第3話 戦と月見酒 街の人々と共に、盗賊団と戦うことを決意した夜。 俺達はさっそく、住民の人達と顔を合わせ、この街の現状を教えてもらった。 現在、この街の城主は兵と共に逃げてしまったので、絶対的に兵士の数が足りない。 警備兵の人達は若干残っていてくれたようだが、兵数は足りているとは言いがたいだろう。 盗賊団の数はおよそ1000ほどだという情報が入った。一方で街の人々の中で戦えるのは800程度か。 兵法の定石から言えば、この数の差は厳しい。 だが、敵は策も何も持たないただの盗賊だ。その烏合の衆っぷりは以前の世界での経験からでもよく知っている。 戦い方さえ間違えなければ勝てる。俺はそう思っていた。 ではどう戦うのか。それを決めるため、俺達4人は街の代表者達と共に、広い家を貸しきって会議を行うことになった。 「では、風に稟、どう戦うのか軍師としての意見を聞かせてもらえるか?」 俺達は円卓を囲い、星が進行役となって会議が始まった。 彼女がそういうことをやるのは珍しい。以前は朱里や俺が進行役となっていたものだ。 「では、私から説明します」 そう言ってすっと立ち上がったのは程立だった。 彼女は俺達や街の人々を一度見回すと、一つ間を入れ、もったいぶったようにゆっくりと口を開いた。 「今回、篭城するのは得策ではありません。太守が逃げてしまった以上、正式に他の街に援軍を頼むことができないからです。  援軍の来ない篭城など、何の意味もありませんしねー」 「な、なんとか頼み込むことはできないのですか?」 街の人の代表者がそう発言するが、程立はかぶりを振った。 「相手がよほどの善人でなければ、難しいでしょうねー」 「皆、自分の街を守るので精一杯ですから」 戯志才がそう付け加えると、代表者の人は悔しそうに口をゆがめた。 これも乱世の条理。善意で人を助ける人など、なかなかいないものだ。 不安そうにざわつき始める街の人々に対し、程立はコホン、と1つ咳をした後、説明を再開した。 「ただ篭城できないからと言って、真正面からぶつかるのも得策ではありませんよ。  数で負けている上に、街の人達も決して戦いなれているというわけではありませんからー」 「では、どうすればいいのですか?」 代表者さんの不安そうな声。守ってもダメ、戦ってもダメというのなら、どうしろというのか? という声だ。 さらにざわざわとし始める会議室。だが、少し不安になりすぎではないだろうかと俺は思い、声をあげた。 「大丈夫ですよ、落ち着いてください。まともに戦って勝てないから、この人達がいるんじゃないですか」 「そうですよー。戦力で負けている時こそ、私達軍師が役に立つのです」 ふふん、と無い胸を張る程立。戯志才もどこか誇らしそうだ。 彼女らの自信満々な様子に、彼らの様子もだんだん落ち着いてきた。 程立の話は続く。 「先ほども言ったように、真正面からは戦いません。かと言って、複雑な策を取るのは街の人達では無理でしょう。  よって、ここは単純に考えていきます。まず、盗賊さん達はどうしてこの街を襲ってくると思いますか?」 程立のこの質問に、代表者の内の1人が立ち上がって答えた。 「そりゃあ、ここの食料を奪うためだろ!」 そうだそうだ、と怒ったように賛同する街の住人達。よほど盗賊達が憎いようだ。 程立はその答えに頷きながらも、「では、どうしてわざわざここの食料を奪いに来たのでしょうか? 他にも街はありますよー」と周りを見る。 街の人達は何も言わない。そんなことに理由があるのかと、不思議そうな顔をしている。 星も戯志才もここは様子見のようだ。 俺はちょっとした答えを思いつき、手をあげた。 「他にも街があるのにここを狙うってことは、ここが襲いやすいからじゃないかな。  ほら、前から守備兵とかが少ないって聞いてたけど」 俺の答えに程立は満足そうに頷いた。 「その通りです。ここは以前から守りが手薄だという風評が広まっていましたからねー。だから彼らはやってきたのでしょう。  なら、事は簡単なのですよ。ここが襲いにくい街だと、盗賊さん達に認識させればいいのです」 ふむふむ、と会議場にいる者達は頷く。 「では、ここからは私が」 今度は戯志才が説明役を受け継ぎ、立ち上がった。 「まずは部隊分けです。主に3つに分けます。城壁を守る部隊と、守備兵の服を着て街中で待機する部隊。そして最後に外で待機する部隊です。  街中の2部隊には最低限の警備兵と町の人々を配備。外で待機する部隊には警備兵の中でも精鋭を集め、それを星殿が率い、城から少し離れた場所にいてもらいます」 「ほう、なるほどな」 星はこの時点で先を理解したのか、ニヤリと笑った。 俺もなんとなくこの策が予想できたが、ここは戯志才の説明に耳を傾けておこう。 「盗賊達が現れたとしましょう。奴らは真っ先に城門を破ろうとするでしょうが、街の人々は城門の上から石や物を落としてそれを邪魔してください。  弓矢が扱える人はもちろん矢を放つ。そして敵に罵詈雑言を浴びせ、盗賊達を怒らせてください」 戯志才の「怒らせる」という言葉に、代表者達は驚いていた。怒らせたらまずくないか、と。 だが、話はまだ続くので口を挟むものはいなかった。 「怒らせた後は一度抵抗を緩めます。ただし、城門は決して開けないこと。  この間に、私と風が敵の頭目を見定めます。怒りに身を任せる集団をたしなめようとする者が必ずいますからね。  見つけた後は、星殿に伝令を送って頭目の場所を伝え、」 「横から突撃して大将を討ち取るというわけだな。何、軽い軽い」 星が傍に置いている槍に手を触れる。 確かに星ならそこらの奴らには負けないだろう。 自信満々な星の様子に、戯志才が満足そうに頷く。 「敵の頭目が倒れれば、ああいった集団は簡単に瓦解します。さらにそこで城から守備兵の格好をした街の人が出れば」 「『うわあー! 殺されるー!』となって敵さん、逃げてしまうでしょうねー」 程立のくすくす笑う声。 彼女の隣に座る星も槍を撫でながら、ニヤリと笑う。 「そこで私がさらに暴れていれば、効果は倍増だな」 「ええ。星殿にはかなり負担がかかりますが……どうでしょうか」 「ああ、任せてもらおう。数の多い敵と戦うことは、武将の華だ」 戯志才の心配も何のその。ニヤリと笑う星。本当に自信たっぷりだ。 「と、こんな感じなのです。どうでしょうー」 程立がそう締めくくる。悪くはない作戦だと思った。敵の心理の隙を突いた、軍師らしい策だ。 だが、街の人達は少し不安げな様子だった。 「い、いいと思うけど、俺達、戦えるのかな……」 「弓矢とか扱えないし、石を投げるだけで門を守れるのか?」 「もし、盗賊達が逃げずに街に俺達に向かってきたら……」 「いえいえ、その心配はないのですよー。って、あんまり聞いてないですねー」 程立の呼びかけにも返事がない。またがやがやと騒ぎ出してしまった。 街の人達はこういう戦いを経験したことがないので、戦となるとどうしても恐怖が先立ってしまうのだろう。その気持ちはよく分かる。 日常から戦場に放り込まれることほど、恐ろしいことはない。剣を首元に突きつけられた時の恐怖は計り知れないものだ。 しかし、傍らには自分を守ろうとしてくれる人がいるのを、忘れないでほしかった。 「ちょっと、いいかな」 俺はそんな人達を励ましたくなり、立ち上がって街の人々に近づく。 皆の不安げな視線を受けながら、俺はできる限りの言葉を思い浮かべ、口に出した。 