漢中。  それは、かつて漢の高祖劉邦が封じられた土地。  周囲を山で囲まれるために寒波が侵入しづらく、気候は温暖で地味は豊か。恵まれた土地であった。  その漢中の中心都市たる南鄭の城から、二頭立ての馬車が走り出た。周囲を騎馬の兵に囲まれたそれは、がたごとと揺れながら道をひた走る。 「田豊さん、気むずかしそうな人じゃなくてよかったね」  体の芯に響いてくる揺れに耐えながら、二人の乗客のうち一人がもう片方に話しかける。彼女の首についた鈴が振動を受ける度に小さな音を立てる。時折、彼女は大きな飾りのついた帽子が落ちないよう押さえつけてもいた。  彼女こそ、この漢中も含めた益州、及び荊州を支配する蜀の大軍師、世にも名高き諸葛亮であった。 「うん。でも、はっきり物事を言う人だね。ちょっと……怖かったかも」  これもまた、先のとがった大きな帽子が落ちないよう押さえながら答える片割れは、諸葛亮と並び称される鳳統その人である。彼女は、大きく広がった帽子のつばで顔を隠すようにしながら、小さな声で答えていた。 「元々、袁紹さんのところにいた人だし、あれでもましだと思うけどな」 「それは……うん、そうだね」  彼女たちは世に名高き大軍師であると共に、まだ年若き少女でもあった。その真名は朱里と雛里という。 「たしかに秋蘭さんは話しやすかったけど……。でも、なにしろあの曹操さんの側近中の側近だもん。下手になにか言ってしまうと大変だったわけだし」 「そういう意味では、少し緊張してるくらいのほうがいいのかな……」 「うん、たぶんそうだよ」  二人は顔を合わせて頷き合う。 「桃香様と鈴々ちゃんは、いまどこらへんかな」 「どうだろうねー。天候も悪くないから、長江を順調に下ってれば、結構進んでいると思うけど」  雛里が、彼女たちの主劉備こと桃香と、その義姉妹でもある鈴々――張飛のことを口に出すと朱里は腕を組んで考え込む。その途端、車輪が石でもはねたのか、がたんと大きな揺れが届き、彼女はひゃっ、と声を上げた。  それを見て、雛里は思い出したように呟く。 「曹操さんのところの馬車、すごかったね」 「うん、全然揺れなかった」  彼女たちが話しているのは、以前、三国会談で洛陽を訪れた折に乗った貴賓専用馬車のことだが、それが工兵隊長にしておそらくは三国一の発明家であり技術者でもある真桜の手によって改良を続けられ、さらなる発展を遂げていることは、もちろん知る由もない。 「あれは、馬車自体もだけど、道のおかげもあるよね」  それに比べて、この道のなんとお粗末なことだろう、と体の芯を突き上げてくる振動に雛里は嘆息せずにはいられない。これでも益州の要所である漢中と、蜀の都成都とを結ぶ幹線道なのだ。後漢代々の都、洛陽の周辺と比するのはおこがましいことかもしれないが、やはり比べてしまう。 「でも、蜀であれほどの整備をするには……ね」 「手が回らないね」  蜀はけして不毛の地ではない。山がちな地形ではあるが、四川盆地やその中心となる成都平原のように、気候が安定し土壌も豊かな地も多い。塩、銅などの埋没資源も含めれば、十分に民を潤すだけの富を得ることの出来る、比較的恵まれた場所だ。  そして、民も蜀という国を――なによりも、その王である桃香を慕っていて、納税や賦役の状況も悪くない。  しかし、一度、三国全体、大陸全体に目を向けると、途端にその不足が目立ってくる。  確かに住んでいる民が困らないだけの作物や、生活物資は手に入る。だが、豊かでなんでも実る土地があり、周囲を峻烈な山々に囲まれているだけに、経済が自己完結してしまいがちなのだ。  民には、足りないものを購うために余剰物資を生産しようという意識が働かない。なにしろ、食うに困るわけではないのだから。  そういった人々は山向こうの世界のことを気にしなくなってしまう。そして、発展は止まる。残るのは停滞だけだ。  けして貧しくはない。けれど、さらなる展望を開くには、力が足りない。  蜀とは、そういう土地であった。  力をためることは出来る。民に少しだけ苦しい暮らしを強いることで、外に向かう兵や、他国と伍する富を得ることが出来る。実際、戦乱の世の中では、蜀はそうしてきたのだ。  しかし、いまそれをやるわけにはいかない。  戦乱の世が過ぎ、世は平和を謳歌している。  その状況で、民に我慢を強制することは出来なかった。なによりも、国主である桃香自身がそれを許さないだろう。  だが、他の二国とは、そもそもの生産力が違う。人の数が違う。  このまま時が過ぎていけば、その差は圧倒的なものとなっていくはずだ。特に、戦乱で人が減っていた状況が改善されつつある現状では、広大な土地を抱える国の強みが出てくる。  三国の中で三番手となるのはしかたないにしても、それなりの存在感は確保しておかなければならない。  そのために彼女たちは考えに考え、様々な施策を執りおこなっているのだが、それでも他国との差はなかなかに埋まらない。  自分たちが一歩進む間に、呉は二歩、魏は三歩進んでいる。  そんな実感を覚え、焦りを抱える日々だった。  ふと、雛里は恐怖を覚えたかのように顔を青ざめさせた。 「そういえば、まさか、雪蓮さんたちまで北郷さんのところへいくのかな?」 「それはいくらなんでも……。翠さんたちがあの人の指揮下に入ってる現状で、雪蓮さんと冥琳さんまでってなったら……」 「亡くなってることになってるから、公的な影響力は及ぼせなくても、実質的な影響力は残るものね」  うーん、と二人は困ったような声を上げる。その後で、朱里は小さく息を吐いた。 「でも、私たちには教えてくれてもよかったのに……」 「雪蓮さんたちのこと? そうだよね」  この国の王桃香は、いま、その義姉妹の一人鈴々を連れて、かつての盟友孫策と、その軍師でもあり親友でもあった周瑜の葬儀に出席するために、呉の都――建業に向かっていた。呉とは隣国でもあり、戦乱の時代には同盟を組んで魏に対していた縁もあり、その王と軍師が一時に死去したとなれば、これはもう国家的な大事件であった。  もちろん、蜀の重臣たちも大慌てで今後の政治情勢の分析などに入ったが、それ以上に、呉の国主孫策とその軍師周瑜としての顔ではなく、雪蓮と冥琳という、皆が親しくしていた女性たちの突然の死に、個人的な衝撃を受けていた。  だが、そこで、のほほんといつもの調子で、彼女たちの主はこうのたまったのだ。 「雪蓮さんと冥琳さんなら、月ちゃんたちと同じく、死んだことにしたってだけらしいよ」と。  そのことを誰一人知らされていなかった重臣たちはまさに驚天動地の有様で、呆然とするしかなかった。 「でも、呉でも、魏でもほとんどは知らされてなかったんだってね」 「桃香様によると、呉でも知ってたのは、亞莎さん、明命ちゃん、穏さんだけだったらしいね。蓮華さんや小蓮ちゃんにも隠すってのはすごいと思うけど」 「あとは魏の華琳さんと、大使をしてた真桜さん、それに……北郷さん」  その名を口にした途端、二人は揃って表情を複雑なものとした。がたごとと馬車の揺れる音だけが響く。その顔に浮かぶのは嫌悪のようにも、恐怖のようにも見えた。あるいは憧憬のようでもあり、畏怖のようでもあるその複雑な表情は、鏡に映したようにそっくりで、二人の軍師の心が思い切りかき乱されているのを如実に語っていた。 「……北郷さんかぁ」  ため息をつくように吐いた言葉が見事に重なる。 「個人的にはいい人だと思うんだけどなあ、北郷さん」 「うん。でも、あの人の影響力は……怖いよ」 「華琳さんも、それを助けてるよね」  諸葛亮、鳳統、共に蜀を代表する大軍師。その知恵は誰よりも深く、その眼は遙か彼方を見据えている。  その――はずだ。  その二人が、たった一人の人間を恐れている。これは、異常な事態だ。  たとえば、曹孟徳という人物がいる。  魏を打ち立て、並み居る豪族たちを膝下に降し、蜀、呉の二国も呑み込んだ覇王。大陸の未来を左右する、この大陸でも最重要の人物。  朱里も雛里も、彼女を警戒する。だが、恐れはしない。  なぜならば、曹孟徳の持つ力を理解しているからだ。その民政の能力、所有する地盤の力、あらゆる事に対する観察力と決断力、そして、なによりも、彼女が抱える軍の膨大なまでの暴力。  全てを彼女たちは知っている。たとえ、曹孟コという人物自身を、その行動原理を理解できなくとも、周囲の状況から、臣下の動きから、あるいは自分たち自身の働きかけから考えて、次に繰り出す策をおおまかに推測することが可能だ。  だが、北郷一刀は違う。  彼女たちは彼を恐れる。  なぜならば、彼女たちには理解できないから。  北郷一刀という人間が、なぜそれだけの影響力を持ち、なぜそれだけの人々を惹きつけるのかが。  北郷一刀という人間を理解できないわけではない。  夏侯姉妹に次ぐ魏陣営最古参という経歴は知っているし、何度か会って話をしたこともある。天の御遣いという存在の意味や、天の世界の知識も含めたその実力をきちんと把握してもいる。  そうやって彼女たちなりに理解した上でなお、なぜ彼がそれほどの影響力を持つのか、その理由がわからない。  なぜわからないのか、その仕組みすら理解できず、二人の賢人は頭を悩ませる。そうして思い惑う二人を乗せて、馬車は行く。  おそらく、いまの彼女たちには、けして理解することが出来ないだろう。  なぜならば。  ――彼女たちはまだ、恋を、知らない。  そう、これは――。  恋姫たちの物語。  いけいけぼくらの北郷帝    第三部 『郷路』 開幕  第三部 第一回   1.叛旗 「おぉおおおおおおおおっ」  騎兵に対するにはただひたすらに踏ん張ることだ。小細工は通用しない。逃げれば死ぬだけだ。かつての指揮官の言葉を思い出し、彼はしっかと大地を踏みしめ、槍を突き出す。  彼は、かつて魏の正規兵だった。あの赤壁にも、成都攻略戦にすら参加した歴戦の勇士だった。三国が平定された後も、軍を辞めさせられたわけではない。