玄朝秘史  第三部 第九回  1.北限  大男の体が宙を飛ぶ。  そんな光景は普通見られるものではない。  周囲の人間は一瞬呆気にとられ、そして、飛んでいた男がなんとか頭と背を守りながら大地に落ち何回転かしたところで、ようやくわっと声をあげた。半数は歓声であり、半数は落胆の声であった。  そんな両極端の声を上げる人々が作る円陣の中央では、いまさっき大男を投げ捨てた小柄な少女が胸を張っている。とてもその体に怪力を隠しているとは思えない少女は、しかし、いまや地面で転がりつつ呻いている大男と先ほどまでがっぷり四つに組んでいたのだ。その態勢を力でねじ伏せて、さらに投げ飛ばした彼女の腕っ節やいかに。  赤毛を両側に高く結い上げたその少女は、控えていた別の少女と、手を音高く打ち合わせた後で下がっていく。  今度は、前髪に大きな布飾りをつけた少女が別の男と対峙するようだった。 「さすがですねー、季衣ちゃん、流琉ちゃん。これで、ええと八人ですか」  その様子を少し離れた場所に作られた一段高い観覧席から見ていた風がそう評する。それに答えるのは隻眼で成り行きを見守っていた春蘭だ。 「まあ、あの背であの膂力だ。相手の体が大きいだけに、対処が難しいだろう」 「そなんですか?」 「ちょこまか動く季衣たちに、上から打ち下ろすのはなかなか難しい。だから捕まえてしまえと思うわけだが、なにしろはしっこいからな。まあ、捕まれば捕まったで、単純な力で圧倒することも可能だが……」 「はー、そういうものですかー」  それまで部下達の会話を黙って聞いていた華琳が、付け加えるように続ける。 「もちろん、季衣や流琉だからこそできることよ。相手の圧倒的に長い手足をさばいて、しかも力で負けないというのはね」  それから彼女は横に座る男性に向けてちらと視線を送る。余裕の表情の彼女達に比べ、その男性やさらに背後に立つ数人の男女の顔は暗い。  彼らは匈奴の一部族、その代表だ。華琳の横に座るのがその長。  彼らの部族は、侵攻してきた華琳達に対し、異例とも言える申し出をしてきた。降伏でも抗戦でもなく、いまこうしているようにお互いの代表の武を競って決着をつけようと言うのだ。  彼らの部族は匈奴としては辺境の土地――もはや周囲には鮮卑が多い地域――に位置し、人数もそれほど多くない。戦ともなれば、大兵力の華琳達に抗するのは難しい。だが、地の利はあり、負けぬように持久戦で戦線を膠着させ、冬の到来を待つことも出来る。ただ、それをやればお互いにいらぬ損害を増やすだけであろう。だから、いっそ力自慢、腕自慢同士で競わせてみようというのだった。  華琳はこれを受け入れた。進軍に影響を出さず早期に屈服させる自信はあったが、民を損なわせたくないという長の意向は彼女にとっても好ましいものだった。  そして、十番勝負が始まったわけだが……。  いま、試合場では流琉が相手の腕をねじり上げ、足で肩を押さえつけて、男の体を地面の上に釘付けにしているところだった。屈服の呻きが漏れ、勝負が終わる。 「さて、我が方の二人で九人を抜いたわけだけど、最後の一人は?」  もはや勝敗は決まっている。しかし、最後までやらねば納得しないだろう、と華琳は読んでいた。ある意味でこれは儀式だ。相手に気持ちよく降ってもらうためにも、鮮やかに勝ってやらねばならない。  部族最高の猛者たちを、こちらも最大の戦力をもって攻略してこそ、負けた方の信頼も得られる。彼女はそう考えていた。  匈奴側はしばらく小声で相談していたが、ついに族長が頷いて立ち上がった。歴戦の勇士なのか、腕にいくつか大きな傷痕が見えた。 「俺が出る」  それを半ば予想していた華琳は満足そうに微笑んで、春蘭を指さした。 「では、こちらも最高の人材を出しましょう。魏の猛将夏侯惇、このあたりにもその名は聞こえているはずだけど?」  指名された春蘭が立ち上がるのを見つめながら、族長は大きく頷いた。その顔が興奮のためか、獰猛な笑みに彩られていく。 「ああ、腕が鳴る。最後ということで一つ提案があるのだが」 「いいわよ」 「俺は力も自慢だが、武器を持っての戦いの方が得意だ。だから……」 「どう、春蘭?」  族長の曖昧な仕草に、華琳は腕を組んで春蘭に目線をやる。彼女は華琳に向かってぐっと拳を握りしめて見せた。 「望むところです、華琳様。よかろう。お前の武芸と私の大剣。競ってみようではないか」  族長と頷き合い、お互いの得物を持って試合場へ向かう二人。その背に、華琳は朗らかに声をかけた。 「お互い、余計な血は流さないようにね」  と。 「華琳様、やつらが負けを認めて、祝いの酒宴を開こうと言ってきていますが」  傷一つ負わずに見事勝ちを収めた春蘭は、青あざだらけになりつつも崩れ落ちずに終わった族長の肩をばんばんと叩いて健闘をたたえてから、華琳の元にやってきた。  華琳は少し考えるような素振りをして、風と目配せしてから答える。 「いいんじゃない? うちの兵達にもふるまってやりなさい。ただし、あまり濃い酒はだめよ」 「わかりました!」  元気よく答える春蘭と、それに春蘭さまさすがですー、とじゃれついている季衣を見ながら立ち上がる華琳。それに風も続き、流琉も季衣を春蘭から引きはがしつつ続く。 「じゃあ、春蘭。支度と兵達への手配りはあなたに任せるわ。なにしろ長を倒した英雄ですもの。それに、私たちはあまり最初からいないほうがいいでしょう。あちらはともかく、兵が畏縮するしね」 「はっ。……ええと、じゃあ、場が暖まったらお呼びすれば……?」  華琳が最初から参加しないと聞いて肩を落とす春蘭だったが、これも役目と思ったかなんとか気を取り直して訊ねる。 「ええ、それでお願い。それまで風たちと天幕にいるから。ほら、流琉と季衣も来てちょうだい」 「はい。ほら、季衣」 「はーい」  彼女達四人はそうして観覧席よりさらに後方、親衛隊の兵に囲まれて立つ天幕へと入っていく。特に分厚い布がみっしりと使われていて、昼間だというのに中は薄暗かった。  流琉がぱたぱたと動きまわって灯火をつけ、四人は中央の卓に座る。 「さて、では、しばらく待つとしましょうか。誰かなにか報告することでもあったら、この機会に言っておいてちょうだい」 「はーい。では、風から。南の方から、色々と連絡が来てますですよー」  良いながら、懐から書簡を取り出す風。華琳はそれにざっと目を通していたが、終わりに行き着く前にそれを卓に放り出した。 「どうやら一刀が騒がしくやっているようね」  流琉が作り置きしておいたお菓子を、長櫃に入った箱から取り出していた季衣が、その言葉に反応する。 「兄ちゃんが? 兄ちゃんは涼州じゃないんですか?」 「あ、そうか。季衣は知らなかったっけ。兄様、荊州牧になったのよ」 「ふぇー」  季衣の驚きの声がくぐもっているのは、すでに固く焼き締めたせんべいのようなものを頬張っているからだ。流琉は苦笑しつつ彼女の持つ箱を受け取り、飴を取り出すと風に渡し、自分も小さいのを手に取る。そのまま箱を前に出すと、華琳は砂糖菓子を一つ指でつまんで、口に放り込んだ。 「荊州での国境線を画定させるまで州牧をやらせてくれ、なんて頼んできたものだからね。全部任せると言いつけて来たのよ」  そこで彼女は口中の菓子を舌で転がしながら小さく笑う。 「でも、まさか雪蓮と冥琳に加えて美羽と七乃まで送り込んで、大騒ぎを起こすとまでは思ってなかったけど」  棒付きの飴をくわえていた風がちゅぽんとそれを口から出して、華琳の感想に対して指摘を行う。 「あれは華琳様のまねですよ」 「私の?」 「ええ。漢中でやったじゃないですか」 「……私は軍を動かしたりしていないわよ」  漢中の所属を通達するときの駆け引きを拡大して行っているのだと指摘され、呆れたような顔で頭を振る華琳。それになんとも言えぬ笑みを浮かべて風は相変わらずの半眼で主を見つめ返す。 「そこがおにーさんのおにーさんたる所以でして。華琳様のお言葉なら言葉だけで威力がある。しかし、自分の言葉――北郷一刀の言葉では、なんの力もない。だから、せめて後押しにと雪蓮さんや軍を動かしてみる。そういったところでしょう」  華琳はがり、と音を鳴らして菓子を噛み砕いた。 「……自分への過小評価も行きすぎると腹が立ってくるわね」 「その、雪蓮さんたちを動かすって……結構なこと、ですよね?」  流琉が探るように問いかけるのを、風は褒めるように頷く。 「ですねー。そのあたり、おにーさんは大小、軽重の比較をうまくできていません。悪い癖です」 「ほうなの?」 「おにーさんの感覚だと、雪蓮さんや冥琳さんは自分を頼ってきてくれた仲間です。それが判断を鈍らせているのでしょうね。呉にも関わることだし頼んでみよう、となってしまうんです」  風は妙にうまい一刀の声まねを交えつつ、せんべいの固さにさすがに苦戦している季衣に解説する。 「恋人、という点では、かえって突き放して見るように努めているようだけれど……。部下の扱いとしては落第もいいところね」 「あの……どういうことでしょう?」 「兄ちゃん、まずいんですか、華琳様?」  流琉と季衣が顔を真っ赤にしたり青ざめさせたりしているのを見て、華琳は柔らかな笑みを浮かべてみせた。 「そこまで深刻な話ではないわよ。根深いとは言えるのだけれど」  二人の心配顔が治まらないのを見て、彼女は自分の頬をなでながら、説明を試みる。 「いい? 一刀の下には多くの人材がいるわよね?」 「はい」 「彼らは様々な理由で一刀の下に来ているのだけれど、名目は彼の食客となっている。たしかにそれは各国に所属しているよりは緩やかな関係だけれど、あれが彼女達を保護している以上、それなりの代価――具体的な行動も要求されるわけ。白蓮なんかはともかく、麗羽や美羽は一刀の保護下から外れたら、どこもひきとってくれないわ。陰謀のよい標的ですもの」 「行動っていうと……」 「あ、そっか。軍に参加したり?」  流琉が考え込み、季衣がぱっと思いついたことを口にする。 「そうね、それも一つ」  戦に自分から参加したがる将もいるからそう見えないこともあるけどね、と華琳は苦笑する。 「ただし、そうね、名を捨てている雪蓮と冥琳、それに月はちょっと特殊な位置かしら。本来ならそこまで要求されないという意味ではね。でも、それ以外の面々は仲間であり、部下でもあるはずなのよ。