いけいけぼくらの北郷帝 第二部 北伐の巻 第八回  武術大会の観客達は、俺と同じく、信じられないものを見ている気分だったろう。  あの小蓮が、西涼の錦馬超と伍しているのだ。  世間でも、武将たちの大まかな強さや資質というものの噂は広く流れている。もちろん、誤りも多いが、それでも、世で言われる評価というのは、思ったよりも鋭い。  武、という点で見れば、錦馬超は世に知られた一流の武人だった。それに対して孫尚香は王族であり、その資質は孫家の一員として評価されていても、まだまだ経験が浅く、一流には遠いという見方が大半だったろう。  それが、翠の槍を受けるばかりではなく、己の攻撃をも繰り出している。ほら、いまも手に持った圏──月華美人で翠の十文字槍を弾いて見せた。  そもそも、小蓮が後半戦に残れていること自体が、快挙だ。一回戦で明らかに相手を侮っていた蒲公英を下したのは、油断していた蒲公英の側に問題があったとしても、続く二回戦で負けたとはいえ、彼女を良く知る思春相手に善戦し、俺が見る限りは思春の本気すら引き出していたのは素直に感心した。しかも、その後に敗者復活戦で、紫苑に打ち勝ち、後半戦に進むとは。 「あらあら……わたくしとの時には隠していた技ですわね、いまの」  紫苑が指摘するものの、俺にはその技がどれなのかもよくわからない。おそらく、達人級にしかわからない玄妙なものなのだろう。  今日の貴賓席には、仕合の付き添いについていない大会参加者が集まっている。代わりに華琳が審判として仕合場にいた。斗詩と猪々子が副審をやっているのは少々奇妙な図だが、麗羽が、まるで大会主催者のように華琳の後ろに控えているのに比べればまだましだ。 「なあ、シャオとの敗者復活戦で疲れてたのは……」 「いえ、春蘭さんの打ち込みを受けていたからですわ。さすがは秋蘭さんの姉君。弓使いの嫌なところを見事に突いて」  声をひそめて訊ねてみても、紫苑は艶然とした笑みを崩さない。気遣いか、実際に睡眠不足よりも、春蘭の打ち込みのほうがよほど堪えたということか、俺には判別がつかない。 「それよりも、彼女の技倆でしょうね。あの伸びの早さは驚異的ですわ。……やっぱり、若さかしら……」  なんだか鬼気せまる感じでぶつぶつ呟く紫苑は──つっこむとえらいことになる予感がするので──邪魔しないことにして、小蓮と翠の戦いに視線を戻す。  十文字槍がうなりを上げる。だが、その先に狙ったはずの体はなく、間一髪で避けた小蓮が残したひらひらとした布だけがそこに残る。だが、十文字槍はその名の通り、ただの槍ではない。突きだけではなく、引き戻す時にも横の刃でひっかけ、絡めとることが可能だ。翠の手元がわずかに動くだけで、槍の穂先は横にするりと動き、小蓮の腕に向かう。瞬時に引き戻された横刃は、しかし、小蓮の服すら捉えることはなかった。いつの間にか、彼女は翠の攻撃範囲から消えている。  跳ね飛んだわけでもなく、ただ、滑るように、あるいは、翠の放つ銀閃の勢いに押し出されるようになめらかに移動していたのだ。 「すごい、あの歩法」  その冴えは、流琉が小さく呟くほど。  小蓮のイメージからすれば、ぴょんぴょんと跳ね回るほうがらしいだろう。しかし、彼女の体は柳の葉が揺れるようにしなやかに、ゆったりと移動しているように見えた。もちろん、そう見えるだけで、実際には思っても見ないほどの距離を移動しているのだが……。彼女はあんな動き方をどうやって習得したのだろう。 「うーん、やっぱりたんぽぽが負けたのがいけなかったかなあ」  翠に、付き添いよりも戦いをしっかり見て勉強しろ、と貴賓席にいるように言われたらしい蒲公英が落ち込んだ調子で言うのに、紫苑が厳しくも優しい声で指摘する。 「たしかに、蒲公英ちゃんと翠ちゃんの動きは似ているけどそのままではないし、似ている者から学びとれたなら、それは蒲公英ちゃんの責ではなく、小蓮ちゃんの功よ。なにより、あの動きと間合いの取り方……あれは相手を選ばないわ」 「でも、ちょっと攻撃が弱いような気もするなあ」  翠が三段突きを決め、それをふわりふわりと避けた小蓮が、翠の体勢の戻る隙を狙って圏を振り下ろすのを見ながら、季衣が不満そうに言う。たしかに、手数でいえば小蓮は翠に比べて少ないし、もし当たったとしても、彼女の力ではそれほどの打撃を与えられないだろう。 「いや、あれぐらいの体格でお二人ほど膂力があるのは珍しいですから……」  凪がそう指摘する。そりゃあ、この二人ほどの破壊力を持った武将もいないだろう。ふと、この二人の体格がよくなったらどれほどのものになるのだろうと思って、背筋が凍えた。  ちなみに一番につっこみそうな沙和が貴賓席にいないのは、教練長官として兵の監視の役を請け負っているからだ。 「それにしてもさぁ」 「翠さんの間合いの取り方もすごいってことだよ……見て、季衣!」  思わず流琉が指さすほどのことが、そこでは起こっていた。  強烈な突きの最中、ふんわりと浮かび上がるように地を蹴った小蓮が、銀閃が引き戻される前に、その刃の上に乗ったのだ。 「なっ」  驚きのあまりか、翠の動きが止まる。いや、その瞬間、会場内の全ての動きが止まったように思えた。  三本の刃の付け根に立つ小蓮は、その顔にいたずらっぽい笑みを張り付けたまま翠を見下ろす。圏を持った両手は後ろに周り、攻撃を出すために引き絞られている。だが、彼女の重みが加わった銀閃を支える正面の翠には、その腕の動きは見えはしない。 「なんていう平衡感覚……」 「それよりも、足元を見てください。振り落とされないように、いえ、翠殿が振り落とせないように重心の移動と、足の動きで制御しているのです。あれは……これまで見せた歩法の応用」  凪たちが解説してくれているが、俺にはその姿が、とても信じられない。翠の保持する十文字槍の上に立つのは、まるで白と薄桃の妖精だ。その背に羽がないのが不思議なくらいの。  しかし、この状況はどう解すればいいのだろう。振り落とされずに済むのならば、小蓮が攻撃を受けることはない。といって、月華美人のリーチでは、小蓮から翠に攻撃するというのも難しい。この状態を保てば、それだけ翠は疲弊するが、それを狙っているのだろうか。  なんとか振り落とそうと槍を動かす翠と、それに対してバランスを保つ小蓮という膠着状態を手に汗握り見つめながら、俺はそう疑問に思わざるを得なかった。 「ねぇ、あれって、どっちが有利なの?」  季衣もわからなかったのだろう。素直に疑問を口にする。 「そうねえ……。攻撃の機会を自分で作れる小蓮ちゃんが有利なのは間違いないけれど、ああやって武器の上に留まるのも、体力と、なにより神経をすり減らすことでしょう。翠ちゃんの疲労はさらに上でしょうけど、長引くとどちらも厳しいんじゃないかしら」 「お姉様が銀閃を捨てるのを待ってるのかな。そうすれば、武器もない状態のお姉様を攻撃できるわけだし」 「それはあるかもしれません。疲労を蓄積させ、武器を失わせれば、小蓮殿の打撃でも痛打を与えられるでしょう」  月華美人が飛ばせるタイプだったらなあ、と俺は残念に思う。こちらの武術で使う『圏』は、形は似ていてもチャクラムのような投擲武器ではない。