玄朝秘史  第三部 第六回  1.建国 「ともかく、あんたは西涼を建てるんだから、政を学ぶか、それを任せられる人間を選ばないとだめなのよ」  橇小屋の中で、小柄ながらも勝ち気そうな女性が、指を振り振りそう言う。 「あー、うん、それはわかるんだけど……なあ」  言われる方の女性も快活さでは負けていないはずだが、いまは常の歯切れの良さを発揮できずに、長いしっぽのような髪の毛を左右に振るばかり。  お姉様圧されてるなあ。従姉の横で詠と翠の会話を眺めている蒲公英は内心そんなことを思っていた。  詠と翠、二人の会話はしばらく前から続いている。翠が報告のため、前方に位置する夏陣に訪れたのを、話があると詠が引き留めたのだ。  小屋にいるのは蒲公英の他は、北郷一刀に白蓮、麗羽の三人。かつて一勢力を率いたか、現在それと同等の位置にいる面々だ。この三人を立ち会わせているところに、詠の本気が窺えるのだけれど、お姉様はそれをわかってるのかなあ、と少々心配になる蒲公英であった。 「じゃあ、なんで先送りしようとするの?」  実を言うと、詠は、これより前に政に関する書を最低限でもこれこれだけは読むように、と勧めたことがあった。しかし、翠はそれを忙しいからと拒絶していたのだ。 「いや、だって、いまは……」 「そりゃあ、軍務があるのはわかるわ。実際に西涼を鎮めなければ、国とするなんてできないものね。でも、別にいますぐ全部やれというのではなくて、ボクは、まずとりかかることを……」  勢い込んで立ち上がり、翠の方へ体を乗り出してくる詠に、その時、横から声がかかる。 「詠」  彼女の名を呼んだのは、この軍の大将でもあり、西涼の建国を提唱した本人でもある北郷一刀。 「ちょっと急ぎすぎな気がするぞ」  その言葉に、詠の首筋からはじまって、あっという間に顔中が真っ赤に染まるのを見て、蒲公英は首をすくめる。 「ボクはっ……」  強烈な怒気。  戦場では武将たちの闘気の爆発を受けようとなんでもない蒲公英も、こういう論戦の時に一喝する軍師たちの言葉の強さには肝を冷やすものだ。だが、詠は相手のほうを振り返った途端に言葉を呑み込んでしまった。  当の一刀が笑顔でそれを受け止めていたから。  あれだけの感情の爆発を直に向けられて、挑むような、あるいはすごみのある笑顔ではなく、本気でにこにこして受け流せる一刀兄様はさすがだなあ、と蒲公英は彼の様子を見て思う。彼女はそんな芸当をする人間を他に一人しか知らない。かつて身を寄せていた桃香その人しか。  眼鏡を外し、それを布で拭き出す詠を見て、戦闘で言えば練っていた気組みを外されたってところか、と彼女は推測する。 「……そうね。ちょっと急ぎすぎたかも。いまは翠自身の話はおいておきましょう」  眼鏡をかけ直した詠は気を取り直したように静かな声で言い、再び翠に向き直った。 「いずれにしろ、西涼が建ったとして、あんたは長安にとどまるつもりよね? 魏への人質として」 「人質っていうよりは、誠意を見せるってことだよ。いきなり謀反とかしないようにさ」 「まあ、なんでもいいけど、そうなると実際の土地で政をやるには代官なりなんなりを置かないといけないわよね。それをどう考えてるか、教えてくれないかしら」 「蒲公英じゃだめなのか?」  こともなげに言う従姉に、蒲公英は衝撃を受ける。 「もちろん、蒲公英はあんたの名代として実際に取り仕切ることになるだろうけど、一人に任せるわけ?」 「無理無理。お姉様の意向を通すことくらいはできるけど、たんぽぽが全部やるのはちょっと」  いまやってるように、五、六千の将ならいい。経験を積めば、一、二万も率いることが出来るかもしれない。しかし、十万、二十万の民を相手に官僚たちをまとめる自分というのは想像も出来ない。 「あー……。うーん」  翠は考え込んでしまう。そこにそれまで黙って話を聞いていた白蓮が手を挙げた。きまじめな顔が同情に彩られている。 「いいかな?」 「ええ、どうぞ」  翠を軽く見て、嫌がっていないのを確認してから、詠が続きを促す。 「私もかつて一勢力を築いていたことがあるけど、やっぱり助言してくれる人間や、脇を固めてくれる人間は大事だよ。一族とは別にな。うちはなかなかそれがいなくてうまくいかなかったけど。……麗羽の所は逆に多すぎたかな?」 「そうですわねえ。なにしろ袁家の名前だけで集まってきたものですから、まとまりがありませんでしたわね」  この間、右軍の沙和がやってきた時に持ってきた阿蘇阿蘇――しばらく前の号だ――をぱらぱらめくっていた麗羽が本を閉じて、金髪を振り立てて会話に参戦する。相変わらず彼女は自分に場の焦点が合わない時は徹底的につまらなさそうだ。 「あんたの場合、言うことを聞かなかったせいもあると思うけど?」 「袁家にふさわしい献策でなければ聞く意味もありませんでしょう?」 「わからないでもないけど、麗羽は行きすぎな気もするな……。それでもうちは滅ぼされたんだけどさ……。どうせ……うん、数の暴力にはな、勝てないよな……」  詠と麗羽がお互いに攻撃的なようなそうでもないような微妙なやりとりを笑顔でしている横で、なぜか一人鬱々と呟き始める白蓮。 「進言する方にもなんらかの思惑ってものがあるし、まして、絶対的に正しい人間なんているわけないんだから、全てを唯々諾々と聞き入れる君主もろくなもんじゃない。だけど……」 「やっぱり、信用できる人間がいるといないとでは、大きいよな」  自分の言葉を引き継いだ一刀を、詠は横目で睨む。 「あんたはほいほい信用しすぎだけどね」 「それだけ、みんなすごいのさ」  その言葉に肩をすくめて、詠は再び翠に向き直る。 「まあ、こいつの話はいまはいいわ。ともかく、皆が言うとおり、西涼を築くための人材が必要だと思うの。どうかしら?」 「桃香のところまでとはいかなくとも、ある程度の顔ぶれは必要だと思うな」 「うーん」  詠の問いかけに白蓮の言葉が重なって、翠は考え込む。彼女の視線がちらりと蒲公英に移った。 「たんぽぽは賛成。やっぱりある程度の人材は必要だと思うよ。馬家の一門衆だけってわけにもいかないと思うし」 「そうか……そうだなあ。もっともだとは思う。でも、あたしにはあてがないし……」  すでに用意してあったのだろう、詠は竹簡を取り出すと、翠に見せた。そこにいくつかの名前と、簡単な経歴が書き連ねられていた。 「まずは韓遂とかどう? ちょっと色々陰謀をやりがちだけど、やることはやるわよ。あなたのお母様とも知り合いのはずだし……」 「え」  その名前を出した途端、一刀が奇妙な声を上げた。まるで驚いた拍子に喉から空気が漏れた、と言うようなまるで意図の伝わらない音だった。 「……なに変な声出した上に、微妙な顔してるの?」 「いや、賈駆が馬超に韓遂を勧めてるという図が……なんか、こう、な」 「わけわかんない。ともかく、人材が必要なのよ。北伐を終える前に指針だけでも決めておくべきよ」  男の奇妙な動揺ぶりは一蹴し、彼女は話を続ける。一刀は頭を振ってようやく気を引き締めたか、真面目な顔でそこに割り込んだ。 「そうだ。それなんだけど、冥琳に頼んでいるのが少しあるんだよ」 「冥琳……? あれは南に行ったんじゃなかった?」 「うん。それでちょうどいいと思って、水鏡先生とその門下生に接触してもらうよう頼んだんだ」  水鏡先生、という名前に聞き覚えがあるのか、麗羽はその顎に手を当て、白蓮はうつむかせていた顔を上げた。 「司馬徳操、荊州門派でしたっけ」 「んー、あれ、水鏡先生って朱里たちの……?」 「そう、孔明さんや士元さんの先生だね。涼州に、と考えていたわけじゃないけれど、うまくいったらそうもちかけてみるのはどうだろう?」  蒲公英はそれを聞いて、悪くない、と思う。なにより、蜀とつながりがもてるところがいい。西涼は場所的にも政治的経緯からも、どうしても魏と蜀の両者との関係を大事にしないといけない。魏側、蜀側、両方の人材を取り入れることが大事だと、蒲公英は論理ではなく直感で感じ取っていた。 「いいかも。でも、そのこと伝えられるの、一刀兄様」 「書簡なら大丈夫だろう。どこかにばれて困る話じゃないし、使者をたてるまでもない」  この時代、情報伝達における確実性と速報性はどうしても相反する。確実性を高めるには自ら伝えるか、信用のおける者を使者に立てる必要がある。一方速度で言えば、自ら赴くのはもちろん使者を送る場合にも、どうしても馬の疲労、本人の疲労が問題となる。  たとえば魏の領内ならば、馬は駅で替えられるにしても、本人の休息時間まではどうしようもない。しかし、書簡であれば、伝える人間も馬も替えて中継すればいいので高速化が図れるのだ。ただし、書簡を失う可能性や情報漏れを考えれば、重要なものに使うことは難しい。  今回の件はたしかに重要ではあるが、機密というほどのことではない。詠も少し考えて同意した。 「うん、悪くないんじゃない。あんたにしては気が利いてるわね」 「華琳の所にいたら、良さそうな人材は気にかけてるものだよ。それが俺の仕事の一つでもあるんだしね」 「華琳さんはわたくし以上に人材好きですからねえ」  うんうん、と頷く麗羽。頷く度にその髪の毛が揺れて、隣の白蓮の膝にかかる。もはや白蓮のほうは諦めているのか、それを指摘することもない。 