ところが一刀は部下として見ていない」 「もちろん、軍の中では部下として扱いますが、それは一時的に集まってきた蜀の面々も同じ。つまり、形式的な部分であって、本質的ではないんですね」 「だから、一刀の言は基本的に主命ではなく、頼み事になるわけ」 「はぁ……。兄様ならそうかもしれませんね」  いまひとつ呑み込めていない様子の二人に、華琳はしばしの間、風と顔を見合わせてから話し出した。 「命を下すというのはね、責任を取ると言うことなのよ。私はあなたたちに命令する。そこで行った行動は――それが良いことであれ指弾されるようなことであれ――最終的には私に跳ね返ってくる。そうでしょう?」 「もちろん、華琳様は命じたことの出来不出来で褒めたり注意したりしますが、それはあくまで内部のことで、外部から見れば、たとえば季衣ちゃんがやった軍事行動も流琉ちゃんがやった討伐も、華琳様が命じたこと、つまり華琳様の意思に基づく、というのに変わりはないのです。これはもちろん、華琳様を代行して風や稟ちゃん、桂花ちゃんが命じたとしても同じ事ですよー」  華琳と風が問いかけるように見つめるのに、季衣と流琉は二人でそっくりな動きをして腕を組み、うーん、と一つ唸った。かわいらしいですねぇ、と心の中で呟く風。 「はー……。なんとなくわかった気がする」 「兄様の場合、兄様だけの責と受け取られないということでしょうか?」 「頼み事となったら、引き受けた方にも多少の責任があることになるもの。まあ、実際は……」 「実際には、おにーさんの意思とみられるでしょう。各国で北郷一刀とその下にいる者たちについては――たとえ正体を隠していても――認知されていますから。ただ、自覚が足りないということです」  華琳が肩をすくめて言葉を途切れさせるのを引き継いで、風が締めくくる。 「自覚……」  かみしめるような沈黙がしばらく落ちた。風は舐めるのに飽きたのかがじがじと飴を噛み、華琳はもう一つ砂糖菓子をつまみとる。 「とはいえ、そこが一刀のいいところでもあるし、なんとも言えないわね。ある意味では悲劇……」  そこまで言って、華琳は自分の言葉を否定するように首を振る。彼女は指に着いた砂糖のかけらをはたき落とすようにぱんぱんと手を打ち合わせ、それまでの空気を払いのけるような仕草をした。 「いえ、それをいま言ってもしかたないわ。ともかく、荊州のことは一刀に任せたことよ。最終的な結果が出るまでは連絡も不要、と桂花には伝えておきなさい」 「わかりましたー」  それから、彼女は外からほんの少し漏れ伝わる喧騒に耳を澄まし、うん、と頷いた。 「そろそろいいわね、流琉と季衣は宴に行ってらっしゃい」 「え、あ。はい。わかりました」 「はーい、行って来まーす」  二人は跳ねるように立ち上がり、うきうきと外へ出て行く。やはり、宴ともなれば嬉しいのだろう。季衣はお腹一杯食べられるのを期待しているのだろうけれど。 「ここまでは順調すぎるほど順調だったけれど、やはり、ここからは侵攻経路が限られるか」  二人が出て行った後、地図に指を走らせていた華琳は結論づけるようにそう言った。 「水が足りないですからねー。水のある地帯を進まないといけません。しかしながら、相手の各部族も同じように水と草を求めて特定の地域にいるわけですから、そこを進むのが効率がいいことになりますかねー」  これまで進んできた地帯は黄河が北方へ大きく曲がった、いわゆる大屈曲部分の内側やその周辺だった。そのため、草原とは言っても土壌に十分な水気がある、遊牧と定住農耕の混在した地域だった。しかし、これより先、農耕は不可能となる。  そこは、見慣れた木々のない、草と低木だけが広がる世界。草原、高原、沙漠が入り交じる不毛地帯だ――農耕民にとっては。  逆に遊牧民にとって、それこそが母なる大地の風景。  大軍を移動させるなら、点在する川――それは地下にある場合も多い――や湖といったものを渡り歩いていくしかない。そんな土地。 「こちらも読めるけれど、相手にもこちらの動きを読まれることになるわね」 「しばらくは全軍まとまって動くしかありませんねー」 「いえ、これからずっとよ」  風の推測を楽観的だ、と華琳は切り捨てる。三十万を一挙に動かすのは至難の業だが、これからの道のりで兵を分けた場合、合流できるまでの期間が大幅に伸びてしまう。時間の損失と危険性を増す策をとるよりは、一体で動く方が良いとの判断だろう。 「今後、軍を分けることはしない。偵察も兵を増やしましょう」 「了解ですー。慎重に越したことはないですね。異境の地ですから」  華琳は頷いて、しかし、それだけでは足りないとでも言うように真剣な顔で声をひそめた。 「ええ。それと……」 「華琳様ー」  天幕の外から明るく大きな声が響き、二人の会話は途切れた。二人はびっくりしたように顔を見合わせ、揃って笑みを浮かべる。その間も、外からは春蘭の声が何度も呼びかけてきていた。 「さて、いまは宴に行きましょうか。人死にも出さずに済んだのですもの」 「はいー」  いつものとおり眠そうにも平静にも聞こえる声で答えてから、風はふと思う。  はて、華琳様は何を仰るおつもりだったんでしょうね。  しかし、彼女が見上げる横顔は満足と喜びを示す表情に満ちていて、風の心に浮かんだ問いには答えてくれそうにないのだった。  2.朝帰り  ぎぎ、と小さいが重苦しい音を立てて、扉が開かれる。  そのわずかな隙間から黒い頭が飛び出し、周囲を確認するように何度も振られた。黒髪の中に色が抜け落ちたのか白い部分があるのが、彼女が頭を各所に向ける度に目立つ。  部屋の外に広がる廊下に鋭い視線を送る彼女に後ろから声がかかった。 「その、なんというか、俺の部屋への女性の出入りはあまり気にされていないから、そんな注意しないでさっさと出た方がいいと思うんだけど……」 「さすがは三国一の色男というところですか」  今度は別の女性の声。からかうような感心しているような、奇妙な声音だった。 「警備の穴になってるんじゃないかと思わなくもないけどね」  そんな会話を気にもせず、黒髪の女性は扉を開ききり、頭だけではなく体ごと廊下に出た。髪色にあわせてだろうか黒い上下を纏うその姿は、蜀将焔耶。 「ふむ、誰もいないようだ」  そう呟いた途端、開かれた扉によって死角となっていた位置から響く声。 「ここにいるぞーっ!」 「うわあっ」 「おやおや」 「……あちゃー」  元気な声と共に腕を真っ直ぐ伸ばした小柄な姿に、焔耶に続いて部屋から出てきた二人も含めて三者三様の反応を返す。 「あれー? 筋肉女に星姉様、なんで一刀兄様のお部屋から?」  言ってから、彼女――蒲公英はにやっと笑み崩れてその手を口に当てた。 「おやおやー? いまは早朝ですよねー。あれあれあれー? ってことはー? えー、いきなり二人ともー?」  問いかけるように、しかしその実、笑いを我慢するようにその声は震えている。一刀の横に立った星は、彼にもたれかかるようにして袖を上げ口元を隠して、彼女の言に対した。 「ほほう、ばれてしまいましたぞ。どういたしましょうな?」 「ち、違うぞ、蒲公英」  しなだれかかられ、胸を押しつけられて顔を赤くする一刀をよそに、彼女はさらに彼の体に空いた方の手を絡めつつ色っぽい流し目を蒲公英に送る。 「実はな、蒲公英。我ら二人の手練手管をもってして一刀殿を籠絡せんと……」 「おー!」 「悪のりしないの!」  ぎりぎりと唇をかみしめつつぴくぴく小さく震えている焔耶を見ながら、一刀は叫ぶが、興奮しているらしい蒲公英には通じない。 「でもさ、でもさ。星姉様はともかく、この筋肉莫迦のほうは、得意っていったら脅しの手法じゃないのー? 百戦錬磨の一刀兄様は見向きもしないでしょー」  この言葉にさすがに気分を害したのかどうか。焔耶は表情をさらにきつくして、蒲公英を睨んだ。 「おい。いい加減にしろ。いつもの冗談に決まっているだろうが、この小悪魔娘。いつもいつも余計な事をほざきおって」 「あ、あの、そこで挑発するのはちょっとだな……」  一刀が手を伸ばして焔耶を制止しようとするものの、白い着物が絡みついていて思うようにいかない。彼が星をふりほどこうとする前に、蒲公英の笑みがすっと収まった。 「ふーん、そういうこと言っちゃうんだ」  彼女は見上げるようにしながらぐっと近づき、焔耶は反射的に体をのけぞらせた。 「あんた、勝手にここに入ってきたでしょ。いくら将とはいえ、無断で陣を離れるってのはどうなの? たんぽぽ、ここで叫んじゃおっかなーっ!」 「おのれ……」 「ふむ、たしかに、その点では少々分が悪いですな」  感心して頷いている星に呆れつつ、一刀はなんとかなだめようと声をかける。 「いいか、蒲公英。こんなところで騒いだら……」  だが、その言葉が終わる前に、廊下の向こうで気配が動いた。 「わ、わ、わ、我が君!?」  見れば、金髪を振り立てた袁家の主と、その後ろに当然のように控える二枚看板の姿。麗羽は慌てているのか驚いているのか顔を青くしてわたわたと手を振っていた。 「遅かったようですな?」  少し離れていた体が再び近づき、酒と甘い香りが混じりあって香ってくるのを意識せざるを得ない一刀。だが、恋人同士が寄り添うようなその姿勢は自然、誤解を呼んだ。 「我が君から離れなさい、この下郎!」 「……下郎?」  すい、とただでさえ切れ長の目がさらに細まり、その奥に強い光が宿る。一刀の視界の隅で、きっかけとなったはずの蒲公英が、まるで嵐を避けるように壁に張り付き、体を小さくするよう努力しているのが見えた。 「せ、星、抑えて!」  そして、蒲公英は一人で逃げてないでなんとかしなさい! と続けたい一刀であった。 「猪々子さん、斗詩さん、さっさとあの賊から我が君をお救い申し上げなさい!」 「救うって……」 「……なあ」  麗羽の命に、数歩前に出たものの、見るからにやる気のなさそうな猪々子と斗詩は苦笑しつつ顔を見合わせる。一刀はその様子を見て、お互いに加減のわかった茶番で二人に星たちを抑えさせれば一段落だな、と安心した。  だが、彼の横に立つ女性はそんな予想をあっさりと裏切った。 「ほぉう? 私は一刀殿を襲っている賊か」  彼女は楽しそうに笑うと、その口元に上げていた袖を一刀の首へと移す。