自分から家族の元に戻るために、望んで辞めたのだ。  おかげでまとまった金を得られた。出身地で帰農することを条件に牛と――さすがに脚色であろうが――李典将軍自らが鍛えたという触れ込みの鉄製の犂さえもらえたのだ。  しかし、帰った故郷に、待っているはずの父母はいなかった。かわいい弟はいなかった。彼が兵役に出た直後――黄巾の乱の後期に村が襲われ、父母兄弟を含めて親族のほとんどが死んでいたのだ。  ただ叔父夫婦だけは生きていた。そして、彼が送り続けた給金は、全て彼らのものとなっていた。  そこで、どうでもよくなった。  おためごかしを言いに近づいてきた叔父をそのまま引き倒し、金切り声を上げる叔母を拝領した犂で殴り殺したところで、さらにどうでもよくなった。  叔父は背骨を踏み抜くだけにとどめた。そのまま放ってきたが、生きていても一生歩けはしないだろう。  そして、軍時代の顔なじみを頼って傭兵となり転々としていたところで、今回の戦に誘われた。なんと、魏の覇王、曹操に叛旗を翻す戦だという。  賭けてみるか、と思った。  魏軍で築き上げたものは全て失った。今度は、かつて仕えた相手から無理矢理毟り取るのもありだろう、そう思った。  そうして、彼は戦場にいる。  敵は、あまりに寡兵だった。  こちらは万を超える軍を揃えているというのに、あちらにはせいぜい数千しかいない。この場に来るまでは震え上がっていたような賊上がりの兵も、それを知って急に元気になって、何事か空虚な言葉をわめき散らしていたくらいだ。  だが、実際に対してみれば、数百頭の騎馬とはいえ、その巨体が列になって襲いかかってくる姿は、やはり恐ろしい。  逃げようとした左隣の兵をぶん殴って踏みとどまらせ、槍を構えて大声を上げる。そうして気構えを組んでいれば、よほどのことがない限りは生き残ることが出来る。  騎兵による最初の突撃で怖いのは、長距離を走って勢いにのった馬にはじき飛ばされ、踏みにじられることだ。馬上の兵たちの攻撃など、その勢いの中ではほとんど届くことはない。乗り手を恐れねばならないのは、二度目三度目の緩い刈り取るような突撃の時だ。  だから、先手を打って馬を槍で突き殺す。それが、歩兵に出来る最良の選択だ。もちろん一刺しであの馬体が倒れるはずはないが、こちらは数で遙かに勝るのだ。それになによりも、馬体の突進の力が、そのままこちらの力となってくれる。  そうして同じように槍を構える列の中、彼は近づきつつある騎馬の群れの先頭にいる人物を見つける。  結い上げられた髪、挑むよう浮かべた獰猛な笑み。そして、切れ上がった深い緑の瞳。  それは、戦場には似つかわしくないほど美しい一人の女性だった。  身につけているものと言えば、風をはらんで翻る羽織と、胸に巻いたさらしと袴だけ。防御を微塵も考えぬその姿。  張遼将軍……!  その部隊を率いる将の正体を悟った瞬間、彼の体から戦場の高揚は消え去った。  そして、彼は悟る。  ああ、これが俺の……。 「ん?」  手近にいた敵の首を刎ね上げながら、霞は何かを見つけたような気がしたが、そのひっかかりはするりと思考の編み目を抜け落ちていく。さらに二度三度飛龍偃月刀を振るった後で、軽い口調で呟いた。 「まあ、ええか」  敵はそこら中にいた。なにしろ、こちらは五百、あちらは一部隊でもそれを倍するだろう。気にするまでもなく、武器を振るえばそれだけで敵にあたるような状況だった。  とはいえ、もちろん、そんなことを言えるのは世に謳われる張遼だからこそだ。彼女の隊の兵たちは優れた兵士だが、霞に並ぶほどの者はいない。  猛烈な勢いで走る馬を御し、相手の突き出す槍から馬体を避けさせても仲間の馬の進路を邪魔しないだけの技量はあれども、走り際に武器を三度振るうだけで五人から十人が体を引き裂かれるなどという荒技が可能なわけではないのだ。 「んー、右が弱いか?」  彼女は敵の兵を斃しながらも、隊全体の様子を常に見ている。いや、感じていると言うほうが正しいだろう。視界に入っていなくとも、いななきや地を蹴る蹄の音や空気の流れ、あるいは何とは言えない雰囲気を感じ取って、彼女は隊の動きをまるで自分の体の動きと同じように把握している。  その感覚が、妙に右端で鈍いように思えた。  絶影の腹を腿で挟み込み、ほんの少し走る速度を抑えさせる。そのまま敵の歩兵を蹂躙する隊列の中に入り込み、右側にいた兵の一団の中へ移動していく。その中で、霞は一人の兵の近くに駆け寄った。 「なんや、縮こまって。あんた、隊を率いるんは初めてやったっけ?」  目をつけた相手と馬首を並べ、わらわらと打ちかかってくる敵を払いのけるように薙ぎ切りながら剣戟の音に紛れぬほどの声で訊ねてみる。相手は馬を操ってはいるものの、武器は前に突き出されただけで、明らかにもてあましている感があった。  集団としては、最初の衝撃が薄れ、動いてはいるものの、馬群の動き自体が鈍りつつある。本来はこの部隊を突き抜けて、その後に旋回する予定だったが、抜けきれないかもしれない、と彼女は考えていた。 「は、はい、張遼隊では、初めてであります!」  こいつは、たしか親衛隊の出やったか。部下を指揮するんはうまい思て百人長にしたけど、ちょい焦ったか?  自分の判断を省みつつ、特に気にもせず、絶影の駆けるのを楽しむ。 「そうかー。うちとこで戦うのが初めてでこれは大変やろなー。せやけど……ここまで来たら覚悟決めんかい、だぁほ」 「は、はいっ。死ぬ覚悟ならば出来ております!」  思わず怒鳴っておきながら、百人長としての戦が初めてならばそのようなものだろう、とも彼女は思っていた。まだ一般兵とそれほど変わらないのだ。指揮する者としての意識が生まれるのは今日生き延びた後のことだろう。  それでも、やはり伝えておかねばならない。  この場で。  血風吹き荒れるこの戦場でこそ。 「かーっ、これやから。あんた! そこの百人長」  呆れたように息を吐きながら、左の方、五騎ほどを隔てて駆けていた隊長の一人に声をかける。 「はいっ」 「一度兵をまとめて退くで。うちがここで踏ん張るから、小さくまとめ」 「了解っ」  絶影に膝の動きだけで方向を示すと、途端にその速度を上げ、先頭に立つ霞。その合間に、彼女は命を下した百人長に問いかけていた。 「あんた、死ぬ覚悟なんてもって戦っとるか?」 「いえ、死ぬ覚悟はありません。ただ、命の使い道を考えているだけでして。使いどころを、おっと、間違えぬ覚悟はありますが」  横合いから打ちかかってきた槍を避けながら答える百人長を後ろに残して駆けながら、こいつは百人長止まりやな、彼女は口の中だけで呟く。  絶影の蹄が一人の兵士を右前に蹴り上げ、そのはじき飛ばされた体を、待ち構えていたように飛龍偃月刀が両断する。  息のあった人馬は、まるで踊るように歩兵の隊列の中で人をはね上げ、踏み潰し、切り裂き、打ち砕いていた。  それと共に、滑るように隊列の後方から進み出てきた騎馬の姿がある。これまで殿についていた彼は、千人長という肩書きを持つ。 「おう、あんた。死ぬ覚悟なんかあるか?」  麾下にも五人しかいない千人長に水を向ける。常日頃副官としての任を果たし、これまで何度も死線を共にくぐり抜けてきた男だ。 「そうですな……まあ、生きるも死ぬも、一歩踏み出すだけの違いですからね。なるようにしかならんでしょうな」  霞が武器をはじき飛ばした男に手に持つ矛で止めを刺しながら、彼は飄々と答える。彼と霞が敵陣中央で目立つ戦いをしている間に、兵たちが背後で小さくまとまりつつあるのを彼らはしっかり感じていた。 「ああ、しかし、このような言は講談師には好かれますまいな。もう少し格好をつけたほうがよろしいでしょうかね?」 「なんや、詩でも作ってもらうつもりかいな」 「五百で二万五千の本陣を崩せば、物語の一つ二つ出来ますよ」  彼らは談笑しながら、規則正しく刃を振るう。遮二無二つっかかってくる歩兵たちをあやすように長柄が突き出される度に、血の花が咲き、苦鳴と肉を切り裂く音がする。 「はっ、せやな」  猛る絶影を少し押さえ込むようにして、霞はその場を確保する。あまりの斬撃の鋭さに彼女たちの周囲の兵は距離を置くようになっていた。 「よっしゃ、右に旋回すんで」 「は。では、私が先駆けを」  千人長は馬首を巡らし、兵たちを引き連れて右へと流れていく。もちろん、敵も黙ってそれを見逃してくれるわけはない。流れる馬群に猛然と向かおうとする兵の群れの前に、霞の真っ直ぐに伸ばされた偃月刀が横たわる。一声高く、絶影がいななきを上げた。 「さあて?」  なんとも知れぬ問いかけに、歩兵たちはたじ、と一歩足を止めてしまった。その一瞬で、全てが決まった。張遼隊は駆け抜け、それに応じて前に出ようとした歩兵たちは、軽く振るわれた偃月刀に飛ばされた仲間の首を見て、さらにその動きを鈍らせた。  にたり、と後に残る笑みを見せ、張遼はその身を翻す。右方の開けた場所を目指す張遼隊の後ろについた彼女は、次第に兵たちを追い抜き、その先頭に立つ。  そして、そこで絶影の足をゆるめ、ゆっくりと向きを変える。向かうは新たな部隊。その部隊が弓を持ち出そうとしているのを見て、霞は嘲りの笑みを浮かべる。  そんなもの、最初から弓隊として配置されているならともかく、付け焼き刃の持ち替えなど整う前に突撃するのがわからないのだろうか。かえって突撃に備えることが出来なくなると言うのに。 「おう、うちの隊のやつら、よっく聞け。進むも死地、退くも死地や。周り見渡してみぃ。死で溢れとる。その死に呑み込まれるんも、生き残るんも、たった一歩の差ぁしかあらへんのや。  どうするか?  そんなん考えてる間に死ぬわ」  彼女の背後に集まった兵は物音一つ立てず、彼女の言葉を聞いている。 「もうな、うちらには死地しかないねん。  せやったら、進んでみぃ。一歩でも進んで死んでけ。その先に生きる道もあるかもしれん。