いけいけぼくらの北郷帝  第三部 第三回   1.桃と蓮  北郷一刀が曹魏の王華琳の名代として建業に到着した夜。  蜀の王桃香は、義妹の鈴々と共に、王宮に与えられた一室で夕食を摂っていた。 「うーん」 「お姉ちゃん、どうしたのだ? 箸があまり進んでいないのだ」  つるつるぷるんという極上の食感を伝えてくる大ぶりの水餃子をいくつも頬張っていた鈴々が、一度全部呑み込んで訊ねてくる。桃香は普段から彼女ほど食べないにしても、今日は特に進んでいないようだった。  こんなに美味しいのにどうしたのだろう、と鈴々は疑問に思う。蜀の餃子と違って具に海産物が多いからだろうか。それとも、皮が米粉を使っているせいで少し感触が違うから? でも、具は美味しいし、もちっとした皮も噛み応えがあって面白いのに。ちょっと皮が汁にとろけやすいけど。 「なんで北郷さんなんだろう?」  だが、返って来た答えはそんなもので、鈴々は面食らってしまう。当の桃香はかわいらしい顔の額に縦皺を刻んで、なにか考え込んでいる。 「うにゃ? 華琳の代役で来たのが?」 「ううん、違うの。そうじゃなくて……」 「はっ」  鈴々は椅子を立ち、壁にたてかけてあった愛用の丈八蛇矛を手に取る。その武器が伝えてくる重みに、すっと背筋に走った不安感が消えていくのがわかる。 「どうしたの、鈴々ちゃん」 「し、霞が覗いてるかと思ったのだ!」 「そんな怯えなくとも……。それに別に悪口を言おうとしたわけじゃなくて……」  その途端、戸を叩く音がして、びくぅっと震える鈴々の体。さすがに桃香もびっくりしたらしく、言葉が途切れる。 「ち、違うのだ、鈴々達は!」  蛇矛を持っているのにそれを構えるでもなし、ただ棒のようにして床に立て、それに捕まって震えているという風情の鈴々は、名にし負う武将というよりも、年相応の少女にしか見えなかった。そして、それを見ている桃香は苦笑するしかない。  さすがに武将ほどではないが、桃香とてこの戦乱の世で生きてきた女性だ。張遼ほどの存在が殺気をまとって扉一枚隔てた場所にいればすぐわかる。鈴々だって本気で殺気でも感じればこのように震えているわけがない。とすると、鈴々のこの状態は冗談ではないが、本気でもないのだろう。本人が気づいているかはわからないが。 「あのー」  しばらくして、声がかかる。おそらく返事がないことに疑問を感じて、声を発したのだろう。その声に二人は聞き覚えがあった。 「明命ちゃん?」  とことこと扉に近寄って、鈴々が制止する間もなく開けてしまう桃香。 「すいません。蓮華様が、桃香さんがお忙しくなければ来ていただきたいと」  そこには長い黒髪を垂らした真面目そうな少女、周泰の姿があった。  桃香は義妹に食事は全部食べてしまっていいと言い置いて、明命と共に蓮華の部屋に向かった。見張りに立ちますから、と明命は扉の前に残り、一人、蓮華の執務室の扉をくぐった。 「ああ、来てくれたか。呼びつけてすまない」  書類に埋もれるようにして桃香より薄く明るい色調の髪が見えた。どうも、戸口からでは顔は積まれた竹簡で見えないらしい。 「ううん〜」  近づいていき、卓の正面に用意されていた椅子に座る。すると、竹簡の山の向こうにようやくこの国の王蓮華の顔が見えた。 「葬儀の式次第なのだが、華琳が来られないとなると、桃香に読んでもらう弔辞の順番がだな……」  じゃらじゃらと竹簡を広げてこちらに見せてくるのに桃香も覗き込み、そして、二人の王の打ち合わせが始まる。 「こんなところか。ありがとう、桃香」 「ううん。構わないよ」  せっかくだから私も一休みして茶を淹れよう、と蓮華が立ち上がる。服がひっかかり、竹簡の山が崩れそうになるのを、蓮華と桃香二人でとっさに押さえて、事なきを得る。  そんなこともありつつ淹れてもらったお茶を味わいながら、桃香は淹れるお茶の美味しさも良い国主の条件だったりするのかなあ、と華琳に淹れてもらったお茶の味を思い出してへこんでみたりもする。  実際には茶器や茶葉、湯を用意して部屋に置いているのは侍女の仕事なのだろうし、桃香もそれをやってもらっているが、そこから実際に茶を出すまでの行為にはどうしても経験や知識、手際の良さといったことで差が出てくる。見習わないとなあ、と彼女は思うのだった。  そこで、ふと食事の時に抱えた疑問を晴らす良い機会であることに彼女は気づいた。 「ちょっといいかな、蓮華ちゃん」 「うん?」 「なんで北郷さんなんだと思う?」  唐突に問いかけられ、蓮華はその青い瞳にわずかに緊張を宿らせる。 「一刀がどうかしたか?」 「華琳さんの横にいるのが、なんで北郷さんなんだろう?」  蓮華はこつこつと指で卓を叩き、少し考えてから、ゆっくりと言葉を選んでいる様子で答えた。 「……二人の関係を知らぬでもあるまい?」 「もちろん、そういうおつきあいのことは知ってるよ。けど、そういうことじゃなくて……」  なんて言えばいいのだろう、と桃香は考える。そもそも自分自身でもよくわかっているのかいないのか。 「北郷さんって、天の御遣いとは言っても、最初は洛陽の警備隊の隊長くらいしかしてなかったって朱里ちゃんが言ってたの」 「そうらしいな」 「でも、北郷さん、最後のほうの戦では、ずっと華琳さんの本陣にいたんだよね。これも朱里ちゃんたちの報告なんだけど」  蓮華もそれに肯定の頷きを示す。 「うむ。我が呉でもそのように捉えている。いつからかは判然としないが……。それに、警備隊と言っても、配下の三人、楽文謙、于文則、李曼成は立派な将だし、兵の訓練の責任者でもあった。その三人をまとめる地位だ。一刀は位はないまでもそれなりに遇されていたと考えるべきだろうな」 「うん。そうなんだよね。明らかな地位につけていないのに、北郷さんは華琳さんの側につけられていた。なにかを期待するみたいに……」 「覇王の横に立つ、か……。まあ、わからぬでもない」  ようやく納得した、というように、蓮華は腕を組み直した。桃香の顔がぱっと明るくなる。 「わかってくれた? それでね、それがなんでかなー、って……」  彼女は訊ねた。王という地位につく仲間として。そして、洛陽に長くいたこともあり、よりよく北郷一刀を知るであろう相手として。 「器だろうよ」  即答だった。内容よりもそのことに、桃香は驚いてしまう。 「器……」 「華琳とて人の子だ。親しい者を側に置きたいと思うこともあるだろう。だが、同時に彼女は人の才を好む。一刀に彼女に認められるものがなければ、けしてあのように扱われることはなかったろう。天の御遣いの名前だけなら飼い殺しで十分だからな」 「よく……わからないな。北郷さんのこと、正直、蜀じゃ知ってる人っていないから」  桃香の呟きに、蓮華は頭を傾げて考え込む。桃色の髪が頬にあてた指に絡んで揺れていた。 「たしかに考えてみれば、蜀ではあまりあれと親しくしているのはいないのか。子を産んだ桔梗は?」 「桔梗さんは、大使に出てからずっと帰って来てないから」  そうなると本当に蜀……いや、成都の面々は北郷一刀という人間を知らないのだ。蓮華はそこで、成都での一幕――模擬戦の一件を思い出して納得した。 「どう説明すればいいかはわからんが……。私はあれはあれでそれなりの人物だと思っている。ただ、さすがは天から来たという人間だけあって、少々我らの理解の範疇外にいるな」 「理解の外……」 「一刀は権威を気にしない。一刀は彼我の力の差を気にしない。ただ、その相手の人物だけを見る」  そこで、蓮華は小さく笑ってみせた。 「なぜかわかるか?」 「ううん」 「あれはな、我らを――私はもちろん、雪蓮姉様や華琳まで――ただのおなごだと思っているのだ」 「……えっと」  桃香は、おそらくこの時代の人間の中では、最も権威や武威に惑わされることなく人を見ている部類に入るだろう。そんな彼女でも華琳や雪蓮をただの女だと言い切ることは難しい。なによりも、その能力や迫力を全て無視してその人間だけを見るということが出来るものだろうか。 「侮っているという意味ではないぞ。男相手なら、ただの男として接するだろうしな。我らの武や力の全てを知って、それでもなお、ただの女の子だなどと言い放つ。それがあやつの器だろうな」  蓮華の笑みは深くなる。そのことに、桃香は戦きを禁じ得ない。彼女の感覚が確かならば、蓮華はいま語っていること――北郷一刀の器というものが彼女の語るようなものであることを、歓迎している。喜んでいる。 「まあ、そのおかげで女をほうぼうにつくって、きっと華琳などは苦労していることだろうがな」 「でも……それが王の、三国の王の横に立つ資格になるのかな?」  しばらくの沈黙の後でそう問いかけると、蓮華ははっとなにかに気づいたように、笑みを収めた。 「……私は王としては新米だ。そちらのほうがよくわかるのではないか、桃香?」 