人も出てくるだろう。なんにせよ、そういったことを考えられる裾野を……」  それからも会話は続いたが、新しいことも難しいこともあったために、月自身全てを覚えているわけではない。しかし、なにか自分でも力になれるのではないか。そんな予感と希望が、そこにはあったのだ。  そして、いま。  民に向けてではないが、彼女は教育を行っている。宦官の代わりに洛陽の城に入る女官達や小蓮の勉強を、月は指導している。さらに南蛮の四人にも、子育ての合間ながら度々手を貸している。  彼女達を教え導くことは、きっと民のためにもなる。  月は、そう信じていた。  実際、南蛮勢はもちろん、孫呉の姫である小蓮や宮廷の中枢に仕える女官達に教育を施すことは、なんらかの効果をもたらすだろう。 「いろんなことをお勉強するのも、教えるのも難しいけれど」  月は自分に言い聞かせるように小さく呟く。 「でも、諦めちゃいけないと、思う」  小蓮はそんな彼女の真剣な横顔を、興味深そうに見つめていた。 「そういうわけで、小蓮ちゃん。今日もお勉強がんばりましょう!」  月は見えてきた天宝舎のほうへ足を速めつつ、小蓮の手をぎゅっと握った。 「うぇー」  渋面の小蓮が発した駄々は、しかし、聞く方にも本気とはとられない声色であった。あたたかな手を握り返す彼女は、小さなめいどさんに引かれるようにして天宝舎へと向かっていく。わざとらしい渋面はすぐに捨て去られ、孫呉のお姫さまらしい華やかな笑顔に変わっていた。  4.伝習 「あー、負けたぁっ」  赤毛の少女は、そう言うと共に手に持っていた木の人形のようなものを宙に向かって放り投げた。対面に座っていた少女が、それらを受け止めようと慌てて体を乗り出す。両の手が素早く動き、見事、四つの人形は卓の地図に落ちる前に彼女の手に収まっていた。 「こら、季衣!」 「うー」  頭の上で大きな飾り紐を揺らす親友に叱られてうなり声を上げる季衣は、さらに頬を膨らませて文句を言った。 「これ、最初がずるいよー。流琉のほうが騎兵多いしさー」 「季衣。これは、対騎兵の練習なんだから……」 「おや、季衣ちゃんは、風の決めた初期条件にご不満?」  二人の横で、それまで黙って様子を見ていた風が、ぼんやりとした笑みを浮かべつつ、会話に参戦する。その声に妙な迫力を感じ、すっと背を伸ばす季衣。流琉も姿勢を戻し、手に持った人形を、卓の上に立っているいくつもの人形の群れとは別の場所に分けて置いていく。 「ふ、風ちゃんに文句言うわけじゃないけど……」 「まあ、たしかに、今回は季衣ちゃんに不利な条件ではありましたが……」  言いながら、風は卓上の地図と、その上に展開する兵を示す人形を眺めやる。そこでは、季衣の軍が流琉の軍に隘路に追い込まれ、これから殲滅されるであろうという構図が出来上がっていた。 「しかし、不利な条件などというものは、いつでもあるものですしねー」 「そりゃあそうだけど……」 「お嬢ちゃんに良いこと教えてやるぜ」  風の頭の上に鎮座する宝ャが、季衣の様子を見て同情したのか、声を発する。 「条件を自分で決めたくなったら、もっとすごい将軍になることだな」 「どういうこと?」 「んー、ちょと待って下さいね」  季衣だけではなく流琉もまた興味深げに見つめてくるのに、風は勝敗の決した仮想訓練の兵員たちを取り去っていく。季衣達もそれに参加して、卓には地図だけが残された。 「会戦において総大将になれば、その戦場そのものを支配できます。相手の大将と共に」  風は山間部を示す地図を、手に持った棒付き飴でぐるりと大きく囲うような仕草をしてそう言う。二人はその言葉に少し考えてから、揃って頷いた。 「しかし、もう一歩上の将軍は、戦場を含めた周囲の状況――戦域すら操るのですよ」  風は飴で今度は地図全体を示してみせる。 「さらにその戦域がつらなった戦線を思考して動くとなると、華琳様や風たち軍師の仕事になっちゃいますけどねー」 「ほへー」  完全には理解しないまでも、なんとなく壮大なものを感じたのだろう。季衣が感心したように声をあげるのを見て、風は唇の端を持ち上げた。 「そうですね、では、基本的なところから説明してみましょうか」  風はいくつかの人形を手に取ると、それらを向かい合わせる。 「たとえば、二つの部隊がぶつかりあったとします。これを戦闘と言います。武将個人の戦闘は、ここでは気にしないでくださいねー」 「はい」 「うん」  二人は素直に頷く。いつもの事ながら、この姿勢は望ましい、と風は心の裡で二人を褒めている。 「さて、部隊は二つきりではありません。その二つの部隊を援護する部隊や、援護をさせないように横から牽制する部隊などなど、当然でてきますね。これら全てを含めた、戦闘部隊が展開する場所のことを戦場と言います」  いくつかの人形をさらに広げていく。最初のぶつかりあいを支援する部隊、それを邪魔しようと駆けつける部隊、まるで無関係なところで戦っている部隊、と卓の上の戦場は混沌を極めていく。 「さらに戦闘部隊の背後、補給線などを含んだ、より広い地域全体を戦域と言います」  今度は人形ではなく、地形を示す為に使っている木組みを端の方へ置いていく。 「戦域も一つとは限りません。国同士の戦いの場合などは、いくつもの戦域が連なって、何ヶ所でも戦闘が起きることがあります。これを戦線と言います」 「ええと、戦線っていうのは、最前線、という意味ですよね?」 「通例は、そですね。ただし、この場合は戦闘が行われている場所だけをつなげていく、と考えるべきではないでしょう。それを支えるための線も存在しますから」  流琉が確認するのに風は詳しい説明を加えていく。季衣は頭の中で様子を思い浮かべようと努力しているのか、視線が宙を泳いでいた。 「また、当然ですが、戦線の上には戦争全体というのが控えていますね」  さすがにそれを詳細に把握させるのは酷と思って、風は大きな話はさらりと流す。 「もちろん、各将はその全てに参画するわけですが、しかし、実際にそれを掌握するのは戦争全体と戦線は王とその補佐たる軍師、戦線、戦域は将軍の中でもかなりの上級者、戦場、戦闘は通常の将となりましょうかね」  彼女は飴を口に戻し舐め始める。二人がどれほど理解したものか、その表情を観察しながら。 「はー……そういう将軍になれってことかぁ……」  腕を組み、うんうんと唸っていた季衣が、ため息のように呟く。それを見て、風はまた微笑みを強くすると、舐めていた飴を取り出し、再び話を始める。 「身近な具体例で考えてみましょうかね」  風は並べた人形を再び戻すと、ぽんぽんと砦を示す木組みを三つ並べていく。 「我が軍には春蘭さま……猛将夏侯惇がおられますね?」 「うん!」  