いけいけぼくらの北郷帝 第二部 北伐の巻 第九回  ねねの話を詳しく聞くに連れ、詠の眉間の皺が深くなっていくのが如実にわかった。  椅子を動かして蹴りの範囲から逃げようとしたら、すでに椅子に彼女の脚が絡んでいて動けなかった。 「なんかやってるのは知ってたけど、そんなことだったとはね」  詠の静かな声が恐ろしい。眼鏡の奥で瞳が鈍い光を放つ。 「たしかに、ボクたちは、いまはあんたの下で保護を受けてる身よ」  ぎりぎりと歯を食いしばる音が聞こえてきそうだ。 「でも! ねねは立派な軍師なのよ!? なにを個人的なことでこき使ってるの!」  その通り。詠の言うことは正しい。といってこの怒りを避けるために、こちらの言い分を黙っているのも卑怯な気がした。彼女が正しいからこそ、真摯に答えねばならないこともある。 「詠、俺は……」 「待ってください」  俺の反論は、ねね本人によって遮られた。 「詠がねねのために怒ってくれているのはわかるです。しかし、いかにへぼとはいえ、主が精神的に休まらないならば、助けるのも我らの役目ではないですか」 「ねね……」 「それに、大鴻臚と呉の王族が不和というのは、政治的にも危ういですよ。それをどうにかするのは、軍師の任としても問題ないでしょう?」  問い掛けるような顔の詠に、挑むような視線のねね。その視線で、二人はいくつもの言葉を交わしているように見えた。 「……あんた、こいつのこと嫌ってなかった?」 「そりゃ、まあ、恋殿と引き離されたのは寂しかったですが、いまさらです。一度引き受けたなら、任を全うするのがねねの流儀です。恋殿の御名を汚さぬためにも」  詠は、ふう、と息を吐き、椅子に深く腰掛けなおした。ねねもとことこと歩いてきて、詠の隣に座る。 「……そう。わかった。怒鳴って悪かったわ。ただ……」  詠とねね、二人の軍師の視線が俺に向く。 「女に関する不始末なんて……大概になさいよ」 「それに関しては同意ですね。二度目はないですぞ」 「は、はい」  四つの目の圧力に、膝に手を揃えて頭を下げてしまう。 「で、さっきの話に戻しましょうか。模擬戦で蓮華をやっつけて認めさせるって?」 「はい。こいつと蓮華がそれぞれに率いてですね……」 「だめね」  ねねの言葉を最後まで聞かず、詠は切り捨てた。 「考えてもみなさい。蓮華はそもそも左軍ではないし、旗下の将軍たちと一緒に戦ってきたわけじゃない。訓練を共に経験し、それ以外でも一緒に過ごしてきたこいつが将たちを使いこなして勝ったとしても、それは当然のこと。多少は認める部分もあるでしょうけれど、反発を招く可能性も高いわ」 「しかしですね……」 「呉軍を引っ張りだすわけにもなあ。あれはあくまで後方部隊だし」  実際には北伐には参加すらしないのだが、それをいま言うわけにもいかない。 「いい? 対峙するばかりが相手を認める術ではないのよ、ねね」  詠の言葉に、ねねが考え込む。しばらくすると、ぽんっと手を打って顔を上げる。 「そうか、わかった。こいつが側で指揮の冴えを見せてやればいいですね?」 「そうね、それもいいかもしれない。どうせなら、紫苑たちも呼んで、三国合同で観戦ということにしたらどうかしら」 「むむ、たしかにそのほうが自然にできますね」  うまく誘導しているな、詠。このあたりは、さすがに場数が違う。 「できれば、不利な状況で、このへぼ主が鮮やかに勝つのがいいでしょう」 「お、おいおい、無茶を……」 「それならいい手があるわ」  詠がねねを手招きし、耳打ちする。話を聞くうちに、にんまりとした笑みの形に変わっていく顔。 「そいつはいいですね!」  にっこりと笑いあう二人の軍師の姿を見て、なぜかいやな予感しかしない俺だった。  そんなわけで、西軍の俺が歩兵と工兵を率い、東軍の騎兵に対する、ということになってしまった。一応、支援兵力として、白蓮の白馬義従二千はこちらにいる。 「騎兵二万四千、か」  払暁の中、小高い丘の上からでも見えてこない敵の数を口にしてみる。馬一族の騎兵が──蜀に残っていた兵も合わせて──一万一千も集まったこともあって、騎馬兵力は膨れ上がっていた。  圧倒的な兵力だ。 「歩兵は三万四千、工兵が千、白馬義従が二千。数では勝っていることになっておりますな」 「……わかって言ってるよね、子龍さん」 「ええ」  騎兵の突破力、攻撃力の前には、多少の兵数の多寡など問題にならない。歩兵が十倍、というならともかく、倍もいない状況なのだ。  しかし、これで勝たないまでもいい勝負はしてみせなければならない。ねねたちの策のためにも、左軍の歩兵たちに自信を植えつけるためにも。 「じゃあ、最後の打ち合わせをしておこうか。魏将軍はどこかな?」  周囲を見回して、薄暗がりの中、将たちを確認する。麗羽、斗詩、猪々子、それに祭。歩兵を担当する将は、文長さん以外、皆揃っていた。白蓮ももちろんいる。 「呼んできましょう」  子龍さんが着物の長い袖を翻し、歩いていく。  本陣には、ねねと詠の目論見通り、蓮華と小蓮、それに紫苑もいる。東軍の本陣には思春と桔梗、華琳と風、春蘭がいるはずだ。  彼女たち観戦武官は指揮をすることはできないものの、アドバイスをすることまでは禁じられていない。戦いをつまらなくはしたくないだろうし、華琳や風が口を出すことはないと思うが……。 「ねー、一刀ー」 「なんだ?」 「こっちには軍師いないのー?」  そう、そこだ。  小蓮が言う通り、こちらには軍師がいない。それぞれの部隊を率いる将軍はいても、全体を見通すのは俺一人に任されている。そのかわり、あちらには大将はいないのだが……。 「ねねは元々恋についてるし、詠は騎兵の根幹だからね」  とはいえ、さすがに今回は、ねねには恋に直接ついて、恋の部隊の様子だけを見てもらうことにしていた。ねねも詠も自由に動けるでは、いくらなんでもこちらの勝てる要素がなくなってしまう。 「小蓮様、ご心配なさるな。儂もおるし、旦那様もおる。充分じゃ」  祭がからからと笑う。おそらく、彼女は本気でそう思っているのだろう。朱の鬼面の奥で光る目は笑っていなかった。俺を見つめる視線には信頼が溢れている。 「……祭や一刀を疑うわけじゃないけどさー。たとえば、冥琳がいるといないとでは大きく違うよ?」 「小蓮。冥琳ほどの者は、この世のどこにもおらんぞ」  蓮華が叱るように言い放つ。正しい言だ。軍師の才だけならば匹敵する者もいるだろうが、民政の腕、武将としての指揮能力。全てを兼ね備えるような人材はなかなかいない。華琳では王としての立場があって、比較しがたい。  紫苑が孫呉の姫君たちの会話を聞きながら、婉然と笑みを浮かべた。 「ともかく、わたくしたちは一刀さんたちの指揮を見守るしかありませんわ。違いまして?」 「それはそうだ。騎馬の部隊もそうだが、それにどう対応するかは、私も楽しみにしている。期待していいのだろうな?」  本当に楽しみにしてくれているのだろう。今日の蓮華は機嫌がいい。ねねと俺の目論見はともかく、この演習からなにか得るものがあれば一番だ。 「もちろん」  重圧をはねのけるように、簡潔に言ってのけた。  将が全員集まり軍議がはじまる頃に、ようやく辺りが明るくなった。蓮華たち観戦組は、同じ机についてはいるが端のほうに固まっている。 「さて、基本事項をもう一度確認しよう。  この演習の期間は三日間。戦場は五十里四方。兵力は左軍全軍、六万を超える。大演習だ。夜襲、伏兵、なんでも許可されている。許されていないのは、殺すことだけだ。これは馬も含まれるが……。武将のみんなは兵を相手にする時は、それだけは気をつけてもらいたい」  今回の演習は、成都で行った模擬戦よりさらに安全に配慮している。