改行による2パターンとなっています。最初は整形なしの素です。 ブラウザでご覧の方は、『ctrlキー+F』を押して出た検索窓に整形と入力して飛んでください。  「無じる真√N28」  曹操軍が青州黄巾党の分隊を撃退した頃、寿春に居を構えている袁術は諸侯の動きに関する定期報告を聞くと、ひたすら動かし続けていたその手を止めた。 「のお、七乃」 「何ですお嬢さま?」  今まで機嫌良くはちみつを舐めることに専念していたのに、急に手を止めた袁術を張勲――真名を七乃という――が見つめる。 「公孫……賛だったかのぉ? まぁ、あやつが麗羽をうち破り勢力を広げ、曹操も何やらゴソゴソと動いておる……だったら、妾もあやつらに負けず、領土を拡大するべきなのではないかのう?」 「そうですねぇ……確かに領土拡大はしたいところですね。でも、お嬢さま」 「なんじゃ?」 「袁家という名前を頼りにやってきたとはいえ、現状でそれなりには兵は揃っているんですけど、どう思います?」  その言葉は袁術自身の魅力に集まったわけではないということを意味しているが、当の本人は気付いていない。 「それはそれなのじゃ! 妾はもっともぉっと領土が欲しいのじゃ~!」  袁術が手足をばたつかせるのを張勲は頬に手を当て、ただにっこり微笑むだけだった。 「あらあら……あり得ない程の、わがままっぷり! さすがはお嬢さま!」 「そうであろう、そうであろう! なっはっはっはっは~!」  高らかに笑い声を上げながら袁術は勢いよく立ち上がった。  その瞬間、『ゴン』そして『ドプ』という音が発生した。 「へ?」 「あら……」  胸を張って高笑いを上げていた袁術はその音の発信源へと視線を恐る恐る送る。張勲もその後を追うと、袁術の手元に置いてあったハチミツの壷が倒れ中身があふれ出していた。 「あぁ!? 妾のハチミツが、ハチミツが逃げていくのじゃ~!」 「まぁ、大変。うふふ」  必死に溢れ出るハチミツをかき集める袁術を微笑まし気に眺める。ただ、眺める。手伝わずに眺める。 「うぅ……ハチミツ……」 「まぁまぁ、お嬢さま。そうだ! その想いをいっそ徐州の劉備さんにぶつけちゃいましょう!」  パンと手を打ってにっこりと微笑みながらそう告げる張勲に袁術が首を傾げる。 「劉備に?」 「そうですよぉ、劉備さんにお嬢さまの感情をぶつけることで領土も広がりますし一石二鳥じゃありません?」 「おぉ、それは名案なのじゃ!」  つい少し前の涙目から再び満面の笑みへと表情を変えると、袁術はすくっと立ち上がり張勲へと向き直る。 「さっそく、兵を用意するのじゃ!」 「はいはい~、ついでに徐州内の豪族たちにも手を回しておきましょうか」 「なんでもいいのじゃ! 一刻も早く攻め込むのじゃあ~」  その言葉をとくに聞き止めることなく張勲は一人の兵へと伝達を申し渡しながら退出した。  その際に、張勲は一人の兵に声を掛ける。 「あ、そうそう。お嬢さまのハチミツの補給もお願いしますね。くれぐれも迅速に」  袁術が徐州攻略に乗り出していることなど未だ知るよしもない劉備は義妹の一人、張飛による報告を聞いていた。 「それで、黄巾党残党の討伐はどうだったの?」 「追っ払うことはできたのだ……ただ、完全に倒すことは出来なかったのだ」 「それはまたどうしてだ? お前ほどの者が取り逃すとも思えぬのだが」  そう言って関羽がじっと窺うように見つめると張飛が肯かせた顔を上げた。その顔は普段暖かな笑顔を浮かべている少女にしては珍しくしかめっ面だった。 「それが……何度追い詰めてぱったりと姿を消してしまうのだ……」 「姿を消す……だと?」 「……まさか、妖術――」  二人の会話を黙って聞いてた劉備が思わずそんな言葉を口にする。 「いえ、それは違うと思いますよ」 「朱里ちゃん……」  即時に自分の考えを否定され劉備はうらみがましくじっと見つめる。視線に込めた想いが伝わるのか僅かに口元を引き攣らせながら孔明が口を開いた。 「そ、そのですね……おそらくこの徐州の北方――琅邪郡辺りに健在する豪族の中に黄巾党と手を組んでいる人がいるんだと思うんです」 「そ、そんな馬鹿な!」 「意外に思えるかもしれませんがそれが、一番ありえることなんです」 「どういうことなのだ?」  先程から自分の考えを言い張っている孔明に対して張飛が疑問を口にする。劉備もまた、動揺に内心では首を捻っていた。 「あの……それはですね、黄巾党の残党……その勢力が増幅しつつあることに関係しているんです」 「確かに黄巾党の勢力はこの徐州といい、青州といいかなり増えてきてはいるが……それと今回の事といったい何の関係があるというのだ?」  鳳統の言葉に関羽はただ説明する彼女をじっと見つめることしかできない。 「……つまりですね、増大した黄巾党に対して私たちはその……正直な話、対処しきれていません。だからこそ、彼らと手を結ぶことで少しでも安全手にしようと考える人が出てくる訳なんです」  鳳統は、初めは言いづらそうに、それでも徐々にはっきりとそう言い切った。 「袁術とならまだしも……賊とまでとは、信じられん連中だな」 「それもまた、生きるため……なんだよね?」  以前鳳統たちが言っていたことを劉備は口にした。それに対して彼女たちは首を縦に振る。 「……そうです」 「そっか、じゃあしょうがない……のかな」 「そんな、桃香さま!」  未だ納得がいかないらしい関羽が目を剥くようにして劉備を見る。その姿に、やはり彼女は正義感が強いのだ……そんな想いを劉備は抱いた。 「何にせよ、今後どうするべきか……だと思います」 「そうですね。雛里ちゃんの言う通りだと思います」  雛里――鳳統の真名である――の言葉に合わせて孔明が場の諸将を見渡す。誰も異論を挟む事はなかった。 「それでは、黄巾党とそれを匿う豪族についてですが――」  その時、勢いよく扉を開け放って兵が駆け込んできた。 「今は軍議中だぞ! 何をしておるのだ!」 「ほ、報告! え、袁術軍が現在下邳にて兵力を集めている模様!」 「何!?」  軍議はそこで中断となり、場は騒然となる。袁術が徐州の一部を奪い取ったことはすでに知ってはいたが対処は出来なかった。それでも、袁術軍はしばしの間動かずにいた。  一説には袁術が徐州侵攻を飽きたからだとも言われていた。だが、その袁術軍が急に動き始め下邳に力を集結させつつあるという。それは、本格的な徐州制圧に乗り出したことを如実に物語っている。  劉備もまた、そのことを理解している。してはいるが、動揺は出来るだけ抑えている。君主である自分が狼狽した姿を見せればそれが軍全体に伝わることを理解しているからだ。 「それで、下邳周辺の豪族の反応はどうなの?」 「はい、それがほぼ全ての豪族が袁術に降りました」 「やはり、そうなりましたか……」  劉備の問いに対する兵の答えを予想通りだという風に肯く孔明。鳳統も恐らく分かっていたのだろう伏し目がちになりながらも身体に気合いを込めるようにその拳を握りしめている。 「結局、南はほとんど袁術に持って行かれたと言うことか……」 「恐らくは、袁術さんの兵力、もしくは財にものをいわせたかですね」  それは、以前孔明たちが語った豪族の動きとも当てはまっている。やはり、生き残りを考える者、私欲に走る者とが複数いたとしても、袁術に掛かればその両方を自分の手元に置くことが出来ると言うことなのだ。  場は一様に静まりかえってしまった。 「とにかく、どう対処するか考えるべきです!」 「そうだね……朱里ちゃんの言う通り、暗くなっててもしょうがないよ」 「さて、どうしたものか……朱里、何か思いついた事はあるのか?」  孔明の一言に面を上げると、議題を変更して軍議を再会した。 「……袁術軍の兵数はわかりますか?」 「は。おおよそ、十万……いえ、十五万ほどはいたかと」 「じゅ、十五万だと!?」  思わず叫んだ関羽に報告に来た兵の身体が硬直する。それを宥め絆しながら劉備は孔明の方を伺う。顎に手を置き何やら考えている。 「十五万……わたしたちはせいぜいかき集めても三万がいいところ……この戦力差はさすがに……」 「朱里、兵数で負けているのは確かだけど、質はきっとこっちの方が上に決まっているのだ!」 「うむ、鈴々の言う通り。何せ、鈴々や私がしごきにしごいた精鋭たちなのだからな」 「いえ、それでも厳しいと思います……愛紗さんたちが磨き上げた精鋭といってもその数は全体の二割近くしかいないんですから」 「……後は、豪族が嫌々送ってきた兵でしかありません」  ダメ押しのような鳳統の言葉に、再び場が沈黙に包まれる。関羽や張飛と言った武将はその肩を振るわせ押さえきれない怒りがあふれ出ている。  劉備も光明を見いだせない今の情況にただ唸るしかできない。 「どうしたら……」 「仕方ありません……やはり、手を借りましょう」 「手を借りる?」  豪族? それは無理だ。そのことは孔明も分かっているだろう。民衆? それは劉備が望まない。それもまた孔明はわかるはずだ。では、一体何に? そんな疑問が劉備の中に湧くのと同時に答えが返ってくる。 「公孫賛さんにです」 「白蓮ちゃんか……」  確かに、公孫賛はいま幽州に続き冀州の制定に勤しんでるとは聞いている。そして、その領土拡大に伴い兵力も上がったという話も聞いていた。  確かに、今袁術に対抗できる力を持つ諸侯の中で一番頼れそうなのは彼女である。それは劉備であってもよくわかる。 「でも――」 「確かに、そうするべきなのかもしれんな」  以前も抱いた劉備の懸念――袁紹に攻められた公孫賛を手助けしなかったことによって自分たちも助けて貰えないのではないかという考え――がどうしても劉備には拭いきれず言葉にして露わそうとしたが、関羽の言葉によって遮られた。 「とはいえ、北上するにも琅邪郡には黄巾党とそれに力を貸す豪族、その先の青州にも大規模の黄巾党……救援を仰ぐための兵を放つにも難しいと思うが……」 「愛紗さんの言うとおり、今から救援を求めたとしても公孫賛さんの軍が駆けつけてくるのは事が終わった後になってしまいます」 「それじゃあ、一体どうするのだ……」  今回は様々な事情が複雑に絡み合い難解な情況となっているからだろう、話についてこれなくなっている張飛が僅かに眉尻を上げている。  