玄朝秘史  第三部 第八回  1.武威  武威は涼州の州治が置かれたこともあり、また、時には武威のことを涼州と呼ぶこともあったほど、涼州を代表する都市であった。  それ故にこの都市には魏もそれなりの兵を置き、しっかりと支配力を及ぼしている。現実的には直接支配を免れている涼州各地の豪族や軍閥、異民族集団とは異なり、この都市は魏の直接支配が行き届いているのだ。  そんな場所であるから、左軍の大軍が駐留することも抵抗なく受け入れられた。ただし、政治的に支障がなくとも、現実的にはいきなり多数の兵士が都市に溢れるというのは問題が大きい。  そこで、左軍は都市から少し離れたところに陣を張っていた。巨大な天幕を中心に、大小様々な天幕や、簡易な仕切りが草原に並ぶ。  雛里と白蓮は並んで馬を進めながら、右手に広がる天幕群と前方に立つ都市の城壁を見比べていた。  草原に広がる天幕の群れを、西に落ちかけた日が照らす。天幕の間を行き来する兵士たちは影になって、その動きは妙に遅く見える。風になびく草は夕陽の赤と緑が混じって大地を黒に染めていた。  空の朱色、大地の黒、そして、その間に広がる燃え上がるように赤い光。  兵達は焼け焦げた大地の上、なお燃えさかる炎の中を歩く幽鬼のようだ、と雛里は美しくも恐ろしい心象を持つ。  大きな帽子と一緒に首を振ってそんな幻視を振り払い、彼女は何か言いたそうな白蓮へと体を向ける。 「一刀殿は、たぶん、町にいると思う。魏の太守が招いていると思うんだ」  実際、魏から派遣されている太守なら、北郷一刀を無視するわけにもいかない。おそらくなにくれとなくもてなそうとしていることだろう。  白蓮の予想に、彼女は同意の頷きを返す。 「城に馬を出すほうがいいかもな。どうする?」  雛里はその申し出に少し考えて首を振った。 「……ええと。まずは星さん達と合流して、北郷さんを訪ねるか呼んでもらうのがいいと……」 「ああ、そうか。そうだな」  うんうん、と頷いて白馬義従の長はそう言い、背後に続く騎兵達に合図を送った。ばらばらと彼女達を追い越して、白馬たちが天幕の群れへと向かう。そうして、彼女達の到着が告げられ、様々な準備が成されるのだろう。  そんな兵達の動きを見て取ったか、陣の入り口に立った見張り台から降りてくる人影があった。彼女達を迎えるように歩き出したその影に、雛里達は兵達とは別れて近寄っていった。  近づいてみれば、豊満な肢体をあでやかな戦装束に包み、鬼の仮面を被った女性の姿。 「おや、これはこれは。珍しい顔を見るものじゃな。久しぶりじゃのう、鳳雛よ」 「お、お久しぶりです。祭さん」  雛里と祭はいくつもの思いを込めて、視線を交わらせる。かつて偽計を成功させるために魏の本陣にまで乗り込んでいった二人であった。  そこにおずおずと口を挟む白蓮。 「聞いてるとは思うけど……」  うむ、と一つ頷いて、祭は都市の方を指さす。 「旦那様なら、城のほうじゃ。将の大半もそちらに詰めておるわ」  彼女は言ってから、雛里が馬を下りるのを手伝ってくれる。小さい体なので、どうしても乗り下りには人手か台が必要となるのだ。やはり、戦車に乗ったままのほうがよかったな、と思う雛里。とはいえ、他国の陣を訪れるのに戦車では印象がよくないと考えて騎馬にしたのも彼女自身である。 「星さんたちは……」 「蜀の将二人ならこちらじゃな。儂が案内しよう」 「よし、じゃあ、私は一刀殿のところに報告と連絡に行くよ。雛里、またな」  祭から一刀たちの滞在する場所を聞いた白蓮は手綱を強くひき、馬体の向きを変える。振り返って、雛里に手を振るのに、服をはたいていた雛里も応えて手を振り替えした。 「はい。白蓮さん、またです」  白蓮とそれを乗せる馬の姿があっという間に視界から消え、雛里は鬼面の将と共に歩き出す。 「成都からでは大変じゃったろう」 「いえ、私は、漢中からで……」 「ほほう。南鄭か。それにしたところで長旅じゃ」 「いえ、関中に出てしまえば……。急ぐ必要もありましたし……」  そんなことを話しながら、彼女達は一つの天幕にたどり着く。そして、そこが蜀の将のための天幕だと説明した祭もまた、雛里を置いて立ち去っていく。  なんだか疲れたな。  そう思いながら、星と焔耶の待つ天幕へと足を進める雛里であった。 「やあ、待たせたね」  予想とは反して、北郷一刀は一人きりで現れた。こちらを訪れると兵が伝言を持ってきたので、天幕に卓と胡床を用意して待っていた三人は、その飄々と現れた彼に対して、三者三様の反応を示す。  大軍師とたたえられる雛里はその大きな帽子を手で押さえながら、無表情を貫き。  白い着物を軽く垂らした星は、重心を傾けて胡床の端に尻をひっかけるような座り方で一刀を興味深げに眺め。  そして、黒ずくめの猛将はゆらりと立ち上がって。 「貴様、どの面下げて……」  じゃり。  彼女が握る手甲が鉄板同士をこすり合わせて不吉な音をたてる。 「やはり、貴様は蜀に仇成す存在であったか」  えんじ色の瞳が、音をたてんばかりに燃え上がる。発せられる殺気は武芸に疎い雛里でさえ容易に感じ取れるものだった。 「桃香様の御為、ここで成敗してくれるわ!」 「おやおや、物騒だな」  答える男の額にもじわりと汗が浮いている。その言葉の程には彼は落ち着いていないのかもしれない。雛里は体を縮こませながらもそんな観察を続ける。  いまの焔耶は、鈍砕骨を携えていない。あまりに無骨で巨大で重たいそれは、持ち歩くには不便なのだ。だから彼女は、その武器を扱う時につける手甲を、普段の携行武器として身につけている。それをつけた拳で殴れば馬でも殺せるのだから、剣などの武器を補助として持つ必要がないのだ。  手元に鈍砕骨がなくとも、彼女ならば一刀一人どうとでも出来る。  そのことを、彼はしっかりわかっているのだろう。それでも一歩も下がらずこの場に留まっているのは大した胆力と言えた。 「一体なにを怒っているのか聞いてもいいかな?」 「とぼけるな! 荊州を奪っておいて、そのように!」  その言葉に、男は答えようとした。しかし、彼が声を発する前に焔耶の重心は前に移動していた。  普通なら三歩かかる距離を一歩で踏み込んで、その拳が男の側頭部へと吸い込まれる。反射的に抜いた刀はそれに一瞬だけ及ばない。  そんな幻の光景を誰もが見たように思った。  だが、実際には拳は振り抜かれる前に星の袖に絡め取られ、体ごと抱き留められていた。刃を半ば鞘から引き抜いて、半身をこちらに向けて防御する一刀との間には、先ほどまでと同じ三歩の距離が保たれている。 「なにをする!」 「やめておけ、焔耶」  暴れる焔耶を、星はあくまで放さない。焔耶の腕に絡まったその袖が、星の指できゅうと絞られているのを雛里は見た。 「死ぬ……ことはなくとも、さんざんに打ち据えられていたところだぞ。なあ、伯珪殿」  その声は、その場に居る誰でもなく、天幕の外周へと向けられていた。導かれた様に星の顔が向いたほうを見てみれば、天幕の壁部分の布地が外側へ引っ込んでいくところだった。 「なんだ、星は気づいてたのか。失敗だな」  入り口に回って、天幕に足を踏み入れてきた影は、長柄の武器――偃月刀を抱えていた。先ほど布を押していたのはこの切っ先だ、と雛里は直感する。いざとなれば、天幕を切り裂いて焔耶の動きを封じていたということだろう。  焔耶は信じられないものを見るように、その人影――白地を金で縁取った鎧をつけた赤毛の女性を凝視する。 「白蓮!?」  驚きの声は一刀のあげたもの。だが、そんな彼をよそに、焔耶を抱き留めたままの星と、偃月刀を一刀と焔耶の間に横たえる白蓮はいつもと変わらぬ調子で会話を続けていた。 「しばらく伯珪殿の下に居た私でなければ気づかなかったでしょうな。あるいは桃香様あたり」 「ま、焔耶は気づいてなかったみたいだからな。いくら私でも不意打ちなら組み伏せられると踏んでたんだが」  ほら、刀をしまって、と一刀に示し、白蓮はさらに彼を守るように立ちふさがる。 「くっ」  焔耶は悔しそうに漏らしながらも、諦めたのか抵抗の動きを緩めた。星がゆっくりと絡んでいた袖を外し、彼女の横に立つ。 「ともかく、落ち着け。事情はよくわからないが、一刀殿を倒してどうにかなる話じゃないだろう? 違うか、雛里」 「は、はい……」  雛里はそれまでの成り行きに唖然としていたものの、それでもしっかりと答えた。彼女としてもいきなり敵対するつもりはなかったのだから。 