玄朝秘史  第三部 第五回  1.出陣  出世しすぎたのがいけなかったな、と彼女は思う。  元々彼女は成都のさらに南、南蛮との境に近い村の出だった。それが徴兵されて、赤壁、成都防衛戦と経るうちに、いつの間にやら伍長から什長、さらには属長まで上がってきてしまった。  腕っ節は人並みだが、人をおだてるのがうまい彼女は、部隊の最小構成単位である伍――五人組を作る仲間達を時に励まし、時に叱咤し、稀には文字通り尻を叩いて追い立てたりして戦場で生き残り、伍の全員を無事に帰還させることに成功した。それを繰り返したおかげで十人長である什長に昇進し、同じようにしていたら、赤壁の戦いの後では百人隊の副長、属長にまでなってしまっていた。  属長は百人隊の副長であると同時に十の伍、つまり五十人を預かる身分でもある。  ここまで来ると、生来の口のうまさと機転の良さ、それに経験だけでは追いつかなくなってくる。幸い、最低限の読み書きが出来た――元々そのおかげで伍長になんかなったのだ――彼女は、簡単な兵法の入門書から入って、指揮を執るための勉強を始めた。  それでも什長や伍長の時のように、一人も死者を出さないなどという芸当は属長までくるとなかなかに難しく、成都防衛戦でも幾人かの犠牲を出してしまった。いや、犠牲を出すことで戦果を上げるしかなかった。そうしなければさらなる犠牲が予想されたから。  そんなざまだったというのに武勲を認められ、軍に残ることを勧められたのだから、自分でも大したものだと思う。  ところで、彼女はいまの主、劉備になんの恩義も感じていない。  なにしろ、劉備は亡国の王だ。  益州の暮らしは多少良くなったとは言え、勝手に入ってきて勝手に戦争に負ける王を慕う道理もないだろう。負けたのにいまだに国が滅ぼされていないのはよくわからないけれど。  それでも軍に残ったのは、伯長、つまりは百人隊の隊長という地位を約束されたことと、死なせてしまった仲間への思い、そして、蜀という国への義理だ。  劉備玄徳という王に義理はなくとも、それなりの俸給をいただいている以上、あと数年は軍で勤めて義理を返してからでいいだろう、と思ったのだ。  それがまさか、こんなところに来ることになろうとは。  部下の百人と共に直立不動の姿勢を取りつつ、彼女は考える。  出世しすぎたのがいけなかった、と。  そのおかげで、北伐なんかに参加して、こんなだだっ広い草原の中で将軍たちがやってくるのを待つはめになってしまったのだ。  金城から、約二百五十里。彼女の目の前には、兵たちが相対しているこんもりとした丘以外、茫漠たる草原が広がっている。そして、彼女の前後左右には歩兵や騎兵、合わせて数万がびっしりと整列していた。  彼女たちは待っている。  ある人物の訪れを。  着任の遅れていたこの軍の大将、北郷一刀がついに今日、到着するのだ。  益州出身の彼女に、北郷一刀――天の御遣いに対するいい印象はまるでない。魏の種馬、あるいは淫欲の魔王、破倫の暴風、色情の蛮獣。天より降ったというその男は、都の処女という処女を捕まえてはその欲望を満たしていると、もっぱらの噂だった。  もちろん、それが誇張であろうことは彼女とてわかっている。いくらなんでも、魏の政権の中枢近くにいる男がそのようなことをしていて国が治まるわけがない。ましてや、魏の国中の女という女の初夜権を独占し、婚儀の夜には彼の下に通わされるなどという与太話を信じていたりはしない。  しかし、それでも聞いた話の百分の一、いや、万分の一でも真実であれば、ろくでもない男であることは確実だ。そんな男を大将として戴かなければならないことは不幸としか言い様がなかったが、同時にそんな男であるならば、この戦での大将の位は箔づけに過ぎないだろうという推測も成り立つ。実際の指揮は、趙将軍や魏将軍がしてくださるだろう。余計な口出しをせずに、本陣で女でも抱いていてくれれば問題ない。実際、模擬戦の時にも本陣から出てくることもなかったし、特に活躍したとも聞いていない。  後は儀礼的なことが多少あるくらいだろう。  そう、こうして到着を待つというような。  そんなことを漫然と考えていた彼女の耳に、前方でわき起こる歓声が聞こえてくる。どうも声を上げているのは騎兵の一団らしい。たしか、あれは華将軍と、呂将軍の……と思っていると、彼らが声を送っている対象が彼女の視界にも入ってきた。  それは、異様な出で立ちだった。  ぴかぴかに磨き上げられたいっそ美しいとも言える鎧はいい。馬の全身につけられた鱗のような鎧も、まだわかる。  しかし、あの背に引いた布はなんだというのだ。  それは、その場にいる誰もが見たこともない姿であった。肩から流れる布は、数十歩分はあろうか。鮮やかに染め上げられ、筒のようにされた布は、騎馬が走ることで空気の流れを受けて大きく翻る。  まるで蛇のようにうねる、いや、あれは龍の体だ。  その背に引いた布が風をはらみ、その騎馬を、まさしく一頭の龍のごとく見せていた。  そんな龍が三頭、兵達が揃って注視している丘を駆け下りてくる。  一つは黄、一つは黒、一つは赤。  それが母衣という装備だと、そして、最初に現れた三人が、黄母衣衆、黒母衣衆、赤母衣衆と呼ばれるそれぞれ百騎の部隊を率いる隊長達だと彼女が知るのはもう少し後のことだ。  勇壮な太鼓の音が、丘の向こうから聞こえてきた。  そこに現れるのは、三百騎の騎馬。  同じように母衣を引きつつ、彼らは隊長たちよりもゆっくりと進軍する。その馬の背にくくりつけられた太鼓を寸分の狂いなく合わせて叩きながら。 「これは……」  思わず漏らした彼女と同様、兵達の間でもざわめきが起きていた。  軍楽を知らないわけではない。実際、三国それぞれに鼓吹曲と呼ばれる軍楽曲が存在した。  だが、それはいずれも漢の鼓吹曲を流用し、独自の歌詞を加えたものだ。国が違っても、拍子そのものは聞き慣れたものであることが普通だ。  それが、いま奏でられる雄々しくそれでいて清冽な楽曲は誰の耳にも聞き慣れない、初めて聞くものなのだ。  この戦のために作曲までしたのだ、と彼女は直感した。  いざいざ進め  勇士達よ  千の川越え  万の山越え  汝ら生きる限り  我ら滅びず  燃え上がる炎囲みて語らいし日々  朝焼けの光さしてきらめく水辺でまどろみし日々  全て汝らの中にありて  我ら滅びず  汝ら進む限り  我ら滅びず  朗々と歌い上げるその声を、彼女は聞く。兵達は聞く。初めて聞くはずなのに、なぜだか耳に残る。心に刻まれる、その音律。  兵達のざわめきが消え、彼らが調べに耳を傾けている間に騎馬は止まり、二つの列を作りあげていく。そして、真っ直ぐにつくられた列の内側に向かって、さらに音高く、伸びやかに響く歌声。  その間を駆け抜けてくる、一騎の姿の美しさよ。  黄白色の馬体が光を浴びてきらめき、いかにも大地を駆けるのが嬉しくてたまらないというように躍動する。それを御するでもなく悠然と進ませているのは、白き――光に溶けていくのではないかと錯覚するくらいに真白く輝く服に身を包んだ一人の青年。  あれが――あれが、天の御遣いか……。  彼女は呆然と心の中で呟く。あまりに予測と違いすぎた。あまりに想像とかけ離れていた。  他の将軍方のように威厳や迫力を感じるというのでもない、この距離からでは顔の細かい造作の判別がつくわけでもない。  ただ、その動き、その所作に、涼やかなものを感じた。邪悪とはいかずとも、だらしないなにかを予想していた彼女にとって、それはあまりに鮮やかでしっかりとしていた。  彼は騎馬の列の端まで来ると、すらりと刀を抜きはなつ。途端、演奏はぴたりと止み、歌声も消える。  彼女はその突然の静寂の中できらきらと陽光を反射する彼の刀の光が、蒼空に向けて放たれているような、そんな錯覚を覚える。  そして、天の御遣いは刀をきらめかせつつ、大音声を張り上げた。 「勇士諸君!  君たちは、様々な土地から集まった。  東から来た者がいる。  南から来た者がいる。  そして、この地を故郷とする者たちもいる。  君たちが目指すものは様々だろう。ある者は故郷の解放を、ある者は武功をあげることを、ある者はただ生き延びることを。  だが、諸君!  戦場ではそんな事を忘れてほしい。  君たちが意識するべきは、眼前の敵と、左右の友のみだ。  友を守れ。そうすれば、友が君を守る。  君が生き延び、友が生き延びれば、隊が生きる。そして、隊が生きることがかなえば、その戦場は君たちの、俺たちのものだ。  俺は君たちを、一見死地と見えるところに送るだろう。  だが、それは勝つためだ。最後に生き延びるためだ。  忘れないでほしい。  俺は、君たちを栄誉の死へと導こうとしているのではない。