そんな様子を観察する劉備もまた、話になんとかついていっている程度である。 (これも、朱里ちゃんたちに教わってきた成果かな……あはは)  中々厳しい『朱里のお勉強教室』を思い浮かべながら劉備は内心で苦い笑みを浮かべた。 「兵を放ってもしょうがない……それならいっそみんなで行きましょうってことだよ。鈴々ちゃん」 「な、何だと!?」いち早く反応を示したのは関羽だった。 「そ、それって……」  さすがに劉備も孔明の言葉を聞き流すことは出来なかった。何故なら、孔明の発言、それはすなわち―― 「徐州から撤退するってことなのか!」 「うん。その通り」張飛の言葉に孔明が肯く。 「その通り……だと? ふざけるな!」  ついに溜まりに溜まった怒りを関羽が解き放つ。柳眉を逆立て激しい視線を孔明に向ける。  だが、対する孔明も普段の彼女からは想像出来ない程に凛然とした様子でそれを受けている。 「ふざけてなんていません……わたしたちが生き残る最善の方法がそれだと言ってるんです」 「何が最善なのもか!!」 「なら、他に何があるというんですか?」  憤然とした態度で声を張る関羽に対して、孔明はあくまで冷静な面持ちで返している。  だが、その内面はきっと穏やかではない。それが劉備にはわかる。そして、本当なら関羽もそれをわかっているはずなのだ。  いや、むしろわかっているからこそ苛立つのだろう。孔明の民衆を見捨てるかのような考えに対して。 「民を見捨てるくらいなら迎えうってくれる!」 「それでどうなるんです?」 「朱里?」 「わからないんですか? 貴女が向かってむざむざと討たれたら誰が一番心を痛めるのか」  冷静というよりも冷然とした態度で関羽に問いかける孔明、その様相に関羽の勢いが落ちる。 「…………そ、それは」 「桃香さまなんですよ……そして、愛紗さんを失ったという桃香さまの心の穴は誰にも塞ぐことは出来ないんです」 「っ!?」  関羽は言葉が出ないようだ。そして、唇を噛みしめると瞼を降ろし口をつぐんでしまった。その際、一瞬だけ関羽の視線が虚空を漂ったのを見たきがしたがその意味が劉備にはわからなかった。  そして、頭を冷やしたのだろう今まで吊り上げていた柳眉を下ろすと、口を震わせる。 「……確かに、孔明の言うこともわかる……だが、やはり私にはできん」 「まぁ、愛紗さんならそう言うとは思いました……だからですね――」  次の瞬間、劉備は胸がつぶれたのではと思った。何故なら、孔明の告げた内容があまりにも劉備の意表をついていたのだから。  冀州の南端。そこに青州黄巾党の冀州調査分隊が腰を下ろしていた。 「さてさて……ついに冀州入りを果たしたが……まさか、兗州で返り討ちにあうとは思わないよなぁ……」 「ま、まったくなんだな」  兗州の反応調査に向かった分隊が見事にうち破られてしまったというのだ。男がそれを知ったのは逃げ延びる兗州分隊の内、何割かの兵が合流してきた時だった。  そこで、事情を説明され、男は愕然とした。曹操が様々なことにおいて、とてつもない才を有していると聞いたことはあったが、まさか分隊とは言え、それなりに数がいた軍を叩き返したというのは俄に信じられるものではなかった。  だが、逃げ延びた兵たちの弱り果てた姿が信憑性を高めていた。その顔には疲労がよく現れており、また追われたときに追ったと思しき怪我を抱えている者も多数いた。  そして、来ている装備もずたずたになっている。それを見て、彼らの言葉を信じないはずはなかった。  その上で、改めて話し合いを行い、兗州がダメなら冀州を取るべし、ということになったのだった。  そんなことを口元に生えている髭を弄りながら思い出すと、男は口角を吊り上げ、ニヤリと笑みを浮かべた。 「まぁ、こっちは公孫賛が色々とやってるようだが、まだ完全には落ち着いていないようだからな……兗州よりは攻めやすいだろ」 「そうっすね……お、あれか? 派遣された公孫賛軍の一隊がいるっていう街は」  隣に並ぶ小柄な男に習い、髭の男は街を見る。よく見れば、こちらの接近に気付いたのか門から少数ながら兵たちが出てきている。 「ん? あれは……」  複数の人影でごった返す中高々と上げられている旗がある。そこに描かれた十文字――それは確か、公孫賛軍に舞い降りた天の御使いの印である、そんなことを聞いたことがあったのを髭面の男は思い出す。  一体、何故公孫賛軍の重要人物と言われる存在がここにいるのか? そのことに髭面の男が首を傾げていると、突然地響きが起こる。  すると、となりの小柄の男が何かを見つけたらしく騒ぎ出す。 「な、なんだありゃあ?」 「す、すごい勢いでなんか近づいてくるんだな」  大柄の男が言う通り、何やら砂煙を巻き上げながら一つの影が突っ込もうとしているか、勢いよく向かってきていた。 (ま、まさか騎馬による突撃!?)  そんな考えが髭面の男の脳裏に過ぎった。ただ、何故か遅れて進んでいる群衆から制止するような声が上がっているのがかすかに聞こえる。 「ど、どうなってやがるんだ?」 「もしかしたら、気の早いヤツが暴走したんじゃ」 「そりゃあいいなぁ! 返り討ちにして勢いを付けるとするかぁ!」  男は有言実行とばかりに突っ込んでくる影に向かう。が、近づくにつれその影の正体がはっきりしたところで足を止めてしまった。 「…………お、おい」 「な、何すか?」 「ありゃ……なんだ?」 「わ、わからないんだな」  先頭を駆けていた三人は異様な風体をした影の正体に後ずさる。 「ちょぉっと、いいかしらぁ~ん?」 「ぐ……ぐぅ」 「おげぇ」  髭面の男は堪えたが、小柄な男は限界だったらしく少し前に食べた兵糧を戻してしまった。  本来なら、そんな勿体ないことをしたら怒るのだが、今回に限り髭面の男はそれも仕方がないのだと思った。  その原因は、影の正体にあった。  はげ上がった頭頂部、それなのに両側には桃色の髪留めをしたお下げが風に靡いている。そして、身体は鋼のごとき褐色の筋肉に覆われている――何故、それがわかるのか……答えは簡単だった。  その物体は腰に付けた桃色の紐の下着いがい何も身につけていなかったのだ。 「も、もしかして妖怪?」 「はっ!?」  男はそこで気がつく、相手は天の御使いである……ならば答えは自ずと出てくるのだ。 「そうか、やつは天の御使いが召喚した妖怪か化け物に違いねぇ!」  瞬間、妖怪は眼がぎらりと光る。鋭さを増した瞳が黄巾党分隊を獲物と定めたかのように睨み付ける。 「んまぁぁああ! だぁぁああれがぁぁああ、化け物だぁぁああ!」 「うひぃぃいい!」 「おがぁちゃ~ん!」  妖怪の咆哮に兵たちの心が折れていく。髭面の男も本能が働くのか気がつけば脚が後ろへ向かって動いていた。 「よくも、この世の果てまで言っても、むしろ宇宙の……いや、大宇宙の果てまでいっても見つけることができそうにないくらいおぞましい化け物なんて、酷いことを言ってくれたなぁぁああ!」 「そ、そこまでは言ってないんだなぁ~!」 「んなこたぁいいから、に、逃げろ! 逃げろぉ~!」 「ひぃぃいい!」  猛烈な速度で追ってくる妖怪を背に男たちはひた走る……明日の朝日を拝むために。 「さて、ようやく下邳についたわけじゃが……準備の方はどうなのじゃ七乃?」 「はい~、それはもう、万事ぬかりなく」 「そうかそうか、うむ、さすがは七乃なのじゃ! 妾が見込んだだけのことはあるのう」 「それはどうもありがとうございます……でいいんでしょうかね」  袁術は張勲の謙遜のようなそうでないような気もする言葉に気前よく笑ってみせる。 「あっはっは! 素直に喜ぶがよいのじゃ~!」 「いえ……なんか貶されたのかなぁ~なんて思っただけで……」 「ん? 何か言ったかえ?」 「いえ、何も」  何か呟いた張勲に声を掛けるもただ首を横に振るだけだった。 「しかし、今何か……」 「あ、そろそろ出陣の時間ですよ」 「おぉ、そうか! では、行くとするのじゃ!」 「はいはい、ではお嬢さまはこちらへ」 「うむ、行くぞ七乃」  そのまま袁術は七乃に促されるまま車へと乗り込んだ。そこへ兵が駆け寄ってくる。  それは、既に張勲が放っていた斥候だった。 「あら? どうしました?」 「劉備軍に動きが」  急いで来たためか、報告をしようと開いた兵の口からは乱れた息が出ている。 「そうですか……それで、向こうはどう出ましたか?」 「それが、一斉に撤退をし始めまして」  なかなかハッキリと言わない兵を訝しげに見ながら張勲は質問をする。 「まぁ、そうなりますよねぇ。で、殿軍はどなたが?」 「それが、殿はいないようです」 「へ?」 「どうやら逃げるのに全力のようで……一目散に西へ……」 「西……というと曹操さんのところ、いや、そこを経由して公孫さんのところですかねぇ。反董卓連合の時も仲良さそうでしたもんねぇ」 「それって公孫賛じゃあ……」 「そうそう、そのハムソン賛さんです」 「…………」 「それじゃあ、報告はわかりましたので下がって良いですよ」  張勲は、何故か顔を引き攣らせている兵を追い払うように手を振る。 「そ、そうですか……では」  そのまま兵は肩を落としたまま立ち去っていった。それを見て、話が終わったことを理解した袁術は早速七乃に話の要約を頼もうと声を掛ける。 「結局、どういうことなのじゃ七乃?」 「どうやら、劉備さんたち逃げたみたいですよ」 「むふふ……それは賢い選択じゃのぉ~」  さすがにぽっと出の劉備といえども引き際をわきまえているのかと袁術は僅かに感心したように頷いた。 「そうですよねぇ。いや~やっぱりお嬢さまの威光は凄いものですね!」 「うむうむ、この袁公路は麗羽なぞと違い袁家の正当な血筋じゃからのう。何人たりとも逆らうことなどできないのじゃあ!」 「ひゅーひゅー」 「あっはははは~」 「それで、どうします? 追撃しますか?」 「いや、放っておいてもかまわんのじゃ。