うちらの進む先は、ただ、死ぃあるのみや。その死が敵のもんか己のもんか、たった一歩の差ぁや。どの一歩がそれかなんて、わかるんは鬼のみや。  うちらはただ信じて進むしかない。それしかないんや」  彼女は飛龍偃月刀を構える。すでにべっとりと血にまみれたそれは、なによりも雄弁に身近な死を物語る。 「いま、うちらが世界の中心や。  ええか、死地こそが世界のど真ん中や。ここに全てがあり、ここで全て無くすんや。  さぁあ、置いていけ!  命を、死を、生きたい思う気持ちも、死ぬと決めた覚悟も、全て置き去りにして、一歩を踏み出せ!」  そうだ置いていこう。  あの人がくれた、一人の女としての安らかな思いも。  あの人に感じる、このはちきれんばかりの思いも。  いまは、置いていこう。  ただ、殺すために。  ただ、打ち砕くために。  あの人と、その後ろにいる幾人もの愛しい人々のために。  さあ、行け。  いま、自分は、なによりも無敵だ。 「張遼隊、突撃」  その宣言は、いっそ静かに戦場に響いた。  2.飛将軍  栄えある曹魏の親衛隊将校である彼女は眼前の光景がとても信じられなかった。  親衛隊千名が、敵のほぼ同数の部隊四つに前後左右から囲まれながら、その状況を打開しつつあることを、ではない。  それを成し遂げている原動力のほとんどが、たった一人の女性から出ていることに、彼女は驚き、畏怖していた。  名にし負う曹孟徳の親衛隊。たとえ四千の敵を相手にしても、その弱い一角を突いて、突破をはかることは難しいことではない。  だが、彼女の目の前で行われているのは突破ではなく、足を止めての力のぶつかり合い、兵の削り合いだった。  そして、それを制しているのは、数に勝る叛乱軍でもなく、曹魏の選び抜かれた精兵でもなく、一人の将軍――天下一と名高い武人、飛将軍呂奉先その人であった。  方天画戟が振られる。  その速度は凄まじく、その技の冴えはすばらしい。  おお、見よ。その刃は、血に濡れてすらいない。  だが、それがもたらすのは、無惨な現実だった。  肉が潰れ、体の部位が引きちぎられ、手足の何本かが切り裂かれて飛ぶ。呂奉先が一振りする度に、いくつもの生命が失われ、幾人もが不具にされていく。  それは、まさに暴風。  一人の女性を中心に荒れ狂う暴虐の嵐であった。  呂布将軍一人だけで、一部隊、いや、一軍に匹敵する。指揮する彼女をはじめとして、親衛隊の面々がそう思ってしまうのは無理もない働きであった。  もちろん、それだけで圧倒的劣勢を覆せるわけではない。呂布のあまりの強さに恐れをなして、それよりはましな相手――つまり、親衛隊のほうへ向かってくる敵もいれば、単純に位置取りの問題で、呂布の手が届かない兵もいる。それらに対して、親衛隊はまさに獅子奮迅の働きをしている。  だが、それでも、その戦場を支配しているのは、膨大な血を流しながら、まるでそれに汚れていない赤毛の女性であった。  彼女はしばらく前――この戦が始まる直前の事を思い出す。  ちょいちょい、と存外にかわいらしい――恋という一人の女性をよく知る者にとってはとても彼女らしい――仕草で手招かれ、親衛隊の将校である彼女は主である曹孟コに対する時とは別の意味での緊張を感じながら、臨時の将軍である呂奉先の下へ近づいていく。 「なんなりとご命令を」 「ん」  将軍はそう言った後、しばし無言だった。彼女としては、その無言の圧力に耐えがたいものを感じながらもなんとか踏ん張っている有様。ここで無様な姿を見せれば、曹魏の主はもちろん、親衛隊の長である許将軍や典将軍にまで恥をかかせることになる。 「先に、恋が敵を真っ直ぐに切り裂く。みんなは、それを広げて」  発せられた言葉は簡潔で、意味を取り違えようのないものだった。それでも、彼女はそれに驚かざるを得ない。 「それは……」 「馬車の時といっしょ」 「わかります、わかりますが、しかし、あの時とは数が違います。囲まれてしまうのでは……」  彼女の抗弁に、将軍はふるふると首を振った。 「いっしょ」  それでも納得できなさそうな彼女をじっと見て、呂布はしばし首をかしげる。それから、ようやく思いついた、というようにゆっくりと話し始めた。 「みんなで背中を預けながら両側に向かって戦う。そうしたら、敵は前にいる三人ぐらい」  将軍の言うことはわかる。囲まれれば、それなりの密集陣を取って戦わなければならない。だが、おそらくその言葉はもっと単純なことを言っている。言葉通りのことを。 「その向こうにいるのは、前を倒してから考えればいい」  それから、赤毛の女性は思い出したように付け加えた。 「殿が包まれそうになったら、恋が戻る」 「わかりました。我々はただ、二列になり、両側から向かってくる敵を討てばよろしいと、そうおっしゃるのですね」  少々呆れながら――こんなのは戦術とも言えない――答えると、将軍のほうは真剣に頷く。 「ん」  もちろん、この人ならば大丈夫だろう。しかし、我々は……。その不安をなんとか表情に出さぬよう努力したものの、目の前の女性は敏感に感じ取ってしまったようだった。 「だいじょぶ」  にっこりと朗らかな笑みは、彼女にまつわる噂とはまるで印象が違った。 「恋たちは、負けない」  それに、と続ける呂奉先。 「勝つだけなら、簡単」 「簡単、ですか……」  やはり、言うことが違う、と思った途端、次の言葉に、彼女は体を貫かれるような衝撃を受けていた。 「勝つまで戦えばいい」  ああ。  彼女は嘆息せざるをえない。  この女性は、これまで幾度戦ってきたのだろう。  百度か、千度か、百億の戦か。  戦って、戦って、負けてもなお立ち上がって、勝つまで戦い続けること。  その、強い意志の化身がここにある。  呂奉先。天下の飛将軍。  その示す言葉の意味を、彼女は初めて理解した。  この人は、強いから勝つのではない。  勝つからこそ強いのだ、と。  だが、その認識をさらに改めるような表情を眼前の赤髪の女性は浮かべる。 「でも、もっと大事なのは負けないこと」  そのはにかんだような笑みを浮かべた顔が向いているのは、本陣。  そこに、この方の大事な人がいる。直感的に、彼女はそう思った。  そして、そのことをうらやましいと思った。 「みんなを……まもる、こと」  言っているうちに、暖かな笑みは、だんだんと引き締まり、真剣きわまりない表情がそこに残る。 「恋が守る。だから、みんな、負けない」  将校はそこまで思い出し、手に持った剣を握り直す。  目の前には、数倍の敵。  だが。 「ええ、そうですとも」  彼女の頬には笑みが乗っていた。 「私たちは負けません」  恋の部隊の凄まじい戦いぶりを見ながら、馬上の華琳は小さく呟く。 「霞はもちろんだけど、籤を引いたのが恋でよかったわね」  宙高く舞う完全武装の兵士の姿などというものは、なかなか見られるものではない。周囲の兵は警戒に夢中で見えていないだろうが、彼女の目はしっかりとその光景を捉えていた。 「華雄や祭じゃだめだったってのかい?」  同じく隣で馬に乗ってその様を眺めている男――北郷一刀が訊ねる。泰然とした面持ちの華琳に比べて、緊張からか少々顔が青い。  彼女たちを囲む隊は、歩兵中心の部隊としてもゆっくりと進軍している。敵方も城からの援護が届く範囲であえて攻めようとはせず、つっこんできている呂布隊や張遼隊の対処にかかっていた。  おそらく、大将首である自分を始末するのは本陣の仕事だとでも思っているのだろう、と華琳は軽蔑の念を込めながら推察する。数で言えばあちらが絶対的に優勢なのだ。それにあぐらをかかず、この部隊に集中して攻め寄せていれば、この首を獲ることも出来たろうに。  だが、もちろん、相手がそんな苛烈な攻めをしないだろうと読んでいたからこそ彼女もここに出張ってきているのだ。 「いいえ、もちろん、あの二人も良き将ですもの。彼女たちなりの働きをさせればすばらしく役に立ったでしょうけれど、いま、敵を怯えさせるには霞と恋のほうが向いているってことよ」  そもそも、あの二人が来ていたら別の作戦を考えていただろう、と華琳は口の中だけで呟く。単純に怯えさせるより、脅かすほうへ考えを傾けていたはずだ。 「ふうむ」 「華雄は……言うなれば正確な強さでしょう? それは凄まじいことだけれど、獣のような強さを持つ恋と比べると玄人受けする類のものなのよね。それだけに近くにいる部下を惹きつけるのだけど、敵の素人集団には恐怖より呆然とした心情を呼び起こしてしまう」  自分ですら必死で追わなければ目にとめることが出来ない武器の動きなど、兵には何が起きたかわからないだろう、と彼女は思う。 「一方で祭は、ああして真っ直ぐにぶつけるにはもったいない。私より戦の経験がある文字通り百戦錬磨の猛将を、ただぶつけるだけではね。もちろん、そういう局面ならばそう使うけど、いまは撤退戦や総力戦ではないし」 「うってつけ、ってことか」  納得するように言ってから、一刀はなんとも言えない複雑な表情を浮かべてみせる。 「ちょっとかわいそうな気はするけどな……」 「そうかしら? 恋だって、兵が恐れて逃げてくれればそのほうがいいと思うんじゃない? 優しい子だもの」  その言葉に一瞬考え込むようにうつむき、うん、と一つ頷く一刀。 「それもそうか。で、この軍は真っ直ぐ進むだけでいいのか?」 「ええ、いまはね」 「わかった。俺は後ろを見てくる」  一刀が馬首を返す。昔に比べればだいぶましになったけれど、まだ歴戦の将とは言いがたいわね、と華琳はその動作を見て嘆息した。  だが、そんな感慨は一瞬で振り捨てて、彼女は前を向き直る。 「それにしても……」  恋は問題ない。無茶をやっているように見えても、親衛隊を損なうような局面には連れて行こうとしていない。ここで大事なのは敵を崩すことであると同時に、華琳がいる本陣を潰さないことだ。彼女はそれにも配慮して動き回っている。