槍も矢も、その先端は布で丸く覆い、傷つかないよう考えられている。  それですら、兵は死ぬこともある。  落馬したり、転んだり。打ち所が悪ければ、それだけであっさりと人は死ぬ。  だが、訓練をこなしていかなければ、本当の戦闘になった時、より多くの人が死んでしまう。そんな事態だけは避けねばならなかった。 「武将相手には、気をつけなくてよいということですかな?」 「武将相手に手を抜いていたら、こっちがやられちゃう。そうだろ?」  子龍さんの交ぜっ返しは、緊張の裏返しだろうか? 天下の趙雲将軍が、緊張に包まれているとも思えないが……。 「ふふ、たしかに。相手には北郷六龍騎のうち、五龍がおりますからな」  なんだか、不吉な単語を耳にした気がする。 「……えーと、ちょっと待った。なんだそれ」  困惑する俺に、武将たちは目線を交わしていたが、結局、祭が口を開いた。白蓮がうつむいて、その肩にどんよりとした影が見えるのは気のせいか。 「軍師殿が、騎兵の部隊を細かくわけ、色と番号をつけたことは知っておられますな?」 「ああ。百人隊ごとにわけて、運用するって聞いた」  たしか、霞が碧、翠が緑、白蓮が白、蒲公英が緋色に、華雄が黒で、恋が赤だったか。それに百人隊の番号がついて、たとえば霞の部隊なら碧の一番から碧の五十番まで存在しているはずだ。 「いつからか、それぞれの色の名前に龍をつけたものが、隊全体の名として通るようになっておるのじゃ。ここにおる白蓮殿の部隊は、白龍隊というわけで」 「そこまではいい、そこまではいいんだ……」  白蓮が譫言のように繰り返す。それぞれの隊の愛称のようなものができるのはあり得るし、悪いというほどのことではない。そこは、白蓮と同意だ。 「そのうちに、兵たちの間では、それぞれの隊を率いる武将六人を差して、六龍騎と呼ぶように。いまは左軍の中での呼び名でしかありませんが、この戦に勝てば、さぞ有名になることでしょうな。なあ、白龍殿?」 「白馬長史でも大概なのに、その呼び名はやめてくれぇ!!」  白蓮が涙目で大声を上げるのに、周りの将軍たちはにやにや顔を隠さない。とはいえ、二つ名ができるというのは、それだけその人物が評価されていることでもあるし、兵たちが自発的に呼び出したのなら、それを否定しきるわけにもいかない。 「ま、まあ、それはいいだろう。兵は自分たちの将軍には憧れるものだろうし、その程度は甘受してもらわないと……な、白蓮。我慢してくれ」 「うぅ、わかったよぅ」 「しかし、子龍さんの言い方だと、その上になにか余計なものがくっついてたけど?」 「それは、ほら、アニキが大将だから、どうしても」  猪々子の能天気な声に、頭を抱える。 「勘弁してくれ……」  白蓮の気持ちがよくわかった。なんてこっぱずかしい。  ただ、冗談ではなく、少々まずい。この軍はあくまで、魏と蜀──そして、いずれは西涼の中核となる面々の──ものであって、俺の軍では決してない。  詠に話して、北郷の名を削った六龍騎だけが名を馳せるよう、噂でも流してもらおうか。一度流れたものを消すには、別のもので上書きするのが一番だろう。 「よし、それはいい。話を戻す。  ともかく、なんでもありの演習だ。兵を殺さないことを除けば、実戦だと思って挑んでもらいたい。設定としては、我が方がこの丘──水場を占拠していて、相手は五胡、特に羌族の戦闘様式を真似ることになっている。  勝利条件は、三つ。  本陣を崩すこと、相手の兵を四分の一以上退場させること、華琳が勝敗を決するに足ると判断した場合。この三つだ」 「その最後が聞いた時からよくわからんのだが」  文長さんが手を挙げて発言する。  彼女は、成都で会った時とは違い、こちら──少なくとも公的な場や宴席──では普通に接してきてくれている。以前の噂もあったし、俺に隔意があるのではと不安だったが、そうでもないようだ。  桔梗によれば、玄徳さんが関わることとなると、『はりきって』しまうらしい。つまり、そうでない時は、特に敵意をむき出しにしたりはしないということだろう。彼女の評によるならば『いくさ人としては、なかなかの者。ただ、若く、主への崇敬がいきすぎておる』ということだった。  まだ、私的な会話ができるほど過ごしていないが、兵の動かし方はたしかにうまいものだと思う。華雄や恋と同じく、自分が前に出ることで、兵を率いていくタイプだ。 「うーん、たとえば、兵糧を全て焼いてしまうとかかな。そうなれば、勝敗は決まるからね」 「要は、華琳さんを納得させるだけの働きをすればいいってことですよね?」  これも、手を挙げた斗詩。その隣で麗羽が頷いていると思ったら、居眠りして首を振っていただけだった。  ……まあ、斗詩が聞いていればいいか。 「そうだね。まずはしっかりと戦をすればいいのさ」  その言葉に皆が頷く。疑問を呈した文長さんも頷いてくれていた。 「しかし、こちらはほとんどが歩兵。騎兵の本陣を突くのは厳しいでしょう。すると、やはり目指すは相手の数を減らすことになりますが……騎兵六千を減らすのは厳しいですぞ」 「そうだね、正直厳しい。  ただ、歩兵側には有利な条件もある。騎兵は、乗り手が馬から落ちれば、死亡とみなされること、こちらが水源となる丘を占拠している設定だけにたっぷり水と食糧があるのに、相手は自力で運べるだけの水と乾燥食糧しか持っていないってことだ。食べ物が乏しいのは、演習とは言え士気に関わるからね」  ただし、張遼隊のように訓練された部隊にそれは通用しないのだが。そんなことは諸将にはわかっているだろうから、あえて言わないでおく。 「また、実際に作ると馬を損なうので落とし穴は作らないが、落とし穴地帯を見届け人の華琳に届けることで、そこに入った馬群も退場させられる。ただし、一度使うと、そこには自軍の兵も入れなくなるから気をつけて」  すでに皆に通達はしていることを、繰り返す。こちらには工兵が多数いるが、彼らの一部は、今回、罠を作っているふりを続けてもらわねばならないだろう。 「もう一つ、相手には大将がいない。本来の命令系統からすると、軍師である詠、あるいは五胡をよく知る翠が大将となるべきだけど、今回はそれをしていない。追い詰められない限りは誰か一人の指導者を選ぶことはしない、と取り決めがある」 「なんでそんなことするのー?」 「これも、五胡を再現しているからさ。いま、羌にも匈奴にも、単一の強力な指導者はいない。鮮卑は多少組織化されているという話もあるけど、二万を超える兵を抱えている族長は滅多にいない。多くても、五、六千というところさ。だから、二万四千の敵がいるとしたら、それは、四人から六人程度の指導者によって構成されていることになる」 「つまり、現在の東軍のように」  蓮華の言葉に強く首肯する。部族ごとの寄せ集めと、常日頃共に訓練している兵を率いる将軍たちでは、その連携具合は比べ物にならないだろうが、そのあたりまで再現できるわけもないので、しかたない。 「うーん、これって、実際のところ、守りきればこっちの勝ちと言ってもいいんじゃないの?」 「そうだね。でも、やっぱり勝ちを狙いたい」  何事か考えていたらしい猪々子が手を挙げて発言するのに答える。居並ぶ将軍たちは、その言葉に一様に頷いていた。やはり、やるからには勝利を目指すべきだ。少なくとも大将の俺がそうでないと、将軍たちのやる気まで殺いでしまうことになる。 「ただ、一日目の今日は守りで行く。これは演習だから、行動を共にする騎兵の力を兵たちに知ってもらうためにも、しっかりぶつかっておく必要がある」 「相手の出方を見るためにも、それは必要だろうな」 「まずは、お手並み拝見、じゃな」  文長さんと祭が賛同し、他も納得する。