「街のみんなは直接盗賊と戦うことは少ないんだ。あそこにいる趙雲っていう強い人や警備兵さんが、ほとんどやっつけてくれる。  ただ、それでも敵を全部倒せるわけじゃない。大切なのは、皆の『この街を守るぞ!』っていう思いを盗賊達にぶつけることなんだ」 「思いをぶつける……」 「そうすれば、盗賊達は簡単にこの街を襲おうと思わない。寄り付こうとしない。彼らだってそんなに強いわけじゃないんだ。  今回の戦いの目的は、敵を全滅させることじゃなく、『自分達はここを守るためならなんでもするぞ!』っていう気持ちを見せ付けること。  そういう気持ち、持ってないかな?」 尋ねると、代表者達はコクンと頷いた。持っているという印。 そう、誰だって守りたいものを守るという気迫は持っている。それを表に出す術を持たないだけなのだ。 「だったら、その気持ちが盗賊達を押し返す。この街を守るのは俺達じゃない。街の人達皆だってことなんだ」 「……そうか、そうだよな」 「太守が逃げちまったんだ。俺達がやらないで、どうするんだ!」 「よし、さっそく武器を皆に配りにいくぞ!」 「おー!!」 「あ、まだ会議は終わって……って、ダメか」 街の人達は意気揚々と部屋を出て行ってしまった。 まだ作戦の詰めは終わっていないというのに。しかし、あれだけ士気が高ければもう大丈夫だろう。 後のことは程立や戯志才と一緒に、俺達で考えていけばいい。 そう思いながらも、俺にはまだ少し気にかかることがあり、ハァと1つ大きなため息をついた。 「どうした?」 後ろから星に声をかけられ、「ああ」と俺は返事をしながら、自分の考えをまとめてみる。 「いやさ、今回の策は本当にいいと思うんだ。けど、なんというか……盗賊達はなんとかならないのかな、って思ってさ」 「なんとか? 撃退はできるではないか」 「いや、そういうのとは少し違ってさ、今の時代に盗賊になる人達って、食い扶持に困ったり、住む場所を失った人達だろ?  一方でこの街には守備兵はいないし、近くに農作地もない。だったら、この盗賊達を捕まえて、畑を開墾させるなり、調練して兵士にさせるなりできないのかなあ、って思ってさ」 俺の言葉に、星はおろか程立も戯志才も、これ以上ないほど驚いていた。 自分としてはそれほどおかしなことを言ったつもりはなかった。 いや、戦の前だというのにこれはかなり甘い考えだと反省はしている。 戦う者としてこんなことを考えていてはいけない。 俺にはまだまだ戦うことへの覚悟が足りていない。 「……刃殿」 「な、なに?」 星の重苦しい雰囲気に、俺は少したじろいだ。 彼女は俺の目をまっすぐに見ていた。 「そのように敵を思いやるのもおおいに結構。だが、戦の最中だけでもその思いやりは封じた方がよい。  相手は畜生道に堕ちた餓鬼にも等しい存在。下手な情は足をすくわれる因となる」 星の厳しい物言いに、俺は顔を俯けた。 「ああ、うん。分かってる。今は彼らに罰を与える人が必要なんだ。自分達がやってきたことに責任を負わせないと」 やはり俺は甘かった。今は戦うべき時なのだ。 自分に渇を入れて再び星達の方を見るが、しかし彼女達は驚きの度合いを深くしていた。 「刃殿……そなたは……」 星のその声はもはや怒りでも呆れでもない。純粋に驚嘆しているようだった。どうして? 「刃さん、少しいいでしょうかー」 「あ、ああ、程立さん。なんか俺、よほど呆れられたのかな」 その問いに程立は首を横に振る。 「いえいえー、驚いていただけなのですよ」 「驚く? 変なことを言ったからか?」 「そういうわけではありません。そうですねー、こういう考え方があります」 程立は両手の人差し指を2つとも立てて、俺の目の前に突き出した。 「この世の中には生き方や考え方において、2つの道があります。1つは現実を見る道、もう1つが理想を見る道です。  この世には色々な人がいますが、現実だけを見て生き続けている人は、私達軍師のような文官か、もしくは農民、町民のような庶民になります。  彼らは現状を維持するか、もしくは起こった出来事に対処することしかできません。  一方、理想だけを見る者は、周りからは理解されないし、何事も成すことができない夢想家になるのです」 「はあ、俺が夢想家ってことかな?」 「いーえ、あなたは理想と現実、両方を見ているのです。盗賊達を助けたい。けれども、現実的に今はそれができるわけはない。  理想を追い求めながらも現実を直視し、その中でできることを模索していこうというその姿勢。  これはですね、『人の上に立つことのできる者』が持つものなのですよー」 「は、はあ……」 程立の言葉にいまいちピンとこない。 『人の上に立つことができる』って……俺はそこまで大層な人間ではないはずだが。 「それだけではない」 「星?」 今度は星が真剣な顔で話し始めた。 「刃殿、お主はこの会議の中で、街の者達を何度かなだめていた。そして最後にはおおいに戦意高揚させてしまった」 「あれは、不安を解消させてあげようかと……」 「集団となった人々にはそう簡単に声は届かん。人とは集まればそれだけ力を持つものだ、武力も心もな。  だが、お主はそれをなだめ、あまつさえ希望を見せさえした。それができるのは『人を導く者』だけ」 「お、おいおい。俺はそんな大層な人間じゃないって……」 慌てて否定するも、星は首を横に振り、再度真剣な目を向けてくる。 「刃殿、1つ尋ねたい。そなたの物の見方、考え方、そして人への呼びかけ方は『人の上に立つ者』のそれと見受けられる。  もしかすると、どこかでそのような学問を修めてきたのか、それとも実際に人の上に立った経験があるのではないか?」 そんなことはない……とは言えない。 以前の世界で、俺は『天の御使い』として愛紗達に担ぎ出され、本当に一国の主となったのだ。 様々な人達に慕われ、期待され、それに応えようと努力し、仲間と共に戦乱の中を生き抜いて、なんとか大陸に平安をもたらすことができた。 その経験があったから、俺は「人の上に立つ人間」になっているとでも? そんなことはない。戦えたのは俺の力ではない。皆がいてくれたからこそ成し遂げられたのだ。 だが、星達の目は自分をそう見ている。 俺は『天の御使い』でもなんでもない、ただの人間だというのに。 「……」 俺が何も言えずに黙り込んでいると、しばらくして星が「まあ、よい」と視線を背けた。 「過去のことは詮索しないでおこう。だが、今はその能力、おおいに役立ててもらう」 「……役立てる?」 「そうですねー。星ちゃんは強いですけど、1部隊を率いるのに集中してほしいですし、私達はただの軍師ですし」 程立がふふふ、という笑い声をあげると、戯志才も頷いた。 「そうね。ここは刃殿に指導者になってもらう方がいいわ」 「え、えええ!」 ※ 翌日の朝、城の広場に街の人達の8割が集まっていた。 そして本来は城主が立っているはずの高台には、この戦の指導者である4人の姿があった。 街人達は戦う者、戦えない者関係なく、今回の戦に向けてこの4人から激励の言葉を貰うために集められたのだ。 「聞けい! 街の者よ!」 星の遠くまでよく通る声が広場に響く。 ざわざわとしていた街人達が一斉に口を閉じ、高台に視線を集中させた。 星がおおげさに手を振り、口上を述べる。 「この戦い、敵である盗賊の数は多い上に愚かな城主は逃げてしまったが、恐れることはない!  武を極めんとするこの私と、神算鬼謀の軍師が2人ついているからだ! さらに!」 