「まあ、最終的には翠の判断次第だけど、どうかな?」 「ああ、そうだな。一刀殿がそれでいいなら」  翠は同意の返事を返したが、生返事とまでは言わないまでも、それほど熱意がありそうに見えなかった。軍議の時とは態度が明らかに違う。その様子に、詠が人差し指を振り立ててきつめに言葉を吐く。 「あのねえ……。やかましく言いたくはないけど、西涼のことなのよ? わかってる?」 「まあまあ」 「うー……」  白蓮の仲裁に、しかたないというように声を抑える詠。蒲公英としては、翠が彼女に対して反発をしないのも不思議な気分だった。体調でも悪いのかと思うところだが、そんな気配もない。 「いずれにせよ、考えておくべきだとは俺も思うんだ」  翠はしばらく黙り込んだ後、ここはさすがにはっきり頷いた。 「うん、考えるよ」 「まあ……それならいいわ」  そうやって詠が呟き、急に設けられた会談は終わりを告げた。 「うーん。いま、あんな話をするってことは」  暫時の雑談の後で、翠と共に小屋を出ながら蒲公英は独り言を言う。 「やっぱ、引き抜き損なっちゃったか。ま、しょうがないよねー、一刀兄様魅力的だし」  能力を生かせるって意味でも、ね。と付け加えていると、前を歩く翠が振り向いた。 「なにか言ったか、蒲公英?」 「んーん。なんでもないよ、お姉様」  手を振って否定すると、翠はそこまで気にした風もなく前を向く。  そして、彼女らしくもなく小さく嘆息すると、蒲公英にも聞き取れないような声で呟くのだった。 「はぁ……困ったなあ」  2.右軍 「やはり、速度が問題だな」  北伐右軍大将、凪は自分の天幕の中でいくつもの竹簡を調べたり、書き出したりしながら、最終的にそう結論づけた。  彼女が率いる右軍は、補給とすでに占領した地帯の治安維持――つまりは兵站を主目的としている。要は軍全体の後詰めだ。  過去の戦でも魏軍は大規模な戦闘行動をとってきたが、これほどまで慎重に補給を準備したことはなかった。  これまでの戦はあくまでも漢土の内側での話であり、今回のように常識からして違う領域に踏み込む戦は、大戦の経験を積んできた魏国としても初めてのことなのだ。南蛮に侵攻した蜀の方が経験があると言えよう。  だからこそ、各軍の輜重隊に任せるのではなく、右軍として独立した、補給と後背の守備を担当する部隊が作られたのだ。  降した地域の安全確保はもちろんのこと、水、食料、医療品、武具、生活必需品、それらを現地ではなく、自らの手で供給できるよう右軍は期待されている。  だが、ここに問題が生じ始めていた。  物資自体は潤沢に用意されているのだが、それを届けるのが間に合わなくなってきたのだ。いまは多少の遅れで済んでいるが、どこかで修正をかけないと大変なことになるだろうと凪は予想していた。  計算が狂った要因はいくつかある。  一つは司馬氏―孔融の乱。これに動員された馬匹は、しばらく休ませてやらなければならず、初期の輸送量を減らさざるを得なかった。また、用心のために右軍の一部――沙和の部隊を洛陽付近に張り付けていたことも、遅れを誘発した。  もう一つは、中央軍、左軍共に、行軍が理想的なほどうまくいっていることだ。おかげで進軍速度が上がり、初動でもたついた右軍がそれについていけなくなりつつある。  もちろん、中央軍にしても左軍にしても、あまりに自分たちだけが突出すれば右軍にいらぬ負担をかけることは承知しているものの、軍には勢いというものがある。こちらを気にして足を止め、結果、前線が停滞してしまったでは戦全体の帰趨に関わりかねない。  右軍としてもここが踏ん張りどころなのだが、さて、どうすればよいのか、それが難しい。洛陽に戻る度に軍師たちとも話し合っているし、実際に洛陽側は、足りない馬の穴埋めに騾馬、驢馬までも送ってきてくれているのだが、焼け石に水だ。  民間から馬を徴発するという最終手段はなるべくなら避けたい、と軍師たちも言っていたが、凪も同意見だ。大規模な軍事行動の最中に民を動揺させるのは得策ではない。また、内乱で疲弊した馬匹も徐々に戻され始めている。無理をすれば、さらにどこかにゆがみを生じるだろう。 「後もう少し、なにか。……それこそ、一つでも効率を改善するものがあればよいのだが」  そうは言っても、これまで皆で考えて見つからなかった解決策が、すぐに見つかるわけもない。まずは、目の前の問題をどうにかしようと、彼女は気分転換も込めて、別の竹簡を手に取る。  それは現在、西方方面――左軍の背後に出張っている沙和からの書簡だった。 「豺狼か……」  書かれている内容を見て凪が呟いた言葉はある種の隠語であった。本人たちからしてみれば、そんな呼ばれ方は不本意で、酒保商人と呼ばれたがるであろう。  では、酒保商人とはなにか。  それは、軍の移動に付き従って、物を売り、あるいは買い取る商売人たちであった。  彼らはなんでも取り扱うし、なんでも売り込んだ。補給がしっかりしていない軍の場合、それらの商人が補給の役割を担うことさえあった。輜重隊をしたてなくとも、商人たちが兵に売りつけてくれるのだ。この手軽さに頼って、自分から補給を減らした軍まであったくらいだ。  だが、軍が支給するのと違い、商人たちは自分たちの利を追求する。兵たちに配る食料は高騰するし、下手をすれば軍の行動自体が商人たちに支配されてしまいかねない。  それ故に、まともな軍からすると彼らはあまり歓迎されなかった。ただ、本陣に入ってくるのでもなければ、黙認されてはいた。また、左軍が積極的に協力を求めた客胡のように、軍が主導することで制御を可能とするような場合もあった。ただし、客胡の場合、物資よりも情報に重きが置かれている点で従来の酒保商人とは立場が違ったが。  実際的に、たとえいまのように補給がしっかりしている場合でも、軍は戦闘に必要な物しか支給しない。せいぜいが食料、水、衣服、武具、寝具といったところか。ごく稀に戦に大勝した場合などに酒や甘いものが振る舞われることがあるが、あくまで非日常的な事例だ。  だが、商人たちは違う。  嗜好品も扱うし、面倒な洗濯なども請け負ってくれる。あるいは娯楽として踊りを見せたり、娼婦を斡旋したり、賭場を開くものもあった。  軍としては、兵士たちをあまり強く締め付けて逃亡されたりしても困るし、これらの商人たちの行為は、最前線から少し離れた位置でのことであり、ある程度までは見逃すのが慣例となっていた。  ただ、その黙認にも限度という物がある。  沙和からの書簡によれば、商人たちの行動は、黙認の範囲から少々逸脱し始めているとのことだった。  そして、その逸脱が一部で軍規の緩みを生んでいるようだともあった。これが事実であれば、そこが弱みとなってしまう。  はたして、西部の商人たちがなにをしているかは、沙和の書簡にも書かれていない。まだ確たる証拠を得ていないのであろう。  考えられることはいくつかある。  たとえば、今回は略奪を禁止したために、比較的戦利品が少ない。これらを買い取るのも商人たちの仕事であるから、戦利品の値段を上げて略奪を煽るようなことをしているとしたら大問題だ。  あるいは酒や甘味より強い刺激物――ある種の草や丸薬などが知られている――を兵たちの間に流されたら、これはさらなる問題を引き起こす。常に酩酊状態の兵士など、使い物になるはずがないからだ。 「こちらではそうでもないが、客胡たちに抑えられて焦ってでもいるのか?」  ありうることだ、と凪は自分で口にしてみて、そう思った。  客胡は左軍の進軍する方向、そのさらに先に本拠地を持つ。軍の後方から追いかけていく商人たちとは情報も物資もその鮮度がまるで違うだろう。  ましてや左軍は軍として正式に客胡に協力を要請している。目をつぶってもらっているだけの酒保商人たちとでは勝負にもならない。  それがわかっているからこそ、短期間に荒稼ぎしようとでも思っているのかもしれないな、と凪は結論づけた。 「あまりに悪質なようなら、見せしめも必要でしょう。部隊を動かすことは許可します。ただし、隊長とも相談して下さい、……と。こんなところか」  沙和への返信を書き付け、封をして、己の印を押す。それを持って天幕を出ると、少し離れたところに、兵たちが十数人集まって何事かざわついているのが見えた。  伝令の兵士を見つけ、沙和への書簡を預けたところで、足を兵たちの一団へと向けてみる。  なにやら彼らは届いた荷物をばらしているようだった。 「お前たち」 「あ、将軍」  声をかけると、皆が凪の姿を認め、姿勢を正す。 「なにをやっている?」  訊ねると、一人――工兵の百人長が代表して口を開いた。 「はっ。洛陽の李将軍から送られてきました。木組みの兵器のようなので、組み立てようとしておりまして……。ただ、誰も見覚えがありませんので新兵器であろうと。おそらく詳しいことはこの書簡にあるものかと思い、それを読み解こうとしているところでして」  彼の手にはいくつかの紙が挟まれた木簡がある。垂れた紙を見るところ、その何枚かの紙は組み立ての説明をした図のようだ。 「そうか、わかった。私が読んでみよう」  彼でも字は読めるだろうが、凪は真桜の手を見慣れている。彼女が読んだ方が早いだろう。百人長は素直に書簡を渡してくれた。 「ふうむ……」  ざっと目を通して、凪はうなる。 