ものによっては内外に刃がついていて斬撃を伴うものもあるが、基本は手の先で使う打撃武器だ。  その武器を、彼女は構え続けている。翠が槍を戻し、己の間合いに入るのを待っているのか、あるいは諦めて武器を落とすのを待っているのか。  そして、膠着状態は破られた。 「あーーっ、もうっ」  自棄になったような翠の声が響き、その手から斜め下に向かって叩きつけるように、槍が離れる。 「勝った!」  付き添いで仕合場にいる蓮華の喜びの叫びは、周囲の観戦者たちの、多くの声を代表するものだったろう。  落ちる槍の速度に、己の跳ねる力を加えて飛び出した小蓮の腕が振られる。武器を失った翠には防御するしかなく、そのままの軌道なら、間違いなく月華美人が翠の首を刈る。  そう、誰もが思った。  だが、まるで弓から解き放たれた矢のように飛び出たのは小蓮だけではなく、翠のほうもだった。突っ込んでくる小蓮の体を抱き留めるように跳ねた翠の頭が月華美人をかいくぐり、小蓮の腹に突き刺さった。翠の頭の後ろでまとめられた長い髪が、彼女の動きを受けて、ふんわりと持ち上がり、揺れた。 「ぐぅ……」  それだけ呻いて、だらりと垂れる小蓮の体。それは、ずるずると翠にまとわりつくようにしながら、地に落ちた。 「ず、頭突き……」  呆然とする俺たちをよそに華琳が勝利を宣言し、翠が喜んで腕を上げる。 「最後は、お姉様の単純さが勝ったね」  最後に、蒲公英が褒めているのかどうなのかよくわからない感想で、この戦いを締めくくった。  夕映えの頃──。  宴席を抜け出した俺は、シャオを探して場内を巡っていた。  彼女は、翠に負けた後、どこかへ行ってしまったのだ。しばらくは一人にしてやる方がいいだろうし、大会終了後の宴の時間になったら戻ってくるだろうと俺も蓮華たちも考えていたのだが、それでも姿を見せない。立場上抜けるわけにもいかない思春から、蓮華も心配していると聞いて、俺が探しに出ることに決めたのだ。  どれくらい探し回ったろう。周々にくるまれるようにして、空を見上げているシャオを見つけた頃には、すでに辺りは暗く、頭上からは星々がその光をさえざえと降らしていた。 「やあ」  こちらを向いた顔に涙の跡があることには気づいた素振りを見せず、彼女の横に座る。シャオはなにも言わず、けれど、俺が座るのにも文句も言わず、黙って見ていた。周々が挨拶代わりか座り込んだ俺の手に尻尾をのせてきていた。  しばらく黙っていた。小蓮は空だけではなく、周囲の木々の葉や、そこについた花なども眺めているようだった。 「北の春は短い。一刀の言う通りだったね」 「そうだね」  呉に比べれば、洛陽の春は短く、冬は長い。もっと北に行けば、冬はさらに長くなる。ふと、俺は呉にいるはずの雪蓮や冥琳たちとの距離を実感した。 「優勝は誰だったの?」 「ああ、華雄と恋がいつまでも打ち合いを続けるんでね。華琳が裁定して、両者優勝。妥当なところだろう」 「ふぅん」  本当にいつまでも打ち合うんだからな。見ていて美しいとさえ思える仕合だったが、決着をつける決定打がないではどうしようもない。 「一刀はどっちが勝ってたと思う?」 「え?」 「恋と華雄の」  シャオの問いに、腕を組んで少し考える。 「そうだな。恋がお腹がすくまで粘れれば華雄かな。ただ、そこまで本気になるかどうかはわからないけど。どっちも気分屋だ」 「華雄か。あれは強いよね」  うんうん、と大きく頷いてから、さらに周々にもたれかかる。 「シャオね、華雄と祭にいっぱい鍛えてもらったんだ」 「へぇ」  それで色々と得心がいった。  あの歩法、それに槍に乗るほどの平衡感覚。あれを見て、華雄の動きを思い出すべきだったのだ。己の手に止まった小鳥を飛ばす機さえ外すほどの拍子の取り方を。  しかし、なぜだろう。  あれを身につけるにはとてつもない鍛練が必要なはずだ。それをやり遂げるには、元々の才能もさることながら、毎日の努力が要求される。けして諦めず、見返りがなくとも行為を続けられるだけの動機が。  まだまだ子供気分が抜けず、飽きっぽいところもあるシャオが、それを続けられた理由が、なにかあったのだろうか?  彼女は、周々の毛皮から体を離し、俺にもたれかかってきた。 「シャオ、考えたんだ。呉のためになるにはどうしたらいいか、って」  その言葉はとてつもなく真摯で、決意に溢れるものだった。 「雪蓮姉様を支えるには、政治の勉強をする方がいいんだろうけど、そういうのってお姉ちゃんのほうが得意でしょ。人に会ったりするのも、お姉ちゃんのほうが信用されやすいし、シャオは──すっごく失礼な話だとは思うけど──まだまだなめられちゃうもん。だから、いまは武を磨こうと思ったの」  俺は震えた。彼女の覚悟の重さに。  そうか、彼女は、孫呉の姫として、自分がなすべきことを見つけたのか。  彼女には知らされていない雪蓮の引退を考慮しても、彼女が王位を継ぐ可能性は低い。小蓮は呉の次の世代を代表する人間として期待されているが、そこで求められるのは王としての立場ではなく、王を支える頭脳であり、代行者としての口であり、王の手にある刃であり、盾であることだ。  彼女はまず、刃であることを学ぼうとした。  当代随一の武人たちの下で。 「祭は、前に教えられなかった分だーって言ってすっごい厳しいんだよ。もう鬼かと思った」  まあ、一度死んでるしな。 「華雄は、母様の娘なら充分資質はあるだろうって。祭のしごきを受けたシャオに、さらに訓練をさせるの。押しつけがましくはないけど、やらないといつまでも自分の鍛練をしながら待ってるのよ。ひどいと思わない?」  酷いというより、華雄もよくつきあう。俺みたいな弱い人間につきあえるくらいだから、教えることに関しての忍耐力はあると思うが、それにしても、わざわざやるのは珍しい。  やはり、かつての強敵、孫文台の娘ということで思いが違うのか。  雪蓮には武を誇るなと言い、シャオは鍛える。この違いは、王という立場と、それを支える王族という違いを考えてのことだろうか。 「でも、すごいよね。二人に習ったことをやるだけで、思春に勝てそうだったもん。翠にもね」  そこでシャオは顔を俺の肩に押しつけた。その体が震えているのがわかる。喉から嗚咽が漏れるのが聞こえる。俺の服を濡らしている彼女の涙も。 「悔しいなあ」  ここで、相手は蜀を代表していた武闘派だとか、西涼の錦馬超と有名な武人なのだから、とかいくらでも慰めを言うことは出来たろう。実際に、翠は強い。けれど、そんなことは仕合った本人が一番わかっていることだ。  だから、俺は彼女を抱きしめた。  胸にとりすがり、わんわんと泣いていた彼女の声がだんだんと小さくなり、嗚咽が治まり切るまで、俺は彼女を離そうとしなかった。その間ずっと、二人を守ろうとするかのように、周々がその大きな体で包み込んでくれていた。 「あー、すっきりした」  袖で涙を拭い取ったシャオが顔を上げる。まだ目は真っ赤だが、たしかに涙はひいたようだった。 「ねぇ?」  囁くように問い掛ける声は、吐息のようにかすれて甘い。 