明日へと、未来へと導くために、ここにいる。  この戦いは、敵を滅ぼす戦いではない。俺たちが生き延び、敵を友とする戦いだ。子らへ未来を渡す戦いだ。  みんな、俺と一緒に未来を見よう!」  刀を収め、彼は身を翻す。同時、再び太鼓が鳴り渡り、彼の背に向けて歌声が投げかけられる。  いざいざ歌え  勇士達よ  千の時超え  万の年超え  汝らの名が消えぬ限り  我ら滅びず  燃え上がる城壁崩す戦いも  大地をどよめかし進軍する雄々しき姿も  全て汝らの中にありて  我ら滅びず  汝ら忘れぬ限り  我ら滅びず  どこに隠れていたか、各々の部隊の将軍達が現れ、大将の後に続いて前進することを命じる。 「……ふうん」  彼女は我知らず呟いていた。  出世するのが悪いのかどうか。  もう少しだけ、判断を待ってみてもいいかもしれない。  彼女はそんなことを思いつつ、部下達に命を下し、隊を動かし始めるのだった。  2.兵(つわもの) 「あー、きつかった」  今日ばかりは夏陣冬陣、両陣の将たちが揃う橇小屋の中に入ると、北郷一刀は長いすに音を立てて座り込んだ。 「旅程でなにかありましたの?」  隣に座り、心配げに覗き込んでいるのは、膨大な質量の金髪をくるくると丸めてまとめた麗羽。その反応に、一刀は苦笑する。 「いや、そうじゃなくてね。ああいうの苦手なんだよ」  それに対して肩をすくめてみせるのは、翡翠色の髪を揺らす眼鏡の軍師、詠だ。 「しかたないでしょ、母衣衆のお披露目と、あんたのことを効果的に見せるにはああするのが一番だったんだから」 「うん、それはわかってる。詠が俺でもこなせるようにしてくれたのもわかっているんだが……」 「しかし、なかなかに凛々しいものでしたぞ」  慣れないといけないんだろうけどなあ、と呟く彼に、顔をほころばせて言うのは、蜀軍の将の一人、星。あでやかな着物の袖で口元を覆っているため、本気なのかからかっているのか今ひとつ判然としないのが彼女らしい。 「……かっこよかった」 「ねねも道中、練習させて演出を指導したのですぞ、恋殿」  言葉少なに言う赤毛の女性に、帽子をかぶったちびっ子が胸を張るのは、恋と音々音。 「ふん、所詮こけおどしだろう」 「それでいいんじゃないかなー。なにも一刀兄様が戦う必要ないんだしー」  苦々しげに言う黒髪に一部分だけの白が目立つ蜀将焔耶。それにからかうような口調で絡むのは、横に髪をくくった少女、蒲公英だ。 「戦の始まりというのはこうでなくてはならぬ。兵の士気を万全に上げておくが肝要ぞ」 「たしかによくある手だが、それだけに効果もありそうだな。実際、うちの隊は士気が上がっていたしな」 「実戦はまだ先やろけどな。なにせ、こんだけの軍や」  すでに落ち着き払い、酒杯を傾けている三人は、祭に華雄に霞。酔うほどの酒ではないだろうな、と一刀は少々心配していたりする。 「涼州勢や羌、鮮卑の側に動きはないのかな? こっちの動きが明らかになってから、ってことだけど」  少し体を起こして、一刀は訊ねる。西涼勢の棟梁、錦馬超こと翠が首を振って否定した。そのしっぽのようにまとめた髪が動きにつれて揺れる。 「新しいものは特にないよ。そもそも目端の利くやつらは数ヶ月前から気づいてるだろうしな。まあ、近づいたら近づいたで動きもあると思うぜ」 「そういうもんか……」 「そこらへんはしっかり軍議で話すわよ。まずは食事を……ってどこ行くのよ」  詠が声をかけるのも道理。一刀は椅子から起き上がり、歩き出そうとしていた。軍議のための円卓にいくならともかく、方向がおかしい。 「いや、ちょっと兵の顔を見て回ろうかと……」  その言葉に頭痛でも覚えたか、こめかみを押さえる詠。 「……あのねえ。総大将が顔出したら、兵が緊張するでしょうが」 「まあ、いいんじゃないかね。喜ぶ兵もいるだろうし。戦で疲れてる日ならあたいも止めるけど」 「うーん……。でもこいつ歩かせると誰か護衛につけないといけないから、ものものしいのよね」  自分の大剣の手入れをしていた女性――猪々子の意見に腕を組んで考え込み、しかし、否定の言葉を告げる詠。 「よわっちいですからね」  ねねが一言で切って捨て、肩を落とす一刀。 「……恋がついていけば、一人で十分」 「主はだめじゃ。目立つからな。まあ、それは儂もじゃが」 「ならば私だな」 「華雄も同じやろが。ちゅうか、ここの将軍勢やったらみんないっしょちゃうか?」 「それでも程度ってもんがあるでしょ。呂奉先や錦馬超は問題外よ」  喧々囂々誰がついていくかで話し合いが始まり、取り残された当の一刀はぽつんと立って待っているしかなかった。 「……大将ってのも大変だなあ」  そう一人漏らすのを、話し合いに唯一加わっていない焔耶が聞きつけて、大きく鼻を鳴らしていた。 「ということで、私か」 「私ということになった」  最終的に二人が一刀の前に立っていた。片方は黒髪のおとなしそうな女性、片方は翠と同じように頭の後ろで髪をくくっている赤髪の女性――斗詩と白蓮だ。  そのうち斗詩のほうは少々不安そうな表情で、一刀と不機嫌そうな麗羽の二人の間で視線を往復させている。それを警告と受け取った一刀は一つ頷いた。 「えーと、じゃあ、騎馬の話を聞きたいから、白蓮に頼めるかな」  あからさまにほっとする斗詩。白蓮のほうは特に気にした風もなく頷いて用意を始める。 「ああ、そうだ、麗羽。今度工兵部隊を見に行くから、よろしくね」  一刀が小屋を出る間際にそう言うと、見るからに不機嫌そうだった麗羽の顔がぱっと輝いた。 「色男も大変だな」 「なにが?」  小屋を出てから、おかしくてしょうがないというように笑っていた白蓮は不審そうに見てくる一刀の視線にようやくそう答えた。 「いや、いまのだよ。私たちが選ばれたことと言い、麗羽に遠慮して斗詩を選ばなかったことと言い」 「ああ」  やっとわかった、というように微笑む一刀。その後で彼は唇をかみしめると、悔しそうにうつむいた。 「俺が弱いからな、みんなに心配かけちゃうんだよなあ。申し訳ないと思っている。……ただ、こればかりはすぐになんとかなるわけじゃないからね」 「いや、まあ、それは普通、どんなに強い将軍だろうと、護衛はつけると思うけど」  一人で歩ける恋や華雄が規格外過ぎるだけだ。白蓮は心底そう思う。だが、一刀は小さく首を振った。 「普通の護衛ならついてるよ。それでも詠たちが心配しちゃうってことさ」 「え?」 「ほら、あっち、結構離れてるけど母衣衆がいる。他にもいるんじゃないかな」  白蓮の驚きように、一刀は右手前のほうを指さす。そう言われて視界を広げてみれば、彼女たちを包囲するかのように幾人かの兵が歩いている気配があった。白蓮が気づかなかったのは、あまりに離れていることと、彼らも兵の一人には違いないからだろう。気づいてみれば、逆方向に行った者が他と交代したりして護衛の面子が刻々変わっていくことも理解できる。 「さすが厳重だな」 「まあ、大将がやられたら、大変だからな」  それから彼は食事中の兵達を見て回りながら、言葉を続ける。 「ただ、麗羽に遠慮したわけじゃないよ。麗羽はたしかにちょっと拗ねやすいけど、いくらなんでもあんなことでへそを曲げたりしないよ」 「そ、そうかあ?」 「斗詩が心配していたのは、たぶん別のことだと思う」  白蓮の態度にわずかに苦笑しつつ、一刀は説明する。 「別?」 「袁家の躍進をいまだに気にしている連中がいるのさ。洛陽の表にも裏にもね」 「ああ……密談と取られたくない、か」  さすがに白蓮はそのあたりは察しが早い。武でも政でも取り立てて秀でたところがない――と自分では思っている――彼女はそういった空気や雰囲気の変化には敏感になるよう自分を鍛えているのだ。一刀の言うようなことは確実にあるだろう。ただ、身近に麗羽達を見ている彼女としては実感するのがなかなか難しいだけだ。 「困ったものだよな」 「その連中が一番警戒しているのは一刀殿御本人だと思うが……?」 「それはいいのさ。元々そういう役割だ」  冗談めかしつつ、それでも少し声を落として白蓮は忠告する。いまや北郷陣営についた身としては、頭首の心配をせずにはいられない。一方で、言われた一刀は涼しい顔のままだった。 「役割?」  聞き返す白蓮の耳元に、不意に彼の顔が近づく。いつもは意識していないが、真剣な顔をして近づかれると、その顔が予想以上に男っぽいのを否応なく意識させられて、鼓動が早まるのを止められない。 「天の御遣い」  彼はまるで重大な秘密を打ち明けるように、その呼び名を囁いた。 「華琳の敵を引きつけてあぶり出すにはいい名前だろ?」  一刀は体を引き戻し、にっこりと笑う。その時わき上がった感情を言葉にしようとして、白蓮は立ち止まった。  