妾は寛大じゃからな。劉備なぞ、この袁術軍からしたらハエのようなものじゃからな。そのハエをムキになって追いかけるほど妾は子供でもないのじゃ!」 「おぉー! さすがお嬢さま。ハチミツの近くにハエがくると大激怒する人と同一人物とは思えない発言。驚きです」 「あっはっはっはー!」  張勲の言葉に何の疑問も持たず袁術は高らかに笑い続けるのだった。 「あれ? そもそも何で劉備さんたちのところにせめこんだんだっけ?」 「それは、きっと気のせいなのじゃ! それより、妾は勝利の美ハチミツ茶が飲みたいのじゃー」 「はいはい、今すぐにー」  張勲はすぐさま駆け出すと兵へと指示を飛ばした。そして、再び首を傾げる。 「やっぱり、何か忘れてるような……」  袁術もその姿を見ながら一緒になって一応考えてみることにする。 「うぅむ、やっぱり何も無かったと思うんじゃが……」 「お嬢さま、ハチミツ茶出来ましたよ」 「おぉ、さっそくいただくのじゃ~!」  ハチミツがたっぷりと入った茶が届いた時点で、袁術の頭からはほんの数秒前の考え事など消し飛んでしまっていた。 「はぁ、まったくもって美味なのじゃ」 「よかったですねぇ、お嬢さま」 「うむ、ハチミツは最高なのじゃあー!」  ハチミツと七乃、二つが揃っていれば袁術には他のことなどどうでもよくなってしまい、完全に考え事など無かったものとなったのだった。  青州黄巾党分隊の姿が見えなくなってから少し経った頃、ようやく貂蝉が一刀たちの元へと戻ってきた。 「お前は何をしてくれてんだ」 「だってぇ……こんなにも美しく麗しい漢女を捕まえて酷いことを言うんですものぉ……うぅ」 「というか、何で独断専行をしたんだ?」 「だってぇ、ご主人様の周りは物々しいじゃない」  そう言って貂蝉が少数とは言え一刀の護衛としてやってきていた兵を見る。その意味するところは一刀にもわからないでもない。  確かに、兵を引き連れたまま行くのはまずいのだろう、そう貂蝉が思ったのはよくわかるが、それでも何故貂蝉が一人で行ったのかが一刀には納得出来なかった。 「だからって何でお前が一人で行くんだよ」 「それはやっぱり、おっかない兵たちよりもか弱く、それでいて愛らしい漢女が一人で声を掛けた方が上手くいくはずじゃない?」 「むぅ……言ってることはあってるが貴様に言われると無性に腹が立つ……正しいこと……なんだよな……こいつがいってるのは……」  頬を染めながらのたまう貂蝉を前にして、一刀の脳裏に"間違った正論"という訳のわからない……というかあり得ない単語が過ぎった。 (正論言われて、これ程までに理不尽と感じたことがあっただろうか……いいや、ない!)  あまりの衝撃に一刀は、内心で思わず反語による断言を行っていた。  そんな一刀に気付くことなく貂蝉は喋り続ける。 「なのに……彼らったら、わたしのことを……うぅ」 「めそめそするな、気持ち悪い! くそっ、これは誤算だった……こいつを呼んだのは失敗だったか……」  そう、一刀が公孫賛に言って呼び寄せさせた四人の一人がこの――現在、一刀の目の前で両手を拳にして顔の前に添えて、子供が泣きじゃくるときの体勢を取っている自称漢女(おとめ)――貂蝉だった。  ちなみに、一刀が公孫賛に告げた『護衛に適した存在』それもこの貂蝉のことだったりする。  もちろん、一刀が貂蝉本人に告げることはないのだが。 「まいったな……あいつら多分青州まで戻ったっぽいよなぁ」  事態がややこしくなったことに一刀は思わず頭を抱えてしまう。 「ホントにごめんなさいね。ご主人様~」 「うぅむ、こうなりゃ追っかけるしかないか……よし、一旦街に戻って体勢を整えた後に、あいつら追って青州入りをしよう!」  一旦、今後の動きを決定すると、一刀は奇妙な踊りのように腰をくねくねさせる貂蝉を視線から外しながら周囲の兵たちに指示を出していく。 「それで……今あったことと青州入りすることを冀、青の両州を治めてる二人に伝えて欲しい」  予定外の事態発生と一刀がやむを得ず青州へ向かうことを公孫賛軍の君主である公孫賛、そして青州を一応治めている孔融に伝えるべきと一刀は判断したのだ。  その旨を伝えると兵は威勢良く返事をして駆けだしていった。 「さて、それじゃあ街戻るぞ……」 「あぁん、わたしはご主人様の……そうね、そういうことなのねぇ」 「おい貴様、なに悶えてやがる……戻るぞ」 「どぅふふ、最初は怒っちゃったけど……よくよく考えたら彼らはわたしがご主人様のものであるって言ったのよねぇ~あぁん、やっぱりわかってしまうものなのねぇ~」 「こ、こいつ……ぐっ……いいや、戻ろう」  一人、妄想内に入り込んでいる貂蝉を無視し、一刀は撤収を開始した。  そして、態々呼び寄せた残りの三人の元へと歩み寄った。 「なんか、悪いな……もう少し長旅になりそうだ」  頭からすっぽりとその全体を布で覆っている三人は、ただこくりと頷いた。気のせいか、一刀にはその口元は微笑を称えているように見えた。  徐州の西部にある彭城を越え、劉備軍は兗州に入り僅かに進んだところでまさかの事態に陥っていた。 「それで、何故それだけの軍勢を率いてこの曹孟徳の領土に入ってきたのかしら?」  兗州に入った後、冀州へ向け北上を開始する前に筋を通すためにも兗州を治める曹操の元を訪ね許可を引き出そうと考え、劉備軍は進行方向を変更した。  そして、曹操の元に到着するまでに何か対策を考えようとしていたところに、曹操軍……それも曹操自身と出くわしてしまったのだった。  劉備軍の殆どの勢力、そして劉備についていくといって聞かなかった民衆というそれなりの規模になった群衆を引き連れ無断で領地に入ったことに曹操軍から疑いをもたれることとなってしまった。  さすがに、事情を聞かれた際の対策を考える前に尋問が始まったため、劉備は自分の素直な気持ちでぶつかろうと決心していた。 「その……袁術さんに攻め込まれたので、白れ――公孫賛軍のいる冀州へと向かおうとしていたんです」  曹操軍を代表して尋問をしてくる曹操に対して、劉備もまた、劉備軍代表として応じていた。もっとも、その傍には頼れる軍師が付き添っているわけだが。 「……それで、無断で通過しようと?」 「違います! 曹操さんの元に行って許可を貰おうと思ってたんです」 「それを示す証拠はあるのかしら?」 「…………ありません。あ、そうだ! 徐州に斥候なり間者を放てばわかるじゃないですか!」  劉備が両手を合わせてぱんっと音を立てながら笑顔でそう告げるが、曹操は一切表情を変えようとはしない。 「情報を探るのにどれだけ時間が掛かると思ってるの?」 「う……」 「他には?」 「その……ありません」  最早これまでかと劉備はその顔を俯かせそうになる。それでも、劉備は絶対に俯かせない。まだ諦めてはいけないのだから……そう、今劉備の双肩に多くの人の命が掛かっている……それを実感しているからこそ彼女はただ、目の前の曹操を見据えるだけだ。  そんな劉備をじっと見つめていた曹操が肩を竦めながら口を開いた。 「はぁ……それで?」 「え?」 「結局はこの兗州を通過したいってことでいいのかしら?」 「はい。ほんのちょっと通るだけで良いんです。お願いします!」  必死に頭を下げ誠意を伝える劉備。その姿に関羽の身体がぴくりと僅かに動いたのを劉備は気配で感じた。きっと、彼女も辛いのだろう……自分の仕える君主が頭を下げているのだから……それを理解しながらも劉備はただただ一身に曹操に頼み込む。  全ては"みんなを護りたい"という劉備の想いのために。 「そうはいってもねぇ……ここから冀州だとそれなりに距離はあるわよね」 「そう……ですね」 「まぁ、道はこちらで指定するとして……それから無茶な強奪は絶対に許さないわよ」 「もちろんです」  話の流れが許可を貰えそうなものになっているのを感じながら、劉備は曹操の言葉を一言一句聞き漏らさぬよう集中する。 「まぁ、それならいいかしらね」 「そ、曹操様!」  曹操の傍に控えていた眼鏡をかけた少女が慌てたように割って入ってくる。 「郭嘉、最後まで話は聞きなさい。私だって何も無しに通す気はないわ」 「そうですか……出過ぎた真似をいたしました」 「まぁ、いいわ。それより、劉備」 「は、はい」  何か条件が付くことを郭嘉と曹操の会話から感じ取った劉備は身体を硬直させる。 「やはり、領土を通る以上払うものは払って貰わないといけないわよね」 「え……それは通行料ってことですか?」 「そうゆうことよ。そして……通行料としてもらうのは……関羽がいいわね」 「っ!?」  予想していなかった要請に劉備は思わず息を詰まらせる。いや、劉備軍全体……だけでなく曹操軍の面々も驚いている者がちらほらといる。 「そ、そんな……」 「あら? 貴女が放置した徐州に袁術がつけば自然と私にも面倒になるのはわからないかしら?」 「いえ……確かにその通りだと思います」 「そうでしょう……」  不適な笑みを口元に浮かべながらそう告げる曹操から劉備は視線を逸らさない。そして、自分の答えを述べる。 「ですけど、愛紗ちゃんを差し出すわけにはいきません」 「…………なんですって?」  曹操が、急激に険しい表情で睨み付けてくる。曹操から感じる威圧感を全身で受けながらも劉備は態勢を崩さない。 「聞こえなかったのならもう一度言います……愛紗ちゃんを譲る気はありません! いえ、それだけじゃない。朱里ちゃんも……共にここまで来た兵たちも、ついてきてくれた人たちも……みんなわたしにとってはかけがえのない存在なんです! だから、誰かだけを犠牲になんてしません!」 「桃香さま……」 「お姉ちゃん」  自分の傍にいる者たち……いや、劉備が引き連れる者たちの視線が集まっているのを劉備は感じた。その数だけ護るべき者がいることを劉備は注がれるいくつもの視線から実感する。 「いい加減にしなさい!」 「っ!?」  曹操の怒声、劉備はその身を思わず竦めてしまう。だが、すぐに首を左右に振ると喰い殺さんばかりに獲物を見つめる獣のごときするどい視線で劉備を貫いている曹操を見つめ返す。 (ここでこの人に負けちゃだめ……"あの人"が言ったとおり、わたしは自分の道を見つけたんだ……悩んで決めたんだ――誰かを犠牲にして他を護るなんて事をしないって!)  劉備は、密かに拳をぎゅっと握りしめる。そして、彼女にその想いを決定づけた出来事を思い出す。  時間は遡り、それは徐州脱出を孔明が提案したところだった。 「愛紗さんの性格は今までの付き合いで分かってます。ですから……わたしがこの国を袁術さんたちから護ります」 「どういう意味だ……朱里」  孔明の次の言葉を待つように全員の瞳が彼女を捉える。 「ですから、桃香さまを始め皆さんはすぐに逃げてください。わたしはここに残り、袁術軍にわざと降りますので」 「だ、ダメだよ朱里ちゃん!」  劉備が、慌てた様子で孔明の両肩を掴む。だが、孔明はそんな劉備に落ち着いた口調で語りかける。 「いいですか桃香さま……ここで、わたしが残ることには意味があるんです」 「え?」孔明の真意が読み取れず劉備はただ呆然と孔明の瞳を見つめる。 「……まって朱里ちゃん」 「雛里ちゃん?」  さすがに、鳳統も黙っては居られなかった。何故なら、同じ事を鳳統も考えていたからだ。そして、その役目は自分がするべきだとも思っていた。  だからこそ、一歩いやさらにもう一歩、前へと脚を踏み出し普段の自分には出来ないくらいに胸を張ってじっと孔明を見つめる。 「……袁術さんの元で上手く立ち回って街の人たちを護るのは私がやるよ」 「そんな、雛里ちゃんには無理だよ!」  劉備に両肩を押さえられているのも忘れて鳳統に近づこうとする孔明。きっと、鳳統の人見知りな性格、そして内気な部分を心配しているのだろう。何せ、ちょっと一人で外に出ることもままならない時すらあるほどなのだから……。  それでも鳳統は、自分を想ってくれる大切な親友に今の自分に出来うる限りの笑顔を向けて首を横に振る。  内心にある恐怖や緊張を誤魔化すように――。 「うぅん……私がやらなきゃいけないの……朱里ちゃんはきっとこの先、桃香様にとって……うぅん、劉備軍にとって今以上に重要な存在になると思う」  いつも一緒にいる鳳統だからこそわかる、孔明は今後の劉備軍でもっと重要な存在になると。そして、それならば、この情況で動くべきなのは誰なのか……聡い子である鳳統にはわかってしまうのだ。 「……わたしはどちらかと言えば、軍を率いる方が得意だよね。そして、朱里ちゃんは内政の方が得意」 「う、うん……」孔明がその先を言うなとそのくりっとした瞳で訴えている。 「軍を率いる軍師の腕が必要なのは戦になるとき……だけど、内政は常に必要でしょ……だから、朱里ちゃんは桃香様の傍にいなきゃダメだよ」 「そ、それは……そうだけど」 「雛里ちゃん、どうしても残るの?」 「申し訳ありません……桃香様」  瞳を潤ませ、今にも蓄えた水分を溢れ出させてしまいそうな劉備に対して鳳統は大きめの帽子が落ちないよう押さえながら頭を下げる。 「な、なんとかならんのか?」 「後、一人……せめて一人でも愛紗さんたち並の武将がいれば……情況は多少違ったかもしれません」  関羽の言葉にそう返すものの、もちろん今回の情況はそれだけではひっくり返せるということはないだろう。ただ、善戦は出来たと鳳統は思う。  もし、呂布に下邳城を奪われなかったら、袁術にその後出来た隙を突かれなかったら……そんな考えが鳳統の脳裏を過ぎるが今考えることでもないためすぐにその思考を停止する。 「ですので……私がここに残り上手く袁術さんに取り入って出来る限り民衆の負担を削ります」 「そ、そんな……そもそも、そんなこと可能なの?」  劉備がわなわなと唇を震わせながらそう問いかけてくる。それを見ながら鳳統は思う、この人は本当に多くの人を愛するのだと……そして、そこが弱点でもあると。 「可能だと思います……その……袁術さんの元で大きく名が通っているのは参謀の張勲さんだけですから」 「……つまり、軍師としての才に関して雛里に対抗できる者はいない……と、いうわけか」 「……はい」  関羽の言葉に何だか自画自賛をしているような気がして鳳統は帽子を深めに被り直す。 「で、でも……」 「桃香様」 「な、何?」 「必ず……いつか必ず、桃香様の元に行きます……ですから、しばしのお別れを」 「そんな……」 「桃香様には……想いがあります」  みるみるうちに顔を青ざめていく劉備に鳳統は穏やかなそれでいてはっきりとした口調で劉備のために言葉を紡いでいく。 「多くの人たちに笑顔をもたらす……そんな想いが」 「う、うん……そうだね。だから、雛里ちゃんも」 「違うんです……だからこそ、私はここに残るんです」鳳統は首を横に振る。 「だからこそ?」 「この徐州にだって、たくさんの人がいます。そして、桃香様を始めみんながその人たちを見捨てられないと思っています。そして、それは、桃香様とこの軍のみんなの想いが同じだから……」  普段、長々と喋らないためか、はたまた緊張のためか喉が渇き始めたのを鳳統は感じながらも話は続けていく。 「もちろん、私も同じです……だから、この徐州に住む人たちのためにもここに残り、袁術さんの無茶苦茶な政治を少しでも抑える役を引き受けると言ってるんです」 「……そんな」  劉備の顔は青を通り越し、白くなっている……よく見れば、その身体もまるで寒さに耐えるかのように震えている。 「それに……私は軍師として主を支える立場の人間としての意志に基づいてここに残ることを選んだんです」 「え?」 「朱里ちゃんは……桃香様を支えるために苦肉の策として徐州を出る事を選びました……なら、同じ支える立場にある私だって桃香様を支えるために行動を起こしたいと思ったんです」  そう、それは鳳統にとって譲れない部分でもある。たとえ苦境に立たされようとも、どんな形であろうと自分が支えると決めた相手を支えてみせるという想いだけは譲れないのだ。  それはもしかしたら、普段関羽や張飛がよく口にする"誇り"というものなのかもしれない。  そして、そんな鳳統の"誇り"をくみ取ってくれたのだろう関羽たちが動き出す。 「よし! ならば、我らはすぐに出立の準備を始めるとしよう」 「おう! なのだ」 「ふ、二人とも」  関羽たちの言葉が信じられないのか、劉備が勢いよくそちらに振り返る。 「そうですね……それなら、街の人たちにも知らせなければなりませんね……なら、長老さんの元に言って話を通してもらいましょう」 「しゅ、朱里ちゃん!」  既に、徐州脱出に向けて思考を切り替えた孔明に劉備の悲鳴にも似た声が響く。 「桃香さま、いいですか。雛里はいま自分なりの戦いに出ようとしています……それは、ひいては桃香さまのための戦い……その桃香さま自身が雛里の決意をふいにするような真似だけは避けてやるべきです」  やはり、武に生きる人間なのだろう……鳳統の想いを理解した関羽が劉備にきちっと事情を話す。それでも、劉備は納得が出来ていないようにも見える。 「でも、やっぱり……」 「桃香さま」 「うぅ……愛紗ちゃん」 「行きますよ」 「許可できないよ、雛里ちゃんも一緒に……」 「この国の人々を見捨てたくはないのでしょう?」 「うっ、それはそうなんだけど……」 「なら、雛里の想いを無駄にしないよう我々は我々のやることをやるべきでしょう……ほら、桃香さま」 「いや! 雛里ちゃんを置いてくなんて……いやぁぁああ!」  関羽に後ろ襟を掴まれ引きずられながら腕を伸ばしてくる劉備に鳳統はただ黙って頭を下げた。 「…………みんな、後はお願いします」  準備のために誰一人いなくなった中で、鳳統は既にいない仲間たちに向けてぽつりと呟いた。  その後、劉備は何度も後ろを振り返りかけては周りに止められた。そして、彼女は誓った……二度と仲間の犠牲を元に他の誰かを生かすような事はしない、と。  だからこそ、劉備は今、曹操に言われた条件対する答えをすぐに導き出した……。そして、更に次の言葉も既に彼女の胸にはある。 「劉備……貴女は本当に甘すぎるようね」 「……そうですね。色んな人に言われます」 「なら、少しは考えるべきなのではないかしら?」 「そんなことはもう何度もしてきました」 「へぇ、そのわりには甘さが目立つわね」 「それはそうでしょう……だって、わたしは甘いと言われようとそれを貫くことを決めたんですから!」  値踏みするように見つめてくる曹操にいつもの穏やかな瞳を引き締めながらはっきりと答えた。 「そんなことがまかり通ると思っているの!」  そう怒鳴りつけながら曹操の掌が劉備を襲う。乾いた音が辺りに響き渡る。 「……へぇ、動じないのね」 「わたしだって甘い考えがまかり通るとは思っていません……そう簡単には」  頬に曹操の張り手を受けながらも劉備は一切反応を見せなかった。瞳に宿した決意を目の前にいる曹操に向け続ける。 「わかってはいますけど……愛紗ちゃん一人に苦労を背負わせようとは思いません」 「…………」 「要するに、わたしは愛紗ちゃん一人置いて逃げるのが嫌、曹操さんは愛紗ちゃんが欲しい……なら、愛紗ちゃんも含めわたしたち劉備軍が曹操さんの元で働きます」 「なんですって?」  予想外だったのだろう、先程まで怒りによって寄せられていた眉間のしわが今度は疑問によって歪む。 「つまりは、愛紗ちゃん一人で払う分をわたしたちで分担するようにして引き受けます」 「…………」 「価値としては正当だと思いますけど、どうですか?」  あくまで頼み込む立場であることは理解しながらも交渉をする相手なのだという認識も内心で抱く。 「そう、貴女がそれで良いというのなら構わないわ」 「ありがとうございます。曹操さん」  何処か含むものがありそうな顔のまま曹操が頷いたのを訝しみながらも劉備は再度頭を下げた。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――― 整形版はここからです。