それは彼に抱きつこうとするようにも見えたし、あるいは……。 「すると、こう、首筋に刃物でもつきつけなければなりませぬかな」  まさに彼女が言うように彼の命を握っているようにも見えた。焔耶は苦虫をかみつぶしたような表情で朋輩の行動を見つつ、斗詩と猪々子、それに麗羽と蒲公英の動きを警戒するようにじりじり動いていた。 「のりのりだね、きみ」 「ははっ」  一刀の諦めたような声に、心底から楽しそうに笑う星。その姿は、廊下の端に立つ麗羽を強く刺激した。 「ああ、あのように絡め取られて……きっと身動きもとれぬよう脅されているに違いありませんわ。なにをしていますの、斗詩さん! 猪々子さん!」 「はーい。わかりましたー」  本気の怒声を浴び、猪々子は背負っていた大剣を抜いた。斗詩がその行動に目を丸くする。いかな理由であろうと、武器を抜けば戦いは避けられない。そのことを猪々子がわかっていないはずはないのだ。 「文ちゃぁん」  泣きそうな声で名を呼ぶ斗詩に、猪々子はにっこりと笑ってこう答えた。 「だってさあ、おもしろそうじゃん?」  そう言って駆け出す猪々子。その先で、焔耶と星はすでに――殺気はないまでも――本気の臨戦態勢に入っていた。 「うわぁ……」  頭を抱えつつ、しかし、猪々子だけを戦いに巻き込むつもりもなく、彼女もまたその狭い廊下での乱戦へと参加していくのだった。 「え……」  使者に案内されて邸へとやってきた雛里は、広間に入った途端息を呑んだ。  朝起きてみたら陣から消えていて、どうしたものかといぶかっていた焔耶と星がぐるぐる巻きにされて転がされていたからだ。雛里の頭の中で一瞬にして北郷陣営による蜀陣営暗殺という構図ができあがるが、他にも猪々子に斗詩、翠、蒲公英、霞と幾人もの将軍たちが芋虫のようになっているのを見て、その予想は崩れ去る。  なにしろ部屋の隅では北郷一刀と麗羽の二人――漢の大鴻臚と大将軍――が床に座らされ、詠にどやしつけられている最中だ。そんなきなくさい場面とはとても思えない。  緊迫した事態ではないと雰囲気から察して少々安心しながら、彼女は星の縄をほどき始めているねねに問いかけた。 「あの……なんで、みんなして縛り上げられてるんでしょう……?」 「ねねにもよくわかりませんが、朝っぱらから邸の中で乱闘を起こしやがったので、みんなまとめて捕縛したですよ」  星と焔耶は決まり悪げに黙っているだけだ。ねねと同じように焔耶の縄を外していた華雄がつまらなさそうに呟く。 「乱闘というほどのものでもない。ただのじゃれ合いだが……。まあ、たまには頭を冷やすのも良かろうさ」 「うちは、みなが入り乱れとるんで、一刀を救うただけやんかー」  これは、華雄の言を聞いて口を挟んできた霞。彼女はもぞもぞと毛虫のように這いずって不満を表現していた。 「蜀の二人は武器を持っていなかったし、蒲公英も武器を振るってはいなかったではないか。偃月刀を携えてつっこんでいく莫迦がどこにいる」  華雄さんがたしなめるというのはなんだか新鮮かも、などと考えている雛里。 「華雄かてつっこんできたやろ」 「全員吹っ飛ばしておとなしくさせたまでだ。やるならきちんとやらねばな」  先ほどの考えを改め、やっぱり華雄さんだ、と雛里は思う。 「後のことはこちらでやりますから、いまはともかく二人といっしょに陣のほうへ戻ってもらえますか?」 「あ、うん……」  そうして、ひねったのか縄が痛かったのか、手首をさすったりしている星と焔耶の二人を引き連れ、雛里は邸を退去した。 「まったく、えらい目にあった」 「あの、いったい……」 「うむ。一刀殿から少々情報を引き出してきたまでのこと。その後の騒ぎは……まあ、勢いというもので」  人通りの少ない道を選び、陣へ帰るにも多少遠回りな行路を取って、一行は会話を始める。 「ま、ま、ま、ましゃか」  ぼんっ、と音をたてそうな勢いで赤くなり、足を止める雛里に、焔耶はうんざりしたように答える。 「何を想像しているかしらんが、ただ話をしてきただけだ」 「しょ、しょうですか」 「まあ、軍師殿の想像するようなことがあれば、それはそれで面白かったかもしれませぬが、今回は違いますよ」  星がさらりと流し、真剣な顔で続ける。 「それで我らが一晩語り明かしたことですが……」  そうして彼女は一刀が語ったことを、焔耶にも幾度か確認を取りつつ雛里へ伝えたのだった。 「そうですか……」  聞き終えた頃には三人は陣の近くまでやってきていた。蜀兵がたむろするあたりを抜けて、天幕へと急ぐ。 「お二人は朝ご飯は……」 「いや。しかし、それほど腹が減っているわけでもない。夜通し飲んでいたこともあってな」 「では、乾物がありますから、もしよろしければ……」  天幕に入り、雛里が取り出した乾燥果実をくわえつつ、焔耶は入り口近くに立つ。おそらく見張り代わりなのだろう。残りの二人は毛氈に座り込み、雛里は自身の三角帽を抱きしめるように膝に置いて話し始めた。 「星さんのお話を聞いて、少し安心しました」 「たしかにな。必ずしも戦を企図しているというわけでは……」 「いえ、そうじゃないんです」  雛里は大きく頷いて同意する星の言葉を遮るように手を振った。 「北郷さんが狂者ではない、とわかったことが、です」 「なに?」  焔耶も思わず振り返って問いただすのに、蜀の大軍師は大きく息を吸ってから口を開く。 「人というものは、情と理で動きます。そして、そのどちらをも支えているのが欲です。己の中の道理や情感に背くような物事に従うということは非常に抵抗がありますし、楽しくやりたい、気持ちよくいたい、という根本的な欲望とも背反します」  焔耶と星は顔を見合わせて、雛里が何を言おうとしているのか探るように、再び耳を傾けた。 「ですから、人はそれぞれの理や情に従って動くのが普通なんです。我々軍師は、そういった人の情や理がどこに根ざし、どこを目指すのか、それを読んで人の動きを見ます。あるいは、逆に各人がどう動くかを観察し、検討することによりその背後に存在する道理や感情の働きを推察するのです」 「ふうむ」 「しかし、今回、北郷さんは、これまで彼がしてきたこととは反することをしていました。民の不利益を斟酌しようとせず、魏の利益となるはずの申し出には難癖をつけ、祭さんや詠さんが暴言に近いことを言っても、それを訂正するようなことはなかった。そもそも、彼はあまり他人に交渉を任せるということをしたことがなかったはず」  そこで雛里は一度息を整え、さらに自分の中の思いを綴る。 「私はたしかに北郷さんとお会いする機会は少なかったですし、あの人物をそれほど理解はしていません。しかし、といってあのような理不尽を働くような人物とはとても思えないのです。それはあの人の下に行った白蓮さんが動揺していたことでも裏付けられます」 「あれはたいそうな狼狽えようでしたからな」  くっくと喉を振るわせる星。 「しかし、狂者とは」 「はい。私はあの時、こう考えたのです。彼はいままでしてきたのとはまるで違う行動を取っている。さらに、この動きは情理の外にある、と。情理の外にあるものを行動原理に出来るのは、宗教者か狂者に他なりません。もし、どちらであっても、他者の意見を聞くことはないでしょう。交渉という行動自体が無駄になります」 「ふうむ。つまり、狂っているのではなく、ただとぼけているだけなら交渉は出来る、か。しかし、どうする。あれは、現状維持の案は呑まんとはっきり言っていたが」  焔耶の問いに、雛里はそれまでよりはかなりゆっくりと、考え考え言うような口調へと変わる。 「それは……これから考えるしかないでしょう。先ほどの話で前提状況がまるで変わりました。まずは成都と襄陽に使者を出し、雪蓮さんの宣言はまやかしであると……いまの緊張状態を作り出すためだけのものだと知らせましょう。これだけでも事態の沈静化、少なくとも早期に戦端が開くことはなくなるはずです。その間に南方でも交渉を行い、こちらでも……」 「ふむ」  だが、雛里は自分で言った言葉を否定するように大きく手を振った。 「いえ、だめです。だめです」  両手を頭につけ、体自体を懸命に左右に振る雛里。 「蜀だけではだめです。建業と襄陽の呉勢にも使者を出さないといけません」  呉と蜀、両方に同時に情報が渡るのが重要なのだと雛里は強調する。星はそれに得心したように頷いたが、ずいと体を前に出して雛里の顔を覗き込んだ。 「その案自体には賛成だが、はたして、使者の兵を送るのに支障は?」 「それは大丈夫でしょう。北郷さんの策で大事なのは、魏、呉、蜀の注意が荊州に向かうことです。戦――というより戦の準備はそのための舞台装置に過ぎないでしょう」 「あまり甘く見るのもどうかと思うがな」 「はい。もちろん、そこは気をつけます。なにがあっても対処できるだけの兵を選びましょう。問題は時間のほうですが……」  一人考え込み、取るべき経路などを検討し始めた雛里を見つつ、焔耶は首をひねる。 「うーん」 「どうした、焔耶」 「いや……。たしかにあやつは、戦にはならないとは言ったが……。なにか違うような」 「さて、どうだろうな……。だが、やるべきことはやらねばならない。桃香様たちに情報を伝えるのも必要なことだろう」 「それもそうだ。では、私が兵馬の用意をしてくるとしよう」  言って立ち去る焔耶を見送った後で、雛里へと体を近づけ、星は確かめるように訊ねた。 「軍師殿としては、北郷一刀の排除、も視野に入れておられたのでは?」  密やかな声に、雛里はぶるりと体を震わせる。彼女は紙面から顔を上げることなく、少しだけきつい声で言った。 「それはいま選ぶような手段ではありません、星さん」  3.難民街の会談  襄陽の水濠にへばりつくように、数十の家屋が建つ。  いずれも日干し煉瓦を積んで建てられた簡易なつくりだ。濠に引き込んでいる漢水が軽く増水でもすれば、即座に流れ去って行ってしまうだろう。  その家々の中心、街で言うならば広場と言えるのだろう場所に、今日はいくつもの天幕が展開されていた。多くの天幕は入り口側の布をはねあげ大きく開けており、その天幕群の背後では大鍋がぐつぐつと煮られていた。 「はい、おかゆのおかわりたくさんありますよー」  具がたっぷり入った粥を、住人たちに振る舞っているのは、幾人かの女性を中心とした一団だ。