そこにかかる声が一つ。 「隊長!」 「え? あれー? お前、たしか警備隊の……」  一刀が振り向く先にいる兵は魏の鎧に身を包む、まだ若い青年兵だった。口を開こうとしていた白蓮は慌てて言葉を呑み込んで冷静な顔を取り繕う。さすがに兵の前で無様をさらすわけにはいかなかった。 「はい。お久しぶりです。たいちょ……いえ、北郷卿」 「よせよ。でも久しぶりだなあ。凪たちのところにいなかったのか」  兵は一刀の昔なじみらしく、彼も気安く応じていた。生粋の魏の兵は張遼隊以外には少ないこの陣営では珍しいことと言えよう。 「ええ、顔将軍の部隊が補充人員を募集した折りに志願しまして」  顔良隊、文醜隊、黄権隊の三隊は元々遼東征伐で捕虜にした兵たちによって構成されている。故に、後がないという切羽詰まった感覚はあっても、魏に対する忠誠や士気の面では少々他の隊に見劣りする部分があった。そこで、二度目の模擬戦の後に、補充の名目で経験豊かな魏の兵を十人に一人の割合で加え、綱紀の引き締めと士気の向上を図ることとした。  そのことは一刀自身、斗詩達から報告を受けていた。彼はその補充兵に志願し、選ばれたわけだ。 「そうかー。お前が入ってきた頃って、俺もうちゃんと隊長できてたっけかなあ。なんか懐かしいな」  そう言って彼は顔中を笑みに彩り、その兵士の肩やら腕やらを軽く叩いて親愛の情を示す。兵のほうは懐かしさからか、元々彼に対して尊敬を抱いているのか、目をきらきらと輝かせて彼の言葉を聞いている。  それから、しばらく警備隊時代の話をしていた一刀は、ふと思い出したように問いかけた。 「しかし、なんだってまた、こっちに志願したんだ?」  兵はその問いには照れたように笑って、ついに答えなかった。  結局彼とは、一刀が警備隊を離れた後のことまでひとしきりして別れ、二人はさらに陣の中の見回りを続けようと歩き出す。  白蓮の横を歩きながら首をひねってなにか考えていたらしい一刀は結局わからなかったのか、彼女に言葉を向ける。 「なあ、白蓮。北伐の兵たちへの給金や待遇はそんなに魅力的かな?」  いや、そうなるように手配はしたはずだけど……などと呟く一刀。それに対して、白蓮は、苦笑のような、それでいて温かな笑みを浮かべる。 「まあ、そりゃあ、久々の最前線だからな。それなりにはいいだろうな。暴れたいってやつもいるだろう。でも……」  彼女は一刀の背に向けて手を振り続けている兵を振り返り、笑みを深くしてこう答えるのだった。 「あいつがここに来た理由はきっと違うと思うぞ。一刀殿」  3.女王  襄陽から船を急がせて帰還した亞莎の報告を受け、呉の宮廷は混乱に陥った。まして雪蓮のことを知らない文武の官たちは、急に現れた北郷の部下という女性のことがまるでわからず、どう出るべきか考えるのも一苦労という有様だった。  そんな中、王たる蓮華は当初困惑していたものの、今回の件を取り仕切ったのが白面の女性だったと聞いて逆に肝が据わったのか、重臣陣できちんと討議して方策を決めるので、いまは無闇と動揺しないようにと強い語調で言いつけ、ひとまずその場を収めることに成功した。 「亞莎ちゃんの報告、後に回した方がよかったでしょうかねー」  謁見の間から小部屋に移った後で、穏がそう口にする。しかし、蓮華は首を横に振った。 「いや、あれでよいだろう。あまり我らだけで決めると後々うるさい。なにより憶測を口にされるのも困る」 「あー、たしかにー」 「最終的に私たちに任せてくれたのですから、逆によかったのではないですか?」  明命が皆の分の茶を淹れつつ言った言葉に、思春が鼻を鳴らす。 「ふん、老いぼれどもが自分たちでどうしようもないから我らに押しつけたに過ぎんがな」  彼女一人だけが、蓮華の背後を守るように壁にもたれていた。他の面々は茶を淹れ終えた明命も含めて全てが楕円形の卓に着いている。 「思春、さすがに言葉が過ぎる。まあ、張昭が文官をまとめてくれると約束してくれた。そちらは任せてよかろう」  蓮華は思春に形ばかりの叱責を加えた後で、苦笑を浮かべてみせる。 「それにしても、姉様と一刀め、やってくれる」 「んー、以前、自分を悪役に、と言ってましたからねえ。まさに自分が憎まれ役になって、着地点を探るというところですかねえ。でも、そううまく……」 「伯言」 「はいー?」  思春が名を呼ぶのに、指を顎にあてて自分の考えを述べていた穏が顔を向ける。 「先走り過ぎだ。まずはもう一度情報を整理すべきだろう」 「あはっ。たしかにそうでしたー」  臣下たちのやりとりを聞いていた蓮華も頷いて、亞莎に視線を向ける。 「亞莎」 「はいっ」 「姉様が正確にはなんと言っていたか、ここで語れるか?」  もちろん、というように勢い込んで頷く亞莎。それから彼女は主に促されて、会談の席での会話を一言一句間違わないように注意しつつ語り出した。 「一刀を主と、自分を部下と呼んだか……」  聞き終えた蓮華が乗り出していた体を背もたれに戻しながら、力が抜けたように呟く。 「あの方なら……それに、公的な場ですから、それは……」 「本当にそう思うか? 思春」  思春が慎重に言葉を選んで発言しようとするのを遮って、蓮華は落ち着いた視線を彼女に飛ばす。思春はそのことに身を縮こませたくなるような感覚を覚えた。 「……いえ」 「袁術の時のように、客将ならぬ食客としていることもできたはず。それがわざわざ部下と言ったからには」  そこで彼女は言葉を切って、ぐるりと皆を見渡した。 「これは、姉様の助言が含まれていると考える方がいいだろう」 「助言、ですかあ」  さすがに穏ものんびりとした声ながら驚いた様子だった。かつての主が国を離れ、他国の臣となっている。そのことに衝撃を受けるならまだしも、そこになんらかの託言が含まれているなど考えもしていなかった一同だった。  だが、蓮華はしっかりと確信したように頷いて答える。 「そうだ。もう自分を呉の人間と見るな、ということだ。一刀の臣であるということは、そういうことだ」  次いで彼女は腕を組んで少し考えると、目配せを交わしあっている臣下たちに改めて声をかける。 「穏、亞莎。此度のこと、あくまで一刀……北郷の意図として考えよ。姉様は、その枠の中で動いているはず」 「雪蓮様に惑わされず、その後ろにいる北郷をこそ見ろということですか……」 「ああ、その通りだ。もちろん、亞莎や穏だけではない。皆、思うところがあればなんでも言ってほしい」  その言葉に長い黒髪を揺らすこともなく、明命が手を挙げた。本当に真っ直ぐに伸びた腕が明命らしいな、と思いつつ、蓮華は発言を許す。 「その……気を悪くされる方もおられるかもしれませんが、私が思いますに、北郷には時折傲慢とも言えるやりようが見受けられると思います」 「傲慢?」 「はい、最終的に良い結果となるのならば、過程は多少過激でも構わないと申しましょうか……。いえ、そうですね、結果がはっきり見えているだけに、大胆に事を急ぎすぎるところがあると申しあげたほうがよろしいでしょうか。その、今回は、まさにそのような考えで動いているのではないかと」  全員の視線が自分に集まったことで、話しづらそうにしながらも、明命はきまじめな顔で語る。そういえば、彼女は一刀のことを調べていたな、と冥琳から引き継いだ報告書のことを蓮華は思い出す。 「んー、明命ちゃんの言うこと、わからないでもないですねー」  しばし沈黙が落ちた後で、穏がとんとんと卓を小気味よい拍子で叩きつつ、明命の主張に同意する。 「あの人は、政治手法を魏のお歴々、特に曹孟コから学んでいますからね。理論先行というか、理想を目指して一直線というか。孟徳さんにしたって、たしかに悪くない結果に持ち込むんですけど、ちょっと強引ですからねー」 「つまり……北郷にとっては、自分を悪役にしたてればいいというのを、本当に字義通りやっているだけ、というところでしょうか……。しかし、それに両国が乗るとは……」  亞莎は思考に夢中になってずり落ちかけた片眼鏡を袖ごしに指で押さえながら、口を挟む。 「ですねー。両国の問題だけに、こちらが動かなくても、蜀の動きに合わせて動かざるをえなくなりますからねー。そのあたり、どこまで計算しているのか」 「公謹殿に任せなかった点が気にかかります」 「雪蓮様の劇甚さこそを良しとしたのかも……」 「冥琳様はお子様がいて動けなかったという実際的事情かも」 「一刀さんの場合、『知っている』のかもしれませんが」  皆が口々に意見を言う中で、ふと穏が漏らした言葉に、亞莎は袖を大きく振って否定する。 「いえ、今回に限ってそれはないかと」 「ん?」  あまりに派手な動きに、議論に集中していた皆の意識が亞莎に揃う。その注視を受け止めた亞莎は、失策を犯したとでもいうように、袖で真っ赤な顔を隠してぷるぷる震え始めてしまう。 