俺の方に手を向け、集団の視線を集中させる。 「ここにおわす方はさる豪族のご子息だ! 王としての学を修め、今回の戦いの指導者となってくれている!  分かるか!? あちらがただの餓鬼どもの集まりであるのに比べ、我々には王がついているのだ! 大義は我らにある!」 再びざわつき始める街の人達。それもそうだろう。俺のような黒ローブのボロい身なりをした豪族の子息などいるはずはない。 どうしてこんなことになったのだろうか。俺はまだまだ続く星の口上を聞きながら、先ほどの程立達との話を思い出していた。 ※ 「豪族の子息? 俺が?」 「一時的にそういうことにしておくのよ。高貴な方が上にいるというだけで、街人にとっては励みになるから」 戯志才が眼鏡をクイッとあげるのに対し、俺は「はぁ、そういうもんか」と感慨もなく納得する。 朝。宿屋で借りた自分の部屋で目覚めた俺は、さっそくこれから戦の準備を本格的に始めようとした。 だがその前に星と軍師2人がいきなり部屋にやってきて、街の人達を激励したらどうかと提案してきたのだ。 盗賊達がやってくるのは、放った斥候からの情報によると今から2日後。 その間に士気をあげておくために、集会の場を作ろうということらしい。 しかも星が口上を述べるだけでは足りない。俺を「指導者」として仕立て上げてしまおうと言うのだ。 「けど、こんなボロい格好してるのに信じてくれるのかな……」 俺は改めて自分の服装を見直してみる。 上下はボロボロの庶民服。羽織っている黒ローブはまだマシだが、決して高貴な印象を与えるものではない。 程立と戯志才もこれには同意し、どうしたものかという表情をしている。 城から適当な服でも借りるか? しかし、そんな火事場泥棒のようなことはあまりしたくないが。 と、そこで星がすっと俺の横に立った。 「刃殿。昨日からずっと気になっていたのだが、その腰の得物を見せてもらってもよいか?」 「ん、ああ、いいよ」 星が指差したのは俺の腰、日本刀だった。 刀袋からそれを取り出し、星に渡してみる。彼女は興味津々な様子でそれをじっと、細部に渡るまで観察し始めた。 「なんと、これは面妖な……刀のように見えるが、しかしこのような形をしたものは見たことがない」 感嘆の息を漏らしながら星は柄を握り、刀を鞘から引き抜きにかかる。 そういえば、俺もこれを抜いたことは一度もなく、どんな刀なのかを見るのは初めてだ。 星が慎重に刀を抜く。日本刀のシャッという抜刀の音が鳴り、鈍色の刃がその姿を現した。 「おお……」 その光に魅せられた星は言葉を失っていた。 「綺麗ですねー」 「ええ……こんな刀があるのね」 軍師2人も、武器にはあまり詳しくはないだろうに目を輝かせている。 俺もその刀の美しさに目を奪われていた。 玉鋼独特の、不純物が一切ない鉄の輝き。波紋は直刃。 窓から差し込む太陽の光に照らされたその姿は、この時代の剣にはない芸術的な美を備えている。 この刀、この時代の古代日本のものとは思えなかった。 今から1000年以上先の、日本刀が完成されつくした江戸時代あたりで作られたものではないだろうか。 星が何度か刀を振る。刃の軌跡がまるで光っているようだった。 星の目も宝石を目にしたかのように輝いていた。 「これは素晴らしい。この刀、名はなんと言う?」 「あー、そうだなあ。太刀か、もしくは日本刀かな」 「ニホン刀……どこで作られたものだ?」 「俺の故郷だよ、うん」 ただし1000年先の、だけど。 「ふむ」 日本刀が鞘に収まる。鍔鳴りがまた軽やかで耳触りがいい。 俺に刀を返した星は、不適な笑みを浮かべていた。 「これは使えるな」 程立も日本刀の鞘を撫でながら頷く 「そうですねー。宝刀とでも言って、貴族の証であることにしましょうかー」 「ああ、なるほど……」 その抜け目のない策に、やはり俺は彼女らの頭の良さを実感するのだった。 ※ 「この刀を見よ!」 広場に集まる街人達の視線が、一斉に星の持つ日本刀に向けられた。 太陽の光によって照らされた抜き身の刃は、聴衆達の目を釘付けにする。 「この刀はその豪族の間で連綿と受け継がれている宝刀である! このような輝きを見たことがある者はいるか!?  おらぬであろう! この刀は世界に2つとない宝刀! その切れ味は岩をも2つに切断する!」 いや、確かに切れ味は物凄く良いとは言ったが、さすがに岩までは切れない。 なんて突っ込み、今はしないでおこう。 「自覚せよ! お主らはこの刀に守られるのだ! そしてこの街を守るという気迫を見せてみよ! 立ち上がるのだ!」 硬直する場。民衆達に星の言葉が染み渡っている時間。 と、そこで俺の背中をつつく者がいた。 程立だ。「何か一言を」と俺を前に押している。 俺は少し考えた後、精一杯声を張り上げた。 「……戦おう! この街を守るために!」 一瞬の空白、そして。 「おおおおおおお!!!!」 空にまで響く咆哮が轟いた。 これで士気に問題はない。 あとは、指導者である自分達がどれだけやれるかだ。 ※ 2日後、ついにその時がやってきた。 作戦に関して最後の詰めを行っていると、見張りの人が俺達を呼びに来たので、急いで城壁の上に立つと見えたもの。 それはこの街を襲おうとする盗賊達の集団だった。 「おー、なかなか多いですねー」 「斥候の情報通り、数は1000と言った所ね」 程立と戯志才が冷静に敵を観察している。軍師の鑑だ。 「ふっふっふっ、腕がなるな」 星は準備運動をするかのように槍を何度か振り、そのまま城壁を下りていった。 今から自分の受け持つ部隊と共に外に出て、待機するつもりなのだろう。 「敵……敵か……」 俺は目前に迫る盗賊達を見て、人知れず呟いた。 以前の世界における魏や呉との戦いに比べれば、1000の敵などものの数に入らない。 だが、やはり戦は怖い。人が死に、場は荒れていく。 明確な目的のある戦いであろうとも、その事実が変わることはない。 こう考えてしまうのも自分の甘さの1つか。 だが、と俺は自己反駁する。愛紗や朱里達は言っていた。「そう考えるご主人様だからこそ、ご主人様なのです」と。 甘さを否定はしないが戦う時は戦う。理想と現実。どちらも頭に入れておく。 程立の話に影響を受けてるな、と俺は自嘲気味の笑みを浮かべた。 「よし……皆! 戦闘準備だ!」 「おお!」 指導者らしく、俺は戦の開始を宣言した。 ※ 盗賊達は何の陣形も取らず、本能の赴くままに街へと突撃をしてきた。 剣を、槍を、鍬を、人それぞれの武器を持ち、守備兵どころか太守すら逃げてしまったという街を蹂躙しようとする。 城門は閉まっているが、関係ない。物量に任せて打ち破るだけ。 そうして突撃する盗賊達だったが、しかし突然上から降ってきたものに驚き、歩みを止めてしまった。 「ぎゃっ!」 上から降ってきたもの……それは石だった。 なんと城壁の上から、何十人という街の人間が石を投げ落としていたのだ。 たかが石とはいえ、高さのある場所から落とされて直撃すれば死へと繋がる。 盗賊達の足は鈍り、城門へと向かう者は少なくなった。 「何してやがるんだぁ! 突っ込めぇ!」 後ろで盗賊団の首領の怒声が響いた。 その威圧感たっぷりの声に、盗賊達はまた徐々に先へ進もうとするが、間断なく降ってくる石にどうしても邪魔される。 仲間が1人、また1人と悲鳴と共に石に押しつぶされていった。 だが、さすがに数で勝る盗賊団。石をかいくぐって城門にたどり着くものもいた。 