「ど、どうかな」  それから、蓮華は茶をすすると、どこか別の所を見ているようにして語り始める。 「まあ、実際の所、まだあやつはなにもしていないからな」 「なにも……? だって……」 「わかるだろう。桃香も王なのだから。あれは華琳の部下として働いてはいても、いまだ、自分でなにかを成してはいない。決断してはいない」  蓮華は厳しい口調で続ける。 「いかに名将、名軍師を配下にしていようとも、己の意志で決定していないのならば、それはただの一武将の器にすぎん。君主として自立する思いがあろうとなかろうと、それと同じだけの重みをあやつが自覚できるか……」 「蓮華ちゃん……」 「今回の北伐。そのあたりがうかがえると私は思っているな」 「そっか……」  そのまま会話は途切れ、桃香は蓮華に挨拶をして部屋を出る。行きと同じく明命の護衛で部屋まで戻り、既に眠りこけていた鈴々の寝具の乱れを直してやりながら頬に手をあてる。 「蓮華ちゃんは、正直に答えてくれたと思う。でも……」  桃香はなにか最後のところでごまかされたような、あるいは、自分だけが蚊帳の外に置かれたような、そんな疎外感を覚えてしまうのだった。  一方、部屋に残った蓮華の方も、桃香との会話を省みて独りごちる。 「少々熱くなりすぎたか。……どうもあの男はいつも私の調子を狂わせる」  腕を組み、先ほどまでの会話を反芻して、自分で採点してみる。王ともなれば、一言一言が大事になる。相手が桃香とはいえ、いや、だからこそ、もっと気をつけるべきだったかもしれない、と彼女は結論づけた。 「姉様や小蓮もこうだったのかしら。そうだとすると……」  思わず何事か言いそうになり、慌てて頭を振って払いのける。 「いやいや、莫迦か、私は。いまはそんな暇があるものか。まずは……」  ぶつぶつ呟きながら、灯りを引き寄せ、溜まっている仕事に取りかかる蓮華であった。  2.閑居 「暇ねー」  真桜が開発したという手回し式洗濯機『ぐるぐるぴかーんくん』量産型の前に座り、名前の通りぐるぐると持ち手を回転させながら、この世界では数着しか存在しない『めいど服』に身を包み、雪のように白い鬼の面をつけた女性――雪蓮はのんびりと呟いた。竹でつくられた大ぶりな円筒が、彼女の動きに合わせて勢いよく回転する。  洗濯機に投入する前段階の、石けん水への漬け置きのために水を張ったたらいに洗濯物を沈めていた黒鬼面の女性――冥琳がその言葉に顔を上げる。 「なにを言っているのだ。暇なはずがあるか。洗い物がこんなに溜まっているというのに」  雪蓮はびっくりしたように振り返ると、鬼面の奥の目を見開いて、思い切り噴き出した。 「ぷっ」 「な、なんだ」 「いや、だって……。これまでも冥琳にそうやって言われることあったけど、それって仕事のことだったでしょ? ああ、うん、これも仕事だけどさ。洗濯のことで注意されるとはねー」  冥琳は言われて自分の持っている洗濯物を見、次いで自分の発言を思い出して顔を赤くする。 「し、仕方あるまい。いまの我らは一刀殿の『めいど』なわけだからして……」 「うんうん。だから子供たちのおしめを洗うのもお仕事よねー」  実際、雪蓮はこの仕事を嫌いなわけではない。面倒だと思うし、自分がやることなのかどうか少々疑問に思うのだが、それでも大事な冥琳の双子も、その他の子供たちもかわいいし、おしめを洗ってやるくらいは苦にならなかった。  ただ、ちょっとおかしかったのだ。  こんな平和な時間を過ごしている自分が。 「その一刀はいま、私たちの葬儀に行っている、と」  少し顔を引き締めて、雪蓮はぽつりと言う。 「ちょうど今日だな。一刀殿は葬儀に参列しているはずだ」  頭の中で日程を確認して、冥琳は補足する。 「変な気分ね」 「ああ」  自分たちには、もはや孫策と周瑜としての生はないのだと思うと、なんだか奇妙な気分だった。『めいど』の先輩である月が無理矢理その名を抹消されたことに比べれば自分で選んだ道だと諦めがつくが、それでも長年慣れ親しんだ名を捨てることに複雑な思いを抱くなというほうが無理だろう。 「一刀殿といえばな。ずいぶん熱心に医者を勧められるよ。少し体調が悪いと、それだけでえらい騒ぎだ」  冥琳が、沈黙を破ってことさらに明るい声で話し出す。 「どうも、私、それに稟殿かな? この二人は天の国では早死にだったようだな。本人は気づかれずに我々に気を遣っているつもりだろうがな。あまりにわかりやすくて、よく彼女と笑い合っているよ」 「一刀らしいわね。で、実際どうなの?」 「産後でもあり、お互い、華侘にもよく看てもらっているからな。そうそうくたばらんさ。子供達もいる」  たらいに漬け終え、立ち上がり腰を伸ばす冥琳。背の高い彼女がやると、それだけで大迫力だが、呉時代の露出の多い格好に比べるとだいぶおとなしく見える。まあ、こっちは涼しいから、これも着ていられるわよね、と雪蓮は自分の同じ格好を見下ろして思う。 「それに、生前に葬儀を行うと、長生きできるらしいぞ? 私もお前もそうなるかな?」 「さーて、どうかしらねー。ま、戦で死ぬならともかく、病でころっと逝っちゃうのは勘弁かもね。あー、でも、戦場で死ぬのも時機が悪いとたまらないわよね。母様とか」 「また文台様に叱られるような……」  やれやれ、と手を顔にやってから、かけていない眼鏡に触れるように手を動かしてしまったことに冥琳は苦笑する。彼女の鬼面には眼鏡と同等の機構が組み込まれているので最近は私室でしか眼鏡をかけていない。だが、長年の癖というのはなかなか抜けてくれないようだ。 「んー、でもねー。まずは祭より長生きが目標ねー。さすがにあれに何度も悲しい思いさせたくないじゃない」 「あの方は……出来れば、お酒を控えていただければ……」 「無理無理。酒と戦を祭から奪うなんて。北伐も楽しんでやってるみたいだし」  まったく、そうやって私に気苦労をかけるから、一刀殿が……冥琳は気にしすぎなのーなどと二人が言い合っていると、近づいてくる人影に気づく。  翡翠色の髪をした勝ち気そうな少女と、赤髪の柔らかな印象の女性、それにまとわりつくようにじゃれついている小柄な少女。  詠、恋、音々音というかつての董卓軍の中核三人がそこにいた。 「……あんたら、いつ見てもすごい格好ね」  詠が二人の姿を上から下まで眺めた後で評する。 「そーお?」 「鬼の面をつけて、『めいど』服着た、大鴻臚付きの侍女ってもう怪しさ満点でしょ」  詠の言うことも尤もだ。鬼面だけでも目立つのに、黒基調の『めいど』服となれば、目を引かざるを得ない。とはいえ、さすがに城内の人間は、そういった奇抜なものにももう慣れきっていたが。 「『めいど』はそっちが先輩でしょー」 「ま、まあ、そうだけど」 「今日はその格好からすると、軍師の仕事かな?」  冥琳の言葉の通り、今日の詠は軍師の服を着けている。実際には冥琳たちが来てから、詠が『めいど』姿をしているのを見ることはほとんどなかった。 「どうかしら。両方? 後を任せるのに相談したくて」 「恋の……家族の世話、月だけじゃ大変」 「恋殿の邸にいる動物たちの世話が、餌やりだけでかなりの量になって大変なのですよ」  それまで黙っていた恋が口を開くのに、すかさずねねが補足する。 「ははぁ」  雪蓮達も恋が多数の動物を飼っている……というよりは一緒に暮らしているのは成都時代の経験で知っている。恋とねねが北伐に出ている間、その面倒は誰かが見なければならない。それを細身の月一人にやらせるというのは無理があるのだろう。 「流琉に頼む予定だったですが……」 「守将が秋蘭に代わったでしょ? で、秋蘭はたくさん猫を飼っているし、その点は安心なんだけど、妊娠中だから、動物の側にいかせるのはあまりどうかと思うのよ」 「……困った」  話の流れとして、自分たちに頼みたいのだろうなあ、と思いつつ、雪蓮は確認する。 「で、どれくらいいるの?」 「ええと、猫が三十二匹。これは秋蘭の分も入ってますね。あとは犬が九匹。これはセキトと張々を連れて行くからです。それに鳩が十二羽、蜥蜴が三匹、大蛇が一匹」 「はあ?」  犬猫が多いのは覚悟していたが、さすがに大蛇と言われると驚いてしまう。 「珍しい、蛇」 「どこぞの商家の主が自慢するために飼ってたのはいいけど、大きくなりすぎて始末に困って処分するって話があってね。恋がひきとってきたの」 「他も似たような経緯ですかね。蜥蜴もかなり大きいです」  白と黒。二つの鬼の面が目配せを交わし合う。大蛇や大蜥蜴に畏縮するわけではないが、面倒を見るのが大変そうなのはたしかだ。 「まあ、蛇や蜥蜴なんてかわいいほうよ。人間だってお構いなしに拾ってくるし」 「それは……いいのか?」  詠の発言に、さすがに目を白黒させる冥琳。 「まあ、本人がいいみたいだし。