「これは兵器ではなく、運搬用具だな。自転車、とかいうものらしい」  運搬を楽にする、とは書いてあるが、さてどんなものか。真桜の言うことはちょっと誇張されていることがあるからな。凪はそう考えつつ、組み立ての説明図を丹念に見返す。 「荷馬車のようなものですか?」 「うーん。まあ、論より証拠だな。いまから指示するから、お前たち、組み立ててみろ。まず、空の荷車を持ってこい」  凪の声に、早速空いていた荷車が引っ張ってこられる。本来は馬につなぐ物だが、空なのでもちろんなにもつながれていない。凪はさらに指示して馬を連結する部分を外させる。真桜の説明書にそう指定されていたのだ。 「細かいところはもうできあがっているから、あとは、それを組み合わせるだけだな。そう、それを支柱にしてだな……」  まっさらの状態になった荷車に、送られてきた材料をはめ込んでいく。いくつかの部分に分けられていたが、駆動する部分は調整が必要なのだろう。すでにくみ上げられていた。  一つの荷車に二組組み付けるよう書かれていたので、もう一度同じことをして、ようやくそれは組み上がる。 「これが自転車、ですか……」  百人長が、兵たちの戸惑いを代表するように呟く。彼にとっては目の前の物体はなにを目的とするのかまったくわからなかったのだ。  荷車の荷台から伸びている二本の支柱は最終的に前方の車輪に繋がる。支柱のうち、荷台の高い部分から斜めに伸びるものの上には木の枠に布を張り、詰め物をした椅子のような座席がつけられている。少々おかしいのは背もたれが妙に大きく、尻を乗せるらしき座面は地面と並行につけられているのに背もたれは斜めの支柱にそっていることだろうか。これでは人が座るとかなり寝そべった形になる。  座面よりさらに先、地面についた大きな車輪と歯車で複雑にかみ合っているのは、小ぶりな車輪のように見える。そこからは木の棒が突き出され、さらにその先に車輪や棒とは直角をつくって板がとりつけられていた。その板には紐でひっかけるところがつけられている。  そんなものが二つ、荷車にとりつけられたのだ。  彼でなくとも首をひねるだろう。 「正確には違うそうだ。隊長……北郷卿のいた世界では、単体で動くものなのだが、李将軍がこちらで扱えるよう変えたんだな。今回は荷車にくっついていることだし」  凪もよくわかっていないらしく、自信なげに答える。北郷一刀とのつきあいは長いが、彼がいたという天の国のことはいまだによくわからない。積極的に訊ねなかったというのもあるが、正直聞いたところでわかるのは彼女たち三人のうちでは真桜くらいだろうと考えていたからだ。  そして、実際真桜は一刀から聞いて咀嚼し、この『自転車』をつくりあげたのだろう。 「しかし、これでは、馬がつなげませんが」 「ああ、馬の代わりにするそうだ。まずは私が試すから見ていろ」  もっともな質問に、凪もあまり信じ切れていないことを話す。しかし、ともかく真桜と、なにより彼女に『自転車』について語ったであろう隊長を信じるしかない。彼女は意を決して二つの自転車のうち一つにまたがった。 「ええと、ここに座って……座るというよりは、寝そべる感じだな……」  荷車の車高が低いためと、『ぺだる』――と真桜が書いてきた――踏板が車輪の上に位置するため、上半身は寝そべらせて、脚を放り上げるような形になる。  一刀は後にこの姿勢を見て『自転車は自転車でも、リカンベント!?』と驚くことになるのだが、もちろん、この世界の人間にそんなことはわかるわけもない。  荷車の二輪、さらに組み付けたものが二輪あるため、安定性は悪くない。いまは荷物を載せていないこともあり、慣れない凪が座席の上で書簡を読みつつ体をもぞもぞ動かしても少々揺れるだけで特に支障はなかった。 「そして、これを脚の力で……」  木簡を顔前に広げつつ、踏み板に足をひっかける凪。紐がかかっているので、足先が板に固定される。 「押す……」  背もたれに上半身を押しつけ、その反動で板を押す感じで力を入れる。力を込められた踏み板が動き、歯車を経由して車輪へと力を伝えていく。  そして、じり、と荷車自体が前進した。 「おお!」  兵たちの間から声が漏れる。その声に押されるように、じわじわと進んでいく凪と荷車。 「動きました、動きましたよ、将軍!」 「ふぅむ……。ああ、方向は荷車そのものを操作か……」  動き始める時こそなかなかに大変であったが、足への力の込め方がわかれば、なんと言うことはない。片足を蹴り、反対側の足を引き寄せる動きを連続させればその動きが回転に変換されて車輪を回してくれるというわけだ。  凪は体感で動作を理解して、さらに力を込めてぐんぐん進んでいく。  荷車とよくわからないものが進んでくるのを見た兵士たちが戦いたように場所をあける。凪は荷車を操作して、彼らを大きくよけつつ、さらに速度を上げていく。  どうやら、速度をある程度まで上げたほうが動作が安定するらしい。疾走感を肌で味わいつつ、凪はそう結論づけた。 「脚を使うのはいいな。腕よりも力は大きいし、脚を動かすことで移動するというのは体感としてわかりやすい」  まあ、兵たちに慣れさせるのはなかなか大変だろうが……。尻に響いてくる衝撃をいなしつつ彼女は考える。整備されていない道では、この衝撃が兵たちを悩ませるだろう。 「速さはどうだー?」  大声で叫ぶと、すごいすごいと騒いでいた兵たちがしっかり速度を測り始める。 「驢馬よりは速いです! 騎馬ほどでしょうか!」 「まあ、そんなところか。私ならもっと速くもできるが、兵の力具合と物資を載せることを考えると、驢馬と馬の中間か?」  それに、なんといっても馬の強みはその力強さと粘り強さだ。人ではとてもかなうまい。  だが、馬と違って、人は数がいるし命令もきく。疲れれば自分で申告できるし、馬をつなぎ替えるのと違って交代させるのも容易だ。なにより、この体勢だと二人乗っているうちの片方は腕が自由になるので足で漕ぎながら食事を取るといったことも可能だろう。また、うまくやれば、動かしながら片方を交代させることもできるのではないだろうか。  そこまでさせるつもりもなかったけれど。  ひとしきり性能を試してみたところで、凪はふと気づいた。 「……む、どうやって止まるのだ」  軽快に漕いでいた足の動きを緩め、木簡をもう一度見てみる。制動機構はたしかにあると書かれていたが、組み込み忘れたようだ。  そういえば、部品が余ると思っていた。 「止まる部分は荷台側に組むのか……。気づかなかった」  荷台への作業は、自転車本体を連結することだけだと思い込んでいたので、見落としたらしい。  放っておけば止まるだろうが、かなり速度がのってしまっている。このままでは陣地をつっきって外に出てしまうだろう。それは避けたかった。 「……し、しかたない」  凪は木簡を懐に押し込めると、足を踏み板から外し、車輪の動かすに任せる。その上で、心を静め、体を起こして構えを取った。 「破ぁっ」  気合いと共に、氣弾が前方の地面に炸裂する。その反動で無理矢理止まろうと考えた凪は、しかし、氣の練り具合を少々誤った。なにより、氣弾を撃つために腰を浮かし、体自体を起こしていたのが悪かった。  彼女は荷車をはるかに超えた後方へと吹き飛ばされ、荷車は彼女の氣弾がうがった穴にひっかかって横転した。  その後、制動部分もしっかり組み込んで、自転車牽引式の荷車が十台作られた。  兵に慣れさせるのは予想通り多少時間が必要だったが、この牽引自転車は全体として補給部隊の前進速度を上げることに貢献し、各将軍はさらなる配備を要求することになる。  その報告を受ける前から洛陽の工兵部隊は増産体制に入っており、最終的に、これら人力牽引車が、馬匹牽引と共に右軍の補給活動を支えていくことになるのであった。  3.それぞれの戦場  母衣衆に囲まれた一刀は見晴らしのいい小高い丘の上から戦場を眺めていた。戦場全体が見えるため、動きが手に取るようにわかる。 「右が崩れたわよ?」  黄龍に乗った一刀の傍らで、これも馬に乗っていた詠が右手を指す。指摘の通り、敵の左翼が崩れて下がり始めていた。敵は基本的に右翼に偏った編成をしていて、右翼七、左三という具合だったから崩れるのは予想の範囲内だった。  だが、詠の指摘に一刀は首を横に振る。 「あれはふりだろう」  彼は元々の陣取りからして敵の左翼はこちらの右翼を釣るための捨て駒だろうと判断していた。だが、攻めさせないわけにもいかず、華雄の黒龍隊と祭の玉飛兵に任せていたのだ。 「でも……そうだな、華雄に追わせよう」 「見せかけなのに?」  問いかける詠の声に、しかし、驚きの色はない。軍師である彼女は、彼よりもさらに的確に相手の動きを理解していた。陽動であろうと罠であろうと、いまあれだけの部隊を自由にさせるわけにはいかないことも。 「翠の部隊の半分ずつをあれの左右に回そう。横から圧力を受ければ、結局は潰れるだろう」  詠は後詰めに回して温存している翠の緑龍隊をちらと眺めやり、頷いた。涼州騎兵の脚ならば十分追いつけるだろう。 「伏兵は?」 「いるだろうな。でも、いたとしても華雄は止まらないし、緑龍隊ならそれも考えて動くだろう。それと、祭の部隊は左翼の援護だ。