誰か意見のある人はと見回して、発言する者がいないので最後の確認を終えた。 「それじゃあ、がんばろう」  そうして、皆はそれぞれにやるべきことをするために解散した。  本陣から、歩兵が展開し始めているのを眺めていると、紫苑たちが近づいてきた。こちら側の将たちは皆忙しく働いている。なにやら珍しく書き物を読んでいるらしい麗羽を除いては、だが。美羽から手紙がきたとか言っていたから、それかもしれないな。 「馬を阻むのは、馬止めの柵ですか」  紫苑が言う通り、兵たちは丘の周りに三重に柵で円を描いているところだ。最内周、その次に描かれた円に比べて、最外周の円は極端に広い。突き破られた場合、内周に籠もって、進入した敵兵を討つため、多少の距離が取られているのだ。 「百人隊ごとに、小を七十、大を九つ配置している。大は三人がかりじゃないと動かせないけど、小はなんとか一人でも持って、配置できる。二人で持つのが基本だけどね。そうして、それらをつなぎあわせて、あの円を作ってるわけだ」  馬防柵、というよりはバリケードというほうが俺などはなじみ深い。三角に開かれて土に埋められている脚を閉じれば、平坦に折り畳んで運べる優れものだ。実戦では、さらに木を尖らせてくくりつける予定だし、よほどのことがなければ馬によって突破されることはない。  ただ、そこを守る兵がいなくなれば、すぐにどかされ、蹴りやぶられてしまう。 「柵の背後は弓手か」 「ああ。外周の二列は弓。最内周には長射程の弩を配置している」  蓮華たちによくわかるよう、すでに弓と柵にたてかける形の大盾を用意している兵たちを指さす。しかし、紫苑は疑問を持ったようで、小さく首をかしげていた。 「しかし、あの弩兵の配置は妙ではありませんか? 妙に密集しているところと離れているところがあるような……」 「うん。三人に二個という割合で弩を配しているからね」 「なぜそんなことを? まさか弩が足りないなどということはあるまい」  もちろん足りないわけではない。数を揃えようと思えば、揃えることは可能だ。実を言うと、馬止めの柵を作るための木材を仕入れるのでかなりの金を使ってしまい、少々予算不足なのは事実なのだが、これには関係ない。 「弩は、強力な武器だが、矢を再びつがえるのに時間がかかる。そこで、上手な射手を選んで、それに矢をつがえる役として二人つけた。実験してみたら、二つで充分に連続射撃が可能だったんでね」  これは、繰り詰めの法と言って、島津家が火縄銃を使う時に用いていた戦法だ。弩に応用できないかと試してみたのだが、案外うまくいった。なにしろ、この時代の弩は足で引いて装填するような大がかりなものだからな。火縄銃の銃口内の掃除、火薬と弾の装填と、かかる手数としてはそう変わるまい。 「もちろん、一度に放てる数は三分の一になる。けれど、今回は連続で射撃できることを取った。数は普通の弓で補おうと思ってる」 「弩は、射ることだけを考えれば弓よりも簡単です。なにしろ、射る相手を探す時にも、力を入れ続けなくて済みますし。ただ、どうしても次々に射ることができませんでした。桔梗の豪天砲はそれを絡操で解決しましたが、このような手法を使われるとは……」 「うちのご先祖様に感謝だね」  天下の弓将に感心されるとは思わなかったので、思わずそう呟いていた。それを聞きつけた小蓮が、興味深げに覗き込んでくる。 「あれ、一刀ってば、軍学者の血筋なのー?」 「ずっと遡れば、俺の世界では有名な武将もいるよ。ただ、うちは分家もいいところだから。孫家みたいに孫子の子孫だなんて言える立場じゃない」  蓮華がそれを聞いて、小さく笑った。青い瞳が楽しげに揺れる。 「それも怪しいものだがな」  冗談でもそれを言えるのは、孫家の姫君たち三人だけだろう。他人が言えば侮辱になってしまう。 「それより、相手も偵察をよこしたようだな」  蓮華の指の先を見れば、豆粒のような馬の群れが見えた。数はよくわからないが、それほど多くはなさそうだ。彼女の言う通り、偵察の部隊だろう。  俺は丘から、自軍の兵たちの動きを見直した。すでに外周の柵もお互いにつなぎとめられ、兵たちは盾に隠れて、弓を構えている。 「よし、はじまるな」  そう言い放った声は、幸いなことに震えていなかった。  一撃目から、本気だった。  五つの隊が五方向から一度に攻めてきた。四千から六千の騎兵がこちらに突っ込んでくる様子は、前面に立っていない俺にも怖気を立たせずにはいられなかった。  一隊に麗羽指揮下の投石部隊の攻撃──といっても今回は全て煙幕弾──を集中することでかなりの数を落馬させられたが、四隊はそのまま突っ込んできた。  しかし、兵たちはよく耐えてくれた。いななきを上げる馬群に怯えることもなく、その手に持つ弓で、彼らに対抗した。  何列もの騎兵の隊列を鞭のように使い、何度も仕掛けては離脱するのを繰り返す一団──まず間違いなく張遼隊──や、強烈な突撃をかけてくる部隊、馬の上から弓を射かけてくる部隊など、様々な攻撃を仕掛けられても、彼らは果敢にそれに立ち向かった。それでも最外周にいた兵は突撃の度に槍で突かれ、矢を受け、次々と『死んで』いった。  幸いにも馬防柵の列は崩されることなく、騎馬は少数の部隊を残して引いていった。  なんとかしのぎきったわけだ。 「詠も律儀だな」  馬防柵のあちこちに生じかけている綻びを修復する工兵たちと、それを馬上からの射撃で邪魔し続けている数百ほどの騎兵、その騎兵を矢で牽制している弩隊の動きを見下ろしながら、苦笑いと共に呟いた。 「え?」  隣で戦場の様子を同じように観察している紫苑たちから声があがる。 「あれは、こちらがどれだけの防備をしているか知らない、という想定で突っ込ませたのさ。もちろん、詠は知らないわけはないが、五胡はそれほど事前情報を得られていないという想定なんだろう。だから、ひたすら突っ込ませた。そうじゃなきゃ、あんな突撃はしないだろう。予想される被害が大きすぎる」 「なるほど、しかし、それでもすさまじいものだ」  煙幕弾を集中させたのは、おそらく蒲公英の部隊だ。本当に真っ直ぐ突っ込んできたので、隊全体を煙幕で包めたほどだ。推定だが、その部隊だけで千程度は退場に追い込めたと思う。しかし、それ以外の隊に関しては、弓で射た成果はせいぜい数十、いって百程度だろう。巧みに射撃の範囲を外し、あるいは一列になって弓に当たらないよう移動してくるせいで、当てられるかどうかは腕というよりは、運任せに近い。  一方、こちらの兵は彼らの攻撃によって五百ほどが削られている。柵で馬を止め、大盾で防御しているというのに、だ。  突撃の威力だけではなく、騎射も可能な烏桓兵、涼州騎兵の実力はさすがのものだ。 「きーっ。あたりませんわっ」  ぷりぷり怒った様子の麗羽が、白蓮を連れてやってくる。麗羽は投石部隊を指揮しているが、いまの状態では狙うべき相手がいない。  いまだ残っている騎兵はいずれも、弓は届かないが投石櫓から打つには近すぎる位置を保って駆け回っている。時折、あちらの弓が届く範囲まで近づいてきて、矢を放った途端にこちらの射程外に出てしまう。散発的なものなので実害はないが、兵たちは気を休めることができないでいる。 「あれは投石じゃ無理だ。追い払えるかな、白蓮?」  兵たちを嘲弄するように、矢が届くぎりぎりを走り抜ける馬の群れを見つめて、白蓮はしばし考えた後に答える。 「追い払うだけならできる。翠や華雄がいるわけではないようだし。ただ、いくら将がいなくとも、討ち取るまでは期待しないで欲しい。