「シャオ、がんばったご褒美欲しいな」 「はは、泣き止んだ途端、それか」  呆れたように言ったが、内心、俺は嬉しくてたまらなかった。微笑んでくれる、そのことだけでも、彼女は俺の心を明るくする。  そんな単純なことに、今更ながらに気づいた。  さらに密着し、目を閉じたシャオの顔に近づいて、唇を重ねる。あちらから開いた唇の隙間に舌を潜り込ませれば、小さな舌が懸命に応えてきた。お互いにからめ合うというよりは、遊ぶようにつっつき合い、舌先を舐め合う。 「シャオ」 「んぅ?」 「もっと、シャオが欲しい」  まだ物足りないというように、俺の口の周りに軽いキスを降らせていたシャオの顔が、にんまりと笑みを刻む。 「ようやくシャオのこと認めてくれた?」  言葉にはせずに、もう一度軽く口づける。だが、シャオの顔は曇ってしまった。 「でも、今日はだめだねー。残念」 「だめって?」 「だって、さすがに、大会参加したシャオがまるで宴席に顔を出さないのはまずいでしょ。いまなら、お開きには間に合うと思うよ。それに……お姉ちゃんたちが探しに来て、見られたら大変だよ」  シャオの言うことは、間違っていない。しかも、思春に続いてシャオを抱いているところまで蓮華に見られたら、もうなにをもってしても亀裂は修復できないだろう。 「それは……うん」  とはいえ、それらは絶対的とは言えないわけで、特にシャオの小悪魔のような笑みを見ると、焦らされているのは俺の方なのではないかという疑念が強くなる。 「だから、名残惜しいけど、また今度、ね」  彼女は一層華やかな笑みを残して、俺の腕の中からするりと抜け出した。 「さ、はやくいこ、一刀」  どうやら、お姫様は一筋縄では行かないようだった。 「どれもすごい迫力だなあ」  蔵の中にずらりと並ぶ武器の数々を眺めやり、俺はそう呟かずにはいられなかった。どれも定期的に手入れを受けているため、刃は磨かれて鈍く光を反射しているし、鞘や柄は刻まれた細工の隅々まで美しく輝いている。 「洛陽の武具庫ですからね。歴代の献上品が眠っているですよ」  恋と一緒に先に立って案内してくれている陳宮がそう解説する。  そう、俺たちは、いま城内の武具庫にいる。十日前の武術大会で優勝した恋の褒美を選びに来たのだ。同時優勝の華雄は、すでに先日良馬を拝領している。恋は、武具を希望し、こうして武具庫まで来ているわけだ。 「しかし、いいのか、褒美を俺のために使うなんて」  陳宮と恋だけで充分なところを、今回俺が着いてきているのは、恋が俺のための武器を選ぶと言い出したからだった。珍しく陳宮も特に反対することなく、それを勧めてきた。 「恋の武器、これで充分」  彼女が軽く叩きながら言う通り、方天画戟を持っていたら実用の上ではなにも問題はないだろう。しかし、この武器庫には、宝剣の類もあるわけで……とはいえ、それを望む恋というのもなかなか想像できない。 「戦場では、いつも本陣に恋殿を置いておくわけにはいかないです。その時、弱っちいお前のことが気にかかって、前に出られないでは困ります」 「ああ、それはたしかに」  ふむ、陳宮が反対しなかったのは、そういう戦術上の必要でか。それなら理解できる。 「……馬の上だと、ご主人様の刀、守りにくい」 「大将は兵を斬るよりも、無事にいてくれるほうがよいですからね。迫ってきた相手をおしのけられるような長物がいいですよ。もちろん、本陣が乱戦に巻き込まれるようなへまはしませんが、念のためです」  そこで陳宮はくるりと振り返り、腕を大きく振り上げた。 「本来ならば、恋殿に与えられたものをお前にくれてやるなど百年どころか万年はやいのですが、軍務のことを考えると、そうも言っていられないのです!」 「うん、そうだな。恋、ありがとうな」  やっぱり不満そうな陳宮に比べて、恋は俺の礼に微笑みを見せてくれる。 「それで、なにがいいんだろう。偃月刀あたりか?」  薙刀に近いし、それほど違和感もない。白蓮や霞も持っているし、習えるだろう。彼女たちならなんでも一通り扱えるのだろうけどな。 「それでもいい」 「ただ、偃月刀でもそれなりに重いですよ。主眼ではなく、いざという時のものですから、手軽なのでもいいと思うです」  どうせ弱いのですから、とぐさりと刺さる一言が付け加えられていたのは聞かなかったことにしよう。  恋は歩みを止め、並べられ、固定されている武器を一つ、棚から取り外した。 「……これとか」  恋が目の前に掲げてくれる武器を観察する。 「棍か」  なにかの硬質な木を削り、磨き上げた逸品だ。硬い木の六角棒の両端には鉄が被せられ、そこから凶悪な棘が何本も出ている。恋から受け取ってみれば、さすがに、バランスもいい。 「ふうむ」 「これではねのければ、周りがなんとかする」  まあ、俺自身が倒す必要はないからな。棒と考えれば、武器としてではなくても、なにかと役に立ちそうな気もするし。 「じゃあ、扱い方教えてくれるか」 「うん」  恋は素直にこっくりと頷いてくれる。その後で、少し考えて、言葉を選ぶように押し出す。 「……でも、拘る必要は、ない。なんでも使って、生き延びる」 「そうだな」  今回の戦、俺に求められているのは武でも、指揮する力ですらなく、それらを兼ね備えた将たちをまとめることだ。そのためには、できる限り安全に戦場とその先を見据える必要がある。こうして武器を握っているのは、あくまでいざという時のための備えに過ぎない。 「でも、ありがとう、恋。しっかり使わせてもらうよ」  その言葉に、恋は再び微笑みを見せ、陳宮は、鼻を鳴らして答えてきたのだった。  武術大会の褒美として、その棍をもらい受けることを係の人間に言って手続きをした後、俺たちは連れ立って歩く。  その間、俺は武具庫を出る前に恋に話しかけられたことを反芻していた。 「ねね、最近、少し元気ない」  心配げに呟いた彼女はそれに続けてこう言ったのだ。 「たぶん、詠がなんでも考えるから」  恋の言葉から考えるに、陳宮は自分の出番がなくて、拗ねているというところだろう。  実際、詠は涼州の出身だけに、その地理、風土、人、それに勢力や、物の流れに詳しい。また、客胡の調略なども進めていることもあり、北伐左軍の進軍計画の大半をこなしてしまっている。  陳宮は戦術面を任されているはずだが、現状は基礎訓練期間であり、彼女の担当する部分が強く発揮される時期でもない。仕事がないというわけではないが、その手応えがないのだろう。それでも忍耐強く続けていれば報われることもあるが、何ひとつやる気を刺激することがないのに、忍耐を要求するのも酷だろう。特に、陳宮は軍師の中でもまだまだ経験の浅い方だろうし。  なにか、短い任務を割り当てられれば……と考えたところで、俺はふと思いついた。 「なあ、陳宮」 「なんですか?」 「少し困ったことがあるんだが、相談にのってもらえないかな」  そう切り出すと、彼女は顔をしかめて見せる。しっし、と犬でも追いやるように、手を振る陳宮。 「なんで、ねねがそんなこと……」 「ねね、ご主人様の力になってあげる」  否定の言を言おうとするところに恋がかぶせてくる。そんなに急いで口を出す恋を見るのは陳宮も初めてなのだろう、目を白黒させていた。 