元気に満面の笑みで答える季衣。 「さて、季衣ちゃんと流琉ちゃんはある国の将軍だとして、そこに夏侯惇将軍が兵を率いて攻め寄せてきた、という報が入ります。春蘭さまの強さは、他国なりに知っているということで」 「しゅ、春蘭さま相手は、最初から……」 「まあまあ、たとえばの話ですから」  難色を示す流琉に、さすがに苦笑で返して、人形の群れも三つ用意する風。 「季衣ちゃんと流琉ちゃん、それに配下の兵たちは、三つの重要拠点を守れと命じられます。それぞれの拠点にはそれなりの砦や防壁があって、兵は十万。このあたりは国の上層部の意向ですからしかたないと思って下さい」 「ふんふん」  季衣は尊敬する春蘭が具体例として出てきたせいか、興味津々に体を乗り出してきた。 「敵……夏侯惇軍も兵は十万で、三部隊に分かれ、まあ、当然春蘭さまが総大将です。他はここで名前を出すと面倒になるので適当に味方と同程度の将軍や将校がいると思って下さいね。なお、練度も同程度と考えていいですけど、春蘭さまがいる部隊は当然士気が上がりますねー」  大まかな設定を話し終え、風はにやりと笑ってみせる。 「さて、季衣ちゃん、流琉ちゃん、どうします?」 「砦があるのですから、籠城戦となればそれなりの兵数でも耐えきれますよね……?」 「ですねー」  戦術の基礎的なところを確認する流琉に、風は頷く。本来は籠城は背後の支援を考慮しなければいけないのだが、この場合、そこまで細かいところを要求しても無理というものだ。 「でも、相手に春蘭さまがいたら、ちょっと厳しいかもしれないよ?」 「そうね。だから、春蘭さまが率いている部隊に対する砦にどれだけの兵を入れるかが……」 「兵が同数だから……春蘭さまがいない部隊にあてる兵を増やしておけば、野戦で破って、他を援護に行けるかも?」  二人は口々に案を出し合い、それを検討し始める。その様子を風は飴をなめつつじっと見つめていた。 「たしかに。ただ、相手の兵の分け方もそうだけど、将をどこに置くかも問題かも。だって、春蘭さまを押さえられるとしたら、私か季衣の部隊、どちらかがいないとだめでしょう」 「持ちこたえるだけでも結構大変だよねぇ」 「やっぱり、まずは偵察を出して、春蘭さまがどの部隊にいるかを確認してから……」 「でも、それって時間かかりすぎないかな。増派する前に春蘭さまが城にとりついたら、厳しいよ」 「そうなのよね……」 「分派する前に野戦を仕掛けて……ってそれは無謀か……うーん」 「はい、そこまでです」  深く思考に入り始めようとする二人に声をかける風。彼女達は揃って顔をあげた。 「この場合、実は、どうするかは問題ではありません。それよりも、いま話していて気づいたことはありませんか?」  風の言葉に二人はしばらく黙って自分たちの会話を思い出していたが、季衣が何かに気づいたように手を挙げて口を開く。 「えっと、ボクたち春蘭さまのことばかり話していたような……」 「はい、よく出来ましたー。ご褒美に飴をどうぞ」 「わーい」  袖から一つ飴玉を取り出すと、季衣に差し出す。彼女は喜んで受け取ると包みをはがし、早速なめはじめた。甘みを感じて、その顔がにっこりと笑み崩れる。 「流琉ちゃんもどうぞ」 「え、でも……」 「二人で話していたからこそたどり着いた結論だから、流琉ちゃんにもご褒美なのです」  もう一つ袖から出てきた飴を遠慮して受け取らない流琉に、そう言って握らせ、風は本題に入る。流琉も素直に飴玉を口に放り込んだ。 「いま、二人が話していて、明らかに春蘭さまという要素は大きく作用していました。当然ですね。春蘭さまは国一の将軍として大人気。当然士気も上がりますし、なにより、ご本人が強い。そんな春蘭さまの軍を押しとどめないと、結局は本陣を落とされてしまいます。足止めにせよ、かなりの兵やそれなりの将を割かざるを得ません」  二人がそれぞれに頷くのを見て、風はさらに言葉を続ける。 「つまり、春蘭さまという存在があるだけで、対する相手は選択肢を大幅に削られるのです。これが大きな戦の局面を支配しているということです。もちろん、対策は色々ありますが、それをするには……っと、話がずれちゃいました」  失敗失敗、と反省しているようなそうでもないような声音で言う風。 「春蘭さまのような強力無比な攻撃力と指揮の力を持っていれば、このように広い戦域を支配することが可能となるのです。また、このようなやり方ばかりではなく、風たち軍師がするようなやり方もあるわけですが……まあ、これは今度にしますかねー」  ほおほお、ふむふむと感心しきりの二人に、これ以上知識を詰め込むのも良くないと感じ、風はそこで言葉を切って、締めくくるように言った。 「季衣ちゃんも流琉ちゃんも、そんなすごい将軍になって下さいねー」 「期待してるぜ」  二人の少女将軍は、決然と、そんな風と宝ャの言葉に頷くのだった。  5.懸念 「おや、お出かけですかー?」  季衣と流琉を残して天幕から出た風は、彼女の主たる覇王が、先ほどまで話題に出していた猛将夏侯惇を連れて歩いているのを見つけた。華琳はゆるやかに丸まった金髪を振りながら風を見る。 「ええ、少し辺りを見てこようと思って。風、あなたも着いてきなさい」 「は〜い」  そうして、華琳、風、春蘭という、この軍の中枢たる三人は陣を出て、その周囲を歩き始めた。天幕の広がる陣の中と違い、周囲は目立つものと言えば、まばらに灌木が生えるくらいで殺風景なことこの上ない。 「図上演習の調子はどう?」 「やー、やっぱり二人とも実戦派ですね。あまり突飛な前提だと力が出せないようです。実際に我々が経験してきた戦や過去の戦場を再現してやると、飲み込みが早い感じですか」 「そう。頭を柔らかくするためには、ありえないような状況も必要なのだけれど。実際、戦では何が起こるかわからないのだし……」  風は先ほどまで行っていた季衣と流琉への指導を、主へと報告する。それを聞いて、後ろで春蘭がその顔をしかめていた。 「しかし、華琳様。季衣も流琉も、実際の戦場ではきちんと対応できているように思いますが……」 「もちろんそうだけど、これから先、実戦は間違いなく減っていくでしょう。あったとしても環境の違う相手……。いまのような遠征となる。柔軟な考え方は必要よ」 「あー、うん。それはそうかもしれませんね……」  華琳に諭されて、春蘭も納得する。たしかに、黄巾の乱以後のような混乱の時期が今後も続くとは思えない。実戦経験を積んでいくのは難しくなってくるだろう。 「平時の模擬戦等で、勘を鍛えられればいいんですけどねえ」 「まあ、彼女達はこれからの人材だから、長い目で見ていくのが肝心ね。さて……と」  さほど心配げでもなく、華琳は季衣たちの話題を打ち切る。