ねえ、ねね」 「ふふん。ねねは恋殿に見いだされたですよ。それを誇る以外のなにが必要ですか」  実例がすぐそこにいたらしい。 「で、まあ、あんたたちにも手伝ってほしいってことなんだけどね」  詠の申し出に、少し考えて、冥琳は矢継ぎ早に質問する。 「厠のしつけはしてあるのか? 食事は日に何度? 蛇や蜥蜴はなにか特別な世話はいるのか?」  それに一つ一つねねが答えている横で、雪蓮がぴっと指を立ててみせた。 「一つ条件があるわ。周々を恋の邸の庭で放していい?」 「お前は……小蓮様を巻き込むつもりか。いまは立場というものが……」  きつい声で言う冥琳を引っ張り寄せ、耳打ちする雪蓮。 「あの娘、最近なかなか強くなってるでしょ。母様直伝の技をいくつか仕込んでやりたいのよ。こっちにいるうちに」 「ああ……。城内ではまずいということか」 「そそ。ちょうどいいんじゃない?」  彼女は、渋々ながらも同意の印に頷く冥琳から体を離し、恋たちのほうへ視線を戻す。 「で、どうかしら?」  雪蓮の問いに、ねねと恋は顔を合わせていたが、二人共に頷く。 「……ん、あの子ならいい」 「周々なら変に他の猫や犬をからかったりしなさそうなので大丈夫でしょう」 「それなら引き受けるわ。細かいことは忘れるといけないから竹簡にまとめておいてね」 「よかったわ。ありがとう。月にも話しておくわね」  詠がほっとしたように笑みを浮かべる。それにひらひらと手を振って答えた雪蓮たちは洗い物に戻り、詠たちは北伐の打ち合わせをしながら、またどこかへ歩み去っていく。  そうして、静けさの戻った庭で、雪蓮は再び洗濯機をぐるぐると回す。 「平和ねー」  かつて江東の小覇王と呼ばれた女性は、ため息を吐くように呟く。それを聞く友の頬には温かな笑みが刻まれていた。  3.未来  葬儀も滞りなく終わり、名実ともに呉の女王となった蓮華は部下たちを連れて、魏王の名代、北郷一刀との宴席に望んでいた。魏側は一刀、霞、大使の真桜という面々なのだが、実にこの時点で形式上魏に所属しているのは真桜一人という、何とも奇妙な事態になっていた。 「さて、華琳からの書簡に書かれていたことへの返答などはこちらも書簡をしたためた。洛陽へ持ち帰ってくれ」 「了解。必ず渡すよ」  蓮華からの書簡を胸元に収め、一刀が確約する。 「他は、洛陽を出る前に事実上終えているからな。今日は宴を楽しもう。葬儀の直後とて、ささやかな内々の宴だが、そのほうが落ち着いて語り合えるだろう」  さすがにいまだ喪に服している蓮華としては芸妓や楽団を呼んで賑々しく宴を開くわけにもいかない。幹部勢だけの晩餐といった雰囲気だった。 「皆も楽しんでくれ。羽目を外さない程度なら崩した態度でかまわん。いいな、一刀」 「ああ、もちろん」  その声に、居並ぶ面々がわっと楽しげに声を上げる。かりそめとは言えかつての主の葬儀を行うことが緊張を募らせていたのか、あるいはその真実を隠すことそのもので心が張り詰めていたのか、いずれもあるだろうが、それを解きほぐせるとなれば乗らない手はない。 「一刀さーん。一献いかがですかー?」 「あ、ありがとう、穏。呉の酒や料理は久しぶりで楽しみなんだ」  そそ、と近寄って一刀に酒を勧める穏。これはさすがに喪に服しているということで酒を飲めない蓮華への配慮もあって買って出た部分もあったろう。 「うちはもっと久しぶりやー。真桜はもう慣れたか?」 「せやなあ。海のもんが出るのは珍しゅうて楽しかったなぁ。やけど、それもしばらくお別れやな」  霞と真桜の会話に耳を傾けていた蓮華が口を挟む。 「右軍は私たちが抜けて大変かもしれないけど……」 「あー、そこらへんは、元から予定通りだったわけやし、軍師はんらがしっかり考えてくれてると思うんやけど」 「はいー。しっかりお米を運ぶ準備は出来ていますよー」  穏が一刀だけではなく、霞と真桜にも酒を注ぎながら答える。ひょいと酒瓶が彼女の手から奪われ、一刀が返杯と手つきで示す。穏はにこにこしながら酒を注がれつつ続ける。 「北の兵達さんたちは麦の方が好みかもしれませんけど、米も腹持ちがよくていいですよー」 「蓮華様! 私たちが前線にいくことはないのですか?」  そこに明命が少し離れた席から元気よく手を挙げて訊ねる。蓮華はその元気さを快く思いつつも苦笑して答える。 「まずはしっかり国内をまとめないと。姉様達が抜けて、やることは増えているのだから」 「ごもっともです。とはいえ、幼平の言うこともわからないではありません。我ら武官は戦場がなくば、己の職分を果たせませぬから」 「そのあたりは明命や思春殿のような人物が存在するだけで国内の諸勢力に睨みがきくわけでして……」  思春と亞莎も参戦し、会話は際限なく広がっていく。部下達に話させるに任せ、蓮華はその様子を眺めている。  穏と霞、真桜も加わってさらに話が広がっていったあたりで、蓮華は同じように話には加わらず、笑みを浮かべつつ酒を飲み、料理に舌鼓を打っている一刀に話しかけた。 「桃香たちとは話した?」 「ああ、少しだけね。あの二人とはあまり親しくしていないから、今度ゆっくり話したいところだけどね」 「そのほうがいいわね。桃香は一刀に興味があるようだったし」 「ええ?」  蓮華の言葉に男は目を丸くする。彼女は少しだけ意地悪な口調で、すかさず付け加えた。 「華琳の横にいる男として、ね」 「ああ、そういうことか。それならわかる」  ほっとしたように呟く一刀。  ああ、この男は本当に、わかっているようでわかっていないのだな、と彼女にはおかしくてたまらない。華琳の横にいるということがどれだけの重要な事であるか、それをわかっていながら、自分がどれだけの人間であるか、そのことはさっぱりわかっていない。あるいは、この男は自分で測ろうにも……。  そこまで考えたところで、蓮華はふと小首をかしげた。心に泡のようにわき上がるものを、さっと捕らえて口にする。 「私も一つ訊いてみたいことがある」  ああ、そうか、私はこの男に訊いてみたかったのか。自分でも口にしてから腑に落ちる。なにかに導かれるように、彼女は自然とそれを口にしていた。 「この呉が三国での地位を保つにはどうすればいいか」  そうして口調を元に戻し、彼女は真っ直ぐと彼の目を見て問いかける。 「どう思う、一刀」  一方の一刀は酒杯を口元に寄せたまま、彼女の視線を受け止めていた。 「俺に訊くの?」 「ああ、そうだ。魏の盟友たるお前に。覇王の友たるお前に」  そこで、蓮華はふんわりと表情を柔らかくする。 「我が友、北郷一刀に訊くの」  横で聞くとはなしに聞いていた霞が思わず小さく呟く。 「うわ、さすが女王。一刀の殺し文句をよう心得とる」  おそらく他の者たちも彼女たちの主の発言には注意を払っていたのだろう。ほんのわずか、会話の進行が遅くなり、その声も低くなる。 「まず、大前提として、俺は呉には三国の中で一番の発展余地があると見ている。江水によって作り上げられた広大な耕作可能地帯は膨大な人口を養うことを可能とするし、国力に直に影響してくる。時が経って各地に人々が入植を終える頃には、新しい農法や器具も発展して、さらなる収穫量の増大を招くだろう。だから、この国自体が無理してなにかを求める必要ってのはないと思うんだ。それよりも、その発展を支えるための下地を作り上げる必要のほうがあるだろう」 「ふうむ」  三国の中で一番発展するだろうと言われても、蓮華には実感がない。しかし、ここで口を挟むわけにもいかない。彼に意見を求める以上、この時代の常識を述べてもしかたない。ここは北郷一刀の見る世界を引き出すべきだろう。それが実際に参考になるかどうかは別として。 「なんといっても不安要素を払拭するべきだろうな。山越問題を解決すること。荊州の領有問題を解決すること。この二つこそが、呉の課題だと思う」  その二点には蓮華も同意できた。幸い、王位を継いだことに国内の豪族たちは激しい反応を返していない。おそらくは信頼を寄せているというよりは、様子見をしているというほうがふさわしい者が大半であろうが、なんにしろ平穏は保たれている。問題があるとすれば、山越や賊の類、そして、蜀と主張の食い違う荊州だ。 「山越問題に関しては、長い目で見ていく話だ。俺がそうそう言えることはない。亞莎達もしっかりそのことを捉えているはずだし」  名を出された亞莎が急に背筋をぴんと伸ばす。そのことに、穏が小さく笑いを漏らす。 「俺としてはまずは荊州を解決すべきだと思う。小競り合いでも緊張状態が続けばそれだけ兵を必要とするし、それに伴って費用もかかる。それよりは国境線を画定して、そこをしっかり守るほうがたやすいし、民達にもわかりやすい。恒久的な砦を築けば、軍屯も進められる」 「言うことはわかるわ。