「ととさま〜、ごほんよんでくださ〜い」 穏との間に授かった愛娘、陸延が絵本を胸でかかえてトテトテと歩み寄ってくる。 『蛙の子は蛙』の例の通り、娘は母に似て本が大好きだ。 幸いなるかな母親の持つ性癖は見受けられないが、それはまだ性の目覚めが無いからと 言えなくもなく、いつかその日が来るのかと戦々恐々としている父である。 娘が手渡してくる絵本には修繕の跡がいくつもあり、何度も何度も読み返した歴史が刻まれていた。 それを見るたびに一刀は申し訳ないような、可愛そうな思いにかられてしまう。 復興が進んできたとはいえ元来庶人からすれば本は高価なものである。 そしてそんな庶人が大枚を叩いてでも買い求めるのは専ら実用書や学問書の類。 絵本などは上流階級の子弟向けと言っても過言ではなく、庶人が手にするのは主にそのお古。 根本的に需要は乏しく、貴族などが作家に直接執筆依頼をすることでしかその種類は増えない。 そしてその費用は…お世辞にも安いとは言えない。 結果、本が大好きな大好きな、大切な娘は、何度も何度も繰り返し 同じ絵本を読むことになってしまっている。 膝の上で絵本を開き、きっと全部暗唱できるであろう内容を読み聞かせると、 陸延は父の顔をにこにこと見つめながら聞き入っているのだった。 「何とかならないものかな…」 夜、娘を寝かしつけた後、穏とそんな話になった。 「そうですねぇ〜…こればかりは自然に任せるほか無いかもしれません」 はふぅ、と溜息をつく妻。 「絵本は学問や実用書のような理論や法則などとは対極的な…  夢や空想、想像とか、そういったものに溢れていますよね?」 相槌を打って続きを促す。 「そういったものを書こうという人、書ける人が、そもそも少ないんですよ…  皆さん、生きるために必死ですから」 平和な世に、時々忘れてしまいそうになる。 戦が無くなり治安が良くなったとはいえ、夜盗や盗賊は未だ横行し、 天災や水害・疫病などで亡くなる人も少なくはない。 夢や希望を抱いたとして、それを育む土壌が、まだまだ固まってはいないのだ。 「…逆に」 だからこそ、と思うことを口にする。 「逆にさ、そういったものを書いて、広めれば、皆の生きる活力になったり…しないかな?」 「書くって…」 首をかしげた妻の目が驚きと共に見開く。 「だんな様が、ですか?」 「うん」 「え、え、ええ〜!?でもでも〜、一刀さん、本なんて書いたことあるんですか?」 驚いた拍子に話し方・呼び名がすっかり婚前に戻ってしまっている穏。 もちろん無い、というか学校の宿題で読書感想文を書いたくらいのものだ、が。 「こんな時のための『天の知識』じゃないか、って思うんだ」 真白な紙を前に筆を取り、かつて居た世界の事を思い出す。 フランチェスカに居た頃からより昔、幼少の頃を思いだす。 母に読み聞かされた絵本。 祖母から伝え聞かされた昔話。 テレビで、ラジオで、学校の図書館で、見聞きし読んだ民話、寓話、童話の数々。 数多の話のその中から、詳細な内容を思いだせるものを選び、 それを可能な限り忠実に形にしていった。 お世辞にも自分に表現力があるとは思わない。 ただただ、自分の記憶に残る物語を娘に理解できる言葉で書き綴っていった。 そうして政務の合間をぬって書き続け、半月をかけて、娘に贈る数冊の絵本が完成した。 目の前に積まれた真新しい絵本を見た陸延は、微笑んでいる父を見て、 絵本を手に取りたくてうずうずとしている母を見て、また本を見る。 一番上に積まれた絵本を手に取って胸に抱えると、父と母に向かって極上の笑顔を見せた。 娘の喜ぶ顔にそれまでの疲れも何もかもが癒されて、溜まっていた政務をバリバリとこなしたものの、 その反動でとてつもなく疲れた一刀は、寝床にもぐりこむと早々に寝息を立て始めた。 その夜、扉を叩く音で目を覚まし何者かと誰何すると、果たしてそれは穏であった。 夜這いだろうかと疲れた身体に鞭打って扉へ近寄ると、すすり泣くような声が聞こえる。 慌てて扉を開けると、そこには眉を八の字にして『遅くに申し訳ありません〜』とあやまる穏と、 母の裾を握って涙を堪えている陸延が居た。 「ど、どどざばー」 父の姿を認めた途端、ひしっ、とその身にすがり付き鼻をこすりつける陸延。 堪え切れなくなって流れ出した涙と鼻水と涎で服がべちょべちょになったが、娘の勢いに成す術もない。 「どどざば、がえっぢゃやだぁー」 「え、えっと?ど、どうしたんだ?いったい…」 寝起きの頭に何がどうしたのかわからず妻に助けを求めると、すっと何かを差し出された。 『かぐやひめ』 娘のために書いた絵本の一冊を見て、呼吸を数回。 ハッとして、慌てて娘をあやす。 「延、ととさまはどこにも行ったりしない。延とかかさまを置いてどこにも行ったりしないから」 「どどざばー」 聞こえていないのか、それともよほど錯乱しているのか、延はすがりつく手を緩めない。 「寝床でそれを読み聞かせていたんですが、かぐや姫さんが月へと帰っていったところで泣き出しまして〜」 と、自身も少し寂しそうな表情を見せながら、穏が説明をしてくれた。 嗚咽としゃくりを繰り返し、ようやく泣き止んだ延の背中をさすりながら、やさしくやさしく伝える。 『天の世界』に対する未練と名残が確かにあること。 自慢の妻たち娘達を天の世界の家族に、聖フランチェスカの学友、先輩後輩達に会わせたい思い。 その上で、自分がこの国に、この世界に一生涯在り続けたい思い。 ふと、言葉をさえぎる。 後ろから肩に腕を回され、背中にやわらかな二つの膨らみを感じる。 首筋に温かい雫が流れる感触。 「延、ととさまはどこにも行ったりしませんよ〜」 首を固定して自分の顔を見せないようにする妻であり母は、震えるような声で娘にそう言葉をかけたのだった。 翌日、一刀の寝台で一緒に夜を明かした穏と陸延を連れ立って食堂へ行くと、 食卓が何やら少々不機嫌そうな雰囲気を醸し出していた。 どうやら陸延の鳴き声に起きてきた皆が、昨夜の出来事の一部始終を部屋の外で聞いていた様子。 「絵本…延ばかり…」「父上…」「ずるいのじゃ」 「ごほん、ほしいのですっ」「おとしゃんー(涙目)」 珍しく非難の目を向けてくる孫登とその妹たち。 「私も、その…安心させて欲しいのだけれど」「切り落とすか…」「儂はお酒ちゃんで許してやってもよいぞ?」 「乳ですかっ、乳なのですかっ」「旦那様ー(涙目)」 珍しくも何ともなく非難の目を向けてくる蓮華と他の妻たち。 今日も孫呉は良い天気だなぁ。 窓の外を見やりながら茶碗の中身を口に含むと、俺はそんな現実逃避をしてみるのだった。