後は門を破るための丸太がたどり着けば、すぐにボロい門を突破できる。 そう考え、石の雨を避けていた盗賊達。 すると、 「俺達の街に来るんじゃねえ! 帰りやがれ!」 「ここにゃお前らの食べるようなもの、置いてねえんだよ!」 「へなちょこ盗賊団なんて兵士じゃない俺達でも倒せるんだよ!」 街の人間の挑発する言葉が頭上から降り注ぐ。悪言、罵声、さまざまな罵詈雑言が彼らに浴びせられる。 これには盗賊達も怒った。 まさか略奪する者がされる者に馬鹿にされるとは思わなかったからだ。 「何言ってやがんだ! 今にてめえらを殺してやるぞ!」 「門があるからって威勢がいいな、おい! こんな門、丸太がなくても突破してやんよ!」 「おらおらぁ!」 途端に統率を失う盗賊達。丸太がもう少しで届きそうだというのに、勝手に門に張り付き、石を投げ返し、罵声を浴びせ返している。 「落ち着きやがれぇ! さっさと門を壊しちまえばいいんだよ!」 怒りに飲まれる盗賊達の中で、ある1部隊のある1人だけが周りをたしなめようとしている。 それは他の盗賊達と違って分厚い鎧を着て、どこかから盗んできたらしいきらびやかな槍を持っていた。 彼は、混乱する戦場の中でも浮いていると言わざるを得ず、城壁からも簡単に見つけることができた。 ※ 「見つけましたよー。あれが敵の大将ですねー」 程立が指差した方向を見ると、確かに怒り狂っている盗賊達を抑えようとしている者がいた。 かなり遠くにいるというのに、この子はなんとも目が良い。 「一番派手な鎧着て、大きな槍を持って……分かりやすいなあ」 いや、だけど相手を威圧するって意味ならその方がいいのか? そんなことを考えている内に、戯志才が早速伝令を呼んだ。 「星殿にあの大将の場所を教え、突撃せよと伝えろ」 「了解です!」 街人の中でも一番足が速いというその若者は、さっそくあまり知られていない裏門から外へと出て行った。 なんでも城主が逃げる時のためにその門を作っていたらしい。これで無闇に正門を開けなくて済む。暗愚な城主に、今は感謝だ。 「いけるかな……」 城の正門に集まりつつある盗賊達を見下ろしながら、俺は呟いた。 同じく傍にいた程立と戯志才にもその呟きが聞こえているはずだが、何も答えてはくれない。 私達の策通りに進んでいるのだから、いけるに決まっている。 そんな心の声が聞こえてきそうだった。 それからしばらく経ち、そろそろ城門ももたないかと心配していた頃、盗賊団の側面に突撃する部隊が現れた。 ※ 「押せ押せえー!」 星の率いる部隊は、敵の意識が薄かった側面から突撃し、抉りこむように敵中央部へ進んでいった。 この部隊の兵士は全員、軍の調練を受けた守備兵。盗賊などよりもよっぽど強く、たとえ数で負けていようとも突き進める。 加えて、この部隊には一騎当千がいる。 「このやろー!」 「下郎が!」 「ぎゃっ!」 星の槍の一撃がまた1人、敵を貫く。 部隊の先頭に立ち、誰よりも多く敵をなぎ倒していくその姿は、まさに猛将。 「あれか!」 星が見つけた男。程立達から来た伝令通りの姿をした大将が、そこにはいた。 数少ない馬に乗って悠然と戦場を眺めていたその男だったが、星と遠くながら目が会うと、ヒッ、と怯えた顔を見せる。 慌てて馬を反転させて逃げようとした大将だったが、 「逃がすかぁー!!」 星は敵を踏み台にして、大きく飛び上がった。 そして落ちる時にはまた敵を踏んで飛び、また踏んで飛び、100人を超える敵を飛び越えていく。 彼女の服の裾が、さながら翼であるかのようだった。 「な、なななな」 そして次に地面に降り立った時、星の目の前にはすっかり慌てふためいた敵大将がいた。 「お、俺がこんな女ごときに……うおおおお!」 「遅い!」 襲い掛かってくる大将だったが、その刃は空を切り、逆に星の槍が深々と彼の身体に突き刺さる。 「が、は……」 「畜生道に堕ちたその身が犯した罪、死んで償うのだな」 ブンッ、と槍を振り、突き刺さった大将の身体を投げ飛ばす。 その骸が落ちた場所の近くにいた者は、一様に後ずさりし、段違いに強い目の前の女性に恐怖した。 星は槍で周りの敵を威嚇しながら、勢いよく息を吸った。 「敵将、討ち取った!!」 その声は戦場全体に広く響き渡った。 ※ 「やった! 星がやったぞ!」 空に向かって高く槍を掲げた星の姿を確かに見て、俺は大はしゃぎしていた。 やっぱり星は星だ。あの大量の敵の中を突き進み、飛び越え、大将を見事討ち取った。 周りの街人達も歓声をあげている。 そんな中で程立と戯志才だけが冷静に、周りの人間に指示を出していた。 「これは好機ですねー。では、城門を空けて守備兵の姿をした人達を出しましょー。  ただし、本物の守備兵が前に立ってくださいね」 「了解です!」 程立の指示を受け、伝令がまた走り出す。 戯志才も、城壁にいる人達に引き続き石を投げ、弓をひくように命じている。 ここが正念場だ。さらに盗賊達を脅し、こちらの気迫を見せて逃げていくよう仕向けなければならない。 「程立さん」 「はいー? なんでしょう?」 「俺、下の人達に声をかけてくるよ。指導者がもう一声かけたら、怖がってる人にも勇気が出るかもだし」 俺の提案に程立はほぉ、と感心したようだった。 「なるほどなるほどー」 「私達も行くわ。もしもの時のために城門を閉めるタイミングを見る人が必要でしょうし」 そう言って残った者に指示を出していく戯志才。程立も「そうですねー」と同意した。 俺達が下に降りて、城門前に集まる街の人達の前に立つと、彼らは一様にホッとした表情をした。 いくら守備兵に化けているとは言え、中身はただの街人達。戦いの場に出るというだけでも怖いものだ。 俺はそんな彼らを励ますために、精一杯声を張り上げた。 「これがとどめだ! 皆、できる限り声をあげて、街を守るっていう思いをぶつけてやるんだ!」 「応!」 「守備兵さん達は、ちゃんと街の人達を守ること! 兵士は皆を守ることが仕事なんだから!」 「了解です!」 「じゃあ……門を開けよう!」 号令をかけると、ついに城門が開いた。 俺達は後ろに下がり、事の展開を見守ることになっている。 本当なら一緒に先頭に立ちたいのだが、それは程立に止められてしまった。 「指導者が直接戦うなんてダメです」という台詞。俺はそれになんだか懐かしさを覚えてしまった。 開いていく城門を前に、皆が緊張した面持ちでたたずんでいる。 外ではおそらく、まだ星達が頑張っているだろう。彼女らの活躍により、どこまで敵に混乱が起きているのか。 そしてこの城から出てくる部隊がどこまで敵を威圧できるのか。 成功してくれ。 俺は一心にそう願った。 ついに、城門が全開になる。 だが外を見た俺達は目を見開き、驚愕することになる。 「あ、あれ?」 目の前には敵の集団など1つもおらず、だだっ広い荒野が広がるだけだったのだ。 その代わり、遠くから聞こえる馬の蹄の音。 「この音は……」 「ほ、報告します!」 表に出ていた星の部隊の兵士がやってきた。 何があったのかを尋ねる前に、彼が早口に報告し始める。 「官軍がやってきました! 旗の文字は『夏侯』です!」 その報告に、俺は驚きを隠せなかったのだった。 ※ 軍を率いて馬に乗り、ようやく辿りついた目的地を目にした春蘭は、はぁとため息をついていた。 「あれが盗賊に襲われているという街か……まったく、たかだか1000の盗賊、自分達でさばけばいいというのに」 春蘭は機嫌の悪そうな声を隠そうともせず、ぶつくさと文句を言っていた。 