玄朝秘史  第三部 第四回  1.子宝千両  小さい歌声が保育室を柔らかに包む。  聞く者の心をゆったりとくつろがせるようなその歌声は、眠りの国にいる赤ん坊たちをも安心させるのか、三人の赤ん坊はぐずることもなくすやすやと眠っていた。  千年、阿喜、木犀の三人が寝る寝台の横で歌声を紡いでいるのは、小柄なかわいらしい女性。  彼女がかつて位人臣を極めた董卓であると聞いて、世の人の何人が信じるだろう。それほどまでに淡く儚い印象のある月だった。  衣擦れの音がして、月は振り返る。そこにいたのは、彼女と同じようなひらひらした服――『めいど』姿の親友、詠だった。 「詠ちゃん」  小声で呼びかけると、詠も足音を立てないようにしながら部屋に入ってくる。二人とも子供たちの安眠を邪魔する気はさらさらなかった。 「ごめんね、なかなか手伝えなくて。ようやく時間ができたから」  謝る詠に、月は柔らかに微笑んで首を振る。最近、詠が忙しくてなかなか『めいど』仕事を出来ていないのは事実だが、それは他に仕事があると言うことでもある。 「しかたないよ。それにご主人様のお手伝いって意味では私も詠ちゃんも同じだよ」 「まあ、そうかも。大小は?」 「冥琳さんにお乳もらってるよ」  部屋を見回して、その場にいない子供たちを指摘するが、二人は母親と一緒にいるらしい。 「そっか……。それで、あいつ、顔見せた?」  詠はさらに声を潜めて訊ねる。子供たちの父親のことだと理解して、月はさらに笑みを深くした。 「華琳さんに呼ばれてたから、そこに行く前にね」 「まったく、あいつったら……って、秋蘭ね」  苦り切った表情になった詠が、一転納得したような顔になる。しかし、それでも怒りのような感情があるらしく、口元はへの字のままだ。 「うん、多分そう。やっぱり本人の口から伝えさせてあげたいんだと思うよ」 「まあ、華琳はそう考えるでしょうね」  しかたないか、めでたいことだし、と肩をすくめた後で、彼女はまた顔をしかめる。 「それにしても」  かわいらしく寝息を立てている赤ん坊たちを見回して、彼女は大げさにため息を吐いてみせた。 「ちょっと子供作りすぎじゃないの。美以たちだって妊娠中なのよ」  憎々しげに言うその言葉に、月は一瞬呆気にとられ、次いでくすくすと笑みを漏らした。 「おかしい、詠ちゃん」 「え?」 「だって、詠ちゃん待望の曹魏の跡取りだよ?」 「あ……」  言われて気づいたのか、それとも焦点が最初からそんなところになかったことを見透かされていたのに気づいたか。詠の頬に朱が点る。 「秋蘭さんは夏侯の血筋。華琳さんと血の繋がりも深い。でしょう?」 「……うー。そうね。政権安定には一役買うわね」  赤くなった顔のまま詠は認めるものの、次いで腕をぶんぶんと振りだした。 「で、でも、それとこれとは別で!」 「そうだね、うん」  詠の慌てぶりに、月は素直に頷く。その視線が、『うにゅ』だとか『むあ』だとか呟いている赤ん坊たちに移る。  見つめる瞳はどこまでも優しい。そして、赤ん坊を見ている月と赤ん坊たちの両方を眺めている詠の瞳もまた穏やかな光に満ちていた。 「いつか私たちもご主人様の子供ほしいね」 「……たちって、ボクは……」 「ね、詠ちゃん」  否定しようとする詠に、月は笑いかける。  その言葉に詠がなんと返事したのか。  それは当の詠と月だけが知っている。  秋蘭から懐妊の報告を受けた北郷一刀は、ある意味いつも通り硬直していた。かなりの回数、自分の子が出来たことを知らされているはずなのだが、こればかりは彼は慣れることがないようだった。  それでも喜びの念を顔中に表している彼を見ていると、秋蘭は声など聞くまでもなく、なにか報われたような気持ちになってしまうのだった。 「まずはめでたい。よかったな、北郷」  姉である春蘭が、にこやかに近づいてくる。彼女は一刀の肩を抱くと、ぐい、と引き寄せて、謁見の間の真ん中、華琳の座す王座の正面に連れ出す。  いま集まっているのは曹魏の重臣であり、実際に重要な事項はいまいるだけの人数で決定されることも多いが、謁見の間自体は文武百官が居並ぶことも出来るほどの広さだ。その広い中で皆が並んでいるところから離れて、真ん中に連れてこられたことに不吉な予感しか抱けず、一刀は額に汗する。 「あ、ああ」  ようやく声を出せるようになった一刀はこくこくと頷いた。伯母となる予定の女性は頼もしげに彼の背中をばんばんと叩いた。 「で、だ」  きら、と春蘭の右目が光ったのを見て、彼は本能的にその腕から抜け出した。するりと彼女の腕をかいくぐった勢いそのままに駆け出す一刀。誰もいないほうに駆け出すと、予想通り、すぐ背後を大きな足音が追ってきた。 「なぜ逃げるーっ」  猛然と追いかけてくる春蘭を引き連れて、一刀は広い謁見の間を走り回る。直線の足の速さでは間違いなく負けるので、一刀は真っ直ぐ走るようなことはせず牽制や急激な加減速、曲線運動などを取り入れて、春蘭の腕から逃げ続ける。 「だって、明らかになにかしそうだろっ」  二人とも見事に秋蘭がいる地帯を避けているのは本能か意識しているのか。周りで見ている曹魏の重鎮たちは、追いかけっこをしていることよりも、そのことに呆れてしまう。  一方、当事者の一人であるはずの秋蘭は相変わらず笑みを浮かべているだけだった。 「その通りだ! 一発殴らせろー!」  振り向けば、鬼のような形相の魏軍最高位の将軍閣下が追ってくる。こんな状況、兵なら気絶してしまうだろうな、と一刀は大きく息を吐き出しながら、思わず苦笑する。 「なんで殴られるのかさっぱりわからない!」 「かわいい妹を孕ませた男は殴るーっ」  これで相手が春蘭でなければ、殴られるくらいは覚悟してもいいのだけどと思いながら、一刀は走る。彼とて肉親の情というのはわかる。しかし、それで骨を折ったりするのはごめんだ。 「華琳、た、たすけてっ」  最後の頼みの綱は、しかし、王座から不思議そうに彼を見返してきた。 「なんで? いつもみたいに斬るって言わないだけましじゃない」 「だから余計に怖いんだって! 本気じゃないか!」 「私はいつも本気だぁっ」 「うむ、さすがだ、姉者」  姉の言葉に手を打って笑う秋蘭。  しかし、この場面で秋蘭に助けを求めないあたりが、この男の面白いところよね、と華琳は思う。  一刀が肩で息をしはじめ、牽制まじりの動きをするのが減って真っ直ぐ走るのが増えてきたあたりで、彼女は声をかけた。 「二人ともそれくらいになさい。しつこいのは嫌いよ」 「わ、わかっ、た」  苦しそうにぜーはー言いながら、一刀が足を止める。そこに追いつきながら、春蘭が半泣きの顔で華琳を見上げてくる。 「うー、華琳さまぁ」 「だめ」  一言で切って捨てるのに、春蘭はうなだれて元の位置に戻る。乱暴に一刀を引っ張っていくことで、せめて腹立ちを紛らわせているというところか。 「さて、秋蘭の祝いは改めて行うとして、まずは仕事の話を終えてしまいましょう」 「孔融たちのおかげで予定が変わってしまいましたから、再確認は必要でしょうね」 「本来は皆、ここにいるはずじゃなかったわけだし」  魏の覇王の言葉を受けて、稟と桂花、二人の軍師が内容を補足する。 「ええ、変更された事柄もあるわ。一刀、あなたにも大事な役目があるのだからね」 「あ、ああ、わかってる」  用意のいい流琉に水を渡されて飲んでいた一刀が顔を上げて答える。彼にはたしかに大役があった。これから始まる北伐で一軍を任されているのだから。 「にーちゃんにはもうひとつ大事なことがあるぜ」  三軍師のうち、残った一人の頭の上にいた宝ャが言葉を発し、一刀と共に華琳が彼女に視線をやる。  風はその直視を受けて、いつもののほほんとした顔つきでのんびりと答えた。 「美以ちゃんたちがそろそろ子を産むのですよー」  2.