改行による2パターンとなっています。最初は整形なしの素です。 ブラウザでご覧の方は、『ctrlキー+F』を押して出た検索窓に整形と入力して飛んでください。  「無じる真√N29」  忙しく駆け回る兵たちの声や足音が交錯しているのが室外から聞こえる玉座の間に一つの影があった。 「むぅ~暇なのじゃ……七乃は何やら仕事があるようじゃし……」  この城は徐州に存在する郯城。少し前まで劉備軍の本拠となっていた城だった。  その郯城の玉座の間にて、袁術が暇をもてあまし一人ぼぉっと虚空を眺めていた。いつも傍にいる張勲もさすがにやることが多すぎるのかしばらくの間姿を消している。  また、移動してきたばかりのためハチミツの所在も曖昧になっており袁術の心は不満で満たされていた。 「まったく、あれほどハチミツについては気をつけよと申したというのに……何をやっておるのじゃ……そもそも、七乃も――」  ぶちぶちと袁術が愚痴をこぼしていると、ちょうどよくそこへ張勲が帰ってきた。 「いやぁ~長引いちゃいました。お待たせしましたお嬢さま」 「おぉ、七乃~」 「そうそう、ハチミツ水を持ってきましたよぉ~」  張勲の姿を見つけ、地面へと垂れ下がった袖を引き連れながら両腕を上下に振ることで機嫌を取り戻した事を袁術は身体で表現する。  笑顔で駆け寄る張勲を、同じような笑顔で迎えると袁術はさっそく張勲の手にあるハチミツ水を受け取る。そして、喉からこくこくと音を立てて体内へと流し込んでいく。 「ぷはーっ! 最高なのじゃ!」 「よかったですねぇ、お嬢さま」 「うむ、やはりハチミツは美味じゃのお!」 「あらあら、お口がべたべたじゃないですかぁ、しょうがありませんねぇ~」  破顔した張勲に口元を拭われると、袁術は笑みを浮かべながら口を開いた。 「さて、ハチミツの補給もしたところで、情況説明をするのじゃ」 「あぁ、はいはい。では……まず、徐州の殆どは私たち、袁術軍の支配下となりました。また、豪族の殆ども袁家の名の下に平伏しました~」 「うむ、そうかそうか。やはり、妾はその名だけでもすごいのじゃな!」 「そうですねぇ。ただ、琅邪郡の豪族とその周辺にたむろする黄巾党の残党が従わないんですよぉ~」  人差し指を立てて言葉を強調するような仕草をとる張勲に袁術はきょとんとした顔で首を捻る。 「何故なのじゃ?」 「実は……黄巾党残党と琅邪郡の豪族が手を組んでいるそうで……」 「ふむ、それはなんとかならんのかのぉ?」 「はい。適当に討伐隊を向かわせて様子を探るようには言ってありますのでその結果次第ですね」  張勲の説明に袁術は肯く。 「うむ、そうじゃな。して、他には何があったのじゃ?」 「あとは……え~と……あっ!」  暫く首を傾げうんうんと唸り、しばらく考え込んだところで張勲はぽんと手を打った。 「どうしたのじゃ?」 「実は、劉備軍の軍師を一人捕えたんでした」 「なんじゃと! 何で、それを早く言わぬのじゃ!」 「いやぁ~忙しかったものでついうっかり……えへ」  可愛らしい笑みを浮かべて惚けようとする張勲に袁術はわなわなと両肩を震わせる。 「えへ。じゃないのじゃ~!」 「も、申し訳ありませんお嬢さま」 「まったく……それで、その軍師とやらは今どうしておるのじゃ?」 「何やら事情があるとのことでしたので、一先ず一室設けて待機させています」 「なら、速く呼び出すのじゃ~!」 「かしこまりました。それじゃあ、すぐにでも」  そう告げると張勲はすぐさま退室していく。  それから、そう経たないうちに、張勲が一人の少女を連れて再度入室してきた。 「ふむ……その者が劉備軍の軍師だったというやつかえ?」 「はい~鳳統さんだそうです」  鳳統と紹介された少女が張勲に促されて袁術の前へと歩み出る。その両手が被っている大きな帽子のこれまた大きなつばを摘んだままぐっと下げており、顔が見えない。 「むぅ……顔を見せるのじゃ!」 「……あ、あの……そのほ、鳳りょう、あじゃなを……あぅ」  袁術の言葉に反応し、帽子を上げて自己紹介をしようとするもくちゃくちゃになり鳳統は再び帽子を深々と被ってしまった。 「七乃、ちょっとよいか」 「はい、なんでしょうお嬢さま?」  こそっと手招きして呼び寄せた張勲に袁術はそっと耳打ちする。 「こ、こやつ本当に劉備軍の軍師なのかのぉ?」 「えぇ……そのはずですけど」 「それにしては……妙に弱々しくないかの?」 「うぅん、確かに頼りなさそうな感じがしますねぇ」  そこで、再度ちらりと鳳統の方へと二人揃って視線を巡らせる。つばの下からこそっと袁術たちの方を伺っている鳳統の瞳と視線がぶつかる。 「あっ……あぅ」  瞬間、鳳統は顔を赤らめて俯いてしまった。 「いやいやいやいや! ありえんじゃろ、あれが軍師とかありえんじゃろ!」 「そうですかねぇ~お嬢さまが君主って言うのよりは十分あり得るんじゃありませんか?」 「なんじゃと?」 「それより、もう一度ちゃんと話を聞きましょうよ」  不穏当な発言に袁術が反応するも、張勲にあっさりと方向転換をされてしまい袁術は肩すかしをくらった気分だった。  だが、細かいことを気にするのは袁家の人間らしくないと思い袁術もまた、張勲の言葉は流すことにした。 「では、もう一度自己紹介を」 「は、はい。鳳統……字を士元と言います……」 「ふむ、で、鳳統よ。何故、この城に残り、妾の元へとやってきたのじゃ?」  その質問を袁術が口にした瞬間、鳳統の顔つきが真剣なものになった。それまで帽子のつばに添えられていた両手も自由にしている。 「……それはですね……その、袁術さんの元で働かせて頂きたいと思いまして……劉備軍にいても碌に私の知識を使う機会がなかったものですから……」 「お、おぉ……そうかそうか」  急に流暢な語り口調になった鳳統に驚きながらも袁術は頷いて見せる。 「袁術さんの元でならきっと今まで以上に働く機会があると思いまして……」 「うむ、そうじゃのう……どうするべきかの七乃?」 「うーん。あっ! 取りあえず、私が付き添って鳳統ちゃんの働きぶりを検査するっていうのはどうですかねぇ?」 「おぉ、それじゃ!」  張勲の提案を採用することを即決した。正直、袁術は面倒臭かったのだ。 「ということですよ、鳳統ちゃん」 「…………は、はぃ」  張勲が笑顔を前に鳳統は、自分の意見を語っていたときとは打って変わって元の内気な様子に戻ってしまった。  そのまま縮こまるのを視界におさめつつ、再び張勲を近くに寄らせる。 「な、七乃」 「なんですか?」 「な、なんであの鳳統とやらは長々と語っていたときだけ様子が違うのじゃ?」 「さぁ? 普段は猫被ってるってことじゃないですか?」 「…………」  張勲の言葉に袁術は思わず絶句するのだった。 (に、二重人格ではなかったのじゃな……)  本拠へと戻る道中、夏侯淵たちに囲まれている劉備軍――いや、その中心にいる劉備を曹操は横目で見つめていた。 「……何故、私は劉備に……」  それは、誰に対するものでもなくただの自問自答の呟き。  先程、曹操は劉備に手厳しい言葉を浴びせかけた。それは、ひとえに劉備のことを思えばこそという部分もあった。もちろん、大元には劉備の甘い考えが、理想を追い求めずに現実と睨み合いながらやってきた曹操の信念と違い過ぎた、ということによる感情などがあった。  それは、もしかしたら一種の妬みのようなものなのかもしれないとも曹操は思う。朝廷の力も衰退し始め、乱れに乱れはじめた大陸を平定する……その理想を求めるが故に、甘い考えや余計な理想などは捨て、かつての秦や漢のような強国を作り上げるため、現実を見つめながらやってきた。  そんな曹操にとって、理想を追い求め続ける劉備という存在はとても羨ましく、そして、自らが歩むことを放棄した道を無駄に大きい胸を張って歩く姿に嫉妬したのだろう。  曹操は、自己分析の結果をそう締めくくった。 「ふふ、こんな想いを持つのが覇王たる曹孟徳だなんて……我ながらおかしくてしょうがないわね」  苦笑混じりに首を横に振って劉備に対して抱いた思いを掻き消す。 「……それにしても」  曹操は思考を切り替えると、今度はあのとき、最後に劉備の提案を呑んだ自分について考えはじめる。  元々、曹操は劉備に説教をした後に解放しようと思っていた。それを曹操が告げる前に劉備が曹操の元で通行料分の働きをすると申し出た。だが、本来の曹操ならばそれも断り、劉備を逃していただろう。  しかし、実際には首を縦に振った。それは何故か? 「……ふ……ぎね」 「どうかしましたか、華琳さま?」  思わず出た呟きに典韋――曹操の親衛隊を務める少女である――が反応を見せる。曹操は、それに首を横に振って答える。 「なんでもないわ、流琉………………」 「そうですか。何かあったのならすぐにおっしゃってくださいね」 「えぇ……ちゃんと言うわ」  そこまで言葉を重ねたところでようやく典韋は髪を大きな髪飾りで纏めた頭を下げ、納得したように顔を前へと向けた。 「…………ただ、不思議に思っただけよ……そう、不思議でならなかっただけ……」  他の誰にも聞こえないほどの小声で呟いたその言葉通り、曹操自身にとっても先程の己の行動は不思議でならなかった。  ただわかっていることは、甘い考えでこの乱世を生き抜こうとする劉備の姿が、かつて何処かで"見たらしい"とある存在と重なって見えたということ。  "見たらしい"というのは、曹操の中にその"誰か"が刻まれているのは確かなのに彼女自身の記憶の中にその誰かが起こした出来事など覚えが無いためだった。  確かに曹操の中に犠牲をより少なくしながら大勢の者たちを救わんとしている何者かの存在がある……なのにその顔は霞がかかったように見えず、声色は雑音混じりでよくわからない。 (誰だったかしらね……少なくともこの大陸を治めてきた王たちの中でそんな甘い考えを持ったままで制覇したという者はいなかったはずよ……なら、誰なの?)  曹操は何故か、その"誰か"が甘い考えを持ったまま大陸を平定したような気がしていた。だが、その該当者に思い当たらなかった。 (だけど、何故なのかしら……妙な感情がわき起こるのは)  そうなのだ、今一その姿がはっきりとしないわりに、その"誰か"という存在が曹操の胸を妙にざわつかせている。  そして、その"誰か"と劉備が重なって見えた、そのことが劉備に対して抱いた『説教だけして逃してやろう』という考えを曹操の中から消し去ったのだ。  覚えのない記憶……それが曹操の中で日に日に増してきている……だが、曹操には何故かそれが気味悪いとは思えなかった。  むしろ、切なさと妙な不安が曹操を襲ってくる。そして、同時に不思議と穏やかな感情がわき起こりそうにもなる……だが、そんなものは今の――覇王たらんとする曹操には必要のない想い。 「……今はいらないのよ」  少なくとも大陸の乱れが収まるまでは。そう付け加えると曹操は一旦思考を打ち切り、今度は関羽へと視線を巡らせる。 「大丈夫ですか、桃香さま」 「うん、ありがとう愛紗ちゃん」  関羽は、逃走を続けた疲れが出たのか妙にふらつく劉備を労っていた。 「……関羽……」  曹操は舌で拭い湿り気を帯びた唇からその呟きを発した。不思議と関羽に執着している自分がいる……それが曹操には不思議だった。 「何故かしら……関羽が欲しくてたまらないわ」  再び曹操の口から『何故』という言葉が漏れる……最近、曹操の中にその単語が現れることが多くなっていた。  関羽にしてもそうだ。反董卓連合で見た時に興味を持つことはあったが、今のように妙な執着心はなかった。だが、再び関羽の顔を見てから曹操は関羽を手にしたいという想いがうずき始めた。  元々、曹操は無骨で粗暴な男を好まない性質を持ってはいたがそこまで酷くはなかった。だが、今は出来る限り近くには置こうとは思えない……その上、関羽に異常なまでに魅力を感じている……正直なところ、曹操にはいまの自分がわからなかった。 (一体、どうしてしまったというの……曹孟徳ともあろう者が……)  そんなことを内心で呟きながらも、不可思議な事態に影響を受けてしまっていても、曹操はあくまで覇王だった。彼女の秘めるこの悩みを誰にも気付かせることなどない。  ただただ毅然と胸を張り堂々たる態度で構え続ける……それが彼女の――曹操が曹操であるが故の姿勢だった。 「雪蓮、袁術が劉備を攻めたそうよ」 「へぇ……劉備をね」  劉繇を攻め、追い払ったことによって手にした曲阿、その城内で一息入れていた孫策は、周瑜から伝えられた袁術軍の動きにただ口端を吊り上げるだけだった。 「劉備は、特に交戦する様子も見せずにすぐさま徐州を脱したそうよ。まぁ、結局曹操の元に落ち着いたみたいだがな」 「曹操か……彼女も最近は随分と勢力を伸ばしつつあるわよね」  現在、袁術の檻から抜けんとする孫策たちからすれば、曹操にせよ劉備にせよ、公……なんとかにせよ、羨ましかった。  既に、自分の勢力を持って内政や戦を行っている。彼女たちが領土を広げたり勢力を拡大したりと動き回っているという話を聞くたびに孫策は『いつか追いついてみせる』と心の中で意気込んでいた。  そう内心で思っていても実際に動くのはまだ機ではないのだ。今はまだ、雍州……ひいては江東を制覇するのだ。事実、それだけに邁進して進んでいた。 「姉様、諸侯との差は開くばかりですが……大丈夫なのでしょうか?」 「今は我慢の時よ、いずれ私たち孫家の時代が来るわ。