「な? それに、誰かを呼ぶ時間くらい、私にも稼げる。事態を悪化させたくなかったら落ち着いた方がいいと思うぞ?」  焔耶は無言で首を大きく振り、わざとなのかぎしぎしと音を立てて胡床に座り込んだ。その反動で胸が大きく揺れるのを見て、ふと雛里は自分の体を見下ろしたりする。 「まあ、こやつは私がおさえます故。そちらも……そうですな、祭殿でも呼ぶなら呼ぶで。いかがですか?」 「ん……ああ、そうだな。一人で相手するのはまずかったかな。じゃあ、白蓮。詠と祭がいるはずだ。呼んでくれるかな?」  白蓮がいるとは思っていなかったのか、驚いたような困ったような、なんとも判別し難い顔つきで彼女を見ていた一刀は、星に話しかけられてようやくのように意識をこちらに戻したようだった。 「んー、了解」  最後にちら、とたしなめるような視線を焔耶に送り、白蓮は頷く。結った髪の毛がかすかに揺れた。  雛里が自分を見つめる視線に気づいて顔を向けると、星が何事か問いかけるような表情でこちらを見ている。なにをするつもりかはわからないが、ここは任せてみようと彼女は頷いた。 「それから、伯珪殿」 「ん?」 「貴殿にも立ち会ってもらいたい」  ふう、と雛里は安堵の息を吐く。まさかいたずら好きの趙子龍とてこの状況で遊ぶことはないだろうと思ったが、さすがに自重してくれたようだ。白蓮の立ち会いなら、彼女も反対するいわれがない。 「え? 三対三でいいんじゃないのか?」 「いや、あくまで立ち会いだ。いまは北郷殿の配下とはいえ、桃香様の古くからのご友人。我らと共に蜀をつくりあげてきた人物でもある。どちらに肩入れするでもなく諫められるであろうからな」 「それは……そうだが、しかし……」  白蓮の視線が泳ぐ。その顔が星に向き、雛里に向き、最後に一刀に向いた。一刀は片眉をはね上げて星を見ていたが、白蓮の戸惑うような視線に気づいたか、小さく頷いた。 「うん。そうだね。冷静な人間がいてくれるほうがいいかもしれないな」 「それを私に期待するのもどうかと思うが……。まあ、わかった。じゃあ、呼んでくるからな」  そうして白蓮が去り、後には沈黙だけが残る。その緊張に満ちた空気の中で、雛里は、この局面をいかにして友好的に解決するかに頭を悩ませていた。  2.会談 「さて、此度は荊州についての話ということでいいのじゃろうか?」  全員が揃い、皆の前に茶杯――若干二名ほど、酒杯であった――が置かれたところで、最年長者の祭が確かめるように言う。三人ずつが卓の両側で向かい合い、白蓮は両者に挟まれるように卓の横側に座っていた。正直なところ、彼女としてはあまり居心地がいいとは言えない状況だ。 「ええ、そのとおりです」  雛里が答え、それに対して一刀が口を開こうとしたところで、詠が翡翠色の髪を揺らして割り込んだ。 「そ。じゃあ、最初から話をしましょうか。いいかしら?」  皆が頷くのに応じて、詠は言葉を続ける。 「まず、三国の大乱が終わった時点で、荊州の支配域は確定していなかった。蜀は二分の一を主張し、呉は三分の二を主張した。これはいい?」 「だいたいは……はい」  そういえば、あの頃、詠達はどこにいたんだろう、などと当時のことを思い出してみる白蓮。まだ二年半ほどなのにもうずいぶんと経った気がするのは、戦が終わったはずなのに色々とありすぎたからだろうか。 「その後、交渉に進展はなく、両者の主張が成されたままの状況で、こいつが荊州牧となった、と」 「州牧になったなど、聞かされておりませんでしたな?」  星が口元を袖で隠しながら、一刀に流し目を送る。その隠された口元に笑みが浮かんでいるのは誰もが想像したろうが、それが普段通りの意味ありげなものなのか、それとも獰猛なそれか、長くつきあってきた白蓮でも見切ることが出来なかった。 「あんたたちは既に発った後のことだもの。こないだの叛乱の後の話よ」 「そうですか。それはしかたないとしても、州牧になってからの要求がいささかひどいと聞きましたが」 「いささかどころじゃないだろ、こいつは!」  思わず立ち上がろうとした焔耶を、星の腕が引きずり戻す。体勢を崩されながらも、憤然と一刀を指さす――雛里に言われて手甲は外していた――姿を見ながら、詠はしかたないという様に肩をすくめる。 「荊州の統治を州牧に戻せ、と言ったんでしょ。それがなにかご不満?」  さも当然のように言う詠に、驚きの表情を浮かべなかったのは、祭と一刀のみだった。聞いてはいたが本当に要求したのか。そう考えて、なにか胸のあたりがもぞもぞと気持ち悪くなっている自分に気づく白蓮。  一刀の要求は、形式論では正しいかもしれない。だが、無法ではなくとも、あまりに無道だ。 「貴様、言うに事欠いて……。桃香様に賜ったご恩を忘れたか」 「はっ、あんたね、そんなこと言うけど」  かみつくように言い合う二人を見て、さすがに嫌な汗をかく。白蓮は片手を真っ直ぐ出して、二人の間に置いた。 「ちょっと待った」  二人を含めて、皆の視線が集まるのを確認して、白蓮は出来る限り早口で言葉を紡ぐ。言い切る前に詠や焔耶に口を挟ませたくはなかった。 「さすがにそれは待った。落ち着いてくれ、頼むから。お互いそう挑発しないでくれ。いいか。焔耶だけじゃなく、星も雛里も聞いてほしい。私も、それに詠も、蜀を抜けて、それぞれの立場っていうものがあるんだ。そこはわかってくれ。詠はわかってるんだろうから、わざわざ蜀の側を煽らないでくれよ」 「そ、そうですね。それぞれの立場がありますから、詠さんが蜀に味方するわけにはいかないわけで……その……」  雛里がどう言葉にすればよいかわからない、というようにもどかしそうに言葉を発する。その懸命さに毒気を抜かれたか、焔耶も詠も前に傾けていた体を戻し、揃って息を吐いた。 「わかった」  焔耶が言ってぱたぱたと手を振り、しばし沈黙が落ちた。それを破ったのは雛里の柔らかな声だった。 「あの……たしかに、荊州牧であれば、形としては北郷さんの主張は正しいことになります。しかし、実質的には二国の支配がこれまで及んでいたこともありますし、いきなりそれをやれと言われても反発しか招きません。下手をすれば蜀も呉も兵を出す事態になりかねないでしょう。いえ、実際、いまもそういう動きをしていると思います」 「ほう、恫喝外交じゃな? なかなか脅しどころを心得ておる」 「ち、違います!」  本気で感心されたような声音で言われ、雛里は慌てて否定する。 「し、しかしながら、たとえば呉が兵を出せば、北郷さんたち……いえ、雪蓮さんたちもそれに応じるでしょう。そうなれば、蜀も兵を出さざるを得ません。私たちをこれまで信じてくれた民を守るためにも」  そこで彼女は小さく頭を振った。 「いえ、どちらが兵を出したとしても変わりはありませんね。もし荊州で争乱が起きれば、迷惑を被るのはその地の民であり、復興を遂げつつある彼の地は、かつての戦乱の時と同じように被害を受けるでしょう」  雛里は足下に置いていた荷物に手を入れ、何枚かの束ねられた紙を出してくる。それを卓に置くと、詠が受け取ってぱらぱらと中身を確認し出した。 「そこに、現状、荊州で三勢力がぶつかり合った時の試算をまとめました。道中で行ったものですが、導出仮定もきちんと書いてありますので、後から確認して下さい」  詠が最後まで確認してから、それを一刀に差し出す。一刀は丹念に紙をめくり、そこに書かれている内容を読み始める。 「直接的な会戦で死ぬ数はそれほど多くはないでしょう。しかし、それによって荒らされた田畑から人が逃げ、その人々が食べられずに死んでしまうことは考えられます。益州、豫州、揚州などの近くに逃げ込んで、その地の治安が悪化することも考慮しなければいけませんし……」 「でも」  読み込んでいる一刀に語りかける雛里を遮って、詠が小首を傾げながら呟く。そのあどけない仕草に、白蓮はそら恐ろしいものを感じた。 「それって、蜀や呉が兵を退けばよいだけのことじゃない?」  聞いた途端、雛里の顔から血の気が引く。同じ軍師同士、彼女たちは相手がどれだけ深く物事を理解しているか、身にしみてわかっているはず。その前提をまるでなにも知らぬ様にひっくり返されれば、いかに不世出の大軍師とて動揺するだろう。 「そんな……詠さんだって、わかっているはずです!」 「雛里、激するな」  甲高い声で叫ぶ雛里に耳打ちする星。焔耶は怒り心頭に発してかえって醒めきったのか、ぎりぎりと奥歯を鳴らしながらも動こうとしない。 