それもそのはず、彼女は今日の夜、主である華琳と閨を共にする約束をしていたのだ。 新しい道具や衣装も用意し、めくるめく桃源郷に色々と妄想を働かせていたというのに、いきなりやってきた「救援要請」の報。 華琳は街の整備に忙しく、秋蘭は他の街に出張っており、他の武将も全て手が空いていなかったので、仕方なく春蘭がこの街に救援に駆けつけにきたのだ。 「さて、盗賊自体は我らの軍を見て逃げ出したのか……情けない。さっさと街に入るか。今日中に帰ることができればいいんだが……」 馬を駆り、ゆっくりと城下町に入っていく春蘭の部隊。 街の人々はぽかんとした表情で自分達を見ていた。自分達が救援を願ったというのに、歓迎の声もなしか。 ああ、さっさとこの街の太守と話して、帰ろう。 「おい、そこの者」 「は、はい!」 守備兵の格好をした者に声をかける。相手はやけに驚いた声を出していた。 「太守に会いたい。取次ぎを頼む」 「あ、あーと、その……太守はこの街から逃げてしまいまして……」 完全に平伏して答えるその守備兵。兵士にしてはあまりにも謙りすぎていないだろうか。 「逃げた? では、この街を守っていたのは誰だ?」 「それが、旅の方達が指導者となってくれたのですが、その方々もどこかに行ってしまいまして」 「旅の者、か」 これは珍しい話だ。太守でも武将でもなく、旅人が街を守る指導者になったとは。 華琳に話せば喜んでくれそうな話題だ。おそらく旅人をすぐに連れて来いと言うだろう。自分の軍に加えるために。 「いや、そんなことをしたら私が閨に呼ばれる機会が少なくなるしなあ……」 「は、はい?」 怪訝そうな顔をした兵士に、春蘭は咳払いをしてごまかした。 「なんでもない。では、お前達の軍の長がいるだろう。その者に会わせろ」 「あ、あのその……実は私、兵士ではありませんでして……」 「はあ?」 「こんな格好をしているのは盗賊を威圧するためだけでして、私はただの街人なのです」 春蘭は驚きつつ感心した。これはつまり、兵士がいないながらも街を守るための策なのだ。旅人がこれを思いついたということか。 なんとも大胆不敵というか、奇策というか。 良い策士がいたに違いない。自分ではこういう策は思いつけない。 「ふーむ……それでは適当にその辺りをうろついて探すとするか。下がっていいぞ」 「は、はい!」 守備兵の格好をした庶民を下がらせ、春蘭は再び馬で街中を歩き始める。 「ん?」 と、建物の影に見知った顔が見えて、その歩みを止めた。 「北郷?」 あのむかつき顔は、確かに数日前『天の御使い』として不本意ながら、本当に不本意ながら華琳の傍にいるようになった北郷一刀のものだった。 春蘭は馬をその建物の方向へ歩かせる。どうしてこんな所にいるのか。仕事を放棄してここに来たのなら殴ってやろうと思って。 だが、そこには誰もいなかった。 「気のせい……か」 まさか自分が北郷一刀の幻を見たとでも? なんとも嫌な気分になる。あいつのことは嫌いだ。幻も見たくはない。 特に秀でた所もないのに愛しの華琳様の傍にいられるなんて、そんなことは許せない。 確かに優しいし、勉強すればちょっとは役に立ちそうだが……っと、春蘭はこの辺りまで考えた所で首を振る。 この嫌な気分を晴らすためにも、帰ったら鍛錬にかこつけていたぶってやろう。 そんなことを決意しながら、春蘭は街の中心部に向かって歩いていくのだった。 ※ 「あ、危なかった……」 俺は物陰に隠れながら、荒く呼吸を繰り返していた。 さっきまで近くにいた馬の蹄の音は、もう遠ざかっている。 建物と建物の間の狭い空間から、俺はゆっくりと這い出していった。 「刃さん、不用意すぎますよー」 「本当に、ここで官軍に会っては色々不都合だと言った私達の言葉、忘れたの?」 「面目ない……」 俺の後ろから程立と戯志才も出てくる。3人いっぺんに物陰に隠れるのはなかなかきつかった。 しかし、今の春蘭……いや、夏侯惇は明らかに俺の顔を見てこちらにやってきた。 ただ単に一般市民が自分を見ているというだけなら、わざわざ近づいてこないはずだ。 ということは、俺の顔が何かしらの原因であることは間違いない。 おそらく、曹操と一緒にいる『北郷一刀』と夏侯惇は知り合いなのだ。 「やっぱまずいよなあ……」 俺と『北郷一刀』の顔が一緒だということ。 これは色々と不都合なことが多すぎる。 例えばもし今、夏侯惇に見つかっていたとしよう。 俺が『北郷一刀』本人でないと分かったとしても、『天の御使い』と同じ顔をした人間が2人いるというのは、曹操達にとって不利益この上ない。 おそらく曹操達は、『天の御使い』を得たという事実を何らかの形で利用しようとしているはずだ。 『天の御使い』は1人であるからこそ、天の加護を受けたと自負できる。 「こいつが他の所に行けば、天の加護を受ける人間が2人いるということになる。それは不都合だ」 こう考えた曹操は、御使いは1人でいいとして俺の命を奪う…… これは予測の内でも最悪のケースだが、ありえなくもない。 それほど天とはこの世界の人にとって重要なことなのだから。 なるべく顔を見せない方がいいのかな…… そんなことを思案していると、後ろに立っていた程立が俺の袖をくいくいと引っ張った。 「そろそろ星ちゃんと合流しましょう。すぐにこの街を去らないとー」 「ああ、そうだな」 同意して、歩き出した程立と戯志才の後ろをついていく。 何かあった時のための待ち合わせ場所は事前に決めていた。 伝令を出すために使った秘密の裏門がその場所だ。 なるべく官軍に見つからない道を選びながら、俺達はそこに向かって歩き続ける。 「それにしても、どうして曹操の軍がここに来たんだ?」 歩きながら俺は、程立と戯志才に質問してみた。 他の都市に救援を頼んでも来てくれない、とは程立達が言っていたはずだ。 その当の程立はニヤリと笑みを浮かべた。 「それはですねー。風がちょちょいっと文書を偽造しまして、救援の手紙を各都市に送っていたのですよー」 「はぁ、なるほどなあ。教えてくれても良かったのに」 「いえ、刃殿、その手紙は駄目元……私達の策では救援が来ると想定していなかった。なのに期待を持たせるようなことは言えないでしょう?」 戯志才の言葉に、程立も「そうなのです」と続く。 「文書に押すはずの印は、太守が持っていってしまいましたからねー。いくらなんでも印までは正確に偽造できません。  なので、手紙は太守に届けられるでしょうけど、公式文書ではないというのはほとんどの太守なら分かることなのですよ」 「ん? だったらなんで曹操はこの街に……って、そうか」 曹操なら、いや華琳ならこういうことを「面白い」と思って軍を寄越すかもしれない。 能力が高いからと言って愛紗を誘惑した彼女だ。大胆にも文書を偽造する者に興味を持つこともありえる。 それに、彼女は決して弱い者も見捨てるような人物ではない。 この街に何かあったと思って援軍を出してくれてもおかしくはない。 「曹操さんはやはり注目するべきかもしれませんねー。風が手紙に込めた意味を見事に読んでくれるとは」 程立が文書を偽造したのは、太守本人に手紙が届くようにするためだ。ただの旅人が出したというだけでは届くはずもない。 後は、偽造だとしても、そんな手紙がくればこの街に何かあったと知らせることはできる。 そこできちんと手紙に込められた文章の意味を汲み取り、物事を判断できるかどうかは、その太守次第だ。 