でも、領土問題はそう易々と解決するものではないでしょう」  困ったように眉間に皺を寄せる蓮華。実際、困りものなのだ。こちらにはこちらの、あちらにはあちらの言い分と展望がある。そう簡単に折り合えるものでもない。 「蓮華様の仰る通りだ。一度引けば、さらにねじこめると思わせてしまう。毅然たる態度で自国の主張を貫くことが重要なのだ」  我慢できなくなったのか、杯を置いた思春が参戦してくる。次いで、酔ったのか、あるいはこの会話に知的興奮を覚えているのか、ほんのりと頬を染めた穏が口を開いた。 「そーですねえ。正当性だけで言うと、我々も蜀も正直それほどたいしたものがあるわけではないのですが、一度そう主張した以上、簡単に曲げるのは……特に、こちらからというのはまずいですねえ」 「い、いまだけなら相手が桃香さんですからなんとかなると思いますが、我々の後の世代に影響が出てしまうことも……」  長い袖で顔を隠しながら、穏の意見を補足するのは亞莎。もはや、場の会話はこの一つに絞られてしまっていた。 「ただ、実際の所、荊州での小競り合いに関しては蜀も嫌気が差している部分はあると漏れ聞いております。どこかで妥協点はあると思いますが……」  これは明命。漏れ聞いている、と言うが実際には自分とその部下達が集めた情報を分析してみた結果だろう。 「まあ、一番どうにかしてほしいんはその地域の民やろなあ」 「為政者がころころ変わるんは慣れてるとはいえ面倒やからなー。年貢の二重取りとかされてみ。たまったもんやないで」  霞と真桜が、少々冷めた口調なのは、部外者として距離を置こうとしているからだろう。しかし、元々庶人の出の真桜は、霞に比べるとほんの少し熱が乗っている。 「さすがに、そのようなことはないよう注意しているけど……でも……」  皆の意見をたまに頷いたりしながら聞いていた一刀は、発言が途切れた合間に、再び口を開いた。 「難しいのはよくわかる。俺だって、片方が頭を下げてそれでおしまいになるとも思ってないよ」 「では……どうすればよいとー?」 「こういう時のために、都合のいい存在があるじゃないか」  そうして、彼はぐるりと座を見渡して、いたずらっぽく、こう言ってのけるのだった。 「俺を悪役に仕立てればいいのさ」  と。  4.因果 「右が平船の改造、左が新造帆船や」  真桜の言葉に、船着き場に並べられた二隻の船を眺めやり、北郷一刀は感心の息を吐かずにはいられなかった。 「すごいな、外輪船じゃないか」  彼の言葉通り、右にある船は本来は櫂船であるはずだが、多数の櫂は取り払われ、その代わりに片側三つの外輪が取り付けられていた。彼からは見えないものの、当然逆側には、もう三つ外輪がついているのだろう。左にある船はそれと比べると美しい流線型の船体が際立つ帆船だが、船としては平凡でよく見られる形であった。 「がいりんせん?」 「ああ、俺の世界ではそう言うんだ。まあ、俺は六つも輪がついたのは見たことなかったけど……」  一刀は真桜に請われるまま、こちらの文字で書き記してやる。 「外輪船、な。覚えたわ。今度からそう言うことにしよ」  真桜は言いながら、手を振って合図する。すると、外輪船がゆっくりと岸を離れ、江水の上を滑るように走り始める。 「蒸気機関、やったっけ。それの『たーびん』言うの眺めてたら、水車が思い浮かんでな。それでくっつけてみたんよ。まあ、漕ぎ船の発展系やね」 「ふーむ」  一刀はただただ感心する。おそらく、真桜はいずれは蒸気機関を船に積むことを考慮して、回転をそのまま利用できる外輪船を考案したのだろう。彼自身が書き記してきたスクリュープロペラを利用しなかったのは回転翼をつくる精度か強度が出せなかったからか。  そう考えている一刀の前で、岸からある程度距離を取った外輪船は右に曲がり始めている。その角度の切れの鋭さに一刀は驚嘆の声を上げた。 「うわ、旋回早いな」 「へっへー。左右で回す量を調節してんねん。それで小さく曲がれるっちゅうこっちゃ」  真桜が自慢げに胸を張る。おかげで元々強調されている胸がぷるんと震えて、一刀はどぎまぎしてしまう。 「ただ、ちょっと波には弱くてなあ。思春はんには、海には出られん言われたわ」  途端にしゅんとする真桜。そんな彼女の急激な変化がおかしくて一刀は笑いそうになるが、ここはぐっとこらえる。 「それと、これはまだ開発段階やからしゃあないねんけど、色々と現状の櫂船に負けてるんよね。まあ、こっちはいずれ別の動力を考えてるから、船の側でのうて機関側の問題やけど」  続く真桜の説明によると、いずれは蒸気機関を積むことを考えているが、いまは中で人間が板を足で踏んで上下に動かしているのを回転に変換しているのだという。船を運航するのに必要な人数自体はかなり減るが、逆に櫂船のように人を増やして速度を上げたりといったことが簡単にできない分、柔軟性に欠けるとも言えた。 「まだまだ発展するだろうし、ここや河水で使うには十分だろう」 「うん。せやから、こっちの系統は川船にしてな。海船はまた別のを考えてるんや」  その言葉に視線が左の船に移る。なぜだか、真桜はばつが悪そうにもじもじしはじめる。 「といっても、そっちの船はいじってへんねん。まずは構造を理解するために作ってみただけやからな」 「ああ、そうなのか」  よくよく考えてみれば、実際に作ってみたこともないのに、新しいものを作れと言うのは酷な話だ。特に船ともなると、下手につくって沈んでしまったでは大変だ。 「一朝一夕にはいかないな。でも、すごいよ、真桜。さすがたいしたものだ」  二隻の船を見つめながら、彼は熱っぽく言う。その目は、目の前の成果にこの上ない喜びを宿すと共に、どこか別の遠い場所を見ていた。 「ほんま? そかな」  一方、開発者でもある女性は、照れたように笑う。それでもその笑みに喜びの色が乗っているのは当然と言えよう。 「真桜に隊長って呼んでもらえる自分を、それになによりも、真桜自身を誇りに思うよ」  男はしみじみと呟く。そのせいで、真桜は相手の言葉の意味に一瞬気づかず、そして、気づいた途端その顔を真っ赤に染めて、いややわー、もう、と騒ぎ出すのだった。  魏の玉座に座る人物は、部下からの報告を受けて、瞑目しつつ呟いた。 「司馬烽ェ自裁か……。あれ自身はいい男ではあったけれど……」  華琳の言葉に、その報告をした春蘭が首を垂れる。時に一直線に目的だけを見て動いてしまう彼女にとっても、様々なことに気を配れる司馬烽ヘ頼りになる部下であった。 「遺族に手当をしようにも、その遺族がことごとく死んでいますね」 「まさか城に火をかけるとはねえ」  稟が冷静に指摘し、桂花がそれを補うように言って困ったように息を吐く。 「す、すみません。もっと注意しておくべきでした」  河内司馬氏を攻めた流琉が身を縮こめて頭を下げる。しかし、それに対して春蘭は軽く笑って彼女の肩を叩いてやる。 「流琉を責めているのではない。いかに城門を突破されたからと言って、城の内部に何ヶ所も火をつけて回るなど……正気の沙汰ではない」 「ですねー。ちょっと過激すぎです。予測できることではないですよー」  風も春蘭の言葉を支持する。稟と桂花の二人の軍師も頷き、流琉は緊張の面持ちはそのままながら、少しほっとしたように肩の力を抜いた。 「一応、火をつけて死んだことにして逃げたんじゃないかってことで、七乃さんが城から逃げた兵を捕まえて、色々調べていたみたいですけど、その中にはいなかったみたいです」 「ああ、そういう手もあるわね。ずるがしこいというか、巻き込まれる方はたまったもんじゃないけど」  桂花がその発想に純粋に感心したように言うと、稟が眼鏡を押し上げつつ、疑問を呈する。 「今回はそれはなかったとなると、単なる自暴自棄ですかね?」 「どうかしら。まあ、司馬氏に連なればそれなりの罰はあったとしても……」 「たくさんの大きな兵器に、恐慌に陥ったのかもしれませんねー」  三軍師の議論は一度始まると限りがない。華琳は手を上げてそれを制する。 「まあ、それはいいわ。この場合、司馬烽フ労をねぎらうのは、弔うくらいしかないわね」 「では、その手配をしておきましょう」 「ええ、頼んだわ」  北伐の間の守将となる秋蘭が受けて、その話題はひとまず終わる。その後いくつかの案件が提出され、それぞれに決裁され、誰かに任され、あるいは保留されていく。  その中で、稟が思い出したように書類を引き出し発言した。 「そういえば、月から一つ提案が出ています」 「月が? 詠じゃなくて?」  まずその提出者が意外で、華琳は目をむく。これまで月は積極的に政治に関わるようなことをしようとはしなかった。本来の名前を復した詠でさえ、北伐以外の事にはあまり関わろうとしていないというのに、急に月が提案となれば彼女ならずとも驚くだろう。 「ええ。