南蛮大王を継ぐ者 「美以ちゃんが五人、トラちゃんが三人、ミケちゃんが六人、シャムちゃんが四人の、合計十八人ですねー」  産室内から現れた風は、彼女にしては珍しく簡素で動きやすい服装で、宝ャも乗せていなかった。預けていた稟から宝ャを受け取って頭の上のそれの位置を調整しなおしてから、彼女は、待っていた面々にそう告げた。  とはいえ、既に北伐が動き出しているため、参戦組で洛陽に残っているのは、この出産を待っていた一刀、華琳、風と、動物たちの世話をぎりぎりまでする予定のねねの四人だけだ。 「じゅ、じゅうはち……」  さすがにその数に圧倒される一刀。喜んでいいのか驚いていいのかよくわからないといった表情で顔が固まっていた。 「へぅ、いっぱい」 「大家族ー」  月と小蓮が思わず呟くが、その他の数名はあまりの多さに呆気にとられている。中でも双子を出産した経験のある冥琳はその人数を産むことを考えて、めまいがするような心持ちだった。 「男女比は、七対十一。そういえば、おにーさんには、初の男の子ですね。いきなりたくさんですけどー」 「あ、ああ。男の子もいるのか」  なんだかこの世界だと女の子ばっかり生まれるような気がしていたが、そりゃあ、いるよな、男の子、と一刀は妙なことを考えていた。  その後で、一気に皆からの祝福と歓声を受けて、にやにやとしまりのない笑みを浮かべ続ける一刀。風はそんな彼を見上げながら、柔らかな笑みと、ほんの少しの暗い表情を浮かべていた。  一段落したと見たところで、彼女は再び口を開く。 「ただ……」  明らかに語調が沈んでいるのを聞きつけ、皆の騒ぎが、潮が引くように収まっていく。 「いま言ったのは無事生まれた子の数です」  淡々と、風は続ける。 「トラちゃんの子が三人、シャムちゃんと美以ちゃんの子が一人ずつ、死産となりました」 「五人……」  長い沈黙の後、青ざめた顔で呟いたのは、その父となるはずだった男。 「わかっていると思いますが、これだけの数に抑えられたのは華侘さんや、産婆さんたちの尽力があります」  美以ちゃんたちががんばったのはもちろんなんですけど、と風は付け加える。 「ああ、そうだな。それに……」  彼は風の手を取ると、両手で包み込むようにする。 「風の力もだろ。ありがとう」  頭を下げる一刀。その頭がなかなか上がらないことに、言葉を差し挟む者などいなかった。 「……風はやりたいからやったまでですよー。さ、まずは美以ちゃんたちをねぎらってあげましょー」 「うん、そうだな」  ようやく上がった顔は、笑みに彩られてはいたが、そこに差す翳に、誰もが気づかずにはいられなかった。  大人数で入るのはまずかろう、ということでまずは華琳、一刀、稟の三人が産室に足を踏み入れる。ちょうど産婆たちがそれと入れ違いに立ち去っていくところだった。  その中にいた華侘が、一刀の横を通り過ぎようとするときに、ぽんと彼の肩を叩いた。二人の男は目線を交わし、強く頷き合って別れた。やるべき事を終えた華侘は外へ。これからすべきことがある一刀は内へ。  ずらりと並んだ簡易寝台には、何人かずつ赤ん坊が寝かされている。丁寧にくるまれたはずの赤ん坊たちは元気に手足を動かしているせいか、何人かは産着がはだけてしまっていた。  その寝台の間をちょこまかと動いて赤ん坊たちを構っているのは、母親たちの一人、南蛮大王の美以だ。ぴこぴこと楽しそうに頭の上の大きな耳が揺れている。  部屋の隅を見ると、他の三人の母親は揃って眠っていた。ミケ、トラ、シャムの三人は疲れ切ってしまったようだ。 「おー、兄。兄と美以の子にゃ! かわいいにゃー」  一刀たちの入室に気づいた美以が一人の子を抱き上げて、とてとてと走り寄ってくる。柔らかな肉球に挟まれた赤ん坊はむずがゆいのか、まるで猫が顔を洗うように手を動かしていた。 「ああ、かわいいなあ」  でれっと笑み崩れる一刀。彼は美以に案内されるまま、寝台へと近づいていく。他の者たちはそれをほほえましく眺めていた。  寝台に寝ている赤ん坊たちを一人一人持ち上げてはもうどうしようもないくらい表情をゆるませていた一刀だったが、くるんでいた布がはがれかけている子を何人かなおしてやったところでなにかに気づいたように首を傾げた。 「なあ……ここにいるの、全部美以の子?」 「んにゃ? ええと、この子はトラの子にゃ、こっちはミケの子」  美以が一刀の横に立って子供たちを抱き上げて確認する。どうも抱くと自分の子供かどうかわかるらしい。 「母親ってすごいのね」  さっぱり見分けのつかない華琳は感心しきりだ。 「いえ、普通の母親はこんなに産まないですが……」  稟も実を言うと見分けがつかないので、微妙な表情。 「でも、その……」  一刀は一人を持ち上げて、そのつるんとしたお尻を前にしてみせる。そこには、小さいながらも明らかな突起――しっぽがあった。 「みんな、耳としっぽがあるんだけど」  耳はともかくとして、しっぽは美以以外の子にはなかったはずだ、と一刀は記憶を確認する。指摘してはいけないだろうと思って黙っているが、耳も美以以外はかぶり物だろうと彼は了解している。なにしろ、人間耳があることだし。  しかし、そこにいる赤ん坊は皆、しっぽを持ち、耳も頭部に大きくせり出した猫の耳の形をしていた。 「赤ん坊の頃は、みんな大きな耳としっぽがついてるにゃ」  そこで美以は自分のしっぽと耳を大きく動かしてみせる。 「でも、しばらくすると、たいていはしっぽも耳も消えてくにゃ」 「……へぇ……」 「その中で、立派な耳としっぽをずっと持ってるみぃみたいなのが、大王になるにゃ」  えっへんと胸を張る南蛮大王。その胸は授乳のために大きくなっているはずなのだが、それでもなお小さい。あれで大丈夫なのだろうか、と自身も乳の出が悪くて悩んでいる稟は心配してしまう。 「……わかりやすくていいわね」  華琳が純粋に感心したような顔で言う。彼女にしてみれば、天命が見える形で現れるというのは理想の姿なのかもしれなかった。  一刀は、子供たちの小さなしっぽと耳をいじりながら、もしかしたら、南蛮のみんながかぶり物をしているのは、子供の頃のことを懐かしんでのことなのかもしれないなあ、などと考えていた。  そのうち泣き出す子供が出てくると、ミケたちも起き出して、それぞれの子供の面倒を見始める。赤ん坊の泣き声に反応したのか母乳が出てきたらしい稟も、美以たちに断って幾人かに乳を与えている。  妊娠状態でも他の母親たちに甘えていた四人がそれなりに母親らしいことをしているのを見ると、やはり母というのはすごいものなのだ、と華琳は感心するのだった。  一方で父親の一刀の方は、泣き出した子を抱えてわたわたしていたりするのだが。 「ところで、死産の子たちですが」  胸をしまい、何かを振り払うように首を振って、稟が立ち上がる。 「南蛮ではどうするんでしょうか? おそらく風習が異なるので、そちらに合わせる方がいいかと思いますが。どうですか、一刀殿」 「あ、ああ。そうだな。俺はそれでいいよ」  一刀は美以の抱いていた子をトラに任せ、美以に南蛮での弔い方を訊ねる。 「んー、おっきくなって死んだら、お墓に埋めるんにゃけど、小さい頃に死んだら、竈の近くに埋めるんだじょ」 「竈?」 「そうすると、火の神しゃまが天に連れて行ってくれるにゃ。次に、水の神しゃまが雨にしてくれて、また帰ってくるにゃ」  美以は手を大きく開き、次いで、下に降りてくる手振りをして説明してみせる。 「帰って来た子は、季節の神しゃまが、またおなかに入れてくれるんにゃ」  両手を丸出しのおなかに重ね、美以は頭を下げる。  そして、上がった顔は満面の笑みに彩られていた。その太陽のような明るさに、一刀は何かに気づいたような顔つきになる。 「……城の竈の側に埋めるというのは難しいですね」 「社を建てましょう。