「そういう有能な者にこそ、天はつくのかもしれないわね」 曹操はきちんとその意味を理解した。だからこそ援軍を送ってくれたのだ。 ふう、と俺は軍師達の思慮の深さに感動する。 そして、彼女らのメッセージを理解し、決して人を見捨てることをしなかった曹操にも。 「この世界でも華琳は華琳か……」 その呟きを、程立は耳ざとく聞いていた。 「はい? 刃さん、何か言いました?」 「いや、何も……って、ストップ!」 俺はとっさに2人の腕を取り、引っ張った。 いきなり歩みを止められた2人は体勢を崩す。 「ととと!」 「腕を引っ張るな! それにすとっぷとは何……か……」 戯志才の非難は半端に途切れた。 それは俺達の目の前にいる人間の姿を確認したからだ。 「……」 俺達の前に立つ男。抜き身の剣を持ち、およそ正気とは思えない濁った目で俺達を見つめている。 盗賊の残党のように見えるが、様子がおかしい。 「……うおおおお!」 「おわ!」 いきなり男が突進してきた。 俺はとっさに軍師2人を横に突き飛ばし、自分も後ろに飛んで避ける。 男の動作は素早いが正確性に欠けた。突進の勢いそのままに転んでいってしまった。 「はぁ、はぁ……死んでたまるか、死んでたまるか、死んで、死んで」 男は意味の分からないことを呟きながら再び立ち上がり、俺達に剣を向けた。 まずい。女の子2人は軍師だ。戦えない。 逃げてもいいが、この男の素早さから言って、3人いっぺんに逃げるのは難しい。 「程立! 戯志才! 逃げろ!」 「け、けど刃さんは……」 「俺が時間を稼ぐから! 早く!」 程立をぐいっと後ろにやり、俺は腰の日本刀に手をかけた。紐を解き、柄を握る。 ゆっくりと、鞘から刃が現れた。 はっきり言って、勝てるとは思っていない。自分にも剣術の心得はあるとしても、この世界の人間相手ではなんら役に立たないのだ。 実際、目の前の男の殺気は相当のもの。真剣の扱いに関して言えば、あちらの方が数段上だ。 だが、気持ちで呑まれるわけにはいかない。 勝つことはできなくとも、防戦に徹して時間を稼ぎ、2人が安全な所に逃げたら自分も退散だ。 刀の剣先を水平より少し下げて構える。 そして間合いを大きめに取る。防御に徹した型。どんな攻撃にも対応するよう備える。 「死ねえええ!」 「ぐっ!」 やはり速い。べらぼうに速い突撃。 だが、かなり大振りな攻撃なので避けられる。 「刃さん!」 「早く逃げろって! くそっ!」 刀では受けずになるべく回避に徹する。相手の剣は重さがある。まともに受けてはこちらの刀がつぶされてしまう。 避けて避けて避ける。時には刀で受け、また避ける。 ようやく程立達の気配が遠くに行ったのを感じ取り、そろそろ俺も逃げようとしたその時。 「しねしねしねー!」 「しまっ」 背中に壁の感触。 避けることに集中していたせいで、周囲の環境に配慮するのを忘れていたのだ。 相手の剣が俺の頭に向かって振り下ろされようとしている。刀で受けるのは間に合わない。 駄目なのか? やはり俺ではこの世界で生きていけないのか? 1人で戦うなんて無茶な話だったのか? 何の力も名もないただの人間は、ただの悪漢に殺されて終わりなのか? 愛紗、俺は君に会えずにここで…… 『わたしの心は、これからもあなたと共に在ります。大願を果たした今……それがわたしのただひとつの願いです』 駄目だ。死ねない。 ここで死んでどうする? 外史を飛び越えてまでやってきた意味がまるでない。 それに程立と戯志才はちゃんと逃げたのか? 俺がやられたら、今度は彼女達を狙うんじゃないのか? 守らないといけないじゃないか。 そしてまた会うんだ。愛紗に、鈴々に、朱里に、星に、翠に、紫苑に。 『だったら戦えばいいのよん』 貂蝉の声が聞こえたような気がした。 だがそれを気にかける間もなく、俺の身体は途端に軽くなった。 相手が振り下ろしてくる剣を刀の鍔辺りで受け、そのまま相手の力を受け流して地面に逃がす。 相手が驚いて硬直している。胴ががら空きだ。上段の構えの防御からそこに打ち込むにはどうすればいいんだっけ? ああ、そうだ。右足を大きく前に出して、体重を移動させながら斜めに思いっきり、 「う゛!」 斬り抜くのか。 どこかから聞こえる呻き声と、ドサリという重い物が落ちた音。 俺の目の前で男が倒れている。男が握っていた剣はその手から離れ、赤い液体が刃の上を流れている。 俺は自分の手を見た。 日本刀の柄から、白い布が伸びている。これは滑り止めじゃなかったのか? 地面に垂れている布の先が、どういうわけか赤く燃えている。 そして刃の部分にも赤い液体。鉄臭くて、生臭くて、どろどろしていて。 「……斬ったのか?」 そう気付いた時、胸の底からとてつもない吐き気がこみあげてきた。 鼻を刺激する生臭い香りがそれを促進させ、俺は立っていることができなくなる。 膝をついた数秒後、 「刃さん!」 程立の声を背に受けながら、俺は意識を手放した。 ※ 人を斬ったのは初めてだった。 それは想像以上に――重い事実だった。 ※ 「ん……」 「起きたか、刃殿」 目が覚めて最初に聞こえたのは、星の柔らかな声だった。 俺は徐々に晴れていく意識を確かに捕えながら、目を開く。 緑の葉が生い茂る木の枝があった。その葉の隙間から見えるのは夜空だった。 「ここは……」 「あの城の外だ。刃殿は街中でいきなり倒れてな。風達が私を呼びに来て、わざわざ運んだのだよ」 急速に意識が覚醒し、思い出す。 自分が斬った人のことを。 「あの人は!?」 俺が飛び起きたので、星は少々びっくりしていた。 しかしすぐに落ち着きを取り戻し、「あの人?」と聞き返す。 「俺が斬った男の人! 無事なのか!?」 「ああ、その男なら血は多く流したが生きているよ。街の警備兵に渡してきた。 どうやら、仲間がいなくなって錯乱した盗賊団の残党だったようだ」 「そうなのか、よかった……」 俺はほっと息をつき、改めて自分の周りに目を向けた。 ここはどうやら森の中のようだ。近くに水の音も聞こえるということは、川があるのだろうか。 街を出て、この辺りで休んでいたという所だろうか。 空を見上げるとやけに明るい月があった。 「自分が斬った者を心配していたのか?」 星が、とても冷たい声を出した。 俺はどきりとして、彼女と視線を合わせる。とてもまっすぐな紫色の目があった。 「自分を殺そうとした者の命を、どうして案ずる?」 「それは……」 俺は傍らに置いてあった日本刀を見て、俯いた。 斬った時の感触がまだ残っている。 竹刀や木刀とは違う。手ごたえはまるでなく、まるで包丁で豆腐を切るかのようにスッと振り下ろすことができた。 だが、その手には確実に何かが残っていた。 それは相手の命なのか、自分の心なのか。 吐き気がまたこみあげてくるのを、なんとか耐え抜く。 「相手にも命があるんだ。それを奪わないで済むなら、それが一番いい……」 「一歩間違えれば自分が死ぬことになってもか?」 「ああ……」 「左様か」 星は呆れているのだろうか。また甘いことを言っている、と。 だが、それが俺の性分。戦でも一騎打ちでも、互いに死なないで済むのならそれが一番いい。 もちろんそういうわけにはいかないのが現実だ。戦の最中に敵を殺さないようにしようなんて、考えていられない。 だけれども、さっきみたいな状況なら。一騎打ちなら。 相手を殺さず、かつ自分も殺さずにすむのなら。 それが一番いい。 