場所は動かず弓で」 「わかったわ」  詠は振り返り、母衣衆の幾人かを呼ぶ。 「黒は一から四十まで全隊で敵左翼を追撃、緑の二番から二十一番までは敵左翼のさらに右、緑の二十二から四十一までは敵左翼の左を走らせて」  指示を聞き、旗を振ることで、あるいは太鼓を叩いて指示を何重にも伝え始める母衣衆。もちろん、伝令に走るために用意している者もいる。 「緑の一番と四十二から五十番までは、伏兵を警戒しつつ、蛇行機動。黒龍を援護。それから、玉飛は場所を動かず赤龍を支援」  母衣衆が走り去るのを確認してから、詠は再び一刀の横に戻る。 「少し変更したけど、あれでよかったわよね?」 「ああ、ありがとう」  詠ならば、自分が言わなくとも、最初からあれくらいは命じられたろう。いや、さらによい動きを命じることができたかもしれない。しかし、彼女はそれをしない。  詠は軍中では常に彼の決断を確認してから動いた。いみじくも以前、共に戦った時に彼女自身が言ったように、『混成軍は、意思の疎通がなにより重要で、命令系統を守らせるのが最も難しい』。軍師である彼女が率先して命令系統を遵守し、北郷一刀という大将こそが最終決断を下すということを示して、軍律を維持しているのだ。  そのことを一刀は理解していた。そして、自分の指揮に物足りなさを感じているだろうに――少なくとも兵や将校たちの前では――表情にも態度にも出さないでいてくれる詠に、本当に感謝していた。  彼らは戦場の推移を見守る。左翼の赤龍隊、鋼飛兵、丹飛兵は相変わらず敵右翼をその場に縛り付け、さらにじわじわと削っていた。右翼では黒龍隊が突出し、それを追うように緑龍隊が三つに分かれて走っていく。 「でも、まだまだね」 「ん?」  詠が眼鏡を指の甲でなおしながら小さく呟いた声が耳に入り、一刀も静かに問い返す。 「華雄も恋も、いえ、黒龍も赤龍もまだ『槍』だわ」 「槍?」 「たしかにあれらは敵部隊を切り裂いている。それはすごいことだけど……。ほら、見て、後ろから来た翠の部隊」  翠の指さすものを見れば、緑龍隊が左右から敵を包み込むようにして敵を倒している姿。 「触れる度に敵を削り取っているでしょ?」  彼女の言うとおり、部隊と部隊が交錯する度、敵は刈り取られたように脱落していく。 「ああ、そうだな」 「要するに、黒龍、赤龍の二部隊はあくまで突き出した槍なのよ。そうね、もしかしたら、緋龍隊もそうかな。最も恐ろしいのは穂先で、軸はそれを支えているに過ぎない。もちろん、折れない、というのはすごいことなんだけどね」  詠は下がり続ける敵左翼の背後に不意にわき出た敵――伏兵だ――まで構わず切り裂き、押しつぶしていく黒龍隊を示して説明する。それはたしかに人並みを切り裂く槍のように見えた。だが、詠の言うとおり、切り裂いた後の軸の部分はその場を確保することはしても、それ以上敵を削っているようには見えない。いや、確実に少しずつ浸食してはいるのだが……。 「一方、翠や霞、白蓮の部隊は……そうね、部隊全体が刀かしらね。触れる部分全てが脅威なのよ」  自分なら『鞭』と言うだろうな、と一刀は思う。しかし、この世界で鞭というと、普通はしなりをもたない棒のような物だ。革鞭を想像する二十一世紀日本の感覚は通用しない。 「言っていることはわかるよ」  黒龍隊の援護にまわった翠とその麾下の千人が蛇のようにうねりをつけながら敵部隊を蹂躙していく様子を見て、一刀は頷く。 「槍から刀にするには?」 「経験を積ませ、鍛錬を続けることね。烏桓は華雄や恋にまだなじみきってないわ」 「そうか、時間をかけるしかないな」  一刀が黄龍の首筋をかいてやりながら言う言葉に詠は同意するように首を振り、さらに言葉を紡ぐ。 「ええ、そして、敵にはその時間はもうないわね」  その視線の先には、完全に崩壊しつつある敵左翼と、それに動揺しているらしき敵右翼があった。 「よし、歩兵も進ませよう。総攻撃だ」  詠が強く頷き、簡単な指示を母衣衆に伝える。それを受けて、母衣衆は間違えようのない単純な指令を各部隊に伝えた。  すなわち。 「総員、突撃せよ」  戦の終わった戦場を、二頭の騎馬が進む。  すでに死体漁りたちも去ったのか、あるいは騎馬たちから大きく距離を取りつつも周囲を警戒している母衣衆たちに追い払われたのか、そこにはすでに生きる人影はなく、死体も全て土に埋められていた。野犬やさらに剣呑な野生動物を招かないためにも、疫病を発生させないためにも、さっさと処理してしまうに限る。  だから、その戦場跡は一見静かに見えた。掘り返された土や、ぶちまけられた血と臓腑の痕、折れた槍や鎧の断片などを気にしなければ。 「悪いな、見回りにつきあってもらって」 「いや、ちょっと動きたい気分だったし、誘ってくれてありがたいよ」  申し訳なさそうに頭を下げたのは北郷一刀。そして、それに慌てて手を振ってみせたのは涼州勢の棟梁、翠だ。 「それ、いい馬だな」  話題を無理矢理に変えるように、翠が一刀の乗騎を褒める。実際、彼女はその馬の一刀との一体感を高く評価していた。 「ああ、蓮華にもらったんだよ。黄龍っていうんだ」 「へえ、黄龍か……」  翠が乗っている麒麟も名馬であり、また、麒麟と黄龍は五行で共に土徳を象徴する。そんなことを語りつつ、彼らは戦場となった平原に馬を進める。  そうして会話が途切れたところを狙い、一刀はそれまで気になっていたことを訊ねることにした。 「……なにか、悩んでる?」 「え、いや、そんなことは……」  翠は言いよどみ、しかし、すぐに頭を軽く振った。頭の後ろでくくり、長く垂らした髪が、勢いよく揺れる。 「……って一刀殿たちには、ばればれだよな」 「やっぱり西涼のことかな?」  一刀の問いかけに、翠は苦笑したものの、答えようとしない。 「西涼のこと、俺としては申し訳なく思ってる。翠たちが望んだことではないのに、国を建てるなんて大変なことを押しつけて……」  その言葉に、翠ははっきりと、いや、と言って首を振った。彼女はきりりと表情を引き締めて、真っ直ぐに彼を見据えて言った。 「一刀殿には感謝しているよ。あたしの……違うな、そうじゃない。馬一族、それにあたしたちを頼ってくれる兵や民の望みを叶えてくれたんだから」  ただ、と彼女は続ける。その凛とした顔が曇る。 「見えないんだよな」 「見えない?」 「うん。あたしのつくる国とか、そういうの……なんていうか、場違いな気がして」  ぽつりぽつりと語り始める翠の雰囲気を察したか、麒麟の行き脚が緩まる。黄龍も麒麟に合わせてゆっくりと歩き始めた。 「たとえば、桃香様……あたしたちが前にいた蜀の国には、ちゃんとした理想があった。他から見たら笑っちゃうような甘いものだったかもしれないけど、あたしたちはそれを信じて支えてた。少なくとも支えていこうと思っていた」  一刀は口を挟まない。ただ、彼女の話を聞き続けていた。もはや二人とも周囲の景色を目に入っていない。行く先も麒麟と黄龍に任せていた。 「華琳もさ、まあ、うちに攻め寄せられた時は色々思ったけど、魏は魏の理想や国づくりってのがあるんだよな。それはよくわかるんだ」  うつむく翠。悔しげにかみしめた唇が白く変色していた。 「でも、あたしにはそれがなくて……」 「本当に?」  声が途切れたところで、一刀はしばらく待ってみたが、それ以上続かない様子を見て、問いかけを発した。彼女はぱっと顔をあげて、半ば睨みつけるように彼を見る。 「そりゃ、あたしだって考えていることはあるさ。でも……!」 「形にならない?」  図星をさされた、とでもいうように再びうつむく翠。その肩ががっくりと落ちているのを見るのは、一刀としても忍びなかった。 「涼州の人間を守りたいとは思う。でも、それだけでいいのかな、って……。だって、それなら、わざわざあたしがここで王にならなくたって、できたんじゃないかとか……」  そこまで行くと少々前提を変えすぎているとも思うが、一刀は再び口をつぐむ。いまは彼女の言葉を引き出すことが必要だと彼は考えていた。 「こう、どうにも考えがまとまらないんだよな」  苛ついたように、彼女は吐き捨てる。その怒りの矛先は他の誰でもなく、自分自身なのだろう。 「詠だって気遣ってくれるのはわかってるんだ。勉強しろって言ってくれるのもありがたいって思ってる。でも、あたしは、その前のところで足踏みしてる気がして、なんかいたたまれないって言うか」  情けないよな、と彼女は小さく呟いて言葉を切る。  その最後の言葉は聞かなかったことにして、再び一刀は口を開く。 「思うんだけど、華琳も桃香も――ああ、桃香には真名を許してもらったよ――きっと、悩んで悩んで、そうしてたどり着いたんだと思う。それは雪蓮や蓮華もそうだと思う」  美以や美羽については少々自信が無いので付け加えない一刀であった。 「だから、いまそうやって翠が悩んでいること、そのものはけして無駄じゃないし、必要なことなんだろう。その上で」  彼は黄龍の手綱を引き、その歩みを止める。翠も同じようにして、彼らはしばらく前までは戦の舞台となっていた平原の真ん中で見つめ合った。 「西涼建国を献策した身として、そして、なにより翠に真名を預けてもらった人間として、大事な君の力になりたいと望んでいる」  真剣にその臙脂に近い瞳を覗き込む。