それに、追い払ってもまた来るだろう」 「わかっているよ。でも、まずは兵を休ませたい。最外周の兵を内側の兵と交代させる時間を稼いでくれたらそれでいい」 「ん。じゃあ、追い払った後は、しばらく周りをまわってこよう」 「危ないと思ったらすぐ引いてくれよ」  俺が言うと、白蓮はいっそ晴れ晴れとした笑顔を見せる。 「もちろん。私は猪突できるほどの実力はないからな。ただ、弓で始末するために、多少、おとりになるくらいはしてもいいだろう?」 「無理しない程度なら」 「承った」  そう言って、彼女は再び笑みを見せる。その笑みに込められた自信を見ると、やはり、この人は白馬長史と謳われるにふさわしいと思えてくるのだった。  白蓮が自分の隊に向かう間に、側に控えていた伝令を呼んで、命令を伝える。 「将軍たちに、白蓮が出ると伝えてくれ」 「はっ」  彼女たちにくどくどと細かいことを言う必要はないだろう。白蓮が出れば、その機を捉えて兵たちの入れ換えも補充もこなしてくれることは間違いなかった。 「それにしても、もっとこう、華麗にいきませんものかしら」 「そうだよねー、ぱーっとやりたいよねー」  麗羽の愚痴に、小蓮が賛同する。その意見はわかるが、俺としては苦笑いを返すのがせいぜいだ。歩兵対歩兵の戦いならともかく、いまの状況で華麗に進軍というのは不可能だ。 「無茶を言うな小蓮。相手は騎兵だぞ」 「そうですわね、いくら馬止めの柵があるとはいえ、これだけ耐えられるのはさすがですわ。練度の低い兵なら、いくら模擬戦とはいえ、我先にと逃げ出してしまうでしょう」  それだけ、戦闘用に訓練された騎兵というのは恐ろしいものだ。馬の巨大さに加え、上に乗る兵の繰り出す槍や弓。徒歩の兵からすれば、小山のようにも見えるほどの相手。それがあっと言う間に迫ってくる。  その恐怖に耐えるには、生半可な気概ではどうしようもない。ただ、繰り返しの訓練あるのみなのだ。  とはいえ、それでも……。 「逃げれば後ろから撃つように言ってある」  本当だ。内周を担当している祭の部隊と子龍さんの部隊には、命を受けてもいないのに逃げる部隊がいれば撃てと命じてある。幸い、今回はそれが行われるような局面はなかったようだけれど。 「ほう……」  紫苑と蓮華、それに小蓮が俺を見る視線が鋭くなるのを感じる。  指揮をとり始めてからずっと感じていた胃のむかつきは、さらに締めつけるような痛みに変わった。掌の汗は相変わらずだが、腕を組んで隠すことができる。  大丈夫。  俺は、まだ、平気な顔をしていられる。 「我が君」  麗羽の声にちらりと目をやると、彼女は相変わらず微笑みを浮かべていた。そのことに、俺はなぜか奇妙な安心を覚える。 「わたくしは、櫓に戻りますわ。もしかしたら、白蓮さんが押し出す時に、煙幕を撃つ機会があるかもしれませんから」 「ああ、頼む」  お任せください、と高笑いをしながら立ち去る麗羽の背に揺れるくるくると丸まった金髪を見ていると、なんだか気分が落ち着いてきた。 「さて、白蓮が出るな」  丘の右手で白馬の群れが動き始める。それに呼応して、先程までこちらの弓の射程距離ぎりぎりで広がっていた馬群が固まり始め、整然と駆け去っていく。  そして、視界の遥か彼方には、新たな土煙。再び、騎兵の本体がやってきたらしい。  戦は、まだはじまったばかりだ。  篝火が煌々と灯っているおかげで、丘の上の本陣は昼間とはいわずとも、夕暮れ時ほどの明るさが保たれていた。周囲からは丸見えだろうが、元々この場所は水のある集落、という設定なので、攻撃側もよく把握している場所、ということになっている。暗闇に隠したところでどうしようもない。  それに、本陣自体は四方を幕で覆っているし、中の動きは伝わらない。  俺たちは、五度の突撃をしのぎきり、夜を迎えた。被害は、二千ほど。よく耐えたものだと思う。  ここには、俺と見張りの兵しかいない。将たちはそれぞれの部隊に戻していた。夜のうちにやるべきことを指示している者もいれば、明日のために体を休めてもらっている者もいる。明日、二日目は激戦だろう、と俺は予想していた。  扉がわりにしている垂れ幕が開き、赤い服に身を包んだ、凛とした女性が現れる。呉の姫君──蓮華だ。 「ああ、こっちに残っていたのか」 「小蓮は戻した。紫苑が璃々の様子を見に帰るというので、それに同道させてもらってな」  観戦武官はそれと示す旗を掲げて、演習場のどこへも移動することが許されている。シャオたちは、そうやって洛陽場内に戻って行ったのだろう。桔梗も千年の面倒を見るため、夜は帰っているはずだ。華琳たちがどうしているかはわからない。彼女たちなら、戦場でも書類仕事くらいこなせちゃうだろうからな。 「明日は、小蓮は、あちらの軍にやろうと思っている。騎兵の指揮ぶりも見せておきたいのでな。よいか?」 「ああ、もちろん。紫苑も桔梗と交代するって言っていたよ」  この口ぶりだと、蓮華はこちらに残るつもりだろう。呉では騎兵が中心になるということもないだろうし、こちらを参考にするつもりだろうか。  蓮華はそのまま、近くの胡床に座り込んでしまった。なにか話があるのか、と思っても、こちらを奇妙な瞳でちらちら見てくるだけで、話しかけては来ない。  俺は、確認していた被害報告の書き付けを置いて、立ち上がった。それに連れて、彼女の視線が持ち上がるのがわかる。 「少し、周りを歩こうと思っていたんだけど、どうかな?」 「ああ、そうしようか」  そういうことになった。  護衛の兵はつけずに歩く。ここまで敵が入って来るようなら、それはもう負けだ。 「夜襲は?」 「今日はないと踏んでいる」 「ふむ?」  横に並んで歩く蓮華の相槌は、理由を説明しろということだと思って、素直に口を開く。 「実戦ならともかく、演習で馬を潰すことを嫌がるだろうからね。夜襲はリスク……じゃない、危険性が高すぎると反対する将が多いだろう。ましてや初日から無理をするようなことはしないさ」  篝火で周囲が照らされているせいで却って闇の中に沈んでいる彼方の地平を、目を細めて見つめる。騎兵の本陣は、はて、いったいどの辺りだろう。 「来るとしたら明日の夜だな」 「誰が来る? 華雄か?」 「いや、霞だろうな」  それは俺にとっては、ほぼ確信に近い。だが、蓮華には得心がいかないようだった。火に照らされて、橙色に染まった顔が不思議そうにこちらを見ている。 「張遼か。それほど我が強い印象はなかったがな」 「そうじゃない。霞には成功させられる自信があるのさ。華雄や恋が率いる烏桓は強いが、まだ華雄たちと一体といえるほどには練られていない。翠や蒲公英の隊も同じ。彼女たちの場合、昔なじみだからまだいいけど、なにしろ集められてからの時間が少なすぎる。それに比べれば、張遼隊は部隊として訓練を積んできた。五つの隊の中で、いまの時点で最も怖いのは、張遼隊さ」  突破力だけで言えば、何時の時点でも、張遼隊こそが最も恐ろしいのに変わりはないが。 「ふうむ」 「それに、霞もあれで先にいきたがる性質だよ。ただ、周りがね……」  董卓軍時代は華雄、魏軍に入ってからは春蘭がいたからな。しかたなく、抑え役にまわっているというのが正直なところだろう。 「周り、か……」  蓮華はそう呟いて、しばらく黙っていた。俺もなんとなく口をきいてはいけない気がして、二人、黙って歩く。  蓮華が再び顔をこちらに向けて口を開いたのは、丘をほとんどまわりきった辺りでだった。 「小蓮に、お前と話すよう言われた」  言葉を選び疲れたのか、彼女の声は少しかすれていた。 