いや、恋にとっては一刀がいる本陣かしら、と彼女は少し思考を脇にそらして呟く。 「霞のほうは、突出しすぎだけど……いえ、自分の隊を誇っているのか……」  霞は霞で無茶をしているが、それは命じたことでもある。だが、それ以上の熱気があの攻め手にあるような気がして、少しだけひっかかった。  とはいえ、戦場では猛るのが当然。そして、その勢いこそが勝利を呼び込みもする。現時点で霞の部隊を止めるいわれはどこにもないはずだった。  それでも。  彼女はなにかどこか気にしていた。  3.遼来来  霞は洛陽を発つ前、長いつきあいでもある賈駆と交わした会話を思い出していた。 「司馬氏〜?」 「そう、司馬氏。あいつの世界では、魏の後釜に座るのが、司馬氏の建てる晋らしいのよ」 「天の世界の話が、どう関係するんや?」 「ボクにも正直わからない。でも、あいつは気にしてるのよ」  詠はお手上げ、と手を広げてみせるが、呆れているのか感心しているのか、霞には判断がつけがたかった。 「その司馬氏が孟ちゃんの後を継いだ人間から簒奪することをか……。まあ、一刀にしたら自分の子や孫の話やろし、気になるんもわかるけど……」 「違うのよ」  詠はそこで一つため息をついた。 「あいつは、自分が関わったことで、この世界を必要以上に歪ませてしまったんじゃないかと心配しているの」 「は? 王権を奪われることを気にかけてるんちゃうんか?」 「もちろんそれは防ぎたいみたい。けれど、それをあいつ自身が必要以上に防ぐことで、この世界の自然な流れを変えてしまったらいけない、とも思ってるらしいの。ボクもはっきりと聞いているわけじゃないけどね」  さすがに霞もそれには困惑してしまう。一刀という男は天の国から来ただけあって、視点が違うことは多々あったが、それにしても、詠の言っているのは外れすぎだ。 「わ、わからんなあ」 「わからないでしょ? ボクにもさっぱりわからないわよ。でもね、あいつが憂えている。それだけで十分じゃない? 霞、あんたが動くにはね」 「詠、あんたもやろ」  さあてね、と笑う謀士は、それ以上なにも言わない。けれど、この昔なじみが、董卓以外の誰かの事を考えて動く図など、彼女は見たことがなかった。 「でも、一刀が心配してるんが魏のこの先やのうて、この大陸の……なんちゅうの、動きそのものなんやったら、うちらにはどうしようもないんちゃうの?」 「ええ。でも、吹っ切れさせることは出来るでしょ」 「……虞れの対象そのものを、消してしまえばええわけか」  さすがになじみだけあって、了解は早い。  それに、彼女のほのめかすそれは、武将に求められる責務に他ならない。主の――いまや主となった者の障害を排除することは。 「うちはええよ。異存はない。せやけど……ええんか、ほんまに」 「所詮血塗られた道でしょ。ボクたちも、あいつも」 「いや、それも問題やけど……。ええのん? それって、詠が――ひいては月も、一刀と同腹一心と見なされるってことやで」  そう言うと、彼女は、 「ふん」  と大きく鼻で笑ってみせたのだった。  ふん。  霞も大きく鼻を鳴らす。  手に持つ偃月刀を握り直し、彼女はにぃと口角をつり上げる。 「あんたらに責があることやないんやろうけどなあ」  ぺろり。  彼女の口元から覗く舌は赤々と燃えるようで、湿り気を与えられた唇もまた、燃え上がるようだった。 「一刀が枕を高うして眠るために、司馬氏には絶滅してもらわなあかんねん」  目指すは本陣。  獲るべきは、首に非ず、名に非ず、その命脈。  張文遠の進撃は止まらない。  こんなはずではなかった。こんなはずでは。  二万五千対五千足らず。  その差、五倍以上。たとえ籠城されても突き崩せるほどの戦力差。寄せ集めの兵は、確かに士気は高くなかったが、一押しされて逃げ出すほどの弱兵ではない。複雑な連携を取れと言うのは難しいだろうが、部隊ごとに平押しするには十分であった。そして、それで倒せるはずだったのだ。  それなのに。  いかに謀反の軍に加わる雇われ将軍に成り下がったとはいえ、かつては袁術軍にこの人ありと言われた李豐将軍ですら――いや、彼だからこそ、その現状を理解することは出来なかった。  与えられた兵は三千。しかも、本陣直衛である。下手をすれば剣を振るう機会すらないのでは、と危惧していたほどだ。  それがいま彼は、そして、彼の部隊は潰滅の危機に瀕している。 「呵々々々々々々々、呵ーッ呵々々々々々々々々々々々!!」  その鬼は、笑っていた。  その獣は、嗤っていた。  笑いは邪悪を、魔を払うという。だが、その笑いは、退けるべき魔そのものから漏れていた。  手には血に濡れそぼった飛龍偃月刀。振られる度に肉が断ち割られ、振られる度に骨が砕かれる。名馬絶影もまた血に濡れて、あたるを幸い、敵兵の耳を噛みちぎり、臓物を引っ張り上げ、膝を踏み抜く。  ぬめって滑るはずの得物は、すでにべっとりと張り付いた血が固まって、腕と一体化していた。  そして、その体は上から下まで、赤黒い血潮に、黒く染まった肉片に、乾いた土の色をしたはらわたに濡れていた。 「知っとるか。西の方から伝わってきた仏法とかいうのにはな、修羅道いうんがあるんや」  友に話しかけるように、その女は獰猛な笑みをたたえながら語りかける。その相手は目の前で偃月刀に切り裂かれている兵でもなく、背後に付き従うわずか五百の決死隊でもなく、おそらくは死そのものであったろう。 「その世界では、阿修羅ちゅうんが、ひたすら闘っとるらしい。阿修羅同士で闘い合い、戦をして、たまに集まっては神さんたちに戦を挑むんやて」  その鬼に続く兵は五百。たった五百にすぎない。  しかし、それらの兵にすら射かけた矢は通らず、突き出した槍は届かない。  彼らがぐるぐると螺旋を描くように内側と外側、いくつかの列を入れ替わりながら、援護と攻撃、それに休息を取りつつ進撃していることなど、兵たちはおろか、李豐ですら気づけなかった。それほど人馬の動きは一体化していて、まるで動いてすらいないように見えたのだ。  それを成し遂げられるのも、先頭で一時も休まぬ鮮血獣がいるからに他ならない。 「阿修羅っちゅうのは元々正義の神さんでな。正義の怒りで戦うとるうちに、我を忘れて怒りと闘争に心を奪われてもうたんやて」  首が飛ぶ。  腕が飛ぶ。  恐怖に気がふれたか、音程の狂った雄叫びを上げ続けていた兵の声が、ぷつりと途切れる。 「でもな、それって罪なんかいな? 戦わんと死ぬんやで。戦わんと己の怒りが誇りが踏みにじられるんやで」  李豐は考える。  こんなはずではなかった、と。  二万五千に五千が、ましてや五百が勝てるはずがないのだ、と。 「せやったら、戦うんが当たり前やろ。己のいっとう大事なもんが奪われて、穢されたら、戦うんが当たり前や。たとえそれが罪やろうと悪やろうとな。うちは、戦うで。おうさ、修羅道結構。なんぼでも入ったろやないか」  だが、と李豐は気づく。  ここにいるのは俺一人だ。  そして、目の前には、一体の修羅。 「呵々々々々々々々」  首が飛ぶ。  腕が飛ぶ。  引きずり出されたはらわたが、長く長くとぐろを巻いて、地面に落ちる。  叛乱軍本陣直衛部隊は、それを構成する大半の人間が生きていたにもかかわらず、隊長とその周辺にもたらされた絶対的な死を目撃することで四散、潰走した。 「あまり気勢を上げすぎないようにね。私たちは呂布将軍が切り開いた後をゆっくり進軍すれば十分よ」  華琳は周辺で戦いを続ける兵をなだめるようにいっそ優しく話しかける。もし、これが本来指揮するべき親衛隊であったなら、そんな生ぬるいことはけして言わないのだが、北伐にも引き抜かれなかった二線級の部隊だ。あまり無茶なことをさせても潰れてしまうのがおちだ。  それでもそれなりに働いているのは、士気が高いことと、詠が城から放ってくる援護射撃のおかげだ。 「華琳」  馬を寄せて、何気ない仕草で話しかけてくる一刀。声を絞りたい様子がありありとわかるが、それをすればかえって兵が不審がることを承知しているのだろう。なるべく普通の声でいようと努力しているのがわかる。  胆力はまあまあだけど、慣れることが必要かしらね。彼の態度にそれなりの評価を下しつつ、そんな判断を華琳は心の裡で下していたりする。 「霞が、本陣を崩しそうだが……」  ちら、と彼はそちらへ視線をやる。華琳も彼の見つめる方へ目をやった。急激な動きが本陣近くで起きようとしていた。 「……やり過ぎだ。あれじゃ、もし崩せても囲まれる」 「よく気づいたわね」  実を言えば、華琳はしばらく前からそれに気づいていた。しかし、手遅れになる前に一刀が進言してきたことで、彼女の満足はより完璧に近づく。 「でも、この数の兵じゃ近づけないわよ」 「くっ」 「どうするべきかしら?」  試すような声音で言う。王宮で三軍師に問うようなその声に少し驚きながら、一刀は自分の考えを述べる。 「負担をかけることになるけど……恋をあてにするしかないと思う。俺たちは一度退くか、場所を変えて、親衛隊を支援しつつ、恋と霞、二つの隊の退路を切り開く態勢になるべきだろう」 「わかったわ」  華琳はあっさりと彼の言を受け入れる。言った一刀のほうが驚いて目を見開いたほどだ。 「いいのか?」 「退くべき時はあなたが決めろと言ったでしょ。曹孟徳が一武将として戦うのはここまで。ここからは、霞と恋を無事に戻す全体の戦を始めるわ」 「ああ。わかった。そうしよう」  そうしててきぱきと部隊の動きを変え始める華琳。それに応じて動き始める一刀の行動にももはや迷いは一片もなかった。 「ちょ、これ、きついかなー」  あまりの急な襲撃に本陣で右往左往していた幹部陣の首を手当たり次第にはね飛ばし、馬蹄で踏みにじった後で、ふと霞は冷静に状況を分析し始めた。  これまでは、本陣を襲うのが目的であったから、それを成し遂げることだけを考えて行動していた。だが、目的が完遂された以上、次を考えなければならない。  