彼女達に粥を供給すべくせっせと働いている者たちはたいていが屈強な男達で、統率の取れた動きをしていた。鎧を着けいていないのが不思議なくらいだ。 「はい、おかわりですねー。うん、こっちのおかゆもっていってね。おさじはある? うん、じゃあねー」  子供に空の器を差し出され、そんな応対をしているのは、桃色の髪と深い碧の瞳をした女性。てきぱきと粥を運びながら、たまに前掛けをひっかけたりしてわいわいとやっているが、けして大変そうな雰囲気はなく、ただただ楽しそうだ。  その女性の前に、ぼろを深くかぶった人物がよろよろと近づいていく。この集落でも見ない顔なのか、それとも忌避される人間なのか、誰もそれに構おうとしない。女性はそれに気づくと、ぼろを着た人の元へ駆け寄っていった。 「大丈夫……? 私に掴まって?」  そう言って体に手を添え、引き下ろされたぼろの中の顔を覗き込んだ途端、彼女の口はまん丸に開かれる。 「れん……!?」 「しっ」  鋭い声と、腕を掴む指の力が、彼女の口を閉じさせた。彼女自身、慌てたように声を呑み込んでいる。 「少し落ち着いて話せないか?」 「あ……うん。紫苑さーん、天幕つかいますねー」 「はい、わかりました」  優雅な仕草で答える女性にぺこりと頭を下げ、二人はあくまで歩くのが不自由な人間を支えるような仕草で天幕へと下がっていった。 「びっくりしたー」  天幕に入り、しっかりと入り口を閉じてから、桃香は振り返る。その視線の先では、ようやく纏っていたぼろを脱いだ呉王蓮華が、窮屈だったのか、伸びをするような姿勢をしていた。 「すまんな。非公式な場で、いくつか話しておきたいことがあってな」 「うん」  二人の女王は頷いて座り、真っ直ぐ相対する。蓮華は顔を傾けると外を見やるような仕草をした。 「炊き出しか」 「うん。ここの人達も、けっして飢えているわけじゃないんだけど……」 「あまりやりすぎると、華琳たちを刺激するぞ?」  なにしろ、三国が中途半端にしか支配を及ぼしていない地域だ。名目上は漢の土地であるから、丞相たる華琳に率いられた魏が管理しており、この地に住む住人にも最低限の生活は保障しているのだ。あくまで最低限の。 「うん……。でも……」  桃香は申し訳なさそうにうつむく。彼女としても他人の土地にそうそう干渉するつもりはないのだろうが、目の前で困っている人がいれば放ってはおけないというところだろう、と蓮華は予想をつける。実際、今日の人々の集まり具合を見れば、腹をぺこぺこに減らしているということはなくとも、美味い食事を摂れるのは珍しいことなのだろう。 「いまはそれは置いておこう。さっきも言ったように、いくつか話がある」 「うん、私も蓮華ちゃんと……」 「最初に謝っておく」  にこりと笑みを見せた桃香の言葉を遮って、軽く頭を下げる蓮華。その行為に驚いたか、桃香は言葉を引っ込めて彼女の行動を注視する。 「この一連のこと、おそらく私のせいだ」 「ええっ?」 「一刀と相談したのだ。呉の未来についてな。その中で、一刀は荊州問題こそ、呉が解決すべき問題だと言ってな。どうにかすると言って、建業を去ったのだ」  蓮華は肩をすくめてみせる。 「奴が心配するのもわからないではない。大規模な領土問題は、三国の中でもここだけだからな。我が孫呉に限らず、蜀にも魏にもこの問題は影響がある」 「でも……私、一刀さんが、こんな混乱を望んでいたとはとても……」 「私もそうは思わない。だが……。うん、そうだな」  どう説明しようか、と蓮華は悩み、桃香に通じるであろう形を頭の中で作り上げる。 「いいか、桃香。黄巾の乱以来、馬騰、月、白蓮、姉様、華琳にお前、悪意で動いた群雄など一人もいない。ああ……うん、袁家の二人はこの際おいておいて、だ」  あれらは善悪を超越して、なにも考えていないだけだからな、と蓮華はぶつぶつと呟く。 「今回の事とて、一刀の善意かもしれん。いや、十中八九そうだろう。あやつのことだから、なにか考えすぎて変な方向へつっぱしったのかもしれんしな。しかし、たとえその意図が善だろうが悪だろうが、起きるときには戦は起こる。お互い、それをさんざん経験してきたではないか?」  沈黙。  それは、彼女の言葉を認めたからではなく、認めたくないからだろう、と蓮華は考えていた。蓮華自身、そんなことを認めたくはない。 「でも! 蓮華ちゃんだって、戦は起こしたくないでしょ?」 「当たり前だ」  桃香の叫ぶような言葉に、蓮華は怒ったような口調で答える。もちろんだ。だからこそ、こうして訪ねてきてもいる。しかし、たとえば、桃香と自分、そして、一刀も含めた全員が戦を望んでいなかったとしても、起きるときには起きてしまう。それが戦乱というものだ。 「だが……桃香。それでも動かねばならぬ時はあるぞ」 「それは……そうだけど」  二人ともどうしようもないことを言っているのはわかっている。国を代表していても、いや、だからこそ、止められないこともある。  蓮華は頭を振って次に進んだ。あまり、長居するわけにもいかない。 「一つ忠告だ。私は雪蓮姉様とは血を分けた姉妹だが、あれを説得しきる自信はない。あの人の性格からして、一蹴してから話をはじめるつもりでも不思議はないからな。それを念頭において交渉に臨むほうがいいだろう」 「……そもそも交渉に出てきてくれないよ、雪蓮さん」  苦笑いで返すのに、ため息を吐く。実を言えば、少しだけ期待していたのだ。蜀の側だけでも雪蓮と接触していてくれれば、と。しかし、それはないようだ。やはり、あちらは現時点ではまともにこちらと話し合うつもりがないのだろう。 「そうか。我が方もだ」 「あのさ。二人で……両方の国から申し入れてみるとかってのは?」 「うん。悪くない」 「よかったあ」  桃香の提案は渡りに船だ。呉の側としてもなんらかの打開策が必要だったのだ。ただし、両国の王が連名で申し入れをした上でも無視されれば……。  蓮華は最悪の予想を振り切って、喜んでいる桃香に声をかける。 「桃香」 「ん?」 「戦は起こしたくない。誰の益にもならん。そうだな?」 「うん、もちろん」  真剣に頷く桃香に、蓮華は同じように熱心に対する。  だが、それでも。彼女とこの目の前の女性とでは明らかに立場が違うのだ。  守るべきは、国と民。  同じもののはずなのに、彼女達は立場を異にする。 「我らはいい加減この問題を解決せねばならん」  蓮華は、はっきりと言い切った。一人の人間としてではなく、呉の女王として。 「荊州をこのまま捨て置くも、戦に巻き込むも、誰の益にもならんのだ」  そうやって続いた言葉を、果たして桃香は理解してくれたろうか。蓮華は隣国の王の顔を見つめながら、重責と不安がまとわりついてくることを意識せずにはいられないのだった。  4.黄金の水  長江が燃えていた。  炎にではない。茜色の空の色を川面に映し、黄金色に江水が燃えているのだ。  その黄金の上を、船が行く。流れに身を任せ、小舟はゆったりと川を下っていく。  両岸は遙か先。けれど、その岸辺のさらに向こうには、同じく黄金色に染まった大地が続くのが見える。それは空の色に非ず、大地の実りの色。数えきれぬほどの稲穂が風に揺れる光景だ。  船のへりにもたれながら、彼女はそんな風景を眺めていた。  美しい。  つくづくそう思う。  江東の地は、本当に美しい。実りを与え、生きる糧を与えてくれる大地。  こうして無心に眺めるなど、いつぶりだろうか。船遊びをするのさえ、ずいぶん久しぶりに思えた。 「祭よ。漕がんと流れていってしまうぞ」  名を呼ぶその声に彼女は慌てて起き上がる。そこにいたのは、懐かしい顔。 「どうした、祭、なにをそのように呆けておる。ほれ、櫂を握れ」  言われるままに櫂を取り、ほとんど肉体の反射だけで、漕ぎ始める。それでも船は川の流れに抗して動き始めた。  腰まで垂れた桃色の髪。祭よりさらに大きい胸とそれを不自然に見せない鍛え上げられた体躯。整った顔の中で人を惹きつけずにはいられない、力強い瞳。  孫家の三姉妹によく似た――けれど、雪蓮より野性味があり、蓮華より怜悧で、小蓮よりころころと表情の変わる、その人物こそ。 「け、堅殿!?」 「おう、儂じゃ」  孫文台――孫策たちの母親にして、江東の虎と呼ばれた女傑。  祭にとって、その忠誠を捧げた主たる人。 「久しいのう」 「え、あ……。はっ」 「江東の地は美しい。そうは思わぬか」  彼女は祭の漕ぐ勢いで川を上り始める船の上、手を大きく広げて周囲を示して見せた。それは、先ほどまで祭が思っていたのとまるで同じ事。 「けして優しくはない。中原から見れば鄙びた場所かもしれん。しかし、それでも、この地は我らにとって、愛おしい大地じゃ」 「堅殿のおっしゃるとおり」  微笑んで同意する。しかし、相手はその祭の顔を見て大きく嘆息した。 「そんな地を去っていくとはのう」 「堅殿……?」 「主が孫呉を捨てるとは思いも寄らなかったわ」  その言葉に心臓を刺し貫かれたかのような衝撃を受ける。祭は思わず身を乗り出して、自らの主に呼びかけていた。 「堅殿、聞いて下され」  だが、それを聞き流し、孫文台はやれやれと言いたげに首を振る。 「ましてや、我が娘たちに骨肉相食ませるとは」 「……なんじゃと」  祭の声の温度が下がる。先ほどまでの狼狽は一瞬にして収まり、鉄のような意思がその顔を覆う。 「儂に代わって主が育てた愛し子を、相争うように仕向けて居るではないか。とぼけるか、公覆」  江東の虎と呼ばれた女性は、沈黙を罪悪感のためと受け取ったか、大きな瞳で祭を覗き込みながら静かに続けた。 「先祖伝来の地を裏切るのみならず、孫家に牙をむくとは堕ちたのう……。なにがおかしい?」  急に大きく笑い出した祭。それをいぶかしげに見る視線さえはねのけて、祭はさらに呵々大笑した。 「耄碌したのう、孫文台。いやいや、死ぬと目が曇るか?」  笑いをおさめ、しかし、その口の端に残滓を漂わせながら、祭はなかば悲しむように呟いた。 「たしかに、孫呉を出たこと、旦那様に仕えておること、堅殿に申し開きのしようもないわ。諸々あった末に儂の信じた道じゃ。わかってもらえぬでもしかたあるまい。じゃが」  そこで息を吸い、彼女は胸の内を声に乗せて吐き出した。 