そうね、美羽の養蜂場のあたりにでも。そこで火を絶やさずにいれば、代わりになるんじゃない?」  稟が言うのに、華琳は少し考えて案を出す。彼女が言えば、それはもう決定も同然だ。 「んー、それでもいいかにゃ。南蛮まで連れてくのは大変だし、兄もこっちにいるしにゃ」  美以が頷いて、トラたちにも確認して本決まりとなった。 「ありがとう、華琳」  一刀が深く頭を下げるのに、華琳は一言、うんと答えたきりだった。  3.月に吼える  深更、彼は庭に出て、酒杯を傾けていた。  天には満月。  降り注ぐ月光は、彼が携えた灯火などなくとも、あたりを十分に明るく見せていた。  彼が胡床を置く傍らには黄白色の馬体がよりそうようにしている。  その馬首が上がり、恫喝するようないななきが漏れ出る。  一刀は愛馬が睨みつけている方向を見やり、笑みを浮かべた。 「ああ、大丈夫だ、黄龍」  言われた途端、黄龍のうなりは止まり、その人影から興味を失ったように、一刀の肩口に鼻面をこすりつける。  一方、小さな影は、少し怯えたように近寄ってこない。一刀は黄龍の頭を優しく叩くと、 「俺は彼女と話があるから、戻っておいで」  と言いつけた。黄龍はしばらく彼のことをその大きな瞳で見つめていたが、不意に体を返し、立ち去っていった。 「ずいぶん聞き分けのいい馬ですね。あれで厩まで?」  黄龍がいなくなってから横に寄ってきたのは、明るい色の髪留めで止めて、かわいらしくおでこを出したちびっこ軍師。小さな体に快活さを秘めている音々音だ。この夏の夜に寒いわけもないだろうが、今日は上着の前を止めているせいで、ほとんど黒ずくめだ。 「ああ、聞き分けというか、頭がいいんだ。前に心配でついていって見たけど、ちゃんと厩に戻ってるよ」 「ふぅん。まあ、たまにそういうのがいますよね」  ねねの視線が小さくなっていく黄龍の姿から、己の酒杯に向いたことに気づいた一刀は、苦笑しながら杯を持ち上げる。 「ほんとは酒なんか飲んじゃいけないんだろうけどなあ」  ねねはその大きな瞳を月光に輝かせながらしばらく黙っていたが、ふと思い出したとでも言うように彼の横の地べたに座り込んだ。そうすると、彼女の被った帽子がちょうど一刀の腹あたりに来る。 「知っていますか? 孔子の信奉者たちが言うところに従えば、親の喪にある者は、体の調子が悪くても薬を飲むことも許されないのですよ。しかも、親が死ねば三年はそうしろという始末」  ふん、と鼻を鳴らして彼女は地面の草をむしり取る。 「ねねは、そんなのを前にしたら、阿呆かと言いますけどね」  はは、と一刀は小さく笑う。 「逆に子は、極論すれば、いつでも作れると考えられていますね。服喪しないということではないですが」  さらりと言ってのけるねねの言葉に、一刀の表情が凍り付く。 「この世界は、お前のいた天の国とは違うですよ」  たたみかけるように音々音は呟く。その視線は一刀を捉えていない。ただ、庭に降り注ぐ月光を見ているように思えた。 「死はすぐ側にあるですよ。正直、双子でさえ無事生まれるのは稀だったりしますからね。それ以上に、どれだけの子が育つものか。庶人出身の者たちに聞けば、妹や弟や、姪や甥や、いくらでも亡くしていることがわかりますよ。まあ、王宮に住んでいるような人間たちはまた別ですけれど」  どこか茫漠とした空間へ視線を漂わせていた彼女は、彼の方を見上げて、小さく息を吐く。 「……と通り一遍の慰めはおいといて」 「え?」  あまりの驚きに、それまで固まっていた一刀が息を吹き返す。まじまじと凝視してくるその視線を、音々音は真っ向から受け止める。琥珀色の瞳は、彼の驚愕と疑問を全て受け流して、その顔は、ただきまじめな表情を浮かべている。 「どうせお前も、さっき言ったようなことは、頭ではわかっているはずですよ。無事に生まれた子たちのことも嬉しいと思っているでしょう。それでも、心のうちで、亡くした子を悼まずにはいられない。違いますか?」  一刀はその問いを軽く流してはいけない気がした。だから、頷くしかない。ごまかしも、虚飾も許されないのだから、ただ、自分の思うままを告げるしかない。 「違わない」 「そして、死んだ子のことを思うと、生まれた子を喜ぶ事も申し訳なくなってしまう。自分で自分を責めている。そんなところではないのですか?」 「……そうかもしれない」  ふん。  音々音は予想通りだ、という風に鼻を鳴らしてみせる。 「だったら、泣けばいいのですよ。そうして涙を見せずに泣くなんてことせずに、わんわんと声をあげて泣けばいいですよ。それこそ、小さい時のように」  彼女は立ち上がり、一刀の正面に回る。そうすると、座った彼が、今度は彼女を見上げることになる。 「そう、顔を上げるほうがましです。そんな、何もかも背負ったような顔で、うつむいていないで」  ま、そうは言っても、と彼女は肩をすくめる。 「お前の女たちの前で、他の女の生まれなかった子のことで泣くなんて、お前には出来ないでしょうからね。ねねの前で無様に思うさま泣きわめくことを、このねねが許してやるですよ」  思い切り胸を張る音々音。その姿があまりにもかわいらしくて、けれど、あまりに大きく感じられて、彼は笑みを浮かべるしかない。 「は、はは……」  笑い声と共に、既に涙がこぼれているのを、彼は気づいていたろうか。頬を熱い熱い雫が流れ落ちていくのを、気づいていたろうか。 「ねねはいいやつだなあ」  言いながら、わしわしと彼女の帽子越しに頭をなでる。 「わぷっ。やめるです」  帽子がずれて視界が奪われて、ねねはその腕に掴まるようにして止めさせる。まるで彼女の小さな両の掌に支えられたかのように、彼は立ち上がり、天を仰いだ。  そうして、彼は吼える。  言葉にならない言葉を。  天地をどよめかす叫びを。  彼の人が哭す声は、いつしかすすり泣きに変わる。そして、崩れ落ち、うずくまる影に小さい影が重なって、さらにその声は小さくなっていく。  その様子を少し離れた物陰から窺っていた人影が、建物の内へ戻ろうと振り返った時に、その声はかかった。 「お互い機を逸したわね」 「あら、いたの。雪蓮」  声をかけたのは、白い仮面に顔貌を隠した長身の女性。答えるのは、丸まった金髪の美しい小柄な女性。  別の物陰から出てきた雪蓮を、華琳は面白そうに眺めていた。 「あなたが気づかないわけないくせに。私たちが牽制している間に、まさかちびっこ軍師に持って行かれるとはね」  二人はそのまま並ぶと、音も立てず廊下を歩き始める。会話もどんな発声をしているのか、お互い以外には届かず、消えていく。 「まあ、あれでよかったのかもしれないわ。いえ、もちろん私やあなた、それに隠れていた他の幾人かの誰でもよかったのでしょうけれど。それでも、ね」  その言葉に、白い仮面はしばらく考えていたようだったが、結局同意の頷きを返した。 「それもそうね」  そうして、雪蓮は自身の口元で、くい、と存在しない酒杯を傾ける仕草をしてみせる。 「つきあう?」 「ええ。でも、ほどほどにね」 「はいはい」  そうして、二人は宮殿の闇へと消えていくのだった。  4.はじまり  その日の出陣の儀はずいぶんおとなしいものだったと言えよう。  魏の王にして漢の丞相曹孟徳が洛陽を発つというのに、ものものしい鳴り物も見送りもなかった。ただ、宮城の庭で戦勝を祈願したくらいだ。  それというのも、本隊は既に北方にあり、出陣するのが彼女自身の親衛隊と、北郷の旗本、母衣衆だけだからだ。その数は合わせても二千ほど。この曹魏の主たちの出陣としてはあまりにわずかだ。  それでも、見る者が見れば、そこに錚々たる顔ぶれが並んでいることに気づくだろう。  秋蘭、紫苑、桔梗、小蓮、そして、三つのメイド姿、月に雪蓮、冥琳。  彼女たちが作る列の前に一刀たちは進んでいく。 