「では、こちらから訊くがな、黄蓋殿。呉は兵を退くと思われるか?」  まだ何か言いたそうな雛里を身振りで抑え、今度は星が切り込んでいく。あえて、黄蓋と呼んだのは、呉に所属していた人間としての意を強調したのか。 「ありえんな」  即答だった。  鬼の仮面を被った女性は、楽しそうに笑みを浮かべつつ、星へ返答する。 「呉は尚武の気風。己の権益を侵されて、ただ黙っておるなど出来るわけがない。ましてや、孫家の気性を考えればの。権殿は姉妹の中ではおとなしそうに見えるが、あれで気骨は他の二人に負けぬからのう」  そこで腕を組み、一つ唸る祭。 「じゃがのう。漢朝を主と仰いでいる以上、州牧の意思をまるで無視するわけにもいくまい?」 「それは……」 「要は、領土全てを返還するのに替えて、何を出せるかじゃ。そうは思わぬか、鳳雛」  これは手をさしのべているのだろうか。祭が雛里に向ける温かな視線に、白蓮はそう考えずにはいられない。そして、雛里自身もそれを感じ取っていたようだった。 「こちらとしても譲歩案はあります」  彼女はぴんと背筋を伸ばし、紙面から顔をあげた一刀を真っ直ぐ見つめた。 「荊州において蜀に納められる税の内、五分の一を州側に上納します」  はたして、それほどの案を出す権限を与えられてきたのだろうか、と白蓮は疑問に思うが、桃香のことだ、もしうまくいけばさかのぼってでもそういうことにしてしまうだろう。 「それと、州治である襄陽の周辺は州牧の直轄地としてそちらがお好きにしていただければ……」  傍で聞いている白蓮にしてみても、魅力的な案だった。州牧側は最重要の都市の一つを手に入れ、なにもせずとも税が入ってくる。それでも荊州を戦渦に巻き込むよりはましだと雛里は考えたのだろうし、それくらいせねば最悪の事態を回避できないと踏んだのだろう。 「しかし、蜀側だけでは片手落ちじゃな。呉はどうする? 穏あたりと話は済んでおるのか?」  祭のもっともな問いかけに、雛里はしっかりと胸を張って、言葉を押し出す。 「わた、私が説得してみせます!」  その必死な様子に、白蓮はついに我慢の限界を超えてしまった。 「つまり、荊州全土の五分の一の税が州の財源として使えるようになるわけだ」  雛里の提案をまとめて繰り返す。 「徴税からなにから蜀と呉がやってくれて、一刀殿はなにもしなくとも税を受け取ることが出来るんだ。それで治水工事やら色々出来る。なにも土地がなくとも……な?」  本当に雛里や朱里が呉を説得できるかどうかは、白蓮としては確信を持てなかった。だが、やると言っている以上、それをないがしろにも出来ない。  だから、彼女はなだめるような口調でそう言う。州牧としての一刀の行動には賛同できなかったが、それについて諫言するのは戦の可能性を除いてからの話だと、彼女は判断していた。 「と、ともかくさ、一刀殿のほうは一度要求を引っ込めて、それから話し合うのはどうだろうな? 北でも南でも戦をするなんてたまったもんじゃないだろ?」  六対の視線が集まって、少々緊張を感じながら、白蓮はそう訊ねかけた。  それに誰かが反応しようとする前に、一刀が手をあげた。その行動に詠が鼻白み、祭と目線を交わし合っているのが視界の隅に見えた。 「別に戦をしたいわけじゃない」  3.求めるもの  その言葉を聞いて、それまで彼が一言も口にしていなかったことに気づき、白蓮は驚きを覚える。わざとだろうか。あるいは、詠たちがそう仕向けていたか。 「それなりのものがもたらされるならば、こちらからの返還要求を撤回してもいいと考えてはいる」  一刀は雛里から受け取った冊子を指でとんとんと叩きながら、下から覗き込むように雛里に訊く。 「その税だけど、当然、蜀は荊州の二分の一にあたるものを納めてくれるんだよね?」 「え……」 「呉には三分の二を納めるよう説得してくれるんだよね?」 「あ、いえ、しかし……」  一刀が当たり前のように問いかける言葉に眉間に皺を寄せて対する雛里を見て、詠が小さく嘲るように笑った。 「ふぅん。荊州が大きくなっちゃうわね」 「そりゃあ、しょうがない。両国の主張だからね。州牧としても、各国の主張を尊重すべきだろうし」 「ちょ、ちょっと待った」  焔耶の拳が握りしめられて白くなっていくのを見ながら、白蓮は自分でも調子外れだと思う声を張り上げる。 「いくらなんでもおかしいだろう。たしかに蜀も呉も、自分の領土をそれだけ主張してるけど、そうじゃなくて……」 「じゃあ、どうすればいいって言うの?」 「そりゃあ、ほら、その年に実際に各国に納められた税を、翌年に集計して渡すとか、そういう」  具体的なところは後々考えればいい。だが、その前提が空論では誰も納得しないだろう。白蓮は詠に答えながら、一刀の瞳を見つめてもいた。だが、そこには普段の彼に感じている温かみなどまるでなく、まるで石でもはめこまれているのではないかと疑うほど冷たい固さしか見えなかった。 「そうなるとじゃ。徴税できる地域が蜀の実質支配地域、つまりは今後の領土となるのう。蜀はそれでよい、ということじゃな?」 「そして、それを呉にも納得させられる、と」 「いや、それは……えっと」 「それは、再度、荊州を切り分けるに等しい」  祭と一刀がたたみかけるように言うのに白蓮が戸惑っていると、星が地を這うように低く響く声で割り入る。 「これまでどうやっても落としどころのなかったことを、いま決めよと仰るか」 「いいえ。あくまでそれは白蓮の案に従えばってことよ」 「俺としては最初の案のほうがいいな。なにせ儲かる」  その発言に、場が固まった。  そんな発言を北郷一刀という人間がするとは思っていなかったのだろう。さすがの星の口元もひくつき、雛里は目を見開き、焔耶は何を言っているのかわからないというような顔つきだった。  おかしい、おかしい、おかしい。  白蓮はくらくらする頭のどこかから警告が聞こえてくるような錯覚を覚えた。  最初から一刀たちの素振りには違和感を覚えていたが、それも政治的にそんな態度をあえて取っているのだと思っていた。だが、これはそれをはるかに超えている。  自分は、剣を預ける相手を間違えたのか?  そんな疑念がわき上がってくるのを止められない。  もしかしたら、他の者たちも大なり小なり混乱していたのかもしれない。誰もが次を探っている間に、一刀が居住まいを正し、質問を投げかける。 「そもそも、君たちは、なにをもってあの地を支配している?」 「え……」 「どんな理想で、どんなことを思って、なにを守ろうとして、なにを作ろうとしてあの土地にいるんだい?」  蜀の面々がそれに答える前に、彼は脇の二人に視線を移す。 「詠や祭は蜀や呉が荊州に領地を持つに至った詳しい経緯を知っているよね?」 「そりゃあね」 「教えてくれないかな?」  一刀の申し出に、詠はしかたないというように首を振って同意する。蜀の三人と白蓮は事の成り行きに取り残されて黙っているしかなかった。 「益州に入ったところまではいいわよね? あの時は、魏の領土を抜けたんだし」 「そうだったね」 「その頃から徐々にだったけど、魏の圧力が高まる度に、もう自分たちだけではやっていけないと思ったんでしょう。各地の豪族たちが桃香達に降ってきたのよ。蜀が南蛮を平定したことも効いたわね。紫苑も含めて、荊州各地から人がやってくることになったわ」 「呉も同じようなものじゃな。我らが江東の支配を確立するに従って、寄らば大樹の陰と思うたか、小勢力が集まってきおった。中には堅殿以来の旧臣が戻ってきたのもおったがな」  彼女達二人の話を聞き、得心したように一刀は頷く。 「要するに両方ともなし崩しに荊州の支配を得たわけだ。勝ち取ったのでもなく、譲られたのでもなく」 「だからこそ、境が決められず、宙ぶらりんになったわけだけどね」 「そう。君たちはそんな曖昧な状況で、自分たちの領土を主張してきたわけだ」  一刀の視線が、雛里、星、焔耶、三人の上をなめるように動いていく。 「そこに見ているのはなんだい?」  とん、ともう一度一刀の指が雛里の渡した紙束の上に立てられる。 「生み出す作物か? 上がる税か? 意地? 力? それとも、国とかいう、さらに曖昧で実態のない化け物みたいなものかい?」 「私たちは……みんなの笑顔を、弱いものが害されない世を……!」  圧力に抵抗するように、雛里は言う。その奥底にあるもの、義勇軍に参加して以来、ずっと抱えてきたものを、いまこそ放つように。  