「堅殿が生きておっても、荊州ごときでうろたえて右往左往する娘御など張り飛ばしておったじゃろうに! とぼけたことをぬかしとるのはそっちじゃ、この亡者めが」  強烈な罵倒を受けて、孫文台は怒りを露わにするか。  否。  彼女は吼えるように笑い出した。  先ほどの祭の笑い声など軽くはねとばすような、そんな腹の底からの笑いであった。 「よしよし。それでこそ我が祭じゃ。我が片腕じゃ」  彼女はそう言って揺れる船の上で器用に立ち上がり、腕を伸ばして祭の肩を一つなでた。 「我が娘たちを少々いじめることになったくらいで、そう落ち込むでないぞ?」  そう言って片眼をつぶって見せたのは、あるいは彼女なりのお茶目であったのか。  すっ、と横合いを船がすれ違っていく。孫堅は勢いをつけることもなく、そちらの船に飛び乗った。思わず櫂を漕ぐのを止めても船の勢いは止まらず、孫堅を乗せた船との距離はどんどん広がっていく。 「堅殿!」  川下へと走り去るその船に向かって、祭は仰天した顔で呼びかける。 「ではのう。儂の分までそちらを楽しんでまいれ。江水の行き着く果てにて待っておるぞ。おお、そうじゃ。次は華雄も連れて参れ。さらばじゃ、公覆」  船は川を猛烈な勢いで下っていく。祭は櫂を操って自らもその後を追わんとした。しかし、いつの間にか長江の水は、ねばって櫂に絡みつくようになっていた。いや、それは水ではない。黒く赤い、その液体は……。 「堅殿、堅殿ーっ」  全てが血と変じた川の上で、祭はかつて失った主の名を何度も何度も呼んでいた。 「……どのーーーーっ」  己の叫びで彼女は目を覚ました。右手は天に向けて伸ばされ、なにかをその手からこぼしてしまったかのように、中途半端に開かれていた。  だが、左手は、温もりの中にあった。 「祭」  呼ばれてみれば、隣に寝そべって彼女を覗き込んでいるのは、愛しい男の顔。彼は彼女の体にゆったりと腕を回し、左の手を握ってくれていた。 「え……旦那様?」 「おはよう」  朝の時間にふさわしいかすかな声で彼は呟く。祭はようやくのように意識が明瞭になるのを感じ、目尻にたまった涙をごまかすようにぬぐい取った。  しばしの沈黙。  祭はその間に自分の置かれた状況を思い出す。昨晩、自分は一刀の部屋に泊まったのだった。  彼女は苦笑を浮かべて首を振った。あのような夢を見るとは、よほど気が緩んでいたらしい。いまだ自分たちは戦地にあるというのに。 「儂は……何かを言うておりましたか?」 「ん……。誰かを呼んでた。たぶん真名だと思うから、聞かないでおいた」 「ふふ。お優しい」  ごまかすこともしないのがこの人らしい、と思う。祭は嬉しいような悲しいような気持ちで告げていた。 「じゃが、旦那様の心の中だけで、覚えておいて下され。それが堅殿……雪蓮様たちの母にして、かつて亡くした我が主の名じゃ」 「……そうか。ありがとう」  一刀の感謝の言葉に、こちらも感謝したい気持ちだった。だが、あまり引きずるのもよくない。幸せな気持ちというのは、そっとしておくのが一番だ。  祭は昨晩寝台横に置いた酒瓶に手を伸ばしつつ、彼に笑いかけた。 「迎え酒と行きましょうか?」 「いいけど……酔っ払わないでよ」 「酔うほど強い酒ではありますまい」  言いながら片手で引き寄せ、口でくわえて瓶のふたを外す。行儀が悪すぎるような気もしたが、男のぬくもりから離れたくないのだから仕方ない。そのままあまり残っていない酒を口に含む。 「器用だね」  笑いかける男に答えず、彼の体を引き寄せる。 「ん?」  抵抗もせず抱き寄せられる唇に、己の唇を重ねる。少し驚いた様子だったが、すぐに優しい目になって、口が小さく開く。その隙間に舌といっしょに口中の酒を注ぎ込んだ。舌で触れる相手の口内が燃えるように熱いのは、酒のせいだろうか。  舌先を絡め合い、唇同士で繋がり合いながら、体を起こす。寝台の上、彼の胸にもたれかかりながら、なおも相手の舌を味わう。  もはや酒はどちらの頬の内にも残っていない。絡み合い、ぴちゃぴちゃと音を立てるのは二人の唾液だろう。 「美味しいね」 「まあ、なかなかの酒ですな」 「いや、美味しいのは祭自身だよ」  今度は彼が酒を口に含む。導かれるように再び口づけると、彼のほうから注がれた。  堅殿。  祭は熱く燃える男の腕に抱かれながら、心の中で語りかける。  美味い酒があり、愛しい男がいて、守るべき民と仲間を持ち、我が力を振るうべき場所に立っておる。言いつけ通り、存分に楽しませてもらうとしましょう。  土産話を楽しみに待っていて下され。  5.展望  陳公台の日々は充実していた。  戦の局面に関して考えるべき事はいくらでもあったし、提案した策は良さそうだと判断されれば即座に使われた。もちろん、小さな失策や見落としがないわけもなかったが、彼女以外にも優秀な人材は多く、たいていが他の人々の支援でうまくいっていた。  これほど軍師らしい毎日を送っているのは、かつてなかったことだ。なにより、後背を気にせずに安心して策を練れるのがいい。  ただ、問題と言えば「呂布の軍師」としての比重が薄まっていることだろうか。敬愛すべき呂奉先は、北郷一刀の下にあって兵馬も与えられ、立場としても安定している。そのために、ねねが苦労して支える必要がなくなってきているのだ。個々の戦場で彼女の近くにあって指揮の手助けをするのは変わらずやっているし、全体の仕事をすることが恋の力になることもわかってはいるのだが、少々寂しいと思う事もないではなかった。 「ま、しかたないのですが。ねえ張々」  脇を歩く大型犬に話しかける。意味がわかっているのがいないのか、張々はわう、と元気づけるように鳴く。 「そうですね。まずはあのねぼすけを起こさないといけませんね。まったく、あのへぼ主め」  普段は夜明けすぐに、とは言わないまでもそれなりに早い時間に出てきて仕事をしているはずの北郷一刀が、今日に限っては姿を現さない。その理由はなんとなく察しが付いているものの、彼に確認を取らねばならないこともあり、ねねは部屋へと向かっていた。  つい昨日乱闘騒ぎがあった――こんな狭いところでよくやるものだ――廊下を進み、分厚い鉄の扉を前にする。彼女は背伸びをして拳を打ち付けようとして、鉄扉の分厚さを見て、首をひねる。結局、蹴るのに切り替えた。 「おーい、起きろー」  がんがんと蹴り上げると、ばたばたと中で音がするのがわずかに聞こえる。扉に耳を近づけていないと聞こえないような音だ。ともかく中に伝わったのはわかったのでしばらく待っていると、ぎぎぎと音をたてて扉が開き、一刀がいつもよりぼさぼさの頭で、顔を出した。 「や、やあ、おはよう、ねね」  扉が開いて閉じる間のわずかな隙間から、部屋の中が見えた。顔は見えないまでも、誰がいるのくらいは観察できる。 「……また女ですか。昨日の騒ぎを忘れたわけでもないでしょうに。あの髪と肌からすると……」 「ええと、あれだ、少し散歩に行こうか。なあ、張々?」  張々をなでてわふわふと言わせる男をじぃと睨みつけ、しかたない、というように彼女はため息をついた。 「全く……。まあ、いいですよ。少しお前と話したかったこともありますからね」  張々に乗ったねねと、黄龍に乗った一刀が武威の郊外を行く。黄龍は張々に合わせてゆっくりと歩いていた。 「今後の軍の動かし方ですが」  さすがに馬と犬では背が違いすぎるので、彼を見上げるのを諦めて前を向いたまま、ねねが話を始める。 「諸将と話し合いを重ねた結果、まず、この武威と張掖の間を確実に抑え、そして、二都市を拠点として活用し、勢力を固めていくのがよいのではないか、という意見が出ています。どう思います?」 「ふむ……張掖か」  張掖は武威の北に続く郡であり、その中心都市の名前でもある。要するに、これから進む地域の中心地だ。ねねが提案しているのは、これまでのようにじわじわと陣を前進させるのではなく、二都市の間の街道を完全に抑えて、その後、二都市から各所に兵を送ることで各勢力を支配下に組み込んでいこうというものだった。 「本格的な冬が来る前に張掖、出来れば酒泉までの足場を確立させておきたいところです。敦煌までは春になってからですね」 「春か……。涼州だと冬はきついよな?」 「洛陽よりも厳しいでしょうね」 「そうだよな。もう少し進んでおきたかったが……」  一刀が言うと、ねねはふんと鼻を鳴らす。 「叛乱に荊州の問題と予定外のことが起きすぎなので、多少の遅れは許容せねばならないでしょう。荊州に首をつっこんだのはお前ですし」  思い付きで行動するのは勘弁してほしいですよ、とねねがぼやくと、一刀は苦笑するしかない。黄龍たちは乗り手があまり構ってこないので、好きなように草原を歩き出した。 「ただ、兵達も多少は実戦を経ていますから、これからは多少進軍速度も上げられると思いますよ」 「張掖と武威との距離は、武威と金城とほぼ同じだったね?」 「六百里程度。しかし、ここまでとは違い、大小の軍閥が群れている状況とは変わってきますね。遊牧部族が増え、一部族の領有範囲は広がる代わりに人数は減る。つまり、金城武威間より、進行は早まるでしょう」  一刀はしばし目を瞑り、それまで聞いたことを吟味しはじめる。  その間に、ねねが指を差すと、張々はその目指す先――こんもりと盛り上がった丘へと一目散に駆けだした。黄龍は首をひねって乗り手に訊ねるように目線を送る。目を開いた一刀は、ねねたちが駆けているのを見て少し驚いたが、笑って黄龍の首筋を叩いた。それを受けて、彼の愛馬は軽い足取りでねねたちを追いかける。 「ねね。さっきの案を採用しよう。具体的な行軍日程や誰の部隊を動かすか、書面にまとめてみてくれ」 「わかりました。詠とまとめますよ」  そこで二人はそれぞれの乗騎から下りた。丘に並んで座ると、黄龍と張々は追いかけっこをしはじめた。といっても足が違いすぎるので、ふざけあっているに過ぎないのだが。 「ところで、どうなんですか、蜀の面々とは」 「あー……」  答えにくそうに口ごもる一刀を横目で見て、ねねは小さく肩をすくめる。 「お花たちも心配しているですよ。元々の所属勢力ですからね」 「ねねにとっても、元いたところだろ?」 「そりゃあそうです。桃香も蜀の面々も好きですし。でも、ねねたちの場合、もう時間がたっていますからね。荊州に義理があるわけでもないですし」  そう、時が経った。