その様子になぜか翠は緊張したようで、視線が彼の目から外れようとして泳ぎ、けれどやはり、しっかと見つめている彼の元へ戻ってくる。 「翠」 「ひゃ、ひゃい」  不意に名を呼ばれた翠が、頭のてっぺんから抜けるような妙な声を上げる。 「この光景を見てどう思う?」  一刀は手を広げる。そこに広がるのは茫漠とした草原だ。見える物と言えば、遠くにある小山と、たまに生えている低木、それに地平線のあたりを移動しているらしき動物の群れの影くらいのものだ。 「どうって……あたしにとっては見慣れた平原だけど……」 「それだけ?」 「ん……懐かしい、かな。中原の人たちにはわからないかもしれないけど、あたしにとってはこれが生きてきた場所だから」  むしゃむしゃと草を食んでいる二頭の馬と、地平線まで続く水の少ない土地を見やり、翠はそう言う。一刀はそれに一つ頷いた。 「そこが出発点だと思う」 「出発?」 「何を守りたいか、なにを大事に思うか」  一刀は大地を、空を、見えるものを全て抱き留めるように手を広げ、そして、それを閉じた。 「そして、なにを作り上げたいか」  その手がすっと伸び、翠の胸のあたりを指さす。 「それを考える時には、原点に戻るのが一番だよ。この土地で生きてきた翠。そして、その後――まあ、これは俺たちが原因なんだけど――西涼を追われて蜀で過ごしてきた時間。どれもが翠を形作っている。その中で大事だと思ってきた物を、突き詰めることだ」  翠は答えない。ただ、彼が指さす自分の胸を見、周りを見、そして、最後に彼の顔に視線を戻した。 「民を守りたい、それだけでもいいんだ。呉はそれで成立しているようなものだしね。でも、それだけじゃ満足しないと言うなら」 「うん」  翠は素直に頷く。ただ、聞いていたかった。彼の言葉を。  北郷一刀という人が真摯に語ってくれる言葉を。 「そのまとまっていない考えをそのまま抱えて、そうして進んでいくしかない。それが翠なんだから」 「うん」  もう一度。彼女は頷く。 「細かく言葉にする必要はないさ。それこそ蒲公英や俺や、周りにいる助言者たちの仕事だ。翠は――肩書きは公にしても――王として歩む。ならば、全てを抱えて歩き出せばいいのさ。最初から洗練されている必要なんてないんだから」  今度は翠は黙っていた。  それから破顔一笑。一刀もまた笑みを浮かべた。 「一刀殿」 「ん」  彼女は麒麟の手綱を引いて草を食べるの止めさせる。麒麟は主の活力を感じ取ったか、大きくいななきをあげた。それに和するように黄龍もまた声をあげる。 「少し馬を走らせないか。黄龍も麒麟も走りたがってる。それに……あたしも」 「ああ、そうだな。行こう、翠」  そうして、二頭の騎馬は走り出す。  どこまでも、どこまでも。  ただ、地平線を目指して。  4.進軍  北伐中央軍は、その中でも、三つ、時に五つに分かれ、将軍の率いる軍ごとに散開し、再び予定地点で合流するという進軍行路を取っていた。  三十万を一気に展開させるとなればどうしても地形を選ぶ。それよりは小分けにしつつ、各分遣隊で援護し合う形をとるほうがよかった。  現在は、九万の軍二つと、華琳率いる十二万という形で進軍している最中だった。 「うーん」 「どしましたー、流琉ちゃん」  その九万の軍のうち一つ、流琉と風が率いる軍の本陣、その中央に位置する天幕の中では、流琉が腕組みしながらうなり、風がそれを耳にとめていた。 「あ、いえ、今日の敵、あんまり勢いがなかったなあって」 「そりゃあ、そですよ。やる気がないんですからー」 「え?」  座っていた胡床を動かして、風に向き直る流琉。風も書き物をしていた手を止めて、流琉の方に向き直った。 「でも、今日の相手は結構数が多かったですし……下手をすれば……」 「はいー。今日の部族は五千ほどでしたか。それでもほとんどが騎馬ですからね。こちらを攪乱するだけならできたと思いますよー」  騎兵の攪乱能力は凄まじい。なにしろ機動力が違う。動きの遅い歩兵なら、弓が届かない距離を保って攪乱し続けることも可能だ。もちろん、それで撃退できるわけではないが、魏軍は大軍だけに統率が乱れ、そこから崩れてしまうことも考えられる。  流琉が敵なら、攪乱し続けて隙を見つけ、崩れた部隊を狙って数を減らすことを考えるだろう。全部を打ち砕くことは出来なくとも、ある程度以上の損害を出せば、一時的に撤退することも考えられる。その間に、近隣の部族などを募って……と考えるのだが、それは無理なのだろうか。  敵は、実際には流琉の考えるようにはせず、ただ何度かこちらに突撃したのみで、日が暮れるより前に停戦と降伏の使者を送ってきたのだ。 「それをしなかったのはなんででしょう?」 「負けるほうがお得だからですねー」 「ええっ?」  驚く流琉を尻目に、風はごそごそと袖の中から棒つきの飴を二つ取り出す。包みをはがして片方を流琉にも渡し、舐めるよう促す。風が飴をぱくつくのを見て、流琉も恐縮しつつ舐め始めた。 「このあたりは匈奴と鮮卑の雑居地域ですが、まだまだ漢の影響が強い地域です」 「ふわい」  飴をくわえているため、変な返事になってしまう流琉であった。 「彼らは以前から漢に貢納してましたし、それの見返りとして内地の文物を得ていました。正直、これから魏の支配下に入って税を納めても、それほど変わりはないのですよ。税の代わりに、こちらは様々な便宜を図りますしねー」 「でも、それなら平和裡に終えれば……」  ちゅぽんと飴を口の外に出して、流琉は考えながら訊ねる。 「そこは、ほら、どの部族にも血気盛んな一派というのがいますから。一戦して敗れたという事実が必要なのですよ。しかも、手強いと思ってくれれば、余計に尊重してくれるだろうという思惑もあります」  風の言うことは流琉にも理解できた。戦わずして降ってしまった場合、火種を残すことになるのだろう。 「ははあ」 「そゆわけで、しばらくは手応えがないと思いますよー」  そう言って風は美味しそうに飴を舐める。 「はあ……」  肩すかしをくらったような気分で、流琉も飴を舐める。しばらく、天幕の中には二人が飴を舐める音だけが響いていた。ここは戦場のはずなのだが、と思う流琉。 「ただ、まあ、ちょっと手応えなさすぎではありますよねー。予想以上です」  しばらくしてから、風が首を傾げながら呟いた。彼女の頭の上で宝ャがずり落ちかけて、風が手で彼を取り押さえる。 「そうなんですか?」 「はいー。稟ちゃんと予想したより、はるかに早く降ってくれています。やる気が無いなりにもう少し粘るかと思ったのですけど……」 「楽、ではありますけど……」  言った後で、そういえば、と流琉は手を打つ。 「やる気がないとはいえ、退いたと見せかける動きは巧みですね。あの人たち。気を抜いているとやられちゃいそうです」  彼らの騎馬の動きを思い出しながら流琉は言う。今日の敵だけではなく、これまで降してきた部族も、逃げたと見せかけて振り向きざまに弓を射てきたり、思わぬ所に騎兵の分隊を移動させて伏兵としたり、学ぶべきところの多い動きをしていた。もちろん、それも騎兵主体の素早い機動があったればこそだ。 「ええ、それはそですね。彼らは自分たちの得意な場所に引きずり込んで戦うのが得意です。だから、それに誘われないよう気をつけてるわけでー」  そこで風は何かに気づいたように虚空を見つめた。 「んー、そうすると、この予想以上の手応えの無さは彼らの策?」 「え……」  目を丸くする流琉に、風は意地悪な笑みを浮かべてみせる。 「なんて、言ってみたりしてー」 「や、やですよ。悪い冗談です」 「なにしろ、部族ごと負けて、我々の支配下に入っているのは事実ですからねー」  おかげでどんどん支配地域は増えている。それは間違いのない事実であり、風の言うような策を取るとしたら、これだけの部族をこちらに降らせる意味がない。なによりも、部族はそれぞれ独立しているのだ。 「部族の枠を越え、さらに古くからの確執を全て忘れて、大連合が出来れば別なんですけどねー」 「そんな動きがあるんですか?」  いえいえ、と風はぱたぱた手を振る。 「風の予測では、それが出来るのはもっともっと後のことなので、いまは心配しなくていいですよー」  それからまた飴をがじがじと噛んだ後で、風はしっかりと言い切った。 「まずは一戦一戦、歩みを進めていくことですー」 「はい、そうですね!」  流琉が妙に熱心に頷き、その勢いが我ながらなんだかおかしくなった彼女と、あまりの元気の良さにびっくりした風は、お互いに顔を見合わせて笑いあうのだった。  5.支点  冬陣の陣地の中、蜀の将軍たちに与えられた天幕の中で、二人の女性が向き合っていた。一人は地面に敷かれた毛氈に座り酒杯を傾ける星。もう一人は天幕の中央あたりに立つ焔耶だった。 「お前、あれを読んでいたのか?」 「あれ、というと?」  不意に切り出す焔耶に視線を向けて星は笑みを向ける。何度か毛氈を叩いて座れと示しているのだが、焔耶は一向に座ろうとしない。 「この間の処刑の件」 「ああ……。いや、まさか。あの方が手ずから行うなど読めるわけもないだろう」  何度か頭を振って否定する。その後で彼女は笑みを深くした。 「ただ、どういう態度を見せるかは、知りたかったがな」 「軍令違反に対しては、妥当なところだが……。