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――  「無じる真√N28」  曹操軍が青州黄巾党の分隊を撃退した頃、寿春に居を構えている袁術は諸侯の動き に関する定期報告を聞くと、ひたすら動かし続けていたその手を止めた。 「のお、七乃」 「何ですお嬢さま?」  今まで機嫌良くはちみつを舐めることに専念していたのに、急に手を止めた袁術を張勲 ――真名を七乃という――が見つめる。 「公孫……賛だったかのぉ? まぁ、あやつが麗羽をうち破り勢力を広げ、曹操も何やら ゴソゴソと動いておる……だったら、妾もあやつらに負けず、領土を拡大するべきなので はないかのう?」 「そうですねぇ……確かに領土拡大はしたいところですね。でも、お嬢さま」 「なんじゃ?」 「袁家という名前を頼りにやってきたとはいえ、現状でそれなりには兵は揃っているんで すけど、どう思います?」  その言葉は袁術自身の魅力に集まったわけではないということを意味しているが、当の 本人は気付いていない。 「それはそれなのじゃ! 妾はもっともぉっと領土が欲しいのじゃ~!」  袁術が手足をばたつかせるのを張勲は頬に手を当て、ただにっこり微笑むだけだった。 「あらあら……あり得ない程の、わがままっぷり! さすがはお嬢さま!」 「そうであろう、そうであろう! なっはっはっはっは~!」  高らかに笑い声を上げながら袁術は勢いよく立ち上がった。  その瞬間、『ゴン』そして『ドプ』という音が発生した。 「へ?」 「あら……」  胸を張って高笑いを上げていた袁術はその音の発信源へと視線を恐る恐る送る。張勲 もその後を追うと、袁術の手元に置いてあったハチミツの壷が倒れ中身があふれ出して いた。 「あぁ!? 妾のハチミツが、ハチミツが逃げていくのじゃ~!」 「まぁ、大変。うふふ」  必死に溢れ出るハチミツをかき集める袁術を微笑まし気に眺める。ただ、眺める。手伝 わずに眺める。 「うぅ……ハチミツ……」 「まぁまぁ、お嬢さま。そうだ! その想いをいっそ徐州の劉備さんにぶつけちゃいましょう! 」  パンと手を打ってにっこりと微笑みながらそう告げる張勲に袁術が首を傾げる。 「劉備に?」 「そうですよぉ、劉備さんにお嬢さまの感情をぶつけることで領土も広がりますし一石二鳥 じゃありません?」 「おぉ、それは名案なのじゃ!」  つい少し前の涙目から再び満面の笑みへと表情を変えると、袁術はすくっと立ち上がり 張勲へと向き直る。 「さっそく、兵を用意するのじゃ!」 「はいはい~、ついでに徐州内の豪族たちにも手を回しておきましょうか」 「なんでもいいのじゃ! 一刻も早く攻め込むのじゃあ~」  その言葉をとくに聞き止めることなく張勲は一人の兵へと伝達を申し渡しながら退出し た。  その際に、張勲は一人の兵に声を掛ける。 「あ、そうそう。お嬢さまのハチミツの補給もお願いしますね。くれぐれも迅速に」  袁術が徐州攻略に乗り出していることなど未だ知るよしもない劉備は義妹の一人、張飛 による報告を聞いていた。 「それで、黄巾党残党の討伐はどうだったの?」 「追っ払うことはできたのだ……ただ、完全に倒すことは出来なかったのだ」 「それはまたどうしてだ? お前ほどの者が取り逃すとも思えぬのだが」  そう言って関羽がじっと窺うように見つめると張飛が肯かせた顔を上げた。その顔は普 段暖かな笑顔を浮かべている少女にしては珍しくしかめっ面だった。 「それが……何度追い詰めてぱったりと姿を消してしまうのだ……」 「姿を消す……だと?」 「……まさか、妖術――」  二人の会話を黙って聞いてた劉備が思わずそんな言葉を口にする。 「いえ、それは違うと思いますよ」 「朱里ちゃん……」  即時に自分の考えを否定され劉備はうらみがましくじっと見つめる。視線に込めた想い が伝わるのか僅かに口元を引き攣らせながら孔明が口を開いた。 「そ、そのですね……おそらくこの徐州の北方――琅邪郡辺りに健在する豪族の中に黄 巾党と手を組んでいる人がいるんだと思うんです」 「そ、そんな馬鹿な!」 「意外に思えるかもしれませんがそれが、一番ありえることなんです」 「どういうことなのだ?」  先程から自分の考えを言い張っている孔明に対して張飛が疑問を口にする。劉備もま た、動揺に内心では首を捻っていた。 「あの……それはですね、黄巾党の残党……その勢力が増幅しつつあることに関係して いるんです」 「確かに黄巾党の勢力はこの徐州といい、青州といいかなり増えてきてはいるが……そ れと今回の事といったい何の関係があるというのだ?」  鳳統の言葉に関羽はただ説明する彼女をじっと見つめることしかできない。 「……つまりですね、増大した黄巾党に対して私たちはその……正直な話、対処しきれ ていません。だからこそ、彼らと手を結ぶことで少しでも安全手にしようと考える人が出て くる訳なんです」  鳳統は、初めは言いづらそうに、それでも徐々にはっきりとそう言い切った。 「袁術とならまだしも……賊とまでとは、信じられん連中だな」 「それもまた、生きるため……なんだよね?」  以前鳳統たちが言っていたことを劉備は口にした。それに対して彼女たちは首を縦に 振る。 「……そうです」 「そっか、じゃあしょうがない……のかな」 「そんな、桃香さま!」  未だ納得がいかないらしい関羽が目を剥くようにして劉備を見る。その姿に、やはり彼 女は正義感が強いのだ……そんな想いを劉備は抱いた。 「何にせよ、今後どうするべきか……だと思います」 「そうですね。雛里ちゃんの言う通りだと思います」  雛里――鳳統の真名である――の言葉に合わせて孔明が場の諸将を見渡す。誰も異 論を挟む事はなかった。 「それでは、黄巾党とそれを匿う豪族についてですが――」  その時、勢いよく扉を開け放って兵が駆け込んできた。 「今は軍議中だぞ! 何をしておるのだ!」 「ほ、報告! え、袁術軍が現在下邳にて兵力を集めている模様!」 「何!?」  軍議はそこで中断となり、場は騒然となる。袁術が徐州の一部を奪い取ったことはすで に知ってはいたが対処は出来なかった。それでも、袁術軍はしばしの間動かずにいた。  一説には袁術が徐州侵攻を飽きたからだとも言われていた。だが、その袁術軍が急に 動き始め下邳に力を集結させつつあるという。それは、本格的な徐州制圧に乗り出したこ とを如実に物語っている。  劉備もまた、そのことを理解している。してはいるが、動揺は出来るだけ抑えている。君 主である自分が狼狽した姿を見せればそれが軍全体に伝わることを理解しているからだ。 「それで、下邳周辺の豪族の反応はどうなの?」 「はい、それがほぼ全ての豪族が袁術に降りました」 「やはり、そうなりましたか……」  劉備の問いに対する兵の答えを予想通りだという風に肯く孔明。鳳統も恐らく分かって いたのだろう伏し目がちになりながらも身体に気合いを込めるようにその拳を握りしめて いる。 「結局、南はほとんど袁術に持って行かれたと言うことか……」 「恐らくは、袁術さんの兵力、もしくは財にものをいわせたかですね」  それは、以前孔明たちが語った豪族の動きとも当てはまっている。やはり、生き残りを考 える者、私欲に走る者とが複数いたとしても、袁術に掛かればその両方を自分の手元に 置くことが出来ると言うことなのだ。  場は一様に静まりかえってしまった。 「とにかく、どう対処するか考えるべきです!」 「そうだね……朱里ちゃんの言う通り、暗くなっててもしょうがないよ」 「さて、どうしたものか……朱里、何か思いついた事はあるのか?」  孔明の一言に面を上げると、議題を変更して軍議を再会した。 「……袁術軍の兵数はわかりますか?」 「は。おおよそ、十万……いえ、十五万ほどはいたかと」 「じゅ、十五万だと!?」  思わず叫んだ関羽に報告に来た兵の身体が硬直する。それを宥め絆しながら劉備は 孔明の方を伺う。顎に手を置き何やら考えている。 「十五万……わたしたちはせいぜいかき集めても三万がいいところ……この戦力差はさ すがに……」 「朱里、兵数で負けているのは確かだけど、質はきっとこっちの方が上に決まっているの だ!」 「うむ、鈴々の言う通り。何せ、鈴々や私がしごきにしごいた精鋭たちなのだからな」 「いえ、それでも厳しいと思います……愛紗さんたちが磨き上げた精鋭といってもその数 は全体の二割近くしかいないんですから」 「……後は、豪族が嫌々送ってきた兵でしかありません」  ダメ押しのような鳳統の言葉に、再び場が沈黙に包まれる。関羽や張飛と言った武将 はその肩を振るわせ押さえきれない怒りがあふれ出ている。  劉備も光明を見いだせない今の情況にただ唸るしかできない。 「どうしたら……」 「仕方ありません……やはり、手を借りましょう」 「手を借りる?」  豪族? それは無理だ。そのことは孔明も分かっているだろう。民衆? それは劉備が 望まない。それもまた孔明はわかるはずだ。では、一体何に? そんな疑問が劉備の中 に湧くのと同時に答えが返ってくる。 「公孫賛さんにです」 「白蓮ちゃんか……」  確かに、公孫賛はいま幽州に続き冀州の制定に勤しんでるとは聞いている。そして、そ の領土拡大に伴い兵力も上がったという話も聞いていた。  確かに、今袁術に対抗できる力を持つ諸侯の中で一番頼れそうなのは彼女である。そ れは劉備であってもよくわかる。 「でも――」 「確かに、そうするべきなのかもしれんな」  以前も抱いた劉備の懸念――袁紹に攻められた公孫賛を手助けしなかったことによっ て自分たちも助けて貰えないのではないかという考え――がどうしても劉備には拭いきれ ず言葉にして露わそうとしたが、関羽の言葉によって遮られた。 「とはいえ、北上するにも琅邪郡には黄巾党とそれに力を貸す豪族、その先の青州にも 大規模の黄巾党……救援を仰ぐための兵を放つにも難しいと思うが……」 「愛紗さんの言うとおり、今から救援を求めたとしても公孫賛さんの軍が駆けつけてくるの は事が終わった後になってしまいます」 「それじゃあ、一体どうするのだ……」  今回は様々な事情が複雑に絡み合い難解な情況となっているからだろう、話について これなくなっている張飛が僅かに眉尻を上げている。  