もうずいぶんと昔のことのようだ。 「それより、今回の謀が失敗してお前の立場が悪くなり、ひいては恋殿の居場所がなくなることのほうが懸念されますね」 「さらっと怖いこと言うね」  笑って彼は手をぱたぱたと振った。 「大丈夫だよ。たとえ俺が失脚しても、華琳なら悪いようにはしないよ」 「そういうことじゃないですよ……」  だが、一刀の方は自分の言葉に続けてぶつぶつと何ごとかを呟いていて、ねねの小さな声には気づくことはなかった。 「失脚……そうか、俺、失脚とか言われる地位にいるんだな、自分で言って驚いたぞ」 「これまでそれを意識しないできたことのほうが驚きですよ。このへっぽこ!」  無性に腹が立って、立ち上がると同時に、男の太腿を蹴り上げていた。 「ぐはっ」  腿を抑えながら、ごろごろと草の上を転がる姿を見ていると、なんだか情けないような気持ちを覚えて、怒りが萎えるねねであった。 「い、いい、キックだぜ」  よくわからないことを言って姿勢を戻す一刀。彼はすっと表情を引き締めて、腰に手を当てて彼を睨みつけているねねをまっすぐ見つめ返した。 「荊州のことだけど、もう少しだけ辛抱してほしい」  ねねにだけじゃなく、みんなにもそれをちゃんと伝えるようにするよ、と彼は約束する。 「きちんと責任はとるし、蜀にも悪くならないはずだ」 「そ、そこまで言うなら、まあ、わかりました。しかし、荊州……」  うーん、とうなり声を上げるねねに、一刀も同意するように一つ頷いて口を開く。 「はっきり言えば、俺が手を出していなかったら、まだ二、三十年は大した騒動にはならないはずなんだよね。荊州の問題は」 「……そうかもしれませんね。いまの状況でわざわざ騒ぐ必要がありません」  三国の鼎立がなった現在、領土問題を大きく騒ぐのは、その国にとっても害になりかねない。その領土を得るよりも失う信用の方が大きいでは割に合わないだろう。 「でも、だからこそ急ぐ必要がある。余裕があるいまだからこそ、終わらせておかなけりゃいけない。引きずると、結局何世代も後に破滅的な局面で問題解決を図ることになってしまうから」 「だから、お前が無茶をやって急かした、というわけですか」  杞憂とまで言うのは意地悪が過ぎるだろう。たしかに一刀の言うとおり、領土問題を放置すると根深く続いてしまう虞はある。それをきっかけにいつか三国が争乱に陥る可能性とてあるだろう。だからといって、いまそれに手を出す必要があるかというと疑問ではある。 「そういうことだね」 「大きなお世話、という言葉を知っていますか?」 「そう言われると辛いな」  わざと意地悪な口調で言って、彼を笑わせる。 「まあ、大枠では理解しました。もう手を出してしまったのだから、そこは仕方有りませんしね。でも、だからって、この地で雛里たちにあんな風に対することはなかったんじゃないですか?」 「うーん、たしかに、あれは失敗だったかもしれない」  一刀は腕を組み、自分の失敗を反省してか、軽くうつむく。 「意図を隠すには、『悪意』で糊塗するのが一番かな、と思ったんだけど。それでも見透かされちゃったよ。うまく演技したと思ったんだけどなあ」 「お前の失敗はそれ以前の問題だと思いますよ」 「そ、そうかな?」  ねねは頭を軽く振ると、彼の顔の前にその拳をつきつけた。袖からにゅっと突き出たその拳に一刀の視線が向かう。 「一つ、そもそも詠たちに任せるのを渋って、一人で動こうとしたこと」  拳からぴっと一本、指が立つ。 「二つ、一人で動くのを反対した詠たちを出し抜こうとして、白蓮を巻き込んだこと」  二本め。 「三つ、予定外の白蓮を巻き込んだことで、焔耶や星にまで裏があると読まれたこと」  三本立った指を見つめて、男はがっくりと肩を落とす。 「うう、仰るとおり。面目ない」  ひとしきり悔恨の思いにひたらせた後で、彼女は声音を明るくして訊ねた。 「で、失敗は失敗として、今後はどう手を打つつもりですか」 「なにもしないよ」 「しない? 蜀の陣から何十人かが『脱走』しているようですが?」  実際には蜀の将が命じていることだから脱走とは言えないのだが、一刀達が了承したことでもないのでそう表現する。おそらく、兵たちは何波にも分かれて南下しているのだろう。 「しない。こうなってしまった以上、士元さんの報せで事が収まってもしかたない。大事なのは問題が解決することで、その道筋じゃないしな。それでも俺が恨まれるのに大差はないだろうけど」  ねねは声を出さずに彼の言葉を聞いている。覚悟を決めたというなら、もう何も言うことはない。ただ、考えるべきはそれによって生じる様々な影響だ。言うとおり、事が収まるならいいが……。 「ただ、気になるのは」  一刀は立ち上がり、体の向きを変えた。手でひさしを作って、南を見つめるその表情が、憂慮に曇っていた。 「もう間に合わないかもしれないんだよなあ」  6.結集  五本の帆柱に、へんぽんと翻る巨大な帆。  漢水に浮かぶその船は、闘艦と呼ばれる、板で鎧われた船の中でもかなりの大きさを誇っていた。乗り組むのは五百名。その上、戦闘だけに従事する兵が五百乗せられていた。  その多層の船の中に位置する狭苦しい廊下を二人の女性が歩く。二人並ぶのがぎりぎりの幅の道を、船の揺れによる反動なども利用して器用に進んでいく。 「蓮華様と桃香さんの連名の書簡も無視、ですかあ」 「やはり、雪蓮様に交渉の意思はないですね」  先ほど仕入れた情報を話しているのは明命、それに対して片眼鏡を押し上げながら厳しい口調で答えるのは亞莎だ。明命は狭い上に色々と出っ張りがある場所をすり抜けているというのに、その長い髪をひっかけるようなことは一度もない。 「一刀様の命でしょうか」 「まず間違いなく」  ううう、と悩ましい声で唸る明命。その様子を眺めながら、亞莎は思案顔になって言った。 「明命、一つ聞きたいのだけれど」 「はい?」  耳元に口を近づけ、亞莎は囁く。 「一刀様の身柄を奪うことって……できる?」 「はうわ!? いったいなにをするつもりですか!?」 「流れによってはそれが必要となることもありうるのです。しかも、それが魏にとってもよい結果となる可能性すら」  驚く明命に対して、亞莎はその目を細めて鋭く答える。長い袖の中で、両方の手がぎゅうと握られていた。 「もちろん、いますぐという話ではありません。ただ、もし……」  口を濁して詳しく言わないのを、明命は不思議に思わない。彼女達は友人同士だが、亞莎は軍師であり、明命は諜報を司る。自ずと立場の違い、考えの違いは生じる。その中で、言えることも言えないことも出てくるだろう。それでも彼女は亞莎を信じていたし、呉のためになるとなれば何ごとも厭わずやってのけるつもりだった。 「呉と一刀様のためになるならやるけど……」  実行の検討をはじめたのかぶつぶつ呟きだした明命を見ていた亞莎は、しかし、無理矢理に表情を作って、その話題を振り払うように微笑んだ。 「ううん。ごめんなさい。いま話すことではなかったかも」 「そうですか?」  では、忘れます、とあっさり言う明命に、今度は本当に心からのものと思える笑みを向ける亞莎。 「まずは蓮華様を信じて、出来る限りのことをやりましょう」 「ええ!」  そうして笑いあい、当の蓮華が待つはずの甲板へ向け足を速める二人であった。   「聞いているだろうが、桃香との連名の申し入れでも、州牧側は交渉に出てこようとはしなかった」  甲板につくと、すぐに蓮華は二人を側に寄せ、周りに聞こえないような声で語り始めた。 「最初の無体な要求、袁術による玩弄、両国の王までも無視する所行」  大きく頭をふると、彼女の髪が揺れる。そういえば、もう伸ばさないのだろうか、と明命は頭の隅で考えたりしていた。 「さすがに三つも重なっては動かざるをえん」  蓮華は言い切って、その視線を片眼鏡の軍師に向けた。 「意見はあるか、亞莎」  亞莎は一つ息を吸って、真っ直ぐ主を見据えて答える。 「政治の中枢にいる人間だけを見るならば、ここは我慢の一手で、軍を出すのは下策でしょう。しかし、民や豪族の意向も考えねばなりません。昨今の民の動揺、蓮華様もご存じのとおりです」 「軍を動かすのに賛成か」 「はい。蓮華様の仰るとおり、動くべき時です。しかしながら、性急な攻撃は避けるべきかと」  それから彼女は地図を広げて、その中の一点を指さした。 「襄陽の東三十五里に艦隊が集結できる津があります。そこに全軍を置きましょう」 「既に考えてあったか」  蓮華は地図を受け取り、確認した後で亞莎に返した。 「よし。亞莎。明命」  彼女はがちゃりと南海覇王を鳴らし、命を下した。 「その津へ思春の艦隊を呼べ」 「御意!」  皆が準備に奔走するなか、一人、甲板で行く川の流れを見つめ続ける蓮華は、誰にも聞こえないほど小さな声でそっと呟く。 「雪蓮姉様……」  語りかけるのは、攻め行く先にある人。そして、彼女を教え導いてくれた先達たる姉の名。 「王というのは、ままならぬものですね」 「各地の拠点に増派、ですか」  荊州の地図を囲み、三人の女性が膝をつき合わせていた。桃香、朱里、紫苑という面々は現在の荊州に駐留する蜀の代表者たちだ。 「うん、襄陽を攻撃してもしかたないと思うの。それよりも、民を守れるようにしたほうがいいと思って」 「桃香様の仰ることも一理あるわ。荊州の住民の中には不穏な空気を感じ取って怯えている者もいるし、なにより、襄陽の近くにいきなり大軍を展開するのも……」  桃香の提案に、紫苑が賛成する。彼女としては荊州は故地でもあり、まずその安全を意識するのは当然と言えよう。 「反対とは言いませんけど、漢中においたまま圧力をかけ続けるほうが効果はあると思いますが……」 「うーん、朱里ちゃんの言うことはわかるけど、それって雪蓮さん達への効果を狙ってだよね」 「ええ、そうです」  朱里が頷くと、その帽子に着いた飾り布が大きく揺れた。桃香はそれを可愛いなあ、と思いながら、どう説明したものかと迷う。  結局、包み隠さず言った。 「うんとね、私は荊州からは撤収してもいいんじゃないかな、と思ってるんだ」 「桃香様!?」 「あ、えっと、もちろん、出来ればそれは避けたいよ?」  あまりの驚きの声に腰が引けた雰囲気になりつつ、桃香はなんとか立て直す。なにしろ、彼女は王なのだ。