「どうした?」 「い、いえ、その、おそらく一刀様は私が寝ていると思って仰ったことですから、この場で話すべきかどうか……」  一同は、ああ、と納得する。実際に寝ていると思って漏らしたことなのかどうかはわからないまでも、いずれにせよ閨のうちのことなのだろうと察したのだ。 「いや、それならば、話すに及ばないぞ」  こほんと空咳をして、蓮華が緩みかけた空気を引き戻す。 「聞いたところによれば、あやつの世界とこの世ではだいぶ道筋が変わっているらしい。赤壁以後は予想もつかない、と言っていたはずだ。そうだったな、思春」 「はい」 「そうですかー。すると、雪蓮様の性格なんかも含めての策なんでしょうねえ」  それまでの議論をまとめるように、筆頭軍師たる穏が言葉を紡ぐ。 「穏としてはですね。両国がどこまでつっぱるか見るつもりなのではないかと思いますねー。雪蓮様を出してきたのはそれででしょう。そうしておいて、きりがいいところで和解案を持ってくるのではないかと。  ただ、呉、蜀が動かせる官、軍の様子を見ておきたいという別の側面もあるのかもしれません。一刀さんに、桂花ちゃんあたりが持ちかけていたら、ということですけどね。もちろん、これは考え過ぎかもしれませんが、このまま動くとそれも見せてしまいますねー」  それに頷いてから、蓮華はもう一人の軍師に顔を向ける。茹で蛸のようだった顔をなんとか普段の顔つきに引き戻しているのを確かめて、訊ねる。 「亞莎は?」 「わ、私は……そうですね。けして戦をしたいというわけではないと思います。雪蓮様のあからさまな挑発は、逆に両国に慎重さを求めているということでしょう。ただ、北郷にはそれを辞さないだけの気概と、魏の軍備という後ろ盾があります。戦になることも考えた上で手を打っていると思います。つまり、安易に出兵するのは下策となるでしょう。  とはいえ、荊州は呉にとって必要な地です。軽々に諦めるわけにはいきません。いまは粘り強く交渉を続けるべきかと」  二人の軍師の見通しを聞いて、蓮華は考え込む。碧い瞳が熟慮に揺れた。  もちろん、無法な要求をそのままに受けるわけにはいかない。だが、戦になるというのは論外だ。  今回の一件は、直接的には彼女が相談を持ちかけたことに起因する。ならば、その幕引きは彼女自身が成さねばならない。しかし、それに兵を巻き込み、民を巻き込んで、ましてや、その命をすりつぶすなど考えられはしない。  では、どうする、と考え、彼女は思わず考えていることを口にしてしまう。 「三十日は……いや、それももうないが……なんにせよ、あまりに短いな。どう動こうにも、動きが制限される」 「円滑な移行を行うためにも百日は必要だと言ってみるのはどうでしょー。半年まで延ばせれば理想的ですかねー。その時期だと、北伐の収拾がついて、一刀さんと直に交渉できますから」  穏の助言を聞いて、蓮華はもう一度思考の中に沈み込む。  それからどれほど経ったか、静かに彼女を待っていてくれた臣下たちに顔を向けなおす呉王。 「そうだな、では、亞莎、お前は引き続きこの問題に専従させる。襄陽に戻り、交渉を続けよ。いずれにせよ、あちらの意に沿おうにも、ある程度の時間と話し合いが必要だ。最初にそれを納得させろ」 「はっ」  次に穏のほうへ首を巡らせる。 「時間ができるかどうかはわからんが、まずは一時的な撤収も視野に入れて、さらに多くの文官を送り込め。これまで以上に荊州の実情をしっかり把握するのだ。表向きは、漢への引き継ぎのための作業と言っておけば文句もつけてこれまい」 「はいー」  ん、と頷いて蓮華は少し視線を泳がせたが、最終的にそれは明命へ向かった。 「明命は、その文官たちの増員に合わせて部下を荊州に入れよ。姉様だけではなく、蜀の動きにも目を配るのだ。こちらに情報を伝えると同時に、亞莎にも伝わるように努めよ。いや、こちらへの情報は遅れてもよいくらいに考えろ」 「了解いたしました!」  そこで思春が蓮華の横に歩み寄る。 「兵の増派は」 「いまは無用だ。刺激したくないからな。ただ、水軍の用意はしておけ。頼めるな?」 「無論」  指示を出し終えて、再び蓮華は皆の顔をぐるりと見回す。そこで、亞莎が一言、あ、と間の抜けた声を上げた。 「どうした?」 「洛陽の小蓮様へはどうお伝えしましょう? おそらく洛陽に残っておられるであろう冥琳様を通じて雪蓮様の動向を窺うという手も考えられますが……」 「んー、それどうですかねー。逆に冥琳様に私たちの動きを読まれることになっちゃわないかなあ。あの人がすでに見透かしている分は別としてですけどねー」 「たしかに。こちらが動揺していると思わせるのは得策ではありません」  ふむ、と頷いて、蓮華は腕を組み直す。 「あれには、必要なことだけを簡潔に伝えよ。冥琳との接触は無駄であろう。冥琳と小蓮では、年季が違いすぎる。それよりも、魏や一刀の考えが奈辺にあるかを調べるように。あとは、そう、朝廷の動きにも注目させろ。そのあたりは、小蓮ではなく、明命の部下があたれるか?」 「はい、洛陽には数を入れていますから」 「では、そのように。シャオは顔に出やすいからな」  語調を緩めて彼女がそう言うと、皆が小さく笑った。  それが解散の合図となり、呉の重臣たちは、王の意を受けて、それぞれに足早に部屋を出て行く。残ったのは二人。王たる蓮華と常にそれに付き従う思春だけだ。 「それにしても、問題は」 「はい」 「一刀が姉様の手綱を御せているのか、ってことかしら」  かわいらしく小首を傾げ、頬に指をあてて憂い顔を見せる蓮華に、思春はなんと言っていいのか迷う。  雪蓮も一刀もよく知る相手ではあるが、まさかこのような形で対しようとは思っても見なかっただけに、思春の判断も様々に揺れざるを得ない。 「……あの方を押しとどめることなど、公謹殿以外が出来るものでしょうか」 「そこなのよねえ……」  でも、と、彼女は呟き、その明るい髪を揺らす。 「せめてそうであることを期待しているわ。あの人の暴走につきあうよりましだもの」  しみじみとそう言う主に、思春はなんとも微妙な表情を浮かべるしかなかった。  4.北行  川がうがった谷底の縁に出来た道を、一群の騎馬が駆け抜けていく。  いや、騎馬だけではない。騎馬が中心にしているのは、一台の馬車、否、戦車に他ならない。  二頭の馬が牽く二輪車には、大きな帽子を被った一人の少女が座っている。その小柄な体で、戦車につながれた馬を操るのは、蜀にこの人ありと謳われる鳳雛こと鳳士元。  その戦車は、けして乗れないわけではないが馬に騎乗して操るには不向きな彼女と、同じく小柄な同輩の諸葛亮のために作られた特製のものだった。よほどの急な用向きでなければ使われることはないが、騎馬に同道できる優れものだ。 「このあたりは……」  細い声のために聞き取れず何度か繰り返した彼女の問いかけに、護衛隊の隊長は駆ける音に紛れぬよう声を張って答える。 「街亭のあたりかと思われます!」 「まだ街亭……。急がなくちゃ」  牽き綱を引き、馬たちに意志を伝える。それと共に速度が上がり、自然、彼女を囲んでいる護衛の騎馬の足も速まった。  そう、彼女、雛里は急いでいた。  荊州の領有問題に雪蓮によって投げかけられた難問は、すぐさま早馬を使って成都にいる桃香たちと、南鄭にいた雛里に届けられた。  成都でいかなる議論がなされたのかは、漢中に留まっていた雛里には詳らかにはわからない。ただ、最終的に朱里は交渉のために襄陽へ向かい、雛里は彼女自身の進言が通り、北上することが許された。  北――すなわち、今回の問題の大元、荊州牧である北郷一刀のいる、左軍本陣へ向けて。  朱里は期日の引き延ばしを約束してくれた。彼女がそう言うからには十分自信があるのだろうし、実際雛里も三十日という刻限はあまりに短く、最初から何度かの延長を予定しているように思えた。しかし、万が一と言うこともある。  ここはとにかく急いで、北郷一刀に会わねばならない。  そして、今回の雪蓮の宣言を撤回してもらわねばならない。それが出来るのは、彼と、さらにその上位にいる華琳、あるいは帝だけだからだ。  その中で北郷を選んだのは、実権が彼にあることと、華琳のいる場所にたどり着く前に期限が過ぎてしまいかねないことからだ。  しかし、それだけだろうか、と雛里は自問する。  おそらく、それだけではない。もちろん、実効的に解決の可能性が高いのは、北郷一刀か実際に前面に出てきている雪蓮か、どちらかとの交渉であり、その意味で両方に手を打とうとする自分たちの策は間違っていないはずだ。  だが、それと同時に、雛里の心には強烈な好奇の念が生まれていた。