「シャオも参加したかったなー」  周々を横に侍らせたシャオが唇をとがらせる。冥琳が苦言を呈しようとしたのか、沓を開きかけて閉じるのを見て、一刀は代わりに言ってやった。 「はは。呉は今回はしかたないよ」 「シャオね、もう虎も狩れるよ」  小蓮もわかっているのかいないのか、その話題に固執しない。代わりに自分の武技の冴えを、胸を張って告げた。複雑に結った髪が、柔らかに揺れる。 「そりゃすごい。でも、あんまり無茶はしてくれるなよ。まあ、周々がいるんだから大丈夫だとは思うけど」  じゃれつくように手を伸ばしてきた周々の大きな肉球をぷにぷに突っつきながら一刀は笑って答える。俺の世界でもそういえば、孫権が虎狩りに頻繁に行くので部下が危ないと止めるとかいう話があったような、と彼は思い出したりしている。 「雪蓮はごめんな。こっちに来てすぐなのに仕事頼んじゃって」 「そんなことないわよー。洗濯にも飽きてきたしさー」 「まあ……無茶はしないよう、きちんと言い含めておく」  姉たちの方へ話を振ると、隣の冥琳がいつもながら苦笑を浮かべて引き取った。 「よろしく頼むよ。みんなの世話、大変だろうけど……」 「昔より面倒を見る子が増えただけのことだ」 「なによ、それー」  ぶーたれる雪蓮にひとしきり笑い、彼は、再び一時の別れの挨拶を続けるのだった。 「どうなるかしらね」  そんな一刀と華琳、そして、風やねねの旅立ちの様子を、窓から眺めているのは、桂花。彼女は華琳の見送りには参加したかったものの、戦勝祈念などにつきあっている暇がなく、しかたなく仕事をしながら彼らを眺めるはめになった。 「北伐が?」  同じ理由で、少し離れた卓で書き物をしていた稟が顔を上げる。 「色々よ。他のことも含めて」 「どうでしょう。もちろん、勝利は疑いありません。そのように我らが準備したのですから。しかし、どのような勝利であるか、それをいま計るのは至難の業でしょう」  稟は筆を置くと、自身も窓から皆の姿を見下ろす。個別の出立の辞は昨晩のうちに伝えているが、やはり目が追ってしまう。 「郭嘉がそう言うなら、そうなのかもしれないわね」 「ですが、北伐はともかく……。それから波及する出来事、そして、南の動きはある程度考えねばなりますまい。北を見据えつつ、南を窺う。なかなかに忙しい」 「いつものことじゃない」  苦笑を漏らし、栗毛の髪を一振りしてから仕事に戻る稟に、猫耳頭巾の桂花は皮肉げな顔をして答える。その後で、彼女は机の上の竹簡を取り出して、何事か調べ始めた。 「呉と蜀、か。あの莫迦がなにか言ってきてたわね?」 「荊州ですね。華琳様が一刀殿に一任なされたとか」 「あれに、ね」  目当ての場所を見つけたか、目をとめた桂花が、竹簡に書かれた文字をぱちんと指で弾く。そこにあるのは、いま話題に出ている人物――北郷一刀の名だ。 「なにしろ、大鴻臚ですから」  漢の大鴻臚。常設では三公に次ぐ九卿の一つにして、諸侯の印綬を授ける外交の要。たしかにその官位を持つのならば、呉と蜀の領有問題を解決するにふさわしい。  だが――。 「その重さをわかっているのかしら」  桂花は竹簡をまとめなおし、別の書類を引き寄せながら、怒ったように言った。淡い色の髪がぱさりと顔にかかって、うっとうしげに掻き上げる。 「まさか」  それに対する稟の答えは明快だ。彼女は眼鏡を押し上げながら、淡い笑みを浮かべている。 「あの方が、そんなことに頓着するはずがない」 「けれど、それでも……」 「一刀殿に任された以上、何かを成せば、それは彼の選択、彼の決断となる」  しばらく、沈黙が落ちる。桂花は小刀を取り出すと、竹簡の表面を削り始めた。書き損じたか、あるいはもう読み終えて処分するつもりなのだろう。竹簡は厚みがあるため、何度もこうして再利用できるのが利点だ。ただし、重く、かさばり、ばらけると元に戻すのが大変という難点もある。  しばらく、部屋は彼女が竹を削る音だけに包まれた。 「……まあ、そんな表の話ばかりじゃない、私たちが考えるべきは、その裏の裏」  再び開かれた桂花の口から出る言葉に、稟は強く頷く。 「ええ、諸葛亮に陸遜、いずれも面白い手を打ってくるもので。いえ、もしかしたら、この癖は呂蒙かもしれませんが。詳しい報告は……」  そうして、二人の知謀の士は複雑な国家情勢の渦の中で己の職分を果たすため、検討と議論を続けるのであった。  5.母衣衆  さかのぼること約一年前。北伐の計画が密かに始動し始めた頃、魏軍において一つの部隊の募集がなされた。  名は母衣衆。かつて北郷一刀が語った天の国の軍事組織からつけられた名である。  もちろん、この世界に母衣などという装備を知る者はいないため、募集の際の書簡には吹き流しのような長い布を肩につけた騎馬の図が常に添えられていた。背後からの流れ矢を避け、戦場での伝令役として目立つようにも考えられた装備である。  任務は伝令及び強行偵察、さらに本陣に於いては軍楽隊を兼ねる、とされていた。当初の募集では、将軍につくというよりは、大規模な軍集団の中で本陣に所属するものと説明された。  募集条件は以下の通り。  一つ、馬に乗れること。  一つ、魏軍において五年以上の兵役を務めていること。  ただし兵役経験については、以下の条件をもって代えることが出来るとされた。  軍の指定する等級の軍馬を購うか所有していること、太鼓を叩けること。  最初の二つの条件を見れば、明らかな精鋭騎兵の集団である。しかも、本陣の伝令役ともなれば、本来は接することなど適わない高位の将軍たちと――軍令を介してではあるが――接触できる。自分の働き次第では、将軍たちに目をかけてもらえる可能性がないではない。少なくとも、ただの部隊よりは出世の糸口があるのは確実だ。  戦のなくなった現在、戦功をたてるあてもなく――己に足りないのは実力ではなく、それを示す場であると考えて――燻っていた一部の兵たちにとって、これは魅力的なものに思えた。  また、先の三国動乱においては幼かったためや時機を逸して参陣が間に合わなかった有力家門の子弟たちも、これを一つの登竜門と見た。兵役を務めていなくとも、馬や楽器の技術で重要部隊に配置され得るのだ。群雄が割拠していた数年前と比べると栄達の道がごく限られている現状、彼らにとって金を渋る理由などなにもなかった。  そうして、千人の募集に千五百人が集まることとなる。  軍は彼らを鷹揚に受け入れた。  だが、彼らが知り得なかったことが一つある。  この部隊は、北伐が実現しなかった場合でも、部隊を持っていない北郷一刀の直属軍として配することが上層部により決定されていたことだ。  これに伴い、軍の教練全体を司る沙和をはじめとした、訓練を担当する面々の気合いの入れようが違ってくる。特に計画を聞いた凪は自らつきっきりの教練を志願したくらいだ。さすがに郷士軍の仕事があるのでこれは却下されたが。  最初の一月は、既に教練の第一線からは退いて教官育成に努めているはずの沙和が直々に彼らを訓練した。 「お前たちの中には、魏の兵として、立派に戦場で戦った者もいるのー。でも、この私の前に戻ってきたからには、全て平等に意味のない糞虫なのー!」 「そこの兵ーっ。あれだけ直々に鍛えてやったのに、なんで戻ってきたの! 夏侯惇将軍がそんなに気に入らなかったの? 私はお前のために将軍に土下座しなければいけないんですかー? ええっ、早く答えるの、この豚娘!」 「私がこの世でただ一つ我慢できないのは――紐を閉じ忘れた糧食袋なのーっ」 「この剣の毀れはなんなの? 死ぬの? 私のせいで死ぬつもりなの? 迷惑かけずにさっさと死ね! 竜のケツにド頭(たま)つっこんでおっ死ねなの!」 「五胡の手先のおふぇら豚め! ぶっ殺されたいかー!?」  信じられないくらい可憐な声による罵倒と、徹底的に厳しい軍規の適用は健在であった。