そのためには、自分が強くなければいけないが…… いや、なろう。強くなろう。そうでなければ、自分の目的を達成することなんてできないのだから。 と、俺の目の前に白い杯が差し出された。星の手だ。杯には酒が入っている。 「気つけだ。飲んだ方がいい」 「……ありがと」 杯を受け取り、酒を一気にあおり飲む。前に宿屋で一緒に飲んだ時と同じ飲み方だと、嚥下してから気付いた。 星もちびちびと飲んでいた。彼女はずっと飲んでいたのだろうか。 静かだった。川の水が流れている音と、風が木々を揺らす音だけが聞こえる。 「私は昔から月見酒が好きでな」 唐突な星の語り。いつもの余裕さはなく、とても寂しげに聞こえた。 彼女は上空に見える大きな月を見上げ、また一口酒を飲む。 「いや、ただ好きなだけではないな。風情だとか趣だとか、そういうものを超えた何かがあるような気がしてならない。  酒も飲めぬ頃から、水や茶を伴に月を眺めていた。時には満月を見て泣いてしまうこともあった」 また一口。 「美しい月と旨い酒。それさえあれば何もいらないと周囲の者には公言していたが、内心では違う。  そこに何かが足りない。もう1つ、何なのかは分からぬが、この月見酒に欠かせぬものがあると、私は思っている」 なんだと思う? と星は俺に目で尋ねる。 美しい月と旨い酒。このセリフ、どこかで聞いたことがある。 そうだ、以前の世界で終わりが近づいていた頃、俺が星と一緒に川辺で酒を飲んでいたあの時に…… 「いい男、じゃないかな」 「……そうか」 星は静かに酒を飲み干した。 そしてまた月を見上げ、ぽつりと呟く。 「刃殿は、それでよい」 「……何が?」 「敵と味方、どちらの命も思いやること。刃殿はそれでよいのだ。戦で命を奪う役目は、私のような者がするべきこと」 だから、と星は続けた。 「その道を信じ、大切なものを見つけなされ。主」 「え……」 俺の息が詰まった。 今、俺のことをなんと呼んだ? 「せ、い?」 「私のことは見事見つけてくださったのだ。愛紗達を探すことなど、造作もないことでしょう?」 俺は思わず星を凝視した。 彼女は酒の入った壺を脇に置き、今まで見たことのないような綺麗な笑みを浮かべていた。 「星、記憶が……」 「お久しゅうございます、我が主。戻ってくるという約束、確かに果たしてくださいましたな」 「いつから」 「先ほどでございますな。月見酒をしていたらふと……おそらくこの世界で生まれてから、ずっとぽっかりと空いていた私の隣に座る者が現れたからでしょう」 ふっ、と笑った星。それは明らかに俺が知っている星で。 「星……星――!!」 俺は立ち上がり、思いっきり星を引き寄せて抱きしめた。 星も俺の身体に手を回してくれる。 ようやく会えた。 約束した人に。 求めた人の顔がよく見えるよう、月明かりが俺達を照らし出してくれていた。 ※ それから、星に事の説明をさらっと行った。 ここが別の外史であること、星は以前の世界の記憶を引き継いだ存在であること。 俺は愛紗達を探すためにこの世界にやってきたこと。などなど。 「主からして見れば、あの戦いからさほど時は経っていないのですな」 「ああ。けど、星にとってはここに来るまで何十年という時がかかっている……本当に待たせちゃったね」 「まあ、思い出したのはついさっきですから、恋焦がれていたわけではないのですが……  しかし、月見酒の謎が解けずに悩んでいたのも事実。お待ちしておりました、と申しておきましょう」 星らしい物言い。懐かしくて泣けてきそうだ。 「星ちゃーん!」 と、そこに響く聞きなれた声。 「ん、街の様子を見に行った風達が戻ってきましたな。主、私はどう振舞えば良いかな?」 「あ、そうだな。さすがに俺を『主』って呼ぶと、色々説明しなきゃだし……何より、別の世界から来たってことは伏せておいた方がいいかな」 「分かり申した。ではここは今まで通り『刃殿』としておきましょう」 「うん、頼む」 そう決め事をしていると、程立と戯志才の姿が茂みから現れた。 2人とも、俺の顔を見ると途端に安心したように笑みを浮かべた。 「おおー、刃さんも起きたのですねー」 「刃殿、身体は大丈夫か?」 「ああ、大丈夫。いきなり倒れちゃってごめん。2人には迷惑かけたみたいで」 俺が頭を下げると、程立と戯志才は揃って「いやいや」と首を横に振った。 「私達が刃さんに助けられたのですよー。本当に、お礼を言っても足りないぐらいです」 「その通り。よくあの悪漢に立ち向かわれた。礼を言います」 今度は2人が頭を下げる。互いに謝ったり礼を言ったりで落ち着きがなかった。 「風、それで街の様子はどうだったのだ?」 一区切りついた所で星が声をかける。 程立は視線を上にあげて記憶をさらいながら、答えた。 「街の方には曹操さんから派遣された将官が来たみたいなので、内政の方は大丈夫でしょー。  守備兵も追加されるようですし、当分の間は安泰だと思われますよ」 「盗賊団も完全に撤退したようだわ。この地域から逃げたようね」 「良かった……」 俺はまた1つ安堵のため息を吐く。これで街の人達の生活が脅かされることはないだろう。 「おそらくあの街は曹操さんの支配下に置かれると思います。 太守は逃げちゃいましたし、他に人材もいませんしねー。漢王朝から許可が出たら曹操さんが太守になりますねー」 程立の予想はおそらく当たるだろう。曹操があの土地に興味を示さないはずがない。太守がいない街など、乗っ取るのは簡単だ。 「曹操は土地を手に入れたか……ふむ、この付近はどんどんと曹操のものになっていくかもしれんな」 星の予想――いや、記憶が戻った今は確信か――も当たる。曹操はこの近辺で魏を建国するのだから。 「それだけの力と天の加護がある……興味が湧いてきたわ」 戯志才の感心高そうな雰囲気。曹操の手腕に感心しているのだろう。 ひとしきり状況を確認した後、今日はここで野宿することになった。 官軍がいる街に戻れば色々面倒だし、今から他の街にいく時間も体力もない。 1人が見張り、3人が就寝という役割を1刻ごとに変えていくことにした。 まずは星が見張りで、他の3人が床についた。 「刃さん、刃さん」 「ん、何かな、程立さん」 「少々お聞きしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」 「いいよ」 程立は俺の目の前に座り、顔を見上げてくる。かなりかわいい彼女に上目遣いをされると、少し……いや、かなりドキッとする。 だが、彼女のすぐ隣には戯志才もいた。あまり色目は使っていられないか。 「刃さんは、やはりどこかで将官になるか、もしくは太守になったりするつもりなのですか?」 「え、どうして?」 「『人の上に立つ』能力を持っている上に、その剣の腕ですからねー。旅をしながら立身出世を狙っていると、私は思ったのですがー」 剣の腕って、もしかしてさっきの残党相手の戦いのことか? あれは死にもの狂いというか、火事場の馬鹿力というか……ただのまぐれだと思うが。 しかし、なるほど。確かにそういう目的があると見られてもおかしくはない。 太守。 その言葉に、心がざわっと波立った。 しかし今はそのざわつきを抑えておき、当初の目的だけに意識を集中させた。 そして姿勢を正し、程立の前に座った。 「うん、あのさ」 「はい」 「俺は、大切なものを探すために旅に出てるんだ」 「はて、それは何でしょうかー?」 「んー、人と物、かな。