「あやつ曰く、意地を張るでも、喧嘩をするでも、好きにすればいいが、周りにわからぬようにしろ、だそうだ」 「はは……手厳しいな」  シャオも言うようになったものだ。それよりも、その言葉を蓮華自身が平静に受け止めたのかどうかが気にかかる。今日の様子を見ると、大喧嘩をしたという風もなかったが。俺の視線に気づいたのか、彼女は謎めいた笑みを浮かべて、挑戦的に声を放つ。 「あるいは、お前を敵だと認識しろ、と」  おやおや、さらに手厳しい。 「ただし、一刀を敵にすれば姉妹を敵に回すと思え、とも言われた」  やれやれ、という風に首を振った後、彼女は真剣な顔に戻った。 「大きくなったな、あれは」 「ああ、本当に」  その感慨は、俺などよりは遥かに大きいものだろう。シャオが生まれた時から共に生きてきた蓮華にとって、妹の成長は大きな意味を持つだろうことは間違いない。 「あやつの言うことは正しい。私とお前の立場を考えればな」 「窮屈なもんだね、喧嘩一つできないって。官位なんて欲しくなかったんだけどなあ」 「私は慣れている。それに官位の問題ではないさ」  その言葉を聞いて、少し考える。たしかに、官位の問題ではないのかもしれない。 「まあ、そうかもね」  そのあたりで、本陣にたどり着いた。人払いをして、二人きりになる。兵が持ってきてくれた湯をそのまま注いで、白湯をすすった。 「いくつか訊きたい」 「うん」  白湯の熱が体に落ち着いたところで、蓮華が胡床の上の体をこちらに向けてくる。 「この陣の中にも、あるいは、東軍の陣の中にも、お前の女がいるな?」 「まあ……うん、お、多いよね」  女性の問題でこじれただけに、いまそのことを言われると、心臓をなにかにぎゅうと握られたような気がしてきてしまうのだけど、事実は事実なので認めるしかない。 「ふん。実際は、人数だけでみれば大したことではないだろう」 「え?」 「大きな商家の主でも、婢や妾、使用人という名目で、十人、二十人の女を抱えている者も、まあ、いないではない。まして九卿ならば数十人程度。知っているか? 宦官でさえ、たくさんの女を侍らす者が多くいたのだ。欲のためか、ただの見栄か。私にはわからんがな」  妻帯している宦官がいたという話は聞いたことがあったが、複数の女性を囲っていた宦官もいたのか。男性機能を失ったことの代償行為としての意味もあるのだろうか。 「数を揃え、ただ、金を、物をやるだけの女なら、大した話ではない」  だが、と彼女は言う。 「以前、お前は、全てを幸せにしてみせると言った」  問い掛ける目は真剣だ。青い瞳の奥に、怒りとも疑念ともつかぬ、なにかの感情の渦があるように思えた。 「そうだね」 「相手を戦地に連れて行くことも、その一環か?」  一瞬、息を呑み言葉を失ったが、それでもなんとか普段と同じような笑みを浮かべられたと思う。俺ははっきりと、次の言葉を口にできた。 「戦う場所を用意してあげなきゃいけない者もいるだろう、中には、ね」 「ふうん。悪びれもしない。さすがと言うべきか」  言葉を継ごうとして、制止される。 「私は、いまだにあの言葉を疑っている。だが、それでも、お前が本気だということはわかった。愛する者を指揮してみせるというならば、それは一つの覚悟であろう。だとするならば、誰を抱こうと、誰と情を交わそうと責めるべきではなかったのかもしれぬ。……まずはそれは置いておこう。他のことを訊きたいが、よいか?」 「ああ、もちろん」  矢継ぎ早に質問する意味はよくわからないが、彼女が納得してくれているならいいだろう、そう思えた。 「この戦、勝つか?」 「……この演習のことじゃないね?」 「ああ、北伐そのもののことを訊いている」  ならば、答えは決まっている。 「勝つよ」  これは希望でも気概でもない。  ただ、決まっていることなのだ。  蜀の攻略戦が、洛陽から進軍を開始した瞬間から勝敗が定まっていたように、魏の戦というのは、はじめる前に勝利は約束されている。今回で言えば、魏、呉、蜀三国から合わせて五十万の兵力を集めた時点で、こちらの勝ちだ。  あとは、いかにそれを現実のものとするか、だ。 「そうか。ならば、魏は膨れ上がるな。我らがもはや止めようがない程に」  それはあまりに淡々としていて、言葉に含まれた意味を聞き逃してしまいそうなほどだった。徹底的に無感情なその声に、俺はひどく驚いた。 「これは魏のための戦じゃ……」  弁明とも言えぬ言葉に、彼女はかぶりを振る。 「魏という枠など関係ない。曹操という覇王の力が膨れ上がることこそが問題なのだ」 「しかしだな……」 「なにも私は負けることや、華琳殿の力が削がれることを願っているわけではない。ただ、覇王の進む先がどこなのか、それがわからないのが不安なのだ」  蓮華は卓の上にまとめてあった地図を引っ張りだし、それを広げて見せる。そこには、三国と南蛮、そして北方の五胡の土地が描かれている。 「政に携わるものならば、大なり小なり、先を見据えているものだ。その中で、深く考えているのは、王や軍師などの限られた者だろう。彼らは十年先、三十年先、百年先を考え、そのために動く。だが、それですら追いつかぬ。果たして、華琳殿はなにを見ているのだ?」  腕を組みなおし、考える。  果たして、華琳の見ているものとはなんだろう?  その視界はあまりに広く、その思考はあまりに鋭く深い。俺などには想像もつかないものを見ている彼女の世界をどう説明したらいいか、戸惑う。  しかし、答えなければいけない。そう思った。 「世界、だろうな」 「世界」  おうむ返しに呟く蓮華の手元の地図を引き寄せる。 「この地図に描かれた地域だけじゃない。さらに広く、さらに遠く、大宛の果て、大秦に至るまで」  蓮華の目が閉じる。目眩を感じた時のように手をやる先の額には、じんわりと汗がにじみ出ているのが見えた。 「もちろん、これは俺の想像であって、華琳自身はもっと別のものを見ているのかもしれない。けれど、少なくとも俺が理解できるところでは、彼女はこの大陸全てを見ているだろうと思うよ」  彼女は、もごもごと、何事か口の中だけで呟いている。しばらくして、目を見開くと、俺を真っ直ぐに見つめてきた。 「では、お前は?」 「俺は王でもなんでもな……」  なんでもないわけだし、と続けようとした途中で、からかうような笑みと一緒に切り込まれた。 「いずれ覇王の夫となるであろう人物を、王族と言わずなんと言う?」 「あー、えーっと」 「そうでなくとも、私は、北郷一刀の見ているものが知りたい。……だめだろうか?」  不安げにその青い瞳を揺らす蓮華の問い掛けを断ることのできる人間は、そうはいないのではないだろうか。彼女のその表情に強く惹きつけられながら、そんなことを思った。 「そうだな……。かつて、華琳は強い国を作ると言った。この国を平和にするために、強くするとね。そのこと自体は間違っているとは思わない。強ければ無駄な戦もしないですむんだから。  けれど、それだけでは足りない気もするんだ。もちろん、漢の領土だけで考えれば、そう問題になることはないだろうけれど、華琳はすでにその先、北方や西方に目を向けているし、それらを含めた大きなくくりの中では、力による発展はどこかで止まる。  だから、俺は、そうした発展が止まった後にも、別の形で発展が出来るだけの素地を作っておきたい。以前、穏や亞莎に語った大規模な経済圏もその一環だ。  三国や南蛮や五胡だけじゃない。さらに多くの人々を巻き込んだ物品の流れ、人の流れ、知識の流れ、金の流れを作りたい。そうすることで、一部でなにかが起きても、どこかでそれを補うことができる、そんな繋がりを作りたい。  