こんな、どう考えても暴挙としか思えない手を打ってくる北郷という人物に対する関心、そして、その裏に潜むであろうなんらかの計算に対する探求心。  北郷というのが底知れぬ間抜けである可能性も、彼女がもし彼に面識がなかったとしたら、考えなければいけなかったろう。しかし、これまでの数回の接触を経て、彼がそこまで愚かではないことは確認している。そして、それなりに知識も知恵もあることはわかっている。  だとしたら、いかなる心算が、このような事態を作り上げたのか。  蜀の軍師としても、一人の知識人としても、雛里はそれを知らずにはいられなかった。そして、それを知ることが、今後の蜀にとって最重要と言えるほどの重要事項であることを、彼女は一片の曇りもなく確信していた。  だから、雛里は急ぐ。  駆けてくれる馬にさらなる労を求め、彼女を守ってくれる兵達にさらなる辛苦を強いる。  それこそが、蜀の未来を切り開くと、信じていればこそ。  雛里は、放たれた矢のごとく、北を目指す。 「えらいことになったな」 「ええ、まさか一刀さんが……」  洛陽で膝をつき合わせて話し合っているのは、桔梗と紫苑という蜀の弓将二人。二人の娘たちはすでに寝入り、暗い部屋の中、わずかに灯火の灯りが届く場所で二人は事態の検討を続けている。 「国元は大騒ぎみたい。ともかくなんでもいいから情報を寄越せと言ってくるわ」 「莫迦騒ぎしておるのは文官どもだろう。朱里や桃香様の言うことでもなければ無視しておけばよいわ」 「まあ……そうね」  紫苑は疲れたように頷く。母親達の不安を感じ取ったか、寝付きのいいはずの璃々が珍しくぐずったのだ。 「実際のところ、こちらとしてもなにか掴んでいるわけではないし、根拠のない情報を送って混乱させるようなことは避けないと」 「うむ。ただ、すでに愛紗が軍を編成しているとも聞く」 「圧力をかけるためにね。動いてはいるみたい」 「しかたない……か」  二人は顔を見合わせ、お互いが苦虫をかみつぶしたような表情をしているのを確認して、どうしようもなくため息を吐く。 「あとは、その……あなたの耳に入っているかどうかわからないけれど……」 「千年のことか。北郷の子を産む女など信用できぬと気炎を上げているのがおるようだな」 「桔梗。もし、これに関わりたくなければ……」  紫苑は少しだけ黙った後で、その美しい顔に緊張をたたえて旧知の友に提案する。だが、その言葉は喉の奥を鳴らす、猫のような笑い声で否定された。  桔梗は常に持っている酒瓶の口をひねると、そのまま口元に持って行き、直に呷る。まるで口が汚れたから消毒しなければ、とでも言うように。 「くだらんぞ、紫苑。恋は恋、色は色、政は政。わしはどれも存分に楽しむ。国の莫迦どもなぞ、気にするほどのことでもない。義理や情に引きずられるなら、桃香様に降らずにあの場で死んでおるが道理ではないか」 「それも……そうかもね」  頷いて、彼女は桔梗の手から酒瓶を受け取る。桔梗のように片手で呷るようなことはせず、しかし、両手で掲げ持ち、ごくごくと桔梗に倍するほどの量を腹に落とし込んでいく紫苑。その口元を、一筋の雫がしたたり落ち、喉からその豊かな胸へと流れていった。 「はっきり言うが、これだけのこと、一人の思いつきでどうにかなる話ではない。北郷一刀という名に結実してはいても、これを招いたは、魏、呉、蜀、三国の動きよ。もとより曖昧なまま放っておいた我らにも責はあろう」 「それはね。同盟のためにはっきりさせてこなかったものね。それに一刀さんの下には詠ちゃんもねねちゃんもいる。どれだけの裏があるのか想像もつかないわ」  ふう、と息を吐き、紫苑は桔梗の言葉に同意する。 「いずれにせよ、今回のことは、荊州牧の名前で動いているわ。つまり、一刀さんを支えているのは実質は魏の国力だけれど、形式的には漢の権威ということ」  酒瓶を取り戻した桔梗が紫苑の言葉に片方の眉だけを跳ね上げる。彼女は腕を組み、一つうなりを上げた。 「となれば、朝廷に働きかけることでなにかを引き出せるやもしれぬな」 「ええ、そういうこと。洛陽にいるわたくしたちができるのは、そこだと思うわ」 「ふむ。承知した。あとは昔の伝手を使って、荊州での情勢を探ることとしよう」  まずは一つ方針を確認し、二人は頷きあう。  そうして、桔梗が娘と添い寝をするために出て行き、一人残された部屋の中、灯火も燃え尽きた闇の中、紫苑は一人考え続けていた。 「色は色、政は政、か」  視界に何一つ残さぬ中で、そんな彼女の声だけが静かに響く。その後にしたかすかな衣擦れのような音は、彼女が髪を掻き上げた動作のものだったろうか。 「さて、わたくしの思いはいったいどこにあったのかしらね?」  その問いかけに答える者はおらず、闇はただ沈黙に包まれていた。  5.軍略  天宝舎の二階、大きな地図の彫られた卓があることから地図室と呼ばれる会議のための部屋で、二人の魏の軍師が重要事項を話し合っていた。 「結局、この間の上奏は、豪族層の……」  にゃ〜にゃにゃ、にゃ〜にゃぬ〜♪ 「しかし、この場合……」  にゃ〜にゃ、にゃ〜にゃにゃ〜♪ 「そうすると、これが……ああ、もうっ」  猫耳頭巾を振り立て、頭をかきむしるのは桂花。魏の筆頭軍師だ。その相手である稟は眼鏡を外して布で拭きつつ、小さく嘆息する。  桂花のいらつきの原因ははっきりしている。いまも聞こえてくる、あの気の抜けるような歌声だ。  な〜にゃにゃにゃ、にゃにゅ〜にょ〜♪  それは、階下の音声を伝えてくるはずの伝声管から聞こえてくる。ふたを閉じているからはっきりと聞こえるわけではないのだが、何人かで輪唱しているらしく、延々と途切れなく聞こえてくるのだからたまらない。  ついに我慢の限界を迎えたらしく、桂花は伝声管に向かうとふたを上げ、大声で叫んだ。 「うるさいわよ!」  その答えも伝声管を通りってやってくる。 「なんにゃー? ミケたちは子守歌を歌っているだけにゃ?」 「だからそれが!」  まあまあ、となだめて桂花を椅子に戻し、代わって伝声管の前に立つ稟。 「すいません、子守歌自体はいいのですが……少々」  こうして説明しても、南蛮の四人に通じるかどうか、と考えていると、向こうでも交代したらしく、遠慮がちなかわいらしい声が響く。この声は一刀の『めいど』を務める月だ。 「あ、あの、お歌を歌うのは、別の部屋にしますので……」 「申し訳ありませんがそうしてもらえますか。暫しの間でいいですから……」  しばらくばたばたと移動の音などが聞こえてきたが、歌声はともかく無くなった。  茶を入れて一服し、ようやく興奮が収まったところで二人は会話を再開する。 「さて、では、そろそろ周辺の動きに移りますか」 「そうね、そうしましょう。北伐の開始からほぼ二十日が経ったわけだけど、華琳様の中央軍は匈奴の領域を出るまでは、やはりまともな戦はないようね」  桂花は卓に彫りつけられた地図の北方を指さす。稟がそこに置かれていた華琳の人形――妙に写実的でそっくりだった――を数歩進ませる。 「予想通りですね」  秦の統一よりさらに前の戦国時代から長く漢土を脅かしてきた強大な匈奴は時を経るにつれて、中原の統一政権からの抗争、懐柔両面の働きかけを経て分裂し、力を失っていった。まず武帝により北方へ追いやられ、その後東西に分裂し、西は漢につき、東は攻め滅ぼされた。西匈奴もまた後に南北に分裂し、南はより強く漢に臣従したが、北は西に走り、漢の勢力圏から消えた。  現在中央軍が進軍している地域は南匈奴の支配域であり、彼らはすでに漢に臣従している。その間接統治を直接統治に変更する、そんな確認のための進軍であり、南匈奴に対抗するだけの気概のある集団はいないだろうという予測を魏の首脳陣はたてていたわけだが、実際その通りになりそうだった。 「鮮卑の領域に入った頃が問題ですね。もちろん、すでに調略は済ませていますし、あの大軍にあえて挑みかかってくるような相手はそこまでいないと思いますが……」  鮮卑は匈奴のさらに北方に位置する集団だ。かつては匈奴に服属していたが、匈奴の力が弱まるにつれ独立を果たした。また、北匈奴が西に追いやられる直接的な原因は鮮卑の勢力伸長にあったといわれる。  鮮卑は烏桓と同じく東胡を祖に持つといわれるが、詳しいところはよくわかっていない。匈奴を古の夏王朝の子孫だと称する説もあるし、なにか古いものに自分たちの起源を求めたがるのはいずこも同じだ、と北方を含めた各地の諸集団をよく知る稟は思っていた。 「あんまり暇だと春蘭が文句を言いそうだけどね」 「とはいえ、遠征の軍を食べさせ、水を与えるだけで大仕事です。波乱を望まれても困ります」 「まあ、儀礼的な戦は行われているだろうし、我慢してもらいましょう」 「一方の左軍は報告はないものの……そろそろでしょう」  もう一つの人形をほんの少し進ませる稟。