なにやら、教育機関を作りたいと」 「学校? 一刀から聞いたのかしら。あの娘ならやりたそうではあるけど」  天の国の公的教育機関の話を思い出す。たしか、桃香が同じようなものを蜀でやろうとしていると言っていたが……。 「いえ、そういうものではないようですね。公的な教育機関には違いありませんが、高等教育機関ですかね、これは」  先を続けて、と華琳は手振りで示す。 「魏はもちろん、各国は有能な官吏を多数必要としています。それを採用する方策についても考えないといけないわけですが、今回の眼目は、その後になります」  稟が説明したのは、いわば研修機関とでも言うものだった。各国に仕える者たちの中で、ある程度以上の地位にある官吏の中から、無作為に十数人を選び出し、その者たちを集めて十日間ほど集中して講義を行う。  講師は集められた面々の中から選ばれ、自分が行っている仕事の手法や問題点などを語り、それを参加者で再検討していくというものだ。機関に所属する者は、これらの講義の手助けをしたり、円滑な議論が行われるよう導いたりすることになる。  また、新しい研究成果などが出た時には機関に所属する学者などが発表を行い、それを参加者が各国に持ち帰るなどの特別講義を行うことも予定している。 「異なる部署の人間が、様々な視点からの考え方や知識を得られるというのが利点のようです。もちろん、機密にどれだけ触れるかなどを考えねばなりませんが」  華琳は話をまとめる稟の言葉をしばらく咀嚼するように黙っていたが、組んでいた腕を解いて言葉を発する。 「小規模な集会のようなものか。いきなり三国の官吏を呼びつけるというのは難しいけれど。考え自体は悪くはないかもね。それほど大規模な施設を考えているようではないみたいだし」 「まずは魏の内だけでやってみてもいいかもですねー。別の部署のことをまるで知らない人とかいますから」  そこで、皆と同じように内容を検討していたらしい桂花がふと小首をかしげる。 「でも、なぜそんなものを?」 「私もそこが気になって訊いてみたのですが、なにやら南蛮の面々に色々と教えるためにはどうしたらいいかを考えていたら、こういう着想を得たそうで」 「ふうん?」 「曰く『南蛮は他の国に比べて色々と違うところがある。それを劣っていると侮るより、相手のことを知るほうが何倍もいい。だから皆がそれぞれの立場で討議できる場所を作りたい』だそうです」  評議の間に沈黙が落ちる。ただ、小さく春蘭が妹に解説を求めている声と、それに応じる秋蘭の声が聞こえるが、いつものことなので誰も気にしていない。 「やはり、董卓の名は復すべきとも思いますが……」 「あの娘がそれを望むかしら。それに、決めるのは一刀よ」  沈黙を破り、桂花が進言する。それを受ける華琳は淡く笑みを浮かべながら、それでも否定的な答えを返した。 「まあ、一刀のことだから、あの娘が望めばすぐにそうするよう私に言ってくるでしょう。いまは自由にさせておくことよ」  それから彼女は大きく笑った。楽しそうに、なにかを待ちわびるように。 「それにしても面白い、面白いわ。さて、皆、どう動いてくれるのかしら」  5.黄龍  呉の王宮を二人の男女が行く。前を行くのは黝い髪の鋭い印象の女性、それに従うのは光にきらめく白い服を着た青年。思春と一刀だ。 「うーん。馬まで用意してくれなくても」 「蓮華様のお心遣いだ。まさか、受けぬなどと言うつもりではなかろうな」  彼らは厩に向かっていた。一刀が乗ってきた馬が潰れて――結局は一刀達と大使館員の腹に収まって――しまったために、建業で馬を買い求めるつもりだったのだが、それを聞いた蓮華が、呉が所有している馬を贈るという申し出をしてきたのだ。 「いや、そりゃ嬉しいけど、申し訳ない気がして」  一刀は困り顔で答える。蓮華が贈ると言うほどの馬なら、それなりのものであるはずだ。そんなものを受け取っていいのだろうか、という気持ちがある。なにより、馬を扱う技倆が足りないことを彼自身がよくわかっていた。 「まったく……」  前を行く思春は振り向くこともなく苦り切った口調で呟く。しかし、一刀からは見えていないが、その表情はそれほど困った風でもない。内心ではいつものことと彼女は思っているのだ。 「もし己で受けるにはもったいないと思うのなら、洛陽に着いた後に丞相閣下にでも献上したらよいだろう。呉からの友誼の証とでも言ってな」 「あ、それいいな。華琳は名馬も好きだしな」  うんうん、それがいい、と一転して喜び始める男に今度は本気でやれやれとため息を吐いて、彼女は厩へと入っていく。 「どれだい?」 「ちょっと待て……。ああ、こいつだ」  思春が柵の前からどくと、馬の姿が一刀の視界に入ってくる。  全身が黄白色の月毛に覆われたその馬は、茶色い目で彼のことを真っ直ぐに見つめていた。がっしりとした肩から流れるように続く脚。しっかと大地を踏みしめ、がっしと大地を蹴るその脚の、なんとたくましいことよ。  そして、その瞬間、彼は、おそらくこの世界でも限られた人々しか知り得ない感覚を得る。本当にあるべき場所に、自分がすっかりおさまった感覚。それは、彼を見る茶色い大きな目と、彼の立つその場所にこそあった。 「名は黄龍。たいそうな名前だが、我らに献上される前からそういう名だったそうだ」  そこまで言ったところで、彼女は男がまともに彼女の言葉を聞いていないことに気づいた。 「北郷?」 「あ、うん」  答える声もなんだかぼんやりとしている。思春はなにがあったのか訝るが、ただ紹介された黄龍を見つめている一刀に、体調の異常などは感じられず、ますます不審が強くなる。 「乗ってもいいかい?」 「ああ、もちろんだが……」  黄龍を柵から出し、一刀に手綱を任せる。その時、彼女は彼がぼんやりしているというより、あまりに興奮しているせいで他に注意がいかなくなっているのだということに気づいた。  北郷の目は、まさに黄龍しか見ていない!  そして、軽やかに馬に乗った彼は、しばらくそこらを歩かせていたが、不意に一気に駆け出した。そのまま城門のほうへと向かう一頭と一人。 「夜までには帰ってくる!」  思春はひとしきり彼の言葉に呆然とした後で、猛然と厩に取って返し手近な馬に乗って彼を追いかけ始めるのだった。  翌日も一刀は黄龍に乗っていた。ただし、前日にかなりの距離を走ってからようやく追いついた思春にさんざっぱら叱られたせいで、場所は王宮の中、さらに誰かが見ている側で、ということとなり、今日は霞が酒杯片手に馬と一緒にはしゃぎ回る彼を眺めていた。 「ふうむ、北郷はあれに夢中だな」  すい、と霞の横に現れた思春が声をかける。飽きずに練兵場を駆け回る騎馬の姿を見て、呆れているようだった。 「せやなあ、昨日は厩で寝とったんやで、ほんま入れこんどるわ」 「……あれは牡だぞ?」 「あ、あほ言いなや。あんた」 「冗談だ」  慌てる霞に、真面目な顔を一瞬も崩すことなく答える。 「とはいえ珍しい。あれの性格からして、あそこまで執着するようなことはあるまいと思ったのだが……」 「それだけ、魅力的ってことやろ……。一生の友に出会ったようなもんや」 「ふうむ」  今ひとつわからない、という表情をしている思春を見上げて、霞はしかたないな、というように酒杯を呷る。 「わかりにくいか? あんたも、船が己の手足となったと思える瞬間ってあるやろ? それと同じや。馬の場合、生き物だけに反応も激しなるわけや」  思春は腕を組み、じっくり考えた上で、一つ頷いた。その間も、黄龍と一刀は急に止まったり、凄まじい速度で駆け出したりと遊んでいる。 「ふむ。なんとなく得心がいった。では、まあ、我らはよい贈り物をしたということかな?」 「せやな、馬のほうにもな」  霞の目からすると、黄龍は絶世の名馬というほどではない。たしかにいい馬であるし、名馬のうちに数えられるだろう。だが、絶影というこの時代を代表するような存在を相棒としている彼女には、うらやむようなものではない。  ただ、乗り手との相性で言えば、それは間違いなく一級のものだった。あれならば、一刀がそれほど腕が良くなくとも、いつかは人馬一体の境地に至れるはずだ。現時点ではただ遊んでいるだけだが、これで少しは一刀も馬を操る訓練をするようになるだろう、と霞は密かに喜んでいた。 「よき船は、よい航海をもたらし、ときに命さえ救う。あやつにとってあの馬がそうなることを願おう」  表情を変えぬまま言う思春を、霞は再度見上げる。その目に、今度は楽しむような色があった。 「……あんた、たまにらしくないこと言うんやな」 「ふふん」  思春は小さく笑う。  その笑みは、なぜかほんの少し得意げに見えた。  6.御遣い  蜀王劉備が訪れた時、北郷一刀は大使館の一室で仕事に追われていた。黄龍に乗って二日も潰してしまったので当然の仕儀であった。