だから、そう焦らないの。ね、蓮華?」 「…………はい」  口惜しい思いを顔に滲ませながら頷く妹の蓮華――孫権、字を仲謀という――を見ながら孫策はふっと息をつく。 (まったく……もう少しどっしりと構えてくれないものかしらね……いずれは孫呉を率いてもらうことになるかもしれないのに)  そう思いつつも、孫権もまた孫策たちと同じように諸侯が気になっているという点に関しては良いことだとも孫策は見ている。  それは、怨敵である袁術だけでなく、この大陸にいる諸侯をしかと見つめなければ今後の戦乱を勝ち抜くことは出来ないと思えるからだ。 「それにしても、さすがにここのところの連戦で少し疲れたわね……そうだ、あの娘に今日はゆっくりと身体を癒して貰おうかしらね……ふふ」  首を横に倒すと、小気味よい音がなった。 「雪蓮……あまり彼女をこき使わないよう気をつけなさい」 「はいはい、わかってるわよ。そういう冥琳こそどうなのよ?」 「ふ、私はちゃんと大事にしてるさ……何せ、専属の侍女であり連れなのだからな」  そう言って周瑜が不適な笑みを浮かべる。その表情からは、言葉に嘘偽りがないことが伺えた。もっとも、その周瑜の反応は孫策の予想通りではあるのだが。 「私だって大事にしてるもんねぇ~」  それは当然のことでもあった。その少女は周瑜専属に付いている侍女と同じく、孫策にとっての連れなのだから。 「ふふ……それもそうだな」 「なぁに笑ってんだか……まぁ、いいや。お酒お酒~」 「雪蓮!」 「姉様!」  確か、手に入れた酒を城の蔵に仕舞ったはずだと思いそちらへ向かおうとした孫策の背に周瑜と孫権の叱咤の声が揃うようにして飛んだ。  顔だけを二人の方へ向ける孫策……その口は不満を露わにするように尖らせている。 「な、何よぉ、二人して~」  見れば、孫権と周瑜が怒ったような呆れたような表情を浮かべている。 「何よぉ、ではありません。まだ、完全に気を抜いてよい時ではないというのに、まったく姉様は……」 「固いのよ、蓮華は……」 「何を言ってるのよ、雪蓮。貴女といい祭殿といいすぐに酒、酒と…………む?…………はっ!? いかん!」  ぐちぐちと孫策に説教を垂れようとしていた周瑜がふと何かに気づいたように目を見開くと、急に走りだして一目散に部屋を出て行った。その後ろ姿を孫権が呆然とした表情で見つめている。 「あ、あれはどうしたのですか、姉様?」 「ふふ……きっと、祭をとっちめに行ったんでしょ……まったく」 「はぁ……?」  腰に手を置きやれやれと首を横に振ると、孫策は自室と定めた部屋へと向かっていった。 「さぁて、今日はどう可愛がろうかしら……うふふ」  既に部屋にいるであろう少女に対するありとあらゆる悪戯を思い描きながら孫策は足取りをご機嫌なものへと変えていく。 「あ、でも……いっそ、二人揃っての踊りを見るというのも……なら、やっぱりお酒が欲しいわね」  そう口にすると、どうしても酒が欲しくなる。孫策はその欲求に負け、もう一人の呑兵衛を追いかけて周瑜の警戒が薄くなっているであろう蔵へと歩を向けるのだった。  多くの兵を束ねながら目の前を進む夏侯淵の背から未だに警戒している気配を感じながら関羽は隣で黙々と前へと進む劉備へと意識を向ける。 「桃香さま……お疲れではありませんか?」 「ううん、大丈夫だよ。それにわたしに付いてきてくれた人たちの方が大変なはずだもん……わたしが弱々しいところを見せるわけにもいかないでしょ。ね?」  劉備が笑みを浮かべながら片目を瞬かせる。 「えぇ……そうですね」  確かに、今一番精神的にも肉体的にもつらいのは民なのだろう。劉備に付き従い、次なる地である公孫賛の領土である冀州へと移ると思っていたのに、気がつけば、曹操の元へと行くはめになってしまったのだから。 「でもね、あの人たちの安全はなんとしても確保しようと思うの……それこそ、曹操さんともう一度交渉してでも」 「…………なるほど、そこまでお考えなのですね」 「まぁね、あの人たちはわたしを頼ってくれたんだもの。なら、それに報いるよう頑張らなきゃね」  そう言って微笑む劉備の瞳には、何か強い意志のようなものが感じられる。そう関羽には見えた。  この短期間で、劉備は変わった。関羽はそう思う。どこがなのか具体的な説明が出来る自信は無いが……。  少なくとも、以前までの劉備ははっきり言えばどこか頼りなさげなところがあったと関羽は思っていた。だが、ここにきて劉備はどこか逞しさを感じさせるようになった。  武力が上がったという訳でもない……未だに戦場で役に立つ程度にもなっていないのだから。  知に関して勉学の成果が出始めているのか……それもどこか違う。確かに、出始めてはいるものの、それと関羽が感じた劉備の変化は関係ないように思える。 (戦乱に揉まれたためだろうか?)  もしくは、徐州での別れが原因なのかもしれない。  そこまで考えたところで関羽は、ふと軍議の時のことを思い出した。そして、その場で孔明が自分に言った言葉を思い出した。 『貴女が討たれたら誰が一番心を痛めるのか』  関羽が一人暴走しかけたときに言われた言葉……それを聞いた瞬間、関羽の脳裏に始めに過ぎったのは劉備の顔ではなかった……虎牢関で孔明と同じような言葉を口にした時の北郷一刀の顔だった。 「……何故、一刀殿が……」  あのとき、関羽を見つめていた瞳に含まれていたものが蘇ってきたのだ。もしかしたら、あの少年が自分の死を悲しむのではないか……そう思ってしまったのだ……劉備という主がいるにも関わらず。 「…………桃香さま」  何だか、劉備を裏切ってしまったような気がして申し訳ないという想いで関羽の胸はいっぱいだった。  関羽にとっての主はもちろん劉備だ……そうずっと思っていた。そして、それがこの先も変わらないであろう事にも自信がある。  なのに、一刀という存在がピッタリと収まっているのだ……あるはずのないと思っていた――いや、これまで気付かなかった関羽の心の隙間に……まるで元々そこに一刀という存在があったかのように。 「それに、あの御方は誰なのだ」  そう……関羽の夢に出てくる不思議な人……夢の中の関羽が"ご主人様"と仰ぐ人物もまた一刀同様に関羽の中に住み着いている。その人物もまた関羽の心の一部だったようにも思えた。 「一体、私はどうしてしまったというのだ……」  思わず、関羽は唸るようにそう呟いた。正直、頭を抱えてしまいたくなるほどに混乱していた。 「愛紗、どうしたのだ?」 「い、いや、何でもない。気にするな」  不思議そうに顔をのぞき込む張飛に自分の内情を読み取られてしまうような気がして関羽は顔を逸らし天を仰いだ。 (天……の御使い、か)  そう内心で反芻する関羽の瞳にはいつの間にか真っ黒な布で覆われたかのように黒々とした空が広がっていた。  北郷一刀は、州境の街に未だに待機していた。 「まったく……街を見て時間を潰せたからよかったけど、そろそろ動きたいとこだな」  宿の一室で改めて作戦の確認を独自に行いながら一刀はそうぼやく。  もう、何度も街を巡り、あちらこちらへと眼を向けたりしていたため、さすがにもう見るものがなくなっていた。せいぜい、旅商人の開く露店くらいだった。 「そうよねぇ……街のほとんどを見終わっちゃったものねぇ。あぁ……速く踊りたくて身体がうずうずするわぁん!」 「うるさい、元凶!」  隣で見もだれる筋肉達磨――もとい妖怪……ではなく貂蝉を一刀は思いきり睨み付ける。  貂蝉の横では、寝台の上に三つの膨らみが出来ている。その胸の辺りが気持ち良さそうに上下している様子が三人ともぐっすりと眠っていることを表している。  それを眺めながら一刀はため息を吐いた。 「やれやれ……こんなことになるとは思ってなかったろうな……」 「そうねぇ……」  となりで肯く貂蝉が余計な行動を起こしたがために足止めを食らってしまったのだ。そして、もうそれから数日経過していた。時間的にはそろそろ返答の兵がやってきてもおかしくはない。  一刀が何度目かになるその言葉を思い浮かべるという行為を行おうとしたところで部屋の扉が叩かれた。 「ん? 誰かな?」 「孔融様からの使いだそうですよ」答えたのは見張りの兵だった。 「あぁ、わかった。中に入れちゃっていいよ」  そうして、一刀は孔融からの使者を中へと招き入れた。 「さて、どういった返事が貰えたんですか?」 「えぇ、孔融様のお返事はですね――」  それからの話は長かったが、要約するといたく単純なものだった。 「つまり、青州入りも認めるし、青州黄巾党をどうにかするなら青州を好きにしてくれて構わないと」 「はい、その通りでございます」  要約した一刀の言葉に使者が肯く。 「うん、わかったよ、ありがとう。それじゃあ、その手筈でお願いしますってことで……この了承の意を綴った書簡を持っていってくれますか?」 「かしこまりました……では」  そう告げると使者はあっという間に外へと出て行った。いち早く主へと伝えに向かったのだろう……遠ざかる馬蹄の音を聞きながら一刀はそう思った。 「しかし、好都合だな。好きにしていいなんて……ちょっと怪しいくらいだな。とは言え、これで俺の思った通りに動けそうだな」 「あら……もしかして、ご主人様ってば勘違いを……」 「ん? 何か言ったか?」 「いいえ、何も言ってないわよん。んふふ」  何か貂蝉が呟いた気がして、振り向くも貂蝉は首を横に振るだけだった。 「まぁ、いいか。よし、それじゃあ……出発の準備に取りかかるとするか」  肩をぐるりと回しながら一刀は兵たちに指示を飛ばし始める。また、指示の手伝いを貂蝉にもまかせると、貂蝉はあっという間に姿を消した。そのことに一刀が驚いていると、突然兵が大声を張り上げる。 「う、うわぁぁああ!」 「なぁに、驚いているのかしらん? さっさと準備を進めちゃうわよぉん!」  いつの間にか外に移動した貂蝉と待機していた兵の会話が聞こえるが、あえて無視をすると一刀は両頬を張った。 「さぁ、ここからが本番だ。気合いをいれていくぞ!」 「すーすー」  寝台に横たわる三つの膨らみから聞こえる寝息だけが一刀への返事だった。 「…………」  一刀は、強張っていた両肩から力が抜けるのを感じ、虚しくなるのだった。  張勲は唖然としていた……目の前の光景が信じられなかったのだ。 「う、嘘……」  広大な荒野、そこに多くの人影が座っている。それは、袁術軍によって捕えられた賊軍だった。  そう、張勲は賊軍討伐に来ていたのだ。  だが、彼女が指揮を執っていたわけではない。張勲はあくまで監視だった。  鳳統の軍師としての力を計るために来たのだ。だが、この結果は張勲の想像以上だった。というよりも予想を遙かに上回っている。  普段の袁術軍なら、張勲が適当に指示を出して後は数にものを言わせて力任せに叩かせるため、それなりに被害を受けたが、今回はほぼ無傷だった。  相手を吊り出し、その背後を奇襲、さらには奇襲によって混乱して敵の本隊が動けない間に手薄となった賊の根城を制圧……まさに相手の虚を突く策の連続だった。  張勲とて、袁術軍ではそれなりに頭を使う位置に座している。それ故に、鳳統の策と指示は相当のものなのだと理解することができた。 「……あっ、張勲さん」 「はい、お疲れ様です鳳統ちゃん」  張勲の元へと寄ってきた鳳統に張勲は自分が啜っているお茶とものと同じものを差し出す。  鳳統が、それをおずおずと受け取る。やはり、未だ張勲にも慣れていないようだった。 (それ以前に人見知りなんでしょうねぇ……)  鳳統のおどおどとした態度は天然のものであり、彼女はそういった気性の持ち主なのだということが鳳統を観察するうちに張勲にもわかった。 (猫被ってるわけじゃなかったんですねぇ……残念。でも、出来れば……あぁ、アレしたいなぁ……)  本当ならば、鳳統の両側に纏められた髪を下ろして、主である袁術にするように髪をすいてみたいところなのだが、鳳統の性格を把握し始めた張勲はその願望を抑えていた。 「…………あ、ありがとうございます」   張勲の心情を知るよしもない鳳統は茶を受け取ると頭をぺこりと下げて七乃が用意させた席に着いた。 「だけど、凄いですねぇ~」 「…………い……いぇ」  張勲の賞賛の言葉に鳳統はお茶を啜ることで顔を俯かせた。 「ふふ、照れなくてもいいのにぃ~」 「……あぅ」  つばを摘んで帽子を上げると、赤くなった鳳統の顔が現れる。余程恥ずかしいのか瞳が潤んでいる。  それを見た瞬間、張勲は己を抑えられなかった。 「あぁん、可愛い~」 「…………あぅ~」 「あぁ、お嬢さま……申し訳ありません……七乃は鳳統ちゃんにも心を惹かれてしまいましたぁ」  妙に縮こまっている鳳統は、袁術とはまた違った意味で小動物らしかった。気がつけば、張勲は鳳統の身体をぎゅっと抱きしめていた。 「あ……あわわ……」 「あぁ、ごめんなさい。つい、調子に乗っちゃいました。えへ」 「……あぅ」  鳳統の瞳にある水溜まりが決壊しかけたのを見るやいなや張勲はとっさに飛び退き満面の笑みでわびの言葉を継げた。  鳳統は再び帽子を深く下げ、顔を隠してしまった。 「ホント可愛いですねぇ……是非とも仕官出来るよう計らいましょうかねぇ……うふふ」  鳳統の仕草に胸をときめかせながら張勲は袁術への報告内容を考えることにした。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 整形版はここからです。