なぜかそちらの人形は写実的と言うよりは戯画化されていて、武器の代わりに小さなまんじゅうらしきものを抱えていた。 「涼州は複雑だからね。早いうちに何度か戦果を上げてもらった方が、後が楽になるでしょう」 「たしかに」  完全に異民族の集団相手の中央軍と違い、涼州には漢人集団、賊、いわゆる異民族、様々な勢力が入り乱れ割拠している。そして、そのさらに背後には北東方向に鮮卑、西に羌と強大な集団が控えている。  そんな複雑な状況を打開するには、これまでも魏軍がそうしてきたようにこちらの力を見せつけることだ。左軍にはただ進軍するだけではなく、戦で勝ってその力を実際に示してもらう必要があった。 「霞はじめ歴戦の将が揃っていますから、戦自体は心配はありません。あとは、その後の統治に気を抜かないでくれるといいのですが」 「面従腹背当たり前だからね。一度降ったくらいで安心しているようだったら危ないわね。そこは詠がなんとかしてくれると思うんだけど……」 「南蛮の例がありますから、何度でも同じ敵と戦うくらいの気構えでいる、とは言っていましたけどね」 「あいつがそう思っていたとして、兵をつなぎとめる腕があるかどうかよね。あるいは根こそぎ力を奪う判断ができるかどうか」  夏陣と冬陣の構えを見てもわかる通り、左軍で尤も危険視されているのは、すでに降った勢力の、後方での蠢動だ。必要があればそれを何度でも討つというのは正しい配慮だが、それを兵たちが理解してくれるかどうかはまた別のことだ。何度も同じ事をさせられれば人間誰しもうんざりしてくるのだから。  そういった兵の嫌気を押さえても軍を率いることが出来るか、あるいは、後方でなにか動きができるような相手を一気に滅ぼしてしまうか。  どう決断するかは大将である北郷一刀にかかっていた。  稟はまんじゅうを持った滑稽な三頭身の一刀人形を、手袋をはめた指でなでながら呟いた。 「……あの方は優しいが、優柔不断すぎるというのはないと思っていますよ、大事なところでは」 「さて……ね。あいつがなにを大事と思うか、が問題な気がするけれど。いずれにせよ、右軍による後方支援は臨機応変に考えるべきね」 「それについては同意します。綿密な計画をたてつつ、それを変更し続ける必要があります。凪、沙和、真桜の三人が洛陽に戻る度話し合いましょう」  猫耳軍師と眼鏡の軍師は確認しあい、いくつか書類に書き付けて、次の話題に移る。  稟の指が、鬼の面をかぶった人形を今度は南に置いた。 「荊州ですが、予定通り、期限を四十五日まで延長したと連絡が」 「ああ、最終的には六十日だっけ?」  あまり興味がなさそうに、桂花は書き物を続けている。 「ええ、あまり伸ばしてもしかたありませんし。樊城には荀攸がいますが、将として徐晃を派遣しておきました」 「公達なら、なんとでもするわ。徐晃には兵は?」 「二万を」  ふうん、と桂花は筆を置いて、部屋の天井を睨みつけるように視線を上に向ける。 「まあ、それはいいけど、あまり損なわれると困るわね」 「徐晃には樊城を攻められない限り、動くなと申し渡してあります。それこそあなたの姪御さんもおりますし、まず大丈夫でしょう」 「ならいいけど……」  それから視線を地図の上に戻す桂花。 「襄陽には三万五千の兵か。さすがは周公謹、いやらしい数を計算するものね」 「ええ、籠城されることを考えれば、呉も蜀も三倍以上の兵を揃えねばならない。ましてや樊城も考慮に入れれば、少なくとも十二万は必要となる」  城攻めの定石では敵の兵数の三倍を必要とする。実際には十倍の数でも攻めきれないこともあることを考えれば、兵数は跳ね上がる。さらに、襄陽は江水に面する。援軍や糧食の供給を絶つためには必ず水上にも戦力を割かねばならない。  いまの蜀、呉両国にそれを用意するだけの戦力があるかどうか。なかなかに厳しいところだった。 「とはいえ、無理な数ではない。たとえば、寄せ集めだろうと五万入れられれば、両国は諦めるしかないでしょうが……」 「三万五千ならば、なんとかなりうる。そう思わせるのが策よね」  稟は頷いて先を続ける。 「それも頭のある将ならわかるでしょう。しかし、それで勢いを押しとどめられるわけでもない」 「結局、王の決断にかかるわけね」 「ええ、両国の王がどう出るか」  そこまで話を進めて、しかし、桂花は再び別の書類へと視線を戻した。稟もその態度を非難するでもない。 「ま、私たちはともかく、こちらに被害が出ないよう考えるのが第一ね。なにしろ、これは……」  ちら、と桂花は地図の上を見て、持っていた筆の背で、一刀人形をこづく。頭身が低いだけに重心も低くできている人形は揺れはするものの倒れることはなかった。 「華琳様の戦ではないのだもの」  6.戦場  軍師たちが遠く洛陽で予想する通り、北伐左軍は初めての本格的な戦闘を迎えようとしていた。  相手は涼州の小豪族で、馬騰の連合があった時期にも、時に馬騰側、時に羌の側についてうまく立ち回りつつ自領の拡張を図ってきたくせ者だった。西涼の錦馬超、翠の所属する冬陣に対しては殊勝にも降ることを約束し、夏陣が進出すると、実際に根城としている町の引き渡しをもしてみせた。  だが、夏冬の両陣が十分離れたところで、町近くの砦に籠もって抗戦の意志を示してきたのだ。  こうなると、補給と事務処理を担当する右軍にはやっかいな相手となる。  一刀はすぐさま冬陣を取って返させ、これを討つことを指示した。自身も進出する夏陣から冬陣に移り、戦闘に参加することを表明さえしたのだ。  さて、ここで夏冬両陣の陣容を見てみよう。  まず北伐左軍の騎兵――いわゆる北郷六龍騎は隊の名が色で分けられている。  すなわち――。  白蓮率いる白龍隊二千騎。  華雄率いる黒龍隊四千騎。  恋率いる赤龍隊四千騎。  霞率いる碧龍隊五千騎。  翠率いる緑龍隊五千騎。  蒲公英率いる緋龍隊六千騎。  合計、二万六千騎。ここで、西涼の棟梁翠が従妹である蒲公英より率いる数が少ないのは、錦馬超の機動についていける者が選別されたためであり、量よりも質を取った結果である。  一方、歩兵隊は金属や宝玉から名を取った以下の五隊があった。また、軍の中で『六龍』に対して自然発生的に『五飛』と呼ばれ始め、隊の名にもそれが反映されることとなった。  斗詩が率いる金飛兵八千。  猪々子率いる銀飛兵八千。  祭の率いる玉飛兵八千。  星の率いる丹飛兵五千。  焔耶の率いる鋼飛兵五千。  あわせて三万四千。  その他、麗羽が投石櫓などの兵器群と工兵隊二千を率い、本陣には母衣衆をはじめとした千名ほどが詰めている。  このうち、夏陣に所属するのは白龍、緋龍、碧龍の三隊一万三千騎と、金飛、銀飛の一万六千。  冬陣に属するは黒龍、赤龍、緑龍の一万三千騎に玉飛、丹飛、鋼飛の一万八千。  比べれば冬陣より夏陣が二千少ないが猪々子と斗詩の連携具合を考えれば、両陣の力の差は無いに等しいだろう。  この冬陣三万一千が、砦に籠もる一万五千に挑んだ時、どうなるか。 「え……? 終わっちゃったの?」  その答えは、冬陣に追いついた北郷一刀の間抜けな声が如実に表していた。  馬をとばしてきた彼と母衣衆はかなり疲れた顔をしていて、かえって一戦終えたはずの華雄たちのほうが元気そうに見えた。 「ああ、もう首謀者は捕らえてあるし、砦はいくつか門をぶちこわしたから、かなり修理しないと使えない。しばらくはここを拠点にするのは無理だと思うぜ」  本陣の大天幕の中で、翠が代表して説明する。いまは夕暮れ時であるが、戦自体は今日の昼にはもう終わっていたらしい。反転の指示が冬陣に届いてからでも五日、砦に着いてからでは三日程度しかかからない早業であった。 「ほら、だから言ったでしょ。ボクたちが来ることないって」  腰に手をあてぷりぷりと怒った様子なのは詠だ。彼女は翠たちに任せておけば十分で、一刀と彼女が戻る必要はないと主張したのだが、緒戦こそ大事だと言い張る一刀に押し切られて着いてきたのだった。 「そうですよ、こちらにはねねがいたのですから。お前達が来ることないですよー」 「いや、でも、騎兵は野戦にこそ威力を発揮するんであって、城攻めに使うのは……」 「下ろせばよろしい」  呆然と呟く一刀に、鬼面の将がおもしろがるように答える。 「いや、そりゃそうだが……」 「下ろさなくとも、烏桓突騎も涼州騎兵も騎射を得意とする。機動させつつ矢を射かければ、十分に敵兵を引きつけられるからな。その間に歩兵が門を開けてしまえば、それこそこちらの思うままだ」  華雄も肩をすくめて答える。彼女たちを見回して、一刀はまだよく回らない頭で呟く。 「そ、そう簡単じゃないと思うんだけど……」  一刀としても言うことはわかる。