まさか自分で執行するとは思わなかったな」  星が見つめる中、肩をすくめる焔耶。 「相変わらず、よくわからん男だ」  それから彼女は座り込むと、星に酒杯を要求した。快く杯を渡して酒を注ぐ星。その動作が女性の焔耶から見ても艶めいているのは、これはもう天性の素質か、あるいは星のからかい癖か。 「あれは、あまり人を殺していないな?」  しばらく酒を味わった後で、焔耶は確認するように問いかける。彼女をはじめ将軍たちは皆あの場で理解しただろうが、一刀の処刑の仕方はあまりなっているとは言い難かった。動かぬ相手であれならば、敵兵相手も想像がつくというものだ。 「そうだろうな。十人とは言わぬが、百にも満たないであろう。戦場(いくさば)でも本陣にいるのなら、その程度でも多い方だ」 「たしかに。だが、それがなぜ、と思うのだ。まさか血に酔う趣味があるわけでもあるまい」 「そうは見えなかったな。存外に意地はお悪いと見ているが、兵にあたる系統ではないな」 「ふうむ……」  焔耶は酒杯を呷りながら、考え込む。  軍規を徹底させるためにも、最初に発覚した軍令違反に対しては、断固たる処置が必要だった。その象徴とするためにも、高位の者による処刑は効果的ではあったろう。  それはいい。彼女にも理解できる。しかし、それならば、処罰者の上位者である彼女や祭に任せてもよかったのではないか。なにも最上位の北郷が出てくる必要はない。  実際、焔耶や祭はそうしてけじめをつけるつもりだったのだから。  あるいは、あれは彼にとってもなにかのけじめだったのだろうか。しかし、そうだとしたら、あまりに泥臭い話だ。  そういう将を戴いたことのない焔耶は正直、戸惑っていたのだった。 「まあ、ある意味で助かったではないか」 「なに?」  にやにやと笑って語りかけてくる星に、嫌な予感がして眉を跳ね上げる焔耶。 「なにしろ、魏文長将軍の落ち込みようは凄まじいものでしたからなあ。まさか自分の兵があのような無様をするとは、と」 「な、何を言っている。いつワタシがそのような!」 「ああ、そうだったな。見せてはいなかったな、見せては」  そう言って、からからと笑う星。 「ぐぐ……」  焔耶は言い返そうとして、こいつに口で勝てるだろうかと心の中で算段する。  少々、分が悪かった。  ここは酒の上での話と流すのが得策だろう。 「まあ、いい。あれだけをとっても、まだよくわからんからな。指揮はそれなりだが、詠がしているのか、奴がしているのかもわからないしな」  それよりもだ、と彼女は星に体を寄せて声をひそめた。 「本国からの伝令、少々滞りがちではないか?」 「うむ、それに、どうも内容も支離滅裂だな」  さすがに気になっていたのだろう。星もにやついていた表情を引き締めて、対応してくる。 「なにかあったのだろうか?」 「おそらくは。しかし、それがなんなのかさっぱりわからん。本国でも動揺しているのだろうが……」 「桃香様はご無事だろうか?」  がちゃり、と音を鳴らして手甲を引き寄せる焔耶を、さすがに苦笑で迎える星。 「落ち着け。さすがに王や成都に危難があるとなれば、最初に呼び戻されるであろうよ。そうでなくとも帰還してもいいように準備しろくらいの意は伝えてくるはずだ。この様子だと我らは蚊帳の外でも構わないようだからな。いずれ中央との関係かなにかだろう」 「ふうむ。……成都の面子で済むことか?」 「さて、それが読み切れないな」  星は言葉を切って、腕を組む。 「きなくさくはあるが、それが危険だと思うほどではない。自分でも勘は鋭いと自負しているのだがな……」 「ううむ……。たしかに即座に戦の気配を感じるほどではないな」 「もう少し様子を見るしかあるまい。いざとなれば、紫苑たちからもなにかあるだろう」 「そうだな」  そこで話題は一段落する。二人は酒を酌み交わし、これまでの戦闘を思い返して戦術の点検を行ったりした。  そのうち、ふと星がどこか遠い目をし出した。こやつ、かなりの勢いで飲んでいるが、もしや酔ったのではなかろうな、と焔耶は疑いつつ彼女を横目で眺める。白い肌に、たしかに朱は差しているが……。 「一つ、私が不安なのはな、焔耶」 「ん?」 「我ら蜀が後手後手に回っていることだ」 「なに?」  一体何を言い出したのか、寸刻、焔耶には理解が及ばなかった。だが、しばしの後、彼女が蜀の置かれている全般的な状況について語り出したのだと了解する。 「北伐にしろ、なんにしろ、いまの流れは、蜀が作ったものではない。もちろん、先の大乱より、主導するのが勝者たる魏であるのはしかたないが、それにしても、我らの存在感がないとは思わぬか」 「まあ……そうだな。ワタシたちとしては、この北伐で手柄をたてることが少しは役に立つとは思うが……」 「少しは、な。だが、大枠を作っているのは我らではない」  その通りだ、と思う。きっと、桃香様が考えれば、このような動きは起きていまい。正直、焔耶には蜀の大徳と呼ばれる女性が目指す理想は壮大すぎて理解しづらかったが、本人のすばらしさを考えれば、その目指すものが間違っているはずがない。  やはり劉の旗を掲げさせるべきだったな、と彼女はつくづく思う。いまも持ってきてはいるので、もう一度あの男に頼んでみようか。 「私はな、焔耶。我らがかわいい軍師殿たちは、なにか大事な事実に注目し損ねているように思うのだ」 「……そうは言うが、何にだ?」  星の言うことは感覚としては受け入れられるが、では、具体的に何を、と言われると彼女の思考を離れてしまう。そのあたりは自分の担当ではないと思っている焔耶である。 「わからん」 「それではしかたないではないか」  小さく嘆息する焔耶を、星はじっと見つめてきた。大きな瞳が彼女をしっかと見据えている。 「な、なんだ?」  星は奇妙に優しい表情で口を開く。 「焔耶が言うようにな、御大将殿の為人を見るというのも、一つの手ではないかと思っているよ」 「あん?」 「その、わからん何かを見つけるための手立てとして、さ」  焔耶にはどうもわからなかった。北郷一刀が蜀の、ひいては桃香様の敵であるかどうかを見極めるのは大事なことだが、それが、蜀の立場を引き上げることとどう関係があるというのか。 「お前、酔ってないか? どうも飛躍しているようだぞ」 「そう聞こえるか? ふむ、そうか……」  星は否定するでもなく、さらに杯を重ねる。だから、その後に続いた言葉を、焔耶はろくに聞いていなかった。 「相手を騙しきるような策は下品。相手が悟ろうがどうしようが、どうにも手を打てない、そんな策こそが上品と聞くが、さて……。どこが、いや、誰が、軸なのか……」  星の呟きは吐息に混じるように、誰にも聞き取られることなく、消えていく。  6.途次  夕闇が近づこうとする時刻。  見張りの兵士は、何者かが巻き上げる砂埃を視界の中に発見した。すわ左軍からの伝令かと思ったが方角が違う。南から来るということは、あるいは洛陽か、別の陣からの伝令かもしれない、と考えた彼は、隊長にその旨を伝え、幾人かが将軍へ報せに走る。  伝令ならば、馬の乗り換えも用意しないといけない。人々は一気に動き出していた。  その中で、その場に残った最初の見張りと隊長が近づいてくる砂埃の塊を観察して感想を漏らす。 「伝令にしては派手じゃないか?」 「ですね。最低でも十騎はいます」 「……おかしい。おい、お前、人を集めろ。什を三つだ」 「はっ」  兵は走り出し、周囲にたむろっていた兵たちを集合させる。もし伝令だとしても十騎も来るとなれば特別なものだ。多人数で迎える方が非礼にあたらないだろう。隊長はそう判断した。  三十人が集まり、彼らは少し陣地から進んでその馬たちに向かっていく。武器は棍だけにした。刃を見せて威嚇するのは相手が敵とわかってからでいい。  騎馬は彼らと陣地に目を向けたらしく、少し速度を落としていた。 「そこを行かれるは誰(たれ)か!」  兵が誰何する。だが、一群は止まることなく、逆に声をかけてきた。 「ここはなんの陣地だ?」 「北伐右軍、于将軍の陣だ」 「そうか」  戦闘の騎兵が振り向いて何事か話をする。どうやら、隊列の中央に誰か居るようだ。小型の馬車のようなものが兵たちからも見えた。 「では、用はない」  そのまま速度を上げようとする一団に、隊長は驚きつつ、配下に指示を下す。 「待て!」  騎馬の前に、兵の群れが躍り出た。速度が落ちたいまなら、はね飛ばされることもない。だがそれに驚いたのは馬のほうだ。騎兵たちはいらだたしげに手綱を引き、馬を制御する。 「道を遮るな! ここにおわすは蜀の大軍師、鳳士元様なるぞ!」 「なにを! ここは魏の陣地、偉そうに言われる筋合いはないわ! ともかく、将軍の目通りを経てから通ることだ。そうでなければ、通さぬぞ」  おかしな一団を勝手に通すわけにはいかない。隊長は大きな馬に乗る兵を見上げながら、自分を励ますためにも声を張り上げた。 「あ、あの……」  小さな声がおろおろとした風情で聞こえるが、状況は改善しない。馬上の兵たちは棍だけを持つ右軍の兵たちに、武器を抜くかどうか迷っているようだった。 「あれー、雛里ちゃーん」  明るい声がかかり、全員がその方向へ目をやる。そこにいたのは、露出度が高い割にかわいらしく見える鎧に身を包んだ沙和、この陣の責任者、于文則であった。 