ちゃんと言いたいことは言わないといけない。 「でもさ、戦をしてもなんにもならないよ。蓮華ちゃんたちも出てきているし、襄陽を攻め落として雪蓮さん達を追い出すことは出来るかも知れない。でも、それって……どうなのかな?」  沈黙。その問いに、朱里と紫苑は答えられず、ただお互いに目配せを交わしていた。 「雪蓮さん……ううん、一刀さんたちの言い分はちょっとむちゃくちゃだなあと思うし、簡単に受け入れたくもないけど、それで戦をするのは違うと思うんだ。だから、一度退いてもいいと思ってる」 「しかし、それは……桃香様……」  一度退却し、その後交渉を続ける。そんな意図であることは朱里にも紫苑にも理解できた。しかし、それが実現するだろうか。実効支配を許してしまえば、その領土を取り戻すことは不可能に近い。いや、血を流す覚悟ならそれも可能だが、それを肯んじる桃香ではあるまい。  そう疑念を抱きつつも、二人は明確な反対を唱えられない。戦をしたくないという桃香の気持ちも痛いほどわかるから。 「ただ、私たちを信用してくれてた人達のために責任は取りたいと思ってるんだ。昔、徐州を出てきた時みたいに着いてきてくれる人には、益州に住めるよう取りはからったりとかしてね」  朱里と紫苑はさらにしばらくの間無言だったが、そのうち紫苑が覚悟を決めたとでも言うように唇を引き結ぶと、桃香に問いただした。 「つまり、今回入れる兵は、その準備、ということでしょうか?」 「もしその道を選ばざるを得なくなったら、ってことだけどね。でも、あともう一つあるんだ」 「もう一つ」  繰り返す言葉に、桃香は微笑みながら説明を加える。 「うん。撤収するにしろなんにしろ、残される人の安全や今後の生活を守らなきゃいけない。だから、一度は雪蓮さんと会って話をしなきゃって、そう思ってる」  そこでようやく朱里が口を開く。彼女もまた強い決意を秘めていることがその表情を見ればすぐにわかった。 「つまり……襄陽の間近ではなくとも荊州に兵を置き、州牧側を交渉の場に一度でも引っ張り出す、と。打倒ではなく、民を守るのだという姿勢を見せるのですね?」 「うん」 「わかりました。その方針で行きましょう」  言いたいことはいくらでもあった。  けれど、それは全て呑み込んで大きく頷き、彼女は再び地図へと目を落とす。 「漢中の鈴々ちゃんに連絡を取りましょう。兵を、荊州へ」  呉、蜀両軍はこうして荊州へと歩を進めるのだった。  7.荊州決戦  荊州の情勢は悪化の一途をたどっていた。州牧側はますます襄陽という殻に籠もり、ただただ退去の勧告文書を送りつけるばかり。呉は襄陽近辺に艦隊を集結させ、分遣艦隊による回遊という示威行動を盛んにとり、蜀は続々と荊州へ兵を入れていた。  これまでのところ表面は穏やかだ。戦闘は一切行われていないし、襄陽の出入りが制限されたりもしていない。しかし、一触即発の空気が漂っているのは誰にもわかることだった。  そんな三勢力のうちの一つ、蜀の本陣が置かれている関所の一室で、桃香はこの事態を打開する手はないかとうんうん唸っていた。  そこにぱたぱたと足音が聞こえる。あの軽い調子は朱里ちゃんだ、と桃香はあたりをつける。でも、なんで走ってるんだろう。 「桃香様、大変です、大変です」  予想通り、朱里が明るい色の髪を振り立てながら走り込んでくる。今日はいつもの帽子を被っていない。慌てて忘れたか、この調子だともしかしたら、どこかで落としてきたのかもしれない。 「どうしたの朱里ちゃん」 「雛里ちゃんからお手紙です」 「一刀さんに了解がとれたの!?」  がたん、と椅子が鳴った。桃香が思わず立ち上がったからだ。北方の一刀の元に向かった雛里からの報せで大変な内容と言えば、大元となる要求撤回の了解こそが最も考えられる。彼女の顔は、ぱあっと明るく笑みに彩られた。 「あ、いえ、違うんです」 「なんだ……」  さっきまでの笑みはどこにいったのか。一転、暗い顔になった桃香はどさりと椅子に座り込み、がっくり肩を落とした。 「で、でも、同じくらい大変なことなんです」 「んー?」  姿勢を落とし、机に顎を乗せた桃香はあまり気乗りしない様子で、疑問の声を投げる。 「つまりですね、州牧側の要求はあくまで脅しで、本来の目的は、国境の画定にあるのだ、ということを雛里ちゃん……いえ、実際には星さんと焔耶さんが聞き出したんです」 「えーと、どういうこと?」  さすがに体勢を戻し、桃香は朱里に対する。朱里は興奮が収まらない様子で身振り手振りを交えて解説を始めた。 「つまりですね、州牧である北郷一刀は、大きな要求をどかんとぶつけて、それで混乱したところで、呉、蜀両国と渡りをつけて、国境線を決めちゃおうとしていたんです。我々が本来主張していた領有比率など吹き飛ばす要求をつきつけることで、荊州を失うよりはましだ、と両国に納得させるつもりだったのではないか、と雛里ちゃんは書いています」  朱里の説明を聞いて、桃香は腕を組んで考え込む。その穏やかな顔が難しそうな表情になる。 「んー? じゃあ、要求自体どうでもよかったってこと?」 「そうです、そうです。彼にとっては、いま、こうして荊州が緊張していることが狙いだったんです。ぎりぎりのところで、譲歩案を出してくる予定なんでしょう」 「そっか」  そこで桃香は再び表情を明るくした。 「じゃあさ、もしかして、私が蓮華ちゃんと国境を決めちゃえば、問題解決する?」 「はい。早いうちに決めてしまえばあちらも文句はないかと思います。あまり引き延ばすと、どうなるかわからないですが。国境を定めるというのは本来時間のかかることですが、このような策を使ってくる以上、北郷は……いえ、魏は早い解決を望んでいるでしょうから」 「じゃあ、急がないとね。でも、よかったー」  安心したよ、と桃香は柔らかい笑みを浮かべる。朱里の方も笑みを浮かべずにはいられない。 「はい。ちなみに雛里ちゃんは呉の側にも同じ内容を送っているそうです。何通りもの方法で送ったようですから、おそらく届いていると思いますが、念のため、こちらからも改めて蓮華さんのところへ書簡を送りましょう。桃香様、署名だけいただけますか?」 「うん、もちろん、もちろん」  二人は弾んだ声で言葉を交わし合い、わいわいと蓮華宛ての書簡の内容を話し始める。そこへ、今度は紫苑がその体を揺らしながら駆け込んでくる。一部だけ揺れすぎだ、と横目で観察している大軍師。 「大変です」 「ああ、紫苑さん。雛里ちゃんからのお手紙の話なら聞いたよ?」  さわやかな笑顔で答える桃香。いくつも書簡を送っているらしいから、きっと時間差で紫苑の元へ届いたのだろうと考えたのだ。もちろん、朱里もそう思っていた。 「え、雛里ちゃんから? わたくしは違いますわよ?」  紫苑は困ったような顔になり、二人はそれを聞いていぶかしげな顔をする。  紫苑はそのまま二人に近づくと、硬質の声で告げた。 「呉の水軍、全艦船が襄陽に向けて進撃を始めました」 「な……」 「蓮華ちゃんにもこれが渡っているんじゃなかったの!?」  雛里からの書簡を握りしめ、顔を青ざめさせて叫ぶ桃香の声は悲鳴に近かった。  実際の所、雛里からの書簡は、漢水上にあった呉軍には一日早く、前日の夜に渡っていた。 「一刀の策は、我々を荊州へ引っ張り出すためのもの、か」  読み終えた蓮華は、他の重臣達も読めるよう、その木簡を卓へと広げた。思春が灯火を寄せて亞莎達が読みやすいようにする。 「この書簡、どう思う? 亞莎」 「か……北郷の意図としては嘘ではないのかも知れません。鳳統がそれを信じ、荊州での争乱が治まるのを期待して送ったのも間違いないかと思われます」  そこで言葉を切り、亞莎は西の方へ視線をやった。 「しかし、だからといって、あの城にいる方々まで同じ考えかと言われると、それはまた別です」 「……雪蓮様だからな」  それで全てが言い尽くされた、と言うように、三人が揃って頷く。蓮華はさすがに苦笑を浮かべて書簡を再び手に取った。 「いずれにせよ、遅いな。現状で、兵を退く選択があるわけもない」  彼女は思春から灯火を受け取ると、中の火を木簡に移した。燃え上がる木簡を窓から川面へ放り投げる。 「思春」 「はっ」 「姉様と冥琳の水軍、破れるか?」  ほんのしばしの逡巡。だが、思春は力強く頷いていた。 「一度なれば確実に」 「わかった。明朝、出立する。明日の終わりには襄陽の城壁をこの目に見せよ」 「了解いたしました!」  呉の進撃はそうして開始されたのだ。  だが、夜をもう一度迎えるまでもなく、昼過ぎには呉の艦隊は襄陽の港を囲んでいた。桃香の元に情報が届いた頃には、すでに蓮華は襄陽の城壁を目にしていた。 「呆気なかったな」 「戦闘らしい戦闘はありませんでした。あちらの見張りの船はいくつか破壊しましたが……。水上で戦う気がないのか、あるいは……」  そこまで言って思春は首を振る。自分の言うべきことではないと考えたのか、しっかりと口を閉じる。そんな思春を引き連れて甲板を歩きながら、蓮華は視線を襄陽から外さなかった。 「さて、城壁は見えた。だが……」  兵達が遠ざけられた甲板の上をぐるぐると歩き回る主を、重臣達が見守る。 「あそこにいる者が何者とて、一刀……つまりは州牧の部下。手出しをすれば、漢朝への反逆……とまでは言わずともそれなりの不利益もある。さて、手を出すか、出さざるか」 「手を出さなければ……なにもなかったですみますでしょうか」  敵の船は破壊したものの、乗員は全て救助している。航行中の事故ということで、船の賠償程度で済ませられるか、と明命は訊いているのだった。 「さて……怪しいな。だが、戦を行えば申し開きもできん。しかし、一刀め……難しいことをつきつけてきたものだ」  それからしばらく蓮華はぶつぶつと呟きながら歩いていたが、不意に我慢しきれなくなった明命が問いかけを発した。 「蓮華様?」 「ん?」 「なにが楽しいのですか?」 「なんだと?」  蓮華がわけがわからないといった顔で訊ね返すのに明命が答える前に、思春が指摘する。 「お顔がほころんでおられました」 「そうか……私は笑っていたか。そうか。はは、くく、あーっはっはっは」  唐突に大きく笑い出す蓮華。その姿を祭が見れば、母御にそっくりじゃ、と言ったであろうことを知る者はこの場にはいない。 