彼女は細かい軍規違反を取り上げては全てを罰し、扱き下ろし、練兵場を走らせた。  兵たちは彼女の言葉に全て従うことを学び、一糸乱れぬ行動を心がけた。  ただ、中にはそれについて行けず、不手際が多いために沙和の目の敵にされ、毎度それに巻き込まれる仲間たちでよってたかって私刑にかけられ、翌日から愛用の剣に話しかけるようになった隊員もいたりした。  だが、南蛮大使として沙和が選ばれたことによって、ひとまず伝説の『罵倒調練』は終わりを告げる。  この時点で残っていたのは千二百人。  南蛮に旅立った沙和に代わって、郷士軍のとりまとめで忙しいはずの凪が次に訓練を担当することとなる。凪の度重なる上申に根負けした華琳が、郷士軍と両立できるならば、と許可したのだ。 「本日より、于将軍に代わり、お前たちの教官となる楽進だ。本来ならば、軍というものがいかなるものかをその身にたたき込むところだが、お前たちの場合は話が違う」  彼女は言葉を切ってぐるりと隊員たちを見渡す。 「お前たちの任務は隊長を護ることだ」  もちろん、隊員たちは、彼女の発している『隊長』という言葉が特別な個人を指していることなど知るよしもない。 「そのために必要なのは、なにがあろうと生き残ること。一人の惰弱が、全軍の瓦解に繋がる。お前たちには死ぬことは許されない。故に、少々厳しい手を使う」  そう言って彼女は千二百人の前で構えを取る。その剣呑さに全隊員が恐れおののいたが、一体なにが起きるのかわからず、戸惑うばかり。 「一つだけ忠告してやる」  腰だめに構えた拳に、大量の氣が集まっていることなど、武将との接点もない隊員たちにわかるわけもない。それでも何割かの勘のいい者が、じりじりと彼女から距離を取ろうとしていたが、たたき込まれた軍規と本能の警告の板挟みで、あまり派手な動きとはならなかった。 「避けろ」  轟っ。  氣弾がまとめて何発も放たれる。  隊員たちは宙を舞うということがどういうことか学んだ。  さらに、座学も並行して行われる。これを担当したのは稟だった。 「伝令と偵察が主任務である以上、各種の陣形、それの派生、また、それらの各陣形に移行する際の部隊の機動を覚えてもらわねばなりません。各国共通のもの、それぞれの国で固有のもの、現在はあまり使われていないものの古典にあるもの。ありえる陣形と派生を全て覚えてもらいます。手始めに、明日までにいまから説明する陣形二十八種を暗記してくること」  彼女は講義中に眠ってしまったり集中できなかったりする者を責めることはけしてなかった。ただ、提出された課題が満足行くものでないと、何回でも何十回でも再提出を命じるだけだった。  この凪と稟による訓練期間に、隊員は七百人にまで減った。  年が明けて、北伐の準備が本格化したこともあり、訓練は烏桓討伐から帰って来た猪々子と斗詩によって引き継がれる。 「あー、お前ら、今日は突撃三十回なー」  猪々子によって騎馬突撃を幾度となく繰り返させられた後には、 「はーい、突撃訓練お疲れ様でしたー。みなさん大変ですよねー。でも、それをなんとか楽にするためにはどうしたらいいでしょう? そうです、体力を養うんです! はい、まず、その場で壕を掘りましょう!」  斗詩による本陣設営や、狭い建物内での戦闘訓練などの地味だが苦しい作業が待っている。  ここまでの訓練をくぐり抜けてきた兵たちですら、この連続でぼろぼろになってしまった。あまりの体力の限界にもうろうとしてきても号令をかけられれば動く、彼らはそれくらいになっていた。  だが、教えている将軍たちの方が彼らのやっていることの数倍を軽々とやってのけているのだから、誰にも文句は言えない。  ある日、一刀のための軍だということを聞きつけた麗羽が人数分の鎧を新調した。華琳が止めたため、麗羽の使いたかった黄金色は使われず、装飾は多少華美ながらも軍における通常の鎧の範疇に入っていた。 「あなたたちに、我が君にふさわしい装いを用意してさしあげましたわ。よい働きを期待していますわ」  たしかにそれはこれまでつけていた鎧よりも硬く軽く質のいいものであり、いいことずくめに思えた。  それを毎日綺麗に磨き上げることを命じられなければ。  おかげで、彼らはくたくたになった就寝前か、少しでも眠りをむさぼりたい早朝に時間を取って毎日毎日その鎧を磨くはめになった。  あまりのきつさに二百人が転属を願い出て、隊員は五百人を切る。  さらに、最後の仕上げとして、張遼隊との合同訓練が待っていた。 「あー、なんや。あんたら、色々あって自分たちのこと、精鋭と思てるかもしれんけど」  そう言って霞は不敵に笑う。 「ほんまもんの騎兵っちゅうのは、そう甘いもんやないで」  魏軍一の騎馬の達人に睨まれて、彼らは震え上がるほかなかった。  なお、楽隊としての分野は、黒い仮面をかぶった女性が最後の総仕上げを担当した。  一つでも調子を崩せば、それを叩いた者に的確に短い鞭の一撃が飛び、少し拍子を速めただけで、血を凍らせるような凝視が飛んだ。  彼らはもちろん、その女性が、したたかに酔っていても音が一つはずれれば振り向くと言われ、世上でも『曲有誤 周郎顧』と囃歌になるほどの周公謹であることなどわかるわけもない。  こんなこともあり、最終的には部隊の数は三百をなんとか満たすほどになった。実に八割もの脱落者を出して、母衣衆は結成されたのだった。  当の北郷一刀はそれを知らない。  一人前の兵士となった彼らもそれを語ることはないだろう。  語るべきは己の働き。  護るべきは己の誇りより、部隊の将。  北伐左軍の本陣直衛部隊――三百騎の母衣衆はそんな兵たちで出来ていた。  6.故郷  北伐左軍の本陣は当初から前後の二つに分けられていた。羌、あるいは散在する小軍閥の性格を考えると、一度投降したとしても、その後に離反するおそれは高く、そのようなことがあってもすぐに対応できるよう、後備えとして後方にも前方で展開するものと同じだけの機能を持つ本陣を置くことにしたのだ。  このあたりは、涼州事情に詳しい詠や翠たちと、一刀の天の知識が絡み合い、さらには祭などの戦上手の意見が反映されて構築されたものだ。  前方と後方の本陣は約五十里の距離を保ち、お互いに何かあれば駆けつける手筈になっていた。この距離は半日以下で騎兵が駆けつけられることを考えてのことである。  後方の本陣が北伐右軍の補給部隊に支配地を引き継いだ後は、今度は前方の陣を追い抜いて、百里進む。つまり、前後を逆にして、再び五十里離れて陣取ることになるわけだ。  この二つの陣は、夏陣と冬陣と名付けられて、それぞれに将が所属していたが、大将である一刀と、その軍師である詠、音々音は常に前方に位置する陣にいることになっていた。  ただ、軍は一刀着任前にして、既に金城から二百里の位置まで攻略を進めていた。  これは一刀の着陣が遅れたこともあるが、それ以上に、拠点となる金城からほど近いところで、両陣の連携を試しておきたかった詠や翠の意向であった。  その前方司令部とも言うべき夏陣の陣中を、将軍たちが歩く。横でまとめた髪をぶんぶん振って元気よくあたりを見回しているのは蒲公英、その横をこちらは後ろでまとめた髪を揺るがしもせずに真っ直ぐ歩いているのは白蓮。そして、その二人に挟まれるように思慮深げにあたりを見回しているのは、つい先日参陣した詠だ。 「んー、なんというか……」 「どうした?」 「曹の旗が一つもないなー、って」  なるほど、と白蓮が頷いて、蒲公英の発想が面白かったのか小さく笑う。たしかに彼女の言う通り、曹魏の旗はありはしない。いまここにいる将の兵はともかく、全体とすれば魏の兵が大半だというのに。 「兵は魏、将は漢。国の縮図ね」  詠が面白くもなさそうに呟く。そのことに、蒲公英は首を傾げる。 「将は漢……ってのもねえ。