「しかし、恋殿」 「……だめ?」  小首をかしげて訊ねる恋の破壊力は抜群だ! 「うう、恋殿に言われてはしかたないのです。わかったです」  早速陥落する陳宮。恋に目配せすると、少しほっとしたように頷いてくれた。 「ねねはこれから恋殿と一緒に、セキトたちにごはんをやらねばならないですから……そうですね。しばらくしたら、お前の執務室に行くですよ。それでいいですね?」 「ああ、頼む」  そういうことになった。  茶と茶菓子を用意して、陳宮を迎える。幸い、保存食料の開発に力を入れている流琉が差し入れてくれたラスクのような乾パンのようなお菓子があったのでそれを出す。実際に兵に渡るときには糧食として配給されるから、俺のところに持ってきたように、砂糖はまぶさないのだろうけれど。 「ところで、こないだ恋殿から言われたのですが」  とりあえずは、と二人で茶を楽しんでいるところで、陳宮が言い出した。 「そろそろお前にねねの真名を預けてやるべきではないかと」 「ほう?」 「左軍の中でねね一人ですからね。蜀勢はともかく」  おそらく、恋は陳宮と俺が仲よくなることを期待していて、陳宮自身は政治的効果を考えて、それに強くは反対していないというところだろう。  恋の親切はありがたいが、少々急ぎすぎとも思う。 「そりゃあ、真名をもらえれば嬉しいことは間違いないよ。ただ、知っての通り俺には一刀って名前しかないし、なにより、そういう政治的配慮とかでもらうものじゃないだろう。なんだったら、軍議の時は、皆、名か字で呼ぶことにしたっていい。公私の別をつけるのも悪くない」  彼女はそれを聞いて、ぱりぽりとお菓子をかじった後、俺を覗き込むように身を乗り出してきた。 「ふーん」 「ど、どうした?」 「お前がねねの言うことにほいほいのってくるようなら、恋殿をなんとか説得して諦めてもらおうと思っていましたが、まあ、それなりに気骨はあるようですね」  予想外だった、という様に、鼻を鳴らす陳宮。 「ねねの真名、欲しいですか?」  体を戻し、まっすぐ問い掛けられた。その大きな柿渋色の瞳が、俺の表情を何ひとつ逃さぬように観察しているように思える。 「そりゃ、預けてもらえるものなら、そうしたいと思っているよ」  少し考えた後の答えはそんな平凡なものだった。仲よくしたいというのは本当だ。ただ、呉に連れて行ってやれず、一人で洛陽へ残してしまった負い目もある。俺の方から強く言えるわけもない。 「わかったです。ねねの真名は音々音です。ありがたく受け取るがいいです」 「へぇ、音々音なのか」 「どういう意味ですか?」  小首をかしげる音々音。恋といい、この主従はどこかあどけないところがある。 「いや、ねねって真名かと……。みんなそう呼んでたから」  真名を貰っていなくとも、耳にすることはあるし、だいたいは識別できる。失礼になると思って、預かっていない真名は意識に上らせることはないけれど。 「そ、それは、恋殿が愛称として呼び始めてですね」  なんだか慌てたような、ねね。うん、音々音より、呼びやすいし可愛いよな。俺もそう呼ぶことにしよう。 「そんなことはいいです。で、相談というのはなんですか」 「ああ、それなんだけど……。呉の面々とちょっと衝突していてね……」  俺は、そこで、思春と蓮華との諸々の出来事を語った。彼女たちのことを、というよりは自分自身の行動を語る形であったが、ねねは充分理解したようだった。あまりに個人的なことなので、席を蹴って立ち去られるかとも思ったが、俺の立場や相手の立場を考慮して、聞いてくれているようだった。もちろん、恋に頼まれたという面が非常に大きいとは思うが。 「要はお前が見境なく女に手を出すから、軽蔑されたと、そういうことですね」 「いや、見境ないわけじゃあ……」 「あっちはそう思ってますよ。違いますか?」 「それは……そうだな」  あまりに容赦ない言葉に少し傷つくが、ねねの言うことももっともだ。俺がどう考えているかではなく、蓮華の考え方からアプローチしていくしかない。 「んー、時系列でまとめてみましょうか。まず、お前が盛っているのを目撃され、美羽との仲を知られたのが、五十日程前」  盛ってるって、また酷い言われようだ。 「その後、口をきいてくれない時期が一月は続き、十日前の武術大会の頃には事務的な会話はできるようになっていた。これでいいですか?」 「ああ、そんなものだな」  蓮華も、さすがに公式の場でも黙って全てを思春に任せておくのは限界があると感じたのだろう。公的な場では談笑程度なら応じてくれるようになった。ただ、それを離れると、本当に事務的な話しかしてくれないのが困りものだ。 「一応、軟化はしてきているですね。放っておいても、しばらくすれば普通に接するようになるのでは? 大使の任期はまだまだあるですよ」  それではまずいのだ。なにしろ、あと三ヶ月もすれば雪蓮が『死に』、蓮華は帰国してしまう。 「いや、北伐開始前にはなんとかしておきたいんだ」 「ああ……。たしかに、それを考えると急ぐ必要があるですね」  事情を知らないねねは、あくまで北伐で、呉軍との仲が悪くなると困る、という意味で受け取ったようだ。実際、国譲りの話がなければ、それも解決せねばならぬ理由となっていただろう。 「そうすると、最善はお前を認め、呉勢との交際を認めさせること。最低でも右軍と左軍がぎくしゃくしないような程度まで仲を修復すること。これが目標ということでいいですか?」 「うん、そうだな」 「わかったです。このねねにどーんと任せておくです」  そう言って胸を張るねねの姿は、背伸びしている子供のようで危なっかしい気もしたが、不思議とその言葉だけは信用できる気がするのだった。 「さて、いかな大軍師といえども、問題の本質を分析してみなくては解決策を得ることはできないのですよ。あ、お茶おかわりです」 「はいよ」  空になっていた、俺のお茶も一緒に淹れに行く。ねねは腕を組んで、ぶつぶつと考え事をしていたが、俺がお茶を置くと無意識のように手を伸ばして軽くすすった。その後、あちっ、と舌を出してくるのはご愛嬌だ。わたわたとお菓子を口に含んで熱さを忘れようとする様子がなんとも可愛らしい。  しばらくして、彼女は顔を上げる。 「ねねが思うに、問題は、袁家と孫家の関わりにもありますね。そのあたり、わだかまりは解けていないのでしょうか」 「そりゃあそうじゃないかなあ……」  特に、蓮華は美羽にほとんど接していないはずだ。雪蓮のようにいきなり斬りつけることはないだろうが、複雑な思いはあるはず。  ただ、それを表面に出すことはないだろう。現状、大陸の運営に関わっている人々の誰もが、それぞれに負けた、勝ったという因縁を持っているが、それを言い出せばなにもはじまらなくなってしまう。以前、麗羽たちがじゃれていたのとはわけが違う。  だが、心の奥底には、なにかは残っているはずだ。 「となると、美羽たちが洛陽にいないのが困りものですね。まず、美羽たちのほうを一角の人物と認めさせられれば、それに手を出したお前も、まあ、なんとか正当化されたかもしれないですよ」 「ああ、そう言われれば……。