「亞莎!」 「はっ」  鋭い声に、思わず亞莎は跪いていた。 「簡潔に答えろ。退くべきか、進むべきか?」  ごくり、と亞莎の喉が鳴る。  彼女はさらに姿勢を低くして平伏しつつ主に言上した。 「ここはお退きになるべきかと。蜀と組んで魏を討ちたいというなら、いまは時ではありません。ましてそれを望まぬならば、この場の戦は無益。また、襄陽の港まで攻め寄せた事実をもって呉の威は示せました」  それから彼女は顔を上げ、その琥珀色の瞳を輝かせながら、蓮華を真っ直ぐに見つめた。 「このあたりが潮時かと」 「よし! よくぞ言った」  蓮華はすらりと南海覇王を抜いて宣言する。 「襄陽港の一時の封鎖をもって、この戦の幕引きとする。撤退せよ! 背後は気にするな。粛々と江夏へ向かえ!」 「御意!」 「明命! お前と部下はここに残り、蜀と州牧軍の動向を見届けよ」 「了解です!」  八百艦、総勢七万人。呉艦隊はここに荊州での任務を終え、帰還の途に着いた。 「蓮華は退いた、か。ふーん、あの娘もなかなかやるじゃない」  襄陽の城壁の上、その光景を眺めやるのは、蓮華の姉である雪蓮、そして、その盟友冥琳と、かつて雪蓮達を客将としてしばりつけていた美羽、さらにはその側近たる七乃であった。彼女らの視線の先では、何隻もの船がそのへさきを巡らせている。大型の船が多いため動きはゆったりとしたものだが、それだけにもはやこちらには向かない事が明らかに見えた。 「……やはり、向かってきたら本気でたたきつぶすつもりだったか」  呆れたように言う黒い仮面に向けて、白面の女性は艶然と微笑む。 「それはそれで生かせるものよ。敗北っていうものもね」 「あや、本気でやるつもりじゃったか。怖いのう」 「お嬢様だって、麗羽様が同じように来たらやっつけちゃうくせにー」  わいわいと人ごとのように言うのは、もちろん袁家の主従だ。 「当たり前じゃ。宗家の意地というものがある。……じゃがのう。あれが一刀に逆らう姿がちぃとも思いつかん」 「まあ、あの人は個人の感情を優先させますからねー」  二人の会話を聞き流していた雪蓮が、七乃の言葉にだけぎらりと目を輝かせて反応した。 「つまり、蓮華は個人の感情ではなく、別のもので判断したと見てるわけね……。ふぅん」 「雪蓮」 「殺気をとばすのはやめてくださいよー」  さらにきゃらきゃらと笑う七乃に、雪蓮は探るような目つきになった。 「前々からとぼけたやつと思ってたけど、予想以上だったのかもね」 「雪蓮。いま言うことではない」 「まあ、それもそうね。で、あとは桃香なんだけど……」  そこで彼女は冥琳へと目を移す。 「書簡が来てるんだっけ?」 「ああ。つい先ほどな。彼女らも撤退するが、彼女たちについていきたいという民は連れて行く、そのために数日だけほしいとのことだった。出来れば、残る人々についての保障がほしいとのことだったがな」 「んー?」  冥琳が要約した内容を聞いて、美羽がかわいらしくこてんと首を傾げた。 「前にも似たようなことしとりゃせんかったか?」 「あんたたちに攻められた時でしょうが」 「おお、そうじゃったそうじゃった。すまんの、伯符」  心底呆れたように低い声で言う雪蓮に、美羽はまるで屈託なく礼を言う。ある意味大物だな、と冥琳が呟いているのは聞こえなかったふりをする雪蓮。 「しかし、どうする気かしら。どれだけがついていくかはわからないけど、いま、益州にそれだけの土地がある?」 「漢中じゃないですかー?」 「そのとおり。五斗米道の民が移動を望んでいるからな。そこに今回の民を配するつもりだろうさ」 「ふーん」  雪蓮は訊ねておきながら興味を失ったのか、生返事を返した後で、再び立ち去ろうとしている艦隊を眺めた。 「呉は兵を退き、蜀は民を連れて去るか」  そうして、彼女は天を仰いで両手を掲げた。 「あーあ、賭は私の負けか」 「一刀さんの言うとおり、戦にはなりませんでしたねー」  皮肉とも思えない笑みで七乃が言うのに、さすがに雪蓮も異議は唱えない。苦り切った顔で、笑顔を睨みつけるのがせいぜいだ。 「それで、伯符よ。お主が勝っていたら、ほんに荊州一州もろうてしまうつもりじゃったか?」 「当たり前じゃない。そういう約束なんだもの」  美羽の問いに平然と答えておいて、彼女は小さく嘆息する。 「ま、いまとなってはそれもどうでもいいことよ。冥琳、桃香に招待の返書を。蓮華も呼び戻して」 「わかった」 「じゃ、兵も下げていいわ。あとよろしくー」  ひらひらと手を振って、冥琳と共に城内へと立ち去る雪蓮。  その言葉に応じて、城壁の上で伏せていた兵達が立ち上がっていく。七乃が声をかけて、さらに各所で伏せた上に布を被ってその姿を隠していた兵達が続々と姿を現し、城内へと戻っていくのだった。 「実際、戦になっていたら、蓮華にも桃香にも、それに一刀にもその軽率さをしっかり教えてあげるつもりだったけど……」  冥琳と二人、城内を歩きながら、雪蓮は何ごとか考えるように腕を組んで呟く。 「今回、やりこめられたのは、私、かしらね? 冥琳」 「さてさて」  淡い笑みを浮かべて答える冥琳は黒髪をかき上げながら、謎めいた視線を隣の友に送った。 「しかし、おもしろみのある主殿ではないか? あれは己の首も賭けていたぞ」 「危うくてしかたないわ」 「それをお前が言うか」  さすがにこれにはあきれ顔で答えてから、彼女は表情と態度を和らげた。 「さて、それはともかく、後処理が待っているわよ」 「うー、めんどいー」  今後しばらく続くであろう、国境画定作業の調停や、荊州の不安を払拭するための官による慰撫など多くの手続きを考えただけで、うんざりしてくる雪蓮であった。 「賭に負けたんですもの。せいぜいきりきり働きなさい」 「冥琳のいけずー」  恨めしそうに言うのにも慣れたもので、冥琳は相手にしていない。 「私は、水鏡先生を説得しに行かなければならないもの。大小はつれていくからその分は楽でしょ?」 「でもさー、司馬徽ってば、涼州になんか力を貸すかしら?」 「さあ? でも、あたってみる価値はあると思うわよ。西涼の建国は大陸の安定化には必要なことだし、興味を持つかも。知己を得ておくだけでも悪くないわ」 「そうね。ただ、今回の事でへそを曲げていなければいいんだけどね」  珍しく純粋に心配そうに雪蓮が言うのに、さすがに不安げに顔をゆがめる冥琳であった。  一方、残った美羽と七乃は、城壁の一角に設けられた台の上に薪を高く積み上げるよう兵に命じていた。  できあがったそれに火をつけるとゆっくりと火が回り、ついに轟々と炎が巻き上がる。 「これで烽火(のろし)をあげるのかや。派手じゃのう」 「そうでもないですよ。これでも街中や丘があるところではあまり見えませんし。まあ、今回は戦争が起きたか起きなかったかの至極単純な内容ですし、伝令を併走させますから間違いはないと思いますが」  ふーん、と答える美羽であったが、果たして意味がわかっているかどうかはわからない。 「で、どれくらいで一刀に伝わるのじゃ?」 「三日くらいですかねー」 「ほほー」  さすがにこれは深く感心する美羽。千里以上の距離を三日で物事が伝わっていくなど、彼女はこれまで考えたことがなかったのだ。ただし、今回はこのためだけに急ごしらえとはいえ烽火による連絡網を作った上、七乃が言うように単純な内容だからこその素早さなのであった。 「んーと、この箱じゃったな」  台の横に置かれた木箱のふたを外す美羽。彼女はその中を覗き込んで素っ頓狂な声を上げた。 「七乃ー。大変じゃ!」 「どうしましたー?」  火の様子を見ていた七乃がひょこひょこと寄ってくる。彼女も主に並んで木箱を覗き込んだ。そこにはあらかじめ乾燥させた草が詰め込まれている。 「箱に仕切りがないのじゃ。これでは、白と黒と混じっているのではないかや?」 「ああ、大丈夫ですよ。この箱の中、全部白い煙が出るものですから」 「へ? なんじゃと?」  呆然と七乃の顔を見る美羽に、彼女はにっこりと笑って繰り返す。 「全部白なんですよ。黒い煙が出るやつはありません」 「それはおかしいじゃろ、戦が起こらずうまくいけば白、戦が起こってしまった時は黒と取り決めておったというに」 「ええ、ですから私もいくつか燃やしてみたんですけど」  七乃も眉間に皺を寄せながら、何束も草を取り上げる。 「全部白でした」 「どういうことじゃ? 入れ忘れかや?」 「んー、逸話作りですかねー」  七乃はぽいぽいと草の束を火に放り投げながら軽い口調で答える。 「なんじゃと?」  草は強い火の勢いに一気に燃え上がり、たしかに彼女の言うとおり白い煙を盛大に吐き出し始めた。兵達が大きな板で煽って煙が真っ直ぐあがるよう調節する。 「英雄には逸話とか伝説ってつきものじゃないですか。お嬢様も光武帝の逸話とか知ってらっしゃるでしょう? 実際にはありえないような荒唐無稽なのから、どうでもいいようなのまで」 「うむ。光武帝と言えば、あれじゃな。友人といっしょに寝ておったら足を腹に乗せられて、その夜、帝星の横にいきなり明るい星があらわれたとかじゃな」  間違いなく白い煙なのを確認し、美羽もいっしょになって草を放り投げ始める。白煙は太くなり、もくもくと空へ昇っていく。 「まあ、明らかに偶然か後付けですけどね。それと同じように、北郷一刀が行った策においては白と黒の煙で成否を知らせることとして両色を出すための材料を用意していたはずが、箱を開けてみれば白の煙が出る物しか入っていなかった。だが、知ってのとおり戦は起こらず、これはすなわち策の成功を……なーんて史書に書かれちゃうんじゃないですかねー」 「はー……」 「ま、もし万が一黒い煙を出さなきゃいけなくなったらかき集めれば済む話ですし。下手したら、落城の煙で真っ黒ですし」  さすがに不吉すぎる言に、近くで煙を扇いでいた兵が顔をひきつらせるが、そんなことに七乃は構いはしない。 「多少は英雄っぽいところがあってもいいだろう、と思った誰かの仕込みでしょうね」 「ふぅん。誰であろ」 「さあ、わかりません。でも」  そう言って、七乃はきゃらきゃらと笑い始める。 「一刀さんには、一刀さんが知らないところでも色々物事を考えてくれている味方がいっぱいいるってことですよ」      (玄朝秘史 第三部第九回 終/第十回に続く)