だが、それは一刀が軽く首を振りつつ放った言葉で一蹴された。 「もう、戦は終わったよ」  終わった、と彼は言う。  だが、違う。そこに込められた意味は、表面的な文言の示すもの以上のものだ。  戦は終わった。  魏の勝利という形で。蜀の敗北という形で。 「俺の支配下に入ったって、なにも無体な収奪をするつもりはない。きちんと定められた税を徴収するつもりさ」  それはそうだろう。そんなことを心配している者はここに一人もおるまい。そうは思っても白蓮の口は糊で固められたように開いてくれない。 「つまり、君たちが新しい乱を起こさない限り、笑顔は失われないし、土地を荒らされる人々も出ない」 「あくまでも……我々が兵を出すのが悪いと、そう仰るか」  探るような星の物言いに、しかし、一刀は再び首を横に振る。 「いいや。そういうわけでもない。世の中が善と悪だけでわけられるのならば、この件で悪の筆頭に数えられるのは、間違いなく俺だ」  そう言って、彼は朗らかに笑った。自嘲のかけらもない、明るい笑みだった。 「とはいえ平地に乱を起こすような行いでも、形式や正当性で言えば理はこちらにある。それを覆すものは、まだ出てきていないようだ。残念だけど、士元さん。少なくともさっきの案では、君たちは俺に要求を撤回させられない。俺が言えるのはそれだけさ」 「じゃあ、会談はここまでね。ボクとしては、兵を出すのはお勧めしないわね」  蜀側に口を挟む間を与えずに三人は立ち上がり、さっさと天幕から出て行こうとする。雛里は呆然と、星と焔耶の二人は釈然としないような表情でその背を見つめている。そんな中で、白蓮だけが一人孤立していた。  立ち去ろうとする三人に同調も出来ず、と言って座り込んだままの三人のいる場所には戻れない。そんな矛盾の中で、彼女は、どうしようもなく孤独だった。  だが、そこに声がかかる。 「帰るよ、白蓮」  いつも通りの優しい口調でそう言われることがなにより辛い。一刀の呼びかけは、彼女の体を動かしてくれなかった。 「白蓮」  詠に呼びかけられ、さらに気遣わしげな星の視線を受けて、ようやく彼女は立ち上がる。 「あ、ああ……いま、行く……」  白馬長史と謳われる女性にしては歯切れ悪くそう言い、彼女は重い体を引きずって天幕を出て行くのだった。  4.相酌  陣に残る祭を置いて、三人はすっかり暗くなった中を都市へと向かう。武威の太守は左軍の将軍たちのために大きな邸一つを丸々明け渡してくれていた。祭のように陣に残されている将もいたが、ほとんどの将は邸で寝泊まりすることになっている。軍議のために便利だったし、なにより、多数の将が陣にあるのは、兵たちにとっては堅苦しく感じられる。しばらくは兵たちの羽を伸ばしてやろうという意向からであった。  その邸への道中、三人は全くの無言だった。  詠も一刀も、そして、白蓮も揃って厳しい顔をして、ちらちらとお互いの顔を盗み見ているものの、誰も口を開こうとしない。  邸に入ると、諸将は揃って大部屋に集まり、涼州の地図を中心に車座になっていた。それぞれの前に酒杯や料理の皿があるところを見ると、軍議兼酒宴といったところのようだった。  将たちは口々に一刀や白蓮たちに挨拶の声をかけるが、常ならば快活にそれに答えるはずの一刀は暗い顔で、わずかに笑みを覗かせるのみ。 「すまない、俺は部屋にいるよ」  それだけ言って、そのまま部屋を横切り、奥に通じる戸口へ消えていく一刀。その背中が見えなくなるのを確認してから、猪々子が首をひねった。 「……アニキ、具合でも悪いんか?」 「顔色悪かったね。なにかあったかいものでも持って行ってあげたほうがいいかな?」  斗詩が心配げに顔を曇らせるのに、円座に加わった詠がぱたぱたと手を振った。 「悪役をやって疲れてるんでしょ。しばらく、ほっといてやりなさい」 「我が君が悪役……似合いません、似合いませんわ。おーっほっほっほ」  どこかつぼにはまったのか、金髪を振り立てて高笑いを始める麗羽。だが、誰一人それを気にせず、話が進んでいく。 「ははぁ。慣れない事をしてきたわけですか」 「そ。まったく、ボクたちに任せておけばいいものをね」 「それはそれで無責任やと思ったんやろな。ま、一刀らしいやんか」  詠の杯に酒を注ぎながら笑いかけてくる霞に、ふん、と鼻をならして答える詠。 「え、悪役って、え?」  白蓮だけが話について行けず、皆と一緒に座り込みもせず、一人立ち尽くしていた。そんな彼女を横目で見ながら、同情するように話しかける詠。 「あんたがいま予想しているとおりよ。あんたもお疲れだったわね。巻き込む予定はなかったはずだけど。あー、それにしても、ボクも疲れた。焔耶はかみつくし、雛里は泣きそうな目で見てくるし、きついったらありゃしない」 「詠は悪笑顔させたらかなりのもんやからなあ」 「けなしてるの、それ」  そんなことを言い合っているところに、戸口から、ひょいと一刀の姿が現れた。 「あー、あの……ちょっと、いいかな? 白蓮」 「わ、私か?」 「うん、申し訳ないんだけど……」  酒宴に誘いかける諸将に笑って答えながら、ちょいちょい、と手で白蓮を招き寄せる。彼女は混乱を引きずりながらも、素直にそれに従った。  二人は一刀に与えられた部屋に入った。妙に分厚い鉄の扉が気にかかり、白蓮はしげしげとそれを眺めていた。あるいは一刀と向き合うのを無意識に避けていたのかもしれない。  部屋の主の方は彼女のそんな行動を咎めることもなく、同じように扉を見やる。 「元は牢獄なんだろうな、ここ」 「え?」  何気なくとんでもないことを言われた気がして振り返る白蓮。一刀は手を広げて、部屋のそこここを指さしてみせた。 「貴人用の牢だよ。洛陽の城にもあるだろ?」 「ああ、捕虜のためのか……」  言われてみて、納得できる部分があった。部屋の壁は文様を型押しした煉瓦――有文せん(※)で覆われているが、まずこれがおかしい。外壁ならともかく、内壁なら土で固めたもので十分だ。贅を尽くすなら壁画でも描くほうがそれらしい。  さらに窓は一つ大きいものがあるが、場所は天井に近いほど高い。採光は出来るだろうが、風景を眺めるには不向きだ。しかし、逃亡を防ぐことを考えたとすればあそこまで高い場所につくった理由もわかる。 「壁が分厚いから、大事な話が漏れずに済むし、安全性も高い。だから、いつの頃か、貴賓用の部屋として仕立て直されたんだろうね」 「ふうむ」  この邸を用意した武威太守は、部屋の由来を知っていたのだろうか。もし知っていて北郷一刀にあてがったのだとしたら、趣味が悪いを通り越して侮辱にあたるのではないだろうか。いや、まあ、単純に邸を提供して、部屋を選択したのは当人かもしれないのだが……。  そんなことをぼんやり考えていると、目の前から一刀が消えたことに気づく。意識せぬまま動きに引っ張られて視線が向くのに任せてみれば、床にしっかりと正座した一刀が見えた。 「か、か、か、一刀殿!?」  そのまま止める間もなく下がる頭。間違いなく額が床にこすりつけられているだろう体勢に、白蓮はおろおろと手を伸ばすも、踏み込んでいないため当然届かない。 「すまなかった」  床に近いためにどうしてもくぐもった謝罪が告げられると、白蓮はますます動揺してしまう。彼の体に近づくでもなく、足を踏み出したり戻したり、まるで踊るような動作をし始めた。 「あ、え、い、いや、いいから、とにかく、頭、頭あげて!」  叫ぶように言葉を投げつけると、ためらうような所作ながらも頭はあがる。正座して真っ直ぐ体を伸ばし、こちらを見上げてくる一刀と目が合った。 「本当に申し訳ない。いきなりあんな場に巻き込むつもりじゃなかったけど、そんなのは言い訳にしかならない。白蓮を不快にさせた分の報いは受けるつもりだ。もし、俺のところから移りたいなら……」 「あ、え、いや。ちょ、ちょっと待って。って、私、今日はこればっかりだな」  うんざりしたように言う白蓮に、驚いたような顔つきになり、次いで苦笑を浮かべて一刀は立ち上がる。 「すまん」  その謝罪は先ほどより軽い調子だったが、温かみは数段上だ、と白蓮はなんとなくそう思った。 「仕切り直そうか」 「うん」  そういうことになった。  一刀と白蓮は差し向かいで杯に酒を注ぎ合い、話を始める。 「要するに、あれは全部演技だったんだな?」 「まあ、演技とはったり、本音は少しだけ、ってところかな」 「むぅ」  苦笑いを浮かべながら答える一刀に、白蓮は唸る。 「みんなには、ある程度事前に話をしていたんだ。