実際は北郷、じゃないの? 一刀兄様の軍でしょ?」 「言いにくいことずばりと言うなあ」  これにも苦笑を浮かべて白蓮は流してしまう。陣中で語り合うことではないことを、彼女はよく把握していた。だが、それを一番把握しているはずの詠の制止がないのを疑問にも思う。  白蓮が見やると、彼女は陣中の兵たちや馬、輜重の様子より、遥か遠く陣の外の風景を見ているように思えた。 「詠?」 「なにか探し物? 一刀兄様なら、まだ来てないよ?」  詠は一刀や音々音に先行して洛陽を発つこと五日ほど。さらに詠の馬の腕と、一刀が母衣衆を引き連れての進軍だということを考えると、七日から十日の差がついていると見ていい。 「莫迦、違うわよ。ただ……このあたり、ボクの本籍だから」 「ああ……懐かしの地か。そうか、涼州の出だったな」 「ううん」  珍しく意識を散漫にしていたことに納得する白蓮の言葉に、しかし、詠は首を振った。 「たしかに涼州出身だけど、本籍とは言え、ボク自身にはほとんど記憶はないの。物心ついた頃には隴西の月のところにいたから」  それでも、そう語る詠はなにか懐かしむような顔をしている。その穏やかな横顔を見て、白蓮はそう思った。 「ただ、そうかあ、と思って。少なくともお父様やお母様、それにお爺さまやお婆さまはずっと前からここにいたんだなってね」 「まあ、そういうこともあるな。私も先祖が……」  と白蓮が話を始めようとしたところで、彼女たちを探していたらしき伝令が声をかけてきた。 「顔将軍が将軍方をお呼びです。斥候が戻ったと」 「了解、すぐに行くわ」  答えて、早足で歩き出す詠と蒲公英。足を止め、話を始めようと身構えていた白蓮はそれに出遅れた。 「あー、えっと……」  言葉の接ぎ穂を探しているうちに、二つの小さな背中は遠ざかっていく。彼女は慌てて足に力を込めた。 「しまらないなあ、ったく」  ぶつぶつと呟く声も誰にも拾ってもらえない白蓮であった。  本陣には、将軍たちが軍議をするための小屋があった。  小屋とはいっても移動も出来るよう、下面にはそりが備え付けられ、馬数頭で牽くようになっていた。車輪がつけられ馬車となっていないのは、車より単純な構造のため耐久性が高い上に、涼州の草地や泥地で足を取られにくいと考えてのことである。  だが、もう一つ莫迦らしいが実際的な理由もあった。馬を複数連ねた馬車は、儀礼上、諸侯や皇族などにしか許されていないのだ。だが、馬そりなら文句もないというわけだ。  斥候の報告を元に先ほどまで軍議を行っていた小屋の中には、いまは詠しかいない。  この小屋は諸将が集まって軍議が行えるようになっているが、同時に本陣において、一刀と詠、ねねの三人の居室ともなっていた。その中でも実際に一番長くいるであろう人物は詠に他ならない。  ねねは恋についていなければならないこともあるし、軍師の片割れとして詠とは別の陣に赴かなければならないことも多いだろう。そして、大将は外で兵に顔を見せていないといけない局面も多いのだ。  自然、詠がその部屋の中で策を練る時間の割合が増えると予想されていた。  小屋の中は、ただの無垢な木材で作られた箱形という無骨な外見とは違い、快適な空間が作り上げられていた。天窓から差し込んだ陽光は、壁中に飾られた白い布のおかげで部屋中に柔らかに回り、長椅子には目は粗いが分厚い織物が敷かれて衝撃を緩和するよう考えられている。その敷物のおかげで、座り心地も上等なものだ。いまの時期はまだいいが、寒くなれば、これらの敷物や掛け布は、外の寒さを伝えず、内側の人の温もりを逃さない断熱材としても役立つだろう。  ただ、その敷物の合間合間には、なぜか大きめのぬいぐるみがいくつも転がっていて、それらは詠や一刀をはじめ北伐に参加する諸将の特徴をよく捉えていた。  船と同じく家具は全て作り付けで、部屋の中央には大きな円卓があり、そこには涼州の地図が広げられていた。いまは詠がその地図の上にかがみ込んでぶつぶつと呟いていた。 「こっちの軍閥は……ううん、翠よりボクが直に行く方がよさそうね」  いくつかの物事を書き出しては消し、また書きなおしていく詠。そんな彼女の背に、扉を叩く音が聞こえた。 「はーい?」 「ちょっといいかな?」  開いた扉から顔を覗かせたのは蒲公英。横に結わえられたしっぽが小さく揺れる。詠は招き入れると、座るよう促した。 「どうしたの?」 「んー」  彼女にしては珍しく歯切れが悪い。勧められた席にもなかなかつこうとしないのに、詠は不思議そうに小首を傾げる。 「詠に話があって」 「ボクに?」  ともかく座りなさいよ、と詠は半ば強引に蒲公英を座らせ、自分はその横に座った。二人の合間で、セキトによく似たぬいぐるみが揺れていた。 「あの……さ」  しばらく待っていると、ようやくのように口を開く蒲公英。 「詠は……ううん、月たちはずっと一刀兄様の下にいるつもり?」 「どういうこと?」  蒲公英の問いかけに、眼鏡の奥の目がすっと細まる。そのくせ表情はまるで変化せず、笑みをたたえたまま、彼女は問いに問いを重ねる。 「んっと、あのね。北伐が終わった後の話だけど、お姉様が西涼公になって、西涼が出来るでしょ?」 「ええ、そうね。あんたも公家の係累ってことになるわ」 「たんぽぽも含めて馬家の人間はさ、お姉様に従うことに決めてるし、まだまだ錦馬超の名前は通用するから、民もついてきてくれると思う。でも、その時、お姉様は誰を頼れるかな、って思うと……」  蒲公英は少し困ったような表情で、後を続けた。 「三国にはそれぞれ王を支えてくれる軍師たちがいるけど、西涼にはいないから……」  詠は彼女の言いたいことを理解して、目をむいた。それから腕を組んで、うーん、とうなりを上げてみせる。 「つまり、ボクたちに、翠に仕えろって?」 「そうなっちゃうのかな。でも、形はどうでもいいと思うよ。お姉様だって配下にするとかってのは嫌がりそうだし。ただ、故郷も近いことだし、涼州の未来に興味はあるんじゃない?」  詠はその問いに、否定の声を上げない。否定の表情を浮かべない。否定の仕草もしない。  ただ、彼女は天を仰ぐように顔を上向けた。 「……ボクが決められることじゃないのもわかるでしょ。月がうんと言わなきゃ」  上向けた顔で目をつぶったまま、彼女はそう言った。蒲公英はその様子を眺めて、からかうでもなく淡々と応じる。 「うん、だから考えておいて、っていうか、たんぽぽもお姉様に話してきたわけじゃないから。まだ可能性……でいいんだっけ。そういう話」  詠は顔を戻すと目を開き、真っ直ぐに蒲公英を見つめた。その深い琥珀の瞳と、それよりほんのわずか紫がかった瞳が正面から向き合う。  それから詠が一つ大きくため息を吐くと、その場の空気が見るからに弛緩した。 「あんたも大変ね」 「そうかな? まあ、蜀にいた頃よりは大変かな。焔耶をからかってる場合でもないし」 「あんたはともかく、翠に自覚を促す方が先だとボクは思うけど?」 「そうは言ってもねえ……」  蒲公英はきゃらきゃらと笑う。自分の従姉のことを、彼女は心から尊敬していたが、それでも不得手な分野があることもよく知っていた。  武勇ならば、錦馬超に間違いはない。  だが、それ以外は?  そもそも彼女がここにいることが、その答えを如実に表している。 「まあ、そのあたりも見極めた後ね」 「うん。そうだね」  それだけ言って、蒲公英は小屋を出て行く。  また一人に戻った部屋の中、詠は自分によく似たひときわ大きいぬいぐるみと、それとほぼ同じ大きさの真っ白に輝く服を着たぬいぐるみを持ってきて、まとめて抱きかかえると長椅子に座り込んだ。ぼふん、と椅子の上の織物が音を立てる。 「涼州……」  彼女はいままさにいる地の名を呟いた。  懐かしく思いながら、もうずっと遠く遠く感じていたその土地の名前を。 