でも、美羽も七乃さんも今更呼び戻すわけにもいかないし、客胡との交渉の内容を喧伝するのもな」  それに、そういう成果だけを見せても、蓮華が納得するとも思えない。本当にわだかまりがなくなるのは、彼女が美羽と接することではないかと思う。 「しかたないです。まずは別の方向から考えてみるです」  ねねは紙を取り出して、何事か書きつけていく。 「ええと、呉の面々で、お前が相手にしているのは誰と誰ですか?」 「雪蓮と冥琳、小蓮に思春、明命、亞莎、穏。あ、祭は含むのかな?」 「ほぼ全員ではないですか!?」  驚かれた。  たしかに考えてみれば、呉の重臣のほとんどと愛を交わしているのだな。それを言ったら、魏の重臣は全員なのだが。 「となると、呉の人間に仲立ちを頼むというのは逆効果な可能性が高いですね……しかし、そうなると……」  そこまで言ったところで、ねねはふと顔を上げた。何事か疑問に思ったのか、首をかしげている。 「ところで、お前はなぜ、そんなにも多くの女を欲するのですか?」 「へ?」 「もちろん、地位からすれば、血を残すためにも複数の妻や妾を持つことは珍しくありません。でも、だからといって、名のある武将、軍師、王族を軒並みというのは、少々行き過ぎの気がしてならないですよ」 「そ、そう仰ってもですね……」  なぜかかしこまってしまう俺。  ねねは大まじめらしく、腕を組んで考え考え、質問してくる。 「もちろん、お前がただ単に欲望の赴くまま手を出している可能性もあるですし、生来、並外れて色事に対する欲が強いということも考えられます。詠が言っているようにちんこの化身なのかもしれません」  いや、真剣な顔でそんなこと言われましても……。天の御遣いでも大概と思ったが、そんな化身にされてしまうとは。  お釈迦様の邪魔でもすればいいのかな? 「あるいは……と、ねねは考えざるを得ないですよ」  彼女はぎゅっと眉間に皺を刻み、俺のことを見つめてきた。 「なにか、深刻な悩みでもあるですか?」 「悩み……?」 「はい。これは書で読んだ話ですが、人は、なにか足りないものがあると感じると、それを追い求めます。しかし、それがけして手に入らないときは、別の形で追い求めようとするのですよ。たとえば、ひたすら己を痛めつけることに没頭したり、酒に耽溺したり、蒐集に血道をあげたりするです」  わからないでもない。なにかを埋めようと、必死になることと言うのはあるものだ。  心の中の幻影──そうではないと信じてはいたが、誰にもそうと認めてもらえなかったもの──を守るために、寝る間も惜しんで知識をため込んだりとか。 「それが、お前の場合、女だったりはしませんか?」  かっ、と頭に血が上った。  彼女の言葉で、昔の──俺の言うことをまるで信じようとしない周囲とぶつかり、わけも知らず焦燥にかられていた頃の事を思い出していたからか、余計にぐらぐらと煮えたぎる感情に呑み込まれてしまう。 「ひっ」  気づけば、ねねが悲鳴を上げ、真っ青な顔で椅子ごと俺から遠ざかろうとしていた。 「ご、誤解しないでほしいのです。違うのです。お前が女を蒐集品のように扱っているということではないのです!!」  その言葉で、意識が平静に戻る。いつの間にか握りこんでいた拳の中で、菓子が粉々になっていた。 「ご、ごめん、ねね」  落ち着けるためにお茶を一気に飲む。しばらく震えていたねねも、同じように茶を飲んで、ようやく元の位置に戻った。 「うぅ、へっぽこ主に脅されたですー」  恨めしそうに見上げてくるねねの顔が、まだ少し青い。 「うぅー」 「ちょ、ちょっと待ってろ」  そう言って、俺はつながってる扉を通じて私室にかけこむ。たしか、このあたりに……と目当てのものを探し当て、器に入れて部屋に戻る。 「ほら、飴なんかどうだ。おいしいって評判の飴だったんだぞ」  彼女はそれをうさんくさげに見ていたが、手を伸ばすと一つ取り、口に放り込んだ。ころころと舐めているのが、頬の形でわかる。 「ふう。まあ、いいでしょう。許すです」  許すのか。  彼女が、美羽や猪々子と似ている気がするのはなぜだろう。  そういえば、袁家の三人といえば、こないだも薪割り場でせっかく割った薪をなにかに使えないかと思って、さらに小さく割ってジェンガを作ってみたら、もう夢中になって遊んでいたな。  まあ、それはともかく。 「話を戻しましょう。悩みうんぬんはいいです。なにか、これという理由はないのですか?」 「うーん」 「明確なものはないのですね」 「そうだなあ。みんな可愛くて尊敬できる女の子たちだし……。強いて言えばそれが理由だと……」  そう言うと、呆れたように鼻を鳴らされた。 「それ、蓮華に言えますか?」 「無理です、はい」  いや、言えるのは言える。実際に、みんな尊敬できるし、可愛いし、愛おしい女性たちなのだから。ただ、いまの状況で蓮華にそれを伝えても悪い結果にしかならないだろう。 「まったく……。要は女好きは間違いないってことですね。幸い、恋殿には手を出していないようなのでよいですが……」  まずい。  恋とキスしたり、一緒に寝たりしていることをねねに知られたら、大変なことになりそうだ。  最初の一件以来、たまに『ちゅー』をねだり、寝床に潜り込んでくる恋は可愛くてしかたないものの、まだ一線は越えていないのでねねの言葉を否定する必要もないだろう。手を出していないというのは、嘘ではないからな、嘘では。 「美羽たちは洛陽にいない。手を出しすぎて呉勢を通じての懐柔も難しい。根本的な理由は女好き。これでは、策の練りようがないですね」 「すいません」  怒ったようなねねに、なぜだか謝ってしまう。 「仕方ないです。ここは、正攻法でいくしかありません」 「正攻法というと?」  俺の問いに、ねねは胸を張って答えてくれた。 「つまり、お前という男を、相手にできる限り理解してもらうのですよ」  数日後から、忙しい時間の合間をぬっての仲直り大作戦が決行された。俺は時間がないので、ねねが色々と準備してくれたものがほとんどだ。  ともかく、蓮華と私的な時間を持つ必要があった。あるいは、なにかの隙に彼女の心に響く必要が。  まず、祭たちと一緒に芝居に誘って話の場をもとうとしたら、これが赤壁が舞台の大げさな人形劇で、祭などは『儂が死にますぞ。ほら、討たれた!』などと腹を抱えて笑っていたが、思春と蓮華の機嫌を損ねる結果になってしまった。  次に、華琳と蓮華の会談の時に多少趣向を凝らすよう華琳から言われたので、それを利用して店を借り切って、俺とねね、それに恋が執事になって執事喫茶をやってみた。恋とねねの男装も含めて、華琳には大受けだったものの、蓮華たちは微妙な顔をしていた。  あるいは、華雄の優勝祝いの良馬を試そうと紫苑たちや蒲公英も引き連れて遠乗りに行ったのだが、俺が一番下手くそだったために蓮華に近づくことも難しかった。ねねは俺の乗馬の腕をよくわかっていなかったらしい。  他にも美酒を仕入れてみたり、小蓮の勉強を見てみたり、俺の世界の簡単な絡操細工を作って見せたり、色々とやってみた。  最後の方は、蓮華も意図を薄々悟ったのか、ほとんどが苦笑で迎えられたのが印象的だった。 