すなわち、この場から生還することを。  見渡せば、まさに全滅した本陣と、それを十重二十重に取り囲む敵の部隊。直衛の部隊が潰走し、空いた場所に、他の部隊が移動し始めている。あえて近づいてくるとなれば、先ほど見せた張遼隊の恐怖がまだ刻み込まれていない、後背の備えの部隊だろう。  霞は背後の五百を片眼だけで見やる。いまだ意気軒昂なれど、その体に蓄積した疲労は間違いなく彼らの動きを鈍らせるだろう。 「ま、ええか。ここでうちが一暴れしてなんとかするから、お前ら火ぃかけてさっさと逃げ」  周囲から抗議の声が巻き起こる。当然だ。将を置いて逃げるなど、兵たちが肯んじるはずがない。まして、どっぷりと黒血にまみれた武将を。 「だぁほ。あんたらの隊長が自分を犠牲にするなんてたまかい」  霞は笑う。ぽっかりと虚空に空いた穴のように、その口が赤く開く。 「うちにとってもそれがいっちゃん楽なんや。あんたらが逃げ切ったら、もうなんも考えんで逃げられるんやからな。せやから、うちを安心させるためにも、死にものぐるいで逃げてもらわなあかんで?」  霞のからかうような口調を受けて、軽い笑いが起きる。  だが、兵たちはわかっていた。これが今生の別れとなりかねないことを。霞もわかっていた。彼らの逃亡がまさに死にものぐるいとなるであろうことを。  それでも。  彼らは笑い合う。  緒戦は彼らが制した。  ここで死んだとしても、彼らの大事なもの――それは家名であったり、武名であったり、誇りであったり、魏という国であったり、曹孟コという人物であったり、北郷一刀という一個人であったりした――は守られる。  だから、笑う。  恐怖と冷や汗にまみれながら、彼らはそれを笑い飛ばす。 「よっしゃ、わかったら、さっさと火ぃかけ。その煙に紛れて駆けるんや。他の部隊と合流したらうちらの勝ちや」 「はっ」  霞の命にせわしなく動き始める一団。 「それと、旗はそこら中に差して行き。うちも一本担いでいくさかい」  霞はそう言うと血で張り付いた指を、飛龍偃月刀からばりばりとはがし始めるのだった。  燃え上がる天幕を背景に、霞は大きな瓶を持ち上げる。せめて綺麗な水を、と部下たちが本陣の残骸の中から探し当ててくれた水瓶だ。それを頭上でひっくり返し、頭からざぶざぶと水を浴びる霞。 「ぷっはー」  ふるふると猫かなにかのように体を震わせると、水滴があたりに飛んでいく。それは、背後の燃えさかる火に照らし出されて、きらきらと輝いた。  残った水を、かたわらでおとなしくしている絶影にもかけてやる。ぬるい水とはいえきもちいいのか、機嫌よさげに、ぶるるといななきを上げる絶影。 「あとで川にでもいこなー」  首筋をなでてやると同意の印か馬首が下がる。霞はにっこり笑うと背に紺碧の張旗を背負い、飛龍偃月刀を携えて絶影にまたがった。 「んじゃ、もう一踏ん張りしてや」  とはいえ、本陣から見渡せば、周囲の敵は絶望的なまでに多い。つっこめば周り中敵なのはありがたいが、はて、どれだけ倒せば自軍と合流できるだろうか。 「んー、昔やったらここで討ち死にしてやってもよかってんけどなあ」  一瞬だけ、ある人の顔が心の中に浮かび上がる。そのことに感謝とほんの少しの照れを感じつつ、彼女は敵を観察する。 「いまはあかんねんなー」  まずは殺せるだけ殺す、と霞は心に決める。そうすれば、部下たちは恋の部隊か、華琳の部隊と合流できるだろう。退路を切り開いてくれるとまでは望まないが、あちらの動きに合わせることが出来れば、打開策も見つかるかもしれない。 「それにしても多いなー」  茫洋と言いつつ、彼女は弱いところと強いところを見極める。目指すのは部隊の中でも強い部分。それを打ち砕き、腰が引けた弱兵を突破する。それを繰り返してみるか、と彼女は飛龍偃月刀を構え直す。  それは燃える本陣を遠巻きに囲む兵士たちからすれば、炎の中から現れる幽鬼のようにしか見えなかったろう。  だが、霞が絶影に突撃の合図を送る前に、眼下の兵たちに動きが生じる。  苦鳴と共に数人が一度に吹き飛び、それを見た兵たちが鎧を鳴らして後ずさる。そうしてぽっかり開けた空間に現れたのは方天画戟を担ぐ赤髪の少女。 「恋!」  かけられた声に恋は再び得物を振るい、悠然と霞と絶影の元にやってくる。 「入るのは、簡単」  そこでちょっと首をひねる。 「出るのは大変。だけど、ご主人様達が、待ってる」 「そうか。一刀と孟ちゃんが退路を確保してくれてるんか。それにしても厳しいな」 「でも、二人いれば、なんとかなる」 「せやな」  紺碧と深紅。二つの旗が翻れば、この世に通らぬ無理はない。二人は心底そう思っていた。 「ただ……急がないと」 「急ぐ? ん、わかった。急ごか」  疲弊した自分自身の体の調子を自覚して、恋も同様に厳しいものがあるのだろうと判断する。それに、一刀たちが城までの道を開いてくれているにせよ、そうそう長くは続くまい。なるべく早く終わらせるにこしたことはないだろう。  だが、その予想は外れていたらしい。恋はふるふると首を振って否定の意を示してみせた。 「違う」 「へ?」  彼女は片手を上げると、真っ直ぐ北を指した。炎の向こうに、空に舞い上がる黄塵が見えた。 「敵が、来る」  その時、離れた場所から同じ土埃を見つめていた華琳は疲れたようにため息を吐いた。 「……どうも許攸は遅れてやって来たようね」  4.呉王の憂鬱  国主孫策の死去に急遽洛陽から帰国し、新たな王として即位した孫権――蓮華は目の前に積み上げられた書類の山をちらりと横目で見てため息を吐いた。いまも手を動かし、書類を処理しているはずなのに、いつまで経っても終わる気配がない。というのも同室にいる軍師の二人、陸遜と呂蒙が次々加えていくからなのだが。  もちろん、そうして竹簡を積んでいく彼女らとて仕事をこなしている結果としての行為なわけで、王としてはそれを褒めこそすれ責めるわけにはいかない。  だが、人間、常に集中していられるというものでもない。彼女は筆を置き、大きく伸びをした。柔らかな肢体が椅子の上ではねるように伸び上がり、桃色の髪のうち、長く伸びた両脇の部分が、ゆったりと垂れ下がる。 「しかし……」  彼女が体を起こしながらの呟きを、筆頭軍師たる陸遜――穏が聞きつける。 「どうされましたー?」  彼女が顔を上げると、その巨大な胸がぶるんっ、と震える。それを横目で見て赤くなっているのは、呂蒙こと亞莎だ。 「私はこれまでつくづく姉様や冥琳に守られていたのだな、とな」 「はぁ」  軍師二人は何事かわからないという風に声を漏らす。 「そのおかげで、私は完全な正道を歩んでこられた。なにも汚いことに手を染めずにな。もちろん、戦には出たが……それとて……」  その蓮華のしみじみとした言葉に同意を示して何度も頷くのは亞莎であり、一方で泰然とした口調を乱さないのは穏であった。 「わ、私も驚きました。武将であった時には想像できなかったことばかりで……」 「蓮華様は次期国王候補でしたからねー。そんな方に裏方の仕事なんてさせられませんよー」 「しかし、姉様はやっておられたのだろう? いま、私がしている程度のことは」  その疑問には軍師たちは揃って頷く。雪蓮はたしかに、冥琳と共に暗部にまで踏み込んでいた。それは国主としては当たり前のことだ。 「とはいえ、いまはだいぶ楽ですよー。なにしろ相手が華琳さんと桃香さんですからねー」 「そうかもしれないな。あの二人は後ろ暗いことは好まないだろう。特に桃香は」 「華琳さんはいざとなったら搦め手を使うのもいとわないでしょうが……現状そんな必要がまるでありませんし」  それはどうだろう、と穏は主ともう一人の軍師の言葉を聞いて疑問に思う。実際に比べてみれば、華琳のほうがそのような手を使ってくる可能性は低いのではないだろうか。それは立場の違いであり、理想にどれだけとらわれているかの違いでもある。  だが、穏はそんなことを口にはしない。いま指摘してもしかたのない部分でもあるし、二人のとらえ方も間違いではないからだ。それこそ、今回の葬儀に出席する各君主に、同じ君主という立場として接するであろう主が感じ取るもののほうが信用がおけるだろう。 「部下には厳しさを求める人ですしねー。賄賂とか取られなくてありがたいですよー」 「普通の政権なら、長安や洛陽の修繕費用を名目に徴収されても不思議はないですからね……。もちろん、いまもある程度の費用は出しておりますが、国力を疲弊させるほどではありませんし」  正直なところ、曹魏にしてみれば、自分の都でもある洛陽の改修や補修に他国の援助を求めてから動くというのはうっとうしくさえあるはずだ。だが、名目上は洛陽は漢の帝都であり、三国はその漢に仕えているということになっている。である以上、魏単体で勝手をすると、他国につけいる隙を作ることになりかねない。そのために、魏も形式的な徴収を行わざるを得ないわけだ。  なんにせよ、形式というのは面倒なものだ、と蓮華は嘆息する。 「しかし、そう考えると……」  彼女はふと思いついて呟く。 「桃香はこれらの暗部を見ても、ああしていられるのか」 「いえ、おそらく、それは違うと思います」  その呟きに返ってきたのは、亞莎の反論だった。 「蜀は、桃香さんをはじめとする三姉妹には深い部分まで見せていないのではないでしょうか。いくつかの案件からそう推察されます。もちろん、表沙汰にしがたい部分なので、とぼけている可能性はありますが」 「つまり、諸葛亮と鳳統で止めている、と?」 「んー、たしかに、桃香さんには、『大徳』でいてもらわないと困りますしねえ」  穏は、なんとも言えない表情を浮かべ、そんな言葉で亞莎の意見をどちらかといえば肯定してみせた。 「ふむ……」  腕を組んだ蓮華は自分の腕を自分の指で軽く弾く。ちら、と立てかけてある南海覇王に目をやり、次の言葉を探した。 「しかし……危うくないか、それは。