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――  「無じる真√N29」  忙しく駆け回る兵たちの声や足音が交錯しているのが室外から聞こえる玉座の間に一つの影があった。 「むぅ~暇なのじゃ……七乃は何やら仕事があるようじゃし……」  この城は徐州に存在する郯城。少し前まで劉備軍の本拠となっていた城だった。  その郯城の玉座の間にて、袁術が暇をもてあまし一人ぼぉっと虚空を眺めていた。いつも傍にいる張勲もさすがにやることが多 すぎるのかしばらくの間姿を消している。  また、移動してきたばかりのためハチミツの所在も曖昧になっており袁術の心は不満で満たされていた。 「まったく、あれほどハチミツについては気をつけよと申したというのに……何をやっておるのじゃ……そもそも、七乃も――」  ぶちぶちと袁術が愚痴をこぼしていると、ちょうどよくそこへ張勲が帰ってきた。 「いやぁ~長引いちゃいました。お待たせしましたお嬢さま」 「おぉ、七乃~」 「そうそう、ハチミツ水を持ってきましたよぉ~」  張勲の姿を見つけ、地面へと垂れ下がった袖を引き連れながら両腕を上下に振ることで機嫌を取り戻した事を袁術は身体で表 現する。  笑顔で駆け寄る張勲を、同じような笑顔で迎えると袁術はさっそく張勲の手にあるハチミツ水を受け取る。そして、喉からこくこく と音を立てて体内へと流し込んでいく。 「ぷはーっ! 最高なのじゃ!」 「よかったですねぇ、お嬢さま」 「うむ、やはりハチミツは美味じゃのお!」 「あらあら、お口がべたべたじゃないですかぁ、しょうがありませんねぇ~」  破顔した張勲に口元を拭われると、袁術は笑みを浮かべながら口を開いた。 「さて、ハチミツの補給もしたところで、情況説明をするのじゃ」 「あぁ、はいはい。では……まず、徐州の殆どは私たち、袁術軍の支配下となりました。また、豪族の殆ども袁家の名の下に平伏 しました~」 「うむ、そうかそうか。やはり、妾はその名だけでもすごいのじゃな!」 「そうですねぇ。ただ、琅邪郡の豪族とその周辺にたむろする黄巾党の残党が従わないんですよぉ~」  人差し指を立てて言葉を強調するような仕草をとる張勲に袁術はきょとんとした顔で首を捻る。 「何故なのじゃ?」 「実は……黄巾党残党と琅邪郡の豪族が手を組んでいるそうで……」 「ふむ、それはなんとかならんのかのぉ?」 「はい。適当に討伐隊を向かわせて様子を探るようには言ってありますのでその結果次第ですね」  張勲の説明に袁術は肯く。 「うむ、そうじゃな。して、他には何があったのじゃ?」 「あとは……え~と……あっ!」  暫く首を傾げうんうんと唸り、しばらく考え込んだところで張勲はぽんと手を打った。 「どうしたのじゃ?」 「実は、劉備軍の軍師を一人捕えたんでした」 「なんじゃと! 何で、それを早く言わぬのじゃ!」 「いやぁ~忙しかったものでついうっかり……えへ」  可愛らしい笑みを浮かべて惚けようとする張勲に袁術はわなわなと両肩を震わせる。 「えへ。じゃないのじゃ~!」 「も、申し訳ありませんお嬢さま」 「まったく……それで、その軍師とやらは今どうしておるのじゃ?」 「何やら事情があるとのことでしたので、一先ず一室設けて待機させています」 「なら、速く呼び出すのじゃ~!」 「かしこまりました。それじゃあ、すぐにでも」  そう告げると張勲はすぐさま退室していく。  それから、そう経たないうちに、張勲が一人の少女を連れて再度入室してきた。 「ふむ……その者が劉備軍の軍師だったというやつかえ?」 「はい~鳳統さんだそうです」  鳳統と紹介された少女が張勲に促されて袁術の前へと歩み出る。その両手が被っている大きな帽子のこれまた大きなつばを摘 んだままぐっと下げており、顔が見えない。 「むぅ……顔を見せるのじゃ!」 「……あ、あの……そのほ、鳳りょう、あじゃなを……あぅ」  袁術の言葉に反応し、帽子を上げて自己紹介をしようとするもくちゃくちゃになり鳳統は再び帽子を深々と被ってしまった。 「七乃、ちょっとよいか」 「はい、なんでしょうお嬢さま?」  こそっと手招きして呼び寄せた張勲に袁術はそっと耳打ちする。 「こ、こやつ本当に劉備軍の軍師なのかのぉ?」 「えぇ……そのはずですけど」 「それにしては……妙に弱々しくないかの?」 「うぅん、確かに頼りなさそうな感じがしますねぇ」  そこで、再度ちらりと鳳統の方へと二人揃って視線を巡らせる。つばの下からこそっと袁術たちの方を伺っている鳳統の瞳と視 線がぶつかる。 「あっ……あぅ」  瞬間、鳳統は顔を赤らめて俯いてしまった。 「いやいやいやいや! ありえんじゃろ、あれが軍師とかありえんじゃろ!」 「そうですかねぇ~お嬢さまが君主って言うのよりは十分あり得るんじゃありませんか?」 「なんじゃと?」 「それより、もう一度ちゃんと話を聞きましょうよ」  不穏当な発言に袁術が反応するも、張勲にあっさりと方向転換をされてしまい袁術は肩すかしをくらった気分だった。  だが、細かいことを気にするのは袁家の人間らしくないと思い袁術もまた、張勲の言葉は流すことにした。 「では、もう一度自己紹介を」 「は、はい。鳳統……字を士元と言います……」 「ふむ、で、鳳統よ。何故、この城に残り、妾の元へとやってきたのじゃ?」  その質問を袁術が口にした瞬間、鳳統の顔つきが真剣なものになった。それまで帽子のつばに添えられていた両手も自由に している。 「……それはですね……その、袁術さんの元で働かせて頂きたいと思いまして……劉備軍にいても碌に私の知識を使う機会が なかったものですから……」 「お、おぉ……そうかそうか」  急に流暢な語り口調になった鳳統に驚きながらも袁術は頷いて見せる。 「袁術さんの元でならきっと今まで以上に働く機会があると思いまして……」 「うむ、そうじゃのう……どうするべきかの七乃?」 「うーん。あっ! 取りあえず、私が付き添って鳳統ちゃんの働きぶりを検査するっていうのはどうですかねぇ?」 「おぉ、それじゃ!」  張勲の提案を採用することを即決した。正直、袁術は面倒臭かったのだ。 「ということですよ、鳳統ちゃん」 「…………は、はぃ」  張勲が笑顔を前に鳳統は、自分の意見を語っていたときとは打って変わって元の内気な様子に戻ってしまった。  そのまま縮こまるのを視界におさめつつ、再び張勲を近くに寄らせる。 「な、七乃」 「なんですか?」 「な、なんであの鳳統とやらは長々と語っていたときだけ様子が違うのじゃ?」 「さぁ? 普段は猫被ってるってことじゃないですか?」 「…………」  張勲の言葉に袁術は思わず絶句するのだった。 (に、二重人格ではなかったのじゃな……)  本拠へと戻る道中、夏侯淵たちに囲まれている劉備軍――いや、その中心にいる劉備を曹操は横目で見つめていた。 「……何故、私は劉備に……」  それは、誰に対するものでもなくただの自問自答の呟き。  先程、曹操は劉備に手厳しい言葉を浴びせかけた。それは、ひとえに劉備のことを思えばこそという部分もあった。もちろん、 大元には劉備の甘い考えが、理想を追い求めずに現実と睨み合いながらやってきた曹操の信念と違い過ぎた、ということによる 感情などがあった。  それは、もしかしたら一種の妬みのようなものなのかもしれないとも曹操は思う。朝廷の力も衰退し始め、乱れに乱れはじめた 大陸を平定する……その理想を求めるが故に、甘い考えや余計な理想などは捨て、かつての秦や漢のような強国を作り上げる ため、現実を見つめながらやってきた。  そんな曹操にとって、理想を追い求め続ける劉備という存在はとても羨ましく、そして、自らが歩むことを放棄した道を無駄に大 きい胸を張って歩く姿に嫉妬したのだろう。  曹操は、自己分析の結果をそう締めくくった。 「ふふ、こんな想いを持つのが覇王たる曹孟徳だなんて……我ながらおかしくてしょうがないわね」  苦笑混じりに首を横に振って劉備に対して抱いた思いを掻き消す。 「……それにしても」  曹操は思考を切り替えると、今度はあのとき、最後に劉備の提案を呑んだ自分について考えはじめる。  元々、曹操は劉備に説教をした後に解放しようと思っていた。それを曹操が告げる前に劉備が曹操の元で通行料分の働きを すると申し出た。だが、本来の曹操ならばそれも断り、劉備を逃していただろう。  しかし、実際には首を縦に振った。それは何故か? 「……ふ……ぎね」 「どうかしましたか、華琳さま?」  思わず出た呟きに典韋――曹操の親衛隊を務める少女である――が反応を見せる。曹操は、それに首を横に振って答える。 「なんでもないわ、流琉………………」 「そうですか。何かあったのならすぐにおっしゃってくださいね」 「えぇ……ちゃんと言うわ」  そこまで言葉を重ねたところでようやく典韋は髪を大きな髪飾りで纏めた頭を下げ、納得したように顔を前へと向けた。 「…………ただ、不思議に思っただけよ……そう、不思議でならなかっただけ……」  他の誰にも聞こえないほどの小声で呟いたその言葉通り、曹操自身にとっても先程の己の行動は不思議でならなかった。  ただわかっていることは、甘い考えでこの乱世を生き抜こうとする劉備の姿が、かつて何処かで"見たらしい"とある存在と重なっ て見えたということ。  "見たらしい"というのは、曹操の中にその"誰か"が刻まれているのは確かなのに彼女自身の記憶の中にその誰かが起こした 出来事など覚えが無いためだった。  確かに曹操の中に犠牲をより少なくしながら大勢の者たちを救わんとしている何者かの存在がある……なのにその顔は霞がか かったように見えず、声色は雑音混じりでよくわからない。 (誰だったかしらね……少なくともこの大陸を治めてきた王たちの中でそんな甘い考えを持ったままで制覇したという者はいなか ったはずよ……なら、誰なの?)  曹操は何故か、その"誰か"が甘い考えを持ったまま大陸を平定したような気がしていた。だが、その該当者に思い当たらなか った。 (だけど、何故なのかしら……妙な感情がわき起こるのは)  そうなのだ、今一その姿がはっきりとしないわりに、その"誰か"という存在が曹操の胸を妙にざわつかせている。  そして、その"誰か"と劉備が重なって見えた、そのことが劉備に対して抱いた『説教だけして逃してやろう』という考えを曹操の 中から消し去ったのだ。  覚えのない記憶……それが曹操の中で日に日に増してきている……だが、曹操には何故かそれが気味悪いとは思えなかった。  むしろ、切なさと妙な不安が曹操を襲ってくる。そして、同時に不思議と穏やかな感情がわき起こりそうにもなる……だが、そん なものは今の――覇王たらんとする曹操には必要のない想い。 「……今はいらないのよ」  少なくとも大陸の乱れが収まるまでは。そう付け加えると曹操は一旦思考を打ち切り、今度は関羽へと視線を巡らせる。 「大丈夫ですか、桃香さま」 「うん、ありがとう愛紗ちゃん」  関羽は、逃走を続けた疲れが出たのか妙にふらつく劉備を労っていた。 「……関羽……」  曹操は舌で拭い湿り気を帯びた唇からその呟きを発した。不思議と関羽に執着している自分がいる……それが曹操には不思 議だった。 「何故かしら……関羽が欲しくてたまらないわ」  再び曹操の口から『何故』という言葉が漏れる……最近、曹操の中にその単語が現れることが多くなっていた。  関羽にしてもそうだ。反董卓連合で見た時に興味を持つことはあったが、今のように妙な執着心はなかった。だが、再び関羽の 顔を見てから曹操は関羽を手にしたいという想いがうずき始めた。  元々、曹操は無骨で粗暴な男を好まない性質を持ってはいたがそこまで酷くはなかった。だが、今は出来る限り近くには置こう とは思えない……その上、関羽に異常なまでに魅力を感じている……正直なところ、曹操にはいまの自分がわからなかった。 (一体、どうしてしまったというの……曹孟徳ともあろう者が……)  そんなことを内心で呟きながらも、不可思議な事態に影響を受けてしまっていても、曹操はあくまで覇王だった。彼女の秘めるこ の悩みを誰にも気付かせることなどない。  ただただ毅然と胸を張り堂々たる態度で構え続ける……それが彼女の――曹操が曹操であるが故の姿勢だった。 「雪蓮、袁術が劉備を攻めたそうよ」 「へぇ……劉備をね」  劉繇を攻め、追い払ったことによって手にした曲阿、その城内で一息入れていた孫策は、周瑜から伝えられた袁術軍の動きに ただ口端を吊り上げるだけだった。 「劉備は、特に交戦する様子も見せずにすぐさま徐州を脱したそうよ。まぁ、結局曹操の元に落ち着いたみたいだがな」 「曹操か……彼女も最近は随分と勢力を伸ばしつつあるわよね」  現在、袁術の檻から抜けんとする孫策たちからすれば、曹操にせよ劉備にせよ、公……なんとかにせよ、羨ましかった。  既に、自分の勢力を持って内政や戦を行っている。彼女たちが領土を広げたり勢力を拡大したりと動き回っているという話を聞く たびに孫策は『いつか追いついてみせる』と心の中で意気込んでいた。  そう内心で思っていても実際に動くのはまだ機ではないのだ。今はまだ、雍州……ひいては江東を制覇するのだ。事実、それ だけに邁進して進んでいた。 「姉様、諸侯との差は開くばかりですが……大丈夫なのでしょうか?」 