それが重々わかっている彼は、ひーひー言う間もなく報告書や資料と格闘を続けていたのだ。  桃香の到来を知らされて、慌てて散らかった書類を片付け、よそ行きの『ぽりえすてる』を着直す。  そうして、しばらく待っていると、案内に連れられた蜀の王が一人でやってきた。てっきり護衛に張翼徳もついてくると思っていた一刀は少し驚いてしまう。考えてみれば、自分に比べれば彼女の方がまだ強いのだ。王宮と大使館を行き来するくらい問題はないのだろう、と彼は納得する。 「北郷さん、こんにちは」 「いらっしゃい、玄徳さん」  部屋に招き入れ、お茶を勧める。霞や真桜を呼ぼうかとも言ったのだが、今回は二人でということだった。 「私たち、明日発つので、ご挨拶にと思って」 「ああ、ありがとう。こっちは明後日……いや、その翌日かな」 「あの、それといくつか聞いてみたいことがあるんですけど、いいかな?」  こちらが本題かな? 少しもじもじしながら切り出す女性を眺めながら、一刀はそんなことを思う。 「ええ、もちろん。俺に答えられることなら」  彼女は一刀の答えにほっとしたようで、ようやくのように、彼女によく似合う柔らかな笑みを浮かべた。 「天の国には、学校っていうのがあるんですよね?」  彼女は口を開くと一気に話し続ける。 「いま、蜀では国がやる塾を作っていて、この間、ようやく形になったところなんですけど、それの名前を『学校』ってすればいいって華琳さんに前に言われたことがあって」 「へぇ」 「よくよく聞いたら、それって元々は北郷さんが言ってた言葉だって聞いて。興味あったんです。教えて……もらえます?」  そんなことならいくらでも教えられる、と一刀も安心しながら答え始めた。 「ああ、いいよ。そうだな、俺のいた国だと……」  それから彼は自分の国の公教育制度を説明する。教育制度をまずは大陸に学んだ日本の制度を――さらに古い時代の――大陸の人間に教えていることに改めて不思議な気分を覚えながら、彼は懸命に説明する。馴染みのないものであるため、途中から紙に書き、後に残るように配慮して、二人は話を進めていく。 「……っと、こんなところかな」  大学までの大まかな制度から、それぞれの学生生活の雰囲気までを話し終え、一刀は筆を置く。すっかり渇いた喉に、ぬるくなった茶を流し込む。 「すごいんですねー、天の国って」  図解や説明の書かれた長い紙を手に持って眺めながら、感心したように呟く。それに対して一刀は軽い苦笑を浮かべた。 「いいところも悪いところもあるけれど、できれば、皆にとっていいものがこの大陸に根付いてくれたらな、と思うよ」 「悪い部分もあるの?」  桃香は大きな目をさらに見開いて驚く。彼女にとって天の国と言えばすばらしいものが溢れているものだと単純に思っていたのだ。 「そりゃあね」  肩をすくめる一刀を見て、桃香は何事か考え込むように顎に指をあてる。なにか無心に考えている彼女を邪魔しないよう、一刀は黙って新しい茶を注いで待っていた。 「あの、もう一つ聞いても?」 「ん? うん」  奇妙に真剣な表情で訊ねられ、一刀はこちらも顔を引き締めて頷き返す。 「北郷さんは、なんでこの世に?」  その問いに、彼は身を震わせた。表情が消え去り、次いで苦しそうに歯を食いしばる。けれど、それも収まって、一刀は小さく笑みを浮かべた。 「さあ、なんでだろうね。俺にもわからない」  彼は桃香の目を覗き込むようにして語りかける。 「ただ、いまは思ってることがある」  一刀は淡々と語る。けれど、桃香はその彼から目を離すことが出来ない。まばたきをすることさえ忘れたように、彼女は彼を見つめている。 「俺がここにいることに意味を与えられる者がいるとしたら、それは紛れもなく俺自身だってことさ」 「意味……」 「だからね、俺は俺が、ここで生きている意味を作り上げたい。……と言ってもやれることをやるだけだけど」  それから彼は小さく笑う。  寂しそう。桃香はそれを見て思った。  嬉しそう。一方で彼女はそう思った。 「俺のいた世界に、悪い部分があるのか、って訊いたよね?」 「うん」 「あのね。俺の世界には、とてもとてもたくさんの人達がいた。そして、いくつもの国があった。十や二十じゃない。百単位だ」  そんなにも国があって、どうやって衝突せずに暮らしているのか。一刀から聞いた学園生活は平和そのものだった。だとすれば、それだけ多くの国が並立できるなにかがあるのか。だが、その希望は、彼の次の言葉で打ち砕かれる。 「なにしろ人間も国もたくさん。そして、それぞれの理想や思惑があるわけだから、戦争だって起きる。こちらで行われるよりさらに長くひどい戦争もあった。幸い、俺のいた国は長い間平和だったけれど。それだって、俺の祖父母、曾祖父母の世代が戦争の末に築いたものだよ。けしていいことばかりじゃなかった」 「それは……。でも、そんなにたくさん?」 「うん。なにしろ、全世界で約六十八億人いたくらいだから」 「六十八億……」  その数に、思わず桃香は目をつぶってしまう。数のあまりの大きさに瞬間的に恐怖を感じてしまったのだ。そんなにも人が溢れているのか、天の国は。 「六十七億九二〇八万九二七一……いや、六十七億九二〇八万九二七三だったか」  小さく呟くその声の、なんと重いことか。その響きの、なんと苦しげなことか。  目の前の男がなぜそれほどまでに苦しんでいるのか、彼女に思いつくことは一つしかなかった。 「戻りたいと……思ったことはないの?」  その言葉に、彼はびっくりしたようにのけぞった。それから一刀は姿勢をなおし、手を大きく広げた。 「俺が戻りたいと思ったのはね、玄徳さん」  彼が抱きしめるように伸ばす腕のその先にはこの部屋の窓、そして、大使館の外に広がる空がある。 「ここだよ」  そうして、彼は笑みを浮かべる。  先ほどのように寂しそうでもなく。  今し方のように嬉しそうでもなく。  ただ、決然とした透明な笑みだった。  桃香はその笑顔を見て、この男に真名を預けてもいいと不意に思った。そうして、彼女はその通りにして、以後、二人は真名と名で呼び合うようになるのだった。  7.戦勝祈願  王宮の庭の一角にある竹林の中を、この国の王と並んで散策しながら、北郷一刀は語り続ける。 「黄龍はすごいよ。なんというのかな、ぴったり合うんだ。言葉だってわかるんじゃないかと思う。彼に出会わせてくれて、本当にありがとう」  先ほどから蓮華は一刀からの感謝の言葉を聞き続けていた。まさに馬があったことを得々と話してくれるのは贈った者からすればありがたい限りだったが、それにも限度というものがある。  彼女はさすがに苦笑して、彼の言葉が途切れたところで割って入った。 「黄龍の件はもういいわ、一刀」 「でも……」 「よくわかりましたから!」  きゃらきゃらと笑って、一刀が食い下がるのをかわす。自分が少々滑稽なことになっていたのに気づいたのか、一刀はようやくのように頭をかいて笑い声をあげた。 「それよりあの話だけど」 「ん?」 「ほら、荊州の」 「ああ、調停に立つ話だな。華琳とも相談して、手配するよ。俺自体は北伐に出ているから、最初の事務は文官が前面に出るかもしれないけど、きちんと責任は取る」  一刀の言い様に蓮華はどこか面白いものを感じつつ、彼女はそうではないと手を振る。 「いや、その、事務的なことはいいのだけど……。いいの? 一刀を悪役になんて」 「いいんじゃないか? こういう時、こじれた両者だけじゃもうどうしようもない。関係のない第三者が憎まれるのが一番だろ。たとえば俺や華琳がね。それくらいのことは心得ているさ」  もちろん、彼の言うことは理解できる。呉蜀の諍いに介入できるとすれば、魏の人間であることは彼女とて理解はできる。だが、それをするほどの益がどこにある? 「そうだな。いっそ荊州に俺も領有主張をするとかどうだろう?」  いや、さすがにそれをやると、後々が大変か……。などと呟く青年の顔を見つめ、蓮華は以前から考えていたことを口にする。 「なぜそこまでするの?」 「え?」 「なぜ、そこまで呉のために?」  やっぱり姉様が……と言いかけて、蓮華はなんとかそれを呑み込む。彼女の真剣な表情を見て、一刀もふむ、と一つうなって考え始める。 「大事だからかな」 「大事?」 「俺にとって、大事な人達、子供達や大好きな人達や、同僚や……そういうものを守るためだよ」  守る、というには大げさかもしれないけど、と彼は付け加えて続ける。 「俺には、子供がいる。阿喜に千年、木犀に大小。彼女たちが生きるのは、いまの三国の未来だ」 「……そうね?」  今ひとつよくわからず、けれど的外れな事は言われていない気がして、蓮華は曖昧に頷く。 「とすると、三国が共に発展し、豊かになった世界が望ましい。