彼女達は、沙漠の中に岩が隆起して高台となっている場所に来ていた。もう少し高低差が大きければ、峻烈な崖となっていたような場所だ。  そこからは、北側に広がる原野がよく見えた。  視界を支配するのは、乾いた鳶色と砂色、それに白。  岩と乾いた土、地にへばりつくような低木だけしかない土地。その中に点在する白は、大地を覆う塩に他ならない。 「塩の大地ね」  地面に吹きつけたように結晶する塩が示すのは、この土地ではけして農耕は出来ないということだ。土地に存在するわずかな水は塩といっしょに地表に這いのぼり、表土を潤す前に蒸発してしまう。そして、塩は作物の生育に害をもたらす。  表面の土を全て洗い流したとしても、土自体に水気をもたらさねば畑を作るのは無理だ。そして、それをこの乾いた土地で行うのは不可能であった。 「あの塩は人が摂れるのか?」 「さあ、どうでしょうね。綺麗に精製したらだいじょぶじゃないですかねー」 「家畜に舐めさせることはある、という報告があったわね。もし、きちんと市場に出せる塩になるのならば、この土地の交易品になるわ」  春蘭の素朴な疑問に答える風と華琳。魏の覇王は自分で言った言葉を反芻しながら、再び白い平原を見下ろした。 「こんな大地で五胡は生きている。我らにとっては不毛としか見えない土地で……」  中原の農耕民にとって、農耕ができない塩の大地は、汚れた地面だ。つまりは死んだ土地と変わらない。  しかし、そこで人々は生きている。  農耕とは別の生き方だが、それはたしかに人の生きる土地であった。  長い沈黙の後、唐突に華琳は背後に立つ腹心の大将軍に語りかけた。 「春蘭、我が軍の強みは何かしら?」 「それはもちろん、華琳様や風たちの知略、我らの武勇、そして、魏国が誇る精兵でしょう!」  その答えに、彼女は満足げに頷く。その柔らかな髪が、太陽を受けてきらめく。 「そう、精兵。我らの兵は漢土の他の二国に比べても練度が高く、士気も旺盛で、命令への即応力が高い。なによりも、徹底した組織化が我らの強みとなっている」  華琳は一つ一つ要素を確かめるように言葉を舌に乗せていく。その様子に風は少し首を傾げていた。 「その強みで、我らはたとえ数で勝る相手であろうと、機動力の勝る胡族であろうと勝利をもぎとってきた」  くるりと振り向き、彼女は再び春蘭に問いかけた。 「でも、そんな精兵にも二つの弱点がある。わかるかしら?」 「ええと、水と食べ物でしょうか。喉は渇き、腹は満たされずでは力が出ませんから」 「ええ、それもその通りだけど、それは一つ。補給、という意味でね。風、もう一つは?」  春蘭の答えに微笑みを深くして、華琳はその視線を軍師のほうへと向ける。風はいつもの茫洋とした表情はそのままに、華琳の目を真っ直ぐ見て答えた。 「気の緩み、ですかねー」 「気が緩むだと? そんな根性の兵が、華琳様のお側近くにいるわけがなかろう」  気色ばむ春蘭に、風はぱたぱたと手を振る。 「いえいえー、基本的には皆、腹の据わったいい兵だと思いますよ。ただ、我々は、いま勝ちすぎています」 「……勝ちに驕ると?」 「相手がばらばらの部族だから当たり前なのですが、ひやりとする瞬間も少ないですからねー。ついでに異民族ばかりです。どうしても昔からの意識が顔を覗かせるでしょう。さらに、これだけ離れると里心も出始めます。なにより……」  ああ、とそこで風は声をあげた。ようやく、彼女は主の意に思い至ったのだ。 「それで、反転の時期を迷っておられたのですか? 華琳様」 「ええ。進撃を進めている間はいい。しかし、今回はここまで、と線を引いて戻り始めた時、本国に帰れるとなった兵たちに弛緩が生じぬわけがない。それは鍛えていようとどうしようと、遠征においてはしかたのないことよ」  少々不機嫌そうな顔ながらも、春蘭もそれには否定の意を表明しない。彼女とて、将軍として兵の気持ちは把握するように努めている。軍を退き始める時こそが最も危険だというのは理解できた。 「もちろん、その機を狙えるだけの勢力があるのか、という疑問はあるわ。稟が施した調略はすばらしいものだし、いまのところ、情報が明らかに間違っていたということはないしね」 「それでも、ですか」 「それでも、よ」  風の探るような問いに、華琳は笑みをまるで崩さなかった。 「とはいえ、いつまでも決めかねて、冬に捕まるのも莫迦らしいのよね」  そこで彼女はくすりと笑った。その仕草はこの大陸を制する女王というよりは、あどけない少女のように見えた。 「季節には人間じゃあ、勝てないしね」 「いえ、華琳様が仰るならば、この春蘭が冬を退治してくれましょう!」  半ば本気で大剣を構える春蘭に、彼女はさらに愉快そうに笑い声をあげる。 「そうね、春蘭は春の使いですものね。でも、冬は冬で楽しいものよ。寒い中、部屋に集まって皆と温め合うのも、ね」  そこで、意味ありげに流し目をくれると、魏の大将軍は顔を赤くしてもじもじと決まり悪げに動き始めた。その様子をたっぷりと堪能して、華琳は再び塩の平原へと向きを変える。 「うん……決めたわ。あと十日、この周辺を鎮撫した後に、軍を戻すこととする」 「はっ」 「わかりましたー」  軽い調子を改めて宣言する声に、春蘭は思わず膝をつき、風もまた着物の前をぴったりあわせて礼を示した。  覇王はただ、白い大地を見つめつつ、しかし、しっかりと呟くのだった。 「帰りましょう。洛陽へ。冬が来る前に」  6.兆し  中原なら、涙雨ってところかな。  霧がけぶる草原。しばらく前まで戦場であったその場所で馬を進めつつ、涼州出身の蒲公英はあたりの天候を見て、そんなことを思う。涼州では雨は珍しい。代わりにこうして霧が出て空気を湿らせることもしばしばだ。  彼女はそうして、ついさっきまで涙を流さず泣いていた男の少し前で馬を下りる。せめてもということで、雛里には馬を下りないよう詠が勧めているのが聞こえてきた。 「この死体、おかしくないか?」  翠と蒲公英、詠が馬を引き引き近づいていくと、真剣な表情で一刀は切り出した。  彼の足下と背後にはずらりと死体が並べられている。正直、あまり見たいと思える光景でもない。しかし、四人は目をそらすこともなくそれを観察した。全体的に、死体の傷は、矢傷や投石によるものが多い。一刀の指揮の基本方針として、突撃の前の準備射撃に熱心なこともあるだろう。 「まず、こっちの十八人」  男が歩きながら指で差すのを、翠と蒲公英が追いかけつつ見ていく。詠はその場に留まって全体を見渡していた。 「……んー? えらく若いな」 「うん、そうなんだ。蒲公英と同じくらいの背の少年さえいる」  翠がいくつかの死体を見て思わず漏らすのに、汗でも拭ってついたのだろう、顔の半面まで血で黒く汚した一刀が頷く。 