全てを決める王が真実を知らぬというのは」 「知る必要がないこともありますが……。しかし、それでも、朱里ちゃんたちが、ちょっとやりすぎちゃってる可能性は高いですねー」 「その可能性は、どの程度だ?」  主の問いかけに、筆頭軍師たる彼女は声を潜めて答えた。 「十中八九」  沈黙が落ちる。 「そのあたり、明命なら知っているのではないでしょうか?」 「……そうだな、明命にも訊いてみるとしよう」  明命が司る諜報活動は、平時の現在さらに重要性を増し、彼女やその部下はあちらこちらへ足を伸ばしている。あまり無理はさせたくないが、必要なこととてしかたない。 「情勢把握は大事ですしね。ついつい、魏を見てしまいますけどー」 「あちらは大きいからな。だが、実際には荊州で争う蜀のほうが重要かもしれん。警戒を怠るつもりはないが、いまのところ、魏には長江を渡るつもりはなかろうし……」  蓮華の言葉はそこで途切れた。扉が急に大きな音を立てて開かれる。そこにあるのは、彼女の側近中の側近、猛将甘寧こと思春の姿。 「蓮華さま」 「何事か」  蓮華は正しく彼女の声に込められた真剣さに気づいていた。 「孔融が謀反を起こした由」 「なっ」 「建業に向かっていた曹操、北郷、それに同行していた賈駆の三名が数万の軍に囲まれた、と」  思春は間を置かず、簡潔に事実を述べる。しかし、普段から常に冷静な彼女の声がほんの少しだけうわずっているのを、長いつきあいの王と軍師たちは気づいていた。  蓮華は顔色を変えたものの、かたわらにあった茶をひっつかみ一気に飲み干す事で無理矢理に思考を切り替える。驚愕に意識を止めていても、なにも進みはしないのだ。 「軍を向けるべきか。いや、しかし、魏領に勝手に……」 「いまから援軍を出すのは少々難しいかと。間に合うとは思えません」 「ですねー。それに、下手に軍を出すと、他の賊を刺激するかもしれませんし」  王の言葉に、軍師たちが助言を連ねる。蓮華はそれを咀嚼するように、何事か口の中だけで呟いていたが、すぐに上がった顔は決意に満ちていた。 「……そうだな、しかたあるまい。だが、国境沿いの各所に迎えの軍を配するのはどうだ?」 「警戒を兼ねて、それは行ったほうがいいかと」 「では、そうしよう。思春は明命と共に軍を率いよ。思春は水上、明命は陸上だ。桃香たちも向かっているはず。そちらにも気を配っておいてくれ」 「はっ」 「穏たちは、状況に応じて動きをとれるよう用意をしておけ。ただし、あまり騒がしくならぬよう」  矢継ぎ早に指示を下す。応じて三人の部下たちは立ち上がり、それぞれに動き始める。  その様子を確認した後で、呉の女王は一人、窓から空を見上げ、流れゆく雲を眺めやる。その時、彼女の呟きを聞き取れた者は誰一人いなかった。 「無事でいてくれるかしら……」  5.三日五百、六日一千  亳州の城から離れること二十里。小高い丘に隠れる形で、空に舞い上がる土煙を眺める一人の騎馬武者の姿があった。 「あの様子だと……すでに援軍は合流しているか」  青に輝く髪を持ち、怜悧な印象を備えた女性がそこにいた。 「元からいたのが二万五千、援軍が一万五千、合わせて四万。なかなかの数だな」  先に籠城していた軍が減らしている兵数は考えに入れない。敵を過大評価するのは避けるべきだが、それでも最悪の事態は考慮しておくべきだ。彼女はその点、慎重な性質であった。  そこへ駆け寄る兵が一人。偵察に行かせていた者が戻ってきたようだ。 「曹丞相はじめ皆様方は城に籠もり、張遼、呂布の両将軍が時に西、時に東の門より出撃し、攻め寄せる軍を牽制しているご様子。そのせいか、敵軍は退いては寄せ、退いては寄せることを繰り返しているようで」 「うむ。そうか。悪くない。お前は体を休めておけ」  その後も数人の兵がほんの少し異なる視点の報告を持ち帰ってくる。各所に放った偵察から状況を掴んだ彼女は決断を下す。 「よし。では、やつらが次に攻め寄せた時に背後より襲うとしよう」  彼女は無人に見える背後の平原へと声をかけた。 「構えろ、お前たち。我らが王をお救い申し上げる時ぞ」  それに応じて、平原の各所から何者かが体をもたげた。ついさっきまでは無人にしか見えなかった平原に、兵たちの姿が現れていく。木々や灌木、中には砂に紛れていた兵たちは下士官たちを中心に整列を遂げる。  三日で五百里、六日で千里を駆けると言われた夏侯淵の軍が、いま戦場へと到着したのだった。  あまりに早い援軍の到着に、叛乱軍は浮き足だった。城に攻め寄せるための陣を築いている部隊が、背後からの急襲に応対するには将の指導力と兵の鍛錬をかなりの量必要とする。  残念ながら叛乱軍にその備えはなかった。  だから、それは、純然たる流れ矢であった。  背後に突然現れた万を超える部隊に恐慌をきたした兵たちが、狙いも定めずに放った矢。それは、盲滅法に放たれたが故に、秋蘭の回避をすり抜けた。 「ぐっ」  彼女自身、矢を射かけようと弓を前に構えたところだった。その左の手首を矢が刺し貫く。取り落としかける弓を、とっさに矢を捨て去った右手でひっかけて背負い直し、上に乗る彼女の異変に鼻息を荒くする愛馬の腹を太ももでぎゅっと押さえつける。  そうして、彼女は矢の刺さったままの左手を顔の前に持ってくると、苦笑を浮かべた。見事に手首を貫いたその矢からは、すでにだらだらと血が流れ出て、その先の指などは感覚がなくなっていた。 「姉者は左の眼(まなこ)、私は左の腕(かいな)か。よくよく夏侯の血筋は矢にたたられているらしいなっ」  軽口を叩きながら、秋蘭は手首から伸びる矢を折り取る。当然、腕をもぎられたのではないかと錯覚するほどの痛みが走るが、いまは無視するしかない。一気に抜きたいところだが、それをすればいまも流れ出ている血がさらに噴き出すのは必定。彼女は両側を折り取って、ひとまず手首にきつく手綱をまきつけて止血する。馬から下りる時が大変だろうが、いまはこうするしかない。その間もずっと鈍い痛みと悪寒が彼女を襲い続ける。 「将軍! 夏侯淵将軍!」 「うろたえるな、莫迦め」  ようやく聞こえてきた周囲の兵のどよめきに、努めて冷静な声音で答える秋蘭。 「弓はしばし持てぬが、馬から落ちてもおらん。将が少々の手傷を負ったくらいで動揺するとは、それでも貴様ら、魏の精兵か!」  それでも腰が引けて立ち止まることもなく突撃を続行しているのは、生き残るための本能か、あるいはそれこそが精鋭の証か。 「聞けぇい。我らが丞相のおわす城まで、もう目と鼻の先ぞ。孟徳様が見ておられる。無様をさらすでないぞ! 全軍、気合いを入れ直せ!」  将の無事を知らせる力のこもった号令が響くと、動揺していた兵たちの間に安心とさらなる高揚が走り抜ける。  そうだ、曹操様が見ておられる。  丞相閣下をお救い申し上げねば。  兵たちの目がらんらんと輝き始めるのを見て、秋蘭は笑みを浮かべた。 「よし、貴様ら、私についてこいっ!」  秋蘭は痛みと感覚の喪失に耐えながら、力強くそう叫ぶのだった。 「……ん? 少し乱れてへんか」 「なにか、あったかも」  城壁の上から混乱に陥る叛乱軍と、その混乱を作り出している夏侯の旗を掲げた軍を眺めやりながら、張遼と呂布、二人の勇将はその動きの乱れに注目していた。二人には、すでにいつでも出撃していいとの命が下されている。後はいかに効果的な時機を狙うかだ。 「ま、立て直したようやし、大事でもないやろ。惇ちゃんにしろ淵ちゃんにしろ、あれほどの武将やし。それより、そろそろうちらも行くで」 「ん」  二人は兵たちが矢を射るのに忙しい城壁を後にして、部下たちが待つ門前へと向かう。  呂布と張遼。  再び二つの巨大な力が解き放たれる時が来ようとしていた。  秋蘭の率いてきた軍は麾下の三千と親衛隊五千を含め、二万を数えた。練度のよい部隊による奇襲と、戦のはじめから恐怖をまき散らしていた張遼、呂布の二将軍の出撃により、叛乱軍は完全に統制を失った。  さんざんに追い散らかし、結局、半日後に孔融が捕縛されたことで、ほぼ戦は終わった。  いまだにいくらかの部隊が未練を持ってか、城から少し離れたところをうろうろしているため、恋が秋蘭の部隊から兵員を引き連れて掃討に向かっていた。  だが、それを含めて、すでに戦は終わったと言っていいだろう。実際、城には開放感が漂っていた。  だが宵闇が近づく中、灯火を捧げ持つ霞と、それに照らされながら、秋蘭の腕を子細に見分している詠、急ぎたいのに詠に腕を捕まれて動きにくそうにしている秋蘭という三人組が近づいてくるのを見て、華琳は愛しい部下の名を呼びながら駆け寄らずにはいられなかった。もちろん、一緒にいた一刀も遅れずに走り寄っていた。 「秋蘭!」  近寄れば、かなりの傷であることがわかる。暗くてよくわからなかったが、秋蘭は顔つきも真っ白だ。 「大丈夫、です」  薄く笑う秋蘭。けれど、その腕にとりついて治療を行おうとしている詠にはそんな動きも邪魔でしかたない。 「あー、もう、動かないで、見せなさいって。傷が開くでしょ」 「しかしだな、まずは華琳様の無事を……」 「見りゃあわかるでしょ。無事だってば」 「……あー、一刀。孟ちゃんを連れて、兵の見回りでも行ったらどないやろ?」  一刀は詠に霞、秋蘭、それに真っ青な顔を歪ませている華琳を見比べてから、優しく華琳の肩に手を置いた。 「了解。ほら、華琳」 「ええ……」  予想外に抵抗はない。金の髪を持つ覇王は、しばらくの間は彼の腕の中にその体を預けていたが、途中から早足で歩き始める。  城の一角にたどり着き、物見櫓に登った彼女はぎゅうと拳を握りしめ、闇に落ちた北方の平原を見つめた。 「見ていなさい、司馬氏も孔氏も九族皆殺しにしてやるわ……」 「おいおい」 「こればかりは聞けないわよ。私に刃向かい、あまつさえ秋蘭の弓手を傷つけたやつらを許すわけにはいかないでしょう」  その激情に、北郷一刀は困ったように眉根を寄せる。 