詳しくはちょっと……話すには時間が足りない」 「おうおう、夜は長いんだぜ? こんな美少女が傍にいるんだから何でも吐いちまいな」 いきなり彼女の頭の上の人形が喋った……のか? 口調がいきなり変わってびっくりする。 俺は気を取り直し、どう言えばいいか思案してみた。 「そうだな……『人』っていうのは、俺が必ず見つけると約束した人達。『物』は特別な鏡、かな」 「なるほどー。探している人は女性で、つまり女たらしなわけですね」 「いやいやいや、確かに女性だけどそういう理由だけじゃないって」 どうして皆そういう目で見てくるんだろう。 程立は冗談ですとでも言いたげな微笑を浮かべていた。 「女たらしはともかく、それらを探すために旅をしているので、太守になる気はない、と」 女たらしは否定したいが、とりあえずそれで頷いておく。 「そういうこと」 「それは残念です。刃さんがもし太守や将になるおつもりなら、風を軍師として雇ってもらうつもりだったのですがー」 はい? 今、さらりと大事なことを言わなかっただろうか。 いやいや、程立達は使えるべき主君を見つけるために旅をしているはず。 こんな名も実も持たない俺に仕えるとか、そんなことありえない。 「刃殿、何を馬鹿なと思っているようね?」 戯志才が笑いを堪えている。やはり冗談か? 「あ、ああ。だって、この時代を乗り切れるような君主を探してるんだろう? だったら俺みたいなのじゃ……」 「そんなことはないのです。味方だけでなく敵も思いやりながら、辛い現実も直視できる。  さらにいざとなったら弱き者をその身で守る。刃殿は理想の君主であると、風は思っていますよ」 「うっ……」 ここまで言われては反論できない。納得はしていないが。 あ、今後ろで星が笑っているのが聞こえた。事情を知っているだけに、俺達の様子がおかしくて仕方ないのだろう。 程立は若干瞳を潤ませ、ふぅとため息をついた。 「残念です。では、せめて風達の真名を預かっていただけませんか?」 「え、けど、いいのか? 俺ってそんな信用できないはずだろ?」 「信用しているのよ、今は」 戯志才も笑って頷く。なんともまあ、ここまで彼女達からの評価が上がるとは、嬉しくも困惑してしまう。 だが受け取って欲しいと言われれば、喜んで受け取ろう。 それだけ彼女らの思いは大事だ。 まず程立が俺の前に立ち、頭を下げた。 「姓は程、名は立。字は仲徳。真名は風と言います。刃さん、よろしくお願いいたします」 次に戯志才が頭を下げた。 「戯志才は偽名です。お許しを。姓は郭、名は嘉、字は奉考。真名は稟です。以後、お見知りおきを」 2人の名を聞いて、ガツン、と頭を殴られたかのようだった。 程仲徳に郭奉考。どちらも後に曹操の軍師となる人物ではないか。 まさかそんな人と一緒にいたとは。 というか、やはりこの2人も女の子なのか。いやはや、以前の世界ではいなかった人なので予想していなかった。 俺が驚いているのを疑問に思ったのか、風が「刃さん?」と怪訝そうな顔で声をかけてきた。 俺は気を取り直し、行儀よく礼を返した。 「い、いや、なんでもない。そうか、風に稟、真名をありがとう。  今の俺にはこの名前しかないから代わりに預けられるものがないけど……  そうだな、いつかこの地が平安を迎えたら、俺のことをもっと君達に話すよ」 「おおー。それは楽しみなのです」 「約束、ですね」 「ああ、約束だ」 約束は守る。真名を許してくれるほど信用してくれたのだ。絶対に守ってみせる。 「うらやましいことですな」 星の声がかすかに聞こえた。それはうらやましいというよりも、穏やかな気持ちが詰まっているような声だった。 ※ それから1週間後、俺達はずっと行動を共にしていたが、幽州に入ったところで別々の道を歩むことになった。 風と稟が「気になることがある」として再び曹操の支配下である陳留や、中央部である洛陽を訪れることにしたのだ。 4人での短い旅はひとまず終わりを迎える。 「寂しくなりますねー」 風の言葉に、俺達はしんみりとした気持ちになる。 俺達は今、ある村の食堂にて最後の会食を行っていた。 こんな時ぐらいは豪勢に、ということで普段以上の量の料理を注文し、酒も飲む。 星の前にはメンマもあった。 「けど、2人だけで大丈夫なのか? 護衛とか必要じゃないのか?」 俺の心配事に、風と稟は「大丈夫ですよ」と同時に答えた。 「あの辺りは曹操さんのおかげでかなり治安がいいですからねー。人の多い所を歩いていれば、襲われることなんてないのですよ」 「私達はそろそろ君主を見つけるつもりでいるわ。刃殿は旅を続けるようだけど、星殿、あなたはどうするの?」 稟の質問に、星はメンマを食べ進めていた箸を止めた。 「ふむ、そろそろ路銀も尽きるので何か金策をしようと思う。その後は刃殿の旅についていくつもりだ」 「ほほう、星ちゃん、もしかして刃さんに惚れたのですかー?」 「ふふふ、ここは肯定も否定もせんでおこう」 いやいや、それって肯定しているのと同じだと思うけど。 そらみろ。風と稟の見つめる目が生暖かなものに変わってきたじゃないか。 「うらやましいですねー。私もそうしましょうかねー」 「風は軍師として世に出たいんだろ? だったらその目的を果たさないと」 ね、と風にエールを送ったつもりだが、彼女は少しむくれた表情を見せた。 「鈍感」という呟きが聞こえた気がしたが、ははは、まさかね。 それからしばらく料理を食べて過ごしていると、ふと、 「我々の旅はここで1つの終着を迎えるわけね」 稟が寂しそうに口にした一言に、場の空気が再び沈む。 自分達はたったの1週間程度しか一緒にいられなかったが、楽しかったのは言うまでもない。 風の頭の上の人形と話すのは面白かったし、稟の鼻血のアーチは慣れれば観賞用にもなる。 2,3の街を一緒に周り、街裏や旅芸人も見ることができた。君主だった頃にはできなかった経験だ。 そんな楽しい思い出があるからこそ、彼女らと別れるのは寂しい。 「次に会う時は敵か味方か、それとも骸か……」 「星ちゃーん、そんな暗いこと言わないでくださいよー。生きて会えることを祈りましょう」 風の非難の声に、これはすまんすまん、と星は笑う。 俺は最後に代表して、酒の入った杯を掲げた。 「では、俺達の前途を祝うため、俺が一気飲みをします」 「おお、それはいい」 「酔って風達を襲わないようにしてくださいねー」 「うっ……酔った刃殿に襲われるとは……ま、まずい、耐えないと」 3人の視線を一身に受けて、俺は杯に注がれた酒を一気にあおった。 また、会える日を祈って。 ※ 風、稟と別れた後、俺と星は再び荒野の上に立っていた。 最初はたった1人でやってきたこの世界だが、今はこうやって星が隣にいる。 それが何よりも嬉しく、心強かった。 「さて、主よ、我々はどこへ行きましょうか」 「そうだな……星、前の世界のことは覚えてる?」 「ええ、ほとんどは覚えております」 「だったら星と俺がどこで出会ったかも?」 「もちろんです。あれは……ああ、なるほど」 「そういうこと」 俺と愛紗と鈴々が、以前の世界で星と出会った場所。 もしこの世界の愛紗達も同じような流れで生きていてくれるのなら、その場所で会える確率は高い。 「では、行きましょうか、主よ」 「ああ!」 星の笑顔に同じく笑顔を返し、俺は歩き出す。 ここは幽州。愛紗達が来るとすれば、あそこしかない。 俺達は一路、公孫賛が治める遼西郡令支県へ向かうのだった。 第3話 おわり