「女の子ならともかく、男の子でたんぽぽと同じくらいって、ちょっと戦場に出るには若すぎるような……」  武将達の存在でわかるように――一刀の常識とは大きく異なるが――この土地での戦に男女の差異はない。兵にも女性はいるし、実力があれば蒲公英のように若い女性でも武将となることができる。  戦場で背の低い者を見れば、女性兵だと考えるのが普通だろう。かえってその背で他と渡り合える剛の者と警戒しさえするかもしれない。  だが、それが実は戦に出るべきではないような少年兵であったとなれば――。  五人は一様に疲れたような表情を顔に浮かべた。 「こいつとか、一刀殿が拭いたからよくわかるけど、子供丸出しの顔だぜ」  翠が苦り切った顔で指さす遺体は、背は大人とそれほど変わらないものの、たしかに子供の面影を残していた。 「……なんで戦場に出たんだか」  詠の長々とした嘆息のような言葉に、一刀はなにか答えようとして、しかし、首を振って次を示した。 「それとね、こっちの五人」  馬上から、その五人の姿を見ていた雛里が首を傾げる。 「五十は超えていますね。将ですか?」 「いや、あの鎧の感じからすると……」 「兵ね。腰に差してる短剣の装飾がなさ過ぎる。いくら高位と見積もっても、私たちで言うところの百人長もいかないわ」  翠と詠は雛里の推測を否定する。  しかし、そんなことがあるだろうか。さすがに五十と言えば戦からは身を退いていい年齢だ。まして涼州は中原より激烈な環境で、遊牧で暮らすとなれば年月はさらに厳しくその身に降りかかる。五十を超えてなお戦場に立つ者はそれなりの地位にあるのが普通だろう。 「一体……」  雛里が不思議そうに言うのに、一刀は全員の顔を順繰りに見回して、彼の中で形成された疑念を口にする。 「おかしいんだ。ここの死体は。若者と老人ばかり……。もちろん、経験豊かで頑健な年齢の人間に比べればこういう人たちから死んでいくということも考えられる。だが、そうであったとしても、中核となるべき年齢の死者がまるでないのは疑問だ。簡単な勝ち戦ならともかくね」 「たしかに……そちらの山を見ても、そうそういるように見えないな。まるでいないということもないだろうが……」  翠が死体の山を覗き込むようにして観察し、結論づける。その瞳は、すでに戦の時のそれに戻っていた。 「周りも調べてみる?」 「そうだな。あたしがあたりをつけてみよう。蒲公英は一刀殿とここにいてくれ」 「うん」  従姉妹たちは視線を交わして頷き合い、そして、翠が顔を戻した時には、詠の体は馬上にあった。 「詠?」 「ボクと雛里は降伏した連中を見に行くわ」 「ああ、そうか。それもあるな」  いいわね? と詠が訊ねるのに一刀は簡潔に答え、頭を下げた。 「頼む」 「それから」  彼女は馬体の向きを変えながら、視線は男から外さずに言葉を続けた。 「母衣衆にあんたの着替えを届けさせるから。その格好で本陣に戻って一悶着とかやらかさないようにね」 「了解。ありがとう、詠」  詠はそのまま馬の動きに合わせて体をなおしたが、しかし、首をねじって二人を見ていた雛里は、自分の後ろに座る女性がその火照った顔を見せないために動いたのではないかと、そんな場違いな疑いを持つのだった。  黄鵬に乗って駆けだした翠は、しばらくの後、その槍にいくつもの鎧をひっかけて戻ってきた。どさどさと鎧を落としてから、自分もそこに下りて鎧を並べはじめる。 「死体を引きずってくるのはあれだから、鎧を取ってきた。これでだいたい大きさがわかる」  蒲公英と一刀も鎧を並べるのに手を貸し、まもなく十数個の鎧が地面に並べられた。三頭の馬たちは、人間達がやることを理解しているのかいないのか、大きな瞳でじっと彼らの動きを見つめていた。 「小さいのがあるね。お姉様、これ、女の子も?」 「いや、男を選んで持ってきた」 「普通の大きさのもあるが、しかし……」  一刀は鎧の一つを手に取り、それを揉んでみたり、押してみたりする。その感触に彼は首をひねらずにはいられなかった 「ねえ、一刀兄様、それ投げてみてくれない?」 「ん? こうか?」  一刀の手元を覗き込んでいた蒲公英が、少し彼から離れてそう言うのに、男は彼女の前に落ちるよう革鎧をぽんと放り投げた。  その軌道が頂点に達し、落下に入ったところで彼女はすっと腰を落とし、自らの得物――影閃を一振りしていた。  とすん、ぽす。地面に落ちる乾いた音が二つする。  二つ、そう、二つだ。  一刀が投げ上げた鎧は、蒲公英の手によってすっぱりと二つに断ち切られていた。 「革にしても、槍の一振りで切れちゃうのはちょっとなー」  鎧の断片を拾い上げ、切断面を確認しつつ、蒲公英は怒ったように呟く。 「刺さるなら、まあ、ありだけどな」 「うん、あと、お姉様とか恋なら別だけどね。たんぽぽはそこまでじゃないはずだからなあ……」 「俺も触ってみて思ったが、革鎧にしても粗雑すぎる。貼られてる革自体があんまり……」  金属加工の得意な漢人に対して、北方の人々は獣畜を利用することが多い。金属鎧を漢側から交易で入手している場合もあるが、通常、それを利用できるのは高位の人間に限られる。そして、そうやって革の利用を長年続けてきている以上、革鎧の製法に関しても涼州の人間達は巧みであるはずだった。ところが、実際に転がっているのはまるで慌てて作ったかのような粗末なものとなれば……。  蒲公英と一刀の言葉を聞き、再度並ぶ鎧を見回して、翠は結論づけた。 「体格から見て取れる年齢層もそうだが、鎧の品質もまともなものじゃない。どうやら、ここにいたのは二線級の部隊だな」 「……それっておかしいでしょ。この土地の人間にしてみれば、決戦のはずだよ?」  しばらくの沈黙の後で、蒲公英が従姉の意見に疑義を唱える。 「そうなんだ。これは、どこか変だ」 「おかしいな」 「おかしい」  三人の意見が一致し、彼らはお互いに目線を合わせて頷き合った。 「調べてみる必要がある。翠、蒲公英」  一刀は腕を組み、厳しい表情で二人の名を呼んだ。 「涼州に詳しい二人に頼む。詠と一緒に、それに他には漏れないように……。頼めるか?」 「もちろん!」 「了解した」  弾むように応じる声と、不吉な予感を秘めて低く答える声の二つを聞きながら、一刀はこう呟かずにはいられなかった。 「大変なことにならなければいいんだけど……」  7.言葉  轟っ。  巨大な物体が空を切り裂く。その圧倒的な質量は、立ちふさがるもの全てを粉砕するだろう。  それが相手を捉えるならば。  鈍砕骨は、しかし、結局なにに当たることもなく、凄まじい音を立てて大地を陥没させた。  その攻撃を避けた赤毛の女性は方天画戟を構えながら、小さく呟く。 