「俺だって、秋蘭を傷つけられて怒りを感じてる。けれど、それを無関係の人間にあてつけるのは……。参陣していた連中ははもちろん処罰するにしてもだな……」 「くどい」  一刀の反論を、華琳は一言に切って捨てる。しかし、男は表情を変えることもなく、小さく震える金髪の少女の事を見つめていた。 「華琳」  優しく、けれど、甘やかではなく。  その呼びかけに応じたか、彼女は何度か大きく息を吸い吐きすると、表情を切り替えた。 「……まあ、いい。まずはこの地での後始末よ」 「ああ、そうだな」  6.始末  庭に張られた天幕の中、大幅に増やされた灯りの下で、詠は秋蘭の治療をひとまず終えていた。霞はいつの間にか消えている。どこかで酒でも飲んでいるのかもしれない。 「はい、これでおしまい。あとは、本職の医者に診せなさい。……取り戻すには結構かかるかもね」  なにを、と詠はあえて口にしない。その眼鏡の奥の瞳を、秋蘭もじっと見つめていたが、木ぎれと包帯で固定された手首に視線をやって、やれやれ、と苦笑を浮かべた。指を動かして見ることもしなかった。 「……しかたあるまいよ」 「そういえば、あんたが戻ってるのもそうだけど、よくこんなに早く数を揃えられたわね」  その問いに秋蘭は一つ肩をすくめてみせる。痛みが走ったのか、ほんの少し顔を歪めながら。 「洛陽に戻ってみたら、華琳様が囲まれていると聞いてな。私が来た方がよかろうと判断したのさ。兵は、虎牢関の兵を併せて連れてきた」  ちょうどその時、華琳と一刀の二人は天幕の戸口をくぐったところだった。 「あらあら。大胆ね、秋蘭」  虎牢関は要所だ。そこには常に兵が配されているが、それを引き抜いたとなれば、守りが薄くなるのは当然。大胆と評したのはそのことだ。 「今回はともかく急がねば、と思いました。すでに関には兵が補充されているはずです」 「桂花と稟がいるのならそのあたりは大丈夫でしょうね」 「それと、これは私の独断ですが、流琉は司馬氏の本拠地を叩きに行かせました。北郷、悪いが七乃たちを借りたぞ」 「たちって……美羽も?」  その言葉の含意に、少々驚く一刀。袁術は彼の下に来てから少しは政策面では評価されるようになったし、それは華琳も認めるところだが、軍略で役立つとは思えなかったからだ。 「ああ。あれらも蹂躙戦は得意だろう」 「……まあ、弱い相手の隙を突くのは好きそうだけどさ」  心配ではあったが、流琉がいるならば大丈夫だろう、と彼は結論づける。 「姉者たちも反転して孔融及び司馬氏の本拠地を叩く手筈になっております」 「そう。まずはよい手配りね。ありがとう」  華琳は言いながら、秋蘭の横に座る。その目が気遣わしげに包帯の巻かれた手首に落ちていた。  詠と目配せを交わし合い、一刀は、彼女たち二人を置いて天幕を後にした。 「あれじゃボクたちはお邪魔ね」  天幕の戸口の側にとどまり、二人は会話を交わす。 「まあな。それより詠。孔融を連れ出すことは出来るかな。少し話したい」 「孔融と話、ねえ。まあ、なんとかしてみるわ」  言って、詠は歩き出す。だが、彼女は孔融の名を呼んだ時、彼の指が無意識のうちに、その刀の鍔をなでるようにしているのを見逃しはしなかった。  少し行くと、案の定酒杯を傾けている女性の姿を見つける。 「霞」 「んー? 詠も飲むかー?」  彼女はいつも通りの羽織をひっかけただけの姿で、酒杯に月を浮かべていた。 「あとでね。それよりいまは、孔融を連れてきて」 「はん?」  孔融を捉えたのは霞であり、いまは彼女の部下がその身柄を押さえている。だから彼女にそれを頼むのは当然だ。だが、詠の声音になにか事務的なものとは違うものをかぎつける霞。 「くれぐれもあの莫迦に見つからないように。もちろん、華琳にも」 「ふーん……。了解」  一息に酒を飲み干し、酒瓶を腰にくくりつけながら彼女は立ち上がる。 「あとで一緒に飲む約束忘れたらあかんでー。あ、一刀も一緒になー」  ひらひらと手を振って歩み去る霞の背を見つめながら、詠ははいはい、と苦く、けれど温かな笑みをその頬に浮かべるのだった。  残兵の掃討を終えた恋が戻ったことで、軍議が開始された。司令部となっていた庭の天幕ではなく城内の会議室を使っていることが、戦が終わったことを如実に示していた。  そこに遅れて入ってきた霞は手に持っていたものを無造作に卓の上に置いた。 「孔融、連れきたで」  ごろり、と転がった生首は、まさしく孔融のもの。  いまさら血の臭いで動転するような者はいなかったが、さすがにそれを見て全員が驚きの表情を浮かべた。いや、一人恋だけは一羽残った鳩相手に遊んでいたが。 「霞? 私は孔融を殺せと命じた覚えはないけど」  最初に驚愕から立ち直った覇王が目を細めて冷たい笑みを浮かべる。それに対して、北郷一刀が何度か咳払いをしてから答える。 「華琳。俺が命じたんだ」 「ち、違うわよ。ボクが霞に頼んで」  重ねるような詠の声。それに対してのんびりと言ってのけるのはその首を持ってきた霞だ。 「いややわー。みんなしてうちの手柄とらんといてぇな。これはうちがとってきた首やで」  華琳は三人の顔を見回し、しばらく考えるようにうつむいた後、我慢しきれぬように、ぷっ、と吹き出した。 「そういうこと。まったく、三人して気の回しすぎよ」 「華琳、俺は……」  何事か言おうとする一刀を、手を上げて制してから華琳は考えを口にする。 「わかったわ、孔氏も司馬氏も参陣していない氏族は罪を問わないこととするわ。それでいいでしょ」  ただし、と彼女は続ける。 「今頃はもう流琉や春蘭が本拠地にも攻め入ってるでしょうし、その時に投降に応じなかった者は斬るしかないわ」 「……それはしかたがないだろうな」  霞の本陣急襲と、孔融の殺害によって、こちらに攻めてきた軍の幹部はほとんど処分された。援軍を引き連れてやってきたはずの許攸がいまだ見つかっていないが、それも時間の問題だろう。  司馬氏、孔氏は潰滅状態になるだろうな、と一刀は予想する。彼の世界でも孔融の係累は別の件で処罰されたが、こんなに次々と司馬氏が死んでいく歴史はない。それがこの世界独自の自然な流れなのかどうか。彼には判断がつかなかった。  だが、少なくとも曹操が孔子の子孫を根こそぎ謀殺した、という汚名は免れるだろう。孔融自身の死を命じたのは自分ということにしておけばいい。彼は世間にはそういう風に伝わるよう手を打とうと決めていた。 「それから、いくら関係していなくとも、孔氏及び司馬氏の一族は官からは追放。両家の財産は没収して、秋蘭に継がせることにするわ」 「華琳様、そのような……」 「あー、まあ、それはそれでいいんじゃないかな。な、秋蘭」 「もらっておきなさいよ。それで気が済むんだから」  断ろうとする秋蘭をとりなす一刀と詠。変に強硬的な処分を下されるより、その程度でおさまってくれたほうがいい、というところだろう。 「そうね、どうせなら司馬の名前ももらってしまう? 夏侯の直系は春蘭が継ぐことだし」 「そ、それは少々考えさせていただきたいと……」 「さすがに冗談よ」  からからと笑う華琳。お人が悪い、と拗ねたように言う秋蘭を見て、さらに彼女は笑う。しかし、ふと笑いを止めて腕を組んで考え込んだ。 「それにしても、秋蘭の怪我もあるし、これでは、このまま呉に向かうのは無理ね。といって、誰も出ないというのも……」 「俺が出てくるよ。役職的にもそうだし、恋人の葬儀に出ないってのもおかしな話だしな」  手を挙げて発言する一刀に、華琳は少し考えた後で結論を出した。 「そうね。一刀、それに霞。あなたたち、雪蓮の葬儀に出て、さっさと帰ってきなさい。いい? 特に霞は奮戦してくれた後で悪いけど」 「わかったわ。うちも少し絶影と駆けへんと、体が鎮まってくれへんからな。ちょうどええ」  それから華琳は他の面々に顔を向ける。 「私たちは洛陽に戻って、混乱を鎮め、ついでにわき出したやつがいるならそれも叩くわ。詠、今回の件はあなたにも責任があるのだから、後始末はつきあいなさいよ」 「はいはい、了解」 「恋も力を貸してもらえるかしら?」 「ん、わかった」  そういうことになった。  7.檄文  国境の兵から早馬が届いたことで、曹操をはじめとした人々の無事が確認され、建業は一時期の緊張状態からは解放されていた。  そのうち、最も安心したのは国王たる蓮華だろうが、それに次いだのは筆頭軍師、穏であったろう。  そんな深夜――彼女はしばらく前に手に入れ、しかし、国葬の準備と魏での叛乱の勃発で封印しておかざるを得なかった本を目の前に、よだれをたらさんばかりに身もだえしていた。 「魏史大略……一度下書きを読ませてもらっているとはいえ、たのしみでなりませ〜ん」  目の前には曹操自らが記した魏の歴史書『魏史大略』がある。穏自身推敲に手を貸したものなので待っていれば献本が届くのだが、我慢仕切れずに市場で購ったものだ。 「でもでも、せっかくだから、これは一刀さんが建業につくまで我慢したほうが……それに、葬儀に向けて時間がないことですし、今日のところは……。いえ、でもでもぉ……」  本を掲げて、机の前でくねくねと体を揺らす穏の目に、大部の著である魏史大略に比べれば薄い冊子が目に入る。商人から手に入れた時、一緒に無料配布されているものだ、と渡されたのだ。  この手法は比較的一般的で、名前を売りたい文士が、有名な本を刷るのに多少の金を出す代わりに自分の書いたものも一緒に配ってもらうという、いわば宣伝のための手口だ。  この時代、本を読む層といえばこれも名のある文人や官僚がほとんどで、そのうちの一人の目にでもとまれば、出世のとば口となるかもしれないと踏んでいるのだ。そして、自分の書いたものならば、目にとまらぬはずもないという自信も兼ね備えている。そんな若く無謀な人間の手によるものだろう。 「こ、このどこかの人が書いたという注釈書のほうなら……。曹操さんほどの文才はないでしょうし……」  そう言いながら、穏の頬は期待に火照っている。