ただ、白蓮には士元さんを迎えに行ってもらっていたからさ」  話が通っていなくて、その上まさかあの場にいるとは、と一刀は続けて、そこで何かに気づいたように白蓮を凝視した。 「あ」 「な、なんだ?」 「莫迦だな、俺」  それから彼は笑みを見せる。これまでのような影のない、明るい笑みだった。この笑顔を見てみれば、先ほどの会談の時の笑みがいかに暗かったかがわかる。その場では案外わからないものなのだな、などと思う白蓮。 「謝る前にお礼だよな。白蓮ありがとう。文長さんが俺に手を出していたら、ちょっとまずいことになってたから」 「はは。あれも結局、星が止めてたじゃないか」 「いや、それでもだよ。ありがとう」  もう一度微笑みかけられて、白蓮も笑みを返す。杯を呷り、一気に酒を喉に落とし込む。少しきついがなかなかいい味だった。 「ん」  空になった杯を突き出す。一刀はにこにことその杯に酒を注いだ。 「しかし、びっくりしたぞ。そもそも荊州のことだってびっくりだ」 「あー、まあ、そうだろうね。俺なりに考えはあるんだけど……」  頭をかいて困ったように言う一刀に、白蓮は顔を引き締めて問い直す。 「あそこまでして蜀――いや、この場合は呉もか――を追い込む意味は?」 「簡単さ。早めに解決したいんだよ」 「……ちょっと過激すぎないか?」 「そうかもしれない」  あっけらかんと答えられ、追求しようとした勢いを外される。細かいところまで訊こうとして、しかし、さらに恐ろしい答えが返ってきそうで白蓮は躊躇する。 「どうも、華琳ならどうしたろう、とか考えちゃうんだよな。なにしろ身近でやり方を見てきたから。悪い癖かもしれないな」  男は自分に言い聞かせるように言った後で、遠くを見るような目をした。その時、彼女はそんな目を向けられる相手のことをうらやましいと思った。それは先に名前の出た華琳だったかもしれないし、別の誰かなのかもしれない。しかし、その愛情とも尊敬とも崇拝ともつかない視線を、彼女は素直にいいものだと感じた。 「ただ、今回で言えば、桃香と蓮華を信じているからね」 「信じる?」 「俺の思った以上の事をしてくれるってね。そう信じてる」  言い切って飲み干した杯に、黙って白蓮は酒を注ぐ。 「信じてる、ね」  わずかな沈黙の後で、彼の言葉を何度か繰り返し、くすくす、と白蓮は笑った。  楽しかった。実に楽しかった。 「桃香の幼なじみの私でさえ、ここまでやってそう言ってのける自信はないぞ」 「そうかなあ」 「そうだよ」  腕を組んで困ったように悩み顔になる一刀にさらに楽しくなって、彼女は明るい声で言い放つ。 「この話はもういいや」 「え?」 「一刀殿はちゃんと考えて、詠達とも相談してるんだろう?」  燭台の灯りを受けて黄金色に輝く瞳で覗き込むと、一刀はその視線をしっかりと受け止め、顔を引き締めて彼女に相対する。 「うん、詠や雪蓮、冥琳たちと話し合ったよ」 「じゃあ、それでいい。ただし」  にやり、と笑って杯を乾す。  うん、いい酒だ。 「びっくりさせたおわびに一番いい酒を出してくれよ」 「いや、これは結構……」 「知ってるんだぞ、洛陽から持ってきたのと、長安で補充したのがあるだろー?」  抗弁しようとするのに、にやにやと指摘すると、目を見開いて一刀は杯を置く。 「うわ、なんで知ってるんだ。しょうがないなあ……」  そうぶつぶつ言いながらも、荷物を探り出す男の背中を見つめながら、彼女は杯に残った雫をちろりと舌を出して舐めとり、心の中だけで呟いた。  いい酒だ、と。  5.会飲  白蓮と一刀が奥に引っ込んだ後も諸将は酒宴を続け、これまでの戦闘行動や今後の見通しをああでもないこうでもないと言い合っていた。  その途中、詠がぱんぱんと手を叩き、皆の注目を集める。 「さて、ちょうどいいから、少し真面目に今後の大きな動きを話しましょう」 「何人かおらへんけど?」 「正式な話はまた後でするわよ」  詠はやれやれとでも言いたげに首を振る。 「それに、さっきまで星たちとやりあってきたから、しばらく蜀の兵は動かせない。あいつもしばらく武威に足止めでしょうね。まずはボクたちで考えておきましょ」 「蜀の兵は動かせないって……実際はなにを言ってきたのー?」 「あたしも興味あるな。一刀殿もそうだけど、入ってきた時の白蓮、顔青くしてたぜ」  蒲公英が意地の悪い笑みを浮かべて興味津々といった様子なのに対して、その従姉は本気で心配している様子だった。 「聞きたい? でも、聞いたら、あんたたち、桃香とあいつとの板挟みになるわよ?」 「あー……」  底冷えのするような視線で眼鏡の奥から覗き込まれ、奇妙な声を上げてためらう従姉妹。  そんな場を断ち切ったのは、それまであまり喋っていなかった華雄の言葉だった。彼女は酒杯を置き、料理をどかして地図にさらに近寄る。 「その話はひとまず置こう。それよりも、我らの身近な話を先に済ませておくべきだろう」 「せやな。んで華雄っちはどう思うん?」 「手応えがない」  腕を組んで顎に手をやりつつ、彼女は霞の問いに答える。その視線が大きな地図のあちらこちらに移った。 「特に鮮卑……いや、鮮卑だけでもないが、東、より正確には北東側が弱いように感じるな」 「うーん。中央軍の動きのおかげとか?」 「それはあるですね。匈奴が続々降っていると情報が入ってきてます。もちろん、距離がありますから確実とは言い難い部分もあるですが」  斗詩の推量をねねが補足する。今日は恋が陣に残っているためか、彼女は恋の分も発言しなければ、と気負っているようだった。 「次々に波及してるっちゅうことか」 「となると、こちら側の動きも、華琳さんたちに影響を与えるということかしら?」 「それはそうね。一続きだし、彼らには彼らなりの連絡手段もあるようだし」  詠は言ってから懐からいくつかの書き付けを取り出し、見せつけるように振ってみせた。 「客胡の情報によると、数ヶ月前……そうね、それこそ北伐の準備が本格化した春頃が一番圧力がきつくて、頻繁に部族が移動していたらしいわ。客胡が涼州を抜けるのも大変だったって報告が来てる」 「へえ。どういうことだろう?」  猪々子が首をひねる。彼女としては、それなりに強い敵や困難な状況に対したいところだが、ここでそれを発言するのはあまり歓迎されないこともわかっていた。 「うーん。どんなものかわからない時は備えてみたけど、いざ戦が始まったら、あまりに大事なのでこっちになびいたというか、諦めたというか。そういうのがあるかも?」 「涼州の土着の面子には、翠が参加したんも大きかったやろ。ただ魏の支配がきつうなるいうよりは、錦馬超が戻って来るっちゅうほうが受け入れやすいわな」 「そ、そうかなー」  霞の推測に、翠は照れたのか顔を赤くする。ねねと詠、それに蒲公英は霞に同意するように頷いていた。 「もちろん、それもあるですよ。あるいはここまで本腰を入れてくると思っていなかったのかもしれませんが」  これだけの騎兵を運用するというのはなかなか大変ですからね、とねねが胸を張って言う。彼女も軍師の一人として、これだけの軍を指揮するのは栄誉と考えているのだろう。  自分の髪に出来た枝毛をちくちくいじっていた麗羽が地図をなんとなく眺めながら、ぽつりと呟く。 「ところで、手応えがないと仰っておられましたけど、後ろというか、西や北に下がっているということはありませんの?」 「うーん」  その問いかけに、蒲公英と翠、それに詠が顔を見合わせ、揃って苦笑のような表情になった。 「なんて言えばいいのかなあ。うー、詠任せた」 「はいはい。そうね、あんたたち関中の人間には、なかなかわからないのかもね。あのね、あんたたちから見たら、遊牧の民というのはふらふらとさまよっているように見えるのかもしれないけれど、そうでもないのよ」  言いながら、詠はいくつかの地域を指でなぞっていく。 「彼らの遊牧というのは、ある程度定まった冬営地、夏営地というのがあってね。そこを季節ごとに往復しているの。もちろん、いくつか経路はあるし、営地自体も大きな尺度で見れば移動するのだけど、水場の数や草の生え具合なんてそうそう変わらないからね。五年や十年で見れば、だいたい決まった道筋をたどっているのよ」 「村に定住するのではなくとも、縄張りはあるって感じかな?」  詠の解説を、蒲公英がさらに砕けた表現に変換する。 