「焔耶は隙……多い」 「くうっ」  指摘された黒ずくめの女性は悔しそうに声をあげ、その途端持っていた得物の手を離した。地面をへこませた鈍器は、先が土に埋まってその場に留まり、自由になった両手はそのまま拳を握って相手の体へと向かう。  脚のばねも利用した二連撃に、恋は方天画戟の柄で片方を受け、もう一方は体を大きく反らして避けた。 「……ん」  避ける動きがどうしても足枷になり、体を戻すまでほんのしばらく動きが鈍る。 「……いまのはなかなかいい」  呟く声に笑みを刻み、焔耶はすっと体を落とした。ほとんど座り込むような態勢にまで下がった構えに恋が戸惑っていると、そこに先ほど手放した鈍砕骨が倒れ込んできた。 「……うまい」  焔耶が得物を取ろうとするのを防ぐため、恋が方天画戟を突き出すが、一歩遅く焔耶は自らの得物を担ぐようにつかみ取っていた。そのまま体ごと跳ね上がり、上段から真っ向打ち下ろす。 「……でも、やっぱり次に繋ぐのが遅い」  鈍砕骨を担ぎ上げた時にはじかれた方天画戟を、その勢いを殺すことなく手の中で回転させる。刃ではなく石突きが、焔耶の体に迫る。  振り上げた鈍砕骨と、脇腹を狙う方天画戟。  いずれが早く相手にたどり着くか。 「わん!」  そんな緊迫した一瞬を、元気な声がぶち壊した。  突然の鳴き声に硬直した焔耶の打ち下ろしは力がぬけてへろへろと軌道を変えてしまい、恋は彼女にしては珍しく慌てたように飛び退いて方天画戟を自らで抱き留めるように受け止めた。  離れてそれぞれに体勢を立て直した二人の視線が、揃って一カ所へと向かう。  すなわち、セキトを抱いた北郷一刀へと。 「ご、ごめん!」  殺意すら込めた視線を向けられ、思わず謝る一刀。セキトは彼の腕の中で不思議そうに三人を見ていた。彼はこの三人が大好きなのだ。 「くう、一本とれてたぞ、絶対」  悔しげに地団駄を踏む焔耶に対して、恋のほうは、いつも通りあまり感情を露わにしない。ただ、ちょっと首を傾げるようにして焔耶を見ていた。 「ん……しかたない……。でも、さっきの連携はなかなか」 「……そうか。まあ、いまはそれでいいとするか。で、何の用だ?」  飛将軍の賞賛を受けて少しは腹の虫も収まったか、焔耶は一度長く息を吐くと、申し訳なさそうに縮こまっている一刀に目を向けた。 「い、いや、そろそろ警邏に」 「ああ、そんな時間か、少し待て。用意する」  言って焔耶は武器を置き、汗を拭い始める。一刀はその間にセキトを恋に手渡していた。  一刀と武将達による警邏は、兵達の休暇の折りから断続的にだが続いていた。やはり治安状況がよくなるということで、毎日とは言わずとも、数日に一度は誰かが見回りをしているのだ。その中で、大将たる一刀は十日に一度ほどの割で警邏に同行していた。  今日は焔耶と警邏の予定だった。  だから、彼は焔耶が準備を終えるのを待っている。  彼女は籠手を外し、指の間に噴き出た汗を丁寧に拭っていく。腕に浮き上がるよく鍛えられた筋肉と、その繊細そうな細く白い指の対比に一刀は思わず眼を惹きつけられた。 「やはり、呂奉先ともなると、対峙しているだけで汗をかく」  焔耶は呟きつつ、肌が露出している部分を次々に拭っていく。顔と腕の次は、上着から覗いている腹部。かわいらしいおへそと、その周囲に流れる汗を彼女は真剣にぬぐい取っていった。一刀はこれまで特に気づいてもいなかった、彼女の脇腹が形作るなめらかな線を強烈に意識させられることになった。  その後で、周囲を見回し、すぐ側にあった木箱に足をのせる焔耶。すらりとのびた太腿を垂れ落ちる汗がきらりと光る。その桃色に上気した腿から、一刀はもう目を離すことが出来ない。 「うん、これでいいか」  顔、腕、腹、脚と汗を拭い取り、籠手と服をなおして、彼女は一刀へ向き直る。もちろん、その得物はすでに手の中にある。 「待たせたな」 「あ、ああ」  なぜか顔を赤らめている男に不思議そうな焔耶だったが、じぃっと一刀の一挙手一投足を見つめていた恋はなにごとかを理解しているようだった。  一瞬、すっと眼を細めた彼女は、一刀の側に寄り、男の袖をくいくいと引っ張った。 「……恋もいく」 「ん? 時間とか大丈夫なのか?」  恋は少し考え、しっかりと頷いた。 「……うん。夕方になったら、戻る」 「そうか、文長さんはそれでいい?」 「ああ、構わん。……セキトはしっかり抱いておけよ?」  こくりと素直に頷く恋を連れて、三人と一匹は警邏へと向かうこととなった。  それは、警邏の途中、店で恋に蒸し餃子を買ってやった後のことだった。茶巾のようにしぼられた皮の中には、あぶった羊肉が入っているらしい。一個一個が小さいので、恋は何個も抱えていた。片手は餃子の包みと方天画戟を、片手は口と包みを往復、と両手がふさがるので、セキトは恋の体の前にくくりつけられている。  一刀も一つ餃子を口に放りこんだ。噛んだ途端じゅわりとあふれ出てきた肉汁と一緒に、中の肉を味わう。もちもちした皮と肉汁、それに少し癖のある羊肉の味。その温かな取り合わせに、なんだか幸せな気分になる一刀。  同じように一つ食べて、既に呑み込んだらしい焔耶が視線を向けてくるのに彼は顔を向ける。 「ん?」 「また、なにか裏でやっているようだな」 「え?」  咎める風でもなくさらりと言われ、一刀は眼を白黒させる。 「あの小娘が、やけにうろちょろしている。どうせお前の命だろう?」 「あー……」  小娘というのは、蒲公英のことだろうとあたりをつけた一刀は変な声をあげてしまう。その声にぴくりと眉をはね上げる焔耶。 「なんだその気の抜けるような声は」 「ええと、いや、うん。たしかにそうなんだけど、今回の事は裏で……とかって言うよりは、確証を得ていないというか、なんというか……」  しどろもどろな一刀に、会話に参加していなかった恋まで興味深げに見つめてくる。その視線を感じ取ってか、一刀は一つ大きく深呼吸して、なんとか自分を落ち着ける。わふわふとセキトが手を出してきたが、恋の腹にくっついているので届かない。 「ともかく、なにかわかったら、軍議の場で皆に伝えることだよ。裏工作とかじゃない」  きっぱりと言い切るのに、焔耶はふんと大きく鼻を鳴らした。 「なにしろ、荊州のこともあるからな」 「それは……」 「あちらからも報せが来ていたが、綱渡りのように思えたぞ」  そう言われると、一刀としても弱い。結果的にはうまくいったものの、その全てを彼が掌握できていたかというと怪しい部分がある。  暗い顔になる男に、恋が心配そうに近寄る。その様子を見て、焔耶は再び鼻を鳴らした。 「なにも我らに悪意をもって事をなしたとは言わん。