冬陣は烏桓突騎八千、涼州騎兵の中でもさらに精鋭たる五千がいる。たとえ地に足をつけても彼らは強いだろうし、ましてや騎射で攪乱するなどお手の物だろう。  そうは言っても攻城戦だ。麗羽の兵器部隊もいないというのに……。 「……城攻めは相手が必死なら、本当に大変」  ぼんやりとした風情ながら、しっかり会話を聞いていたらしい恋が、思い出すように言った。彼女はそこでかわいらしく小首を傾げた。 「今回は、そうでもなかった」 「士気は落ちていましたね。まあ、錦馬超の旗をいつも以上に押し立てましたから」 「へへ……。まあ、あたしの名前もまだまだ通用するな」  おそらく、そのあたりはねねの策だったのだろう。彼女が説明すると、翠が照れたように頭をかく。 「そうか……。いや、みんなよくやってくれた。ありがとう」  ようやくのように驚きから立ち直った一刀は、頭を下げて皆に礼をする。その様子に素直に喜ぶ者、恐縮する者、どうでもいいとはねのける者、興味深げにその様子を眺めている者、皆それぞれだった。 「参戦できなかったお詫び、というのもなんだけど、後始末はちゃんとやるよ」 「後始末。そう、そうですな」  一刀が顔をあげて言うと、星が何事か考え込むようにして言葉を継いだ。 「御大将に来ていただいたのはありがたかったかもしれませぬな」 「ん?」  そこになにか剣呑な響きを聞き取った一刀が顔を向けると、焔耶が会話に割り込んでくる。 「いや、まだあれは……」 「調べがつくまでそう日はかかるまい。戦の後始末の間、数日もいてもらえば十分であろう。違うか焔耶」 「……いや」  星には珍しく真っ向から厳しい声で問いかけられ、焔耶は首を振る。少し離れたところで祭が悔しそうに唇をかみしめているのに気づいて、一刀は何事かあったことを確信する。 「ともかく今日は皆休んでくれ。本当によくやってくれた」  何事があったにせよ張り詰めた空気に支配されそうになる場をこれ以上引きずるのは得策ではないと判断した一刀は、そう言って皆に解散を促すのだった。  脚は、あぐらをかいた格好でくくりつけられていた。  頭の後ろで組まされた手は、そのまま髪の毛ごと縛り付けられた。  豊かとは言えないまでも、それなりに形のいいのが密かに自慢の胸は、黒革の帯で上下左右から押し上げられ、前につっぱるように絞り出された。  口には黒革で包まれた棒が押し込められた。  彼女はそんな格好で後ろから突き上げられていた。  小柄な体は彼に簡単に持ち上げられ、彼の長い男根を何度も奥から浅い場所まで味あわされた。  翡翠色の髪がかかった耳には舌を入れられ、もうぐちゃぐちゃだ。  眼鏡を外された視界には、もはや彼が突き上げる度に走る快楽の火花しか見えない。 「詠……」  耳元で囁かれる度に体が震えるのを押さえられない。  だって、しかたない。  彼に縛り上げられたのだから。  だって、しかたない。  身動き一つとれないのだから。  だって、しかたない。  こうして苦しい体勢にされているのだから。  そう、だから、どうしようもない。  何一つまともなことが考えられず、全てを彼に委ねていることも、太い男性器でえぐられるごとにくぐもった嬌声を上げることも、歓喜の波に全神経が揺り動かされていることも。  そして、いま、この時を、幸せでたまらないと思っていることも。  だから、どうしようもないのだ。  彼女がひときわ大きい声を上げ、気の狂うような絶頂に呑み込まれることも、また。  拘束されたままの彼女は抱え上げられ、男の膝の上に乗せられる。  詠は抵抗もせず、そのままにされた。ただし、腕の拘束だけは口枷を外された後で文句を言って外させた。だから、彼女は自分の体を後ろから抱きしめている彼の腕に自分のそれを重ねることが出来る。 「略奪……?」  彼女の体を優しくなでながら、ぽつぽつと会話をしているうち、その内容がどうにも血なまぐさいほうへと移っていく。それは戦場での将と軍師の間ではなにもおかしいことではないものの、この状況では少々場違いにも思えた。 「捕虜虐待と言うほうが近いかもしれないけどね」  男と目線を合わせていないからだろうか、詠は逆にすらすらと言葉が出てくる気がした。本来はこの報告を先に済ませておくべきだったのを体を預けてからにしたのは、やはり気が重かったからだろうか、と彼女は自分で自分の心の中を探る。 「一応確認するけど、あんたの要請通り、住民、捕虜からの略取は一切不可にしたわ。ただし、戦が終わった後で、戦場の死体から集めるのは許可。そこまで咎めてもしかたないからね。ああ、でも、糧食に関しては毒や不衛生なことなども考えて、支給品以外は口にいれないこととしたけどね」 「うん」  男の声は真剣で深刻だ。だが、彼女の体に触れているその指は温かい。そのことに勇気づけられ、詠は言葉を続けた。 「そいつらは戦が終わる直前、門が開いて落城しようかって時に、捕虜を殺してね。そこからの戦利品を戦死者からの収奪だと主張したようなの」 「どさくさに紛れようとしたってわけか?」 「そ。でも、罪の意識にかられたか、元々反対だったのか、それに加わった部隊――百人隊が三つだったらしいんだけど――のうち一つの副隊長が自ら名乗り出てきたのよ」  そうでなかったら発覚しなかったかどうか。そこはわからない。自浄作用があることはいいが、それよりも、そんなことができないような体制を作り上げねばならない、と彼女は頭の別の部分で考えていた。 「ふむ……」 「それが祭の配下の部隊でね。あとは焔耶……魏延の部隊らしいわ」 「蜀とこっちと両方か」  それであのとき……、と頭の上で彼が呟くのを聞きながら、彼女は小さく頷く。 「ええ、難しいところね。いま、翠とねねたち、それに当の祭と焔耶が、他の部隊も関与しているかどうか調べてくれてるわ。ただ、たぶん今回の件は百人隊三つで収まると思うけど」 「どうして?」 「緒戦だから」  きっぱりと言い切って、詠は自分の言葉に説明を加えていく。 「たいていの場合、略奪や暴行は軍規で禁止されているものなのよ。でも、有名無実化していることが多くて、中には直に許可を出す将軍とかもいるの。戦の進み具合や、住人への影響とか、色々考えることがあってね」  顔をあげ、男がしっかりと自分を見ているのを確認して、さらに続ける。彼の瞳に首を傾かせ見上げる自分が映っている。きっと、自分の瞳には彼が映っていることだろう。 「ただ、兵達は今回、初めてボクたちの下で戦うことになる。それぞれの将軍についていたことはあっても、少なくともこの組み合わせでは初めてでしょう。だから、どれくらいが許容範囲かわからない」 「軍規をきっちり適用するか、そうでないか、とか……様子を見ないとわからないよな」 「そ。だから、そんなに多くの兵が加わっているはずがないのよ。だいたい、華雄や恋がそんなの許すと思う?」 「……まあ、ないな」  彼は苦笑と共に首を振った。その笑みがはっきりと信頼を示している。 「そりゃあ、焔耶や祭だって許してるわけもない。目の前で見ていたら、とっくにそいつらは死んでいるでしょうね。ただ、祭のところは知っての通り遼東の兵だし、焔耶の兵も蜀兵。故郷を遠く離れてたがが外れたのかもね」  そうして、彼女は顔を引き戻し、彼の胸にさらに強くもたれかかった。 「実際名乗り出たのは生え抜きの魏の兵だったしね」 「そうか……」  しばらくの間沈黙が続く。ゆったりとお互いの温もりを感じあうのはいいが、そうして全てを忘れてしまうわけにもいかない。 「どうする気?」  彼女の問いかけに、彼は一瞬も躊躇することなく答えた。 「もちろん、軍規に照らして処分するさ」  そのよどみない答えを聞いて、彼女は大きく嘆息せずにはいられなかった。 「……そう言うと思ったわ」  7.節  刑場は砦の裏に広がる森との境に作られた。  砦で利用するためだろう切り開かれた広場のような場所に、将たちと兵が集まる。将は誰もが立ち会いを強制されていたが、兵は自由に見物していいことになっている。ある者は自戒を込めて見物の列に加わり、ある者は珍しいものを見られるという好奇心だけでその場にいた。  八つの切り株に、それぞれ一人ずつがくくりつけられていた。百人隊三つの隊長と副長二人ずつで、あわせて九人のはずだが、一人は彼らの罪を自ら告白したために罪を減じられ、すでに洛陽へと後送されていた。 「この恥さらしどもが。さっさと死ねぃ」  百人隊の一つを部下としていた祭が吐き捨てるように言うと、切り株にくくりつけられた体を引き起こそうと暴れながら叫ぶ男がいた。 「だ、誰でもやってることだ。俺たちだけじゃねえ!」  その声に、すっと前に出た影がある。  その人こそ、左軍大将北郷一刀。 