「うー、疲れたですー」  執務室の椅子に座って、ねねが伸びている。それは俺の椅子なのだが……。まあ、疲れたというなら大きめの椅子に座るのもよしとしよう。 「今日もだめだったですね」  今日は、蓮華たちを案内して街を歩いた。以前、俺が警備隊長だったから、街の治安の維持に対する取り組みと工夫を解説したのだ。  沙和と凪がいて、なぜか俺の隊長時代の話をし始めてしまったので、女性遍歴がさらに赤裸々に暴かれてしまったが。 「まあ……楽しんではいたようだけどな」  すでに目的がすり変わって、蓮華を楽しませることに躍起になっている気がしないでもないが、呉の大使を歓待していると考えれば、大鴻臚の役職からもそう外れるわけではないし、いいか、という気分にもなっている。  とりあえず、ねねにはいい気分転換になっているようだし。  とんとん、と小さな音がする。  戸口を見ると、肉まんを山ほど抱えた恋が立っていた。入っていいか訊ねる彼女を招き入れる。 「……ねねと、ご主人様に、差し入れ」  卓の上に肉まんを置く恋。 「おおお、なんという慈愛でしょう。さすがは恋殿!」  こっちは、恋の分、と、自分の分は俺たちの倍以上確保しているあたり、恋らしくていい。 「烏桓の兵はどう?」  もふもふと肉まんを夢中で食べる恋とねねは、なんだか小動物チックだ。 「……強い。恋と華雄についてきてる」 「馬と暮らしてきたような者たちですからね。白蓮の訓練が行き届いていたのもありますが」  早口で言ったせいか、んがっ、と肉まんで喉を詰まらせるねね。慌てて恋が水を飲ませる。水を飲んで、ぷはーっ、と息をつく。まったく、子供みたいだな。  しばらくして、恋がぽつりと呟いた。 「でも……今回は、相手も、馬、うまい」 「まあ、今回は相手を打ち倒す戦いじゃないからな。五胡がこちらに略奪に来ないよう、彼ら自身を仲間に引き入れる戦いだ。いわば、境をなくすための戦いと言ってもいい。相手を殺すことより、こちらの全力を見せることが大事さ。そうすれば、仲間が増える」  今回だけで、抵抗を諦めてくれれば一番だが、そこまでは望み薄だ。左軍侵攻地域は、最大限にうまく行っても、落ち着くにはまだまだ長い時間が必要だろう。  恋は、肉まんを食べるのもやめて、俺をじっと見つめていた。まだ残りの肉まんもあるのに、どうしたんだろう。 「どした? 恋。おなかいっぱい?」  ふるふると首を振られた。どうも食べ物になにかあったわけではないらしい。彼女は一度ねねと目線を交わし、大きく頷いた。 「……ん。わかった。恋、戦って、いっぱい、いっぱい、仲間つくる」 「ああ、頼むよ」  ぽんぽん、と彼女の腕を叩くと、嬉しそうに何度も頷く。そうして、彼女は再び大量の肉まんを腹の中に消し去るのに戻って行った。 「……お前は、変なやつですねえ」 「え、なにが?」  ねねに指摘されて首をひねる。 「たしかに、今回の戦の意義は言う通り、五胡を取り込み、漢土という概念さえなくすことですが、それを、仲間をつくると言い切るやつは珍しいですよ」 「そうかね?」  俺が不思議そうに返すと、呆れたような表情になった。 「しかし、そういうところを蓮華に見せれば、まだ見直されると思いますよ」 「はは、どうだろうね」  といって見せる状況もないわけだけど。 「まあ、いいです。次の手を考えたのです。まずは……」  そうして、俺は軍師陳宮の次なる策を拝聴するのだった。  今度こそ失敗しないといいなあ……。  俺の体の下で、小さな体が跳ねる。その動きを押さえつけるようにして、俺は彼女の細い腰を掴み、その体内に陽根を突き入れる。俺のものでいっぱいになった彼女の中は、びっちりと包み込むようにして俺の動きに抵抗する。だが、たっぷりと分泌された蜜によって、その抵抗は和らぎ、もたらされるのは快楽だけだ。 「やあん、そこ、はぁあっ」  激しい動きの中で、甲高い喘ぎが響く。さっきまで手をついて支えていた上半身も寝台に崩れ落ち、ただ、お尻だけが高く掲げられている。その姿は俺の欲情を刺激し、さらなる動きを要求したが、しかし、同時にその体の華奢なことも伝えてきていて、理性が抑制をかける。  彼女の処女を貰ってから、過ごした夜はまだまだ少ない。いかに蠱惑的であっても、ある程度の我慢は必要だ。 「もう、だめ、一刀、シャオ、おかしくなるよぅう……」 「ああ、おかしくなっていいよ」  いっそ苦しいような快楽の声に、耳元で囁く。俺もそろそろ限界だ。 「一緒にいこう、シャオ」 「うん、いく、シャオ、一刀にされて、いっちゃう。一刀のでいっちゃう、いっちゃ、いっちゃう、だめっ」  言っているうちに興奮が高まったのか。小蓮の体が震えて、急激にその動きが強くなった。俺もラストスパートに腰を早める。  そして、彼女の喉から意味を成さない叫びがあがった瞬間、俺も彼女の内奥にたっぷりと精を放っていた。 「せーえき、一刀のせーえきぃ……」  ぼんやりと、焦点を失った瞳で呟くシャオにキスをして、俺も寝台に崩れ落ちた。 「お姉ちゃんたちと色々やってるけど、大変っぽいねー」  俺に抱きつくようにして息を整えていたシャオが、ようやく落ち着いたのだろう、話しかけてきた。首にまわっていた腕が離れ、その頭が俺の腕に乗る。 「あー、まあな」 「なんか細かいことやってるけど、シャオはあんまりそういうこと考える必要ないと思うなー」 「そのあたりはねねがやってくれているからなあ」 「ねねかー。相手がお姉ちゃんじゃなー」  それから、いいことを思いついた、というようにいたずらっぽい笑みをつくるシャオ。 「どうせなら、お姉ちゃんともつきあっちゃえばいいのに」 「はは」  冗談だと思った俺は笑いで流そうとしたが、こちらを見上げるシャオの瞳は存外に真剣なものだった。 「シャオ、本気だよ」 「いや、しかし……」  俺の反論を聞くことなく、シャオは真面目な顔で続けた。 「大前提として、お姉ちゃんは雪蓮姉様はじめ、みんなのことを信頼してるの。だから、みんなが選んだ一刀って人に興味がないわけない」 「ふむ、それはわかる」 「だいたい、腹を立ててるっていうのだっておかしいよ。認めない男なら、そう割り切って適当にいなせばいいのに、むきになっちゃってる。怒るっていうのは、相手に期待してたからじゃない?」  そういうものだろうか。たしかに、あんまりにも無関心な相手に怒りはしないだろうが、邪魔というか、不愉快に思う場合はある。果たして、蓮華がどちらなのか、それが問題だ。 「だから、お姉ちゃんは一刀に興味があるってわけ」 「その興味の方向性の問題じゃないか? 恋愛なんてもっての外って感じだろう」 「んっふー。まあ、お姉ちゃんだからねー。自分でも気づいてない可能性もあるけど」  そこまで言って、シャオはくすくすと笑う。 「シャオは、シャオが一番なら、他に何人、どんな女がいても気にしないけどねー」  器が小さいよね、とシャオは言うが、それを器と捉えるかどうかは、人によってかなり評価が分かれると思う。 「でもぉ……」  ふと、剣呑な空気が流れたことに俺は気づいた。さっきまで面白そうに揺れていた瞳が、いまは小さな怒りの炎を宿している。 