そうだろう?」 「そりゃあそうだけど……」 「だから、よくなりそうな事で、俺が手助けできるならしたいと思うんだよ」  彼の言うことは尤もではあるが、だからといって、彼が苦労を背負い込んでまですることかというと疑問に思う。まして、双方から憎まれるようなことを……。  いまはこうして感謝している蓮華でさえ、実際に調停がなされて領土が削られれば多少の不満は出てきてしまうかもしれないのだ。  恨みを買うことを想定していないわけもないだろうに。  そこまで考えたところで、蓮華はあることに気づき、雷に打たれたような衝撃を受けた。  北郷一刀は、それを苦労と感じていない。  だから、こうして何ともないことのように語れるのだ。 「そうね……。うん、でも、改めて言うわ。ありがとう」  そのひらめきを自分の中に押し隠し、彼女は深々と頭を下げた。その顔が驚愕に彩られていることを知られぬように。 「それはうまく行ってからにしてくれよ」  一刀の困ったような言葉にようやく落ち着いた彼女は体を戻す。 「それもそうね。じゃあ、これからもよろしく、ってところかしら」 「ああ、もちろん。そうだ、手紙を書くよ。呉のことも知りたいし、蓮華も返事してくれると嬉しい。当然、仕事の邪魔にならない程度にさ」 「ええ」  それから二人はしばらくの間、黙って竹林の中を歩いた。夏の日は容赦なく照りつけているが、生い茂った竹が日光や周囲の熱気を遮っているのだろう、林の中は比較的ひんやりとしていた。 「一刀」 「ん?」  どれほど経ったろう、蓮華が声をかけることで二人は立ち止まった。 「北伐の無事を祈って、ちょっとした……そう、おまじないをしてあげましょうか?」 「あ、嬉しいなあ」  一刀は素直に喜ぶ。彼は軍での経験はあるものの、それはたいていが戦闘に巻き込まれない本陣のことで、実際の戦闘指揮の経験は、同輩の武将達に比べれば微々たるものだ。  そんな彼が、今回はとんでもない規模の軍を動かすのだ。やり遂げる覚悟はあるものの、幸運はいくらあっても足りないくらいだと思っていた。 「では……えーと、そう、そうね。目をつぶってくれる?」  その言葉に従い、彼は目をつぶる。視界が闇に覆われると、竹の葉を風がなぶり、さやさやとこすれ合う音が急に意識された。 「俺は立ってればいいのか? 蓮華」 「え、ええ。そこでいいわ。動いちゃだめよ」  闇の中、間近に立つ蓮華の衣擦れの音が、妙に大きく響く。動くなということなので、軽く後ろで手を組んで、身を引き締めて待ち構えた。  不意に訪れる柔らかで熱い感触。それが触れたのは、彼の唇だった。  驚きに目を見開こうとする彼の目の上に彼女の手が重ねられ、さらに深い闇に落とされた中、柔らかで濡れたなにかが彼の唇の上で蠢くのがわかる。  それはたしかに、『無事でありますように』という言葉の形をとっていた。 「蓮華!?」  彼女の体がぱっと離れた途端、一刀は彼女の事をまじまじと見ずにはいられなかった。予想通りというかなんというか、彼女の顔は真っ赤に茹で上がったようになっていた。 「目を開くなと言ったろう!」 「いや、だって……」 「お、おまじないだ。おまじない!」  赤い顔のまま、彼女は滑るように走り去っていく。それは声をかけようにもかけられないくらい素早く鋭い動きであった。 「おまじない、か……たしかに強力な祝福だ」  一人、竹に囲まれて取り残された一刀はそう呟いて、まだ最前の温もりの残る己の唇を指でなぞるのだった。 8.千年の祭り  数え役萬☆姉妹の北伐記念公演は大盛況であった。  既に、現地に向かう兵士向けの慰安公演は終わり、十日前からは洛陽の民に向けての公演が開かれている。戦の間の民の気持ちを安定させるためもあり、いくつもの都市を行き来する、彼女たちにしても珍しいくらいの長期公演の日程が組まれていた。  今日はひとまず洛陽での公演が最終日ということもあり、とてつもない人手と熱気となっていた。  一刀によって導入された『あんこーる』まで全舞台を終えた三人は、裏方のねぎらいの言葉を受けながら、特別にあつらえられた控え室へと下がっていく。本来ならば洛陽公演第一期最終日ということもあり、裏方含めて大勢で盛大に打ち上げといきたいところだが、姉妹の人気の高まりが激しすぎて、彼女たち自身がそう気楽に飲食店に行くわけにもいかなくなっていた。  そもそも会場を抜けだそうにも公演に興奮した人々は会場からなかなか出て行こうとせず、当然彼女たちも出られない。  しかたなく、三人は会場の熱気が冷め、人々が完全に周囲からいなくなるまでこの控え室に居座るはめになる。その後は兵士達が護衛して、王宮にという手筈だ。  王宮でささやか――というのは華琳の言だから怪しいものだが――な慰労会が待っているらしいが、そこにたどり着く頃にはもうろくに体力が残っていないだろう、と数え役萬☆姉妹の頭脳――末妹の人和は予想していた。いまでも体力自体は残っていないが、興奮が冷めていないため動けているのだ。 「あー、今日もたのしかったねーっ」  言いながら舞台衣装を脱ぎ捨てて、下着だけになってしまう長姉天和。姉妹一豊麗な姿態があらわになって、人和は見慣れているとはいえうらやましく思う。女としてというのももちろんあるが、あの伸びやかな体は舞台で特に映えるのだ。 「天和ねえさん、はしたない」 「だってー、暑いんだもーん」  人和の注意にも動じた風はない。ただ、脱ぎ散らかした舞台衣装はきちんとたたみ直すあたり、多少は気にしているのかもしれなかった。 「どうせなら、お風呂沸かす? ちぃも汗流したいし」  喉の渇きを潤した後、ぱたぱたと手で顔を扇いでいた地和が提案する。この控え室は今回の長期公演のためにかなり気を遣った作りをされていて、奥の一角に風呂桶のある部屋があるのだ。ただし、安全性を考えてあまり火力を強められない構造のため、湯が沸くまで時間がかかるのが難点だ。 「あっためなくても水でいいんじゃない? 暑いよ」 「たしかにー」 「そうね。あんまり長く浸かっていなければ、無闇と冷やすことにもならないでしょう。どうせ甕の水もぬるくなっているだろうし」  三人の意見が一致して、彼女たちは協力して大甕の水を桶に注いでいく。余計に汗をかいた三人は皆、水を張った桶を物欲しげに眺めていた。 「ふぃー。さって、入ろうか」 「誰が最初?」 「えー、みんなで入ればいいじゃない」  天和の提案に残りの二人は少々驚くが、桶は十分大きいし、三人姉妹で誰に遠慮するでもない。 「それもそうね」  そうして、三人の歌姫達は生まれたままの姿になると、その白い肌を水に埋めていく。 「あぁー」  水の感触が心地いいのか、地和がため息のような気の抜けた声を上げるのに、天和がけらけらと笑う。 「変な声ー」 「しかたないでしょー。さすがに疲れたし」 「完全燃焼って感じだよね」 「燃え尽きちゃわないでよ。次は長安公演が待ってるんだから」 「大丈夫だよー。まだまだ歌いたいくらいだもん」  そんな風にふざけ合いながらも今日の公演の出来や今後の出し物について語り合っていると、ふと地和が虚空を睨んで呟いた。 「華琳様のあれ、なんだったのかな」 「ん……」 「言ってたことはなんとなく……でも、なんか難しいよねえ」  地和の言うのは、今日の開場前に激励に来てくれた華琳の言葉だった。彼女は予告もなくふらりと彼女たちの前に現れると衝撃的な言葉を残していったのだ。  あれは、きっといくつも播いた種のうちの一つなのだろう。  人和は少しぬるくも思う水に、それでも体の熱が吸収されていくのを感じながら、そう考えていた。 「あなたたちには、千年の祭りの巫(かんなぎ)となってもらいたいのよ」  華琳は確かにそう言ったのだ。 「千年の祭り……?」  怪訝そうに聞き返したのは天和。しかし、三人ともにその言葉に理解が及ばなかった。 「あなたたち、舞台をやっていて、そこに参加する人々の熱≠感じたことはない?」  それはもちろん感じる。舞台の上で飛びはね、歌う彼女たちに向けられるそれは、熱ければ熱いほど、さらに彼女たちを燃え立たせて、すばらしい表現を生み出してくれる。  それは歓喜であり、欲望であり、純粋な思慕であり、そして、なによりも形のない熱狂だ。それが渦巻き、自分たちを取り巻き、そして、己の中に入り込んでさらなる奔流となって舞台全体を包み込んでいくのを、彼女たちはほとんど忘我のうちに感じている。  それは、別の言い方をすれば、寄り集まった膨大な『氣』。 「あなたたちも、いえ、あなたたちこそ感じたことがあるはず。民の、方向性のない血の滾りを。なにを望んでいるのか、なにを願っているのか、あるいはなにを悔しく思い、なにを憎んでいるのか、そのことすらわかっていない民達の、生のままの情念」  おそらく、華琳もそれを感じているのだ。