「やっほー」  彼女は緊張感などまるでなく、一群の中央にいた大きな帽子の少女――雛里に手を振っていた。 「お、お久しぶりです……」  そして、彼女も小さく言って手を振り返すのだった。 「隊長? あと百里くらい先だよ」  ひとまず兵たちを解散させ、二人は陣の中を歩いて行く。周囲では鎧を鳴らして兵たちがあちらへこちらへと早足で歩いていた。沙和の言葉は、北郷一刀の本陣までどれくらいか訊かれての答えであった。 「百里……」  雛里は大きな帽子を手で押さえながら、安堵の息を吐く。百里ならもうそれほど遠くない。距離はあるが目処はついたというところだった。 「まあ、ともかく、今日はここに泊まっていくといいの。天幕も用意するし」 「しかし……あと百里となれば、ここで……」 「んー、実はこれから三十里くらい先で一騒動起きる予定なの。だから、出来ればここにいてくれたほうが嬉しいかな?」  沙和は申し訳なさそうに言った後で、少し青ざめた雛里の顔を覗き込んだ。 「それに、とーっても疲れてるみたい。もう夕方だし。馬も休ませた方が走るよ?」 「う……」 「なんだったら、明日、朝一で案内の兵もつけるのー」  彼女の言うこともわかる。ついてきた兵たちも疲れているだろう。数時間睡眠を取ったところで、最終的にたどり着く時間に、それほど変わりはないだろう。日数のかかる話ではないのだ。  雛里は少し考えた後で頷いて、沙和の好意を受け入れることにした。 「ところで、出陣前のような雰囲気ですが……」  先ほどから兵士の動きが慌ただしいし、なにより、この空気は明らかに戦の直前のものだ。雛里は眉をひそめて訊ねた。 「うん、ちょっとねー。さっき言ったように、久しぶりに暴れるのー」  沙和はなんでもないことのように言う。よく考えれば、彼女が普段着ではなく鎧を着けているのだから、もっと早く気づくべきだった、と雛里は自分の判断力が落ちていることを改めて認識した。 「右軍は補給任務が主だったと思いましたが……」 「あははー。補給には補給の戦いがあるのー。じゃあ、ちょっと行ってくるねー。ついでに雛里ちゃんたちが来てるって伝令も出しとくからー」  沙和は案内の女性兵に雛里のことを託し、兵たちの居る方へと立ち去っていく。しばらくすると、彼女の号令が離れてもなお大きく聞こえてきた。 「さー、いくのー、豚娘たち。お前たちのお仲間から金を巻き上げる山犬どもを震え上がらせてやるのー!」 「おーっ!」  兵たちの雄叫びを背後に聞きながら、雛里は天幕へと案内されていく。その意識はもはや朦朧として、明日にはたどり着けるという希望と、寝床への欲望だけに支配されていた。  7.悋気  本陣の中を、のっしのっしと大きな犬が歩く。垂れた耳や愛らしい顔を見るとかわいらしいが、その大きさはかなりのもので威圧感がある。しかし、その上にちょこんと乗った小柄な少女と合わせて見れば、威圧感どころか愛嬌しか感じなくなるだろう。  大型犬の張々にまたがるは、この左軍全体の軍師の一人、音々音。  張々は彼女の言うままに本陣を進み、橇小屋の前までやってきた。もう一人の軍師である詠と、大将の一刀に確認することがあるため、ここを目指してきたのだ。  だが、張々の背を降り、小屋の扉へ向かおうとすると、ねねの前にささっと黄金色の鎧をつけた影が回り込む。 「ねねちゃん、なにか用事?」 「詠とあのへっぽこ主に用事なのです」  ねねはそう言って懐から書簡を取り出し、目の前の派手な鎧の女性――斗詩に示して見せた。その斗詩と似たような鎧を着た猪々子が横から現れて、ねねの背後の左手側を指さす。 「詠だったら、大天幕のほうにいるぜ」 「そうでしたか。……ん?」  書簡をしまい、張々に戻りかけて、ねねはなにかひっかかるように振り向いた。斗詩の微笑んだ唇の端がひくひく動いて緊張を伝えている。 「詠は? では、へぼ主のほうは?」 「あー、うーんとね」 「アニキはこっち。でも、いまはだめ」  なんだか曖昧なことを言おうとしている斗詩をよそに、親指を立てて背後の橇小屋を指さす猪々子。文ちゃあん、と情けない声を絞り出す斗詩。 「なんでですか!」 「取り込み中なんだってば」  しかたないなあ、とでも言いたげに猪々子は続ける。その立ち位置からして、小屋の扉はがっちり守られている。自分などではとてもくぐりぬけられそうにないな、とねねは観察の結果、結論づけた。 「……女ですか」 「とにかく邪魔しちゃだめなんだよ。詠に確認して、しばらくしてから来ればいいんじゃない?」  しれっと言う猪々子をしばらく睨みつけていたねねだったが、張々が心配そうに鳴くのと、斗詩がおろおろしているのを見て、大きく嘆息した。 「……わかったですよ。無理は言いません」  後じさり、少し小屋から離れてみると、斗詩と猪々子は同じだけついてきた。ああ、やはり通さないように見張っているのだな、とねねは心の中だけで呟く。 「でも、実際の所どうなんですか?」 「ま、まあそうかな。霞さんと一緒だから、ほら、邪魔しちゃね」  斗詩の言葉に、周りを見回してみれば、常はいるはずの母衣衆の姿も見えなかった。この二人が守るから、と場所をあけているのだろう。 「ふん、やっぱり。まったく戦場まで来てなにをやっているのやら」 「そうあしざまにいうものでもないと思うぜ?」  猪々子は少し面白そうに笑みを浮かべながら、ねねの言葉につっこんでくる。 「戦場は気が昂ぶるからさ。それを解消させてあげるのも、大将の務めと言えば務めなんじゃない? ま、アニキはそんなこと考えてないだろうけど」 「し、しかしですね」 「くっついてきてる商人どもが、女連れてきてるの知ってるだろ? あれで遊ぶよか遥かにましだよ」  さらに続けるのに、ぐ、と詰まるねね。たしかに彼女が言うような事態よりはましだが、それにしても……。 「まあ、兵たちにもばれるようなら私たちも止めるけど……ね」  斗詩の言葉は、軍紀が乱れるようなことはないよう配慮している、ということだろう。このあたりも詠が手配しているのだろうか、とねねは少し思考を脇に逸らす。 「あー、ああ、そうか」  不意に、猪々子が妙な声をあげる。手を打ちながら続けた言葉に、ねねはぽかんと口を開いて固まってしまう。 「もしかして、やきもちか?」 「ちょっと、文ちゃん」 「でも、嫉妬はやめといたほうがいいと思うなぁ。なんせアニキだし」  苦笑を浮かべる猪々子の姿にようやくのように硬直が取れ、ねねは真っ赤になって反論を叫ぶ。 「と、妬心などないのです! 勝手にあいつに惚れていることにしないでほしいです!」 「なにも惚れてるとは言ってないんだけどなぁ」 「文ちゃん」  たしなめるように言う斗詩の顔にも苦笑が刻まれている。その様子を見て、頭がくらくらする音々音であった。  もはやまともに頭が動きそうにないので、自分への言葉はもう一切合切無視して、 別のことを、となんとか疑問を絞り出す。 「……お前たちもあれの……女ではないのですか?」 「ん? そだよ」  あっけらかんと言う猪々子。斗詩も顔を赤らめつつ小さく頷いていた。これは、本当に兵には見せられない光景だ、とねねの意識のうちの醒めた部分が囁いているが、そんなことに構っていられない。 「で、で、では、お前たちこそ妬くのではないのですか!?」 「そりゃあ……ないとは言わないけど」 「まあ、構ってもらえなくなったら怒るんじゃないかな?」 「たしかに。でも、一刀さんって、忙しいくせに一日で何人もの女の子としっかり過ごしていたりするから……」  眉間に皺を寄せて、真面目に考察している風情の斗詩に、ねねはさらに意識をかき混ぜられる気分だった。お前の女というのはみんなこんななのですか! 思わず想像の中の一刀に叫んでいるねねだった。 「そ、文句言おうにもなあ。まあ、独り占め、いや、あたいたち二人と姫で三人占め? したいなあ、と思うこともないではないけどねぇ」 「やだあ、文ちゃん」  二人はねねの疑問から、会話を広げていってしまう。その仲むつまじい様子に、ねねは言葉を挟めない。 「不満は……ないということですか」  しばらくの後、会話の接ぎ穂を狙って、ねねは訊ねてみる。 「不満? あー、うーん。いまはないかな?」 「あたいも」 「まあ、あったとしても、別に、ねえ?」  きゃらきゃらと笑いあう二人を見ていると、なんだか意地悪な気分になってくる。嫉妬というなら、その様子にこそねねは嫉妬したのかもしれない。 「それは、あいつと自分たちとの立場があるからですか?」  だから、その言葉は、半ば皮肉のようなものだった。しかし、実際に疑問に思っていたこともたしかだ。詠たちまで一刀の女となっていることに、彼女は密かに疑問を持っていたから。  だが、その言葉は、あまりに無神経に過ぎた。 「うわ、やば」  斗詩の顔に広がった満面の笑みを見て、猪々子が思わず小声で漏らす。その声は不幸にもねねには届かなかった。 「ねえ、ねねちゃんは恋さんのこと大好きだよね?」  にっこりと笑って訊ねかけてくる言葉は、あまりに当然のことで、ねねはようやく普段の意識に戻って胸を張る。もちろん、この世で恋殿を一番大好きなのは自分なのだ。 「当たり前なのです!」 「それは助けられたから? 恋さんが強いから? 恋さんが優しいから? 