「いくらシャオから話をふったからって、閨で別の女の話を続けるのって、礼儀知らずなことだよ、一刀」 「いや、これは、そういうことじゃ……」 「れ・い・ぎ・し・ら・ず」 「はい、すいません」  理不尽といえども受け入れなければならないことというのはある。こんな可愛い理不尽なら、喜んで受け入れよう。 「お詫びはぁ?」 「んー、夢中にして忘れさせちゃう?」  シャオの体の上を、舌が蠢き、指が這う。その肌は、冷め始めていた熱を急速に回復しつつあった。 「あはっ」  そして、シャオの今度の笑いは、明らかに期待と情欲に塗れていたのだった。  蓮華の問題もあったが、さらに個人的な問題もあった。  いまだに俺は桂花との子──木犀を抱いたことがないのだ。  幸い、桂花の人見知り──なのか?──はすぐに解消して、顔を見るまでは出来たのだが、抱かせるのは稟と桔梗、それに紫苑という母親経験者だけという徹底ぶりなのだ。  よほど木犀が可愛いらしい。それはいいのだけれど、俺にまで抱かせてくれないのは行き過ぎだと思うのだが、どうだろう?  これでも赤ん坊をあやすのはうまくなったのだぞ。阿喜と千年がいたしな。  そんなことを考えて歩いていると、庭の向こうの大木の下に、その当人──桂花がいた。珍しいことに、蒲公英が一緒だ。 「おーい、一刀兄様ー」 「ああ、ちょうどよかった、あんた、こっち来なさい」  えらく温度差のある呼びかけだが、呼んでいるのだから行ってみよう。まさか蒲公英がいて、落とし穴があるってこともあるまい。 「なんだー?」  予想通りあっさりと彼女たちの側まで行けた。土の色が違うように見えるところがあったから一瞬警戒したが、落ちることも、そもそもひっかかる感じすらなかった。単に土の質が違うのかもしれない。 「そこの石を投げてくれない? そっちに」  桂花が指定したのは、それなりに大きな石と、先程土の色が変わっていると感じたところだった。なんだろう。なにか埋めた目印だろうか。 「庭づくりか? 園丁に任せればいいのに」  持ち上げてみると、結構重い。 「一刀兄様がんばれ!」  いや、あなたのほうが力はあると思いますよ、蒲公英さん。  とはいえ、女の子に応援されてへっぴり腰でも格好がつかない。俺は腹に力を込め、それを腰のあたりまで持ち上げると、早足で言われたところに足を踏み出そうとした。  途端に、足元が崩れる感覚。 「ちょっ」  腕に強く引かれる力を感じ、思わず石を取り落とす。石は、足元に落ちて、そのまま、がらがらと崩れる大地に呑み込まれて行った。 「莫迦っ。放り投げろって言ったでしょ!」  桂花の怒鳴り声も遠くに聞こえる。  俺は、いままさにできあがった穴の淵にへたりこんでいた。ぬくもりを感じるので、そこを見てみれば、蒲公英がしっかりと俺の腕をつかんでいる。どうやら、間一髪のところで彼女に引っ張りあげられたらしい。 「これ、落とし穴じゃないか。城内に罠は禁止って……」  落とし穴を見るのも久しぶりだ。しかし、これは、以前の桂花の罠とは規模が違う。以前はせいぜい一人がはまるくらい──俺一人相手だから当然──だったが、今回は、人どころか馬でもはまるくらいの大きさだ。しかも深さもそれなりにある。 「ふん、これは華琳様が命じたことだもの。問題ないわ」 「え……」 「ほんとだよー。人が落ちないで、馬が落ちる落とし穴をどううまく作れるか、考えてみろって」  どうやら本当のようだ。桂花が華琳の名前を言い訳で出すわけがないし、人が落ちず、馬が落ちるという罠は、たしかに、今回の戦では必要な方策だ。 「蒲公英も知ってたのか」 「うん、だって、これ掘ったのたんぽぽだもん」 「産後の私が掘れるわけないでしょ」  さすがに驚く。いまは呉にいるものの、工兵を指揮する真桜が掘ったというならわかるが、なぜ騎将である蒲公英が。 「蜀では、罠いっぱい作ってたよ」 「へ、へぇ」  瞬間、この二人を組ませてはいけない、と脳内でアラートが鳴り始めた。あまりに危険な組み合わせだ。 「まあ、いいわ。ともかく、人では落ちないことがわかったし。でも、もう少し調整も必要かもね。悪いけど後始末頼める?」 「りょうかーい」  蒲公英に言いつけた後で、桂花の顔が俺に向く。 「あんた、ちょっとついてきなさいよ。一応実験につきあったんだから、署名がいるわ」 「ん、わかった」  そうして、俺たちは二人で養育棟目指して歩きだした。 「体は大丈夫なのか?」 「風には散歩を勧められるくらいだし、大丈夫でしょ」 「木犀は?」 「稟と桔梗、それに紫苑が来てるからね。預けてきたわ。璃々が赤ん坊を見たがるせいで、紫苑はほとんどあそこで仕事しているようなものよね」  桂花は自分から話を振ることはないが、一応、訊ねれば答えてはくれる。昔に比べれば丸くなったものだ。 「まあ、副使の桔梗もいるわけだしね」 「それにしたって……いえ、まあ、私たちは便利でいいけどね」  そこで、にやりと笑って彼女はあのいつもの口調で言う。 「あんた、呉の大使も孕ませたら? 大使の部屋を作る必要がなくなるわ」  ぐうの音もでなかった。  まさか、既に思春とは関係を持っています、なんて口が裂けても言えやしない。  養育棟に入り、面倒を見てもらっていた桔梗から木犀を受け取る。どうやら、木犀は桔梗から乳も分けてもらっているようだ。異母姉妹で乳姉妹か。  自室に戻り、赤ん坊用の寝台に優しくわが子を寝かせる桂花。その頬に浮かぶ笑みは、信じられないほど柔らかなものだった。華琳相手でもこんな表情を浮かべる桂花を見たことはない。  やはり、母なのだ。  ちら、と釘を刺すように俺を見て、机に向かう。 「心配しなくとも、桂花の許しもなく抱いたりしないよ」  俺にも抱かせてくれ、とは何度か言っている。しつこくならない程度に、だが。桂花は莫迦にしたように、大きく息を吐いた。 「当たり前よ。男の手なんて触れさせないわ。汚らしい」  女性も拒否してるくせに。とはいえ、喋れないうちなら、この程度の溺愛は許容範囲だろう。歩ける大きさになってもずっと母親が抱っこしていると、歩くのが遅れるなんてこともあるらしいが、そこまで行ったらさすがに俺も華琳も注意する。 「まあ、でも、見てるのはかまわないだろ?」  寝ている木犀は、ときたま手を握ったり開いたりする。それを見ているだけで、愛おしくてたまらない。 「……署名するまではね」  渋々、といった感じで首肯する。そのまま机に向かい、書類を書き始める桂花。しかし、途中でなにかを探し始めた。引き出しを何カ所も開けては閉め、開けては閉めを繰り返す。  鋭い舌打ち。 「墨が切れたわ」  ふむ、じゃあ、俺が取ってくるか。桔梗か稟なら持っているだろう。そう腰を浮かせかけたところで、桂花が立ち上がった。 「ちょっと。墨を取りに出てくるから」 「あ、ああ」  足早に出て行く桂花が、扉を抜けたところで、もう一度こちらに顔を出してびしっと指を差してきた。 「ちゃんと、木犀の世話するのよ!」 「わかったよ」  ぱたぱたと足音が遠ざかっていく。あの様子だと、棟の外に出て行ってしまうぞ。 「世話をしろ、ね」  俺は、すーすー寝ている木犀を片方の目で見ながら立ち上がり、机に近づいた。