卑近な例で言えば、五胡の人たちが食料難に陥っても、将来の羊毛や馬の提供と引き換えに南方の物資が届くような、そんな連携を。  もちろん、それには百年単位で時間がかかるかもしれない。だから、まずは華琳を支えて、この地域にしっかりと平和を根付かせたい。子供たちに戦乱で荒れた土地を残すのは嫌だからね。  ……こんなところ、かな」  孫呉の姫君は、じっと俺の話すことを聞いていたが、俺が口を閉じると、緊張が解けたかのようにふーっと大きく長い息をついた。  そして、彼女の真名にふさわしい、光り輝く華の如き笑みを浮かべた。 「お前はおかしな男だ」  その言葉に、まるで悪意はなく、俺はなんとなく蓮華の言葉がすとんと心の中で落ち着くような気がするのだった。  俺に礼を言ってから、彼女は、しばらく自分の話を聞いてくれ、と前置きして話をはじめた。 「先程、私は言ったな。窮屈なのには慣れている、と」  口をはさむことはせず、こくりと頷く。彼女は俺の反応を見ているのかいないのか、独白するように続ける。 「そうだ、私は孫呉の姫として育てられた。慣れているはずだ。たとえ感情で相手を嫌っていたとしても、それを表には出さぬこと、真に脅威とするならばその相手におもねることすら厭わず、脅威を取り除く機を窺うこと。心波立つ相手に対して、笑顔で対することに、慣れている」  彼女は言葉を切り、何とも言えない表情でこちらを見た。 「……はずだった」  ごくり、と俺は生唾を飲む。それがなぜなのか、自分でもよくわからなかった。彼女はあんなにも穏やかな微笑みを浮かべているというのに。 「お前と会ってから、調子を狂わされっぱなしだ。きっと、華琳殿も、雪蓮姉様もそうだったに違いない」  華琳はともかく、雪蓮には殺されそうになったけどな。それに比べれば、蓮華の癇癪くらいはどうということもない。  ない、はずだ。 「天の国の住人だという。赤壁の戦いを魏の勝利に導いた功労者だという。稀代の女たらしで、女に見境のない種馬だという。様々な噂があり、諸々の評がある。だが、私はお前を見る度に、その評を信じられなくなる。なにしろ、お前はただの青年にしか見えないからな」  肩をすくめてみせた。個人としては、ただの男に過ぎないという蓮華の評価が一番好ましかった。 「お前はおかしな男だ。大国の王たちの心にしっかりとはりついた仮面さえ剥がす。私の仮面も、な」  仮面、か。  その言葉に含まれた色々な意味を考えてみたものの、なにか突き詰めるのが恐ろしい気がして、思考を停止させざるをえなかった。 「自分がこのように怒り続けるほど子供だとは思ってもいなかった。一月を越して、なぜ怒っていたのかすらよくわからなくなったほどだぞ。お前といると、自分の妙な面ばかり見ることになるな」  首をふりふり、彼女は自嘲気味の表情を浮かべる。 「だが……いや、それはいまは言うまい」  彼女は立ち上がると、俺の座る胡床に向かって歩み寄ってきた。 「仲直りしましょう、一刀」  すっと差し出された手を握り返し、俺も立ち上がる。 「ああ。こちらこそ」  強く手を握る。ようやくわだかまりが解けた喜びと共に、繋がれた掌から感じる蓮華の温もりが、一層心地よかった。  自分の持ち物の中から、酒瓶を取り出すと、蓮華の目が真ん丸に見開かれた。 「戦場に自前の酒?」 「勝てたら祝いに振る舞おうと思ってたんだけどね。少しくらいいいだろう」 「祭にばれないように注意しなきゃ」  蓮華の冗談に笑いあい、二人で杯を傾ける。 「ところで、あのけったいな行動の数々はなんだったの?」 「いや、だから、その、仲直りがしたくてさ」 「それであんな? 『お嬢様、なんでもお言いつけくださいませ』?」  執事の姿をした時の、大仰な仕種と声を真似られて、酒を吹き出しかけた。 「お、俺はともかく、ねねと恋はかわいかったろ」 「たしかに。でも、一刀も面白かったわよ。華琳のあの驚きっぷりったら」 「……驚いていたのか」  俺が見た時は澄ましたものだったがな。まあ、あの覇王様の感情を読み切るのはなかなかに難しいけれど。 「そうそう、一刀に知らせないといけないことがあるの。本国から急使が来てね」  何事だろう? 俺がいぶかしがっていると、卓の上に置かれた俺の手に彼女が自分の手を乗せて、微笑んでくれた。 「冥琳が無事に子を産んだって。双子だそうよ。おめでとう」 「ふたご!? あ、ありがとう。……うん、ありがとう」  思わず、彼女の手を握り返す。少し驚いた様子だったが、蓮華はそれを優しく受け入れてくれた。 「双子、双子かあ……」  自分で事態が呑み込めるよう、何度か繰り返す。子供が生まれるのには、もうだいぶ慣れてきたはずなのだが、しかし、それでも……。 「これで何人目?」  蓮華の問いは、果たして、どれほどの時が経ってからのことだったのか。 「え、ああ、冥琳の子供たちを合わせて五人だな」 「そう。でも、まだ増えるわね」 「え?」  あまりの驚きに、意識が明晰に澄み渡った。しかし、他に思い当たる節は……いや、いっぱいいるけれども。 「呉の人間ではないわよ。南蛮の孟獲たちのお腹が大きくなってるって」 「美以が?……ってちょっと待ってくれ。『たち』?」 「四人、全員」  なんということだ。喜びもさることながら、驚きが俺の心の中を吹き荒れる。  そして、それを告げる蓮華の顔は、さすがに呆れていた。  二日目は予想通り激戦だった。  夜が明けるか明けないかという時間に襲ってきた数千の騎馬の群れを皮切りに、一つが引けば、また数千が寄せ手に加わり、その波が引けば、新たな部隊が攻撃を開始するという間断ない襲撃が行われた。  おそらく、五隊、あるいは昨日数を減らした蒲公英の部隊と翠の部隊を合わせて一つとして、四隊で交代に攻撃に来ているのだ。  これに対して、俺たちの側でもどれかの隊は休みを取るようにして対応するしかなかった。そうしなければ、全てが瓦解してしまう可能性がある。  昼過ぎには最外周の柵を放棄して、二列目に籠もる決断をした。文長さんがまだ粘れると主張したが、大将としての権限で却下させてもらった。それよりも矢の密度を上げて、相手を圧倒する方がいいと説明したら、なんとか納得してくれたようだった。  幸い、最外周と二列目の間にある落とし穴地帯にひっかかってくれた部隊があり、八百ほどを退場させることができた。これは、実際の数以上に、敵軍に警戒心を植えつけられたのが大きい。それ以後、強烈な突撃は影をひそめ、騎射が中心になったのがいい証拠だ。  それでも、二列目への撤収を終えた頃には、こちら側にも千に迫る犠牲が出ていて、しかたなく、秘密兵器を投入するしかなかった。  真桜特製の、音響効果を強化した鏑矢だ。  何種類かの音を放つ鏑矢を盛大に放つことで、馬を驚かせるというわけだ。  しかし、かなりの数の鏑矢を打たなければならず、また、訓練された馬には効かない場合もある。最初から投入しなかったのはそういう理由だ。  そんな不安もありはしたが、夕刻の襲撃は鏑矢で起こした混乱で撃退することができた。  実際には、兵が打っていた鏑矢より、投石櫓の煙幕弾にとりつけた音を響かせる羽のほうが、サイレンのように甲高く異様な音を発していたように思う。音量も大きかったし、この音は、味方の兵でも不気味がるほどだった。  馬に対して、というよりは敵兵に対して有効かもしれない。華琳と真桜に報告しておかなければいけないことだ。 「ようやく夜、というところですか」  洛陽にシャオを送った後でこちらに来た思春が、俺の横──というよりも俺の横にいる蓮華の側にやってきた。