「故郷、か」  そう、いとおしむように。  7.北伐  秋の一日。  漢の丞相たる曹操は、傲然と配下の前に立っていた。  傍らには魏軍大将軍、夏侯惇。そして、魏の頭脳の一人、衛尉程c。  背後に控えるは、親衛隊長、許緒、典韋。  そして、居並ぶ兵は三十万。  百人の部隊が十並び、千人で方陣を組む。  その方陣が、百集まって、十万。  その十万が右、中央、左、と三つに分かれ、三十万。  彼らは固唾を呑んで主の声を待っていた。  武器を取った曹操は、歩み出でて声を上げる。前置きもなく彼女は言い放った。 「これは、天下を変える戦いである!」  夏侯惇の合図に、兵たちは一斉に武器を構える。三十万の槍の穂先が、陽光を反射して、あたりを銀の光の海へと沈める。 「天下の帰趨にあらず、天下の意味を変える戦いである。  天下とは、天の下、遥かに広がる地平のことである!  そこに、元々境はなかった。しかし、我らは中原と言い、華北と言い、その意味を遥かに矮小に貶め続けてきた!  なぜか!  我らに力がなかったからだ。この大陸、その全てを包み込む力なく、ただ、北方の騎馬の民の暴虐に震えるしかなかったからだ!  だが、いまは違う。  我ら魏は、袁家を滅ぼし、孫呉を倒し、蜀を呑み込んだ。  この威風を、我らは遥か先まで伝えなくてはならない!  いまこそ、我らは真の意味で、大陸の守護者たらん!」  絶が振られる。その動きに応じて、三十万の槍が動き、その石突きが、一斉に地を突いた。その鳴動が、砂塵を吹き払う。 「我が愛しき兵たちよ。いま、汝らが立つは過去。これまで築き上げた漢土であり、三国を制した魏の国土である。  なれど、明日立つ場所こそは未来。  新しき天の下、遥かなる地平の果てである。  長城は打ち壊せ。  砦など焼き払え。  我ら進む場所は、全て、我らの地となろう。  そして、我らの地に住む者は、漢人であろうと、昨日の敵であろうと、北の胡族であろうと、全て我が民である。  汝らは、その国土を守備し、その民を守れ。  我らは奪いに行くに非ず、これは、和合するための戦である!」  すう、と彼女は最後に大きく息を吸う。 「今日、この日をもって」  曹操はその鎌を天高く掲げた。兵たちがあげる雄叫びが、轟々と天地を揺らす。 「地に境はなく、人に別はなし! 天地の最涯てまで進軍せよ!」  この日、この時、この場所で。  後に大躍進の最初の一歩と称される、北伐がついに始まる。  8.荊州  北で動きが活発になっている頃、南でも大きな動きがあった。  北伐左軍の大将である北郷一刀が、北伐への出陣直前に、南の大州荊州の州牧に任じられた事が発表されたのだ。  これに伴い荊州牧の名で、彼の地を実質支配している蜀、呉の両国の代表が荊州の治所、襄陽へと招かれた。名目上の支配者たる州牧の下、荊州の領有問題の解決を図ることとなったのである。  その襄陽の城中を一人の女性が歩いて行く。常なら持つ青龍偃月刀を今日は儀礼用の剣のみに代えて、それでも胸を張って颯爽と歩くその人物こそ美髪公関雲長。今回の会談の蜀側代表、愛紗であった。  今回、蜀から送り込む人間として愛紗が選ばれたのは、押し出しの強い人物のほうがいいだろうという桃香の考えからだった。  これが論戦ならば朱里、雛里のほうがむいているのは確実だが、どちらにも言い分のある領土問題で大事なのは、相手を論破することではない。自国の主張をしっかりと論じることだ。桃香が皆との話し合いで論じたのはおおむねそんなところだった。もちろん、彼女なりの柔らかな言葉で、もっと長い話ではあったけれど。  愛紗も桃香の案に賛成した。蜀の軍師勢は優れた能力の持ち主たちだが、迫力には欠けるところがある。理論は彼女たちに考えてもらい、実際に発言するのは自分とするのが妥当なところだろう、と彼女自身考えていた。  そんなわけで愛紗はいまここにいるのだが、その彼女にはこのところ少し気にかかることがあった。 「桃香様は何を悩んでおられるのか」  孫策の葬儀から帰って来て以来、我らが主は物思いにふけることが増えた、と彼女は感じていた。  そして、何かある度に、色々と周りに聞いて回っているのだ。 「いや、あれは悩みか……?」  彼女は首をひねる。  間違いなく考えに沈んでいる時間は増えているように思う。しかし、それが何かを憂えているというのとは微妙に異なる気がするのだ。 「真面目に何事かを考えておられるようにも思える。そうだとすれば、喜ばしいことだ。しかし、悩みであるならば……」  悩みであれば、相談してもらえない自分たちが不甲斐ない。だが、主が物事を深く考えるようになっているのならば、それはめでたいことで、口を出すことではない。  なかなかに悩ましい事態であった。  だが、もしかしたら、こうして彼女を心配している自分のように、ぼんやりと形になっていないものなのかもしれないとも愛紗は思うのだった。  そう一人で考えているうちに、あらかじめ案内されていた会議場に着く。部屋に入ると、既に呉の代表、鋭い目つきに片眼鏡をかけた少女、亞莎は卓についていた。  軽く挨拶して、彼女も卓に座る。 「州牧側の者はまだ来ていないのか?」 「はい。我ら二人が揃った後に、と。あ、そこの方、知らせて来て下さいますか」  部屋を見回して訊ねた愛紗に、亞莎は茶を淹れてくれた侍女に言葉をかける。侍女は頭を下げると部屋を出て行った。 「誰が来るのか、知っているか?」 「いえ。一刀さ……北郷の配下の誰かだとは思いますが、大半が北伐に参加しているはずなので……」  亞莎は困ったように首を傾げる。彼女の言う通り、北郷一刀の下にいる者で名のある者は大半が北伐に参加している。たしか月が残っているはずだが、彼女は表には出てくるまいと愛紗は考えていた。  北郷か……。  彼女は北郷一刀とはほとんど接触したことがない。彼が成都に滞在した折も、挨拶は交わしたがそれ以上つっこんだ話はしなかった。彼につきまとう悪評を考えると、あまり愉快な男でもないだろうと決めつけていたのだ。  紫苑がしかけた決闘――あれは間違いなく模擬戦などという生ぬるいものではなかった――を見て、少しは見直したものの、その後の短い滞在期間に接する機会もなかった。なにより、あの当時は白馬義従が抜けて、蜀軍の再編を急がねばならかったこともあって、愛紗自身やるべきことが多すぎた。  いま考えれば、評判だけで判断するようなことをしてしまったのは、当時の彼女が白馬義従と白蓮の離脱に内心かなり焦っていたためなのだろう。いずれ、きちんとどのような男なのか確かめてみなければなるまいと思っていたが、それをする間もなく、こうして問題に対処するはめになってしまった。正直、愛紗は少々後悔していた。  とはいえ、いまはそれを悔やんでいる場合でもない、誰が来るにせよ……と覚悟を決めようとしたところで、そこに現れた人物の姿を見て、彼女はぽかんと口を開けた。  同じようにあんぐりと口を開け、さらには立ち上がってしまった亞莎の行動を気にも止めず颯爽と部屋に入ってきた女性は、豊かな胸とすらりとした手足をまるで猫科の肉食獣のごとくしなやかに動かして、部屋の中央に陣取る。まるで、そこを領土とする王のように。その様子は人の目を惹きつけずにはいない。  しかし、なによりも注目を集めるのは、その顔――わずかに窺える頬と口元からだけでも怜悧な印象を与え、さぞ美しいだろうと想像させるその顔を覆う真白き仮面だった。  鬼をかたどっているとおぼしきその面は二本の角も勇ましく、唖然とする二人に正対し、頭を下げる。  ああ、なんと堂々たる礼。  その礼は、礼節に完璧に則っている。しかし、その威厳は周囲を圧するもので、頭を下げられている二人、世にも名高き美髪公と、武と知の両方を制した呉の猛将を明らかに上回っていた。 「荊州牧、北郷一刀が名代、孫奉。