そんな様子を観察する劉備もまた、話になんとかついていっている程度である。 (これも、朱里ちゃんたちに教わってきた成果かな……あはは)  中々厳しい『朱里のお勉強教室』を思い浮かべながら劉備は内心で苦い笑みを浮かべ た。 「兵を放ってもしょうがない……それならいっそみんなで行きましょうってことだよ。鈴々ち ゃん」 「な、何だと!?」いち早く反応を示したのは関羽だった。 「そ、それって……」  さすがに劉備も孔明の言葉を聞き流すことは出来なかった。何故なら、孔明の発言、そ れはすなわち―― 「徐州から撤退するってことなのか!」 「うん。その通り」張飛の言葉に孔明が肯く。 「その通り……だと? ふざけるな!」  ついに溜まりに溜まった怒りを関羽が解き放つ。柳眉を逆立て激しい視線を孔明に向 ける。  だが、対する孔明も普段の彼女からは想像出来ない程に凛然とした様子でそれを受け ている。 「ふざけてなんていません……わたしたちが生き残る最善の方法がそれだと言ってるん です」 「何が最善なのもか!!」 「なら、他に何があるというんですか?」  憤然とした態度で声を張る関羽に対して、孔明はあくまで冷静な面持ちで返している。  だが、その内面はきっと穏やかではない。それが劉備にはわかる。そして、本当なら関 羽もそれをわかっているはずなのだ。  いや、むしろわかっているからこそ苛立つのだろう。孔明の民衆を見捨てるかのような 考えに対して。 「民を見捨てるくらいなら迎えうってくれる!」 「それでどうなるんです?」 「朱里?」 「わからないんですか? 貴女が向かってむざむざと討たれたら誰が一番心を痛めるの か」  冷静というよりも冷然とした態度で関羽に問いかける孔明、その様相に関羽の勢いが 落ちる。 「…………そ、それは」 「桃香さまなんですよ……そして、愛紗さんを失ったという桃香さまの心の穴は誰にも塞ぐ ことは出来ないんです」 「っ!?」  関羽は言葉が出ないようだ。そして、唇を噛みしめると瞼を降ろし口をつぐんでしまった。 その際、一瞬だけ関羽の視線が虚空を漂ったのを見たきがしたがその意味が劉備には わからなかった。  そして、頭を冷やしたのだろう今まで吊り上げていた柳眉を下ろすと、口を震わせる。 「……確かに、孔明の言うこともわかる……だが、やはり私にはできん」 「まぁ、愛紗さんならそう言うとは思いました……だからですね――」  次の瞬間、劉備は胸がつぶれたのではと思った。何故なら、孔明の告げた内容があま りにも劉備の意表をついていたのだから。  冀州の南端。そこに青州黄巾党の冀州調査分隊が腰を下ろしていた。 「さてさて……ついに冀州入りを果たしたが……まさか、兗州で返り討ちにあうとは思わな いよなぁ……」 「ま、まったくなんだな」  兗州の反応調査に向かった分隊が見事にうち破られてしまったというのだ。男がそれを 知ったのは逃げ延びる兗州分隊の内、何割かの兵が合流してきた時だった。  そこで、事情を説明され、男は愕然とした。曹操が様々なことにおいて、とてつもない才 を有していると聞いたことはあったが、まさか分隊とは言え、それなりに数がいた軍を叩き 返したというのは俄に信じられるものではなかった。  だが、逃げ延びた兵たちの弱り果てた姿が信憑性を高めていた。その顔には疲労がよ く現れており、また追われたときに追ったと思しき怪我を抱えている者も多数いた。  そして、来ている装備もずたずたになっている。それを見て、彼らの言葉を信じないは ずはなかった。  その上で、改めて話し合いを行い、兗州がダメなら冀州を取るべし、ということになった のだった。  そんなことを口元に生えている髭を弄りながら思い出すと、男は口角を吊り上げ、ニヤリ と笑みを浮かべた。 「まぁ、こっちは公孫賛が色々とやってるようだが、まだ完全には落ち着いていないようだ からな……兗州よりは攻めやすいだろ」 「そうっすね……お、あれか? 派遣された公孫賛軍の一隊がいるっていう街は」  隣に並ぶ小柄な男に習い、髭の男は街を見る。よく見れば、こちらの接近に気付いた のか門から少数ながら兵たちが出てきている。 「ん? あれは……」  複数の人影でごった返す中高々と上げられている旗がある。そこに描かれた十文字― ―それは確か、公孫賛軍に舞い降りた天の御使いの印である、そんなことを聞いたことが あったのを髭面の男は思い出す。  一体、何故公孫賛軍の重要人物と言われる存在がここにいるのか? そのことに髭面 の男が首を傾げていると、突然地響きが起こる。  すると、となりの小柄の男が何かを見つけたらしく騒ぎ出す。 「な、なんだありゃあ?」 「す、すごい勢いでなんか近づいてくるんだな」  大柄の男が言う通り、何やら砂煙を巻き上げながら一つの影が突っ込もうとしているか、 勢いよく向かってきていた。 (ま、まさか騎馬による突撃!?)  そんな考えが髭面の男の脳裏に過ぎった。ただ、何故か遅れて進んでいる群衆から制 止するような声が上がっているのがかすかに聞こえる。 「ど、どうなってやがるんだ?」 「もしかしたら、気の早いヤツが暴走したんじゃ」 「そりゃあいいなぁ! 返り討ちにして勢いを付けるとするかぁ!」  男は有言実行とばかりに突っ込んでくる影に向かう。が、近づくにつれその影の正体が はっきりしたところで足を止めてしまった。 「…………お、おい」 「な、何すか?」 「ありゃ……なんだ?」 「わ、わからないんだな」  先頭を駆けていた三人は異様な風体をした影の正体に後ずさる。 「ちょぉっと、いいかしらぁ~ん?」 「ぐ……ぐぅ」 「おげぇ」  髭面の男は堪えたが、小柄な男は限界だったらしく少し前に食べた兵糧を戻してしまっ た。  本来なら、そんな勿体ないことをしたら怒るのだが、今回に限り髭面の男はそれも仕方 がないのだと思った。  その原因は、影の正体にあった。  はげ上がった頭頂部、それなのに両側には桃色の髪留めをしたお下げが風に靡いて いる。そして、身体は鋼のごとき褐色の筋肉に覆われている――何故、それがわかるの か……答えは簡単だった。  その物体は腰に付けた桃色の紐の下着いがい何も身につけていなかったのだ。 「も、もしかして妖怪?」 「はっ!?」  男はそこで気がつく、相手は天の御使いである……ならば答えは自ずと出てくるのだ。 「そうか、やつは天の御使いが召喚した妖怪か化け物に違いねぇ!」  瞬間、妖怪は眼がぎらりと光る。鋭さを増した瞳が黄巾党分隊を獲物と定めたかのよう に睨み付ける。 「んまぁぁああ! だぁぁああれがぁぁああ、化け物だぁぁああ!」 「うひぃぃいい!」 「おがぁちゃ~ん!」  妖怪の咆哮に兵たちの心が折れていく。髭面の男も本能が働くのか気がつけば脚が 後ろへ向かって動いていた。 「よくも、この世の果てまで言っても、むしろ宇宙の……いや、大宇宙の果てまでいっても 見つけることができそうにないくらいおぞましい化け物なんて、酷いことを言ってくれたな ぁぁああ!」 「そ、そこまでは言ってないんだなぁ~!」 「んなこたぁいいから、に、逃げろ! 逃げろぉ~!」 「ひぃぃいい!」  猛烈な速度で追ってくる妖怪を背に男たちはひた走る……明日の朝日を拝むために。 「さて、ようやく下邳についたわけじゃが……準備の方はどうなのじゃ七乃?」 「はい~、それはもう、万事ぬかりなく」 「そうかそうか、うむ、さすがは七乃なのじゃ! 妾が見込んだだけのことはあるのう」 「それはどうもありがとうございます……でいいんでしょうかね」  袁術は張勲の謙遜のようなそうでないような気もする言葉に気前よく笑ってみせる。 「あっはっは! 素直に喜ぶがよいのじゃ~!」 「いえ……なんか貶されたのかなぁ~なんて思っただけで……」 「ん? 何か言ったかえ?」 「いえ、何も」  何か呟いた張勲に声を掛けるもただ首を横に振るだけだった。 「しかし、今何か……」 「あ、そろそろ出陣の時間ですよ」 「おぉ、そうか! では、行くとするのじゃ!」 「はいはい、ではお嬢さまはこちらへ」 「うむ、行くぞ七乃」  そのまま袁術は七乃に促されるまま車へと乗り込んだ。そこへ兵が駆け寄ってくる。  それは、既に張勲が放っていた斥候だった。 「あら? どうしました?」 「劉備軍に動きが」  急いで来たためか、報告をしようと開いた兵の口からは乱れた息が出ている。 「そうですか……それで、向こうはどう出ましたか?」 「それが、一斉に撤退をし始めまして」  なかなかハッキリと言わない兵を訝しげに見ながら張勲は質問をする。 「まぁ、そうなりますよねぇ。で、殿軍はどなたが?」 「それが、殿はいないようです」 「へ?」 「どうやら逃げるのに全力のようで……一目散に西へ……」 「西……というと曹操さんのところ、いや、そこを経由して公孫さんのところですかねぇ。反 董卓連合の時も仲良さそうでしたもんねぇ」 「それって公孫賛じゃあ……」 「そうそう、そのハムソン賛さんです」 「…………」 「それじゃあ、報告はわかりましたので下がって良いですよ」  張勲は、何故か顔を引き攣らせている兵を追い払うように手を振る。 「そ、そうですか……では」  そのまま兵は肩を落としたまま立ち去っていった。それを見て、話が終わったことを理解 した袁術は早速七乃に話の要約を頼もうと声を掛ける。 「結局、どういうことなのじゃ七乃?」 「どうやら、劉備さんたち逃げたみたいですよ」 「むふふ……それは賢い選択じゃのぉ~」  さすがにぽっと出の劉備といえども引き際をわきまえているのかと袁術は僅かに感心し たように頷いた。 「そうですよねぇ。いや~やっぱりお嬢さまの威光は凄いものですね!」 「うむうむ、この袁公路は麗羽なぞと違い袁家の正当な血筋じゃからのう。何人たりとも逆 らうことなどできないのじゃあ!」 「ひゅーひゅー」 「あっはははは~」 「それで、どうします? 