「へえ」 「大移動をするのは、それこそ大異変――長い干ばつや土地全体が砂漠に変わってしまったなんてことがあった時か、戦争で新しい土地を切りひらいた時、あとは、集団が分裂する時くらいね」  そこで詠は顔をあげて肩をすくめてみせる。 「今回もたしかによほどのことだけれど、土地を捨ててまで後退するかどうかは疑問。だって、逃げるにしても新しい土地を切り取らないといけないのよ。逃げた先の部族と血筋が同じで、かつそちらに土地――より正確に言えば水場が余っているなんて都合のいい状況でもない限り、そういうことはありえないわ」 「そんでも強行すれば、待っとるんは結局戦いってことかいな」  霞の言葉に涼州出の三人が揃って頷く。 「それくらいなら、己の土地を守るため戦うか、降るかしたほうがいいと考えるってわけですね」 「どっちにしろ戦うんじゃねえ。ま、あたいらと戦うのを選ぶのも無謀だと思うけどな」  斗詩と猪々子が感想のような軽口のような言葉を放つのに対して、解説していた詠は少し考えるような顔つきになって、眼鏡をなおした。 「あとは、そうね。華雄たちの配下になっている烏桓のように、部族ごと傭兵として雇われるなんて時も土地を離れることがあるわね。遊牧よりも戦士稼業で暮らせるから。それと、ありうるのはもうひとつくらいかな」 「もうひとつ?」 「うん。古の匈奴のような形。強力な匈奴中核部族がいて、それに周辺部族が服属してたわけだけど、その場合、中央には統制がとれた大規模な組織があるわけよ。各部族が移動を果たしたとしても、牧草地や水場の分担を調停できるほどの、ね」 「ですが、そんなもの、ここ百年は存在していないですよ」  ねねの指摘に、詠は首を縦に振る。 「そういうわけで、後背に大軍団を隠しているなんてことは、いまのところ考えにくいわ。それをまとめる者がこのあたりにいるって話も聞かないからね。鮮卑には軻比能っていう、放っておけばいずれ多くの部族をまとめるだろうって稟が予測してるほどの頭目がいるらしいけど」 「こっちにもいないかなー、そういうの」 「戦力はともかく、まとめてくれたほうが面倒がないこともあるからな」  まとまってしまえば中枢を叩けばよいのだし、と華雄が言うと、同意の声がいくつか上がった。ばらばらになった涼州勢力は一つ一つは数が少ないために討ち取りやすいものの、何度もそれを繰り返さねばならないのは煩雑でもあった。 「ああ、でも、一つ」  話が変な方向へ移る前に、と翠が声をあげる。 「これまでも経験してきたろうけど、あいつらは自分の得意な場所に引きずり込んで戦うのは得意だ。戦闘の最中に別の場所へと戦場を移そうとしたり、別の部族にぶつけたりとかってことはしてくる。そこは注意したほうがいいだろうな。伏兵と一緒の効果になるし」 「そうですね。そのあたりの戦い方と今後の対処ですが、このねねに良い考えが……」  そんな風に、諸将たちの語らいは、夜が更けるまで続いていく。  6.侵入者  眠りの中にあった一刀は、体にかかる重圧で意識を取り戻した。 「張々かー? もぐりこむのはいいけど乗っかるのは勘弁してくれよー」 「失敬な。私はあれほど重くありませんぞ」  おや、と目を開いてみれば、暗闇の中、紫に近い瞳と目があった。ずいぶんと距離が近い。誰かが彼の体の上にまたがった上に、上体を倒して顔を間近まで持ってきているのだ。  その瞳と声、それに漂ってくる甘い香りに彼の意識にかかったかすみは一気に晴れ、そこにいるのが趙子龍、常山の昇り龍であることをはっきり認識する。 「どこから入って来たの?」 「もちろん、窓から。お邪魔でしたかな?」  あの高さの窓からかよ! という驚きは内に隠し、一刀はにっこりと笑ってみせる。 「いやいや。子龍さんならいつでも大歓迎だ」 「ふふ、それは光栄な」  こちらも艶然と笑い返し、しかし、彼女は顔を引き締めて彼を睨みつけた。 「けれど、いまはそのような戯れ言を聞きに来たのではありません」 「そうか。なに?」 「……ずいぶんと落ち着いておられますな」  特に緊張した風もなく答えた彼の声が気にくわなかったのか、少し声を低めて女は言う。ゆったりとその指が彼の首筋にかかった。一刀はその動作がどうにもくすぐったかったが、さすがにここで動くようなことはしない。 「身に寸鉄も帯びてはおりませんが、この首くらいわけもないことはご存じかと思いますが?」 「まあね。ただなあ……」 「なんでしょう?」 「殺しに来たなら、華雄か猪々子に見つかってると思うんだよな」  さらりと吐いた言葉に、ふう、と嘆息して彼女は体を起こす。ようやく闇に慣れてきた目で、一刀は彼女を見上げる。  真夜中に女の子に腹の上に乗っかられて、これほどまでに色気がないというのもなんだかおかしな気分だな、などと彼が考えていると知ったら、はたして彼女はどう思ったろう。 「真意を伺いに参りました」 「なんのことだろう」  そう返した途端、初めて彼は恐怖を感じた。背筋を悪寒が這いのぼる。  だが、その強烈な気配は一瞬でなりをひそめ、彼女は固い声で彼に呼びかけた。 「御遣い殿」 「……子龍さん?」 「私はあなたを救いましたな? 私がいなければ、ここにあなたはいない」  それは紛れもない事実。この世界に初めて現れた北郷一刀を襲った悲劇から助け出したのは、他ならぬ彼女なのだから。  だが。 「……子龍さん」  硬い表情で一刀は呟く。それは隠しようのない驚愕に彩られていた。まさか彼女がそのことをこの場で言うとは思っても見なかったのだ。 「星、ですよ」 「え……」 「星。私の真名です。知っているでしょう」  知ってはいる。しかし、預けられてもいない真名を思考に乗せるのは非礼にあたるからこれまでその名で彼女を認識してきたことはない。まさかここで真名を預けようとでもいうのか。あまりに予想とは違う言葉の連続で、一刀の意識は飽和しかける。 「いや……しかし……」 「先ほどのようなこと二度と言うつもりはない。いや、一度たりとて言うつもりはなかった」  苦渋に満ちたその口調に、一刀はそれ以上なにも言えない。 「だから、北郷殿」  彼女は一言一言はっきりと区切るように発音する。 「貸し借りで話すのがお嫌なら、我が真名にかけて真実を」  じっと見つめ合う目と目。結局、一刀は頷いた。 「わかった」  それから、軽く笑みを交えて続けた。 「話すから、座り直さないか?」 「いいでしょう」  女の体が上から退く。それがなくなったことで、後に残った熱が感じられ、妙に名残惜しくも感じる。  一刀は燭台に火を入れ、椅子を手で示して、彼女に座るよう促した。蜜ろうのかすかに甘い香りが部屋に漂う。 「ここの太守からもらった酒があるけど、飲むかい?」 「ええ、いただきましょう」  そうして準備を整え、二人は酒杯を掲げて話を始める。 「ごめんな。嫌なこと言わせちゃって」 「いえ。私の推測が正しければ、今日はそちらのほうがお嫌なことを数々言ったはずですが」 「かなわないな、まったく」  一刀は苦笑しつつ酒を口に含む。ぱかぱかと空けていく女に比べて、彼は既に白蓮と痛飲していたため、それほど飲むつもりもなかった。 「それでね、子龍さん」 「星、と言いましたが」 「いや、聞いてくれ。真名をもらうなら、これから話すことを話して、その上でもらいたい。はっきり言おう。恩義も感じている。真名をもらうことも嬉しい。でも、それらを取引に使うのはやめたい。どうだろう?」  機嫌を伺うように言う彼に、彼女はふっと爽やかな笑みを浮かべた。 「わかりました。では、この場では、いままで通りに」 「ああ」  あからさまにほっとした顔でそう言って、彼は話を続けようとした。だが、その眼前に、押しとどめるような格好で掌が広げられる。 「……その前に」 「え? どうしたの?」  一刀が事態を把握する前に、彼女は扉に走っていた。その分厚い鉄の扉を難なく開き、その影にいた人物を部屋に引きずり込む。 「いずれの御仁か知らぬが……と、これは?」  その掴んだ相手を見て、星はわけがわからない、というような表情を浮かべる。それは、彼女がよく見知った顔だった。 「……焔耶?」  黒髪に一部だけ白く色の抜けたその頭は、紛れもなく魏文長。だが、その体は彼女の腕の中でまるで動こうとしない。 「あれ、文長さんも来てたの」 「い、いえ。これは私とは別で……焔耶、お前、なにを硬直している?」 「こ、こ、こいつが……」  細い震えた声が、彼女の口から漏れる。そのかすれ声に彼女の姿を見てみれば、黒い上着にぬいぐるみのような小型犬がじゃれついていた。