以後お見知りおきを」 「しぇ……」  思わず口走った亞莎は上がった鬼面の奥から走った鋭い視線に、言葉を切って息を呑む。その上、彼女は視線に押されるようにして、音を立てて椅子に座り込んでしまった。  その騒々しさにはっと我に返った愛紗は顔を引き締め、白い鬼面を睨みつける。 「……この件にあなたをあてるとは、明らかな呉への肩入れではありませんか」  白い鬼面の女性は軽く肩をすくめると、なんでもないことのように答えた。 「おや、何をおっしゃっておられるのか、関将軍。以前、お目にかかったことでもありましたか?」  そこで態度を崩す白面の女性――孫奉こと、雪蓮。 「私は北郷一刀の部下。主の顔を潰さぬよう粉骨砕身してるっていうのに、たまたま呉の王家と姓が同じだからといって、ひいきと言われるは心外ね」 「……そういうことになさりたいならよろしかろう。せいぜい北郷殿の顔を潰されぬよう、ご配慮いただきたい」  ぎり、と強く歯を鳴らした後で苦々しげに言う裏で、愛紗は猛然と考えていた。  しかし、わからない。  なぜ、この場に雪蓮が?  死んだことにして自由な立場になったのはいい。だが、よりによってこの人物を荊州の領土問題にあててくる北郷、ひいては華琳の考えがわからない。  単純に呉に味方しているように見えるが、魏の覇王はそのあたり公正なはず。いや、冷徹と言っていい。このようなことをして呉を援護するくらいならば、もっと効果的で直接的な手段に出るはずだ。  ならば、北郷の差し金か。  ここは判断が難しい。しかし、もしそうだったとして、今度は雪蓮が受けるとは思えない。一方的に片方に有利な処置など、禍根を残す事が容易に予想できるからだ。呉を愛すればこそ、彼女は呉に極端に味方する事を肯んじまい。  そこで、愛紗はもう一度白面に隠された女性の顔を観察した。そして、彼女は気づく。  考えたくはないが。  この人物はこの状況を楽しんでいるらしい。  そうして、愛紗は小さくため息をつく。これは考えてもしかたのない場面であると認めざるを得ない。  こうなれば虚心坦懐に挑むしかあるまい。  愛紗はそう腹をくくった。 「では、両国の主張を聞きましょうか。どちらからでもどうぞ」  亞莎の方も驚愕から立ち直ったらしい。雪蓮が促して、彼女たちは順番にそれぞれの主張をはじめるのだった。 「あなたがたの主張はよくわかったわ。荊州の現状も改めて理解できた」  口頭による説明に加えて、双方の国から提出された書簡に目を通した後で、雪蓮は一区切りつけるようにそう言った。 「両者共付け加えることはない? 相手への反論も認められるけれど」  竹簡をじゃらりと音を立てて卓に置いて立ち上がりながら、彼女は問いかける。その問いに、亞莎は考える間を取ることもなく応じる。 「我が方は述べるべきことを述べましたので」  愛紗の方は、亞莎の答えも含めて少しだけ考えて、同じように答えた。 「蜀としても、十分に述べさせていただいた。もちろん、そちらに疑問があればお答えする」  雪蓮は満足そうにうんうんと頷き、その鬼の角が上下に揺れる。 「そ。じゃあ、荊州牧北郷一刀より与えられた権限において、裁定を下すわね」  亞莎と愛紗双方が待ち構えていると、彼女は格式張った口調で告げた。 「蜀、呉の両国は、荊州より三十日以内に全ての兵、官を退けること。以後、荊州は漢が直接統治する」 「なっ」 「ご冗談を!」  当然のように起きた驚きの声をものともせず、雪蓮は既に書簡をまとめ、帰り支度を始めている。 「冗談じゃないわよ? 三十日を超えて荊州の域内に兵や官、その駐屯所、砦等を置く場合、朝廷への大逆とみなし、実力で排除することになるわ」  それから面倒そうに手をひらひらと振ると、彼女は荷物を小脇に抱え上げた。 「では、解散」  その言葉に動こうとせず、いっそ憎しみと言えるような感情すら込めて凝視してきている二人を見返して、雪蓮は薄く笑う。 「解散、と申し上げましたが、関将軍、呂将軍?」  そのからかうような言葉に、ついに愛紗の我慢も限界を超えた。 「このような茶番、我々は断じて認めぬ!」  だんっ、と拳を打ち付けられた卓が、それだけでみしみしと軋みを上げる。そのような荒々しい行動はとらないまでも、袖で顔を半分隠し、探るような瞳で白面を見つめ続ける亞莎も否定の言葉を返した。 「呉もこれを呑むことは不可能です。あなた様がなんと言われようとも」 「ふーん」  一見つまらなさそうに、その実楽しくてたまらないとその表情で示しながら、彼女はそう呟く。 「ま、好きにして。三十日は待つ。私が言うべきことは以上よ」  そうして本当にそれだけ言って彼女は部屋を出て行ってしまう。そして、残されたのは疑念と焦燥に駆られる両国の重鎮二人だけ。  彼女たちは無言のまま目礼を交わすとそれぞれに急いで部屋を出て行く。  荊州問題が新しい局面に入ったことを、亞莎も愛紗も深く理解していた。      (玄朝秘史 第三部第四回 終/第五回に続く) 北郷朝五十皇家列伝 ○陸家の項 『陸家は陸遜にはじまる皇家である。初代陸遜は元々呉の四姓と言われた顧・陸・朱・張のうち陸氏の傍系に生まれたが、後に孫呉の重臣を経て、皇妃となった。  陸家は七選帝皇家の一つとなったが、主に軍略、兵法に関する知識についての評価を主としたと伝えられ……(中略)……  また、孫呉の重臣であった過去から、陸家には孫世家より呉孫子兵法の管理が託され、原本の保存はもちろん、数多くの写本が陸家監督の下作成された。この代々の使命と、七選帝皇家としての務めの関係であろう、陸家では各地の史書、兵法書をはじめとした書物を数多く蒐集、保管することも代々の家業となっていった。このため、書物の専門家として、宮中でもそれに類する役に……(中略)……  時代が下り、定帝の時代。陸家の血統に連なる者に、陸挙という人物がいた。彼は陸家の中ではそれほど主流の血筋ではなかったが武術に優れ、また家系の常として軍略にも明るかったせいか、出世して執金吾、つまりは宮中の警護の長にまで上り詰めた。  彼が執金吾を務める期間のある日、宮殿の書庫の一つから火が出た。  彼はこの時、まず書庫の消火に走るより、兵を集めることを優先した。宮中の動揺を警戒したとも、この機を狙って叛旗を翻すつもりだったとも、単純に慎重な性格だったために、避難の誘導と鎮火に足りる人手が集まるのを待ったとも言われる。  いずれにせよ、この行動のおかげで、書庫自体の消火活動が遅れ、貴重な史書の類がいくつか燃え尽きた。ただし、人々が炎に動揺する中に規律のとれた多数の兵を投入できたために、死傷者が出ることはなく、また、他の建物に被害が出ることもなかった。  これに対して時の帝は書庫が焼け、書物が焼けたことを嘆いたものの、陸挙が類焼を防いだ働きについては評価したと伝えられる。事実、陸挙はこの後も八年の間執金吾を続けていることから、密かに咎められるといったこともなかったのであろう。  ここまでは史書や様々な資料から事実と推定されている話であるが、さらに続きがある。  火災を鎮めたその晩に陸挙が眠りにつくと、枕頭に初代陸遜が立ったというのだ。一晩中、本を燃やしたことをさんざんになじられ、ぽかぽかと子供にするように頭を殴られた、と彼は知人に語り、大きなたんこぶが一つ出来ているのを見せたという。  この逸話は史書には記されていないが、当人の日記と、話を聞いた知人の甥がまとめた怪異録『古今志怪』に収録されていることから、知人に語ったというところまではどうも事実であるらしい。  果たして、本当に初代陸遜が夢に現れたのか、陸挙が消火作業の際にでもつくったこぶを使って周囲をからかったか。そのあたりは判然としないものの、そのようなことがあってもおかしくはないと思われるくらいに、陸家の書物への傾倒は世に知られ……(後略)』