さすがに疲れた様に見える諸将や兵に対して、観戦武官はそんな様子はないので、本陣の中で妙に浮き上がって見える。 「ええ。でも、一刀が言うには、まだ来るって」  柔らかく戻った蓮華の言葉づかいに、思春が一瞬俺と彼女を見比べる。そうして、なにか納得したのか一つ頷くと、話を続けた。 「夜襲を? 昨日はやらなかったようですが……」 「昼過ぎのいつからか、やってくる兵が三交代になった。しかも騎射ができる兵ばかりだ」  不思議そうな思春に説明する。その動きは、東軍側にいた彼女ならわかっているだろうが、表情を変えて、それを漏らすような真似はしない。 「つまり、烏桓兵と涼州兵だな。おそらく、夜襲の──霞の部隊を休ませていたんだろう」 「しかし、ならばなぜ兵を引かせた?」  彼女の指摘通り、いま、本陣にはほとんど兵はいない。俺の周囲に護衛の兵が数人いるだけだ。その他は思春と蓮華のみ。昼間は桔梗もいたが、これは洛陽に戻っている。 「わかりやすい罠だろ?」  俺の言葉に、蓮華と思春の主従が妙な顔をする。 「ああ、蓮華と思春は罠には関係ないから、どう移動しても大丈夫だよ」  その保障に、二人は顔を見合わせ、結局蓮華が口を開いた。 「張遼が罠なんかにひっかかるものなのかしら……」 「まあ、それ以前に、ここまで来られる前に撃退できるのが、一番いいんだけどね……」  本当に、そうなれば一番いいのだ。あるいは、夜襲に来ないでくれてもいい。  だが、残念ながらそうはいかなかった。 「はっはぁっ。一刀、覚悟せえっ」  篝火に照らしだされるのは、飛龍偃月刀を構え、絶影にまたがる霞の姿。彼女とその側近の兵たちによって本陣の西向きの幕は倒され、その向こうには、張遼隊の騎兵の群れが見えた。  こちら側の抵抗は、近辺にいたらしい兵によるものが多少はあるようだが、有効とは言えないようだ。奥のほうで、たまに干戈が交わされる音が聞こえているが、とてもではないが歩兵では太刀打ちできそうにない。  どこかの部隊が本陣の急を知って駆けつける頃には、本陣は馬蹄に踏み荒らされていることだろう。 「しまいやなあっ。ごめんなさい言うたら、そんで……」  天下の名馬の上で飛龍偃月刀を振りかぶる霞は、本当に美しい。その体にはもちろん傷一つついてない。演習とはいえ集中的に狙われたろうに、そんな攻撃はかすらせもしなかったのだろう。 「あー、霞。口上の途中ですまないけど、危ないから蓮華と思春は退避させていいか?」 「ん? ああ、観戦の人ははようどいたってー」  蓮華と思春は俺の勧めと霞の許可に応じて、悠々と本陣を出て行く。その歩み去る様子を見ながら、俺はにやりと笑った。 「霞、わかってるよな」 「あん?」 「観戦武官はその場にいないことになっているから、罠の上も自由に移動できる」  その言葉と共に蓮華たちの歩いた跡を見ていた霞は、悔しそうに顔を歪めた。 「くっ、罠っちゅうことかいな」 「だいたい、俺が一人でここにいるっておかしいと思わないか?」 「もし落とし穴があるゆうても、ここからかて一刀の首は取れる! せやから、うちの……」  霞は、しばらく馬上で、うーーーっと唸っていたが、はっと気づいたように顔を上げて、俺に反論してきた。その偃月刀が──たとえ、その刃に覆いが被せられているとはいえ──俺に真っ直ぐ向かっているのが恐ろしい。 「残念だが、霞。罠は罠でも、下じゃない」  よし、時間は稼いだ。俺は首から提げていた笛を口に当て、思い切り吹き鳴らした。  ぴーーーーーーっ。  夜闇を切り裂いて、その音が走る。途端に、張遼隊の両側で、がさがさと大きな物音。 「伏兵や! 反転せんでええ、このまま右斜めに駆け抜け……」  さすがの反応だった。霞の声がかかる前に、移動をはじめようとしている騎兵たちの姿に、俺は感心するしかなかった。だが、彼らはいまだ警戒してか、本陣に真っ直ぐ入ってこようとはしない。 「下じゃないって言ったよな」  そして、それは彼らの頭上から降り注いだ。  どさどさと地に落ちる音が頻発し、馬のいななきが強くなる。背中の上の主を失った馬が、不安を覚えてか駆けだし始め、混乱は急速に広まっていく。いたるところで、衝突と落下が繰り返されているようだった。  そして、俺の足元には、投網に絡まってもがいている霞がいた。 「うわーん。一刀のずるっこー、あほー、いけずー」 「はいはい」  暴れるせいでさらに絡まる網から、彼女を引きずり出してやる。落馬した以上、彼女はもう敵ではない。  心配そうに霞と俺の周りをぐるぐるしていた絶影も連れてきてやり、とにかく、霞を胡床に座らせる。  そうしていると、蓮華たちと一緒に、伏兵部隊を率いていた祭がやってきた。 「兵馬は大丈夫かな?」 「暴れた馬に踏まれて怪我をしたのはおるようじゃが、死んだ者や、死にそうな者はおりませぬ。馬のうち、百頭あまりは逃げてしまったようで。いま、あちらの本陣に人をやって、馬の捜索に出した兵を襲わぬように通達させております」 「あー、馬はうちらでなんとかするわ。もう部隊ほとんど退場やろ」  うつむいていた霞が顔を上げ、そう言ってくれた。 「そうか、すまん」 「いや。ええねん」  そのまま立ち上がり、絶影の首をなでる。そこから流れるように馬上に戻る姿を表現するには、優美の一言しか出てこない。 「一刀」  馬上から、悔しげながら、明るい声がかかった。彼女は俺をみてからからと笑う。 「今回はしてやられたわ。せやけど、実戦ではあんたが大将や。この勝ちを実戦ではうちらにも味合わせたってや」 「ああ、約束する」 「ん。行ってくるわ」  霞はまだ網の中でもがいている者もいる兵たちを怒鳴りつけながら隊をまとめて去っていく。それに続いて祭も大量の投網の後始末に戻っていった。 「注意を惹くためとはいえ、大将が体を張る必要があったのか?」  それらの光景を眺めていた思春が顔をしかめながら訊いてきた。たしかに、少々リスクの高い行動だったかもしれない。 「んー、まあ、実戦ではもう少しうまくやらないとだめだね。それに……」 「それに?」 「うまくいきすぎた気がする」  実際、うまく行き過ぎた。霞とその側近たちをここで捕縛できたことで、張遼隊は壊滅したも同然だ。他の場所に突撃した分隊もいるかもしれないが、あえて内側に引きずり込み伏兵で捕縛する作戦で、そちらもうまく行っているはずだ。そうすると、俺たちの勝利は間違いない。 「……と、言うと?」 「詭計も時には必要だが、こううまくいく時ばかりじゃない。演習としては今一つだったかもしれないな、と思って。もっと揉み合いを経験させた方がいいんじゃないかな?」  腕を組み、考え込む。  もっと、うまく、兵たちに経験を積ませる方法はないだろうか。勝利を味わうのはたしかに重要だし、それで自信を持つのはいいことだが、警戒感を持つことも両立させるにはどうしたらいいだろう。  よほど俺は渋い顔をしていたのだろう。気づくと、蓮華と思春は俺の顔を見ながら、大きな声で笑っていた。  それを見て、まずは勝利を喜ぼうか、などと思う俺であった。  夏の終わりだった。  無論それは暦の上で、実際にはまだまだ暑さはこれからが本番と言えるのだが、いまはそんなことは関係ない。  ただ、妙に蒸し暑く、風の一つもない、そんな日にその報せはやってきた。  江東の小覇王、呉王孫策──薨去。  俺は、祭に一つ頼みごとをしてから、華琳の部屋に急いだ。  ちょうど、蓮華と思春も呼ばれていたらしい。静かに部屋に入ると、華琳が目線で、まずは黙っていろと合図してきた。  小さく頷いて、扉の前に立つ。 「姉様が死んだだと! あり得ぬ。誤りであろう!」 「しかも、公瑾殿もほぼ同時に亡くなったと? そのようなことが……。