まるで彼女の服に絡まっているようにも見えた。 「おや、セキト」  一刀が近づいて、わふわふと裾を甘噛みしているセキトを抱き取る。 「恋があっちにいるからさ。俺の見張りに置いていってくれるんだよ」  途端に力が抜け、へなへなと床に座り込む焔耶。その様子に一刀は、あれ? と疑問を持つ。 「もしかして……犬、苦手なの?」 「ば、ば、莫迦を言うな。このワタシがけだものごとき!」  顔を真っ赤にして抗弁する焔耶の側に、セキトを近づけてみる一刀。セキトは嬉しそうにわんと鳴いた。 「うわあっ」  顔を青ざめさせて立ち上がり、部屋の奥に逃げ込む焔耶。その様子を見て、一刀は納得したように頷いた。 「苦手なんだ」 「卑怯だぞ、貴様」 「お二人とも、掛け合いもそれくらいに」  はぁ、と疲れたように息を吐き、星は扉を閉め直して元の位置に戻る。 「焔耶、お前、なにをしに来た」 「なんと言えばいいのかわからんが……だいたい、お前こそ、なんでここに?」  椅子を用意され、焔耶も座り込む。なぜか彼女に寄っていきたがるセキトは、一刀が膝の上に抱いていることにした。それはそれでお気に入りの場所なセキトであった。 「真意を問いにな」 「真意? ああ、そういうことか。そうか、そうか。貴様、なにか隠していたのか」  星の言葉に、焔耶はなにか霧が晴れたとでも言うように明るい顔を見せた。 「おや、焔耶の見立ては違うのか」 「ん? ワタシか。ワタシは、なんとなくもやもやと納得できなかったから、それを質しに来ただけだ。そうか、ふむ。このもやもやは隠し事のせいか?」 「ははっ」  星と一刀は焔耶の言葉に呆気にとられたような顔をしていたが、いち早く立ち直った星が笑い声を上げ、次いで隣に座る彼女の肩を何度か叩いた。 「いや、焔耶、お前は本当に大した奴だ」 「……厭味か?」 「莫迦を言うな。私は本気だ」  そう言われてもいまひとつ本気なのかどうか疑うような瞳で見つめる焔耶。一方で、一刀は苦り切った笑みを浮かべていた。 「参ったなあ。二人共に見抜かれてるとはね」 「そう気に病むものではありません。雛里――我らが可愛い軍師殿など、いまもどう次の提案をしようかと頭を悩ませているのですぞ」 「それも申し訳ないが……。そうだな、じゃあ、話を始めようか」  北郷一刀は大きく息を吸い直し、彼の話を待っている二人の女性に対して言葉を紡ぎ始めた。  7.荊州  騎馬の一団が、街道を行く。  そのいずれもが武装しており、しかも、そのことを少しも隠そうとしていない。まるで威嚇するように武器を構えて道を進む集団の中央に、一人の女性の姿があった。  赤基調の服を身に纏い、きまじめな顔で周囲を見回しながら進むその人物こそ、孫仲謀、この地を治める呉王であった。  だが、いまや、ここは呉であって呉でない。彼女たちすら警戒を強めて進まねばならない地域なのだ。  州牧である北郷一刀から返還を要求された荊州の領土を馬で歩きながら、彼女は首をひねっていた。 「明命?」 「はっ」  呼ぶと、すぐに馬を横に並べてくるのは長い黒髪を垂らした少女。親衛隊長の一人でもある明命だ。 「どうして、あちらの田は手入れがされていないのかしら?」  彼女の言うとおり、街道の右手、つまり西側の田畑は荒れ放題だった。雑草が大きく成長したその場所は、しばらく人の手が入っていないと見るからにわかる。東側の田は既に収穫が終わったのだろう。稲が刈り取られ、綺麗になっているのとは大きな落差だった。 「あー、えーっと……」  言いにくそうに口ごもる明命をよそに、蓮華は観察を続ける。見れば、だいぶ先まで荒れた土地が続いていた。ただ、開拓されたことがないというのではなく、明らかに以前は人の手で整えられ、畦もつくられていたらしいのが草に埋もれながらも見て取れた。 「土地が悪かったのかしら? 人手が足りないの?」 「いえ……あそこは、その、境界地帯なのです」 「境界地帯?」 「はい。蜀と呉、二国のどちらもが領有を主張している地域でして……。そこにいると二重に税が取られると、人が逃げてしまったそうで……」  明命の言葉を理解して、蓮華の顔に朱がさす。明らかにそれは怒気を含んでいた。 「そのようなこと、誰が許した!」 「いえ、誰も。我々はもちろん、蜀もそんなことはしません。しかし、市井の人間にそれをわかれというのは難しいみたいで……。私もこのあたりに直に見に来て初めて知りました」  申し訳なさそうに身を縮める明命を見ている内に怒りが萎えたのか、蓮華は興奮して早くなっていた息を整え、ふう、と嘆息した。 「そう……」  荒れ果てた田の残骸を見つめながら、彼女は愁いに満ちた顔で頷くしかなかった。  砦に王が入るだけで、呉の兵達は沸き立った。そんな兵達に軽く手を振って答え、彼女は明命を引き連れて砦の中心部に用意された部屋に向かう。  そこには片眼鏡の少女が跪いて待ち構えていた。 「久しぶりね、亞莎」 「はい。お久しぶりです」  蓮華は言って亞莎を立たせるが、彼女は恐縮してその袖を上げて顔を隠す。 「私の力が至らないばかりに、蓮華様までお呼びだてすることになって……」 「あなたのせいじゃないわ。なにしろ袁術だもの」  蓮華は南海覇王を腰から外して座り、二人の部下に話しかける。 「それで、その……なんだっけ、煙を吐く車はもう来ないの?」 「はい。夏口に兵を進めた時点で、袁術たちの活動はなりをひそめました」 「蓮華様や蜀の中枢を引きずり出すことが目的だったのだと思います。しかしながら、未だに滅入っている前線の兵も多数おります」  亞莎は少し首を傾げて、言葉を続ける。 「蜀の兵も同様だと思われます。古くからの兵には、そもそも徐州を追われたことを思い出す者もいるようで」 「ああ、そういえば……。まったくたまらんな」  蓮華は困ったように額に手を当てて顔を振る。 「それと、先ほど入ってきた情報が」  亞莎が口にした報せを聞き、蓮華はがたんと椅子を鳴らして立ち上がる。 「襄陽に桃香が入っただと?」 「はい。軍を連れず、同行するのは供回りの者数十名のみとか。基本的に、襄陽の出入りは制限されているわけではないので……」  軍を引き連れて襄陽を陥落させたということではないと聞き、安堵の息を吐いて蓮華は座り直す。  だが、それはなんの安堵だったろう。  蜀に荊州問題の主導権を握られなかったことへか。あるいは、姉たちが敗れたわけではないということへのそれか。 「それで、既に姉様と会談を?」 「いいえ。雪蓮様は沈黙を保っているようです。冥琳様が相手をしているのか、あるいは実質的には門前払いか。そのあたりは探りきれておりません」 「ふうむ……」  腕を組み、自分の腕にとんとんと指を当てる蓮華。 「すると、蜀はまだ漢中に兵を?」 「はい。荊州に展開させているのはまだ一万ほどです。大半は漢中に置いて圧力をかけているものと。我が方が動けば、また別かもしれませんが……」  明命が答えたとおり、蜀軍は王たる桃香と共に荊州入りした一万足らずの兵を除いては漢中に兵を残していた。漢水を下っていつでも襄陽を襲える態勢ではあるが、まだ実際にそれを行うという局面には至っていない。  それは呉も同じ事で、呉の水軍の大半は思春の指揮の下、未だ夏口にあった。蓮華と共にやってきた親衛部隊が襄陽近くに停泊してはいるが、今日明日にも戦に突入するという状況ではない。 「さらに、黄漢升が蜀の陣に姿を見せました」 「呼び寄せられたか、駆けつけたか……」  蓮華は眉間に皺を寄せてその報告も合わせて吟味する。やはり戦は近い。しかし、それをどうにかしようと桃香も自分も動いている。  だが、はたしてどう決着するものかは現時点では見えてこない。それが、蓮華にはもどかしくてたまらなかった。だが、焦ってもしかたないことはたしかだ。 「いずれにせよ、役者が揃いつつあると見るべきかな」 「どういたしましょう。やはり、夏口より船団を呼び寄せましょうか」 「いや……」  蓮華は亞莎の問いかけに、首を横に振る。それから、先ほどから考えていたことを形にして告げた。  自分で言ってみてからはじめて、ああ、そうだったな、と思えるようなことだった。 「予定を変えよう。周辺の砦をいくつかまわり、民や兵に姿を見せると共に、周囲の状況をよく観察することとしよう」 「みな喜びましょう。士気もあがります」 「戦うにしても地勢を知るのは大事ですしね」  主の意見に賛同し、早速、連絡と護衛の計画を立て始める二人を見ながら、蓮華は一人呟く。 