ただ、あまり策を弄するようなことも避けてもらいたいものだ」  四つ辻で足を止めた焔耶は、きまじめな表情を宿し、一刀の顔を覗き込んだ。その拍子に、髪の白い一房がかすかに揺れて彼女の顔にかかる。 「なにしろ、いまはワタシもお前を大将として戴いているのだから」 「文長さん……」 「信ずるに足るところを見せて欲しいと思うのは贅沢か?」  そう言って、獰猛な笑みを見せる彼女を、一刀は好ましく思った。こうして真っ直ぐに感情をぶつけてきてくれることが、彼にとっては嬉しい。 「いや……。その要求は間違ってない」  一刀もまた真っ直ぐに彼女の瞳を見返しながら、一つ一つ言葉を選び、力を込めて発する。 「ただ、今回の件は荊州とは違う。文長さんも、他の誰も偽るつもりはない。軽々しく憶測で話を進めるわけにはいかないだけなんだ」 「わかった」 「なにかしっかりわかれば、必ずみんなに……」  言いつのる一刀に、焔耶は苦笑を浮かべて手を振る。鋼鉄の籠手がかちゃかちゃと音をたてた。 「わかったと言ったぞ」 「あ、ああ」  そんな二人の様子を見守っていた恋はごそごそと袋をあさり、二つ取り出すと、それを手に載せて焔耶と一刀の間に突き出した。 「ん」  小さく言うのに、二人は顔を見合わせ、一刀が確認するように問いかける。 「もう一個くれるの?」 「ん」  今度は頷きながらの声。焔耶と一刀は再度顔を見合わせ、どちらからともなく笑みを見せると恋から餃子を受け取るのだった。  キイエエェェエイ!!  強烈な気合いと共に、大地に突き立てられた太い丸太に木剣が振り下ろされる。引き戻された剣は再び打ち下ろされ、何度も何度も丸太を打つ。  五度、十度、二十度、三十度。  甲高く、空気を切り裂くような叫びが続く間に、凄まじい速度で剣は振り下ろされ丸太を打ち続けた。  ついにははっきりと煙を吹き出し始める丸太。  雄叫びが途切れたところで剣は止まる。その打ち手は剣を構えつつ、はあぁ、と長い呼吸を繰り返した。 「すごいな、一息三十打って」  その様子を離れて見ていた一刀は、いまだ淡く煙を吹き出す丸太と、その前で剣を収める動作をしている華雄に近づきながら、感嘆の声を上げた。 「ふむ、これでいいのか? 立木打ちとやらは」  汗をかいた風もなく、木剣を近くの地面に突き立て、腕を組んで華雄は丸太の様子を観察する。  ちょい、と頭の方を指で押すと、丸太はめきめきと音をたてて折れてしまった。 「もっと頑丈なものでないとだめか。いや、私の打ち込みがうまく下方に伝わらなかったか」  立木打ちは薩摩の剣術示現流の訓練法だ。猿叫と言われる一種独特の声を上げつつ、立木をひたすらに打ち込む。早く、強く、ただ一心に打ち込む、そんな修練だ。  天の国の鍛錬を教えてくれと華雄に頼まれた一刀が、祖父から学んだ剣術の中で出来そうなものを教えてみた結果がこれだった。 「うん。何というか、自信を無くすな」 「莫迦を言うな。武でまでお前に勝られたら、私の立つ瀬がない」  からからと笑って、華雄は再び木剣を持つ。 「だいたい、お前は大将なのだ。武術などよりもっと大事なものがあろう」  しかし、この鍛錬は、打ち込みの威力を強めるにはいいかもしれんな、などと言いながら、彼女は今度は素振りを始めた。一刀はその力強くも流れるように美しい動きをよく見られるように少し離れた場所に座り込んだ。みっしりと生えた草が尻を柔らかく受け止める。 「大将、か」  数日前に同じ事を言われたのを思い出し、彼は小さく呟いた。 「しかし……みんなをまとめる立場ってのは大変なことだな」  その言葉を聞き、目を見開きつつ、華雄は剣を振るのを止めない。 「いまさらか」 「そう、いまさらだよ」  自嘲気味に言うのを見て、少し黙っていた彼女は、剣を振る方向をわずかに変化させつつ口を開いた。 「そう難しく考える必要はない」 「え?」 「お前が頭、ねねや詠が腕、我らはそれに使われる剣であり、弓であり、矢そのものだ」  華雄はなんでもないことのように続ける。それが天地に定まった理であるかのように。 「お前が決めれば、我らはどこまでも行く。しかし、頭の決断がなくば、剣は鞘から出られぬぞ」 「……そうか」  華雄らしい喩えに、一刀は笑みを浮かべる。彼は、彼女の話はそこで終わるかと思い込んでいたのだが、実際には剣を振りながらの言は続いた。 「たとえば、以前、お前が暗殺されかけたことがあったな?」 「あったね」  思い出したくもないが、彼は何度か命を狙われたことがある。華雄の言うのは、その中で最も危険で、排除する以外に解決のしようがなかった件だろう。  この大陸の――形式上の――頂点にある組織からの刺客。 「あの折、我ら……私をはじめ、お前の元にあった者たちがなにも動かず、守備のみに気を配ったのは、もちろん、安全を確保するためということもあるが、お前自身がやり返すのを望まなかったからだ」 「証拠も無しに挑むには相手が悪すぎるからな」  肩をすくめて言う彼に、華雄は相変わらず真剣な顔で問いかける。 「本当か?」 「……まあ、実際、明命や華雄たちのおかげで死なずに済んだし。危険を冒すほどの相手じゃないだろう」 「それはそれでひどい評価だが……」  さすがに苦笑を浮かべる華雄。 「なんにせよ、私は、実際、止められていたのだぞ。知らぬだろうがな」 「うん、知らなかった」  おそらく、止めたのは祭だろうな、と一刀はあたりをつける。当時、華雄を止めるようなことが出来たのは、祭か霞くらいのものだ。 「だが、頭を冷やしてみれば、あれの言うことは正しい。我らはお前の意思なくしては動いてはならぬのだ。たとえ、どれほど、この血が煮えたぎろうと、な」  込められた熱の、狂おしいまでの熱さよ。  一刀は、彼女にどれほどの心痛を与えていたのかを今更ながらに思い知った。 「お前が抜かねば、剣は鞘に収まったままだ。だが、一度抜けば」  びぃん。  空気を木剣が切り裂いた。まるで空間が断ち切られたかのように、その軌道がはっきりと感じられた。  そして、振り下ろされた剣尖はもはや微動だにしない。 「私は、お前のためにどこまでも切りひらこう」 「華雄……」 「いま、我らは、北伐の将としての役割を与えられている。だから、その役目を果たす」  木剣を収め、華雄は彼に体ごと正対した。そのしっかりと芯の通った姿勢に、一刀もつられて背筋を伸ばさずにはいられない。 「しかし、お前が決断すれば、それは我らにとって軍命というだけではない」  そこで彼女は笑みを見せた。その獰猛な笑みは、一刀の心に強く突き刺さる。 「それを忘れないことだ」  8.軍議  将たちが集められた広間には、いくつもの長机が並べられ、その上には数々の鎧が列を成していた。 「んー? なんや、これ」 「翠の提案でね。