体をくねらせながらも、あくまでも真剣に、彼女はその冊子にとりかかる。  だが、幸せそうに緩いんでいた表情は、読み進むに従って険しくなり、頁をめくる指がせわしなく動き始める。ついに最後まで、おそらくは飛ばし読むこともなく驚異的な速度で読み終えた穏は本を置いて立ち上がる。  彼女はそのまま部屋を出て、手近にいた見回りの兵士に呼びかける。 「ただちに呂蒙を呼んでください」  しばらくすると、呼び出された亞莎が駆け込んできた。 「い、一体何事でしょうか!?」  彼女は顔を青ざめさせながら、部屋に転がるように入ってくる。こんな夜中に呼び出されるとなれば重大事。もしや、なにか自分のしたことに不備があったろうかと彼女は気が気でない。 「この冊子を読んでみてくれませんか」  穏はそんな後輩軍師を穏やかな笑みで見つめ、しかし、はっきりとその冊子を彼女に押しつける。 「この部分ですー」  卓についた亞莎は言われるとおり目を落とす。片眼鏡をずり上げ、灯りを引きよせて、よくよく目をこらしてその部分を読み進める。 『世に光武帝として知られる劉秀は過ちを犯した。  劉姓が禅譲を経て正統を王姓に継いだ以上、それを取り戻すべく己の力で帝に上った劉秀は、己の新しい国を築くべきだったのだ。なによりも、彼は西漢の皇胤ですらなかったのだから。  だが、彼はかつての劉姓の国家、漢を詐称した。  断言する。この時から、もはやこの大陸に天子などいなかったのだ。  正統は断ち切られ、君臨すべきではない者が君臨し続けた。  その証拠に、東漢の皇帝はほとんどの者が二十にも見たぬ齢で即位し、その即位期間も代を経るに連れて短くなっていった。  それを罰するように、天地には争乱が満ちた。  そして、ついに乱れきった世が呼んだ者は誰であったか……。  そう、それこそ、天の御遣いである』  そこまで読んで、亞莎は顔をはね上げる。 「こ、これって……」 「ええ、一刀さんのことですね」  困ったように言う穏に、亞莎はさらに声を荒げる。 「で、でも、これは、漢の朝廷に叛旗を掲げるに等しい言辞です!」  なによりも問題なのは、光武帝の件に関しては、けして間違ってはいないということだ。『再興』と言えば聞こえはいいが、一度禅譲によって正統が失われた国家を再び打ち立ててもそれはただの形骸であり、天命を受けた「天子」の治める国家とはなりえない。新王朝を簒奪によって開くことは可能だが、漢を引き継ぐことなど出来るはずはない。  非常に厳格に考えれば、ではあるが。  だが、後半は世迷い言だ。  漢の代々の皇帝が若くして即位したのは事実だし、比較的短い即位期間で死去した者が多く、それが皇帝権力の衰退と、外戚、宦官の害を助長したのはたしかだが、それをもって天命がなかったというのは極言にすぎる。  なによりも、光武帝からでも二百年近くを生き延びた王朝だ。それが長年の間に形骸化したからといって、まるで功績がなかったと否定するのはあまりに一面的だ。  ましてやその批判に天の御遣いこと北郷一刀を用いるとは。 「一刀様をこのように巻き込むなんて……」  亞莎は憤然としながら、さらに冊子をめくる。そこには魏史大略の各文章を引用しながら、天の御遣いがこれまでしてきたことへ賛美を送り、それに対してろくな対応が出来なかった漢朝を非難する文言が並んでいた。さらに故事を引き合いに出したことにこじつけて、光武帝の兄、劉伯升の挙兵そのものに関しての批判すら行われていた。 「この著者が誰なのか。なぜ漢朝を否定し、一刀さんを誉め立てるのか。亞莎ちゃんはどう思います?」  ひとまず冊子を閉じた二人は卓を挟んで、議論を開始する。 「一刀様を天の御遣いと持ち上げるなんて、いまさら魏には必要ありませんし、なによりも、曹操さんがご自分の本の注釈書にこんなことを許すとは……。しかし、誰かが一刀様を貶めるためにしてもこのような……自らが先に謀反人として討たれる危険を冒してまでとは。やるだけの益がある勢力が思いつきません」 「でも、この本は魏史大略と共に数多く配られているようなんですよ。魏史大略は覇王曹孟徳自身が書いた同時代史。知識人の必携の書とも言えるものです。それに付随してこの本が配られている……」  穏の言葉に亞莎は顔を曇らせる。 「きっと、士大夫たちの大半が魏史大略を読みます。それに全てついてくるとしたら……」 「恐ろしい事態です。この冊子を読んだ反応は真っ二つに分かれるでしょう。一刀さんを非難するか……あるいは、一刀さんを……」  穏は言葉を濁す。二人は顔を見合わせて、次いでじっと冊子を見つめた。 「この……冊子を止めることは出来ないんでしょうか?」 「んー、呉の内ならば、出来るかなあ。でも……どうかなあ」  亞莎の提案に、穏は苦笑を漏らす。 「禁じられたものは、余計に読みたくなるでしょう?」 「それは……」  沈黙。  禁じるわけにもいかず、といって放置するわけにも行かない。軍師たちの頭の中でいくつもの方策が浮かび上がり、却下され、検討され続ける。 「ちなみに、最後のあたりも読んでみてください」  亞莎は冊子を開いた穏の指が指す部分を読んでみる。 『漢朝はすでに崩壊している。魏史大略を書いた曹孟コその人が、まさに漢朝を破壊し、三国の秩序を作り出したからである。しかしながら、三国の鼎立はいつか終わりを告げるだろう。大陸は再び統一されなければならない。  ならば、それを成し遂げるのは何者であるか。  この冊子に何度も書かれていることであるから、あえてここでは書かないこととする』 「これは……一刀様、あるいは華琳さんに簒奪を唆しているとしか……!」 「問題はぁ、この理論に賛同する人々も一定数は出てくるだろうってことですよねー」  三国は、すでに一度魏の覇王の元に統一された。それを元の国主たちに分割統治させているのは他ならぬ曹操であるが、三国が分裂した状態を歓迎していない知識人も多い。彼らが期待するのは、強大な統一国家だろう。  亞莎の指が、確かめるように冊子の表紙を滑る。彼女はそこに書かれた名を読み上げた。 「著者の名は、戯志才。偽名ですかね」  穏はそれに軽く頷いて同意する。偽名であろうとなんだろうと、この作者を見つけ出さねばなるまい。口に出さずとも、二人の考えは完全に一致していたのだった。  8.彼方より  華琳たちが撤収の準備をしている城から、ほど近い森の中。  その最も高く太い木の先端が、ゆっくりと揺れていた。  なんとその梢には、筋肉の塊……いや、人影があったのだ。それは、両の足の裏でしっかりと幹の先を押さえつけ、木の上に立つことを可能としていた。 「あんらぁ〜。合肥の戦神と、孔融の処刑がこんな風に絡み合うなんてねぇ」  野太い声が響く。それに驚いたのか、何羽かの野鳥が枝を離れて空に消えていった。 「この外史は奇妙な状態を保っているな」  答える声もまた渋く力強い。こちらはどこにいるのかと見れば、先ほどの木の近く、これも大木の太い枝に足をひっかけて逆さづりになった人影があった。 「そうねん。ご主人様が一度戻っちゃったせいで、霞ちゃんたちの思いが……なんていうか、遠慮がちになっちゃってるのかもねん。そうして、表に出せない分……秘めた思いが先鋭化するってところかしらん」  怪人――森の木の上に立ったり逆さづりになったりする人間たちをそれ以外にどう評しよう――たちは、まるでしっかりとした大地の上で交わすように、何気なく会話を続ける。 「恋を知り、その恋を失う事も知ったおとめたちは、以前のままではいられぬか。なかなか業の深いことよのう」 「そういうあなただってん、華侘ちゃんのところに入り浸りじゃないのん」  その指摘に、片方の影が揺れる。ぐるり、と枝を中心に一回りして、また元の場所に戻った。 「ま、まあ、それは、どこの外史のだぁりんも、魅力的でだな」 「うっふぅん。まあ、いいわ。それより、しばらくは注意していないとね。あいつらは動けないはず。そのはずなんだけど、こないだのこともあるしねえ……」 「この間、七つの外史に分裂した時はさすがの儂も驚いてしまったのだ」 「あれは夢として片付けてくれたからなんとかなったけどねん。下手をしたら、七つとも固定化してたわ……。ああ、怖い」  ぶるぶる、と口で言って震える筋肉。 「なんにしろ気をつけないと。あれが新しいやりかたかもしれないしねん。さすがに七つにもわかれたら、ご老人たちが直接動いちゃうかもしれないもの」 「そうだな。あやつら自身が動くだけが策でもない。危険な存在だという意識を植え付けるだけでも効果はある。だが、無駄に心配事をしてもしかたあるまい。まずは、この流れを見守るしか……。いや、もういっそ直接関わってみるか?」  その言葉に、しばらくの間樹上の人影は黙考していたが、結局首を横に振る。 「そうしたいのは山々だけどぉ。やっぱり、みんなのがんばりを見ているとねえ。邪魔しちゃいけないような気がするのよぉ」 「ふむ」 「寂しいけどねえ……」  枝にひっかかった影が、ふっと息を漏らす。それが会心の笑みだと、もう一人の影は重々承知していた。 「いや、寂しさをこらえてそうして見守ることは、生半な覚悟では出来ぬこと。ぬしもよい漢女に成長したのう」 「あらん、褒めてもなにも出ないわよん」 「はっは。師にとっては弟子の成長こそが最大の褒美よ。っと、そろそろ退散すべきかな」  怪人の驚異的な視力は、城で兵たちを指揮していた赤毛の女性がなにかに気づいたようにあたりを見回しては首をひねっているのをしっかりと捉えていた。 「そうねん、恋ちゃんが気づいちゃうわね。あの子、特別鋭いからねん」 「では、ゆくか」 「あーい」  そんな声と共に、二つの影は忽然と消える。  後に残されたのは、普段とまるで変わらぬ森の姿。ただ一つ、大樹の梢だけがなにかの名残のように、ゆらゆらと揺れ続けていた。      (いけいけぼくらの北郷帝第三部第一回 終/第二回に続く)