「それだけじゃないのだけれど……ね」  だが、その声は誰にも聞かれることはなかった。 「朝廷工作は不発ですか……」  襄陽の城内で、少女は困ったように顔をゆがめた。可憐と表現するのがふさわしい少女こそ、蜀の大軍師諸葛亮。そして、その横にいるのは主たる桃香と、昨日、荊州入りした紫苑だ。 「ええ、そうなの。彼らはどう転ぼうと自分たちの益になると思っているようで」 「朝廷の人に有利なの?」 「そう……ですね。そう見ることも出来ます。たとえば、荊州がこのまま争乱に陥ったとします。その場合、蜀、呉はもちろんですが、荊州牧たる北郷一刀は一番の非難の的となります。これは魏の覇王曹孟コとその盟友北郷の力を削ることに繋がります」  疑問に対して答える朱里に、桃香が不意に強い口調で叫び、手を振り上げた。 「戦にはしないよ!」 「桃香様、あくまで仮定の話ですから」 「はい。それに私たちの考えじゃなくて、朝廷の人達の思考をたどっているだけですから……」 「あ、そうだね。ごめん。続けて続けて」  桃香はいきなりの激発に自分でも驚いたのか、力を抜いて照れたような笑みを見せる。 「また、もしここで我々が兵を退き、最初の宣言通り荊州が漢朝の手に戻った場合、荊州牧の地位はかなり重要なものとなります。北郷さんから奪い取るにせよ、与え続けるにせよ、魏に対して恩を売ったり、あるいは他の者に影響力を及ぼしたり出来るわけです」 「はぁ〜」  朱里の解説に、桃香は口を大きく開けて感心する。 「そんなところ……だと思いますが、どうですか。紫苑さん」 「ええ、おおむね朱里ちゃんの言うとおりね。付け加えるならば、ここで三国の争乱が起きて、三国が疲弊することも期待しているみたい。まあ、そこまで意地の悪い人は少ないにしても」  いつもは穏やかな表情に、さすがに疲れたような色をにじませて発言する紫苑。疲れはけしてここまで馬を飛ばしてきたからではないだろう、と朱里は思っていた。 「うぅーん」 「まあ、朝廷にしてみれば、ここで余計なことをして華琳さんの不興を買うより、事態の推移を見て、一番いいところで手を出したいというところでしょう。我々に力を貸すというのは少々難しいでしょうね」  難しい表情をして考え込んでいる桃香を見て、これ以上のことはいまは必要ないだろう、と判断する朱里。彼女は話を変えるべく紫苑に話しかけた。 「ところで紫苑さん」 「はい?」 「荊州にも詳しい紫苑さんが駆けつけてくれたのはありがたいのですが、桔梗さんも来たがったんじゃありませんか?」  洛陽に派遣されている蜀の人間は二人。紫苑と桔梗だ。どちらも芯は激情家だが、静かに内に秘める紫苑に対して、桔梗は表現も激しい。こんな事態ともなれば一番に駆けつけたがるはずだった。 「ええ、もちろん。ただ、両方とも洛陽から消えるとなれば、さすがに魏側の機嫌を損ねるだろうということで、桔梗と勝負いたしましたの」 「へえ。紫苑さんが勝ったの?」 「ええ、遠当て勝負で、わたくしが勝ちました」  桔梗も紫苑も弓を得意とする。遠当てでそんなに簡単に決着がつくとも思えないが、と朱里が不思議に思っていると、紫苑は悠然と笑って説明を続けた。 「桔梗ったら、子を産んで胸が大きくなっているのを忘れているなんて。自滅ですわね」 「……さらに、おおきく……」  あの胸が。  こぼれおちそうなほどのまん丸なあの胸が。  どれだけ大きくなれば気が済むんですか!  朱里は思わず心の中で叫んでいた。  蜀の大軍師に強烈な打撃を与えたその会話は、だが、急に終わりを告げる。  さんざん彼女たちを待たせていた州牧側の人間が、ついに面会に応じると、使いをよこしたのだった。  そして――。 「で、なんじゃと?」  緩く渦を巻く金髪を揺らして問いかける美羽に、蜀の人間はなんと言っていいのかわからない。 「あの、しぇ……いえ、孫さんか、せめて周さんは……?」  ようやくのように訊ねる朱里の言葉を、美羽の横に立った七乃がにこにこと笑って、一言の下に切り捨てた。 「お忙しいそうですよ?」 「あ、ああ、そ、そうですか……」 「妾たちでは不満かや?」 「いえ、そういうわけでは……」  不満です。とは口が裂けても言えない蜀の面々であった。  会談は――相手に話す気がないのだから当然のことだが――なんの実りもなく終わり、桃香達はとぼとぼと城を後にした。  その途中、桃香は気になるものを目にした。  それは、襄陽の外壁の周囲に掘られた濠に寄りそうにして建つ家の群れ。明らかに都市の中の家よりは簡易なものだが、日干し煉瓦で立てられているのだろう、それなりに人は暮らせそうな家屋群だった。 「ねえ……朱里ちゃん。あそこは?」 「え?」  なにか考え事をしていたらしい朱里は訊ねかけられて驚いたように桃香を見上げ、その指が差す先を見て頷いた。 「あ。あれですか。難民街です」 「以前ならともかく、今時分?」  戦乱の時期、あるいは黄巾の一味が溢れていた頃。人々は戦を避け、盗賊の群れを避けて、難民となった。  しかし、魏、呉、蜀の三強が確立した時点で、人々は元の土地に戻るか、流れ着いた先で土地をもらうようになり、三国平定がなった時点では、難民はほとんど姿を消していたはずだった。 「えっと、その、このあたりは蜀にも呉にも属していないので……」 「国の力で元の土地に戻されたり、新しい土地を与えられたりしていないのね。桃香様、早速彼らにも……」 「いえ、違います、紫苑さん。土地はあるんです」  施策が行き届いていないと思い込み、桃香に進言しようとしていた紫苑を、朱里が手を振って止める。 「え?」 「襄陽は間接的に魏の支配を受けていましたから、魏が手配りして、彼らに土地を与えました。しかし、ここの人達は移り住もうとしなかったんです」  朱里は少々言いにくそうにしながら、桃香達に説明する。 「えっと、なんで?」 「その……新しい土地というのが、蜀にも呉にも属していない荊州の土地だったので、どちらにも庇護を得られないだろうと考えたんだろうと思います」 「そんな……」 「結局、ここの人達は、襄陽のこぼれ仕事をもらってくるか、魏から定期的に配給される食料で暮らしています」  痛ましげに言う朱里に、もはや桃香は何も答えない。  蜀の王たる彼女は、その家々と、その間をぼろに近い服を着て歩く人々を、無言でじっと見つめていた。      (玄朝秘史 第三部第八回 終/第九回に続く) ※せんは本来「つちへんに専」。 北郷朝五十皇家列伝 ○請王劉家の項抜粋 『靖王劉家は、劉備を祖とする皇家であり、選帝皇家の一つである。劉備は中山靖王劉勝(前漢六代景帝の第八子)の子孫と称したため、このような名前で呼ばれる。  選帝皇家としては、主に人格面での評価を行っていたと言われるが、そもそも人柄というものは絶対的な評価を行うのは難しく、靖王劉家でもどのように実施されていたか具体的に裏付ける史料は存在しない。ただ、靖王劉家は構成人員が皇家の中でもとりわけ多く、その人員が各皇族について調査、面接などを行ったのではないかと推測されて……(中略)  先にも書いたとおり、靖王劉家は皇家としてもかなり巨大な人員を抱えていた。初代が多数の子を産んだ曹三家や南蛮王家はともかく、劉備の子は常識的な人数(具体的には三人)で、初期から多数の血統を抱えていたわけではない。皇家に連なる人数の増加は、靖王劉家代々の方針が原因となっている。  というのも、靖王劉家は、大陸の劉姓の取り込みに腐心したのである。  劉姓と言えば漢の国姓であり、漢の皇族はじめ様々な出自を持つ劉姓が存在していた。劉備自身が中山靖王の末裔を名乗っていたものの、実際に漢の皇家とどれほどの関係があったのか疑われているように、箔づけのために劉姓を名乗る者も多数存在した。靖王劉家は彼らと婚姻を繰り返すことで、その人数を増やしていったのだ。  これは同姓の婚姻を忌避する古くからの風習からしてみれば奇妙なことであるが、皇家は本姓が北郷であるから、あまり気にされなかったのか、あるいは既に儒教的価値観だと考えられ排斥されたのか……(中略)  結果的に、靖王劉家十代にいたり、世にいる劉姓の者はほぼ全てと言っていいくらい、皇家に属することとなった。ここに、劉の姓は漢の国姓から、五十皇家の一つへと意味を変えるのであった。  これが、前代の国家の皇家を取り込む国家的な政策であったのか、あるいは靖王劉家独自の保護政策であったのか、歴史的にはどちらであるかという結論は……(後略)』