恋さんに恩義があるから?」 「あ、えっと……」  彼女の問いかけはあまりに早口で、あまりに鋭く、しかし、その表情は張り付いたように笑いの形をしている。その三日月のような笑顔に不気味さと恐怖をようやく感じても、もはや逃げることはできなかった。 「斗詩」  猪々子の言葉を聞いているのかいないのか、斗詩の質問はとどまるところを知らない。 「そういうのが全部無くなったら、恋さんのこと好きじゃなくなるの? 恋さんじゃなくても助けられたらそれでいいの? 恋さんと同じくらい強くて、優しくて恩義がある人がいたら、そっちはどうなるの?」 「あ、え、あ、あの」 「斗詩!」  猪々子が斗詩の肩を後ろから掴む。ねねに向かって覆い被さるように身をかがめていた斗詩が、その動作に驚いたように動きを止める。 「あ……」  その顔が一瞬で青ざめた。その視線の先には目尻に涙をためたねねの顔。 「あ、あの、えと、ねねは……ねねは……」 「あー、えーと、音々音。ちょっとごめんな。ほら、斗詩」  猪々子が言って、斗詩の体を起こす。顔を白くした斗詩は言葉が出ないのか、口をぱくぱく動かしていた。 「んー」  頭をがしがし掻いて、猪々子はねねと斗詩と両方を見やる。 「こういう時アニキがいるといいんだけどなあ」  彼女は小さくため息を吐いて、呟く。 「ほら、二人とも!」  斗詩は二人の頭を後ろから押して、下げさせようとする。その意図を悟った二人は猪々子の手よりも早く頭を下げた 「ご、ごめんなさい。ねねちゃん」 「こ、こっちこそ変なことを言ったです。ごめんです」  そうして、二人は顔をあげる。二人ともまだぎこちなかったが、ねねの涙はひっこんで、斗詩の顔色は少しは良くなっていた。 「ほら、ねね。詠に用事だろ? あたいが大天幕まで送っていくよ」 「あ、ありがとうです。その……またです」 「うん、またね」  張々にまたがって小さく手を振るねねに、斗詩は大きく手を振り返す。  彼女はねねが三度振り返ってもまだ手を振ってくれていて、ねねも猪々子も笑顔を浮かべずにはいられなかった。 「一つ言っておくですが」  大天幕の側まで来ると、張々の上から、ねねは横を歩く猪々子に声をかける。 「ねねはあいつのことなんかこれっぽっちも思っていないですよ。そこははっきりしておくですよ」  小さな胸を張って、堂々と言う姿に、猪々子も天幕の入り口まで来たところではっきりと頷いた。 「はは、わかったよ」 「わかればいいですよ」  言ってねねは張々を降り、天幕に入っていく。その様子を確認してから、踵を返し、猪々子は呟く。 「ふーん。気づいていないんだなあ」  だが、もちろん、猪々子はねねが一刀のことを――へぼ主でもへっぽこでも――呼ぶ時に浮かべる表情が、彼女が恋の名前を出す時とうり二つなことを、指摘するような野暮な女ではないのだった。      (玄朝秘史 第三部第六回 終/第七回に続く) 『命名』  これは、一刀が涼州へ発つ直前のお話。  彼は今日も今日とて、仕事を終わらせては、天宝舎に急ぎ、でれでれと子供たちを構っていた。そんな中、自分の子供のうち三人をまとめて抱き上げていた美以が彼に言ったのだ。 「……名前?」  一刀の問いかけに、美以は元気に頷いた。それに連れて頭の上のピンクの象が揺れる。あれって、どうやって張り付いているのかな、と思いつつ、以前その生態を聞いてみた時に『いざとなったら地面に投げつけるにゃ。そうすると、あっという間におっきく』と言われたところで話を無理矢理打ち切った経験があるために突っ込んでは聞けない一刀であった。 「そうにゃ。兄が考えてくれにゃ」  彼女が言うのは、彼女自身をはじめ、南蛮勢の子供たちのことだ。あわせて十八人もいるその子たちの名前を考えろと言われて、たしかにそれが必要だったな、とぼんやり思う一刀だった。正直、あまりの数に圧倒されて、そんなことまで頭が回らなかった。 「でも、どんな名前がいいんだろう?」 「ん? 兄の好きな名前でいいじょ?」 「そうは言ってもなあ」 「一刀ー」  話を聞いていたらしい声が、後ろから聞こえてくる。振り返れば、大小を一人ずつ抱いためいど姿の雪蓮と冥琳。 「ちゃんと考えてあげた方がいいわよー」  白い鬼面の言葉に、強く同意する様子の冥琳。 「うちの娘たちはぐずぐずしているうちに、大周、小周が幼名になってしまったからな」 「それに反応するようになっちゃったからね」 「まあ、それはそれでいいのだけど、そちらは数が多い。はやめにきちんと名付けておいたほうがいいかと」 「そうだなぁ……」  彼女たちのもっともな言い分に頷いて、また考え込む一刀であった。  しばらく考えさせてくれ、と部屋を移る。こちらは千年や木犀が寝ている側に、風と月がいた。ちょうどいいので彼女たちにも相談してみる一刀。 「こちらの名前だと南蛮ではあまり通用しなさそうな気がしますねー。美以ちゃん以外、真名もあるのかどうかよくわかりませんし。そもそも美以ちゃんはあちらの名前に、漢人風の姓名を後からつけたのかも」  風が首をひねりながら呟く。そのあたりの風習を訊ねるのはあまり礼儀正しいことではないのかもしれない。 「ご主人様のお国の名前ではいけないんですか?」 「うーん。俺のところの名前も、基本は漢字を使うんだよね。美以たちにはちょっと合わない気がする」  もちろん、音だけならかわいらしい名前もあるのだが、兄弟姉妹があまりばらばらな印象になるのは避けたいと一刀は思っていた。 「風たちからすると、おにーさんの名前も十分聞き慣れないものではありますけどねー」 「まあ、なにより人数が……いっそ、なにか規則性を……」 「ああ、おにーさん」  ぶつぶつと呟き始めた一刀に、釘を刺すように風が告げる。 「自分の名前の一部をあげるのはやめたほうがいいですよ。特別扱いに見えちゃいます」  男の子全員を二刀(にと)から八刀(やと)にしようと考えていた一刀の目論見はあえなく潰えた。  結局、こちらの人間に相談しても、南蛮勢とでは認識が違いすぎるとの結論に達した一刀は一人で考えてみることにした。 「美以の子供が男二人に女三人、トラの子が女三人、ミケが男女三人ずつ、シャムが男女二人ずつだよな」  口にしてみると、本当に多い。 「おかしな人生だなあ」  自分が二十人以上の子持ちになると想像する同世代の人間など、そうそう居はしなかったろう、と彼は苦笑いしながら思う。だが、そのことを後悔することなどありはしない。  彼はそういう世界に戻ることを望んでいたのだから。  とはいえ、こちらの世界でも、そこまでの数の子供を一度に得る男というのは希有な存在ではあるが。 「さて、考えよう。まず、特徴……って言える特徴はないか」  一刀自身は見るだけで、どの子供かの見分けはつく。だが、新生児にそれほどの個性というものがあらわれるわけもない。泣き声の様子をもとに名前をつけました、というのも変な話だろう。  そこで、一刀は思考の方向を変えてみる。 「美以、ミケ、トラ、シャム……」  母親たちの名前を改めて口にしてみた。 「鳴き声と毛並みと品種……だよな」  いや、シャムは元来、南方の地名だから、地名という線もあるか、と思いつつ、やっぱり猫だよなあ、と思うのを止められない一刀である。 「あのしっぽと耳を誇りにしているってことは、猫にちなんで……」  サバトラとかキジトラとか……と竹簡に書き始めて、慌てて首を振る一刀。 「いや、でも、俺の息子と娘だぞ……うーん」  その夜、一刀の部屋からは、灯火の灯りが漏れ続け、うんうんうなる不気味な声が聞こえ続けたのだった。 「えー、名前を考えてきたので発表します」  赤い目をこすりこすり天宝舎にあらわれた一刀の言葉に、おー、しゅごいにゃー、とわいわい騒ぐ南蛮のかわいらしい猫耳娘たち。 「まず、女の子を並べて下さい」  彼の言葉に従って、娘たちが並べられる。美以、トラ、ミケが三人ずつ、最後の二人がシャムの子だ。  おくるみに包まれた子供たちの上に、一枚ずつ名前の書かれた紙を読み上げつつ置いていく一刀。  曰く――。  マウ。  ペルシャ。  スコゥ。  アビ。  コーニ。  サイベル。  バーミー。  クーン。  シャル。  プーラ。  ソマ。  次に美以の子二人、ミケの子三人、シャムの子二人の男児に向かう一刀。  ラグ。  クス。  バン。  ムリック。  ヤマ。  バリニー。  コラット。 「どうだろう……ね?」  不安そうに振り向く一刀。四人は名前が読み上げられる度に、おーとかみゃーとか騒いでいたが、改めて訊ねられて、一刀に満面の笑みを向けてきた。 「なんだか不思議な響きだけど、これでいいと思うんだじょー」 「かっこいいにゃ!」 「かこいいにゃ!」 「かわいいにゃぁ……」  早速自分の子を抱き上げて、その名前を呼んでいる四人を見ると、どうやら気に入ってくれたらしい。ミケなどは一度に覚えきれなかったか、名前の読み方をもう一度訊ねてくる。 「い、いやあ、喜んでくれてよかったよ」  みゃーみゃー言いながら子供たちと一緒にわらわらとじゃれついてくる四人を抱きしめ返したりしつつ、一刀は喜びとなにか奇妙な感情の交じった微妙な笑みを浮かべる。  考えに考えてつけた名前が、猫の品種か、それを縮めたものだとはどうしても言えない一刀であった。  (おわり)