三人はそう直感した。彼女たちがそれを感じるのは舞台の上。けれど、華琳が感じているのは、日々の政や、戦の時だろう。そこにあるのは、娯楽を主とする彼女たちの感じるものよりさらに切迫したものであるはずだ。 「それは方向性を持たない。だから、誰かが制御してやる必要がある。時に英傑がそれを御して国を興し、あるいは戦を起こす。だが、時に巫覡がそれを成す」  華琳はそう言うと、懐かしむように不敵に笑った。 「そう、あなたたちは黄巾でそれを一度行った」 「でも……」  三人の脳裏に、かつての黄巾の乱の有様が思い浮かぶ。ただちやほやされていたはずが、いつの間にか大陸を巻き込む争乱へと変質していくのを、最初は気づかず、気づいても止めることが出来なかったあの日々。 「ええ、失敗したわね。御しきれずに暴走して……。いえ、あの頃は、きっと御すことすら考えずにいたのでしょうけれど」 「もう一度……それをやれと……?」  そう問いかけたのは誰だったろう。人和は自分だと思ったが、あるいは三人全員がそう思っていたのかもしれない。 「その通り」  華琳は首肯するとしっかりと真正面に立ち、彼女たちに語りかける。 「いま、人々は落ち着いている。けれど、それは所詮皮相的なもの。その奥では戦乱の時の火がいまだくすぶっている。あの黄巾の乱を引き起こした炎がね。私はその熱をあなたたちに御してもらいたい。そして、それを昇華させてもらいたい。一時の熱狂ではなく、時を経ても蘇る、真の熱情へと。  そのために必要なのよ。  彼らの熱を、彼らの思いを遂げる祭りが!  百年、五百年、千年続く祭りが!  形なんて変わってもいい。意味なんて失われてもいい。民の熱情をまとめあげ、ほとばしらせる生命の祭りという本質さえ消え去らなければ」  彼女たちは歌を歌う。恋の歌を、日々の悲しみと喜びを歌う歌を。だから、言葉の持つ力を、そこに込められた本当の意味を理解している。人の心に届くということの意味を知っている。  その彼女たちでさえ、いま目の前で言葉を発しているその人の放つほどの力を、感じたことがなかった。  三人は目の前にいる人物の正体を改めて思い知った。  小さな体の少女が、いまは彼女たちを遥かに見下ろす巨人に見える。  彼女こそ三国を統べる覇王なのだ。 「国を滅ぼすがいい。国を興すがいい。全てを破壊し、全てを再生するがいい。あるいは一万年の帝国を築くがいい。彼らがそれを望むならば。ただ、私が願うのは、ただ一つ」  真っ直ぐに差された指が心臓に突き刺さるのではないか、と三人は恐怖に戦く。 「民がその身に秘める、燃え上がるような生命を解放させる祭りを起こし続けること」  そして、と覇王は続ける。 「あなたたちは、その最初の巫女王となるのよ」 「華琳様……」  三人は呆然と彼女の名を呼ぶしかない。彼女の投げかけた役目は、それほどまでに凄まじいものだった。 「でもね」  華琳はそこで柔らかく笑った。華やかな、けれど、希望に満ちた笑み。 「どうやるかは、あなたたち次第よ」  そして、今日の公演もがんばるのよ、と激励を言い置いて出て行く少女を、彼女たちは黙って眺めるしかなかった。  たしかに言われた通り、民達の中で火はくすぶっている。いや、燃え続けていると言っていい。  三国に平和は訪れたものの、統一はされなかった。旧弊と言われた漢は倒れなかった。その中途半端さは民衆になんとなく納得できない気持ちを抱かせていた。  しかし、その一方で、民達は平和を望んでいた。戦で焼け出されることもない。難民となって飢えることもない。目の前の娯楽を楽しむ余裕のある生活を望む気持ちもまた強かった。  それらの感情はまとまったものではない。それぞれの人々が様々な事を考え、思い、行動している。だが、たしかに熱気は冷めぬままにそこにあるのだ。  根源的に言えば、それは、生きたいと思う情熱だ。  そのことを彼女たちは公演を通じて感じ続けていた。  戦は終わった。民達を鼓舞し、魏の軍に新兵を送り込むという彼女たちの任務も終わった。  しかし、三人の誰にも活動をやめるつもりなどなかった。  ならば、彼女たちが煽る熱は、どこへやればいいのだろう。舞台で感じる熱は、彼女たちが公演を行う度にさらに膨れあがる。それをどこへ持って行けばいいのだろう。これを舞台で消費するだけで、いいのだろうか?  それは、彼女たち自身うすうす感じていた疑問だった。  その熱≠、華琳は御してみせろと言う。矛盾し、拡散し、ただ無闇と発散されるものをまとめあげ、方向性を持たせてみせろと言う。  その熱を、自分たちに向けるわけにはいかない。黄巾の乱をもう一度起こすなど、まっぴらごめんだ。  だとしたら。  それを向けるべきはどこなのか。曹孟徳という覇王か、あるいは……。  そんな物思いを、不意に部屋の外からかかった声が途切れさせた。 「おーい、開けてくれー」  その声は、なじみ深いもの。既に体にしみ通って、自分のものになったような声。しかし、けして、ここにいるはずがない人のもの。 「えっ、一刀!?」 「呉に行ってるんじゃ!?」  姉と妹の二人が驚いて声を上げている間に、真ん中の地和ははしっこい動作で湯船を飛び出すと水をしたたらせた裸身のままで、扉に駆けつける。彼女は戸を開けると外にいた人物を中に引きずり入れた。  そこにいたのは、北郷一刀。少し服はよれ、髪は乱れて疲れているようだったが、彼女たちが愛する青年に間違いなかった。 「うわ、なんて格好してるんだよ、地和」  目を白黒させて驚く一刀に構わず地和は扉を閉めて、改めて彼に抱きつく。一刀の服が濡れることなどもちろんお構いなしだ。 「来てくれたんだ……!」 「ああ、夕方に洛陽についてさ。今日が洛陽での千秋楽だって聞いて駆けつけたんだ。最後の曲とアンコールには間に合ったよ」  でも、なんで、裸の上に濡れてるんだ? と疑問を呈する一刀だったが、己の胸に顔を埋めて名前を連呼している地和を抱きしめ返すのは忘れない。 「ちーちゃん、ずるーい」  ぽたぽたと水滴を垂らしながら天和も部屋に出て行くのを、人和が乾いた布を持って追いかける。 「うわわ、天和も裸かよ。って、人和まで裸で!」  その青年の慌てた、けれど温かな笑みを見て、人和は思う。  もしかしたら、ここに答えがあるのかもしれない。  しかし、彼女はまずは愛しい人に会えた喜びに、持っていた布を投げ捨てて、喜色満面で彼に抱きつくのだった。      (いけいけぼくらの北郷帝第三部第三回 終/第四回に続く) 北郷朝五十皇家列伝 ○東方呂家の項抜粋 『東方呂家は、呂布に始まる皇家である。天下の飛将軍と呼ばれた呂布の勇猛はつとに有名であるが、個人の武で戦の帰趨が決するわけもなく、呂布は何進配下から董卓軍、劉備軍と遍歴を重ねることとなる。最終的に彼女は太祖太帝配下と……(中略)……  その後は十字の旗には常に寄り添う深紅の呂旗があることが常識となり、北郷朝成立後は、華家と並んで皇帝守護家とまで呼ばれた。  実際、太祖太帝の治世晩期以後、世上で流行ったこんな戯れ歌がある。   十字掲げる御遣いさんは   鬼の張遼右にして   左に呂布を引き連れて   征きも征きたり、海の果て  張遼の部分が『鬼の華雄を』となっている例をはじめ様々な派生系が流布されており、そもそもこれが原型であったかもわからない。  ただ、多く溢れる同種の歌で『左の呂布』が変化しているものは数えるほどしかない。それぞれの皇妃たちの故郷で、たとえば関羽になっていたりすることはごく稀に起こるものの、世に流れている類型のほとんどは呂布を引き合いに出す。  それほど十字の旗と言えば隣には深紅の呂旗という印象が強く……(中略)……  さて、これほどまでに皇帝の間近にあり、守護を任ずるとされてきた呂家であるが、太祖太帝没後、東方殖民に参加する。  このことに疑問を呈する歴史家は多い。なぜ東方呂家がその初代の方針を覆し、東方殖民に参加したかということに関してはいくつもの説があるが、大別すると以下の二つに収束する。 1.呂家の忠誠はあくまで太祖太帝に向かうものであり、後継の帝に対しての忠誠よりも殖民による利益を求めた。 2.大陸を同じくする西進に対して東進はその正当性の根拠が薄く、皇帝守護を担当する呂家が参加することで、東進もまた帝の――つまり、皇家全体の――意志であることを訴えた。  どちらもあり得ることであり、比重に差はあるもののどちらの理由もあったと考えるのが妥当であろう。  なお歴史研究の面ではあまり支持されないが、世間的には人気のある異説として、太祖太帝は東方殖民開始時点では実は生きており、深紅の呂旗はあくまでも十字の旗について行ったのだ、とするものがある。  これは根拠に乏しいものの、人々の感傷を大いにかきたて、いくつもの伝説を……(後略)』