殉死なされたとでもいうのか……。いや、産後の肥立ちが……?」 「そういう急使が来ているの。それと、蓮華、あなたに王位を譲るという遺言もね」 「そんな、そのような……」  崩れ落ちようとする蓮華を思春が支え、立たせ続ける。  そうだ、いまの蓮華にそれは許されないことだった。  そのことに気づいたのか、彼女はぐっと拳を握りこんで、踏ん張った。涙一つ流れぬ彼女の顔を見ていると、胸がつまる。  扉が開き、祭が部屋に滑り込むようにして入ってくる。彼女は持ってきた箱を俺に確認するように見せてくれた。それを見ていたのだろう、華琳が声をかけてきた。 「一刀」 「ん」  呼びかけに前に出る。俺の後ろに細長い木箱を捧げ持つようにした祭が続く。  思春がその光景を見て、はっと何事かに気づいたように体を反らせた。 「そ、それは北郷、まさか、お前、あの時から……」 「ああ、思春は知ってるんだったな。そう。あの時からずっと託されていたんだよ」  祭が跪き、こちらに掲げてくる木箱の中から、一本の剣を取り出す。  黒塗りの鞘に収められたその剣は、けして、宝剣と言えるほど飾りたてられてはいない。だが、その剣こそは、常に孫呉の主の腰にあり、孫家の敵を屠り続けた業物。 「なんかい、はおう……」  呆然と呟くのも無理はない。蓮華が、ここに南海覇王があることを予測することなどできるはずがないのだから。  俺は両手で南海覇王を捧げ持ち、礼に則って彼女に問う。 「我が友孫伯符より、何事かあった時には、必ず孫仲謀へ渡すようにと託されたこの南海覇王。受け取るや否や?」 「わ、わたしは……」  震える声で何事か言おうとした蓮華に、床に跪いたままの祭が、被っていた鬼面を外し、鋭く声をかける。 「わかっておりますな、権殿。これを受け取るということの意味を」  その時、祭はたしかに孫呉の宿将に戻っていた。江東の虎に仕え、江東の小覇王に仕えた、勇猛果敢な武将に。  蓮華は、彼女の言葉にゆっくりと頷く。 「わかっている。これは、孫呉の主の印」  固まったようになっていた思春が、慌てたように祭とは反対側に跪く。思春のそんな様子は、俺もあまり見たことがなかった。 「母様が、姉様が佩いていたこの剣、手にする意味はわかっている」  彼女は俺の手の上にある南海覇王をその手に握った。しばらく、そのまま、ただ握っていただけだったが、引き寄せる力が加わったことで、俺は手を離し、後ろに下がる。 「私は姉様の跡を襲い、孫家の主となる。そして、呉の民のため、呉王となろう」  その宣言は、華琳の執務室に大きく響いた。立ち上がり、手を鳴らす華琳──いや、魏の覇王にして漢の丞相、曹孟徳。 「孫仲謀、よくぞ言った。この曹孟徳が全て見届けたぞ」  無言で軽く礼をして、蓮華はその腰に南海覇王を佩く。その姿を見ていると、なぜか自然と胸が熱くなる。 「ようやっと、ようやっと、儂らの時代が終わったのじゃのう」  滂沱の涙を流す祭を止めるものはいなかった。  邪魔してはいけない。そうわかっていたから。  一段落ついた頃、思春が立ち上がり、疲れたように華琳に向かった。 「ともかく、伝えてきた急使にも会わせてもらいたいのだが」 「ええ、どうぞ」  華琳の声に従って扉が開き、二人の女性が入ってくる。彼女たちはなぜかフードのようなものを深く被り、その顔を隠していた。 「……おいおい」  思わず小さく吐いた声に反応したのは華琳の満面の笑みだけ。蓮華と思春は動揺が続いているのか、不審そうな顔をしているし、祭は小さい子供のいたずらを見つけた時のような表情を浮かべている。  その衣装を見た時から、いやな予感はした。  なにしろ、彼女たち二人は、以前に俺が思春のために仕立てたはずの古典的なメイド服に身を包んでいたからだ。服を持ち上げるように盛り上がった胸のサイズが思春とだいぶ違うけれど。 「貴様ら、孫権様の前で頭巾を取らぬは無礼であろう。顔を明かせ」  思春が、メイド服に気づいているのかいないのか、怒気も露わに二人の前に立ち、彼女たちが深くかぶったフードを剥ぎ取る。  そこに表れたのは、祭と同じ鬼面。  だが、片方は雪のように白く、片方は闇のように黒い。  隠れていない口元と、フードからこぼれ落ちた、片方は蓮華とまるで同じ色の、片方は漆黒の、輝くような長髪。それになにより彼女たちの体型や雰囲気は、見慣れた者にはすぐにそれと判別できるものだった。 「はーい、急使の孫奉でーす」 「お、同じく周護だ」  ばればれであった。         (第二部北伐の巻第九回・終 北伐の巻第十回に続く) 北郷朝五十皇家列伝 ○陳家の項抜粋 『陳家は陳宮にはじまる皇家であり、七選帝皇家の一つである。  七選帝皇家は皇帝候補を選び出すのが最も重要な任務であったが、その過程、あるいはその基礎情報として、中央で官位を得ているか、得るにふさわしい年齢の皇族全ての評価を行ってもいた。  このため、たとえ皇帝の位を望まないとしても、北郷朝においてそれなりの地位を築きたければ、七選帝皇家の評価を気にせずにはいられなかった。そして、本土に残る皇族であれば、たいていの者は自らの能力に自信を持ち、それにふさわしい官位を得ることを望んだ。  ただし、より冒険心に富んだ者は、辺境で成り上がることを選択することもあり……(中略)……  もちろん、実際に能力があれば七選帝皇家の目に留まらないはずはなく、ほとんどの者はその行動を通して、その人物なりの評価をされることにより、妥当な地位につけられた。  しかしながら、中にはその評価に納得できない者や、自身の能力に対して不当に貶められていると感じる者がいる。そこで、彼らは最終的に、もしくは最初から横着をして、陳家に頼る。  なぜならば、陳家は、世上こう言われていたからだ。 『唯一、金で評価が買える選帝皇家』と。  もちろん、これは正しくもあり、間違ってもいる。  この噂を信じて、あるいは噂に最後の望みを託して陳家を訪れた者があった場合、陳家の人間は鷹揚に賄賂を受け取り、彼らの希望と差し出された賄賂の額を丁寧に記帳する。  そして、翌日には、全ての選帝皇家に対して廻状が回される。  これにより、七つの選帝皇家全てでその人物に対する評価の洗い直しが行われる。この再調査によって評価の誤りが認められた場合には、本来の実力にふさわしい地位につけられるよう手配されるのだ。この場合、差し出した賄賂は、彼、あるいは彼女の給金に、数年に渡って加算することで、本人には気づかれぬように返済される。  しかしながら、再調査においても自己申告と同等の能力がないと認められた場合、その者は世の浅ましい噂を信じるほどに愚かであり、賄賂という手段を取るほどに卑怯であると判断され、全ての官位を剥奪され、差し出した金銭・宝物は国庫に吸収された。  実際にどれほどの例があったか、それは七選帝皇家の者のみが知るところであるが、圧倒的に後者の例が多かったと言われている。  ただ、これには異論が有る。この仕組みが露顕せずに存続するためには、前者の例、すなわち、真っ当な評価を受けるべき人間が再調査によって訂正され、官位を引き上げられるという例がある程度存在する必要があるというのである。これがなければ説得力がなくなり、金で買えるという噂自体がなくなってしまうのではないか、という主張である。  これに対しては、実際に能力がないのに賄賂に頼るような人間は他にも悪行を行っている場合が多く、官位剥奪の理由もつけやすかった、という反論や、あるいは、人間は他人に関する限りは下賤な考えが好きで、信じたいものを信じるという性質があるという説も……(後略)』