兵達が抱えていた戦利品や商人に売り払ったものを買い戻してみたの」 「右軍も協力したのー」  興味津々といった様子で鎧を眺めていた霞の問いかけに詠が答え、今日は軍議にも呼ばれている沙和が楽しげに付け加える。 「武具や装飾品は珍しい物として重宝されるから、綺麗に保存しててくれたのが幸いしたわ」 「それはよいが、一体何ごとじゃ?」  祭の言うのももっともで、この場にいる人間の大半には敵の鎧を見せられる意図がわからない。詠と一刀は目配せをして、大きく一刀が頷いた。 「俺から説明しよう」  そうして、彼は戦場で抱いた疑念――年少や老齢の兵のことや、鎧の品質といった話を皆に披露した。そのことを詠や翠たちが調べていたことも、あわせて告げられた。 「それで、鎧を買い集めたということですか」  ねねの納得したような声に、詠ははっきりとは答えない。 「たしかにアニキの言うとおり、ちっこいのが多いな」 「装飾品も少ないですね。騎馬の民というと、もっと自分の持ち物にお金をかけている印象でしたけど」  半農半牧の場合は定住地を持つ者もいるが、牧畜で暮らす民や狩猟採集を組み合わせて暮らしている部族は移動生活が主となる。彼らは自分の財産を全て持ち歩くために、日常使う小刀などにふんだんに装飾をする傾向があった。鎧もまたその対象となる。斗詩が不思議そうに言うのも当然のことなのだ。 「……んー? なあ、詠、翠」  鎧のいくつかを眺めていた白蓮が、眉をひそめつつ訊ねる。 「さすが白馬長史。気づいたか」 「なにが……?」  翠の賛嘆と雛里の疑問に、白蓮は机の間を歩き、次々に指さしていく。 「これとか、これとか、それにこれ。ここいらの部族のものじゃない。烏桓……いや、烏桓でもないな……」 「ふむ、たしかにうちの兵のものにも似ているな」  顔を近づけて、鎧の装飾の文様を読み取ろうとしている白蓮と、それに近づいていく華雄と恋。  その様子を見ていた詠が眼鏡をくいと押し上げた。 「惜しいわね。鮮卑よ」 「うん、鮮卑だねー」  詠と蒲公英が発する言葉に、皆が驚いたように注目する。 「鮮卑というと……北東のほうだったっけ、隊長?」 「うん、涼州から見るとそうなるな」  沙和の言葉通り、鮮卑は涼州から北東方に存在する異民族だ。だが、その分布場所はとてつもなく広い。  涼州の北辺から、東方の勃海のあたり――烏桓の存在する地域まで、北方を大きく覆っているのだ。かつての匈奴の領域の北半を抑えているのが鮮卑という部族であった。  しかし、涼州の真東には南下した匈奴の影響を受けた沙漠地帯があり、鮮卑がそれを越えてここまで入ってくるというのは実に珍しいことであった。 「どういうことです?」 「じゃあ、最初から説明しよう。まず、一刀殿が説明したように、あたしたちが破ってきた部族との戦闘に、多数の老人や若年の兵がいた可能性があった」  翠が話すのに、皆はそれぞれに考え込みながら聞いている。正直、少年兵を殺したというのは、気持ちのいい話ではないだろう。 「そこで、詠に頼んで鎧を買い取って貰ったんだが、結果はご覧の通り。たしかに小さい鎧や古びたのが多い。さらに言うと、装飾もろくなものじゃなくて、粗末なものが多いんだ。まともな部族が、あるいは部族の中でまともな地位のある人間が着るものじゃない」 「それに加えて、鮮卑の鎧があったんだよねー。鮮卑のも、よいものとは言い切れないものだけど、まあ、それなりかな」  従妹の言葉を挟み、翠の話は続く。 「ここいらに本来いる部族は羌だ。だが、その羌の中核たる戦士たちはここにはいない。いたとしても、わずかだったろう。いるのは老年か若年の兵。  さらに、ここにはいるはずのない鮮卑の援軍がいた」  将たちの顔が曇り始める。若い者を殺してしまったということよりも、そのこと自体が示す異常事態に気づき始めたのだろう。 「しかし、なぜだ?」  普段は艶然と微笑む星さえその笑顔をひっこめて、真剣な表情で翠たちを見つめている。 「これはあくまでまだ推論でしかない。だけど、ボクとしてはこう思うわ」  詠はぐるりと将軍たちを見回すと、声をひそめて、こう切り出した。 「鮮卑と羌の連合が成っている、と」  沈黙。  そして、言葉が各人の脳内に染み渡ったとき、場は爆発した。 「なっ」 「そんな莫迦な!」 「鮮卑の潜在能力は聞いたことがあるが、ここ数十年はそのような統合者はおらぬと思ったが……」  口々に言葉を吐き出し始める一同。先に聞いていたらしい一刀たちを含めて数人以外は、ひたすらに驚きを示していた。 「あのー、いいかなー! 話きいてー!」  ぴょんぴょんと跳ね上がって、皆の注目を集めようとする蒲公英の姿がかわいらしくて、緊迫した状況だというのに、思わず一刀は笑ってしまう。結った髪が飛び跳ねる度にぴょこぴょこ揺れるのが愛らしい。 「なんだ? 蒲公英」  一刀が問いかけた途端、どん、と大きな音が鳴り、床がびりびり揺れた。どうやら華雄と恋が二人して金剛爆斧と方天画戟を床に打ち付けたらしい。瞬時に部屋を静寂が支配する。  妙な緊張に包まれつつ、蒲公英がおどおどと口を開く。 「え、えっと、鮮卑との連合に関してはともかく、羌の戦士たちがいないってことが確実なら、どこかにいるってことだよね?」 「そうですな。詠の言うようなことがなかったとしても、戦力を温存して、どこぞで待ち構えているというのは大いに考えられましょう」  あまりの出来事にかえって余裕を取り戻したか、星はゆったりと笑みを浮かべつつ、白い着物の袖を持ち上げて、そう推測する。だが、それに対して、意外な人物が否定の意を表明した。  恋が首を横に振ったのだ。 「西とかじゃ……ないと思う」  ぽつぽつと短い言葉を繰り返すのを、皆は静かに待つ。天下の飛将軍が、軍議で自分の意見を主張することなど滅多にない。拝聴してしかるべきだった。 「詠の……んー。運んできてくれる人達」 「客胡?」 「……それ。それと、戦気からしても、向こうに大軍が隠してあるとは……恋は思わない」 「たしかに、進行方向に大軍がいれば客胡にも伝わりますね。一応敦煌のあたりまでは使者を行き来させていますが、捕らえられている様子も……遠いので確実とは言い切れませんが」  ねねが恋の言葉を聞いて、腕を組んで考え込む。それを受けてというわけでもないだろうが、皆、一様に何ごとかを考えているようだった。だが、なかなかその思考は形を結ばない。  その中で、くるくると丸まった金髪を指でもてあそんでいた麗羽が、不意に呟いた。 「……西にいないとなれば、東?」  その言葉を聞いた一刀は瞬間、笑みを浮かべそうになったが、そこで何ごとかひらめいたのか、かくんと顎を落とした。  