追撃しますか?」 「いや、放っておいてもかまわんのじゃ。妾は寛大じゃからな。劉備なぞ、この袁術軍か らしたらハエのようなものじゃからな。そのハエをムキになって追いかけるほど妾は子供 でもないのじゃ!」 「おぉー! さすがお嬢さま。ハチミツの近くにハエがくると大激怒する人と同一人物とは 思えない発言。驚きです」 「あっはっはっはー!」  張勲の言葉に何の疑問も持たず袁術は高らかに笑い続けるのだった。 「あれ? そもそも何で劉備さんたちのところにせめこんだんだっけ?」 「それは、きっと気のせいなのじゃ! それより、妾は勝利の美ハチミツ茶が飲みたいの じゃー」 「はいはい、今すぐにー」  張勲はすぐさま駆け出すと兵へと指示を飛ばした。そして、再び首を傾げる。 「やっぱり、何か忘れてるような……」  袁術もその姿を見ながら一緒になって一応考えてみることにする。 「うぅむ、やっぱり何も無かったと思うんじゃが……」 「お嬢さま、ハチミツ茶出来ましたよ」 「おぉ、さっそくいただくのじゃ~!」  ハチミツがたっぷりと入った茶が届いた時点で、袁術の頭からはほんの数秒前の考え 事など消し飛んでしまっていた。 「はぁ、まったくもって美味なのじゃ」 「よかったですねぇ、お嬢さま」 「うむ、ハチミツは最高なのじゃあー!」  ハチミツと七乃、二つが揃っていれば袁術には他のことなどどうでもよくなってしまい、 完全に考え事など無かったものとなったのだった。  青州黄巾党分隊の姿が見えなくなってから少し経った頃、ようやく貂蝉が一刀たちの元 へと戻ってきた。 「お前は何をしてくれてんだ」 「だってぇ……こんなにも美しく麗しい漢女を捕まえて酷いことを言うんですものぉ……うぅ」 「というか、何で独断専行をしたんだ?」 「だってぇ、ご主人様の周りは物々しいじゃない」  そう言って貂蝉が少数とは言え一刀の護衛としてやってきていた兵を見る。その意味す るところは一刀にもわからないでもない。  確かに、兵を引き連れたまま行くのはまずいのだろう、そう貂蝉が思ったのはよくわかる が、それでも何故貂蝉が一人で行ったのかが一刀には納得出来なかった。 「だからって何でお前が一人で行くんだよ」 「それはやっぱり、おっかない兵たちよりもか弱く、それでいて愛らしい漢女が一人で声 を掛けた方が上手くいくはずじゃない?」 「むぅ……言ってることはあってるが貴様に言われると無性に腹が立つ……正しいこと… …なんだよな……こいつがいってるのは……」  頬を染めながらのたまう貂蝉を前にして、一刀の脳裏に"間違った正論"という訳のわか らない……というかあり得ない単語が過ぎった。 (正論言われて、これ程までに理不尽と感じたことがあっただろうか……いいや、ない!)  あまりの衝撃に一刀は、内心で思わず反語による断言を行っていた。  そんな一刀に気付くことなく貂蝉は喋り続ける。 「なのに……彼らったら、わたしのことを……うぅ」 「めそめそするな、気持ち悪い! くそっ、これは誤算だった……こいつを呼んだのは失 敗だったか……」  そう、一刀が公孫賛に言って呼び寄せさせた四人の一人がこの――現在、一刀の目の 前で両手を拳にして顔の前に添えて、子供が泣きじゃくるときの体勢を取っている自称漢 女(おとめ)――貂蝉だった。  ちなみに、一刀が公孫賛に告げた『護衛に適した存在』それもこの貂蝉のことだったり する。  もちろん、一刀が貂蝉本人に告げることはないのだが。 「まいったな……あいつら多分青州まで戻ったっぽいよなぁ」  事態がややこしくなったことに一刀は思わず頭を抱えてしまう。 「ホントにごめんなさいね。ご主人様~」 「うぅむ、こうなりゃ追っかけるしかないか……よし、一旦街に戻って体勢を整えた後に、あ いつら追って青州入りをしよう!」  一旦、今後の動きを決定すると、一刀は奇妙な踊りのように腰をくねくねさせる貂蝉を視 線から外しながら周囲の兵たちに指示を出していく。 「それで……今あったことと青州入りすることを冀、青の両州を治めてる二人に伝えて欲 しい」  予定外の事態発生と一刀がやむを得ず青州へ向かうことを公孫賛軍の君主である公 孫賛、そして青州を一応治めている孔融に伝えるべきと一刀は判断したのだ。  その旨を伝えると兵は威勢良く返事をして駆けだしていった。 「さて、それじゃあ街戻るぞ……」 「あぁん、わたしはご主人様の……そうね、そういうことなのねぇ」 「おい貴様、なに悶えてやがる……戻るぞ」 「どぅふふ、最初は怒っちゃったけど……よくよく考えたら彼らはわたしがご主人様のもの であるって言ったのよねぇ~あぁん、やっぱりわかってしまうものなのねぇ~」 「こ、こいつ……ぐっ……いいや、戻ろう」  一人、妄想内に入り込んでいる貂蝉を無視し、一刀は撤収を開始した。  そして、態々呼び寄せた残りの三人の元へと歩み寄った。 「なんか、悪いな……もう少し長旅になりそうだ」  頭からすっぽりとその全体を布で覆っている三人は、ただこくりと頷いた。気のせいか、 一刀にはその口元は微笑を称えているように見えた。  徐州の西部にある彭城を越え、劉備軍は兗州に入り僅かに進んだところでまさかの事 態に陥っていた。 「それで、何故それだけの軍勢を率いてこの曹孟徳の領土に入ってきたのかしら?」  兗州に入った後、冀州へ向け北上を開始する前に筋を通すためにも兗州を治める曹操 の元を訪ね許可を引き出そうと考え、劉備軍は進行方向を変更した。  そして、曹操の元に到着するまでに何か対策を考えようとしていたところに、曹操軍… …それも曹操自身と出くわしてしまったのだった。  劉備軍の殆どの勢力、そして劉備についていくといって聞かなかった民衆というそれな りの規模になった群衆を引き連れ無断で領地に入ったことに曹操軍から疑いをもたれるこ ととなってしまった。  さすがに、事情を聞かれた際の対策を考える前に尋問が始まったため、劉備は自分の 素直な気持ちでぶつかろうと決心していた。 「その……袁術さんに攻め込まれたので、白れ――公孫賛軍のいる冀州へと向かおうと していたんです」  曹操軍を代表して尋問をしてくる曹操に対して、劉備もまた、劉備軍代表として応じて いた。もっとも、その傍には頼れる軍師が付き添っているわけだが。 「……それで、無断で通過しようと?」 「違います! 曹操さんの元に行って許可を貰おうと思ってたんです」 「それを示す証拠はあるのかしら?」 「…………ありません。あ、そうだ! 徐州に斥候なり間者を放てばわかるじゃないです か!」  劉備が両手を合わせてぱんっと音を立てながら笑顔でそう告げるが、曹操は一切表情 を変えようとはしない。 「情報を探るのにどれだけ時間が掛かると思ってるの?」 「う……」 「他には?」 「その……ありません」  最早これまでかと劉備はその顔を俯かせそうになる。それでも、劉備は絶対に俯かせ ない。まだ諦めてはいけないのだから……そう、今劉備の双肩に多くの人の命が掛かっ ている……それを実感しているからこそ彼女はただ、目の前の曹操を見据えるだけだ。  そんな劉備をじっと見つめていた曹操が肩を竦めながら口を開いた。 「はぁ……それで?」 「え?」 「結局はこの兗州を通過したいってことでいいのかしら?」 「はい。ほんのちょっと通るだけで良いんです。お願いします!」  必死に頭を下げ誠意を伝える劉備。その姿に関羽の身体がぴくりと僅かに動いたのを 劉備は気配で感じた。きっと、彼女も辛いのだろう……自分の仕える君主が頭を下げて いるのだから……それを理解しながらも劉備はただただ一身に曹操に頼み込む。  全ては"みんなを護りたい"という劉備の想いのために。 「そうはいってもねぇ……ここから冀州だとそれなりに距離はあるわよね」 「そう……ですね」 「まぁ、道はこちらで指定するとして……それから無茶な強奪は絶対に許さないわよ」 「もちろんです」  話の流れが許可を貰えそうなものになっているのを感じながら、劉備は曹操の言葉を一 言一句聞き漏らさぬよう集中する。 「まぁ、それならいいかしらね」 「そ、曹操様!」  曹操の傍に控えていた眼鏡をかけた少女が慌てたように割って入ってくる。 「郭嘉、最後まで話は聞きなさい。私だって何も無しに通す気はないわ」 「そうですか……出過ぎた真似をいたしました」 「まぁ、いいわ。それより、劉備」 「は、はい」  何か条件が付くことを郭嘉と曹操の会話から感じ取った劉備は身体を硬直させる。 「やはり、領土を通る以上払うものは払って貰わないといけないわよね」 「え……それは通行料ってことですか?」 「そうゆうことよ。そして……通行料としてもらうのは……関羽がいいわね」 「っ!?」  予想していなかった要請に劉備は思わず息を詰まらせる。いや、劉備軍全体……だけ でなく曹操軍の面々も驚いている者がちらほらといる。 「そ、そんな……」 「あら? 貴女が放置した徐州に袁術がつけば自然と私にも面倒になるのはわからない かしら?」 「いえ……確かにその通りだと思います」 「そうでしょう……」  不適な笑みを口元に浮かべながらそう告げる曹操から劉備は視線を逸らさない。そし て、自分の答えを述べる。 「ですけど、愛紗ちゃんを差し出すわけにはいきません」 「…………なんですって?」  曹操が、急激に険しい表情で睨み付けてくる。曹操から感じる威圧感を全身で受けな がらも劉備は態勢を崩さない。 「聞こえなかったのならもう一度言います……愛紗ちゃんを譲る気はありません! いえ、 それだけじゃない。朱里ちゃんも……共にここまで来た兵たちも、ついてきてくれた人た ちも……みんなわたしにとってはかけがえのない存在なんです! だから、誰かだけを犠 牲になんてしません!」 「桃香さま……」 「お姉ちゃん」  自分の傍にいる者たち……いや、劉備が引き連れる者たちの視線が集まっているのを 劉備は感じた。その数だけ護るべき者がいることを劉備は注がれるいくつもの視線から実 感する。 「いい加減にしなさい!」 「っ!?」  