失礼とは思いつつ、引き出しを開ける。  最初に開けた一番上の引き出しに、墨が三本入っていた。 「まったく……」  軍師殿があんなに演技が下手くそでいいのかね?  寝台に向かい、壊れ物のように、わが子の下に手を入れる。ゆっくりと、しっかりと、娘を胸に抱く。  帰って来たら、礼を言おう。俺はそう思った。  桂花は烈火のごとく怒って──あるいは怒るふりをして──俺を罵るだろうが、それでもいい。  彼女のしてくれたことに、礼を言おう。  だが、いまは、この重みを心に刻もう。  子龍さんが長安に到着した蜀軍に先行して洛陽城下に入った、と聞いたのは桂花が帰って来て怒鳴られている最中だった。ちょうど養育棟にいた紫苑と共に子龍さんが待つ部屋に急ぐ。歩み去るまでずっと桂花が怒鳴り続けていたが、喉を痛めないといいな、と思う。  部屋に入ると、子龍さんは椅子に座らず、壁にもたれかかって俺たちを待っていた。旅装を解いていないのは、またとんぼ返りするつもりだろうか。 「お久しぶりです、北郷殿……いえ、北郷卿と呼ぶべきでしたか」 「そんなのいいよ。で、なにかあったの?」  呼び方はともかく、優雅な礼には返礼をしておく。子龍さんほどの礼をするのは難しいけれどな。 「軍で問題があったわけではありません」  なれど、と彼女は続けた。 「今回、兵だけではなく、涼州から蜀にやってきた民の内、翠たちについて故郷に戻りたいと望む者たちを連れてきましたからな。それほど多くはありませんが、これを長安に留め置くか、洛陽まで連れてくるべきか、ご指示をいただきたいと」  ふむ、と頷いて考える。 「数はどれくらい?」  あまりにも多い場合は、華琳たちに相談しないといけない。 「今回は六百ほど。まだ残っておる者もありますが、それは蜀に残るか迷っている者たちでしょう」 「少ないね。騎兵だけで五千いるんだろう? その家族とか含めたら、一万くらいになるかと思ったけど……」  俺の疑問に、紫苑が答えてくれる。 「そもそも涼州から蜀へ逃れることができたのは、ほとんどが騎馬の兵でしたから。あの時、街自体が破壊されるということもありませんでしたし……」  それはそうか。俺たちが涼州を攻めたとき、敵として重要視したのは馬騰の豪族連合そのものだ。それを構成する馬一族はともかく、民はよほど曹魏を敵視でもしていなければ逃げる必要もない。民政自体は、そう変わらなかったわけだし。  しかし、六百か。その程度なら、長安で充分だろう。 「そうだな。騎兵の世話もあるし、蒲公英に向かってもらうのがいいかな。翠も長安と金城を往復しているはずだし、まずは鎮西府で受け入れて、その後は二人に判断してもらおう」 「では、そのように」  子龍さんと紫苑も頷くのを見て、扉に向かう。  おそらく、まだ罠の後始末をしているであろう蒲公英を呼んでもらうよう、歩哨の兵士に伝言を頼み、部屋に戻ってみると、なにやら二人が言い争いをしていた。 「あの馬鹿げた命令自体、嘘だったの!?」 「嘘ではありませぬ。ただ、ほんの少し誇張しただけで」 「それで、あの文面になるほうがおかしいでしょう!?」  どうやら、先に子龍さんから来た書簡の話らしい。つまり、俺が紫苑と一夜を過ごすきっかけともなった、士元さんの命令についてだろう。  それにしても、一体どんな文面だったのやら。 「いえいえ、我らが軍師殿が、自らの体を使って北郷殿を籠絡せんと覚悟を決めていたことは事実。それがたまさか私と交代となって気が抜けたか、ぽろりと漏らしてしまったわけで」  籠絡、というところで、強烈な流し目を喰らう。自らの右手をあげて微笑みを隠す子龍さんの着物がばさりと翻る。そんな意味深に色っぽい姿をとられると誤解してしまいそうだ。 「強いて言えば、思いつきのような愚痴を吐いても、それが命令と誤解されかねない、軍師という地位の問題でしょうかな」 「でも、それにしたって……」  そこで、紫苑ははっと気づいたように俺と子龍さんを交互に見た。 「あなた、まさか、わたくしが一刀さんと……」 「おやおや?」  笑みが一層深くなる。  ああ、この人、故意だな。  それは紫苑もわかったらしい。諦めたように大きく溜め息をつく。 「もう……いいわ。じゃあ、焔耶ちゃんには伝わってないのね」 「もちろん。あれは洒落も冗談も通じない。暴走しては困るというもの」 「そう。でも、雛里ちゃんがそこまで思い詰めるのは問題ね。……いえ、これはまた今度話しましょう」  紫苑、いま、俺の方を見たな。たしかに微妙な問題だから、軽々に、こんなところで話すことでもないだろう。 「うむ。では、私は蒲公英と共に長安に戻ることにしよう。ちょうど来たようですしな」  子龍さんの言う通り、蒲公英のだろう、軽快な足音が聞こえる。彼女を待つ間、紫苑がすっと俺の横に近づいてきた。 「まったく、星ちゃんのいたずら好きにも呆れますわ」  何事か返そうとする前に、細い柔らかな指に口を閉ざされる。 「でも、いい機会にはなりましたわ。ね?」  そうして微笑む紫苑の笑みはとても透明で、有無を言わせないほどの迫力に満ちていた。  金城から翠が帰還し、蜀の軍勢が洛陽に入ったことにより、北伐左軍はようやくその陣容を完全にしつつあった。これから補充される兵、訓練で脱落する兵なども多少は出てこようが、大枠は定まったと言っていい。  そこで、これからの訓練計画、進軍計画に関して、俺たちは何度も話し合い、すり合わせを行っていた。北伐には直接には参加しない紫苑や桔梗も、蜀側との連携がうまく行くよう尽力してくれていた。  今日もそんな話し合いの一つ。まずは左軍の軍師筆頭である詠が来て、執務室で話し合っている最中だった。  ばんっ、と音を立てて扉が開き、黒い小さな体が飛び込んできた。 「いいことを思いついたです!」 「どうした、ねね」  まずは立ち上がり、開いたままの扉を閉める。いま、机に広げている地図や書類は、よほどの人間でないと見られるわけにはいかないものばかりだ。ねねは問題ないにしても、何事か、と覗き込まれるのは困る。  ねねは走ってきたのか、はーはー、と深呼吸して息を整えると、勢い込んで詠に質問をぶつける。 「詠、模擬戦をやる予定があったですよね?」 「うん、そろそろね。本格的な模擬戦闘もやらないと」 「騎馬の動きも見ないとな。といっても、そうそう何度もできないのが残念だ」  兵がいても、たいていは部隊ごとに別々に訓練している。万を超える騎兵を訓練するには、かなりの広さが必要で、まとめてそれだけの場所をとるのは大変なのだ。一応は情報の秘匿にも気を配らなければならない。 「で、模擬戦がどうかした? なにか新しいこと試したいなら、ねねが東軍の軍師役だから……」 「いえ、そうじゃないです。ねねではなく、こいつがやるのです」 「俺?」  指名されてびっくりする。たしかに俺は模擬戦ではどちらかの軍の大将をやる予定だが、一体なにをやらせようというのか。 「ええ、模擬戦で蓮華と戦って、お前のことを認めさせるですよ!」  どうだっ、とばかりに胸を張るねねに、俺と詠は顔を見合わせる他なかった。         (第二部北伐の巻第八回・終 北伐の巻第九回に続く)