そのまま顔を真っ赤にして、麗羽に向けて突進する一刀。 「麗羽!」 「な、なにか!?」  ものすごい勢いで目の前に現れた男の姿に、彼女は硬直してしまう。だが、一刀はその両手を取って、拝むように顔の前に持ち上げた。 「それだよ。東だ」 「え? え?」  混乱する麗羽を置いて、彼は諸将を振り返る。そして、彼は一声叫んだ。 「華琳だ!」  9.決断  皆が息を呑むような気配があった。その中で、詠とねねは強く唇を噛みしめていた。 「この戦の要はどこだ? 俺たちなんかじゃない。華琳だ」  興奮ぎみに一刀は続ける。 「わざわざ連合を組み、別の土地から兵を抽出してまで狙う相手がこの世にいるとしたら、それは華琳しかいない」 「華琳が討ち取られれば、北伐そのものが瓦解する、か。いや、三国体制そのものが崩れかねない。目の付け所のいいやつが大軍を擁するようなことがあれば、狙うのも当然か」 「この戦を終わらせるだけではなく、河北、中原への逆侵攻すら考えられますな」  その言葉に白蓮と祭が同意する。周囲の将たちも、事態の深刻さに顔を青ざめさせる者あり、目をらんらんと輝かせる者ありと、様々に反応を見せる。 「沙和、洛陽に報せに走ってくれ。こちらから足の速い馬を出す。そうだ、詠……」 「ちょい待ちや」  一刀の矢継ぎ早の指示を、それまで黙っていた霞が遮った。 「霞?」 「沙和を洛陽にいかせるんはいい。必要なこっちゃ」  不思議そうに首をかしげる恋に、霞は軽く笑いかけて話し始める。 「せやけどな。もし、一刀の言うとおり、鮮卑と羌の連合がなっとって、その軍勢が孟ちゃんを襲っとるとしたら、救えるんは洛陽やない」  肩にひっかけた羽織を、音を立てて翻しながら、彼女は部屋の中を歩き始める。皆の頭に言葉が吸収されるのを手助けするようにゆっくりと歩きながら、霞は話す。 「ええか? そんな連合があったとしたら、その軍は精強な騎兵でなりたっとるはずや。それに抵抗するには騎兵しかおらん」 「まあ、そうね」  詠の同意に手をあげ、彼女は己の得物――飛龍偃月刀の石突きで床を一つ打った。 「漢土最強の騎兵はどこにおる? ここや。  孟ちゃんや惇ちゃんを救えるんは誰や? うちらや」  そして、彼女はそのまま偃月刀の切っ先を――覆いがかかっているとはいえ――真っ直ぐに一刀へ向けた。 「一刀。あんたが指揮する軍しか、この国で孟ちゃんを救いにいける軍はあらへんのや」 「霞……」 「霞、あんた、華琳の陣までどれほどあるかわかって言ってるの?」 「あったりまえや。三千里か? その程度やろ」 「さすがにそこまではないわ。ん……、二千五百里ってところね。もちろん、うまく陣を見つけられれば、だけどね」  詠の言葉に、霞はからからと楽しげに笑う。 「そんなん変わらんわ」 「しかし、本当に鮮卑と羌の連合がなっているのか、それは……」  当事者であるくせに話の流れに取り残された気分の一刀。彼はなぜか心拍数が上がっていくのを感じていた。緊張と不安と焦慮がないまぜになって心の裡で暴れ回る。 「ボクはあると信じてるわ。これまで翠たちが調べてくれたことを総合すれば、そう考えるしかない」 「ただし、その先、華琳たちを狙うのではないか、というのはまた別の推測ですね」  ねねが、奇妙な光を眼に宿らせながら、詠の言葉に注釈を加える。たしかに部族連合が成立していることと、中央軍が狙われるという話がそのまま結びつくわけではない。 「考えすぎってことはないと思うなー。涼州を捨ててまで勝負をかけるとしたら、一刀兄様の推測は的外れとは言えないと思うよ」 「しかし、かなりの賭けになるな」 「だが、歩兵だけでも、これまでの占領区域は確保できるだろう。その後のことは、それこそ洛陽か長安から……」 「考えすぎ結構ではないか。なにもなくばそれでよし、もし、いま華琳殿が失われれば、まさに漢朝の危機というものじゃ……」  諸将の会話は耳に入ってきているはずなのに、一刀の思考は進んでいってくれない。脳裏に浮かぶのは最悪の事態だけ。  その中で、すっと彼の横に近づいてきた影があった。 「西涼の者たちは知らず、蜀の者は知らず」  その声に一刀は顔をあげる。華雄が、いつもと変わらぬ淡い笑みで唇を彩って、そこに立っていた。 「我らは主の剣、主の太刀」  淡々と、彼女は言う。  それが絶対の真理であるように。 「望むならば、命を」 「せやな。一刀。はっきり言わなあかんで。血路を開けってな。ほしたら、うちらなんぼでも進んだるで。うちらの足を動かすんは、あんたの声や」  天下の騎将張遼が同意する。その偃月刀から、覆いは既に取り除かれていた。 「……恋も、ご主人様の言うとおり、する。前に進む」  小さな声は、しかし、部屋を圧するかのように響いた。声の主こそ飛将軍。天下無双の女性の声。 「ふふ。ここが踏ん張りどころですぞ、旦那様」  楽しげに、だが、優しく笑うのは、鬼の面。江東の虎の懐刀。 「さあ、我が君。お下しなさいませ」  四世三公の姫君が、優雅な仕草で手を上げる。その動きに合わせて、袁家の二枚看板が共に口を開いた。 「北郷一刀の号令を」  袁家の三つの声はぴたりと揃っていた。 「俺は……」  周囲の言葉に、彼は驚くしかない。  その拳がぐっと握りこまれ、真っ白になっていく。 「一刀殿」  西涼の錦馬超は、その顔を、人なつっこい笑顔で覆っていた。 「この軍の大将はあんただ。あたしも一刀殿に従うよ」 「翠……」 「たんぽぽもー!」  従姉に飛びかかり、じゃれつくのは馬一族の期待の星。彼女の顔は、信頼という言葉をまさに体現していた。 「まあ、我らとて否やは申しませぬ。歩兵ゆえについていけはしませんがな」  これは見物、と緩む口元を隠すのは、常山の昇り龍。大徳が一番槍。 「大将の決断、ここでワタシに見せてくれような?」  挑発的に笑ってみせるは、魏文長。 「北郷さん……」 「隊長……」  心配げに呟くのは、天下にはばたく鳳たる大軍師と、古くからの部下。 「まったくみんなむちゃくちゃだな。でも、まあ、二千五百里走らせるなら、尻を叩くのも必要だな」  同情するように言うのは、公孫伯珪。幽州の白馬長史。  そして、二人の軍師は、じっと彼を見つめ続けていた。  北郷一刀は、ああ、と小さく呟いた。  それは、同意の言葉だったのか。  あるいは、深い深い嘆息だったか。  どちらであったにせよ、彼は決断を下す。 「北郷一刀が命を……下す。二千五百里を共に踏破し、曹孟コを救出せよ」 「承った」  それは誰が答えた言葉だったか。  しかし、それは重く、静かに響いた。  後に上天(テングリ)大返しと言われる空前の踏破行が、いまここに定められたのだ。      (玄朝秘史 第三部第十一回 終/第十二回に続く)