曹操の怒声、劉備はその身を思わず竦めてしまう。だが、すぐに首を左右に振ると喰い 殺さんばかりに獲物を見つめる獣のごときするどい視線で劉備を貫いている曹操を見つ め返す。 (ここでこの人に負けちゃだめ……"あの人"が言ったとおり、わたしは自分の道を見つけ たんだ……悩んで決めたんだ――誰かを犠牲にして他を護るなんて事をしないって!)  劉備は、密かに拳をぎゅっと握りしめる。そして、彼女にその想いを決定づけた出来事 を思い出す。  時間は遡り、それは徐州脱出を孔明が提案したところだった。 「愛紗さんの性格は今までの付き合いで分かってます。ですから……わたしがこの国を 袁術さんたちから護ります」 「どういう意味だ……朱里」  孔明の次の言葉を待つように全員の瞳が彼女を捉える。 「ですから、桃香さまを始め皆さんはすぐに逃げてください。わたしはここに残り、袁術軍 にわざと降りますので」 「だ、ダメだよ朱里ちゃん!」  劉備が、慌てた様子で孔明の両肩を掴む。だが、孔明はそんな劉備に落ち着いた口 調で語りかける。 「いいですか桃香さま……ここで、わたしが残ることには意味があるんです」 「え?」孔明の真意が読み取れず劉備はただ呆然と孔明の瞳を見つめる。 「……まって朱里ちゃん」 「雛里ちゃん?」  さすがに、鳳統も黙っては居られなかった。何故なら、同じ事を鳳統も考えていたから だ。そして、その役目は自分がするべきだとも思っていた。  だからこそ、一歩いやさらにもう一歩、前へと脚を踏み出し普段の自分には出来ないく らいに胸を張ってじっと孔明を見つめる。 「……袁術さんの元で上手く立ち回って街の人たちを護るのは私がやるよ」 「そんな、雛里ちゃんには無理だよ!」  劉備に両肩を押さえられているのも忘れて鳳統に近づこうとする孔明。きっと、鳳統の 人見知りな性格、そして内気な部分を心配しているのだろう。何せ、ちょっと一人で外に 出ることもままならない時すらあるほどなのだから……。  それでも鳳統は、自分を想ってくれる大切な親友に今の自分に出来うる限りの笑顔を 向けて首を横に振る。  内心にある恐怖や緊張を誤魔化すように――。 「うぅん……私がやらなきゃいけないの……朱里ちゃんはきっとこの先、桃香様にとって… …うぅん、劉備軍にとって今以上に重要な存在になると思う」  いつも一緒にいる鳳統だからこそわかる、孔明は今後の劉備軍でもっと重要な存在に なると。そして、それならば、この情況で動くべきなのは誰なのか……聡い子である鳳統 にはわかってしまうのだ。 「……わたしはどちらかと言えば、軍を率いる方が得意だよね。そして、朱里ちゃんは内 政の方が得意」 「う、うん……」孔明がその先を言うなとそのくりっとした瞳で訴えている。 「軍を率いる軍師の腕が必要なのは戦になるとき……だけど、内政は常に必要でしょ… …だから、朱里ちゃんは桃香様の傍にいなきゃダメだよ」 「そ、それは……そうだけど」 「雛里ちゃん、どうしても残るの?」 「申し訳ありません……桃香様」  瞳を潤ませ、今にも蓄えた水分を溢れ出させてしまいそうな劉備に対して鳳統は大きめ の帽子が落ちないよう押さえながら頭を下げる。 「な、なんとかならんのか?」 「後、一人……せめて一人でも愛紗さんたち並の武将がいれば……情況は多少違った かもしれません」  関羽の言葉にそう返すものの、もちろん今回の情況はそれだけではひっくり返せるとい うことはないだろう。ただ、善戦は出来たと鳳統は思う。  もし、呂布に下邳城を奪われなかったら、袁術にその後出来た隙を突かれなかったら ……そんな考えが鳳統の脳裏を過ぎるが今考えることでもないためすぐにその思考を停 止する。 「ですので……私がここに残り上手く袁術さんに取り入って出来る限り民衆の負担を削り ます」 「そ、そんな……そもそも、そんなこと可能なの?」  劉備がわなわなと唇を震わせながらそう問いかけてくる。それを見ながら鳳統は思う、こ の人は本当に多くの人を愛するのだと……そして、そこが弱点でもあると。 「可能だと思います……その……袁術さんの元で大きく名が通っているのは参謀の張勲 さんだけですから」 「……つまり、軍師としての才に関して雛里に対抗できる者はいない……と、いうわけか」 「……はい」  関羽の言葉に何だか自画自賛をしているような気がして鳳統は帽子を深めに被り直す。 「で、でも……」 「桃香様」 「な、何?」 「必ず……いつか必ず、桃香様の元に行きます……ですから、しばしのお別れを」 「そんな……」 「桃香様には……想いがあります」  みるみるうちに顔を青ざめていく劉備に鳳統は穏やかなそれでいてはっきりとした口調 で劉備のために言葉を紡いでいく。 「多くの人たちに笑顔をもたらす……そんな想いが」 「う、うん……そうだね。だから、雛里ちゃんも」 「違うんです……だからこそ、私はここに残るんです」鳳統は首を横に振る。 「だからこそ?」 「この徐州にだって、たくさんの人がいます。そして、桃香様を始めみんながその人たち を見捨てられないと思っています。そして、それは、桃香様とこの軍のみんなの想いが同 じだから……」  普段、長々と喋らないためか、はたまた緊張のためか喉が渇き始めたのを鳳統は感じ ながらも話は続けていく。 「もちろん、私も同じです……だから、この徐州に住む人たちのためにもここに残り、袁術 さんの無茶苦茶な政治を少しでも抑える役を引き受けると言ってるんです」 「……そんな」  劉備の顔は青を通り越し、白くなっている……よく見れば、その身体もまるで寒さに耐 えるかのように震えている。 「それに……私は軍師として主を支える立場の人間としての意志に基づいてここに残るこ とを選んだんです」 「え?」 「朱里ちゃんは……桃香様を支えるために苦肉の策として徐州を出る事を選びました… …なら、同じ支える立場にある私だって桃香様を支えるために行動を起こしたいと思った んです」  そう、それは鳳統にとって譲れない部分でもある。たとえ苦境に立たされようとも、どん な形であろうと自分が支えると決めた相手を支えてみせるという想いだけは譲れないのだ。  それはもしかしたら、普段関羽や張飛がよく口にする"誇り"というものなのかもしれない。  そして、そんな鳳統の"誇り"をくみ取ってくれたのだろう関羽たちが動き出す。 「よし! ならば、我らはすぐに出立の準備を始めるとしよう」 「おう! なのだ」 「ふ、二人とも」  関羽たちの言葉が信じられないのか、劉備が勢いよくそちらに振り返る。 「そうですね……それなら、街の人たちにも知らせなければなりませんね……なら、長老 さんの元に言って話を通してもらいましょう」 「しゅ、朱里ちゃん!」  既に、徐州脱出に向けて思考を切り替えた孔明に劉備の悲鳴にも似た声が響く。 「桃香さま、いいですか。雛里はいま自分なりの戦いに出ようとしています……それは、 ひいては桃香さまのための戦い……その桃香さま自身が雛里の決意をふいにするような 真似だけは避けてやるべきです」  やはり、武に生きる人間なのだろう……鳳統の想いを理解した関羽が劉備にきちっと事 情を話す。それでも、劉備は納得が出来ていないようにも見える。 「でも、やっぱり……」 「桃香さま」 「うぅ……愛紗ちゃん」 「行きますよ」 「許可できないよ、雛里ちゃんも一緒に……」 「この国の人々を見捨てたくはないのでしょう?」 「うっ、それはそうなんだけど……」 「なら、雛里の想いを無駄にしないよう我々は我々のやることをやるべきでしょう……ほら、 桃香さま」 「いや! 雛里ちゃんを置いてくなんて……いやぁぁああ!」  関羽に後ろ襟を掴まれ引きずられながら腕を伸ばしてくる劉備に鳳統はただ黙って頭 を下げた。 「…………みんな、後はお願いします」  準備のために誰一人いなくなった中で、鳳統は既にいない仲間たちに向けてぽつりと 呟いた。  その後、劉備は何度も後ろを振り返りかけては周りに止められた。そして、彼女は誓っ た……二度と仲間の犠牲を元に他の誰かを生かすような事はしない、と。  だからこそ、劉備は今、曹操に言われた条件対する答えをすぐに導き出した……。そし て、更に次の言葉も既に彼女の胸にはある。 「劉備……貴女は本当に甘すぎるようね」 「……そうですね。色んな人に言われます」 「なら、少しは考えるべきなのではないかしら?」 「そんなことはもう何度もしてきました」 「へぇ、そのわりには甘さが目立つわね」 「それはそうでしょう……だって、わたしは甘いと言われようとそれを貫くことを決めたんで すから!」  値踏みするように見つめてくる曹操にいつもの穏やかな瞳を引き締めながらはっきりと 答えた。 「そんなことがまかり通ると思っているの!」  そう怒鳴りつけながら曹操の掌が劉備を襲う。乾いた音が辺りに響き渡る。 「……へぇ、動じないのね」 「わたしだって甘い考えがまかり通るとは思っていません……そう簡単には」  頬に曹操の張り手を受けながらも劉備は一切反応を見せなかった。瞳に宿した決意を 目の前にいる曹操に向け続ける。 「わかってはいますけど……愛紗ちゃん一人に苦労を背負わせようとは思いません」 「…………」 「要するに、わたしは愛紗ちゃん一人置いて逃げるのが嫌、曹操さんは愛紗ちゃんが欲 しい……なら、愛紗ちゃんも含めわたしたち劉備軍が曹操さんの元で働きます」 「なんですって?」  予想外だったのだろう、先程まで怒りによって寄せられていた眉間のしわが今度は疑問 によって歪む。 「つまりは、愛紗ちゃん一人で払う分をわたしたちで分担するようにして引き受けます」 「…………」 「価値としては正当だと思いますけど、どうですか?」  あくまで頼み込む立場であることは理解しながらも交渉をする相手なのだという認識も 内心で抱く。 「そう、貴女がそれで良いというのなら構わないわ」 「ありがとうございます。曹操さん」  何処か含むものがありそうな顔のまま曹操が頷いたのを訝しみながらも劉備は再度頭を 下げた。