「誰でも、か」 「旦那様」  祭の制止の声を、手を振って押さえ、彼はその男に近づいていく。 「本当に?」 「そ、そうですよ、大将。皆やってますよ!」  自由にならない体の中で頭だけを振って、一刀の方を向いて抗弁する男。周囲の幾人かが彼に同調して助けを請う。 「ふうむ、では、お前が知っている他の隊の名前を挙げてくれるか。あくまで今回の戦で、だよ」 「ええと……」  口ごもる男をそのままに、振り返って祭とその隣に並ぶ焔耶に声をかける。 「黄将軍、魏将軍。彼らは、禁じられている略奪を行ったんだよね?」 「……ああ」  苦り切った顔で返す焔耶。彼女は自らで刑を執行するつもりなのか、常は陣の中では持ち歩いていない鈍砕骨をその手にしていた。 「しかし、戦場で戦利品を奪うのは否定されていない。つまり、彼らは倒した相手以外から奪ったんだね?」 「そうじゃ。捕虜を合わせて六十七人殺し、金品を略奪した罪により、ここに引き立てられております」 「そう。それで、思い出した?」  頷いて男に振り返る。男だけではなく、周囲で騒いでいた男女から、いくつかの名前が挙がった。名前に聞き覚えがあるのか、見物人の中からいくつか怒号が起こるが、その群れの前にいた星が一喝して声を途切れさせる。 「調査は?」 「他の百人隊の関与は認められませんでしたぞ」  ねねが胸を張ってそう答える。一刀は申し訳なさそうに彼女に頭を下げた。 「それでももう一度調べておいてくれるか。すまない」 「いや、膿は出さないとな。念には念を入れるよ」  翠がそう言って、彼らが口にした名前を書き取らせた。 「そういうわけで、安心してほしい」  一刀は男に再び話しかけた。彼の言葉を聞いて、希望に顔が輝いた。 「本当にやっていたのなら、全員を罰することを約束する」  続いた言葉に男たちは顔を少し曇らせ、さらにその次の言葉は、彼らの予想だにしていないものであった。 「だから、安心して死んでくれ」  絶望に彩られる男の顔を無表情に見つめつつ、彼は次の言葉を絞り出す。 「道具を持ってきてくれるか」 「しかし、旦那様、こやつらは儂が……」 「そうだ、私が始末を!」 「いや」  口々に抗議する二人を、小さいがはっきりとした声で否定する。歯を食いしばりながら漏らすようなその口調に、焔耶も祭も二の句を告げない。 「今回左軍の大将になるにあたって、俺は持節を授けられている。これによって、俺、北郷一刀は独断で軍令違反者を処断できる」  持節とは使持節と呼ばれる権限のうちの一つで、使持節、持節、仮節と三種あるうちでちょうど真ん中にあたる。しかしながら、この権限でも非常時には二千石――つまり、一刀本人と同じ九卿以下の官ならば、軍令違反をどのようにも罰することができた。 「つまり、この場で、彼らの首をはねる権利は、俺にしか、ない」  それは正確ではない。  法に照らして言えば、死を含んだ処罰を命じる権能があるだけで、彼自身が手を下す必要などあるはずもない。  けれど、それをわかっていないはずもない。  彼は、知っていて、全てをわかっていて、そう宣言したのだ。  だから止められない。  誰一人止められるわけもない。  悔しそうにうつむく焔耶も、出そうになる手を腕を組むことで必死に押さえている祭も、渋い顔をして彼を見つめている翠にも。 「斧なら用意してある。お前には刀よりいいだろう」  大ぶりな斧を持ち出してきたのは華雄。戦斧の使い手だからというのではない。単純に人体を破壊するのに一番有用なものを考えた結果であろう。 「そうだな、これなら思い切り振れる」  腰から鞘ごと刀を抜いて、華雄に預ける。重さを確かめるように何度か持ち上げてみてから、彼は罪人たちの前に歩み寄った。 「すまんな」  それは、これから彼らに死を贈ることへの謝罪ではない。  おそらく、その周囲に居る人々の中で将たちだけが、その言葉の意味を理解しただろう。  それは、苦しめずに殺せなくて申し訳ないという謝罪。  彼が横に立って観念したのか、恐怖に震えるしかないのか、もはや男は身動きもしなかった。顔を動かすこともなく、ただ、縛り付けられた格好のまま、地面を見つめている。  それは一刀にはありがたかった。動かれればそれだけ苦労することは目に見えていたからだ。  分厚く重い刃を頭上に持ち上げる。  彼の口の奥で、ぎりり、と歯が鳴った。  ふっ。  小さく息を吐き、そのまま落とした。  ごり。  しまった、と彼は思った。  その手応えは骨にあたったものだった、つまり、振り切れていない。  白い断面が見えた。あれは靱帯、いや、脂肪だろうか?  そんなことを考えている間に、びくん、と男の体が震え、途端に首筋から血が噴き出した。傷口が朱に染まり、先ほどの白を隠していく。一刀の視界も薄膜がかかったかのように赤く染まっていた。  だが、勢いよく血液を噴き出す傷口はまだ半月状で、男の靱帯と筋肉を断ち切ったのみである。骨はいまだつながっていた。  びくり、もう一度体が痙攣する。  もはや男に意識はない。痙攣は体の不随意的な反応であって、男自身の意識はもはや失われて戻ることはない。それでも首はつながっているし、心臓は動いている。  だから、一刀は斧を振りかぶり、もう一度振り下ろした。  ぞぶり、ごつん。  二つ、音がした。  首が転がり、斧の刃が切り株に食い込んだ。  噴き出す血はさらに多くなり、一刀の半身を赤と黒の混じった色に染め上げる。  食い込んだ刃を抜き取れず苦労している一刀の下に華雄が近寄り、軽く手をあてただけで斧を抜き取った。 「もし万が一暴れる時はな、主殿」  斧の刃を調べながら、二人だけに聞こえる声で彼女は忠告する。 「柄で頭を殴れ。それで意識が混濁しておとなしくなる。そのほうが慈悲にもなろう」 「わかった、ありがとう」  それから彼は首を見た。  先ほどまで光っていた、その目を見た。  いまは何者でもない物体を。 「次」  平板な声で彼は呟き、視線をそれから引きはがす。 「ねね」  二人目に近づいていく男の姿から目を逸らした同輩に、詠はきつい声で言った。 「あいつを見捨てるなら、目を逸らしなさい。そうでないのなら、しっかり見なさい」 「しかし……あのような……あいつがあそこまでする必要は……」  音々音は怯えていた。  血に?――否。  死に?――否。  北郷一刀に。  普段笑っている、あの男が。  一番弱いはずの、あの男が。  子らの死に泣いていた、あの男が。  いま、とてつもなく、怖い。  けれど……。 「……ご主人様の決めたこと。見守ってあげるのが、務め」  背後に回って肩に手を置いてくれた恋の言葉がかかる前に、音々音は前に向き直っていた。 「そう……ですね。その通りです」  その言葉は苦鳴のようであり、そして、彼女の心底からの本音でもあった。  本陣の書記官によるこの日の記録は、ただ二行。 『軍令違反により、斬首刑を執行。  死罪、八名』      (玄朝秘史 第三部第五回 終/第六回に続く) 北郷朝五十皇家列伝 ○序章『基本概念』より抜粋 『七選帝皇家』 『七選帝皇家は、次代の皇帝を選抜するために置かれた皇家である。ただし、実際には、中央で働くほとんどの皇家の人間に関して調査を行っており、皇帝候補選抜以外にも、朝廷の重要な役職を担う人物の査定を行うこととなっている。 その詳細な活動及び評価の方式のほとんどは明らかとなっていないが、それでも資料から推察できることはいくつかある。それについてここでは簡単に列挙してみよう。 ・靖王劉家:七選帝皇家筆頭。主に人格面での評価を行うと言われる。靖王劉家は皇家の中でもかなり人数が多かったため、常時多くの人物の近辺で活動していたと思われる。 ・周家:主に民政に関する評価を行っていた。後に七選帝皇家を離脱し、その民政の手腕は様々な皇家に伝承された。 ・郭家:皇帝をはじめ、その役職にふさわしくない者が地位を得ている時に弾劾する役を担う。基本的に減点方式による評価であると言われる。統計学の祖。 ・呂家:食についての評価を行う。呂家の人間には料理の腕が重視されるが、評価自体は健康的な食事を摂っているかなど基本的な事項で、つくる事を要求されるわけではない。ちなみに質素すぎる食事も問題視されたらしい。 ・陸家:主に軍略に関しての評価を行っていたと言われる。皇帝ならずとも、皇家の人間であれば、孫子をはじめとする軍学の書は、当然にそらんじていることが要求された。 ・陳家:唯一金で評価が買える、と言われた選帝皇家。 ・小馬家:馬術及び武術に関する評価を行う。時代が下ると兵器に関する取り扱いもより重要となっていった。 ・鳳家:周家の離脱に伴い、七選帝皇家の一角に加わることとなった。主に人づきあいに関する調査をしていたと言われる。房事もこれに含まれ……(後略)』