「今は我慢の時よ、いずれ私たち孫家の時代が来るわ。だから、そう焦らないの。ね、蓮華?」 「…………はい」  口惜しい思いを顔に滲ませながら頷く妹の蓮華――孫権、字を仲謀という――を見ながら孫策はふっと息をつく。 (まったく……もう少しどっしりと構えてくれないものかしらね……いずれは孫呉を率いてもらうことになるかもしれないのに)  そう思いつつも、孫権もまた孫策たちと同じように諸侯が気になっているという点に関しては良いことだとも孫策は見ている。  それは、怨敵である袁術だけでなく、この大陸にいる諸侯をしかと見つめなければ今後の戦乱を勝ち抜くことは出来ないと思え るからだ。 「それにしても、さすがにここのところの連戦で少し疲れたわね……そうだ、あの娘に今日はゆっくりと身体を癒して貰おうかしら ね……ふふ」  首を横に倒すと、小気味よい音がなった。 「雪蓮……あまり彼女をこき使わないよう気をつけなさい」 「はいはい、わかってるわよ。そういう冥琳こそどうなのよ?」 「ふ、私はちゃんと大事にしてるさ……何せ、専属の侍女であり連れなのだからな」  そう言って周瑜が不適な笑みを浮かべる。その表情からは、言葉に嘘偽りがないことが伺えた。もっとも、その周瑜の反応は孫 策の予想通りではあるのだが。 「私だって大事にしてるもんねぇ~」  それは当然のことでもあった。その少女は周瑜専属に付いている侍女と同じく、孫策にとっての連れなのだから。 「ふふ……それもそうだな」 「なぁに笑ってんだか……まぁ、いいや。お酒お酒~」 「雪蓮!」 「姉様!」  確か、手に入れた酒を城の蔵に仕舞ったはずだと思いそちらへ向かおうとした孫策の背に周瑜と孫権の叱咤の声が揃うように して飛んだ。  顔だけを二人の方へ向ける孫策……その口は不満を露わにするように尖らせている。 「な、何よぉ、二人して~」  見れば、孫権と周瑜が怒ったような呆れたような表情を浮かべている。 「何よぉ、ではありません。まだ、完全に気を抜いてよい時ではないというのに、まったく姉様は……」 「固いのよ、蓮華は……」 「何を言ってるのよ、雪蓮。貴女といい祭殿といいすぐに酒、酒と…………む?…………はっ!? いかん!」  ぐちぐちと孫策に説教を垂れようとしていた周瑜がふと何かに気づいたように目を見開くと、急に走りだして一目散に部屋を出 て行った。その後ろ姿を孫権が呆然とした表情で見つめている。 「あ、あれはどうしたのですか、姉様?」 「ふふ……きっと、祭をとっちめに行ったんでしょ……まったく」 「はぁ……?」  腰に手を置きやれやれと首を横に振ると、孫策は自室と定めた部屋へと向かっていった。 「さぁて、今日はどう可愛がろうかしら……うふふ」  既に部屋にいるであろう少女に対するありとあらゆる悪戯を思い描きながら孫策は足取りをご機嫌なものへと変えていく。 「あ、でも……いっそ、二人揃っての踊りを見るというのも……なら、やっぱりお酒が欲しいわね」  そう口にすると、どうしても酒が欲しくなる。孫策はその欲求に負け、もう一人の呑兵衛を追いかけて周瑜の警戒が薄くなってい るであろう蔵へと歩を向けるのだった。  多くの兵を束ねながら目の前を進む夏侯淵の背から未だに警戒している気配を感じながら関羽は隣で黙々と前へと進む劉備 へと意識を向ける。 「桃香さま……お疲れではありませんか?」 「ううん、大丈夫だよ。それにわたしに付いてきてくれた人たちの方が大変なはずだもん……わたしが弱々しいところを見せるわ けにもいかないでしょ。ね?」  劉備が笑みを浮かべながら片目を瞬かせる。 「えぇ……そうですね」  確かに、今一番精神的にも肉体的にもつらいのは民なのだろう。劉備に付き従い、次なる地である公孫賛の領土である冀州へ と移ると思っていたのに、気がつけば、曹操の元へと行くはめになってしまったのだから。 「でもね、あの人たちの安全はなんとしても確保しようと思うの……それこそ、曹操さんともう一度交渉してでも」 「…………なるほど、そこまでお考えなのですね」 「まぁね、あの人たちはわたしを頼ってくれたんだもの。なら、それに報いるよう頑張らなきゃね」  そう言って微笑む劉備の瞳には、何か強い意志のようなものが感じられる。そう関羽には見えた。  この短期間で、劉備は変わった。関羽はそう思う。どこがなのか具体的な説明が出来る自信は無いが……。  少なくとも、以前までの劉備ははっきり言えばどこか頼りなさげなところがあったと関羽は思っていた。だが、ここにきて劉備はど こか逞しさを感じさせるようになった。  武力が上がったという訳でもない……未だに戦場で役に立つ程度にもなっていないのだから。  知に関して勉学の成果が出始めているのか……それもどこか違う。確かに、出始めてはいるものの、それと関羽が感じた劉備 の変化は関係ないように思える。 (戦乱に揉まれたためだろうか?)  もしくは、徐州での別れが原因なのかもしれない。  そこまで考えたところで関羽は、ふと軍議の時のことを思い出した。そして、その場で孔明が自分に言った言葉を思い出した。 『貴女が討たれたら誰が一番心を痛めるのか』  関羽が一人暴走しかけたときに言われた言葉……それを聞いた瞬間、関羽の脳裏に始めに過ぎったのは劉備の顔ではなかっ た……虎牢関で孔明と同じような言葉を口にした時の北郷一刀の顔だった。 「……何故、一刀殿が……」  あのとき、関羽を見つめていた瞳に含まれていたものが蘇ってきたのだ。もしかしたら、あの少年が自分の死を悲しむのではな いか……そう思ってしまったのだ……劉備という主がいるにも関わらず。 「…………桃香さま」  何だか、劉備を裏切ってしまったような気がして申し訳ないという想いで関羽の胸はいっぱいだった。  関羽にとっての主はもちろん劉備だ……そうずっと思っていた。そして、それがこの先も変わらないであろう事にも自信がある。  なのに、一刀という存在がピッタリと収まっているのだ……あるはずのないと思っていた――いや、これまで気付かなかった関羽 の心の隙間に……まるで元々そこに一刀という存在があったかのように。 「それに、あの御方は誰なのだ」  そう……関羽の夢に出てくる不思議な人……夢の中の関羽が"ご主人様"と仰ぐ人物もまた一刀同様に関羽の中に住み着い ている。その人物もまた関羽の心の一部だったようにも思えた。 「一体、私はどうしてしまったというのだ……」  思わず、関羽は唸るようにそう呟いた。正直、頭を抱えてしまいたくなるほどに混乱していた。 「愛紗、どうしたのだ?」 「い、いや、何でもない。気にするな」  不思議そうに顔をのぞき込む張飛に自分の内情を読み取られてしまうような気がして関羽は顔を逸らし天を仰いだ。 (天……の御使い、か)  そう内心で反芻する関羽の瞳にはいつの間にか真っ黒な布で覆われたかのように黒々とした空が広がっていた。  北郷一刀は、州境の街に未だに待機していた。 「まったく……街を見て時間を潰せたからよかったけど、そろそろ動きたいとこだな」  宿の一室で改めて作戦の確認を独自に行いながら一刀はそうぼやく。  もう、何度も街を巡り、あちらこちらへと眼を向けたりしていたため、さすがにもう見るものがなくなっていた。せいぜい、旅商人の 開く露店くらいだった。 「そうよねぇ……街のほとんどを見終わっちゃったものねぇ。あぁ……速く踊りたくて身体がうずうずするわぁん!」 「うるさい、元凶!」  隣で見もだれる筋肉達磨――もとい妖怪……ではなく貂蝉を一刀は思いきり睨み付ける。  貂蝉の横では、寝台の上に三つの膨らみが出来ている。その胸の辺りが気持ち良さそうに上下している様子が三人ともぐっす りと眠っていることを表している。  それを眺めながら一刀はため息を吐いた。 「やれやれ……こんなことになるとは思ってなかったろうな……」 「そうねぇ……」  となりで肯く貂蝉が余計な行動を起こしたがために足止めを食らってしまったのだ。そして、もうそれから数日経過していた。時 間的にはそろそろ返答の兵がやってきてもおかしくはない。  一刀が何度目かになるその言葉を思い浮かべるという行為を行おうとしたところで部屋の扉が叩かれた。 「ん? 誰かな?」 「孔融様からの使いだそうですよ」答えたのは見張りの兵だった。 「あぁ、わかった。中に入れちゃっていいよ」  そうして、一刀は孔融からの使者を中へと招き入れた。 「さて、どういった返事が貰えたんですか?」 「えぇ、孔融様のお返事はですね――」  それからの話は長かったが、要約するといたく単純なものだった。 「つまり、青州入りも認めるし、青州黄巾党をどうにかするなら青州を好きにしてくれて構わないと」 「はい、その通りでございます」  要約した一刀の言葉に使者が肯く。 「うん、わかったよ、ありがとう。それじゃあ、その手筈でお願いしますってことで……この了承の意を綴った書簡を持っていってく れますか?」 「かしこまりました……では」  そう告げると使者はあっという間に外へと出て行った。いち早く主へと伝えに向かったのだろう……遠ざかる馬蹄の音を聞きな がら一刀はそう思った。 「しかし、好都合だな。好きにしていいなんて……ちょっと怪しいくらいだな。とは言え、これで俺の思った通りに動けそうだな」 「あら……もしかして、ご主人様ってば勘違いを……」 「ん? 何か言ったか?」 「いいえ、何も言ってないわよん。んふふ」  何か貂蝉が呟いた気がして、振り向くも貂蝉は首を横に振るだけだった。 「まぁ、いいか。よし、それじゃあ……出発の準備に取りかかるとするか」  肩をぐるりと回しながら一刀は兵たちに指示を飛ばし始める。また、指示の手伝いを貂蝉にもまかせると、貂蝉はあっという間に 姿を消した。そのことに一刀が驚いていると、突然兵が大声を張り上げる。 「う、うわぁぁああ!」 「なぁに、驚いているのかしらん? さっさと準備を進めちゃうわよぉん!」  いつの間にか外に移動した貂蝉と待機していた兵の会話が聞こえるが、あえて無視をすると一刀は両頬を張った。 「さぁ、ここからが本番だ。気合いをいれていくぞ!」 「すーすー」  寝台に横たわる三つの膨らみから聞こえる寝息だけが一刀への返事だった。 「…………」  一刀は、強張っていた両肩から力が抜けるのを感じ、虚しくなるのだった。  張勲は唖然としていた……目の前の光景が信じられなかったのだ。 「う、嘘……」  広大な荒野、そこに多くの人影が座っている。それは、袁術軍によって捕えられた賊軍だった。  そう、張勲は賊軍討伐に来ていたのだ。  だが、彼女が指揮を執っていたわけではない。張勲はあくまで監視だった。  鳳統の軍師としての力を計るために来たのだ。だが、この結果は張勲の想像以上だった。というよりも予想を遙かに上回ってい る。  普段の袁術軍なら、張勲が適当に指示を出して後は数にものを言わせて力任せに叩かせるため、それなりに被害を受けたが、 今回はほぼ無傷だった。  相手を吊り出し、その背後を奇襲、さらには奇襲によって混乱して敵の本隊が動けない間に手薄となった賊の根城を制圧…… まさに相手の虚を突く策の連続だった。  張勲とて、袁術軍ではそれなりに頭を使う位置に座している。それ故に、鳳統の策と指示は相当のものなのだと理解することが できた。 「……あっ、張勲さん」 「はい、お疲れ様です鳳統ちゃん」  張勲の元へと寄ってきた鳳統に張勲は自分が啜っているお茶とものと同じものを差し出す。  鳳統が、それをおずおずと受け取る。やはり、未だ張勲にも慣れていないようだった。 (それ以前に人見知りなんでしょうねぇ……)  鳳統のおどおどとした態度は天然のものであり、彼女はそういった気性の持ち主なのだということが鳳統を観察するうちに張勲 にもわかった。 (猫被ってるわけじゃなかったんですねぇ……残念。でも、出来れば……あぁ、アレしたいなぁ……)  本当ならば、鳳統の両側に纏められた髪を下ろして、主である袁術にするように髪をすいてみたいところなのだが、鳳統の性格 を把握し始めた張勲はその願望を抑えていた。 「…………あ、ありがとうございます」   張勲の心情を知るよしもない鳳統は茶を受け取ると頭をぺこりと下げて七乃が用意させた席に着いた。 「だけど、凄いですねぇ~」 「…………い……いぇ」  張勲の賞賛の言葉に鳳統はお茶を啜ることで顔を俯かせた。 「ふふ、照れなくてもいいのにぃ~」 「……あぅ」  つばを摘んで帽子を上げると、赤くなった鳳統の顔が現れる。余程恥ずかしいのか瞳が潤んでいる。  それを見た瞬間、張勲は己を抑えられなかった。 「あぁん、可愛い~」 「…………あぅ~」 「あぁ、お嬢さま……申し訳ありません……七乃は鳳統ちゃんにも心を惹かれてしまいましたぁ」  妙に縮こまっている鳳統は、袁術とはまた違った意味で小動物らしかった。気がつけば、張勲は鳳統の身体をぎゅっと抱きしめ ていた。 「あ……あわわ……」 「あぁ、ごめんなさい。つい、調子に乗っちゃいました。えへ」 「……あぅ」  鳳統の瞳にある水溜まりが決壊しかけたのを見るやいなや張勲はとっさに飛び退き満面の笑みでわびの言葉を継げた。  鳳統は再び帽子を深く下げ、顔を隠してしまった。 「ホント可愛いですねぇ……是非とも仕官出来るよう計らいましょうかねぇ……うふふ」  鳳統の仕草に胸をときめかせながら張勲は袁術への報告内容を考えることにした。